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5月28日(日)  晴れ

今日は町内の公園の草むしり。午前6時からだが、5時頃からそわそわと地面に直接座れるカッパのズボンをはき、軍手をして鎌を持って出かけ、しばらく一人でむしっていた。草むしりは好きである。無心になれるのがいい。草をむしりながら昨日の『御堂さん』の取材のことを想い出していた。

昨日は、とにかく断ろうと『御堂さん』の編集委員の到着を待っていた。約束の3時丁度に玄関の前に車が現われた。一人のようである。
家の中へ案内して、差し出された名刺には「MIDO編集部 佐々木覚爾」とあった。車で来たのは、妻の実家が富山市にあり、妹さんがわが故郷の村(入善町椚山)の常福寺へ嫁いでいて、ちょっと寄ろうかと思っているからだと言われた。直感的に人のよさそうな感じがした。私はメール添付の企画書を見せながら「この文あなたが書いたの?」と聞いた。「私じゃないですが・・」「もしあなたが書いていたらこの取材断ろうと思っていました」「いゃー申し訳ありません。仏教の知識がない芸能界の人や落語家さんなんかにも寄稿してもらうために出した共通の企画書を先生にも送ったのですね。すみませんでした」と言った。そんな連中と一緒くたにされてたまるかと思ったが、ぐっと抑えて次のように言った。「本当はお断りしようと思っていたが、折角大阪から来られたのですから、企画書の中にある私の「仏縁のエピソード」を聞いてもらって、記事にできれば記事にして下さいと言った。

私の仏教との出遇いは、あくまでも納棺の現場で死者たちや死に往く人に導かれたらものでした。死に往く人が生と死が交差する生死一如の瞬間、具体的にはすーっと息を引き取った瞬間、ほっとしたような安心の顔になるということに気づいたのでした。どんな死に方をしても、死者の顔は安らかで美しいと思うようになったのです。中には微光が漂っているような人さえおられた。その微かな光は遇斯光であり、釈尊の仏仏相念の光顔巍々の光、即ち弥陀の光明であると、親鸞聖人から教わったのでした。ですから私の場合、死者たちを通して弥陀の光明、即ち弥陀の回向によって仏教に出遇わさせて頂いたのであって、企画書にあるような亡き人の生前の言葉や気持ちなどに導かれたのではありません。親鸞聖人が『教行信証』の後書きに道綽禅師の『安楽集』から引用されている言葉「前(さき)に生まれんものは後を導き、後に生まれんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願わくは休止せざらしめんと欲す」とあるように、ここでは前にうまれんものはとは、先にお浄土へ往った人のことであって、如来と等しくなられた人が残った人たちを導いているのです。だから折角わが国にはお盆という風習があるのですから、私も8月になればお墓参りをし、先に往った有縁の人を訪ねて報恩感謝の心を捧げるのです

以上は要点だが、裏付けとなる具体的な体験談を交えて一時間ほど一方的に語って、原稿が出来たらゲラの段階でみせてほしいとお願いした。佐々木さんがどんな原稿に仕上げるか楽しみだが、弥陀の回向、即ち他力の思想が欠落していたら、やはり今回の取材は無かったことにしてもらおうと思いながら、草をむしっていた。


5月27日(土) 晴れ

今日の午後3時に浄土真宗本願寺派津村別院が発行する月刊誌『御堂さん』の編集部員さんが来られる予定になっている。インタビュー記事の取材である。以前連絡があった時、その取材の内容を聞かないで「ええ、いいですよ」と安易に返事したのだが、昨日確認のメールが届いて、その取材目的を知って驚いた。断るべきだったと思った。

「今般、月刊誌『御堂さん』8月号の取材協力にご理解を賜わり、篤く御礼申し上げます。さて、今般、本誌8月号では「死んだらしまい!?」というテーマを企画しました。「人間は死んだら、それでおしまいや」という現代人の考え方に、一石を投じる特集です。8月お盆では、亡き人が還ってくるという習俗があります。それは、いのち絶えおしまいではなく、亡き人への思いを振り返り、偲ぶためであります。しかしこの時期だけでなく、常に繋がっていると私たちは考えています。それは、私たちのこころに亡き人が存在していて、亡き人の言葉や気持ち、また、これまでの大きな優しさや支えというものが、ふっとした瞬間や不安に感じていた物事が解決した時、また人生の岐路に立った時などに、アドバイスとなって蘇ってくるのではないでしょうか?その存在を感じられるのは、今の私と強い想いによって繋がっているのではないでしょうか?そこで青木新門様におかれましては、日常生活の中で、亡き人のお言葉やお気持ちが蘇ってきたご仏縁のエピソードなどをお聞かせいただきたく存じます」

「死んだらおしまい」というテーマには、私も言いたいことが山ほどある。しかし、私は<父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること>はない。この文を書いた編集者のスタンスに違和感を覚えた。取材を断ろうと思った。
死んだら何も無い」と思っている現代人に<亡き人が還ってくる習俗をもって対抗>して、どうして「一石を投じる特集」に出来るだろうかと思った。「死んだら何もない、無だよ」と思っている唯物論や実存哲学に洗脳された知識人たちが戦後の社会の思想的パラダイムを構築してきたのであった。それらのトップランナーを朝日新聞をはじめとするマスコミが「知の巨匠」などと称して担ぎ上げ、共同幻想思想としてきたのであった。

ブッダは死後の世界を「不問」とされた。何も語っておられない。また「死んだら何も無い」という思想は、古代からあった。アテネの哲学者エピクロス(紀元前341~270)などは、魂の不滅を否定し、死後の世界を認めない哲学者であった。いわゆる「死んだらおしまい」の思想であった。その思想はやがて、快楽主義と非難されるようになる。なぜなら死後の世界を無しにした時、死んだら何も無くなるなら生きているうちが華だと、欲望と快楽に走るようになるからである。エピクロスの唯物論は、現世を謳歌する快楽主義をもたらしたのであった。まさに今日のわが国もこの世を謳歌する快楽社会になっている。
インドでは2世紀に龍樹菩薩が「悉能摧破有無見」と、死後にも不滅の霊魂(アートマン)が有るとする見解も、死後には何も無いとする無見の見解も、真実を知らない外道の見解として、破棄された。ということはブッダや龍樹菩薩の時代から無見も有見もあったということにほかならない。そして<流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為>と、亡き人の言動(恩愛)は棄て難いが、しかし棄て去ったところで仏教は成り立っていることを知らねばならない。親鸞も「解脱の光輪きはもなし、光触かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ、平等覺に帰命せよ」と、無いと思うのも有ると思うのも貪欲(我執)の見解に過ぎないが、その我執は自力では破棄できない、光触かぶるしか、即ち他力に委ねるしかないと和讃しておられる。

人間の脳に張り付いた概念は、ブルトニュームを破壊するより難しい ・・・・アインシュタイン。世間が相対性理論を理解してくれなかった頃の言葉

こんなに根が深い問題を、わが国に伝わる習俗(お盆に亡き人が還ってくる)で対比しても、<一石を投じる>どころか、現代の無見の科学者や知識人たちに、古池の中の蛙が自らが飛び込むこともしないで御託を並べているとしかみられないであろう。こっちが、恥ずかしくなってくる。そう思ったので、親鸞が歎異抄の中で「おのおの十余ヶ國のさかいをこえて、身命をかえりみずしてたづねきたらしめたまふ御こころざし・・云々」とあるが、「大阪からわざわざ来られたが、この取材は私の任にあらず、他にゆゆきき学者さんたちが巷には山ほどおられますから・・」と断りの文句まで考えて3時を待った。(一休み・・・・次の日記に続く)

 


5月26日(金) 晴れ

大島秀信画家の回顧展を観てきた。やはり、1970年に日展で特選を獲った『樹蒼』が一番よかった。東山魁夷に激賞された作品である。彼は2014年に亡くなるまで富山県在住の日本画家のトップとして君臨していた。ということは画家としての地位を得て40年間、その後の作品は1970年の『樹蒼』を越えることがなかったと言うことである。他人(ひと)のことは言えない。私も1993年の『納棺夫日記』を越えれない。作家の吉村昭・津村節子夫妻を八尾のおわらに招いたとき、三人で氷見の宿で会食した。その時「青木さん何か書いているの?」と津村さんに言われた時、吉村さんが「書かなくてもいいよ。あの『納棺夫日記』以上のものは書けないよ」と言われた。図星であった。あの時、なんだか妙に納得していた。


5月25日(木) 晴れ

最近の絵画展の案内などは、ほとんど回顧展になってしまった。親しくしていた画家や作家たちのほとんどが故人になってしまったからである。23日から県民会館で開催されている日本画の大島秀信さんの回顧展の案内も来ていた。七尾の小林良子さんからも杉森久英(七尾出身の作家)を顕彰する「杉森文学を語る会」の案内が昨日来ていた。作家井上靖氏がペンクラブ会長をしておられた時杉森氏は事務局長をしておられ、お二人とは七尾で小林さんの紹介でお会いしたことがあった。今日は、高岡市中田の善興寺前住職飛鳥寬恵さんが突然自宅まで来られ、父親の飛鳥寛栗さんと親交のあった般若一郎画伯23回忌回顧展を寺でやることにしたので協力してくれとのことであった。般若一郎画伯が死んだ時、呉羽山の中腹にあった自宅まで奥さんと担架で運び上げようとしたが、ずり落ちるので私が死体を背負って運び入れた記憶がある。とにかく、顕彰とか回顧とは、故人の作品を思い出して観ることだが、母親が死んだ児を想い出しているようなところがあって、よほど歴史に残るような作品でない限り、作品はその時点で止まったままになっている。止まったままの作品はやがて死骸となって消えてゆく。無量寿の<いのち>を持つ作品だけが生き残って一人歩きしはじめる。

5月24日(水) 曇り

東本願寺発行の月間『同朋』の6月号が届いた。「私の親鸞探訪」と題して2年間連載してきた最終号である。親鸞聖人の主たる足跡を訪ね23回に渡って記してきたが、振り返ってそれを一頁に纏めるには詩文にするしかなかった。


 親鸞讃歌 「光は流れる」

  晩秋の夕暮れ、東本願寺の唐門の前の銀杏の葉が西日をあびて金色に輝いていた。
 唐門をくぐると、宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要の特別記念事業として修復された御影堂の屋根瓦も銀杏の葉を敷きしめたように金色に輝いている。
 西日が沈むと、光は瓦の隙間に吸い込まれるように消え夕闇に包まれる御影堂

  御堂の中から灯りが漏れている。七百五十年継承されてきた法灯の灯りか、いや、念仏の声がする
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
 御堂の中は光で満ちている。人影がないのに、念仏の声がする。光の中から声が聞こえてくる。光明と名号がからみ合い、妙なる音楽を奏でている
 光は堂に満ち、あふれた光が透かし欄間や鎧戸の隙間から流れ出している。舞い上がった光の帯がオーロラのように夜空を彩っている
 青色青光 赤色赤光 黄色黄光 白色白光
 光は仏旗となってはためき、大きく弧を描き流れ始めた。六角堂の上空から吉水の方角へ流れている
 ・・・・突然の雷鳴  念仏の声は途絶え、闇が襲う

  ここはどこだ
 越後に雪が舞っている。雪に埋もれた人影が春を待っている。板倉の郷に蕗のとうが芽生える頃、雪に晒された光は再び流れ始める。

 信州信濃の善光寺の方角へ流れてゆく。一光三尊仏に迎えられた光のスクリーンに聖徳太子が観音の姿で映っている。
 光はとどまることなく流れ進む
 浄土三部経を読経する声が聞こえる。武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫といふところ
 突然読経が途絶え、光は無碍の光に生まれ変わり、四方八方へ流れてゆく。
 鬼怒川や利根川の流れが生んだ大地を尽十方無碍光が地を這うように流れてゆく。
 稲田の森から笈を担いで出てくる人影がある。親鸞だ。上洛を決意した親鸞聖人だ。ゆっくりと弥陀の光明の中を歩いて行かれる

  夜が更けるにつれ、静寂さを増す御影堂
 み堂の奥に一点の灯が点っている
 七百五十年を経た今も、親鸞聖人は生きておられる。世の人を導くために、永遠の光となって生きておられる

  阿弥陀堂の上に月が出ている
 月愛三昧の光が月影のいたらぬ処なく
 やさしくふりそそいでいる


5月22日(月) 晴れ

後期高齢者(75歳以上の老人の呼び名らしい)になったら、なるべく他人に迷惑をかけないで静かに過ごそうと思っていても、なかなかそうはいかない。時には思いもしなかったことで迷惑をかけることがある。
先日、裏のお隣の方が訪れ、「我が敷地内にはみ出しているお宅の庭木をなんとかしてくれないか」と言われた。樹木が伸びることまで想定していなかった。即座に「なんとかしましょう。ちょっと時間を下さい」と言っておいたのだった。今日、庭師さんが来て下さって、我が物顔で繁茂していた楢の木を根元から伐採してもらった。ドングリを実につける楢の木は、ほっておけば熊が登れるほどの巨木になる。

昨年の春のお彼岸だった。突然、東京の築地本願寺・和田堀廟所から電話があり、「あなたが継承されているお墓の木が大きくなって、周りのお墓の所有者に迷惑をかけています。対処して下さい」と連絡を受けた。確か山茶花だったような気がする。60年前私が学生だった頃永福町にある伯母の家に下宿していた。その前年に急逝した伯母の夫の為に建てた墓であった。近くには佐藤栄作の墓や小林幸子の生前墓があったり、旧区画には九條武子や樋口一葉といった人の墓もある高級墓地。なぜ山茶花を植えたのか知らないが、60年の歳月が山茶花を巨木にしたのであった。伯母には実子がなく、養女が居たが、その養女にも先立たれ、最後は一人暮らしをしていた。私が納棺夫になったことを知った伯母は、故郷の叔父とともに「親族の恥」と言って私を見切り捨てた。しかしその伯母の葬式も私がして、納骨もして、その流れの中で甥の私が、伯母の夫と養女と伯母の三人の遺骨が納まった墓の継承者になっていた。伯母が亡くなってから20年経つ。伯母の遺骨を納骨した時、既に山茶花は40年経っていたから植えてから60年。根が墓石に食い込んでいて見積もりをとったら十数万の金額だった。私が死ねば、この墓は無縁墓となることは間違いない。いっそのこと、今のうちに更地にして返納しようかとも思ったが、それにはもっと費用がかかるとのことだった。また、伯母は生前茶道教授をしていて、そのお弟子さん達が今も〇〇忌と称して墓参する行事が続いている。とりあえず周りの人に迷惑のかからない程度に木を切ってもらうことにして解決した。

今日切り倒された楢の木も、昨年切られた東京の山茶花も、過疎地の山里にあれば切られずに生涯を全う出来ただろうにと思った。人間がひしめき合う場所にあっては、楢や山茶花の<いのち>を守ろうとすれば、人間の争いとなり、お隣との境界が竹島や尖閣諸島といった修羅場と化してしまう。楢の木に生け贄になってもらって事を納めてもらうしかない

芭蕉は『野ざらし紀行』の中で道端に捨てられた捨て子を見て「猿を聞く人捨て子に秋の風いかに」と句にし、「いかにぞや汝、父ににくまれたるか、母にうとまれたるか。父は汝を憎むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。汝が性のつたなきを嘆け」と、芭蕉は自分に言い聞かせて通り過ぎてゆく。この芭蕉の態度を非人間的と非難する文藝評論家が居たが、わが国の年間死亡者数の数倍もの人工妊娠中絶を容認していながら、当時の間引きや捨て子を非難する資格などあるだろうか。私は楢の木が切られるのを見ながら、念仏を称えているしかなかった。


5月21日(日) 晴れ

20日の「新門日記」を書いて転送したら、過去の記事もふくめ全て消えてしまった。おそらく私の操作ミスだろうが、なぜそうなったのかわからない。白い画面を見ながら、一瞬呆然としたが、以前であったらパニックというか、頭が真っ白になったであろうなと思った。最近ではこの程度の事では驚かなくなった。「もろもろの事象は過ぎ去るものである」といったブッダ最後の言葉を思い出したりしてやり過ごすようになった。特に命日を定めてから、何が起きようとあまりバタバタしなくなった。正岡子規の言葉が浮かんだ。

余は今まで禅のいわゆる悟りといふ事を誤解していた。悟といふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違いで、悟りといふ事は如何なる場合でも平気で生きている事であった」ー正岡子規『病床六尺』(明治35年6月2日付け、9月19日死去、享年36歳)

真っ新な画面を見ながら、自分の過去もこのように消せるものなら消したいものだと思った。世に出した本なども全部焼却できるものなら焼却したいものだと思っている。特に、極悪深重煩悩熾盛の凡夫と自覚して<生死即涅槃>と証知してから、五つ玉の算盤のように「御破算で願いましては」と〇(ぜろ)から再出発したいものだとの思いが強くなっていた。そんな思いがあって、〇になることを恐れるどころか、ほっとすることさえある。
高田好胤師は『般若心経』の心は「とらわれない心、かたよらない心、こだほわらない心広く、広く、もっと広く」だと言っておられた。<色即是空>などと言われるより実にわかりやすい。とらわれの心がある限り、平気で生きることなどできっこない。それは死に関しても言えることで、悪の限りを尽くし正岡子規の二倍以上も生きてきて、まだ生死にとらわれている。しかし今では自分が決めた命日(2026年4月11日)まで待たなくとも<死ぬるときは死ぬるがよかろう>と思えるようになってきた。正定聚とはあなた(如来)任せに生きている念仏者を言うのであった。その生き方こそが如何なる場合でも平気で生きることが出来る唯一の道だと私は思っている。