アマン世・ナハン世時代の奄美
 
1,はじめに
 
 近年、奄美諸島の各市町村ではそれぞれの市町村史誌の編纂が盛んにおこなわれている。もちろんそれ以前においても奄美史に関する出版はあった。例えば坂口徳太郎著「奄美大島史」(1921年),昇曙夢「大奄美史」(1949年)などが挙げられる。このふたつの史誌は坂口・昇両先人が、奄美諸島全体を概観しつつも大島史を中心として、個人的に刊行されたものであった。「大奄美史」は1949年の出版であるが執筆は戦時中におこなわれており、いわゆるその時代の歴史観を反映した歴史書である。
 ただ、「奄美大島史」も「大奄美史」もそれぞれの時代の制約を受けた著書といわざるを得ない。たとえば「名瀬市誌」編纂の中心であったともいえる大山鱗五郎は、『坂口の本(「奄美大島史」のこと)は、沖縄を「彼」薩摩を「我」とする、島津史観の露骨な本である』と評している。また「大奄美史」については、『奄美の歴史を研究するのに必読の本は、と聞かれたら私はためらいなく、「大奄美史」をすすめることにしている。(中略)島を愛し、愛したが故に真剣に悩み怒り苦しみたたかった曙夢の血の高鳴りに耳を傾けようとする人は、むしろその正直な偏差の故に、この「奄美史」を奄美精神史の道程を語る記念碑として永く座右に愛蔵するであろう』と高く評価しつつも、『歴史の方は、本人の意図にもかかわらず史料不足と著者の史眼の限界に災いされ、黒糖専売下幕末の視覚にかたより、通史としての展望がはっきりしない』(「大奄美史」(再刊本)の『解題』において)、その限界を指摘している。
 1968年には「名瀬市誌」が刊行された。この本には、戦前の皇国史観から解き放たれた戦後の日本歴史学の影響を受けつつ、戦前の歴史観に立脚した「奄美大島史」や「大奄美史」の限界を克服しようとする努力の跡が見られる。そして砂糖の元禄伝来説など、いくつかの新しい説をも提示し、その後の奄美史の研究に大きな影響を与えた、特筆されてしかるべき事業であった。
 「名瀬市誌」以降に奄美諸島で刊行された主な史誌を年代順にあげると、
徳之島町誌(1970)     笠利町誌(1973)    知名町誌(1982)
和泊町誌(1985)     龍郷町誌(1988)    喜界町誌(2000)
瀬戸内町誌(2007)
などがある。これら市町村史誌の特色のひとつには、時代区分に新しい呼称を導入している点があげられよう。たとえば、奄美世(アマン世)・按司世(アジ世)・那覇世(ナハ世)・大和世(ヤマト世)などなど。確かに奄美諸島は日本本土とは地理的に隔絶しているという特性を持ち、それ故に独自のあるいは特色ある歴史的発展をとげた側面がある。この時代区分は、そのことに注目した歴史観を反映した呼称として定着させたいと思う。
 「名瀬市誌」以降の史誌が坂口・昇両氏の史誌と異なる特色のひとつは、これらの史誌は行政が史誌編纂のための組織を立ち上げ、複数の執筆者によって執筆・刊行されているという点にある。また奄美諸島全体を概観しつつも、それぞれの市町村を中心とした歴史を明らかにしようと試みられている点も新しいことといえよう。
 上記の市町村史誌が描いているそれぞれの時代の特色を、以下にまとめながらそして今後の研究課題や疑問点について考察してみたい。
 
2,奄美世(アマン世)について
 
 奄美諸島の市町村史誌では、一般的には、8・9世紀ごろまでを奄美世(アマン世)と称している。たとえば「龍郷市誌」によると、この時代は血縁共同体としての集落マキョが成立している時代である。共同体の先祖元の家をフーヤとかウフヤと称し、フーヤの当主が行政を司りその姉妹が祭祀を司った(親ノロ 祭政一致)。そしてその後の時間的経過の中で集落が拡大し、マキョが枝分かれしていくと、マキョの先祖元の当主はヒャー(大親)に成長していく。ヒャーは血縁社会の長に過ぎないが、さらに成長し豪族化していくと地縁的階級的首長としてのアジ(按司)に転化していく。これを助長したのが日本本土からの鉄文化の移入であった。アジが支配したいくつかのマキョを間切と称するようになったのだろう、としている。(「龍郷町誌」)
いっぽう「喜界町誌」ではこの時代を、御嶽(ウタキ)と称する神山(カミヤマ)を中心に村落が形成され、その村落を最初に開拓した人の家を根所(ネドコロ)と称した。彼らには村落の支配的指導的地位が与えられた。根所の男性を根人(ネッチュ)といい行政権を担い、根所の女性は根神(ネガン)といわれて祭祀的権利を行使した(根人と根神との関係は「ウナリ神信仰」に起因する)、とまとめている。
 龍郷町誌と喜界町誌との間には本質的な違いは無く、単に集団の長をフーヤと称するかネッチュと称するかだけの違いだと結論付けても間違いではなかろう。「ウナリ神信仰」は琉球諸島一帯に広く見られ、たとえば琉球王府の「聞得大君」には国王の姉妹が就任し、国王の守護霊として位置づけられた。
では奄美世の始まりはいちごろなのかというと、各史誌ともに判然とはしていない。「ウナリ神信仰」を基盤とした祭政一致社会といえば弥生式時代の邪馬台国が思い浮かぶのであるが、しかし弥生式時代は金属器が導入され、階級社会が発生している。
 ということになると、奄美世は農耕社会ではあるが金属器は未だ導入されてはおらず、階級未分化の血縁的共同体社会の段階であったと規定していいだろうが、その始期については今後の検証課題ということになろう。
 
 
3,按司世(アジ世)
 
 奄美世の次の時代は按司世(アジ世)である。奄美世から按司世へ移行した時期を「龍郷町誌」は鉄文化の導入に求めており、多くの市町村史誌では8・9世紀以降を按司世としている。
 1997年に調査された小湊・フワガネク(外金久)遺跡は7世紀頃の遺跡であるとされているが、大量の貝製品や兼久式土器とともに鉄が出土している。多くの市町村史誌にみられるように鉄の移入を持って按司世の始まりと規定するならば、按司世は従来12世紀後半以降とされているが、大幅に早まって7世紀ごろと改めることも今後検証される必要があろう。ただ、「名瀬市誌」は沖縄で按司が誕生したのは11世紀末ごろと食い違っている。
そもそも按司という歴史用語じたいは琉球王朝の官位のひとつとされており、それならば沖縄で按司が誕生する11世紀末ごろ以前に、奄美で按司世が発生したとするのには無理があることになる。もっとも「龍郷町誌」では、「アジには階級分化の中から登場してきた本来のアジと琉球王朝が成立し、王府から官位として許された按司とがある」として、「アジ」と「按司」とを区別している。そしてアジの誕生を、「遣唐使の南島路時代(8世紀前半―――筆者注)、奄美の村々のヒャーのうちに、本土とのルートを持つ者が現れ、彼らは新文化の移入者として他のルートを持たないヒャーたちよりも上位に立つことになる。彼らは鉄の輸入ルートを握り、その加工技術者(鍛冶屋)を支配した。鉄製農具の採用により彼の支配下のマキョの生産力は格段に上昇した。こうして優位に立ったマキョのヒャーは他のマキョのヒャーを支配下におくことになってゆく。これがアジ(按司)である」と説明する。
ところで「琉球国旧記巻之六」の「泊比屋旧宅」の条には、「在国頭郡辺戸邑。雖御宅十数間。昔有泊比屋者。嘗居于此至于近世」という記事があり、これは奄美史にいうヒャーのことであろう。ただ国頭郡とあることからして、沖縄本島北部だけに限定されるのか琉球列島全体にヒャーが存在しかどうかは検証の余地がある。
2種類のアジ(按司)があったことについては、「名瀬市誌」にも触れられている。したがってこの時期、琉球列島一帯にアジと称される政治勢力が存在し、のちに彼らの中から特に琉球王府からその地位を認証された者が「按司」とされたということになろうか。アジと按司との異同についても今後の検証課題といえよう。
 なお按司の権力をサポートしたのがウナリ神としてのノロであったことは前代と同様であり、またそのことに関しての地域的違いは見られないようである。
 アジ世について、「喜界町誌」に記されている内容をまとめると「按司世は9世紀から15世紀ごろで、根人の中で次第に勢力を強め、他の根人を支配下に組み込んでいった根人を按司と称したが、初期の頃の按司をヒャーと称した。按司たちは本土との交易によって鉄を手に入れ、配下の農民に貸し与えて生産力を高めていった」ということになる。
「龍郷町誌」では、マキョ社会の首長であるヒャーの中から他のマキョ社会をも統率する政治勢力としてのアジが誕生していくのに対し、「喜界町誌」ではマキョ社会の首長は根人であり、その中から他の根人をも統率する地位を獲得したものがヒャーと呼ばれ、それが後に按司と称されるようになった、としていることである。
ここでも両者に構造的な違いは無く、単に「根人」「ヒャー」といった歴史用語の違いだけと言って良いと思われる。ただ付言するならば、沖縄史(琉球史)では近年、「按司」登場以前の有力な政治勢力として「寨官」といった歴史用語が使用されている。奄美諸島の「アジ」・「ヒャー」・「寨官」それぞれの関係についても検証の必要があろう。つまりこれらの政治勢力は本質的には同じ政治的性格を持つと考えられ呼称の違いは単なる地域性ということなのか、ということである。もしそういうことであれば、今後の琉球列島史研究のためにも歴史用語の統一を検討することも必要ではなかろうか。
 
 
4,那覇世(ナハ世)
 
 「奄美大島史」や「大奄美史」では1266年の英祖王への朝貢をもって琉球服属時代すなわち奄美世のはじまりとしているが、これはやはり伊波普猷によって指摘されたように、この事件は単なる交易のためであったとすべきであろう。市町村史誌でもその立場から、那覇世の始まりは一般的には14世紀初期からとしている。
 沖縄では1322年から1416年まで三山時代であった。すなわち北山・中山・南山が鼎立しており、統一王朝は未だ成立していなかったのである。「知名町誌」によると、三山時代に与論・沖永良部・徳之島・請島・与路島は北山の支配下に入り、初代の沖永良部世之主(1395年頃)は北山王の第2王子真松千代であった(父は北山王、母は沖永良部の西目ノロの姪だという)。また「喜界町誌」は三山鼎立の時代、喜界島は勝連按司の勢力下にあったとしている。では大島はどうだったのか、残念ながらこの時期の大島の政治的環境を説明している史誌は、管見ながら知らないでいる。
 「15世紀にはいり、日明間の勘合貿易体制が成立すると、琉球王朝は日本・朝鮮への航路拡大の為に奄美諸島への勢力拡大に乗り出した」と、「名瀬市誌」は琉球王朝の奄美諸島進出への歴史的背景を説明している。
北山が滅びた15世紀初期に奄美諸島のうちのいくつかは中山の支配下にはいった。そして1429年、尚巴志によって三山が統一され、1440年には大島が中山王に帰順した。大島には1447年から1466年まで喜界島攻略の為の琉球軍が駐屯したという。しかし「瀬戸内町誌」のこの記述には疑問をおぼえる。第1は喜界島の按司が20年もの間琉球王府軍の攻撃に耐えられるほどの軍事力を持ち続けていたことへの疑問である。第2はその間の軍事負担に耐えた大島の負担能力への疑問である。
沖縄では1458年に護佐丸・阿麻和利の乱が起きている。この乱は奄美地域をめぐる両者の利権争いから生じたものであり、阿麻和利が勝連を中心とした一大勢力圏を形成しようとしたため首里王権と衝突した(伊波普猷著「中世に於ける 沖縄と道之島の交渉」)とのことである。
となると当時の琉球王朝は第一尚氏の尚泰久王であるが、彼は喜界島攻略軍を大島に駐留させながら、護佐丸・阿麻和利の乱にも対応したことになる。これは現実問題として不可能であり、喜界島攻略のための軍を幾度か派遣した。したがって大島への軍隊駐留もその程度のものであったとするほうが事実ではなかったろうか。今後の検証を待ちたい。
1466年、ついに喜界島は中山の尚徳王(第1尚氏)に帰順を余儀なくされた。尚徳王は1466年に喜界島征討から帰国し、奄美諸島および、国頭(沖縄本島北部)地域を合わせて管掌する「自奥渡上之扱理(おくとよりうえのさばくり)職」を設定した。この職は当初は国頭地方を統括していたが、嘉靖18(1539)年尚清王の時、奄美諸島のうち南2島すなわち与論・沖永良部両島を管掌するようになり、後には北三島すなわち徳之島・奄美大島・喜界島をも含み、最終的には国頭と奄美諸島全体を管轄することになった。これが後に泊町奉行・泊地頭となった(和泊町誌・瀬戸内町誌・琉球国旧記巻之二)。
 帰順した按司などは所領を安堵され、亡ぼされた首長のあとには地頭(大親)が琉球から派遣された(琉球王によって所領を安堵されたアジを「按司」と記して区別したい)。この頃は徳之島の大按司が与論・沖永良部・徳之島を支配し、大島笠利の大按司が大島・喜界島を支配した。また行政の末端組織として「掟」を各集落に配置した(名瀬市誌)。
 1469年、尚円王が即位する。第2尚氏の誕生である。この時代、日本本土は応仁の乱の最中であり、そのため遣明船は南海路をとるようになる。南海路は堺を出発すると四国の土佐沖を通過して薩摩の坊ノ津に至り、そこから九州西岸を北上して博多に入り、そして五島を経由して寧波に至る航路である。
 幕府が貿易船の警固を島津氏に命じたことを背景に島津氏は海外貿易への影響力を伸張(例:1480年、幕府は島津氏を通して琉球国王に貿易船の派遣を要請している(名瀬市誌)。
 1477年、尚宣威王が即位後およそ半年で退位した後を受けて尚真王が即位した。尚真王時代の琉球王朝は中央集権化が大いに進んだ時代である。「龍郷町誌」は尚真王の中央集権政治を境にナハ世を前期と後期に分けている。ただ尚真王の中央集権政治が奄美にまで及んでいたかどうかは疑問である。というのは、「瀬戸内町誌」に、1544年から46年にかけて奄美各地のオエカ人を首里城の石垣普請に動員したとあるものの、
  1537年、与湾大親に謀叛の疑いがあることを理由に尚清王の軍勢が大島を攻略
  1571年、大島の大親たちが王府への貢納を怠っていることを理由に尚元王の軍勢が大島を攻略
といった事件も発生しており、これらのことを考慮すると、第二尚氏の中央集権体制が奄美にまで貫徹するのは1570年代初頭すなわち尚元王の代以降とするのが妥当ではないだろうか。つまりナハ世を前期・後期に区分するとすれば、それは尚元王時代を境目とすべきではなかろうか、という疑問である。
 那覇世時代について最もわかりやすく概説していると思われる「瀬戸内町誌」をもとに、以下その時代についてまとめてみたい。
 中央集権化の過程の中で、湯湾大親・古見我利爺征討、名柄八丸征伐、伊喜与穂之兵屋兄弟征討、笠利征討などの事件が起きたというが、これらの事件については史実ではないとも云われており、検証の必要がある。ただ「瀬戸内町誌」も指摘するように、これらはヒャー勢力の没落を意味する。そして各間切には長官(首里之大屋子)、次官(与人)、その補佐(目指)、書記(筆子)などが置かれた。また村々には掟が置かれたという。
 当時、奄美大島では、大屋子などは琉球出身で、尚王統の一族が多く彼らは貢納の確保と巡海用官選船で各地を定期的に見廻ることが主な仕事だった。
16世紀にはいると明の海禁政策が有名無実化し、そのため琉明貿易の比重は低下してきた。いっぽうヨーロッパ船がアジア市場に進出してきたことで琉球からの南方貿易船は1570年で中止に追い込まれる。ということは中継貿易によって繁栄してきた琉球王朝にかげりが見えだしてきたと云うことである。
 琉球王府が奄美諸島への支配権を強化してきたのは、上記のような背景があったためであろう。
 16世紀末には奄美大島に『大島在番職』が設定された。王府は瀬戸内町域を含む奄美大島を既述の通り間切に編成した。各間切の基礎はシマ=集落(後に村と記される)で、奄美大島の間切・村の役職者は大屋子・目差職・里主職・掟職という職階でその下に居番・筆子・大差があった。大屋子職には単なる大屋子職と首里大屋子職があったが、首里大屋子職が上位で、各間切に一人置かれた。大屋子職は間切や村に置かれたが、村の大屋子職は兼任の場合もあった。奄美諸島では役職者の基底となる職は掟職で、掟職以上は王府から御朱印で発令され、役人職としては掟職が起点であった。もっとも居番・筆子(沖縄では文子)・大差などは村の役職で王府の発令する役職ではなかった。
 役職者の異動は随時行われ、その異動の定型は掟職・目差職・大屋子職・首里大屋子職と職階順に上ることだった。(中略)が実際はばらばらだった。(中略)在職期間も一年位から十五年位まで様々だった。これら地方官人はオエカビトと呼ばれ、給地と人夫の使役権を与えられた。
 琉球王府は全間切・村の土地とその貢納額とを把握し、あらゆる土地の所在を確定し王府の経営基盤を確立し役職者の給地を確保しようと、(中略)耕地・林野等の利用価値のある土地に原を付け原簿に登 録し、土地台帳を作り恒常的に利用できるようにしていたと思われる。(中略)王府は各村の耕地を真人地(百姓の耕作地)・ノロクモイ地(ノロの役職に伴う給地)・オエカ地・掟地・里主地(各種役職に伴う給地)に区分していた。真人地には国王への貢租であるミカナイ・ カナイが課されたが、給地にはそれが免除された。
 行政機構に応じて祭祀機構も整えられ、村や間切には女性の司祭者が置かれた。地方神女としてのノロであり、その上位者は首里の中央神女で聞得大君、佐司笠とよばれた。ノロはノロクモイ殿原地という給地を与えられた。
 なお、「奄美大島史」や「大奄美史」では大島の琉球服属時代の官制については、
・按司−−−1人、全島を主宰、位は正一品、金簪。しかし慶長のころにはすでに無かった。
    ・大親(うひや)−−−7人。各間切の長として事務を総理。従五位以 上、正二位以下。金簪仮名染、黄鉢巻、親雲位。
    ・与人−−−古くは用人と書いた。各間切に1人ずつ。大親を補佐し、間切の事務を管掌。従五位以上従二位以下。金簪黄鉢巻、親雲位同格。
    ・目指(めざし)(指役)−−−人員不定。大親・与人の指揮を受けて庶務に従事。正七位。銀簪、赤鉢巻。筑登之(ちくどん)同格。
    ・筆子(てっこ)−−−位階無く切米(春夏冬の年三回支給)だけを支給された
・掟役−−−筆子に同じ。
*大親以上は毎年一度宛琉球王の宮城に至り、貢を献じて拝謁するの例なりし
などと、かなり具体的に既述されているが出典がはっきりせず、疑問の余地がある。
 また那覇世時代の徳之島の官制について「徳之島小史」では
・大親役−−−一名。全島を主管。仮名茶黄鉢巻。親雲上上位。金簪。知行二〇石切米五石。
    ・与人−−−9名。大親役の子孫が世襲。黄鉢巻親雲上。金簪。知行10石切米2石
・目指−−−員数不明。赤鉢巻。筑登之位。銀簪。切米2石
・筆子−−−員数不明。位無し。切米2石
・掟−−−筆子に同じ
と記し、「徳之島事情」でも
・大屋役−−−−知行20石  切米2石    ・用人役−−−−知行10石  切米2石
・指役−−−−−知行5石           ・筆子−−−−−切米2石
・掟役−−−−−切米2石
などと記しているが、奄美諸島に切米制度が導入されたのは薩摩藩制下に置かれた以降であり(「琉球国旧記 巻之二」)、これまた疑問である。
 
《参考文献》
奄美大島史(1921)    大奄美史(1949)    名瀬市誌(1968)   徳之島町誌(1970)    笠利町誌(1973)    知名町誌(1982)    和泊町誌(1985)     龍郷町誌(1988)    喜界町誌(2000)    瀬戸内町誌(2007)