本文へジャンプ
日光街道を歩く(08:中田) 茨城県古河市


g 
(写真は「中田の松原」)




利根川に架かる利根川大橋を渡って、堤防を下り切った角に、「房川渡し(ぼうせんわたし)と中田関所跡」の
説明板がありました。

しかし、文字の色があせてしまって読めません・・・


仕方なく、私の手元の案内書を見てみると、中田宿は、大正・昭和期に、利根川の大河川改修が行れた際に、
宿場町の位置が、利根川橋の河川敷の辺りになってしまいました。

従って、江戸時代の中田宿は、現在の河原と土手の下に埋没してしまっており、現在の旧日光街道沿いには、
江戸時代の宿場の痕跡は何も残っていません。


暫く歩くと、左手に写真の「鶴峯八幡神社」がありました。


その神社の隣りに、静御前ゆかりの「光了寺」があります。

門前に、「祖師聖人 並 靜女舊 跡」の石碑が建っていました。


境内の案内板によると、静御前は、源義経のあとを追って、奥州平泉へ向かう途中で義経の死を知り、光了寺
(高柳寺)に入って菩提を弔います。

しかし、22才の若さで、ここ光了寺亡くなりました。
そのため、この寺には、静御前の遺品が現在も保存されているそうです。

その遺品の一つが、「蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣(ぶえ)」で、 後鳥羽院に与えられて、静御前がその
御衣で舞ったそうです。

ただし、残念ながら、その舞衣は一般公開されておらず、しかも800年も前の衣装なので、現在、どの様な
状況で保存されているのかは不明です。

また境内には、写真の芭蕉句碑が建っています。

 ”いかめしき 音やあられの ひのき笠”

 (ぱらぱらと大きな音をたてて檜木笠を打つ、この霰の音のなんといかめしいことよ。)

光了寺を出て、古河市立第四小学校を右手に見ながら、更に進んで、東北本線の踏切を渡ります。



やがて、旧日光街道の両側に松並木が始まり、案内板が立っていました。

それによると、この松並木は、江戸時代には「中田の松原」と呼ばれ、次の古河宿の入口まで約4キロも
続いていたそうです。

また、徳川秀忠が日光社参の際に、ここに御茶屋を設けたので、この辺りを「茶屋新田」といい、中田宿の
高札場もこの辺りにあったそうです。


その茶屋新田を抜けると、やがて右からの道と合流するところに、第二高等学校の長い石垣が見えます。

その高校の運動場の白い柵の中に、ちょっと見辛いですが、上の写真の「古河の一里塚」跡がありました。

第二高等学校の先を少し歩くと、旧日光街道は突き当り右折します。




その右折する右側の角に「古河宿」と書かれた常夜灯がありました。

ここが古河宿の入口です。

中田宿から古河宿までは、約6キロです。

ps.
中田宿の痕跡は、文字の色があせてしまって読めない「房川渡しと中田関所跡」の説明板だけしか
なかったので、今回は、宿場町についてのブログのネタがありません・・・

そう言う訳で、ブログのスペースが余ってしまったので、余談ですが、この日光街道歩きの案内書
について書いてみます。

私が使用しているのは、「日光街道を歩く」(大利一郎:創英社/三省堂書店:1,800円)です。
名所旧跡の解説は、分かり易く、ボリュームも適量です。

ただ、出版された時から時間が経っているため、多少、記載内容が変化していますが、これは
仕方のないところでしょう。

また、地図が大まか過ぎて、地図上の距離感が実感と合わないので苦労していますが、そうは
言っても、これが原因で道に迷うところまではいきません。

全体としては、よくまとまっているので、必携のガイドブックだと思っています。