1月31日(火)富山・断続的雪 積雪60p

昨年一年間、北国新聞・富山新聞に週一で載った「いのちの旅」が纏められ「続・いのちの旅」と題されて発刊された。店頭に並ぶのは2月1日だが、その本が届いた。



1月30日(月)富山・曇り時々晴れ

一日中、禁煙の禁断症状に悩まされた。今日で60日完全禁煙をしているのに、この症状は何だと思った。むしろ三か月目が危険だというが・・・・・続けられるか不安になってくる。50年以上も吸い続けてきたのだから、そう簡単に縁が切れないということか

日記というものは、その日のことを忠実に記録しているわけでない。毎日欠かさず行っている<食べて寝て排泄して>などといったことは、あまり書かない。結局その日の最大関心事を書きとどめているに過ぎない。チベット高原を20日間ほど旅した時は、食べて、寝て、糞をすることが最大の関心事であった。標高4500Mでは酸素50%で火もつかない、すると何を食べるかということばかり考えている、1日中ランドクルーザーを走らせていても、家もなければ人とも遇わない、そして夜は氷点下となる、すると今晩はどこで寝るのかとばかり考える、便秘や下痢をすると、そのことばかりを考えている。10年前に著したチベット高原4000キロの旅「聖地カイラス巡礼」を読み返してみると、ほとんど食べて寝て糞をすることばかり書いている。
結局文化というものは、最大の関心事の文化(言語化)だといってもいい。源氏物語も奈良の大仏たちも食べて寝て糞をするしか能のない庶民の世界から遠いところで語られている。奈良・平安の仏教は貴族文化である。文化が独り歩きして、食べて寝て糞をする生活が翳んでみえなくなった時、即ち人間の生身の体から離れた観念の文化となった時、生きた仏教でなくなり、文化遺産となる。それは生死即涅槃が成り立たなくなるからである。わかるかな!寂聴さん 証知生死即涅槃


1月29日(日)富山・曇り時々晴れ、時々雪

腰の痛みがとれた。腰に負担がかからぬようにして、ゆっくり除雪をした。除雪を終えたら銭湯へ。文化銭湯の休憩室で女子マラソンを観ていた。



1月28日(土)富山・雪

1日中氷点下に近い気温。寒いと腰が痛む。ということは腰を温めればよいのだと気づき、天然温泉をうたう銭湯へ。湯に浸かっていたら案の定、腰の痛みが和らいだ。かかり付けのマッサージ師に「雪かきをして腰を痛めた」と言ったら丁寧にやってくれた。
ほとんど痛みはなくなった。有難い。


1月27日(金)富山〜奈良〜富山

昨日から雪が断続的に降り続いている。昨日痛めた腰が痛いが、車椅子が通れるだけの除雪をして、7時30分に家を出た。
富山駅には1時間遅れた先発のサンダーバードが停車していた。自分が乗る8時のサンダーバードも遅れて出発し、敦賀で車両に付着した雪をとるのに30分ほど停車していたりで、京都に着いた時は1時間遅れて12時になっていた。本日の講演会場は奈良県葛城市忍海町で、開演は2時である。京都から近鉄で2時間近くかかる。京都駅で主催者へ電話を入れて、近鉄電車に乗った。案じた通り遅刻してしまった。忍海駅前の歴史博物館の前に主催者である葛城市仏教会の方々が心配顔で立っておられた。会長は浄土宗の常任布教師の横井照典師。私の話を知恩院やその他で4回も聞いたと言っておられた。恐縮する。
帰りに名物の「中将餅」と名付けられた「よもぎもち」を頂いた。当麻寺の観無量壽経を忠実に描いたとされる当麻曼荼羅、その蓮糸曼荼羅にちなむ中将姫伝説は有名である。当麻は源信僧都の生誕地でもある。寄ってみたかったが、その余力も気力もなかった。南大阪線に乗って大阪経由で帰路についた。降りやまぬ雪の富山に着いたのは23時。腰が痛い。


1月26日(木)富山・大雪

久しぶりの大雪となる。妻が脳内出血で倒れ半身不随になった時、家中を車椅子生活に適したバリアフリー化し、妻のベッドのある部屋に出入り口を設け、ディケア・サービスなどへ出向くとき便利なように道路まで20メートルほどのコンクリートのスロープを作った。ところが大雪の日は、ちょうどこのスロープのところへ屋根雪が落下して除雪が大変となる。明日は奈良県へ出講予定で、妻はデイケアの日。ケア・サービスの職員さんに迷惑をかけれないと、1メートルほどの積雪をスコップで除雪していたら、腰が痛くなった。明日は電車に6時間も乗っていなければならない。大丈夫だろうかと思いながら、腰に鎮痛消炎剤を張って寝た。
うとうととした時だった。入善の養照寺(真宗大谷派)の住職・藤裔信也さんから電話があった。「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という句は一茶でしたか?との信也さんの声。「一休ですよ」というと、「ああ、そうでしたか」と。
この電話の主は、我が青木家旧家の門徒寺の住職である。彼が生まれたのは昭和19年中国の北京で、その時彼の家に同居していた瀬戸内晴美(現寂聴)さんの自伝的小説「いずこより」の中に「信也ちゃん生まれる」と本名で登場する。腰が痛いのと、変な電話で眠れなくなった。



1月25日(水)富山・雪

一日中雪が降っていた。みるみるうちに50CMほどの積雪となった。こんな雪の日になると犬のように血が騒ぐ習性が私にはある。昔は必ずと言っていいほど、雪をかき分けて夜の街へ出かけたものだった。
画家の木下晋君から電話があった。2月2日に新宿の紀伊国屋ホールで開催される山折哲雄氏との新宿セミナーの件(参照)
2月2日は予定が入っていたが、19時開演であれば間に合いそうな気がしたので、上京することにした。ちょうど雑誌SOGIの宗田さんからメールがあったので、碑文谷さんも誘った。市川の中原寺の平野俊興師にも声をかけた。終わってから新宿でみんなと会食するのも悪くないなと勝手に思ったからであった。雪の夜は、血が騒ぐのか、人が恋しくなるのか、街をさまよいたくなる。



1月24日(火)富山〜福井〜富山

朝、雪が激しく降る中をサンダーバードで福井へ向かった。ところが金沢を過ぎた頃から雪はなくなり、福井は快晴であった。
福井新聞社の政経懇話会への出講。福井新聞社の社長は全国の新聞社で一番若い37歳の吉田真士氏。その社長等と会食後講演に入る。また、時間オーバーして2時間話していた。講演後、長谷川龍生門下の詩人・川上明日夫氏が詩集をもって現れた。母方の実家が富山県朝日町だといっていた。新聞社の車で福井駅へ向かう時、快晴だった空がいつの間にか黒い雲に覆われていて、雪が降り始めていた。

1月23日(月)富山・曇り

日本子守唄協会から本日のNHKラジオに理事長の西舘好子さんが生出演されるという案内のメールがあった。改めて気づいたことだが、ここ数年ラジオを聴いたことがなかった。自家用車もラジオを外してカーナビをセットしていた。緊急時持ち出し用バッグの中に小型ラジオがあるのを思い出して、電池を入れなおして4時の放送を待った。
母親が子供に触れながら歌う子守唄は、人生形成に大きく影響を与え、母と子の絆はもちろん、生きとし生けるものへのやさしさを五感で受けとめる人間を生む・・・・そんな話を西舘さんはしておられた。私はラジオを聴いているうちに、福島県郡山の盲目の詩人・故佐藤浩先生から頂いた5歳の二人の子供の詩を思い出していた

ーこのよ(世)で、いっとうさいしょにうまれたひと(人)は、だれから、おっぱいのましてもらったの? ・・・・まどかちゃん5歳

ーお母さん、ちきゅう(地球)でいちばん最後の人が死んだらだれがおそうしきするの?・・・・・・・・・・・
佐々木空くん5歳

この5歳の二人の児童の口頭詩にみる誕生と終焉にはさまれた人類史・・・五歳までの教育がすべて・・・
「おとうさんは透明人間」という児童詩集をまとめられた佐藤浩先生に「ママ、もっと笑って」という児童詩集がある。

ーおかあさんのおっぱいは まるくておおきいから ひまわりの花みたいだ
 あかちゃんの時 おっぱいのみずきたのでわたしのかおも ひまわりみたいに まあるくなった  
本田みのり 小2

佐藤先生は、昔はこんな天真爛漫な児童詩があったという。しかし高度経済成長期以降、おとうさんは「透明人間」になり、お母さんは笑顔をなくして鬼になってゆく。母乳からミルクへ。手料理からインスタントへ。子守唄は保育所の保母さんへ。そして有名校進学だけに駆り立てる怖い顔をした調教師のような母親像。

べんきょうしなさい
また おかあさんにしかられた
ノートに おかあさんのおこり顔を書いてやった
かみの毛が ぼさぼさで
耳がたっていて つのが出ている
まるで鬼のようだ
ぼくは「ヒヒ」と笑った
でもあとで「ごめんなさい」といっ
・・・・・福島県・藤崎剛志くん小四

それでもなお、子供たちは「ごめんなさい」と恋い慕う。「ママ、もっと笑って」と。



2日(日)富山・曇り

寒い日が続く・・・・鉛色の空の下で、角の家のモクレンの蕾が膨らんでいるのに気づいた


1月21日(土)富山・曇り

何も考えないで過ごすとは、食べて寝て糞をして、日記も書かないで過ごすことかも・・・・・・

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な言葉がある福沢諭吉の『学問のすすめ』の中こんな文もある。
「無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は、食べることと寝ることと排泄することのみ、かかる馬鹿者たちを取り扱うには、とても道理をもってはすべからず、不本意ながら力を以って威すより外に方便あることなし」と

100年後の東京の小学校四年生がこんな詩を作った

ぼくは
おかあさんのおなかの中にいたほうがいいと考えたときもある
学校でもべんきょう、うちへ帰ってもべんきょう
べんきょうを作った人をみてみたい
べんきょうなんか 大きらい
 


1月20日(金)富山・曇り

することもなく富山に居る日が多くな。願っていたことであり、願ってもないことである。すると何だかさびしい気持ちになる。これが身についた強迫観念に他ならない。何かしていないとこの世から抹殺されるのではないかと怯えている。為替や株の動向に一喜一憂している社会にあって、なかなか子供と鞠をついて日長一日我を忘れて遊ぶ良寛のような心鏡になれない。愚になれない。愚になるには無心になるしかない。

仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふといふは、自己をわするるなり」−道元『正法眼蔵

 われわれは自己を忘れられないから愚になれないのである。「南無」とか「帰命」とは、自己を忘れるということでもある。自己を忘れない口先だけの南無、即ち我執を残したままの念仏を<観念の念仏>というのである。法然が一枚起請文で「観念の念仏にあらず」といった観念の念仏とは、いくら称えていても我執が障害となって阿弥陀仏を見ることがない念仏のことである

極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我 ー親鸞「正信念仏偈」



1月19日(木)富山・曇り

今日はうれしい出遇いがあった。出遇いと言っても人に出会ったわけでない。吸い昨年暮れに東京・亀有の蓮光寺住職・本多雅人氏から贈呈された新刊「今を生きる親鸞」が他の寄贈本と一緒に読まぬまま積んであった。今年になってその本の出版記念会の案内状を受け取った。出欠を迷いながら本をぺらぺらと捲って拾い読みをしているうちに、夢中になって読んでいた。本多氏と共著の安富歩氏(東京大学東洋文化研究所教授)のスタンスというか視座に共感したのであった。同著にある「親鸞との出遇いと学びー親鸞ルネッサンスの試み」という小論文を一気に読み終えた。現代日本にも、こんな方がおられた!! とうれしくなった。特に現代知識人のアキレス腱ともいえる「説得」という言葉が新鮮に感じた。
デカルトの哲学の根本には、がっちりとした真理を求めるという強迫観念にも似た「説得」衝動があるのです。神抜きのキリスト教となっても、一神教の論理の言語体系は残っていて、その思考で説得しようとする。それが科学的という名のもとに世界を席巻している。それに対して、スピノザの哲学というのは「説得」のモードを欠いています。スピノザにとっては、説得というようなことはどうでもよかった。問題は、自分自身が世界をどう理解して、自分自身で納得できるかということなのであって、それを内在的に語るというのがスピノザのスタイルでした。真理というものは人に伝えられるものでなく、分かった人にはわかるけど、分からない人にはわからない・・」 
安富氏の無目的な展開が面白い。やがて氏はスピノザから親鸞へと導かれたようであった。そのことも興味を引いた。
私も若い頃、なぜかスピノザの「エチカ」を読んでいた。懐かしく、うれしくなった。ぜひお目にかかろうと「出席」と返信した。


1月18日(水)富山・曇り時々晴れ

昨年北国新聞に連載していた「いのちの旅」の一年分のゲラ原稿が届く。校正依頼である。「続・いのちの旅」と題されて2月1日に発刊されるのだという。さーっと一読して、後はお任せしますと返信した。「あとがき」を真宗大谷派前宗務総長で現在金沢の自坊におられる熊谷宗恵師にお願いしたら、身に余る原稿が添えられていた。既存宗教の現状をチクリチクリと批判している文に、前宗務総長の立場もおありだと思うと、恐縮至極で感謝合掌するしかない。


1月17日(火)富山・曇り

2,3日前から五木氏の「親鸞」を読んでいて、つくづく思った。道元のいう「文筆詩歌など詮無きもの」ということが・・・。仏法を伝えるのが仏教であるなら小説で仏法は伝わらないということ。人間親鸞は描けても、仏法は描けない。要するに「
われ指をもって月を指(おし)ふ、なんじをしてこれを知らしむ、なんじなんぞ指を看て、しかうして月を視ざるや」と『教行信証』化身土の巻にあるように、親鸞の指を拡大して視ているに過ぎない。親鸞が指差す世界は視えてこない。そう思うと読む気がしなくなった。

早めに妻の夕食の用意をして、北日本新聞社の新年文化人の集いに出る。昨年は先約の講演とぶつかり出れなかった。何だか場違いなところに居るような気持ちにさせられた。50年前私が詩人として参加していた頃、思想が表に顕れていた熱気渦巻く60年時代、いわゆる文化人たちの集いであった。ところが今では政治・経済の新春の集いの様相を呈している。参列者代表のあいさつはYKKの吉田会長であった。酒を飲まなくなったこともあって、握り寿司を3個食べて、氷見のハトムギ茶を飲んで途中退出した。昨年愛妻を亡くした森富山市長に声をかけられたが、その顔は淋しそうだった。



1月16日(月)東京〜富山・曇り

一昨日富山を出た時から、五木寛之氏の「親鸞・下巻」を電車や、ホテルで読んでいて、帰路の車中で富山駅へ着くまでに読み終えた。読んでいて納得がいかぬというか、腑に落ちぬところがあった。駅の本屋で上巻を買い求めて帰宅して、最初から読み始めた。


1月15日(日)富山・雪〜東京・曇り

所用があって上京。東京・八重洲の富士屋ホテルの喫茶室である雑誌記者との所用を済まし、浅草ビューホテルへ向かう。西舘好子さんの新刊「かもじやのよしこちゃん」が2月に発刊されるという。その後書きというか、読書感のようなものを引き受けたので、その打ち合わせのためであった。この『かもじやのよしこちゃん』という作品は、著者西舘好子さんの記念碑的な意味をもつ作品となるだろう。井上ひさし氏との壮絶な戦いの果てに「自分に正直に生きたい」と自分探しの長い旅路の途上で、本然の自分に出会えた喜びの歌となっている。そんな私の読後感を素直に述べて、自分は感動しうれしくなって引き受けたのだとも言った。打ち合わせを簡単に済まし、浅草のロック(六区)を案内してもらう。私が大学へ入ったのは昭和33年であった。翌年皇太子・美智子さんご成婚があり、翌35年は60年安保と激動の時代であった。その頃の全盛の浅草の姿はなかったが、路地などには当時の面影が残っていて、懐かしい思いがした。今の浅草は東京スカイツリーの開業を控え、新たな活気を取り戻そうとしているように感じた。浅草寺の裏の昔ながらの「もんじゃ焼き」の店でビールを飲みながら互いに自分の青春時代を語り合っていた。

 

月14日(土)朝方雪、後曇り 

新聞に、五木寛之氏の「親鸞」下巻本日発売と広告が出ていたので、富山駅の本屋まで買いにゆく。たまたま私も連載していた北国新聞に連載されていて、ときどき拾い読みをしていたが、親鸞一家が越後から関東へ向い、恵信尼消息にある「・・・・武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申すところにて・・」の場面で親鸞が体験した宗教体験の解釈の違いが五木氏と私との間にあるような気がした。そのことを単行本になったら通して読んでみたいと思っていたからであった。すぐ読めなかった。きちんと読んでからそのことを書こうと思う。べらっと捲ったところに性信房のことが書かれてあって、一昨日賀状の返信をしたばかりの性信房の末裔(報恩寺)の坂東性悦さんに小島や稲田を案内してもらったことを思い出していた。


1月13日(金)曇り・一日中氷点下の寒さ

「凍てつく夜」という詩が生まれたのも、こんな凍てつく夜だった。

悲しみの凍み雪の上に
悲しみの粉雪が舞っているけど
もう吹雪は去ったのだから
悲しみにくるまって寝たらいいのです

こんなに凍てつく夜だから
明日は必ず晴れるのです
嘘だと思うなら
朝早く起きて見てごらん
悲しみはダイヤモンドダストになって
空いっぱいに輝いているから



1月12日(木)晴れ

今朝6時の温度−4℃。ゴミを出しに外へ出たら、路面が凍結していて、車がパリパリと音をたてながらノロノロ運転をしていた。
妻が歯が痛いと言いだす、日赤富山の歯科へ連れてゆく。車に乗せるまでが大変であった。車椅子が通るスロープに屋根雪が落ちていて、それが凍り付いていて除くのに時間がかかった。予約なしで行ったせいか、9:30に行って、13時までかかった。待合室で締日を過ぎたSOGIの原稿の構想を考えていた。頭の中で構想が明確になると、一気に書き上げることができる。日赤から戻ると一気に書き上げた。原稿を書き終えると、銭湯へ行き、帰りにスーパーへ寄って、食材と猫の餌を買ってくる。



1月11日(水)雪時々曇り

湯船に浸かっている時、禁断症状が治まることを発見。苦しくなったら銭湯へ行くに限ると、行きつけの健康ランドへ行って何時間もいた。新聞連載が終わり、ホッとしていたらSOGIの宗田さんから原稿の催促のメールが届いていた。原稿を書こうと机に座ると、必ず煙草に火をつけた過去のイメージが浮かんで、何で止めなきゃならないのだろうと思ったりする。


1月10日(火)曇り時々雪

何だ!!これは? という現象が襲った。今日で完全禁煙を40日も断行していて、ここ数日間は煙草のことなど思いも出さなかったのに突然、堪えきれないような禁断症状が襲った。イライラして何も手につかない。



1月9日(月)富山・曇り

日記を書こうとした時、隣の家の屋根雪が落ちたのか、大きな音がした。ふと川端康成の「雪国」の一場面が浮かんだ。
芸者の駒子が日記を付けているのを知った島村との会話がある。

「日記をつけているの?」}
「ええ、芸者になる前の16の頃から・・・書くことがないときは読んだ本の題とか、作家の名前とか書いとくの」
「そんなものを書き止めといたって、しょうがないじゃないか」
「しょうがありませんわ」
「徒労だね」
「そうですわ」と、女はこともなく明るく答えて、しかしじっと島村を見つめていたという場面がある。

ここでの「徒労」という言葉が妙に私の頭に残っている。私のこの日記も徒労に過ぎない。徒労であるとわかっていながら書き続けている。それはあたかも、良寛が鞠をついて日々を過ごしたような行為に思えた。そんな無為とも思われがちな良寛の行為を<徒労>と思わなかった女性が居た。貞心尼である。
良寛のうわさを聞いて貞心尼は、自分で作った手毬を持って、良寛が晩年住んだ木村家を訪れた。しかし、良寛は留守であった。貞心尼は、手毬と下記の歌を残した。
 これぞこの仏の道に遊びつつ
    つくや尽きせぬ御法なるらむ   (貞心) 
 良寛の返歌は
 つきてみよ一二三四五六七八九十
   十とおさめてまた始まるを  (良寛) 


 
1月8日(日)富山・曇り

持つべきは友人である。友人の碑文谷創氏(雑誌『SOGI』の編集者)がブログで、私が言うべきことを見事に代弁して公開してくださっている。
「碑文谷創のはざまの日々」http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/ 参


有難いことである。碑文谷さんに感謝したい。


1月7日(土)富山・曇り時々晴れ

今年に入って、住所録の整理を始めた。30年以上も使っていた住所録の半分以上は赤線が引かれている。みんな亡くなってしまったのである。何年何月死去と記して赤線が引かれた故人に、金岡幸二、新田嗣治朗、田村四郎、前田実といった人たちの名や、兼久文治、津山昌、吉村昭、前田常作などといった名もある。みんな故人になってしまった。元気だった頃の顔を思い出しながら、お世話になったことなどを思い出していると、整理がなかなかはかどらない。
ふと「一日一万歩」を思い出し、富山郵便局駅前本局まで年賀状の返信五枚を投函するため歩いてゆく。郵便局まで行って富山駅周辺をぶらぶらしてくると五千歩になる。結局本日は6056歩であった。目標の60.56%達成。



1月6日(金)富山・曇り時々雪

銭湯へ行って体重を計ったら、12月末より5s増えていた。運動をしないで食べていたからである。今年の年頭の決意は
1)禁煙 2)暴飲暴食の禁 3)運動不足の解消 であった。1の禁煙はなんとか守っているが、2も、3も決意倒れになっている。運動不足解消のため1日一万歩厳守と定めたはずなのに2日などは年賀状を書いていて300歩しか歩いていない。300歩とは、トイレと台所へ行っただけである。年賀状を書いたとか、雪が降ったとか、理由にならない。明日から年頭の初心を実行することを再決意する。

今日届いた賀状の中に新潟の岩室温泉の女将・高島和子さんからの賀状があった。「今年の第35回全国良寛会は岩室温泉で開催されます」とあった。うれしくなってぜひ行こうと予定表を見ると、開催日の6月23日は茨城、24日は北九州・小倉と講演が入っていた。岩室温泉だから大阪の森正隆先生も来られるだろうなと思うと、至極残念!!



1月5日(木)富山・雪

明日は段ボールとか新聞、書籍などを出せる日。月に一度の紙の日が来るとそわそわする。どうしてこんな読みもしない本を取ってあったのだろうと思いながら10冊ほどずつに縛って2、3個出すのが習わしになっている。今月は整理しているうちに50冊となった。どれぐらい捨てれるか・・・・捨てて捨てて一切をなくした時、真実に出会えるかもしれない。当時日本一と言われた知識人・法然は「一枚起請文」に行き着いている。そういえばブッダやキリストは書籍など持っていなかった! !



1月4日(水)富山・雪

強い寒気団が空を覆っている。今日、明日は雪だという。窓際に雀が群がっている。暮れに窓の下に米ぬかを入れたバケツを置いたからである。妻は今日からディ・ケア。車椅子が通れるように除雪する。
午後から銭湯へ。湯船に浸かりながら、何もしないでボーっとしていること以上の幸せがあるだろうかと思う。



1月3日(火) 富山・晴れ時々曇り

早速、ホームページを訪れた方からメールを頂く。「文筆詩歌など詮無きことと本当に思っておられるのですか」と・・・・・
言葉足らずであった。若き日には思いもしない言葉であったろう。ただ、生にのみ価値を認める現代社会にあって、着陸態勢に入るべき年齢に達していながら水平飛行を続けているのはいかがなものかと思ったのである。秋の紅葉が美しいのは、気温変化に対応しているからである。ピンピンしながらコロッと逝きたいなどと嘯いていても、自我を是認して欲望と快楽を享受しているかぎり、要するに死を受容しないかぎり解決できない問題を水平飛行しながら夢見ているのである。
例にあげた良寛の父親・以南も、あまりよい死に方をしなかった。京都かどっかの川での入水自殺であった。死に様には生き様が投影される。いつの間にか我が国は世界でも屈指の自殺大国になっていた。政府が自殺対策室を作らざるをえない国になっている。にも拘わらず、戦後の近代文学の旗手たちは、ほとんど自殺である。太宰治、有島武雄、芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫、江藤淳・・・・なにかおかしいのではないだろうかと思ってしまう。言っていることとやっていることが違うのではないだろうか。才能は人格とは必ずしも一致しない。人格に欠陥があっても、太宰や三島の例をあげるまでもなく、才能が生んだ作品が評価されるのは世の常である。世の中に大きな影響を与え続けた人たちの生き方(=死に方)として、いかがなものかと思ってしまう。自死のほとんどは、娑婆の価値観の執着に依るような気がする。作家が自殺するのも、己が作家であることに執着しているからである。無我を前提とした仏教の視座に立てば、すべて詮無きことに過ぎない。金も詩歌も恋も、地位も名誉も詮無きものと思うなら、自死する要因がなくなってしまうだろう。道元は覚者の視点で「詮無きもの」と言っているのである。




1月2日(月)富山・曇り時々雨

昨年の暮れは年賀状を出せなかった。1日と今日届いた賀状300枚ほどの返信を書いていたら1日が過ぎていた。
銭湯へゆく。



1月1日(日)富山・曇り

くる年を見ながら、上記文を転送公開して寝る。
7時に起きて、雑煮を作る。10時オークスカナルパークホテルへ。恒例のオークス新春の集い。
お神酒で乾杯しただけで飲まなかった。昨年12月1日から禁煙をしていて、いつも酒の席で挫折するのが常であったので、今年こそと酒を控えた。
新太郎一家、祥子一家が孫たちを連れて訪れる。お年玉目当てである。孫たち4人がすこやかに育っているのがうれしく有難いことである。