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7月21日(金) 晴れ 37℃

37℃ 「富山が全国一」というニュースが流れている。暑い! 日陰に入っても蒸し暑い。インドを旅して、41℃であっても、日陰に入ると、絡みつくような暑さから逃れることができた。富山は湿度が高い。明日は暑さで全国一を競っている群馬県前橋市へ出講することになっている。どんなに暑くても、こうしてお声をかけて頂けることに感謝しなければならないと思いながら、先日なくなった日野原重明さんを思い出していた。氏は「生と死を考える会」の名誉会長をしておられ、全国各地の講演会場で3度もご一緒したことがある。一昨年もお会いしたが、私の前に演台に立った103歳の先生が立ったまま1時間熱弁されたのに驚嘆した。一瞬一瞬を全機現で生きておられる姿を見ながら自分も死ぬまでかんばろうと思ったものだった

7月20日(木) 晴れ 33℃


一日中、昨日の思索を反芻するように考えていた。そしてボタンの掛け違いは恐ろしい事だと思った。科学的合理思考や現象学などの視座に立って、仏典や関連文献を精読しても、言葉にとらわれている限り「光顔巍々』はわからない。道元が「心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ」と言ったように、体験でしか実感することができない不可思議の世界だからである。仏教はブッダの体験から生まれた教えである。親鸞の思想も「汝自当知(汝自ら当に知るべし)」との仏語を忠実に遵守して自らの体験から生まれたものである。ブッダの言葉とされる仏典や崇敬する高僧の言葉を勝手に変えれるものではない。しかし親鸞は自分が体験して実証され、それが真実であると確信す
ると、例えば善導の「自信教人信、難中転更難」に続く「大悲伝普化」を「大悲弘普化」と<伝>を<弘>に変えている。体験による確信がなければできるものではない。文献を重視する学者は、こんなことは絶対にしないし、できない。

体験をおろそかにして観念の知に偏重する近代教学の欠陥はここにある。親鸞教学を蘇生させようと思うなら、『教行信証』の<教巻>を著わされた親鸞聖人のお心に立ち返ることである。昨日の日記でも取り上げたが、お心を無視したからボタンの掛け違いが生じていることに気づかねばならない。そうした掛け違いの教学で育った僧侶たちは<自信教人信>が身に付かない。<自信教>がないから法が説けない。全てがボタンの掛け違いから始まっているような気がする。そのことに気づいても、今日ではボタンの掛け違いをしたまま支配的な教学として強固に定着してしまっている。私のようなはぐれ者がいくら叫んでも、引かれ者の小唄のようにみなされる。そんな虚しい気持で暑い一日を過ごした。

落ち込んでいるわけではない。なぜなら私には弥陀という強い味方があると思っているからだが、大いなる慈悲を持って人々を教え導くことは まことの仏の恩に報いるという<真成報仏恩>が十分できないのが悲しいのである。


7月19日(水) 晴れ

私が時々道元禅師のことを書いたりすることを、念仏者でありながらなぜ道元を語ったりするのだと、思っておられる方もおられるだろう。ごもっともであるが、私が道元の<生死の中に仏あれば生死なし>という言葉に出遇って言いしれぬ感銘を受けたからである。

この生死は、すなはち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に執着すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり。いとうこともなく、したふことなき、このときはじめて、仏のこころにいる。ただし、心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからもいれず、こころもついやさずして、生死をはなれ仏となる」・・・・・『正法眼蔵』(生死の章)

<南無>とか<帰命>とは、<わが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれる>ことであった。そして<仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆく>ことであった。まさに<他力>の思想ではないかと思ってから、道元に親近感を抱くようになったのである。

考えてみれば、あらゆる宗教の教祖で自力で覚った人はいない。ブッダも前正覚山での苦行では覚れなかったのであった。肋骨が見えるほどの苦行の途中で、ふらふらと正覚山を降りてきて村の少女(スジャータ)が差し出した乳粥を食べ、ナランジャー川を沐浴をして渡り、ブッダガヤの菩提樹の下で座禅を続けた明け方、明けの明星の光を浴びて覚られたとされている。空海も室戸岬の洞窟で光に出遇っている。その時目の前に見えたのは「空」と「海」だけだったので「空海」と名乗るようになったという。マホメットも洞窟で瞑想して居た時、光蝕をかぶり、光の啓示を言葉にしたのが「コーラン」とされている。天理教の中山みきも大本教の出口なおなども光の啓示によって教祖となったのであった。

私が何を言いたいのかと言えば、どんな業であれ自力は方便(方法論)の域を出ないと言いたいのである。只管打坐であれ千日回峰行であれ、念仏行であれ、一切の諸行は、<わが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからもいれず、こころもついやさずして、生死をはなれ仏となる>為のスタートライン、即ち如来に受け入れてもらえる条件を満たすための方便(手段)に過ぎないということである。親鸞はそのことに気づかれて『教行信証』の第一巻の「教の巻」で、釈尊が三昧に入られて仏仏相念された証として「光顔巍々」を取り上げておられる。このことは、結論を簡潔に先に述べ、後はその理由を長々と述べる裁判所の判決文のような書き方である。「正信偈」の冒頭は「帰命無量壽如来・南無不可思議光」と結論があって、後が続くといった具合である。親鸞自身がその遇斯光に出遇って、その<証>は<信>へと導き、<信>は<行>をうながす、そうした宗教体験を自らがなさった確証の上で、教の巻を構想し書かれたことを意味する。そしてこの<教え>もまた如来から賜わった<教>であると。大寂定にいりたまひ 如来の光顔たえにして 阿難の恵見みそなはし 問斯恵義とほめたまふ」と親鸞は、あたかも「善きかな親鸞」と釈尊にほめられているかのように和讃しておられる。

奇妙なことに、近代教学と称する学者さんたちの『教行信証』の解説書には、ほとんど「教の巻」については詳しく取り上げられていない。どの解説書を読んでも無視されたように素通りされている。中には「論理的な親鸞にして、ここでの親鸞の立証の仕方は意外である。正面から論理的に説かれていない。奇妙な立証の仕方である」と首をかしげたりしている学者もいる。論理的に説明が出来ないから「不可思議光」と言われたのに。極論を言えば、教の巻は遇斯光体験をした者だけが実感としてわかる世界である。あろうことか体験どころか信もない学者が、二種の回向(往相回向・還相回向)について語ったりしている。二種の回向の因であり果である<証し>が「光顔巍々」であることさえわかっておられるのか疑わしいのである。近代教学の致命的なアキレス腱が、ここにあるような気がする。親鸞は、<光顔巍々>の弥陀の光明、即ち<遇斯光>を窮極の依り処にして帰命せよと和讃しておられる

 清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依に帰命せよ


7月18日(火) 晴れ

四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たるもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め」

これは原始仏典「スッタニパータ」にあるブッダの言葉(中村元訳)である。私はここ2年間東本願寺出版部が発行する『同朋』という雑誌に「私の親鸞探訪」と題して連載してきた。先月の6月号で24回で終了したが、親鸞聖人の足跡を辿っているうちに、このブッダの言葉が何度も浮かんだ。まさに、このブッダの言葉通りに歩かれたような気がした。
念仏停止の法難に連座し、越後への流罪となり、<諸々の苦難に堪えて>生死出づへき道をただ一筋に歩かれた。稲田の草庵での山伏弁円の法難も<害心あることなく>対処された。もし害心があれば弁円に殺されておられたことだろう。宮沢賢治が『雨二モマケズ』で「ソウイウモノ二 ワタシハナリタイ」と言ったのは法華経に登場する常不軽菩薩である。賢治は<ナリタイ>と願望して手帳に書き、隠し持っていた詩であったが、結局賢治は成れなかったが、この菩薩は人をみると「私はあなた方を尊敬して決して軽くみることはしない。あなた方はみな修行して仏陀となる人々だから」といい,人々にはずかしめられ打たれると,その場を逃げ,離れた場所から再び同じ言葉を繰返したという。ここにみる<あなた方を尊敬して決して軽くみることはしない>というのはインドの挨拶の言葉「ナマステ (サンスクリット語: नमस त , namaste) 」を意味する。今日でも、ガンジーが「インドの魂は農村にある」と言った貧しい農村などへ行くと、私のような外国人に向かって、合掌しながら「ナマスティ」と言って近づいてくる裸の子供たちをよく見かける。追っ払っても、離れた処で合掌して、「ナマスティ」と言っていた。

親鸞は、60歳で上洛されてから90歳で入寂されるまでの30年間、<犀の角のようにただ独り>歩かれた。慕ってくる人を同朋とみなし、弟子とはみなされなかった。組織を作ることもなく、伽藍を建てることもせず、<何でも得たるもので満足し>『教行信証』を推敲したり「和讃」を作ったりして、滋光射す清風宝樹の林道をただ独り歩かれた。ブッダの教訓を忠実に遵守して自利利他の白道を犀の角のようにただ独り歩かれた。私は言いしれぬ感動をもって「私の親鸞探訪」を書き終えたのであった。そして、私も<犀の角のようにただ独り歩いて行こう>と、あらためて決意したのだった。


7月17日(月) 曇り時々晴れ間

昨日の日記の婦人の方から礼状のようなメールが届いた。私の言葉が、人が安心して生きてゆく為のきっかけになったとしたら、うれしいことである。

私は、昨日のメールを返信してから、ずーっと「「法然は、南無阿弥陀仏と、声に出して念仏することで救われるとした。一方の親鸞は、南無阿弥陀仏と念仏する心、すなわち阿弥陀仏が救ってくれると信じる心をもつことで、救われるととした。それが二人の違いである」という学者の見解について考えていた。考えているうちに、学者さんたちはなぜ違いをとりあげ、そのことを強調するのだろうかと思った。例えば法然が「得たる心地をして念仏申す」と云うことは、生死即涅槃の境地にあって念仏三昧していることにほかならない。<生死即涅槃>を証知するには、<惑染凡夫>が<信心発>しなければならない。<信心発>とは、<弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもいたつこころのおこること>である。法然の念仏も、絶対信の上に成り立っているのであって、信がなければ「得たる境地」などに至ることなどありえないのである。法然は「もろこしわがてうにももろもろの智者たちのさたし申さるる観念の念仏に非ず」と一枚起請文で明言しておられる。にもかかわらず、「法然は南無阿弥陀仏と声に出して念仏することで救われる」と、仏教知識の十分でない人には、信のない口称念仏であるかのような印象を与える。親鸞は自分で宗派を創ろうなどとは微塵も思っておられなかった。師法然の説く「念仏為先」の真実を証明するために、法然が言葉足らずにされたところを補われただけである。そのことは「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」という親鸞の言葉にみることができる。
己に信のない学者さんたちが法然と親鸞の違いを強調すればするほど、宗派にとらわれた我田引水の見解のように思えてくる。宗派であれ、宗門であれ、自門にこだわり、とらわれの心があっては真証の証に近づくことなどできない。
そうしたこだわりの心やとらわれの心も三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)と変わりないからである。「人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべし」と親鸞聖人自身が自戒しておられた。

見知らぬ人からの一通のメールでいろいろ考えさせられた。感謝したい。


7月16日(日) 晴れ後曇り時々雨

最近、何か考えていると、それに関連したような事が起きる。偶然も度重なると不思議な気がしてくる。
今日も、パソコンの前で、ある仏教学者の本をぺらぺらとめくっていたら、「法然は、南無阿弥陀仏と、声に出して念仏することで救われるとした。一方の親鸞は、南無阿弥陀仏と念仏する心、すなわち阿弥陀仏が救ってくれると信じる心をもつことで、救われるととした。それが二人の違いである」とあった。なるほどと思って読んでいた時、メールが届いた。私のパソコンはメールが届くと音で報せてくれる。

知らない方からであった。私のHPにメールアドレスを公開してあるから、時々いろんな人からメールが届いても不思議ではない。真宗門徒の79歳の婦人で、その文面から熱心な念仏者とお見受けした。少し長い手紙のような文であるので割愛するが、要点は「お寺にも聴聞に通い、念仏を続けているが安心の心が頂けない」ということを綿々と綴ったものだった。そして「このまま続けていて本当に安心が得られるものでしょうか」と問われているようであった。返信しようか迷っていたが、文面から真摯な人柄が感じられたので、次のような文を返信した。

ごもっともなことです。念仏者であれば誰もが経験することです。親鸞聖人が法然上人の門下に入られたのは29歳でした。その時法然上人は70歳近くで、既に「得たる心地して念仏申す」といった境地にあって念仏三昧の日々を過ごしておられました。巷では「法然生き仏」という声も聞かれ、そんな上人を一目見ようと貴賤を問わず多くの人が吉水へ参集されていました。若い親鸞にとっては「どうしたらあのように成れるのだろうか」と思われたにちがいありません。比叡山・横川の念仏三昧堂での苦行(念仏を称えながら阿弥陀像の周りを24時間九日間回り続ける荒行)も経験し、念仏を称え続けているのに師法然のような<得たる心地して念仏申す>といった安心の境地になれない。貴女様と同じ疑問を親鸞聖人も抱えておられたのです。その疑問を解くのに30年の歳月を要されたのでした。その30年も念仏停止の法難による流刑や還俗させられたための生活苦など多くの苦難を伴ったものでした。やがて常陸の稲田の草庵で病に伏され四日間高熱の中で眼前に「大経」の<経の文字の一字も残らず、きららかにつぶさにみゆる>体験をされ、「名号のほかににはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするや」(恵信尼消息)と気づかれたのでした。親鸞聖人59歳にして師法然の<得たる>境地に至り、金剛信を獲て他力本願の念仏が確立された瞬間であったと言えるでしょう。私が30年といったのは、他の学者さんたちと違う見解かもしれませんが、親鸞聖人でさえ「名号のほかになにごとの不足にて」と気づかれるまで29歳から59歳までの30年の歳月が必要とされたと言いたかったからです。親鸞聖人は言っておられます「真実の信心を得れば、必ず名号を伴う」と。わかりやすく言えば、幼い子供は母親を絶対的に信じています。信じているから人混みで母親と離れて不安がよぎった瞬間に「おかあさん」と叫びます。「おかあさん」は子供にとっては名号です子共はこうした理屈を知って「おかあさん」とさけぶのではありません。自ずから口を突いて出るのです。

 子の母をおもふがごとくにて 衆生仏を臆すれば 現前当来とおからず 如来を拝見うたがわず・・・・・親鸞和讃

どうぞ、子の母を思うがごとく念仏をお続けなって下さい。遠からず必ず安心の境地が頂けますから   合掌 青木新門



7月15日(土) 晴れ 36℃

今日は、映画「剣岳・点の記」で知られる剣岳(2999m)の全貌が見える上市町へ出講した。晴れた日は剣岳を目指して車を走らせば到着する。以前は県内の講演は自家用車で出向いていたが、老化現象を自覚するようになり免許書を返納してから、送迎をしてもらうようになった。今日は上市町の職員の方に送迎してもらった。

主催は上市町福祉課地域包括支援センターで、定員は100人とあったが、会場の「つるぎふれあいセンター」の研修室は120人ほどの人で満席であった。1000席の会場で300人ほどの参加者だと淋しい気がするが、100人ほどしか入れない会場で満席だと熱気を感じるから不思議である。また、100人前後の聴衆の前で話すのが一番話が伝わる。聴衆の顔を見ながら2時間話した。私はお寺での講演以外のこうした会場では、仏教用語を一切用いることなく<仏教の心>を話すことにしている。みんな頷いて熱心に聴いておられた。私は過去20年間に2000回ほど講演をしてきた。その2000回の講演の演題を一度も変えることなく「いのちのバトンタッチ」としてきた。体験によって得た真実はぶれない。如来によって摂取された不退転の<信>だからである。

講演終了後、会場の入り口に地元の野菜を販売していた。キュウリなどはスーパーにあるものと違ってねじ曲がっていたが、キュウリもトマトもそれそれが新鮮な香りを発しているように感じた。その香りに誘われるように、キュウリとトマトと茄子を買って、職員の方に自宅まで送ってもらった。


7月14日 晴れ 36℃


安倍晋三首相が中国の習近平国家主席と会談した際、核・ミサイル開発を続ける北朝鮮への制裁策として石油輸出の停止を要請していたという。もしこの要請に対して「あなたの国が過去に欧米から石油を止められて真珠湾攻撃をしたのを憶えていますか?」と習主席に言われたら、総理はどう答えただろうと思った。窮鼠猫を噛むという。人間も追い詰められると何をするかわからない。北朝鮮の国民がミサイル打ち上げの成功を涙を流して喜んでいるニュースが流れた時、私は戦艦大和が進水した時、日本国民が欧米に勝ったかのごとく涙を流して提灯行列をしていたのを思い出していた。

昨日の日記で長々と書いたのは、今日の世界は「生の哲学」で成り立っている。死を排除した「生の哲学」は三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)を生む元凶だから、「生死の哲学」へシフトすべきだと言いたかったのであった。西洋には<生死>という言葉も概念もない。その西洋の科学的合理思想で科学技術が発達したのは事実たが、科学の進歩と共に世界各地に核やミサイルが生まれてしまった。後はボタンを押すだけとなっている。ボタンを押すのは人間である。その人間が、三毒に冒された惑染凡夫であれば、抑止力などという言葉もあてにならない。人間は痛い目に遭わないと真理に気づかない。それを愚痴という仏教は<生死>の哲学で成り立っている。私は、ほんとうの抑止力は無我を前提にした生死の哲学(仏教)しかないと思っている。しかし、人々は「平和」を口にし、「世の中安穏なれ」と言ったりしているが、信のない愚痴の身で叫んでいる人が多いのが気になる。「世の中安穏なれ」が一人歩きをし、スローガンと化して虚しくはためいている。

往生を不定におぼしめさんひとは、まずわが身の往生をおぼしめして御念仏を候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために、御念仏こころに入れて申して、<世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ>とおぼしめすとぞ、おぼえ候ふ」ー親鸞聖人御消息(25) 

親鸞は、まず信を獲り、己の愚痴に気づき、正定聚となって往生一定の念仏者として「世の中安穏なれ」と言うべきだとおっしゃっている。 

<惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃> 涅槃は安穏の世界、即ち平和の世界である信を獲らなければ、ほんとうの平和主義者とは云えないということでもある。


7月13日(木) 曇り時々雨

私は<個体の死があるから類の存続がある>と思っている。これは私の思想の根幹となっていて、こだわりともなっている。映画「おくりびと」の原作者であることを辞退したのも、このこだわりであった。あの映画は「ヒューマニズム(人間愛)」を基盤にして作られていて、私が著わした『納棺夫日記』の意図を無視して作られていた。要するに生死一如を説く仏教を無視して<生の哲学>で創られていたからであった。仏教は死を受容して乗り超える力がある。個体の死があるから、環境変化に対応して類としての生の存続が可能となるのである。マンモスが滅び微小生物が生き残ったのは、生と死の回転が速かったからという学説もある。風邪のウイルスが人間(薬)とイタチごっこを繰り返しながら生き残るのも生と死の回転が速いからだという。また、自然界が常に生き生きしているのは、それぞれの生物が平均して寿命の50%の余力を残して死んでいるからだという。人間も人生50年という時代が長く続いていた。明治維新が生き生きして見えるのも、旧来の価値観にこだわる50歳以上の老人たちが退いて、黒船来航という環境変化に20歳代の若者が対応したから乗り切れたのかもしれない。

武者小路実篤は「人間愛」を基盤に「我々は死ぬのは嫌いであるが、奴隷のごとく生きるのを喜ばない」と、主義思想、制度、人間関係、金銭、物等に縛られることを嫌い、全てから自由であることを理想に掲げ、新しき村についても「新しき村は協力の村であるが、同時に独立の村である。われらは他人に支配されることを嫌うものである」と述べている。その「新しき村」を読んだ毛沢東は「人民公社」を作るヒントにしたとも言われている。しかし私は、「我々は死ぬのが嫌いであるが」という言葉に人間中心の我執を感じ違和感を覚えるのである。<人間愛>であるかもしれないが<人類愛>ではない。法華経を信奉した宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と菩薩の心で人類愛を高らかに歌って理想郷(イーハートーヴ)を創ろうとしたが、すぐに空中分解してしまった。父親政次郎との軋轢の中から生まれた観念の理想郷であった。観念の理想郷へのこだわりは、<この世の事象は移りゆくものである>というブッダの言葉「諸行無常」の現実と乖離が生じて、それこそ移りゆく事象と共に消えざるをえなくなる。

禅語の「日々是好日」という言葉を実篤は好んで色紙などに書き残しているが、「生から死へ移るとこころへるはこれ誤りなり」と言い「生死の中に仏あれば生死なし」と看破した道元の心がわかっていない。この<生死一如>がわかっていないということは仏教がわかっていないということでもある。我々は本来<生死>を生きているのであって、生と死を別けて、生から死へ移ると死を排除して、人間に愛さえあれば宗教などいらないと思っている人が多い。しかしそうした人は死に対して常に不安を感じて生きる生き方となり、「日々是好日」などあり得ないだろう。

この日記を書いている時、偶然、9月に新潟・魚沼である「地域包括医療研究会」の全国大会で講演する抄録のゲラ原稿がメール添付で届いた。講演の案内書に載せるのだから、そのまま転記する

私は、ひょんなことから葬儀社に勤め、死体をお棺に納める湯灌・納棺の作業を専業にしていた時期があ りました。当時は全国的にも自宅死亡がほとんどでした。ですから、遺体の処置、即ち湯灌・納棺は自宅で 親族のもので行うことが慣わしとして定着していました。にもかかわらずそうした作業に関わることになっ たのは、手伝わざるを得ない家があって、手を貸したのがきっかけでした。何件かお手伝いしているうちに、 口伝てに評判となり、「納棺夫」と言われるようになってしまったのでした。  「納棺夫」という言葉は、わが国にはありません。だから辞書にもありません。例えば農夫とか水夫というと、 それは職業を意味する用語であって、納棺を業とする職業はわが国にはなかったのでした。今日では映画「お くりびと」などが世に認められたこともあって「納棺師」という言葉が定着していますが、当時は死に関わ る仕事をしただけで、社会全体から白い眼でみられるような雰囲気がありました。親戚から「親族の恥」と 罵られ、妻からも「穢らわしい」と言われたことがありました。幾度も辞めようかと思いながら続けている うちに、いろんな事件に出会い踏み留まるのですが、やがて人は死を忌み嫌い恐れているが、死そのものを 怖れているのではなく、死によって生じる付帯物、いわゆる死骸を見て恐れているのだと気づきました。古 事記や日本書記に「黄泉の国は蛆の湧く不浄な世界」と記されたのは、皇位継承の殯の風習から死体の腐乱状態を見た死のイメージにほかならないと思います。延喜式などでは「死穢」と称して法制化までして忌み嫌っ てきました。死者が出れば「忌中」という紙を貼り、火葬場から戻れば「清めの塩」で浄めるのも、大相撲 で塩を用いて土俵を清めるのも、全てイザナギノミコトが黄泉の国から戻り海水で禊ぎをした神話を起源と してわが国の人々は習俗や文化として継承してきたのでした。  超高齢化社会における包括ケアには、この死の問題を避けて通るわけにはいかないと思います。死の実相 を正しく認識することで安心して死を迎えるヒントになると思います。本日は、納棺の現場で生まれた私の 詩「いのちのバトンタッチ」をテーマに現場の体験を交えてお話させて頂ければ幸いです。
 人は必ず死ぬのだから  いのちのバトンタッチがあるのです  死に臨んで先に往く人が  「ありがとう」と云えば  残る人が「ありがとう」と応える  そんなバトンタッチがあるのです  死から目をそむけている人は  見損なうかもしれませんが  目と目と交わす一瞬の  いのちのバトンタッチがあるのです

私の「いのちのバトンタッチ」という詩は、納棺の現場の体験から生まれたのだが、親鸞聖人が『教行信証』の後書きに引用された道綽禅師の「安樂集」の「前(さき)に生まれんものは後を導き、後に生まれん人は前を訪へ、連続無窮にして、願わくば休止せざらしめんことを欲す」という言葉に出遇って、うれしくなって公表したものである。


7月12日(水)  雨

腰痛が治ったと日記に書いたら、多くの方から「よかったですね」とお言葉を頂いた。有り難いことである。まずお礼を申し上げたい。

腰の痛みがとれただけで、どうしてこんなに晴れ晴れとした気持ちになるのだろうかと思ってしまう。痛いときは何もする気がしなかった。半身不随の妻への食事も、冷蔵庫にあるものを皿に入れるだけのもの、例えば納豆、冷や奴、キムチ、海苔、佃煮などで食べてもらった。自分は朝は飴一粒と抹茶一杯、昼は播州のお寺から頂いた揖保素麺、夜は妻と同様なものを少々といった食事でこの3日間済ましてきた。

今日の夕食は、料理を作る気力が出てきたので、妻が好む野菜の天麩羅をした。冷蔵庫にカボチャ、茄子、サツマイモ、人参、玉葱があったのを処分する為にも全て使った。残ってもそばや素麺に添えて食べてもよいだろうと、多すぎるほど作った。(昔、母の店を手伝っていた頃、揚げ場にいたので、包丁さばきは下手だが、とんかつとか天麩羅といった揚げ物は得意である)
盛り付けて妻の前へ出すと、にっこり微笑んで、うまそうに食べていた。私も<健康は有り難いな> と実感しながら食べていた。食べながら、無漏路(彼岸)に向かうには<念仏に勝る善はない>が、有漏路(此岸)にあっては<健康に勝る善はない>と思った。


7月11日(火) 晴れ 39℃

今日の富山は、日本一の39℃の猛暑となった。絶えきれなくて書斎を閉め切って、冷房(27℃)を入れて仮眠した。1時間ほど眠ったのか、目覚めて立ち上がって驚いた。腰の痛みが和らいでいた。
ここ4、5日歩くのも辛かった腰痛は何だったのだろうと思った。昨日鍼灸院で針をしてもらったが、効果はなかった。どうして治ったのだろうかと思った。暑さのせいだったのだろうか。それともここ4、5日便がなかったのが、今朝排便できたからだろうか。昨日、今日と、食欲がなく、播州のお寺から頂いた揖保素麺だけで過ごしたからだろうか。それにしても、不思議である。今回の腰痛も、いろいろな要因が重なった極度の疲れが原因だったのかもしれない。とにかく腰を曲げて歩いていたのが、背を伸ばして歩けるようになったのである。よくわからないが、わが体の治癒力に感謝したい。

私は自分の体の自覚症状をヤブ医者のように勝手に判断してしまう癖がある。ヤブ医者の語源は、「藪をつついて蛇を出す」(余計なことをしてかえって事態を悪化させてしまう)といいう例えから名づけられたらしいが、勝手な思い込みや余計なことをして事態を悪化させることが多かった。動物は体調を崩すと食べなくなるそうである。断食して自然治癒力に委ねるのである。そして死期を覚ると完全に食も水をも断ち、一週間ほどで死を迎えるのだという。自然界の生きものは、 まさに即身成仏を目指す求道者である。親鸞も「自然(じねん)即ち弥陀の国なり」(「教行信証」真仏土巻)と言っておられた。であれば自然治癒力は無量寿如来の働きにほかならない。如来に身を任せているのだから、藪をつつっくのは止めようと思った。報恩感謝の念仏を称えていればよいのであった。


7月9日(日) ~10日(月) 晴れ

腰の痛みがとれない。日曜は近くの鍼灸院も休みである。一日中部屋で寝たりベランダで寝たりしていた。こうして寝ようと思えば寝ておれる幸せにを感じながら寝ていた。しかし寝てもだいたい2時間ほどで目が覚めるようになったのは80歳になってからである。そして目覚めるとトイレに向かう。尿をもよおすから目覚めるのか目覚めるからしたくなるのかわからないが、それが習性となっている。

学校に行っている時や会社勤めをしている時は、6時間以上を熟睡するのが正しい睡眠の取り方だと信じていた。しかしそれは、人間が社会生活を送るために誰かが言い出した暗示に過ぎないと思うようになった。猫や犬、人間の幼児などをみていると、いつ寝ていつ起きるなどと決めて寝起きをしているのではなく、その個体によって異なるが、眠たくなれば寝て、目覚めれば起きているように思える。オシメの取り替えは平均で日に12回というから、2時間置きと言うことになる。そうした幼児還りも高齢者の自然(じねん)の姿であろう。そして頻尿は病気ではないと思うようになった。頻尿であろうと痴呆であろうと病名をつけなければ医療保険の対象から外されるからではないかと勘ぐりたくなる。

人間は<何かの為に>と行動すると、ろくなことをしかねない。国家の為にとか、会社の為にとか、金や地位や名誉の為とか、とかく何かの為に<こうあるべき>といった暗示にかかると、必ず自然(じねん)から外れ、行き過ぎ行為をしてしまう国家の為なら死もまた美化され{それ征け、どんどん」と若者を戦場へ送ることだって正当化される。熊本の水俣病も富山の神通川のイタイイタイ病も、国家の為、戦争の為、経済戦争に勝つために増産優先に弊害が生じることなど無視して推進した結果の惨事であった。電通の「鬼十則」の「振り回されるな、振り回せ」という社是は、その暗示に乗せられた女子社員が他者を振り回すどころか自分が振り回されて過労死したのであった。

私は今では、2時間睡眠を逆手にとって、食べて寝て、小便をして寝るのを2時間間隔の生活習慣にしようと思っている。講演も2時間。電車に乗っても、東京まで2時間、京都まで2時間余り、そのほとんどは寝ているわけで、下車五分前ほどに小便をして、下車すれば喫煙ルームで煙草を吸う。煙草も2時間に一本と、家に居る時も1時間に一本と意識しながら厳守するようにしている。すると1日10本前後で納まるようになった。1日10本を人に迷惑がかからないようにして死ぬまで吸い続けるつもりでいる。1日三箱も吸い濛々とした煙の部屋に閉じこもり、何かに急き立てられるように創作活動を続け、肺癌で亡くなった作家の井上ひさし氏の愛用した灰皿を私は持っている。元妻の西館好子さんに「煙草はやめられたほうがいいわよ」と言われて頂いたものである。人いろいろである。肺癌にならないようにと禁煙した知人がイライラして胃癌になって死んだ。作家の吉村昭氏も、最後まで煙草を吸っていた。「妻の節子が嫌がるから、庭に別棟の書斎を造ったのだ」という吉村さんと二人でその書斎で煙草をぷかぷか吸っていたのを思い出す。氏の死因は、舌がんの転移による膵臓癌であった。私の場合は開き直りだが、食べ過ぎ、飲み過ぎ、やり過ぎなど、行き過ぎを避ければよいのだと思っている。後はあなた(如来)任せで「死ぬるときは、死ぬるがよかろう」と思っている。世の中には暗示にかけて旗を振る悪い奴がいて、その暗示に乗せられると、行き過ぎ現象が生じる。安倍総理の「国民総活躍社会」などという暗示には乗らないことにしている。仏教は<小欲知足>を説<中道>の教えであった。


7月8日(土) 晴れ

今日は、奈良県桜井市の市民会館で講演。家を6時30分に出て、奈良の櫻井駅に着いたのは12時であった。数日前から腰が痛いのに、5時間半の移動は疲れる。急に暑くなったせいでもある。
櫻井市主催の人権啓発の一般公開講演会で、行政が主催する人権の講演会は集まりが少ないのが相場だが、そのつもりで会場に入ったら、1200席の大ホールが8割方埋まっていた。1000人の前で話すのは、久しぶりで、腰の痛みも忘れて立ったまま真剣に90分話した。終了後大きな拍手を頂いた。1000人の聴衆に話が伝わったのがうれしかった。奈良県市長会会長の松井正剛市長が控室まで来られ、大変よろこんで頂いた。昨年死亡された奈良県の大物政治家奥野 誠亮氏の納棺に立ち会われたらしく「あの時は感心しました」と言って、お礼を言われた。東京の納棺師がしたわけで、私がしたわけでもないのに、なぜお礼を言われるのかわからなかった。
桜井には花の寺で有名な長谷寺がある。以前訪れた時は牡丹が咲いていた。立ち寄ってみたい気持ちはあったが、そんな元気は残っていなかった。今どんな花が咲いているのだろう、紫陽花だろうか、などと後ろ髪を曳かれる思いで桜井駅まで送ってもらい帰路に着いた。電車に乗ってからも、近くに温泉宿も多くあるから、体を休めて花を見て帰ろうかと思ったりした。そうこうしているうちに京都駅に着き、サンダーバートに乗り継いで車中にあった時、ふと西行の歌が浮かんだ

 花に染む心のいかに残りけん 捨て果ててきと思ふわが身に  

平清盛と同僚であった北面の武士(超エリート職)を捨て、女房子供をも足蹴にしてまで出家したつもりだったのに、まだ花に心を奪われていると西行は悲嘆している。「悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑しで、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、恥ずべし、痛むべし」と言った親鸞の悲嘆に通底しているような気がした。花の美しさを否定しているのではない。花は美の天才アーティストである。お二人とも<色即是空>とわかっていながら、花(色)にとらわる<恩愛不能断>の我執を放れ<棄恩入無為>に転入できないことを悲嘆しておられるのであった。
そういえば、桜井は「能」の発祥地ともいえる芸能の里であった、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と、世阿弥もその著「風姿花伝」の中で言っている。全てをさらけだしては美にならないと言うことだが、ブッダが不問とした死後の世界のすれすれの処で幽玄の美を成り立たせている。しかし人間の創る芸術の世界は所詮方便化身土であって、真仏土ではない。芸術と宗教とには<かはりめ>がある。道元はそのことを明確に指摘しておられる。

無常迅速なり 生死事大なり
しばらく存命の際(あいだ) 業を修し学を好まば
只仏道を行じ 仏法をまなぶべきなり
文筆詩歌など その詮なき事なれば 捨つるべきは道理なり 
   ・・・・・『道元禅師随聞記』

そんなことを思ったりしているうちに眠ってしまった。終点の金沢で車掌に起こされて目が覚めた。北陸新幹線の「つるぎ」に乗り換え、帰宅したのは9時だった。


7月7日(金) 快晴

久しぶりの快晴。日向ぼっこをしながら庭のもみじを見ていた。新芽の時、見事な紅色であった赤もみじが緑色を加えくすんだ葉となった。そして、一本の同じ木の葉が一枚一枚色も形も違うことに気づいた。葉をつけた場所や日当たりの加減などいろいろな条件によって違ってくるのだろう。それぞれがそれそれの個性を表わしてそれぞれの働きをしながら一本のもみじの木として存在している。木の大きさほどの根を大地に張り巡らせ、水や栄養分をくみ上げ、葉は空気中の二酸化炭素を吸収し、新鮮な酸素を放出しながら、一億五千万キロ離れた太陽から届く光エネルギーを使って水と空気の二酸化炭素から炭水化物を合成して生きている。しかも存在するだけで、酸素を必要とする生きとし生けるものの命を支えている。常に自利利他を生きている。庭にある一本のもみじの木も宇宙と地球の大地と関わって生きている。関わらなければ生きていけない。人間も天空と大地を無視しては生きておれない。わかっていながら人間は、天空を汚し、大地を傷つけてきた。にもかかわらずまだ悪業に懲りないのか、核弾頭を造り、弾道ミサイルを造り、「俺が俺が」と競い合っている。

樹木は、日々変化している。環境変化に対応して生死一如を生きている。目の前の青もみじも赤もみじも、晩秋には温度変化に対応して見事な紅葉と化すことだろう。そして良寛の辞世の句のように「(死)を見せ、表(生)を見せて、散るもみじ>と散るであろう。自然界は<生死>を生きているから常に美しい。春の新緑は美しい。夏の緑も美しい。秋の紅葉もなお美しい。冬の木立も美しい。だが人間は、青春は美しく、老は醜悪で、死は忌み嫌うものと思って生きている。中には「ピンピンしながら、コロッと死にたい」などとうそぶいている人もいる。人間は宇宙の摂理に逆らって生きてきたし、今も逆らって生きている。親鸞は<自然(じねん)即ち如来なり>と言っておられた。自然(じねん)に逆らうということは、如来に逆らって生きていることにほかならない。庭は方便化身の浄土である、樹木はその円満徳号である。そう思ったら、もみじに向かって手を合わせ、早速感謝を込めて写真を撮って表紙を替えた。

 七寶講堂道場樹 方便化身の浄土なり 十方来生きはもなし 講堂道場禮すべし・・・・・親鸞和讃



7月5日(水) ~6日(木) 曇り後晴れ

ああ、もうやめよう。<自信教人信>の感じられない著者の仏教解説書を読むのはやめよう。自信教人信のない著者の書物にはその行間に懺悔も讃嘆も感じられないから、この著者は<信>がないということがすぐわかる。親鸞の『教行信証』は、その九割ほどは仏典や菩薩と称されるほどの高僧の如来の真実の言葉を引用された文で、残る一割ほどが親鸞の生の言葉であるが、そのほとんどが懺悔と讃嘆である。

親鸞の文章には至る処懺悔がある。同時にそこには至る処讃歎がある。懺悔と讃歎と、讃歎と懺悔と、つねに相応じている。自己の告白、懺悔は内面性のしるしである。しかしながら単なる懺悔、讃歎の伴わない懺悔は真の懺悔ではない。懺悔は讃歎に移り、讃歎は懺悔に移る、そこに宗教的内面性がある。親鸞はすぐれて宗教的な人間であった。懺悔と讃歎とは宗教の両面の表現である・・・三木清『親鸞ノート』

それにしても親鸞の妻・恵心尼という方は、立派だと思う。僧侶が妻帯するのならこういう方を娶るべきだと思う。もちろん親鸞と出遇って過ごされたから、こんな的を得た手紙が書けたのは言うまでもないが、すごいと思う。恵心尼が娘・覚信尼に宛てた手紙で、「衆生利益のためにとて、よみはじめてありしを、これはなにごとぞ、<自信教人信、難中転更難>とて、みずから信じ、人を教えて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかになにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと思い返して、よまざりことの、さればなほもすこし残るところのありけるや、人の執心・自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなおしてのちは、経をよむことはとどまりぬ」(と親鸞が言っておられたと述べ) さて臥して4日と申す暁、<まはさてあらん>とは申すなりと、仰せられて、やがて汗垂りて、よくならせたまひて候ひなり、とある。

親鸞の他力思想が確立した瞬間を見事にとらえている。稲田の草庵で四日間も高熱で伏され経の一字一句が光って眼前に顕われた臨死体験に近い夢体験をなさって目覚められた時のことであった。ここでいう<自信教人信 難中転更難>の後に<大悲伝普化 真成報仏恩>と続く善導大師の「往生礼讃」に出てくるのだが、親鸞は『教行信証』で<大悲伝普化>を<大悲弘普化>と<伝>を<弘>に書き換えておられる。大悲を伝えて布教するのではなく、大悲が弘く布教するのである。それが<自信教人信>の姿であり、大悲(光明)と名号が一つに融合した他力本願の行証の証(あかし)である。その<伝>が<弘>に転化した瞬間を恵心尼の手紙から読み取ることができる。我もまた、名号のほかになにごとの不足ありて、自信教人信もない学者の解説書などを読まんとするや、改めて恵心尼さんの手紙を読んで、三毒を身に纏い、いまだに自力を脱することができない自分であることに気づかされたのであった。


7月4日(火) 雨

昨日の日記で、近代の親鸞教学をリードしてこられた大先生方に対して、一介の在家念仏者が僭越にも辛辣な発言したものだと思った。ブログを覗かれた方で、そう思われた方もいらっしゃると思う。facebookの「いいね」が少なかったのも、そう思われたからに違いない。しかし敢て言わしてもらえば、学者先生方が、なぜ、こんな文言の解釈に拘られるのだろうと思うからである。

『誤解された親鸞の往生論』で小谷信千代先生がテーマとしておられるのは、「即得往生」は現世での往生なのか臨終時の往生なのかという問題であった。十八願の「乃至一念、即得往生」という語を文字通りに理解して、信の一念で即時に、要するに現世で往生するものと解釈する「現世往生説」を信奉する星野元豊や信楽俊麿、曽我量深、本多弘之等をとりあげ、彼らは「即得往生」を誤解していて、「臨終まつことなし」ということを「臨終で往生するのではない」と解釈している。それに対して「即得往生」とは、「往生」が即得されるのではなく「正定聚・不退転」が即得され、往生は臨終時に定まるのだとする立場の存覚や江戸期の学者たちや金子大栄などの言葉を援用して「臨終往生説」を主張しておられるのであった。

私はこうした語句の解釈を誰がどう言ったかという文献を観念的に比較検討をしていても真実に出会えるだろうかと思ってしまう。私が納棺の現場で、3000体の死者の死顔を見ているうちに気づいたことは、安心したような柔和な死顔があるかと思えば、目を背けたくなるような醜い死顔があることに気づいた。人は喜怒哀楽が顔に顕われるように、すーっと息を引き取る生と死が交差する生死一如の瞬間にほっとしたような安心の顔になる。ただ、それが死体の硬直と共に変化して、すぐ醜い顔になる人といつまでも柔和な安心の顔が続く人がみられた。柔和な安心の顔が続く人は死に抵抗しないで受容した人だと気づいた。「やっと阿弥陀様が迎えに来られた。ありがたや、なんまんだぶつ」と言って亡くなった老婆などは実に安らかな顔をしておられた。周りの人は大往生したと喜んでおられ、そんな家の葬式は悲しみの中にも還相回向の和気が漂っていた。こうした事例は、信をとった念仏者の臨終往生と言ってもいいだろう。 しかし、仏教など関心もなく、人は死んだら無だよなどと言っていた無見の人でも一瞬ほっとしたよう顔になるのである。死を受け入れた人でも、死に最後まで逆らった人でも、同じように呑み込んで<如衆水入海一味>と流れてゆく。しかし、正定聚となって臨終を迎えた人は、弥陀の光明(仏性)に出遇って歓喜踊躍した証である和顔愛語の状態になるのに対して、仏教の知識もなくむしろ誹謗していた人などは、ほとんど気づかれないほどのほっとした顔になるだけだからすぐ消えてしまって、硬直の進行とともに、それまでの死に恐れおののいていた無残な顔に戻ってしまう。そのことは残された人たちに対して還相回向の力がはたらかないということになり、むしろ死に対する恐れや嫌悪感を生む結果となる

そうした還相回向による利他の効用もさることながら、私は「正定聚」になる最大のメリットは、この世を安心して生きていけるようになることだと思っている。それ以上の現世利益はあるだろうか。人間の最高の幸せは、生・老・病・死の全過程を安心して生きることだと私は思っている。それがブッダの出家の初心であり、最終目的であった。それ以外仏教の目的などないと思っているからである。信心歓喜の「正定聚」となれば、臨終などいつ迎えても身は弥陀に委ねてあるのだから、良寛の言葉をかりれば「死ぬるときは死ぬるがよかろう」という心境で、無量寿を生かされて生きていければいい心境となる。だから今死んでもいいし、10年後に臨終を迎えてもいいと思っている。常に即得往生の受け入れ態勢にあると言ってもいい。「悟りとはどんなことがあっても平気で死ねることでなく、悟りとはどんなことがあっても平気でいきていることであった」と死の二週間前に気づいて「病牀六尺」に書き残した正岡子規の言葉がある。どんなことがあっても平気で生きるには、自力では不可能である。如来に助けて頂いて「正定聚」と定まって可能となる。先生方がこだわる「現世往生」でも「臨終往生」でも、そんなことはどうでもいい。如来に身を委ねれば<生から死へ移ると心得るはこれあやまりなり>と道元が言った誤りから解放される訳だから、どちらへ転んでも報恩感謝の心に変わりはない

小谷氏はその著の最後に臨終往生にこだわった金子大栄の言葉を引用されている

念仏申させてもらうことによって、有り難いという感覚を起こさせるものとは、一体何だろうかと考えますと、私には後の世というものがあるのだということであります。死ねばお浄土へ行けるのであると。人間の生涯の終わりには浄土へ行けるのであり、死の帰するところを浄土に置くことによって、それが生の依り処となるのであって、浄土を憶う心があると、その心から光が出てきて、私たちに不安のただ中にありながら、そこに安住の地を与えてくれるのであります

ブッダは後の世を「不問」とされたのに、後の世というものがあると思うから有り難い感覚が生じるとは、なんという俗諦的な感覚であろう。この文の「浄土」という語を「靖国」と置き換えたら「人間の生涯の終わりには靖国へ行けるのであり、死の帰するところを靖国神社に置くことによって、それが生の依り処になるのであって、靖国を憶う心があると、その心から光が出てきて、戦場へ向かう不安のただ中にあっても、そこに安住の地を与えてくれるのであります」と書き換えても違和感がない。戦時中聖俗二諦に分けて、「それ征け、どんどん」と若い学徒を戦場へ送った暁烏敏や金子大栄等が何を言っても私は信用しない。「現世往生説」を提唱していた曽我量深が、なぜか最晩年に金子大栄の「後の世往生説」に同調している。仏教の目的である生・老・病・死の四苦を解決し、人々が安心して生きる道を説くことを忘れ、聖典の語彙の解釈などにこだわっていていいのだろうかと思ってしまう。2500年前より重い四苦を背負って人々は生きている。



7月2日(日)~3日(月)  雨後曇り後雨


最近、<往生>ということに関して、いろいろな教説が氾濫していることが気になったので、小谷信千代師氏の『真宗の往生論ー親鸞は現世往生を説いたか』と『誤解された親鸞の往生論』を取り寄せて読んだ。なぜ小谷氏の本を取り寄せたかというと、小谷氏の本は読んだことがないが、題に興味を持っただけである。内容は、「即得往生」を「現世往生説」とする学説に反論したものだった。本願寺派では学長経験者の星野元豊師や信楽俊麿師といった方、また大谷派では近代教学を確立したと言われる清沢満之師の流れをくむ曽我量深、寺川峻昭といった方々の往生理解は間違いで「現世では正定聚になるだけで、往生成仏は、往生が約束されている死後である」と言った立場で書かれた本であった。こうした仏教学者の本は、頭を混乱させるだけで結局何を言わんとしているのか、立地点が異なるから見える風景が違ってみえるのだろう、わかるようなわからないような本であった。この方も近代教学を非難しておられるが、批評精神が大事云々と言って、その文面から懺悔も讃嘆も感じられないところをみれば、同じ穴の学者だなと思った。

例えば小谷氏は星野元豊師をとりあげておられるが、私は星野元豊師の『教行信証』と題された解説書を持っている。その教の巻で『大無量寿経』がなぜ真実の教なのかと説くのに親鸞は「この無量寿経を説かれた時の釈尊の顔が光顔巍々として光輝いていたから、この経は真実の教である」と断言しておられる。それを星野師は「親鸞のこの立証の仕方は意外である」「論理的に説かれていない」「奇妙な立証の仕方である」「この説明で人を納得させることができるであろうか」「このことを納得するには教行信証の六巻全てを読み終えたときに、はじめて納得できる」と語っておられる。納得して自分は信を獲ったという言葉はどこにも見当たらない。弥陀の光明に触れる行証があれば、全巻を読まなくても、全て横ざまにわかるのにと思った。

私は納棺の現場で<蛆が光って>見えた体験の後、あらゆるものが差別なく輝いてみえた。あの時は仏教にも親鸞にも出遇っていなかった。やがてその光に導かれるように「教行信証」に出遇って、光顔巍々という言葉に出遇った。すると多くの死者の柔和な死顔が浮かび、あの死顔に顕われた微光は弥陀の光明、即ち遇斯光だったのだと親鸞聖人のみ教えに出遇って腑に落ちたのだった。聖教六巻を読み終えてわかったのではなかった。昨日立山山麓の寺で<如来大悲>の恩徳と<師主知識>の恩徳の片方が欠けてもいけないといった話をしたのは、折角大悲に出遇っても、その大悲を正しく導く善知識に遇わなければ、それが弥陀の光明であることもわからないだろうし、道を間違ってしまうだろうということを話したのであった。

ブッダの言葉も親鸞の言葉も体験談である。死後のことを「不問」とされたのは、体験したことしか語られなかったということである。親鸞は現世往生して<光触かぶって>おられなければ「清浄光明ならびなし遇斯光のゆえなれば、一切の業繋ものそこりぬ 畢竟依に帰命せよ」などという和讃など歌えない。実際宇宙へ行かないと「地球は青かった」などと叫べないものだ。光触かぶったことのない者は、光触かぶるとどうなるのかわからない。だから<仏性に遇うをもって、大般涅槃に安住す>.(涅槃経)もわからない。 こうした体験もなく、<生死即涅槃>といった真証の証に近づこうともしない学者が、涅槃や浄土や往生のことを語ると、百家争鳴の様相を呈することになる。理屈や言葉で説くことができないから<不可思議光>と名づけ、<義なきを義とするはなお義のあるになるべし>とおっしゃっているのに、一つの真理をめぐって、例えが悪いが、学問の牢屋敷の同部屋で泥棒が盗人を非難しているような珍現象が起きたりする。

 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことはない・・「ブッダの言葉」

 <追記>法然の「一枚起請文」も念仏者にとっては、窮極の真理であろう。

 もろこし我がてうにもろもろの智者達のさたしたる観念の念にも非ず また学文をして念の心を悟りて申す念仏にも非ずただ往生極楽のために南無阿弥陀仏と申して、疑なく往生をすると思いとりて申す外には別の子細候はず


7月1日(土)  雨

この20年間で10回くらい来ている浄土真宗大谷派の寺の永代詞堂経で話をするために、以前車で来ていたのだが免許証を返納してしまったので、富山地方鉄道の立山線で終点の立山駅の一つ手前の本宮という駅で下車した。無人駅で降りたのは私一人であった。木造の朽ちた駅の中には歩くところがないくらいに新聞紙が敷きしめてある。天上の蛍光灯にツバメの巣が幾つもあって、ツバメの糞の対策のためである。見上げると、くちばしの黄色いツバメの子が顔を出している。朝と夕に学生達でも利用しているのだろうか、滅多に乗降する人がいないことを物語っていた。
寺の本堂には二十人ほどの門信徒が参集しておられた。その前で<如来大悲>の恩徳と<師主知識>の恩徳の片方が欠けてもいけないといったことをいろんな事例をあげて話をした。二十人ほどの聴衆だと顔が一人一人見えて、反応を感じながら話せるので、自分は好きである。以前は四十人ほど参加があったが、半減したのは亡くなったからとのことだった。若い人たちは市街地へ移り住み、老人が亡くなるとその数だけ減少する。過疎地の典型的な姿である。帰りは、土砂降りの雨が降り出し、他県の在家へ嫁いでいる娘さんが手伝いに来ていて車で送ってもらった。一人娘で寺を継ぐ婿が来てくれることを住職と坊守が期待していたが、門信徒が減り続けるこんな過疎地の寺へ来てくれる婿などいないとあきらめたと悲しそうな顔で坊守が語っていた。この後この寺はどうなるのであろう。

ツバメの巣のある無人駅で電車が来るのを待ちながら、この寺だけではないと思った。全国にコンビニ以上の数の寺があるが、曹洞宗や臨済宗でも無住の寺が増え、住職が掛け持ちしている寺を一ヶ寺に整理すると、その半数は廃寺になってしまうという。過疎の所為ばかりでなく、寺の経済を支えていた葬式の現場では、僧侶を呼ばない直葬や家族葬が増え、大都会などでは50%が直葬や家族葬となり、告別式や偲ぶ会、お別れ会といった宗教色のない葬送様式となっている。寺のあり方を根本から検討しなければならない状態になっているのに、危機感が感じられないのも不思議な気がする。ぬるま湯に漬かったまま滅びてゆくのではないだろうかと心配になってくる。「古池や蛙とびこむ水の音」という芭蕉の句があるが、飛び込んで音を出すには、池の外へ一旦出なければ飛び込めない。一旦外へ出るとは、得度して結婚をして寺を継承して安住した状態から再び出家することを意味する。そんなことは出来るわけがない。特にわが国の場合、内からの改革は望めない。西洋では教会の鐘は内側を叩いて音を出すが、東洋の寺の鐘は外側から叩いて音を出す。改革を望むのであれば、黒船来航のような外圧を期待するしかない。極端だが手っ取り早いのは、権力者による廃仏毀釈であろう。中国では2000年の歴史の中で大きな廃仏毀釈は4度あった。北魏の446~452年の廃仏毀釈。次は北周・武帝の廃仏。次は唐の武宗の廃仏。そして後周の世宗の廃仏。ところがこれら四回の廃仏毀釈の後に必ず仏法の興隆が盛んになっている。北魏の廃仏の後では、多くの寺院が建立されたり、無数の石仏か造られたりしている。北周の廃仏の後の随の時代から唐の前期には中国仏教は全盛期を迎えている。この時期に遣隋使や遣唐使によってわが国へ仏教が伝わったのであった。わが国の明治維新の廃仏毀釈も、仏教の近代化に寄与した部分もあった。また法然や親鸞が念仏停止の法難に遭っていなければ、親鸞の場合、越後に流罪になっていなかったら、果たして浄土真宗なとどいった宗派は生まれただろうか。法難に遭うことなく京都にいたとしたら、おそらく法然の浄土宗の十大弟子の一人といった程度であったかもしれない。

こんなことを思いつくいて発言するのも、池の外の一匹狼の習性が身についていて、要するに組織に加わらず地位や名誉にもとらわれないで在家念仏者として一人気楽に生きているからかもしれないと思いながら、親ツバメが出たり入ったりする無人駅のベンチに一人座って、電車を待っていた。




6月30日(金)  曇り

6月も終わった。一休さんに倣って、一休み。 有漏路より無漏路へ向かう 一休み 雨降れば降れ 風吹けば吹け


6月29日(木) 晴れ

昨日のfacebookのブログで「迷信や神話から生まれた習俗や文化にこだわりとらわれて生きるのは、そろそろやめませんか」などと発言したが、簡単にやめれるものではないと思っている。絶対やめれないだろうと悲観的になってしまう。

例えば、ブッダが死後の世界を「不問」としたにもかかわらず、後の世の人は死後の世界をさも見てきたかのような物語を作って、お盆の行事や施餓鬼会などを行っている。そのルーツは中国からもたらされた「盂蘭盆経」に依るのだが、その経は儒教の孝養の倫理を盛り込んだ偽経だと言われている。釈迦十大弟子の一人である目連尊者が餓鬼道に堕ちた亡母を救うために衆僧供養を行なったところ、母にも供養の施物が届いた、という事柄が説かれている。親鸞のように「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」(歎異抄)などと言ったら、中国では親鸞は抹殺され、廃仏毀釈の格好の口実となったことだろう。そうした孝や仁義を重んじる儒教との軋轢から生まれた妥協作の偽経であることがわかっていても、一旦習俗として定着してしまえば、簡単にやめることなどできなくなってしまう。

弥陀の本願を信じる者にとって、その第1条「たとひわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」と弥陀が誓っておられるのに、餓鬼道があって目連の母のような餓鬼が登場することが私は腑に落ちない。臨済宗や曹洞宗などでもお盆に先祖の霊を迎え施餓鬼会を行っている。

 菩提本無樹 明鏡亦無臺(菩提に本から樹など無い 明鏡にもまた台など無い)
 佛性常清淨 何處有塵埃(仏性は常に清浄だ 何処に塵埃が有るのか)
 心是菩提樹 身為明鏡臺(心が菩提樹であり 身を明鏡台というのだ)
 明鏡本清淨 何處染塵埃(明鏡は本から清浄だ 何処が塵埃に染まるというのか)

これは私が好きな六祖慧能の詩である。「何処に塵埃など有るのか」と言っているのに、どうして塵一つない世界に、わが国古来からの俗信と中国渡来の偽経や「十王経」などとごちゃ混ぜの死後のイメージで、先祖の霊を迎え、地獄や餓鬼を登場させている。人は死んでも霊魂が永遠に不滅であるとする有見の立場での創作であって、靖国神社の英霊も天満宮の怨霊も、有見に執着する人間が創作した神々といっていい。大乗仏教の祖といわれる龍樹菩薩は二世紀に既に「悉能摧破有無見 」と、有見も無見も「縁起」を説く仏教の真実に反するから破棄せよと言っているのに、どうしていつまでも無見や有見にとらわれているのだろうかと思ってしまう。

 解脱の光輪きわもなし 光触かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覺に帰命せよ・・・・・・親鸞和讃

6月28日(水) 晴れ

2、3日講演の旅をしただけで疲れを感じる。以前は北海道の根室別院から鹿児島別院へ移動するような講演の旅を一週間続けても疲れなど感じなかった。やはり歳のせいだ。

2、3日留守にしていただけで、郵便物がポストからはみ出していた。返信しなければならないものも多くある。中に締め切りが今月末というのがあった。9月に開催される「地域医療研究会全国大会2017in魚沼」の基調講演の抄録原稿の催促であった。1200字以内とあったので早速次のような原稿をメール添付で送信した。

私は、ひょんなことから葬儀社に勤め、死体をお棺に納める湯灌・納棺の作業を専業にしていた時期がありました。当時は全国的にも自宅死亡がほとんどでした。ですから、遺体の処置、即ち湯灌・納棺は自宅で親族のもので行うことが慣わしとして定着していました。にもかかわらずそうした作業に関わることになったのは、手伝わざるを得ない家があって、手を貸したのがきっかけでした。何件かお手伝いしているうちに、口伝てに評判となり、「納棺夫」と言われるようになってしまったのでした
「納棺夫」という言葉は、わが国にはありません。だから辞書にもありません。例えば農夫とか水夫というと、それは職業を意味する用語であって、納棺を業とする職業はわが国にはなかったのでした。今日では映画「おくりびと」などが世に認められたこともあって「納棺師」という言葉が定着していますが、当時は死に関わる仕事をしただけで、社会全体から白い眼でみられるような雰囲気がありました。親戚から「親族の恥」と罵られ、妻からも「穢らわしい」と言われたことがありました。幾度も辞めようかと思いながら続けているうちに、いろんな事件に出会い踏み留まるのですが、やがて人は死を忌み嫌い恐れているが、死そのものを怖れているのではなく、死によって生じる付帯物、いわゆる死骸を見て恐れているのだと気づきました。古事記や日本書記に「黄泉の国は蛆の湧く不浄な世界」と記されたのは、皇位継承の殯の風習から死体の腐乱状態を見た死のイメージにほかならないと思います。延喜式などでは「死穢」と称して法制化までして忌み嫌ってきました。死者が出れば「忌中」という紙を貼り、火葬場から戻れば「清めの塩」で浄めるのも、大相撲で塩を用いて土俵を清めるのも、全てイザナギノミコトが黄泉の国から戻り海水で禊ぎをした神話を起源としてわが国の人々は習俗や文化として継承してきたのでした。超高齢化社会における包括ケアには、この死の問題を避けて通るわけにはいかないと思います。死の実相を正しく認識することが安心して死を迎えるヒントになると思います。本日は、納棺の現場で生まれた私の詩「いのちのバトンタッチ」をテーマに現場の体験を交えてお話させて頂ければ幸いです

 人は必ず死ぬのだから
 いのちのバトンタッチがあるのです
 死に臨んで先に往く人が
 「ありがとう」と云えば残る人が「ありがとう」と応える
  そんなバトンタッチがあるのです
 死から目をそむけている人は
 見損なうかもしれませんが
 目と目と交わす一瞬の
 いのちのバトンタッチがあるのです

送付してから、延命第一主義から看取りへシフトして死を見詰めざるをえなくなったお医者さん達は、どのように思われるだろうかと思った。最近、真実とはほど遠い迷信や神話によって生まれた習俗や文化となったものにこだわる安倍総理夫妻や稲田防衛大臣の言動に「困ったものだ」と思っているからか、こんな文になったのだが、政治の世界ばかりでなく、医療や福祉、思想や宗教の世界でも、ややもすると真実とはほど遠い怪しげななものに、とらわれこだわって生きている人が多いのである。特に死に関しては、西洋には<生死>という用語も概念もないから、近代ヨーロッパの思想を受け入れた人たちは、生と死を分けて思考するようになってしまった。だから人生は、生から死へ移ると思って生きている。本来一切衆生は<生死>を生きているのである。その概念が理解できなくなっている。生死一如の概念が死語になれば<生死の中に仏あれば生死なし>や<証知生死即涅槃>といった仏語も死語になってしまう。あの親鸞の『教行信証』に<生死>という文字は無数に出てくるが<死>という文字は一字も出てこないのである。

そんな仏教用語を用いてお医者さん達の大会では話さないが、そうした思いが上記の抄録を書かせたのだと思う。


6月25日(日)~26日(月)~27日(火)   広島は三日間とも梅雨空 曇り時々小雨後曇り


25日に富山を出て、広島駅のホテルグランヴィア広島で前泊して、安芸区中野の浄土真宗本願寺派専念寺(霊岳弘志住職)での26日27日の門信徒研修講座に備える。折角ノートパソコンを持参したのに、公開転送機能がトラブルを起こし、27日帰宅してから「新門日記」を記す次第となった。

初日の26日は、広島駅のホテルからタクシーで向かった。タクシーは旧道らしい狭い道を走っていた。「旧道のようですね」と老運転手に声をかけると「ええ、そうです。広島城を拠点にした昔からの旧道です。毛利の殿様も通られた道です」という返事がかえってきた。毛利の殿様と聞いて、10年に及んだ石山合戦(浄土真宗本願寺勢力(一向宗)と織田信長との戦い、
本願寺法主の顕如が石山本願寺に篭って戦った合戦)を思い出した。あの戦いでは、兵糧攻めにあった一向宗側が毛利藩に支援を求め、覚如の子・存覚によって安芸に根付いていた真宗信徒達と毛利の水軍(村上水軍など)で、海戦で信長軍に勝利して支援物資を運び入れたのであった。そうしたことから、毛利藩と真宗門徒は強い絆で結びつくようになり「安芸門徒」と云われる真宗信徒組織が生まれたのであった。

専念寺は旧道沿いにあった。境内に立派な聞法会館があって、熱心な門信徒に支えられた<生きた寺>だと直感した。午前10時から若婦人会、幼稚園保護者向けの講話、午後1時から一般門信徒向けの講話、午後7時から仏教壮年会・幼稚園教職員、ホーイスカウト・カールスカウト指導者等むけの講話。翌日の27日は午前9時30分から総代・世話役・婦人会役員・仏壮役員向けの講話と続く。四回連続して同じ話を対象者によって少し変えるだけで各々90分の持ち時間を各講座とも30分オーバーの2時間は話した。時間オーバーを気にしていたが
早速次のようなメールが届いていた。「はじめまして、私は本日専念寺でご講話を聞かせて頂いた者です。大変に感銘深く、ときには目頭を気にするほど胸を熱くさせられて、あっという間の時間でした。ほんとうにありがとうございました」とあった。


6月24日(土) 晴れ

明日は広島市安芸区のお寺へ出講する。2泊3日の旅。昨年広島別院の婦人部研修会に出講した時参加しておられた坊守さんの自坊で2日間の講演。「安芸門徒」と言われるだけに熱心な真宗信徒の方が多い地区である。心して行かねばと、準備をしていた。ただ、九州から西日本にかけて大雨注意報が出ていて、天候が心配である。

 雨風というと、私は一休禅師の「有漏路より無漏路へ向かう 一休み 雨降れば降れ 風吹けば吹け」というサビの効いた句が浮かぶ。「一休」という名はこの句から付けられたのだが、一休は頭が良すぎたため頭で無漏路を悟り、一休みしたまま生涯を終えたような気がする。有漏路から無漏路へ渡るには二河の喩えのような<白道>を渡り切らねばならない。同じ禅僧の良寛に「天上大風」という少年に頼まれて凧に書いた書がある。ここでの大風という言葉の意味がいろいろ解釈されているが、私は天上を吹いている風は、娑婆の小さな事象にとらわれない大きな風、即ち般若心経の<空>の心、とらわれない心、かたよらない心、こだわらない心を歌ったものだと思っている。とかく一般の人は大風というと、台風などこの世の事象をイメージして思考する。一休の<風吹けば吹け>の風は有漏路の風で、良寛の<天上大風>の風は無漏路の風である。「天上は風が強いから、凧が揚がり易い」などと解釈していた書家がいたが、禅僧に対して失礼な話である。そんなことを思いながら<雨降れば降れ、風吹けば吹け>と「天上大風」と書かれた茶碗でお茶を点てて呑んでいた。


6月22日(木)~23日(金) 曇り後晴れ

歌舞伎俳優の市川海老蔵の妻・小林麻央さんが乳がんの一年間の闘病生活の末、亡くなった。34歳の若さであった。最後は病院から自宅へ移り、夫や子供たちや近親者に看取られての美しい死であった。

「私が納棺夫として死の現場で死者たちから教わったことは、いのちのバトンタッチの大切さであった。生物としての個体の命のバトンタッチは遺伝子が司るが、無量寿としての<いのち>は先に往く人が残る人に「和顔愛語」で伝えるのである。だから死に臨んで笑顔で「みなさん、ありがとう」と言い、残された人から「ありがとう」と言ってもらえるような死に方が理想の死に方である」と2005年一月号の文藝春秋の「理想の死に方」という特集号に寄稿したことがあった。そのことを想い出した。
小林麻央さんの最後のブログは「皆様にも、今日笑顔になられることがありますように」という悲しみの甘酸っぱい果汁を濃縮したような利他の心であった。なんとやさしい言葉だろう。そして笑顔の写真が添えられてあった。

息を引き取る瞬間に立ち会った海老蔵さんの会見に「不思議なのだけど、何か大きな・・・・」という言葉があった。海老蔵さんのこの言葉に私は<SPILITUALなもの>を感じ、言いしれぬ感動を覚えた。死に往く人が、死を受け入れ、すーっと息を引き取る<生死一如>の瞬間に顕われる不思議な現象、柔和な顔で「ありがとう」という慈悲に満ちた和顔愛語、それこそが親鸞のいう「二種の回向」、大悲大慈の如来の光明に包まれた麻央さんの還相回向だと私は思っている。愛別離苦を超えた美しい世界を自身の死を通して演出して見せ、世界中の人に感動を与えてくださった麻央さん、ありがとう。

<追記>私の葬式の現場での体験から、親族が臨終の場に立ち会った家の葬式は、悲しみの中にも和気が漂っていたのを想い出した。臨終に立ち会う事が大切なのは、死者を送る為ではない。死者によってもたらされる回向によって、忌み嫌い恐れていた死を、清浄光明ならびない美しい世界へと変えて、残された者へ安心をもたらしてくれる弥陀の光明に遇える場であるからである。


6月21日(水) 曇り

「父の日18日だったけど」と、娘と息子たちで夏物甚平と下着を差し入れてくれた。少なくとも彼らから父として認められているようである。うれしいかぎりである。

この世で最大の不幸は、貧しさや病ではありません。だれからも必要とされていないと感じることです」というマザー・テレサの言葉を思い出した。

ある知的障害者更生施設を訪れた時のことだった。帰り際に首をくねらせ手を振りながら何かを訴えている青年がいた。私は目をそむけるようにしてその部屋を後にした。部屋を出てから案内をしてくださった園長先生に聞いた。「あの青年は私に何か訴えていたように思ったのですが?」と尋ねたら「<あの人、私を見てくれていない>とあなたに訴えていたのです。彼らは自分の存在を無視されることにとても敏感なのです」と言われた。この世のあらゆる諸相をありのまま真っ直ぐ見据え、丸ごと認めることの大切さを語ったりしていながら、目をそむけ、見て見ぬふりをして生きている自分を指摘されたような気がした。穴があったら入りたいほどの恥ずかしい思いがした。
マザー・テレサは続ける「健康な人や経済的に豊かな人は、どんな言い訳でも嘘でもつける。でもね、飢えた人、貧しい人、心に障害をもつ人は、見つめ合う瞳に、握りあった手に、本当の言いたいことを込めるのよ」



6月20日(火) 晴れ

日記を付け忘れた。何をしていてかも記憶が無い。病院の待合室に貼ってあった。

「食事で何を食べたか記憶がないのは物忘れ、食事をしたかどうか記憶が無いのが痴呆症」と。


6月19日(月) 晴れ

9月の17日、18日に新潟・魚沼で「地域医療研究会全国大会2017in魚沼」という地域医療を担うお医者さんたちの全国大会に講師として招かれている。大会長の黒岩卓夫氏と諏訪中央病院の鎌田實氏との鼎談もある。尊敬する大井玄先生も講師として来られる。黒岩卓夫氏は私と同じ昭和12年生まれで、私同様少年の日に、満州からの引き揚げ体験もある。彼は60年安保闘争の時東大医学部の委員長として国会デモの先頭に立ち樺美智子さんが死亡したその隣にいて重傷を負った男であった。あの日あの時、私は早稲田の学生で、後続部隊のつもりで遠巻きに皇居の堀端にいた。三年前、不思議な縁での出遇いがあって、今回も招かれ出向くことになったのであった。まだ先の話だが、大会誌に載せる抄録の原稿依頼の催促が本日メールであったので思いついたことを記した。

早速、抄録のための原稿(1200字)を書いた。内容は会の目的は「地域包括医療ケア」であろうから、私が今日まで話してきた事を書けばよいのであった。包括ケアに必要なことは、全てを<まるごと認める力>を身につけることである。私が納棺夫として仕事を続ける上で、あらゆる諸相を丸ごと認めることが最も大切であることを教わったのは死者たちからであった。それは死を五感で認識することであった。死を五感で認識するには臨終に立ち会うしかないのである。死に往く人がすーっと息を引き取る<生死一如>の瞬間に顕われる還相回向(弥陀の光明)を浴びると丸ごと認める慈悲の力が身につく。親族のほとんどが臨終に立ち会った家の葬式は、悲しみの中にも和気が漂っていた。

 前(さき)に生まれんものは後を導き、後(あと)に生まれんひとは前を訪へ。連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す・・・・道綽『安楽集』

演題は「いのちのバトンタッチ」 この無量壽を連続無窮に引き継ぐという意味の演題で、京都本願寺や立川の真如苑など二千人の聴衆の前であろうと、山里の小さな寺で二十人の前であろうと、同じ演題で同じ内容の話をこの二十年間で2000回以上もしてきた。ブッダが生・老・病・死を安心の心で生きる道を説いたのが仏教である。それがブッダの出家の動機であり、即ち初心であり最終目的であって、仏教の目的はこれ以外にない。その思いを込めて今年の2月に東京都病院学会でも話したら好評だった。今日の社会は、丸ごと認める力が衰弱している。丸ごと認める力が衰弱していることは、仏教が衰弱していることを物語っている。特に丸ごと認めるには、自力では限界があるのだ。他力しかないのである。人間の理性(自力)を頼りに現代医学を学んだお医者さんたちに他力の思想などわからない。あの『他力』という本を上梓された五木寛之さんも、あの本を読む限り自力と他力の<かはりめ>がわかっておられなかったようだった。<他力の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいふべきなり>(歎異抄四章)などとお医者んたちに言っても詮なき事である。だから仏教用語を用いないで、私の納棺夫としての体験から「包括ケアは、地域によって違い人によって違う個々の事象を丸ごと認める力がないとできない」と書いておいた。


6月18日(日) 晴れ

昨日の日記に「死の実相を知れば、仏教がわかる」と記したが、何の説明もしなかったので普通の人はわからないだろうと思う。ここに宮沢賢治の格好の詩があるので、それを参考に説明したい。この詩は宮沢賢治が一時菜食主義を貫き、動物性食品を一切摂らなかったため、結核と壊血病を併発し40度の熱の中での作品である。話すことも書くことも出来なかったので「眼にて云ふ」と題された作品で、臨死体験の詩と言っていいい。

だめでしょう とまりませんな がぶがぶ湧いているのですからな
ゆうべからねむらず血も出つづけなもんですから
そらは青くしんしんとして どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといい風でせう 
もう清明が近いので あんなに青空からもりあがって湧くように きれいな風が来るですな
もみじの嫰芽と毛のような花に 秋草のやうな波をたて 焼痕のある藺草のむしろも青いです
あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが 黒いフロックコートを召して こんなにいろいろ手あてをしていただければ これで死んでもまずは文句はありません
血が出ていいるにかかわらず こんなにのんきで苦しくないのは 魂魄なかばからたをはなれたのですかな
ただ どうも血のために それを云えないのがひどいです

あなたがたの方からみたらずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたしからみえるのは やっぱりきれいな青空と すきとおった風ばかりです

ここにみる賢治の視点は、病床にある肉体にはなく、肉体をはなれた宙にあって、医者や自分の出血の様子がみえるところにある。それを賢治は「魂魄なかばはなれたのですかな」と云っている。(中国では古来より人間は魂と魄で成り立っていて、魂魄がはなれれば死とみなされた。魂は天に還り、魄は地に残り、文字通り白骨死体を意味する文字である。この魂魄の思想は脱肉骨化の葬送様式を生み、殯の風習も生んだ。沖縄などでは風葬→洗骨まで一年間ほどかかる、それを時間的に短縮化したのが火葬→拾骨である。)
賢治は、魂魄なかばはなれれば、血が出ているにもかかわらず苦しみもなく、きれいな青空とすきとおった風が感じられるだけであると云っている。要するに、惨憺たる景色を見て、わあわあ騒いでいるのは残された者たちであって、死者はきれいな青空のみえるすきとおった風の中にいる。

ソクラテスが「もしかすると、死は人間にとって最大の幸福であるかもしりれない」というのは、きれいな青空の見えるすきとおった風の中にいるかもしれないということであり、死を最大の不幸で悪であると思うのは、惨憺たる景色を見て、それが死だと思っている人たちであると云っていることになる。死を浄土ととらえるか、死を地獄ととらえるかは、この視点にかかわっている。

生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と言ったのは道元であった臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と言ったのは日蓮であった臨終待つことなく信を獲得して正定聚になった者は、常にきれいな青空のみえるすきとおった風の中にあって終命の際は<死即仏>となると説いたのは親鸞であった。

<参考まで>ちなみに『チベットの死者の書』に「全存在の根底にある真実性(仏性)、これを死に往く者が光明として正しく覚知するとき、死者はバルドウ(中有=四十九日)を経過しないで直ちに解脱できる(仏になる)」とある。それは正しく弥陀の誓願であった。




6月16日(金) ~17日(土) 晴れ

われわれ人類は、科学技術の進歩とともに、DNAを解読し、この宇宙には目に見えないブラックホールがあることも知るようになり、科学的知識は限りなく拡大している。にもかかわらず、われわれはあまりにも愚かな無知の中に生きているのも事実である。特に<死>に関する無知は呆れるばかりである。ブッダは死に関しては<不記>として何も語らなかった。孔子は「いまだ生を知らず、いわんや死を」といって語らなかった。ソクラテスは「ソクラテスの弁明」の中で「諸君、死を恐れると言うことは、智恵がないのにあると思っているのにほかならないのです。それは知らないことを知っていると信じることになるのです。もしかすると、死は人間にとって最大の幸福であるかもしれないのです。しかし人間は死を最大の悪であると決めてかかって恐れているのです。これこそ知らないのに知っていると信じる事、すなわち無知ではないでしょうか。それで私が少しでも智恵があると自ら主張するとすれば、私が死後のことについてはよく知らないから、その通りよく知らないと思っているという点をあげるでしょう

人類が生んだ三賢者は、ほとんど同世紀(紀元前5世紀)に、死についても、特に死後については、一切語っていない。にもかかわらずわれわれは、知らないのにさも見てきたかの如く語られた神話や物語の世界に生きている。ローマの哲人セネカは、死について次のような名言を残している

人が死を恐れるのは、死そのものでなく、死によって生じるその付帯物を見て恐れているのだ」

私は、その通りだと思っている。血を抜いて天日に晒しておけば干物のようなミイラになるチベット高原などと違って、湿度の高い亜熱帯のわが国の場合、死体を放置しておけば瞬く間に蛆が湧く腐乱死体となる。黄泉国(死後の世界)は、そうした腐乱死体のイメージとして「古事記」や「日本書紀」では表現されている。ここではセネカの言うように、死そのものではなく、悪臭をはなつ腐乱したイザナミの死体を見て恐れおののいて、イザナギが逃げ帰ってくるのである。なぜ、こんな神話が残されたのか、私の想像だが、「古事記」や「日本書記」が編纂された白鳳時代は、皇位継承がらみの殯(モガリ)の風習が行われていた。例えば、遣唐使として入唐し玄奘三蔵に直接学んで帰国した僧道昭がわが国で最初の火葬をするわけだが、その時の持統天皇が崩御した時は約一年間仮設の殯宮に安置して、その後遺骨を火葬に付している。脱肉骨化の過程で、その殯宮を覗けば、蛆がわく腐乱した死体を見ることになる。私もそうした蛆が湧く死体を処理したことがある。あの時は、ぞっとした。セネカのいう遺骸を見て死を恐れ嫌悪感が生ずることは実感として納得できる。

こうした死に対する恐れや穢れの意識は、後に死や死者にまつわる一切は穢れの最たるものとして<死穢><血穢>と称して「延喜式」の中で法制化までしてきたのであった。これら疫病や悪霊の祟りをも含む<死穢>から逃れることが古代の人々の最大の関心事であって、見えないように遠ざけたり、一線を引いて隔離したり、血穢(月経)の女性を禁制としたり、あらゆる努力をしてきたのであった。しかし、どうしても隔離したり遠ざけたり出来ない場合がある。そんなとき不浄や穢れを浄化する儀式として<オハライ>や<キヨメ>を行い、一瞬にして<ハレ>に転換するののが日本神道の作法であった。このケガレとハレの関係において、浄められた大相撲の土俵には女性は上がれなくなり、霊山は女性禁制となる。死者が出れば、「忌中」の紙を貼り、火葬場から戻れば清めの塩をまかれる。なぜ清めの塩なのか? それはイザナギノミコトが黄泉国からこの世に逃げ帰ってきた時、悪臭にまみれた体を海水で浄めたとされる故事から海水を塩と水にわけて、ケガレをハレにする小道具として伝承されてきたのである。
こうした風習がその地域や国家の固有の文化として定着してしまうと、それが迷信や人間の無知から生まれたもものであっても、変えることなどできない。大相撲の水と塩で土俵を浄める所作も変えることなど出来ないであろう。その清められた土俵へは小池東京都知事は優勝杯を持って上がることは出来ないのである。しかし私は、死の真実にこだわりたい。死の実相を知ることは、仏教を知ることであった。私は死体に群がる蛆を見てイザナギのように眼をそむけて逃げ帰ることなく、真っすぐ死を見つめて「蛆も<いのち>だ」と思った時「蛆が光って見えた」のだった。蛆の光りによって仏教へ導かれたのであった。そして、その光は生死即涅槃へと誘う遇斯光であると教えてくださったのが親鸞聖人であった。

  清浄光明ならびなし 遇斯光のゆえなれば 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ ・・・・・親鸞「讃阿弥陀仏偈和讃」

仏教ではソクラテスのいう無知のことを三毒の一つ<愚痴>という。要するに真理を知らない無知である。真理とはとても言えない迷信や神話を基盤にした文化や宗教をアイデンティティ(畢竟依)にして生きている人のなんと多いことだろう。「わが国は神の国」と発言した総理もいたが、安倍総理夫人昭恵さんの籠池夫人とのメールのやりとり「神様はどう思っていらっしゃるかしら」という言葉も気になる。

<追記>今話題となっている今上天皇の「生前退位」の意向発言の根っこに、淳和天皇(在位823~833)が皇位継承がスムースに運ぶように遺詔によって「殯」をしないで即火葬されたことも頭の隅におありだったのかもしれない。



6月14日(水) 晴れ~15日(木) 晴れ

今日のわが国の世相は、有見の人と無見の人が両極に二分された状態になっている。有見とは<死んでも霊魂は不滅である>と信じる見解で、無見とは<死んだら何もないよ、無だよ」と思う見解である。どちらの見解も間違いであるから破棄すべきであると「悉能摧破有無見」と説いたのが龍樹菩薩である。この語句の出てくる『正信偈』を常に唱えている真宗の僧侶でも、有無を離れられない人が多い。光触かぶったことがないからである。「解脱の光輪きわもなし光触かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覺に帰命せよ」と親鸞は和讃する。
無見の人も有見の人も、往生とは死ぬことだと思っている人が多い。そして浄土とは娑婆と地続きの有限の時間を曳き伸ばしただけの世界だと思っている人がほとんどである。その思考で浄土や永遠をイメージしている人が多い。

「阿弥陀経の中に、極楽浄土のイメージが実に克明に描かれている。七つの宝池があり、その周りは金銀や硝子でつくられた楼閣が建ち並び、それはルビーやメノウなどの美しい宝石で飾られ、池の底には金砂が沈み、色鮮やかな鳥が舞い美しい声でさえずっている。池の蓮は車輪のように大きく、青い花は青い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放っているというのである。そこは苦もなく、人々は美しい着物を着て、いつもゆったり歩いている。なんという退屈そうな世界であろう。苦のない世界はきっと、私には退屈で、いっそ地獄へ堕としてほしいと思うだろう。私はいいことも、少しはしないでもないが、それ以上に悪いことはいっぱいしているので、間違いなく地獄へ行くだろう。とすればじたばたしないで、そこで観念して地獄こそわが極楽と思い定めるしかないと思っている。<地獄は一定の棲家>というではないか」

これは瀬戸内寂聴さんがある雑誌に寄稿した文である。光触かぶったことのない、ただ頭を丸めたただけの欲張り婆さんが浄土を語ると、このような観念の文になる。特に小説家は、宮沢賢治のような詩人と違って、法四依に依る思考が欠落していて、方便として導入されている比喩の言葉もそのまま文面通りにイメージされてしまう傾向がある。こういう仏法の真髄を依り処にしないで、仏典や経典の言葉面(づら)を我流解釈で語られる著名な作家達の仏教論ほど有量の諸相(一般民衆)を惑わすものはない。光触かぶるとは、仏性に遇うことである。<仏性に遇うをもって、大般涅槃に安住す>(涅槃経)とは、浄土にあって極楽浄土を味わうことを意味する。法然が晩年に「すでに浄土にはべる心地にて念仏申す」と言い、「観念の念仏にあらず」と一枚起請文に書き残したのは、光触かぶった法然の行証の証である。親鸞が真仏土を「無量光明土なり」と断言するのは、無量光明土に立った宗教体験からの真実である。瀬戸内さんが「私はいいことも少しはしないでもないが・・」と自分は悪人ではあるが大悪人でないと弁明しておられるが、光触かぶらない限り、己が極悪深重の大悪人であることさえ気づかないものである。また巷には、光に遇ってもいないのに、教学として学んだ通りに「煩悩具足の凡夫」と観念的に門信徒の前で発言しておられる偽悪者振る僧侶も多々みられる。凡夫であろうと聖者と称される人であろうと、光触かぶったことのない人に<浄土>は語ってほしくない。

 この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず・・・・『仏説無量寿経』

6月13日(火) 晴れ

11日の日記へのコメントが気になっていて、記そうか記すまいかと思っていたが、やはり記すことにした。どんな高僧でも死ぬときは「死にたくない」と思うのではないかというコメントであった。たしか一休禅師は「死にとうない」と言って死んでいる。知を過信しこの世をアイロニカルに観ていた自力の禅僧の言葉は当てにならない。

親鸞は「臨終待つことなし」と説き、<信>を獲得し平生において往生は実現されるべきものと説いていた。そして信を獲得した念仏者が大往生する(死を迎える)ことは目出度いことだとおっしゃっておられた。このことを覚如は次のように説いている。

この娑婆生死の五蘊所成の肉身いまだやふぜれずといえども、生死流転の本願をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ、自力をすてて他力に帰するともなづけ、また即得往生とも、ならいはんべれ」ー『改邪鈔』

流転を続ける闇の根源は、我執にほかならない。その我執が取り除かれ清浄光明ならびない世界へ導かれる。それは生と死が交差して生死一如となる瞬間に自我崩壊によって<無我>になることを、ここでは「共発金剛心の一念にやぶれて」と表現されている。仏教は無我を前提に成り立っているのであった。南無とか帰命とかは、身を投げ出して無我になることを意味する。実際に死ぬときを待つのではなく、自我崩壊が如来を招き、五蘊所成の肉身がやぶれるときなのである。そしてその瞬間こそが金剛信獲得の瞬間でもある。その時「知識伝持の仏語」に帰してゆく。自我を超え、仏からの真実が、光明として伝承されつづけてきたわけが明白になり、その光明の中にそのまま帰入する。これが往生であると覚如は言っている。

私がこの真理を知ったのは、納棺の現場で<蛆が光って見えた>体験であった。しかし、それが遇斯光であることは、親鸞に出遇い、善知識の伝持の仏語に出遇わなかったら知る由もなかったであろう。だから「如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし、師主知識の恩徳も骨を粉にしても謝すべし」という御和讃が、私には実感できるのです。

 弥陀の光明、余行の者を照らしたまわず、ただ念仏行者を摂取す・・・・法然『選択本願念仏集』

また、コメントは「人間味」に親和性を感じておられるが、近代ヨーロッパ思想のヒューマニズム(人間中心主義)に洗脳された人々は、恩愛不能断を脱却することができないから、弥陀の光明に遇うこと、即ち<仏性に遇うをもって、大般涅槃に安住する>ことはまず望めない。「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」というのが念仏行者の立場なのです。



6月12日(月)  曇り時々晴れ間

今日は何もしなかったから記すことがない。書くことがなかったら書かなきゃいいのだが、書かないとなんだか叱られるような気がして・・・・・あえて書くなら「寝て起きて、食べて糞をして、また食べて寝た」としか書くしかない。そう思ったら、福沢諭吉の「学問のすすめ」が浮かんだ。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり」という冒頭の文は有名だが、その同じ文中に「無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と糞をして寝ることと起きる事のみ、<中略>かかる馬鹿者を取り扱うには、とても道理をもってすべからず、不本意ながら力を以て威(おど)し、一時の大害を鎮むるより外は方便あることなし」とある。その我武者羅精神が世界の列国に並ぶほどの国にしたのは確かだが、安倍総理も「国民総活躍社会」と旗を振るし、何かしていないと粗大ゴミの収集日に廃棄処分されそうな気がして、おちおち寝てもおれない。


6月11日(日) 晴れ

今日は、溜っていた洗濯物を一気に洗濯した。ついでに夏物と冬物の下着などがごちゃ混ぜになっている収納ボックスを整理した。夏物とも冬物ともつかない合い物と区別してひとつの収納ボックスに入れ、表に大きく「夏物」「冬物」「合い物」という字を書いて貼り付けておいた。そんな整理にほとんど半日を費やした。15年前、妻が脳溢血で倒れ半身不随になるまでは、こんな下着の整理などしたことがなかった。整理をしていたら、ふと下着を見ていて妻を思い出し自殺した哀れな男が居たことを思い出した。妻に先立たれ、まもなく自殺した文芸評論家の江藤淳。彼は、友人の石原慎太郎や、大江健三郎らとともに当時日本最高の知性と目されていた人物である。その遺書は「心身の不自由は進み、病苦は堪え難し。去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は形骸に過ぎず。自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ」であった。老・病を形骸とみなす思想は、三島由紀夫の思想にも底通する。

自殺の前年、40年連れ添った妻・慶子さんを、ガンで亡くした。「書斎の机に妻の写真を置き、本ができ上がると感謝の言葉を添え、真っ先に贈っている。妻の第一印象を楽しみに、大事に受け止めた」と話すほど妻を愛していた。そんな妻を亡くして、自身も病気になり、妻に全てを任せていた下着などを見ているうちに、突如大きな悲しみに襲われ、死へと誘ったのかもしれない。遺書ではそのことを、友人や読者に承諾をも求めている。江藤氏といえば、きら星のような親族に囲まれ(皇太子妃雅子さんも親族),生前は健筆を揮って、自分にも他人にも生きることを説いてきた。その自殺は、氏の著作を読み、信じて、人にまで勧めてきた人にとって、背信行為ともいえるのではないだろうか。しかし、著名人の中に、氏の自殺を是認し擁護している人が多いのである。当時江藤氏は日本文藝家協会の会長で、副会長の吉村昭氏の葬儀委員長で案内があったので、私は上京し飯田橋の千日会館まで出向き会葬した。その時、葬儀委員長の吉村昭氏が「会長とはほとんど会話したこともなかったが・・」という弔詞の後、石原慎太郎が友人代表として歯の浮くような弔辞を述べていた。

奥さんの後を追って死んだんだね。とっても美しい・美しい限りで、それは、我々が失ったものの大きさをまったく違う次元で十分に贖ってくれるはずではないか。彼から、『諸君よ、これを諒とせられよ』と請われて、彼を愛した者たちとして、何を拒むことが出来るだろうか」(石原慎太郎)

奥さまへのいたわりや、やさしさも生涯、深く貫かれ、本当に後を追うように逝かれたのですね」(瀬戸内寂聴)

彼の強さが、単なる自殺ではなく、矜持を保ったままの"自決"を選ばせたが、その本質は、限りない優しさによる、"妻への殉死"だと思う」(浅利慶太)

日頃、自殺も他殺も<いのち>を軽視することにかわりはなく正当化できないと言っていた人たちが、江藤淳の場合では、自殺は認められると言わんばかりである。ここに近代文学者たちの自己中心の身勝手な思想が見え隠れしている。振り返ってみれば、太宰治や有島武郎、芥川龍之介、川端康成、三島由紀夫など、著名な近代文学者に自殺者が多い。そしてその自殺が仲間達によって正当化されている。こうした<いのち>をも自分のものとみなし<いのち>の繋がりを無視した近代自我をいつまでも正当化していてよいものだろうかと思いながら、洗濯物を仕分けして収納ボックスに入れていた。そして思うのだったー老や病を形骸とみなし自殺するような者が、どうして日本の最高の知性なのだろうかと。晩秋の紅葉が美しいのは、温度変化に対応して自然(じねん)に生きているからであることを己の知性を過信する知の巨匠たちは知らないのである。


6月10日(土)  風雨 後曇り

浄土真宗大谷派照圓寺は、瑞泉寺(井波別院)の山門の手前を右に折れた処にある。開基は、瑞泉寺に移り住んだ本願寺五世綽如に随行してきた竹部法眼慶乗で、以後竹部一族は瑞泉寺を支え守ってきた。真宗大谷派横浜別院輪番をしておられた時お世話になった竹部俊恵師の妙蓮寺も照圓寺の分家であった。今日は、「親鸞聖人750回御遠忌・綽如上人650回御遠忌・本堂修復落慶法要」の記念講演ということだった。1時からということだったので1時前に会場へ入ったが、三つの法事が二時間も要したので、私の話は3時からということになった。90分の予定が二時間話した。こうした650年もの年月を経て念仏の土徳の匂いが草いきれのようにする土地柄では、いつの間にか我を忘れて話してしまう。講演を終えて控え室にいたら、竹部隆昌住職をはじめ寺族や檀家総代など多くの人が挨拶に来られ恐縮した。法が伝わったようだった。我を忘れて話したところに法が顕れる。如来が我に代わって話して下さる。有難いことである。



6月9日(金) 晴れ

なんだかんだ言いながら、床屋へ行ってきた。すっきりした。明日、真宗大谷派横浜別院元輪番をしておられた時お世話になった竹部俊恵師の紹介で井波別院近くの照圓寺へ出講することになっているからであった。
床屋の帰りに郵便局へ寄ったりコンビニへ寄ったりして、灯油代金の振り込みや日本文芸家協会の会費の振り込みなどをした。年会費20、000円。日本文芸家協会に入ったのは、作家の故吉村昭氏の推挙であった。当時協会の副会長をしておられた吉村氏が「君は、文藝家協会に入っているの? 」と言われたことがあった。「いいえ」と言うと「節子が会員拡充推進委員になったから、入らない?」と言われた。「入ったら、どんなメリットがあるのですか?」と問うと「特にないが、講演料が上がるかもしれないよ」と笑いながら言われた。「いいですよ」と言って入会することになった。推薦人が二人要るが夫婦でなるわけにもいかないから、誰かなってくれる知った作家いる?」と言われたので、高史明師になってもらった。あれから25年、2万×25=50万円支払ったことになる。道元禅師が「捨てるべきは道理なり」と言ったものに50万も支払ってきた。とかくこの世はどうでもいいものに何かと金がかかる。

無常迅速なり 生死事大なり
しばらく存命の際(あいだ) 業を修し学を好まば
只仏道を行じ 仏法をまなぶべきなり
文筆詩歌など その詮なき事なれば 捨つるべき道理なり 
   ・・・・・『道元禅師随聞記』



6月7日(水)~8日(木) 曇り時々雨 

たかが頭髪、されど頭髪。親鸞も「愚禿親鸞」と頭髪にこだわっておられた。講演に出向くのに、一休さんの無精髭の肖像画まで持ち出して頭髪のことを書いたのは、それなりの根拠があった。五木寛之さんの頭髪の話を思い出したからであった。五木さんと言えば、長髪をオールバックにしたスタイルがトレードマークで、80歳を超えても、ロマンスグレーの髪はフサフサで、どこに載っている写真もみんなカッコいい。

あれは、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の翌年(2002年)にニューヨークの北米仏教協会を訪れた時のことだった。「納棺夫日記」がアメリカで「COFFINMAN」と題されて英訳出版され、バークレーやロサンゼルスでサイン会と講演を終え、通訳して下さった海野大徹先生の計らいでニューヨークの北米仏教協会でも講演をするため立ち寄ったのであった。その私が訪問する数週間前に五木寛之さんも訪れておられたようである。その時、「他力」の英語版の出版の打ち合わせをここ北米仏教協会の事務所で行われ、写真を撮ることになったらしいが、アメリカのカメラマンが撮った写真はどれも気に入らないらしく、結局ロマンスグレーのフサフサの髪の写真を日本から取り寄せることになったとのことであった。その話を「あんなにこだわられたのには、驚いた」と協会の方が語っておられた。私はその話を聞いたとき、なるぼど、そうでなければあんなにトレンディな生き方、即ち時代に迎合した生き方はできないだろうなと思った。
それはそうと五木氏は親鸞のこの和讃をご存じだろうかと思うのだった。

 外儀のすがたはひとごとに 賢善精進現ぜしむ 貪瞋・邪偽おほきゆえ 奸詐ももはし身にみてり・・・・「愚禿悲嘆述懐和讃」

私は、小説家というものは詐欺師的才能がなければなれないと思っている。私も小説家になろうと思ったことがあるから、<貪瞋・邪偽おほきゆえ 奸詐ももはし身に満ちて>いなければ、小説など書けるものでないことぐらいは知っている。わかりやすい実例をあげれば、瀬戸内寂聴さんのような欲張り婆さんでなければ小説など書けるものではない。
私が坊主頭になったのはニューヨークから帰国して間もなくであった。五木さんの話を意識してというわけでもなかったが、丁度この頃外儀の姿などどうでもいいと思うようになったからだった。しかし坊主頭になってみると、坊主頭も手入れが必要なことを知った。野放図にしておくと、やはり一休宗純の画のようになる。そのことが気になるようであるなら、五木さんのことをとやかく言う資格などない。渡る世間からどのように思われているだろうかと思う意識がある限り、長髪だろうが坊主であろうが、とらわれの心、自力の心(しん)に変わりはない。そんな自力の心をもって「他力」という本を上梓するのも、一種の詐欺的行為ではないかと(既に読んでその内容も知っていたから) 15年前セントラルバークのベンチに座ってハドソン川の流れを見ながら私は思っていた
今もあのニューヨークでの五木氏の写真のごだわりの話が記憶に残っていて、ときどき思い出す。そして、五分刈りが一休宗純の髪のように野放図に伸びただけで気にしている自分に呆れるのであった。恥ずべし、傷むべし。



6月6日(火) 晴れ後曇り

昨日、上野駅の公園口まで出迎えて、東京芸術大学のキャンバスを通って講演会場へ案内して下さったのは、Diversity on the Arts Project / DOORの特任助教授里村真理さんであった。ダンボール芸術(グラフィックデザインやイラストレーションと、いわゆる既存の美術概念との境界をなくして風穴を開けたことで有名)の日比野克彦教授の弟子らしい。その里村さんからメールを頂いた。(演台の上に懐中時計を置き忘れしてきたから、その連絡でもあったー最近は出かけると何か必ず一つ忘れてくる。大井玄先生は、それは痴呆症ではない。単なる老耄現象であるとおっしゃる。)

そのメールの文中に「昨日は、本学講義にてお話を賜りまして誠にありがとうございました。全身全霊かけてのお話、ほんとうに空気がふるえるような時間でした。まるごと受け止められる経験の尊さ、生と死が出会うその瞬間にあらわれる表情、ひとつひとつのお話が青木さまの生き様となって、空間を満たしていくような感覚に圧倒されました。ほんとうに素晴らしい時間を過ごさせていただきました。こころから感謝いたします!」とあった。こうした言葉を頂くと、東京まで講演に行った甲斐があったというものだ。気にしていた一休宗純のような頭髪は全く関係はなかった。


6月5日(月) 晴れ

富山駅発14:19分の北陸新幹線「はくたか」で上野駅に着いた16:46分。公園口改札へ行くと担当の方に迎えられ、タクシーで樹木が多い東京藝大のキャンバスへ。
受講者は、若い学生と、一般公募の受講生(ほとんど年寄り)が入り交じった120人ほど。90分の予定が気がついたら100分話していた。最後までみんな真剣に聴いておられ、時間オーバーしているのに席を起たれるひとが一人もおられなかった。話が届いたようだった。講演終了直後、東京芸術大学美術学部教授の日比野克彦氏や特任准教授の伊藤達矢氏と無言で握手した、その感触で講演が成功であったことが伝わってきた。上野駅までタクシーで送ってもらい、21:10分発北陸新幹線の最終「かがやき」で帰宅した。家に着いたのは11:30分。東京で午後6時からの講演をして日帰りで戻れるようになった。便利になったものだと思ったが、スピード化は老齢者にとって快適感より疲労度を加速させる。疲れた。


6月4日(日) 晴れ

明日上野の東京藝大へ出講するため中途半端に伸びている髪が気になったので床屋へ行ったら休みだった。「第一、第三日曜と毎週月曜日は定休日です」と入り口に看板が掲げてあった。

このまま行くしかないなと思った。結婚式など気遣いが必要な場合であればともかく、講義に行くのに何を気遣っているのだろうと思った。そう思いながら鏡に写る中途半端に伸びた頭髪を見ているうちに、一休宗純の肖像画を思いだした。この有名な肖像画(重文)は、本来は肖像画の下絵だった作品である。この一休の肖像画の他に下絵がそのまま残されている絵としては「親鸞聖人鏡御影」などが有名である。これらを見ると下絵の方が完成作よりも生々しく、写実的であり、筆致も生き生きとして魅力的である。この一休宗純像も、そうした例外的な魅力ゆえに今日まで伝えられた稀有な一作といえるだろう。

ありのまま自然'(じねん)に生きようと思っていながら、いまだに娑婆の価値観にこだわっている。床屋が休みだったことが、とらわれの心に気づかされ、ささやかな回心を得たような気持ちになって床屋から自宅へ戻る道を歩いていた。


6月2日(金)~3日(土) 雨後曇り

有漏路にあって<俗諦>的ブログを書いていれば「いいね」が多く頂けるが、無漏路を目指して<真諦>的発言をしたとたん「いいね」が少なくなる傾向があることに気づいた。
親鸞は「末代の道俗、よく四依を知りて法を修すべきなり」といい、「われ指をもって月を指(おし)ふ、なんぢをしてこれを知らしむ、なんじなんぞ指を看て、月を見ざるや」とまで言っておられるのに、今日の人々も法を看ないで人や指や言葉を看ている。

<法四依>とは、Ⅰ)依法不依人  仏法を拠りどころとし、説く人によらない

           2)依義不依語  仏法の内容を拠りどころにし、言葉によらない。

           3)依智不依識 智慧を拠りどころとし、人間の分別に依らない

           4)依了義不依了義経  真理の了義経を拠りどころにし、不了義の経に依らない

『歎異抄』は親鸞の指が見えるから親しみがあって今日の人間中心の現代人にうける。しかし『教行信証』での親鸞の言葉は、月(=法)に照らされて気づかされた懺悔と月(法)を讃える讃嘆だけで、あとは如来や高僧たちの真言の引用である。三木清は晩年「親鸞の主著『教行信証』は、その全編が懺悔と讃嘆、讃嘆と懺悔で貫かれていると「親鸞ノート」に書き残している。

 月かげのいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ

この法然の歌にしてもながむる人が居なければ無意味であろう。法を看ようともしなければ、懺悔も讃嘆も生じない。慚愧の回心も讃嘆も仏性(法)に出遇った証なのである。法に出遇わない限り、<月愛三昧>も<光顔巍々>も<二種の回向>も、「光触かぶるものはみな」と親鸞が言う御和讃の言葉なども実感というかイメージできないであろう。イメージできないどころか、なぜ不可思議光なのか?なぜ<光顔巍々>をもって『大無量寿経』が真実の教であるのか?『正信偈』の冒頭になぜ12光が登場するのか?といったことも理解に苦しむはずである。「仏性に遇うをもって、大般涅槃に安住す」とか、「証知生死即涅槃」といった大乗仏教の根幹をなす思想も、法を看ないで指を看ている人には永遠に理解することはないであろう。法を看ないで法灯を継ぐことは出来ない。本山の阿弥陀堂より御影堂が大きいのが気になってきた。

6月1日(木) 雨

上野の東京藝大から5日の講座へ出溝するチケットが届いた。東京藝術大学とSOMPOホールディングスの産学連携プロジェクト Diversity on the Arts Projectの招きによるものである。2017年4月から新設された特別講座で、芸術の特性である 「個性を魅力とする価値観」と、福祉の「その人の立場に立って行動する思考」を重ねながら、多様な人々が互いを享受し、共生していく環境を創造するコミュニケーション・ クリエイタの育成を行うとあって、東京藝大とSOMPOホールディングスは、Diversity on the Arts Projectを通じて、多様な人々が共生できる 社会環境を創造するコミュニケーション・クリエイタの育成と多様な人々が共生できる社会環境の創出を目指すとある。 なんとなくわかるような、しかしどうなってゆくかわからないようなプロジェクトであるが、私を講師に選んだのはなんとなくわかるような気がしないでもない。
北陸新幹線のチケットは、上野着16:46分の往路と上野発21:10の最終電車のチケットであった。私はこうした主催者によるチケットの手配は好きでない。なぜなら決められた時間に拘束され、自由が全く奪われるからである。上野公園の西郷さんの像の処から藝大までの間に美術館や博物館などいろいろあって何か二度と見ることが出来ない催しを
やっているかしれないではないかと、田舎者は思うのだった。

芸術と言えば、残り少なくなった私など、芸術作品を楽しむゆとりがなくなった。道元禅師の言葉が浮かぶ。

無常迅速なり 生死事大なり
しばらく存命の際(あいだ) 業を修し学を好まば
只仏道を行じ 仏法をまなぶべきなり
文筆詩歌など その詮なき事なれば 捨つるべき道理なり  
 ・・・・・・『正法眼蔵随聞記』



5月31日(水) 晴れ後曇り後雨

雨上がりの庭の木々は少し違って見える。新芽の頃は真紅の赤モミジも緑色が加わってくすんできた。奥の青モミジは黄色味を帯びてきた。木々は日々変化しながら今を全機現で生きている。
<一切衆生悉有仏性>と仏教は説く。樹木は<生死の中に仏あれば生死なし>と常に無量寿(いのち)を生きている。自分は<生死なし>どころか、過去を引き摺り、生にこだわり、老・病・死におびえて生きている。
帰命無量寿如来・南無不可思議光」と称えていながら、無量寿を生きていない。無量寿如来に帰命も南無もしていないということである。今月も木々にも劣る生き様を晒してしまった。


5月29日(月)~30日(火) 晴れ  

私が、なぜ「蛆の光」にこだわるのかといえば、やはり納棺の現場での実体験だからと言うしかない。光は光を招くという。一毛孔の光を見れば、すなわち十方無量の諸仏の浄妙の光明を見る。

何も蛆の掃除までしなくてもいいのだが、ここで葬式を出すことになるかもしれないと、蛆を掃き集めていた。蛆を掃き集めているうちに、一匹一匹の蛆が鮮明に見えてきた。そして蛆たちが捕まるまいと必死に逃げているのに気づいた。床柱によじ登っている奴までいる。そうか、蛆も<いのち>なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた」

この私が体験した文章を、本木雅弘君が25歳の時インドを旅してベナレスで撮った写真集に上記文を引用したのが彼との出遇いのきっかけであった。やがて彼は「納棺夫日記」の映画化を実現し、映画「おくりびと」はアカデミー賞を受賞する快挙を成し遂げた。アカデミー賞にノミネートされたと彼から電話があった時「アカデミー賞獲れるでしょう」と私はリップサービスのつもりで言ったら彼は「その根拠は?」と食い下がってきた。「本木さん、一隅を照らす光には普遍性があるのです。だから蛆の光は案外オスカーの光とつながっているかもしれませんよ」といった。「一毛孔の光をみれば」と観無量寿経にある仏語を念頭に言ったまでのことだが、それが本当になって私自身が驚いた。

そんな余談よりも、蛆の光は私を親鸞の『教行信証』へと導いた。「諸有の人民、蜎飛蠕動(けんぴねんどう)の類(たぐい)、阿弥陀仏の光明を見ざることなきなり。見たてまつるものは、慈心歓喜せざるものなけん」-『教行信証』真仏土巻

「蜎飛」とは飛びまわる羽虫のことで、「蠕動」とは、地を這う蛆虫などをいう。そうか、無量寿(いのち)の光の前には人間も蛆虫も差別がないのだ! そう思うとうれしくなった。なぜなら、叔父をはじめ親族のものから穢多か非人のように成り下がってと罵倒され、以来自らが蛆虫より劣ると卑下しながら悶々と生きていた頃であった。水平社宣言に「エタである事を誇り得る時がきたのだ」という文言があるが、蛆だって光ってみえることがあるのだと気づいてからは、卑下することなく自信をもって納棺の仕事ができるようになっていた。

一毛孔の光は、いろんな展開へと導いてくれる。ある金沢のお茶人から小林東五の「蚯蚓の呟」という本を頂いた。陶芸家は土を食って生きているから、蚯蚓(みみず)のつぶやきと題したとある。中に篆刻印が載っていた。直観的にこの方に「落款」を作ってもらおうと思った。この方しかいないと思った。知る人ぞ知る陶芸家小林東五氏が「蚯蚓のつぶやき」であるなら私は地を這󠄀う「蠕動のつぶやき」であるから親鸞聖人が「愚禿親鸞」と自称されたように、蜎飛蠕動の類(たぐい)の私は「蠕動新門」という「落款」にしようと思った。本山の新門様と区別するのにもよいと思った。その旨を書いて、全く面識もご縁もない対馬におられる小林東五師に手紙を出した。やがて忘れた頃に陶磁器の印が届いた。後日、細川佳代子さんにお会いした時、「ああ、小林東五さん、うちの護熙さんの師よ、韓国の古い窯を案内してもらったことがある」と言っておられた。


5月28日(日)  晴れ

今日は町内の公園の草むしり。午前6時からだが、5時頃からそわそわと地面に直接座れるカッパのズボンをはき、軍手をして鎌を持って出かけ、しばらく一人でむしっていた。草むしりは好きである。無心になれるのがいい。草をむしりながら昨日の『御堂さん』の取材のことを想い出していた。

昨日は、とにかく断ろうと『御堂さん』の編集委員の到着を待っていた。約束の3時丁度に玄関の前に車が現われた。一人のようである。
家の中へ案内して、差し出された名刺には「MIDO編集部 佐々木覚爾」とあった。車で来たのは、妻の実家が富山市にあり、妹さんがわが故郷の村(入善町椚山)の常福寺へ嫁いでいて、ちょっと寄ろうかと思っているからだと言われた。直感的に人のよさそうな感じがした。私はメール添付の企画書を見せながら「この文あなたが書いたの?」と聞いた。「私じゃないですが・・」「もしあなたが書いていたらこの取材断ろうと思っていました」「いゃー申し訳ありません。仏教の知識がない芸能界の人や落語家さんなんかにも寄稿してもらうために出した共通の企画書を先生にも送ったのですね。すみませんでした」と言った。そんな連中と一緒くたにされてたまるかと思ったが、ぐっと抑えて次のように言った。「本当はお断りしようと思っていたが、折角大阪から来られたのですから、企画書の中にある私の「仏縁のエピソード」を聞いてもらって、記事にできれば記事にして下さいと言った。

私の仏教との出遇いは、あくまでも納棺の現場で死者たちや死に往く人に導かれたものでした。死に往く人が生と死が交差する生死一如の瞬間にみせる不思議な現象、具体的にはすーっと息を引き取る瞬間にほっとしたような安心の顔になるということに気づいたのでした。どんな死に方をしても、その死の瞬間は死者の顔は安らかで美しいと思うようになったのです。中には微光が漂っているような人さえおられた。そんな気づきがあった時、親鸞聖人の『教行信証』に出遇ったのでした。蛆が光って見えたから、 その光に導かれて<蜎飛 蠕動>という言葉に出遇ったのだった。(『大無量寿経』に蠕動(=蛆虫)という仏語があることを知っていたから、蛆が光って見えたのではない ! ) その光は遇斯光であり、釈尊の仏仏相念の光顔巍々の光に通じる一毛孔の光(弥陀の光明)であると、後に親鸞聖人から教わったのであった。だから私の場合、死者たちを介してではあるが、弥陀の光明、即ち弥陀の回向によって仏教に出遇わさせて頂いたのであって、企画書にあるような亡き人の生前の言葉や気持ちなどに導かれたのではない。私にとってここが大事なのです。映画「おくりびと」の著作権を放棄してでも原作者であることを辞退したのも、まさにこの一点、自力か、他力か、の選択の別れ目でした。親鸞聖人が『教行信証』の後書きに道綽禅師の『安楽集』から引用されている言葉「前(さき)に生まれんものは後を導き、後に生まれんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す」とあるように、ここでは前にうまれんものはとは、先にお浄土へ往った人のことであって、如来と等しくなられた人が残った人たちを導いているのです。だから折角わが国にはお盆という風習があるのですから、私も8月になればお墓参りをし、先に往った有縁の人を訪ねて報恩感謝の心を捧げるのです

以上は乱雑に話した要点だが、裏付けとなる具体的な体験談を交えて一時間ほど一方的に話していた。そして原稿が出来たらゲラの段階でみせてほしいとお願いした。佐々木さんがどんなインタービュー記事に仕上げるか楽しみだが、弥陀の回向、即ち他力の思想が欠落していたら、やはり今回の取材は無かったことにしてもらおうと思いながら、草をむしっていた。


5月27日(土) 晴れ

今日の午後3時に浄土真宗本願寺派津村別院が発行する月刊誌『御堂さん』の編集部員さんが来られる予定になっている。インタビュー記事の取材である。以前連絡があった時、その取材の内容を聞かないで「ええ、いいですよ」と安易に返事したのだが、昨日確認のメールが届いて、その取材目的を知って驚いた。断るべきだったと思った。

「今般、月刊誌『御堂さん』8月号の取材協力にご理解を賜わり、篤く御礼申し上げます。さて、今般、本誌8月号では「死んだらしまい!?」というテーマを企画しました。「人間は死んだら、それでおしまいや」という現代人の考え方に、一石を投じる特集です。8月お盆では、亡き人が還ってくるという習俗があります。それは、いのち絶えおしまいではなく、亡き人への思いを振り返り、偲ぶためであります。しかしこの時期だけでなく、常に繋がっていると私たちは考えています。それは、私たちのこころに亡き人が存在していて、亡き人の言葉や気持ち、また、これまでの大きな優しさや支えというものが、ふっとした瞬間や不安に感じていた物事が解決した時、また人生の岐路に立った時などに、アドバイスとなって蘇ってくるのではないでしょうか?その存在を感じられるのは、今の私と強い想いによって繋がっているのではないでしょうか?そこで青木新門様におかれましては、日常生活の中で、亡き人のお言葉やお気持ちが蘇ってきたご仏縁のエピソードなどをお聞かせいただきたく存じます」

「死んだらおしまい」というテーマには、私も言いたいことが山ほどある。しかし、私は<父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること>はない。この文を書いた編集者のスタンスに違和感を覚えた。取材を断ろうと思った。
死んだら何も無い」と思っている現代人に<亡き人が還ってくる習俗をもって対抗>して、どうして「一石を投じる特集」に出来るだろうかと思った。「死んだら何もない、無だよ」と思っている唯物論や実存哲学に洗脳された知識人たちが戦後の社会の思想的パラダイムを構築してきたのであった。それらのトップランナーを朝日新聞をはじめとするマスコミが「知の巨匠」などと称して担ぎ上げ、共同幻想思想としてきたのであった。

ブッダは死後の世界を「不問」とされた。何も語っておられない。また「死んだら何も無い」という思想は、古代からあった。アテネの哲学者エピクロス(紀元前341~270)などは、魂の不滅を否定し、死後の世界を認めない哲学者であった。いわゆる「死んだらおしまい」の思想であった。その思想はやがて、快楽主義と非難されるようになる。なぜなら死後の世界を無しにした時、死んだら何も無くなるなら生きているうちが華だと、欲望と快楽に走るようになるからである。エピクロスの唯物論は、現世を謳歌する快楽主義をもたらしたのであった。まさに今日のわが国もこの世を謳歌する快楽社会になっている。
インドでは2世紀に龍樹菩薩が「悉能摧破有無見」と、死後にも不滅の霊魂(アートマン)が有るとする見解も、死後には何も無いとする無見の見解も、真実を知らない外道の見解として、破棄された。ということはブッダや龍樹菩薩の時代から無見も有見もあったということにほかならない。そして<流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為>と、亡き人の言動(恩愛)は棄て難いが、しかし棄て去ったところで仏教は成り立っていることを知らねばならない。親鸞も「解脱の光輪きはもなし、光触かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ、平等覺に帰命せよ」と、無いと思うのも有ると思うのも貪欲(我執)の見解に過ぎないが、その我執は自力では破棄できない、光触かぶるしか、即ち他力に委ねるしかないと和讃しておられる。

人間の脳に張り付いた概念は、ブルトニュームを破壊するより難しい ・・・・アインシュタイン。世間が相対性理論を理解してくれなかった頃の言葉

こんなに根が深い問題を、わが国に伝わる習俗(お盆に亡き人が還ってくる)で対比しても、<一石を投じる>どころか、現代の無見の科学者や知識人たちに、古池の中の蛙が自らが飛び込むこともしないで御託を並べているとしかみられないであろう。こっちが、恥ずかしくなってくる。そう思ったので、親鸞が歎異抄の中で「おのおの十余ヶ國のさかいをこえて、身命をかえりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし・・云々」とあるが、「大阪からわざわざ来られたが、この取材は私の任にあらず、他にゆゆきき学者さんたちが巷には山ほどおられますから・・」と断りの文句まで考えて3時を待った。(一休み・・・・次の日記に続く)

 


5月26日(金) 晴れ

大島秀信画家の回顧展を観てきた。やはり、1970年に日展で特選を獲った『樹蒼』が一番よかった。東山魁夷に激賞された作品である。彼は2014年に亡くなるまで富山県在住の日本画家のトップとして君臨していた。ということは画家としての地位を得て40年間、その後の作品は1970年の『樹蒼』を越えることがなかったと言うことである。他人(ひと)のことは言えない。私も1993年の『納棺夫日記』を越えれない。作家の吉村昭・津村節子夫妻を八尾のおわらに招いたとき、三人で氷見の宿で会食した。その時「青木さん何か書いているの?」と津村さんに言われた時、吉村さんが「書かなくてもいいよ。あの『納棺夫日記』以上のものは書けないよ」と言われた。図星であった。あの時、なんだか妙に納得していた。


5月25日(木) 晴れ

最近の絵画展の案内などは、ほとんど回顧展になってしまった。親しくしていた画家や作家たちのほとんどが故人になってしまったからである。23日から県民会館で開催されている日本画の大島秀信さんの回顧展の案内も来ていた。七尾の小林良子さんからも杉森久英(七尾出身の作家)を顕彰する「杉森文学を語る会」の案内が昨日来ていた。作家井上靖氏がペンクラブ会長をしておられた時杉森氏は事務局長をしておられ、お二人とは七尾で小林さんの紹介でお会いしたことがあった。今日は、高岡市中田の善興寺前住職飛鳥寬恵さんが突然自宅まで来られ、父親の飛鳥寛栗さんと親交のあった般若一郎画伯23回忌回顧展を寺でやることにしたので協力してくれとのことであった。般若一郎画伯が死んだ時、呉羽山の中腹にあった自宅まで奥さんと担架で運び上げようとしたが、ずり落ちるので私が死体を背負って運び入れた記憶がある。とにかく、顕彰とか回顧とは、故人の作品を思い出して観ることだが、母親が死んだ児を想い出しているようなところがあって、よほど歴史に残るような作品でない限り、作品はその時点で止まったままになっている。止まったままの作品はやがて死骸となって消えてゆく。無量寿の<いのち>を持つ作品だけが生き残って一人歩きしはじめる。

5月24日(水) 曇り

東本願寺発行の月間『同朋』の6月号が届いた。「私の親鸞探訪」と題して2年間連載してきた最終号である。親鸞聖人の主たる足跡を訪ね23回に渡って記してきたが、振り返ってそれを一頁に纏めるには詩文にするしかなかった。


 親鸞讃歌 「光は流れる」

  晩秋の夕暮れ、東本願寺の唐門の前の銀杏の葉が西日をあびて金色に輝いていた。
 唐門をくぐると、宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要の特別記念事業として修復された御影堂の屋根瓦も銀杏の葉を敷きしめたように金色に輝いている。
 西日が沈むと、光は瓦の隙間に吸い込まれるように消え夕闇に包まれる御影堂