剣山スーパー林道
(2009年5月6日記)

 私の手元に「剣山スーパー林道〜沿線の歴史と観光〜」という本があります。徳島県旧木頭村出身の安岡亮一という元徳島新聞記者が1985年に剣山スーパー林道開通記念に書いた本です。8年前、著者の親戚である友人宅で埃をかぶっているのを私が目ざとく見つけ、借りたのか頂いたのか曖昧なまま私が持っています(笑)。
 先日、5年ぶりに那賀川で渓流釣りを楽しみましたが、釣り場選びのために地図を見ていると、やたらと見覚えのある地名が出てくるので、この本を思い出し、久しぶりに読み返してみました。
 私は昔話や民話などの民俗本や民俗小説が大好きです。若い頃、柳田國男の「遠野物語」を読んでワクワクしました。笹山久三の「四万十川」では山村生活や子供達の遊びの情景がありありと浮かんで、自分が経験してないにもかかわらず何か懐かしい気持ちになりました。ネットでも私が釣りによく訪れる地域の昔話・伝説などを探しては読んでいます。
 私には現代社会の便利さや快適さがどうも性に合わず、自然と共存して苦労しながら生きる昔の山里人の姿に共感や憧憬の念を覚えます。この気持ちの表れが、渓流釣りなのでしょうね。
 さて、本書から面白い記事を紹介します。ただし、剣山スーパー林道自体の紹介よりも、周辺地域の自然や伝承の話が主になることをお断りしておきます。10年以上前の私の剣山スーパー林道ドライブのスキャニング写真と共にお楽しみください。

 看板がにぎやかな、国道193号線・雲早トンネル南出口。
 まずは、私にとって渓流釣り場が一番の関心事です。残念ながら著者はアマゴ釣りをしないのか、アマゴの話はあまり出てきません。しかし、いくつかの谷の話は出てきます。私の釣り場がバレてしまいますが、先日釣行した「菊千代谷」について。私が地図を見ながら最初に選んだ谷です(実際は通りすぎてしまい2番目に入渓しましたが)。やはり、本書で読んでいたため印象に残っていたのでしょうね。名前の由来は書いてありませんが、著者はきれいな名前だと言っています。逆に私は女性の怨念のこもった怖い名前だと思いました。入り口が険阻だとありますが、確かにその通りで、私のイメージに合っていました。源流は雲早山で藩制時代はお禁め山だったため、かつては原生林を通った清らかな水が流れていたに違いありません。驚いたのはマムシが非常に多いということです。林道作業員が「あんなにハミ(マムシ)がいたのではかなわない。」といって閉口していたそうです。夏には行けないなぁ。また、著者の身内自慢も多少はあったのか、高校山岳部の次男が肝試しのためか、雲早山からグループと別れ一人で菊千代谷に沿って下りてきたことを「引っかき傷を見ながら、よくもまあ無事に帰ってきたものだと安心したり感心したりした。」と述べています。また、「ニクブチ谷」に関する記述もあります。ニクブチ谷は非常に険しく、ニク(カモシカ)やツキノワグマが多く生息し、独り歩きは要注意と書かれています。本書が書かれた当時はまだツキノワグマが多少は目撃されていたのでしょうか?

 晩夏のスーパー林道で私。

 初冬のスーパー林道。霧氷がきれいでした。当時はゲートがなく、冬でも進入できました。

 もちろん、平家伝説もありますが、日本各地の伝承と重複しますのでここでは割愛します。
 昔話や民話といっても、平家伝説など大昔のものは創作や脚色が多くロマンの域を出ませんが、明治以降のものはある程度想像できますし信憑性も高いので、意外と面白いものです。そのなかから3点。

 スーパー林道の道端で何度かキャンプ
をしました。
 まずは、著者の尊敬する地域の有志・西山栗太郎氏について詳細に書かれています。氏は若い頃イノシシ猟の際、誤って知人に撃たれ左足の太モモから下を失いました。しかし、大正初年のことで、警察へは遠く示談で済ませたそうです。当時の奥山の不便さが伺えます。氏は足を失ってから一念発起して勉強し、知識、見識ともに衆に優れていたようで、代用教員をしたり村長の相談役をしていた時期もあったそうです。また、アマゴ漁が趣味(仕事?)で岩倉から焼山への約8qの山道を松葉杖をついて行き、片足で投網を打ってアマゴを採っていたということです。片足で漁をする西山氏には驚かされますが、渓流狂の私には投網でアマゴが採れていた時代があったことに羨望を感じます。
 次に、前述した焼山(神山町の焼山寺ではない)では終戦後バクチ場があったらしいということです。「神戸から来た男に焼山のことを聞かれた」とか、「焼山では何かが行われているに違いない」とかいう噂があったようです。著者も一度訪れたようですが、とてつもない山奥でヘトヘトに疲れたと書いてあります。
 さらに興味深いのは、その焼山で殺人事件があったことです。昭和19年頃、「焼山の山小屋にいた武岡がおらん。」という噂が広がりました。ちょうどその頃、木屋平村の武岡氏の甥のところへ「宮崎県に出稼ぎに来ているから心配しないように」というハガキが届きました。ところが、甥は「武岡は他県へ出た経験は一度もない。無断で九州まで行くのは妙だ。」と、脇町警察署へ届け出ました。鷲敷署員が猟師の案内で焼山付近を捜索したところ、槍戸川で白骨の一部を発見しました。その後、宮崎県に潜伏していた香川県出身の善生豊という男が捕まり、武岡になりすましていたことを白状しました。善生は前科三犯で、金に困り徳島県の金のありそうな家を物色していたところ、奥山で一人暮らしをしている武岡氏の噂を聞きつけて、山小屋に押し掛け、猟銃で射殺し、現金数十円と三百数十円の貯金通帳と印鑑を盗んで宮崎県へとび、山小屋に潜伏しているところを逮捕されたのです。甥にハガキを出したり、宮崎県にいることをほのめかしたりして、稚拙な犯行の感は否めません。あまり頭の良い男ではなかったのでしょう。

 次郎笈をバックに。これは友人のランクル。

 高ノ瀬峡上流の河原にて。

 スーパー林道開通記念に書かれた本書は、当林道が引き起こすであろう弊害に関する記述はさすがに書いてありませんが、新聞記者の著者らしく、ダムや発電用の取水堰に関しての批評は随所に見られます。旧木沢・木頭村はかつて桃源郷と呼ぶにふさわしい山村でしたが、那賀川の長安口ダム建設に始まる開発により往年の雰囲気が失われたことを嘆いています。特に、発電のために多くの支流・小谷にダムや取水堰を作りトンネルを通してはるか離れた発電所に集めるため、ダムや取水堰下流のかつての名滝・千本滝や新居田の滝などは水量が減ってしまい見る影もなくなったということです。また、長安口ダムの少し下流の小浜大橋の下では、かつて上流からバラ流しされてきた木材をここの大岩で止めて筏に組んで流していたそうです。昭和30年までは那賀川の一大風物詩と言われていた筏流しも、長安口ダムができたせいでいまでは知る人も少なくなったということです。
 このように、奥深い山村でも不便で貧しい生活の中にさまざまなドラマがあったに違いありません。しかし、必死に生きているからこそ、家族の絆も強く、コミュニティーの結束も固く、人々が助け合い、思いやりがあったに違いありません。快適で便利な現代社会で失われた、自然・風俗・人々のつながりに思いをはせるのは単なる私の懐古趣味なのでしょうか。
(出典:「剣山スーパー林道〜沿線の歴史と観光〜」安岡亮一著)