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4月23日(日)~24日(月) 晴れ

昨日、今日と、快晴の日和となった。日向ぼっこしながら『教行信証』を読んでいた。一昨日、「大無量寿経」を読んでいて、<死>という漢字が一字も出てこないことに気づいた。仏典には<死>とい文字が単独で使われることはないのだ。そう気づいた時、親鸞の『教行信証』はどうだったろうと読み始めたのであった。何度も読んでいるので、斜め読みをしながら「証の巻」まで読み終えた時点で、「生死海」とか「生死即涅槃」とか、<生死>といった合成語としては出てくるが、生と死を切り離した単独の<死>という言葉は一字もなかった。

考えてみれば、仏典はブッダが話し言葉で説いた教えを「如是我聞」と聴き伝えられたものを纏めたものであった。ブッダは死や死後の世界を「不問」とされたのであった。不問とは語っておられないということである。語っておられないのに死という言葉が出てくるはずはない。
道元が「生から死へうつるとこころへるは、これあやまりなり」というとき、死という言葉を使っているが、ここでは人々の間違った認識を指摘しているのであって、道元も「生死の中に仏あれば生死なし」と言っておられるのであった。少なくとも真諦(仏教の真理)を説く仏典には死という文字は単独ではないということがわかった。ところが新興宗教の教祖は、死と死後の話ばかりしている。オーム真理教の麻原などもそうであった。

彼岸とは浄土であった。往生とは死ぬことではなく死のない世界へ往くことであった。今後死という活字を用いて死後の世界をさも見てきたように語る哲学書や仏教書はすべて偽物と判断しようと思った。世間では、「メメント・モリ(死を想う)」とか「生と死を考える」とか言ったりしているが、私がどうしてもなじめなかったのは、死に関して私が描くイメージがほとんど他者に伝わらなかったからだった。講演などで、私が無量寿のつもりで<いのち>と話しても、人々は生まれてから死ぬまでの個体の命をイメージして聴いていた。<生死>という言葉が死語になっているのである。西洋には<生死>という言葉も概念もないが、本来<生死>が自然(じねん)の姿なのである。仏教は自然(じねん)を前提に成り立っているのだ。とにかく浄土三部経にも親鸞の「教行信証」にも<死>という活字がないことを確認できたことが、うれしかった。
今頃になってそのことに気づいて喜んでいる自分がおかしかったが、ぽかぽかとした慈光に満ちた陽だまりの中で、目の前の新芽から紅葉をつける「出猩々もみじ」を見ているうちに、「裏(死)を見せ表(生)を見せて散る紅葉」と辞世の句を残して散った良寛のように、このまま<生死即涅槃>と往けたらいいなと、うとうとしなから思っていた。


4月21日(金) ~22日(土) 薄曇り 肌寒い

画家熊谷守一に「ひとりたのしむ」という書がある。私も最近一人楽しんでいるようなところがある。考えてみれば、この<ひとりたのしむ>ということは人間晩年に欠かせない重要なことのように思える。死を迎えるためのトレーニングのような気がするからである。死ぬときは独りで死んでゆくしかない。その為には孤独に慣れておく必要がある。

「孤独死」という言葉がある。マスコミなどに見られるこの言葉は、社会や家族から見捨てられたように誰にも看取られることなく死んでゆくことを言うらしい。野生の象などは死期を迎えると、群れから離れ、独り静かに死を迎えるために肉食動物の姿が見えないような処で、食物も水も口にしないで一週間ほどで死を迎えるのだそうである。まさに即身成仏のための木食行にも似た「孤独死」と言ってもいい。
人間は孤独を恐れる。人間社会の繋がりの中で生きているからである。そんなしがらみが纏わり付いた身であるから、その恩愛は絶ちがたい。

流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者 (三界の中に流転して 恩愛断つことあたわずとも 恩を棄て無為に入るならば 真実に恩に報いる者なり)

浄土門の葬式の出棺の際などに唱えられる経だが、最近はあまりそうした場面を見かけなくなった。仏教は<恩愛を棄てて無為に入る>ことを勧める。しかし今日の社会は「恩愛不能断」は人間愛の当然の権利として是認し、絶つことをしないで、むしろ無為に入ることを拒絶する傾向さえある。要するに宗教離れである。今日のようなヒューマニズム(人間中心主義)社会にあっては、宗教などなくとも人間に愛さえあれば、人を救うことができると思っている人が多いのである。愛する人の死に直面して悲しむ人を慰めるグリーフワークとか看取りといった第三者の善意の行為も、一時の癒やしにはなっても、死を超克するといった根源的解決にはならない。こうした恩愛不能断の容認はややもすると、人間の心の奥にがん細胞のように巣くう三毒(貪欲・瞋恚・愚痴)の容認へとつながってゆく。

孤独にも、いろいろある。昨日川端康成を例にあげたが、虚無を抱えて不安のまま生きる孤独もあれば、熊谷守一のように安心の心で<ひとりたのしむ>孤独もある。独り楽しむには、無為に身を任せるしかない。「仏性すなはちこれ無為なり、無為すなわち如来なり。」(涅槃経) とあるように、無為即ち如来に身を任せるなら、自ずから真実に報いることになるのである。徹底的に娑婆のしがらみを絶った無為の孤独者を如来は見捨てておかない。<弟子が身を整えた時、師が現われる>と中国の諺にあるように、念仏者が<信>を整えた時、如来は即便微笑して眼前に顕われるという。「仏性(=如来)に遇うをもって、大般涅槃に安住す」(涅槃経) そう信じる私は、無為に入る準備のつもりで<ひとりたのしい>孤独を味わっている。



4月20日(木) 曇り 肌寒い

毎日、この「新門日記」を書いていて、どきどき何をしているのだろう、何でこんな御託を並べているのだろうと思うことがある。川端康成の「雪国」で、芸者駒子が毎日欠かさず付けていた日記を男に見せたら「徒労だね」と言われる場面がある。なんとなく「新門日記」も徒労のような感じがしてくる。その徒労を生きた駒子のモデルとなった芸者松榮(本名小高キク)は88歳で天寿を全うされ、美しいまでに研ぎ澄まされた虚無の作家川端康成の最期は自殺であった。ニヒリズムの行き着く先は、回心がない限り、自殺しかないのである。どんなにその作品が素晴らしかろうが、ノーベル文学賞を受賞する作家であろうが、私は自殺を容認しない。なぜなら<虚無>は屈折した自我の有り様の一つであって、自殺は仏の<いのち>を自分のものだと錯覚した我執に基づく行為だからである。

歳をとると、複雑な理屈っぽいものより、単純なものを好むようになる。絵画でいえば、熊谷守一の作品などが心にしっくり納まる。五、七、五文字の芭蕉の句などもいい。単純だが、深いものがいい。単純で深いといえば、「南無阿弥陀仏」の六字名号以上のものはあるまい。
仏のたまはく「われ、無量寿仏の光明の威神、巍々殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すとも、なほいまだ尽くすことあたはじ」(無量寿経・上巻) 要するに、阿弥陀仏の内容は仏でさえ永遠に説いていても説き尽くせないということである。生も死も、時間も空間も、そこに内在する一切だからである。たった六字の中に三千大千世界が濃縮されていて、その一切が清浄光明ならびない浄土となって顕われる世界、そんなイメージを浮かべて私が念仏を称えていたら、抹香臭いと嫌な顔をされたことがあった。悲しくなる。法然や親鸞の念仏は<いのち>が生き生きと表に顕われていたのに、人々が「なむあみだぶつ」と聴くだけで、<死と葬式>を連想するようになったのはなぜだろうか。往生とは死ぬことだと取り違えているからではないだろうか

先に取り上げた熊谷守一の晩年(80~90歳代)の作品のキーワードは「無一物」と「いのち」であった。また文化勲章の内示があった時「そんなもの貰うと、忙しくなるから」と言って辞退した愉快な話もある。晩年の熊谷守一は家から一歩も出ないで、家の中に在るものと庭に見えるものだけで宇宙を描いていた。私もそうありたいと思っている。


4月19日(水) 曇り 風強し

昨日(18日)の日記に「蓮如の聖俗具有の生き様が因となって、今日の真宗寺院に影を落としている」と記したら、早速「影を落とすとは具体的にどんな影なのか?」という問いがあった。北陸の浄土真宗の若い僧の方のようであった。北陸では蓮如さんに対する非難めいたことは言えない。

私が「影」と言ったのは、龍樹菩薩の真諦・俗諦の二諦のことが念頭にあったからであった。「一切が空であるなら、ブッダの説いた真理も空になるのではないか」と論敵から問われて龍樹が答えたのが二諦説である。「きみたちは<空>が何であるか知らないからそんな質問をするのだ。ブッダは二つの真理(二諦)に依拠して法を説いたのである。それは世俗の立場での真理と、究極の立場から見た真理である。 この二つの真理の区別を知らない人々は、仏陀の教えにおける深遠な真理を理解できない

たとえば、唯円が親鸞の側にいて日常見聞きしたことを纏めた『歎異抄』は世俗の立場での真理(俗諦)で、親鸞が、窮極の真理に到達して涅槃を体験した高僧たちの真言を選んで纏めた『教行信証』は窮極の立場から見た真理(真諦)と、私は勝手な位置づけをしている。歎異抄から入った知識人が多いが、この区別を知らないで親鸞を理解しようとすると、特に『教行信証』を読みも理解もない人は、とんでもない間違いを起こしかねない。その好例がある。瀬戸内寂聴氏が25年前にある雑誌に「地獄は一定棲家なれば」と題して載せた寄稿文。

「阿弥陀経の中には、極楽のイメージが実に克明に描写されている。七の宝池があり、そのまわりは金銀や硝子でつくられた楼閣が建ち並び、それはルビーやメノウなどの宝石で飾られ、池の底には金砂が沈み、色鮮やかな鳥が舞い美しい声でさえずってる。池の蓮は車輪のように大きく、青い花には青い光を、赤い花には赤い光を、白い花には白い光を、放っているというのである。そこは苦もなく、人々は美しい着物を着て、いつでもゆつたりと歩いている。
何という退屈そうな極楽であろう。苦のない世界はきっと、私は退屈で、いつそ地獄へ堕としてほしいと思うだろう。それでも王朝の大政治家で権力者として最高だった藤原道長でさえ、阿弥陀経の極楽に憧れ、臨終には阿弥陀仏の指に五色の絹糸をかけ、その端を自分の指にしっかりまき付けて死を待ったと伝えられている。私はいいことも、少しはしないでもないが、それ以上に悪いことを一杯しているので、まちがいなく地獄へ行くだろう。とすればじたばたせず、そこで観念して地獄こそわが極楽と思い定めるしかないと思っている。住めば都というではないか」


『教行信証』の真諦を理解することもなく、だから『歎異抄』の俗諦も理解できないまま、「地獄は一定」という、その字句だけをとりあげ自分勝手に解釈して、親鸞が弥陀に賜わる念仏であるから、念仏に勝る善などない、念仏のほかに往生の道はない<往生一定>の確信の上での発言であるのに、浄土など頭から否定し往生まで拒否したような文になっている。己が作家として俗世の名利に赤い糸をつなげていながら、弥陀の救いを真摯に求める方便の糸を知者ぶってせせら笑うようなことを、頭を丸めてよく書けたものだと思う。それを受け入れる読者がいるからである

聖俗具有の蓮如は俗諦を説く天才であった。人にわかるように真理を説くには世俗の立場で説くしか真理は伝わらない。蓮如は真理を知り世事に長(た)けていたから出来たことである。また「歎異抄」は危険な書物であるとして蔵の奥へ隠してしまったのも蓮如は二諦の区別を知っておられたからこそ、先にあげた瀬戸内寂聴さんのような世俗的解釈をする者が現われることを防ぐためであった。私が「影を落としている」と言ったのは蓮如の聖俗併せ持つ生き様の<聖>の部分は見ないで<俗>の部分だけに目を向け<地獄は一定棲家なれば>と寺院経営をしておられる住職も見受けられるから、そのことを「影」と言ったのであった。



4月18日(火) 晴れ 風強し

私が通った故郷の小学校に「清く、正しく、美しく」と書かれた額が掲げられていた。私は登校する度に見上げて「清く、正しく、美しく」生きようと思った。しかし社会に出て「清く、正しく、美しく」生きようとすればするほど壁にぶつかり挫折を繰り返した。気がついたら、納棺夫になっていた。清くどころか、汚泥まみれになっていた。正しくどころか、悪業極まりない人間になっていた。美しくどころか、見るも無惨な醜悪な人間になっていた。しかし晩年になって親鸞に出遇って、再びあの少年の日に見た「清く正しく美しく」という言葉を思い出した

一休禅師に「有漏路(うろじ)より  無漏路(むろじ)へ帰る 一休み 雨降らば降れ  風吹かば吹け」という歌がある。この歌から<一休>という名(道号)になったのだが、一休さんは<一休みしたまま>生涯を終えてしまった。雨がふっても、風が吹いても、この世が楽しかったのであろう。風も雨もない無路地(窮極の悟の世界)へ向かうことはしなかった。
蓮如は一休と同時代を生きた。二人は親交があった。こんな逸話が残っている。

「ある日一休が蓮如の居を訪れた時、蓮如が不在だったので待たしてもらうと、書院の床にあった阿弥陀如来像を枕にして寝ていた。蓮如が戻り、それを見て「なんとしたことを、私の商売道具を枕にするとは」といった。一休は「そうか、そうか、それはすまん、すまん」と言って二人で大笑いしたという話。ほんとうにあったかどうかわからないが、こうした逸話が残るということは、肝胆相照らす仲であったことは間違いない。二人にとっては聖俗併せ持つ大人の笑い話に過ぎないだろうが、私はこうした大人の会話は好きではない。真面目に生きている者にとっては不快感を覚える。「清く、正しく、美しく」を貫いて生きた純粋無垢な少年のような法然や親鸞に憧れる。

釈尊がブッダガヤの菩提樹の下で、悟りを開く禅定に入った時に、瞑想を妨げるために現れたとされるマーラ魔神。愛と生命の神でもあり、リンガー(男根)の形で象徴される。わが国では男根のことを「魔羅(マラ)」という隠語になっている。煩悩の化身であるマーラにとって、釈迦が悟りを開く事は自身の破滅につながる。そこで釈迦のもとに美しい三人の娘達を送り込むが、釈迦は数々の誘惑にも屈しないので、マーラは恐ろしい形相の怪物達に釈迦を襲わせたが、なぜか釈迦に近づくことはできなかった。ありとあらゆる武器で攻め、周囲を暗闇に覆っても釈迦は動じず、最後はマーラ自らが巨大な武器を振りかざして向かっていくが、武器は花となってしまう。こうしてマーラは敗北を認め、釈迦は悟りを開いたとされている。

一休も蓮如も、最晩年まで性欲を捨てなかった。一休は77歳から88歳の臨終まで大徳寺の奥で盲目の女(森女)をかくまって溺愛していた。蓮如は、85歳でなくなる前年の84歳の時5番目の妻に27人目の末っ子を生ませている。一休も蓮如も有漏路で一休みしたまま無漏路へ向かおうとしなかったということである。この蓮如の聖俗具有の生き様が因となって今日の真宗寺院に影を落としている。
釈尊も妻帯し子供もいたのであった。しかし29歳で出家し、35歳で悟りを得た後も、完全な覚りに向かって無漏路を45年間歩き続けられたのであった。その点、独身を貫き、一休をして「法然生き仏」といわしめた法然は言うにおよばず、親鸞も60歳で関東から京へ戻るまでは恵心尼と一緒であって、「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づへし傷むべし」と悲嘆しておられたが、上洛は有漏路から無漏路へ帰る決断であった。上洛後入滅までの30年間は真証の証を得て、清浄光明ならびない無漏路(無量光明土)を報恩感謝しながら歩いておられたことは晩年の和讃にそのお姿が読み取れる。
それは9歳の時青蓮院で<清く正しく美しく>生きていこうと誓った範宴の心を如来が育てて下った窮極の姿であった。



4月17日(月) 薄曇り

庭の緑が濃くなってきたのに気づいた。早速写真を撮してカバー写真を差替えた。椅子に座って、新緑の草木と新芽から赤い紅葉の木(「出猩々」という名のもみじ)とのコントラストが面白いと眺めていたら、尾形光琳の白梅紅梅屏風が浮かんだ。

尾形光琳の代表作・白梅紅梅屏風図(国宝)を観たのは、熱海のMOA美術館であった。世界救世教本部へ講演に行った時特別に見せて貰ったのであった。フェノロサが尾形光琳を「世界最大の装飾画家」と激賞していたが、確かに見応えがあった。今日のデザイナーの作品でこの白梅紅梅図を超える作品はないだろうと思った。
春夏秋冬の季節を描きながらその季節を超えたものを一枚の絵の中に見いだせるような作品が私は好きだ。芭蕉の句にもそうしたものを感じさせる。歴史に残るような作品には、その技能もさることながら、普遍的な思想が地下水のように流れている。人によっていろんな受け取り方が出来るのもその作品の持つ力であろう。

今朝、ゴミ出しに行って川の流れを見ていた。わが町内のゴミ集積所は神通川の堤防の縁(ふち)にある。ゴミを置くと堤防に上り、川に下りる階段に座って川の流れを見ていた。流れを見ているうちに、先ほど白梅紅梅図を思い出していた所為か、鴨長明の「方丈記」の冒頭の言葉が浮かんだ

 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず

鴨長明は激動の時代の流れに翻弄され、失意のうちに果てたが、この「方丈記」の冒頭の言葉は名文としてわが国の人は残してゆくだろう。光琳も白梅(春=青春)と紅梅(秋=老)の間に生々流転する川の流れを抽象化して見事に描いている。川の流れも、今日のように静かにゆったりと流れていることもあれば、雨期ともなれば濁った水が<五月雨を集めてはやし>と流れることもある。川の流れにもその時その時の相がある。時代にも流れの相がある。その世相をめざとくキャッチして巧みにFICTIONした人が流行作家である。しかし相が変わればその作品は川に浮かぶ泡のように消えてゆく。そんなことを思いながら川の流れを見ていたら、川面がピカッと光った。すると親鸞に<有量の諸相を超えて眞實を目指せ>という和讃があったことを思い出した。

 智慧の光明はかりなし 有量の諸相ことごとく 光暁かぶらぬものはなし 眞實明に帰命せよ


4月16日(日) 晴れ

今日は我が家の食事会。別居している長男一家四人と嫁にいった次女一家四人と家にいる長女と妻と私の11人、月に一度の親睦のための定例食事会である。店を決めるのは孫たちで、いつも「焼き肉屋」になってしまう。特に孫の一人は高校でラクビーをやっていて、体重を増やさねばならないからと、焼き肉屋を主張するらしい。孫たち四人は全員男の子で、その食べ方はすざましく、カルビ20人前をあっというまにたいらげていた。そんな孫たちを見ているだけで楽しい。歩行困難な妻を連れて行くことは大変だが、みんなに囲まれているのがうれしいのか、始終笑顔を見せていた。会食後、店を後にする時、焼き肉屋の玄関に一列に並んで「じいちゃん、ありがとう」と手を振ってくれた。



4月15日(土) 晴れ

昨日の日記に吉本隆明や五木寛之氏の実名をあげて<信>がないのに親鸞を語っていると僭越なことを言った。私はこの二人のことを批判しようと思って言ったのではなく、今日の社会のパラダイム(時代の潮流)を築いてきた近代の思想から決別すべき時がきているということを主張したかっただけである。

戦後の作家や知識人たちが受け入れた思想に、ドイツのハイデッカーやフランスのサルトルなどの実存哲学がある。人間の実存を哲学の中心におく思想的立場で、本質の実在に対する現実の実在を優位におく思想。戦後の知識人たちはこぞってこの思想を支持し、マスコミも<知の巨匠>たちの思想」と大いに煽り、唯物論とともに本質を認めない、即ち神や仏を認めない傾向の思想を世に定着させてきた。
ハイデッカーにこんな逸話がある。友人のユンガーが「ニヒリズム(虚無)が極限に達したら、新しい別の世界が開けるのではないか」と言った時、ハイデッカーは「われわれはその一線を越えない立場である。不安を不安のままで生きることが実存の証である」と答えている。キエルゴール、ニーチェ等の本質(神)を認めない思想を引き継いでいる。わが国での実存思想の代表格である大江健三郎は中村雄二郎とこんな対談をしている。

大江「ぼくは、出家しそうになるということが子供の時からの恐れでした」
中村「それは知らなかった。大江さんは昔から出家に対して恐れがあったのですか」
大江「恐れと憧れがありました。出家願望が突然襲いかかってきて、自分を別の世界へ導いてゆくのではないかという恐怖」
中村「それは宗教的な回心とは違うのではないですか? コンバージョン(転換)じゃないですか?」
大江「コンバージョンです。コンバージョンですが、しかし今の自分の眼でみれば、実につまらないものに、なりふりかまわず熱心になるんじゃないかと、それが十代の頃からの恐れでした」

「新潮」1986年1月号「大江健三郎・中村雄二郎対談」より抜粋

ここに見られるのは、本質(仏教の真実)を<実につまらないもの>とみなし、一線を越えないで実存の立場(人間の理性)を守ったことを自慢しておられるのである。一線を越えなければ<信>はありえない。また仏教は生・老・病・死の全課程を安心の心で生きる道を説いた仏陀の教えである。不安のまま生きることが実存の証しであるとする思想とは相反する。そんな不安を抱いたまま生きている現代人の心を捉えたのが「千の風になって」であり、映画「おくりびと」であった。しかし癒やし程度で、本質の実在に触れることはなかった。<一線を越えない>ことを是とする思想が世にはびこっている限り仏教は無視されるであろう。私はそういう意味で、近代と決別しなければ仏教の再生など望むべきもないと昨日の日記に書いたつもりであった。


4月13日(木) ~14日(金) 曇のち晴れ

満80歳になって、改めて決意したことがあった。今日まで私は、縁故知人を気遣い、碌を食んでいた葬儀業界を気遣い、講演に出向いて御世話になった1000ヶ寺以上の寺院や仏教界を気遣い、マスコミを気遣い、大衆に迎合して発言していたところがあった。そうした気遣いを一切しないで、自分の思うままに言いたいことを言って残る人生を過ごそうと決意した。今までもずいぶん言いたいことを「新門日記」に書いてきたが、それでも自分を守るための名利にとらわれていた発言をしていたことは確かであった。

私が今、最も関心を抱いていることは、近代とどのように決別するかということである。仏教界は「近代」を脱皮すべき時が来ていることに気づかねばならない。江戸時代に生まれた檀家制度に安住して迷信や俗信に塗れた形骸化した仏教を「近代化」と称して明治から昭和にかけて、特に戦後、人間中心(ヒューマニズム)の西洋の思想を取り入れて仏教を解釈をしてきた。しかしその解釈の仕方は人間の理性を信じる科学的合理思考に基づくものであったため、その弊害は大きかった。例えば、脳内出血をそのままにしておけば死んでしまうからと、手術をしても溢血した血と共に末梢神経の伝達のはたらきまで抽出してしまうため、ほとんどの場合は半身不随の状態て生きてゆかねばならなくなる。今日のわが国の仏教が半身不随の状態で生きているような感じさえしてくる。

科学の世界では量子論で目に見えないブラックホールでさえ受け入れている時代となっているのに、仏性とか霊性といった不可思議なものを排除して仏教を理性で理解しようとする近代知識人が多い。親鸞が不可思議光と言っても、その不可思議なものは無視してしまう。その不可思議こそが、大悲大慈であり、仏仏相念であり、光顔巍々であり、二種の回向であることがわかっていないのである。人間の理性に基づく近代の科学的合理思考は、ものを対象化して目に見えないものを無視する傾向がある。現代科学は、量子力学を発見し目に見えないが微かな信号があれば受け入れて宇宙の全体像を描こうとしている。その微かな信号をキャッチしたことで岐阜県神岡の東大宇宙線研究所の小柴・梶田という両先生がノーベル賞を受賞したのであった。その後も梶田先生はビッグバーンやブラックホールの解明のために努力を続けておられる。それに反して<大悲無倦常照我>と如来は信号を送り続けておられるのに、目に見えないからとニュートン力学の域を出ない近代の知識人や作家たちは、三千大千世界を自分の狭い脳内の小世界に閉じ込めようとしてきた。戦後の知識人や作家たちが親鸞を語っても、そのほとんどは<月を見ないで指を見ている>傾向がみられる。たとえば吉本隆明が晩年さかんに親鸞を語っていたが、その著の一つに「未来の親鸞」という本がある。出版元の春秋社が題をつけたのだろうが、この本には未来などない。その中の文に

現代のぼくらが考える思想的、理念的意味をつけるとすれば、親鸞はこの「正定聚」の位というのを、ほんとうの死と親鸞は考えていたと、ぼくはおもいます。たとえば書簡の中で「やがてみなさまとは往生を遂げたのち、浄土でおあいしましょう」という言い方をしているのがあります。その場合の浄土というのは、肉体が死んだ後にくる浄福の世界という意味として使っていて、その存在を比喩として親鸞は想定しているとおもいます

この文に見られるのは、<往生とは死ぬことだ>と一般の人が思っているように吉本隆明も思っておられるようである。親鸞は浄土を肉体が死んだ後にくる浄福の世界などと思っていない。まして浄土を比喩として想定しているなどと言ったり、「正定聚の位というのを、ほんとうの死と親鸞は考えていたとぼくはおもいます」など、とんでもないことを言っている。とにかく「難思議往生」がわからない吉本隆明に親鸞を語る資格はない。座標軸の軸が狂っているのである。最初の軸が狂っているとボタンの掛け違い同様、すべて狂ってしまう。
この「未来の親鸞」と題された本を通して感じたことは、吉本隆明に「生死」という概念がないということであった。西洋には<生死>という概念はない
生と死を別け、生から死へ移るということを前提に語っておられるという事であった。「永遠」の概念がわかっておられない。有限の時間の中で生から死へ移ると思っている人には「生死即涅槃」という仏語は理解できない。「生死の中に仏あれば生死なし」という道元の言葉も理解できないだろう。一切衆生悉有仏性も理解できないであろう。<生死>とは<生>でもなければ<死>でもないのである。例えば水(H2O)は水素(H2)と酸素(O)の化合物であるが、一旦化合してしまえば水素でもなければ酸素でもない。と同様に生死一如になった,<生死>は、死でもなければ生でもない。人間以外の自然界は言葉を持たないから常に<生死>を生きている言葉を知らない幼児や子猫や子犬が何をやっても可愛くて癒やされるのは<生死>を自然(じねん)のまま生きているからである。証知生死即涅槃(生死は即ち涅槃と証知すべし)

仏教の真実に無知なのは吉本隆明ばかりではない。例えば今年の1月15日に読売新聞に載った五木寛之氏のインタビュー記事で「老いや死に対して,安らかな落ち着いた境地があるというふうに想像するのは幻想でしょう」と発言しておられる。私はこの記事を読んだとき、釈尊が「生・老・病・死」を安心して生きる道を説かれたのが仏教である、それが釈尊の初心であり、最終目的であるのに、幻想とはなんということを五木氏はおっしゃるのだろうかと思った。小説「親鸞」などを書かれたが、あの本は親鸞が月を指さしているのに、月を見ないで指を拡大して書かれたfictin(作り話)にすぎない。光に遇った体験もなく<信>もないから「浄土」のイメージも「正定聚」のイメージも描けないのである。清浄光明ならびない遇斯光に遇わなければ、弥陀の十八願が「難思議往生」といわれ、その因果とともになぜ不可思議なのかわからないのである。

人間は死を恐れる。死が恐ろしいものかどうか知りもしないのに、あたかも体験したがごとく死について語っている。何も知しりもしないのに知っているかのごとくふるまうのを<無知>というのだとソクラテスは言い残したが、とにかく、人間の理性を信じ言葉で仏教を理解しようとする仏教学者や近代知識人には近づかない方がいい。彼らはソクラテスのいうように「無知」なのである。善知識でないから、自障・障他の因になるだけである。法然も親鸞も善導の『礼讃』の次の言葉を厳守して仏道を踏み外すことなく歩かれたのであった。

専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。かの仏恩を念報することなし。業行をなすといえども心に軽慢(おもいあがり)を生ず。つねに名利(名誉と利益)と相応するがゆえに、人我(我執)おのずから覆いて同行・善知識に親近せざるがゆえに、楽(この)みて雑縁に近づきて往生の正行を自障・障他するがゆえに」ー善導「礼讃」

<追記> 吉本隆明の『未来の親鸞』という本は、何カ所かの講演禄を纏めて、1990年に春秋社より出版されたものである。1983年11月の真宗大谷派宗務所同朋の会「報恩講」による京都本願寺白書院における講義、1984年6月武蔵野女子学院「日曜講演会」による武蔵野女子学院光雲台大広間における講演、1988年11月真宗大谷派東京教区教化委員会「課題別育成員研修会」による同教区会館における講演、1989年6月東京北区青年サミット主催「機工街にて親鸞を語る」による昭和町区民センターにおける講演の講義録である。
吉本氏は、その講演の度に、「ぼくは不信の徒、局外の徒、域外の徒でありまして」と正直に<信>がない者であることを発言しておられる。私は真宗の教団がどうしてこうした信のない人を講師として招くのだろうかと思ってしまう。日ごろ門信徒に「信を獲れ」と説教してていながら、類は友を呼ぶのだろうか、信のない講師を招いている。上記の善導の言葉「楽(この)みて雑縁に近づきて往生の正行を自障・障他するがゆえに」をかみしめるならば、避けるべきことであろう。



4月12日(水) 曇り、春冷え

昨日の誕生日に、FACEBOKのお友達から多くのメッセージを頂きました。お一人お一人に返信できなかったので、ここで改めてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

中には、「今後も、がんばって下さい」というメッセージもあった。「がんばって」と言われても、何をがんばるのか戸惑ってしまう。入院している病人などに「がんばって」というのは、病と闘って、病に打ち勝って、元の元気な状態になって下さいという意味だろうが、私のような世間の価値観を捨てて如来に身を任せて生きているものは、「がんばれ」と言われると何をがんばればいいのかわからないままに圧迫感だけに襲われる。
昨日の新門日記に「10年後の2026年4月11日を<命日>とすることにした」と書いたからか、「100歳まで生きてがんばって下さい」というコメントもあった。 私が2016年の自分の誕生日を死ぬ日に定めたのは、、あと10年生きていたいからではない。私は今晩死んでもいいと思っていいるし、100歳まで生きてもいいとも思っている。すべて弥陀にお任せして、「死ぬる時は死ぬるがよかろう」と思っているからである。にもかかわらず命日を定めたのは、二人の人に<あやかりたい>からであった。

<あやかる>という言葉を辞書でくると「好ましい状態にある人の影響が及んで,自分も同じような状態になること」とある。私が敬愛してやまない好ましい状態にある人・親鸞聖人にあやかって、聖人が90歳で入滅されたから私もと思ったのであった。また4月11日の自分の誕生日を選んだのは、もう一人のあこがれの人西行が「ねがわくば、花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と歌って、この歌の通りに亡くなった西行にあやかりたいからである。なぜならば私が住む富山の桜は毎年4月の10日前後に満開になるからである。

昨日の日記は、満80歳になったら欲望や名利に相応する娑婆世界の事は一切「がんばらない」ことを宣言したつもりであった。<あやかる>とは、<ゆだねる>ことでもある。ただ阿弥陀如来に身を委ねて<生死>を生きて行こうと思ったのであった。道元はいう「生死の中に仏あれば生死なし」と。「生死即涅槃と証知すべし」と親鸞もいう。このことは「生死即涅槃」の視点、即ち生と死を別けない仏の視点での発言である。仏の視点に立てば、生もなければ死もないということになる。<生死>を生きること、それが正定聚の生き様だと私は思っている。良寛の「死ぬるときは死ぬるがよかろう」という言葉も、生もなければ死もない<生死>を生きる境地からの言葉であった。そして良寛は「裏(死)を見せ表(生)を見せて散る紅葉」と歌って散っていった。良寛にもあやかりたい


4月11日(火) 曇り時々雨

今日は自分の誕生日であった。1937年4月11日生まれで、満80歳である。早速「10年日記帳」の2026年4月11日の欄に「命日・満90歳」と赤字で書き入れた。以前から親鸞聖人にあやかって90歳まで生きれたらいいなと思っていたからである。

西行は自分の死ぬ日を預言して、その通りに死んだ。「ねがわくば、花の下にて春死なん その如月の望月のころ」と歌って、この歌の通りに、桜の花の満開の下で、1190年(文治6年)2月16日の満月の夜に死んでいる。西行が歌の通りに往生したのを知った当時の人々は驚嘆し、深い感銘を受けたのであった。藤原俊成は西行の死に感じ入って次のような歌を詠んでいる「願いおきし花の本にて終わりけり蓮の上もたがはざらなむ」と。旧暦の2月15日は、釈尊の命日であるから、釈尊の後を追うように往った西行を讃え「蓮の上もたがはざらなむ」と歌っているのである。

昨年の暮れに京都でゴリラの先生(京大学長・山極壽一氏)にお会いして動物の死に際の話となった時「動物は死期が近づくと食べなくなる。食べなくなって7日から10日で死を迎える」とおっしゃった。その時私は「人間はそうなったら、周りがほっておかない。点滴したり、胃ろうを施したりして栄養補給をしている。密教の即身成仏も動物の自然死に近いですね」と言ったが、先生と別れてから、即身成仏には人間の計らいが働いている。人間の計らいであれば、即身成仏も自殺ではないかと思った。

私は今日、十年後の4月11日を「命日」と定めたが、その日に死ぬために一週間まえから食べ物や水まで取らないで死のうなどとは思っていない。人間の<計らい>をなくして弥陀に生死を委ねて天寿を全うすべきとしたのは親鸞であった。「死ぬる時は死ぬのがよかろう」と自然(じねん)に任せればいいのである。だが、西行のように予言した日に死ぬのもいいなと思っている。2026年4月11日のその日が来るのを楽しみにしながら10年間も生きれると思うとわくわくしてくる。


4月8日(土) ~9日(日) 曇り時々雨

昨日FACEBOOKで「仏教を難しくしているのは学者たちだ」と僭越なことを言ったら、多くの「いいね」を頂いた。意を強くして付け加えるなら、それよりも仏教は、その真実を言葉で人に伝えることは出来ないから、例え話や象徴的譬喩など方便によって伝えるしかない。しかしその方便は価値観や死生観や世界観などからなるその時代の共通認識を前提としている。例えば、天動説を前提にした古代インドの宇宙観での浄土は、十億万の仏土を隔てた西方に浄土があるとされてきた。当時のインドの人々は太陽が東から出て西へ沈む、そのことと人間の生から死へ向かうことを重ねて、西の彼方に浄土があると説かれれば、実感として受け取れる共通概念だったのである。
今日では小学生でも地球は自転しながら太陽の周りを回っていることぐらい知っていて、西方浄土を説いても、西を向いていても二十四時間で360度全方角が西になるではないかと星の王子様のような子供に笑われる。そうした頭のいい(?)理屈っぽい子は、仏教に疑を抱くようになり、一つ疑を抱くと大人になっても仏教など非科学的なうさんくさいものとみなして仏教など無視してしまうことになる。

確かに地球は自転しながら太陽の周りを回っている。にもかかわらず地球上に立つわれわれの目には太陽は東から上り、西の空に沈んでゆくとしか見えない。地球が回っているなどと思わずに「なんと美しい夕日なのだろう」と感動したりする。お彼岸に墓参りするのも、日本人の持つ心優しい情感である。人間が五感(眼・耳・鼻・舌・身)で認識するものは、それがいかに美しく真実であると映っても「色即是空」であると仏教は説く。西田幾多郎の「絶対矛盾的自己合一」という思想も、このことを言っているような気がする。天動説と地動説は絶対矛盾とみなしてもよい。しかしその矛盾を解決するためにガリレオを宗教裁判にかけて片方を放棄しろと迫ったキリスト教とは違って、仏教は「空即是色」と丸抱えして絶対矛盾を融合させてきた。ここにキリスト教を基盤とした西洋の思想にみられない仏教の思想の見事さがあると思う。

それにしても、今日の科学の進歩はめざましく、DNAを100%解読し受精卵の第一回の細胞分裂の時点で既に染色体に<死>がインプットされていることを解明し、宇宙物理学は宇宙の全体像を描こうとしている。特にニュートン力学からアインシュタインの不確定性理論を経て、量子力学からPOST量子論へ向かおうとしている。(
そんな難しい理論など関係ないと思っている人に一言、もし量子論が出現しなかったら、あなたが片時も離さないスマートフォンは生まれていなかったのだよ)

道元が「生から死へ移るとこころへるは、これあやまりなり」というように、科学がDNAを解読する2000,年も前から<生死一如>が本然の姿とみなすのが仏教の立場であった。また、この宇宙には目に見える星空ばかりでなく目に見えないブラックホールのあることも発見し、すべてのものは全宇宙と繋がっているとみなす量子力学が現われる前から仏教は全宇宙とのつながりをもって説かれていた。近代は目に見えないものは非科学的とみなしていたが、量子力学の出現によって、目に見えるものも目に見えないものも、生も死も、闇も光も、丸抱えするようになったのである。にもかかわらず、今日の仏教学者たちは、ニュートン力学の域を出ないで、時代にそぐわなくなった方便の解説をしているように思えてならない。そのことも仏教をわかりにくくし、仏教離れの要因になっているような気がする。

私が親鸞を高く評価するのは、方便とみなされるものは仮身土の方へ選別し、真仏土を説かれた慧眼である。西方浄土なども『観無量寿経』の方便の一つとみなし、『大無量寿経』に依って、真仏土は「仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土は無量光明土なり」と方位にとらわれない十方に満ち満ちる無辺光、超日月光のイメージで「尽十方無碍光如来」という名号を用いておられた。ちなみに136億年前にビッグバーンによって現在の宇宙が生まれた瞬間は光りの海であった。
光の素粒子は、<点>なのか、<波動>なのか、最先端の科学技術をもつてしても人間の目では観察できないのである。その事実から導かれたのが量子論である。
親鸞は「弥陀仏は自然(じねん)のやうをしらせん料なり」と自然法爾章に記しておられる。弥陀の光明を波動とみなしていたという事である。二種の廻向も如来の波動(如来の働き)であるとされていた。科学がどんなに進歩しても親鸞の思想には科学と仏教の対立がない。本来仏教は先にあげた<空>の思想であるから、対立などないわけだが、いつのまにか対立するものとみなされるようになっていた。おそらくそれも、実体験(修証・行証)のない仏教学者が不可思議光の不思議な部分もわからぬままに、観念の知識で仏教を解釈をしてきたからだろうと私は思っている。
法然上人は『念仏大意』のなかで「仏道修行は、よくよく身をはかり、時をはかるべきなり」と、時代をしっかり見据えて修行しなさいと言っておられた。

追記・参照>   世俗の君子(東魏の国王)幸臨し 勅して浄土のゆへをとふ 十方佛國浄土なり なにによりてか西にある

                    鸞師(曇鸞)こたへてのたまはまく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいたらねば 念力ひとしくおよばれず   親鸞『高僧和讃(曇鸞)』

   曇鸞は「尽十方無碍光」と言いながら、まだ十地の頂点に至っていないからと謙虚に答えておられる。親鸞もそれを取り上げて和讃しておられる。二人とも『観無量寿経』を軽くみておられたのではない。地動説しか信じない人には量子論を交えて尽十方無碍光如来を説けばいいのだし、太陽が東からあがり西へ沈むと信じて疑わない人には西方浄土を説けばいいのである。人を見て法を説けという言葉もある。


4月7日(金) 曇り時々雨

6日の新門日記に「己の分をわきまえ、仏恩を報じて生きると、何の不安もない生き方へと変わるのである」と記した。読み返してみて、ふと思った。
ここに私が安易に用いた「仏恩を報じて生きる」という言葉は、僧侶か仏教を相当学んだ人以外の一般の人にはわからないであろう。特に仏教用語には体験した者しかわからない言葉が多い。なぜならブッダの言葉はすべて体験談であるからである。親鸞の「教行信証」であれ、道元の「正法眼蔵」であれ、体験(修証・行証)を通して説かれたものであるから、体験したことがない人が言葉で理解しようとしても実感できない。難解に映るのはその所為である。その点、法然上人はブッダ同様、相手に応じて話し言葉でやさしく語りかけておられたように思う。女郎に対してでも、熊谷直実のような無骨者に対してでも、実にやさしく声をかけておられる。私が最も感動したのは、次のような逸話である。
人を殺し財を奪うことを生業としていた大悪人が法然上人に出遇い、帰依して念仏者になった男がいた。号を「教阿弥陀仏」と称していた。
ある日その男が上人を尋ね来て、「人から念仏について教えてほしいと言われるようになったが、俺は学がないから説教ができない。それで今日は教わりにきた」と言った。法然上人は即便微笑して

おまえは何か学問をして念仏者になったのか?」
「いや」
「お前は悪の限りの果てに、何か光明に触れて吉水へやって来て、念仏者になったのではなかったか」
「ええ、まあ・・」
「お前が触れた光は弥陀の光明である。だったら、おまえが体験したことを話せばよいではないか。念仏に義などない。学問などいらない」

私はこの話が好きだ。私も納棺の現場で<蛆が光って見えた>体験をして、その光りに導かれるように念仏者になったのであった。文学を志していた頃読んだ仏教書が全く理解が出来なかったのに、その体験をしてから仏教用語がすとんすとんと腑に落ちるように理解できるようになったのであった。そして仏教は難しくないと思うようになった。永遠のみ光に触れるだけで、不思議なことが起きる。これ以外に仏教はないのではないだろうかと思うようになった。


4月6日(木) 曇り時々雨

私が毎日毎日『新門日記』に仏教のことを記すのは、仏恩を報じて安心して生きてゆくためである。他人(ひと)にどのように受けとられようが、私はそう思っている。
振り返ってみれば、もし仏教に出遇っていなかったら、特に親鸞聖人の説く他力念仏に出遇っていなかったら、と思うと、ぞっとする。おそらく今もなお、暗闇の苦海をさまよっていたことだろう

例えば、『納棺夫日記』が映画化されるとき、シナリオの段階で仏教がカットされていることを理由に著作権を放棄してまで原作者であることを放棄していなかったら、字幕に「原作者・青木新門」と載り、あの映画がアカデミー賞を受賞した時、マスコミに乗せられて有頂天になっていたことであろう。また、後に原作者であることがわかり、富山県が監督の滝田洋次郎と共に県民栄誉賞をくれるというのを辞退していなかったら、その名誉と地位を維持するために重荷を背負って生きる結果になったことであろう。そして友人知人の関係もまったく違っていたであろう。おそらく自障・障他の雑縁の輩とワイワイ気勢を上げていたに違いない。
一つの事例をあげたまでのことだが、生きていれば、日々このような選択を迫られる事に直面する、そしてその判断基準を何に置くかでその人の生き方が決まってゆく。親鸞は『教行信証』に善導の言葉を引用されている

専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。かの仏恩を念報することなし。業行をなすといえども心に軽慢(おもいあがり)を生ず。つねに名利(名誉と利益)と相応するがゆえに、人我(我執)おのずから覆いて同行・善知識に親近せざるがゆえに、楽(この)みて雑縁に近づきて往生の正行を自障・障他するがゆえに」ー善導「礼讃」

私は今月11日で満八十歳になる。実に日々安穏な生活を過ごさせて頂いている。半身不随の妻の介護も何の苦にもならない。仏教に出遇っていなかったら、パニックになっていただろう。娘や息子も大過なく生活している。孫たちも健やかに育っている。
親鸞は八十歳になっても自坊も持たず、知人や親族の家に間借りされ、関東の門弟からの志で暮らす生活であったと想像される。そして84歳の時、実子善鸞に義絶しなければならない事件に出遇っておられる。鎌倉幕府の念仏への圧迫も強くなって関東にいる門弟たちの心配もしておられた。親鸞は私生活の事は一切語られなかったが、そうした晩年の親鸞聖人のことを思うと、私はなんと幸せなのだろうと思う。死が訪れてもおかしくない年齢なのに、何の不安もない。どんなことが起きても、平気で生きてゆけそうな気がしてくる。私は、自宅を持ち、借金もなく、贅沢さえしなければ、年金と幾ばくかの蓄えで念仏しながら数年は生きていける。すべて念仏のお蔭だと思っている。己の分をわきまえ、仏恩を報じて生きると、何の不安もない生き方へと変わるのである。これ以上の現成利益はあるだろうか。有り難いことである。


4月5日(水) 晴れ

昨年の暮れから玄関に置いてある自転車を見る度に、どうしようかと思っていたが、今日の粗大ゴミの日に処分した。妻が半身不随になる前に乗っていた自転車で20年以上前のものである。捨てることに悩んでいたわけではなく、新しい自転車を買おうかどうしょうかと考えていたのであった。自動車の免許証は五年前に自損事故を起こして、返納した。年をとると自動車はもちろんだが、自転車も結構危ない。自転車による人身事故も多いという。しかし、先日スーパーで大根とカボチャと人参と馬鈴薯などを買って帰るとき、手が痛くなり途中で何度も休みながら、こんなときは荷台付きの自転車があったらいいなと思った。考えてみれば、一度に多く買わなければいいわけで、毎日その日の分だけ買うようにすればいいのである。1日一万歩歩く誓いを立てていながら、1日500歩の日さえあるのだから,歩けばよいのである。
「国民総活躍社会」と旗を振っている人がいるが、また「ピンピンしながらコロッと死にたい」とうそぶく人もいるが、そんな時流の言葉など気にしないで、人に危害を加えるようなものはなるべく持たないようにして八十歳の老人は八十歳の老人らしく生きて行くことである。

「この生死は、すなわち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著(執着)すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり」ー道元『正法眼蔵』

2005年1月の文藝春秋の「理想の死に方」という特集号に寄稿したことがあった。瀬戸内寂聴さんも寄稿しておられ「バタンキューと死ぬのが私の理想」と言っておられた。「バタンキュー」も「ピンコロ」も、仏の<御いのち>を自分の,<いのち>だと勘違いしているようなところがあって、これも生死に執着していることになり、仏の御いのちを失うことになるだろう。瀬戸内さんは頭を丸めておられるのに、と思ったものだった。
私に他人のことを言う資格はない。親鸞に「小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いまざすば 苦海をいかでかわたるべき」という和讃がある。私など小慈小悲どころか、他人のことなど全く考えないで「俺が、俺が」と生きてきた。この歳になっても、小慈小悲の欠片もない。せめて自らをも他人をも、傷つけたり悲しませたりしないようにして残り少ない生死を生きて往きたいと思うようになったのだった。この生死は仏の御いのちなのだから、晩秋の木々が葉を落とすように裸木となって静かに生きていこうと思う。


4月4日(火) 晴れ

わたしが<ひかり>と言うと 人々は太陽の光とか月の光とか電気の光とかローソクの光をイメージする
そんな光のことを言っているのではないのに、それがとても悲しい。
わたしが言う光とは遮断物があっても影ができない無碍の光です 超日月光のことです
人が「光と闇」と言う時のその光は方便の光なのです。ほんとうの光りは言葉では伝わらない目に見えない光。光に遇ったものだけにしかわからない清浄光明ならびない遇斯光のことです。

この光に遇うにはIDとパスワードが要るのです。IDは「南無阿弥陀仏」 仮パスワードは「〇〇〇」
仮バスワートの三つの〇は、貪欲ゼロの〇 瞋恚ゼロの〇 愚痴ゼロの〇で、我執や執着や恨みや怒りが心にあっては光に遇えないのです。真実を知らない愚者も遇えないのです
IDの「南無阿弥陀仏」をいくら称えても、三毒の「〇〇〇」を心身に入力しない限り光と接続しないのです

しかし困ったことに、三毒が〇にならない限り光に遇えない上に 自力では三毒を〇にできないのです
『仏説無量寿経』に「その光りに遇ふものは三垢(三毒)消滅して 身意柔軟なり。歓喜踊躍して善心生ず」とあるように、光りに遇わなければ〇になれないのです

法然上人は「弥陀の光明、余行の者を照らしたまはず、ただ念仏者を摂取する」と『選択本願念仏集』でおっしゃいましたが、そして「念仏行者は三心を具足すべき」と至誠心・深心・廻向発願心>の三心を正バスワードにあげておられましたが、なかなか光りに繋がらないのが実情です
ではどうすれば光りに遇えるのか 親鸞は、
目に見えなくとも、その光を信じるしかないのだとおっしゃる。心から信じて金剛信を獲たとき、<至心・信楽・欲生>の三心の正パスワードが如来によって入力され自ずから摂取不捨の光りに遇えるのだと。しかしそのことがいかに至難であるかを、自らもおっしゃっておられた。

 ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、憶劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶(よろこ)べ


4月3日(月) 晴れ

西田幾多郎が『善の研究』に記した「序文」の最終行がおもしろい。明治四十四年一月に書かれたものである。

思索などする奴は、緑の野にあって枯れ草を食う動物の如し、とメフィスト(ゲーテの「ファースト」に登場する悪魔)に嘲られるかも知らぬが
われは哲理を考えるように罰せられているといったヘーゲルのような哲学者もあるように
ひとたび禁断の果を食った人間は、かかる苦悩のあるのもやむえぬことであろう」

私はこの文を読んで、聖書のヨハネによる福音の第一章が浮かんだ。

1)初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。2)この言は初めに神と共にあった。3)すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。4)この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。・・・・・」

このヨハネ伝の第一章こそがキリスト教圏の人々の考えを決定づけているような気がしてならない。そう思うようになったのは、親鸞の思想に出遇って、親鸞は「初めに光があった。光はいのち(無量寿)であった。その光は名号(言葉)であった」といったらえ方をしていると思うからだった。
幾多郎がいう「ひとたび禁断の果を食った人間は、かかる苦悩のあるもやむえないであろう」と言うのは、旧約聖書の創世記の記述にあるのだが、禁断の果実とは、善悪の知識の木(知恵の樹)の果実を指す。アダムとイヴはエデンの園にある果樹のうち、この樹の実だけは食べることを禁じられるが、アダムとイブが食べてしまったため、エデンの園から追放され、罪意識を抱えて人間界を生きて行かねばならなくなる。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、この人間誕生のとらえ方は底通している。
このことを書けば一冊の分厚い本が出来るほどの紙面が要るが、結論から言えば、キリスト教では果実を「りんご」で象徴化しているが、私は、独断で、
禁断の果実は「言葉」だと思っている。「初めに言葉があった」とみなすか、「初めに光があった」とみなすかで、死生観も世界観も全く変わってくる。
言葉は分別するが、光は無分別である。人間が言葉をもった時点から他の動物と峻別し、神に選ばれた特別な存在と思うようになった。近代ヨーロッパの人間中心主義の因が聖書の言葉に依ると私は思っている。考えてみれば、136億年前のビッグバーンで生まれた現宇宙で人間が生まれたのは、一年に濃縮すると、ほんの2、3日前で、しかも言葉を身につけたのは昨夜といった程度である。にもかかわらず言葉のお蔭で科学技術の飛躍的な発展を生み、地球上の全生物を支配し、大量破壊兵器まで造って人間同士が争っている。すべて言葉がもたらしたものである。言葉をもったばかりに、生と死を分けて考えるようになった。人間以外の生物は、言葉を持っていないから常に生死一如を生きている。また動物は言葉を持っていないから、死の概念もない、だから死に直面するまで死に恐怖を抱いたり忌み嫌ったりすることはない。よちよち歩きをする幼児や子猫や子犬が何をしてもかわゆくて癒やされるのは、言葉を持っていないからでる。禁断の果実を食った大人たちは癒やされるのである。西田幾多郎はこの視点、即ち主客無分別の「純粋経験」に答えを求めて、『善の研究』を書かかれたのであった。

ビッグバーンの瞬間は、宇宙は光の海だったと科学者はいう。初めに言葉があったとしたとするローマ法王庁は、地動説が正しいとなると面くらい、ガリレオを宗教裁判にかけたり、ブラックホールがあるとわかると、聖書の解釈を変更しなければならなくなる。初めに光があるとする仏教では、諸行無常は当然で、この宇宙も生成と消滅を繰り返してゆくだけで、太陽系が消滅したら新しい宇宙が生まれるだけだとみなす。科学者は約60億年後に太陽の水素は燃え尽きて超新星爆発を起こすだろうと計算している。地球はブラックホールへ呑み込まれて消滅する。丁度その頃、56億7千万年後に弥勒菩薩が仏となって顕れ、全生命を救って下さると仏教は説いている。
親鸞は地動説など人々が知らない時代から西方浄土も方便とみなし、弥陀の光明を尽十方無碍光如来と称していた。科学がDNAを解読しようと、宇宙をくまなく解明しようと、親鸞の説く仏教は微動だにしない。むしろ科学の進歩がその思想を補強してくれている。「初めに光があった」と『教行信証』の冒頭に据え、『正信偈』でも無辺光や超日月光などの12光を最初に讃えている
親鸞に、私が絶対の<信>を置くのは、ここにある。



4月2日(日) 晴れ

久しぶりの快晴。庭の裸木も朝の陽を浴びて枝先の蕾が粒子のように光っている。うれしくなってシャッターを切って、カバー表紙を替えた。

枝先に点々と光る新芽を見ているうちに、西田幾多郎の「純粋経験」という言葉を思い出した。最近、言葉を知らない幼児や子猫や子犬がなぜ可愛いのか、見ているだけでなぜ癒されるのかなどと思っていたからかもしれない。書棚から『善の研究』を探しだして読み始めた。1950年版の岩波文庫の初版の本を持っている。現在は100版を超えているロングセラーの哲学書である。
二十歳代に読んだ時は何を言わんとしているのかまったくわからなかった。しかし今再読してみて、なるほどそういうことを言わんとしていたのかと理解ができた。

文中に「宗教は心霊上の事実である。哲学者が自己の体系の上から宗教を捏造すべきではない。哲学者はこの心霊上の事実を説明せねばならない」とある。目指す方向性としては、共感できる。特に近代西洋思想の枠組みで思考することを問題にしている点は大いに賛同できる。しかし「この心霊上の事実」を哲学的に説明できるだろうかと思った。ブッダは「われ、無量寿仏の光明の威神、巍々殊妙なるを説かんに、昼夜一劫とすとも、なほいまだ尽くすことあたはじ(「無量寿経」上巻)と、ブッダでさえ、永遠に説きつくせないと言ってているものを説きつくせるだろうかと思った。『善の研究』を通して感じたことは、この本に関する限り<一線を越えない>哲学者の立場で書かれているということだった。
西田幾多郎は鈴木大拙と共に、富山県高岡市の国泰寺に参禅している。しかも十年以上も臨済禅に参禅して、その思想をベースにこの『善の研究』が生まれたのであった。やがて一緒に参禅した鈴木大拙が<この心霊上の事実>を「霊性」とか「仏性」に置き換え、『日本的霊性』という本で親鸞を取り上げ、浅原才一などの妙好人を例にあけて具体的に説明している。西田幾多郎は能登半島の出身である。能登半島には総持寺もあったりするが、寺の九割は浄土真宗である。そんなところで生まれ育った人が、しかも本人自身が「人が環境を作り、環境が人を作る」と言いながら、なぜ他力までに踏み込まなかったのだろうかと思った。「絶対矛盾の自己同一」は自力ではできないはずである。わかっておられたが当時の風潮がさせなかったのかもしれない。夏目漱石も正岡子規も臨済禅であった。鈴木大拙が『日本的霊性』を書かれたのは昭和19年であった。西田幾多郎の京都帝大教授時代の愛弟子の三木清は、ドイツに留学してハイデッカーなどに直接学び近代ヨーロッパの哲学を吸収して帰国した唯物史観の哲学者であったが、その最晩年には親鸞に行き着き「親鸞ノート」を書き残して治安維持法違反で投獄され、終戦一ヶ月後の昭和二十年九月に獄死している。
そういえば親鸞が「念仏にまさるべき善なきゆえに」と言っていたことを想い浮かべながら、春の陽ざしをあびて『善の研究』を読んでいた。



4月1日(土) 曇り

オークス株式会社の新入社員入社式に出席してきた。45年前の4月に創業間もないこの冠婚葬祭会社に入って、共にやってきた創業者の奥野博氏も五年前に故人となり、今では顧問ということで関わっていて、出ても出なくてもいいのだが、顔を出してきた。
私がこの会社に入った頃は、全国で結婚組数が120万、死亡者数が60万であった。今日は結婚組数が60万、死亡者数が120万となっている。また都会などでは、直葬、家族葬が40%と冠婚葬祭を取り巻く環境は激変している。そうした環境の中で企業を存続させて行くことは大変だなと思いながら、自分がここで過ごした日々を振り返っていた。己を振り返ってみると、時代の波に乗ってやってきただけだった。迷惑をかけたのは49%、会社に貢献したのは51%ほどだったように思う。この1%か2%のプラスがあるから現在の顧問という立場があるのだろうと思うのだった。ただ私にとって、この職場で過ごした体験から「納棺夫日記」が生まれたことは貴重であった。
時代の変化が激しい時は、年寄りは口を出すべきでない。顧問という立場であるが、口を出したことは一度もない。特に一時成功した人は、どうしてもうまくいっていた頃の成功事例にとらわれる。環境変化が激変した明治維新は、大老も老中も、年寄りはみんな退(しりぞ)いて、二十歳代の若者が新しい時代を切り開いていったのである。そんなことを思いながら、20人の若い新入社員を眺めていた。

このことは、仏教界にも言えることである。取り巻く環境は大変動を起こしている。法然は『念仏大意』のなかで「仏道修行は、よくよく身をはかり、時をはかるべきなり」と、自分自身をよく洞察して、自分が生きている時代がどんな時代なのかしっかり認識して仏道修行をすべきであると遺訓しておられた。



3月30日(木)~31日(金)  晴れ後曇り

今月は、先月転倒して肋骨にヒビが入ったお蔭で、静かに反省する時間が持てた。雑然としていた頭の中が整理ができたような気がした。特にわが<いのち>は<仏のいのち>だと気づいたことは大きかった。少年のいのちも仏のいのち、老人のいのちも仏のいのち、病気になっても仏のいのち、死を迎えても仏のいのち、そう思うと老も死もあまり苦にならないような気がしてくるのだった。そんなことを考えている過程で有見・無見のことや霊のことなども整理ができた。霊のことを考えている時、過去に出遇った面白い体験を思い出した。

あれは友人の画家木下晋君が、山形県の湯殿山注連寺で一年もかけて描いていた天井画が完成したから観に来ないかと連絡を受けて出向いた時のことであった。注連寺は森敦が芥川賞受賞作「月山」を書いた真言宗の寺であった。行くと小説の中に登場していた修行僧が住職になっていて、われわれを迎えてくれた。本堂の鉄門海上人の即身仏ミイラが安置されたその真上の天井に木下画伯の合掌の絵があった。そのミイラが見えるところに高御膳が三つ用意されていて、会食することとなった。村の老婆が二人、酌に来ていた。老婆が私の杯に酒を注ぎ、住職に酌をしようとしたら「今日は呑みません」と云った。「いつもお呑みになるのに、どうして?」と老婆が言うと、箸で私の方を指し「この方が霊をたくさん背負ってこられたので、ひかえます」と住職は云った。二人の老婆は私の方を見ながら「ご住職には見えるのですか」と云った。住職は「見える、たくさんの霊がこの方の背後に見える」と云った。二人の老婆は、酒も注がずに私を怖いものでもみるようにまじまじと見ている。なんだ、これはと私は思った。興覚めして「ええ、お陰様で霊が守護神になってくれていまして、多くの霊に助けられて生きています」と、私は酒の勢いにまかせて言った。

チベットのポタラ城にダライラマ五世から十三世までの即身仏ミイラが安置されている。以前は一般の人は観ることはできなかったらしいが、中国が統治するようになった今では、ダライラマの居城も世界遺産の観光寺院として誰でも拝観できるようになっている。ここのミイラは、石膏で固め金箔で覆われていてミイラというより黄金の仏像のような感じになっている。わが国へ真言密教と共に即身仏ミイラの風習が伝わったのだろうが、チベット高原では死体は放置しておいても腐乱しない。血を抜いて天日に当てて風葬すれば魚の干物のようになる。わが国のような湿度の高い国ではなじまない。それより私がなじめないのは、納棺の現場で死体を何千と見てきた所為か、ミイラを見ても恐怖感も嫌悪感も感じない。考古学者が髑髏を見るような感覚になっているらしい。ミイラにこだわるのも、遺骨にこだわるのと変わりないように私には思えるのである。そうした私の態度を注連寺の住職が見抜き、脅しのつもりで言ったのかもしれない。即身仏ミイラを見世物(商売)にしているのである。

即身成仏」というのは「生き仏」のイメージしか私にはない。空海は生きている時から遍照金剛の光の中にいた。抜け殻が仏であるはずはない。生きた仏でなければ意味がない。
道元禅師は言う「この生死は、すなわち仏の御いのちなり、これをいとひすてんとすれば、すなわち仏のいのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて、生死に著(執着)すれば、これも仏の御いのちをうしなふなり」-『正法眼蔵・生死の章』 要するに、「証知生死即涅槃」ということで、生死を離れて仏はないし、生死に執着しても仏はないということである。まして遺骸などにあるはずはない。
晩年の法然上人に<生死即涅槃の生き仏>の真実の姿を見ることができる。「伝え聞く 法然生き仏 蓮華上品に安座し 尼入道の無智のともがらに同じくす 一枚起請 もっとも奇なるかな」と一休禅師が『狂雲集』に書き残しているが、晩年の法然上人は南無阿弥陀仏になっておられた。そのことが当時の人々に「生き仏」と畏敬の念で言わせたのであった。


3月29日(水) 晴れ

過去に講演に出向いたあるお寺から寺報が届いた。その中に親鸞の和讃が取り上げられていて、若い僧らしい方の義憤やるかたない寄稿文が載っていた。

 かなしきかなや道俗の 良時吉日えらばしめ 天神地祇をあがめつつ 卜占祭祀つとめとす

悲しいことに僧も在家の人も日時の善悪吉凶を選び、天地の神祇を崇敬して禍を避け福を求め、卜占や祭祀を専らとしていて、一向に仏を崇めることをしないということを義憤をもって語っておられた。もっともであるが、観念的な発言のようにも思えた。今日でも結婚式では日時の善悪吉凶を選び、葬式でも公営の火葬場のほとんどは友引を休日としている。正月になれば何宗に属していてもこぞって宮参りをし、科学技術の最先端をゆく工場の建設の地鎮祭では神官が祝詞をあげ、科学者たちが神妙に低頭している。なにごともなく無事に過ごさしてしてほしいと祈るささやかな庶民の心である。
親鸞は大きい。一つの和讃を取り上げて鬼の首でも取ったかのように大声をあげるのはいかがなものか。<煩悩障眼雖不見>の人が象の尻尾に触れてそれを象だと思うようなものである。親鸞には、こんな和讃もある。

 南無阿弥陀仏をとなふれば 堅牢地祇は尊敬す かげとかたちとのごとくにて よるひるつねにまもるなり

天神地祇を排除するのではなく守護神として受け入れた時、その宗教は大地に根付く。ギリシャ正教もロシア正教も南米のキリスト教も大地の神々を受け入れて守護神にしてている。仏教も梵天・帝釈天が仏陀を崇敬するようになって仏教がインドの地に一千年ほど定着したのであった。チベット仏教の胎蔵曼荼羅に四角い城壁の周りに描かれているのは守護神としてのチベット古来の土着の神々である。

天神地祇を崇め卜占祭祀を行っていた山伏弁円が、場合によっては親鸞を抹殺しようと稲田の草庵を訪れた時、もし先の若い僧のように義憤を抱いて説得していたらおそらく殺されていたであろう。しかし親鸞はすでに浅原才一流にいうなら南無阿弥陀仏になっていて、弁円を丸ごと受け入れたのであった。丸ごと認められると人は心を開く。それから諄々と諭せばいいのである。

親鸞は「念仏にまさるべき善なきゆえに」という。義なきを義として拳を上げて叫ぶより、南無阿弥陀仏と称えていたほうがいいのである。


3月28日(火) 晴れ


facebookの友達の長谷川俊道さんのお寺「瑞岩寺」へ出講した時の話を通して身に余る文を長谷川師がタグ付けされた。恐縮するとともに、感謝申し上げたい。
死というものを神話や物語を通して観念的にイメージしている人の多い中で、長谷川師のように死は死の現場に立って生死一如の瞬間を五感で認識するしかないのだと知見される人は少ない。私は、うれしくなった。

ブッダは死後の世界を「不問」とした。にもかかわらず、すべての存在は不滅であり、人は死んでも我(アートマン)という実体が永遠に存在して不滅であると思っている見解(インドのヒンズー教や日本神道にみられる見解)、この見解を仏教では<有見>という。また、一切の存在は「無」になると主張して「死んだら何もない、ゴミになるだけだ」とする見解を<無見>という。
今日のわが国は、この<有見>の立場の人と<無見>の立場の人とに二極化されている。戦後のマルクス・レーニンの唯物論やハイデッカー・サルトルなどの実存哲学に洗脳された知識人に<無見>の立場の人が多く、一般の人は丹波哲郎に代表されるような霊界を信じる<有見>の人が多い。英霊を信じ靖国参拝にこだわる安倍総理はじめその閣僚たちも<有見>の立場といっていい(もちろん有見の人の票が目当てだが)。<有見>の立場の人が多くなれば安倍内閣の目指す「美しい神の国」が現実味を帯びてくる。しかし注意すべきことは、有見の霊は英霊、怨霊、悪霊と変幻自在であって、いつ太平洋戦争のような悪霊に憑かれるかわからない。そうした危惧に対して、朝日新聞を代表とするマスコミが推す<無見>の知識人との壮絶な綱引きが行われている。最近の「森友学園」の渦中の人・籠池氏も、有見の「美しい神の国」にハシゴを架けようとして失敗した一例であろう。こうした有見と無見の綱引きが現実に行われているにもかかわらず、死後に霊が存在するかのような印象を与えかねない「没後作僧(もつごさそう)」などと称して死後に戒名や法名を与えたりしている仏教界はへっぴり腰にならざるをえないのか、時々ささやかな声をあげたりするが、総じて傍観的であるような気がする。

大乗仏教は、「悉能摧破有無見 」と、有見も無見も「私はそう思う」とこだわる我執の延長線上の見解に過ぎないから、両方とも破棄すべきと主張する。この龍樹菩薩の見解は大乗仏教の根幹をなすもので、親鸞も「脱の光輪きはもなし 光蝕かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覺に帰命せよ」と和讃しておられる。ここで注目すべきは、「解脱の光輪」とか「光蝕かぶる」といった<光>は、仏性であり、仏性即ち霊性である。親鸞は「不可思議光」と名づけていたように、SPILITUARITY即ち聖霊といってもいい。だから霊を完全に破棄しろと言っているのではない。有見の人たちのいう<霊>には自我が付着しているが、「解脱の光輪」といわれる霊には自我は存在しない。無我の霊性である。鈴木大拙師のいう「日本的霊性」である。無見の人たちはこの無我の霊性をも、非科学的なうさんくさいものとして否定する。いわゆる無神論者といわれる宗教に拒否反応を示す人たちである。
このことがなかなか人々に理解されない。真宗の僧侶でさえ、毎日のように「悉能摧破有無見」と『正信偈』を唱えていながら、みずから信じて人に教えて信じさせることが出来ないのか、有見の人と無見の人が世にはびこっている。そして<有見>と<無見>が嫁と舅との確執にも似た綱引きを繰り広げている。

なぜ、光蝕かぶらなければ、有無をはなれられないのか? アインシュタインが特殊相対性理論を発表したがなかなか理解してもらえなかった時「人間の脳に一度張り付いた概念を変えるのは、プルトニュームを変えるのより難しい」と言っていた。まさにその通りで、一度脳に孤張り付いた概念(ここでは有見か無見)を通して思考するようになり、三毒に根を張る自我を自力では変えれなくなってしまう。親鸞は他力、即ち弥陀の光明をかぶるしか回心などありえないと、不可思議であるがそれが真実であると確証しておられたのであった。

 この光に遇うものは、三垢(三毒)消滅して、身意柔軟なり、歓喜踊躍して善心生ず   ー「大無量寿経」


3月26日(日)~27日(月) 曇り時々晴れ

日付が2日連続になっている日記は、2日間同じことを考えていたということで、時には前日の日記を加筆添削している

昨日の日記に「行為の中に無為を見、無為の中に行為を見る人、それは人間のうち最高の知者である」というヒンズー教の聖典にある言葉を取り上げたが、普通の人にはなかなかわかりにくい。仏教はバラモン教(現ヒンズー教)を土台にして釈迦が説いた教えである。行為の中に無為を見、無為の中に行為を見た人類最高の知者ブッダは<色即是空、空即是色>と認識して、羯諦羯諦波羅羯諦(ぎゃていぎゃていはらぎゃてい) 往き往きて、彼岸に往き 波羅僧羯諦(はらそうぎゃてい) 完全に彼岸に到達した者こそ 菩提薩婆訶(ぼじそわか) 悟りに至ると説いた。しかし、このような漢語の仏語で説かれても一層わからなくなる。
高田好胤師は「般若心経」の心は「とらわれない心、こだわらない心、かたよらない心、広く,広く、もっと広く」だと言っておられた。これなら一般の人でもなんとかわかる。
<無為>とは、とらわれない心、こだわらない心、かたよらない心でもある。どんなに熱心に念仏しても<とらわれの心やこだわりの心やかたよった心>がある限りまことの信を得ることはできない。そのことを善導は「専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず」といい「業行(仏道修行)なすといへども心に軽慢(おもいあがり)を生ず。つねに名利と相応するがゆえに、人我(我執)おのずから覆いて、同行・善知識に親近せざるがゆえに、楽(この)みて雑縁に近づきて往生の正行を自障・障他するがゆえに」(善導『礼讃』)と言っている。仏道修行した人は、とかく修行したことにこだわりの心があって、おもいあがって他人をみくだしあなどりがちになる。つねに名誉と利益にとらわれているからである。無為の善知識に近づこうともしないで、欲望と快楽を楽しんでいるからである。

私が映画「おくりびと」の原作者であることを著作権を放棄してでも辞退したのは、名利(名誉と利益)より無為の真実を選んだということであった。あの時、納棺夫日記は、納棺夫日記にしておきたいので、映画は映画として勝手に作ったということにして下さい。だから題を変えることと、原作者の名前を出さないことを条件としたのであった。ところが原作者であることが公になり、富山県が監督の滝田洋次郎に県民栄誉賞を出すとき、私にもということになったのを辞退したのは<安心>して生きる方を選んだのであった。こうしたことは、この世を生きているかぎり日々直面することである。その都度、選択して生きて行くことになるのだが、その選択の基準の依り処が重要となる。一つ間違えば、その生き方に天と地ほどの差が生じる。近代知識人は、不安のまま死んで往った人が多い。芥川龍之介も川端康成も、「ぼんやりとした不安」を抱えたまま自殺した。太宰治も有島武郎も三島由紀夫も江藤淳も<不安>を愛欲や観念の思想で誤魔化すかのよな自殺であった。人間の生死海の渡り方はいろいろで、瀬戸内寂聴さんや五木寛之さんのように仏教をネタにして小説を書いて名利にこだわって生きる人もあれば、名利を捨てて良寛のような生き方をする人もある。画家の熊谷守一が文化勲章を辞退した時の言葉が面白い「そんなもの貰うと、忙しくなる」であった。こうした人それそれの生き方は宿縁というしかないのだが、私のような才能もない凡夫は<とらわれない心>で生きることなどできないが、宮沢賢治のように「サウイフモノニワタシハナリタイ」と思っていたら、いくらか雑縁に近づくことを避けるようになる。利益になるからとか楽しいからといって雑縁に近づいていたら、いつの間にか<とらわれの心やこだわりの心やたかよった心>が凝り固まった我執に覆われて真実を見失い<安心>して生きれなくなってしまう。無碍の一道とは、とらわれない心、こだわらない心、かたよらない心で無為の中を犀の角のように真っすぐ進んでいくことであった。

このように書くと、人は私が仏教を目的として生きているように思われそうだから、あえて記して置く。なによりも大事なことは、日々を安心して生きることである。生・老・病・死の全課程を安心して生きてゆくことである。政治も経済も、科学や宗教も、そのための手段であって、目的ではない。ややもすると目的と化すのは、名利に相応するからである。広く ! 広く ! もっと広く !


3月25日(土) 曇り時々晴れ

この「新門日記」を書き続けていて、時々何のために書いているのだろうと思うことがある。一度止めたことがあったが、楽しみにしていたという人からメールがあったり、病気にでもなられたのかという電話があったりして、何かに背中を押されるように再び書き始めたのだが、なんだか自分でもよくわからないまま書き続けている。なんとなく無為の行為のように思えてくる。
昨日の日記で画家のゴッホを取り上げたが、ゴッホの絵は彼がその絵を描いていた時は1点も売れなかったのである。今日でこそ1点何十億もの値が付いているが(ちなみに、ゴーギャンを迎えるために描いた「ひまわり」が新宿の損保ビルの最上階にあるが、あの絵を安田生命グループが購入したのは四十五億円)ゴッホの絵は、弟テオ以外当時の社会の誰からも認められていなかったのであった。認められないのに彼は毎日描き続けていたのであった。精神病院に入っても書き続けていた。よくもまあ、そんなことが持続出来るものだと思ってしまう。まさに何一つ求めない無為の行為と言えるのではないだろうか
宮沢賢治の作品も、生前はほとんど認められていなかった。一千部刷った詩集『春と修羅』も友達や知人に200部配った残りの800部が戦後神田の古本屋にあったという。戦後草野心平や高村光太郎が激賞し、世に知られるようになったのであった。とくに彼を有名にしたのは、トランクの底に隠し持っていた手帳に書かれた『雨二モ負ケズ』が教科書に載ったりしたことだった。あの作品は「雨二モ負ケズ、風二モ負ケズ」というリズミカルな言葉で人々を惹き付けているだけで、その内容は法華経の常不軽菩薩のようになりたいという願望を歌ったものである。そのことを知る人は少ない。1日五合の米が支給される五合庵に住んで清貧を貫いた良寛とは違って「米四合と味噌少々」といいながら、現在の東北電力の設立発起人に名を連ねているほどの父親の裕福な家に住み、本人はカツ丼やライスカレーを食べ、蓄音機を持ちチェロを奏でる生活をしながら、「サウイフモノ二、ワタシハナリタイ」といった願望を抱いていたということである。結局彼は、ソウイフモノ二なれなかったが、父親との確執の中で生まれた法華経を基盤とした詩や童話は、文学作品として高く評価してもよいと思う。しかし賢治は死に際に「法華経」を千部刷って配ってくれと遺言するなど「法華経」にとらわれすぎていたように思えてならない。賢治の場合、観念の行為であった。ゴッホのように無為であることさえ意識しないで描き続けた無為の行為ではなかったような気がする。

 行為の中に無為を見、無為の中に行為を見る人、その人は人間のうちの最高の知者であり、 専心してすべての行為をなす者である・・・・・『バガヴァッド・ギーター』より

  道(みち)は常(つね)に無為にして、而(しか)も為(な)さざる無し・・・・・・・・老子

 <追記> バガヴァッド・ギーターとはヒンズー教の聖典の一つで、マハトマ・ガンジーが座右の書としていた。老子のいう<無為>とは人為的な作為がないということである。<義なきを義とするといふことは、なほ義あるになるべし>と言った親鸞は<無為即ち如来なり>と言い、念仏行の中に如来を見、如来の中に行証を見る人は、その人は無知文盲であっても知者であると言っていた法然も『一枚起請文』で「観念の念仏に非ず」と言い残している。念仏は無為の行為にほかならない。それを無碍の一道と言うのだと私は思っている



3月23日(木) ~24日(金) 曇り

人間は死を迎える前に死を受容した人の死に方は美しい。そしてその死顔も美しい。特に生前、<生死一如>に生きた人は自然(じねん)の美しい死を迎える。
言葉を有しない動物や言葉を身につけていない幼児は<生死一如>を生きている。生死一如を生きているとは,<生死の中に仏あれば生死なし>を生きていることになる。即ち<生死即涅槃>を生きていると言うことになる。そうした子猫や子犬や幼児は、何をやっても可愛いし、見ているだけで癒やされる。ペットの死に立ち会った人もいると思うが、犬や猫が死を迎えても眠りにつくような美しい死に方をして、安らかな美しい死顔を残す。言葉を身につけた人間以外の自然界が美しいのは、生と死を分けて生きていないからである。良寛の辞世の句「裏を見せ表を見せて散る紅葉」と散るだけだからである。
昨日の日記にゴッホを取り上げたが、ゴッホの絵が美しいのはゴッホ自身が<生死一如>の無碍の心で生きていたからである。彼は「麦刈る人のいる風景」を描いた時、「麦を人間の死に例えるなら、刈られる麦たちが喜びに満ち歓喜の声をあげている」と言っている。そして彼はピストルの暴発事故で息を引き取る前に弟テオに「このまま死ねたら、なんと素晴らしいことだろう」と言って息を引き取っている。アンデルセンは死に際に「なんとわたしは幸せなのだろう。なんとこの世は美しいのだろう。人生はかくも美しい。わたしはまるで、苦しみもない遠い国へ旅立ってゆくかのようだ」と言って息をひきとっている。
ブッダはブッダガヤの菩提樹の下で覚りを得たのは35歳、以後45年間<生死一如>を生きて、80歳で大涅槃に入られた。その終焉地クシナーガルへ向かって歩きながらアーナンダにつぶやかれたのが「アーナンダよ、樹々は美しい、この世は美しい、人のいのちは甘美である」であった。

私が、死を迎える前に死を受容した人の死に方は美しい。そしてその死顔も美しいと思うようになったのは、納棺の現場で、死者の死顔が安らかで美しい人とそうでない人があることに気づいたのがきっかけであった。死顔が安らかで美しい人は息を引き取る前に死を受容した人で、そうでない人は生にしがみついて最期の最後まで死を受け入れないで抵抗した人であることに気づいた。私が納棺夫として死に関わるようになった当初は、明治生まれの人たちであった。真宗王国の富山県にあっては、「やっと阿弥陀さんが迎えに来て下さった。ありがたや、なむあみだふつ」と言って亡くなる人も多かった。そんな老人の死顔はほんとうに安らかで美しかった。いわゆる大往生である。真の念仏者は、臨終待つことなく平生業成として死を受容しているのである。ところが高度経済成長に伴って、枯れ枝のような死体が点滴によるぶくぶく死体となり、その死顔もだんだん醜くなっていった。

何らかの方法で死を克服した人の生き方は明るい」と言ったのはゲーテであった。また「魔笛」の作曲家マーラーの友人の詩人リュッケルトはこんな言葉を残している「死よりも力のあるものは何か?それは死に臨んで微笑む人である」と。リュッケルトはマーラーと組んで歌曲「亡き子を偲ぶ歌」を作っているが、幼くして死んだわが子の微笑む死顔から生まれた言葉であろう。


3月22日(水) 曇り

二日間の講演の旅の疲れからか、寝たり起きたりしていた。寝ていたら、突然ゴーギャンの「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか」と題された絵が浮かんだ。私が引っ越しを繰り返していた学生時代、この絵の複製を持ち歩き部屋の壁に貼っていた好きな絵であった。しかしやがて仏教に出遇って、この絵は<我々はどこへ行くのか>があいまいなままになっていると思うようになって、破り捨てた。

ゴッホがアルルの黄色い家へ恋人でも迎えるかのようにゴーギャンを招き、しばらく共同生活をしているうちに決裂した。その耳削ぎ事件まで起こして決裂した原因は、ゴーギャンが「近代絵画は自然界を見て感動をしたら、それを頭で構築し直して描くものだ」と主張したのに対してゴッホは「見ながら写生をするしか私は描けない」との立場で対立するようになったのであった。後に私は、法然の「選択本願念仏集」を批判した「摧邪輪」を著わした明恵との対立もゴッホとゴーギャンの対立と根っこのところで似たところがあるような気がするようになった。法然上人行状絵図にこんな言葉がある。
近来の行人、観法をなす事なかれ、仏像を観ずとも、運慶・康慶がつくりたる仏ほどだにも、観じあらわすべからず。極楽の荘厳を観ずとも、桜梅桃李の華菓ほども、観じあらわすべからず。ただ彼仏今現在成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生の訳を信じて、深く本願をたのみて一向に名号を唱ぺし」

ゴーギャンは人間の理性(観法)を重んじ、ゴッホは自然界の桜や梅、桃の花や、李の実の美しさを無心に描いたのであった。ゴッホの絵は、ひまわりを描こうと、麦畑を描こうと、何が描かれていても、無量寿(永遠のいのち)が光となって息づいている。たとえばキリスト教圏では、糸杉は死を象徴する木であるが、生き生きと生死一如に描かれている。法然が「一枚起請文」で「観念の念ニモ非ズ」と言ったのも、このことを言っている。ゴーギャンの画には観念(自力)の残滓があり、ゴッホの画は<生死即涅槃>の<彼仏今現在成仏>である。人類はゴーギャンの作品は近代絵画の足跡として残すだろうが、ゴッホの絵は人類の宝として永遠に残るだろうと私は信じている。

<追記>棟方志功は画家を目指して「わだばゴッボになる」と青森から上京し、戦中戦後富山県砺波に疎開していた時、浄土真宗100%の地で他力の土徳に触れ「絵は自力で描くものではない、描かされて画くものだ」と開眼し、世界的な画家となった。代表作に「二菩薩釈迦十大弟子」や「阿弥陀仏像」などがある。



3月21日(火) 広島 曇り

今日の広島別院での講義は、浄土真宗本願寺派の寺族婦人連盟の研修会であった。さすが安芸門徒といわれる地である。百数十人も参加があった。百数十ヶ寺の坊守さんたちが来ておられると思うと、それに相応しい話をしなければと緊張した。真宗の坊守の理想像は、親鸞の妻・恵心尼のようであるべきだと私は思っている。まず念仏者であって、女であり妻であり母でありながら、仏道を歩む夫(住職)の足かせにならないように気配りをして自坊を守り、後に「お父さんは、観音菩薩の生まれ変わり」と娘に言えるほどの住職(僧)を育てる女性であってほしいと思っている。そんな理想像を抱く私にとって、高望みの話をしがちだが、今日は抑えて、私の話をヒントにして自らが気づいて心がけてほしいことを話した。話し終えた反応はよかった。昨日は曹洞宗のお寺でのお彼岸の墓参りに来られた人たちに合わせた話をしたつもりだった。医師の集いであろうと、福祉関係の集いであろうと、宗派が異なろうと、その参加した聴衆に迎合するのではなく、仏教の真実に基づく同じ内容の話を参加者の顔を見ながら変化をもたせて少しは話せるようになってきた。

人を見て法を説けという格言がある。釈尊が仏法を説くにあたり、相手の気質や状況などを考えて、それぞれにあったやり方で行ったという。そのことが「如是我聞(私はこのように聞いた)」と八万四千もの経典が生まれる結果につながったとも言われている。釈尊のように自在に法を説くなど凡人には不可能なことである。弥陀の第八願に「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、他心を見る智を得ずして、下百千憶那由他の諸仏国中の衆生の心念を知らざるに至れば、正覺をとらじ」とある。地球上の人間(現在73億9000万人)が何を考えているか知らなければ仏とはいえないということである。そんなことはとても出来ないが、親鸞は出来ないからこそ、「念仏して、いそぎ仏に成りて、おもうがごとく衆生を利益すべき」と、本願念仏を説かれたのであった。一切衆生悉有仏性であるなら、一人一人の顔を見て<和顔愛語>で話せば、そしてそれが、法が滲み出る法話であれば、光が光を招くように如来が法を伝えて下さる


3月20日(月) 富山 曇り

6時の北陸新幹線で高崎経由で熊谷に着いたのは9時。迎えの車で群馬件太田市の瑞岩寺に着いたのは10時。講演は10:30分からであった。瑞巌寺は曹洞宗のお寺でFACEBOOKの友達である長谷川俊道師の招きで出講したのであった。(長谷川氏が講演のことをタグ付けされたので省略する)講演を終えて熊谷の駅まで送ってもらい、広島へ向かう。広島駅で牡蠣フライ定食を食べてホテルにチェックインしたのは10時。


3月19日(日) 晴れ 20日は群馬 21日は広島 その準備をしていた

3月18日(土) 晴れ

わが国の人は、<道>を尊ぶ。茶道であれ、相撲道であれ、日本画などでも型から入ることが基本とされる。型は道を外れないようにする基本動作を身につけることでもある。やがて型を忘れて自在にこなせるようになった人は大家と言われ人間国宝になったりする。子供の<しつけ>にも、そのことが適用される。既成の人道から外れないようにした方が生きて行くのに無駄がなくなるからである。
私には、そのしつけがなかった。だから無駄ばかりの人生であった。私の記憶は満州での昭和20年8月15日からはじまっている。八歳であった。父も母も道を失い、子供の<しつけ>どころか自分が生きてゆくのが精一杯であった。私は「路傍の石」のように道端に置かれた。だから私は父や母に叱られた記憶がない。祖父母に育てられていた一時期、一度祖父に叱られたことがあった。叱られたことを経験したことのない子供は、ショックが大きい。祖父の家を飛び出し、自分を捨てていった母を訪ねたアパートのドアを開けたら、母は知らない男と寝ていた。以来映画「エデンの東」のジェームス・ディーンのような{理由なき反抗}を繰り返すようになった。丁度60年安保闘争と重なり、理由なき反抗はそのまま学生運動へと巻き込まれていった。やがて大学を中退して、虚無的な理由なき反抗を繰り返した果てに、気がついたら納棺夫になっていいた。納棺夫になって、毎日死者に接しているうちに、死者たちに導かれるように、小さな光に出遇った。その光の中に一筋の道が見えていた。それは白い道であった。道の先には善知識が歩いておられた。私は本能的にこの道しか救われる道はないと思った。この道を選ばなかったら、私は今も拳を振り上げ理由なき反抗を繰り返していたに違いない。拳を振り上げている限り、手を合わせることなどできない。阿修羅のように拳をあげていないと生きている心地がしないのか、70歳になっても80歳になっても拳をあげている人がいる。批判精神などと称して拳を振りあげたままこの世を去った戦後の知識人たちのなんと多いことだろう。三木清が手を合わせただけで、非難の拳をあげていた服部之総などという時流に乗った知識人もいた。

私が興福寺にある国宝の「阿修羅像」に惹き付けられるのは、私の辿った愚かな人生を慚愧の念で気づかされ、修羅場から安心の世界へ至る道は合掌念仏しかないと言っておられるように感じるからである。とらわれ(貪欲)と怒り(瞋恚)の心で拳を振り上げ闘い続ける阿修羅。それは結局人生に修羅場しかもたらさない。<怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない>からである。この像を造ったのは、持統天皇の時代、自国が滅びた百済の帰化人であった。阿修羅は<怨みに報いるのに怨みをもって>梵天と闘い続けたインドの神である。だから阿修羅像といえば、武具を身につけ刀剣を振り上げている像が一般的である。それが武具を捨て少年が怒りを抑えて今にも泣き出しそうな顔をして手を合わせている。私は最初にこの像を見た時、涙があふれ出た。

<追記>今日日韓関係をこじらせている慰安婦少女像の設置は、韓国の人々の阿頼耶識に根付いた<恨(ハン)の思想>に火をつけ、政治的に利用しているとしかおもえない。拳を下げて合掌する韓国の先人が造った阿修羅像をあの少女の像の横に設置したら世界中のマスコミが取り上げるだろう。その時日韓の両国民が<怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない>ことに気づいて「ナマステー」と互いに合掌して和解ができないだろうか、などと出来もしないことを夢想していた。



3月17日(金) 晴れ

久しぶりに晴れ間が出たので、富山駅まで20日の群馬の瑞岩寺へ出講するためのチケットを受け取りに行った。チケットを受け取ってから、駅前のベンチに座って、ぼんやりと眺めていたら、キャリーバッグを引きずってスマホを覗きながら歩いている若い女性がいたり、高校生二人が立ち止まったままいつまでもスマホをいじくっているのが目に入った。自分はスマホを持っていないからわからないのだが、何があんなに夢中にさせるのだろうと思ってしまう。寝るときも、料理をしていても、電車に乗っても、自転車に乗っていても、車を運転していても、片時もスマホを離さない。まさに、スマホ三昧の生き様といっていい。人間以外の動物は毛繕いが仲間との絆を深めるコミニュケーションである。今日の人間はスマホを媒介にしてコミニュケーションをしている。スマホは不安な心をなだめすかして生きていくための身体の一部になってしまっているのかもしれない。しかし、スマホによる誘惑や詐欺や犯罪に巻き込まれる事件も多発している。

「三昧(ざんまい)」というのは仏教用語である。一般には読書三昧とかゴルフ三昧とか他のことを顧みずに夢中になることとして使われるが、仏教の修行において重要視される言葉で、サンスクリットのサマーディsamādhiの音訳である,覚りを得るための過程で,ある一つの対象に対して,まっすぐこころを集中させ,他の対象に気が移ったり乱れたりしないこころの状態(定)をいう。例えば親鸞の『教行信証』の中だけでも、34箇所も「三昧」という言葉が用いられている。もちろん「念仏三昧」が多いのだが、有名なのは親殺しの阿闍世に接見した時の釈尊の「月愛三昧」である。「その時世尊(釈尊)阿闍世王のために月愛三昧に入れり、三昧に入りおはりて大光明を放つ」とあって「かくのごときの瑞相は、すなはちこれ如来、月愛三昧に入りて放つところの光明なり」とある。
親鸞が『教行信証』の冒頭に「光顔巍々」の瑞相をもって、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり」と断言したのは、三昧に入って如来と釈尊が仏仏相念した状態が顔や身体に顕れているとの確信の上に成り立っている。キリスト教の聖書でもイエスが祈る場面が頻繁に出てくる。「祈っておられる間に、み顔の様が変わり、み衣がまばゆいほどに白く輝いた」とルカ伝にある。マルコ伝にも「その顔はlike of the sun(太陽のように)輝き、その衣は光のように白くなった」とある。釈尊の場合も「今日世尊、諸根悦予し姿色清浄にして、光顔巍々とまします」と表現されている。イエス・キリストの祈りは神とのコミニュケーションであり、釈尊の三昧は如来との仏仏相念、即ちコミニュケーションにほかならない。このことは、イエスの場合は神とのコミニュケーションをしては説教をしておられ、釈尊の場合は三昧に入って如来とコミニュケーション(仏仏相念)をとられた後に法を説いておられるということになる。まさに「可具問仏」(すべからく仏に問え)である。仏に問うには三昧に入って仏に遇うしかない。三昧に入るには念仏三昧しかない。そのことを実証(行証)してみせたのが師の法然であった。親鸞もそれを受け<念仏に勝るべき善なきゆえに>と念仏三昧を勧められたのであった。

スマホ三昧で日々を過ごす今日の世相を見ていると私は不安になってくる。誰とコミニュケーションをするのがいいのかわからなくなっているのである。そのことは「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」と空海が生死の輪廻を詩的に表現したが、まさにスマホを携えて闇の中を流転してゆくしかないのではなかろうかーそんな思いで駅前の広場を往く人を眺めていた。ふと我に返り、他人(ひと)の事より自分自身がもう既に着陸態勢に入っているのに「念仏三昧」のシートベルトもしっかり締めないでキョロキョロと窓外を気にしてている。なんと言うことだと思って立ち上がった。



3月15日(水) ~16日(木) 曇り時々雨

このニ、三日白木蓮の白光が目の前にちらつき、「妙法蓮華経」の別名が「正しい教えの白蓮」とは、なんと詩的な表現だろうと思っているうちに、20年前(60歳の時) 須弥山のモデルとされるヒマラヤ山脈の最西端にある霊山カイラスへ行った時のことを思い出した。
息も絶え絶えに死ぬ想いで標高5000メートルの峠を越えたら、目の前にカイラス山が姿を見せた。その清浄光明な容姿に圧倒されて私は大地に座り込んで見上げていた。しばらくすると、後からやってきたチベット人の巡礼者3人が五体投地しては立ち上がり、カイラスに向かって白い粉(麦粉)を撒いては「オムマニペメフム」と大声で真言を唱えていた。
チベット人が唱える「オンマニペメフム」の真言をあえて訳せば「白蓮の宝珠よ、栄光あれ」という意味だそうである。彼らは唱えるというより、イスラムの人が「神は偉大なり」と叫ぶのと似たような叫びに聞こえた。彼らは祈り終えると、車座になってツァンバ(麦粉とバターを丸めた団子)を食べ始めた。近づいてカイラス巡礼の目的は何かと現地ガイドに聞かせてみた。「今度生まれてくる時は今よりましな人間に生まれるように祈っている」という返事が返ってきた。なるほどなあと思った。「白蓮の宝珠に栄光あれ」という真言には「南無」の思想がない。そういえば後日大正大学へダライラマが来た時、講義を聴きに行ったが、英語でtraining(
トレーニング)という言葉を連発しておられた。要するに修行を積んだ僧にしか成仏はあり得ないという事である。庶民も六道輪廻が当然と思っていて、成仏など最初からあきらめているのである。しかし「白蓮の宝珠に栄光あれ」という真言を唱えるチベットの人々には三宝を敬う心があるように思った。

私がカイラスへ行こうと思ったのは、葬式の現場で何かの拍子に寺の内陣にある須弥壇を祭壇と言ったら、住職に「あれは須弥壇というのだ」と叱られた。そして須弥壇の由来を聞かされた。古代インドの世界観では、宇宙の中心に須弥山という山があり、仏教ではその山の上で仏が永遠に法を説いているとされている。ゆえに須弥山を模して御本尊を安置する壇が作られているとのことだった。そのモデルがカイラス山であることを書物(倶舎論)で知って、古代インド人の空想論だと思っていた山のモデルが実在するのなら、この目で見てみたいものだと思ったのであった。その思いが昂じて向かったのだが、登山などしたこともなかった私には過酷な旅であった。平均標高4000メートルのチベット高原を高山病に悩まされながら四千キロの二週間の旅の先に、カイラス山があった。ヒマラヤ山脈の最西端にある単独山で、標高6656メートルの未踏峰の霊山。チベット人の先祖の神が降臨したとするラマ教、シバ神の聖地とするヒンズー教、教祖が修行したとするジャイナ教、仏が永遠に法を説いているとする仏教、それら四大宗教の聖地中の聖地とみなされている山であった。チベット仏教では、観音菩薩の化身の霊山とみされている。

とかく生きるとか死ぬとかの問題は、生死の現場で五感で感得して初めて真実に触れることができるものである。
標高五千メートルの峠の山と山の間から突如姿を見せたカイラス山は、姿色清浄にして光顔巍々としていた。ハッと思った時は言葉にならない。富士山など霊山にもそんな言葉にならない一瞬の光景に出遇うことがあるように、カイラス山もまた存在するだけで無碍の光明を放って法を説いていた。そういえば、三昧に入った覚者も存在するだけで白光を放ち法を説くという。阿闍世の前に立たれた月愛三昧のブッダのように



3月14日(火) 曇り

昨日の日記で「マグノリア」を取り上げていたら、宮沢賢治の作品の中に「マグノリアの木」という作品があることを思い出した。「妙法蓮華経」はその冒頭に「広大な教えを説いた教典の王者であり、最高の目的(さとり)に導く入り口を教え示し、偉大な道である「正しい教えの白蓮」を衆生のために、余は説くであろう」とブッダの言葉として記述されている。法華経の熱心な信奉者であった賢治は、この言葉を踏まえ、「マグリアの木は寂静印です。覚者の善です」といい、まさに白蓮は法華経の世界だといわんばかりに歌っている。

 サンタ マグノリア
 枝にいっぱいひかるはなんぞ
 天に飛び立つ銀の鳩

 セント マグノリア
 枝にいっぱいひかるはなんぞ
 天からおりた天の鳩

経典の中でも法華経は、美しい譬喩や巧みな説話が文学的に語られている第一級の経典といっていい。賢治はそこに惹き付けられたのだろう。しかし譬喩や説話は方便である。あくまでも<さとりへ導く入り口>に過ぎない。一般の人は「美しい白蓮」で留まってしまう。そのことに気づいた親鸞の慧眼に感服する。親鸞は師の法然が推す「観無量寿経」も、最澄が固執した「妙法蓮華経」も、<せっかく浄土に生れても蓮華の中につつまれて、あたかも母の胎内にいるようなもの>とみなし、そのことを否定するわけではないが疑城胎宮の経として方便化身土に分別して、真仏土(無量光明土)を説くのは「大無量寿経」だけであるとした。そして<念仏にまさる善なき>と確信をもって説いたのであった。改めて「すごいなあ」と思ってしまう。



3月13日(月) 晴れ

ここ二、三日晴れの日が続き、まだ朝夕は冷えるが、春めいてきた。隣の家の白モクレンの蕾も少しふくらんできた。私はこの季節になるとモクレンの蕾に目がゆくようになったのは、モクレンの蕾のそのほとんどが、北向きにちょっと首をかしげるようにしていることに気づいたからだった。

モクレンやコブシなどを総称してマグノリアという。マグノリアは化石などから、今から一億年前からすでに今日のような姿で地球上に存在していたことがわかっている。今われわれを取り巻いている地球上の花木類の先祖がマグノリアであるとも言われている。マグリアの雄しべは、花がまだ蕾のうちに成熟し、花が開く頃には老いてしまうが、雌しべは花が開いて後に成熟するのだという。つまり一輪の花の中では花粉の授受ができない仕組みになっているのである。早春のまだ肌寒い夕刻、昆虫たちは暖を求めてマグノリアのふくらんだ蕾の中にもぐりこむ、その昆虫の体には、日中他の木を訪れた時の花粉がついている。こうしてマグノリアの花粉が運ばれ、離れた樹から健康な花粉を受け取るのだそうである。マグノリアの生命存続の有り様が、一億年前のまま続いているのは、花粉の媒介をつとめる昆虫たちとの共生が一億年前からのまま繰り返されてきたということにほかならない。

このことを樹木の専門誌で知ってから私は、モクレンの蕾がふくらむ頃になると思い出すのであった。関心をもってみているうちに、ほとんどの草木は太陽に向かって花を付けているのに、マグノリアの蕾は首を少し北向きに傾けていることに気づいた。北の方から南に向かって飛んでくる昆虫たちを迎えるためだろうか、そして蕾に入ると入り口を静かに閉じて外気から虫たちを守って一夜を過ごさせるのである。なんというやさしいオモテナシなのだろうかと感動するとともに、一億年も生存競争を生き抜いてきたしたたかな戦略と戦術に驚嘆さえ覚えるのだった。
桜が咲く二週間ほど前の周りに競合相手が少ない時期に花をつけ、桜が満開になるころには、虫たちからも人間からも見向きもされなくなることを知っているかのように散ってゆく。その頃は誰にも見られることはなく新しい緑葉をつけている。



3月12日(日) 晴れ

新潟・南魚沼の黒岩卓夫氏から9月18日に出講する「地域医療研究会全国大会2017in魚沼」のチラシと詳細がメールで届いた。大会実行委員長の黒岩卓夫氏は私と同年の1937年生まれで、満州から引き上げて来た経歴まで同じである。氏は東大医学生の時全学連の中枢にいて、安保闘争の国会デモの際死亡した樺美智子さんの隣にいて大怪我をした人物である。また当日の私の講演の座長は諏訪中央病院の鎌田実氏で、彼も全共闘の闘士であった。まあ、そんなことは過ぎ去った青春時代の一コマに過ぎないが、「あの頃は元気だったなあ」といった懐かしい思い出として浮かんでくる。

私は、先月の東京都病院学会の講演でも、こうした医療に関わる人の前では「和顔愛語」で末期患者に接する大切さを話すようにしている。「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉は、『大無量寿経』に出てくる仏語であるが、私の体験から、人が死に際に見せる柔和な顔で「ありがとう」と言う瞬間が「和顔愛語」の最高の相だと思っているからである。なぜなら、人がすーっと息を引き取る時に柔和な顔で「ありがとう」と言うことがある。その「ありがとう」はその人の全人生が一点に濃縮された重い尊い和顔愛語にほかならない。生と死が交差する生死一如の瞬間に自我が崩壊し、とらわれや憎しみや怒りも消滅し、すべてを許す「ありがとう」であり、すべてを丸ごと認める「ありがとう」であり、すべてに報恩感謝する「ありがとう」だからである。その「ありがとう」は自力での「ありがとう」ではない。人間は、作り笑いをして「ありがとう」と言うことだってできる。デパートの売り子だって、心から言っているのではないかと感じさせるほど見事に演ずることだってできる。しかし、そんな「ありがとう」ではない。そのことを親鸞から教わった。親鸞は死に往く人の「和顔愛語」は、往相回向、還相回向によって生じる他力の愛語であると説いている。要するに死にゆく人が柔和な顔で「ありがとう」というのは、その人が言おうと思って言っているのではなく、弥陀の光明に触れたその人の口を借りて如来が言っているのであるとみなす見解である。私は納棺の現場で見た死者たちの柔和な顔が浮かび、親鸞のこのとらえ方に目から鱗がおちる思いがした。昨日の日記にも記したが、道元が「愛語には天を逆さに廻すほどの大いなる力がある」というのは、それは仏の言葉だからである。またマザー・テレサが「するーっと出るやさしい言葉の力は、無限大である」というのも、神を信じてのマザーの言葉である。こうした話を私は、仏教寺院での講演以外は、仏語を一切使わないで話すことにしている。また、真宗寺院での講演では、『大無量寿経』にみられるブッダの<光顔巍々>の相を重ねて「臨終待つことなし」と付け加えることにしている。



3月11日(土) 晴れ


昨日の日記で親鸞の悲嘆述懐の歌を取り上げた時、<小慈小悲もなき身にて>という言葉が胸に突き刺さった。小慈小悲も無いということは、浄土真宗に帰していながら、往相回向も還相回向も如来から賜わっていないと言うことだと思った。慈心が備わっていないということは、真証の証に出遇っていない証拠だと思った。こんな自分に何ができるだろうかと思った時、良寛を思い出した。

良寛は、道元の『正法眼蔵』「菩提薩埵四摂法」の巻の中の「愛語」を書写している。「愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子としている。愛語には天を逆さに廻すほどの大いなる力がある。そのことを学ぶべきである(意訳)」とある。そして法施のできない仏道修行の途上にある者は、もちろん財施も労施もできないが、言葉の布施はできる。だから言葉使いを大事にし、慈愛ある使い方、書き方、話し方を実行して衆生へ布施すべきであると説いておられる。なんとなくのんびりと暮らしておられたように思われがちな良寛は、この道元の言葉を厳しく守って生きておられた。例えば言葉に関して、「言葉の多き」「とはず語り」「自慢話」「陰口」などなど、九十ヶ条にもおよぶ自戒の言葉を設けて、自分の言葉使いを厳しく律しておられたのであった。言葉使いばかりでなく、良寛の書を後の世の書道家が真似ができないのは、ここにある。

これだ! と思った。これなら自分でもできるような気がした。だが身についていないと、いざ実際にするっと愛語は口から出るものではない。するーっと口を突いて出る言葉はその人の本音だからである。昔、吉田茂が国会で「バカヤロウ」と言ったため「バカヤロー解散」というのがあったが、平成になって森喜朗が「わが国は神の国」と口を滑らしたばかりに総理を棒にふったりと、嘘で固めた政治の世界では本音が出てると取り返しのつかない事が起きる。
愛語は、とらわれの心(貪欲)や怒りの心(瞋恚)を放れた大慈大悲を種子としたその人の本音である。しかし小慈小悲もない自分にできることはこれしかないと思った。「愛語を好むならば、次第に愛語の習慣が身につき、日ごろ気づかず見えてこなかった愛語も口を突いて出てくるようになる。この世で命ある限り、愛語すべきなり」と道元はレシピまで記しておられる。するーっと口を突いて出るようになるまで、当面良寛の九十ヶ条を参考にして意識して愛語に努めようと思った。そういえば、マザー・テレサも同じことを言っていた。

 するーっと出るやさしい言葉の力は、無限大です


3月10日(金) 曇り時々晴れ

静かである。何の不安もない。波乱に富んだ人生を生きてきて、木漏れ日の射す陽だまりで猫が眠っているようなひとときを迎えられるとは思ってもいなかった。夢にまで見たあこがれの世界であった。とにかく老・病・死の苦から脱すること、それが悟りの世界であると思っていた自分であった。
しかし、それは声聞と縁覚の二乗の世界であった。私の場合、まさに縁覚であった。縁覚とは、師なくして飛花落葉などを観て独自に覚るものを言うのだが、(私の場合、挫折を繰り返した果てに納棺夫となり、その納棺の現場で出遇った<蛆の光り>を観ての開眼であった) しかし、そうした覚りは、大乗仏教の立場から言えば、現実逃避の自己中心的な利他の行がはたらかない不完全な覚りといえる。龍樹の『大智度論』によれば「二乗の者は、現世に対する執着を絶った阿羅漢ではあるが、大願も、
大慈大悲もなく、一切の功徳を求めようともせず、ただ老・病・死の苦から脱することのみを求める」とある。

まことに知んぬ 悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし、痛むべし

親鸞がこの言葉を『教行信証』の草稿に記したのは、おそらく稲田の草庵にいた頃だろう。やがて六十歳で上洛し、八十歳になるまでの20年間、常陸で仕上げた「教行信証」の原稿をを推敲しながら、それを血肉にして真証の証に近づく努力をされている。残る10年は仏の世界(真仏土)にあって、ここに至った宿縁を慶び、報恩感謝の日々を過ごされたような気がする。そうした仏道の途上で歌われた愚禿悲歎述懐に、次のような和讃がある。

悪性さらにやめがたし こころは蛇蠍のごとくなり 修善の雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる

小慈小悲もなき身にて 有情利益はおもふまじ 如来の願船いまさずば 苦海をいかでかわたるべき

9歳で得度し、80歳まで「我行精進、忍終不悔」と<生死出づべき>道をただ一筋に脇目も振らず歩いてきた私(親鸞)でさえこの有様なんだから、念仏者であるなら、そんな二乗(声聞・縁覚)などに留まって虚仮の陽だまりで猫のように眠っていてはいけないと叱咤激励されているような気がするのだった。


3月9日(木) 曇り時々雨

咳をしても痛くなくなった。寝返りが打てるようになった。便通がよくなった。肋骨のヒビが完治したということだ。凍結した道路で転倒して45日、ベテランの老外科医は「1ヶ月ほど安静にしていたら治りますよ」と言ったが、その通りであった。

老医師の言葉を忠実に守って、安静にしていた。この45日間、ほとんど人と会わなかった。会ったのは東京病院学会へ出講した時、大井玄先生に会っただけだった。二、三の友人から誘いの電話があったが、体調を理由に断った。ほとんど、食べて寝て、糞をして、寝て食べてを繰り返していた。その寝方も以前とは違った。2時間ほど寝ると、寝返りが出来ないので目が覚めた。起きて何かを口にして茶を飲んで、また寝るといった具合だった。まさに赤ん坊か猫のようだと自分で思った。今では、それが習性になってしまったのか、夜も昼も関係なく、2時間おきに寝たり起きたりしてパソコンを覗いたり、庭を見て過ごしたりしていた。「国民総活躍社会」と旗を振っている人からみれば、まさに無為徒食の輩に見えるだろう。

今日もぼんやりと庭を見ていたら、「無為」という言葉が浮かんだ。「無為」という言葉は「無為無策」「無為に過ごす」のように「なにもしないでいること」という意味でよく使われるが、老荘の道教は意図や作為のない無為自然の道を説いた大千世界の哲学であるなら、孔子を筆頭とする儒教は,人間や政治の理想的あり方をいい,無為の修養から出発して国家全体の統治にまで及ぶ人間の理想像を求めて説かれた小世界の哲学といっていい。大志を抱いた若者が挫折を味わい蟄居して<無為>の状態で過ごし、再出発すること、わかりやすく言うなら、算盤で「御破算でねがいましては」と一度ゼロになって出直す行為に例えられる。その象徴的な人物が「諸葛孔明であった。菅直人が四国巡礼をしたり、中曽根康弘や安倍晋三が座禅をしてみたりするのも、この中国儒教の無為の解釈と底通しているような感じがするが、そんなことを思い付きのように短時間やってみてもカラスの頭は黒いままでは、無為どころか全く意味がない。

昨日の日記に、庭を見ていて浮かんだ良寛の歌淡雪の中にたちたる三千大世界 またその中にあわ雪ぞふる」は、五合庵という狭い空間にいながら良寛は宇宙を歌っている。大乗仏教の悟りは、四畳半にいても、宇宙に生きることだってできる。
本木雅弘君が主演した映画「おくりびと」がアカデミー賞にノミネートされた頃、本木君が秋山真之を演じる「坂の上の雲」を撮影していた。私は「本木さんは秋山真之が正岡子規に当てた年賀状のこと知っている?」と問い掛けてみたら「遠くとて五十歩百歩小世界、ですか」と返ってきた。すごい、彼は知っていた。おそらく松山の秋山兄弟記念館で賀状を見たのだろう。秋山真之が海軍士官として米国へ留学していた時、友人の正岡子規が病床に伏したことを知り、送った賀正である。自分は遠くアメリカへ来ているが、君は病床六尺に伏している。しかし君は三千大世界に生きている。その大世界から比べれば日本とアメリカの距離など五十歩百歩の小世界に過ぎないと言っているのである。秋山真之も大世界に身を置く詩人であった。でなければ「敵艦見ユ」という報を受け、咄嗟に「天気晴朗ナレド、波高シ」などという名文を東郷平八郎へ渡せるわけはない。明治の軍人や政治家は、無為に身を置いていたようなところがあった。それから思うと高杉晋作の<晋>を名に付け、志士気取りで戦争も辞さない言動をしておられる安倍晋三さんは、小世界の俗世に住む小人にしか見えてこない。こんな人物に国の舵取りを任していていいのだろうかと思ってしまう。

親鸞は「涅槃は漢には無為といふなり」といい「仏性すなはち如来なり、如来すなはち無為なり」と『教行信証』に記している。一つの言葉でも、国や人によっていろいろな意味づけされるのは、各々が辿ってきた業縁が異なるからにほかならない。そういえば、興福寺の僧が残したとされるこんな歌があった。

 手を打てば 女中「ハイ」といい、鳥逃げる 鯉は近づく 猿沢の池



3月8日(水) 晴れ

6時に起きて、庭を見たら真っ白だった。どうりで昨夜寒いと思っていた。淡雪が夜明け前の黒い空から落ちてくる。降り続く淡雪を見ているうちに、この数日大井先生の「つなかがり」のことを考えていたからか、良寛の歌が浮かんだ。

 淡雪の中にたちたる三千大世界 またその中にあわ雪ぞふる ー良寛

夜が明けると、雪が止み、陽が射し始めた。午後には雪の景色は跡形もなく消えてしまった。カバー写真のためにと撮った雪の庭の写真も差替えなかった。山頭火の歌が頭をよぎった。

 生死のなかの雪ふりしきる ー山頭火


3月6日(月) 晴れ後曇り~3月7日(火) 曇のち雪

この度の大井玄先生の本『看取りとつながり』は、わたくしが今日までに思い巡らしていた思想に合致し、大いに勇気付けてもらった。
私は10年前からブログのプロフイールの頁に「人生の最高の幸せは、生・老・病・死の全過程を安心して生きることである」と記してきた。そのことを具体的に完全に裏付けて下さった。有り難く何とお礼を申し上げてよいのかわからない。興奮は冷めやらず、この三日間そのことばかりを考えていた。
特に、1月15日付けの読売新聞に掲載された五木寛之氏のインタービュー記事「「老いや死に対して、安らかな落ち着いた境地があるというふうに想像するのは幻想でしょう」と云い「僕は、老いさらばえていく姿を、むしろ家族に見られたくない」と云い「最期は、一人でこの世を去る覚悟をもたないといけない」(2月23日の新門日記参照)という発言に違和感を抱いていた私にとって、強い味方を得た思いがして、今後も世の潮流など惑わされることなく、自分の道をまっすぐ歩いてゆく勇気を頂いた。

今日われわれは、スマートフォンやパソコンや液晶テレビなど情報機器を片時も離さずに生きている。これら半導体を用いる機器は量子力学の量子論を基盤にして出来ているのである。量子力学とは、宇宙というものは、ありとしあらゆるものが全部つながっているという思想である。それは丸ごと認める思想と言い換えてもいい。科学は丸ごと認める世界を構築しているのに、仏教学者や知識人たちは、近代のニュートンやデカルトの分別の思想で仏教を解釈している。先の五木氏の発言などはその典型と言えよう。五木氏を例にあげたが五木氏ばかりではない。わが国の作家や知識人にみられる傾向として個の<生>に執着し近代自我にとらわれて、老いや死を受け入れることを拒否し、家族とのつながりさえ拒絶している。ブッダの出家の動機は生・老・病・死の四苦の解決を目指したものであって、その目的はそれ以上でもそれ以外でもなかった。そしてその結論は無常、無我を前提にした丸ごと認める<つながり>の思想であった。「一切衆生悉有仏性」とか「山川草木悉有仏性」とは、量子力学にも似た一切を丸ごと認める思想にほかならない。科学は今日に至ってやっとその真実を解明し、科学技術をもって実用化したのである。ところが仏教界が<無分別>を説きながら、近代のニュートンやデカルトの<分別>の思想にとらわれて仏典を解釈しているようなところがある。科学は、DNAを解読し生物は生死一如であることを証明し、宇宙の統一理論を描こうとしているのである。遅れをとった感があるが、脱近代に方向転換すべき時が来ている。量子力学では、光の粒子は波動と粒子の一見相反する性質を併せ持つと考えられてい る。現代物理学の根幹をなす不確定性理論や量子力学がハイゼンベルグやシュレディンガー等の天才物理学者によって生まれたように、法然という天才宗教家によって弥陀の光明に全幅の信頼を寄せる他力の思想がうまれ、その思想を深化させたのが親鸞であった。親鸞は光の波動性(はたらき)を重視して「二種の回向」を中心に据え、その光は、実体のない遇斯光の波動(回向)とみなし、「光触かぶむものは、みな」と丸ごと包摂する弥陀の光明を讃え、その不思議な性質から阿弥陀仏を不可思議光と名づけていた。

大井先生は「科学が見いだした世界は、無常、無我、相依相関という関係主義的宇宙であり、ブッダの説く生・老・病・死をつなぐ存在論と、まさに整合しています」と言い、「葬式仏教は安心して死を迎えられるよう、長年に渡って人々を助けてきました。死ぬのが怖い、死は不浄なものという考えをあらため、死んだら仏になれる考え方に方向転換させたのでした。同じように、生きている人たちが生・老・病・死のプロセスを安心して過ごせるように人々を助けること、それが今日の仏教に求められていると思います」という提言に私は諸手を挙げて賛同したい。それしか仏教を生き生きと再生させる道はないと思っているからである。


3月5日(日) 晴れ

昨日読んだ大井先生の新著「看取りとつながり」の余韻の中で一日を過ごした。

先生がこの書を著わされたのは、2016年の春に胸部大動脈弓の動脈瘤の手術後であった。8時間の大手術の後、先生は不思議な体験をしておられる。「看護師さんや医師が私の方へ来たとき、彼らを見ると自分を感じるのです。他の患者さんと会った時もそうでした。世界のあらゆる存在が、自分であるという感覚でした。ベッドにも食事のトレーにも自分を感じました。私自身、この感覚に驚き、同時に幸せを感じました。医師にも看護婦にも「なんかとってもニコニコしておられますね」と言われました。環境も自然も自己そのものにほかならないという感覚、その感覚は今も続いています」と書かれている。

先月2月26日、東京・市ヶ谷の学士会館でお会いした時も、始終ニコニコしておられた。またこの本の題に「つながる」という言葉を用いておられるが、文中では「つながる」は「包まれている」感覚と同じとも言っておられる。遇斯光による回向に包まれた感覚、まさに、法然や親鸞、道元が味わった世界ではないか。この感覚を維持したまま書かれた書であるから私は、この本は覚者の書であると思っている。覚者の書は、真実の書である。しかし真実の書は、偽ものがはびこるこの世ではとかく埋もれがちになる。なぜなら、金のためでもなく、名を売るためでもなく、社会的地位や権威を求めるためでもなく、ただただ真実を知ってほしいとの大井先生の思いがひしひしと伝わってくるのである。ゆえに私は、多くの人にぜひ読んでほしいと言ったのであった。「あとがき」もいい。

「老いの道を歩む医師として看取りを行ううちに、看取りを行うことは、看取られることであるのを悟りました。老齢に達したブッダは「ブッダ最後の旅」で漏らされたように、高齢者の苦痛を強く感じておられました。しかも、老耄して言葉を用いるコミュニケーションが難しくなったひとたちをも、安心させ、つなかりを感じさせる方法を説いておられるのには、感嘆する他ありません。現在の脳科学もようやくそれを明らかにしつつあるように見えます。ブッダは、自分の教えをただ信ぜよとは、決して言われなかった。自分で吟味して、納得行く道を進むよう勧められた。科学が見いだした世界は、無常、無我、相依相関という関係主義的宇宙であり、ブッダの説く生・老・病・死をつなぐ存在論と、まさに整合しています。日本という風土文化に、今の時代に生死する幸せを、身に沁みて感じざるを得ません」


3月4日(土) 晴れ

先週東京でお会いした大井玄先生から「看取りとつながり」(3月1日発刊・サンガ)と題された新著を送って頂いた。最近贈呈されても、失礼な話だがほとんど読まない。老化による気力の減退なのか2、3頁めくったたけで止めてしまう。しかし、この大井先生の本は違った。どんどん引き込まれ、興奮して最期まで一気に読み終えた。気がついたら夜が明けていた。夢中になって赤線を引いたところを記しておく

認知症とは病気ではありません。そのほとんどは<老耄>という自然の姿です

寝たきり老人、ぼけ老人は医療では治すことはできません。多少よくすることはできても生・老・病・死の方向性自体を変えることはできません。わたしができることは丁寧に診察をして、老人の話を聞いて、家族の気持ちに寄り添うだけでした。

日本では、約三人に一人が癌で死亡し、九十を過ぎると過半数が認知症になります。認知症の方が癌になっても、痛みを訴えることも、死への恐怖もほとんどありません。老耄は、自然が用意してくれためぐみ深い仕組みかもしれません

● ブッダの出家の動機は生・老・病・死の四苦を解決することでした。そしてブッダが到達した境地は、生・老・病・死は自然であると覚り、生・老・病・死の全過程を安心して生きる道を説いたのが仏教です。

● 私は理性的に仏教を理解した科学者です。ブッダのような大天才でありませんので、無我を納得するには自分の体験が必要でした。医師としての体験を通して初めて、無常、無我、相依相関という仏教的存在論を身近に感じ、仏教哲学が腑に落ちたのです。

● 私たちは必ず死にます。だからどのように死んでいかせるのがその人にとって一番いいのかを考えねばなりません。その上で、本人と周囲を満足させるのが看取りの医師としての正見であるし正業、あるいわ正語でもあると実感しました

●死にゆく人が、残された人たちに「いのちのバトンタッチ」というような働きかけをしているのが読み取れることがあります。これも死者と生者とのつながりの証しなのかもしれません

● わたくしが仏教に親和性を感じるのは、科学者の端くれとして見ている宇宙像と、人間像と、意識、無意識、そういうものを仏教がすべて包摂しているからです。ニュートン力学の時代、ものごとは離れていて、それがぶつかったり離れたりするような考え方でした。ものごとを観測するときにも、ニュートンやデカルトは対象と観測する自分を分けて考えていました。ところが量子力学の時代になって、宇宙というものはみんなつながっているということがわかりました。宇宙全体が相互に結びついている、相互浸透していることがわかったのです。これは仏教の相依相関とまったく同じです

●宗教のもっとも根本的な働きは不安を抱いて生きる人を安心させることです。安心とは、生・老・病・死の人生の中でつながりの感覚を作っていくこと

●老耄して言葉を用いるコミュニケーションが困難になった人たちをも、安心させ、つながりを感じさせる道を説かれたのがブッダです

● ブッダは自分の教えをただ信じろとは決して言われなかった。自灯明・法灯明と自分で吟味して納得のいく道を進むよう勧められたのであった。

まだまだあるが、最期に一つだけ

● 葬式仏教は安心して死を迎えられるよう、長年に渡って人々を助けてきました。死ぬのが怖い、死は不浄なものという考えをあらため、死んだら仏になれる考え方に方向転換させたのでした。同じように、生きている人たちが生・老・病・死のプロセスを安心して過ごせるように人々を助けること、それが今日の仏教に求められていると思います


とにかく私は読み終えて、今日の超高齢者社会に住むすべての人に読んでもらいたい本だと思った。特に、終末期医療に関わる方、看取りや臨床宗教師やビハーラに携わる方、葬送に携わる僧侶や葬儀社の方々にはぜひ読んでほしい本である。


3月3日(金) 晴れ後曇り

パソコンを操作していたら、何かの拍子に「新門日記」が消えてしまった。バックアップもしてなかった。以前だと、動転して慌てふためいたに違いない。ノートパソコンを覗いたら、2月27日までの分が残っていたので再構築したが、28日、3月1日、2日の日記は消えてしまった。

先月は転倒して肋骨にヒビが入り痛みをかかえて静かに過ごした一ヶ月であった。しかし痛い目に遭ったから気づいたことがあった。老人は老人の分をわきまえて生きるべきだと気づいた。そんな当たり前のことでさえ人間は災難にあってから気づく。有り難いことである。想定外の災難でも、有り難いことだと思えば、災難は災難でなくなる。また、パソコンのinterやbackspaceなどのキー操作ができなくなった時、不要なファイルやプログラムを排除すれば回復することを知って、何でも抱え込まないで捨て去ることの大事も知った。諸行無常、諸々の事象は消え去るものであると思えばいいのに、みんな実体もない小さな<我>にとらわれて汲汲として生きている。些細な事でイライラしたり腹が立ったりするのは煩悩に根を張る自我の保身、即ち三毒にほかならない。まして日記が消えたくらいのことに腹立たしく思っても、貪欲(執着)と瞋恚(怒り)の三毒を上積みするだけで、得るものは何もない。捨てて捨てて捨て切った時、道が開けてくるような気がするのだった。

災難に逢ふ時は災難に逢ふがよく候、死ぬる時は死ぬるがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」と言った良寛に、こんな逸話がある。
盗アリ、国上ノ草庵二入ル、物ナシ 師ノ布団ヲヒキテ密カニ奪ハントス 師寝テ知ラザルモノノ如シ 自ラ身ヲ転ジ 其ヒクニマカセ盗ミ去ラシム」ー国上の庄屋『解良日記』

選りに選ってよくも五合庵に盗みに入ったものだが、泥棒も盗む物が無いので良寛が寝ていた布団を盗もうとしたら良寛自らが寝返りをうって盗りやすくしてやったという話。ここで「ドロボー」などと大声を上げたりすれば、殺傷沙汰になるかもしれないし、何ごともなくても後味の悪いものとなるだろう。良寛は泥棒の去った後、動悸を整えるかのように月明かりに浮かぶ白椿「窓の月」を見ながら、すがすがしい句を作っている

 盗人に 取り残されし 窓の月