◇先哲の遺訓に想う
「師に遭(あ)うも覚(さと)らず
師に覚るも勤めず
勤るも道を守らず
或(あるい)は志固(こころざしかた)からず
固きも久(ひさ)しうする能(あた)わず」 道家・真誥(しんこう)
この意は、師に会ってもその価値に気づかず学ばない。学んでも実行しない。実行してもいい加減である。
あるいは、志が定まらない。志が定まっても長く持続できない・・・ということです。
このような姿勢では、人生でいかなる実も結ばないということを伝えています。
いつの世も、このようなことだとつくづく思います。
ブッタの時代の側近の10代弟子たち、そして弟子の教え子たち。孔子の弟子やその教え子たち。イエス時代の12使徒、そして、その後の弟子や教え子たち。
などなど、師は目覚めた偉大な人であっても、その弟子は、そばにいてもその偉大さに気づかず、その教えの意味も理解できず、一般に広まるうちには、意味が
分からなくなったり、世俗化してくることも少なくありません。
翻って、アダムスキーを支持する私たちはどうなのでしょうか?
アダムスキーの伝えた教えに共感し、その教えを学びながらも、何か、古いものであるかのように考え、新しい体験談や情報に魅力を感じ、軸足がふらふらして
いるような状況が見られないでしょうか? まだ、半世紀しかたっていないというのに!
これでは、黄金から何も得られず、人類のために精神のすべてをかけて行動したアダムスキーや、遥か昔から支援してくれているオーソン等のスペースピープル
に申し訳ないではありませんか。
しかし、こうなる理由も分からないでもありません。
アダムスキー亡き後、新たな情報が出て来ないことが大きな理由の一つでしょう。また、アダムスキーが伝えた中で、「生命の科学」が最も重要であると思いなが
らも、その価値を心底から感じられないからでしょう。
つまり、解釈という意味での理解ができないからなのです。さらに、その実践とは何なのか、分からないのだと思います。
いずれにせよ、真意のわかる人々は、オーソンや生まれ変わったアダムスキーが再来した際、言い訳をしないですむよう、寝ることなく、しっかりと正しい道を歩
んで行きたいものです。
2016.9,12日(月) K・W
◇頭脳と精神性は比例しない?
世の中に、優れた頭脳の持ち主がいるということに疑いはありません。
アダムスキーも、そのように言っています。
クイズ王や頭脳ナンバーワン決定戦などの番組で、トップを競う人々は、何でこんなことまで細かく覚えているんだろうと思うことや、超高度な計算を必要とする出
題に対して筆記で答えを出す能力の高さは信じがたいほどです。
そのような人々は、単に一流大学に入るというのではなく、そこで学ぶ知識を超えて、あらゆる領域に大変な知識と応用力、洞察力を持っているのです。
正に天才と言えるような人々ですが、将来は、医者や弁護士、官僚などになるのでしょうが、出来れば研究者や探究者となって、人類に真の幸福が訪れるような
業務に携わって欲しいと思います。
彼らは、一般人が一生かかっても覚えきれないほどのことを、二十歳ぐらいでやってしまっているのです。
応用力については、相当なレベルで達成していますので、向かうところ分からないというものはないのではないでしょうか。
推測するに、哲学についての知識も相当あるのではないでしょうか。
これで、ある程度の社会性があるならば、社会の第一線で、豊かに暮らせることが保証されるでしょう。
では、その人々の正義感や幸福な社会の実現についての想いはどうなのでしょうか?
人間の知能や才能というものは、自分だけの生活のためではなく、人類の良き世界実現のために役立てるためのものであると思います。
特に、才能豊かな人々は、その役割を人類に対して担うように生まれてきているものです。
ですから、その想いの強い人間は、自分の生まれてきた役割に気づいている人だと思われます。
このように生きるとき、その積み重ねで人は、精神性が高まるのだと思われます。
知能や才能豊かな人は、それ自体で祝福され、素晴らしいことではありますが、そのまま精神性が高いというものでもないようです。
才能などそれほどなくても、人類のよき未来を願って生き、何らかの役に立とうとする人々は、精神性が徐々に高かまるのだと思います。
「生命の科学」を軸に生きる人々は、そのことを忘れることなく生きて欲しいと思います。
2016.9,26日(月) K・W