研究ノート「近世奄美の島役人群像」              

                                                 2010.10.01    森 紘道

 

 近世の奄美(当時は道之島と称した)は薩摩藩の支配下におかれていた。薩摩藩は代官以下の詰役を派遣して統治したが、その手足となったのが現地出身の島役人である。これら島役人には、現地の有力家系出身者が任命されるのが常であった。ここでは、これらの島役人に任ぜられた人々を各家系ごとに紹介し、また若干の考察を加えてみたい。

 なお、本稿をまとめるにあたっては亀井勝信著「諸家系譜集」や「奄美郷土研究会報」所収の「諸家家譜」、「道之島代官記」、「連官史」などを参照した。

宇宿大親家 (大和村の『和家』)

 「宇宿大親家譜系図」によると、始祖の宇宿大親は童名を「保元金」(あるいは「眞元金」とも書く)といい、先祖は代々琉球国王より宇宿首里大親職に任ぜられていたという。

 「三和良」

・彼は宝永7(1710)年に誕生した。成長して大和浜方の田地横目を勤めていた。

・延享1(1744)年、宇検方与人の「佐栄統」が上国を命ぜられたので、その寄役として延享3(1746)年まで勤めた。その年に「佐栄統」が帰島したために「三和良」も大和浜方田地横目に帰役した。この年、「三和良」は36歳であった。

・宝暦6(1756)年、代官は伊地知長右衛門(「大島代官記」には「伊地知長左衛門」とあるーーーー筆者註)の代に名瀬間切横目の「清於喜」が病気により退役したので、その跡役として名瀬間切横目寄役を仰せつけられた。

・宝暦10(1760)年に代官家村直太郎(「大島代官記」には「家村杢太郎」とあるーーーー筆者註)の代に屋喜内間切横目の「佐栄甫」が別勤となったので間切横目寄役を仰せつけられ、翌年まで勤めた。ところがその年に定役を他の者に命じられたので、田地横目に帰役した。

・宝暦13(1763)年、 代官伊藤長左衛門の代に住用間切横目の「田畑佐温」が免役となったので、その跡役を務めていたところ、明和3(1766)年になって代官本田新右衛門の代に、田地方与人であった「田畑佐温」が免役となり、その跡役として古見方へ勤務を命ぜられた。

・明和5(1768)年、代官伊集院四郎の代にまたまた住用間切への勤務を命ぜられた。・明和7(1770)年に老齢を理由に住用間切横目免役を願い出て許され、大和濱に隠居した。

・寛政4(1792)年10月死去。享年83歳である。

 「冨雄」

・安永8(1779)年に誕生した。父親は「三和良」の嫡子の「富雄」、母親は東間切与人安座磨の娘「赤加那」である。

・寛政5(1793)年、14歳で加冠した。

・寛政9(1797)年、代官福山平太夫の代に大和浜方田地横目の「佐恵統」が病気で退職した跡を受けて寄役を命ぜられた。18歳の時である。その翌年、代官遠矢金右衛門の代に津口横目定役を命ぜられた。

・寛政11(1799)年、代官大場市左衛門の代に宇検方の田地横目「清喜子」が異動した跡を受けて、定寄役を命ぜられ、申年の寛政12(1800)年まで勤めた。

・享和1(1801)年、大和浜方黍横目の「佐恵川」が琉球へ派遣されたので、その跡役を命ぜられたが、別人が定役として赴任してきたので津口横目に戻った。

・享和2(1802)年すなわち23歳の時、代官和田新吾の代に宇検方の黍横目「杜喜応」が異動になったので、その後任として定寄役を命ぜられた。翌年には西方黍横目の「統仲子」の後任として定役を命ぜられた。

・文化1(1804)年、代官米良藤右衛門の代に、屋喜内間切横目の「杜喜応」が病気退職した跡を受けて寄役を命ぜられ、またその年の12月には大和浜方与人の「佐和郁」が病気退職した跡を受けて寄役に任ぜられた。25歳の時である。

・文化8(1811)年、代官二階堂與右衛門の代に屋喜内間切横目の「都與岡」が異動した跡を受けて、寄役を命ぜられ、さらに名瀬方間切横目の「佐念温」が免職となった跡を受けて、寄役を命ぜられた。

・文化9(1812)年、古見間切(「横目」脱カ)の「佐和子」が異動した跡を受けて、定役を命ぜられ、さらに大和浜方与人の「杜喜応」が病気退職した跡を受けて、寄役を命ぜられ、文化11(1814)年まで勤めた。その年の8月、代官新納次郎九郎の代に、屋喜内間切横目の「富廣」と両人で勤務地の交代を願い出て、屋喜内間切で勤めていたところ、9月に名瀬方勤務を命ぜられた。さらにこの年は代官が肥後翁助に代わり(「大島代官記」では「文化12年」としているーーーー筆者註)、古見方与人の「冨宗」が病気退職したので寄役を命ぜられ、その年の10月まで勤めた。

・文化13(1816)年、37歳の時、大和浜方与人の「佐渡智」が琉球へ唐人宰領として渡海した跡を受けて寄役を命ぜられた。これは漂着した中国船乗組員を琉球に護送する為であった。その任務を、その年の閏8月まで勤めた後、名瀬方勤務を経て屋喜内間切勤務となった。

・文化14(1817)年、代官喜入休右衛門の代に、大和浜方与人の「佐渡智」が病気退職した跡役として寄役を命ぜられ、そのあと4月には宇検方与人の「恵喜」が病気退職した跡役として寄役を命ぜられ、その年の11月まで勤めた。

・文政2(1819)年には、これまでの島役勤務の功績と、自作砂糖1万5千斤を上納したことが評価され、定式与人に任ずる旨の証文を国元において与えられた。40歳の時のことである。

 

清原家(瀬戸内の『久志堅家』)

 「久志堅家家譜」によると、久志堅家は代々首里大親職を務めた清原家を出自とするという。清原家がもっとも栄えたのは元禄期の頃で、男子兄弟七名がそれぞれ島役を務め、いわゆる清原七家を興したという。「師玉家系図」によると、寛文年間に西古見与人を務めた「思喜世」には8男1女があった。娘は名瀬間切瀬志古村与人に嫁した。長男の「租南」は与人になったが、元禄6(1693)年に鹿児島で病死した。二男の「當磨」は、西間切横目を経て住用間切や笠利間切の与人役を務めた。その後元禄9(1696)年に上国したが下島した後、西間切実久方与人となった。さらに元禄13(1700)年に漂着した唐船を送って琉球へ渡った。その後、住用間切役勝村や東間切与人役を務めた。「當磨」には2人の孫娘がいたが、ひとりは「清原當済」の妻となり、もうひとりは龍郷の「佐富為輝」の妻となった。三男の「久志堅」が久志堅家の始祖となるのであるが、その娘の「眞牛金」は田畑家の「佐富為治」に嫁している。四男の「浦世」は与人役となり、五男の「知念」は掟役を務めた。六男の「磨起把」は、はじめ「阿座磨」と称し東間切渡連方の筆子役を務めたあと、黍横目を数年つとめ、古見間切横目そして東間切横目となった。その後引退し清水村に住んだ。「磨起把」は宝暦2(1753)年に死去。享年81歳であった。「磨起把」の娘は篠川村の「實雄」(瀬戸内の芝家)に嫁したが、ふたりの間に生まれた孫の「當済」は「磨起把」の養子となり、そして「當磨」の孫娘と結婚した。こうして清原家は師玉家や田畑家・芝家とも深く繋がっていくのである。なお、七男の「宮里」は掟役を務め、八男の「喜佐嶺」は掟役や田地横目をつとめている。

 

森家(瀬戸内阿木名の『森家』)

 「森氏系図」によると森家の先祖は、薩摩藩士の大野茂右衛門であるという。子の「宗友」の誕生したのが享保18(1733)年ということであるから、そのころに渡島したのであろうが、この時期の道之島詰役の中に彼の名は見あたらない。また鹿児島県史料の『本藩人物史』の中にも、管見の限りでは見あたらない。ただ「宗友」には子供がいなかったので、同じ東間切の「貞登子」の子「貞和子」を嗣子に迎え、森家を継がせた。

「貞和子」

 「貞和子」の父親は「貞登子」(その先祖は、薩摩秋目の商人で小田原新兵衛である)、母親は東間切の筆子であった「仁恵」の娘である。「貞和子」が生まれたのは寛政3(1791)年2月12日、幼名を「又次」と称した。

・文化2(1805五)年の正月に、代官本田孫九郎によって元服し、「貞和子」と名乗った。14歳の時である。

・文化3(1806)年に御座見舞重寄役に任ぜられた。

・文化5(1808)年に代官は本田孫九郎から肝付半平兼貞に替わった(「大島代官記」では「文化4年」のこととしているーーーー筆者註)が、肝付代官のもとにおいても御座見舞重寄役に任ぜられた。

文化8(1811)年、すなわち20歳の時に宇検方掟となった。

・文政2(1819)年には、代官最上孫左衛門の代に宇検方津口横目定寄役に任ぜられた。

・文政5(1822)年には宇検方津口横目の定役を命ぜられ、まもなく宇検方黍横目定寄役を兼務することとなった。この年に大洪水がおき、(「大島代官記」では、「文政6年」の条に記されているーーーー筆者註)。田地およそ3町、税額にして27石が流された。代官は与人を上国させ、その状況を藩に伝えさせた。

・文政七(1824)年に宇検方黍横目の「貞和子」と東間切横目の「長武美」は相談して、代官税所長左衛門の許可を得て資金を出し、人夫を雇って開墾を始め、翌年の春には、1町2反5畝9歩を開墾した。代官はその地を検地し、それを農民に分けて耕作させ、年貢を納めさせた。春山休兵衛の代(「大島代官記」によると、彼は「物奉行見習」とある。この時期の代官は中馬宗九郎である。ーーーー筆者註)にも「長武美」とはかり、人夫6300人分を負担して開墾をおこない、1町9反2畝を得た。代官中馬宗九郎はそれを農民に分け、耕作させて年貢を負担させた。開墾した土地は合わせて3町1反7畝9歩、こうしておよそ3年で、洪水により荒廃した村を再建することができた。雇った人夫は延べ15873人、費用は米310石7升7勺5撮であった。これを皆、「貞和子」と「長武美」とで負担したという。家老の川上久芳はそれを聞き、用人の志岐休之進をして2人を褒賞せしめた。「貞和子」と「長武美」はさらに忠勤を励み、共にはかって砂糖5萬斤を献上した。

・文政10(1827)年、家老の川上久芳は「長武美」と「貞和子」に対し、嫡子を限り一字姓(「貞和子」には森姓、「長武美」には泉姓)を名乗ることを許し、また代々郷士格を与えた。また「貞和子」を、「長武美」にかえて宇検方の黍横目とした。その後、「貞和子」は西方与人に転じ、文政11(1828)年には代官重久主右衛門によって東方与人に命じられた。

・文政13(1818)年には、代官宮之原源之丞によって住用間切与人に任ぜられた。・天保4(1833)年には太守齊興公が正四位に任ぜられたので、「貞和子」は宇検方黍横目の「眞須秀」や筆子の「儀志父」、掟の「稲堯」・「能徳」を伴い慶事上国した。「貞和子」はこれを機会に引退し、跡役を嫡子の「宗寿」に譲りたい旨を申し出た。用人の島津頼母は家老の諏訪治部の命を受け、竹下仁左衛門を通して「貞和子」の申し出を許可した。すなわち、「貞和子」にかえて宇検方田地与人の「鎮眞須美」を住用間切与人とし、「貞和子」の長男「宗寿」(幼名「宗太郎」)を「眞須美」の跡役(すなわち宇検方田地与人)とした。さらに「貞和子」は二男の「貞登子」(幼名「長七」)を「宗寿」の養子となし、森家を嗣がせた。

 

元家(宇検村須古の『元家』)

 「奄美大島諸家系譜集」所収の「元家系図」には、「此節系図文書旧記且亦御家書付等格護仕申候者差上可申段被仰渡趣奉承知候御家之事共書付候物所持仕不申候私共先祖思ちやりと申者罷在代々宜召仕来候筋目之者二而本琉球江差渡国司様江御目見得仕大島屋喜内間切為差引首里(ヨリ)大目指職被仰付相応御扶持方下給数拾年焼内間切支配首尾能相勤為申段家伝ニ申伝候其記段々無断終御奉公相勤候證書ニ今格護仕申候在證書乍持合漸々と元来よ里百姓同前之姿ニ罷成候儀残念至極奉存先祖次第之儀申上度奉願御知行右目録一通并系図一通差上申候何卒一筋宜様奉願委曲左ニ書記申候」と記されている。すなわち、元家は琉球王の統治下においても代々屋喜内間切の大目指職を仰せつかってきた。ところが近年は平百姓同然に位置づけられており残念である。この度、知行目録および系図を差し出すのでよろしく取りはからって頂きたい、という訳である。

 史料中の冒頭に、「此節系図文書旧記且亦御家書付等格護仕申候者差上可申段被仰渡趣奉承知候」とあることからして、この系図が作成されたのは、「系図差し上げ」が行われた元禄年間から宝永年間すなわち17世紀末から18世紀初期においてであろう。史料中に「證書乍持合漸々と元来よ里百姓同前之姿ニ罷成候儀残念至極奉存先祖次第之儀申上度奉願御知行右目録一通并系図一通差上申候何卒一筋宜様奉願委曲左ニ書記申候」とあることからして、当時は系図を提出することによって、自家になにがしかの現状打開を期待した向きもあったということではなかろうか。

 「思ちやり」については、琉球国王より首里の大目指職を与えられ、過怠なく屋喜内間切を支配してきたことと、それに関する琉球国王からの朱印状を頂戴したことが記されている。また「思ちやり」には3人の子供があり、嫡子の「思樽金」については父の跡を継ぎ屋喜内間切の目指職に就いたことと、島津氏の琉球入りの後にも屋喜内間切の目指職を仰せつけられ、その功績として扶持米として知行10石の目録を三原諸右衛門等から与えられたことも記されている。女子は部連村に居住し、ノロを務めて琉球へ渡り国王に御目見得を許されたという。「思樽金」には男女1人づつの子どもがいたが、彼の家督を継いだのは、『嫡子の「思ちやり」』である。長じて屋喜内間切宇検村の掟役を務めていたが早世した。

 こうしてみるとこの家系は、いわゆる「那覇世」の時代には代々屋喜内間切の島役を務めることになっていたということであろう。「思樽金」の女子も、孫の女子も部連村に居住し女の頭役を務め、また琉球に渡り国王にお目見得を賜ったということであるから、ふたり共ノロであったということであろう。つまりこの一族は、男子が世俗の世界において、また女子は宗教の世界において、この地域の支配層であったということになる。

 もうひとりの「思ちやり」(「思樽金」の嫡子)にも男女1人づつの子供があり、嫡子の「よむの樽」は西間切西古見の与人役を務めていたが、老いて屋喜内間切須古村で一生を終えた。女子は屋喜内間切久志の「ちやくみ里主」に嫁して、後に大和浜与人となった「佐渡智」を生んだ。

 「よむの樽」は男女四人づつ計8人の子宝に恵まれた。嫡子の「思た金」は須古村に居住して屋喜内間切横目を勤めていたが、病気により退役してその後は無役で終わった。二男の「薪垣」も須古村に居住し、屋喜内間切の部連村掟役を数年勤めていたが退役し(理由は不明)、その後は無役であった。三男の「期栄久」も須古村に居住し、屋喜内間切横目を勤めたが、病気により退役しその後は無役に終わった。四男の「伊栄波」は須古村に居住し、掟役を初めとして島役を転々として後には間切横目まで進んだ。長男以下三男まで子供がいなかったので、元家はこの「伊栄波」が継ぐこととなった。

 「よむの樽」の四人の男子は、ともに須古村に居住して島役を務めていることから、須古村に間切役所があったということであろうか。長女は屋喜内間切宇検村大和浜与人(宇検村に居住して大和浜方与人をつとめたということであろう)の佐渡智(思ちやりの孫)に嫁した。ということはすなわちいとこ同士の結婚であったということである。次女は東間切清水村渡連方与人(東方の清水村に居住していながら渡連方与人を務めたということであろう)の富磨へ嫁いだ。三女は西間切篠川村実久筆子実琉(西方の篠川村に居住して実久方実久村の筆子を勤めたということであろう)へ嫁した。四女は屋喜内間切宇検村の泰冨に嫁している。

 「伊栄波」には2男3女があった。嫡子の「樽金」は初め「稲濱」といい、宇検方黍横目・西方や実久方の与人さらに大和浜・赤木名の与人をつとめ、名前も「恕雲」と改めた。その後、東方へ異動となりそこで慶事上国を命じられた後、退役して須古村で死去した。二男の「坊」についてはほとんど記述されていない。長女は住用間切山間村の「照恕」の母となった。次女は住用間切「龍都與」の先祖へと嫁ぎ、三女は東方へ嫁したが戻されて須古村で死去したとある。

 「恕雲」(「樽金」)の嫡子が「善與」である。初めは「稲演」と名乗った。宇検方の黍横目・古見方間切横目を勤め、名前も「恕雲」と改めた。そして田地与人に昇進し、住用間切横目を勤め、須古村に居住してそこで死去した。

 「善與」の嫡子が「権」である。父と同じく初めは「稲演」と名乗り、牛馬方横目から西方横目に昇進したときに「恕雲」と改めた。その後しばらくして退役したが、まもなく名瀬方間切横目に再任され、さらに住用間切に繰替になっていたところ、末娘「乙戸かな」の娘婿の「照恕」が寄役を仰せつけられたので、帰役して宇検方へ繰替になり、長女の「阿過かな」の娘婿である「都與岡」のもとで島役を務めた。その後隠居し須古村で死去した。「善與」の娘は「眞世か那」といったが、東方久禰津黍横目である「安喜温」へ嫁した。

 「権」には2男2女があった。嫡子の「徳蔵」は初め「伊恵那」と称していたが、重黍横目を勤めていたときに「稲演」と改名し、父の「恕雲」が宇検方間切横目を病養退役した跡の寄役を仰せつけられ、その後、田地横目寄役その他の島役を務めたあと須古村に隠居した。二男の「坊加那」は「稲貞」とも称したが、後に「稲奥」に改めた。彼も須古村に居住して終わった。長女の「阿過かな」は前述したように、宇検方「都與岡」へ嫁ぎ間切横目「都與流」の母となった。次女の「乙戸かな」は住用間切「照恕」へ嫁いだが早世した。

 「坊加那」には男子が2人あった。嫡子の「坊か那」は初め「稲静」といい、住用間切山間村に居住した。二男の「坊主」は「恕」ともいい、重黍見舞を勤めた後、黍見廻寄役を勤め、須古村に居住した。「坊主」には2男3女があり、嫡子の「長市」は初め「恕徳」といったが、重黍見舞寄役を勤め、のち慶応4(1868)年に黍見廻定役を仰せつけられた。二男の「赤坊」は「稲和気」といい、慶応3(1867)年須古村に白糖方機械が設置されたときに、掟格を仰せつけられて須古村に居住した。女子は長女が「ますかな」、次女が「清か那」、三女が「なへかな」といった。

 「徳蔵」には4男4女があった。「徳蔵」の嫡子の「市」は初め「恕尚志」といい、黍見廻寄役を勤めた後、掟役さらに津口横目をつとめ、その時に「伊名演」と改めた。そのころ平田村・屋鈍村がたいへん荒廃しており、年貢の上納もままならない状況なのを見かねて、米30石を拝借しそれを百姓に分配した。いっぽう百姓へは耕作に専念する旨を諭した。その後村も立ち直り、拝借米の返済も滞りなく完済できた。また徳之島御用船の栄久丸が難破したときには、早速駆けつけ諸事指図をし、救援にあたった。また弘化3(1846)年には、米50石を献上した。そのこととこれまでの長年の島役勤務が評価され、与人役を仰せつけられる旨の書付を家老の島津将曹から与えられた。須古村において六四歳で死去した。二男の「次郎」は「稲満」ともいい、彼も須古村で一生を終えた。三男の「坊主」は「稲宗」ともいい、同じく須古村にて一生を終えた。四男は「四郎」といい、二男「次郎」の嫡子である「権」の後を継いだ。長女の「「清か那」は住用間切与人の「照恕」に嫁ぎ(いとこの「乙戸かな」も「照恕」に嫁している)、娘五人を生んだが、老いて須古村にもどり、そこで死んだ。次女の「乙露か奈」は東間切渡連方の「政芝」に嫁いだがまもなく実家に戻り、女子「坊々か那」を生んだ。その後、宇検方湯湾村田地横目格の「嘉和誠」に嫁いだ。三女の「恵松か那」は西間切篠川村の「都與琉」(母親は「権」の女子)に嫁いだが、後に実家に戻った。四女の「おまか那」は西間切篠川村の「都與直」へ嫁いだが、これものちに実家に戻った。

 「次郎」には4男1女があり、嫡子の「権」は初め「澤満」のちに「稲満」と改め、須古村に居住した。二男の「眞塩」は「稲吉」ともいい、白糖機械が導入された慶応2(1866)年に、掟役を仰せつけられ、須古村に居住した。三男の「徳」は「稲徳」ともいい、須古村に居住した。四男の「金次郎」は「稲元」ともいい、やはり須古村に居住した。娘は「みよか奈」といった。

 「権」の跡を継いだのは、「稲演」の四男「四郎」である。彼は、初め「伊恵覇」といい、重黍見舞を勤めた後に、掟役そして重竹木横目さらに定役をつとめた。そして津口横目に昇進した後に隠居して須古村に居住し、そこで死去した。「四郎」には1男4女があり、嫡子の「善與」は初め「伊恵眞」といい、黍見舞を勤めた後に筆子役にすすみ、かつ掟役もつとめた。慶応2(1866)年に白糖機械が設置されたときに(「大島代官記」では、「慶応元年」の条に記されている。ーーーー筆者註)薩摩藩からは担当者その他英国人など都合300人ほどが来島したが、「善與」はその対応を仰せつけられ、その時の勤功が認められて、家老桂右兵衛門から田地横目格に仰せつけられる旨の証文を与えられた。長女の「おやうか那」は、屋喜内間切宇検村の「鎮佐央佳」に嫁した。次女は「阿くりかな」といった。三女の名は「直か那」、四女の名は不明である。

 「市」すなわち「稲演」には1男1女があり、嫡子の「屋次郎」は初めは「伊名盛」といった。重黍見舞を4カ年勤めた後、黍見廻寄役そして同年中に黍見舞定役を仰せつけられ、その2年後に掟役を仰せつけられた。さらにその5年後に筆子寄役・竹木横目寄役を仰せつけられ、同年中に津口横目寄役さらに定寄役に任ぜられた。定役に任ぜられたのはその翌年である。その2年後には田地横目寄役、さらにその2年後には田地横目定役となったが、同年中に宇検方黍横目寄役へと転じた。その5年後に古見方黍横目寄役を仰せつけられたが、渡連方へ変更となり、その2年後に定役へと昇進した。そして宇検方に異動になったところへ天保15(1830)年、大坂船栄徳丸が遭難し宇検方佐念村に漂着したので救援にあたった。そのころ須古村は農業が不振であったので、嘉永4(1851)年掟役を務めていたときに、巡回して農民を督励したところ、農民も心服し砂糖増産を達成して村も潤ってきた。その他、渡連方や阿木名村などにおいても砂糖増産を達成した。特にこの度の白糖生産取組に際しては、多いに骨を折った。またこれまでの28カ年にわたる島役精勤の故をもって、これまで同様に与人役を命ずる旨の家老桂右衛門からの証文を与えられた。その時に「伊名演」と改名した。「善與」の娘は「阿くりかな」ともいい、宇検方田検村の間切横目「宮尚志」に嫁した。

 師玉家(住用村の『師玉家』)

 「師玉家系図」によると、師玉家は「久志堅家」と同じく清水清原家の出で、清水七家をおこした「磨起把」の流れをくんでいる。

 

「當済」

・正徳1(1711)年12月28日、「當済」は篠川村の實雄(瀬戸内の芝家)の嫡男として生まれたが、外祖父の磨起把(師玉家)に嗣子がいなかったため、その養子となり師玉家を継いだのである。「磨起把」が横目役を依願退職した後、「當済」がその跡役として東間切横目に任ぜられた。

・享保16(1731)年、東間切渡連方与人の文仁演事件が起きた。この事件は享保19(1734)年、藩の評定所において裁断がくだされ、与人は全て免役となったが、横目・掟役などで事件に関わりのないものは許されて帰島した。「文仁演」は公庫米横領の罪により家財没収の上、遠島となった。「當済」は代官の命を受け、これを指揮したあと帰島し、もとのように東間切横目役をつとめたのち、笠利間切横目に転役となった。

・寛延2(1749)年に屋喜内間切宇検方の与人を務めたあと、西間切・笠利間切赤木名方に転役した。

・宝暦13(1763)年に代官の命を受けて上国し、城において重豪公に謁見を許された。またこの年は江戸において悟姫様が誕生したということで再び上国した。この時「當済」は、四男の「當?」を伴った。彼らはそのまま鹿児島で越年し、帰島したのはその翌年であった。その後は宇検方・東方・渡連方・古見方・住用方の与人を務めた。

・安永9(1780)年に在任50余年で職を辞した。

・天明2(1782)年12月18日に死去。享年72歳であった。

 「當済」は東間切清水村の「當武」の娘との間に4人の男子をもうけた。長男の「玖美川」は屋喜内間切宇検方の与人「佐渡智」の養子となった。二男の「當説」は東間切の掟役を務めたが早世した。三男の「當郁」は母方に継嗣がいなかったため、「當武」の養子となった。四男の「當?」は延享4(1747)年の3月18日の生まれで、初めは「亀徳」、のちに「當恵美」・「當済」と名乗った。宝暦13(1763)年には父と共に上国し翌年帰島した。「當?」は、明和6(1769)年に代官に伴われて勉学のため再び上国し、鹿児島に滞在した。明和8(1771)年の春、帰帆中に漂流。四国や土佐・豊後などに漂着し、安永1(1772)年に帰島した。その年に屋喜内間切の横目に任ぜられたあと、安永3(1774)年に東間切に転役となった。さらに天明1(1781)年に古見間切の定与人を務めたあと、住用間切・笠利間切に転役となった。寛政3(1791)年に上国し、藩主齊宣公に謁見を許された。寛政4(1792)年には1月と3月の二度上国した。寛政5(1793)年には、東間切渡連方の与人に任ぜられた。文化3(1806)年に萬年丸に乗り込み無人島調査に向かったが、良港が無くて島に近づけず、暴風にあって琉球に流された。琉球に3ヶ月滞在して帰島しようとしたが、またまた暴風にあって実久方西阿室で暗礁に乗り上げ、本船は破損し1人が死亡した。彼は一命をとりとめた。波乱に富んだ一生であったが、その後は蘇刈村の浦蘇保で塩業に従事し、後に住用間切の見里で死去した。享年71歳であった。

南家(笠利町の『南家』)

 南家の家譜によると、先祖は藤原氏であるということだが、はっきりしているのは「山口利猛」あたりからであろうか。「山口利猛」を嗣いだのは「山口杢右衛門利雄」で、その彼の継嗣が「山口平右衛門(五太夫とも)行孝」である。「行孝」は享保14(1729)年の生まれで、母は町田八右衛門の娘であった。「行孝」は宝暦4(1754)年に大島代官の附役として3年間下島したことがある。本家の山口杢左衛門に継嗣がなかったため、宝暦7(1757)年に嫡家を相続した。明和3(1766)年、彼は再び大島見聞役として2年間在島し、明和6(1769)年に帰国した。「行孝」が在島中に誕生したのが「喜祖父」である。母親は「寛郷」の妹である。「喜祖父」は山口家の本家に継嗣が無かったため、本家を相続することとなって上国したが、家貧しくまた母も老いていることを理由に帰島し、さまざまな島役を務めて文化4(1807)年、53歳で死去した。

「喜祖為」

 「喜祖為」の父親は「喜祖父」。母親は「西雄」の娘。「喜租為」の幼名は「思加奈」あるいは「栄登子」とも称した。

・寛政10(1798)年に龍郷方芦花部村掟役となったのを皮切りに多くの島役を務めた。翌年には西方津口横目となった。その後、龍郷方に転役となった。

・文化3(1806)年には親の「喜祖父」の病養跡役として笠利方の与人寄役となった。・文化10(1813)年には伊東仙太夫の取次によって古見方田地横目となった。

・文化12(1815)年、再び伊東仙太夫の取次により笠利間切横目となった。

・文化13(1816)年に徳之島の東間切母間村において「喜久山」をリーダーとする七百人余の一揆が起きた。世にいう『母間騒動』である。「喜祖為」は代官肥後翁助の命を受け、実情調査のために宇検方田地横目の「宮行」と共に徳之島に渡り、無事帰島して事情を報告した。

・文化14(1817)年、鹿児島傳五左衛門の取次によって、『母間騒動』のときの功績を理由に、「宮行」と共に与人格に任ぜられた。

・文化14(1817)年には慶事のために上国したが、これまでにも都合3度慶事上国し、いづれも首尾良く務めたということで鹿児島において与人定役を仰せつけられた。

・文政2(1819)年には西間切与人の「喜美統」が病死した跡役を、大山清太夫の取次によって命ぜられた。

・文政5(1822)年、東間切・西間切ともに洪水・崖崩れにより多くの土地が破損し、農民の疲弊が激しいとして藩に愁訴するため、西間切横目の「宮恵」とともに代官赤松新之丞の命令で上国した。無事使命を達し、翌年検使として和田氏・鎌田氏の両名が下島した。

・文政11(1828)年、初役より30年間懈怠無く島役を勤め上げ、かつ夫役については依怙贔屓することなく、飢饉の時は琉球へ替米催促のため飛船で渡り、また愁訴のために冬の海を上国し、外国船が漂着したときは取締に万全を期すなど、間切中を心服させただけでなく、藩財政が苦しいということで砂糖1万5千斤を献上した。これらの功績により一代郷士格と南姓を名乗ることが、町田監物・石原庄太夫両名の取次によって認められた。その後、砂糖1万5680斤を献上したことにより嫡子まで代々郷士格、そして家内札の者10人まで夫役免除の特権を文政11(1828)年に許されたのである。

 

屋宮家 (瀬戸内諸鈍の『屋宮家』)

 『屋宮家自家正統系図』によると、屋宮家は東間切諸鈍村を本拠とする。先祖は首里で生まれた「摩文仁親方」とも、また東間切諸鈍生まれの「古謝大親」ともいう。

 「文仁演」は、幼名は「摩三郎金」といい、父親は「摩文仁」(初代の摩文仁親方から、かぞえて一〇代目にあたるーーーー筆者註)母親は叔父である「桃并」の娘「小万樽加那」である。与人役に任ぜられて諸処を転々としていたが、訳あって役を退き、一家は離散する羽目となった。そのことにからんで本府に越訴をした。時の代官は「北郷伝太夫」(享保一七年に下島ーーーー筆者註)であった。このために代官のみならずその他の詰役・島役・「文仁演」の兄弟4人などが本府に召還された。取り調べの結果、代官はじめ詰役は全て遠島、与人連中は免役となった。間切横目連中はお構いなしであった。兄弟4人は役職は無事であったが、越訴のかどにより七島へ遠島となったが、のちに許されて帰島した。前述した、世に言う『文仁演事件』である。

「宮久仁」

 「宮久仁」は幼名を「長過」または「文朝」といい、父親は竹木横目を務めた「宮久仁」、母親は名柄村の出であった。代官「南雲新右衛門」(宝暦四年に下島)の代に急用のために召し出されて鹿児島にのぼった。途中で遭難しかけたが辛くも鹿児島に到着し、無事に御用を済ますことが出来た。そのことにより賞せられて黍横目役に任ぜられた。

・寛政11(1799)年、代官大場市左衛門の代に住用間切横目役に任ぜられた。

・享和1(1800)年、「宮久仁」は与人として、前年の冬に住用に漂着した10人乗りの唐船を、彼が宰領となって琉球に送り届けた。その冬、朝鮮人が漂着したので、翌年、代官和田新吾の代に与人として宰領し、同じように琉球に送り届けた。

・文化1(1804)年、代官米良藤右衛門の代に赤木名与人役に任ぜられた。

・文化14(1817)年には幼君国丸君の疱瘡が快癒したことの祝儀のために上国し、芭蕉布・真綿糸・焼酎などを献上した。その際に藩主に拝謁を許され紙10束を賜り、また跡役に嫡子「宮行」を許されて帰島した。享年66歳。

「屋宮玖仁」

 「屋宮玖仁」は幼名を「八郎」といい、初めは「宮行」後に「宮久仁」と名乗ったが、文政7(1824)年に「久」の字を遠慮して「玖」の字に改めたということである。母親は西古見村の「家伝」の娘である。

・寛政10(1798)年、琉球から年賀の使者として上国途上にあった田島親方が汐掛のため名柄に滞在していたので、同親方を烏帽子親として元服し、そのまま親方と共に上国して琉球館に勤務した。その後、同親方が帰国することになったため太田八郎右衛門方に寄宿して学業に励み、寛政12(1800)年に帰島した。

・享和1(1801)年、代官大場市左衛門の代に津口横目役に任ぜられた。

・享和3(1803)年に和田新吾代官の代に田地横目役に任ぜられた。

・文化13(1816)年、徳之島の母間村で、掟役の「喜久山」が入牢させられたのをきっかけとして一揆が起きた。一揆勢は七百余人、武器を所持して「喜久山」を取り返し、また本藩に越訴をしようとした。この情報が大島まで達したので、代官肥後翁助(文化12年に下島)の命を受けて笠利村黍横目の「喜祖為」とともに徳之島に渡り、事件を究明して帰島した。

・文政10(1827)年、本藩の幼君の婚儀が無事終了したということで、代官中馬宗九郎(文政8年に下島)の命を受けて祝儀のために上国し、島産の芭蕉布・真綿・焼酎を献上した。かわりに紙40束を拝領した。その時に退役と、跡役に弟の「實久仁」を願って許された。また自分ならびに嫡子まで代々郷士格と一字苗字を名乗ることを許す旨の国老町田監物の証文を頂戴した。

「宮和気」

 「宮和気」は、幼名を「直次郎」あるいは「宮嘉多」と名乗った。母親は「宮玖仁」と同じである。幼くして上国し、唐通事の修習して間切横目格・与人格に任ぜられた。帰島途中の文政10(1827)年、漂流中の朝鮮人を救助した。「宮和気」が通事修行中に多少の朝鮮語を習得していたこともあり、彼が取り扱いの責任者となり、代官税所長右衛門の命を受けて与人名代として通事役の「池光」を指揮して朝鮮人を琉球に送り届けた。その後、唐船が大熊にも漂着したが、彼が応対責任者となり、代官中馬宗九郎の命を受け、無事に出帆させた。文政11(1828)年、唐船方与人役に任ぜられた。文政12(1829)年には本通事1人、稽古通事1人を上国させるように命ぜられた。本通事としては「実嘉渡」が、また稽古通事としては「宮和気」が任ぜられ、勤功によって通事唐船与人を命ぜられ、扶持米11石を支給されることとなった。またこの年には国許において代々郷士格を許され、帰島後は異国船漂着の時は懈怠無く勤務すべきと申しわたされた。

《註》上記文中にでてくる町田監物の証文は次の通りである。

             「道之島大島 与人宮行 右の者は初  

            役より当役まで二十八年間まじめに勤め  

            上げ、また近年は島中が凶作であったに  

            もかかわらず、受け持ち間切に飢えた者  

            がおれば白米を給し、また借米の返済不  

            可能な者にはそれを免除し、あるいは自  

            己の出費で土地の開墾を進めた。先祖代  

            々与人役を務めたことを島代官からも報  

            告があった。さらにこの時節柄をよく理  

            解し、自作砂糖三万斤を米八十石と取り  

            替えてすべて藩に寄付した。その功績に  

            より、本人および代々嫡子まで郷士格と  

            一字苗字を名乗ることを許す。最も帯刀  

            は無用、容姿も従来通りである。」

 

笠利氏(龍郷町の『田畑家』

 「笠利氏家譜」によると、笠利氏は琉球国王より代々首里大親職に任ぜられてきた、いわば伝統的富裕農民であり、道の島の歴史に大きく影響を与えた一族である。のちに本家・二男家・三男家・隠居跡家に分かれるのであるが、江戸時代におけるその中の幾人かを取り上げてみたい。

 

「為寿」

・承応2(1653)年、龍郷方瀬師子村白間で生まれた。父親は「為季」、母親は名瀬間切芦気部村首里大屋職男子西用人司の娘である。「為寿」は、幼名を「思金」と称し、後に「佐式」「佐郁」さらに「佐意久」と名乗った。妻は隅州小根占衆中小牧孝左衛門尉が大島代官附役として下島していた際に島妻との間にもうけた娘、「眞加戸樽金」である。・寛文9(1669)年に名瀬間切浦筆子を務め、さらに同間切横目をつとめた。

・延宝4(1676)年から、大和浜用人司・瀬名用人司・喜瀬用人司・西古見用人司・瀬名用人司・浦用人司・名瀬用人司などを歴任した。

・元禄3(1690)年には、古見間切戸口村に弁財天拝殿を建立した。

・元禄5(1692)年、上国を命ぜられた。船頭は七島口之島の平左衛門であった。この時は、喜界用人司「永語」・徳之島用人司「久保知」・沖永良部島用人司「大城」も上国を命ぜられていた。なお佐敷王子・北谷按司ら、本琉球衆も数十人が上国しており、共に御目見得を許された。その時の「為寿」の献上品は、上真綿30抱・上蕉布30端・御成物1斗5升入1壷・居古貝御成物1斗5升入1壷・焼酎百盃入壷2本などであった。藩主綱貴からは白紙10束が下賜された。彼は国元での任務を首尾よくすませ、その年の10月26日に出帆し、11月5日に名瀬間切の深浦に着岸した。船頭は七島中之島の仲七左衛門であった。その日のうちに赤木名へ行き、代官の猪俣休右衛門(元禄4年に下島)にことの次第を報告した。その後、瀬師子村に観音堂を建立した。

・元禄10(1697)年には今井嶽権現宮御殿ならびに拝殿を建立した。

・元禄13(1700)年の12月に請島へ唐船が漂着した。乗り組み人数は25人であった。年明けの1月3日に代官廣瀬次兵衛(元禄12年に下島)から、唐人警固を命ぜられた東間切清吹村実久用人司「當磨」・浦用人司「為寿」の両人は翌年の2月に唐人を警固して琉球へ渡った。そのときの船頭は七島中之島の善十郎であった。2月11日に西古見を出帆し、翌12日には琉球の牧港に着いた。13日に唐人および荷物を琉球の役人に引き渡した。その際に在番奉行の蒲生十郎兵衛尉・附役の染川仲兵衛尉・横目の柏原市右衛門尉・赤塚利右衛門尉・足軽の有川利左衛門らが立ち会った。その日のうちに那覇へ廻舟し、山川親雲上宅に宿泊した。3月8日に国王からは焼酎や上布を拝領し、4月1日に那覇を出帆、二日に柴湊に着岸した。船頭は西古見の伊富里であった。五日に瀬師子村に行き代官の廣瀬次兵衛尉に事の首尾を報告した。

・後宝永4(1707)年に上国を命ぜられ、6月5日に名瀬湊を出帆して13日に鹿児島城下に着岸した。翌14日、島方取次御筆者の徳永治左衛門をして御用人衆の猿渡喜右衛門尉に首尾を申し上げた。9月12日に大守吉貴公に御目見を許された。奏者は黒葛原左衛門であった。9月25日に城において暇を許され、29日に鹿児島を出帆、11月18日に名瀬間切の深浦に到着した。船頭は七島の平右衛門であった。上国に際し、代官藤田孝右衛門尉(宝永4年に下島)から島方取次の徳永治左衛門尉にたいし「為寿」の引退を願い出ていたが、「為寿」の帰島ののち、首尾良くお役御免を認められた。時に55歳であった。引退の後は瀬師子村(龍郷の旧称)に居住した。

・享保1(1716)年に死去。享年64才であった。

「為辰」

・延宝6(1678)年に瀬師子村(龍郷)において誕生した。幼名は「思次良金」のちに「佐賢」・「佐文仁」・「佐郁」と称した。母は隅州小根占衆中小牧孝左衛門尉の娘で、祖母は古見間切首里大屋子職の孫である赤木名村の「乙満金」である。祖母は赤木名村のノロであった。先妻は笠利間切赤木名村居住の古見間切瀬名用人司「三統」の娘、「眞牛金」である。後妻は阿木名村の母方の従兄弟「真喜嶺」の娘である。

・元禄5(1692)年15歳の時に、父の上国に随従して鹿児島に渡り、その年の11月に帰島し、翌年には浦筆子役に任ぜられた。

・元禄9(1696)年、大島中黍横目役となる。

・元禄13(1700)年に父の「為寿」が唐人警固のために渡琉することとなったため、その跡役として浦用人司となる。

・宝永4(1707)年に黍横目役を免役となり、無役となった。

・宝永5(1708)年に住用間切横目役に任ぜられ、妻子と共に住用に転居した。

・正徳1(1711)年34歳の時に、古見方与人寄役となる。翌年、開墾のことにつき上国を命ぜられ、国元において住用間切与人役を仰せつけられた。

・正徳3(1713)年から享保11(1726)年にかけて、浦村・屋入村・瀬花留部村・久場村・芦花部村・笠利方手花部村・喜瀬村・芦徳村・名瀬方朝仁村・小宿村・知名瀬村・大和浜方津名久村・大和浜村・深山塔(福元村)・宇検方湯湾村・西方古志村・篠川村・東方清水村・住用間切市村・役勝村・東仲間村など、14年間に1430余石を開墾した。その褒美として享保11(1726)年に外城衆中格を仰せつけられ、田畑姓を許された。

・元文3(1738)年に61才で隠居し、本家および隠居跡家の始祖となる。

・元文4(1739)年、62歳の時に「佐伯」と改名した。

・明和1(1764)年に死去。享年は87才であった。

「為治」

・天和1(1681)年に屋喜内間切宇検において「為寿」の二男として誕生し、二男家の始祖となる。「為治」は、幼名を「思金」といい、のちに「為貞」・「佐富」と称した。妻は東清水村の与人「久志賢」(代々首里大親職東方与人職を勤めた清水清原家の出で、久志堅家の初代となる)の娘「眞牛金」(当時13才)である。

・元禄11(1698)年に上国し、10ヶ月ほど鹿児島に滞在して帰島。

・元禄12(1699)年に古見間切の筆子役となる。

・宝永3(1706)年、父の「為寿」が上国した跡を受けて名瀬間切与人となる。さらに田地方横目を務めたあと、大和浜方与人となる。

・享保8(1723)年に慶事上国。

・宝暦6(1756)年に76才で死去した。

「為輝」

 「為輝」は「為治」の嫡子で、初め「佐郁」のちに「佐富」と称した。妻は久志堅家(清原家)の「當武」の二女「場金」である。「為輝」には四男九女があり、長男「為興」は、初め「佐侃」のちに「佐郁」と称した。家譜によると「唐船を送り届け、清国皇帝より褒賞を受けた」と記されている。二男の「為喜」は「佐喜美」と称し、三男家の第十三代を相続した。三男の「為則」は初め「佐侃」のちに「佐富」と称し、兄「為興」の跡を継いで二男家第十五代を相続した。なおこの代に田畑姓から竜姓に改姓している。「為宗」は、初め「佐元」のちに「佐運」と称し、本家第十五代を相続している。なお、西郷隆盛の島妻となった「愛加那」は二男家の出身である。

「為遠」

・貞享1(1684)年に「為寿」の三男として誕生し、のちに三男家の始祖となった。幼名を「眞三郎金」といい、のちに「佐喜美」・「佐興」と称した。妻は芦花部村の「眞志金」である。

・宝永2(1705)年に大島に漂着したオランダ船の乗組員を薩摩に送り届けるため叔父の焼内横目「伊栄富」が上国するのに随従して鹿児島に渡る。ところが帰島の際、舟が遭難し久米島に漂着、翌年2月に那覇を経由して帰島した。

・享保8(1723)年に名瀬間切与人となる。

・享保19(1734)年、屋喜内間切与人を務めていたときの『文仁演事件』で免役となる。その後は兄「為辰」の土地開墾事業に協力し、有良村・芦花部村などを開墾した。跡継ぎがいなかったため、阿木名村西間の「牧嶺」の嫡子を養子として家督を継がせた。・寛延3(1750)年死去。享年67歳。

 *『文仁演事件』に登場する「佐富」は「為寿」の二男の「為治」、「佐喜美」は三男の「為遠」のことであり、また「稲里」は「為辰」の妻「眞牛金」の弟である。この三人は事件後、与人役に復帰した。

 *三統家の子孫は、統を同じくする当磨家(喜姓喜志統よりでた)と婚姻し、この血統をうけた祷・岡・大島・岡江の各家などと近年までも田畑家は婚姻してきたという。 

「為與」

・享保16(1731)年9月13日、東間切清水村に生まれた。父は「佐富」、母は東間切清水村の横目「當武」の娘、「場金」。「為與」の童名は「眞宇次金」、初めは「佐ァ」、後に「佐侃」、さらに「佐郁」とも称した。妻は笠利間切横目の「道三」の娘「宇間金」。・寛延2(1749)年、19歳にして父「佐富」が慶事上国したため、その跡役として実久方与人寄役となる。

・寛延3(1750)年から宝暦4(1754)年にかけては、笠利間切や名瀬間切の横目寄役を勤めた。

・宝暦6(1756)年、代官家村杢太郎の時に漂着した唐船を、代官の命を受けて救助した功績により、清国皇帝より贈られた沙布一端を琉球に出向いて受け取った。

・宝暦4(1754)年、西方黍横目寄役、さらに名瀬方黍横目寄役となる。

・宝暦5(1755)年、古見方黍横目寄役を勤め、同年中に定役にすすむ。

・宝暦11(1761)年、31歳にして東方与人寄役を勤めた。

・明和3(1766)年、黍横目を退役した。

・天明8(1788)年4月24日、58歳で死去。

「為輝」

・宝永4(1707)年、「佐富為治」を父に、東間切清水村久志堅の嫡女眞牛金を母として誕生した。

・享保8(1723)年、17歳で筆子役となる。妻は東間切清水村「當武二」の娘、「場金」である。「為輝」は19歳で横目役となり、

・享保13(1728)年、23歳の時に名瀬間切龍郷方与人となった。在勤五三年間の内、48カ年は与人役を務め、69歳で退役。

・天明2(1782)年10月29日に76歳で死去した。

「為長」

・元文4(1739)年の生まれ、実父は「三統」。母は「真志金」(二男家第一四代「為興」の妻となった「於真金」の姉妹)である。「為長」は、「佐温」後に「佐文仁」と称したが、田畑氏一三代の「為弘」に嗣子がいないため、17歳で養子に迎えられた。妻は龍郷村大殿地居住の笠利間切横目「道三」の娘「樽目樽金」である。

・宝暦8(1758)年に20歳にして間切横目役、24歳で与人役となる。

・安永4(1775)年の笠利与人役在勤中に37歳で死去。妻は文政2(1819)年に81歳で死去している。「為長」の妻子は、住用間切に居住した。「笠利氏家譜」はこのことについて、「父、為長この地に居住し、死去せるを以て、母子なおこの地に在りしため」と記している。

「為宗」

・宝暦2(1752)年10月20日、田畑氏二男家第一四代「佐侃(後に「佐郁」)為興」の嫡子として生まれた。

・明和4(1767)年に勉学のため16歳で上鹿。本家の一四代「為長」の嫡子「為次」が12歳で死去したため、安永6(1777)年に官命により本家を相続した。母親は龍郷村笠利間切横目「道三」の娘、「於間金」である。幼名は「権次郎金」のちに「佐元」さらに「佐運」と称した。最初の妻は赤木名村の与人「稲賀」の娘であったが死別した。1番目の妻は龍郷村浦上の与人「堀栄」の娘であったが、2人の女子を産んだ後に離縁した。3番目の妻は浦村の「寿響」の娘「宇名津加那」であったが、2男3女を生んだ後に死去した。2番目の妻が生んだ2人の女子の内、1女は東間切阿木名村の「久志賢」の妻となった。もうひとりは名瀬伊津部村「嘉勇行」の妻となった。3番目の妻が生んだ3人の娘の内、ひとりは名瀬朝仁村の「佐和常」の妻となり、もうひとりは龍郷瀬花るべ村の「三統」の妻となった。あとひとりは笠利村手花部村の士族格与人「伊喜栄恒」の妻となった。また2人の男子の内のひとり、「龍佐賢」は学問稽古のために上国していたが、鹿児島において享和2(1802)年に22歳で死去した。そのために二男の「佐積」が家督を継いだ。あとひとりの「為宗」は唐通事稽古のために上国していたが、その間に鹿児島で与人格を与えられた。その後、安永4(1775)年24歳の時に、名瀬与人を務めていた祖父「佐富」が退役跡を願い出て許された。天明5(1785)年1月、藩命により田畑姓から竜姓に改姓。天明6(1786)年慶事上国。文化5(1808)年に住用間切上田原の役所において死去、享年57才。

「為勝」

・安永2(1773)年に誕生した。父親は、二男家第一五代「為則」(「佐侃」後に「佐富」と称す)。母は龍郷方阿木名村の当務与人「真喜悦」の娘、「熊加那」である(「熊加那」の母は、赤尾木村の「恵智」の娘である。「恵智」は岡・松岡両家の祖である)。「為勝」は幼名を「権太加那」といい、元服して「佐侃」、後に「佐文仁」(俗に親佐文と称す)と名乗った。妻は古見方朝戸の間切横目である「儀志温」の娘の「真志加那」(あるいは「真志金」)である。「真志加那」は幼少のころから二男家の第一四代為興の二男「佐喜美為喜」の養女となっていた。養母は「千代金」の妹の「赤場金」である。「真志加那」は嘉永5(1852)年8月に死去。享年80歳。なお「為勝」は在勤中の文化10(1813)年から嘉永3(1850)年の間に薩摩藩に対し米273石7斗、砂糖283700斤を献上している。

・寛政1(1789)年17歳の時より龍郷方・笠利方などの諸横目寄役を務めた。

・文化14(1817)年に、官命により本家を相続した。時に45歳の時である。

・文政1(1818)年に間切横目格に補せられたあと、

・文政6(1823)年には龍郷方当務与人司寄役となる。

・文政9(1826)年に上国したが、文政11(1828)年には龍郷方与人司寄役に復帰し、文政12(1829)年に宇検方与人司となった。

・天保1(1830)年、砂糖の惣買入制に際して、名瀬方館府与人司となる。

・天保4(1833)年に古見方に転じ、古見間切労村御救助方御用となる。そして赤木名に転じた。

・天保7(1836)年64歳にして首尾良く退役となった。その際、実弟の「竜佐富」が跡役として与人司に補せられた。

・安政5(1858)年一月、86歳で死去。 

「為善」

・文化5(1808)年8月に龍郷方屋入村で生まれた。父親は「為勝」、母親は「真志加那」。幼名は「牛五郎佳男」、元服して「佐郁」、のちに「佐恵喜」、さらに「佐運」と称した。

・文政6(1823)年、16歳で上国し7年間学業に就いた。

・文政12(1829)年帰島して龍郷方重黍横目に補せられた。

・天保4(1833)年に本員黍横目寄役となる。

・天保6(1835)年には田地横目に補せられ、天保7年に間切横目寄役、天保8(1837)年には本員間切横目に補せられた。その後、龍郷・実久・赤木名へ転勤。

・天保14(1843)年に赤木名方与人司寄役に補せられた。

・弘化2(1845)年に叔父の当務与人司「竜佐富」が死去したために、跡寄役となる。・弘化4(1847)年には当務与人司となった。その後、龍郷・東渡連・住用・古見に転じた。

・嘉永5(1852)年に御軍役方係を仰せつけられた。

・安政2(1855)年、「為善」が住用当務司与人のときに異国軍艦三隻が来着し騒動となった。

・安政4(1857)年に流行病のため、名瀬方館府勘定宿において死去。在勤都合35年。享年50歳。妻は二男家の叔父「竜佐富」の娘「亀佳姉(かな)」である。しかし「亀佳姉」が弘化3(1846)年に死去したために、龍郷方芦花部の西間切与人司「嶺貴志」の次女「平加姉」(かな)を後妻にむかえた。

 

勘樽金家(喜界町先内の『永家』)

 「勘樽金一流系図」によると、勘樽金家は「勘樽金」を始祖とするが、「勘樽金」が荒木間切花良治村に居住していたころ、中山国の兵船が湾湊を攻めたときに島民を集めて応戦したがむなしく敗戦。降伏して琉球に渡ったとある。これは、1466(文正1)年の尚徳王による喜界島攻略のことである。また、大和の船(平氏の残党兵カ)が東間切の瀬玉湊に入湊してきたときに、「勘樽金」は自分の娘を嫁がせ、その間に生まれたのが「思語羅志」であるとも伝えている。

「道嘉」

・慶安1(1648)年のうまれで、父親は「無心好」、母親は湾村浦原与人の娘である。「道嘉」は、幼名を「菊千代」のちに「長良知」・「永語」と名乗った。男5人、女6人の兄弟姉妹の長男であった。14歳のときに、喜界島に漂着した唐人を長崎に送るために附役として下島していた附役町田嘉右衛門が上国するのに伴われて、長崎に行った。

・寛文6(1666)年、19歳の時に父の「無心好」が隠居退職をした跡をうけて西目間切与人に任ぜられた。

・元禄5(1692)年上国し、藩主島津綱貴に謁見を許された。このころ彼は「長良知」と名乗っていたが、藩主に改名を願い出て許され、「永語」と改名した。

・元禄6(1693)年に彼は西目村の地蔵堂を建立した。

・元禄10(1697)年には同村に阿弥陀薬師観音三尊の堂を建立している。

・元禄10(1697)年に上国し、下屋敷において島津吉貴に謁見を許された。その時に自分の役職の跡職に弟「長良知」を任じてくれることを願い出た。その願いは翌年に許されたが、後に肥後仁右衛門代官の代(「大島代官記」によると元禄12年から14年にかけて代官を務めている。ーーーー筆者註)、このことを文書に記載して保管することとした。尚、以前に上国した際に彼は日向の飯野大明司村に40石余の土地を購入して、薩摩藩士の東郷五兵衛に小作をさせてあった。

・元禄13(1700)年に島中が飢饉に襲われた(ただし、「大島代官記」にはその記載が無い。ーーーー筆者註)の時に、「道嘉」は隠居中の身であったが、両代官、肥後仁右衛門・堀源五左衛門代官が(「大島代官記」によると堀は、宝永2年から4年にかけて代官を務めている。ーーーー筆者註)の依頼を受け与人と共に大島に渡り、米穀や種子を求めてきた。

・元禄16(1703)年、「道嘉」と改名した。

・宝永2(1705)年には住吉社を再興した。

・宝永3(1706)年の冬に附高が一切禁止され、「永語」の土地も収公され、代米として90石を島において支給された。このことが代官堀源五左衛門の記録に記されている。・享保2(1717)年、4月29日に死去。享年70歳。

「佐市」

・元禄2(1689)年、「道嘉」の娘と伊砂横目の「孝武」の間に生まれた。外祖父の「道嘉」に子供がいなかったので、その養子となった。

・元禄15(1702)年、「佐市」は病気がちだったので、それを憂えて与人の「安峯」に従って上国して療養し、まもなく病癒えて下島した。

・元禄16(1703)年に大官座において元服し、「永語」とあらためた。そして荒木与人の「長良知」(「永語」の叔父にあたる)が上国したので、跡役として与人寄役をつとめた。時に15歳。

・宝永1(1704)年、与人の「長良知」(「道嘉」の弟)が死去したので、跡役として与人役に就任した。

・宝永3(1706)年に、西目間切の定与人役に転じた。

・宝永6(1709)年に、病のため役を辞した。

・正徳2(1712)年、東間切与人役に任ぜられた。

・享保5(1720)年、藩主島津継豊の初の入国を祝すために、6月8日に喜界島を立ち、18日に鹿児島に到着したが、藩主がまだ江戸だということで、入国を待つために鹿児島で越年し、翌年の正月21日に下屋敷で拝謁した。23日には本丸殿中の諸御役座において御目付渋谷四郎左衛門の案内で拝謁した。2月18日に御本丸において帰島のための暇乞いをし、百田紙を頂戴した。2月28日に船に乗り、3月24日に山川を出発して、4月3日に島に到着した。

・享保10(1725)年に上之里に水天堂を建立した。

・享保21(1736)年に、48歳で死去した。

「永久仁」

・宝永1(1704)年12月の生まれ。父親は「永語」。母親は湾与人「安峯」の嫡女で正徳4(1714)年に死去している。2人の間には3男4女があった。「永久仁」は幼名を「松助」と称した。

・享保4(1719)年に御代官座において、代官平田平六のもとで元服し、名前も「永久仁」と改めた。

・享保8(1723)年「永久仁」は病気がちであったので、その年の夏に荒木与人「郡志頭」に従って上国し療養し、甲斐あってその年の冬に下島した。「永久仁」20歳のときのことである。

・享保8(1723)年12月に代官美代六郎兵衛によって荒木間切黍方横目に任ぜられた。

・享保14(1729)年、代官町田孫七によって西目・伊佐両間切の作方重寄横目に任ぜられた。その年の三月に「永訓」と改名した。またその年の六月には札改主取を勤めた。・享保15(1730)年の6月、代官八木孝右衛門によって荒木間切寄横目に任ぜられた。その翌年、父の「永語」が病気になったので3月から12月までの間、与人名代を勤めた。

・享保18(1733)年、砂糖締方寄横目と荒木間切寄横目を勤めた。また翌年には代官川上平右衛門によって棕櫚方寄横目に任ぜられた。

・享保20(1735)年、代官木脇六郎左衛門によって棕櫚方横目に任ぜられた。

・元文1(1736)年には、代官町田平覚によって西目間切与人に任ぜられた。33歳の時のことである。

・元文3(1738)年の3月に享年35歳で死去。

 

金樽家一流系図(喜界町坂嶺の『郡家』)

 「金樽一流系図」によると、金樽家の始祖である「宇呂金多羅」は喜界島の西目村に住み、間切の「ショリノ大役」をつとめたとあることから、土豪であったということであろう。

「郡志頭」

「郡志頭」は、父「金樽」と中間村伊砂与人の娘との間に生まれた、男四人・女一人の兄弟姉妹のひとりである。代官が富山九右衛門(「喜界島代官記」には「富山九左衛門」とある。寛文三年に下島ーーーー筆者註)の代に、湾間切筆子役を仰せつかったらしい。左近允八右衛門(「喜界島代官記」には「左近亮八右衛門」ともある。延宝八年に下島ーーーー筆者註))の代には湾間切横目役を仰せつかった。渋江平内左衛門代官(貞享二年に下島)の代に、東間切長峯与人を務めた後に東間切から荒木間切与人に転じたという。

・元禄4(1691)年、代官の猪俣休右衛門から鹿児島に上るようにとの命令があった。そこで進物用の芭蕉布・焼酎・ヤコガイの塩漬などを整え、鹿児島に上った。与人の跡役は弟の「白濱」に譲った。その後、大島・喜界島・徳之島・沖永良部島など4島の与人は進物を献上したら帰島するようにとの命令であったが、「郡志頭」は御目見得を願い出て、所蔵していた知行目録・喜界島置目御条書など3通を献上した。これによりこの年の8月に御本丸において佐多豊州主に謁見がかなった。というのは藩主の島津久尊が江戸参勤中であっためである。

・元禄11(1698)年、再び上国した。与人の跡役は弟の豊文にまかせた。この時藩主の島津綱貴は江戸に滞在中であった。「郡志頭」と大島与人の「国覇」は鹿児島で越年したが、徳之島・沖永良部島の与人は帰島した。この年の12月に藩主島津綱貴に謁見がかない、進上物を献上した。

・宝永1(1704)年、与人の跡役を嫡子の「郡志玄」にまかせて上国した。この年、藩主の島津綱貴は江戸において病気になった。そのために島津吉貴は急ぎ江戸に赴いていた。この年の9月に下屋敷において御家老にお目通りを許された。その後帰島し、西目与人から荒木与人となった。

・宝永4(1707)年に祝儀上国の後に帰島して与人役を辞した。跡役は嫡子の「郡志玄」に譲った。

・宝永5(1708)年の9月21日に死去した。「郡志頭」には2男4女があった。長男は「郡志頭」、二男は「郡志玄」である。

**「長男の郡志頭」(親の『郡志頭」と区別するためにこのように表記した)

・延宝3(1675)年12月15日の生まれで、母親は川嶺村半田の「瀬戸」の娘で、ノロ役であった。「長男の郡志頭」の妻は白水村「我名覇」の娘で、嘉鈍村のノロクメであったが享保14(1729)年に死去した。享年51歳。

・代官渋江平内左衛門(貞享二年に下島)の代に上国する親の跡役として荒木間切筆子役および寄与人を務めた。

・宝永5(1708)年12月には代官新納弥右衛門の代に与人役となった。

・正徳2(1712)年には世継の鍋三郎が疱瘡にかかった故をもって上国し、焼酎2壷と芭蕉布30反を献上し、島津吉貴に拝謁し、その年の12月に帰島した。

・享保8(1723)年には藩主島津継豊の婚礼を賀すために上国、与人の跡役は「周悦」にまかせた。焼酎2壷・芭蕉布30反を献上して9月に帰島した。

・享保14(1729)年閏9月、与人役在任中に死去。享年55歳であった。

「郡志玄」

・天和2(1682)年、「郡志頭」の二男として誕生。幼名は「魏志建」。母親は兄の「郡志頭」に同じである。

・元禄10(1697)年、医道修行が藩より認められたことを受けて、代官長谷場源助の斡旋により上国。鹿児島にあること3年の後、代官として赴任する肥後盛雄(「喜界島代官記」には「肥後仁右衛門」とあるーーーー筆者註)の船に便乗して帰島した。

・元禄14(1701)年、再び上国、今度は4年間鹿児島に滞在した。帰島後は筆子・寄横目・寄与人などを務めた。

・享保5(1720)年、代官南雲順右衛門の代に東間切・志戸桶間切の黍横目を勤めた。・享保15(1730)年、代官八木孝右衛門の代に兄「長男の郡志頭」の跡役として荒木間切与人役となる。数十年間その役を務めた。

・享保19(1734)年に代官(「喜界島代官記」にある「木脇六郎左衛門」のことであろうーーーー筆者註)の命を受けて、菊姫君ご誕生の祝儀のため上国し、進上物を献上した。下紙一〇束を拝領した後に下島したが、暴風にあって琉球に漂着し翌年の3月に喜界島に帰島した。

・寛延4(1751)年7月29日に死去。享年70歳。

「郡司頭」

・正徳2(1712)年、「周悦」を父とし、志戸桶与人「全長」の娘を母として2月28日に生まれたが、「長男の郡志頭」に子供がなかったためにその養子となった。妻は荒木間切「郡志玄」の娘であり、2人の間には1男4女があった。

・享保14(1729)年、代官町田孫七の代に荒木間切黍方寄横目となり、その後、寄横目をたびたび務めた。

・享保19(1734)年には代官川上平右衛門の代に「郡志玄」の跡役として、荒木間切与人となった。

・元文2(1737)年、代官町田平覚の代に志戸桶間切寄与人を命ぜられた。

・寛保3(1743)年に病気療養のために上国し、翌年まで鹿児島に滞在したが、その間に喜界島の男女数十人が争論のため鹿児島まで呼び出された。「郡司頭」はその際に通事を命ぜられ、裁許の後彼らを無事帰島させ、彼自身は延享2(1745)年に帰島した。同年、代官東郷十左衛門の代に東間切横目に任ぜられ、しばらくその役をつとめた。

・宝暦9(1759)年に「郡志玄」が病気であったため、荒木間切寄与人となった。

・宝暦11(1761)年には東間切与人定役を命ぜられ、その後伊砂間切与人に転じた。なおこの年に弁財天社を川嶺村に創建した。

・宝暦13(1763)年に上国し、藩主島津重豪に拝謁して公の婚儀が整ったことを賀して進上物を献上した。その年の11月に下紙10束を拝領して帰島した。この年さらに、悟姫が出産した祝儀として上国するようにとのことであったが、海路遼遠でありまた庶民の労煩を理由として、幸いに各島の与人が滞府しているために目録だけを献上しておき、翌年に品物は進上することとなった。「郡司頭」はその翌年に帰島し、湾間切与人となって赤連村に住まいを移した。

・安永2(1773)年5月14日に死去。享年62歳であった。

「具志頭」

・明和6(1769)年11月28日、「澄江宮里」末流の与人である「宮改」の二男としてに生まれた。「具志頭」は、幼名を「宇謝千代」、のちに「貞玄」「郡志頭」「具志頭」などと名乗った。実名は「宇緒」である。「郡志頭」(「郡司頭」の嗣子)に子供がなかったためにその養子となった。養母は「澄江宮里」の娘であるが、実母は「安芝」の娘である。

・天明5(1785)年の夏に唐通事稽古のために上国し、7年間滞在した。その功績により与人格となった。

・寛政3(1791)年、伊東為右衛門代官の代に、鹿児島において黍方掛与人横目勤めを命ぜられた。

・寛政6(1794)年、代官折田長兵衛の代に、鹿児島において養父「郡志頭」にかわって与人となる。

・寛政12(1800)年、儲君の虎寿丸が疱瘡にかかったということで、上国し先例の通りに献上物を納めた。

・文化9(1812)年、御家老の鎌田典膳から御用人の伊東仙太夫を通じて、「郡志頭」を西目間切の与人とする旨の命令があった。島において彼は資財をなげうって窮民を救い、公田の開墾をすすめた。そのため間切中は次第に豊かになり、その故をもって青銅千疋をたまわった。このことは代官曾山佐平太によって仮屋において「郡志頭」に伝えられた。・文化14(1817)年、一代郷士格となりまた一字苗字を許された。これは翌年、国老鎌田典膳の命を受けた代官簑田新平によって伝えられた。ここにおいて「郡」の姓を称し、名を「具志頭」と改めた。これはおよそ26年間に及ぶ島役勤務とかつての西目間切の窮民を救ったこと、砂糖2万斤を献上したこと、8代にわたって与人役を務めたことなどの功績によるものである。

・文政3(1820)年の夏に上国し重豪公に謁見を許され、また吹上殿において家斉公に献上物を献じた。

・文政4(1821)年に代々郷士格となった。その故は、以前に荒木間切が飢饉になった際、「具志頭」は自分の米を放出してこれを救い、また道普請を行って人馬の労を省いたためである。この費用はおよそ31石になるという。さらに砂糖2万余斤を献上して藩財政に寄与した。また先祖代々8代にわたって与人役を務め公につくした。

・文政10(1827)年1月に郷士格であることを理由に、勘定奉行の宮之原主膳・諏訪甚六・伊集院蔵主・島津登連署による文書で5畝の宅地を賜り代々相続することを認められた。この年「具志頭」は鹿児島に滞在していたが、「具志頭」が所蔵していた文書が不幸にして火事のために焼失した。それ以前にその文書の写を鹿児島の国史館に納めてあったが、理由を告げて再び写をつくり、所蔵することにして帰島した。

・文政13(1830)年4月10日に死去した。享年62歳であった。

 

寶満家(徳之島阿権の『平』・『太』・『福島』の諸氏)

 寶満家系図によると、その出自を清和源氏としているが、実際は琉球王家から大親役に任ぜられた豪族ということであろう。島津氏の琉球入り以降も一族の者は島役に任ぜられて、島津氏による徳之島支配にかかわりをもった。

「大寶山」

 「大寶山」は幼名を「思呉良謝」と称した。東間切山村の用人で、はじめは「白真」と称していた。妻は同じ間切諸田村の「白間安賀子和思と兼」である。父親は「東之主」で母親は大叔父「思呉良謝兼」の娘「思津たか年」であった。兄の「大山」と2人兄弟である。

 「大寶山」は幼少の時に親に死に別れたが、亀津の用人「大勝」が外舅でありまたその妻も伯母にあたるので、そこで育てられた。

 若年の頃から琉球へ渡海し、買付などをしていたところ、年来信頼し常に伴っていた下人が帰島の際に那覇で次のように願い出てきた。「お供して帰島しなければならないのであるが、また那覇に出て来られるまでは私を那覇に置いていただきたい。この次にはお供して帰島するようにしたい」と。「大寶山」はその申し出を許し、自分だけ帰島するつもりでいた。そのとき那覇は5月5日の節供の祭りで多数の見物船が出ていたところに、突如の大風波で多くの老若男女が流された。たまたま「大寶山」はその中にその下人もいるのを見つけ、ついでに多くの人々を救助した。その中に首里の身分の高い人の子供たちがいたことが縁となって、褒美を賜っただけでなくお歴々とも知り合うようになり、自然と居着くようになった。ある時、その下人を伴って唐へ渡ったのであるが海賊船に出会った。そこで策略を用いて海賊船を追い払い、その勤功により築登之親雲上位を授けられた。

 その後上国して帰島してきたところ、兄の大山は東山与人役として勤めていたが病気になったので、代官に付き添って代わって廻島するように命ぜられ、首尾よく3間切を勤め上げた。その後兄が養生叶わず死去したので、その跡役として与人役に任ぜられ、これより「大寶山」と改名した。

 元禄16(1703)年、6月、享年81歳で死去した。

 「大寶山」には、「佐喜間」(幼名は「思太良」)・「宮里」(幼名は「乙壽眞」)・「寶里」(幼名は「思禰戸」)・「白満」(後述)・「思登兼」(亀津の目指「中勝」の嫡子「浦濱」の妻となる)・「忍樽兼」(和瀬村の掟「義英」の妻となる)・「思行圖兼」・「久志治」(東間切井之川村の掟を務めたが早世)・「思京か那」の5男4女があった。

「白満」

 「白満」は幼名を「思松千代」と称した。万治2(1659)年の生まれで、死去したのは元文2(1737)年の8月13日、享年79歳であった。

 沖永良部島と与論島がまだ徳之島代官の統轄下にあった頃、天和3(1683)年に代官の堀甚左衛門が与論島において病気になった。徳之島の総横目であった「白満」は見舞のために与論島へ渡海したが、堀甚左衛門は養生かなわず与論島において死去した。

 その後大島慶左衛門が代官であった貞享3(1686)年、島中に対し焼酎の製造が禁止になり、先祖祭など法事においても水祭とするようにとの命令が出されていた。諸田村の東間切の目指であった「思京」が法事に焼酎を用いたとの告発があり、「思京」は父子妻子共に面南和間切糸木名村に移住させられた。その時「白満」は総横目役であったが、事件が告発により発覚したこともあって役職を退いた。

 元禄3(1690)年、代官が南郷仁左衛門の時に伊仙与人が交替となり、「白満」がその役に任ぜられ、数年間務めた後、元禄14(1701)年祝儀上国を命ぜられたので、倅の「佐栄久」を伴って上国し、御目見など首尾良く勤めて帰島した。

 宝永4(1707)年に倅の「佐栄久」を与人寄役に任じてもらい、彼は沖縄に渡海して翌年帰島した。そこへ祝儀上国すべき旨の命令があったので、糸木名村の「福里」を伴い上国し、首尾良く任務を終えたところへ七島の者共から、砂糖黍の植仕立の願書を取り次いでくれるようにとの申し出があったので、承知して御勝手方へ取り次ごうとしたところ、島の方では同役中で吟味をして処理するつもりでおり、「白満」が独断で処理することは不都合であるとして、与人役を罷免させられた。「佐栄久」も与人寄役をお役御免となった。

「佐栄久」

・天和3(1683)年、東間切諸田村において生まれた。父親は「白満」。「佐栄久」は幼名を「思呉良謝」。

・元禄3(1690)年の頃、父親の「白満」が伊仙与人に任命されて伊仙に転居したため、「佐栄久」も伊仙に移り代官の町田甚兵衛に手習いを教わった。

・元禄14(1701)年、親に付き添って上国した。鹿児島では島津助之丞に目をかけられ、たびたび御屋敷に伺って碁の相手をした。帰島の際には島津助之丞から波平行安の脇指を賜った。

・宝永4(1707)年に「白満」が琉球へ渡海することになり、「佐栄久」は跡与人寄役に任ぜられた。翌年琉球から帰島した「白満」は命令を受けて再び上国したため、「佐栄久」は引き続き与人寄役を勤めた。しかし上国した「白満」が国許において他人の請願にからんで責任を問われて役職を免役となった。伊仙与人定寄役は東間切横目の「義眞」に仰せつけられた。「白満」は帰島後諸田村に引き移ったために「佐栄久」も同行するつもりでいたが、伊仙村の方が土地も広く、また将来再び奉公の機会もあるだろうということで、伊仙村に居着くことにした。代官が南雲新左衛門(享保一九年に下島)の代に、徳之島に初めて黍横目がおかれ、「佐栄久」はそれに任命され務めていたが、代官が伊地知権左衛門(元文元年に下島)の代に喜念(アツカイ)与人が交替ということで、「佐栄久」が定寄役に任命されることになったが国許に伺ったところ、定役に任命され首尾良く数年間務めていた。

・延享2(1745)年、若殿様が初めての国入ということで祝儀のために大島からは与人の「佐栄統」・喜界島からは与人の「喜美智」・徳之島からは「佐栄久」・沖永良部島からは与人の「仁志平」が上国した。9月9日に対面所において御目見得を許されて進上物を献上し、また本丸において先例の通りに拝領紙を頂戴し、無事に帰島した。

・明和7(1770)年、「佐栄久」88歳の祝がなされた。代官森市兵衛を初めとして、招かれた者3百余人にのぼった。しかしその年の8月23日、「佐栄久」は死去した。

「大冨山」

・宝永2(1705)年の生まれである。「大冨山」は、幼名を「思松千代」といい、父親「佐栄久」が23歳、母親「眞塩目樽」が18歳の時の子供である。生後7ヶ月で歩いたという。

・享保3(1718)年、14歳の時に代官三原源左衛門の附役として下島してきた山本仁右衛門(「徳之島前録帳」には「山下仁右衛門」とあるーーーー筆者註)について手習いをならった。代官が富山清右衛門(享保5年に下島)に替わり、山本仁右衛門が上国したあとは附役の税所甚右衛門について手習いの手ほどきを受けた。16歳の時には泥棒を捕らえたことで代官から褒美として脇指を頂戴した。代官伊地知権左衛門(元文元年に下島)の代に伊仙間切検福村の百姓が多数、船で琉球へ逃散しようとしたことがあった。代官より探し出して連れ戻すべき事を「大富山」と阿権村の「納山」に命じられたので、「福澄」「儀那覇」「池山」「栄久仁」「喜志政」「納悦」らを同道して沖永良部島へ渡り、探し出して無事連れ帰った。その功績によって喜念(アツカイ)の筆子役に任じられ務めていたが、西目間切岡前与人の「安嶺」について上国すべきことを命じられ、無事務めを果たして翌春に帰島した。その後、喜念(アツカイ)の黍横目に任ぜられた。

・延享2(1745)年に親の「佐栄久」が祝儀上国を命じられたので随行し、無事役目を務めて帰島した。代官川上十郎左衛門(延享元年に下島)の代に親の「佐栄久」が隠居を願い出たので、親の跡与人定寄役を命じられた。その後、伊仙村の上牧原に黍を植え付け、年々1万3・4千斤ほどの砂糖を生産していた。

・宝暦2(1752)年、代官山田一郎左衛門の代に喜念(アツカイ)与人定寄役に任ずる旨を国許に伺ったところ、井之川与人定役に任ずるということなので、井之川へ移って務めを果たしていた。

・宝暦5(1755)年に祝儀上国すべき旨の命令があり、甥を伴って上国した。その時、大島からは与人の「當幸」、喜界島からは与人の「玉嶺」、徳之島からは与人の「大富山」、沖永良部島からは与人の「具志川」が共に上国した。無事に献上物を納め、先例の通りに拝領物を賜って帰島した。

・宝暦6(1756)年に隠居を願い出て伊仙村に引きこもり、その後は農業に専念しただけでなく、村人が上納や飯料に困っているときはそれを助け、伊仙村の水溜の上には松を植えるなど、親の遺言を守って過ごした。

                                                                 (2009.2.10 脱稿)