効率の限界

 

 

Stage1 前提条件

 

ぴっ、という音がして、高須恵美の視界に広がるデータが変化した。視界に広がる光点はシミュレーションされた戦場の敵味方の情報であり、その数はおよそ50を越える。小規模戦での戦闘車両や分隊、小隊を表す光点である。彼女は視界に広がる敵味方の状態をすばやく分析し、戦闘状態と脅威度を把握、それぞれの部隊に最も効率の良い配置を命じる。

「戦場状況把握、戦闘評価終了、部隊の再配置を指令」

戦闘状態にある部隊に対し、あるものは後退を、そして別の隊には支援を指示する。それぞれの部隊が持つ車両の機動力、使用する武装の火力と性質を判断し、敵味方が入り混じる混戦状態の中で、適切に自軍の部隊を配置し、最も被害の少ない戦闘へと誘導するのが、彼女の役割である。

 

防衛省技術研究部、ここでは、新しい軍事兵器、戦闘手法、運用システムなどが研究されている。その中のひとつが彼女のかかわっている集中指揮通信システムである。通常の戦闘の場合、指揮系統は大隊から中隊、そして小隊へと縦割りの命令系統で機能する。そして基本的にはそれぞれの部隊の部隊長が指揮権を持ち、部隊単位での戦闘を行うように編成されている。この編成は歩兵を多く抱える普通科を統率するのには有効な構成であるが、それぞれの車両や部隊が高機能化し、単独での運用能力を持ち、かかわる人員が少なくなってきている現在の兵器体系では効率的な運用が難しい。そのため兵器の種類に対してそれぞれの指揮系統があるのが現実である。そこで、それぞれの部隊が持つ機能をより大規模な部隊で共有し、早く適切に配置運用できるシステムの開発が行われているのである。そのためには大規模な部隊群を司令部で一元的に管理し、戦闘の状態に応じて、配置できるような構成にすればよい。いわば全ての部隊が司令部と直結するような構成になれば、指令部旗下の部隊は全て、効率的にコントロールできるわけである。

 

などと、理想論を求めても、現実にはそんなことは出来ない。司令部で一元化するためにはいくつかの問題を解決しなければならない。

 

まず、指揮系統の脆弱性の問題。それぞれが司令部から直接命令を受けている場合、司令部が攻撃されればその下の部隊は崩壊する。これは規模が大きくなればなるほど、被害が大きくなるのは明らかであろう。普通の指揮系統であれば、指揮権限は限定されているから、直下又は同等の指揮官が代理をすることも可能だが、全ての指揮を中央司令部が行えば、そう簡単に周りの部隊が代理をすることは出来なくなる。指揮の専門性が高まれば高まるほど他の部隊の代理は困難となる。軍は基本的に攻撃を受け、消耗することを前提に構成されなければならない。そのために一部が攻撃を受けても、できるだけ影響が少なくなるような構成でなければ役に立たない。

次に規模の問題がある。軍隊は基本的に戦闘部隊や兵器が多ければ多いほど良い。少数精鋭という言葉もあるが、それば仕方なく少数に甘んじているのであり、多数精鋭であればなお良いのは明らかである。ちなみに少数精鋭と多数凡庸ではどちらが良いかは、程度と数によるので一概に言えない。

さらに、専門性の問題がある。現在でも航空機や船舶の指揮は、専門の管制部が行っている。これらの部隊は陸上に比べて機体や船体の数が限定されているのに加え、それぞれの部隊が非常に専門性が高く、特性や運用ルールを理解しなければまともに運用することが事実上不可能だからである。たとえば、護衛艦を直ちに出航などできるはずも無く、必要な装備と乗組員の準備で数日は必要とする。出航したとしても巡航ならばせいぜい20ノット程度であるから、運用のタイムオーダーは日単位となる。航空機にしても、十分な整備を行った待機中の戦闘機を除けば、直ちに稼動状態にもっていくのは不可能に近い。むしろ、航空機の場合は、運用の中では大部分が整備、待機時間であり、作戦行動は全体の中の非常に小さい時間に過ぎない。そしてタイムオーダーは分単位での処理を必要とする。

また、作戦立案に対しても陸上、海上、航空共に考え方が全く違うため、統合幕僚本部による作戦方針のもとにそれぞれが詳細を立案するという手順をとらなければ、事実上立案は不可能である。

 

集中指揮通信システムには以上のような問題がある。これらの問題に対して、多くの軍隊がコンピュータを使用した効率的な指揮システムを模索してきた。研究レベル、試験運用、実践テスト、各国の軍は多くのテストを重ねており、限定的な範囲ながら集中指揮を可能にしている例もある。いま、高須恵美が行っているシミュレーションもその開発の一環であった。ただし、現在のところ陸上自衛隊の運用を中心としたシステムとして構築されており、海上、航空とは、適宜連絡を取り合い、必要に応じて作戦を共有する程度でしかない。海上、航空自衛隊を統合した指揮をおこなうことは、目標としては考えられていても、現在のところ実用的であるとはいえない。

 

直接コンピュータが視覚野に接続された高須恵美の視界には、戦場の敵味方の光点と規模、火力が映し出されている。脳改造を施され、多くの電極を埋め込まれた脳中心部の記憶中枢と後頭部の認識中枢には、意識を向けた部隊の情報が注ぎ込まれる。手動による操作で表示された情報を読むのとは違い、直接イメージとして送り込まれるため、認識に必要な時間は操作も含めれば、一般人のオペレータの10倍以上早い。また、それらの知識がそのまま短期記憶となるため、扱うことの出来る戦闘群の規模はひとつの司令部の限界をはるかに超える。部隊単位で行動する運用体系に対して、戦場全体をひとつの戦闘群として運用し、本来であればあらかじめ計画しておかなければならない作戦計画を、状況に応じてすばやく立案し実行することを可能にするのが、集中指揮通信システムの目的であった。

高須恵美が脳内で操作する部隊運用の状況は外部のモニターにも映し出されている。歩兵であれば小隊、分隊単位、戦車や装甲車両であれば一台単位で表示されている。高須は全ての車両の戦闘状態や地形、残弾を把握する。50もの光点を把握し、次々に指示を出していくため、言葉ではもう表すことは出来ない。

 

「みつけた...」

 

高須恵美は膠着状態の戦場に、ある違和感を見出した。十分に準備され組織された、敵味方の配置。全体の兵力が劣る自軍は慎重に動かなければ分断されてしまう。数で勝る敵軍を切り崩すためには、その隙を狙わなければならない。

高須恵美は、隙ともいえないほんのわずかなほころびをついた。その一矢に対して、敵軍が動いた。彼女はほぼ全ての部隊に指示する。全部隊はそのほころびを押し広げていく。

 

高須から指示が送られ、交戦中の部隊を中心にして、多数の部隊が支援作戦に入る。歩兵同士であれば装甲車両を投入。敵のレーダー妨害を予測して制空権の確保、主力戦車との戦闘には正面戦闘を回避し、後方からの自走砲車両による火力支援。それに対応して敵の自走砲が配置を完了する前に歩兵と装甲車による側面攻撃。同時に航空支援による退却路の分断、通信隊による敵への通信妨害で敵の増援を阻止。装甲車両部隊を敵司令部へ突入させ。これにヘリ部隊が護衛。後退した部隊の補給。

手順を踏んで指示するのではなく、先を読み、全ての部隊を同時に動かす。

「うまくなった...な」

技術研究部の作戦担当の主任研究官、河本博之1尉がうなった。

「彼女はがんばりやさんですよ」

集中指揮通信システムの義体機器担当である女性医務官、原田明子2尉はにこりと笑った。

敵役を務める作戦部の研究員がコンピュータを駆使して5人がかりで対抗するが、通信路を妨害されたところで、実質制御不能。通信を復活させるために新たな部隊を投入するが、守りが堅く、時間がかかる。それぞれ単独部隊で戦闘行為は続くが、新たな指示は出来ず、逆に各個撃破され、実質お手上げの状態であった。

河本はガラスで区切られている敵役の研究員の方を見る。研究員と目が合い、研究員は苦笑いをして両手を上に上げた。おわりか? と手で合図をし、研究員がうなずいたことを確認して、原田へ終了の指示を送る。

「戦闘終了です。高須准尉」

「了解」

コントロールシートの高須恵美が静かに顔を上げた。静かな表情をしていた。感情がないというわけではない。淡々と目の前のやるべきことをこなす、穏やかな表情であった。

 

彼女はギガテックス製の義体を使用した完全義体者である。現在の階級は准尉。防衛省技術研究部の集中指揮計画プログラムにおいて、集中指揮官の運用テストに採用されていた。大規模集中指揮を行う指揮官は多くの情報を扱う必要がある。通常の人間では限界がある情報の入出力では、コンピュータと脳を直結することで通常の人間の10倍以上の情報を扱うことが可能であった。ただしこのシステムは、通常の義体化に加えて、記憶中枢と認識中枢に新たな脳改造を必要とする。    

普通の完全義体者の視覚と体性感覚だけの改造では、通常の人間と扱える情報の量に大差はない。扱える情報の量を増やすためには直接記憶領域に情報を送り込むこと、そして、目からの情報を認識する手間を省いて新たな情報を判断させることが必要である。そこで、その新たな改造を受け入れる被験者が必要であった。もっとも、改造を受け入れたからといってもそれだけでは意味がない。多くの情報を受け入れたとしても、それを計画、作戦運用するための知能、誠実に実行していくための倫理観が無ければ信頼するに足るだけの指揮官にはなりえない。そのため、人選にはかなりの困難があったが、完全義体者の採用を行う段階から適性のある義体者を選び出し、さらにいくつかの調査を得て決定されている。彼女の場合は、他の適性も水準以上であることはもちろんだが、特に作戦運用に対する適性が大きく、計画のかなり早い段階から注目されていた人材である。

 

「おつかれさま、もうでてきていいわよ」

原田のその言葉を聴いてこくりと頭を下げる。その後頭部から背中にかけて、通信用の補助機材がランドセルのように取り付けられている。その機器をぶつけないように注意しながら、そろそろとコントロールシートを降りていく。足を床につけたところで、原田が通信補助機材を後ろから抱えた。かちっ、かちっという止め具の音と共に、その通信補助機材が外されていく。

OK,ちょっとじっとしててね。」

首をちょっとかしげた姿勢のまま、高須恵美はじっと待つ。原田が髪の中に手を入れ、きゅっと大き目のプラグを外すと、通信補助機材は完全に外れた。後頭部にはその大きな穴が見えている。

「よいしょ」

通信機材を床に置き、作業服のポケットから櫛を出す。高須の髪を梳くとプラグの穴が隠れた。高須恵美はじっと最初の姿勢のまま待っている。

「よし、終わったよ」

再びこくりとうなずいて、部屋の隅へ行き、次の指示を待っている。

「向こうが終わったらデブリーフィングするからね。それで今日は終わりよ」

原田が声を掛けると、高須はじっと黙ったまま、初めて微笑を浮かべた。

ガラスの向こうでは頭を抱えるスタッフが1人、怒鳴りあっているのが2人、われ関せずと作業に没頭しているのが数名。

「まだ、向こうがもめてるみたいだから、休んでなさいね」

また、こくりとうなずくと、ベンチに腰掛け、ベンチに置いてある本を取り上げる。その本は“現代戦術理論”という分厚い教本である。その大きな教本をしおりのところから広げ、ひざの上に乗せると黙々と読み出す。

彼女の技術研究部に配置される前の階級は2曹、その頃は戦術理論に準ずる教育は一部しか受けていない。現配属前は通信隊に配属されており、通信業務とその通信機器の維持管理が彼女の業務であった。技術研究部に配置換えの際に急遽、戦術、戦略理論を教育され、集中指揮システムの開発と共に彼女の改造も行われている。

実戦でこのシステムを運用するためには、彼女一人というわけには行かない。すでに2名の集中指揮業務の候補生が新たに教育を受けているし、彼女らの下で補助をする操作員の教育も始まっている。まだシステム自体が実戦を経験していないことと、参考にすべき事例も無いため、教育内容も研究の一環ではある。

全ての指揮を一人に集中するとはいえ、情報収集や交渉、連絡などは一人では行うことは出来ない。今の計画では、これらの補助をするための操作員が5名程度つくことになっている。つまり集中指揮官1名に対し補助操作員5名を1チームとし、3チームが編成される予定になっていた。

 

デブリーフィングに入り、指揮についての問題点などが指摘され、その修正点などが話し合われる。特に今の彼女に期待されているのが、義体通信補助システムを含む集中指揮システムの問題点の洗い出しであった。より効率的な集中指揮システムを運用するためには、最初の集中指揮官候補生によるシステムの改良は、もっとも重要な任務である。

 

「今回、われわれの敗因は航空優勢を維持できなかったことにあります。初期状態では戦線は硬直していましたが、代わりの制空戦闘機を上げるのが遅れたため、戦線の支援機を引かせざるを得ませんでした。そのため」

敵役指揮官の野村は、プロジェクターに指示棒を当てながら、ちらりと高須恵美を見る。

「航空防御が弱くなったことをおそらく見抜かれました。そこを制空機で突かれたため、電子戦機も後退させました。これで地上軍の状況は丸裸となり、先手を取られます、そうですね、高須准尉」

河本1尉がうなずくと、高須恵美に視線を向ける。こくりと高須がうなずくと静かに立ち上がり状況を報告する。

「支援戦闘機による攻撃態勢が解けてレーダー範囲外に消えたため、支援戦闘機の状況を調べました。残弾、燃料共に十分な残量があることを推測されたため、作戦の変更が予測されました。これを確認するため制空戦闘機による挑発を実施。このとき、対抗策をとろうとせず、対応は地上軍の地対空ミサイルと対空機関砲だけだったため、高度を上げ、制空戦闘機の戦線を前進させました。また、この航空優勢を維持する必要があったため、次の交代要員の制空機をスタートさせました。これで」

少し間を空ける。

「電子戦機の電波妨害が薄れて、地上の配置状態が明らかになりました。こちらの配置状態はまた知られていないと予想されたため、装甲車両、歩兵部隊によって支援部隊を撃破し、地上戦闘をこちらの有利な態勢に持ち込むことが出来たことになります。」

頭を上げた高須はかすかに微笑を浮かべた。河本の方に視線を向けると再びこくりと頭を下げ、そっと腰を下ろす。

「うん、まあいいだろう。隙を作ったことと、それを気づかせるような運用をしたのが問題ということだな」

続いて、原田のほうに視線を向ける。

「原田2尉、何か気がついたことはあるか?」

「はい、システムの問題ですが、高須准尉の指示に対して、コンピュータの反応が良すぎるようです。実戦部隊はシミュレーションと違ってすぐに反応できませんし、一定の反応をするはずがありません。戦闘状態の部隊は指示を受け付けられない場合もありますし、指示を間違って解釈する場合もあります。その不確実性をシミュレーションでも取り入れたほうがいいと思います。」

「なるほど、その件は開発チームと話をしてみよう。よし、ほかに何か意見は?」

くるりと河本1尉が回りも見回す。特に返事はない。

「いいかな、それじゃデブリーフィングはこれで終わりとする。それでは解散」

一通りの意見交換が終わると、全員が通常の仕事に戻っていく。高須は戦術、戦略の勉強に戻る。しかし、今日に限っては、彼女は学習室へは戻らなかった。そのまま会談を下り、ロビーに向かっていた。

 

いつもならば、すぐに学習室に戻り、黙々と教本を紐解く高須恵美であったが、今日は建物の入り口付近にかろうじて残されている一台の公衆電話がその行き先であった。携帯電話が当たり前のこのご時世に、あえて残されている公衆電話、今では手入れもあまり行われていない。

高須は作業服のポケットから一掴みの10円玉を取り出し、受話器をとる。電話機に数枚の10円玉を押し込み、慣れた手つきで番号を押した。

呼び出しのわずかな時間、じっと目を閉じ、深呼吸をする。

「もしもし、母さん、わたし、恵美です。」

「うん、お仕事はそれなりに大変だけど、今のところ問題はないよ」

防衛省ということもあり、外部からは掛けづらいため、週に一度の連絡は欠かさないことに決めている。親離れしていないといえばそれまでだが、いくらかの不安が電話という行為を後押しする。

(性格が変わってきているのではないか?)

漠然とした不安が心から離れない。義体医にそのことを話したところ、義体化は脳にとって大きな変化であり、それに適応するためのいくらかの変化はよくあることという答えであった。そのうちに落ち着くということであったが、以前の記憶と照らし合わせても、変化が目立っているように感じる。

このまま性格が変化していってしまえば、自分はどこに行ってしまうのか。そしてそのときには家族とのつながりがなくなってしまうのではないか。そんな恐怖が電話という行為に表れている。今の自分を家族に記憶として残しておきたい。また、性格が変化しても家族の絆は続いてほしい。だから連絡は絶対に欠かさない。これは高須恵美の切実な願いであった。

 

Stage2 ささえるひと

 

駅前の喧騒が広がる中、高須はあらかじめ聞いていたオブジェの前で待っていた。いつもの作業服とは違い、本来の年齢にあっているはずのカジュアルな服装は、彼女のしぐさのためか、若干低年齢に見られるようである。巫女のような雰囲気を漂わせながら静かに待ち続ける彼女の姿には、気になる通行人も多く、ほほえましい視線を与えながら通りすぎていく。いわゆる癒し系かもしれない。

何人かの若者が声を掛けようと隙を狙っているらしいが、そんな気は全く無く、視線を合わせようともしないので、やがて離れていく、そんな繰り返しである。何人かはチャレンジしたものも居たが、申し訳なさそうに首を振る高須の姿に、あえなく玉砕するのであった。

その姿を少しはなれたところからじっと見ていたのが、本来の待ち人である原田明子である。まだ時間までは10分ほどある。年齢相応の女性としての刺激を与えようと、買い物に誘った原田であるが、穏やかに微笑を浮かべながら待ち続ける彼女を見て、何か違和感を感じていた。

一見すると非の打ち所のない、静かで穏やかで、かわいらしい少女のように見える。しかし、何かが欠けている。普段からそのような違和感を感じていたので買い物に誘ったのかもしれない。普通、何もしないでじっと人形のように待ち続けることなどない。好奇心で周りをきょろきょろ見回すとか、何かをじっと見ているとか、不安で体をゆするとか、そんなしぐさが見られない。彼女の行動は全て教科書どおりの行動のように見える。

ギガテックスの完全義体であっても、脳は彼女のものである。脳が生き物である以上、生き物のような行動を起こすはずである。しかし、いい意味でも悪い意味でも生きいきとした姿が見えない。

「考えすぎかしら、もともとそんな性格かもしれないけど」

原田は防衛医科大学校で義体医学を学んだ医師である。彼女の専門は義体平衡学で人工血液や電気刺激の平衡維持を研究する学問である。その中には人工血液の成分の異常により、精神的に異常を示すという症例があった。しかし、つねに高須の体調を調べているため、そんな異常が無いことは誰よりも理解している。

「うーん、そのうち親分に訊いてみるか」

彼女の恩師の名前が脳裏に浮かんだ。近いうちに母校の研究会にも参加しなければならない。そのときにでも、と原田は懸念を頭から振り払った。ちょっと表情を作って今来たかのような姿を見せる。

「おまたせー」

高須が気がついて、原田の方へ目を向けた。微笑を浮かべ、小さく頭を下げる。

「ごめんなさい。待ちくたびれたでしょう?」

ふるふると頭を振り、静かに原田のもとへ歩いてくる。

「それじゃ、いきましょうか?」

こくり、と頭を下げて、ショッピング街のほうへ顔を向ける。

「さあて、どこから行く?、なにかご希望はあるかしら」

「あ、あの、高齢者向きのブティックに行きたいのですが」

ほう、と思わぬ渋い希望に原田が高須へ振り返る。

「そりゃまたなんでって、ああ、親御さんへかな?」

「は、はい。両親にちょっと...」

原田はウインクして原田に応える。

「了解、じゃあ、それからいきますか、ほかに希望があったらそこにも付き合うわよ」

「ありがとうございます。原田2尉は予定は無いのですか?」

原田が、しーっと口に人差し指を当てる。

「ノン、ノン、基地の外では階級付けちゃダメ、原田さんでいいわよ。高須さん...いや恵美ちゃん」

「あ、はい、申し訳ありません」

しゅんとして、顔を下に向ける高須。

「いや、怒っているんじゃないんだけど...」

心の中で、やっぱり何か問題がありそうだと考えながら、そんな気配は顔に出さずに、腰をかがめ、高須の前に顔を近づける。

「恵美ちゃん...」

「はい」

「真面目で素直なのが、あなたのいいところだけど、もっと図太くなっていいのよ」

「...」

「自信もっていいんだからね。あなたという人間には、誰にも真似できないいいところがいっぱいあるんだから。それは仕事のことじゃないよ。あなたはいい物をいっぱい持っているんだよ」

原田は高須恵美の目の前に顔を近づけ、じっと眼を見る。

「まだ、会ってそんなにたってないけど、私も、研究所の周りの人もあなたのことは信頼してる。おそらく前の部隊でもみんな信頼してたと思うよ。どう?」

「え、えっと、どうでしょう? 私のほうが皆さんから良く助けていただいたとは思いますが」

「そうでしょうね、でも、それはみんながあなたのことを信頼しているからだよ。いや、想像できるね。あなたはそういっているけど、それ以上に周りの人に頼りにされているんだよ。うん」

「え、えーっと」

原田はぽんぽんと高須の頭をなでた。

「まあ、性格がすぐに変わるとは思えないけどね。おいおい強くなっていこうね」

「はい、がんばります」

原田がすっと立ち上がり、ショッピング街の方向を見た。

「よし、じゃご希望の店に行こうか。高齢者向きっていくつかありそうだけどどこがいいかなあ」

「はい、...実はいくつかメモリーしてます...」

なるほど、と原田は笑顔になる。

「りょうかい、それでは恵美ちゃんの指揮で移動しましょう。それじゃ、LetsGO

原田は高須を前に引っ張り出した。その勢いのまま高須はショッピング街へ歩を進める。高須がちらりと原田を見るが、原田はにこりとしたままついてくる。一瞬どうしようか躊躇したが、覚悟を決め、高須は改めてお目当ての店へ、第一歩を踏み出した。

 

橋本和美は防衛省技術研究部のゲートをくぐった。受付にあらかじめ与えられたIDカードを渡す。作業服を着た受付嬢は、そのナンバーをPCに打ち込んで、担当者を呼び出す。

「へー、はじめて来たけど、こんなふうになってるんだね」

橋本は受付のあるロビーを見回した。ロビーから外に面するガラスは何気に厚さ10cm近い防弾ガラスになっている。さらに今くぐってきたゲートには鉄の壁がスイッチ一発で降りてこられるように構えている。

「テロ対策なんでしょうかね」

一緒についてきた三沢も興味深そうに壁のガラスをコンコンとたたいてみたりなんかする。

2人のよそものがものめずらしそうにそこらを見物しているところへ、技術研究部の研究官、中川一尉が現れる。

「やあ、どーもどーも、わざわざ、すみませんね」

「ああ、中川さん、こんにちはー」

中川一尉は受付にOKのサインを出し、橋本と三沢に握手を求める。

「中川です。よろしく。いやー今日道混んでますからねえ。もっとかかるかと思ってました。ここまでは、電車で?」

「はい、なんとか間違わずに来ましたねー」

「そうですか、お疲れ様です。じゃちょっと上でお茶でも、うちの者にも紹介しますので」

「あ、はい」

中川の案内で研究官の研究室に移動する。IDカードの必要なゲートをとおり、どんな構造がよくわからない部屋をいくつか通ると、そこが中川の仕事場であった。

「すんませーん、コーヒー三つお願いしまーす」

研究室付きの事務員に飲み物を頼むと、二人にいすを勧め、電話をかけた。やがて、一人の男が現れる。

「ああ、岡野さん、こちらがイソジマインターリンクをやっていただく橋本さんです」

岡野と呼ばれた男は笑いを浮かべながら、橋本たちに挨拶する。

「はじめまして、岡野です。このたびはわざわざすみませんでした。」

「我々の上司で、広域通信チームのチームリーダーをしている岡野三佐です。」

NTL.ED第4開発室の橋本です。よろしくお願いします。えー、こちらが、同じく第4開発室の三沢です」

お互いに頭を下げあっているところへ、中川が飲み物を薦めた。

「さ、どーぞどーぞ、さめないうちに、急ぎませんのでゆっくりやりましょう」

「はい、失礼します」

落ち着いた橋本は、三沢と共に改めて部屋の中を見回した。橋本にとっては社交辞令をやっているよりは、技術話をやっていたほうがよほど落ち着く。しばらく静かにコーヒーをすすりながら、話を切り出すタイミングをうかがう。

「中川さんはずっと通信関係をされているんですか?」

「うーん、いやー通信関係はここ2年くらいですかねえ。もともとは電子装備を長くやってました。」

「あー、彼はね、もともと火気管制装置だったよね」

岡野が補足する。

「おー、さすが防衛省、防衛省らしいことをされてたんですね。」

「うーん、そうなのかなあ、まあ、いまはギガテックスのミリタリーネットワークに付きっ切りなんでね」

「今度はイソジマインターリンクということですか?」

「そうですねえ、イソジマさんにコンタクトしたら、古堅さんからそちらを紹介されたんで、ご連絡を差し上げたわけです」

 

ギガテックスミリタリーネットワークは、自衛隊が多く抱える完全義体者の通信システムのひとつである。完全義体者はその義体の強度と出力から、大型の携帯火器を装備することで、装甲戦闘車両並みの火力を保有することが出来る。もちろん防御力は装甲車にはかなわないが、人とほぼ同等の大きさであることから隠蔽が容易であり、山岳地などを走破する能力は車両よりも優れている。また、一般の歩兵と違い射撃の精度も人よりはるかに正確である。そのため、ゲリラ戦や乱戦の際の高火力歩兵として特殊普通科部隊が編成された。

ギガテックスミリタリーネットワークは特殊普通科用の通信ネットワークである。特殊普通科歩兵はそれぞれが強力な火力を保有することから、個人が分散して運用することが想定されている。つまり、個人がひとつの分隊級の火力と同等とみなされる。しかし、遠距離の通信システムを維持するためにはそれなりの大きさの機材とアンテナを必要とする。大きいほど通信能力は向上するが、当然ながら戦闘には邪魔になることも多い。そこで、邪魔にならない程度の中距離通信システムを完全義体に内蔵し、通信が出来ない遠距離の場合には、互いに他の義体通信システムで中継するという仕組みを持つのが、ギガテックスミリタリーネットワークである。このアイデア自体はギガテックスが自衛隊用の完全義体を手がけ始めた頃からあったが、刻々と変わる経路の設定や通信回線の切断、復旧など解決しなければならない問題も多く、実用化したのはつい最近のことである。

 

自衛隊の完全義体者はほとんどがギガテックス製であったため、これを実現することで、通信の問題はほぼ解決した。しかし、イソジマ電工も特殊公務員向け義体に参入してきたため、イソジマ電工義体用の同様の通信システムが必要となってきたのである。当初は自衛隊向けに限って同じギガテックスミリタリーネットワークを搭載する予定であったが、やはりうまく搭載できないことと、サポートコンピュータのフォーマットに合わせるのが難しいことから、イソジマ電工義体向けの通信システムを開発することが必要であった。そのイソジマ電工義体用通信システムとしてイソジマ電工開発部か提案してきたのが、イソジマインターリンクである。この通信システムは、あくまでも既存の義体を大幅に拡張することなく使用できることを想定されている。

「えーっと、以前資料を送らせていただいたと思いますが、ざっと説明しておきますね。内部説明会の流用で申し訳ないですけど...」

中川一尉はプロジェクターの電源を入れた。

「イソジマさんからの提案とNTLさんのサポートコンピュータ改修案をこちらで吟味させていただいたものがこれになります。もともとはイソジマさんの緊急通報システムの通信機をベースにして通信プロトコルを改良したものになりますが、バーストパケット転送方式をA案、スペクトラム拡散定常パケット方式をB案としました」

ふんふんと橋本がうなずいた。三沢はノートにメモをしている。中川は審議の過程を説明し、その中で起こった議論をかいつまんで伝えた。

「最終的には大日本電気さんに手を加えていただいて、戦場多重交換システム、リンク40と接続します」

橋本はボールペンの端を軽く噛んで、くるくるとボールペンを上下に動かしたあと、口を開いた。

「んー、リンク40に接続した後はデコードされて司令部に送られると解釈していいですか?」

「それでよいかと思います。実際にはデコードされたデータは独自に暗号化されますが、それは自衛隊内の通常回線ですので、考えなくていいです」

「わかりました。それでしたら通信機の若干の強化と通信プロトコルの拡張だけで済みますね」

「はい、そうだと思います。イソジマさんの緊急通報システムはそれ自体で4キロの通信距離を持っていますから、これをほんのちょっと強化していただいて、所定のプロトコルを扱えるようにすればインターリンクシステムが成立します」

「わかりました。うちのほうも検討させていただいて、できるだけ早く納入できるようにしたいと思います」

「だいたい、そんなとこですかね。契約のほうは稟議が通り次第NTLさんとイソジマさんにご連絡を差し上げますのでよろしくお願いします」

「わかりました」

橋本は頭を下げた。

「じゃ、どうしましょうか?、もしお時間があるようでしたらすこし見学していかれますか?」

「うわあ!」(はあと)

中川1尉が笑いかける。横で聞いていた岡野3佐もうなずいた。

「ぜひぜひお願いしますっ!」

そのまま、戦闘機や兵器の研究現場を見学する橋本と三沢、それはもう、ものすっごく興味深い代物であったが、メモや携帯などの記録機器を丁重かつ完全に取り上げられたため、とてもくやしい見学でもあったと出張報告書に書くことになる。

 

Stage3 効率ではない要素

 

連隊駐屯地に設置された集中指揮通信所では、コンピュータと通信機器が低いうなり声を上げている。高須恵美はその指揮所に納まり、5名の補助操作員も、演習の開始を待っていた。

今回の大規模演習は集中指揮システムを評価するための実戦を模した演習である。本来の総指揮官の山本和正1佐は高須の後ろに立ち、指揮の様子を見守っている。また、集中指揮システムの開発にかかわった防衛省技術研究部の研究官も補助操作員の周りで状況を見守っていた。

今回指揮するのは高須の所属する普通科連隊を中心とする普通科戦闘団。普通科連隊を中心にして特科中隊、戦車中隊、通信隊、補給隊などを編成した部隊である。

山本1佐は静かに時計を見た。照明の落とされた指揮通信所を見渡し、松岡3佐に目配せをする。

「時間だ、はじめよう」

松岡3佐はマイクのスイッチを入れた。

「状況開始」

「状況開始」

あちこちで松岡の声が復唱される。止められていたデータリンクが起動し、指揮通信システムの統合情報パネルが激しく動き始める。

高須の脳に直接つながれたデータリンクは、はじめはゆっくりと、しかしだんだんと激しく大量のデータを送り込み始めた。補助操作員はデータリンクの状況を報告する。

「普通科第1、第2中隊、リンク確立、戦車中隊、特科中隊接続中」

報告を受けて高須が口を開いた。

「普通科全中隊情報把握、通信隊と補給隊の接続を急げ」

「了解、データリンク状況を確認します」

「普通科第1中隊はポイント32へ移動後展開せよ、第2中隊はポイント40へ移動後同じく展開」

高須の指示は補助操作員のパネルに直接送られてくる。それを見て補助操作員は担当の部隊へ指示を出す。データリンク機能を持っている戦車隊や特科隊へは高須から直接指示が飛ぶこともある。むしろ、全ての部隊に対して直接指示を送るのが理想だが、普通科の各中隊や小隊にはまだそのような体制にはなっていない。普通科の指示は各部隊長を通して音声で行うことになる。それをサポートするのが補助操作員の役目である。

特別の場合を除いて高須はもう声を出すことは無い。復唱の声が響くのはパネルで指示を受けた補助操作員の声である。

「第3、第4中隊はそのまま前進、特科中隊はポイント20で展開」

第2中隊の動きが止まった。移動や展開の指示を出しても、それが都合よく進むとは限らない。地形や道の問題でなかなか移動できない部隊も出てくる。

「第2中隊へ状況を問い合わせます」

進みの遅い部隊は何らかの問題が発生した場合が多い。リアルタイムに高須の脳に送られる位置情報により、移動の遅い部隊への問い合わせが指示された。それを受けて補助操作員が該当する部隊へ問い合わせをおこなう。

「第2中隊、道路陥没により輸送車両の移動困難、道路修復作業中、20分で移動再開可能」

「はい、修復作業続行を指示します」

「第3中隊より敵痕跡発見、現在確認中」

「特科中隊へ、展開完了時刻送れ」

「第3中隊より報告、敵部隊西の方向へ移動の痕跡あり、周囲敵状況を確認」

「通信隊はポイント18へ多重通信基地局を設営せよ」

矢継ぎ早に指示が飛ぶ。普通科が要所に歩兵を配置しながら戦線を進めていき、その戦線を常に範囲に治めながら火力支援を行う野戦特科部隊が自走砲を配備していく。またそれらの部隊を網羅するように通信隊が通信網を設営する。しかしこの程度ならば通常の指揮の範囲内であり、集中指揮システムでなくても十分に処理できる範囲である。

しばらくの間、粛々と戦線を進める。なかなか敵発見の一報が入らない。はじめの緊張感が薄れていくところへ補助操作員に連絡が入る。その連絡を受けた補助操作員は「優先」と書かれた赤いボタンを押して連絡を伝えた。

「空自から連絡、仮想敵をポイント12で視認との情報、約100名」

「視認情報、了解......」

高須が口を開いた。その声は全ての補助操作員に伝わる。

「第4中隊は移動先変更、ポイント15へ到着次第展開」

「第3中隊より仮想敵視認、現在確認中」

「第3中隊へ、詳細位置送れ」

発見の連絡と同時に、高須の脳内に映し出されている戦場情報が書き換わった。危険度を示すレッドのエリアが加えられ、周辺部隊へ対処のための指示が高須から送られていく。

 

「第3中隊が交戦を開始しました」

その連絡を受けて山本1佐は松岡3佐に声をかけた。

「ここまで何分かかったか」

「19分30秒です」

「最初の接敵まで19分か、たしかに速いな」

横で聞いていた研究官はそれをきいてほっとしたような表情を見せる。

「しかし、敵発見を優先して、部隊が分散していますからある意味当然でしょう。問題は見つけた敵部隊に対して火力をどのようにまとめるか、それにまだ発見していない敵部隊を見つけることができるか...」

「そうだね」

発見していない敵部隊を考慮せず、発見した敵部隊に対して猪突猛進で対応すれば、思わぬところから攻撃を受けかねない。奇襲を受けた場合、戦車隊や普通科隊ならば対処できるだろうが、特科隊や補給隊、通信隊などが奇襲を受ければその被害は大きい。

 

「新しい敵の情報はまだ入っていません」

高須は第1中隊へ敵の情報を問い合わせた。補助操作員はその回答を受け取る。

戦場の状況は刻々と塗り重ねられている。しかし確認できているところと出来ていない場所がある。第1中隊を置いて、奇襲に備えさせているものの、敵の規模が分からないため、捜索は危険である。高須はその未確認の空白が気になっていた。

「第3中隊、交戦中、第2中隊を応援にまわします」

「ポイント32、索敵始め、え、はい、わかりました、特殊普通科小隊へミリタリーネットワークを接続します」

特殊普通科小隊、これは完全義体者を集めた部隊である。主にギガテックス義体者を中心とした小隊である。彼らは生身の歩兵に比べて、大型の兵器を保持し高い移動速度を維持できる。出来るだけ待遇を良くして、特殊公務員装備を生かした自衛隊に入ってもらおうと努力しているが、高価な義体で高額な維持費が必要なのにもかかわらず、義体者の3割程度しか自衛隊に入ってはもらえない。半数は警察や消防に行き残りは民間へ、そしていくらかの義体者は行方をくらましてしまう。そのため高須の所属する普通科戦闘団でも1小隊を編成するのがせいぜいである。

「通信隊より連絡、ギガテックスミリタリーネットワーク運用開始しました。特殊普通科小隊、全員が通常リンクで接続確認です」

高須はうなずくと、特殊普通科小隊の指揮権を普通科中隊から中央指揮所に切り替える。それと同時に特殊普通科小隊の各隊員が見た視覚画像と現在位置、それに画像を分析したオブジェクトが戦域情報システムにマッピングされ始める。

「指揮官の高須です。特殊普通科小隊全員とリンク中です。ポイント33の索敵を行います。よろしく」

「小隊長の中井です。よろしく。 指示をどうぞ」

「了解、全ての指示はこれ以降コードで送ります」

「特殊普通科小隊、了解」

特殊普通科小隊の10名全員が高須と直接接続した。高須は地形を考慮し、10人全員に索敵地域を網羅するように移動を命じた。

 

10名のギガテックス完全機体、特殊普通科小隊の隊員は高須からの通信にうなずいた。そのしぐさを見て中井2尉小隊長は小隊の隊員を集めた。

「今から索敵を開始する。それぞれの索敵範囲と経路は司令部の指示に従う。現在異常があるものは申し出よ」

特に返事は無い。義体の異常であれば同時に司令部でも把握できる。

「いつものように慎重にやってくれ。いいな、それでは状況開始」

「はっ」

全員が敬礼をするとそれぞれがばらばらに散らばっていく。地形と移動速度、万一の狙撃の可能性を小さくするために、お互いが視界から離れないように着かず離れず適切な距離を保って進んでいく。

「ぴっ」

小隊員、山田の視界に指示が表示される。左の隊員を先に行かせ、左の隊員が小山の死角を確認した後で進むように矢印と時刻で指示された。その左の隊員に対して支援に入るようにオレンジ表示される。山田隊員は左の隊員を中心として銃を構えた。森の中に狙撃兵がいないかを義体に内蔵された赤外線アイカメラやレーダーで注意深く調べる。

もし狙撃兵が隠れていたとしても、そう簡単に見つかるはずは無い。各種センサでスキャンされることは分かっているため、岩に隠れたり、赤外線や電波を隠蔽するシートなどを使って隠れていることも考えられるからである。まして、演習の敵役には普段彼らを教えている教官たちが多く混じっている。義体の各種センサ程度は彼ら自身より熟知している。センサで反応するとすれば、狙撃の銃を構えたときくらいだろうか。

「ふう」

深呼吸して、しばらく息を止め、森の奥をゆっくりと赤外線カメラでスキャンしていく。暗く写る赤外線画像の中で、人が発生させる白い赤外線を探す。

肩に担いでいるマルチスキャンレーダーは森を透過して、金属物体などを探す。義体の動作に連動して小さな平面アンテナが上下左右に動いている。

じっと周りを監視している山田の視界で何かが動いた。

「うわあっ」

意識より先に訓練を積み重ねられている体が動き、草むらに飛び込んだ。若干の遅れの後、敵の攻撃であることを認識する。

「状況、敵!」

その声を聞いて、他の隊員も身を隠せるところに移動する。

たしかに今のは敵の狙撃サイン代わりのレーザー光だった。敵の存在を告げ草むらに伏せる。ちらっとみえたレーザー光から考えられる敵の位置を推測する。予測される方向を慎重にスキャンするが、それらしいものは見えない。

「5番吉野、やられました、狙撃により重症判定、現在位置で待機します」

頭を上げて、周りを見ようとしていたが、同僚の被弾報告であわてて頭を下げる。

「どこだ...」

ぴったりと地面に身をつけ、敵の狙撃から身を隠す。そこへ高須の指示が入る。

「2番、体を低くして前進せよ。北東に狙撃兵の可能性あり、敵の死角に入るはずです。同じく3番は2番を援護して少しはなれて進め、北西方向にも敵兵の可能性、6番は大きく西に回れ、」

指示に従って山田は慎重に頭を上げる。北に進んでいた方向を西へ変更し、盛り上がった丘を廻るように進んでいく。

「4番大野、敵攻撃受けました、被害無し」

「見えたっ!」

不意に高須の肉声が入る。

「位置特定、司令部より特殊普通科小隊全員に告げる。敵位置を予測した。全員にマップデータを送ります」

その言葉と同時に山田の視界の横に戦域地図が表示された。赤い点で隠れている分隊2つが表示されている。

「各員指示に従って前進せよ、攻撃開始」

敵の2つの分隊に、生き残った特殊普通科小隊が殺到する。位置を特定されたのに気づいて、敵役の教官は撤退を始めた。

「9番、10番は北側へ進め。敵の退路を断て」

「了解」

「敵発見、交戦中」

敵の分隊のひとつが戦いを始め、もうひとつの分隊は待ち伏せを食らって動けなくなる。包囲されるのも時間の問題であった。

 

「ポイント32での戦闘終了」

「第3中隊、残存敵索敵に入りました」

確認できた敵との戦闘は終わりに近づいていた。敵の数は知らされていないからこれが全てとは言い切れないが、戦域情報システムで決められた演習場のほとんど全域にわたって索敵を完了している。もちろん戦闘中に刻々と位置を変えているはずだから、索敵済みの地域に戻っている可能性はあるが、主要な移動経路は各小隊や分隊で封鎖しているため、そう大規模な人数が隠れている可能性は低い。

「はあ」

高須は小さく息をつき、戦闘後の処理の様子を見守っていた。部隊への指示もピークを過ぎ、かなり余裕のあるペースとなっている。その情報量をモニターしていた原田明子2尉もほっと一息ついた。

「はむ」

原田はポケットに入れていた飴を口に放り込んで、脳波表示にモニターを切り替える。

「あれ?」

みなれない脳波が流れていこうとしている。その脳波が画面外に消える寸前に原田は異常に気づいた。

「なにこれ」

あわてて脳波記録を操作し、脳波を見直してみる。通常のα波やβ波に混じって、表示領域いっぱいまで波打つ激しい脳波が現れている。

「あ、また」

激しい脳波がしばらく現れ消える。原田は指揮所の高須を見上げた。

「!」

一見すると落ち着いて指揮をとっているように見えるが、機械の間から見える手足がわずかに痙攣している。モニターの異常な脳波に合わせて足や手がぶるぶると震えていた。

「え、えーっ」

絶対にこんな状態は正常ではありえない。一瞬どうすればよいのかわからなくなり、原田はパニックになる。

しばらくあわてたあと、原田は真剣な顔でマイクを握った。

「医務官より連絡」

補助操作員や指揮所の上官が何事かと一斉に目を向ける。少し興奮気味の原田は勤めて冷静になろうと、静かに高須に伝えた。

「集中指揮官、高須准尉の脳波に異常が見られます。体調はよろしいでしょうか、体調を教えてください」

「若干疲労していますが、大丈夫です」

「脳波が異常です。手足の震えなどはありませんか」

「多少あります。作戦は続行できます」

そのやり取りを聞いて、集中指揮システムの研究官が原田に周りに集まる。そのときにまた発生した異常な脳波は研究官たちを驚かせた。

「医務官から具申します。危険な兆候です。指揮を中止するよう要望します」

「もうすこしですから、大丈夫です」

「......」

原田の頭に血が上った。

「このままだと危ないのっ、即刻指揮を中止してください」

いまにも高須の席まで駆け上ろうとする原田、それをみて集中指揮システム運用リーダーの河本博之1尉は、原田の肩をぽんと叩いた。

「ちょっとマイクを」

そういうと総指揮官の山本和正1佐に向き直る。

「集中指揮システム責任者の河本です。山本1佐に上申します。集中指揮システム指揮官の高須准尉に異常が見られました。集中指揮システムの不具合として、高須准尉の指揮を外していただくようお願いします」

「高須准尉の体調不良で指揮続行不可能ということでよいですか」

「それでよいと思います。よろしくおねがいします」

山本和正1佐は高須に視線をむけてうなずき、指揮所のスタッフに指令した。

「高須准尉に変わって松岡3佐が指揮を執る。各員冷静に作戦を続行せよ」

作戦の指揮権は、通常の作戦と同じ司令部のスタッフに引き継がれた。それを確認すると原田は高須のいる指揮所に駆け上がった。

「恵美ちゃん、大丈夫?」

いくつもの配線が高須の体に繋がっている。少し遅れてきた研究官らと手分けして配線を外し、シートから降ろすが、高須はほとんど力も無く、ゴトンと重い音を響かせてそのまま棒のように倒れた。

「医療班呼んで、完全義体者の治療で」

「了解」

全身義体者は普通の人間より重い。4人がかりで高須を抱えると、そろそろと指揮所を降りていく。ときおり痙攣が手足を震わせるなか、原田は高須に話しかける。

「恵美ちゃん、返事できる、恵美ちゃん」

「う、うう」

「大丈夫よ、すぐ治療するからね」

「...ごめんなさい」

「なにいってんの、これはあなたのせいじゃないよ、落ち着いて」

「う、う」

高須はもう言葉を出せなかった。時々の震えと嗚咽のような声が長く続いた。

 

Stage4 心を制御すると言うこと

 

防衛医科大、脳神経学教室、義体情報研究室、ここは高須恵美の脳改造に伴う情報システムの設計を行ったところである。通常の義体では視神経や聴覚神経、脳幹が電気的に接合され、サポートコンピュータとの通信を行う。これは、目や耳、体性感覚を機械が受け持ち、正常な身体の代わりをするものとして構成されている。この接続手法は多くの全身義体者が存在することもあり、技術としてはかなり安定的に確立されている。

しかし、彼女の場合、通信システムの情報を視覚や聴覚を介することなく直接認識するために、後頭葉や大脳基底核に直接電極が差し込まれている。後頭葉は視覚の認識、大脳基底核のうちの線条体は判断や意思決定、海馬は短期記憶に関係する部分である。通信システムの情報を直接これらの部分に流し込むために、電極の配置や電極の信号の大きさ、パルス密度の設計を行ったのがこの研究室の三田教授を中心とするグループであった。

原田明子2尉はその三田教授を尋ね、高須恵美の病状を伝えた。高須恵美は自衛隊内の病院で治療を受けており、異常な脳波はほとんど見られなくなっている。2日の休息で彼女の意識は正常に戻ったが、彼女自身の精神的ダメージはかなり大きく、集中指揮官としての継続はまだ不透明な状況である。

「事実上原因の特定は不可能...」

原田は三田研究室を後にするとため息をついた。高須恵美の脳には通常の義体の接合部に加えて、集中指揮用の通信電極が1200本差し込まれている。これは脳幹や視神経などの外部に露出している神経束に接続しているものとは別に、直接脳に差し込まれている電極である。

高須恵美の異常脳波の原因は二つ考えられる。ひとつは純粋に彼女の極度の緊張によるもの、もうひとつは通信電極の設計ミスもしくは手術の不具合である。またそれらの複合的な理由も考えられる。しかし、今まではそのような事例はなかったし、少なくとも集中指揮システムの通信路は、彼女が異常脳波を発生させたときでさえ正常に作動していた。また彼女の過去のカルテにも過去にそのような事例は記載されていない。

1200本の電極の全ての組み合わせを刺激して調べてみる...ばかげてる...そんなことをしたら発狂してしまう」

全ての組み合わせを調べる。仮にそれが可能だとしても、その組み合わせは個別で1200回、2本の組み合わせを試すとして1200の2乗、その一回ごとに彼女は本来はありえない不自然な信号を受けることになる。

確認しなければならない電極は、記憶や判断に関係する重要な部分に接続されている。そのようなところへ1200回、あるいはそれ以上の異常な刺激を与え続けたとき、脳にどのような影響があるかを判断するのは事実上不可能であった。

 

原田明子2尉は河本1尉と相談し、集中指揮システム運用グループ全員で、解決方法を模索していた。その過程での有望と思われる方法として、数学的なアプローチからの可能性にたどり着く。そこで調査を依頼されたのが砲術散布界の専門家であり数理統計学や確率論を得意とする現通信チームリーダーの岡野3佐。さらに岡野や河本のつてをたどり、体性神経網、性感神経網のマッピングおよび信号合成技術をもつNTL.ED第4開発室の橋本和美、そしてデータマイニングによる大量データからの情報抽出技術を持つ清水電子AI研究室、田中瑞香両名とコンタクトがとられた。ここまでこぎつけるためには原田の奮闘によるものが大であったが、長くなるため省略させていただく。また橋本和美と田中瑞香は大学院時代の同級生であり、協力して研究を仕上げたライバル的存在である。ハードウェアの橋本とソフトウエアの田中という竜虎の対決についてもいくつかのエピソードがあるが、その内容についても別の機会とさせていただくことにする。

 

原田は高須が入院している自衛隊病院を訪れていた。原田が病院の敷地内に入ると、紅葉した楓の下でベンチに佇んでいる高須の姿が目に入る。さくさくと枯葉を踏みしめる音に気づいたのか、高須が原田に目を向けた。そのまま静かに会釈する。

「や、もういいの?」

こくりとうなずき、小さく口を開く。

「脳波に関してはもう異常は見られないそうです。しばらく経過監視で何も無ければ退院ということになりそうです」

「それは良かった。あのままの状態が続いたらどうしようかと思ったわ」

原田は抱えているファイルケースをベンチに立てかけ、高須の横に腰掛ける。晩秋の冷えた空気が落ち葉を運び、原田と高須の周りを舞った。

「恵美ちゃん、いま、あなたの病気の話しをしていいかしら」

「かまいませんよ」

ほとんど身動きせず、小さく答える。あまり表情を表に出すことは無いが、今の彼女は特に静かである。

原田は彼女の表情をしばらくじっと見つめ、そっと視線を外して口を開いた。

「いま、あなたの病状について、うちのグループみんなで調べています」

高須は小さくうなずく。

「データログを調べた結果、集中指揮を行うとまた再発する可能性が高いことも分かりました」

「......」

「高須さん」

「はい」

「もし...もし良かったらなんだけど、もしこの仕事を続けるつもりがあるのなら...」

原田は言葉を選ぼうとして口ごもる。しばらくの沈黙の後、高須がちいさく口を開いた。

「もう、この仕事できませんよね」

「え、?」

「やはり、私には荷が重かったのではないかと思います」

「あ、いや、」

高須は何度も心の中で繰り返した言葉を淡々と紡ぎ出す。

「このお話を受けたときは、陸士長からやっと曹官に上がった一般隊員でした。女性で前線には向かないということで、通信科にやっと拾ってもらいました。本来であれば貴重な完全義体者で、最前線を守るはずだったのですが役立たずですね、その程度の人間が付け焼刃で大隊を指揮するなんて、無理がありますよね」

「い、いや、そんなことを言っているんじゃなくて...」

原田はあわてた。高須恵美は自分の価値についての自信を失っている。。

「脳改造をやれば、皆さんの役に立てるかとうぬぼれていましたが、しょせんただの小娘ですから大事なところで役立たずでした」

「そんな、そんなことないよ」

「でも事実ですよね、私はもう...」

「すとおおっぷ!!」

原田が大声を上げて、高須の言葉を遮った。高須の前に立ち、目をしっかりと見つめる。

「高須准尉」

「......」

「今の現状を言うわね」

「......」

下を向く高須に対して原田はやさしく、そして毅然と説明する

「私たち、少なくとも集中指揮システム運用部はまだあきらめていません。というよりこれは開発中の良くあるトラブルのひとつに過ぎません。いま、あなたの脳改造が適切であったかどうかを調査中です。前回の演習データログからあなたの異常の原因を探すための努力が行われています。あなたの脳に埋め込まれた電極が原因である可能性もかなりあるの。精神的な原因の可能性ももちろんあるけれど、脳改造に問題があるのならば、それは我々の責任です」

「はい...」

「それで、その脳改造に不具合が見つかれば、それを治療してまた続けたいと思っています、まずここまでは基本方針、いい?」

こくりとうなずく。そんな高須の頭に原田は手をそっと載せた。

「でね、ここからが本題なの」

あきらめたように、視線をむける高須を見て、原田は話し始めた。

「まだ脳改造による不具合の結論は出ていないけど、不具合がはっきりすれば、再度脳改造をするかもしれません。しかし、あなたがもうこれ以上この仕事を続けていけない、やめたいと思っているならば、それを無理に止める権利は私たちにはない。それを決めるのは恵美ちゃん、あなた自身です。そんなことをいう理由は分かっていると思うけど、再度の脳改造がそれなりに危険なものになるかもしれないからです」

こくり、高須は原田の目を見ながら小さくうなずく。

「どのくらい危険なんですか」

「ごめんなさい、運用部のみんなが専門家も呼んで調べていますが、まだ結論はでていません。でも、何らかの不具合があるらしいことは分かっています。その不具合によって、どのような脳改造になるかはまだ分かりません」

「はい」

「まだ早く決める必要はないけど、結論がでたら脳改造を受けるかどうか決める必要があるわ。それで、脳改造を受けたくないならばそういってください。無理に勧めたりはしません」

「その場合、わたしはどうなるの、もう続けられませんよね」

「ん、今までのような集中指揮システムは計画変更ということになるわね。そのまま司令部に情報参謀としてつくことになるか、それとも通信隊に復帰するか、いくつか選択肢があるでしょう、これについては人事の問題だから即断は出来ないけど、でも、今までの勉強は無駄にはならないとおもう」

「そうでしょうか...」

高須は、下を向いて足元の枯葉に目をやる。

「わたしの居場所は...あるんでしょうか」

そのまま座り込んで、枯葉を手に取り、くるくると回した。

原田はそれをじっと見つめる。

「あ、聞いていいですか」

「何?」

「退院した後で、お休みって取れますか」

原田は、頭の中でスケジュールを考える。脳改造を行うためには徹底的に不具合場所を調べて、間違いないと結論がでなければならない。そしてその調査は全力を傾けているとはいえ、なかなか進まない。高須がいたほうが細かい調査が出来るが、彼女自身の調査はある程度、対象が絞り込まれてからでもかまわないと判断する。それに、万一の可能性がある脳改造の前に、いくらかの休暇を与えるのは、当然の措置であるともいえる。

「たぶん大丈夫よ、出なければ私が上申してもいい」

「来週の土日、間に合うかな」

ちいさくつぶやく、原田はその声を聞き取った。

「なにかあるの?」

高須は目を上げてほんのわずか微笑んだ。

「祖父の田舎でお祭りなんです。去年はいけなかったけど、家族もその時期には祖父の田舎に帰るので」

「そう...なんだ、帰るのもいいかもしれないね」

「あ、」

高須が今初めて気づいたように小さな声を上げた。

「なに?」

「え、えーと」

「どうしたの?」

高須はしばらく迷いながら、ゆっくりと口に出す。

「できれば、できればでいいんですが、あの、原田2尉も一緒に行きませんか?」

「私?」

思わず自分を指差し、間の抜けた声で返事をする。

「はい、お祭りの時期はいい季節なんです。一度ぜひ見せたいなと思って...」

「うーん」

高須が休みをとるのは問題ない。しかし原田は高須の病気に関する責任者でもある。運用部で全力を尽くしているところを抜けるのはかなり問題がありそうな気がする。

「考えてみる。河本1尉に相談して、大丈夫だったら...ね」

「はい」

高須は少しぎこちない微笑を浮かべてうなずいた。

原田が河本1尉に相談したところ、あっさりOKが出た。原田の仕事は人としての高須恵美のサポートをすることだというのがその理由であった。データ処理には役に立たないということを遠まわしに言われたような気がして、少し含むところはあったが、変に突っ込んで取り消されても困るから、それ以上突っ込まないことにした。

 

そのころ、

岡野3佐と田中瑞香は高須恵美の脳波と電極通信信号の莫大なデータログから、1200本の電極と脳波の相関関係を導き出そうとしていた。一般的なデータマイニングはデジタルを代表する離散値ベースで行われることが多いが、脳波にせよ電極信号のパルス密度にせよ、情報量としてはアナログに近い。防衛省技術研究部の研究所に直談判して高速な計算機を数台奪い取り、橋本と中川1尉がサポートをしながら、相関係数を導き出していく。計算手法については省略するが、橋本と中川が下請け計算機整備屋と成り下がり、コーヒーとタバコの買出し係となっていたことを記しておく。

 

Stage5 原点

 

山の間を縫うように進む一本のローカル線。大きなスポーツバッグを抱えた原田と高須は磨り減った石造りのホームに降り立った。二人の背後ではエンジンを吹かせながら、2両編成のキハ52ディーゼル車が動き出す。

朝の日差しが高くなり、もうじき昼となる時間帯、この時期としてはやや遅い紅葉が、日陰に残る霜の化粧を残して鮮やかに山を染めている。

「わあ、いいところよねえ」

街中では少し大げさすぎる防寒装備、しかし刈り取られた田畑の広がる風除けのない場所で、朝の寒さを防ぐための必須装備である。そんな服装に身を固めた原田は、傾いた日の光に照らされた紅葉の山々をみて、顔を綻ばす。

「いい具合に紅葉してますね」

何度も通った祖父の家に向かう道、原田を案内しながら高須は山を見渡した。その山の中腹に何かの建物が立っている。その建物を指差して、高須は原田に言った。

「あの神社がお祭りのところです。案内します」

高須は先に立ち、静かに歩いていく。他に音を立てるものもない田舎の一本道に原田のブーツがかすかな音を立てた。

「恵美ちゃんのご親戚のお家は近いの?」

「近いというか...あの神社ですから」

「あ、じゃ恵美ちゃんのおじいさんって神社の関係者なのかな」

「あ、はい、祖父は神職で神主です」

「えー、神主さんなんだ、なんていう神社なの?」

「高祖(たかす)神社といいます。由来は余り知りませんけど」

「ほー、じゃ、先祖代々、高須一族なの?」

「名前から見て関係はありそうですが、余り知りません。そういうことも聞いておけば良かったですね」

高須は原田の方を振り向いてにこりと笑った。その笑顔は以前に見た笑顔と違い、自然な笑顔に見えた。しかし原田の頭の中では、最新式の完全義体、通信技術を駆使した集中指揮官としての高須の落差が大きく、そのイメージがなかなか繋がらない。

そういえば、とふと思った。人待ち姿の高須は巫女のような雰囲気を漂わせていた。そのルーツはここなのかなと、自分を納得させる原田であった。

 

高須の祖父に挨拶して、何度も何度も恵美を頼みますと頭を下げられ、自分の無力を痛感させられた後、高須の案内で近所の散策に出た二人である。神社は山の中腹にあり、その東側は数十メートルの絶壁になっている。その絶壁の端に小さな祠があり、その祠の前にたつと、眼下に広がる景色が良く見える。

「わあ、」

「余りそっちにいくと、その、危ないですよ」

原田は、体を乗り出して、絶壁から下を見ようとする。

「わあ、こりゃすごいねえ、はるか向こうの海まで見えそうね」

「空気がきれいなときは海まで見えますよ、いまはすこしもやがかかっていますけど」

「ほんと、この絶景なら、昔の人も神様を信じそうな気がする。大地の神様ありがとうてな感じで」

「そうですね、だから、ここに祠を作ったのかもしれませんね」

絶景を前にしてうーんと伸びをする原田を見ながら、高須は祠の縁側にちょこんと座った。原田の姿に対して、高須の顔色はさえない。

「ん、どうしたの、体調良くない?」

気づいて原田が高須を見るが、高須は首を振る。

「いえ、体調は問題ありませんが、下を見ると余りいい気分じゃないので」

「ああ、そうよね、下を見ると吸い込まれそうな感じ、落ちたらひとたまりもないよね」

「はい」

うなずいたままじっとしている高須、無表情で、原田をじっと観察している。

「いいところよね、ここ」

原田が絶壁から戻り、高須の横に座る。

「え、ええ、まあそうですね、でも」

煮え切らない返事に原田は高須の言葉を待つ。

「余りいい思い出がないので」

「悪い思い出?」

高須の顔がゆがんでいる。

「すこし、お話していいですが」

「もちろんよ」

原田が即答する。もう医師としての顔となり、高須をじっと見つめた。

「ここは、初めてふられた場所なんですよ、あこがれてた人に...」

「うん」

高須は何かを吐き出そうとしている。原田はとくになにも言わず、次の言葉を待つ。

「高校の同級生にあこがれていました。とても頭がいい人だったので、レベルの高い大学を受けることを聞いていました。」

「うん」

「お友達としては、いろいろと一緒だったんですが、恋人になって、とだけはいえませんでした」

「......」

「それで、一緒の大学にいこうとして、勉強しました。でも…不合格でした」

高須がすっと立ち上がる。

「あきらめ切れなかった私は、ここへ彼を連れてきました。そして、初めて告白しましたが、ごめんって言われてしまいました...あは、ははは」

高須は震える笑い声を上げる。

「迷惑でしたよね、こんなとこまで無理やり連れてきて告白されてもね、卑怯だったと思いますよ、私って」

「恵美ちゃん?」

「あは、それからですね、気が抜けちゃいました。なにか今までがんばってきたのがうそみたいだったから、あはははは」

高須は祠の前に立つ。その表情は笑っていない。祠の影が高須を覆い、高須の目だけが鋭く光を放つ。その姿をみた原田は背筋にぞくりとしたものを感じた。

「大丈夫?、どうしたの恵美ちゃん?」

原田が高須に近づこうとする。それをくるりと避け、絶壁の端に立った。

「それでですね、彼が帰ったあと、わたしはしばらくして、日が沈んだ後で...」

高須の口元がにやりと曲がった。足が小さく後ろに下がる。

「!!!」

「ここから...そう、ちょうどここから...飛び降りたんですよ!」

「恵美ちゃん!!」

「うふふ、そのまま、おしまいになるはずでした。でも、また目を覚ましてしまったんです。ここだけになって」

高須は、自分の頭を指差す。笑わない目と不自然に曲がった口元が、狂気を映し出している。

「もう、戻れない。こんなことまでして、脳改造までして、でも何も出来ない役立たず、ふふ、ふふ」

「恵美ちゃん、落ち着いて、こっちに来て」

一歩、一歩後ろに下がる高須、ふっと顔つきが、もとの素直で自然な表情にもどり、悲しげに頭を振った。

「いえ、原田先生、もういいです。わたしは...わたしはいらない子なんです。見ていてくれて、ありがと う...」

「ばかっ!!」

その言葉を聞くと同時に原田は高須に飛びついた。腕力ではもちろん高須にかなうはずもないが、不意を突かれた高須は、バランスを崩し膝をつく。

「ざりっ」

そのまま、原田は何回か地面を転がると、またすばやい勢いで駆け寄り、高須の頬を力いっぱい叩いた。

「ぱしーん」

相手は完全義体者である。全力で叩いても効くかどうかは分からない。それでももう一度、大きく振りかぶって全力でひっぱたいた。

「はあっ、はあっ、はあっ」

原田の手は感覚がなくなっている。それほどに全力で叩いても姿勢は変わらない。高須は俯いたまま動かない。

「はあっ、はあ、は、し、正気に戻れ、ばかっ、ばかあーっ」

「......」

原田は火照る手を押さえながら、目に涙を貯めて、俯いて返事をしない高須をにらみつける。

「い、いっとくけどね」

原田は荒い呼吸の間から声を絞り出す。

「恵美、あんたね、完全義体者が大変なのは承知してる。けどね、少なくとも...少なくともできる範囲で幸せにならなきゃ承知しない。いや、許さないからね」

「......」

「ちょっとだけ、言いたいこと言うよ。私の覚悟言うよ。もしあなたが、もし、もし、脳改造の結果壊れたり、亡くなったりしたらそのときは、私も後を追う覚悟だった。なぜかわかる?、わかるっ?」

原田は涙声になっていた。

「あんなにがんばっている子がくだらない実験で死んだらかわいそうじゃない...くっだらない実験であなたが一人ぼっちで天国の階段上っていくなんて耐えられない。馬鹿な行為というのは百も承知しているけど、天国の階段上るなら、わたしも付き添う。それが、一人の人間の命をもてあそんだ責任、だから絶対に付き添うつもりだった」

高須が静かに顔を上げた。くしゃくしゃの顔のまま原田に目を合わせる。

「そんなこと、だめです」

「なにがだめなの、軍隊ってそういうとこよ、命のリスクが常にあるところだからこそ、無意味に部下を死地に送ることは許されない。少なくとも全力で部下を生還させる手立てを考える...そして、万一のことがあれば責任を取る。これが本当の指揮官、だから、もし、もし負けて、最後に何の手立てもなく部下を死地に赴かせなければならないときは」

原田は一瞬だけ口を閉じた。すっと目が細くなる。

「そのときは…、指揮官自らが死で償うの…」

「びくっ!!」

重い原田のつぶやきに高須は体を震わせる。

原田は高須をじっと見つめていた。その目は高須だけを見ているのではない。

「今やっている集中指揮システムの構築は恵美ちゃんに大きい犠牲を強いることで成立している。そして、その犠牲は強制でなされてはならない。我々は恵美ちゃんにお願いすることしか出来ない。あなたはそれを拒否する権利がある。それを留める権利はわたしたちにはない。」

こくり、何度か聞かされた言葉に高須がうなずく。

「恵美ちゃんが危険と判断すれば、これ以上無理にすることは出来ない。無理やりやらせればそれは特攻と同じ。一人の人間に無理やり犠牲を強いることなどあってはならない」

原田は遠くの山々に視線をむける。そのまま力を込めて話し続ける。

「恵美ちゃん、あなたの選択肢は3つ、1.自衛隊を辞めて、穏やかな人生を送る、2.一般隊員として平常の勤務に就く、3、脳改造を受けて集中指揮官としてわたしたちと仕事を続ける。そしてそのどれもが不幸になることは許さない。ここで自殺をするなどという選択肢はない。そんな選択肢は絶対にありえないのっ!!」

高須は下を向いて、震えていた。

原田がゆらりと立ち上がった。一歩一歩静かに歩む。

「医者が患者の死にいちいちつきあってなんていられないわよ。でもね、たいした見返りもなくあなたにお願いしている以上、お願いしている私は責任を取る必要があると思うの、そうじゃなきゃ、こんなことをお願いする資格なんてありえない」

原田はその背に近づき、そっと手を置いた。

「正直言ってね、これを聞かされたとき、命をもてあそぶ立場になったんだな、って思った、私がうんと言えば一人の人生が変わってしまうんだなって思った。でもひきうけた。ものすごく興味はあったよ。でもね、自分の命と同じように扱う覚悟がいるとも思ったんだよ。覚悟がなければ引き受けちゃダメだってね」

高須は動かなかった。いや動けなかったという方が正確かもしれない。ときおり、小刻みに体が震える。

原田は手に力を込めて、ぎゅっと抱きしめた。

「だからね、そんなこと考えないで、生きよ、ね」

「...はい...」

二人はそのまま動かない。やがて日が傾き始め、祭りの気配が近づいてくる。少し離れた境内では夜店や舞台の準備が始まった。冷たい風が次第に原田の体温を奪っていく。それに気づいて大きくくしゃみをするまで、二人はずっと佇んでいた。

 

原田は舞台の前に置かれたテントの中に陣取っていた。高須の祖父から頂いた何本かのお神酒と、そこらの夜店で買ったビールを並べ、テーブルにおいてあるつまみをかじりながら、舞台の子供たちの踊りを鑑賞する。踊りが終わり、子供たちがご褒美のお菓子の詰め合わせをもらうと、舞台衣装のまま三々五々、親の待つテント席へ散らばっていく。

お神酒(といってもただの地酒のカップ酒だが)のふたをとり、きゅうっと一息に流し込むと、喉から下がぽーっと熱くなっていく。舞台では次の演目が始まるのか、音曲の雰囲気が変わる。

「あっ」

落ち着いた音曲の中、静々とでてきたのが、高須恵美の巫女姿、飾り物をつけた鮮やかな巫女衣装は、彼女自身のかわいらしさを加えることで、独特の美しさを紡ぎだす。

演目はこの神社に伝わる神々の旅立ちの物語。暖かい神々のおわすこの土地から旅立ち、土地の荒ぶる神々を鎮めていく女神、高磯比盗_(たかすひめのかみ)の物語である。

「なんだかなー、完璧にはまり役よね、そのまんまだし」

すでにいい気分になっている原田に、高須の祖父が会釈をしながら近づいてきた。

「あ、どうも、お世話になっています」

「どうですか、楽しまれていますかな」

「あ、はい、いま踊っているのは恵美ちゃんですよね」

「恵美です。この子は小さいときから何度もこの演目をやってもらってました。最近はなかなか出来なかったんですが、今日は自分からやってくれると言い出しましたので、あわてて衣装を引っ張り出しまして」

「そうだったんですか」

カップ酒を傾けながら、高須の舞を見守る。知らなければほとんど分からないが、かすかに義体のモーター音が聞こえてくることがある。

高須の祖父は神主の衣装のまま、原田の横に腰掛ける。烏帽子の下から除く白い髪と深いしわがその人生を思わせる。

「あの子はね」

舞台の上で静々と舞う巫女姿を見ながら、老人が静かに話し出す。

「よく努力をする子でした。なにかやらなきゃならないことがあると、そのときは知らん顔しているんですよ。そして、誰も見ていないところで練習して、親やわたしたちが知らないうちにがんばって、気がついたら出来るようになっている。それをわたしたちに見せて、にこりと笑うんです」

「判る気がします」

「子供のときは、あの舞も嫌がりましてね、まあ、無理にさせることもないとほっぽっていたんですが、祭りの前に“じいちゃん、みて”って来て、ぎこちない姿で舞を舞って見せてくれました。」

「なるほど」

「それからは、毎年こっちで舞を舞ってくれていました。ああ、あのことが起こる前まで」

「あのことって...がけから落ちたこと...」

祖父は思い出したくないとばかりに何度も頭を振った。

「彼氏に振られたとかで、気が動転していたのでしょう。そこの崖から落ちて大怪我したんです。先生は恵美のご担当ということなので、お分かりのことだと思いますが、瀕死の重態でした。」

「それが、義体化の理由になっているのは知っています」

「それから、機械の体になって一命を取り留めました。一年間はリハビリで消えて、義体の人に有利ということで自衛隊に入ったんです。それで、先生」

「はい」

「あの子は自衛隊でうまくやっていけてますか。大丈夫ですか?」

「はい、いろいろありますが、おおむね他の人とはうまくやっていけていると思います。がんばりやさんですからみんな頼もしく思っていますよ」

「そうですか、ありがとうございます」

祖父は、目を細めて笑った。原田は舞台に視線を移す。

高須恵美は目の前にいるであろう荒ぶる神々の前で、両手を広げる。多くの民をかばい、水と風、そして雷を両手いっぱいに受け入れる。

「天と地の神々よ、神の子である無辜の民を守りたまえ。働く神の子へ多くの恵みを与えたまえ」

たん、たたん、と高須の足音が響く。音曲の変わると同時に民と神が力をあわせて、多くの恵みを生み出していく。

共に働く力を知った神々は、陰に陽に民と共に荒ぶる神々を押さえ、そして荒ぶる神々を善神へと変えていく。

「我は神々と共にあり、民の働きは神の恵みぞ、我は常に民の傍に佇んでおる」

最後に高磯比盗_は天地の神々と共に消えていく。そこで照明が小さくなり、高須恵美は舞台から消えた。舞台から消える前、高磯比盗_はこちらを見たような気がした。そしてそのとき口が動いたのを原田は見逃さなかった。 

またやります、ありがとう と。

 

Stage6 理論の限界、ココロの限界

 

「それでは、はじめようか」

三田教授は手術のスタッフにそう告げた。手術台の上には高須恵美の頭部だけが乗っている。信号線と細いチューブで繋がれた高須恵美の頭部は、生首のように手術台の真ん中に置かれ、スタッフによって開けられ始めていた。

5名ほどの医師が手術室の中で高須恵美の頭部に向かい、原田や河本、岡野などの研究官はガラス張りの控え室で大量の計測器とともに状況を見守っている。医師ではあっても、脳外科が専門ではない原田は手術を見守っているしかない。原田の目の前にあるスクリーンには、カメラで撮影された高須恵美の大脳が投影されており、医師の作業が見えるようになっていた。

脳が納められているケースが静かに開かれた。通常の脳の接続は下部の運動神経部分と視覚、そして聴覚の部分に限られる。しかし高須の脳には頭頂部から後頭部にかけて絹糸のような電極がびっしりと植えられている。そのどれもが緻密に計算された結果差し込まれた電極であり、ピンセットの先が当たり、不意に引っ張られでもすれば、無事では済まない。

あらかじめ計算に計算をし尽くされて決定された12本、それは原田や河本などの研究官が絞り込んだ高須の異常を引き起こす可能性を示すものであった。三田教授の部下の第一執刀医が原田たちを見る。すでに研究官たちはその12本の線が引き起こす異常を見逃すまいと、様々なシグナルにじっと目を注いでいる。

「こちらはOKです。始めてください」

河本が言うと執刀医はうなずいて、脳ケースに満たされている人工血液を抜くように命じた。ゆっくりと液面が下がり、脳の表面が姿を現す。

「色素を注入」

一人の助手が、循環している人工血液の中に、計量された赤色の色素を注入した。

サイボーグ体に使われる人工血液は、透明で薄い黄色をしている。それは、血管が見えず手術が難しくなることを意味する。それを防ぐために色素を注入するのである。血管が見やすくなると、脳のどの部分が働いているかを判別するのが容易になる。脳は働いているところの血流量を増やす性質がある。よく働いているところは肉眼でも赤色が濃くなって見えるのだ。逆に働いていないところは必要最小限の血流しか無く、赤色は薄くなり、むしろ青白く見える。この性質は、熟練した脳外科の執刀医にとって非常に重要な手がかりなのである。

 

そして、その変化する赤色は脳が働いていることを示す。つまり高須が覚醒していることを示しているのだ。

 

覚醒していなければ電極と脳の各部にどのような影響が出るのかを調べることが出来ない。医師はびっしりと植え込まれている線の一つにプローブを当てた。このプローブには100MHz程度のごく弱い高周波が送られている。プローブの信号は線に当たるとその線に流れる。線は絶縁されているが、高周波だとナノメートル単位の被覆ならば超えて伝わるのである。その信号は脳細胞と研究官たちが見守る計測機器へ届き、目的の線であるかを判定することが可能となる。信号は脳細胞にも届くが、高周波であれば、脳細胞はその波について行けず、事実上反応しないことになる。

 極力ノイズが漏れないように、先端以外が厳重にシールドされたプローブを、医師が一本一本当てては線を確認していく。研究官たちが計測器に現れたノイズ混じりのシグナルを読み取りながら、目的の線であるか、またそうでないかを医師に伝える。目的の線であることが確認されると、助手が確認された線にそっとペイントした。信号の変形や、他線への影響を極力排除するため、出来るだけ脳に近いところに接続するのである。それで、研究官たちが操作する計測機器へ必要な信号を取り出し、また必要な電気刺激を送ることが可能となる。

原田は、ヘッドホンを片耳に当て、脳波を観察しながら、じっと高須の動向を見守っていた。目の前のマイクのスイッチを入れれば覚醒している高須に話しかけることもできる。また、高須が声を出すように運動神経を働かせれば、その動きをシミュレーションした音声が医師や研究官たちに伝わるようになっている。ただ、それらの行為はノイズとなって計測を邪魔するので、基本的には会話は行わない。

「シグナルをどうぞ」

三田教授が河本たちに合図を送った。

No.Aにシグナルを送ります」

研究官はダイナミックレンジの最低レベルから順に信号を送っていく。ごく弱いインパルスから順に強いインパルスへ。その信号強度があるところに来ると、脳波の動きが変わる。

神経細胞、ニューロンは信号をインパルスとして伝える。そして、ニューロンは閾値を持ち、ある強度以下の信号では反応せず、閾値を超えたところで反応するという性質がある。閾値を超える信号を与えて、脳細胞を反応させないと刺激を与えたことにはならない。

「反応しました」

明らかにインパルスによって脳が反応している。しかし、問題となる脳波ではない。

「よし、次にいこう、閾値の信号強度を記録しておけ」

「やってます」

河本は次の線に信号を送るように命じた。

 

一本だけの組み合わせでは特に問題の反応は現れなかった。これから、2本の組み合わせ、そしてもっとも可能性の高い3本線の組み合わせに移る。

「反応が出ませんね」

「まあな、何もかもが未経験だ、これが駄目ならまた別の方法を試すさ、そんなに簡単にうまくいくわけじゃない」

「そうですね」

一つのシグナルを試すたびに注意深く脳波を見守る。1本の組み合わせが終わり、2本の組み合わせ、そして3本の組み合わせを試すには相当の回数をこなす必要がある。

2本の組み合わせを試し、3本線の組み合わせに入った。これからは123乗の組み合わせがあることになる。

順番に全ての組み合わせを試せば良いというものではない。同じ線に何度も刺激を加えればその部分の反応は鈍化してしまう。それぞれの線の刺激が適当に間を置いて繰り返されるように組み合わせを設定している。それでも鈍化、つまり慣れは完全には防げないが、いくらかでも遅らせることは出来るだろう。

 

「つぎ、C33F10I22、反応無ければF10を上げて」

「えー C33F10I22、設定しました、打ちます」

「来たか?」

「来ません、F12くらいでもう一度」

「了解」

延々とシグナルを送ってはそれを記録する作業が続く。測定の間は医師たちは脳を見守っているしかない。しかし手術室の中で、じっと緊張を維持するのは相当な負担である。研究官たちも疲労しているが医師たちも疲労しているだろう。

「三田教授、しばらく休憩としてはどうでしょうか」

河本が三田教授に進言する。

「患者は保つか?」

「休憩の間は私が付いています」

「わかった」

助手が監視を申し出たため、三田教授は河本の方を向いてうなずいた。

「ふう」

緊張から解放されて原田は手足を動かして、体をほぐす。

「はむ」

飴を口に放り込んで、スクリーンに映し出されたままの高須の脳をみる。覚醒していることを示すように、ゆっくりとある部分が赤くなっては、消える。脳の赤色の濃淡は緩やかにうごめいている。

早く終わらせてあげたかったが、医師や研究官の体力にも限界がある。すでに数時間が過ぎ、医療ミスのほうが恐ろしい。

 

作業を再開して、3本の組み合わせに入った。もう、組み合わせの数が多すぎて全てを確認することが出来ない。

「カテゴリA3から埋めていこう」

「わかりました」

操作する研究官が、印刷された冊子のページをめくる。可能性の高い組み合わせをあらかじめ印刷してあるのだ。

「あ、」

研究官の一人が声を上げた。一瞬だったが脳波が大きく変化した。だが、同じ組み合わせではもう反応はない。

「ノイズか?」

「わかりません」

「今の組み合わせは?」

D24G12K5です」

「もう一度やってみよう」

「はい」

研究官が、再び同じ組み合わせで信号を送ってみる。しかし、いくらかは脳波が動いたものの、激しい動きではなかった。

「慣れてしまったかな」

「かもしれませんね」

脳は機械とは違う。常に入力に対して反応し、その反応に応じて脳を作り替えていく。そのため、常に同じような反応を返すとは限らない。

「近傍をいくつか試してみろ」

「了解です」

研究官の一人がいくつかのシグナルを試す。いくつかの組み合わせが脳波を乱すが、大きくは変わらない。

「このあたりの確率は高そうなんだが」

反応は薄いものの、脳波が乱れる状況が発生し始めていた。やっかいなのは強い反応がなかなか再現しないことだ。一度強い反応があると、同じ刺激では反応が無くなってしまう。それは神経細胞そのものが持つ平衡機能のためである。

 

「あー、ちょっとまって、一連の作業のデータをひととおりくれないか?」

岡野3佐が口を開いた。

「データですか、どういうデータで?」

「組み合わせと脳の反応のデータを表にしてくれ、今のデータから統計処理をしてみるよ」

「は、はい、了解しました、ですが脳波の方は別ファイルになりますが」

「いいよ、見ればわかるからそのままでくれ」

「わかりました」

データを集めている間、岡野3佐は瑞香を手招きする。おずおずと近づいてきた瑞香に岡野3佐は小声で話しかける。

「多元クラスタリングします、ちょっと手伝ってください」

「ああ」

瑞香は大きく頷いた。クラスタリングは沢山のデータをいくつかのカテゴリに分類する手法である。データマイニングの専門家である瑞香はその手法に心当たりがあった。

「わかりました、ツールを用意します」

「頼みます」

岡野3佐は頭を下げた。

 

視覚刺激もノイズの原因となるため、高須の目の前は暗闇しかなかった。ときおり何かがフラッシュバックするような感じは電極から脳に刺激が与えられているからであろう。電極の一部は視覚野にも差し込まれており、当然その刺激は視覚に影響を与える。そうでなければ直接イメージを脳に送り込むことなど出来ない。

(はっ?)

高須はなにかいやな感じがした。それが何かはわからなかった。刺激が与えられるたびにどこかが覚醒してはまた眠る。本来脳は外部からの刺激に対して、必要な部分が覚醒して、適切な判断を行っていくのである。全ての部分が常に動いているとは限らない。アクセルとブレーキが同時に動いても無意味である。適切に動くべきところが動き、止まるところが止まってこそ、脳は正常なのである。

 チカッ、チカッと刺激がわずかの間を置いて繰り返される。その刺激がだんだんと目覚めてはいけないようなところに近づいているような気がして、高須はおびえた。

(いやだ)

チカッ

(来ないで)

刺激は高須が封印している記憶のすぐ前にまで来ていた。扉を開いてはならない。思い出しちゃいけない。平静に平静に。

高ぶろうとする意識を意志の力で押さえ込む。

(ほっ)

刺激はまた別のところへ飛んでいく。だが、不意にその刺激は扉のすぐ近くにたたきつけられる。

「う」

(ああっ!!、だめ、平静に)

突き抜ける刺激が一瞬扉を開いた。高須は闇のうごめくその扉を強引に閉じる。

(大丈夫、もうこの程度の刺激なら扉が開くことはない)

どんな刺激が来るかを知っていれば、心の準備が出来る。封印した闇など見たくない。その刺激と楽しい記憶を結びつければいい。封印した記憶とつながる刺激など何もない。そんな神経は全て切断すればいい。そんな神経なんて無くなってしまえ。

チカッ

(あ、だめ)

扉が開く。逃げても逃げても扉を開く手はゆるまない。どこにもつながっていないはずの記憶の糸が封印した闇を再生させていく。

(もう … 壊 れ る …)

(いやああああああっ)

 

彼に振られて、ずっとたたずんでいた参道の端、それからのことは自分ではない自分がやったこと。

彼女は彼が立ち去った後も、しばらくの間参道に立っていた。夕日が沈み、周囲には紺色の闇が押し寄せてくる。ひんやりとした風とは裏腹に、彼女の胎内は熱くなっていた。彼が欲しかった。この熱さを冷まして欲しかった。今まではそんなことなど考えたこともない。あこがれてはいたし、好きになるのなら彼だという自覚はあったから、いつかは、という期待がなかったわけでもなかったが、本当に彼にあげてもいいと決心したのはほんの数日前のこと。今までは、同じような日々が続けばそれでもいいと思っていた。でも、決心してから、数日でその決心が粉々に砕けるのは何の悪夢だろう。そして、何度も求めてきた彼とのひとときは、もう二度と実現することはない。

「馬鹿だ、わたし」

胎内の熱をもてあましながら孤独の自分が、ひどく馬鹿らしく感じた。それと同時に、自分を満たしてくれるものがいつかは見つかるのだろうかとひどく不安になった。

たまらなかった、相手が見つかるのかという不安、いや、そもそも女として見てもらえるのかという不安。裸になればわずかのふくらみはあるが、ごく薄い服でもわからなくなるくらいの頼りないもの。顔だってかわいいと言われたことはあっても、それがどの程度本当かなんてわかったもんじゃない。

彼女は繁華街に足を向けていた。学生服のまま、うつむき加減に、しかし他人がどのように自分を見ているのか、そんな視線を観察しながら歩いていく。自分がイメージした魅力的な自分を装って。そして、もし、もし相手をしてくれる人がいるならそれでもいいとさえ思っていた。熱いものを抱えたまま、ずっと一人でいるのは気が狂いそう。一度きりでもいい。自分の存在価値が再確認できるのなら。

「ありゃ、姉ちゃん、かわいいね、一緒に来ないかい」

数人の酔っぱらいが声をかける。まともに相手をしてくれるとは思えない。曖昧に引きつった笑顔を見せて離れる。

何度か声をかけられたが、どれも本気ではない。良さそうな男の人はみんな彼女を連れている。一人でいる男の人はたいてい店の客引きだった。こんなところで暗い顔をして歩いていたら場違いにもほどがある。心の中は闇のまま、繁華街の花の一つになったかのように振る舞いながら歩いていく。

「なにやってんだろ、わたし」

店が途切れて、急に暗闇が迫る繁華街の端で、結局何もなく歩いただけの自分はひどく滑稽だった。

「帰ろう」

繁華街を通る気はもう無い。一つ二つ離れた通りへ移り、鬱陶しい酔っぱらいがいないところを選ぶ。

「はあ」

一つ角を回ると、道の真ん中に一台の車が止まり道をふさいでいる。車が邪魔だから道の端をすり抜けて何事もなく通り過ぎようとする。

「なにやってんの」

「すみません」

車の近くで二人の男が立ち話をしている。車と壁の隙間を苦労してすり抜けようとする高須にひとりが声をかけた。

「学生か、塾の帰りか?」

「え、い、いいえ」

男が行き先をふさいでいる。戻ろうとするが、後ろにも人の気配があった。

「すみません、行かせてください」

「家近いのか?」

「………」

何も言えなくなり、下を向いているとなにかひそひそと声が聞こえる。怯えながら早く去って欲しいと思ったが、彼らはなかなか離れてくれない。

黙っていると、不意にぽんと肩を叩かれる。

「!!」

顔を上げると一人の男が顔を近づけてきた。タバコのにおいが鼻につく。

「なあ、1万で相手してくんない?」

「え?」

「エンコーだよ、普通の学生がこんな時間にこんなところにいるはず無いからさ」

「い、いえ、そんなんじゃ」

「誰か相手待ってんのかよ、相手はじじいか?」

「ははっ、女子高生が1万で相手なんかするかよ、貧乏人はやめとけ」

声をかけた男にもうひとりが突っ込みを入れた。

「うぜえ、おまえは黙ってろ」

言い返しておいて、また高須に迫る。

「なあ、おまえ学年は?」

「…3年です…」

3年かあ、高校だよな」

つい正直に言ってしまう。男は肩に手を乗せたまま、高須の返事を待った。

「すいません、通してください、きゃっ」

男が制服の上から高須の薄い胸をつまんだ。そのとたん電気が走るような激痛を感じる。

高須は男の手の上から胸を押さえた。

「いや、やめてください」

「ほら、これならどうだ」

「う」

手を広げて、胸全体を揉みしだく。力加減を知らない男の指で、胸の奥の固まりに振れられるたびにがつんと激痛が来る。だが、先端にその指が来るとき、ぞくりとする快感が背筋を這った。

「なあ、いこうぜ」

気がついたら、車に押しつけられていた。その手は胸だけでなく、徐々に下半身に向かってくる。本能的にそれが求めているものに気づいて、熱い部分がきゅっと締まった。

「いや、いやです」

頭を何度も左右に振った。しかし、男はもう関係ないと高須の両手をつかんで車に押しつけた。両手が開かれ胸が無防備になる。

「おい」

「ああ」

もう一人が加わって、なにやら意味ありげな目配せをする。高須は正面を向いて押さえつけられたまま、いやでも彼らの顔と向き合うことになる。

「車にのれよ、楽しもうぜ」

「うぐ」

もう一人の男が、大声を出そうとする高須の口をふさいだ。全身がガタガタと震え、大粒の涙をこぼしながら、高須は男たちをにらみつけた。

「心配するな、やることやったら帰してやるよ」

口をふさいだまま車に引きずり込まれる。一人はそのまま高須を押さえつけたまま。もう一人が車のエンジンを掛けた。

「うぐっ、ううっ、うう」

小柄な高須では、男の手に抗うことが出来ない。

やがて、車は人目の付かない場所に移動して、止まった。

 

山の中なのか、月が出ていないため、辺りは真っ暗である。どの方向を見ても光らしいものは見えてこない。

「ここなら邪魔は入らないな」

男が高須の口をふさいでいた手を外した。

「帰して…ください」

高須はガタガタと音を立てるほどに震えていた。

「いやっ」

突然、男が胸をつかんだ。そのまま服を引っ張る。

「どうだ、服を破っていいのか、それとも自分で脱ぐか?」

抵抗する手が止まった。服を破られれば帰れない。それに親に黙っていることも出来ない。自分がやった馬鹿な冒険がすべてさらされることになる。

そっと、ジャケットのボタンに触った。これを外せばもう戻れないような気がする。男たちはみずからジャケットのボタンに手を掛けた高須を見て、待っていた。ここで抵抗すればどっちにしろ服を脱がされることは間違いないだろう。高須に選択肢はなかった。

「ぬ…ぎ…ま…す…」

高須は、自分から制服に手を掛けた。ジャケットを脱ぎ、震えながらブラウスのボタンに手を掛ける。

ひとつ、ふたつ、上から順にボタンが外れていく。ブラウスの隙間から下着が顔を出したとき、男たちの喉が鳴った。

ブラウスのボタンは全て外された。しゅっと紐ネクタイをほどくと、ブラウスは大きく開き、下着があらわになる。

男たちがじっと自分を見つめているのが痛いほどわかった。袖のボタンを外して、ブラウスを脱ぎ捨てたとたん、肩が外気に触れて、ひんやりとした冷たさを感じた。高須はスカートに触れた。

「これも…ですか…」

声もなく男たちがうなずくのを見て、スカートに手を掛ける。ホックを外して、ファスナーを降ろす。これを脱いでしまえば、もう彼女を覆うものは下着だけ。

スカートを脱ぐ手がこわばった。

「………」

ほんのすこし間があった。しかし、男たちの視線はそれをやめることを許さない。

「ぱさっ」

スカートはあっけなく落ちた。そこに現れたのは、高須としては精一杯おしゃれした下着。今の元気な同年代と比べれば、それでも地味だろうとは思う。でも彼にかわいいと言われるために、精一杯選んだもの。それをどこの誰かわからない男たちに見せている。

男たちが目配せした。

「おまえが引っかけたんだから、おまえからでいいよ、」

「一人で逃げるなよ」

そんな会話をかわすと、一人の男が突然高須を抱きしめ、唇を奪った。

「うぐ、うむっ」

長い口づけがおわると、車のシートが倒された。一方の手がブラジャーの下へ、そして、もう一方がショーツの中に入れられる。

「あ、ああっ」

荒っぽくもみしだかれる胸の痛みと、股間の鋭い刺激、両方とも痛みにしか感じない。だが、しばらくすると、その悲鳴は甘い声に変わっていく。

「ん、んんっ」

胸の先端が指の間で転がされ、同時に股間の敏感なところがこすられる。そして、その指は奥の湿った部分に移っていく。

「あふうっ」

固く閉じた足の力が抜けそうになる。男の指はその間にぐいと押し込んでは敏感なところや湿ったところを刺激し、不意に抜かれた。

それが何度も繰り返される。やがて、高須は足を固く閉じることをやめた。

「足上げろよ」

ショーツに手が掛けられた。高須がのろのろと足を上げると、ショーツはするりと引き抜かれる。

「ブラも取るぞ」

背中の下に手を入れられて、ブラのホックが外された。

下着を全て取られた高須は、車のシートの上で、もはや何も覆うものもなく、小柄な体を晒される。

おもわず両手で胸を抱き、身を守る姿勢となるが、男たちには何の防御にもなりはしない。

固く閉じた足を両手で掴まれる。

「行くぞ」

両足がぐいと開かれた。今まで他人には見せたことがない部分があらわになる。高須はもう、抗おうとはしなかった。

「あっ」

すでに濡れていた部分に強引に押し込まれた。受け入れたことのない部分は、始めてのものを受け入れて、限界を超えて押し広げられる。

「きゃあああっつ」

なにか、ぶつり、という衝撃とともに激しい痛みが背骨を貫いた。全身がその痛みで硬直する。受け入れたところは、それに抗うように締め上げたが、それは痛みをより強くすることでしかない。

「なんだ、処女だったのか」

男がつぶやく。だが、高須はそれどころではない。思わず男を押し返すが、高須の力では男の体はびくともしない。むしろ興奮してさらに奥深くにねじ込もうとする。

「いやああっ」

「おとなしくしろよ」

一生懸命押し返す手を、男は簡単につかんで広げた、両手を押さえられ、何も出来ないことを思い知らされる。

強引に奥まで押し込まれたあとは、ゆっくりと動き始める。激痛に涙を溢れさせながら、高須はだんだんとあきらめの気持ちになっていた。

(ちょっとだけ痛いのを我慢すれば終わる。それまで我慢すれば良いだけ)

顔に男の息が吹きかけられ、時折首筋に舌が這う。痛みと恐怖、そしておぞましさは限界を超えると、もう何も感じない。

感じたくないものは感じない。意識しなければ感じない。

そう、忘れれば、何もなかったのと同じ。もう、なにも考えなかった。心を消した高須の上で、男たちの行為は何度も何度も繰り返された。

 

「ほら、これで口直ししろよ」

渡された缶コーヒーを口に含んで、口の中を洗い流す。麻痺した精神では、結局何回されたかわからない。

放心状態の高須は無理矢理起こされて、脱ぎ捨てた制服をもう一度着させられた。それが終わると、まだぼんやりとした状態で、与えられたコーヒーをすすった。口の中はまだ粘つく体液が膜を作っていた。

股間の焼けるような痛みは、まだまだ続いている。大きく裂けたのか、なかなか出血が止まらない。下着を汚さないようにティッシュを数枚重ねてあてがう。

「じゃあな」

どこで降ろせばいいか聞かれたが、自分の家を教えるわけにはいかなかった。かといって帰れないような場所に放り出されても困る。高須は祖父の神社に近いところを指定した。荒っぽい運転でしばらく揺られて、指定した場所で降ろされる。お定まりのように、誰にも言うんじゃないぞ、と念を押されたが、はじめから誰にも言うつもりなど無い。

無意味にアクセルを吹かして逃げるように去る男たち。その後ろをみながら、小さくつぶやく。

「殺してくれた方が良かったかも」

そうすれば、今夜の出来事は全部彼らのせいに出来る。いまさら家に帰って、家族にどうやって顔を合わせようというのだろう。

ざくっ

道路の上に乗っている砂が高須の足取りを乱した。股間からの出血が止まらず、いつの間にか下着だけでなく、スカートにもその鮮血が染みこんでいる。大事な部分が腫れ上がって、歩行すらも困難になっていた。

熱い血が足を伝うのがいやで、ハンカチを突っ込んでみる。道ばたにしゃがんでそんなことをしているなんて、普通なら考えられない。

突っ込んだときに、行為の感触がよみがえった。痛みと共に確かにあった快感。だが、それを感じた自分自身が、一番おぞましい存在。

 

祖父の神社に向かう。よく知っているこの場所なら、朝まで時間をつぶすことも出来る。もちろん祖父に会うことはないけど。

できればしばらくの間、だれとも相手したくはない。

感じるたびに憎い自分と向き合いたくはない。

そんな自分いらない。

いつしか、真っ暗だった辺りには薄明かりが射していた。もうじき朝になるのだろう。

目の前には古い祠と高い崖。

朝日が差したら、また日常の自分に戻らなくてはならない。

戻れない。戻れるわけがない

戻りたくない。

高須は足を一歩踏み出した。それで、この出来事はおしまい。なにもなかったことに。

 

Stage7 感情の限界、理性の行き先

 

もう思い出したくなんかない。封印したいのに、何かが無理矢理に心の闇をこじ開けてくる。もう逃げ場はない。自らを終わらせることすら出来ない。心はそれを受け止めることなど出来はしなかった。最後の鍵はもろく砕けた。

「ひゅく、ひゅく、ふぇん、ふぇぇぇーん」

扉が壊れた。

 

「!」

スピーカから漏れ出てきた高須の悲痛な泣き声、それは全員の耳に届いた。

 

「ノイズ出てます、強い」

岡野と瑞香が発見した組み合わせに信号を送ったとたん、間欠的だった脳波が連続して激しく暴れ始めた。すぐに収まるかと見ていたがその波は収まろうとはしない。三田教授は手術室に移っているディスプレイの脳波を見ると、助手に命ずる。

「対象信号線を切断、河本さん、いいんだな」

OKです、切断してください」

河本が頷くと同時に医師たちは、問題を引き起こした信号線を切断した。二度と影響を受けないように端点処理する。

「脳波は」

「止まりません」

「急いで抗痙攣薬投与、0.2単位」

「はい」

規定量の薬剤をアンプルから吸い上げ、注射器で人工心肺に注入する。

「河本さん、大脳皮質のシグナルを記録しろ、急げ」

「は、はっ」

「さらに抗痙攣薬を倍量注入」

三田に言われて、慌てて記録装置を作動させる河本、何度か失敗して、なんとか記録の取り込みを始めることに成功する。

「先生、治まりません」

原田が脳波計を見ながら悲鳴を上げた。医師の一人が三田に進言する。

「このまま続くと障害が発生する恐れがあります」

「うむ」

三田の額に汗が流れた。看護師の一人が三田教授の眼鏡を持ち上げて、にじんだ汗を拭きとる。

「速やかに対処しなければ危険です」

「わかっている」

三田は決断を迫られていた。だがその決断はあまりにも難しく重い。しかし、ゆっくり考えている時間はなかった。しばらく考えて、ついに三田教授は低い声で決断を下す。

「前頭葉の患部を特定する、術式を変更、前頭葉切除術の準備に入れ」

「え、?」

原田の耳に信じられない言葉が舞った。

 

脳の激しいパルスは、特定のところから起こった異常なバルスが脳全体に波及することによって起こる。そのパルスが別の部分の興奮を引き起こして、それを繰り返し、異常な興奮状態が続くのが原因である。抑制がきき、すぐに治まってしまうのならば、それほど危険はないが、連続して続けば記憶障害や意識障害の危険がある。

激しいパルスを引き起こす原因が前頭葉に存在する可能性はすでに指摘されていた。過去の例からも類似の発症例が存在する。ただ、その引き金になる刺激を見つけて、引き金が発動しないようにすれば、前頭葉に手を入れる必要がなくなるのである。

そして、いま、手を入れようとしている前頭葉は意志や判断、情動の重要な機能を受け持っている部分だった。

 

原田の耳に入ってきたのは前頭葉を切除するという判断だった。そして、それが何を意味するかわからない原田ではない。その手術による性格の変化、情動の消失、高須を構成する重要な要素が殺されてしまう可能性は十分に考えられる。

そこに思い至ると、全身が電気に打たれたようにぞっとした。気がついたら原田はマイクを握っていた。

「三田先生、本当に前頭葉の切除をされるのですか」

三田教授はその非難めいた言い方に、じろりと原田を見返した。

「前頭葉の患部を特定して、原因となっている部位を切除する」

「ほかに方法はないのでしょうか」

「なにかよいアイデアがあったら聞こう、急いで処置しないと危険ではないかね」

「すみません」

専門外で経験も少ない原田では、三田に言い返すことすらも出来ない。その間にも脳の患部の計測が進んでいた。磁気と赤外線による脳機能の計測がおこなわれ、原因となる患部範囲が特定されている。

原田は代わりとなるような処置手段を思い出そうとした。しかし、原田は血液や刺激の平衡安定が専門である。刺激については多少の知識はあるが、今のような状況では自信を持って対応できるほどの知識は持たない。その原田の知識を持ってさえ、三田教授の処置は正しい処置といえるものだった。

(なにか、なにかないの、彼女の心を切り取る前にやれることはないの?)

(考えろ、考えろ、明子、もっと、もっと、…)

暴れる脳波をそのままにしておけば、それだけで危険である。まさに時間との戦いであった。死ぬもの狂いで考え続ける。気がつくと手足が震え、気持ちの悪いどろりとした汗が背筋を這った。だが、それでも納得できるアイデアは出ない。

 

「だめだ、守れない」

じっと手術室を見つめている原田の目からしずくがこぼれ落ちていた。

「ごめんね」

もちろん、高須は死ぬことはなく、復帰するだろう。だがその中に以前と同じような高須の心が残っているかどうかはわからない。あんなに大見得を切って、えらそうに高須に説教し教え諭した。だが、もし、その心が死んでしまっていれば、それは高須が亡くなったのと同じではないか。

「何にも出来ない馬鹿だ、なに思い上がっていたのかしらね」

ぽたぽたとしずくをこぼしながら、でも何も出来ずに、準備が進められる手術室を見つづける。

「ほんとに恵美ちゃんのために死ねるとでも思っていたの?、そんな勇気がどこにあるの」

手術が始まった。光学機器を駆使し、針のようなメスで、特定の部分を切り取っていく。原田の目は手術を見つめていたが、それはどこか別の、自分とは関係ない世界の出来事のようだった。

「は、どうせ恵美ちゃんが復帰したら、同じように医者の顔して、いつもと同じように過ごすのよ、恵美ちゃんの大事なところは死んでいても、そんなことなかったような顔してね」

「良かったじゃない、全部死ななくてさ、死んでないって言い訳できるわよ、よかったわね、馬鹿な原田明子さん、うっ」

そのまま顔を涙でぬらしながら、床に崩れ落ちる。嗚咽が室内に小さく響いた。

 

原田の態度が尋常ではない。原田の異常を見つけた河本が、原田の肩を叩いた。

「しっかりしないか、最後までしっかり手術を見ていろ」

くしゃくしゃの顔のまま、原田が顔を上げる。

医師たちは光学機器で脳をのぞき込みながら手術を続けている。測定された異常部位を正確に脳の表面にポイントし、その点とも見えるような微小領域を、想像を絶するような細かさで切除しようとしていた。

「これは… 最先端の微細脳手術… 」

熟練され、研ぎ澄まされた技術をもった執刀医によっては顕微鏡などを駆使することで、ミクロン単位の精度でメスを進めることが出来るものもいると言う。目の前の手術はそれにも引けをとらないものだった。光学機器を使用していると言っても、メスは手で扱うしかない。執刀医は目を光学機器に当てたまま、出来るだけ脳を傷つけないために、困難な作業を遂行している。

「位置をもう一度確認して」

150+の120−、そう、そこです」

「レーザーメスくれ、パワーコンマ3で、パルス」

「設定しました」

三田教授の指導の下、熟練した執刀医が、測定された領域を正確に切り出していく。その大きさは小さすぎても意味はない。大脳皮質にはセルと呼ばれる単位がある。問題のあるセルの集合体だけを正確に切り取っていくのである。

 

いつしか、原田はスクリーンに見入っていた。

「お願いです、どうか、どうか、彼女の心にすこしでも影響が少ないことを…祈らせて…下さい…」

麻酔を掛けられ、温度を下げられた高須の脳は、先ほどの測定の時とはうって変わって、青白くなっていた。赤みの失せた脳は標本にあるような死んだ脳に見える。

「恵美ちゃん、もし、もし、心が壊れてしまったのなら、ごめんなさい、私はそれしかいえない」

「ごめん、ごめんなさい」

「ごめん………」

「………」

 

(ここは?)

高須が気がつくと、そこは病室の一室だった。ちょっと反応の遅れる視界には、天井しか写っていない。

ものすごい悪夢を見ていたような気がする。何を見ていたのかは思い出せないが、いやな感情が渦巻いていたことだけは覚えていた。

(そうだ、手術だった、手術は終わったの?)

視界には使い慣れた義体の表示が並んでいる。高須が手をぎゅっと握りしめると、かさっ、という音がして、義体が正常に動いていることもわかる。

(終わったんだ)

手術が成功だったのか失敗だったのかはまだわからなかった。しかし、悪夢が終わったことだけは間違いない。

(今からどうするんだろう………)

考えているところに、不意に原田の顔が現れる。

「目が覚めましたか?」

原田の顔が心持ち硬い。小さくうなずくと原田は高須のベッドの脇へ移動した。

「体調はどう?」

どう答えて良いかわからない。どう答えようか考えていると、原田も自分が言った曖昧な質問にちょっと顔をしかめて、もう一度聞き直した。

「えっと、自分の名前わかるかな」

「はい」

「言える?」

「高須恵美です」

答えると原田が小さく笑った。

「よくできました。それじゃーね、私の名前わかるかな?」

「原田明子さんです」

「ご名答、良くできました、じゃあ、ちょっと検査するね、いい?」

こくりとうなずくと、原田は胸ポケットからボールペンを取り出す。

「これをずっと見ててね」

原田がボールペンを右に左に動かす。高須の目がボールペンを追った。原田はその目の動きを真剣な目で観察している。ふと高須は原田のボールペンを持つ手が震えていることに気づいた。

「手、震えてませんか」

「あ、あ、わ、わかっちゃった?」

原田が頭をかく仕草をする。しかし、原田はそんな癖など持っていない。

「なにか変じゃないですか、原田先生」

「へ、変かな?、あっ」

ボールペンを落として、慌てて拾おうとする。そのときに椅子がずれて、原田が尻餅をついた。

「あいたた、ドジで困るわあ」

「あはっ」

高須が小さく笑い声を漏らした。

「!」

高須の笑い声を聞いたとたん、原田の目から涙が溢れた。その涙は次から次にあふれ出る。ほおを伝い、そのしずくが白衣を濡らす。

「原田先生どうしたんですか」

「あ、いや…、ちょっと…、ごめん…、ちょっと…、まって…」

途切れ途切れに答えるも、殆ど言葉にならない原田。その涙はしばらくの間止まることはなかった。

 

Stage7 速度の限界

 

ある地方都市の直下で地震が発生した。マグニチュード8.0、震源地付近の最大震度は6強。

住宅地が密集していて、都市中心部では比較的古い建物が多く、この地震によって多くの家屋に被害が発生。一部のビルも崩落した。

政府および防衛省は近隣部隊に対して災害出動を発令。各部隊は災害派遣部隊の編成を開始した。

 

自衛隊駐屯地の敷地内で、災害派遣の準備が進められていく様子を横目で見ながら、原田は集中指揮官候補生の訓練を見守る。彼らに対する出動命令は今のところ発令されてはいない。リハビリ中とはいえ、すでに生身の研究官では速度的に相手にならず、教育中の集中指揮官候補生を交えての仮想訓練が行われている。年齢的には二人とも高須より上だが、脳改造が出来る条件を満たす隊員はなかなかいない。従って、高須の相手が出来るのは、今のところ候補生の島と中野の二人しかいない。

仮想訓練と言っても、出来るだけ現実に近い情報をシミュレーションするため、オブジェクトの項目は一人当たり2万件、データ項目は20万件に達する。戦闘が進むたびに、その項目はシミュレーションして書き換えられていくから、ちょっとしたスパコン級でないと処理しきれない。

 

「はい、島君はおしまい、離脱ね」

「中野さん、がんばれ」

「恵美ちゃんはそのままいって」

 

高須一人に対して、島行雄2曹と中野亜由美3曹がそれぞれの部隊を率いて戦っている。

島の主力部隊はすでに包囲されて武装解除された。徹底抗戦で最後の一兵まで戦うように指令することは可能だが、実際の戦闘でそんな無茶を聞いてくれる隊員がいったい何人いるのだろうか。そもそも、そんな状況に陥らないようにするのが指揮官の役割であって、包囲された時点で、この訓練での指揮官としての資格は無いも同然である。

 

中野「ぐっ、しまった、特車止められた、ポイントaへ支援砲火」

高須「第2中隊はポイントbの通信隊を撃破せよ」

中野「通信不能、第4中隊は通信隊の防御に向かえ」

高須「ポイントcの狭隘道から前方200メートルの地点へ布陣、迎撃準備」

中野「前方に装甲車を配置、索敵を密に」

高須「攻撃開始」

中野「え、情報来ない、なんで?」

 

中野亜由美3曹に前線からの情報が入らなくなり、打つ手が無くなってしまう。一番必要なはずの最前線状況が全くアップデートされなくなり、状況は止まったまま。見えないところで何が起こっているのか、碌に想像すら出来ず、中野は固まってしまう。

「き、拠点防衛だけは維持しないと、全基地局、状況を知らせ」

乱戦に陥った状況での無線通信など、妨害電波の殴り合いである。高度な妨害対抗性をもった通信方式もあるにはあるが、出力は限られる上に、範囲もごく小さい。妨害電波による攻撃の中では、ごく近距離の部隊同士が何とか連絡を取れるというだけのことに過ぎない。

島と中野が布陣した部隊のいくつかが、戦闘行動も何もないままに、部隊状況がグリーンからイエローに変化した。レッドは戦闘状態を示す。イエローは状況が不明であることを示す。つまり、実際には安否がわからない。戦闘行動が出来るものなら参加させたいのだが、生きているのか死んでいるのかわからない。指揮官にとっては一番いやな状況である。

「まだまだよ、あきらめちゃだめ」

中野は次々と縮小する布陣を、残った部隊で必死に立て直そうとする。

「残った中隊は各自拠点防衛に入れ」

後方の部隊を重要な拠点に配置させていく。島の部隊が壊滅した以上、残りは全て中野が処理しなければならない。

 

高須「特殊部隊は司令部の攻撃を開始せよ」

 

後方の部隊を前方に移動させた時点で司令部の防御が薄くなる。その隙を突いて司令部へ迫り、前線での指揮に集中しているところを逆手にとって、司令部を直接狙う。中野は司令部への攻撃判定が出て、歩兵での防衛を行おうとしたが、特殊部隊であることを知って、ついにあきらめた。

 

「はい、おしまいね」

中野が白旗を揚げるのを見て、原田が終了を宣言した。

「やられたあ」

中野が悔しそうに声を出す中で、原田は通信機材を取り外すのを手伝ってやる。

島と中野が力尽きたようにのろのろと機材を外すのを余所に、高須がすっと出てくる。一瞬ふらっとして、かろうじて立て直す。

「おつかれさま」

「おつかれさまです」

島と中野にとって、高須と原田は一応上官である。

高須は島と中野をじっと見る。しばらく二人を見つめると高須は口を開いた。

「島2曹、中野3曹、ひとつだけアドバイスします」

「はっ」

二人が直立不動になると、高須は小さく話し出す。

「見えないものが見えるように努力してください。見えなくてもその部隊はそこにいるのです。あなたたちの支援を待っているんです。たとえ見えなくても見放さないであげてください、実戦ならそこに人がいるんです」

高須はそれだけ言うと、小さく頭を下げた。

「あとはデブリーフィングで」

高須はすこしよろめきながらその場を去る。まだ本調子ではない。集中指揮システムリーダーの河本は災害派遣部隊の編成の関係で外出している。デブリーフィングは河本の帰還を待って行うことになる。

 

原田の机の電話が鳴った。

「はい、指揮訓練所です。あ、はい、原田です」

「あ、やっぱり命令出ましたか…でも、まだ、はい?」

「義体者の指揮限定ですか…でもそれだけですみますか?」

「ええ、医者としては、もう訓練はこなせるので、出来ないと上申する理由はありません、可能かどうかと言われたら、可能と答えるしかないですね、まだ訓練ではつらそうなんですが」

「は、はい、わかりました、出動準備ですね、指揮設備の手配を」

「ふう」

司令部に出ていた河本からの連絡に、原田はため息をついた。

「準備命令が出ちゃったか」

高須は訓練はこなせるようになったが、まだ完全に障害が修復されているわけではない。候補生の二人はまだ経験が浅く実戦には不安があった。原田は気が進まずのろのろと電話に手を伸ばす。出動準備命令が発令されている以上仕方がない。

「高須准尉、島2曹、中野3曹、出動準備命令が出ました。高須准尉に救難指揮待機命令、島、中野両名はバックアップとなります。至急出頭してください」

 

「システムオールグリーン、準備良し」

「島君、中野さんも接続して」

「補助要員全員配置に付きました」

「よし、始めよう、接続開始」

莫大な情報が飛び交っている陸自通信システム、これに加えて有線、無線、それから民間の通信や電算機用のデジタルパケット信号などの莫大な情報が流れ続けている。そのうちの義体関係の管理情報がまず、指揮通信システムに流れる。

「義体管理情報接続、同期中」

今までの状況がわからないのに、いきなり指揮を引き継ぐことは出来ない。すでに指揮が行われている情報を受け取り、しばらくの間状況を確認してから、適切なタイミングを見計らって交代する。それには指揮をする対象が多ければ多いほど時間がかかる。また、同様の理由で、バックアップもすぐに指揮を交代することは出来ない。バックアップは交代で、主指揮官の情報を共有していかなければならない。

「戦場情報システム上がりました」

「全部隊との接続確認」

本来ならば司令部に流れる情報がこちらにも転送されてくる。その情報を蓄えて、戦場情報システムが状況をマッピングし、作業状況を高須に伝えるのである。

高須が口を開いた

「状況把握しました、行けます」

「わかった」

河本が全体のシステム状況を確認すると、司令部へ電話を入れる。

「河本です、集中指揮システム準備良し、移管どうぞ」

「司令部了解、義体者の指揮を移管します」

「集中指揮チーム了解」

司令部の指令が止まり、一瞬の間空白が起こる。数秒の間新たな指令が司令部から発効されないのを確認すると、高須は矢継ぎ早に指令を開始する。

今回は義体者だけ、だが、適切な指揮をするためには一般の部隊がどのように配置されているか、警察、消防、そして病院の状況はどうか。救助を急ぐ事故現場はどういう状況か、殆ど全ての情報が入らなければ適切な指揮は望めない。

043044が支援要請、第2普通科連隊へ応援を要請」

025026でトラブル発生、消防隊に連絡、消火ヘリ7号に消火要請、至急」

20カ所以上で急を要する救助作業が行われている。高須はその全てを見ていた。

 

「高須より司令部へ、警察、消防、病院、そして近隣中隊への上位指揮権を要求します」

集中指揮官は状況によっては上級指揮系統への指令も行うことが出来る。現在のところ義体者だけの指揮しか範囲に入っていないが、それ以外への連絡の悪さが効率を落とす。

「司令部より集中指揮隊指揮官へ、移管は可能だが耐えられるのか?」

「問題なし、他の部隊との効率低下により指揮遂行が困難と判断する」

 

「ほんとに?」

高須が見ているものを同時に見ているはずの中野が思わずつぶやいた。今中野の脳内を駆け巡っている情報だって莫大なものである。高須が次々と処理している判断は自分には絶対に出来るとは思えない。交代するためのバックアップ要員のはずだが、交代してこの速度を維持せよと言われれば、自分は絶対に逃げ出す。自分が判断するならこの数倍は速度が落ちる。たとえ同じ情報が入っていたとしても自動で判断が出来る訳ではない。判断は自分の意志でやるものなのだ。

 

「集中指揮システムリーダーの見解はどうか」

「はっ、すみません、少し時間を下さい」

河本は考えた。負荷を減らす方が高須にとって良いことはわかっている。だが、指揮がしにくい状況は逆にストレスをためる。さっきからしきりに原田が河本を心配そうに見つめている。原田は指揮範囲を増やすのは反対だろう。

「河本さん…大丈夫でしょうか」

「高須准尉が要求するのなら、仕方ないのかな…」

高須の性格はかなり把握していた。手術のあとは無理をしないことを覚えた。最近の訓練では、後輩にアドバイスをすることもある。一人で全てを抱え込まないことは何度となく教えてきた。それでも彼女が要求する以上本当に効率が悪いことは容易に推測出来た。

「信じてもよいのではないか」

ちいさくつぶやくと河本はマイクを握った。

「集中指揮システムリーダーより、司令部へ上申いたします。高須の要求は可能と判断します」

 

「これも…訓練の結果なんだ…」

中野が、今までの倍に増えた情報を感じながらつぶやく。判断して処理する速度はさらに速くなっていた。

記憶と知識から意識的に考える思考は遅い。論理などを考慮していたのではまともに使える判断速度にはならない。この速度を維持できるのは、高須自身が積み重ねてきた訓練の結果以外の何者でもない。

「わたしには何も出来ないのでしょうか」

つぶやいた言葉が横にいる島2曹の耳に入る。島2曹と中野3曹は、高須准尉の次の段階として、共有分散指揮の訓練を受けていた。やはり一人で全てを処理するのは荷が重い。しかし分散すれば効率が落ちる。そのために効率を出来るだけ落とさず、分散できるような研究が行われているのである。

「中野さん、お願いしてみないか、高須准尉に」

2曹が隣の中野3曹に話しかける。中野3曹は大きくうなずいた。

「やりましょう」

「了解」

二人は負荷分散の訓練として、部隊同士の関係を見抜いて、効率よく部隊を分散する技術を訓練していた。莫大な情報が飛び交う中、密結合の関係がある部隊と、粗結合の関係にある部隊にわけて、分散しても効率の低下が少ない単位に再配置するのである。

ただし、それは情報の大小とは限らない。通信量が少なくても、重要な経路もあるし、通信量が大きくても、影響が少ない経路もある。コンピュータによる自動配置では、通信量の大小しか評価できない。より効率を高めるためにはそこに流れる情報の価値が評価できなければならない。そして、その情報の流れや価値は刻々と変わっていく。その情報の価値を判断するのは人間なのである。

「それでは、中野3曹行きまーす」

「了解、同じく島2曹も開始します」

数多くの部隊や機材、そして人員が動いているデータの流れを評価する。彼らの脳内には莫大な情報が飛び交っている。今までに行った訓練によって、その情報が重要か、速度を必要とするものは何か、彼ら自身の価値観でデータの重要度が評価されていく。

「評価単位の切り分け…終了」

「流量の評価終了」

「速度評価終了」

「重要度算出」

「分散計画算出」

二人は小さく頷いた。二人は同じものを見ている。目の前に表示されている分散配置のグラフは、高須を含めた3名分に分けられていた。それはいわゆる縦割りの部隊単位ではない。それぞれの地域に存在する小隊や警察、消防の単位、そして義体者の位置や能力から計算されたものである。

「指揮官に上申します、分散配置計画を策定しました、分散指揮の許可を求めます」

「了解、分散を許可する」

「ありがとうございます」

中野の顔がほころんだ。直ちに島が分散指揮の手続きを開始する。

「分散指揮、高須チーム稼働中、両名に移管を開始」

「島チーム指揮を開始します」

「同中野チーム、指揮開始」

データの流れが変わった。互いが何をやっているのかの情報は3人で共有されている。しかし、それぞれやっていることは違っていた。義体者による救助とその応援や連携は高須、通信路や交通、電力の確保は島、中隊単位での大規模救助と撤去作業は中野、そしてそれぞれが情報を共有していた。

「高須より両名へ」

不意に高須の通信が割り込んだ。

「無理をせず、出来ないときは出来ないといってください。みんなでやりましょう」

「島、中野、了解しました」

 

Stage8 一人の限界とみんなの限界

 

地方自治体経由で救難作業の協力養成を受け、大西は現地へと赴いていた。なんとか近隣の駅までたどり着き、連絡を受けたサポートセンターのテントまでたどり着くと、補助通信機と腕章を手渡される。

「おつかれさまです、大西さんはイソジマ1級義体ですね、これを接続してください」

「首の後ろに繋げばいいんでしょうか?」

「はい」

補助通信機を接続している間に、自治体職員の女性が腕章を大西の腕に通して留める。それがすむと、大西が持ってきた義体免許証を受け取り、ノートパソコンに識別番号を打ち込む。わずかの時間のあとで、大西の視界に補助通信機が登録され、通信が出来る状態になる。

「ご協力ありがとうございます、よろしくお願いします」

職員が頭を下げると、大西は職員に聞いた。

「ええと、どこに行けばいいのかな?」

「しばらくお待ちください、今つけた通信機から割り当てが連絡されるはずです」

「わかりました」

連絡が来るまで、そこらを歩き回ってみる。このあたりは被害がそれほど無いのか、ビルのガラスが割れていたり、何かのオブジェが倒れているくらいで、たいしたことはない。

「そういえば、充電場所を確認しておかなきゃね」

 充電を受けられる場所を確保しておかないと、力仕事はやりにくい。大西は電源のある場所を職員に聞く。

「充電が出来る場所はあるんでしょうか?」

職員は何度も聞かれるらしく、すぐに答えた。

「このあたりは、停電にはなっていないので、充電は可能ですが、現地では多くの場合電気が来ておりません。通信機で問い合わせると近隣の充電可能場所を知らせてくれますので、問い合わせて下さい。また、場所によっては充電場所までが遠いところもありますので、電池残量には気をつけて下さい」

「わかりました」

頷いて再び散策に戻る。することがないのか、目の前でも同じ腕章をつけた義体者らしい人が、野良犬相手に遊んでいた。

「ぴ」

目の前に映像が入った。簡単な地図が送られてきている。しばらく地図を見て自分の位置を確認し、周りを見て自分がどの方向を向いているのかを調べる。同じように野良犬と遊んでいた女性も周りをきょろきょろと見回している。

「くすっ」

「あ、ど、どうも」

くるくると見回している女性と目が合った。その女性は決まり悪そうな顔をして、小さく頭を下げた。

 

「同じ場所なんですね」

「偶然なのかな」

行き先が同じと言うことで、二人で一緒に現地に向かう。地図は用意されているが、場所によっては地震のせいか崩れて地図と違いがある場所がある。

「この方かな」

「んー、あっちがあれで、ここに建物があって、んー、こっちじゃないでしょうか?」

 「あ、そうか、そうみたいだね」

相沢と名乗った女性は若そうだった。というか仕草が幼い感じである。

「学生さんかな?」

「え、わ、わたしですか?」

「うん」

「あ、違います、一応仕事してます」

「そうなんだ、何やっているの?」

「えーっと、NAXAで作業員してます」

「おー、いつも教えている学生さんと雰囲気が似ているんで、学生さんかと思ったよ」

「教えてるって、先生ですか?」

「うん、大学で音響工学教えてる」

「わ、すごーい」

「下っ端だけどね」

「えー失礼ですが、おいくつですか」

「ん、えーと、さんじゅう…」

はっと気づいて、大西は相沢の背中をぽんと叩いた。

「そ、そんなこといいじゃない、女の年齢は聞かないものよ」

「ま、まあ、そうですけど」

 

「う、これは」

大西が崩れた住宅を見回す。重厚な旧家が崩れ落ち、巨大な屋根が瓦礫の山となっている。近所の人たちが上に乗って、瓦や木材を撤去し始めているが、その作業はそう簡単には進みそうもない。

「中に人がいるんですか?」

「え、ああ、ばあさんと孫が埋まってるんだ。場所がわからんので上から見ているんだが、中に入れん」

「やってみます」

大西は腕章を見せながら、作業をしている男に言った。

「相沢さん、いこう」

相沢はうなずいた。

 

大西が、崩壊した家屋に登り、空いた隙間をのぞき込む。周りでは大西が調べるのを見守り、あたりは静かである。

「誰かいますか、おーい、いたら返事をしてください」

しばらくの間、じっとして耳をすませる。

聴覚の音量を上げていく。手でつかんでいる柱のきしむ音が、大きく響いた。

「きこえます?」

「うっ」

ノイズに埋もれる寸前まで音量を上げている大西の耳に、相沢の声がとんでもない音量で響き渡った。

「あ、ご、ごめんなさい」

耳を押さえて悶絶している大西を見て、相沢は思わず謝る。大西はちょっとだけ怒った顔で相沢に向き直ると、口に指を当てて静かにさせる。

今度は腹ばいになって、隙間に頭を突っ込む。自分の研究室にある実験用の高感度マイクを持ってくれば良かったと少し考えた。

「!」

かすかに、ほんのかすかに、ひゅうう、ひゅうう、という音が聞こえてくる。遠くの騒音に混じって、わりと近距離からの呼吸音。

位置を考える。仮にも音響工学関係の准教授である。遠距離からの音は重ね合わされて減衰し、低音しか響かない。高域の周波数が混じる空気の擦過音は距離が近い証拠だ。だが、瓦礫や材木の山の中では、きわめて複雑な反射となるため、だいたいの方向しかわからない。大西は頭を隙間から出すと相沢に言った。

「いたよ」

自分の声に驚愕して、あわてて音量を下げる。

「いましたか」

「うん、こっちの方で10メートル無い位だと思うよ、かなり下の方みたい」

「行きます?」

「行こう、あのおじさんに伝えてくれる?」

「わかりました、私も後から行きます」

相沢が崩れた屋根の上から降りると、大西は隙間をのぞき込んだ。

「いけるかな」

行き先をふさいでいる瓦と柱を持ち上げてみる。瓦が滑り落ちで砕け、何とか人が入れるほどの隙間が出来る。

「よいしょっと」

足からその隙間に体を滑らせ、瓦礫の中に潜り込む。体をかがめたまま、柱の上を伝って、下の方へ降りていく。

「ぴぴっ」

「?」

突然電子音が鳴った。今まで聞いたことのない電子音に大西は辺りを見回す。しばらくきょろきょろと見回した後で、視界に通信マークが表示されていることを知る。

「???」

とりあえずそのマークをアクティブにしてみる。すると突然音声が入ってきた。

「こちらは指揮隊です。救助活動はツーマンセルでおこなってください、二次遭難の危険があります」

「あ、はいわかりました」

よくわからないままに返事をする。

「気をつけて」

それだけ言うと通信は切れた。

「大西さあん」

ちょっと荒っぽく瓦礫を持ち上げながら、相沢も入ってきた。

「無線入りませんでしたか」

「入った、びっくりした、二人でいきなさいってことかな」

「なるほど」

首の後ろに取り付けた補助通信機をちょっとさわってみる。

「こんなこと始めてなんでびっくりしたよ。この機械はそのためにあるんだね」

「はあ、初めてなんですか?」

「うん、メールが来ることはあっても声が来るようにはなっていないから」

「そうなんですか、私たちの場合は無線で繋ぐのが普通なんで、みんなに付いているのかと思ってましたよ」

「へえ、ギガさんとこは無線標準装備なんだ」

NAXAだからかもしれませんけど」

「ああ、そうだよ、あんなところじゃ無線必須でしょ」

「ですね」

などと話しながら、隙間を見つけてはすり抜け、通れなければこじ開けていく。時折耳を澄ませては呼吸音の方向を見定め、巨大な大黒柱の下にたどり着く。

「いた!」

隙間から着物の一部が見える。その着物が呼吸音と共に揺れているのを確認して、大西は隙間から手を伸ばした。

「おーい、生きてますか?返事してください、おーい」

手の先をなんとかその体の一部に当てると、不意に呼吸音が変わる。

「あ?」

「大丈夫ですか?助けに来ました、聞こえます?」

「あ、助けにきたんか、すまんの」

「動けないんですか?」

「挟まれとるんで、動けん、あ、それより向こうに孫がおる。そっちを先に助けてやってくれ、年寄りは後でええ」

「お孫さんですか」

「ああ、向こうから助けてやってくれ、すまんがの」

「相沢より指揮所へ、被害者を発見しました。おばあさん一人と孫が一人のようです」

相沢の無線が終わるのを待って、大西が外に向かって大声で叫んだ。

「いましたあ、おばあさんが一人、お孫さんを捜しまーす」

「わかった、大丈夫かー」

外からの返事を聞いて、大西はさらに下に潜る。太い大黒柱や4寸角の木材は、義体でもそう簡単に折れはしない。柱の隙間に体を入れると、つっかえて先に進まない。

みし

ほんのちょっとだけ隙間が広がり、通りやすくなる。大西は後ろを見た。

「えへへ、こちらの方がちょっとだけ力持ちなんですよ」

相沢が木材を持ち上げていた。

「ありがと」

大西が体をねじりながら隙間を通り抜けると、相沢は自分の持ち上げていた柱を別の柱の上にのせて、大西の後に続いた。

 

「どこかわからないね」

おばあさんの示した方向を探すが、土壁が崩れ、その上に柱や屋根材が折り重なって人のいそうな隙間がない。それらしいところを持ち上げてはのぞき込む。

また、耳の感度を限界まで上げてみる。聞こえるのは遠くの騒音とおばあさんの呼吸音だけ。

(もう、だめなのかな)

呼吸音が聞こえないと言うのはそういうことだ。

「あ」

相沢が小さくかすれた声を上げた。感度を限界まで上げた大西の耳にはそれでも強い音に感じる。

「どうしたの」

「これ」

相沢が手を伸ばして指さした。指の先には太い梁材。そしてその下からは赤いものがにじみ出ている。

二人は顔を見合わせると頷いた。二人で太い松の梁材に手をかける。

「よし、いくよ」

「はい…ああっ」

梁材に手をかけて、持ち上げようとしたとき、遠くから地鳴りのような轟音が響いてきた。それはすぐに揺れとなって大西たちを振り回す。

「余震だ」

かなり大きい余震だった。周りの瓦礫が暴れ出し、太い梁材が動いた。

「わあっ」

足場になっていた柱が崩れ、相沢がバランスを崩して、柱の間に落ちる。そのまま、梁材が相沢を追って倒れ込み、仰向けになったまま押しつぶされ、身動きできなくなる。

「相沢さんっ」

「大西さんは大丈夫ですか、私は何とか生きてます。それより好都合、これなら柱を動かせます、んっ」

梁材の下で相沢の義体が悲鳴を上げた。

「ひゅいいいいいん」

甲高いモーター音がごとり、と梁材を動かす。

「それじゃ、つぶれちゃうよ」

「いや、いいんです、先にお孫さんを助けてください、んー、横には動きませんね」

相沢は仰向けの姿勢のまま、足を使いながら自分の体の上へ梁材を引っぱりあげた。持ち上げるのは屋根や瓦の瓦礫があって無理、たしかに相沢の体の上へのせた方が動かしやすいのは確かだ。

「あ、いま背中がメキって割れた」

「え、ええっ、また、余震が来たらつぶされちゃうよ、逃げられる?」

「あー、今の状態ではちょっと逃げようは無いですね。」

「怖くないの?」

相沢はしばらく黙っていた。しかしそれはわずかのこと。相沢は明るく答えた。

「怖いですよ、でも怖くないんですよ、私たちはそういう風に出来ていますから」

「あ」

大西は自分の義体と相沢の違いに気づいて絶句する。

「でも、いま顔を見られたくないかな、不気味って言われたことあるし」

「感情制御」

「ま、そういうことです、さ、はやく救助してください、私は後でゆっくり助けてくれればいいですから」

「わかった」

大西は気を取り直して、梁材が動いて開いた隙間をのぞき込む。

そこにはすでに息絶えた少年の遺体が収まっていた。

 

「いた、いたよ」

圧迫されて絶命したらしく、出血はそれほど多くはなかった。大西はその少年の胸に耳を当て、心臓の音を聞き取る。どんなに耳をすませても何も聞こえない。

「どうですか、助かりそうですか?」

「いや、多分…」

「そうですか」

「この子を運んでから、助けに来る。それまで待ってて」

「はい」

 大西は少年の体をそっと抱き上げた。抱き上げた体は、くたりと大西の持ち上げるままに折れ曲がる。亡くなって時間が経っているのか、その顔色は紙のように白い。

「来るのが遅くてごめんね」

せめてこれ以上傷つけないように肩に乗せる。片手で少年の遺体を支えながら、もう一つの手で柱を伝って、出口まで登る。

 

外に出ると屈強な自衛隊員が待っていた。黄色の腕章はつけていないから普通の隊員である。

「連絡を受けて応援に来ました。状況は?」

隊員を運んできたらしいヘリコプターが上空で待っている。大西は黙ったまま、少年の遺体をその隊員に渡した。

「ご苦労様です」

自衛隊員が静かに、そして、丁寧に少年の遺体を両手で受け取った。ヘリから担架が釣り降ろされ、数人の隊員がその担架を捕まえて固定し、少年の遺体を乗せる。ヘリが引き起こす暴風の中、その担架はゆっくりと巻き上げられていく。隊員は敬礼してその遺体を見送った。

「あとふたりいます」

「え?」

大西がぼそっと言ったのを隊員は聞き取れなかった。

「すみません、もう一度」

「来るのが遅かったんだよ、遅いよっ!!、あと二人いるって言ったんですっ!!」

大西が怒鳴った。

「………」

黙り込んだ隊員を尻目に、大西は再び中に入ろうとする。

「あ、そのロープをください」

ぶすっとした表情で、大西は手を差し出した。一人の隊員が肩に抱えていたロープを大西に渡す。ロープを受け取った大西は再び中に入った。

大西のあとを3名の自衛隊員がついていく。別の二人は外から斧で壁を切り崩している。大西は隊員におばあさんを指し示した。

「おばあさんがあそこにいます、相沢さんはこっちです、私は相沢さんを助けますので、みなさんはおばあさんを助けてあげてください」

隊員は互いに目を合わせて頷くと、おばあさんの救助に向かった。大西はロープを抱えて、相沢の元に移動する。

 

「助けに来たよ」

「ありがとうございます」

梁材の下から声がする。大西は巨木にロープを何重にも巻き、その端を別の柱材に引っかけていく。

「いけるかな」

引っかけたロープを軽く引っ張り、巨木を結んだロープが外れないことを確かめる。別の柱に引っかけたまま、両手でロープを引っ張り、巨木を足で押す。巨木がわずかに動いた。

「相沢さん、今から持ち上げるから、その隙に出てこれるかな」

「わかりました、やってみます」

「それじゃ、いくよ、せーの」

全力でロープを引っ張ると手の人工皮膚が剥がれてしまう。ロープの余った端を腕に巻き付けて、腕全体で全力で引っ張る。片足で体を支えながら、もう一つの足で、巨木を立てる方向に押し上げる。

「ん、んんっ」

ロープを引っ掛けた柱の一つが、ぎしぎしと音を立てる。何かに引っかかっていたのが動きそうにもなかった巨木が、どこかが割れるような音がして、いきなりぐいと持ち上がった。

「いまだ、出てっ!!」

「は、い、ううっ」

巨木が持ち上がったと言っても、出来た隙間はごくわずかである。その隙間を無理矢理にこじ開けながら、相沢が体をねじらせた。義体の一部が剥がれて、割れる音がきこえる。

「急いで」

大西の義体も全力を出している。いくつかのパラメータがグリーンからイエローに変わり、一部のアクチュエータは時折レッドの点滅を始める。

「か、肩が出ません」

「わかった」

巨木を持ち上げるために引っかけたロープも加重限界一杯で、張り詰めている。ロープが材木をこするたびに、甲高い音が響いてくる。

「もう少し保ってね、くううっ」

ロープを引っかけた材木が、ロープの加重でつぶれ始めた。リミッターを外した状態で、全力を出し続けている義体は、大西の指令でさらに出力を上げる。

「ばさっ」

上を覆っている瓦礫全体が揺れた。上に乗っている瓦礫ごと巨木を持ち上げているのだ。材木の隙間から瓦礫が降り注ぐ。

「うーっ、まだ出られない?」

「でられましたっ!!」

相沢の声に呼応したかのようにロープが切れた。それと同時に地鳴りのような音を響かせて、わずか10数センチの隙間が沈み込む。ロープの切れた衝撃で大西が吹っ飛び、激しく背中を打ち付けた。その衝撃を検出したサポートコンピュータが大西に痛みの刺激を送る。しかし、大西はその擬似的な痛みなど感じていないかのように、相沢を捜した。

「相沢さんっ」

埃煙がやむと、相沢がよたよたと立ち上がるのが見えた。

「ああ、危機一髪でしたね」

相沢が左手の手首を見せた。その先に付いているはずの手が無い。

「背中の何かが壊れたみたいで、手が動かなくなっちゃいました。何とか引っ張りだそうとしたんですけどね」

「動ける?」

「なんとか」

大西が相沢に肩を貸した。足場が悪いので、片手で周りにつかまりながら移動するが、相沢の手が壊れたので、なかなかうまくいかない。片手で相沢の体をつかんでよたよたと移動する。

「相沢さんは休んでて、私はおばあさんの救助を手伝うから」

「わかりました」

何とか隊員がおばあさんを救出しているところにたどり着く。相沢は少し離れたところで救助を見守る。

おばあさんはちょうど運び出されるところだった。隊員二人がかりでおばあさんが運ばれていく。仰向けにされたおばあさんは隊員によって外に運び出されようとしていた

「!」

おばあさんの顔には白い布がかぶせられている。ほんの少し前に話をしたばかりのおばあさんはもう動かない。

「なんで?、なんでなのよ」

大西はよたよたと隊員に近づいた。白い布をそっと持ち上げて、その顔を見る。

ほんのわずかだけ薄目をあけているおばあさんは、穏やかな顔をしていた。まだ体温は冷え切っていなかった。体の上に置いた手からかすかに体温を感じる。

「お亡くなりになってます。残念です」

隊員が大西に説明する。

「なんで?、さっきまで生きてたんですよ、お孫さんを先に助けてくれって、なのに、なのに」

大西の手がぶるぶると震えた。隊員は静かに答えた。

「私たちが救助を始めるときは、もう亡くなっていました、心音はもうありませんでした」

「それって、私たちがお孫さんを捜しているときに亡くなったということですか」

「わかりません、しかし、ついさっきまで生きておられたのは確かなようです」

「そうですか」

元気をなくした大西はじっと下を向いていた。相沢はじっと大西を見つめている。

「………」

「すみません、邪魔してしまって、行ってください」

大西になんと声を掛けたらよいかわからず、黙って手を止めていた隊員に、大西は行って下さいと頭を下げる。

「はい、それでは先に」

隊員がおばあさんを運び去る。しばらく黙っていた大西は、ぶつぶつと小声でつぶやいた。

「先に見つけたおばあさんを先に助ければ良かったんだ」

「そうすれば、一人でも助けられたのに」

「結局二人とも亡くなったんだね」

「何の意味もなかったね、やったのは死体を運んだだけだ」

「私たちに何の意味があるのかな」

 

突然地面に向かってぶつぶつと何かを話し始めた大西、それを見て相沢は思わず背中を叩いて声を掛ける。

「大西さん、しっかりしてください、悲しいのはわかりますが、仕方ないことなんです。大西さんのせいじゃないんですよ」

「ほんとに?、先におばあさんを助ければ助かったかもしれないんだよ。なのに無駄な時間をつぶして、結局おばあさんまで死んでしまったんだよ、ほんとに私のせいじゃないといえるの?」

「あ、あの、おばあさんが先にお孫さんを助けてくれって言ったから、私たちはお孫さんを助けに行ったんですよ」

「でも、助からなかった、二人とも」

「でも、それは力が足りないのと遅かったので仕方がないことでは」

「仕方がないではすまないでしょ、死んじゃったんだよ」

「ちょっと、大西さん正気に戻ってください、悲しいのはわかりますが」

「悲しいと感じない人が、そんなこと言わないでよ!!」

「!」

相沢の動きがピタリと止まった。

「あ」

大西は自分の行ったことに気づいて、思わず絶句する。本当に機械のようにピタリと動きを止めた相沢は、しばらく停止してから、また徐々に動き出す。

「ご、ごめん」

「いえ気にしないでください私は何も感じないし気になりませんそんな風に出来ていますから」

相沢の表情は人形のように冷たかった。

「ごめん、私は本当に馬鹿だね。無力で無能で、う、くっ、うううう、うわあん」

大西の目から涙が出るわけではない。だが心が泣いたとき、それを抑えとどめるものもない。大西の号泣が辺りに響き渡る。

「ぴっ」

「泣かないで下さい、あなたたちは精一杯がんばりました。心よりお礼を言います、ありがとう」

「!」

突然無線から声が入る。その言葉は大西と相沢に届けられた。

「悲しまないでください、救助が遅れた原因は、適切な指示が出来なかった私たちにあります、あなたたちがこの死を背負う必要はありません」

「あなたは?」

「高須と言います。ありがとうございました、そして、まだ救助を待っている人たちがいます、協力をお願いします」

大西と相沢は静かに立ち上がった。

「………」

大西はしばらくの間、下を向いて黙っていた。いくらかの時間のあと、おばあさんのいた場所をじっと見つめ、そして相沢の方を向いた。

「ごめんなさい」

大西が相沢に向かって頭を下げる。相沢はぎこちない仕草で、大西の肩に手を掛けた。

「大丈夫ですか」

「うん、まだ泣いている場合じゃないね」

「そうですね」

相沢の表情は徐々に戻ってきている。

「相沢さんは修理をしなきゃ」

間髪入れず、ギガテックスサービスカーの場所が表示される。

「はい、いきましょう」

相沢も元気よく答える。

「ありがとう、がんばって」

無線から声が入って、そして切れた。

 

Stage9 裾野の大きさ

 

「バッテリー切れはこっちに並んで座って下さーい」

「皮膚の剥離ですね、小出さん、修理お願いします」

「あー、この故障はここでは修理は無理です、すいません、遠いんですが、この道の2キロ先にサービスセンターがありまして、そこで大修理やってますんで、そちらまでいってください、ごめんなさい」

イソジマ電工出張サポートの幟を出した軽のワンボックスの周りで、汀、高橋、小出が、次から次に来る義体のサポートに忙殺されていた。ギガテックス義体はこのような災害の時には協力する義務があり、重要な用件がない限り、その要請には応じなければならない。だが、イソジマ義体でも義務ではないものの、出来るだけ要請には協力することが推奨されている。協力する義体者は義体者を示す黄色の腕章をつけ、無線を装着する。そうして、彼らを必要な場所に振り分けるのである。

CS-25のアタッチメントはどこー」

次々に電池切れの全身義体者が集まってくる。発電機を回し、その電力を義体者に供給するが、所詮、軽に乗せられる程度の発電機である。充電は遅々として進まない。

「ああ、もう、設備不足よ、もうちょっとまともな機材用意できなかったのかしら」

小出が修理をしながら文句を言う。

「でも、到着したのは我々が一番早かったんですよ。軽だったから混乱の中、何とかここまでこれたわけで」

「それでも、道路が通れるようになったら、もう少し補充すべきでしょ」

「あー、追加の機材はまた別のところに行ってますからね」

「それよりも、もう燃料がありませーん」

小型発電機でも朝から回していれば、燃料はなくなる。汀はとっくの昔に空になったポリタンクを持ち上げてみて、空であることを確かめる。

「燃料足りないって連絡しているはずなんですけどねえ、もってきてくれません」

困った顔で、あたりを見回す。遙か先に、同業者の車がかすかに見える。それを見ながら少し考えこむ。、

「うん、おねがいしてみよう」

汀はポリタンクを二つもって立ち上がった。何事かと高橋が汀に目を向ける。

「あのー、高橋さん、ギガテックスさんのところで燃料分けてもらえないか頼んできまーす」

「は、はあ?」

すたすたと歩いていく汀を、高橋はあわてて追いかける。

「ちょ、ちょっと、ものすごくいやがられると思いますよ、それにポリタンク二つは汀さんには無理です、私が持ちます」

「じゃ、一つずつ持ちましょう」

「は、はい」

ひょいと空のポリタンクを高橋に渡すと、二人で歩いていく。その二人を横目で見ながら、小出は故障と格闘していた。

「おーい、私一人でここを切り回せというのか?、そうですか、無視ですか?」

充電中の義体者から笑い声が漏れた。

 

「それはちょっと応じられません」

「やっぱりだめですか」

「われわれもそんなに余裕があるわけではないし、イソジマさんよりこちらの方が充電に見えられる方が多いので…、すみません」

案の定、断られる。

「ほら、やっぱり無理だったでしょう」

「そうですねえ、でも困りました」

ぷらんぷらんとポリタンクを振って、物欲しそうにギガテックスのサポート車両を見回す汀。ギガテックスは大型のトラックで乗り込んできていた。簡易テントと修理機材の小型コンテナを乗せた重装備である。その簡易テントから一人の初老の男がゆっくりと顔を出す。目が合って、軽く会釈をすると、その男はテントから出てきた。

手持ちぶさたで物欲しそうにうろついている二人が気になったのか、その初老の男がすたすたと近づいてくる。

「なにか、ここにご用ですか?」

「い、いえ、すみません」

高橋が戻ろうとすると、その手に持ったポリタンクをその男が見つける。

「灯油かなにか必要なのですか?、残念ながら灯油は積んでいないのですよ」

「と、灯油じゃなくでガソリンなんです」

汀が上目遣いに男を見ながらつぶやく。

「ガソリン?」

男が考え込むような仕草をする。高橋はその姿に何となく見覚えがあった。

「失礼ですが、何に使うか教えていただけますか」

男は汀の目をじっと見つめた。姿勢がよく、強い眼光を持ったその男から見つめられると、汀はごまかせなかった。

「すみません、実は私たちはイソジマ電工のものでして、義体充電用の燃料が無くなってしまって」

「イソジマさん?、ふむ」

男はしばらく考え込む。

「あの?」

さっきから高橋が汀の手を引いている。引いている手に抵抗しながら、汀は何となく手応えを感じた。

男は先ほど汀の頼みを断った若い社員に声を掛けた。

「おーい、イソジマさんのポリタンクにガソリン入れてやってくれ」

社員が男のところまで寄ってくる。

社員は汀たちを見て、男に答える。

「いいんですか、こっちもそろそろ危なそうなんですが」

「ガソリン渡して、あと何時間分くらい持つ?」

「今日いっぱいは何とか、明日の分は補給してもらわないと」

男はうなずいた。

「それくらいなら十分だろう、今日中に追加させよう」

「わかりました」

社員は汀の方を向いて手招きする。トラックの荷台に載っているガソリンタンクから、給油パイプを取り出して、慣れた手つきでポリタンクに差し込む。

「あ、ありがとうございます」

汀と高橋が、男と社員に頭を下げると、男はにやりと笑った。

「イソジマさんももうすこし態勢を整えておくべきでしたな、だが悪いことじゃない、これは我々の仕事が役立っているという証拠なんだから」

「はい、申し訳ありません」

「今のような状況が実現するとは夢にも思いませんでしたよ、昔はね、ああ、昔話はやめておくとしよう」

男は遠くを見て小さくため息をついた。その視線はどこに向かっているのかわからなかった。

「ガソリン入りました」

社員が汀たちを呼ぶ。

「どうもありがとうございました」

汀は深々とお辞儀をする。

「がんばってください」

男は汀に視線を向けて、小さく手を振った。

 

「たすかりました、これでしばらくはもちますね」

「私はびっくりしましたよ」

「ガソリン分けてもらえたことがですか?」

「いえ、あのひと、尾上さんですよ」

「尾上さん?」

何となく聞いたことがあるようなないような。汀がなんと答えようか戸惑っていると、高橋が話し出す。

「ギガテックス元義体開発部長で、今はギガテックスの副社長かなにかに付いているはずです」

「副社長?、あのひとが?」

「そうです」

思ったようには驚かない汀に、高橋がさらに追加する。

「言い方を変えましょう、義体生みの親といわれるのが藤江教授ですが、その一番弟子で実用完全義体の父と呼ばれるのが、あの尾上さんですよ」

「げっ!!」

「義体界、いや人間型ロボットも含めて、義体、ロボット界のVIPです、たしか日本ロボット工学会ではまだ会長じゃなかったかな」

「そんなVIPがなんでこんなところにいるんでしょうね」

そろそろ、一杯に詰まったポリタンクの重さがきつい。右に左に持ち替えながら、元来た道を戻っていく。重さに疲れた手を軽く回しながら、高橋はつぶやいた。

「なんとなくわかります、多分義体が働いているところを見ていたいんですよ」

汀はよたよたと歩きながら頷いた。

「ああ、わかるわかる、そしてガソリンを分けてくれた理由もわかる。」

「はい」

「あの人にとってはギガテックス義体もイソジマ義体も関係ないんだ、義体が活躍できていれば、それがあの人の幸せなんだと思いまーす」

「そうかもしれませんね」

やっとの事で、自分たちのサポート車にたどり着く。そこでは前にも増してサポートを必要とする義体者が集まっていた。

二人はあわてて、滞っていたサポートの作業に戻る。そろそろ燃料が底を尽きかけていた発電機に燃料を補給し、充電を待っている人たちに電線を繋いでいく。サポートを必要とする義体者は、徐々にその数を減らし始めた。

「がんばりましょう」

「ええ」

汀は相変わらず穏やかな言葉で、義体者のケアを続けている。高橋は様々な交換や補充をこなしていた。

サポートが終わった義体者は再び救助活動に戻っていく。

そして、小出は、真っ白に燃え尽きていた。

 

Stage10 限界の先にある可能性

 

[ごめんなさい、まだ書いてません。

もう盛り上がりはありません。たんたんと進んで終わりになります]