道之島の島役に関する研究の現状と課題

                             2012,9 更新 森 紘道

T、初めに

 近世の奄美(道之島)関係の史書をひもとくと、様々な島役(薩摩藩が奄美地方統治のために設けた、現地出身者からなる下級役人のこと。島役人ともいう。)が登場する。彼らは島津氏によって、道之島支配の末端機構として位置づけられたわけであるが、道之島の民衆からすれば特権階級であった。

 筆者はこれまでにも、道之島の島役について2,3の小論を発表してきた。たとえば、「近世、道之島における下島役人および島役の私的収奪について」(『奄美郷土研究会報』第21号所収)では、奄美の民衆が、藩のみならず島役からも私的に搾取されたことを明らかにした。「近世、大島における島役一覧表」(『奄美郷土研究会報』第22号所収)では、奄美の史誌に登場してくる島役について、その異動状況を表にまとめてみた。また「島役についての若干の考察」(『奄美郷土研究会報』第23号)では、島役の階級や異動の傾向性について考察した。「近世の道之島に関する一考察」(『奄美郷土研究会報』第32号)では、鉢巻・簪などの服飾制度や系図取上政策と、薩摩藩の道之島支配との関連性について考察した。

 奄美でもこれまでに多くの史誌が編纂されているが、島役についての記述を比較してみると、相違点も少なくない。本稿では、島役に関する研究の現状を紹介するとともに、今後の研究課題について触れることとしたい。また、研究成果に基づいた現時点での具体的な島役像を、可能な限りあきらかにしたい。

U、島役の種類と員数

 道之島関係の史誌には多くの島役が登場する。それを次に列挙してみたい。

 【与人】

   間切与人・方与人・田地(田地方)与人・唐本通事与人・唐船方掛与人・慶事与人

 【横目】

   間切横目・惣横目・黍横目・馬方横目・田地横目・黍方田地方横目・竹木横目・津   口横目・宗門手札改方横目

 【筆子】

   筆子・宗門手札改方筆子・仕登方筆子

 【掟】

   掟・村掟・間切掟・方掟・御慶事掟

このほかにも、功才・居番・山下見廻等々、枚挙に暇がない程である。

 島役の人数はいったいどのくらいのだったのであろうか。『大島要文集』所収の「代官本田孫九郎上申十八ケ条」には「去丑秋(1805年----筆者註)宗門帳ヲ以相糺候処老若男女三万五千六十六人去々子秋用夫帳見合候処拾五才ヨリ六十才迄ノ者九千八百六十一人右ノ内与人以下諸横目黍見廻迄役々三百五十二人元与人唐通事与人格元間切横目以下元黍見廻以上御薬園掛等相込二百九十七人功才以下ノ村役七百八十六人」と記されている。これは奄美大島の場合であるが、宗門帳に記されている人口約三万五千余人の内、元島役を含めると約1200人にのぼったという。

 近年の諸史誌を読んで気付くことは、島役についての記述内容に若干の違いが見られることである。本稿では、奄美大島・徳之島・沖永良部島の3島を中心に、それぞれの史誌における記述内容の違いが著しい島役を比較しながら考察したい。     

 これらの島役は、間切あるいは方(ホウ)や村などに置かれた。間切とは奄美が琉球王国の統治下にあった時代からの行政区画であるが、近世の薩摩藩は奄美地方を直轄下においた後もそれを踏襲した。間切の下に奄美大島では方が、徳之島ではアツカイ(口偏に愛と書く)が置かれ、その下に村が置かれたのである。

 間切について本田孫九郎著『大島私考』には、「岡嶽山野ヲモテ境ヲ分ル事ナク只其人居ノアル所田畑支配スル地ヲモテ何間切ト究全体地面ノ境ナシ村々モ亦然リ人家ヲ何村ト呼ヘリ」とある。つまり間切の境域は地形上できちんと明示されていたということではなく、集落ごとに管轄する間切や方が定められていたというわけである。

   @与人について

 与人は、藩政期においては島役の最高職である。琉球王朝時代の統治機構は、大親役を最高職としていた。薩摩藩政初期に奄美諸島が島津氏の蔵入地となった以後もしばらくはそれを引き継いでいた。ところが元和9(1623)年の「大島置目条々」によって大親役は廃止となり、これ以降は与人役が最高職となった。『徳之島町誌』によると、当初は用人と記していたが、元禄4(1691)年より与人と書くようになったという。

員数 任期 俸禄
大島





 
間切に1人(「奄美史談」・「奄美大島史」「大奄美史」)。間切に3人(「大島置目条々」)。間切に2人(「大島私考」)。元禄期以降は方ごとに1人。 3年交替(「大島私考」)。3,4年から7,8年(「大島要文集」)。


 
知行10石+切米2石+人夫1人(人夫は1672(寛文12)年に廃止「大島要文集」)



 
徳之島



 
間切に6人(「徳之島事情」「概説徳之島史」)。間切に3人(「徳之島町誌」)。
 
1817(文化14)年から5年ごとに異動(「徳之島町誌」)

 
当初は切米5石、後に年給米10石+切米2石(「徳之島町誌」)。年給米10石8斗+人夫1日に3人(「徳之島事情」)
沖永良部島 間切に3人(「和泊町誌」) 不明    
 
知行10石(「和泊町誌」)
 

 《大島の場合》

 元和9(1623)年に藩から出された「大島置目条々」では、用人(後の与人)を一郡(間切のこと)に3人づつ置く旨を定めている。しかし、文化2(1805)年に下島した大島代官本田孫九郎親孚の『大島私考』には、大島では「一間切に与人両人ヲ置、其間切ノ頭役ナリ。(中略)与人ハ三年交代ニシテ勤ムル故、何方与人ト呼」と記されている。『名瀬市誌』上巻では、「与人が縮小されたのは万治2年の頃」としている。

 大島は元禄頃になると、7間切14方で構成されていた。すなわち

・笠利間切(赤木名方と笠利方)

・名瀬間切(龍郷方と名瀬方)

・古見間切(古見方と瀬名方)

・焼内間切(大和浜方と宇検方)       

・東間切(東方と渡連方)

・西間切(西方と実久方)

・住用間切(住用方と須垂方)

である。ただし住用間切の場合は、享保年中に須垂方が住用方に統合され、1間切1方となった。従って享保以降は7間切13方ということになり、与人は都合13人が置かれたことになる。

 与人がいつから方ごとに置かれたのかを明確に示す史料は、管見ながら知らないのであるが、笠利氏の系譜によると、為辰が宝永8(1711)年に瀬名間切古見方与人寄役に任ぜられていること、「盛岡家文書第一集」所収の『物定』では、古見間切与人を一人としているが、亀井勝信編『奄美大島諸家系譜集』所収の諸家の系譜には、「○○方与人」という表記が散見されるところからして、大島では与人は当初は間切ごとに置かれていたが、間切が二つずつの方に分かれた元禄期以降に、方ごとに置かれたものと思われる。

 与人の任期については『大島私考』では3年としているが、『大島要文集』所収の「代官藤田幸右衛門回答書(彼は宝永年間の大島代官----筆者注)」には「与人共ノ儀右申出候様ニ間切々々ヘ三四年又ハ七八年ツゝ代合相勤申事ニ御座候」と、一定していない。また諸家の系譜にも多くの与人名が散見されるが、その任期にはばらつきがある。したがって18世紀初期の宝永年間から文化年間にかけて与人の任期に変化が出てきたということであろうか、後考を待ちたい。

 与人には俸禄として知行と切米が与えられている。「喜界島代官記」安永六年の条には、「島役〃御扶持米之儀、此以前ヨリ大麦を以被成下来候得共、田畠都而砂糖を以被仰付候付而は、当年御米を以相払可申段、戌五月廿九日武右衛門様御勝手御用人衆宛ヲ以御届相成居候」とある。つまり当初は扶持米を大麦で支給していたが安永 6(1777)年に米で支給することにしたというのである。大島も同様に当初は大麦で支給されていたかどうかは後考をまちたい。

 また、『大島要文集』所収の「覚(代官長田吉左衛門申渡書)」に「與人供夫凡シテ年中夫壱人為取置之由此節ヨリ無用仕候事」とあることからして、与人にはこれまで夫1人が与えられていた。しかし大島代官として赴任した長田吉左衛門(『大島代官記』には永田とある----筆者注)により、供夫は寛文12(1672)年に廃止されたようだ。

 《喜界島の場合》

 『喜界町誌』によると、喜界島は当初は志戸桶・東・西目・湾・荒木の五間切であったが、宝永年間に伊佐間切が加わり、6間切となったとのことである。喜界島では方やアツカイは置かれなかった。

 藩政初期の頃は大島代官の統治下にあったが、元禄6(1693)年に分離し、喜界島代官の統治下に置かれることとなった。

 藩が元和9(1623)年に出した『喜界島置目条々』には、「一郡(間切のこと----筆者註)ニ与人三人つ〃相定候事」とあり、また俸禄については、「用人(与人)壱人ニ付切米五石被下、此中の知行可被召上事」と記されている。つまり知行制を止めて切米支給に切り替えたというのである。人夫についての記載は見当たらない。

 《徳之島の場合》

 徳之島は3間切で構成されていたが、それぞれの間切は2つずつのアツカイから構成されていた。すなわち、

・東間切(亀津アツカイと井之川アツカイ)

・西目間切(岡前アツカイと兼久アツカイ)

・面南和(面縄)間切(伊仙アツカイと喜念アツカイ)

である。

 与人の員数について、吉満義志信著の『徳之島事情』と小林正秀著の「『概説徳之島史』では、与人を間切に6人としている。しかし『徳之島町誌』には、与人について「もとは用人と称し、1間切に3人ずつ置かれ(中略)元禄4(1691)年より与人と称され」たと記している。いずれにしろ、他島の例と比較して与人の割合が多いということになるが、その理由は不明である。

 与人の俸禄については、『徳之島町誌』では、「切米5石を支給されたが、また俸禄も後には年給米10石・切米2石に変更され」たと記している。しかし『徳之島事情』では上記の表に見られるように異なって記述されており、また人夫も支給されている。これについても後考をまちたい。

 《沖永良部島の場合》

 沖永良部島は、喜美留間切・大城間切・徳時間切の3間切であったが、後に徳時間切は久志検間切にかわっている。またこの島も喜界島同様、間切の下に方やアツカイは置かれなかった。なお安政4(1857)年には間切制度が廃止されて、和泊方・東方・西方の三方制度に変わっているが、幕末のことなので、藩政時代においては、基本的には3間切で構成されていたとしてよいであろう。

 『和泊町誌』によると、与人は間切に3人、知行10石であったという。

 

 

   A間切横目について

 間切横目は、犯人糾問・手札整理・作用夫調査登録・牛馬調査登録・遠島人取締等に関する事務を行うことを任務としている。

員数 任期 俸禄
大島



 
間切に1人(「大島代官記」)。当初は間切に1人、後に2人(「大島代官記」) 年限無し(「大島私考」)。異動している例も散見される(「諸家系譜集」)。
 
給米4石+人夫1日に1人(「奄美史談」「奄美大島史」「大奄美史」)。無扶持(「盛岡家文書第1集」)
 
徳之島




 
当初は1間切に1人、後に各アツカイごとに1人(「徳之島町誌」)。間切に6人(「徳之島事情」)。 1817(文化14)年以降、5年ごとに異動(「徳之島町誌」)。


 
年給米4石+1日に人夫1人(「徳之島町誌」)。年給米4石8斗+人夫1日に1人(「徳之島事情」)。


 
沖永良部島 間切に7人(「和泊町誌」)。 不明     
 
役料4石《「和泊町誌」)。
 

 《奄美大島の場合》

 『大島代官記』によると、万治2(1659)年に間切ごとに横目を1人ずつ置いたとのことである。『奄美史談』『奄美大島史』『大奄美史』の3誌には間切横目の員数についての記述はないが、『大島私考』には、1間切に「間切横目一両人ヲ置、惣体の善悪ヲ見聞スル役ナリ(中略)間切横目ハ其間切ノ名ヲ以テ何間切横目ト云フ」と記されている。『笠利町誌』でも、「当初間切に1人であったものが、のちに方毎に1人おかれることとなった」とある。つまり1間切1方の住用間切の場合は間切横目1人を置いたが、その他の間切ではそれぞれ2人の間切横目が置かれたということになる。

 間切横目が1人から2人に増員された時期であるが、『大島代官記』の宝暦3(1753)年の条では「右御代(代官は山田権兵衛----筆者注)笠利間切横目壱人ニテハ御用差支之由ニテ、重間切横目喜能富ヘ被仰付、大和ヘ御伺被成候処、御伺通右方ヘ定役被仰付候ニ付、是ヨリ笠利間切横目両人ニ成候」と、間切横目の増員がなされたのは山田権兵衛の代であると記されている。ところが『大島代官記』の文政13(1830)年の条には、「此御代(代官は宮之原源之丞----筆者注)ヨリ西間切笠利方横目壱人ツゝ重(『代官記抜書』には「西・東・笠利間切江」とある)、都合拾三人ニ成ル」と、同様のことが記されている。

 諸家の系譜を調べてみると、文化 5(1808)年に焼打間切の間切横目真武美が同年に古見方間切横目として転出している。これまでは見られなかった「○○方間切横目」という記載形式が現れるようになった速い例である。従って山田権兵衛代官の代以降に次第に増員されていったのではなかろうか、後考を待ちたい。

 間切横目の俸禄については、『奄美史談』『奄美大島史』『大奄美史』の3誌とも「給米四石人夫一日一人」と記している。しかし「盛岡家文書第一集』所収の『物定』には、「間切横目一人ヅツ但無扶持」と記されている。間切横目に対する扶持についても後考を待ちたい。

 任期については、『大島私考』には間切横目は「年限トテ交代スル事ナシ」と記されているが、異動しているケースも見られる。例えば、『奄美大島諸家系譜集』によると、稲恵は寛政12(1800)年に西間切横目であったが文化4(1807)年には住用間切横目となっている。『大島私考』の著者である本田親孚は文化2(1805)年に大島代官として赴任していることからして、間切横目は「年限トテ交代スル事ナシ」としたのは彼の勘違いではなかろうか。なお、後のことになるが、當磨は文化13(1816)年に古見間切横目から笠利間切横目に転じており、また杜喜央は安政4(1857)年に笠利間切横目から東間切横目に転じ、さらにその翌年には住用間切横目として赴任している。 

 《喜界島の場合》

 『喜界町誌』には間切横目についての記述は無い。しかし『喜界島代官記』には宝永5(1708)年以降、間切横目の名前が与人の名前と共に散見されるので、与人と同時に間切横目も置かれたと見なして良かろうと思う。なお、間切横目に対する俸禄については後考を待ちたい。

 《徳之島の場合》

 『徳之島前録帳』には、代官國分彦右衛門の代(寛文10年〜寛文11年)に、間切横目が初めて置かれたことが記されている。『徳之島町誌』では、「寛文11(1671)年から置く。惣横目ともいって、初めは1間切に定員1人だったが、間もなく各アツカイごとに1人ずつ配置された」と記している。しかし『徳之島事情』では間切に6人と、異なった記述がなされている。『徳之島事情』には与人についても間切ごとに6人と記述されているが、これは各アツカイごとに1人都合6人という意味であり、間切横目についても同様ではなかろうか。

 俸禄は、『徳之島町誌』とによると、「年給米四石、外に勤務日数に応じ一日人夫一人宛を受け、その子息は空役(夫役免除)となる」とある。『概説徳之島史』も同様であるが、『徳之島事情』には「年米四石八斗人夫一日一人」と異なっている。

 《沖永良部島の場合》

 『和泊町誌』には間切に7名と記されており、俸禄については、『和泊町誌』では役料4石のみで人夫については記述がない。

 

 

 

 

 

   B黍横目について

 黍横目は、甘蔗の増産・製糖を掌った。

員数 任期 俸禄
大島

 
    
    不明
 

不明     
給米3石6斗+人夫1日に1人(「奄美史談」「奄美大島史」「大奄美史」)。
徳之島



 
当初は各間切に1人、後に各アツカイごとに1人(「徳之島町誌」)。間切に13人(「徳之島事情」)。

不明     
 
年給米3石6斗+1日につき人夫1人(「徳之島町誌」「徳之島事情」)。

 
沖永良部島
 
    不明
 
不明      不明
 

 《奄美大島の場合》

 『大島代官記』によると、元禄8(1695)年に大島と喜界島に黍検者が初めて置かれており、藩では本格的な黒糖生産に乗り出した。『笠利氏家譜』によると、為辰が元禄9(1696)年に大島中黍横目に任ぜられており、記録の上では、彼が黍横目の初めということになろう。『奄美史談』『奄美大島史』『大奄美史』の3誌とも人数についての記述はないが、俸禄については、ともに「給米三石六斗人夫一日一人」と記している。

 《喜界島の場合》

 『喜界島代官記』の宝永7(1710)年の条に黍横目書役として「勝豊」の名が登場する。藩は大島と同様に、喜界島の砂糖生産に注目していたことからして、大島とほぼ同じ時期に糖業関係の島役も設置されたとみて良かろうと思う。なお、『喜界島代官記』の天明7(1787)年の条には、「黍横目拾弐人」と記されている。1間切に2人ずつ置かれたのであろうか。同書には「砂糖締横目拾五人」とも記されているが、他島のどの島役に該当するかなど、詳細は不明である。また黍横目に対する俸禄についても、記録が無く後考を待ちたい。

 《徳之島の場合》

 『徳之島前録帳』によると、「此御代同年(享保20年----筆者註)、御国許ヨリ當島江初而黍横目役被召立、伊仙アツカイ黍横目佐栄久・喜念アツカイ黍横目郡司統江被仰付候、三間切共同列ニ被仰渡候」とある。伊仙・喜念両アツカイのみならず、3間切とも同様に、各アツカイごとに黍横目を配置したということであろう。しかし、『徳之島町誌』は「当初は1間切に1人ずつ、後に各アツカイごとに1人ずつおかれた」としている。ただ、『徳之島事情』では、間切に13人としている。

 俸禄については、『徳之島町誌』『徳之島事情』ともに、年給米3石6斗勤務日数1日につき人夫1人が与えられたとしているが、『概説徳之島史』には人夫についての記述は見あたらない。

 《沖永良部島》の場合

 『和泊町誌』には黍横目については人数・俸禄ともに記述がない。後考を待ちたい。沖永良部島では総買い入れの実施が嘉永 6(1853)年と、他島に比べて遅れたこともあり、黍横目は置かれなかったということであろう。

   C黍見廻について

 黍見廻は、黍横目の補助役としておかれた。黍見舞・黍見回とも記す。甘蔗の植付・除草・畑地の手入・製糖法など、全般にわたって農民を指揮監督した。

員数 任期 俸禄
大島 村に1人(「笠利町」)。 不明     不明      
徳之島
 
間切に64人(「徳之島事情」)。 不明    
 
年給米1石、後に2石(「徳之島町誌」)。
沖永良部島
 
間切に29人(「和泊町誌」)。 不明    
 
不明      
 

 《奄美大島の場合》

 『笠利町誌』には「村に一人」としているが、『大奄美史』『奄美大島史』『奄美史談』ともに黍見廻の員数についての記述がない。

 《徳之島の場合》

 『徳之島事情』によると黍見廻は間切に64人で、そのほかに黍筆子が間切に6人づつおかれ、給米は支給されないが人夫が与えられたという。黍筆子については他の史誌には記述がないので後考をまちたい。

 また『徳之島前録帳』によると、文政13(1830)年に、3間切に重黍見廻を12人配置している。天保12(1841)年になると、この時期の砂糖増産政策の中で黍見廻重役は増員された。村の規模に応じて1,2人、都合29人の黍見廻重役が配置されている。

 俸禄は、『徳之島町誌』によると年給米は1石であったが、安政3(1856)年に島元負担により2石に引き上げられたという。しかし『徳之島前録帳』の安政3(1856)年の条には、黍見廻の扶持米として「米壱石ツゝ但、年中壱人前(中略)島出米之内ヨリ」とあるが、2石に引き上げたという記述は見あたらない。

 《沖永良部島の場合》

 大島や喜界島・徳之島が藩による植民地的糖業生産地として位置付けられたのに対し、沖永良部島は長い間その対象から外されていた。しかし嘉永6(1853)年、ついに沖永良部島においても惣買入制が実施された。『和泊町誌』は「年貢糖の植付・施肥・収穫の観察督励を掌ったとして、作見回が間切に29名おかれた」と記しているが、これが他島の黍見廻のことであろう。

 

   D田地横目について

 田地横目は、田畑に関する一切を取り仕切った。

員数 任期 俸禄
大島

 

不明     
 

不明    
 
1日に米5合と人夫1人(「奄美史談」「奄美大島史」「大奄美史」)。
徳之島


 
間切に6人(「徳之島事情」)。

 

不明    

 
無扶持で人夫1日に1人(「徳之島事情」)。1日に米5合+人夫1人(「徳之島町誌」「概説「徳之島町史」)。
沖永良部島
 
間切に6人(津口横目と兼務)(「和泊町誌」)。
 

不明    
 
3石6斗(「和泊町誌」)。

 

 《奄美大島の場合》

 『大奄美史』『奄美大島史』『奄美史談』ともに員数についての記述はないが、俸禄については共に「一日米五合人夫一人」と記している。

 《喜界島の場合》

 『喜界島代官記』の天明7(1787)年の条には「田地横目六人」と記されている。1間切に1人ずつ置かれたのであろうか。いつ頃から置かれたのか、また俸禄についてはどうなのかなど、今後の研究テーマとしたい。

 《徳之島の場合》

 『徳之島事情』には間切に6人で年扶持無しで人夫が1日1人与えられたと記している。しかし『徳之島町誌』および『概説徳之島史』には「一日米五合人夫一人」と異なっており、後考を待ちたい。

 《沖永良部島の場合》

 『和泊町誌』によると、間切に6人で宝暦12(1762)年におかれたという。津口横目と兼務で手当は3石6斗であったと記している。

 

 

   E津口横目について

 津口横目は船舶の出入りを検査し、砂糖の密売その他、他藩船・外国船・漂着船の取締に当たった。

員数 任期 俸禄
大島

 
全体として36人
(「本田孫九郎上申十八ヶ条」)。

不明
 
一日米五合+人夫1人(「奄美史談」「奄美大島史」「大奄美史」)。
徳之島

 
間切に24人(「徳之島事情」)
 

不明
 
年米1石8斗+人夫1日につき半人(「徳之島事情」)。1日米5合+人夫1人(「徳之島町誌」)。
沖永良部島
 
間切に3人(「和泊町誌」)。 不明
 
不明
 

 《奄美大島の場合》

 『代官本田孫九郎上申十八ケ条』によると、寛政9(1797)年に36人の定役を置いた。寄役は置かず、病気等の場合は横目の中から申付けることにした。方ごとに2,3人ずつを任じ、これまで都合59人になると記している。また、『大奄美史』『奄美大島史』『奄美史談』ともに人数についての記述はないが、俸禄については「一日米五合人夫一人」と共通している。 

 《喜界島の場合》

 『喜界島代官記』の文明7(1475)年の条に「津口横目六人」とあることからして、間切ごとに一人ずつ置かれたのであろうが、いつ頃から置かれたのか、また俸禄はどうなのかなど、詳細は後考を待ちたい。

 《徳之島の場合》

 『徳之島事情』では間切に24人、年米1石8斗人夫1日半人としているが、『徳之島町誌』では「一日米五合人夫一人」としている。

 《沖永良部島の場合》

 『和泊町誌』が間切に3人としているが、俸禄についての記述は無い。

 

 

 

 

 

   F竹木横目について

 竹木横目は、砂糖樽製造用の榑木や砂糖樽の帯輪にする竹繁殖のことを掌った。

員数 任期 俸禄
大島

 

    不明
 

不明     
 
1日につき米5合+人夫1人(「奄美史談」「奄美大島史」「大奄美史」)。
徳之島


 
間切に6人(「徳之島事情」)。

 


不明     
 
1日につき米5合+人夫1人(「徳之島町誌」)。年扶持無し但し人夫が月に10人(「徳之島事情」)。

 《奄美大島の場合》

 『奄美大島史』『奄美史談』『大奄美史』ともに人数についての記述はないが、俸禄については共に「一日米五合人夫一人」としている。

 《徳之島の場合》

 『徳之島町誌』では人数についての記述はないが、俸禄は奄美大島と同様で、1日米5合人夫1人としている。しかし、『徳之島事情』によると間切に6人で、年扶持は無く、人夫が月に10人与えられたと食い違っており、後考を待ちたい。

   G掟について

 掟は、村ごとに置かれて、村の寄合などの時の議長となり、また殖産の指導にあたった。

員数 任期 俸禄
大島



 
間切に数十人(「奄美史談」「奄美大島史」)。間切に数人(「大奄美史」)。間切に4人から8人(「盛岡家文書第1集」)。

不明    

 
1日に米5合(「奄美史談」「奄美大島史」「大奄美史」)。

 
徳之島

 
村に1人(「徳之島町誌」)。全体で24人(「徳之島事情」)」。
不明    
 
年米2石(「徳之島事情」)。切米1石(「徳之島町誌」)。
 
沖永良部島 間切に18人(「和泊町誌」)。 不明    
 
1日に米5合(「和泊町誌」)。

 《奄美大島の場合》

 『奄美史談』と『奄美大島史』は間切に数拾名としているが、『大奄美史』では間切に数人と異なっている。なお、「盛岡家文書第一集」所収の『物定』によると、笠利間切が7人・住用間切が4人・東間切が6人・西間切が10人・名瀬間切が8人・古見間切が4人と、具体的な人数が記されているが、屋喜内間切については残念ながら記述が無い。

 俸禄についてはいずれの史誌も1日米5合と共通している。

 《喜界島の場合》 

 元和9(1623)年の『喜界島置目条々』には「ひとむらにをきて壱人つゝに相定候、但一人に付切米壱石可被下事」とあり、村ごとに置かれ俸禄も支給されたことがわかる。

 《徳之島の場合》

 『徳之島町誌』では村に1人となっているが、『徳之島事情』では24人と、かなりの違いがある。俸禄については、『徳之島事情』が年米2石と記しているが、『徳之島町誌』では切米1石と異なる記述がなされており、後考を待ちたい。

 《沖永良部島の場合》

 『和泊町誌』は間切に18名、扶持は1日米5合としている。

   H筆子について

『大奄美史』には、庶務に従事したとあるが、その具体的内容は不明である。『和泊町誌』には、おもに倉庫を保管し、その出入を掌ったとある。

員数 任期 俸禄
大島





 
間切に数十人(「奄美史談」「奄美大島史」)。間切に数人(「大奄美史」)。間切に1人(「大島置目之条々」)。1660年頃に2人に増員「盛岡家文書第1集」)。


不明    


 
1人につき切米1石、但し2人に増員した時に2人で1石とした(「大島要文集」)。1日に米5合(「奄美史談」「奄美大島史」「大奄美史」)。

 
徳之島


 
間切に1人(「徳之島町誌」)。間切に6人(「徳之島事情」)。定員不定(「概説徳之島史」)。
不明    

 
年米6斗(「徳之島事情」)。切米1石(「徳之島町誌」)。

 
沖永良部島 全体で3人(「和泊町誌」)。 不明    
 
1日に米5合(「和泊町誌」)。

 《奄美大島の場合》

 人数について、『奄美史談』と『奄美大島史』には間切に数拾名とあるが、『大奄美史』には数人となっている。元和9(1623)年に出された「大島置目之条々」によると、筆子は郡(間切のこと)ごと1人づつずつ置かれた。また、「盛岡家文書第一集」所収の『物定』においても全ての間切に1名ずつとなっている(屋喜内間切については記載が無いが、他間切同様に1名であろう)。しかし代官川越新左衛門の代(万治2年〜寛文2年)に筆子を2人に増員している。

 俸禄については、『大島要文集』によると、「大島置目之条々」において1人につき切米1石の定めであったが、前述のように2人に増員した際、2人で分けることにしたという。『奄美史談』およびその影響を受けたと思われる『奄美大島史』・『大奄美史』が、勤務日数に応じて1日に米5合としている。

 《喜界島の場合》

 元和9(1623)年の『喜界島置目条々』には「一郡にてくこ壱人ツゝに相定候、但壱人ニ付切米壱石くたさるへき事」とあり、間切ごとに1人ずつ置かれ、1石の切米が支給されている。 

 《徳之島の場合》

 『徳之島町誌』には間切に1名とあるが、『徳之島事情』には間切に6人とある。いっぽう『概説徳之島史』では「定員一定せず」となっている。俸禄については、『徳之島事情』が年米6斗、『徳之島町誌』が切米1石と、それぞれに異なった記述がしてある。

 《沖永良部島の場合》

 『和泊町誌』には3名と記している。俸禄は勤務日数に応じて1日に米5合、と記述されている。

  

   Iその他の島役について

 与人が臨時に勤めたものとして、上国与人や冠船与人がある。上国与人は国元で慶事があった際に派遣されるもので、冠船与人は琉球に中国から冊封使が来航した際に琉球王府に派遣された。それらは与人が順番で勤め、帰島すれば本務に復帰した。

 『徳之島町誌』と『笠利町誌』には、山下見廻・山下見回・山下見舞などの島役名が記載されている。これは、作場荒らしや牛馬の放し飼いの取締・牛馬改めや登録に従事し、大きな村に1人ずつ置かれて小さい村を兼務したという。『和泊町誌』には宝暦年間に山方横目が間切に3名置かれたとあるが、これも同様の役務を担った島役であろう。

 唐通事は、朝鮮船や中国船が来航した際の通訳としておかれ、与人格ないし横目格として遇された。『徳之島前録帳』によると、面縄間切与人佐栄久の倅佐栄城は、唐通事稽古のため延享元(1744)年に上国し、惣横目格を許されて修行に励み、業成って寛延3(1750)年、与人格をを許されて下島したという。

 唐通事については平成12(2000)年刊行の『喜界町誌』において、大畑倫氏によってかなり詳細な考察がなされている。同誌によると安永7(1778)年に道之島の唐通事の定数が定められ、大島8人・徳之島5人・喜界島4人・沖永良部島4人とされたという。

 『徳之島事情』には、代官所付として定書役・定助・見習・稽古・茶番などの島役名が記されている。人数は定書役と稽古がともに10人、定助・見習・茶番がともに3人である。役柄についての記載はないが、『和泊町誌』に書写・文案作成にあたったとあることからして、代官所の書記やその補助あるいは見習であろう。俸禄は定書役が年米4石、定助が年米3石6斗、見習が年米1石5斗、稽古と茶番は年扶持無しと『徳之島事情』には記されている。ただ『徳之島前録帳』では見習の年米を1石8斗となっている。茶番についての記載は無く、『徳之島事情』とは若干の違いがある。

 『永井家文書』によると、大島に書役が置かれたのは喜界島や徳之島よりも遅く、文政8(1825)年のことであったという。定書役が4人で給米が1人あたり5石4斗、寄書役が2人で給米は4石、助書役が2人で給米3石2斗と記されている。給米はすべて島中失脚つまり島元の負担であった。また上記8人のほかに無扶持の書役見習がおかれたという。

   V、島役の特典

 これら島役には様々な特典が与えられていた。たとえば銀簪着用を認めたことがあげられる。これについては「近世の道之島に関する一考察」(『奄美郷土研究会報』第32号)で触れておいたので、参照していただければ幸いである。

 もうひとつの特典としては夫役の免除があげられる。『知名町誌』には「共有地を配当された農民(男子は15歳から60歳まで、女子は13歳から50歳まで)はすべて夫役を負担させられた。夫役に従事する者を作用夫・現用夫という。夫役には兵役・輸卒・池溝道路橋渠堤堰などの修繕・田畑の復旧・租年貢の運搬・藩吏巡回の際の労役・俸給の一部としての吏員の使役などに従事させられた」とある。また『龍郷町誌歴史編』には「1日だけの動員には手当なし、2日以上になると1日につき飯米として5合ずつを支給するように、大島規模帳で定められている」とある。農民にとって夫役は大きな負担であったことは想像に難くない。

 功才に対する夫役の免除は、手当が何ら支給されない事への反対給付と考えてよいであろうが、それ以外の島役への夫役免除は、島役への特典と解すべきものが多い。ここでは山下文武著『嘉永六年の奄美』所収の「嶋中御取扱御一冊并諸御用仰渡留」をもとに若干の考察をしてみたい。

 与人とその子供・田地与人とその子供・間切横目とその子供については、「右首尾能相勤候者は其身退役後迄も都而之夫役御免被仰付子共之儀者親勤役中ヨリ退役後迄も押通末子迄も夫役御免ニ而諸出物者都而請持居候様被仰付候」とある。すなわち島役に就いている本人のみならず末子までも、本人の退役後まで夫役は免除されている。これは特典と解して良かろうと思う。

 間切支配の無い与人・与人格・間切横目・間切横目格・竹木横目格・唐本通事与人格・唐通事与人格唐通事間切横目格については、それぞれの子ども共々「其身一世者夫役御免被仰付子共嫡子計親退役後迄も夫役は御免御高諸出物請持持候様被仰付以下者都而諸并之夫役掛被仰付候」と記している。つまり島役自身は生涯夫役免除、そして島役の嫡子に限っては親同様に夫役免除というわけである。

 黍横目とその子供については、「其身者退役後迄も都而夫役御免ニ而子共者嫡子計親退役後迄も都而御免ニ而子共者後高諸出物者請持候様被仰付二男以下者都而諸并之夫役掛被仰付候」とされた。つまり島役自身は退役後も夫役免除であるが、子供は嫡子だけを親同様に夫役免除とするというのである。

 田地横目・当津口横目・当竹木横目については、「其身計者退役後迄も都而夫役御免被仰付」、つまり島役自身のみ、夫役免除となっている。

 黍横目格・田地横目格・津口横目格・竹木横目格・諸横目格については、「御高者請持諸出物御免被仰付候」、つまり諸出物のみを免除している。

 火消方主取については、「右勤役中者都而夫役御免被仰付候尤拾(カ欠カ)年以上首尾能相勤候ハバ退役後迄も夫役者御免御高諸出物請持候様被仰付拾ケ年以下相勤候者は衆并之夫役掛被仰付候」、つまり勤役中は夫役免除であるが、十カ年以上首尾よく島役を勤め上げた場合は退役後も夫役を免除するとしている。

 筆子・掟・黍見廻については、「右其身計夫役御免ニ而首尾能相勤候者は元役者御免用夫ニ相掛候出米等者被仰付候尤拾ケ年以上相勤候者は其身一代夫役御免拾ケ年以下相勤候ハバ退役後衆并之夫役掛被仰付候」、つまり島役自身は元役を免除し、また十カ年以上勤め上げた場合は、生涯の夫役を免除するとしている。

 いっぽう、「不調法之儀有之役儀被差免候者は與人 下役共迄も則 夫役掛被仰付候」、つまり懲戒免職となった島役については、与人のみならず全ての島役に対して夫役の負担を命じているのである。

 夫役の免除は、島役自身とその子供のみならず、その周囲の者にまで及ぶ場合もあった。『盛岡家文書第一集』所収の「大島用夫改規模帳」によると、元禄年間までは与人・横目の家内の者も夫役が免除されていた。そのために身売りなどの手段で与人・横目の家内の者となって夫役を逃れる者が出てきたという。そこで享保13(1728)年になって「此已後ハ何役之家内ニ而も用夫役并用夫ニ相掛出米旁諸百姓同前ニ可申渡事」ということで、島役の家内の者に対する夫役の免除特権は廃止された。

   W、島役への道

 こうした特典があったことも影響して、道之島の富裕層は、子どもたちに島役への道を歩ませたがった。そのひとつは代官所において文筆の手ほどきを受けることであった。

 慶応4(1868)年に国直村の島役前武仁が加治木休左衛門に宛てた手紙には「周太郎ニも何ぞ相替不申去九月野添茂助ニ相頼当分ハ恩勝村江差越手習出精為被仕申候」と見えている。また平助七に宛てた書状でも「周太郎ニも御陰様を以折角手習出精仕申候得共手本相少込入申候間長崎様御手筋之手本三四枚御下し被為遊被下候様偏ニ奉頼上候」と、子供の教育に熱心であったことがわかる。

 こうして基礎的な読み書きを身につけた上で、たとえば代官所の茶番や稽古となって、将来の島役となるべく事務能力を身につけていったものと思われる。あるいは唐通事のように上国して修学することで、島役としての道を求める者もいたがそれについては既述した。

 また、親から子へ島役の地位を継承させていった事例も、諸家の系譜集には数多く記述されている。たとえば徳之島の寶満家の大山は「兄事病次第ニ強ク相成候テ弟(大山ノコト)江遺言致候者快気難叶候間我子供幼稚ニ之有家事差引相調間敷候間跡職其方預置致諸下知子供致成人候時相渡呉候様被申付候テ凶申候間御気遣被成間敷由ニテ兄無程致不幸候依之兄弟供諸下知致世話相生立預置候物々遺言ノ通リ甥子供方江堅固ニ相渡候」、すなわち大山は病死した兄の遺言を守り、兄の役職を一時預かり、兄に代わって養育した兄の子供たちに、その成人後、預かった役職を譲ったというのである。これは島役の地位が一族の間で継承されることが、ある程度の権利あるいは慣例として認められていたということであろう。喜志統親方系譜中の伯雄も、文政2(1819)年に国元において依願退役したが、「多年正道相励」の故をもって嫡子の柏徳が跡役の間切横目に任ぜられている。

   X、島役としての勤務実態

 1868(慶応4)年の7月に、宗門手札改のために下島してきた藩の役人に随従した前仁志が書き残した『公私留』(「盛岡家文書第二集」所収)によると

  寅七月十七日より十九日迄

   一、日数 三日

   但浦内村へ廻村相勤候 

  廿三日より廿五日迄

   一、〃 三日

   但国直村湯湾釜村

  新札帳・書のし方横目衆御方より被仰付

  於私宅仕候日数

  〃廿七日より晦日迄

   一、〃 四日 

  役所元出勤致候日数

  八月朔日より八日迄

   一、〃 八日

  但役所元出勤致候  

  同十二日  

   一、〃 壱日

  右同断                     〆十九日       

  〃十五日より九月十二日迄

   一、〃 廿八日

  但名瀬出張致候日数  

  九月十三日

   一、〃 三日

  但役所出勤致候                 〆四拾八日         

 手札改という、通常ではない臨時の業務であったとはいえ、ほとんど休みのない勤務実態であったようだ。なお「大島規模帳」によると、与人・横目・掟・筆子が公務として出張する際には、「供夫壱人ヅゝ百姓より可申出」ことが認められていた。中にはその制度を悪用して「供夫として多人数申付夫仕代米ニ而百姓中より受取由、其聞得有之」、つまり供夫を規定以上に命じてその代米を着服するといった不心得な島役もいた。もちろん藩からは「自今以後右定之外曽而百姓召仕間敷事」と厳しく止められている。

   Y、島役の昇進・異動

 島役には「寄役」「定寄役」「定役」といった階級があった。例えば1800年代に島役を勤めた前仁志が残した『公私留』(「盛岡家文書第二集」所収)をもとに、彼が昇進していった様子をたどってみたい。

  文政 9(1826)年−−−−黍見廻寄役

  文政10(1827)年−−−−掟寄役

  文政11(1828)年−−−−筆子

  文政12(1829)年−−−−寄役

  文政12(1829)年−−−−掟寄役

  文政13(1830)年−−−−津口横目定寄役

  天保 2(1831)年−−−−津口横目定役

  天保 6(1835)年−−−−黍横目寄役

  天保 8(1837)年−−−−黍横目定役

  弘化 3(1846)年−−−−與人勤是迄通被仰付

 こうして彼は、寄役から定寄役、さらに定役へと次第に昇進していきながら、あしかけ20カ年程の島役人生を勤めあげたのである。

 次に島役の辞令文書を「田畑家隠居跡文書」からいくつか取り上げ、辞令伝達がどのように行われたかを紹介したい。

   田地横目格

   龍郷方筆子勤

   源藤志別勤

   跡寄

    幾里村黍見廻

       佐央人

   幾里村黍見廻

   佐央人別勤跡寄

   屋入村之

       佐応仁

  右之通申付候条

  可申渡候

    代官勤

      河野甚兵衛

  三月廿五日

      龍郷方

       与人

       横目

 史料中の河野甚兵衛は、弘化2(1845)年に下島した大島代官である(最も彼はこれまでにも附役や蔵方目付として大島や徳之島・沖永良部島にも勤務したことがあり、いわば下島役人としてはベテランである)。史料の内容は、龍郷方筆子の源藤志が異動したので、黍見廻であった佐央人を龍郷方筆子寄役に任命する。佐央人のあとには佐応仁を幾里村黍見廻寄役として任命するというものである。この辞令は代官から佐央人や佐応仁の任地である龍郷方の与人・横目に出されている。

   龍郷方重黍

   見廻西恵喜別勤

   申付候代

   龍郷方

    瀬華留部村之

       佐応子

   右之通申付候条

   如例可申渡候

      代官

       肥後翁助

   丑正月十四日

        龍郷方

         与人

         横目

 代官肥後翁助は文化年間に2度、代官として赴任しているが、この辞令書は2度目に赴任したとき、すなわち文化14(1817)年に出したものと思われる。この辞令も佐応子個人に対する辞令であるが、前述の辞令同様に、辞令は代官から直接本人へではなく、その間切の与人・横目に対して出され、それが与人や横目を経由して本人に伝えられてたということがわかる。

 なお、『道之島代官記集成』所収の『与論在鹿児島役人公文綴』には「与人之儀者御勝手方ヨリ被仰付、其外之儀者役々代官見合を以申付先例候」とある。つまり与人は勝手方において任命し、それ以外の島役は代官が任命することになっていた。

 また島役には勤務地の異動があった。奄美大島の場合、例えば為寿は寛文9(1669)年に浦筆子であったが延宝4(1676)年に大和浜用人司になっており、早くから島役の異動が行われていたと思われる。

 喜界島では『喜界島代官記』の宝暦九年の条に『大島与人之義は代合ニ相勤来候得共、外三島代合なくニ相勤来候、乍□其通被仰付候而は差支ニ可相成哉、得と取しらへ何分可被申越候」と、島役の異動について検討すべきことが命じられている。さらに『与人・横目・筆子役之者共、来辰(宝暦10年----筆者注)秋ヨリ間切代リ合被仰付」と、宝暦10(1760)年から島役の異動が始まったと記している。

このときには喜界島のみならず、徳之島や沖永良部島においても、異動の件が検討されたはずであるが、『徳之島前録帳』や『沖永良部島代官記』には、それに関する記述は見あたらない。

 徳之島の場合、『徳之島前録帳』によると、文化14(1817)年から5年交替で与人の異動が行われるようになった、と記している。

 沖永良部島の場合は、安政3(1856)年まで与人役所を3間切とも和泊村に置いていたということなので、それまで異動はなかったものと思われる。

 ここで「連官史」をもとに、江戸後期の島役であった佐央統を紹介して、大島における島役の異動について触れてみたい。

 文化12(1815) 大和浜方筆子寄役

 文政 2(1819) 大和浜方重田地横目  

 文政 5(1822) 大和浜方津口横目寄役

 文政 6(1823) 宇検方津口横目定寄役

 文政 7(1824) 宇検方津口横目定役

 文政12(1829) 大和浜方田地横目定寄役

 天保 1(1930) 大和浜方田地横目定役

 天保 1(1830) 大和浜方黍横目定寄役 

 天保 2(1831) 大和浜方黍横目定役

 天保 7(1836) 大和浜方間切横目寄役

 天保 9(1838) 実久方間切横目

 天保10(1839) 笠利間切横目寄役

 天保10(1839) 笠利間切横目定役

 天保12(1841) 大和浜方与人寄役

 天保12(1841) 宇検方与人

 天保13(1842) 実久方さらに大和浜方へ異動 

 天保15(1844) 宇検方与人寄役さらに定寄役に昇進

 弘化元(1844)  大和浜方へ異動、さらに与人定役となる 

 このように、煩雑に異動させられていたことがわかる。

 ところで、島役のその時々の勤務場所は、どのようになっていたのであろうか。『大島私考』には、「与人間切横目ハ居役所ニシテ与人居所ヲ役所ト云ヒ其間切ノ事ヲ決断済成スル所ナリ間切横目ノ居所ヲ横目役所ト云フ」とある。また『笠利町誌』によると、掟の居宅は掟役場と称したという。

 『大島要文集』所収の『藤田幸右衛門回答書』にも「与人共ノ儀右申出候様ニ間切々々へ三四年またハ七八年ツゝ代合相勤申事ニ御座候」とあることからして、与人や間切横目は勤務地に赴任して執務したのである。しかし、例えば元家の薪垣のように「須古村居住屋喜内間切の内部連村掟役数年首尾好相勤申候」と、部連村の掟役であるにもかかわらず、須古村に居住しているケースもある。これは、元家がもともとから須古村を本拠地としており、部連村は隣村であることから、掟役場を須古村に置いても勤務に支障は無かったということであろう。

 『笠利町誌』には、「方の役所(与人)も笠利・赤木名・宇宿・喜瀬と移り変わったようであるが(中略)いつごろ、どこからどこへ移ったかは不明である」としている。同誌でも指摘しているように、諸家の系譜には宇宿与人・喜瀬与人・浦与人などと、役所の所在村を示すような記述が散見されるがその数は少なく、勤務場所についての詳細は今後の調査に待つほかはない。

 菊地義顕著「浦内沿革誌」(「大和村の近現代史」七二頁所収)には、大和浜の方役所は当初は大和浜にあったが、藩政時代中葉以降に思勝に移されたと記されている。

 なお、町健次郎氏は「現代のエスプリ別冊・奄美復帰五〇年」所収の『瀬戸内町の今昔』の中で、伝承や古記録をもとに、藩政時代の方役所所在地を比定している。すなわち東方役所は清水、渡連方役所は渡連のちに古仁屋に移転、西方は久慈に、実久方は芝にそれぞれの方役所が置かれていたとしている。文献史料の少ない奄美の歴史を研究する上においては、町氏の手法はたいへん注目すべきものであり、今後もさらに深めていただきたいものである。

 沖之永良部島においては、『和泊町誌』によると、安政 4(1857)年の機構改革までは、「3間切の役所とも和泊村1カ所にあった」という。

 「徳之島町誌」によると、アツカイには役場(小林正秀著「仲為日記犬田布騒動」では、ヤクバではなくヤクジョウと称したとしている)があり、そこが与人や横目の詰所となっていたとのことである。なお、掟の場合は居宅で執務し、所(トコロ)と称したという。

 沖永良部島の場合は、与人役所は三間切とも和泊村に置かれていたが、安政4(1857)年に各方ごとに分散させたことが「和泊町誌」に記されている。

 喜界島の場合は、「与人居宅、居役所之事候」と住居を役所にしていたことが、「喜界島史料(藩廰ヨリの布令諭達掟規約等」所収の『島中ヨリ仰渡』にみえている。

 しかし役所の場所を特定することは、容易なことではない。各種史料に散見されるものを拾い出していくしかない。たとえば亀井勝信著「諸家系譜集」からいくつか紹介したい。 龍佐運為宗は文化5(1808)から与人を勤め、「住用役所上田原ニ於いて卒ス」とあることからして、住用間切の場合は、上田原に与人役所があったようだ。

 笠利氏の為季は「号佐伯浦与人司相勤之砌家内召列名瀬間切之内瀬々子村江移」とある。すなわち、名瀬間切では瀬々子村に与人役所がおかれ、為季の場合は家内の者を引き連れての異動であったという。しかし恵家の恵栄喜は「赤木名より知名瀬村へ御引移数年間与人相勤候」という記述もある。与人役所が瀬々子村から知名瀬村へ移転したということなのか、それとも役所を置く場所は与人の判断にまかされたということなのであろうか。後考を待ちたい。

 実久方与人であった泰岡は享保18(1733)年に実久役所で死去したというから、実久間切の役所は実久村にあったということであろう。

 元家の期栄久・思た金については、両人とも「須古村居住屋喜内間切横目相勤申候」と記されており、屋喜内間切では間切横目の役所を須古村に置いていたようだ。

 徳之島寶満家の大冨山は「宝暦2(1752)天井之川与人定役被仰付夫ヨリ井之川役所江引写リ相勤」たという。

 ただ、本田孫九郎著「大島私考」には「間切横目ハ其間切ノ名ヲ以テ何間切横目ト云フ龍郷方ニ勤テモ名瀬方間切横目瀬名ニ勤テモ古見間切横目ナリ」とあることからして、たとえば古見間切横目の横目役所が古見方ではなく瀬名方にあった可能性もあるということになる。

 道之島の島役が他藩の地方三役と異なる特色のひとつは、この勤務地の異動であろう。

つまり他藩の地方三役は、藩による支配機構の末端として位置付けられながらも、一方では農業経営者としてその地に根を張った存在であった。しかし道之島の島役の場合は、支配機構の末端の吏僚として位置づけられ、たび重なる異動があった。そのために、一部には債務奴隷である家人を抱える程の富裕農層があったとはいえ、藩の権威を背景としなければ農民に対峙できない存在であった、と規定して良いであろう。

Z、今後の課題

 従来、島役に対する研究者の評価は、例えば島役は民衆支配機構の末端に位置づけられ、民衆を収奪したとする観点からのものがみられる。しかし他方では、処罰された農民の管理に手心を加えたり、飢饉や洪水などに際し私費を投じて民衆を救済するなど、民衆の側に立って行動した島役もいた。また各地で耕地を開墾し、農業の発展に貢献した島役がいたことも事実である。それらが実績として評価され郷士格として取り立てられる例も多々見られるが、このような島役の多面性をどのように統一的に捉えるのかは、今後の研究課題の一つとしたい。

 本稿は、奄美大島・徳之島・沖永良部島を中心としてまとめたのであるが、それぞれの島ごとの島役の員数や任期・俸禄あるいは勤務の実態など、島役の具体的実像については、史誌によっては記述にかなりの食い違いがみられる。総じてまだまだ不明な点が多いのが現状である。その原因はそれぞれの史誌が拠り所とした原史料にあると思われるが、今後の研究課題としたい。

[、おわりに

 近世の道之島史の研究は、沖縄史の研究に比べて大分遅れているといっても、決して過言ではなかろう。史料の少なさがその最大の理由であろうが、しかし近年、奄美大島には博物館が建設され、古文書解読の講座なども開かれていると聞く。このような地道な努力によって、近世道之島史研究の裾野が広がりつつあることは、おおいに喜ばしいことと思う次第である。

 なお、本稿をまとめるにあたっては、亀井勝信氏の労作である『奄美大島諸家系譜集』を大いに参考にさせていただいた。

 最後に瀧川義一氏にも、本稿の文章構成その他で、いろいろとご教示をいただいた。ここに記して謝意を表したい。       

《参考文献》

・『奄美大島諸家系譜集』−−−昭和55(1980)年2月発行。亀井勝信著。主として奄美大   島の旧家の系譜を中心としているが、徳之島や喜界島の旧家の系譜も収められてい   る。

・『大島私考』『大島要文集』−−−共に文化 2(1805)年から翌年にかけて大島代官として   赴任した本田親孚の著書である。

・『徳之島事情』−−−明治28(1895)年3月発行。吉満義志信著。

・『奄美大島史』−−−大正10(1921)年6月発行。坂口徳太郎著。

・『奄美史談』−−−昭和 8(1933)年9月発行。都成植義著。

・『大奄美史』−−−昭和24(1949)年9月発行。昇曙夢著。

・『名瀬市誌』上・中・下−−−昭和41(1966)年3月から昭和48(1973)年3月にかけて発   行。名瀬市誌編纂委員会編。その後の奄美諸島の史誌編纂に大きな影響を与えた。

・『概説徳之島史』−−−昭和42(1967)年2月発行。小林正秀著。

・『徳之島町誌』−−−昭和45(1970)年3月発行。近世史は、『徳之島前録帳』などの基   本史料をもとに小林正秀氏が担当している。

・『笠利町誌』−−−昭和48(1973)年7月発行。笠利町誌執筆委員会編。

・『知名町誌』−−−昭和57(1982)年6月発行。近世史部分は主に赤地信氏が執筆。

・『和泊町誌(歴史編)』−−−昭和60(1985)年6月発行。『沖永良部島郷土史資料』を   主軸に、永吉毅氏・玉起寿芳氏らが共同執筆。

・『龍郷町誌(歴史編)』−−−昭和63(1988)年11月発行。龍郷町誌歴史編纂委員会。

・『喜界町誌』−−−平成12(2000)年発行。喜界町誌編纂委員会編。近世部分は弓削政巳   氏が 主として担当している。

・『瀬戸内町誌(歴史編)』−−−平成19(2007)年3月発行。瀬戸内町誌歴史編編纂委員会   編近世部分は山下文武氏と弓削政巳氏との共同執筆である。

・『道之島代官記集成』−−−昭和44(1969)年7月発行。野見山温編。奄美諸島の代官記   その他、根本史料が収録されており、奄美諸島の近世史研究には欠かせない。近年   刊行された松下志朗編の『奄美史料集成』(南方新社刊)にもその多くが収められ   ている。