◇〝若き獅子たち〟
表題は、幕末に活躍した有望な若き人々のことではありません。2018年に63歳という若さで亡くなられた歌手、西城秀樹さんの歌のタイトルです。
この詩は、阿久悠さんによるものです。
太陽に向かい 歩いてるかぎり
影を踏むことはない そう信じて生きている
あなたにもそれを わからせたいけど
今は何にも告げず ただほほえみのこすだけ・・・
という言葉で始まります。
私は、高校時代、この詩と曲が好きで、何度も聴いた想い出があります。
西城さんが亡くなられた後、ベストアルバムを購入したことから、今も、時々、車の運転などで聴いています。
文豪トルストイの小説に、「光あるうち光の中を歩め」というのがあります。
これは、俗世間にどっぷりつかっている豪商マリウスと、古代キリスト教の世界に生きるパンフィリウスの話です。
マリウスは、何度もキリスト教の世界に入ろうと志ながら、そのたびに俗世間に舞い戻る。
この長い放浪の末に、神の道に入るという感動的な物語です。
「正しい道」、究極的には、「神の道」を〝光〟に例えることは古くからあり、この2つの事例は、正に、そうしたことを気づかせてくれます。
「正しい道」というものが、この世に存在しないのなら、私たちは、求め、選択する必要はありません。
しかし、それでは、宇宙の秩序は保てず、広がりを持った発展は不可能となるでしょう。
つまり、それぞれの段階における「正しい道」は、必ず存在するということです。
そしてそれは、「神の道」なのでしょう。
全宇宙を創造し、それを管理するために法則を設定した者、それが神なのだと思います。
私たちは、それを〝宇宙の意識〟と呼んでいるわけですが、その視点で精査して、まったく矛盾のない「生命の科学」は、人間の生きるための教科書なのだと思
います。
本来、全人類が、私人も公人も同じく、〝光〟へ向かって歩まなければなりません。
これが、宇宙に住む人々の当然な姿なのだと思います。
しかし、ここは地球です。
少なくとも私たちは、そのことを忘れず、常に注意力をもって歩んで行きたいものです。
2020.9.2(水) K・W
◇読書について想う
小学校時代は、読書の経験はほとんどありません。漫画も読みませんでした。
中学校時代は、UFOに興味を持つようになり、関係する書物を少し読むようになりました。
高校時代は、アダムスキー関係書物を中心に読書をするようになりました。
アダムスキーに出会ってからは、〝その関係書物以外は読む必要がない!〟という人もいました。
その趣旨はわかりますが、やはり多くのことを知りたいという欲求に合わせて、幅広く読書をするようになりました。
小説なら、その主人公や周囲の人々の想いや考え方を疑似体験することができます。
それは、読者に様々なことを考えさせる良い機会となります。
かつて教科書に、〝文学者の使命感は、私はこう生きました、あなたはどう生きますか?〟という問いを発することにある、という一文を読んだこ
とがあります。
なるほど、小説などは、そのような思いが込められているのだと感じ入ったものです。
最近は、この〝使命感〟が、小説や映画、あるいは政治などにおいて薄れているように感じています。
私の場合は、小説はほとんど読んでいません。
どちらかというと、ドキュメンタリー、思想、経済、科学などに関するものを中心に読んでいます。
もちろん、アダムスキーに関する書物も時々読み返しています。
本を読むスピードは速い方ではなく、加えて若い頃、電車の中での読書や、照明の弱いところでの激務から視力を弱めていて、年間の冊数はそれほ
ど多いものではありません。
しかし、時間があるときには、ほとんど読書をしています。
私は、読書によって正論に出会う時、そして想いを巡らすことができる書物が好きで、そのようになれる書物は、心の栄養として楽しんでいます。
これらは、アダムスキーの伝えた哲学に軸足を置きながら、それらを確認するような感じで読んでいるのです。
そうすることで、アダムスキー哲学の真実と汎用性、有効性を調べているのです。
孔子の言葉に、「学びて思わざれば則ちくらし 思ひて学ばざれば則ちあやうし」という格言があります。
これは、いくら勉強しても、考えることをしないと道理を知ることができない。
また、考えるだけで勉強をしないと真理を見誤るということです。
この言葉を肝に銘じながら、人々の考え方や世界の動向、政治、経済などにも目を配りつつ、今後も真理の探究を続けたいと思います。
2020.9.21(月) K・W