◇三つ子の魂 百までの活用!?
このことわざは、三歳の子どもの性質は、百歳になっても変わらないということです。平たく言えば、幼いころの性質は、年をとっても変わらない
ということを言ったもののようです。
地球上で三歳と言えば、まだまだ幼子であり、自我が芽生える何年も前のころです。
その頃の性質が、その後、自我の目覚めを経て、大人となり、社会人となって結婚をして、ひ孫ができる年となっても変わらないということなので
す。少々、不思議にも思えますが、ことわざというのは、連綿と続く人間の生活の中で、経験的に真理であると思われるようなことを言葉として残
してきたものです。これは、統計学以上であり、いい得ているところが少なくありません。勿論、このことわざも、納得できるところが多いもので
す。
そもそも、魂というのは、この地に肉体を得てから同じものが継続していくものです。これは、死ぬまで同じものでありますから、その点では、魂
は変わらないのです。
しかし、ここでは、魂を引き合いに出して、その人の本質を指していると解釈すればよいと思います。その人の本質的な性質は変わらないと解釈で
きるのです。
三歳とは、やっと自分の好きなこと嫌いなことがわかってきて、そのことを表現できるようになるころだと思われます。これは、単に、自然な発露
として表現しているのではなく、ゼロ歳から三歳までの家庭教育を反映しているものであると思われます。
その時の性質が、それ以降変わらないと言っているのだと思います。
逆に言えば、三歳までに地球上での良き習慣や事柄を教え込めば、忘れることなく継続していくことが期待できるようにも思います。
イギリスの古典派経済学者で哲学者のジョン・スチュアート・ミルは、父親に英才教育を受けた天才として知られています。彼によると、子供は、
小さいころにできるだけ多くのことを教え込む必要があると言っています。
そうすれば、意味もなく覚えていていた多くの事柄が、大人となって有意に活用できるようになるということのようです。
幼いころに教え込むというのは、自我が本格的に芽生える前に教え込めということです。
自我が芽生えると、好き嫌いが強くなりますから、そんな我がままを言わないうちに親が望むことを教え込んでしまえともとれます。
この時期は、確かにそのようなことができるのだと思います。
ここで重要なのは、宇宙的な真理に照らして有用なことを教え込むことです。宇宙的に不要なこと、エゴに関連することを教え込むと、その子は、
大人になって以降、高齢になるまで、その生き方を貫く可能性があるということです。
進化したスペースピープルの世界では、この時期に相当するころに、地球上での「生命の科学」で伝える宇宙の意識を認識させるのだと思います。
もっとも、生まれてから、そのことを感じさ続けているようですが、それを、地球上で言うところの自覚(脳を伴う理解)に結び付けるのだと思い
ます。
日本では、吉田松陰が叔父の英才教育を受けて、11歳の時に殿様に講義をしたことで知られ、二十代後半では、松下村塾において日本の夜明けに
必要とされた多くの人材を生み出しました。彼の受けた儒教を基礎とする教えは、宇宙に照らして有用な教えであったのだと思います。
三つ子の魂百まで。翻って、子を持つ親として耳の痛い話です。
2015.3.15 K・W
◇数字が力を持つ時代でよいのか!
ここ15年くらい前でしょうか? 数字が、今まで以上に力を持つように感じたのは・・・。
思えば、ISO9001とか14001などという基準が、日本でもてはやされたことと繋がります。日本では、民間企業でさえマニュアル重視に
違和感がある中、地方公共団体においても導入され、一部、良い点はあったものの、無駄なお金と時間を使ったような感じを多くの職員が感じたも
のでした。契約に記されたことしか行わない、信じないような国では有効な制度と思われるものでした。
しかし、この数字≠ニいうのは、もともと資本主義社会では有効なものだと思われます。
売上や利益はどうか、費用の削減または費用に対する効果など、企業存立のために常に数字にこだわります。地方公共団体においても、不況の時代
にあって、常に費用対効果や目標を数字で表すよう指導され、何でも数字で表すようになってきました。
このような時代は、企画部門より財政部門が力を発揮するものです。企画部門がいくら可能性のあるアイデアを出しても、リスクのあるものや費用
の掛かるもの、あるいは、数字で表せないものは採用されず、簡単に葬り去られるという状況です。これでは、冒険もできず、面白味はまったくあ
りませんし、人は成長できないというものです。これは、歳入歳出という、数字に負けてしまうということなのです。
これを言い換えると、客観的事実が最も力を発揮する時代であるということです。しかし、これは、何らかの策略ではないかと考えてしまいます。
と言うのは、精神的な部分を軽視するような方向性を持っているからです。
歴史を見れば、近代哲学の父と言われるフランスのルネ・デカルト以降、科学的分野では、不確実と言われる心に関する部分を入れないと定め、物
質と精神とを分けて考えるようになりました。その結果、医学は、肉体を機械のように考え発展し、それでは割り切れない死については、道徳的な
部分を含め、分けのわからない状況となっていますし、科学的な分野においても、量子力学の進展によって、従来の物理的な法則では説明のできな
い事態が生じています。
この状況は、テレパシー等を信じないという現象をもたらしているのです。
科学と言われるものは、最低でも客観性と再現性が必要です。誰がやっても、結果に変化がないことが求められるのです。しかし、テレパシー等
は、やる人によって結果を変えてしまいます。そのため、実証は極めて困難なのです。
羊とヤギの問題と言われるものがあります。テレパシーとは、そうしたもので、信じる人の間では通用し結果が認められるのですが、信じない人が
一人でも加わると、否定的な想念が作用することから思うような結果が出てこないのです。これでは、科学的といえないため信じられないのです。
しかし、人々は、数字は嘘をつかないとして、科学的な事項を信用し、心に関係する部分を信じようとしないのです。
ここが、問題なのです。アダムスキーも言っていますが、重要なことは、目に見えないところにあるのです。そこを軽視するような方向性が世間を
先導し、その結果、人々の多くがそのことを求めているのです。
客観的事実を求め、最重要視する文明は、しょせん、大した文明ではありません。地球人は、こうした価値観を持っていたことから、堕落してしま
ったのです。目に見えないもの、しかし、人間の生活を初め万物を指導している真の力というものを、今の人類は理解し、そこに価値を認めるよう
な生き方をしていかなければならないのです。そこが、アダムスキーが伝えた重要な事柄なのだと言えるでしょう。
2015.3.27 K・W