◇日常で想うこと・・・
先日、人間ドックのため車で隣町へ向かいました。
午前7時30分頃の時間帯ですが、裏通りの車の数は大したことはありません。しかし、大通りに出た途端、やや交通量が増加し殺気立った車に後
方からあおられる≠謔、な状態でした。
私は、30年以上、無事故無違反であり、職場の安全運転副管理者にもなっているので、制限速度をやや超える程度の速度でしたが、それでは、遅
いというような運転でした。
これは、一例にすぎません。
生活のあらゆる場面で、このような状況だと思われます。
私は、この日本において、人々の意識は、疲弊してきていると感じています。余裕がないというのか、他人に厳しく自分に甘いというのか、バラン
スの悪い、おかしな社会になってきているようです。
政府では、景気は緩やかに上昇していると言いますが、1990年代のバブル崩壊以降、失われた20年と言われ、貧富の差は広がり、それ以来、
一向に好転しているようには見えません。
これらも、その背景としてあるように思います。
総てに目を配る心優しい人がいる一方、常に、挑戦的で排他的、あるいは、何に対しても不満を持つ人がいるのです。
心優しき人も、ある分野では心優しい振る舞いをしていても、自らに関わる損得がある場合に、変貌する人がいるのも事実です。
これが、日本、いや世界の日常なのでしょう。
目先のことに一喜一憂し、自分の存在理由も考えず、病気や災害に不安を抱く、こんな人は、頼れるものはお金だけとなって、喜怒哀楽の奴隷とな
っていく。これが、地球人の普通の生き方なのだと思います。
私たちは、このような社会で、どのように生きてゆくのかを考え、他人に左右されることなく、しかし、協調性を持ちながら、自らの道を歩んで行
くのだと思います。
そのような意味では、地球は、大変勉強になる稀有の世界であると思われます。人間(心)と意識との関係、軸足がどちらにあるのかをはじめ、心
の制御などの原点を理解する惑星なのだとつくづく感じています。
2015.11.18日(水)
K・W
◇フランスのテロに想う!
11月13日(金)の夜(日本時間14日未明)に、パリと郊外の6か所で起きた同時多発テロで、130人もの死者と350人を超える負傷者を出しました。
特に、コンサート観戦中にテロで亡くなられた方が多いということで、心からお悔やみと哀悼の意をささげるものです。
フランスのオランド大統領は、このテロ行為を「イスラム国(IS)」による攻撃と述べ、今回の残忍極まりないテロ行為を、フランスでは、ISとの戦争であるとの認
識となっています。
ただちに、犯人を割り出し銃撃戦で掃討するとともに、シリアでのISへの攻撃が続けられています。
今回、フランスがISのターゲットになった理由としては、9月にアメリカなどとともにISの空爆に参戦していることが挙げられています。
これらの行為は、「目には目を! 歯には歯を!」という、イエス到来以前のモーゼ時代が、今日でも続いていることを想起させます。
この結果は、お互いが滅びるまで、繰り返し戦い続けるということになるのです。
イエスは、これらの行為を辞めさせるという役割があったのだと思います。
しかし、人類は、そのことを理解できないことから、2000年以上経った今日でも繰り返しているのです。
ISに奥さんを殺され、1歳児を残された父親が、ISへ向けた手紙を公表したということで、そこには、ISを君と呼び、君を憎まない、君を憎むと君と同じようになる
ということや、子どもは、何時もと同じようにおやつを食べ、これからも自分と遊ぶだろうということが書かれ、君の想い通りにならないと書かれているようです。
これは、奥さんを殺され悲痛の中で、大変な決意であり、高潔な生き方であると思います。
おそらくこのような生き方が、イエスが伝えたことであり、アダムスキーが伝えた宇宙の意識に沿う生き方なのだと思われます。
憎しみは憎しみを増幅します。これは、悲惨な結末しかないのです。どこかで、これを断ち切らないといけないのです。
この辺のことを、歴史から学ばなければなりません。
そもそも、なぜ、ISや対立しているアルカイダのような勢力が生まれるのか、という原因究明の議論が必要です。
そうすると、中東やアフリカ、アジアにおいても西洋列強が植民地化していたことが分かります。植民地としないまでも、その国の資源を手軽に自国に持ち込む
ようなことはやっていました。ISの場合、その主力戦闘員は、中東に関係のない西洋人や、西洋で学んだ人が多いようですが、しかし、植民地支配と無関係とは
思われません。
植民地の場合は、その国の人々を奴隷として使用していたわけです。そして、国境についても民族など、その国の事情を考慮せず、勝手に西洋列強が引いてき
たということが多いでしょう。
その結果、豊であった国も、穏やかであった地域も、西洋諸国によって搾取され、貧しく治安の悪い国へとなってゆくのです。
それらを経て、今日の世界が築かれてゆくのですが、そうした歪んだ社会が、根っこにあるために、様々な問題を生じていると見ることも出来ます。
いずれにせよ、今回のテロが、世界に広がらないこと、そして、周りの国を巻き込んだ戦争へと発展しないことを願うばかりです。
2015.11.23日(月) K・W
◇ベートヴェンの第九を歌う!
先日、今年で17回目となる市民歌のつどい≠ノ出演し、年末恒例のベートーヴェン作曲交響曲第九番の合唱を歌ってきました。
本公演は、2部構成で、1部の前半にポピュラーソングを大人や子供、会場の皆さんと一緒に8曲歌い、1部の後半は、歌の伴奏なども行った地元のビッグバン
ドと、地元の高校生3校の吹奏楽団が共演するコーナーとなります。
ここでは、地元の高校教諭が交代で指揮をしたり、演奏に合わせてジャズの歌なども披露し、なかなかレベルの高い出し物となっています。
そして、第2部が、ベートーヴェン作曲の第九の合唱となっています。
その演奏は、第4楽章だけのもので、地元の中学生を主力に、高校生や一般人が行うものですが、地元中学のオーケストラ部は、全国大会で何度も金賞を受
賞するほどの実力でもあり、音楽の好きな街≠掲げる本市の面目躍如といったところです。
歌は、第1部、2部ともに、地元のいくつもの合唱団が市民合唱団として団結し、一般参加者や市外からの協力者を得て行っているものです。
歌も演奏も、それぞれの指導者により、数か月間の練習を行って本番を迎えています。
ベートーヴェンの第九番交響曲は、当時有名であったフリードリヒ・シラーが書いた詩「歓喜に寄す」を読んで、大変感動したベートーヴェンが、いつかこの詩に
曲をつけたいと考え続け、ベートーヴェンの最後の交響曲となった第九番の最終楽章である第4楽章の後半に、これを実現させたと言われています。
この4楽章の合唱のために、第1楽章から3楽章までがあると言われるほど、歌のところが重要となっています。
この詩は、総ての被創造物は、歓喜のなかにあるとして、ともに喜び、ともに歌うことを綴ったもので、平和への賛歌であると思います。
世界が、他国に対して疑心暗鬼になりつつある今日、このような純粋な存在に対する喜び、基本的な願いを歌として伝えられないかと思うしだいです。
私は、このイベントの1回目と、近年になり6年ほど続けて参加していますが、今回が、声の大きさ、歌い方など自分最高であり大変気持ちよく参加できました。
自分のパートは、テナーであり、高音部のラの音をテナーが大声で歌う部分があって、ここはテナーの多くの人がしっかり出せないところでしたが、そこも良好に
歌えたのが良かったのだと思います。
そもそも、私は、クラシック音楽は好きでしたが、歌に興味があったわけではありません。
しかし、参加するようになったのは、このイベントの始まりに私が関係しているからです。
平成8年、私は、企画係に所属し、平成10年に迎える市制50周年記念事業の担当者でした。担当者と言っても、専属ではなく、他の仕事と兼務で50年に1度
であり、多額の予算を使って行う大事業の担当者でした。
その際、イメージソングの作成、キャラクター(着ぐるみ)募集、12地域でのイベント開催、民間募集イベントの開催、各種グッズの作成、式典をはじめ3大イベン
トの開催など多くの事業を企画しました。この時のイメージソングは、今回の市民歌の集いの導入歌として歌い、キャラクターのベリーちゃん≠熾荘苟ウでリズ
ムをとっていました。
平成9年、3大イベントの1つに、会議でアイデアがない場合に使おうと「1万人の第九!」というものを掲げていましたところ、結局、これが採用され、1万人は無
理だがということで、「市民歌のつどい」の名称で、市制50周年記念事業として新装なった本市のアリーナを会場に第1回目を行ったのです。
企画係で、約2年間かけて50周年記念事業の準備をしましたが、本番である平成10年4月の定期異動で、介護保険制度がスタートするための準備の命を受
け異動となり、残念ながら、本番は、門外漢であったことから、「市民歌のつどい」に出演者として参加したということなのです。
当時は、大変複雑な想いで参加したのを覚えていますが、その後、初回をベースに地元の公益財団法人主催となって、今日まで継続していることは、大変感慨
深いものがあります。
2015.11.29日(日) K・W