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甲州街道を歩く( 09: 小仏峠越え)(東京都八王子市)  7km  2020.11.8




(写真は、小仏峠からの下り坂)

 

「小仏宿」は、一つ手前の駒木野宿との「合宿(がっしゅく)」で、本陣と脇本陣が無く、問屋1、旅籠11軒でした。

二つ以上の宿で、一つの宿の機能を持つ宿を「合宿」と言い、甲州街道は、山あいの小規模な宿が多かったため「合宿(あいじゅく)」が
多くありました。

小仏宿は合宿なので、宿場としての業務は月初から15日迄で、16日から月末は一つ手前の「駒木野宿」が担っていました。

ただ、駒木野宿と異なり、小仏宿は、甲州街道の最大の難所である「小仏峠」を控えていたので、宿泊客で賑わいました。

 



清流の小仏川に沿って、緩やかな坂道を上って行くと、やがて、赤レンガ造りのJR中央本線ガードをくぐり、小仏宿に入ります。





小仏宿は、急坂沿いの宿場町で、宿場に沿って、左手に小仏川の清流が流れています。 



下の写真中央の石垣が、名主の「鈴木藤右衛門」が営む旅籠があった場所ですが、石垣の上の生垣から少しだけ「明治天皇御小休止場」の
碑が頭を出しています。(写真の赤色矢印の部分)



現在は、僅かな人家が残るのみの「小仏宿」を後にして進み、右手の高尾変電所を過ぎると、路線バスの終点の「小仏バス停」が
あります。 



大勢のハイカーがここで降車しています。



ハイカーのグループに前後を囲まれながら、緩やかな坂道を上って行くと、やがて、「宝珠寺」(ほうしゅうじ)がありました。 





宝珠寺の参道口には、上の写真の「馬頭観世音菩薩」の大きな文字塔があり、その台石には、下の写真の様に「小佛宿」と刻まれています。



かつては、この辺りまで「小仏宿」が続いていたらしいです。



宝珠寺から更に進むと、その先に「車止め」があり、舗装道路はここ迄です。



車止めの先の土の道が、小仏峠の東登り口で、Y字路を左に進みます。



Y字路を右に進むと、「景信山(かげのぶやま)」の登山道ですが、このルートは閉鎖されていました。











急な坂で、息が上がります。



小仏宿から小仏峠への甲州街道は、九十九折(つづらおり)の急坂が続く峠道です。  



これまでの日光街道も奥州街道も平地だったので、急な山道を歩くのは、中山道踏破以来で7年振りです。

歳のせいか、バランスを崩してフラフラします。

こんなハズでは・・・



中山道踏破のときの峠越えに比べれば、小仏峠越えは楽勝のハズなのですが・・・

(中山道踏破のときの碓氷峠越え、和田峠越え、十三峠越えについては、各々「中山道を歩く :碓氷峠」、「同左・和田峠」、「同左・十三峠」を
見てね。)



息を弾ませながら、必死で樹間の急坂を上ります。

もう無理〜、一休みしないと。 

木の根っこに座って休んでいると、若いハイカーのグループが追い越して行きました・・・









力を振り絞って、歩いて行くと、意外に早く小仏峠の頂上が見えてきました!



頂上のベンチで一休みして、早朝にコンビニで買ったオニギリを食べます。



小仏峠は、地理的には、東京都八王子市の裏高尾町と、神奈川県相模原市の緑区の境界に位置しています。

小仏峠の地名の由来は、ここに小さな仏様が祀られていたことによるのだそうです。

また、小仏峠は、多摩川水系と相模川水系の分水嶺でもあります。



木々の合間から、新宿の高層ビル群でしょうか?、都心の風景が微かに霞んでみえます。

当初は、小仏峠の頂上に「関所」が設けられましたが、後に、小仏宿の一つ手前の「駒木野宿」に移されました。



写真は、頂上ににある「地蔵尊と庚申塔」です。







また、何故か、山頂には陶器の狸が3匹います。

頂上のベンチで一休みしたあと、頂上周辺を散策します。



上の写真は、朽ち果てた「青木茶屋」の跡です。



その横には上の写真の「三条実美歌碑」が建っていました。



「来てみれば 蚕飼ひ機織り いとまなし 甲斐のたび路の 野のべやまのべ」と、多摩や甲州が、養蚕、製糸、織物業で賑わう様子を
詠った句が刻まれています。


その隣りには、上の写真の「峠の地蔵」と、下の写真の「明治天皇小佛峠御小休所趾及御野立所碑」が建っています。





上の写真は、1795年建立の「高尾山道標」です。

この高尾山道標を左手に進むと、高尾山へ向かうハイキングコースで、旧甲州街道は、この高尾山道標の右手の坂道を下って行きます。

大勢のハイカー達は、皆、左手の高尾山へのコースへ向かいます。

右手の旧甲州街道へのコースへ向かうのは、取り敢えずは、私だけみたいです・・・



何か心細いなあ〜・・・



でも、旧甲州街道は、思ったよりも、甲州古道の道標が整備されているので、少し不安が和らぎました。



(甲州道中標柱)

急な坂道を、勢いよくどんどん下って行きます。 

中山道以来7年振りの急な山道で、膝がガクカクします。


















股関節炎の再発が心配です・・・

濡れ落ち葉に足を取られ、バランスを崩して、フラフラと思い切り尻もちをついてしまいました!

痛っ!

こんなハズでは・・・










それでも、急な坂道を勢いよくどんどん下って行くと、少し上空が開けて送電線の鉄塔の下に出ました。  



何の表示もありませんが、地図を見ると、この辺りが「中峠茶屋」の跡らしいです。















やがて、土の道がコンクリートの階段になり、舗装路に合流しました。



小仏峠の西登り口の標識があります。

「甲州道中標柱」の標識があり、「底沢バス停1.7キロ  相模湖駅3.7キロ」とあります。



この合流点を、上の写真の様に、ヘアピン状に、右に回り込んで、坂を下りて行きます。 





う〜ん、上の写真の様に、この道の先では大規模な工事で行き止まり?

何とか、工事現場の前を抜けられました・・・





左右にくねる甲州街道を進み、中央自動車道の高架をくぐります。



やがて、甲州街道はT字路に突き当たります。



T字路の解説版によると、浄瑠璃や歌舞伎の「小栗判官と照手姫」で知られている「照手姫」は、ここ小仏峠の麓の「美女谷」の生まれで、
その美貌が地名の由来だそうです。



照手姫の父は、北面の武士でしたが、不幸にも両親が相次いで死去、その後、美女谷を出た照手姫は、数奇な運命を辿り、東海道の
藤沢宿で「小栗判官」と劇的な出会いをして、常陸の小栗城で末永く幸せに暮したそうです。



旧甲州街道は、このT字路を左折し、美女谷川を美女谷橋で渡ります。





次に、中央自動車道の高架をくぐりますが、その高架の橋脚の手前の大きな石の上に、写真の明治16年建立の「馬頭観世音文字塔」が
ありました。

更に、JR中央本線に沿って進んで行きます。



旧甲州街道は、上の写真のJR中央本線の長久保のガードをくぐりますが、地図によると、このガードの手前に、「小原の一里塚跡」が
あるはずなのですが?・・・

う〜ん、無いなあ〜・・

あっ!倒壊した家の脇に、「小原の一里塚跡」の案内板の切れ端が・・・



ありました。

日本橋から15里目(60キロ)です。





長久保のガードをくぐり、突当りのT字路を右折します。





底沢に沿って下ると、国道20号線に突き当たり右折します。

ここに下の写真の「照手姫」の説明版と、その下に「相模湖駅へ  底沢バス停300メートル」の道標がありました。





このT字路の左手の上の写真の底沢橋の脇に、「相模湖駅2キロ」の看板もありました。



 上の写真の底沢バス停を通過します。

あと一息で、次の「小原宿」です。

頑張って国道20号線を進みます。



小原宿の入口の上の写真の「小原の郷」が見えて来ました。


小仏宿から小原宿まで約7キロです。

 

 




 

 



08:駒木野へ

10:小原へ


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