穏やかな秋の日の午後、赤騎士団副長の自室には、密やかに弾む息遣いが流れていた。
            「副長……お力を抜いて、もう少しだけ足を────」
            「し、しかし……」
            「……もう少し足を開かれた方がお楽かと。ご安心を……ゆっくりと致します故」
            「ローウェル……」
            副長は苦痛に滲む汗を堪えつつ、言われたようにそろそろと足を開いた。
            「────くっ……」
            苦悶を見かねた赤騎士団・第一隊長が、密着した背後から静かに訊く。
            「……止めましょうか……?」
            「い、いや……わたしから言い出したことだ、最後まで……」
            「しかし」
            第一隊長は痛ましげに眉を寄せる。
            「おつらそうで……見るに忍びませぬ。わたしは……」
            「ローウェル、構わぬ。何事も試みねば前には進めないのだ。頼む……やってくれ」
            「────ご命令とあらば」
            苦しげに息を弾ませつつ、毅然と言い切る副長の潔さに息を吐いた第一隊長は、再び行為を進め始めた。
            「う……っ、く…………」
            「ご辛抱ください、あと僅かで────」
            「……………………っ」
            「ランド副長────」
            「う────! だ、駄目だ……ローウェル、すまない、限界だ……!」
             
            絶え入るような悲鳴に苦笑を洩らし、第一隊長ローウェルはゆっくりと身を退いた。背後から支えていた部下の腕を失った副長は、そのままぐったりと床に仰向けに倒れ込んだ。
            息を整えようと浅い呼吸を繰り返し、放心したように天井を見上げる姿を、第一隊長は好ましげに見守る。
             
            「────大丈夫ですか?」
            「ああ……やはり相当なまっているな、これは」
            最後に長い溜め息をついてから彼は憮然とぼやいた。
            「前屈運動で床に胸がつかぬとは……鍛錬不足もいいところだ。まったくもって恥ずべき怠慢……」
            第一隊長は思わず笑みを洩らした。この赤騎士団において、副長ランドを怠慢などと見なす者などいよう筈もない。彼は誰よりも優秀で誠実な騎士であり、騎士団長が全幅の信頼を寄せる唯一の片腕たる人物なのだ。
            赤騎士団長カミューの任官と同時に副長職を拝して以来、彼の勤勉さ・懐の深さは赤騎士たちの尊敬を集めている。だが、同時に彼が多くの悩みを抱えていることも部下たちには分かっていた。
            カミュー────若くして騎士団の長となった美貌の青年。才覚溢れる指導者であるが、そうした人間の常としてカミューは完璧主義者であった。
            団長とは騎士団の象徴、存在することだけで充分に価値となる。しかしカミューはお飾りのような位置には当然満足せず、歴代の騎士団長を紐解いても稀なほど自団の隅々にまで気を配る人間だった。そんな上官を補佐する立場となったランドが、よりいっそうの配慮と有能を求められるのは自然の成り行きだ。
            かくして、副長ランドは余るほどのつとめと気苦労を背負い込むこととなったのである。
            ただ、彼はそんな自身の立場を誠意をもって受け止め、喜んで努力を重ねる男であった。これはカミューへの尊崇が並外れていること、カミューが決して傲慢で独善的な上官ではなかったことが理由だろう。ランドは愛する青年がより良く日常を送るための尽力を惜しもうとはしなかったし、そうすることで向けられる甘やかな笑顔を何よりも誇らしく思っていた。
            ────結局は、苦労を楽しんでおられるようだ。
            第一隊長ローウェルは敬愛を込めて副長をそう評価している。
             
            「少々、机上でのつとめが過ぎるのでは……?」
            真摯に指摘すると、副長はやや困ったように笑った。
            「致し方あるまい。だが……確かに机に張り付いていると、こうして身体がどんどん硬直してくる。これでは、いざというときにカミュー様のお役に立つのも難しい。やはり、日々自己鍛錬に励めということだろう」
            「それも違えてはおりませんでしょうが……お忘れなきよう。副長は心身をお休めになるため、ご自宅に戻られるのですぞ」
            ランドは明日より二週間、休暇を取ることになっている。一見、長い休みのようでもあるが、実に八ヶ月ぶりの休暇取得なのである。
            騎士も副長級になるとロックアックス城内に自室が与えられる。ここで生活するには何の支障もないが、その場合、昼夜を問わず騎士団員が駆け込んでくる可能性がある。人望厚い彼は、部下の良い相談相手なのだ。
            自室で休んでいても、何だかんだと引っ張り出されることが多い。城下の自宅に戻って徹底的に休めと命じたのは、赤騎士団長その人だった。カミューも普段はロックアックス城に暮らしているものだから、副長と顔を合わせることに慣れ切っていたのだろう。先日、ふとランドの正規の休暇申請が長らく行われていないことに思い至った彼は、火を吹きそうな勢いで叱責した。
             
            「……おまえは過労死するつもりか」
            ランドは小さく笑いながら呟いた。
            「────……?」
            「カミュー様が仰った。『書類の山に埋もれて死なれたら、泣けばいいのか怒ればいいのかわからない』、とも……な」
             
            優美で繊細な騎士団長も、年の離れた副官には駄々っ子のような物言いをするものだ────
            ローウェルは微笑ましい気持ちで口元を緩めた。それがカミューの副長への信頼であり、カミュー自身気付き得ない甘えであるのかもしれないのだ。
            「……副長の存在を、それだけカミュー様が大切に思われておいでだということでしょう。ならばなおのこと、ゆっくりと骨休めなさいませ」
            「骨休めというか、家族接待というか……」
            彼は嘆息気味に肩を竦める。
            「確かに、このままでは妻に離縁されそうだ。わかるか、ローウェル? にっこりと微笑んでいても、目が訊くのだぞ。『わたしたち家族とカミュー様とどちらが大切なのでしょう』、とな」
            「────それは難しい問題ですな」
            心底から同意すると、副長も頷いた。
            「無論、口にするのは愚かしいと妻も弁えているようだが……この心情をすべて理解してもらうには相当の時間が要るだろう」
             
            家庭と、騎士としての生活と。
            どちらがより重きを占めるかなど、何処までいっても答えの出ない問いだろう。副長の妻が、日々つとめに追われて自宅に戻らぬ夫を不満に思うのは当然だ。口にしないだけ、分別をもって夫を愛する賢い女性なのだろう。
            第一隊長は守るべき対象が唯一でないことの難しさを改めて痛感し、生涯独り身を通そうと密かに決意するのだった。
             
            「お嬢様は……お幾つになられたのでしたか?」
            「十三、だよ」
            その瞬間だけ、ランドの瞳が柔らかく溶けた。慈しみに溢れる眼差しは、日頃騎士団長を見詰めるものに酷似している。すると彼はカミューを我が子のように愛しているのかもしれない、そうローウェルは思った。
            ────もっとも、そう考えてしまうには副長の年齢からして礼を失するのであるが。
            「それだけが頭痛の種だ。あまり帰宅しないと、そのうちに顔を忘れられそうでな」
            微笑みながら窓辺に向かう瞳には、すでに愛しい娘の顔が映っているのかもしれない。
            「騎士団のことは我らに任せ、ご存分にお嬢様と遊んで差し上げてください」
            「────遊ぶと言っても、娘は難しいがな」
            「手土産のようなものはご用意なさったので?」
            「……いや。家族も、わたしにそうした気遣いを期待してはいないだろう」
            彼はゆっくりと身を起こして執務机に歩み寄った。窓辺に並んでいる緑の鉢植えを眺め、ふと口を開く。
            「ローウェル、頼みがある」
            「はい、副長」
            「……わたしが留守の間、この盆栽たちに水をやってくれ」
            第一隊長は立ち上がり、威儀を正した。
            「第一隊長ローウェル、盆栽の世話を確かに承りました」
            大切に育てている植物の世話を一任される、それもまた信頼からだろう。ローウェルは満足して一礼した。
            最後にランドは潜めた声で静かに言う。
            「カミュー様を……くれぐれも頼んだぞ」
             
             
            「よかった、まだ退出していなかったか」
            軽やかな口調と共に扉から覗いたのは、たった今副長が口にした当事者の華やかな貌だった。即座に姿勢を正して上官を迎えた二人だが、彼が手にしているものを見て眉を寄せた。赤騎士団長カミューは片手に枕を掴んでいる。
            「カミュー様……?」
            「……すまないけれどね」
            第一隊長が問うと、カミューは苦笑しながら二人の前をすり抜け、ソファに腰を落とした。
            「少し寝かせてくれ。部屋のカーテンを洗濯するからと全部取り外されてしまったんだ。西日が眩しくて、おちおち仮眠も取れない」
            「……………………はあ」
            ぽんぽんと枕の位置をさだめて横たわる騎士団長に、第一隊長は思わず笑みを洩らして副長を見る。彼は無言のまま寝台から上掛けを持ち寄って、カミューに差し出していた。
            さして言葉もなく、鷹揚に上官を包み込むランド。身を休める数少ない場所として副官の傍らを選ぶカミュー。この絶妙な力関係は端で見ているローウェルの胸を心地良く温める。
            「ローウェル、日が落ちる頃に起こしてくれ」
            「はい、カミュー様」
            「ああ────それから」
            カミューはソファの上で軽く半身を起こした。
            「ランド、帰りがけに執務室のわたしの机に乗っている箱を持っていけ」
            「…………?」
            怪訝そうに眉を寄せる彼に、カミューは楽しげに告げた。
            「どうせ土産のひとつも持たずに手ぶらで帰るつもりだったんだろう? 適当に用意しておいたから、おまえが買い求めたことにしておくがいい。ああ……奥方には真珠のブローチ、レディにはレースのショールだ。間違うなよ」
            呆然としている副長に再度笑い掛け、カミューはゆっくりと目を閉じた。
            「ランド」
            「は、はい」
            「────良い休暇を」
            「ありがとう……ございます────」
             
            二人の部下が見守る中、カミューはあっという間に夢の世界の住人となった。その寝つきの良さは意外なほどで、鋭利で聡明な瞳を閉ざした幼げな寝顔を無防備に曝している。
            「……真珠のブローチにレースのショール……」
            ブツブツと呟く副長の表情は複雑だ。上官に気遣われたことを感激する一方で、あまりに柄でない品を持ち帰る違和感に悩んでいるに違いない。カミューのセンスを疑うわけではないが、それが自分とかけ離れていることを噛み締めているのだろう。
            ローウェルは、珍しく困惑した顔つきでカミューの寝姿を眺めている上官に静かに囁いた。
            「ランド副長……ご存知でしたか?」
            「…………?」
            「カミュー様がこれほどまでに安心して寝顔をお見せになる相手は……あの青騎士団長殿」
            それから彼は穏やかに笑んだ。
            「────そして今一人……副長、あなただけです」
             
            ランドはローウェルのもたらした言葉が心に染みていくのを味わっているようだった。やがて彼は俯き加減に微笑んで、信頼する部下を真っ直ぐに見詰めた。
            「……今宵は妻子に歓待されそうだ。ローウェル、後のことを頼んだぞ」
            「はい、良い休暇をお過ごしください」
            温厚で誠実な赤騎士団副長は、眠る騎士団長に丁寧な礼を取り、部下の礼に見守られながら静かに部屋を出て行った。