人格者の子が人格者とは限らない。そんなことを、ここにきてカーマイアは実感した。
エダン師匠の息子ナジールは彼より三歳年上で、少年ばかりを集めたこの道場では最年長の一人である。幼い頃から父に武術を仕込まれた彼は、実力も充分に伴った、文字通り門弟仲間の中心だった。大柄で体躯にも恵まれた彼は周囲を従えて君臨するリーダーで、カーマイアが入門した当初は面倒見の良い兄貴分の顔を見せていた。それが変質してきたのは、熱心に武術に打ち込むカーマイアが頭角を現し始めた頃である。
始めは転がす一方だった年下の少年から一本取るのに時間が掛かるようになり、楽に勝てなくなった頃には親愛は消えていた。師である父が、居並ぶ門弟の前で少年の上達ぶりを手放しに褒める様を冷めた目で眺め、何気ない与太話の輪に誘うこともなくなった。
当然のことながら、門弟仲間はナジールに倣う。道場主の息子であるという以上に、彼は仲間の支配者だったからだ。
孤独には慣れていたし、道場において自分の為すべきは技を磨いて強くなることだけだ。そう我が身に言い聞かせ、カーマイアはひとり黙々と精進を重ねた。その結果、終に彼はナジールから一本取れるようになったのだ。
自分よりも大柄な相手を打ち負かすことが出来た喜びも、鍛錬場に倒れて呆然とするばかりのナジールの前に溶けた。この先、彼と仲間がどういう態度に出るか、火を見るよりも明らかだったからだ。見詰める瞳には信じられないといった驚愕、新参でありながら道場主を狂喜させる実力への羨望、そんなものが渾然となって、果ては仄かな憎しみさえ感じられた。
そんな矢先だった。
ナジールはカーマイアが孤児であったこと、村外れに住む二人の青年のもとに身を寄せるまで盗っ人同然の暮らしを送っていたことを知ったのだ。
おそらくは父親から伝わったのだろう。エダンはカーマイアの過去を恥じるものではないと洩らしたのだろうが、息子はそう取らなかったらしい。自分を跪かせた生意気な新参者をへこませる格好のネタを拾ったわけである。
孤児であることも、盗みで食い繋いでいたことも事実だ。何と言われようと諦めもついた。揶揄され罵られても頑なに沈黙を守る少年だったが、ある日ナジールが言ったひとことには流石に平静でいられなかった。
『おまえのところの二人、男同士で出来てるんだって?』
それは何ら根拠ある言葉ではなかった。村人の誰もが認める立派な青年が、未婚のまま同居していることから思い至っただけの、つまらない煽り文句だったに過ぎない。
だが、このときばかりはカーマイアは無視することが出来なかった。自分のことならば何を言われても耐えられる。けれど、思慕する二人を辱める言動にだけは平静を保つことが出来なかったのだ。
彼の反応は、結局真実を明かす結果となってしまった。ナジールは初めて少年を動揺させたことに満足し、以来、最もカーマイアにとって耳にしたくない話題を振り撒くことで意趣を晴らし始めた。
確かに万人に祝福される関係ではないかもしれないが、マイクロトフとカミューの堅い絆を蔑まれるのは耐え難いことだった。上辺だけでもナジールに負けてみせれば彼らの気持ちは宥められたのかもしれないが、こんな卑劣な手段で己の立場を上にしようとする相手に屈するのは幼い誇りが許さない。
ナジールが二人の関係の暴露を仲間うちだけにとどめ、村に広げないだけマシであったが、それも自分たちだけが陰湿な苛めを楽しむための考慮かもしれず、いつ彼らの気が変わるか、怯える日々が始まった。
あの二人なら───
たとえ関係が露見したところでびくともしないかもしれない。自身らの繋がりを恥じる心を持たない彼らは、奇異の眼差しを跳ね返すだけの強さを持っているはずだ。
だからといって傷つかないという訳ではないだろう。自分でさえ、これほど悔しく悲しい思いに唇を噛むのだ。当事者である彼らが心無い侮蔑にどんな思いをするか、それは想像に難くない。
決してあってはならないことだ、そうカーマイアは思った。
マイクロトフの真っ直ぐな心を、カミューの清廉な眼差しを、薄汚い誹謗が汚すことは死んでも許せない。
要は、彼らは自分の存在が気に入らないだけだ。いっそ道場を去れば、それ以上の詮索をすることもあるまい。邪魔者を追い出して、その上妙な噂を流すことは我が身の恥にも繋がる、そう思ってくれるのではないかとも考えた。
───けれど。
理由は言えない。道場をやめたい本当の理由など。
聡いカミューに追求されて隠し通せるとは思えなかった。
それが彼を傷つけることを恐れ、結局いつものように道場の門をくぐる───途端にこれだ。自らを取り巻く少年たちの陰険な視線を振り切るように、カーマイアは一歩足を進めた。
「待てよ、逃げるのか?」
ナジールが立ち塞がるように押し止め、にやにやと笑いながら顔を近寄せてきた。
「聞いてるんだよ。おまえの親の、男二人のご夫婦はお元気ですか、ってな」
「……『夫婦』って意味の使い方、間違ってるんじゃないですか? それに彼らはおれの『親』でもありません」
「たいして違っちゃいねえだろ」
な、と周囲に同意を求めたナジールは、相変わらず薄ら笑ったまま続けた。
「居候が居候なら、家主も家主だぜ。どうせ家族ゴッコするなら、あの美人……カミューって言ったっけ、女装でもすりゃあ、少しはサマになるんじゃないか?」
胸を焦がすような怒りが煮えたが、あえて相手になるまいと必死の自制を働かせる。彼らは自分を怒らせたいのだ。挑発に乗れば、一味を喜ばせるだけになってしまう。
「おい、待てって」
なおも横を通り抜けようとする少年の腕を複数の手が阻もうとしたとき、通る声が一喝した。
「何をしている? 早く鍛錬場へ行かんか、刻限は過ぎているぞ!」
道場主エダンだった。父親の登場に、ナジールは慌てて顔を背け、仲間を促した。家来のように息子に付き従って庭を歩み去る一同を見送ってから、エダンは立ち尽くしているカーマイアの傍にやって来た。
「どうしたね? 何か問題でもあったか?」
「いえ……おれが遅れたので、早くするよう言われていただけです」
「そうか?」
師の大きな掌がポンと頭を叩いた。マイクロトフがよくするような行為、そこにはやはり温かさがあった。
「おまえの上達ぶりには期待している。先日も保護者殿にそう申し上げたところだ。今日の組み手でも、是非良いところを見せて貰いたい」
エダンは新参である少年が血を分けた我が子よりも武術に秀でることを頓着しないようだった。そこには武術者としての正当な目と指導者としての潔い信念があった。カーマイアはこの人物を尊敬していたし、学ぶことも多かった。ナジールらのことさえなければ、心ゆくまでこの道場で修行し続けたいと思っていたのだ。
「さ、早く行きなさい。充分に身体を解したら、早速今日の鍛錬に入る」
「はい……」
見守る優しい視線に送られても、やはり足取りは重いままだった。
一日の締め括りは、これまで教えられた技を使っての組み手である。ここのところ、対戦相手はずっとナジールだ。すでに道場でカーマイアと互角に戦えるのは彼だけであり、体躯の差を感じさせない見事な組み手に一同は固唾を飲む。日頃はナジールの腰巾着のようにカーマイアに侮蔑を投げつける門弟たちも、この一瞬は一切を忘れて二人の戦いに見入るのである。
「はじめ!」
エダンの合図に従って、二人は鍛錬場の中央に進み出る。最近では三本に一本を取るようになったカーマイアが何処まで善戦するか、それが一同の関心であり、密かな興奮だった。
「……なあ、やっぱり家の中じゃ露骨なのか? 外じゃ、何気ない素振りをしてるようだけどよ」
ふと小声で囁いたナジールに、はっとする。途端に襟を掴まれて振り回された。身を捩って何とか逃れ、即座に間合いを取る。再び足を滑らせたナジールが今度は両手で組んできた。
「おまえも大変だなあ。どうせ厄介になるなら、まともな夫婦のところだったら良かっただろうによ」
カッと怒りが燃え上がる一瞬を突かれて、投げ飛ばされた。咄嗟に精一杯の受け身を取る。エダンは一本を取らなかった。
そうやって集中を崩そうとするナジールに唾棄したい嫌悪を覚えた。わざと父師の死角となるよう後ろ背に体勢を取っているのは囁いているのを知られぬためだろう。
「真面目にやってください」
低く訴えると、ナジールは吐き捨てるように笑った。
「こちとら、大真面目だぜ。男色野郎と同居してるヤツと組んだら、汚れちまいそうだからな」
「……ナジール」
カーマイアは荒くなる息を必死に堪えた。
「やめてください、彼らをそんなふうに言うのは許さない」
「へえ」
ナジールは一気に間合いを詰めて、体重差を利用してカーマイアを床に引き倒した。そのまま乗り上げて締め技に入る。密着したためにいっそうはっきりと聞こえるようになった声が、更に言った。
「庇うのかよ? あの二人……ヤってるんだろ? カミューってヤツが女か? あのでかい片割れに足開いてるんだろ? ひょっとして、おまえも一緒に寝たりしてるのか……?」
自制の箍は一気に弾け飛んだ。
世に認められない密やかな恋人たち。けれど無類の愛と信頼に包まれた崇高な交わりを、泥足で踏み躙られたような気がした。自らを蔑まれたときとは比較にならない憤怒が全身を突き抜け、カーマイアは未だかつて知らなかった感情に支配された。
持って生まれた敏捷さと鍛錬によって培った筋力を糧に、全身をバネにしてナジールを跳ね上げる。間髪入れずに逆に腕を取ってうつ伏せに押さえ込んだ。見守る一同は体格では劣る少年が先輩門弟を組み敷いたのに呆気に取られた。
だが、一番驚いていたのは押さえ込まれたナジール自身であったろう。これまでならば幾らでも跳ね返すことが出来た筈の少年が、磐石の重みでびくともしない。そればかりか、捻られた腕は軋んで悲鳴を上げている。
「取り消せ」
被さった少年が低く命じた。感情の欠落した声は、ナジールを竦ませた。自身が感じているのが恐怖であることを知った彼は、それを認めまいと微かに首を振った。
「取り消せ。でなければ……」
───殺す。
カーマイアは脳裏にくっきりとその意志を覚えた。捻り上げた腕をいっそうきつく背後に回し、上がった苦痛のうめきに微笑する。エダンはゆっくりと回り込みながら、息子が戦意の喪失を告げる瞬間を待つように顔を歪める。
「……ナジール」
「───嫌だ、本当のことじゃねえか」
苦しい息の中で、道場主の息子は最後の意地を張った。刹那、カーマイアの黒い瞳が憎悪に塗り尽くされる。彼は物理的に無理な方向へ向かっている腕に容赦なく力を込めた。乾いた微かな音が聞こえたような気がするのと同時に、ナジールの唇から苦痛の絶叫が迸った。
「ナジール!」
周囲から驚愕の叫びが零れ、駆け寄ったエダンが直ちに二人を引き離した。呆けたまま床に腰を落としたカーマイアは、年上の少年が右肩を押さえて転げ回るのを見詰めていた。
「暴れるな、肩が外れただけだ! 早く降参しないからだぞ、……暴れるなというに!」
叱咤しながら処置を始めるエダンは、一瞬だけカーマイアに目を向けた。この結果は見えていただろうに、何故───そう言いたげな視線だった。
カーマイアは無様に泣き叫ぶ少年を見据えたまま、身じろぎひとつ出来なかった。ただ、その口元には不吉な笑みが潜んでいた。
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