思い出のスバル360
-- とりとめもない思い出話 --
穴山 彊 (修正2024年3月1日、2024年2月24日)

 1960年代、中古のスバル360を6万円ほどで買ってもらった。点火プラグやデストリビューターの隙間を調整したが良くも悪くもならなかった。免許取り立ての仲間に貸すと、エンジンの吹き上がりが良くなるのが不思議だった。恐らく(クラッチ操作に不慣れな時なかなか動き出さないのでアクセルを深く踏み過ぎるため)空吹かしで発進し、混合ガソリンの噴射口付近のゴミが吹き飛んで?、燃料の流れが良くなったのだろう。しかし有難いことにクラッチ盤が磨り減ったという故障はなかった。のちに同好クラブで使ったブルバードはクラッチが滑って段差が越せない故障も起こしていたね。
 スバル360の左前輪を溝に落としたことがある。一人で持ち上げられはしたが、思ったより高く持ち上げないと、下がる車輪を溝の縁まで持ち上げるのに苦労した。冬に暖房を強くしようと思い、空冷エンジンの吸気口をほんのわずか塞いで走っただけでエンジンがオーバー・ヒートするという計算ずくめの設計にも感心した。
 直進道路を比較的長時間ほとんどハンドルを回さなかったら油が切れるらしく、ハンドルが回りにくくなった。グリース・ガンを買ってきて必要な注入口(ニップル?)に注入するようになって楽になった。そういえば新しい職場の年寄りの仲間は運転中ハンドルをしょっちゅう動かして居たな。もしかしてもっと昔は油を切らさない運転法があったのかもしれない。疎開先にいた頃は稀にお医者さんの木炭自動車も山奥に来たこともあって、送風機を回させてもらったこともあったなー。でもグリースアップは見たことがなかった。
 グリースなんて見たこともなかった中学生の頃、自転車を分解して油をさしたりして喜んでいた。左ネジがあることを初めて知った。仁丹みたいな小さなベアリングがいっぱい使われているパーツを開いたら、元に戻す時ベアリングがパラパラ落ちて戻せなくなった。いっぱい時間をかけてやっと元に戻せた。あとで聞くとグリースを塗ってベアリングを埋め込めば落ちないことを知った。疎開先でやってたように、大人の技術を見て覚えるべきだった。
 買って一年程経った頃一万円持って、まずは福岡市から国道3号線を南へ向かって走り、反時計回りで九州一周の一人旅に出た。熊本まで一気に走り、左手に水前寺公園の看板を見かけたので左折して見物に行った。細川ガラシャの墓とか水前寺公園を見た後、どこかの大通りを走っていたら犬の喧嘩に遭遇した。車の直前に飛び出して逃げるチビ犬と追いかけるデカ犬。ブレーキをかけてチビ犬を避けたが、デカ犬に轢かれた、と言うかデカ犬が爪痕を残して車の上を飛び越えていった。突然で、しかも猛スピードで走って来る犬を避けるのにハンドルを回す余裕など全くなく、ブレーキペダルを踏むのがやっとだった。いい加減嫌になったので博多に戻ることにして3号線に出て右折した。かなり走って気がついたら何故か八代に着いていた。交番に寄って旅館を紹介してもらって一泊し旅を続けることにした。この頃自分の方向音痴に気づいたかも。
 大学の山小屋的宿泊施設がある筋湯温泉に向かったが、夏場の急勾配の一般道、スバル360は空冷なのでオーバーヒートして馬力が落ちた。水前寺清子の歌に励まされて三歩進んで二歩下がる作戦を使った結果、かなり山道を上って行けた。もうすぐ乗り切れそうな所でエンコしている下方向に向かうワゴン車に遭遇した。手を振られたので事情を聞くと、下り坂でブレーキが効かなくなり、サイドブレーキも効果がなく、ギアが入ったまま咄嗟にエンジン・キーOFFで車を止めたそうだった。(すごい、賢い!)。 ボンネットの中のブレーキ・オイル貯油槽の出口の配管が外れてたそうで、オイルが漏れてなくなったので、水を足すことの可否の相談中だったそうで(やめてくれー!)、ブレーキ油を持たないか尋ねられた。当時は多分どんな車でも中古車ならブレーキ油は持っている人は居たみたい。幸い私は教職員学生ごちゃまぜの自動車愛好クラブの整備係もしていたので、自分の車用のブレーキ油缶を積んでいた。油を補給したついでに四輪とも必須の配管のエア抜きをしてあげた。その間にスバル360のエンジンも冷えたらしく目的地までスイスイと登れた。情けは人のためならずだった。温泉では湯船にボウフラが時々流れ込んで来ていた。
 筋湯には別の機会に男声カルテット4人組(KBC放送の歌番組に私の時は毎週一年間出演していた仲間)で泊まってミヤマキリシマの花を見に行ったことがある。山登りの途中の小休止中に思いついて大声でヤッホーをやった。ベースから一秒遅れでヤー、ヤー、ヤー、ヤーをソー、シー、レー、ファーの分散和音で長々とやって、息をついで上からミドソドの和音で同時にホーと声を揃えて和音を伸ばした。見えないところから拍手が聞こえた。ヤッタネであとは気分良く散策した。カルテット一番の思い出である。
 思い出した。ごちゃまぜ愛好クラブで多分ダットサンで日帰りドライブした時のこと。ドライブの途中バックするたびにエンストする仲間が続出。夕方大学の砂利の駐車場にバックで入れたら片側の前輪を引きずった跡が砂地にくっきりと現れた。調べてもらったら整備工場でのキャッスル・ナットのキングピンの入れ忘れだった。前進時にはキャスターが効くので問題なく走れたということだった。
 話は元に戻って、スバル360の旅。普通に見て回った観光地のことはそれほど覚えていない。高千穂の峰の近くを通った。前年の夏、教養部の混声合唱団仲間と高千穂にもアタックしたが、すごい強風で馬の背越えが通れなくて登れなかった高千穂である。天気が良く天辺まで登山できた。約六十年ほど昔の高千穂の天辺には御神体の 天の逆鉾 があったと思う。ただ結構大きな蝶々が多分上昇気流に乗って登ってきて、そこで数匹ひらひらと飛んでいた。捕虫網を持った登山者も居たのに感心した。
 その後宮崎の観光地の1つ、都城市の関之尾の甌穴(おうけつ、甌=小さい甕)の観光駐車場の側を通ったので何気なく見に行った。河床の空色の広い滑らかな岩盤のかすかな凹みにとどまって流されないけど揺れているうちに凹みが段々擦れて最終的に深くえぐられて凹んで出来たと言われる孔(甌穴)が無数に散りばめられていた。関之尾の甌穴についてネットで調べたら規模は世界最大だそうだ。しかしネットの写真を見たら、穴とは思えない黒っぽい岩だらけの岩が残る川の写真だった。60年ほど前に見た甌穴の場所では、滑らかな河床の岩盤のあちこちに丸い孔が開いて居て、中に丸っこい石が一個ずつ入っているのが観察されたのに・・・。場所が違うのか?
 駐車場から出ようとしたらバック・ギアが入らなかった。運転席の左後ろに4寸角の点検孔があったので初めてネジを外して覗いて見た。金属棒(タイ・ロッド?)の接ぎ目が外れていた。後で聞いたらラバー・ジョイントと呼ぶ接ぎ手らしく、繋ぐ2本のロッドの回転軸の角度のズレを吸収しながら押す・引く・回す力を伝える部品の接触面を厚手のゴムにして柔軟性を持たせる部品だそうだった。ゴムが剥がれた為の故障だった。 バスに乗って都城の町まで行って整備工場を探したけど見つからず、また関之尾に戻った。縛りつければ良いかなと思いついて紐を探してあたりをうろうろしてたら適当な針金が落ちていたのでジョイントを縛り付けたら、ギア・チェンジ出来た。都城に戻って自動車工場を探し出して頼んだら、勤務時間外だったらしい若いサービスマンが彼女と海水浴に行く約束の時間が迫っているとぼやきながらも、正規部品をはめてくれた。感謝。
 都城の郊外の国道を北上していたら、スクーターを押しながら歩く牧師さん(多分。神父さんだったかも)を見かけた。尋ねたらまだ遠くまで押さなければならないらしかった。持っておられた細引きで曳いてあげることにした。チューブ・ゴムを間に使うとショックが少なくて牽引し易い。なぜかその後年賀状の交換をいつまでだったか続けることになった。
 大分県の観光地はほぼスルーしてというかその時の記憶がない。最後に宇佐神宮に寄った。神馬の顔写真を撮ったのだけ手元に残っている。

その後ラーメン一杯食べてほぼ旅費を使いきり、神馬のご利益か無事自宅に戻れた。
 ブレーキ・パイプのエア抜きには後日談がある。スバル360のブレーキもエア抜きすれば効きが良くなるかと思い、やり方通りペダルを強く踏んだら、一発で配管の一部が裂けた。なんと鉄パイプ製だった。普通は銅管を使うだろ? 取り寄せとつけ替えは町の自動車屋さんにやってもらった。ブレーキの効きに変化はなかった。
 団地に住む姉夫婦のアパートをスバル360で訪れた時、下り坂に停めた。ストッパーをタイヤに当て、バック・ギアも入れておいた。アパートの窓から見下ろしたら後部から煙が出ていた! 飛んで行ったらバック・ギア連動の後付けらしいバック・ライトの配線が燃えていた。ギアを外したら鎮火した。バック・ライトはあとで外しておいた。
 結婚して就職が決まり、単身赴任した富山に車で家族を連れて帰る半年ほど前にスバル360を下取ってもらい、スバル1000を買った。国鉄の複線でカーブしている線路と交差するありえない高低差が激しい凸凹の狭い踏切を、このスバルで大きく揺れながらもあとで考えたら安定な走りで何度もよく通過した。近くにカーブが緩い幅広の踏切もあったが、混むのでたまにしか通らなかった。スバル1000は数年乗ったら床が錆びて地面が見える孔が空いたのでT社のカリーナに変えた。変えた途端にこの踏切は怖くて渡れなくなった。車によって得意不得意があることがよくわかった。錆びてもスバルかw。技術力の高い車は好きだ。その後多分人に紹介されてM社の車も3台ほど5年毎に取り替えて乗った。オートマなのにたまにエンストするミラージュにも乗った。セールスマンは排気を綺麗にする装置の不具合とか説明してた。色々不得意な技術を要求されはじめた頃のよくある話だったのだろう。義兄が本田宗一郎を褒めるのと、職場の後輩グループの友人の紹介でFitに乗った。12万キロを超えて一度も故障したことがない良い車だった。介護の車椅子をトランクに積むのが重たくなったので、スライドドアのN-boxに替えて現在に至るが、買った途端に私の体力的に人一人軽く支えることができなくなって、車椅子を乗せる必要もなくなった。Fitの時は九州一周を二回したり、博多富山間のほぼノン・ストップ一人旅は何度もやった。危篤に近い兄の見舞いに博多まで一人でほぼノン・ストップで軽四ということを忘れてN-boxで行ってしまった。この時もほぼノン・ストップで走ったが、コロナで面会できなかった。一人乗りなら軽いので高速道路の坂道でも普通車並みに楽に運転できた。危惧していた横風にも強かった。通常の車庫入れも急角度で曲がれて頭からツッコミ駐車が素早く出来るのも気にいっている。

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