2017/3/25

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8

 
『忘れられない日』

2002年6月、北海道の森を切り開き、
テント暮らししながら 小さ なログを立てました。


ここをこれからの旅の拠点に決めました。





絵を描く旅の始まりは1991年に遡ります。

会社勤めを始め7年、自分の夢がだんだん遠くなって行く気 が・・・。

自分に出来ること…ってなに???

自分のやりたいことは本当にできるの???

学生時代からずっと考えて来たことでした。

でも・・・、

会社を辞めることを考えると不安がつのる。
上手くいかなかったことを考え出すと吐きそうになってくる。

でも・・・
それでも・・・、

やってみたい!

2つの気持ちが頭の中をぐるぐる回るばかりです。


そんな1991年、湾岸戦争が起きました。

やりたいことがあっても出来なくなってしまう、
人生そのものまで奪われてしまう人がたくさんいる。

でも今の僕は、やりたいことが自分で決められる。
そんな場所にいる。


不安はいっぱいだけど
ずっと行きたかった場所に行ってみよう・・・。


1992 年3 月〜1993年3月・1994年3月〜6月

 憧 れ の外国での暮らしを実現させるため、カナダ−・バンクーバーへ

絵で生き て行 けるかもと言う勘違いをさせてくれたのがバンクーバーでした。

そこで 会った エイリーンとバレリー。

彼女達に 自由 に生きると言う意味を教えてもらいました。




1994 年

ヨー ロッパ14カ国62都市の街角の絵を描いて巡る旅へ(90日間)

多くの歴 史上 の名画に出会い、それぞれの街角でス ケッチすることで

その街の 空気 感や生活感を感じれたことが今も創作の源にになっていたりします。

バック パック とスケッチブックと鉛筆1本あれば生きて行けそうな気になってしまう。

そんな” 新た な勘違い”をくれたのもヨーロッパの街角で出会った人達です。




1994 年〜1995年

京 都・ 聖護院、築100年以上の町屋の3畳間に下宿

ニュー ヨーク に立つ前に、どれだけお金を使わずに絵を描きながら1年を過ごせるか?

挑戦して みま した。光熱費すべて込みで月1万5千円!!!食費は月1万円也

トイレ・ 炊事 場はもちろん共同、電話は大家さんの電話に掛かってきた分だけなので0円です。

下宿仲間 の中 国からきた京大の先生は炊事場のシンクで夏は行水してました!!!

年間約 30万 円の豊か?な生活を体験できました。




1995 年〜1997年

THE ART STUENTS LEAGUE OF NEW YORK 留学へ

やっと憧 れて いたニューヨークにたどりつきました。

毎日 MOMA とメトロポリタン美術館へ通い

ピカソ、 マチ ス、シャガール、クレー、モネ、ルソーにブリューゲル

大好きな 作品 の前で何時間もただ見つめていました。

今は会え ない 画家たちの何かを感じたくて通いました。


出会った 多く の人は年齢に関係なく絵を中心に生きていました。

成功す る、し ないにも関係なく、何か1つに人生をかけるのは素敵なことだと

教えても らい ました。




1997 年夏

ヨー ロッパの旅again (60日間)

再びの ヨー ロッパ・バックパッカーの旅です。

前回は YHを 泊まり歩きましたが、今回はペンションを中心に回りました。

ほとんど が5 ドル〜10ドルで泊まれる普通の民家の部屋で泊まるので

そこの暮 らし を肌で感じれます。一瞬ですが泊まると言うより”住んでる”感じがします。

ヘンテコ な日 本人を泊めてくれた方々に感謝です。




2002 年

こ れか ら自分が絵を描いて行く場所・・・どこで暮らしながら絵を描いてゆくか・・・。

バンクー バー かスペインか?ポルトガルか、南仏か?と迷っているところに

あるきっ かけ で浮かんできた”北海道”

もとをた どれ ばバンクーバで出会ったネイティブ・カナディアンのバレリーが

くれた言 葉で す。


『自 分 の居場所を自分で作りなさい!そこをHomeにしてまた旅に出ればいい。

自 分の 居場所は誰も与えてくれないわ。』


自分の住 んで いた土地を追われた過去の経験からの言葉でした。


自分の場 所を 見つけ、テント生活をしながら自分たちで家を建て、

そこで暮 らし ながら、絵を描いていく。

そんな思 いで ここでの暮らしが始まりました。




2015 年夏

絵 を描 く旅はまだ道半ばにもかかわらず・・・。

突然、慢 性骨 髄性白血病と言う新たな旅も同時進行すること になりました!




2016 年

い まだ 不安と吐き気を抱えながらも・・・。

まだま だ”途 方に暮れそうな旅”はやめられません!



 


2016/10/11

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7

 
 いつも創作活動とともに
北海道での山の暮らしも応援して下さっている皆さんへ


今年も11 月3日(文化の日)より
大阪・南森町の八番館画廊で
作品展を開催して頂けることとなりました!

昨年は突然のことで大変ご心配をお 掛けしましたが、
たくさんの方からの応援、本当にありがとうございました。
今年は旧作も含め2016年の新作も見て頂けます。


自分にしか描けない絵ってどんなだろうと・・・
探し始めてもうすぐ25年がたとうとしています。
昨年、大きな病気をして今まで見えなかったものが
見えるようになるのかと思いましたが・・・、
実際は…ぼんやりとしか見えていなかった物の
輪郭がはっきりしてきて・・・。
今まではそこに無かった小さな種のようなものが
現れました。その種がこれから絵の中でどう成長するのか…。

これまで応援し続けて下さった方々はもちろん、今回初めて
絵を見て頂ける方にも”これからの絵”を楽しみにして
頂ければと願っております。

中村彰宏


 



2015/9/30

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6

 
 いつも創作活動とともに
北海道での山の暮らしも応援して下さっている皆さんへ



 お元気ですか?
いつも変わらず応援して頂き本当に感謝の気持ちでいっぱい です。
ありがとうございます!
 
今年は年明けから新しいテーマにも精力的に取り組んで
創作活動に当たっていましたが…実は夏に突然体調を崩し、 入院・療養して
いました。いつも応援して下さっている方々にはもっと早く にご報告すべき
ところ遅くなって申訳ありません。

現在は退院して自宅で服薬治療を続けています。
闘病と言うと苦しい感じですが、現状は…病気と共生してい ける
状態を探しているという感じです。
共生してゆく相手は…『慢性骨髄性白血病』です。

なんとも重いショッキングな病名だったので、どの段階で報 告したら良いのか
かなり悩んでいました。いつもなら秋の作品展の話題を
BlogやWEBでお知らせをする頃なのに出来ずにいまし たが、
「もうそろそろお知らせしておかないと…」と思い今日にな りました。

私自身がその病名を知ったのは、救急車で搬送される途中、
救命救急士が病院へ連絡している会話の中でした。
どこか他人事のような気がしていたのが正直な感想です。

当初、極度の貧血と基準値より二桁以上ある白血球の数値か ら
慢性骨髄性白血病の病状の中でも危険な状態の疑いもあった ので、
検査の結果がでるまでは先のことは考えられない状態でした が、
幸いにも信頼できる主治医とも出会うことができ
病状も『慢性期』と言う薬による治療の出来る段階でした。

この慢性骨髄性白血病の『慢性期』の病状は
10年前なら大半が骨髄移植も視野に入れながらの治療だっ たようですが、
今は革新的な薬が開発されて、その薬との相性がよければ
かなり自由な生活が出来るまでの病気になってきています。

この病気の発症の原因は遺伝子・染色体の突然変異で
この突然変異した染色体が癌化した白血球を作る命令を出し 続けることです。
ただ、なぜその突然変異が起こるのかは今もなお解明されて いないそうです。

薬の副作用はありとあらゆるものが上げられているので
その副作用が出ないことを祈りながらの治療になりますが、
入院中に大きな山は越えていますので『生きる』強い気持ち で一杯です。
今は、山の中の自宅で「よく寝て、よく食べて」を心がけ、
頂いている絵の仕事をしながらの生活ができています。

たくさんの方々にご心配をお掛けすることになりますが、
この先にある"復活展"を楽しみにその日をお待ち頂ければ と思っています。
そして
最初のお知らせがこのWEB上であったことをお許し下さ い。

 
私自身ショックでしたが、健康な状態では経験できないこと や思いを得られたのも事実で、
絵を描くことを仕事にしている以上、その経験や思いから出 てくる何かが
見つけられそうな気がしています。

『生かしてもらっている』という意識とともに、『生きてい る』と意識が
今まで以上に強くなったのも事実です。
そんな思いで自分自身もこれからの創作活動を楽しみにして います。

いつもお世話になっている大阪・南森町の八番館画廊のオー ナーから
勇気の出る言葉を頂きました。
『人は病気では死なない、寿命で死ぬんだ』
自分の寿命を全うできるように頑張ります!

これからも何かを伝えられる絵を描いていけたらと思ってい ますので
ご心配お掛けしますが、今後とも応援よろしくお願い致しま す。
 




2012/10/20

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annual exhibition 2012 at Hachibankan Gallery

 
何を勘違いしたのか絵を描き始めて今年で20年が過ぎました。
偶然か必然か、これまで縁あって出会った方々のお陰で辞めずにやってこれたことは間違いありません。このままでいいのか?大 丈夫か?何をしてんるんだろう?と自問自答することは今でもあります。ただ、いつも思い出すのは絵を描き始めた時の思いと、 出会った人や友人から掛けられた言葉です。もしかしたら何気に掛けてくれた言葉なのかも知れませんが今も絵を続けられる素に なっています。
未だに、どこにたどり着くのかまったくわかりません。今は北海道の森の中ですが…これから先、また何かを求めて何処かへ流れ て行きたいと思った時に、その気持に素直に向き合える自分でいたいと思っています。そんな思いも込めた20年目の作品展で す。

本年も11月18日(日曜日)より八番館画廊(大阪・南 森町)でスタートです。

お近くにお寄りの際は是非お立ち寄りください。

 

 

 

 

 

2012/04/11

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東北にお友達がおられる方へ・・・

★2012年のポストカードを作 りました

 

 

 

 

2011/08/03

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新たなる挑 戦・・・それとも・・・。

来年の6月で、この森を切り開いてログ を立て住み始めてから10周年になります。そしてまたその先の10年が始まります。ブログのプロフィー ルにも書いたことがありますが1991年にそれまで勤めていた会社を辞める大きなきっかけがありまし た。湾岸戦争でした。それから20年。そして今年の大震災です。どちらの出来事も生きている者の責任を 感じないではいられません。“生きている人が頑張らないといけない”と思います。でも、その半面そんな に頑張り続けられるのかって思うことがあります。原発のその後はこれから何十年単位のようです。実際に その不安と何十年の間付き合わなければならない人がいます。そんな人達に“頑張って”と言えるでしょう か…。北海道の山間部の吹雪は、耐えられることのできる“最大の命の危険”と僕らは呼んでいます。天気 が急変して、町から家にたどり着く前に雪に埋もれてしまう危険があるからです。でもそれは一時のもの で、それを乗り切ればまた素晴らしく美しい真っ白な日々がやってきます。しかし、今回の原発は違いま す。限りなく終わりの無い戦いに感じてしまう今回の事故をどうやって乗り越えて行くのか…。しかも、そ こに住んでいる人、そこから避難し続けている人が現実にいることを思う時、自分の生き方さえ何かこのま まで良いのかと自問自答します。答えが何十年経たないと出ない問題を抱えてしまった現実が切ないです。

どう生きれば良いのか、何をもって“頑張った”と言って良いのか…努力し続けることでしか未来がないの か…そんな現代で良いのか…それをこれからの10年、常に心のどこかに留めておかないといけない気がし ています。 

 

 

 

 

2011/07/20

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★東北にお友達がおら れる方へ・・・

★お見舞い用のポスト カードを作りました

 

 

 

 

2011/07/19

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