朝の柔らかな陽の下、皇子の一行は城を出た。民には予め、礼拝堂と城を結ぶ道には踏み入らぬようにとの触れが出されているため、前進を妨げるものは皆無だった。
マイクロトフを中心に、左に青騎士隊長、右少し後方に従者フリード・Y、その背後に二列の青騎士団員の騎馬隊が続く。
街の警邏で幾度か経験した隊列。「青騎士団長」として騎士の先頭に立つのもこれで最後かと思うと、どうにも感傷めいたものが沸いてくる。努めて振り切ろうと、マイクロトフは隣へと目を向けた。気付いた騎士が薄く笑む。
「昨夜はゆっくり休まれましたか?」
何気ない会話で緊張を解そうとしてくれているのだと察して、だがマイクロトフは自嘲した。
昨夜は、各国要人らと語り合った後、そのまま東棟にある自室にて休んだ。仲間たちとの最後の打ち合わせに参加しなかったのは、既に大枠は論じ終えているのだし、そちらは任せて充分に睡眠を取れと諭されたからである。
やや残念に思わないでもなかったが、誠心からの勧めだと分かるだけに、受け入れざるを得なかった。
西棟の客間には談義のために椅子が集められている。これを別室に移すのは厄介だろうと考え、久々に自室の方で眠ることにしたマイクロトフであった。
しかし、これがまずかった。僅か一月前まで日々を過ごしたそこは、以前とはまるで趣きを変えていたのだ。
初めてカミューと向かい合った長椅子。今はない、彼が積み上げた書物の山。肩の温もりに触れた寝台。そして、掴もうにも届かず、真紅の布の向こうに消えていった細身の残像。
破られた窓は修理を終え、あの日の痕跡を留めていない。けれどマイクロトフにははっきりと見えた。微笑みながら泣いていた白い貌、その癒し難い痛みの影が。
横になり、目を閉じるほどに、面影が眼裏を焼いた。いつもなら速やかに訪れる眠りが、昨夜ばかりは歩調を緩めた。そして───
背後の騎士たちには届かぬよう、小声で答えた。
「……夢を見た。何者かに襲われて、やむなく斬った」
続けようとして、軽い嘔吐感を覚える。いっそう低くなった掠れ声が呻いた。
「───カミューだった」
「逆夢は縁起が良いと聞きますな」
感情を匂わぬ一蹴にマイクロトフは瞬いた。片側でフリード・Yが吹き出している。
「もう一つ、あいつがマチルダ騎士になって、おれたちと一緒につとめに励んでいる夢も見た」
「そちらは正夢にしたいものです」
これまたあっさりと言って、青騎士隊長は苦笑した。
「大事な決戦を前に、気懸りが一点に集中しているあたり、実に団長らしくておいでだ。他に気にする問題はないのですか」
言葉に詰まってマイクロトフは頭を掻いた。それからふと気付いて騎士を眺め遣る。
「久々に呼んでくれるようになったな」
「は?」
「……団長、と」
この青騎士隊長は、その時々で呼称を使い分けていた。暫く「殿下」と呼んでいたものを、ここへ来て改めたのには意味があるのか。問うてみると、騎士は軽く肩を竦めた。
「あまり深読みされると弱りますな、殆どは気分なので。ただ……これから青騎士団長として糾弾開始を宣言なさる身なら、「団長」とお呼びするのが適切かと」
そうして更に笑みを深める。
「礼拝堂を出られるときには「陛下」ですな」
「だが、その呼び名も一時だ。退位したら、名を呼び捨ててくれ」
そこで騎士はひとたび押し黙った。横目でマイクロトフを窺い見ながら大仰な溜め息を洩らす。
「夢を壊すようで申し訳ないが……、王位を退いたにしろ、ただの一騎士になれると本気で御思いか?」
「ちゃんと入団試験は受けるぞ?」
「……そうではなくて」
出来の悪い子供に教え諭すような顔で、男はゆっくりと言った。
「幾年も王位継承者として御見上げした方を、「退位した、特別視するな」と言われて、出来ると思われますか」
「出来ないのか?」
「普通の神経の持ち主には難しいですな」
マイクロトフは深々と考え込んでしまった。これまで考えもしなかった指摘だったのだ。そんな姿を見届けた騎士が、やれやれと息をついて続けた。
「その点が考慮から零れるところも団長らしい純朴さと言えなくもないが……、皇王制が廃止された後、騎士団という組織がどう変化するにせよ、副長方の御性情からしても、あなたには特別待遇が用意されるでしょう」
「おれが望まなくても、か?」
「周囲を悩ませてまで、只人扱いを求めますか」
逆に問われて唇を噛む。束の間見守った後、青騎士隊長は空を見上げた。
「かつて主君として仕えた御方に、あれをしろ、これをしろだのと指図出来るような図太い騎士は滅多に居ない。ですから、わたしが御引き受け致しましょう」
「えっ?」
「そう、「彼」の方は……資質も合致しそうですし、真っ先に貢ぎ物作戦を展開した抜け目なさに敬意を表して、赤騎士団に譲るのが筋でしょうな。あなたは我が青騎士団、彼は赤騎士団に籍を置き、将来の騎士団の主軸となれるよう、特別教育を受けていただく……、そんなところで如何です?」
───今は無論、個人的な案の一つに過ぎないが。
騎士は注意を添えるのを忘れなかったが、それでもマイクロトフには、過った失意を払拭して余り有る意見だった。
王族だった立場が消えず、特別扱いされるのは本意ではない。けれど、気心知れたこの騎士隊長なら──図太さには信頼が置けそうだし──そのあたりは最大限に配慮してくれるだろう。
そして、カミュー。
彼の才覚は位階者の誰もが認めている。剣においても、筆頭隊長と互角に戦ったほどの腕を持っているのだ。表向きには「皇子の護衛」の立場が続いているし、特別の待遇で騎士団に迎え入れても不自然ではない。
マイクロトフは手綱を握り直して晴れた空を見上げた。
「そう遠くない未来に、おまえに叱責される日が来るのか。楽しみだな」
「……叱責とは、失態に応じて行われるもの。楽しみにされては困るのですが」
間髪入れずに言って退け、騎士隊長は表情を改めた。眼前に浮かぶ黒々とした塊は、見物に集まった群集である。同じく顔つきを引き締めたマイクロトフに、前哨戦開始を告げる檄が降り注いだ。
「それもすべて、今日を乗り切ってこそです。さて、民たちに最後のマチルダ皇王に相応しき風格で応えておやりなさい」
広場を埋め尽くした民は、皇子の到着に気付くなり、持ち寄った手作りの国旗や手布を振り始めた。礼節に厚い国民性か、警備の騎士を振り切って駆け寄る者はないが、その分どよもす歓声は地鳴りの如きで、石畳を進む馬脚を通じてマイクロトフの五体を震わせるほどだった。
自らに寄せられる期待の大きさを今更のように痛感する。皇王制の廃止が彼らへの裏切りにならぬよう、この先の人生を捧げ尽くさねばならない。飛び交う祝福の声に手を挙げて、マイクロトフは心の中で誓いを呟いた。
一行は、城に近い礼拝堂北側の通用口へと進んだ。
ここまで来ると、建物の影になって群集は見えない。熱狂的な歓声も、やがて潮が引くように納まり始め、最後には静かなざわめきが聞こえるのみとなった。
通用口は青騎士団副長が伴った騎士によって護られていた。遅れて着いた第一部隊騎士は、マイクロトフと自部隊長、フリード・Yにも一礼した後、次の警備担当地点へと散っていった。
戸口で迎えた青騎士団副長に導かれて、昼でもやや薄暗い廊下を抜ける。着いた一室では、見慣れた顔が満面の笑みでマイクロトフを迎えた。
「予定通りの御到着ですな、お待ちしておりました」
丁寧に礼を取って宰相グランマイヤーが唇を上げる。その横から、ティント国王が乗り出した。
「おお、立派な衣装だな。おれの方はどうだ、皇子。これなら国王に見えるだろう」
各国代表の面々も、昨日までとは打って変わって礼装に身を包んでいる。マイクロトフが賛辞を口にする前にアナベルが苦笑した。
「朝からこの調子でね。わたしたちが相手にならないものだから、殿下が来るのを待ち構えておいでだったのさ」
「そうは言うが、アナベル殿も今日は化粧に念が入ってるぞ」
「余計なお世話だ」
まあまあ、とコボルト将軍が苦笑を噛みながら割って入った。
「マイクロトフ殿下が困っておいでではないか」
「……まったくだ、一国の代表とも思えぬ遣り取りだな。先に言うべきことがある筈では?」
シュウが頷くなり、グスタフはぽんと手を打って背筋を伸ばした。
「即位の儀に立ち会う今日この日を、ティント国民を代表して、祝賀申し上げる」
堂々とした振舞いに呑まれるマイクロトフをよそに、国賓たちは次々と礼を払っていった。最後にトランのバレリア将軍が抜刀した剣を鞘に戻したのを機に、マイクロトフも威儀を正した。
「皆様方に、心よりの感謝と敬愛を。我が身に恥じぬ一日にしたいと心得ます」
「良く言った」
グスタフは相好を緩めて力を抜いた。
「……親父さんも見守っているだろうぜ。しっかりな」
はい、と強く頷いて、マイクロトフは副官を見遣った。
「ダンスニー授与の後だと、マカイには伝えてあるな?」
すると青騎士団副長は微かに表情を曇らせた。
「その件なのですが、マイクロトフ様、実は───」
言い淀んだ上官の代わりとばかりに青騎士隊長が口を開いた。
「実は、式の段取りを少々変えていただきました」
「変えた?」
「ええ。団長が壇上に進まれたら、そのまま佩剣の儀に入ります」
「待て、その前の訓辞を全て飛ばしてしまうのか?」
「式そのものがやり直しになるのだし、同じ手順を繰り返す必要はないでしょう。司祭長殿の了解は取り付けてありますから、剣を拝領した後、直ちに宣戦布告なさってください」
マイクロトフは低く嘆息した。
「……そういう大事なことは前もって言ってくれ」
今も一応は式の「前」だ───とでも言いたそうな顔をした青騎士隊長だが、国賓の前という状況を憚ったように無言に留まった。
その時である。数人の赤騎士に伴われて現れた人物を見たマイクロトフは顔を輝かせた。
「エミリア殿!」
「お久しぶりです、マイクロトフ様」
靴音を響かせ、颯爽と歩み寄るグリンヒルの才媛。マイクロトフの前で一礼する姿を見て、各国要人たちが驚きの声を上げる。
「エミリア殿、外務大臣に替わるグリンヒルからの出席者とは貴女だったのか」
グリンヒル公主の葬儀に参席した一同には初めての顔ではない。若き公女を支えて辣腕を振るっていたエミリアを知るだけに、驚きの次には納得が一同を満たしていった。
「おはようございます、皆様。ええ、彼ったら寝込んでしまっているそうですわね。御迷惑を御掛けてしまったようで、申し訳ございません」
優美な会釈。エミリアはにっこり微笑んだ。
「替わりに皆様方の列に加えていただく非礼、お許しくださいませね」
「いやあ、あんたなら歓迎だ。交替、大いに結構」
いつ倒れるか分からない病身の外務大臣の替わりに、妙齢の女性が隣に座る。グスタフは上機嫌だった。勿論、他の要人たちも一様に親愛を浮かべている。それを見届けてから、エミリアは表情を硬くした。
「今日わたしが証言する事実は、皆様方にも不快に響くでしょう」
「……あらましだけだが、殿下から聞いたよ」
アナベルの相槌に目を瞠ったエミリアは、胸元に手を当てた。
「でしたら話が早いですわね。どれほど軽蔑されても致し方ありません。ただ一つ、テレーズ様は、すべてを明かすことでグリンヒルの非を贖おうとなさっておいでです。それだけは皆様に分かっていただきたいのです」
「違うだろう、エミリア殿」
グスタフが小声で遮った。
「そいつはグリンヒルの非ではない。ワイズメル公の犯した罪だ。こうしてあんたを証言者として寄越した、それでテレーズ殿の誠意は知れる。決意も、だ」
その通り、とリドリーが鼻をぴくつかせた。
「事実を明かすには勇気が要る。まして亡父の過ちとなれば、公女殿の苦しみは察するに足る。強い御方だ、グリンヒルは良き指導者を得た。変わらず支えて差し上げるが良い」
「……ありがとうございます」
やや涙声だったが、次の刹那にはいつもの強く明るい調子が戻っていた。
「こちらの「証人」ですが、隊長様の御屋敷を一緒には出なかったんです。一足先に騎士様が連れて行ったみたいですけれど……」
これには青騎士団副長が答えた。
「ええ、早めに到着するよう計らったのです」
外出制限は日の出で解ける。見物の民衆が一斉に礼拝堂を目指し始める。観念したと見えるグリンヒルの元・内務大臣だが、逃亡を謀って人ごみに紛れ込まれると面倒なので、そこは配慮したのだった。
同様の理由で、扉ひとつ隔てた先には詮議に関わる人物が既に集められている。護衛と見張りの騎士も待機しているので、中は相当に緊迫していることだろう。
「……そうだ」
独言気味に呟くマイクロトフだ。
「捕らえた刺客に言葉を掛けて、素直に事実を述べるように懐柔しておくのだったな。今のうちに行ってくるか」
青騎士団副長が、扉に向かう背に呼び掛ける。
「侍医長殿の娘婿殿にも一言お願い致します。到着以来、水差しを手放せずにいるほどの緊張ぶりですから」
すると騎士隊長も真面目な顔で頷いた。
「落ち着くために水を飲むのは良いが、過ぎると憚りが近くなって、肝心な時に離席しかねない。間が抜けるので、それだけは避けたいですな。ひとこと言っておいていただきたい」
これには一同、吹き出さずにはいられなかった。マイクロトフも、神妙な顔を保つのに苦心しながら、片手を挙げて応じたのだった。
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