東谷探訪
 2019年2月15日(金)

 私の住む高松市香川町は広い。かつては、香川県香川郡香川町であり、住所に香川が3つもつくのがちょっと自慢だったが、2006年に高松市と合併して香川県高松市香川町となり、現在に至っている。香川町には、浅野・大野・川東・東谷などの区域(かつての大字)があるが、浅野・大野・川東は3・40年前から大きな団地が造られ、高松のベッドタウントとして発展してきた。しかし、最近は全国の古いベッドタウンの例にもれず人口が減少し始めている。
 その香川町の南東隅に『東谷(ひがしたに)』という中山間地がある。アクセスとしては、国道193号線から、①日生ニュータウン内を経由する方法、②鮎滝カントリークラブ前を経由する方法、県道13号(さぬき新道)から、③新池東岸~高松市営葬祭場『やすらぎ荘』を経由する方法、④西植田町の藤尾神社~仏坂峠を経由する方法などがあるが、それほど奥山と言うわけでもなく、田舎道の運転に慣れた人であれば容易にたどり着くことができる。
 さて、今日は平日休暇だ。午前中、家事・雑用をこなし、2ヶ月ぶりの散髪に出掛けた。20代の頃から30年近く通っている散髪屋で、以前は夫婦でやっていたがご主人さんが7・8年前他界したので、今は75歳くらいの奥さん独りで細々とやっている。
 散髪中に、山好き・田舎好きの奥さんといろいろ話をしていると、東谷の甘納豆の話が出た。東谷には、村瀬食品という甘納豆の製造直売所があり、巷で人気があるのだ。
 今日は、午後から空いているので、東谷に甘納豆を買いに行こうとひらめいた。しかし、それだけでは面白くないので、一旦帰宅してネットで東谷の史跡を調べ、下記の史跡や寺社をピックアップした。

『専光寺』『祇園山(旧名:祇王山)』『大杖坂の石地蔵』『平尾八幡神社』『義経神社』

 正午ちょうど出発。最高気温が一桁の予報であったが、狭い山里のため駐車場が懸念されたので、原付バイクで出発。
 まずは、『専光寺』。寒い中、頬をこわばらせながら原付をとばすと、我が家からわずか15分で到着。ここは、平家物語の祇王・祇女が平清盛から逃れて隠遁した地という伝説がある。

 平家の全盛期、平清盛(中央)に侍っていた祇王(右)・祇女(左)の姉妹。

◆平家物語中の祇王・祇女の伝説◆

 野に遊ぶ祇王・祇女姉妹。
 時は平家全盛期、天下は平清盛の掌中にあった。その頃、都で評判の白拍子(水干を着て男舞をする舞女)の名手に、祇王・祇女という姉妹があった。姉の祇王は清盛に寵愛されたので、妹の祇女も世にもてはやされ、母の刀自も立派な家屋に住まわせてもらえるようになり一家は富み栄えた。
 三年が経つ頃、また京都に評判の高い白拍子が一人現れた。加賀国の者で年は16歳、名を仏という。そんな彼女が「自分の舞を見てほしい」と清盛のもとを訪れた。しかし清盛は、「遊女は招かれて参るもの、自ら推参するとは何事だ。そのうえ祇王がいるところへ来るとは許されぬこと。さっさと退出せよ」と追い出そうとした。すると祇王が「そんなにそっけなくお帰しになるのはかわいそうです。同じ白拍子として、他人事とも思えません。ご対面だけでもなさったらいかがですか」ととりなしたので、「そんなにお前が言うのなら」と清盛は仏御前を呼び戻した。
 仏御前の今様も舞もとても見事で、見聞きしていた人はみなびっくりした。清盛もすぐに仏御前に心を移してしまい、仏御前をそばに置こうとした。仏御前は驚いて「追い出されそうになったのを祇王御前のおとりなしにより呼び戻していただいたのに、私を召し置かれるなどとなったら祇王御前に対して気恥ずかしくございます。さっさとお暇をくださいませ」と清盛に申し上げたところ、清盛は、「祇王がいるので遠慮するのであれば、祇王を追い出そう。祇王、さっさと退出せよ」と命じて祇王を追い出してしまった。
 祇王はもとから、いつかは追い出される身であろうことは覚悟していたが、それでもこんなに早く追い出されるとは思ってもみず、せめてもの形見にと、襖に泣く泣く一首の歌を書きつけた。
     「萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草いづれか秋にあはではつべき」
(春に草木が芽をふくように、仏御前が清盛に愛され栄えようとするのも、私が捨てられるのも、しょせんは同じ野辺の草~白拍子~なのだ。どれも秋になって果てるように、誰が清盛にあきられないで終わることがあろうか)
 
 我が家に戻った祇王は、倒れ伏してただ泣いてばかりいた。そのうちに毎月贈られていたお米やお金も止められた。

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 翌年の春、清盛が祇王のところへ使いを出し、「仏御前が寂しそうにしているから、一度こちらへ参り今様をうたい舞も舞って慰めてくれ」と命じた。母の刀自に説得され、祇王は泣く泣く西八条へと赴いた。
 祇王はずっと下手の所に座席を設けて置かれ、悔し涙を袖でおさえた。仏御前はそれを見てあまりにも気の毒に思ったが、清盛に強く止められて何もできなかった。祇王は清盛の言う通りに今様をひとつうたった。
    「仏も昔は凡夫なり 我等も終には仏なり いづれも仏性具せる身を
                      へだつるのみこそかなしけれ」
(仏も昔は凡人であった。我等もしまいには悟りをひらいて仏になれるのだ。そのように誰もが仏になれる性質をもっている身なのに、このように仏(仏御前)と自分を分け隔てするのが、誠に悲しいことだ)
 
 祇王は邸をあとにし、自らの命を絶とうとした。すると妹の祇女も一緒にという。しかし母の刀自に泣く泣く教え諭され、都を出て尼になる決心をした。三人は嵯峨の奥の山里にそまつな庵を造って念仏を唱えて過ごし、一途に後世の幸福を願った。
 春が過ぎ夏が過ぎ、秋の風が吹き始めるころ、ある夜竹の網戸をとんとんとたたく者がある。こんな夜更けにこんな山里にいったい誰であろうと恐れながらも出てみると、そこには仏御前がいた。
 驚く祇王に向かって仏御前は言った。「もとは追い出されるところを祇王御前のおとりなしによって呼び戻されたのに、私だけが残されてしまい本当につらいことでした。祇王御前のふすまの筆の跡を見て、なるほどその通り、いつかは我が身だと思い、祇王御前が今姿を変えてこちらにいらっしゃると聞き、ぜひ私もとこちらに参りました」衣を払いのけた仏御前はすでに尼になっていた。「私の罪を許してください。もし許されるなら、一緒に念仏を唱えて極楽浄土の同じ蓮の上に生まれましょう」と、仏御前がさめざめと涙を流したので、祇王は涙をこらえ、「あなたがこれほど思っておられたとは夢にも知りませんでした。さあ一緒に往生を願いましょう」と迎え入れた。それから四人は同じ所に籠って朝夕一心に往生を願い、本望をとげたということであった。

 専光寺の山門。真宗佛光寺派の寺。
 専光寺の脇にある祇王・祇女の隠遁地を示す石碑。
 その『専光寺』であるが、『祇園山』の山麓の森に隠れるようにして立地する寺院で、想像通り寂しくひなびたたたずまいが、伝説をほうふつとさせる。
 以下に、『専光寺』に伝わる祇王・祇女の伝説を、私の脚色で記してみる。上記の引用文の※※※※※※以下の異聞である。










◆専光寺の祇王・祇女伝説◆
 「仏御前を慰めに参れ」という清盛の再三の命を、自尊心を傷つけるものとして拒み続けた祇王は、ついに脅しにかかった清盛の要請に身の危険を感じ、姉妹ともども親類の縁を頼って讃岐国安原郷下谷(現在の東谷・専光寺の門前辺り)に隠れ住んだ。そして、そこに粗末な庵を結び、尼になって日々念仏修行に明け暮れた。のちに平家が滅びた後、京都に戻り嵯峨の奥の山里(現在の『祇王寺』)で同様な出家生活を送ったということだ。
 後年、祇王・祇女の隠遁地の背後にそびえる山は『祇王山(現在は祇園山)』と呼ばれた。また、仏御前は祇王・祇女のあとを追って東谷まで来て再会を果たしたという伝説もあり、西植田から東谷へ至る山道の途中に『仏坂』という地名が残っている。


 後日、専光寺を再訪した際、ご住職に本堂に入れてもらった。写真はご本尊。

 本堂に安置されている石仏。当寺の伝承では、『祇王・祇女』姉妹の念持仏だったそうだ。

 次は、『祇園山』登山だ。『専光寺』から少し戻ったところの分岐に、登山口を示す消えかかった道しるべがあるが、これを読み解くのはかなり困難だ。まぁ、山道は慣れているので適当にバイクを進め、それらしき場所に到着した。貯水タンクの横で舗装の終わった先に、幅1.5mほどの山道が続いているのでたぶん合っているだろうと、バイクから徒歩に切り替えて、落ち葉の重なる山道を歩き始めた。雑木林や竹藪を縫う静かな山歩きはやはり楽しい。

 消えかかった道しるべ。

 『祇園山』登山口。

 そして、わずか10分ほど歩くと桜や紅葉が植栽され、携帯のアンテナが立ち並ぶ頂上にあっけなく到着。

 久しぶりの里山歩き。

 『祇園山』山頂。

 ネットの情報通り、高松の平野部が一望できた。ここは展望よし、花見にもよし、隠れた穴場だと思った。ひとしきり、景色を楽しんだ後、下山。

 『祇園山』からのぞむ屋島方面。ちょうど飛行機が高松空港へむけて、着陸態勢に入っていた。

 下山後、『大杖(おおつえ)坂の石地蔵』を10年ぶりに再訪。ここは、20代の頃、香川の昔話関連の書籍で読み、塾の生徒と何度か訪れたことがある。この伝説は、書籍が手元にないので記憶に頼るが、たぶん下記のような話だったと思う。

◆大杖坂の石地蔵伝説◆
 昔々、赤坂(私の自宅の近所)に石屋があり、石地蔵を彫っていた。ある日、その石地蔵がしゃべりだし「私を大杖坂に連れて行け、大杖坂に連れて行け」と言う。あまりにしつこく言うので、石屋は仕方なく、粗削りのままの石地蔵を背負って、言われるままに大杖坂に運び、指示された場所に安置した。

 『大杖坂の石地蔵』。伝説通り、粗削りで首が切られている。
 その石地蔵はたいそういたずら好きで、暗くなったころ、通りかかった村人の足元に転がってつまずかせたり、足にしがみついたりして往来の邪魔をしていた。
 ある日、急ぎ足の侍が大杖坂に差し掛かった。石地蔵はいつものようにいたずらを始めたが、その侍は暗闇で何も見えず、そのうえ道に迷っていたので無性に苛立ち、「この化け物め、成敗してやる」と言うなり、やみくもに刀を振り下ろした。すると、「ガチッ」という音とともに、火花が飛び散った。侍はわけも分からず、その場を立ち去ったが、たどりついた先の灯火で刀を照らすと、大きな刃こぼれができていたそうだ。
 翌朝、村人が石地蔵の前を通りかかると、石地蔵の首がなく、その足元に首が転がっているではないか。その村人は「とうとう、やられたか」と苦笑いしながら、石地蔵を我が家へ持ち帰り、首と胴体をつないだ上、元の場所に戻したということだ。
 この石地蔵、これに懲りたのか二度といたずらはしなくなった。しかし、後年どこで噂が立ったのか、童(わらべ)の病をよく直すということで、お参りに来る人が絶えなかったという。

 この石地蔵、伝説の通り粗削りで未完成に見える。首はついているが、以前訪れた時に罰当たりとは思いながらも念のため(笑)首を抜いてみると、見事に胴体と離れ、首と銅をうまく木の棒でつなげるようにしてあった。
 次は、今日の東谷探訪のきっかけとなった、『村瀬食品』へ向かう。あった、あった、道端に無造作に建てられた納屋のような工場が。しかし、ここは意外と人気があり、遠方からでも買いに来る人が多いという。私は、甘納豆2袋(自分用と母親用)と芋納豆1袋(職場の利用者さん用)を購入した。

 『村瀬食品』工場直売所。

 各種豆類やさつま芋に砂糖をまぶして煮詰め、乾燥させたお菓子。発酵食品の納豆とは関係がない。食べ始めるとやめられなくなる。


 『祇園山』頂上直下の広場。
 『村瀬食品』から出ると、すぐ正面に脇道を発見。いくつになっても好奇心旺盛な私は、躊躇なくバイクで進入した。サイドに棚田が続く上り坂を1.5kmほど進むと、先ほど登った『祇園山』の頂上直下の広場に到達。「なぁんだ、歩いて登らなくても来れるんだ」。
 次は、『平尾八幡神社』。一度近くまで行ったものの見当たらなかったので1kmほど戻り、農作業している爺さんに道を尋ねて、やっと到達できた。大きな鎮守の森に囲まれていたため、社殿が見えなかったのだ。訪れてみると、意外に大きな神社で、東谷地区の氏神として、地元の人々が熱心に保存・伝承していることがうかがえる。

 『平尾八幡神社』。

 『平尾八幡』を参拝後、『義経神社』を探すが、バイクで200mほど走るとなんなく発見。

 『義経神社』。


 縁側にあった義経神社の義経の愛馬『太夫黒(たゆうぐろ)』を模した置物。
◆義経神社由緒◆
 当社は宝殿または祈祷所と称していたが、昭和五十六年(1981)より義経神社と改める。当社はもともと佐藤家の先祖十五代宮司幣無太夫馬慶時代に出来た。元暦元年(1185)源平屋島の合戦の折、源氏の大将義経の愛馬太夫黒の病気平癒祈祷全快により、その後、東谷周辺は勿論遠方からも、病気平癒祈祷の依頼者多く東谷氏子及び崇敬者により元和八年(1622)九月社殿を新築、義経をはじめ三神を祀り、祈祷所として、悪病除(狐狸のとりつき)、軍人弾除御守、難病除、家相方位吉凶等、佐藤家秘蔵の祈祷を行ってきたもので現在も続けている。

◆佐藤氏由緒の事◆
 元暦元年(1183)源義経公、平家追伐の為、當国屋島へ御渡海の砌、「太夫黒」と云う御召馬、俄に煩い大いに困らせられ、此馬を祈り生すべき神職の者どもなきやと御尋ねにつき、伊野原の門司植田越後守明光、右瀧居左京を召し連れ、屋島の御陣所に至り、此者西之庄村の神職の由、言上しければ意に祈祷を仕るべき旨、仰せ付けられる。然るに軍中俄の事故、幣をととのえる間もなく馬の「太夫黒」を御陣所の木につなぎ、東に向きし枝を折りて幣の代わりとなし、丹誠抽で祈祷をなしつれば霊験忽ち顕はれ、馬早速全快せり。義経公大いに御感悦ましまし、當座の御褒美として御太刀、御具足等賜り其上、佐藤嗣信の姓を下され、幣為しに祈祷をなせし故、名を幣無太夫。馬早く快くなりし故、辨慶の慶の字を以て名乗りを馬慶と御改め、其上、當国神職の頭を仰付けられるべき由、上意是あり、即ち武蔵坊弁慶の手跡にて、御朱印頂戴仕奉候。仰、神祖より三十一代を経、大職冠藤原鎌足公に至り藤原氏を賜りてより、二十代を経て佐藤氏中奥の祖、馬慶(是 元正元年屋島の戦)馬慶より二十代を経て、現神職幣無太夫となり、天地開闢の始め、神職より惣慶七十一代にして、神職の始めより現幣無太夫迄三十七代、連綿と打続き、由緒歴史に明なり。昔より今に至り幣なくとも祈生する事代々一子相傳うものなり。


 『昭和六十二年度 新嘗祭供御粟献穀田』とあるので、当年、天皇家で行われた『新嘗祭』に献上する粟を作った田んぼを記念したものであろう。
 最後に、帰路、寒さをこらえながらバイクをとばしていると、こんな石碑を見つけ立ち寄った。この田んぼは天皇家の祭祀『新嘗(にいなめ)祭』の昭和六十二年度『粟』献上田だったのだ。
 今年は、新天皇即位の年に行われる新嘗祭である『大嘗(だいじょう)祭』がある。その際、供えられる特に重要な穀物である『米』の献上田は、今年の2~3月に亀卜(きぼく)の占いによって、京都以東から『悠紀斎田(ゆうきさいでん)』、京都以西から『主基(すき)斎田』の2か所が選ばれるのだが、そろそろ決まる時期ではないだろうか。ちなみに、大正天皇即位の際の『主基斎田』はわが県綾川町山田上が選ばれた。

 以上、わずか3時間に渡る東谷探訪だったが、 『祇王・祇女伝説』や『太夫黒伝説』など、私の大好きな『平家物語』にまつわる伝説が脈々と息づいていることに驚きを隠せなかった。また、我が家の近所かつ大して広くもないエリアに、これだけ興味深い史跡や寺社があるとは、まさしく「灯台下暗し」だ。
 「いゃ~、東谷、あなどれない」。