自己紹介
ハンドルネーム:松ちゃん 生年:1966年 生誕地:香川県旧香川郡香川町 現住所:香川県高松市 職業:介護福祉士(パート)と塾講師(自営) 体型:中肉中背 血液型:O型 性格:そこそこ社交的だが実は頑固・昔人間 ちゃらちゃらしたことが大嫌い 趣味:渓流釣り・登山・山作業・旅行 史跡巡り・ドライブ・ツーリング DIY・家庭菜園・読書 愛車:トヨタ・ランドクルーザー70[1995年式・ 走行距離:331,510q(2024年1月現在)] ホンダ・リード125[2019年式・走行距離:15,500q(2024年1月現在)] アルバイト・パート歴: 若いころは夜の塾だけでは物足らず、昼間は友人・知人に誘われて、いろいろなアルバイト・パートを経験しました。おかげで、今では何事にもひるまず柔軟に対応できます。 @うどん屋(22〜28歳)…有名な『さか枝うどん』(高松市番町)で10時〜14時まで働いていた。配達・皿洗いばかりしていたので、うどんは打てない。 A森林組合の現場作業(29歳)…この仕事のおかげで、刈払機・チェーンソーはお手の物、山奥も草むらも平気になった。私の人生の転機となった経験のため、詳細は後述している。 B大工(30〜32歳)…友人の会社へ人手不足の時に、臨時で手伝いに行った。木工・鉄工・軽天・溶接など基本的なことは一通りやった。電動工具も一式持っている。この経験のおかげで、自宅の離れ(6畳間)や『枌所里山くらぶ』のログ倉庫を建てることができた。 C印刷業(30〜33歳)…繁忙期にだけ、呼ばれて行った。印刷から製本までやった。特に、年末のローソン年賀状印刷の時は、アルバイトなのにリーダーを任され、何度も徹夜してやり抜いた。 D料理の仕込み・補助(34〜40歳)…友人が経営する洋風居酒屋で、平日は13時〜16時まで、日曜日は13時〜24時まで手伝っていた。 ENPO法人の事務(38〜39歳)…週1回、洋風居酒屋の休日に働いていた。 F障害者支援施設(47〜51歳)…将来の母親の介護に備えてホームヘルパー2級を取得した後、そのスクールから紹介された障害者施設でパートととして働き、3年間の実務経験を経て介護福祉士の資格を取得。 G高齢者デイサービス(52〜53歳)…主任をしていたが、会社が儲け主義に陥ったので自ら辞めた。 H看護付有料老人ホーム(54歳〜現在)…週5日、午前中のみのパート勤務。 ☆私の半生☆ ●原体験● 私の川好きは幼少時代の原体験にあると思います。私は香川県で生まれ育ちましたが、父親の実家は高知県の安芸市でした。5歳までの記憶はあいまいですが、小学生時代は春・夏・冬休みのたびに祖父母の家にしばらく滞在していました。高知への途上、車でも汽車でも眼下を表情豊かに流れるエメラルドグリーンの吉野川を車窓から飽くことなく眺めながら、「あんな川で泳いだらどんなに気持ちがいいだろう」「あの流れの下にはどんな魚がいるのだろう」などと思いながら長い道程を旅していました。祖父母宅にも安芸川がすぐ近くに流れており吉野川とはスケールが違いますが、毎日犬の散歩に祖父に付き添って行き、河原でしばし遊んでいました。 子供時代にそんな美しい川を見ていたことが原体験になり、私の川好き・自然好きが始まったのだろうと思います。 ●幼少期・学生時代● 香川の田舎育ちですが、小4までは団地住まいだったので、幼少期の遊びといえばメンコや超合金ロボット集め、三角ベースの野球などで本格的にカブトムシ採りや魚釣りをしたことはありませんでした。両親もあまりアウトドアには興味がなく、友達にも本格的な野生児があまりいませんでした。子供時代は親や友達の影響は大きなものですね。だから、どちらかといえば草むらに平気で入って行ったり、虫を素手で触るような自然児ではなかったです。 小4から野球を始め高3まで続けましたが、当時の野球部なので休みがほとんどなく、その間アウトドアには無縁でした。 大学浪人中に父親を病気で亡くし、経済的な理由で地元の大学に進学しました。大学時代は学費を稼ぐために、アルバイトに没頭。まずは割のいい家庭教師をしましたが、大学2年のときに自宅で学習塾を始め、そのまま今に至っております。また同じく大学時代に、トライアスロンを3年間経験。野球とトライアスロンのおかげでアウトドアを趣味とできるだけの体力がつきました。 ●ランドクルーザー70購入●
最初は林道を求めて香川県内を走り回りましたが、県内には未舗装の道がほとんどないことを知り愕然としました。仕方なく、工事中の林道や山中の採土場にもぐりこみ、オフロード走行の練習やトライアルのまねごとなんかをして、運転技術を磨きました(相当、過激でしたけど)。 やがて昭文社のバイク用のツーリングマップルを手に入れ、それからは四国中の林道を走り回ります。剣山スーパー林道や瓶ケ森林道(当時は未舗装)などはもちろんのこと、未舗装の林道や脇道など見つけようものなら必ず進入しましたね。 とにかく、休みの日は林道ドライブばかり。お気に入りの林道は深淵・落合林道(現在は舗装済)、祖谷山・笹谷林道。真冬の深淵・落合林道を50cmの積雪の中、ラッセル走行を繰り返し、落合峠まで走破したことは私の中では伝説です。また、自宅から、国道193号線〜剣山スーパー林道〜東川千本谷林道〜伊尾木林道〜張川林道を経てほぼ東四国縦断ルートで高知県安芸市の祖父母宅に至った経験も思い出深いものです。 今思うと、これこそ自然破壊をしていたようなもの。まあ、誰しも初期はそんなものでしょう。 ●リバー・ランズ・スルー・イット●
妥協せず生真面目に生きてきたせいで、27・8歳の頃、人生についてひどく悩みました。そのころ見た映画が「リバー・ランズ・スルー・イット」、すばらしい自然をバックに田舎の家族の生き方を綴ったヒューマンドラマ。フライ・フィッシングを愛する純真な若者が、田舎の保守的な環境の中で自由に生きていくことの難しさをブラッド・ピットが好演した映画です。ストーリーよりもモンタナの大自然の中でフライ・フィッシングをする映像の美しさが話題になった映画ですが、この映画を見て、当時多くの若者がフライ・フィッシングに興味を持ったのではないでしょうか。もちろん私は自分の当時の精神状態をブラッド・ピットに重ね、ひとりで感動し、自らを慰めていたのですが、もちろんフライ・フィッシングにも魅せられ、ストレス解消にフライ・フィッシングを始めようと決心しました。 最初は、穴吹川の川上地区の本流でトライしましたが3回連続ボウズ。今考えると、スレたアマゴが晴天の真っ昼間の水面に上がってくるわけがありません。「もっと山奥か?」と考え、祖谷川支流の谷道川へ行ってみる。堰堤下のプールでゆうゆうと泳いでいるアマゴの真上にフライを落とすも、全く相手にされずアマゴ釣りの難しさを痛感しました。しかし、当日まぐれで釣れた10pの小物に大感激。手が震えて、なかなか外せませんでした。皆さんも、最初の一匹覚えているでしょう。 ●森林組合のアルバイト●
29歳で、仕事のストレスが限界に達しウツ状態に。ワイルドな人生にあこがれつつも、地元で子ども達の勉強を見るまじめな先生を演じるのに疲れていたのでしょう。1ヶ月ほど夜も眠れず、人生に悩む。発狂寸前で、「転職しよう」とひらめいたのがよかった。 本屋に走り、求人情報誌を開くと、いきなり「あなたもフォレスト・クリエイター(森をつくる人)になりませんか」という魅惑的な文字が。すぐにそれを購入し、家でむさぼり読みました。それは、森林組合の作業員の求人でした。なんの下調べもせず、翌日には飛び込みで面接に。若手を求めていたので、あっさりと採用となりました。塾はすぐにはやめられないので、森林組合に無理を言って最初は午前8時から午後3時までのアルバイトとして雇ってもらいました。 しかし、「フォレスト・クリエイター」という言葉に騙されました。そんな横文字のかっこいい仕事ではなく、まさしく3K(危険・汚い・きつい)を地でいく仕事。毎日、長尾の大窪寺周辺の山々に通い、立っているのもやっとの斜面でチェーンソーや草刈機を振り回したり、土のうを一日に100個も詰めて運んだり、スズメバチは出るわマムシは出るわで、農作業もしたことがない私によくやれたものです。 しかし、これが私の人生の転機になりました。仕事仲間は、ほとんどが60歳前後の年配者。毎日、剣山のふもとの一宇村の山奥から出稼ぎで通っている人もいました。「世の中、こんなきつい仕事もあるんだなぁ」と今までの自分の甘さを痛感させられました。塾はやめる覚悟ができず、ズルズル続けていたので、かなりきつかったですが、みるみる体力がつき、心も自然に癒されて、ボロボロだった身も心も徐々に回復。なにより、自分自身に自信がつきました。 1年間やりましたが、さすがに二足のわらじは無理と悟り、学習塾を選択。山仕事と比べれば、「よっぽど塾の仕事がいいや」と再認識させられました。 若い人、今やっていることに行き詰ったときは、可能ならば一度離れて、ぜんぜん違う体験をしてみるのもいいですね。 ●30歳代●
37歳の時、綾川町の枌所で里山を借り、整備を始めました。県が主催する「里山オーナー制度」に応募し、10倍の競争率の中、みごと1aの土地を借り受けることができたのです。すぐさま『枌所里山オーナー会(のちに『枌所里山くらぶ』に改名・一度解散した後、再開)』をつくり、平均年齢55歳の約30名の会員の中で、森林組合での経験を買われ、若輩ながら初代会長の役を務めることになりました。やめてからそれっきりだった林業の経験が再び生かせる場ができて、何か運命的なものを感じます。 ただ、30歳台はあっという間に過ぎました。
少子化、過当競争、私自身の情熱の薄れ・マンネリ化などによって、塾経営が徐々に傾いていった時期です。40代前半は、経済面が一気に深刻な状況に陥ったわけではないのですが、年々収入は減るし、母親は年老いていくし、徐々にさまざまな不安が募ってきました。しかし、打開策を真剣に考えず、趣味にばかり逃避していました。その中で、特に渓流釣りに没頭していました。 しかし、40代後半になるとさすがにこのままではマズイと考えるようになりましたが、母親の介護の準備のために取得したホームヘルパー2級をきっかけに、障害者支援施設にアルバイトに行き始めてから、福祉の仕事に興味を持つようになりました。そして、48歳の時、2年後塾をやめて福祉の仕事に転職しようと決心しました。正直なところ、50歳で転職となるとなかなか仕事がないのが現実です。それも、約30年間、自営業やその合間に気ままなアルバイトをしてきた自由人の私にとって、サラリーマンへの転職は一大決心がいりました。 ただ、アルバイトで勤めた施設の労働環境や利用者・職員がよかったことと、福祉の仕事へのやりがいとで、この選択は間違っていなかったと思います。そして、49歳の時「介護福祉士」の資格を取り、完全転職への準備も着々と進めてきました。 それにしても、40代は精神的にきつかった時期です。趣味に逃避せず、もう少し早く転職に踏み切っていればと思うこともありますが、渓流釣りや登山、日々のトレーニングに関しては、健康維持や精神衛生、強い心・忍耐力の形成に役立ったので、決して無駄な活動であったとは後悔していません。それどころか、山や川のすばらしい自然が、落ち込んだ気分を励まし鼓舞し、自信を与えてくれたことで、何とか長いトンネルから抜け出すことができたのです。 ●50歳代●現在進行中 |