薄膜からの侵入者
Sequence1 ふそう
「ガリウム砒素拡散のステージC、順調、SiC結晶成長装置も問題なし」
高度500kmの経済軌道圏に位置する生産技術衛星ふそうは、主に無重力高真空の環境を利用した特殊材料の生産を行うためのものである。主構造材に接続されているユニットは6基。そのうちの一つは生活居住ユニットで、もう一つは環境制御ユニットである。残りの4基が特殊材料生産のためのプラントで、それぞれのユニットの間はかなり強度の高い構造材で接続されている。また、ユニット間は移動できる気密通路で接続されており、通常の作業はこの気密通路から操作することになる。
ここに常駐できる人間は通常1名、作業によっては最大3名までが居住出来るようになっている。
ふそうには現在2名のスタッフが常駐していた。しかも、その二人はともに完全義体者であった。一人はふそう常駐作業員の相沢美奈子、そしてもう一人は生命環境研究者の斉藤三沙子である。
ふそうの常駐作業員、相沢美奈子の定時の生産プラントの監視は、重要な仕事のひとつである。プラントによって完全に自動で稼動するものと、操作が必要なものがある。自動プラントの場合は、定期的に気密通路からのぞき窓を通して生産プラントの状況を確認し、モニターに表示されるログをチェックすればよい。操作しなければならないプラントの作業は時間によって厳密に規定されており、マニュアルに従って正確に処理していく必要がある。のぞき窓の下にある操作盤を、横に張ってある手順書のとおりに操作し、規定時間に従って処理された材料をロット単位で搬送、機器の状態を確認しながら順次、次の工程へ送り込んでいくのである。
プラントが新たな材料を受け取って稼動を始めると、各種ランプが点灯し、状況を示すモニターにいくつかの数値が流れ始めた。それを確認すると相沢は次の作業に移る。
相沢が居住ユニットを覗いた。彼女らの通常の生活エリアでもある。その奥にある居住ユニットの一区画にこもっている斉藤三沙子は、地上から持ち込んだマウスケージのひとつで作業中であった。
「ここは問題なしですね」
「はーい、現在順調ですよ」
医療業務を主な仕事とする斉藤は、無重力空間における生物代謝の実験を行うミッションスペシャリストである。彼女自身が医学博士の学位を持ち、日本宇宙開発機構NAXAの研究員の一人でもある。
「ありゃ」
一匹のマウスが斉藤の作業服の胸ポケットにしっかりとしがみついている。無重力状態でマウスが動き回っても、すぐに空中を浮遊してしまうことになるのだが、何度も浮遊しては、悲壮な泣き声をあげるうちに学習したのか、必死で胸ポケットの布地にしがみついていた。
「おう、君はどうしたのかな、こんなところに入り込んで」
マウスがせわしなく頭を動かし、鼻をあちこちに向けている。近づいていくと相沢のほうへ鼻先を伸ばしてくんくんと何かを探している。相沢がマウスの鼻先に指を伸ばすと、マウスは不安定な境遇から脱出したいと思ったのか、小さな前足をくいくいと相沢の指に伸ばしてつかもうとする。
「持ってもいいよ、そっとね」
「えーっ、ほんとにいいんですか?」
別のマウスの採血を行っている斉藤は、手元から目を離せない。斉藤が作業をしている横から、おっかなびっくり手を差し出すと、不安定な胸ポケットの布地にしがみついていたマウスは、手のひらに飛び乗ろうとして、つかんでいた布地からふわりと離れてしまう。
当然思ったところにいくわけはない。手と足を離したとたん、ちょっとした足の反動で、相沢とは別のところへ漂い始める。マウスはまた悲壮な鳴き声で手足をばたつかせ、もがきながらくるくると空中をさまよった。
「こりゃ、マウス君、君はここが宇宙ということを忘れたのかな」
相沢が、手のひらでマウスを包み込むように受け止める。やっと足場を得たマウスは、その手の中でぐるぐると駆け回った後、手の隙間から頭を出して相沢に目を向けた。そおっと手を広げると、相沢の指の一本につかまって木登りのような格好で指の先にたどり着く。その先に手を伸ばして、手が空を切るとあわてて戻って、指にしがみついては、相沢の顔色をうかがった。
ぺたぺたと相沢の指先をまさぐっては鼻先を当てる。指先は割りとセンサが配置されているところである。イソジマ義体ほどではないにせよ、作業に支障がない程度には触覚センサが埋め込まれている。前足と鼻先がちょっと冷たい。
「その子は運動不足だから、ちょっと運動させててね」
「どうやって?」
「適当に動き回らせといて」
灰色の体に黒い目が付いている。人に慣れているのかしきりに指から指へ移動しながら、鼻を当てて嗅ぎまわる。指から指へ移動するのに歩調をあわせて、指を入れ替えていくとくるくると手の上を歩く。時々前足を離して浮かびそうになるのはお約束。何かに集中すると、無重力で浮かび上がってしまうことを忘れるらしい。
しばらく遊んでいるうちに、斉藤の作業が一息ついたのか、相沢の方へゆっくりと顔を向けた。
穏やかなはずの斉藤の顔が、なぜか不気味に映る。その手には先端が銀色に光った注射針。
「さあ、最後はチー太君の番だよ、ふふふ…」
どっくん。その顔は作り物の笑い。
「さ、斉藤さん…」
能天気に遊んでいた相沢とマウスが凍りついた。
「大丈夫、痛くしないからあ」
斉藤が、相沢とマウスのコンビにせまってくる。絶対に相沢に対して注射するはずはないのだが、とっさに相沢は逃げの体制を取った。
しかし、その間もなく、がしっと肩を抑えられてしまう。
「さあ、いくよお」
「いやあああ」
相沢の悲鳴がユニットの中に響き渡った。
Sequence2 トラブル
「なんで、あなたまで逃げるのよ」
「いやあ、それはそうなんですけど」
自分の運命が良くわかっているのか、しきりに斉藤の手から脱出しようとするマウスを見ながら、相沢は頭をかいた。
マウスがおとなしくなった一瞬の隙を付いて、きゅっと採血器の針を刺す。
「うっ」
針を差し込むところを露骨に見てしまった相沢が思わず後ろを向いた。
そして数秒。数ミリの採血容器が満たされたのを見計らい、すばやく針を抜いてマウスに小さなテープを貼る。
「ああ、こういうの弱いのかな」
「え、ええ」
当面の責め苦は過ぎたのだと認識したマウスがおとなしくなっている、そのマウスをケージに戻し、斉藤は大きく伸びをした。
「針を見て貧血起こす人いるよね、そんなタイプかな」
「ああ、わかります。献血なんてそんな恐ろしいもの、良く出来るなと思ってました」
端末を開きながら斉藤が答える。
「研修医のときに献血車に乗ったことがあるんだけど、学校なんかだとたまにいるのよね。血とか針を見て倒れる人、一度なんか4人くらい出ちゃって、寝かすところがなくて困ったわ」
「あはは、それじゃ輸血してあげなきゃ」
「はは、それじゃ、返って血が足りなくなりそうね」
端末に向かって仕事を再開した斉藤を見て、相沢もふわりと体を浮かす。ほかのプラントも見回らなければならない。
「それじゃ、またちょっと回ってきます」
「はい、ご苦労様」
斉藤の返事を背中で聞きながら、ふと、プラントの状態を示すランプが赤点滅していることに気づいた。
「あ、ガリ砒素拡散炉だ」
赤点滅は異常を示すランプである。ただ、ここにあるのは異常を示すランプがあるだけで、どのような異常なのかはわからない。このプラントはこの衛星が打ち上げられた初期から稼動しているもので、時々入れ替わるプラントの中では最古参の機材である。危険なものであれば警報が発せられるが、このランプだけなら、単に生産がうまくいっていないということに過ぎない。
無重力状態の中、手だけを使って器用に通路を抜ける。所々に設置された手すりを伝って、浮かんだまま、ガリ砒素拡散プラントへ飛んでいく。
「ええっと、酸化膜生成工程か」
プラント結合部で、モニタを覗いて停止したプラントの状況を確かめる。4つほどのロットがそれぞれの工程を編成する機器に移動して、完成品となっていくが、そのうちのひとつの工程で異常が検出され、ラインが停止している。とりあえずどのような状況か確かめなくてはならない。パネルを操作して、今工程を流れているロットをそれぞれの保護ケースに退避させる。作業工程内では製品材料は裸の状態だが、作業工程間を移動するときは保護ケースに収められ、汚損や破損を防ぐ。材料は微小なほこりが付いても大きな問題となるため、相沢が中に入るためには材料を保護しなければならない。
「もういいかな?」
とりあえず保護ケースか閉じられ、ユニットへの進入ランプがグリーンとなることを確認し、相沢は丸いハッチを開いた。
直径110cmのハッチが、わずかのきしみ音を出して開く。円筒形の壁面にびっしりと配置されている生産機材。奥行きは15メートル位だろうか。配管や移動のためのレールが壁面から、場合によっては空中を走り、動きにくくて仕方がない。
「ええっと、酸化膜工程はどこかな」
大体の配置は頭に入っている。所々に書かれている機器の名前から、目的となる場所を見つけ出す。
目的の場所は一目瞭然であった。うまく仕事が出来ない酸化膜生成装置は、仕事が出来ないのを困っているかのように赤ランプを点滅させていた。
「熱いね」
もともとが、高温雰囲気中に水蒸気を送り込んで、酸化膜を作る装置である。顔や手の温度センサが、その熱気を検地し、あまり触らないほうが良いことを伝えている。
場所を特定した相沢は、義体の通信器を作動させた。通信機が起動するのを少し待って、NAXAに呼び出しをかける。
「チャンネル443、ワーキンググループ、ふそう、コールNAXA、OK?」
業務用通信周波数に合わせて、NAXAのふそう担当者を呼び出す。しばらく待つと、無線機から聞こえるノイズの雰囲気が変わって、受信準備が整ったことを伝えてきた。
「Im、NAXA、ふそうワーキング、レディ」
「OK、相沢です、トラブル報告」
「了解、どうしましたか?」
地上では夜10時といったところか、この時間では一部の緊急用の人員を除いて、ほとんどいないはずである。当直の責任者と監視や無線の担当位しか残っていないだろう。
「えー、プラントCの酸化膜工程で、緊急停止状態になっています。確認願います」
「了解、緊急性を要する事象はありますか?」
相沢が装置を見ながらちょっと考えた。
「そうですねえ、酸化膜生成装置が高温による自動停止の模様。特別の対処が必要であれば指示願います」
「了解、確認します」
ぷつっ、という音とともに、音声が切れる。向こうではいまから担当者を呼び出して、対処を考えることになる。それまでにもうすこし状況を調べようと、装置の周りを調べた。
「あれ?」
装置のほとんどはステンレス製だが、一部にはプラスチックも使われている。そのプラスチックの一部が変形していた。
「温度過昇かな」
パネルの表示では温度の異常と表示されている。その温度異状によって溶けたのか、プラスチック部分が変形し、力を受け止めきれずにつぶれていた。 熱さに注意しながら、そっと触ってみる。今は自動停止しているとはいえ、まだ冷えてはいない。まだやわらかいプラスチック部品は、耐える力を失って、相沢の指先でも容易に凹んだ。
「連絡したほうがいいのかな」
また、無線機を操作するため、サポートコンピュータのコマンドを探す。
うとうと
はっ
一瞬、眠ってしまっていた。記憶が飛んで、また思い出しながら、無線機の操作をしようとする。
うとうと
はっ
「眠い、もうちょっと後でもいい…か…な…」
気力がなくなっている。こんなに眠かったら仕方がないと心の中で言い訳しながら、装置の前にいたまま、やがて眠り込んで動かなくなった。
Sequence3 濃度
「コールふそう、MISAKO、SAITO please」
居住ユニットの斉藤に着信のメッセージが届く。マウスたちの体調を記録していた斉藤は、義体内臓の通信機の受信を許可する。ほとんどマスコットと化しているチー太君は相変わらず胸ポケットの中。運動の量によって代謝の量が違うため、マウスをいくつかのグループに分け、それぞれ規定の運動をさせている。ただ、このマウスだけは体重が変化して、グループの基準に収まらなかったため、胸ポケットグループとして、人と触れ合った場合での観察としていた。まあ、ぶっちゃけていえば、太りすぎて基準から外れたため、人と常にいたらどうなるかということを気休めで計測しているのに過ぎないのだが。
「yes、Im MISAKO、SAITO、please」
「ふそう管理センターより作業要請です」
「はい、何でしょうか」
端末から目を離さず、キーを打っている。マウスの環境実験では、斉藤自身もこの研究の主要メンバーであり、彼女自身がある程度計画を修正する権限を持っている。そのため、定期的な報告以外では、あまり要請などはない。
単純な問い合わせだろうと、簡単に聞き流そうとしていたが、その内容は意外なものであった。
「22分前から、相沢さんと連絡が取れません。プラントCで作業中のはずですが、こちらからの呼びかけに応じません。現状を確認していただいてよろしいでしょうか」
「事故や義体トラブルの可能性は?」
「こちらからでは、なにもトラブルの兆候はありません。先ほど停止した該当のプラントを除き、ほかの全プラントも問題なし。また彼女自身の義体からも異状信号は発信されていません」
「たしかに」
斉藤の背後から少し距離をとって、状況を示すパネルがある。どこかに問題があれば真っ先にパネルに表示されるはずである。また、それらの情報は逐次地上へと送られており、斉藤が気づかなくても地上で発見されるであろう。
「了解しました、見てきます」
切りのいいところで、作業をやめ、ベルトをはずす。そのまま浮いた体を手先で引いて、連絡通路に顔を出す。
マウスが胸ポケットに収まるのがだんだんうまくなっている。斉藤が動き出すと、頭から胸ポケットの中にもぐりこみ、両手で布地をつかんでいた。
「こっちか」
通路の表示板を頼りに、気密通路内を移動する。作業中のグリーンランプを確認すると、斉藤はユニットのハッチを空けた。
「相沢さーん、いますかー」
直径10m、長さ15mのユニットはそれほど大きいものではないが、打ち上げるのはかなり困難である。声が響いても返事は返ってこない。大体、壁面に並ぶ機械類だけならそれほど問題ではないのだが、材料を搬送するロボットのために移動レールが空中を走っている。そのため、場所によっては見通しが悪い。
「これは大変ね」
レールの間をくぐりぬけるように体をねじらせながら、奥へと進んでいく。なかなか見つからず、ほかのプラントユニットにいる可能性を考え始めたとき、相沢が機械の隙間にいるところを発見する。
「あ、いた」
相沢は眠っているようだった。しかし、ただ眠っているのなら、呼び出しに気づかないはずはない。
相沢の手を握り、静かに引っ張り出す。力の抜けた手はふわりと浮かんで、わずかに曲がった。
「相沢さん……相沢さん……」
胸ポケットの中のマウスがしきりに暴れている。それよりも相沢のほうが重要だと、相沢の手を握ったり体をたたいたりして、刺激を与えた、が、反応はない。
「こちら、ふそう、相沢さん見つけました」
「相沢さんの状況はどうですか」
「昏睡状態に入っているようです。反応しません。義体トラブルの可能性が高いです。こちらでは原因不明」
「ふそう管理センター了解しました。ギガテックスに連絡を取ります」
「ふそう、了解」
相沢の手を引いて、壁をける。無重力状態なので、相沢の体重でも何とかなるのだが、慣性があるのでうまく計算しないとあちこちにぶつかる。
何とか居住ユニットへ運び込んで、ベッドへ収める。相沢はピクリともしない。しかし、義体の状況を表示しているモニターでは異状がない。酸素、二酸化炭素濃度も正常範囲。各種機器も正常動作中。脳神経パルスだけが気持ち悪いほど静かである。
「ふう、どうしたのかしらね」
腕を組んで考える。義体の消耗品交換程度なら、ここでも出来る。しかし義体の故障で、しかも故障箇所がわからないとなると、地上に降ろして、ギガテックスの技術者を呼ぶしか方法がない。
時間は地上の深夜に近い。眠くてたまらない。
「ちょっと休憩しましょう」
半分眠ったような状態から、そういえば、と、思い出して胸ポケットからマウスを取り出してケージに入れる。マウスはぐったりして、時折、ぴくっぴくっと痙攣をしていた。ケージの中でつかまる力もなく、中を漂う。
「あれ、なんで?」
いつもと違いすぎるマウスの挙動に、いっぺんに目が覚めた。マウスがぐったりしていること、相沢が昏睡にあること、これは絶対に何かある。
「有毒ガス?」
そう考えれば、今の異様な眠さも納得がいく。しかし、義体でガス中毒になるということがあるのだろうか。
斉藤は、あわてて通信機を作動させる。義体内通信機が衛星の中継器を通して、地上へと接続される。
「こちらふそう、ふそう管理センターへ緊急連絡」
「こちらNAXAふそう管理センターです、どうぞ」
「有毒ガスの可能性を調査してください。実験中のマウスに中毒反応が出ました、わたしも中毒しているようです、最優先の対応を要求します」
「了解、中毒の状況は?」
「わかりません、症状は猛烈な眠気と無気力状態です」
「わかりました、ふそう管理センターの権限で1級対応を発令、処理チームを編成します、どのくらいがんばれそうですか」
「なんとか意識を保っています。でもこの先どうなるかわかりません」
「了解」
今頃は、各職員がたたき起こされて呼び出されているだろう。そして、有効な対応を協議して、対処できるまでに自分が生きていられるのか。背筋がぶるっと震える。
それから考える。状況から見て、停止したプラント内でガスが発生している可能性が高い。そういえばプラントCのハッチは閉めてきただろうか。
体を動かしていたほうが眠気は忘れる。プラントCへ移動して、ハッチを確認する。幸いハッチは閉まっていた。移動中に一瞬意識を失ってガツンとぶつかった。だがそのおかげで何とか意識が戻る。
そういえば、化学薬品系の中毒なら、高濃度酸素の吸入によって、薬品を早く分解させ回復するという治療法がある。義体には酸素濃度をある程度調節する機能があったはずだ。
「設定、代謝、酸素」
じっとしているとまた意識が薄れていく。酸素濃度のパラメータを増やしてみる。しかし、ある程度の範囲でしか動かせない。限界まで減らせば、もちろん死の危険があるし、増やしても同様だから、適切な範囲でしか調節できないのは仕方がない。しかしこのような特殊な状況であれば、生身なら高濃度の純酸素を吸わせて、対処できるのだが。
ギガテックス義体は、日本でははじめに開発されたという歴史から、出来る限りの危険行為を防ぐように設計されている。特に初期は精神的に安定しない患者が多く、自らを破壊する行為に出た患者がいたためである。そのため、酸素やその他の命にかかわる調整はもちろんのこと、自らを力で破壊する行為に対しても、かなりの部分で防ぐことが出来るようになっている。さらには、興奮した自傷行為そのものを防ぐための興奮状態の抑制、さらにはその原因となる精神的ストレスを感じないようにする対策などが施されている。それにより、義体を原因とする早期の死者は劇的に減少した。また、いま斉藤や相沢が経験している極限状態や、激しい戦闘状態においても、錯乱状態に陥ることは少なくなっている。だが、そのために支払う代償はどのようなものか。それはすでに周知のことである。
Sequence 4
血液
「はあ、ああうう、あー」
酸素量の増加による中毒ガスの過剰代謝と分解によって、脳内の代謝物質の状態がおかしいのか、目と体がくるくる回る。精神的には正常だが、体と目の平衡感覚を調節するところがうまく働いていない感じだ。だが、猛烈な眠気は収まっているような気がする。全力で眠らないようにする努力がだいぶ楽になってきた。
「はっ、はっ」
酸素濃度を増やしたため、呼吸の回数が多い。無線機を何とか作動させる。
「こちらふそう、はあはあ、酸素濃度の上昇は効果ありのようです、はあ、状態回復中、はあ はあ はあ」
「ふそう管理センター了解、呼吸が苦しそうです。大丈夫ですか」
「はあ、酸素濃度をあげているためなので、大丈夫です」
「了解、ギガテックスからの連絡では毒ガスによる影響はあるとのことです。高濃度のガスを呼吸器に吸い込んだ場合、ガス交換器で酸素とともに、低分子量の物質なら通過してしまう可能性があるそうです」
斉藤は、めまいの苦痛のなか、なんとか出口を見つけたような気がした。なんとか持たせれば、復旧しそうだ。だが、その安心もつかの間、まだ直ってさえいない斉藤に、矢継ぎ早の連絡が入った。
「緊急連絡、ふそう、MISAKO SAITO、応答願います」
耐えている斉藤の下に切羽詰った連絡が届く。苦痛に耐えて、なんとか返答を返す。
「こちらふそう、斉藤です」
「ギガテックスの医療チームが到着しました。緊急連絡です。変わります」
「ふそう了解、どうぞ」
「ギガテックス医療チーム、岩崎です、時間がないので手短に伝えます。結論から言うと、青酸化合物系の中毒の可能性が高くなってきました、その対処法を検討中です。場合によっては応急処置が必要となります」
「分かりました、何をすればよいか教えてください」
「はい、補充用の血液パックが4つあるそうなので、そのうち2つ分を使用して、人工血液の補充を行い、薄めることで毒性を弱めます」
「了解、ただ2本も追加はできないと思いますが」
「すみません、まだ手順を検討中で、もう少し待ってください。基本的には一本分を注入した後、循環して混ざり合ったのを確認した後、過剰な人工血液を抜きます。それを2回繰り返します」
「なるほど」
それを聞けば、医学博士である斉藤には何をすればよいかよく分かった。自分の体でありその仕組みも熟知している斉藤ならば、その手順もすぐに組み立てられる。
「分かりました、直ちに人工血液交換作業開始します」
「えっ?」
向こうが困惑しているのも気にせず、斉藤は血液パックを倉庫から取り出した。
「効けばいいけど」
作業服のボタンを順にはずし、上着を脱いだ。断熱材の下着をめくり上げ、胸のハッチに手を触れる。視界の隅に警告ランプが灯った。
「わかってるわよ」
サポートコンピュータが、警戒しているような気がして、思わず声を掛けた。状況によってはここで緊急停止と相成るだろう。しかし、めまいを別にすれば脳パルス的には正常、そのためサポートコンピュータも今は手出しはしない。
むしろ、サポートコンピュータと協力するような気持ちで進める。
「はじめるよ」
自分からは胸の中身はよく見えない。厚みと弾力のある胸のハッチを開くと、大事な部分はずっと内側に配置されている。部屋の隅に移動して、洗面所の鏡に胸を写し、人工血液の差込口を見つける。
「よし」
ゴム特有の引っかかりを上手く滑らせ、人工血液のパックについているチューブを差し込んだ。抜けがないことを軽く引っ張って確認すると、人工血液パックを揉みほぐすように押さえていく。いくつものフィルタの抵抗感とともに、その人口血液は体内に流れ込んでいった。
「ふう」
よどんだ血液の中に、きれいなさらさらの血液が通っていくような気がして、思わずため息をつく。空になった人工血液のパックを慎重にはずして、しばらくの間、血液が混ざり合うのを待った。
混ざりあう時間を見計らって、今度は排出口に空のパックを差し込む。
はじめはじわじわ、そして、とろとろと多すぎる血液が、パックの中に流れていく。やがてパックが満たされると、斉藤はそのパックを外し、また、注入を開始した。
Sequence 5 交換
完全ではないにせよ、何とか動ける状態まで復帰した斉藤は、人工血液交換処置を、相沢にも行った。しかし、全体としては半分程度を入れ替えたのにもかかわらず、相沢の意識が戻ることはなかった。
「それでは、地上に降ろしてから治療するということですね」
「そうです。救助用の宇宙往還機はすでに打ち上げ準備のシーケンスが立ち上がりました。打ち上げは24時間後。相沢さんをそのときまで何とか持たせて、斉藤さんも戻って義体の整備点検を受けてもらう予定で進められています。
「了解しました」
相沢の血液は交換したものの、酸素濃度の増加はできていない。外部からは緊急停止や、整備のためのコントロールはできるのだが、外部からでは酸素濃度の調節などの生存機器は扱えない仕組みになっていた。もちろん病院や専用設備のあるところであれば、どうにでもなるのだが、専用設備でないところでは、自分で操作する場合でさえ大幅に制限される。外部からの調整は危険が伴うためである。
マウスにはまだ呼吸があったので、密閉された高濃度酸素のケースに移されている。これも、なんとかしたい。
「どうしようもないのかな。困ったなあ」
もう打つ手がほとんどない。シアン化化合物による中毒は、長期にわたると、細胞死の可能性が出てくる。というよりすでに相沢の脳では細胞死が始まっていてもおかしくない。
「よし、やってみるわね」
しばらく考え込んでいた斉藤は、ゆっくりとだが、復帰しつつあるマウスを見ながらつぶやく。
相沢の服を脱がせ、下着を脱がせる。素の義体は彼女の体を模したもの。見かけは彼女の裸と変わらない。斉藤も自分のつけていた服を脱ぎ、これからの作業に備える。
斉藤の胸は、若干相沢より大きいくらいだろうか。日常生活で必要なのか、十分にやわらかいシリコンゴム製の乳房が、そこには存在している。その胸のハッチを開け、人工血液補充と排出の穴へ2本のチューブを繋いだ。
「そして、こちらへ…と」
こちらの排出口を向こうの補充口へ繋ぐ。そして、こちらの補充口には向こうの排出口を互いにクロスするように繋ぐ。
これで、相手の血液がこちらに流れ込んでくる。そしてこちらの血液が相手に流れる。それを繰り返していくうちに、こちらの体から多くの酸素を与えられ、毒物の分解が行われていくのである。
「ああ、流れ込んでくる」
意識の混濁は思ったより早いペースで襲ってきた。
「よし、い…い…ね」
斉藤は相沢が離れて、チューブが抜けたりしないようにしっかりと抱きしめた。そして、やがて意識が消えていく。
斉藤と相沢は抱き合ったような格好で空中に静止した。
酸素だけを増やせば、順調に代謝していくというものではない。代謝が増えるということは、ブドウ糖やアミノ酸の消費も増えるということである。斉藤が限界まで酸素を増やし、そして処理すべき人工血液の量は2倍になっている。これらを支えるためサポートコンピュータは、ブドウ糖をショックを起こさない範囲で滑らかに増やし、消費されたアミノ酸を補充する。また代謝することによって増えた炭酸ガスを速やかに排出する。
気を失った斉藤の変わりに、サポートコンピュータは生きるために必要なこれらの処理を、できる範囲で確実に進めていった。
ぽん
ぽんぽん
ほっぺたをつつかれて、相沢は目覚めた。目の前にあるのは、斉藤の顔。
どアップで今にも口付けのひとつでもしそうな、斉藤の顔が、じつは安らかな寝顔であることに気づくと、ほっとする。ちょっと期待したような気がしないでもない。…いや、断じて期待などしていない…はずだ。
ところでいまほっぺをつついたのはだれだ?、とやっと気づいてみまわすと、黒田と木原がニヤニヤして立っていた。
「はろー、ぐっともーにんぐ」
「今起きたのね」
「おおお、おはやうございまう」
びくうっとして、あわてて斉藤から離れようとするが、二人とも服を脱いで素っ裸、ご丁寧にそこら辺に下着まで浮遊している。そして二人の間を繋ぐ二本のチューブ。これでは離れるに離れられない。
「これは?」
木原が、斉藤の頬に手を添えて、静かに言った。
「あなたは、ガス中毒で死にかけたのよ、その毒成分を自分の体で処理してくれたのよ」
「え、斉藤さんがですか?」
「ええ、その連絡で私達が駆けつけたんだけど、たぶん、斉藤さんが処置してくれなかったら間に合わなかったわね」
「そうなんだ」
「はあ、はあ」
ずっと大量の酸素を送り込んできた、斉藤の呼吸器が、まだ激しい音を立てている。
「ありがたいんですが、その、まあ、服を着たいんですけど」
抱きしめられたまま身動き取れない。
呼吸は荒いなりにも、斉藤の表情は穏やかであった。それは、今までの奮闘とその成果によるものであろう。
「そろそろ、起こしてもいいかもね」
木原が、斉藤の顔をつんつんとつついた。
「ふえ…? えっ?」
すごい悲鳴が上がった。