![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/ad/ebcf52202afc3e2eab0db677669ab384.jpg)
(写真は、薩摩街道沿いの「松崎宿」の旅籠「油屋」)
先月、福岡在住の知人に久し振りに会うために、福岡のホテルに2泊したときの話の続きです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/airplane2.gif)
中州の歓楽街で飲み明かした翌朝に、福岡のホテルから薩摩街道の「松崎宿」(福岡県小郡市)
へ行ってみました。![](cars_train14.gif)
博多駅から、鹿児島本線に乗って、基山(きやま)駅で下車、そこから甘木鉄道に乗り換えて、
松崎駅で下車します。![](cars_train14.gif)
JR博多駅 → (鹿児島本線) → 基山駅 → (甘木鉄道) → 松崎駅![](cars_train14.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/32/3a3ea10ab834f2fd6f96597c5bf6c274.jpg)
(博多駅)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/97/218070c28c56c0b1109c021ec333a78e.jpg)
(基山駅)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/29/959e3a6d43e1bd0f68f3aa5225f4750b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/70/4d73082541a551a8b099a261674e987b.jpg)
江戸時代の「松崎宿」は、薩摩街道沿いの宿場町として大変栄えました。
宿場内には、現在でも、「旅籠・油屋」や、宿場の入口に位置する「構口(かまえぐち)」と
「枡形」など、当時の面影を残す遺構が残っています。![](m_0140.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/84/1504af9bcf56a7c52de243e095f2b783.jpg)
甘木鉄道の松崎駅で下車します。![](cars_train14.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/2d/6030853ec43025a76137fe83d4cfd497.jpg)
松崎駅前から、宿場町だった「松崎町」の中心部を目指して歩いて行きます。![](body_walk.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/b4/fe291d69431bccf5a6fcd90295290213.jpg)
松崎町の小道に入ると、上の写真の「北構口」(きたかまえぐち)跡がありました。![](kuri_312.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/fd/e7627c74881976190af3f65a1471fdd2.jpg)
「北構口」は、宿場の入口にある、高さ2メートル、縦横4メートルの石塁です。![](m_0151.gif)
説明板によると、江戸時代には、この石塁の上に、物見櫓を備えた構口(かまえぐち)を設け、
番士が宿場への出入監視と警備にあたっていたそうです。![](m_0151.gif)
松崎宿は、ここ久留米藩の領内では一番北にあり、隣国の筑前国への出入口だったので、
重視されていたようです。![](m_0151.gif)
北構口を抜けると、すぐに、「枡形」と呼ばれる道の構造が残っています。![](m_0140.gif)
枡形は、下の写真の様に、道をわざと直角に曲げ、敵が侵入してきたときに、容易に宿場内を
通り抜けられないようにしたものです。![](m_0151.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/ab/d14805e26d5fda33b4e19774de8a3938.jpg)
枡形の角に、上の写真の松崎宿歴史資料館がありましたが、残念ながら閉館中でした。![](m_0211.gif)
枡形を抜けて、県道に出ると、直ぐに、下の写真の「旅籠 油屋」がありました。![](cat_416.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/3e/3f0f2ef7a4a5472dc3f8f0a0f7b7254e.jpg)
中に入ると、ボランティアのおばさんが詳しく丁寧に説明してくれました。![](m_0140.gif)
油屋は、江戸時代後期に建てられた大型の旅籠建築で、上の写真の右手が「主屋」、
左手の門が「座敷」への入口です。![](kuri_312.gif)
「主屋」には一般の旅人を、「座敷」は武士などを泊めていたそうです。![](m_0151.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/e1/11076fb9e51477d957037fe168430147.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/19/a2c0ce497a487f662fc2dcb3af23d532.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/73/f10834f1e8da82cc917864948485c764.jpg)
街道歩きで、多くの旅籠を見て来ましたが、油屋の様に、武士と一般人の入口が別々の旅籠は
初めて見ました。
![](cat_523.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/2e/be8248e863eee32e1e62e8107601afc7.jpg)
上の写真が、座敷へ入る武士の入口の門で、下の写真が武士が宿泊する1階の座敷ですが、
立派な欄間が付いています。![](m_0140.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/e4/eeb6850353cbb2971b3f8929b24a9bfa.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/5c/6c92163e4b5e3246a885622a6fd2ffb3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/a5/0395a9b1f7e571b67bebc0389d4dc5e8.jpg)
下の写真が、一般の旅人が宿泊する主屋の2階の相部屋です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/6c/af04aa75c19e46fcf0ea33089f5370a9.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/03/5d9c6b5a145c43ce317ebd4237024efa.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/ed/ebb614c2e93cc0844db628c7bef63eea.jpg)
上の写真は、板の間の和釘です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/a7/7033c4107a7c16b7447f552373d33882.jpg)
油屋を出て、松崎宿を歩いて行くと、かなり朽ちているものの、旅籠建築の雰囲気を残す
上の写真の「旅籠・鶴小屋」が残っていました。![](body_walk.gif)
![](kuri_58.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/89/e002d4ba10b034f3f44424308e729886.jpg)
また、上の写真の敷地には、藩主が休憩に使用したという「松崎宿本陣(お茶屋)」の説明板が
立っていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/16/9d260740f6c207093cb0b570846552b5.jpg)
更に、宿場町の各町内には、上の写真の様な商売繁盛の恵比寿様が祀られています。![](m_0140.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/95/69da02949807c36e127b5d5dc4ca3a01.jpg)
薩摩街道沿いの上の写真の「桜の馬場」の先には、下の写真の「松崎城」跡があります。![](kuri_312.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/0a/dd6af2fa99fe37db309b96063de8be7b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/82/7734da6abce5b6991be4e86e5fdd33bc.jpg)
松崎城跡は、現在は、下の写真の三井高校になっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/09/79f1a1bd3af3ae89e2a1f66ee1b05179.jpg)
松崎の町は、僅かに17年の間だけ城下町でした。![](kuri_312.gif)
1668年、久留米藩の初代藩主の有馬豊氏の外孫の豊範に1万石の領地が与えらました。![](m_0151.gif)
これにより、松崎の町に、久留米藩の支藩の「松崎藩」が置かれました。
現在、松崎宿に残る馬場や枡形(ますがた)は、このときの城下町の名残りです。![](cat_416.gif)
しかし、17年後、豊範の「松崎藩」は、御家騒動が原因で改易となり、領地は久留米藩に
還付されました。![](m_0211.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/01/121221b50d384a4763f977f5d12aee9b.jpg)
松崎宿の南の端まで歩いて来たら、写真の「南構口」(みなみかまえくち)がありました。![](body_walk.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/d0/e8c25ed33cc10305f1aa4a9151a78ca9.jpg)
松崎宿は、ここで終わりです。
旧宿場「松崎」の町を出て、甘木鉄道の線路を越えて、松崎駅の北側にある「霊鷲寺」
(りょうじゅうじ)へ歩いて行きます。![](body_walk.gif)
(松崎宿から徒歩約20分)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/b2/1c9ca6befcbb2f5e22a10a3684b16d30.jpg)
「霊鷲寺」は、勅願寺(注)という格式の高い寺院であるため、参勤交代のとき薩摩街道を通る
諸大名も、この寺院の前では籠や馬から下り、拝礼してから通過したといわれています。
![](cat_523.gif)
(注)勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇の発願により、国家鎮護などを祈願して創建された寺
のことで、勅願寺になれば寺領が得られた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/19/f18fb9391e538b8f126f1de26bfdfb9c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/42/ff53a62c3dbb604859683ae916bca633.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/66/e3e646d136ab29ad57ed6d0131488e0a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/78/3b0882e19603ab66e8ca02939c914d83.jpg)
(境内にある久留米藩の家老だった稲次因幡守正誠の墓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/31/b2b09dd74b47855c7dfb1170cb7bd469.jpg)