────マイクロトフ、よくお聞き。
            将来、おまえに心から大切な人が出来て、生涯添い遂げたいと思うようになったなら。
            そのときは────
             
             
            最近、よく夢を見る。
            幼い頃に死別した父の夢だ。
            青騎士団長マイクロトフの父は、やはりマチルダ騎士であった。戦地にて没した父の面影は、今ではもうぼんやりとした輪郭でしかない。それでも小さかった彼を抱き上げてくれた逞しい腕や、優しく頭を撫でてくれた大きな掌の感触、そして子供相手とは思えぬほど真摯に残された教えは今もひっそりと生き続けている。
            ここ数日、続け様に見ている夢は心が導く願望への具象か。
            目覚めたマイクロトフは寝台で大きな溜め息を洩らし、窓から差し込む朝陽に目を細めた。
            「……そろそろ時期なのかもしれないな……」
            我が身を励ますように呟くと、彼は勢いをつけて起き上がった。温かく強い日差しが祝福を込めて煌めいていた。
             
             
             
            「……カミューにはどんな花が似合うだろう……」
            ふと洩れた上官の言葉に、青騎士団副長は物憂げに顔を上げた。
            穏やかな午後、青騎士団長執務室内に設えられた団長・副長の机上には、目を覆いたくなるような量の書類の束が積み上がっている。副長は殆ど感情の窺えない声で返した。
            「────マイクロトフ様、少々述べさせていただいて宜しいでしょうか?」
            そこで初めて彼は心中で思案していたことが唇をついていたことを悟った。はっと我に返り、机から向けられている副長の視線に緊張する。
            「な、何だろう?」
            「今現在、我々が処理している書類ですが……一昨日までに目を通してご決裁をいただきたかったと、わたしは申し上げましたでしょうか?」
            「…………う……────」
            「申し上げたようでございますな。にもかかわらず、未だ処理は終わらぬまま────これは如何したことでしょう?」
            十以上も年嵩の青騎士団副長。マイクロトフは常々この男を苦手としている。遠回しに責められて、屈強の体躯が椅子の中で小さくなりそうだ。
            「無論、マイクロトフ様がこうしたつとめを苦痛に思っておられることは充分に理解しております。故に、こうしてわたしは休日返上で助力に伺っているわけですが」
            「そ……それはありがたいと思っているぞ、ディクレイ」
            なのに、と副長は大仰な溜め息をついた。
            「肝心のマイクロトフ様がかように集中しておられないとは……嘆かわしいと申しますか、何とも……」
            心底無念そうに首を振るのを慌てて遮る。
            「す、すまなかった! そんなつもりでは……いや、集中していないと言われると……ただ、その────」
            青騎士団副長の苦言は始まったら最後、第三者が介入するまで延々と続くと言われている。あながち大袈裟な評価でないことを我が身で知っているマイクロトフとしてみれば、ひたすら詫びる以外にない。青騎士団の絶対の指導者である彼の、唯一の泣きどころといったあたりだろうか。
            副長は、そんな必死の形相の騎士団長をしばし見詰めていたが、やがて表情を緩ませた。
            「カミュー様に似合う花……、でございますか。それは愚問ですぞ、マイクロトフ様」
            珍しく早めに愚痴が終わった上に、独言めいた疑問に応じてくれたことでマイクロトフは身を乗り出した。
            「ど、どういうことだ?」
            真剣な表情で切り込む彼を、副長の朗らかな笑みが一蹴した。
            「赤騎士団長カミュー様……あの御方こそ我がマチルダ騎士団の花、そのものでございましょう。如何なる花も、あのご容貌の前には霞みますな」
            「そ────……そう……、か……」
            日頃、情緒とは無縁の生活を送るマイクロトフだ。密かに副長の意見に期待したものの、思惑はあっさりと砕かれた。嘆息して肩を落とす彼を見守っていた副長は、慈しみに溢れた眼差しで続けた。
            「────カミュー様の自室をお訪ねすることをお勧めしますぞ、マイクロトフ様。おそらく、ご参考になるのではないかと」
            怪訝そうに見返す上官に、彼は淡々と語った。
            「我が青騎士団・第二隊長の実家は城下で花の商いを致しております。ご存知で?」
            「い、いや……それが……?」
            「非常に盛況だそうですぞ。何でも、最近の得意客は赤騎士の面々だとか」
            「………………?」
            副長は苦笑混じりに続けた。
            「何処の世も同じですな。花を贈ることは、心惹かれる相手に自らを印象づける良き手段のようで」
            「な────何だと?!」
            仰天して椅子を倒す勢いで立ち上がる自団長に、副長は諦念を込めた口調で進言した。
            「問題はお早めに解決なさることが肝要かと。わたしと致しましては、心晴れ晴れと書類に向かっていただきたいものです。お行きくださいマイクロトフ様、わたしも一息入れましょう」
            マイクロトフはしばし山のような書類と副長の顔を交互に睨み付けていたが、続いて深々と頭を垂れた。
            「す……すまない、すぐに戻る!」
            それから転げるような勢いで執務室を飛び出した。残された副長が、どうしようもないといった表情で笑いを堪えているのにも気付かず。
            青騎士団長マイクロトフ────手が掛かることは確かだが、真っ正直で分かり易い彼をどうして愛さずにいられよう。副長は椅子にもたれながら、祈らずにいられなかった。
            「────成就をお祈り致しますぞ、マイクロトフ様……」
             
             
             
             
            思い立つと同時に親友の自室まで飛んできたマイクロトフだったが、扉の前で初めて逡巡した。彼にしては珍しく丁重なノックで在室を問う。
            「開いているよ」
            この時間帯では不在も已む無しと懸念されたが、戻ったのは友の柔らかな声だった。束の間怯みつつ扉を開けると、そこは花畑だった。様々な花が所狭しと咲き誇り、かぐわしい香りを醸す中、一番奥の机からいずれの花よりも艶やかな美貌が迎えてきた。
            「珍しいね、こんな時間に……どうかしたのかい?」
            穏やかに尋ねる甘い声。マイクロトフは疼く胸を堪えた。
             
            無二の友として心を通わせてきた二人の歴史。
            想いを変えたのは自分だった。いつからだったかはマイクロトフ自身にも分からない。気付けばカミューを見詰める眼差しは友情の域を超えていた。
            どれほど必死に抑えようと、おそらくカミューに隠し通すことは不可能だろう。人並み以上に機微に聡い彼のこと、口にこそ出さぬものの、マイクロトフの想いは的確に伝わってしまっている筈だ。
            それでもカミューは何も言わなかった。態度を変えることもなく、これまでと同じ情愛溢れる視線を返し、揺るがぬ信頼を向けてくれる。欠片ほどの期待も抱いてはならぬと自らを諌めつつ、心の何処かが常に震えていた。
             
            「い、いや……迷惑だったか?」
            「そんなことはないよ」
            カミューは微笑んで首を振り、ソファを指す。促されるまま腰を落としたマイクロトフは、改めて室内を見回した。
            マイクロトフ同様、書類の整理をしていたらしいカミューが机を後にしてキャビネットに向かう。そのまま優雅な仕草で茶を入れる彼を幸福な心地で見守りつつ、やはり落ち着かなかった。
            ────副長の言った通りだ。赤騎士団長の自室は、花で埋め尽くされている。
            「……すごい花だな……」
            知らず洩れた言葉に、カップを差し出したカミューは苦笑した。
            「貰い物だよ。どうも、赤騎士の身内には花屋を営むものが多いらしくてね」
             
            ────鈍い。
            鈍すぎるぞ、カミュー。
             
            マイクロトフは心中ぼやいた。聡明な赤騎士団長は、我がこととなると途端に想像が働かなくなるらしい。
            それにしても、と彼は嘆息した。
            「……花というのは色々な種類があるものだな……」
            カミューは薄い唇を上げて揶揄する。
            「気に入ったものがあるなら、持っていっても構わないよ」
             
            ────いっそ、本当に持ち帰りたい。
             
            彼にとっての唯一の花は、向かいで静かに茶を啜っている。
            これだけ大量に見本があれば、カミューに似合う花を選べるだろう────青騎士団副長は、そう示唆したのだろう。だが、残念なことにマイクロトフには縁遠い分野である。似合うか否かどころか、目前の華やいだ友に目を奪われるばかりだ。それでも当初の目的に立ち戻り、必死に考えを巡らせた。
            真紅の薔薇は白い肌に映えるような気がする。
            純白の百合は高潔な生き方に相応しい────ような気もする。
            だが、そこでマイクロトフは初めて大きな問題に行き当たった。
             
            ……男が花を贈られて、心から喜ばしいものだろうか?
             
            「花は好きか、カミュー?」
            単刀直入な問い掛けに、カミューはふと瞬いた。それから相手の真意を量りかねたように困惑げに答える。
            「ああ……まあ、ね。好き────だよ、ああ。あまり嫌う人間もいないとは思うけれど」
            「────どんな花が好きだ?」
            すかさず真っ向から重ねて問うと、カミューはたまりかねたように吹き出した。
            「どうしたんだ、何かの謎掛けかい……?」
            笑いながら足を組み直す。
            「そうだね……ライラックを可憐に思うこともあるし、雪割草に春の訪れを感じて和むこともある。コスモスの群生を見れば秋を感じるし……要は、そのときの気分次第といったところかな」
            「────それでは困るんだ……」
            「え?」
            「あ、いや……何でもない」
            立て続けに並べられた花の名を、姿と結びつけながら必死に思案していたマイクロトフだが、途方に暮れて肩を落とした。これぞ、といった確実な答えが欲しかったのに。
            困惑したように見詰めてくる友の瞳。その美しい琥珀を輝かせるに足る花────なおも必死に模索を続けた彼が、最後に行き着いた結論は。
             
            「カミュー……今夜、城の東の見晴らし台に来てもらえるか?」
            「今夜……?」
            怪訝そうに返し、カミューは考えた。
            「それは構わないが……何なんだ?」
            それには答えずにマイクロトフは腰を上げた。我知らず睨みつける表情になっていることがカミューを戦かせているのにも気付かず、彼は手短に言い放つ。
            「夜間歩哨の交代の鐘が鳴る頃、待っている」
            そのまま身を屈めて冷めた茶を一気に飲み干し、来たときとは打って変わった勢いで部屋を出た。
            ────向かう先はひとつだ。執務室で焦れながら待っているであろう副長に心の中で小さく詫びつつ、マイクロトフはロックアックス城を飛び出していった。
             
             
             
            夜半過ぎ、静まり返ったロックアックスの街を見下ろす見晴らし台の丘。
            設えられたベンチに所在無く腰を落としていた赤騎士団長は、響いた足音に顔を上げた。
            「ま……待たせたか?」
            案じる言葉とは裏腹に、マイクロトフの顔は険しい。カミューは苦笑して首を振った。
            「それで……いったい何なんだ? そろそろ教えてくれてもいいだろう……?」
            横に座ろうとしない男に焦れたのか、カミューは優雅に立ち上がって傍へ寄ってきた。ひとたび目を閉じたマイクロトフは、次の刹那、大きく息を吐いた。
            突然、目の前に突き出された白い塊にカミューは一瞬身を竦ませた。それから瞳が見開かれる。マイクロトフが両腕で抱えているもの────それは夜目にも鮮やかな純白の薔薇であった。
            その量たるや長い腕にも余るのか、マイクロトフの背後にも幾つか零れ落ちたものがある。大地に落ちた白い花弁は、月明りに照らされて神々しいまでに輝いていた。
            「────カミュー」
            花に埋もれるようにして、くぐもった声が言う。
            「生涯、おれの傍にいてもらえないか」
             
             
            ────お聞き、マイクロトフ。
            将来、おまえに大切な人が出来て、添い遂げたいと思ったならば……その人に似合う花を贈りながら告げるがいい。
            生涯、傍にいて欲しい。
            ────それはわたしがおまえの母に捧げた愛の言葉、永遠を希う愛おしき思い出なのだ────
             
             
            カミューは呆然としているようだった。
            突きつけるように差し出した花束を、ゆっくりと上がったしなやかな腕が抱き止める。花を抱く彼ごと、マイクロトフはそっと腕の中に招き入れた。抗いどころか言葉も出ないでいるカミュー、彼との間に挟まれた薔薇が切ない芳香を放っている。
            「────昼間のあれは……こういうことだったのか」
            やがて苦笑混じりにカミューは呟いた。口調に困惑や非難めいたものはない。ようやく腑に落ちた満足と、常と変わらぬ穏やかさだけがあった。
            「色々……考えてはみたんだ。どんな花がおまえに似合うだろう、何が一番好ましいだろう、と……だが────」
            見返す琥珀を覗き込みながらマイクロトフは首を振った。
            「駄目だな、慣れないことはするものではない。結局、わからず終いだった」
            「それじゃ、どうしてこの花を選んだんだい……?」
            「────亡き父上が母上に求婚したときに選んだ花だった」
             
             
            カミューはしばし無言だったが、ゆっくりと瞳に笑みが過ぎるのをマイクロトフは確かに認めた。
            「……敬意をもって愛を問うなど、おまえの御両親は素敵な恋をなさっておられたんだね」
            「…………?」
            「白い薔薇の花言葉には『尊敬』という意味があるらしいよ」
            「そ、そうなのか……」
            「それで?」
            カミューは甘く問い質した。
            「おまえは? おまえの中にも同じ想いがあるのかい……?」
            「無論だ」
            マイクロトフはきっぱりと宣言した。
            「生涯変わらぬ敬意をもって────おれはおまえを……」
            そこでマイクロトフは言い淀み、全身を強張らせたまま腕の中の麗人を見詰めた。カミューはふと目を伏せ、ひっそりと呟いた。
            「……別に、花などもらわなくてもそのつもりだったけれどね」
             
             
            それが精一杯の求愛に対する答えなのだと知るには時間が要った。試みにそっと唇を寄せてみると、気付いたカミューはもう一度微笑んでから目を閉じた。
             
             
            早世した父がマイクロトフに残したもの。
            誠意と情熱こそが相手を勝ち取るすべとなる。
            腕におさめた存在が、その真実の証となる────
            マイクロトフは身の内に流れる教えに感謝しつつ、愛しい伴侶を抱き締め続けた。