晩遅く、マチルダ皇国宰相グランマイヤーは、一枚の絵を前に、独り杯を傾けていた。そこに描かれているのはマチルダ第十八代皇王、今は亡きマイクロトフの父だ。成人間近の皇太子に似た厳つい面差しが、斜めにグランマイヤーを見据えている。
幼王即位時の混乱を教訓として、マチルダの皇王位は早め早めに譲られてきた。譲位後の王は、摂政役として若き新王を支えるのが慣例だ。そのため、各王の在位期間は他国のそれより短めである。
そんな中で前王は、世継ぎ誕生が遅かったのもあるが、比較的長い在位を保った人物だった。
偉大な王だった。心からグランマイヤーは思う。
穏健で、けれど剣を取れば誰にも負けない武人で、妻子を、マチルダの民を死の瞬間まで愛していた。
急報を受けて居室に駆け込んだとき、皇王は既に死出に踏み出していて、それでも苦しい息の中からグランマイヤーに言ったのだ。皇子と国を頼む、と。
皇妃はマイクロトフを産んで間もなく身罷った。耐え難い悲嘆を、けれど王は子を抱き締めて耐えた。妻が命を懸けて与えてくれた我が子を、強きマチルダの指導者に育て上げるのだと語った男の雄々しい横顔は、今もグランマイヤーの目に焼き付いている。
そのための手助けを惜しむ気持ちなど欠片もなかった。グランマイヤーはあらん限りの誠実で、王が没した後は彼の分までも、と若き皇子に愛情を注いできた。
───けれど。
「……畏れながら、子に巣立たれた心地です」
笑みながら、王の絵図に供えたもう一つの杯に酒を注ぐ。
幼い頃から見守ってきただけに、幾つになっても庇護すべき子供のように見えていた。その体躯が周囲の大人と比しても遜色ないほど立派になった今も、膝の上で遊んでいた頃と変わらず感じられていた。
父王を亡くした後、マイクロトフは子供らしい天真爛漫な笑顔を失い、陰鬱そうな無表情を身に付けた。
心を許してくれているのは確かだが、そんなグランマイヤーに対してさえ、感情を剥き出しにすることはない。何かを押し殺した窮屈そうな表情で、しかしグランマイヤーが口にする殆どに素直に賛同する皇子、それがマイクロトフだったのだ。
彼がグランマイヤーに異を唱える、あるいは断固として自己を主張したのは、思い付く限り、昨日が最初だった。
無論、それ以前にも近い遣り取りはあった。護衛の増員を提案すれば、やんわりと退けようとした。
しかし、こちらが多少強く出ると、皇子は不承不承ながら意見を飲んだ。妥協したというよりは、案じるグランマイヤーの誠意の前に我を通せなかったといった感が強い。「敵」を持つがゆえに、味方の心を慮ることを、いつしかマイクロトフは優先するようになっていたのだろう。
だが、あのときは譲らなかった。
異邦の青年ひとりを側に迎える、そう言ってグランマイヤーを見詰める瞳には対抗し難い力があった。久々に見た明るい表情も相俟って、ともあれ皇子にとって負ではなかろうと、敢えて深く追求を試みなかった。
ところが、今日。
呼ばれて赴いた皇子の居室、切り出しは淡々としたものだった。
『思うところあって、これより騎士団長の責務を遂行したい』
刹那、特使フィッチャーに約定した件であろうと推測した。名目上、マイクロトフは紛うことなき青騎士団長、何を今更と微笑んだのも束の間、次の要求に唖然とした。
『ついては、明日以降に講義が予定されていた師らに断りを入れるように』
皇子はそう言ったのだ。学問に時間を費やしていては騎士団長としてのつとめを果たせないという理由からである。
これには開いた口が塞がらず、長いこと呆けてしまった。
この皇子は決して愚鈍ではない。ただ、得意とする分野とそうでないものが明確に分かれていて、今現在、師を呼んでいるのが後者にあたる。
すべてにおいて完璧な王などいないし、事実、先代も生物学は書を見るのも嫌というほど敬遠していた。
帝王学として必要な学業なら、マイクロトフは一応すべてを修めている。少々心許ない部分もあるが、いざとなれば有能な御意見番を設ければ良いだけのこと、そのあたりはグランマイヤーも鷹揚に構えていた。
それでも学者を招いて居室に籠めるような真似を計ったのは、皇子が騎士団に心惹かれているのを知っていたからだ。
目を離すと剣を握っている。鍛錬場に足を運び、技量に磨きを掛けようとする。
マチルダの王族としては諌めるべきところはないが、時期が悪い。剣の相手がフリード・Yなら良いけれど、騎士ならば別だ。皇子の剣腕を信じていても、案じるのが宰相のつとめというものである。
学問で縛り、無用の危険から遠ざける。それがグランマイヤーに出来る精一杯だった。だから、学業を切り上げるという希望には頷けても、騎士団長として責務をまっとうする──つまり、配下の青騎士と深く立ち交わる──という発言には賛同しかねた。
鍛錬中の度重なる事故もあって、自国の騎士に懐疑の念を抱いている。外部から護衛を招いたのも、すべては騎士団に全幅の信頼が置けなくなってしまったからだった。
なのに皇子は、そんな心を察しているだろうに、危険に飛び込もうとしている。
グランマイヤーは、そのとき初めてカミューを見た。皇子の変容が異邦の青年に起因していると、朧げながらに彼も感じていたのだ。
いったい何を吹き込んでくれたのだ、安易な気持ちでそそのかしたなら、あんまりだ───そう問い糾そうとしたグランマイヤーだが、言葉は出なかった。そこに奇妙な調和を見たのである。
新任護衛の青年は、皇子の座る長椅子の背後に立ち、片手を背凭れに預けて成り行きを見守っていた。特に持論を述べるでもなく、ひっそりと影のように付き従うカミュー。寛いだ様子でありながら、表情は驚くほど真摯で、背を正して意を説く皇子同様、得も言われぬ圧迫をグランマイヤーに感じさせた。
その瞬間に思ったのだ。
若くして独立戦争の指導者となった聖マティスを生涯支え続けた人物、良き相談相手であり、最大の理解者であったアルダ。多くを背負った男が、おそらくは妻子にすら見せなかった己を曝していたであろう唯一無二の友。
マティスはアルダと共に万難を乗り越えてマチルダを解放した。二人の在り方を思わせる図が、今、目の前にある。
マイクロトフは、グランマイヤーらの心を思って自ら折れることはあっても、そこに断固たる意思が介在したときは別だ。ゴルドー暗殺を止めたときのように、譲れぬ信念を持っている。
もし入れ知恵されたとしても、心に添わねば、流され、受け入れる人間ではない。そしてひとたび心を決めたなら父王にも劣らぬ全霊の力をもって突き進む男だ。
だからマイクロトフは望んでいたのだ。保身を尽くして即位の日を待つよりも、青騎士団を己の手に納めてゴルドーに対抗する力と為す───彼なりに思う、王族としての誇り在る対応を。
それが青騎士団員にとって騎士団の全権を持つゴルドーに背く行為になりはしまいか、白騎士団長に忠誠を誓っている彼らが危地に陥らぬよう、これまで距離を保ってきたのではないのか。
そんな疑問にもマイクロトフは力強く応じた。
『おれが護る。彼らの忠節を受け取れるなら、代わりに何があっても彼らを護る。青騎士団長として力が足りぬなら、王位継承者としての力を使ってでも』
ではもし──皇子の心情を思えば、あまり言いたくなかったが──青騎士の中に敵が紛れていたらどうするのか。
これにも皇子は凛と答えた。
『己の身は己で護る。それでも危ういときには───』
そこで彼は、はっとするほど瞳に温かな色を増した。
『……カミューが助けてくれる』
この一言は、背後の青年にも予期されていなかったらしい。カミューは一瞬、目を見開き、僅かに唇を開き掛けた。言葉を発するためにではなく、反射的に息を飲んだがゆえの動きであるらしかった。
たった一日を過ごしただけというのに、何と眩しい信頼を抱いたものか。カミューが皇子にとって徒ならぬ存在になり始めているのにグランマイヤーは気付かされた。
この青年は、グランマイヤーやフリード・Yには与えられぬ何かを皇子に差し出し、皇子の信頼を託されたのだ。
羨む気持ちは否めないが、不快にはなり得なかった。何故なら皇子は、これまで以上に大きく頼もしく見え、自らの意思で道を選び取る満足に輝いていたからだ。
午後のフィッチャーとの応対が脳裏を掠め、『カミュー殿が側に居ると自信家になられるようだ』と揶揄すると、マイクロトフは微笑んだ。厳つい顔をはにかみでいっぱいにして、『おれもそう思う』と小声で言った。
結局、グランマイヤーは皇子の希望を認めた。認めるしかなかった。
愛しいばかりの先代の忘れ形見の、ああまで力の入った宣言を受けて、どうして却下出来ようか。不安を捨て切れずとも、未来の王としての決意を、もはや黙って受け止めるしかない。
グランマイヤーは、仄かな燭台の中に浮かぶ先代皇王を見詰めて思った。
もし王が生きていたら、さぞ喜んだに違いない。子が苦難を掻き分け、マチルダ皇王への道を着実に進んでいる姿を誇らしく思っただろう。
「見守り続けましょう、……貴方様の分まで」
静かに呟き、グランマイヤーは杯を干した。
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