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あの日の”ときめき”と”悲しみ”はこれからずっと忘れることがないだろう――。

何度も悔やみながら、起こってしまった過去は変えられないんだと心に言い聞かせる。
覚悟を決めたと思いながら、ただのフリだけだったのかもしれない。
きちんと行動を起こせれる勇気があるからこそ、口にできるものだと気づかされた。
このちっぽけな自分の存在が、彼とその周囲に波紋を広げてしまう。
忙しなく歩き回っている聖の姿を遠い目をして見つめている。
その視線に気づいたのか、ソファーでクッションを抱え込んでいる海晴の元へやって来た。
難しい顔をしている彼女に軽いため息をつかれてしまう。
「また”変なコト”考えてただろ」
「――ん」
肯定なのか否定なのかわからない返事をする。
「すぐ悪い方向に考えるのが海晴の悪いところ」
「……」
「どうしてもダメな時は素直に言って? それを言う権利はあるんだよ、海晴には。もう、この間みたいな無茶は――しないから」
「なんか……少し間があった気がするんだけど?」
「絶対にしないとは言い切れない」
一緒にソファーに座り込むと、海晴の肩に寄りかかってくる。
そんな様子に少し呆れながら、クスクスと笑い合う。
「――大丈夫。みんな海晴のこと、大好きだから。それは俺が保証する」
今悩んでいたことがわかっていたかのように、その一言で海晴の心がふっと軽くなった。
だから安心していいよ――。
そう言われているみたいだった。
「海晴が望む限り、何度でも言うよ。愛してる。これから先もずっと……」
身体を抱き寄せられ、耳元で甘く囁かれるとトクンと揺れ動く。
この言葉で強くなりたい。
聖の口から滑り落ちる言葉は海晴の胸を高鳴らせ、そして凍らせる。
これから何度心震わせ、これから何度悲しみに心苦しむことになるのだろう。
「もっと言いたいことはたくさんあるけど、”今は”まだ――ダメなんだ」

新年度になり、どの企業も気分一新で仕事を始め出す四月。
earlの事務所にも新たな風が舞い込んできた。
「秘書課から異動になりました。吉岡です。これからよろしくお願いします」
「噂はかねがね、お待ちしてました!」
ニューフェイスが来たと正人が騒ぎ立てると、他の男性陣もどよめきたつ。
「聞いてた通りの美人!」
「秘書課からうちになんてもったいない……」
本人たちはコソコソとしているようだが、当の本人に筒抜けである。
彼女は得意の笑顔でそれらを交わしながら、引継ぎの対象である悠美に案内を受けていた。
「ゴメンなさいねー。うちは女性スタッフ少ないから、吉岡さんみたいな美人はすぐ飛びついちゃうのよね」
「いえいえ――慣れてますから平気です」
そんな返しをされるとは思ってもいなかったために、思わず振り返って彼女の顔を凝視する。
互いに愛想笑いをしながら不敵に笑い合った。
秘書課にいただけあって、若いといえど根性が据わっていると感心してしまう。
女性の集まりは、打たれ強くなるのかもしれない。
ここにいるスタッフたちも簡単に自己紹介を済ますと、各自の仕事場に戻っていく。
残された二人は自分たちの引継ぎに早速取り掛かることにする。
「えっと、吉岡さんはパソコンはバリバリ使えるのよね?」
「はい。一応、そういう学校出てますので」
一つ前のモデルだが使用には問題ないからと、この日のために新しく用意したパソコンに電源を入れる。
まだぎこちない二人を前にして、黙々とパソコンは起動していく。
使用できる状態になると、悠美はホームページを表示させた。
「じゃあ、ホームページとかブログも?」
「ぼちぼちってところです」
「興味ないわけじゃーないわよね?」
「まぁ……そうなりますね」
「オッケー。じゃ、そこら辺、頑張って勉強してearlのお願いしようかしら」
「え、いいんですか?」
「ようやく肩書きが衣装担当だけになりそうだわ」
OA担当だった先輩が異動になってからというもの、その穴埋めの人物が見つからないまま数年経っていた。
たまたまパソコンの扱いに慣れていた悠美が兼務として担当することになったのだ。
あくまでも悠美の担当は衣装であり、ホームページやブログなどの作成・運営までは手が回らなかったため、外部の会社に任せていた。
しかし、先方の担当が変わってからというもの、意思疎通がうまくいかなく始めてしまい、痺れを切らして直談判をしてしまう。
これ以上の負担は自滅しかねない。
「それで社長直々にだったんですか?」
「んー、まぁそこら辺はいろいろと――ね。期待してるわよ、吉岡さん」

「おはようございまーす」
お昼前になって、主役のearlたちが出勤してくる。
その部屋で自分の飲み物を入れていた人物と目が合った。
「お、美人ちゃん発ー見」
彼女が誰なのか大方の見当がついている三人。
あわててマグカップを置いてこちらに向き直り、改めて自己紹介をされる。
深々と礼をされて、思わずearlたちも同じく頭を下げてしまう。
「え……、やだ! 皆さんが深々と礼なんてしないでください!」
「美人ちゃんにされたらなぁ……つい」
「うんうん、いくらでも頭下げるよなー、朔馬」
「それに、ぐぐっと平均年齢を下げてくれそうなお嬢様!」
誰もいないはずのデスク椅子が壁に当たる音が聞こえ、みんながそちらを向く。
その席からスッと手が伸びてきて、earlたちは一瞬で顔色が悪くなった。
物陰から現れたのはそこの席の主である。
「なんか最後に聞き捨てならない台詞が聞こえたんだけど?」
「ぎゃー、悠美ちゃんがいる!!」
「お菓子が床に転がって、探してたらあんたたち好き勝手なことを……」
「尋常じゃないもんね、お菓子に対する執着心ー」
「あんたたちのせいで、食べる暇がないんでしょうがぁー!!」
既に食べられなくなった飴玉を今回の一番の犯人に投げつける。
標的にされた魁はそれを軽々とよけ、すぐさま吉岡の元へと走り出す。
軽く言葉を交わすと、悠美に向き直る。
「誰かさんとは十歳近くも離れてるし、やーい」
「あんたねぇ――……!」
怒りに我を忘れそうだった悠美だが何かをひらめいて、にやりとほくそ笑む。
「そーだ。今日の生放送、こっ恥ずかしい衣装にさせるのと、過去の初々しい姿どっちを放送してやろうかしら!?」
「げ! どっちもやめてくれぇー……」
朔馬はそんな様子を見ながら、さっき投げ捨てられた飴玉を拾いゴミ箱へときちんと入れる。
「今日はご機嫌だな」
「ったく、そういう日はすぐに絡んで冷やかすんだよな、アイツ」
「初対面でこんなんでゴメンね、イメージ崩れただろ?」
きょとんとしている吉岡にリーダーとして面目が立たないために、思わず謝罪してしまう。
「いえ……そんなことないです。今までこういう場で働いたことなかったので、逆に楽しみです」

軽く引継ぎを済まし、お土産でもらっていたお菓子をつまみながら雑談会が始まっていた。
たまにはこういう息抜きをして、仕事の緩急をつけたりしている。
何事にも休憩は必要だ。
「――そうそう、忘れるところだった。実はね、もう一人事務のスタッフ――っていってもバイトなんだけど。土日出勤で」
「バイト……ですか?」
「彼女には雑用してもらってるから、吉岡さんもどんどん回しちゃってね。でね、あのコは――……。いや、見てたらわかると思うから内緒にしとく」
うっかりと海晴と聖の関係を教えようとしてたが、遊び心が働いてしまい口を閉ざしてしまう。
「え、寸止めですか?」
「ふふー。だって、言わなくてもわかることだから」
「気になるじゃないですか!」
「でも――すれ違いになることが多いかな? 基本、吉岡さんの業務だと週末に出てもらうことも少ないかもしれないし」
「そう……ですか」
立場は下だが新参者の自分より、この職場に馴染んでいるらしい彼女のことが妙に気になってしまう。
顔をなかなか合わさないというのが余計に拍車をかけてしまいそうだった。
落胆の表情を見せながら、淹れたばかりの紅茶を口にする。
悠美のデスクの電話が鳴り始めたために、この雑談会はここで幕を閉じることになる。