とあるサイボーグの終焉
「これが報告書です。受理願います」
公安部特別エージェント、アガワはすでに「処理」した仕事の詳細な報告書を、公安部長に差し出した。公安部長は机の上に置かれた報告書の束を両手でそっと受け取る。
「ご苦労様でした。それで、やはり意向は変わりませんか?」
席を立ち、大事そうに報告書を抱えた公安部長は、アガワの顔色をうかがうように目を向ける。
アガワはちいさくうなずくと、公安部長に顔を向けた。
「はい、もう潮時ではないかと思います。もう、長くやり過ぎました」
「残念です。我が国はあなたに何度助けられたのか。あなたのようなサイボーグエージェントはもう、当分出てこないでしょう」
「すみません、それで...」
公安部長は微笑んだ。
「わかっています。あなたがこの建物を出るのと同時にIDとそれに属するデータは全て抹消します。もうデータベース上からはあなたの痕跡はなくなります」
「ありがとうございます」
「ああ、それと」
公安部長は鍵の付く引き出しから、いくつかの手紙を取り出した。
「今度からはあなたの自宅へ送ってもらうように伝えないといけませんね」
手紙を受け取ったアガワは、すでに検閲され、封の開いた手紙を調べた。差出人を確認するうちにある一つの手紙を見つけると、さっとその手紙を開く。
「ああ」
その手紙を読み終わると、小さく折り、そっと胸に当てた。
「順調なようですね」
「はい」
「成功を祈ります」
「ありがとうございます」
「今までありがとうございました、名残惜しいですが、これで」
アガワは直立不当になって公安部長に敬礼した。
「アガワ、これより退任とさせていただきます。ありがとうございました」
「ご苦労様、退任を許可します」
公安部長がさっと答礼した。
公安部でも彼女の本当の仕事を知るものは10名に満たないといわれる特別エージェント、アガワ。それが本名である可能性は限りなく低い。彼女は敵国政府中枢の諜報や軍事用情報システムの破壊、要人の暗殺などを手がけてきたサイボーグエージェントである。致命的な手傷を負ったことは限りなくあった。もし拘束されれば、彼女や諜報組織の存在を隠蔽するために自爆しなければならない。だが、不思議とそんな状況はぎりぎりで回避してきた。いつ自爆による証拠隠滅を必要としてもおかしくはなかったのだが。
しかし、その日々もこれで終わり。十分すぎるどころか歴代のエージェントの中でも圧倒的な成果を上げて退任することが出来るのは奇跡に近かった。それだけではない。エージェントの仕事は、各国要人との接触や情報収集、そして金を動かせなければつとまらない。彼女には公安を外れてもなお、様々な人脈と金を動かすルートがあった。もちろん、それはその都度作り上げたアガワとは別の名前なのだが。
もし、その気になって国内の人脈を総動員すれば我が国の中枢を乗っ取ることすら可能かもしれない。だから、彼女の存在を知った歴代の公安部長は一様に驚くのである。公安部長の権限など何の役にも立たない優秀なエージェントがいることに。そして彼女が忠実で誠実であること、彼女が自らの部下であることに安堵するのである。
国立生命科学研究所、この研究所は国立と銘打ってはいるが実は彼女の個人資産によって設立された研究所である。医学、生物学の優秀な研究者を集めて、様々な研究成果を上げている最先端の研究所である。その基金は1000億を超える。
小型の国産車に乗ったアガワは地味なスーツ姿でその研究所に現れた。この研究所はちょっとした大学並みの大きさがある。守衛に行き先を告げ、国内の顔の一つである身分証明書を見せると、入構許可証が渡される。それをフロントガラスの下に置き、教えられた建物を目指した。
「こんにちは」
「はい、あっ!!」
数少ない、アガワがオーナーだと知っている顔見知りの受付嬢が、顔色を青くしたり赤くしたりして言葉を飲み込んだ。しかし、この受付嬢もアガワの仕事が何なのかは知らない。
「斉藤三沙子博士は?」
「は、はい、呼びます」
ちょっとあたふたしながら電話をあちこちに繋ぐ。やがて連絡が付いたのか斉藤三沙子が一階に現れた。
「お久しぶりです」
「おひさしぶり、連絡ありがとう」
「いえ、どうも」
少し照れくさそうに三沙子が頭を下げた。
「お時間は」
「大丈夫」
「そうですか、それではこちらへ」
三沙子がエレベータへアガワを案内する。エレベータのドアが閉じると斉藤は、ICカードを差し込んでパスワードを打ち込んだ。表示が消えていた7階のランプが点灯し、三沙子はそれを押した。
「どうぞこちらへ」
白衣の片方のポケットに手を入れて、もう一つの手で三沙子はアガワを案内する。
「この部屋です、何度かお見えになったことありましたっけ?」
「いや、最初の発生の時以来来てないわ」
「そうでしたか、うかつでした、見せなかった方が良かったかもしれません」
「いや、大丈夫よ」
部屋の棚には、10を超えるガラスの透明容器に、ホルマリンで処理された人体標本が並んでいた。その中には発生直後の小指の先ほどの標本から、幼児大の標本までが並んでいる。
「わかっているとおもいますが、」
「発生途中で死んだ個体ね」
「はい」
「残っているのは」
「もう、これが最後です」
三沙子がアルミ合金にガラスがはめ込まれた容器の前に立った。いくつかのスイッチを操作して、明かりを点す。
ふわりと光の中に浮きあがってきたのは、10歳くらいの少女。目を半開きにし、黒目がほんのわずかに見えている。その少女は人工胎盤とへその緒でつながれ、かすかに液体呼吸が水流を作る。小さな泡が少女の顔の前で舞った。
「あなたの個体は」
三沙子は苦笑した。
「残念ながら、発生が進みませんでした。一番長く保ったもので1kg足らずでした」
「そう...残念だったわね」
「いえ...」
小さくため息をついて、三沙子はアガワに向き直って作り笑いを浮かべた。
「いえ、ありがとうございます。いい夢見させてもらいましたよ」
「ん?」
「体を無くした人間が新たな体を培養して、生身に戻ること。考えるだけは考えても、とても実行に移すことは出来なかった。それを失敗とはいえ、挑戦させていただいたことには感謝しています」
「いつかは、これが当たり前のことになるのかもしれないけど」
「はい」
「今は多分、時期尚早...、これを知られたら、殺し合いが始まる」
「でしょうね、当たり前のことにならないと...、どんなことをしてもこの技術が必要な人間はいくらでもいますから。当たり前のことにして良いのかという疑問はありますが」
「そうね」
アガワは少女の個体から離れ、標本を一つ一つ見ていく。
「あなたの個体標本はどこにあるの?」
「処分しました」
「えっ?」
三沙子は窓の外に目を向けた。木々の枝の揺れる様子を見ながら、淡々と言葉を紡ぐ。
「発生が停止した個体は、解剖して停止の原因を調べるサンプルにしました。原因となる臓器とかプレパラートなら残っていますよ、おかげでかなりの部分まで成長を進めることが出来ました」
「ありがとう」
「いえ、自分の他の個体のこともありますので、ただ、最後の個体を解剖するときには少しだけ泣きました」
「......」
アガワは言葉を発しなかった。ただ、三沙子の姿を目で追っていた。
「でも、さすがですね、わずかに残った細胞を胚性幹細胞に培養して、自分の体を作り出す。DNAに問題があれば成長出来ないのに、あなたの個体はここまで成長出来た。奇跡だと思いますよ」
「ええ」
「ただ、問題が...」
三沙子はアガワの方に振り向く。
「なに?」
「さすがにそろそろ成長が止まる兆しが見え始めています。もう、脳を納める頭骨の大きさは十分ですし、足りなければ外科的形成も出来る大きさです。もし、ご希望であれば早めに脳移植を行うことを勧めます」
「そうね」
「よければ、口の堅い脳外科医に連絡をつけますが?、あなたなら秘密を漏らした医者を消すのは造作もないことでしょうけど」
「信用してるわ、でも、ちょっとだけ考えさせて」
「はい」
いくつかに分けられてそれぞれ独立に培養された標本は、元はといえばアガワのわずかに残った細胞から作られたクローンである。いわば彼女の分身と言っても良い。ここに並んだ標本はその失敗の歴史。そして、その失敗を糧にして、他の個体の成長を続けさせていくのである。
アガワは並んでいる標本を一つ一つ見ていった。小指のように小さい胎児でも、すでに人間の形になり始めている。アガワは何か語りかけそうなその胎児を愛おしむように、ガラス容器の上からそっとなでた。
いくつかの胎児を経て、新生児の標本、手をきゅっと握りしめたまま、半開きの柔らかそうな唇。
「ああ」
生きていれば母親の乳房に吸い付いていたのだろうか。
幼児大の標本に移ったところで、アガワはついに顔を背けた。もう正視できない。
(見なければならない、これは、私の行いに対する罰だから)
勇気を振り絞って、幼児の標本を見る。もう、表情が読めてしまう。ほんのりと笑っているような表情のまま、手を開き、何かをつかもうとしているような姿で、じっとガラス容器の中でたたずんでいる。
「ぐっ!!」
「どうしましたか?」
三沙子がアガワの横に立った。
「大丈夫、大丈夫だから」
震える手を不自然に押さえつけながら、アガワは何度も頭を振った。三沙子はその姿を冷ややかに見つめている。
「やはり」
「え、?」
「読めてしまうのですね」
「な、何が?」
三沙子は幼児の標本の前にすわり込んで、視線を合わせた。
「最近、この子たちとつい話をしてしまうんですよ、おはよう、とか、こんにちはって」
「話?」
「ええ、死んだ個体だから、話なんて出来ないはずなのに、でも、この子たちかわいいでしょ」
「......」
「だから、今生きている個体はお姉ちゃんって呼んでます、単なる培養した組織の固まりなのにね」
三沙子はアガワの方へ振り向いた。
「だから、自分の個体は処分してしまいました。毎日顔を合わせることに耐えられないから」
アガワは三沙子の独白を聞いていた。ここから逃げることは容易なことだ。しかし、この標本と顔を合わせたことで、永久に罪の意識からは逃げられまい。
「アガワさん」
「え、」
「悪いことすると、地獄に堕ちるって言いますよね」
「え、ええ」
「多分ですねえ、悪いことすると、生きている間がずっと地獄だと思うんですよ、命をもてあそんだ私は、今地獄に堕ちているような気がするんです、そして、死んで無になって、それから解放されたら、それが天国なんです」
「う、うう」
「やはり、みせなかったほうが良かったですね、すみません」
覚えられないくらいの殺しをしたアガワでさえ、言葉を出せなくなっていた。
「三沙子さん」
「はい」
「この個体は、自力で生きていけるのかしら」
「生きていけると思いますよ、自発呼吸は可能です。10歳くらいの肉体年齢ですが、心は赤ん坊からの成長になってしまうので、育児から始めることになりますけど」
アガワは大きく息を吐いた。生身の体に戻るのは彼女の悲願でもあった。数え切れないくらいに人の命を奪い、なんとしてでも生き延びてきた。それは、ただ、生き物としての生を取り戻すため。
この肉体は彼女の細胞から作り上げた彼女の一部である。しかし、そこに至るまでに死が訪れた個体を見るうちに、それは自分自身とは思えなくなってしまっていた。
手をぎゅっと握りしめる。今までに信じていた人生の全てがここで無駄になるような気がして、猛烈な悲しみが心をぎりぎりと締め上げる。
「はあっ」
アガワは発生が止まって標本となった個体を、もう一度ぐるりと見回した。その一つ一つが、なにかを語りかけているように感じる。その一つ一つと心の中で会話して、それぞれに詫びた。
「ごめんなさい」
返事など無い。しかし、動かない子たちが、うなずいたような気がした。
アガワは三沙子に言った。
「このまま、この子を生まれさせて上げてください」
「そうなる可能性もあると思ってました」
ちっ
かすかな機械音が聞こえた。いやと言うほどに聞き飽きた拳銃の装填の音。
アガワはとっさに身を隠す場所を探す。だが、三沙子の拳銃を持つ手が、震えているのをみて、身を隠すのをやめた。
「どういうつもりなの、そんな慣れない手つきで私をどうにか出来るとでも思っているの?」
三沙子の冷ややかな表情は崩れない。ただ、哀れなくらいに手足ががくがくと震えるのは止めようもない。
「あなたの計画は私の希望だったんです。いつかは生身の体に戻れるかもしれない。そうおもって、個体の死に耐えてきました。生き延びる可能性のない生命を、何度となく生まれさせては殺していく、それはただ、自分がいつか生身の体に戻るため」
「ごめんなさい、きまぐれで」
「それは脳を生身に移植して、生存が可能になるまでは終わらないのです。でもアガワさんは、移植できる個体があるのに移植をやめようというのですよね」
「その通りです」
「多分、この計画は人知れず終わりになるのでしょう?、もし、あなたが脳移植まで研究を進め、成功したならば、私もいつかは生身に戻れるという希望があります。でも、ここで終われば、いつかは戻れるという希望もなく、この先を過ごさなければならない」
「それで、あなたはどうしたいの?」
たん
三沙子は膝をついた。震えながら拳銃を構えた手は、アガワに向かって手を合わせているようにしか見えない。
「お願いです、この研究を続けさせてください、こんな悪魔の研究はあなたがいなくては進められないのです、そうでなければ私は」
三沙子は銃口を自分の頭に向けた。
「もう、無数の自分の死に耐えられません、このまま殺してください」
二人の動きが止まった。じっと見つめるアガワと、震えながら拳銃を持つ三沙子。
「......」
「......」
どのくらいの時間が経ったのだろう。二人はじっと見つめ合ったまま動かない。
かた...かた...
震える三沙子を見つめたまま、アガワは、はあっ、と息を吐く。
「わかったわ」
ゆっくりとアガワが近づいて、三沙子の拳銃をそっとつかんだ。指の先で安全装置をロックして、三沙子の手から拳銃を抜き取る。
「研究を続けなさい、今まで通りにね」
「あ」
「でも、あの子は生まれさせてあげて、あの子は私が引き取るから」
「は、はい」
「そして、条件があるわ」
「なんでしょうか」
「この標本になった個体は全て引き取ります。いいわね」
クローンを引き取ったアガワは、比較的人口の少ない、平和な町に移り住んだ。金のことはそれほど心配する必要はなかったが、いまだに彼女を追う敵がいないとも限らないからである。しかし、それは杞憂に終わった。おそらくは情報を抹消するだけでなく、多くの手を打ってくれたおかげで、彼女の存在の記憶は徐々に薄れてきていた。
そんな中で、クローンとの生活が始まる。
「ああ、もう、おしめ換えたばかりなのにもう、ぐっしょり」
「あむあむしないとたべられないよ、ごっくんして」
「ほら、がんばれ、がんばって歩け」
「じょうず、じょうず、これ、ままなの?」
「ねえ、ねえ、絵本読んで」
「1たす2、は、ほら、この指で1、この指とこの指で、2と3」
「わ、39度、病院あいてるかしら」
「ままはごはん食べないの?」
「家庭教師の先生のいうこと、ちゃんと聞いてね」
「小学校ってなに?」
「ねえ。お母さん、私にはどうしておとうさんいないの」
「今日から施設じゃなくて、小学校よ、何かあったら先生に言いなさい」
「おかあさん、テスト90点だった」
「起きなさい、遅刻するわよ」
「おかあさん、お友達連れてきた、たかしくん」
「よかった、合格したよ、お母さん」
「そんなに遅くまでどこに行っていたの?、たかし君の家?」
「たかし、一緒の大学に行こうね、好きだよっ」
「おかあさん、たかしさんと結婚します」
「生まれました、男の子です」
「孫を見せてくれてありがとう」
「おばあちゃんだよ、お姉さんじゃないのよ、若く見えるけど」
「いらっしゃい、あとで、スイカ切ってあげようね」
数十年の時間が過ぎ、彼女の残された脳も寿命を迎えようとしていた。
「もう、そろそろ頃合いかねえ」
脳の劣化は止まらない。検査をしてもらうと、すでにいくらかの欠損があった。それは脳の一部が死滅していることを意味する。
アガワがクローンを引き取ってから4年後、三沙子が自殺をしたという連絡があった。アガワは三沙子の墓を建て、丁重に弔った。死期を感じたアガワは今、その墓の前に来ている。
「三沙子、まだ、サイボーグが生身に戻ることはできていません。私が夢見て、あなたは命を捧げた、生身への憧れ、それはたどりつけない、いやたどりついてはいけない場所なのかもしれません」
アガワはその墓に花を捧げた。
「でも、私は幸せでした。もうひとりの私は、人間として幸せな生活を送っています、そして、その輪に私が入ることを許された。これ以上ない最高の時間でした」
アガワはその墓の前にひざまずくと、まだ使ったことのないサイボーグ体の一つの機能を起動させる。
自爆装置
しばらく思い出にふけっていた彼女は、やがて穏やかに顔を上げると、言った。
「もう、いくつかの記憶は思い出せません。でも、確かに幸せだった気持ちは絶対に忘れない、これさえあれば地獄でも生きていける。ふふっ、三沙子、あなたは今どこにいるのかしら」
最後の言葉を紡いだ直後、自爆装置が作動した。証拠を残さないように巧妙に組み込まれた自爆装置は、コンピュータのメモリーや彼女の脳を完全に破壊する。
一瞬光が漏れたあと、彼女の上半身は完全に粉砕されていた。
自宅に人気がないことに気づいた近所の住人が連絡し、娘夫婦が到着したのは数日が経ってからであった。遺書を読んで、三沙子の墓にたどり着いたときに残っていたのは、小さな骨壺と破壊されたサイボーグ体。
あのときの標本個体の骨壺が墓の前に丁寧に置かれていた。
そしてそれは、心持ち寂しそうに日の光を浴びていた。