カラヤ族長を殺害した毒物は、研究用としてニューリーフ学院に保管されていた品、持ち出したのは客員待遇の学者であった。
グリンヒルに潜入したカラヤの民が、どのようにして情報を掴んだかまでは不明だが、ともかく彼らは件の人物を探り当て、最初の報復を遂げた。
殺す前に相手の口から詳細を告白させるのがカラヤの流儀だったようだ。自身らの得た情報に誤りがないかを確認すると同時に、他の関与者を洗い出すための作業であり───もしかすると、「死に際に己の罪と向き合い、悔恨せよ」という意図も含んでいたのかもしれない。
これによって、奇妙な事実が浮かんだ。
学者が学院から毒物を持ち出したのは、今からおよそ五年前。一方、カラヤ族長がグリンヒル公都に招かれたのは半年ほど前である。この不自然な開きを、若き女族長は見過ごせなかったらしい。
「殺害される直前、命請いの中でワイズメル公はマチルダの名を出しました。自分だけの企みではない、自分だけが罰せられるのは不公平だ、と……これが、カラヤの新族長には不可解を埋める糸口となったかもしれません。「毒を使用したのは初めてか」と問われたワイズメル公は、五年前に白騎士団長に請われて、ワインに仕込んでマチルダに送った、と答えたそうです」
あちこちで、ひゅっと息を呑み込む気配がした。空気が一気に冷えたような錯覚を、列席者の誰もが感じていた。
───そうか、と。
マイクロトフは改めて理解した気がした。
カラヤ新族長ルシアがワイズメルを追求した理由に、エミリアは「毒の入手時期の不自然」を挙げたが、それは正しくもあり、非でもあるのだ。多分ルシアが引っ掛かったのは「五年前」という一節だったのだろう。
彼女には、それが意味ある時期だった。小さな村の同胞が、マチルダ騎士に攻められ、死した時期。カミューの胸に激しい恨みの炎が灯った時期である。
先代マチルダ皇王の死は四年前だから、必ずしも予感めいたものがあった訳ではないかもしれない。それでも、捨て置くには躊躇われる符合だった。だからルシアはワイズメルを尋問したのだ。
幾ら感謝しても足りないとマイクロトフは思った。
側近たちと共に陰謀の図を描き出そうと試みた。立てた推察は、ほぼ正しかったけれど、ルシアの行動があればこそ完全を得たのだから。
しかも彼女は──当人には伝わらなかったが──カミューに忠告しようと、はるばるロックアックスまで足を伸ばしてくれたのだ。
「白騎士団長に請われた」というワイズメルの告白で、ルシアは疑問を持った。カミューは皇王を恨み続けてきたが、もしかすると、とんでもない思い違いをしているのではないか。間違った相手を殺して、本当の敵を逃すようなことになれば、カミューは救われない。鏡文字に記された「真の敵を見定めよ」という言葉は、カミューを案じるルシアの優しさだったのに違いない。
そこで初めて、白騎士団・第一隊長が発言を求めた。
「ワイズメル公は「白騎士団長に請われて」と仰ったのか? ゴルドー様の名を出されたのではなく?」
痛いところを衝く、と思いつつも嘘は言えない。エミリアが肯定するなり、ゴルドーは含み笑った。
「五年前と言えば、わしは未だ位階を極めておらぬ」
ふむと顎髭を扱いて、神妙な面持ちで付け加える。
「……陛下の死と前後して行方を絶った前団長が在任していた頃だな」
かっとしてマイクロトフは一歩踏み出し掛けた。
───そう来るか。
ここで名前が出なかったのを幸いに、先代に罪をなすりつけようという気か。父王が全幅の信頼を寄せていた人を、あの温かく高潔だった騎士を、主君殺しに仕立てあげるつもりか。
一気に冷静を失い掛けたマイクロトフに気付いて、青騎士団副長がエミリアに目配せする。瞬時のうちに察した彼女は、再び声を張った。
「仰りたいことはあるでしょうが、先に証人を出させてくださいな。死んだ学者から譲り受けた毒物を、滞在中のカラヤ族長の食事に盛る差配を取った人物……そしてマチルダに送られたワインの提供者です」
既にフリード・Yが控え室内の騎士に指示して、グリンヒル前内務大臣を呼んでいた。しずしずと開いた扉から現れた男は、けれど大勢の列席者に怯み、その場に足を止める。フリード・Yに背を押されて漸く歩き出した内務大臣は、幽鬼が如き有り様だった。
グリンヒル公都の豪奢な邸宅に、エミリアを伴ったマチルダ騎士が現れて数日。要職を解かれ、そのままロックアックスに連行された。騎士たちは彼をグリンヒルの元・要人として扱ったし、不必要に脅し上げもしなかったが、当人には恐ろしい体験であったらしい。
食事を与えられても喉を通らない。眠りも満足に訪れない。ただでさえ憔悴著しいところへ、自害する可能性を鑑みて──騎士たちの目には、そこまで気概ある人物とも見えなかったが──刃物に触れさせて貰えなかったから、斑に生えた髭が、いっそう男を見苦しく哀れな様にしていた。
───仮にも一国の大臣だったのだから、もう少し威厳を持って現れて欲しかった。エミリアは心中で嘆息しながら、やっと中央まで来た男を列席者へと向き直らせた。
「グリンヒル内務大臣です。こちらに来る直前に罷免されましたから、「元」と呼ぶのが正しいのですけれど……面倒だから省きますわね。さ、大臣。あなたがどう関わっていたのかを皆様の前でお話しなさって」
元大臣は、自らに代わる要職を手に入れたエミリアを恨めしげに一瞥したが、もじもじと手を揉んだ後、口を開いた。
「知人に……ニューリーフ学院から……」
「もっとはっきり仰って。そんな小さな声じゃ、皆様に聞こえませんわ」
頬を打つような叱責。大臣は自棄気味に声を張り上げた。
「知り合いの学者に、ニューリーフ学院から解毒不能の毒物を持ち出すようにと指示しました」
ざわりと堂内が揺れる。
「学者とあなたとは、どのような関係でしたかしら?」
「古くからの付き合いで、彼がニューリーフ学院の客員となるとき、後見を請け負いました」
「手癖に問題のある人でしたわよね? 他にも高価な文献などを学院から持ち出してしまうような?」
はあ、と大臣は項垂れた。
「彼を使った理由の一つです。毒物を盗んだことが発覚しても、前科があれば、目眩ましになるだろうと……」
「教諭は生徒に比べて資料に近付き易いですものね。学院側の保管態勢に問題があったのは事実です、以後は特に念入りに是正しますわ」
質問形式でいった方が手っ取り早いとばかりに、エミリアは着々と話を進める。
「持ち出しを命じたのは五年前に間違いありませんわね? その後、どうなさったの?」
今度はやや間が空いた。たらたらと汗を流して男は縮こまってゆく。
「大臣、手に入れた品をどうなさったかと聞いているんです」
「……煎じて」
もはや喘ぎ声だった。
「煎じて毒を抽出して、所有の畑で作ったワインに仕込んだ後、アレク様にお渡ししました」
言った途端、それまで悄然としていた内務大臣の様子が激変した。くるりと祭壇を振り返り、壇の端に両手を掛けてマイクロトフに叫んだのだ。
「マイクロトフ殿下、わたくしは命じられたのです! 毒入りのワインを用意せよという命令に従っただけなのです! アレク様が皇王陛下を害そうとしておられると知ったのは、ワインが手元を離れてしまった後で……わたくしにはどうすることも出来なかったのです!」
───それは本当かもしれないとマイクロトフは考えた。もっとも、知っていたとしても結果は同じだっただろうが。この男は、自身の地位を擲ってまで主君に異を唱えたり、諌めたりする人間ではなさそうだ。
エミリアも、期せず同感を覚えていた。堪らず皮肉が口をつく。
「……どう使われるかを知っていても、あなたは用意したでしょうね。宮殿で日々顔を合わせていたカラヤ族長の食事にも、平気で毒を盛り続けていたんですもの」
「そ、それは……」
「ええ、分かっています。「命令だったから」でしょう? 言い付けに従うことが臣下のつとめで、人道に外れた行為だとは意識にも上らなかったのですわよね」
祭壇の縁にへばりついたまま、男はエミリアを振り返った。
「違う! カラヤ族長はともかく……い、いや、それも勿論罪深いことなれど、長く友好的に接してきた隣国の王を毒殺するのは度が過ぎると、わたくしも思っていた!」
「だったら、どうして知った時点で諌めるなり、皇王様にお知らせしようとなさらなかったの。まして当時、マイクロトフ様はニューリーフ学院に在籍なさっていたのよ。よくも平然としていられたわね。御父様を亡くされて、マイクロトフ様がどれだけ悲しまれたか───アレク様が死に追い遣ったと知ったテレーズ様がどんなに苦しまれたか、あなたには分かっているの? 「命令に従っただけ」だなんて、良く口に出来るわね!」
ここまで冷静を通してきたエミリアが、終に爆発した。悲痛な叫びに人々は表情を曇らせ、同感を示してか、しきりに首を縦に振っている。
「……エミリア殿」
横からそっと青騎士団副長が声を掛けた。今度は涙こそ流していなかったけれど、顔を隠すようにエミリアは聴衆に背を向けた。そんな彼女の肩を撫でながら、副長が交替に出た。
「デュナンやグラスランドでは採取されず、効果薬が流布していない。しかも、同地の医術では検出されにくく、一見では病とも取れる類の毒だから……だからこれを選んだのですな?」
「は、はい……いえ、わたしは知識に浅いゆえ、選んだのは友人の学者でしたが」
続いて赤騎士団副長が言う。
「だが、投与量を違えることで、即効・遅効と両面の効力を持つことを貴公は知っていた筈だ。ワインには前者、カラヤ族長には後者を施されましたな」
大臣は唇を噛んだ。
「そういう使い方がある、とは教えられておりました。何度も毒物を持ち出すことは出来ませんし、未使用のまま保管していた分がございましたから、それをカラヤ族長に……。その、グリンヒル内で死なれては困るので……充分な量を投与しておけば、帰路にて発症するだろう、と……」
嫌悪感を隠さず、一同は眉を寄せた。
グラスランドへの道中には、魔物や獣が多く出没する。体調を崩した族長が、そうした手合いに襲われれば、ひとたまりもない。斯くて族長は「不運な死」を遂げ、グリンヒルに疑いの目は向かないという策だった訳だ。
ワイズメルも大臣も、カラヤ族長の力を侮っていた。生まれ育った故郷、愛する民の許へ辿り着こうとする執念は、体内で吠え猛る災禍にもまして強かったのである。
赤騎士団副長が重ねて問うた。
「何ゆえ皇王陛下を亡き者にしようとしているか、ワイズメル公から聞かれましたか」
「……陛下の死をグラスランド蛮民の犯行と発表して、攻め入るためだと」
よし、とマイクロトフは拳を握った。
先程までのエミリアの説明に、生き証人の言葉が加わった。これでもう、グラスランド侵攻計画の構図は完璧である。議員席の面々にも強い納得が現れていた。
「ワインはワイズメル公の名で、陛下への献上品として送られたのですな?」
はい、と大臣は素直に頷く。
「貴公は……いや、ワイズメル公でも良い、陛下以外の者がワインを口にする可能性は考慮されなかったのか。他国からの献上品を家臣に振舞うのは珍しい話ではない。例えば会食の席に出されたら、とは思われなかったのですか。犠牲が増すばかりではない、複数名が同時に同じ症状で倒れたら、間違いなく毒物を疑われたでしょうに」
「勿論、考えました。ワイズメル公にも申し上げてみたのですが……」
今度の答えは消え入るほどだった。
「アレク様は前にも一度、拙宅で作りましたワインを皇王陛下に献上なさったことがありまして……、陛下にはたいそうお気に召していただいたようですが、やや味に癖があるためでしょうか、こちらにおられるグランマイヤー様などの御口には今ひとつだったようで……」
「わ、わたしかね?」
ぎょっとした顔でグランマイヤーが背を正す。
「残りは御一人で、寝酒として楽しまれる、と……そのような内容の返礼の御文がアレク様の御手元に届いていたらしいのです。今回もそのようにしていただけたら、との添え書を付けたので、第三者の口に入る恐れは、まずなかろうという話でした」
記憶を探ろうとして、だがグランマイヤーは諦めた。赤騎士団副長が言うように、宰相をはじめとする要人らには、王が進物品を食す際、相伴する機会が多々あったからだ。
それでも、自分たちの好みに合わなかったという点が暗殺の小道具を決定したと聞いては、後悔とも無念ともつかぬ複雑を覚えても無理からぬこと。グランマイヤーは、これ以上は見るのも厭わしいとばかりに内務大臣から顔を背けた。
赤騎士団副長が更に問う。
「送ってから陛下が亡くなられるまで約一年……、これをどう聞かれましたか」
すると怪訝そうな顔が騎士を窺った。
「……どう、とは?」
「すぐに使われなかったのを不思議に思わなかったのか、という意味です」
「いいえ、特には……」
「グリンヒルからワインを送ったのは五年前、けれどマチルダにおける進物品の記録では、陛下が亡くなられた前日に届いたとされている。この差については説明出来ますかな?」
さあ、と大臣は小首を傾げながら答えた。
「使用の時期に余裕を持たせるためでは? そのために到着記録を改竄した、とか……。事情は分かりかねます、他の品々と一緒に送っておられたようですし……。これは後になって、目立たぬようにとの配慮だったのかと思いましたが」
赤騎士団副長は表情を硬くした。これはつまり───
「……貴公が送付の手配をしたのではないと?」
「はい、関わっておりません。ワイズメル公が作業事務官に直接命じられたのでしょう。わたくしはワインを用意し、後にマチルダ皇王陛下宛てに送ったと聞かされただけです」
ゴルドーへ送った、という言葉が引き出せれば最良だったが、そうそう思惑通りにはいかないようだ。ちらと見遣れば、最前列の白騎士団長に微かな安堵が感じられた。ゴルドーからすれば、目前まで伸びた絞首の縄が止まったようなものだろう。
「詰め」の部分には切り捨てられる者を使う、これまでそうして自身の抜け道を作ってきたゴルドーだ。毒物を用意させるところまでは致し方ないとしても、送付の手配は別の人間に──それも、注目され難い小者に──行わせよ、との指示くらいはワイズメルに与えていたかもしれない。
赤騎士団副長は、ここでまたしてもゲオルグに救われたことを痛感した。彼の英断があったから、怯まずに進み続けられる。
「エミリア殿、他にまだ何かありますかな?」
呼び掛けには、すっかり我を取り戻したふうの笑顔が返った。
「いいえ、副長様。わたしからは、もう何も」
刹那、今までとは比較にならぬ切羽詰まった様相で大臣が祭壇に取り付いた。
「殿下! 知っていることはすべてお話ししました、どうぞ御慈悲を……!」
「何を仰っているの、場を弁えるべきですわよ」
間髪入れずにエミリアが一閃したが、勢いは止まらない。逆に男は、彼女を睨みながら訴えた。
「エミリア、約束したではないか! 包み隠さず話せば、命は助けると───」
「そんな約束、した覚えはありません」
少し考えて付け加える。
「……公都に居てはカラヤ族に襲撃されるかもしれない、とは言いましたけど。あなたが犯した罪は、マチルダ・グリンヒル間における罪人の身柄引渡し条約の適用範囲を越えています。処遇はマチルダ側に一任するということで、テレーズ様も了承しておいでですわ。それとも……グリンヒルで裁かれたなら、罪が軽減されるとでも思っていらっしゃるの?」
蒼白顔の大臣が、マイクロトフとエミリアを交互に見詰める。両者の面持ちの厳しさに打ちのめされ、しかしなおも諦め切れぬとばかりに言い募った。
「ならばせめて、グリンヒルにて刑を受けさせてください! マチルダで死罪となったら……街中を引き回された上に、生きたまま騎士の弓の的にされ、死後の祈りも挙げて貰えず、罪人墓地に投げ込まれるのでしょう? そればかりはどうかお許しを……!」
マイクロトフは無論、堂に詰める騎士一同、この発言には呆気に取られた。代表するように青騎士団副長が呟いた。
「……何処の国ですかな、それは? 確かにハイランドの属州だった昔、服従を強要するための見せしめ行為として、それらしい処刑が行われた、……ような話は聞いた覚えがあるが」
赤の副長もげんなりと応じる。
「マチルダは法も道徳観も有す国家ですぞ。引き回しの刑も過去数十年来行われていないし、人を生きたまま弓の的にするなど、論外です」
とどめは、邪気のないマイクロトフの意見だった。
「おれの記憶では、処刑された罪人は、確かに専用の墓地に埋葬されるが、他国の犯罪者で、家族に亡骸の引渡しを求められた場合は要求に応じている。弔いの儀式もちゃんと行っているぞ。そうだったな、マカイ?」
「は、はい、殿下。但し、罪人の弔いは、学び舎で祭事学を専攻する学生が、実技演習として執り行っておりますが」
これまた真っ正直に司祭長が答える。「学生の実習」というくだりには、堂内列席者から何とも言えぬ憐憫の溜め息が洩れた。
危惧は否定されたものの、気が楽になるという訳でもないらしい。がっくりと肩を落とした内務大臣を暫し見遣っていたマイクロトフが、ふうと息をついた。
決して善人ではない。命じられたことを──多少の抵抗は覚えたとしても──そのまま実行したという点では、カミューの村を襲った騎士と変わらない。
だが、この男はもともと、職務解任の理由となった収賄の罪が精々といった人物なのだろう。心からの悪と見るには、あまりに弱い人間だ。マイクロトフは、静かにエミリアに目を向けた。
「大臣の身柄はグリンヒルにお返しする。犠牲となったのはカラヤ族長も同じだ。マチルダだけで裁くのは公平ではないと考えます」
既に冷静に考える力を失っているのか、すかさず大臣は飛び上がった。
「カラヤは嫌です! 半月刀で刻まれ、獣の餌にされてしまう!」
「……それくらいの非道は行った自覚がおありなのですな」
ほとほと疲れた顔付きで青騎士団副長が呟く。罪の自覚以前に、その偏見だらけの認識を改める方が先ではないかと言ってやりたい気分だった。
マイクロトフも困った顔で首を振った。
「だから、グリンヒルの法で裁いて貰うのが一番だ。それならばルシア殿……いや、カラヤの民も納得するのではないかと思う」
「マイクロトフ様……本当に宜しいんですの?」
ああ、と彼は微笑んだ。
「テレーズ殿の裁可に御任せする。ただ一つ……、これは騎士にも言えることだが、どんなに理不尽な指示であっても、立場上、耐えて従わねばならないときもある。その点についてだけは大臣に同情を覚えると───テレーズ殿に伝えて欲しい、エミリア殿」
マイクロトフの言葉を聞くなり、大臣は目に見えて硬直した。次には、祭壇の前面板を伝うように崩れ落ちていく。
目許には涙が溢れていた。それは己に待ち受ける処罰を恐れてのものではなく、己が成した行為を心底悔やむ、おそらくは初めての涙であったかもしれない。
壁際で遣り取りを見守る青騎士隊長の唇には抑え切れない失笑が零れていた。
グリンヒルの元・内務大臣は実に味わい深い人物だ。他国主暗殺の共犯だけに、処罰を大仰に考えるのは已む無しとしても、「弓の的」とは恐れ入る。上官が「何処の国か」と首を捻っていたが、まったく同感だった。
こんな男を政府要職に就けていたのだから、亡きワイズメルの器も知れようというものだ。公女テレーズが組織を刷新しようと考えるのも道理である。国の中枢が腐り切る前に転機が訪れたのは、寧ろ幸いだったのかもしれない。
いずれにしても、と騎士隊長は表情を引き締めた。
あと少しだ。次で大勢は決する。ゴルドーの首に縄が掛かる。
さて、その縄を誰がどうやって引いたものか───やや物騒な思案に入り掛けたとき、騎士は微かに眉を顰めた。控え室へと続く扉前を定位置にしていた皇子の従者が、壁伝いにコソコソと近付いてくるのに気付いたからであった。
「隊長殿、問題発生です」
隣に着くなり、フリード・Yが伸び上がるようにして耳打ちする。
「控えの間で揉めています。例の医師殿、ここでは証言出来そうにない、と言っているようで」
たちまち顔を険しくする騎士隊長だ。
「何を今更。細君の代役を勤めると言い出したのは当人だぞ」
はあ、とフリード・Yも困惑しきりといった調子だった。
「嫌だと言っている訳ではなくて、生来ひどい上がり性なんだそうです。出て行ったところで満足に話せそうにない、と……。まさかこれほど大勢の前で話すことになるとは思っていなかったそうで」
「この日に合わせて呼んだのだから、そうなるに決まっているだろうが。心の準備くらい済ませておけ」
「わたくしに言われましても……。とにかく、今にも貧血で倒れそうな上に、話の内容を思い出せるかどうかすら怪しい状態なんだそうです。それでですね……、青騎士の方々が説得を重ねまして、妥協案じみたものが出ているのですが」
珍しく勿体つけた若者の言いように怪訝を覚えつつ、騎士隊長は面倒臭そうに頷く。すると、ますます低くなった声音が囁いた。
「隊長殿に付き添っていただけないか、と」
「そこの扉から祭壇前まで、付き添いが要るような距離か」
苛々と一蹴する騎士だが、そこはすっかり慣れたもので、フリード・Yは平然と続けた。
「……ではなくて、証言の助けになっていただきたいそうです。さっきエミリア殿がなさったように、隊長殿が主導して話を引き出していく───という案ではないでしょうか」
「性に合わない」と却下し掛けて、だが騎士は考え込んだ。
侍医長の娘婿を欠いては話が進まない。忌ま忌ましいが、あの青年医師は重要極まりない存在なのだ。
しどろもどろの証言では説得力が弱まるし、それ以前に、言うべきことを言わずに倒れられたら元も子もない。誘導者を立てれば何とかなるというなら、応じるべきだろう。
けれど、それなら───
「……副長たちがおいでだ。心配しなくても大丈夫だと婿殿に伝えたまえ」
「その旨は説得の過程で進言済みです。ですが、是非にも隊長殿に、という希望でして」
フリード・Yは幾許か躊躇して、弱く付け加えた。
「非常に申し上げ難いのですが……、隊長殿に御一緒していただけたら、奥様のお産を思い出して頑張れそうだ、という話らしいです」
ぴくりと頬を引き攣らせた青騎士隊長が、地を這うが如き独言を零した。
「───わたしの士気は著しく低下する」
こういう役目は副長たちが適任だと心底思う。だが、当人の希望と言われれば弱かった。青騎士隊長はフリード・Yに戻るよう命じた後、壁に添って配置された騎士へと合図を送って、自団の第二隊長を呼んだ。
堂内を巡り巡った呼び掛けに応えて現れた第二隊長が、最前列の白騎士の一団を窺いながら小声で問うた。
「如何なさいました?」
「介添えのつとめが入った。暫く外すから、代わりに指揮を執れ」
介添え、と口中で復唱こそしたものの、第二隊長は深く追求しようとはせずに拝命の姿勢を取った。青騎士隊長は目線で堂内上方部の警備騎士を指しながら、こっそりと三本の指を立てる。第二隊長は心得えたふうに白騎士団・第三隊長を一瞥した。
「特に留意しろ。上の連中にも警戒指示は出してあるが、ここから見ていて、少しでも妙な動きをしたら───」
指を握り込んで、代わりに立てた親指を床に向ける。第二隊長は硬い面持ちになった。
「宜しいのですか?」
「威嚇で済ませる義理はない。司祭長も覚悟済だ、……嘆きはするだろうが」
肩を竦め、壇上のマイクロトフへと目を向ける。
───未来の青騎士団長の命には替えられない。
言葉にされなかったそれを、第二隊長も感じ取ったらしい。決意も新たに、彼は上方の警備騎士へと指揮権交替の合図を送ったのだった。
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