宇宙に想う!  

 
   はじめに 
 
        ここでは、「生命の科学学習会」や「G・アダムスキー通信」では、触れることが少ない、日々の生活における行動や社会的事象につい
         ての感想、あるいは、スペースピープルに馳せる想いなど、広範囲にわたり「生命の科学」をベースにした考え方で、分かりやすく書い
         ていきたいと思います。

    重要なことについては、「生命の科学学習会」で追加説明したり、「G・アダムスキー通信」に改めて記載することもあると思います。

    頻度は、月数回を目標とします。短文にはなりますが、皆さんの生活の参考になることができれば幸いです。


◇アダムスキーを信じられる理由
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 アダムスキーが真実のコンタクティーであると信じ、その教えを活かそうとする人々は極めて少ないだろうと思われます。
 全世界で、1千人もいるでしょうか? おそらくいないと思います。

 それほど、アダムスキーの思想は知られていないし、活かされていないということです。
 だからこそ、継続し伝えていくことは極めて貴重な活動であると言えるでしょう。
 
  信じている人は、どうして信じられるのでしょうか?
 1952年11月20日のオーソンとのコンタクトにおいて、目撃証人がいたからなのか、ストレイス書簡があるからなのか、それとも惑星探査等の報告が怪しいから
 なのか、あるいは母船の長老の話に共感するからなのか、またまた生命の科学が真実であると感じているからなのか。

 アダムスキーを証明する事柄は少なからず存在しています。それらをきちんと集め整理すれば、あるいは、信じてくれる人が増えるかもしれません。そういったこと
 も必要なのだと思います。

 しかし、長年にわたってアダムスキーを信じ、その教えに生きようとしている人々の多くは、そうした証拠により信じているのではないと思います。彼らは、単にアダ
 ムスキーの体験等が真実であると解るからなのだと思います。

 私自身、証拠により信じているのではありません。イエスは、証拠を求める者には、証拠は与えられないであろうと言っています。
 ある事柄に対して信じられる人は、信じるところからスタートして、その後、証拠がもたらされるのです。つまり、証拠により信じるのではないのです。証拠があるな
 ら、信じる信じないの問題は存在せず、その事柄は事実であるということになるからです。

 振り返れば、40年以上、アダムスキーを信じて活動していますが、転機において様々な証拠が与えれられました。
 当初は、自分を初め周囲の人々のUFO目撃が始まりでしたが、平成5年ころから様々な体験をするようになり、平成7年頃には、UFOを呼ぶことができるように
 なりました。正確には、UFOに会いたいと思って山に出かけると、待っていたかのようにUFOが出現し、こちらのテレパしーに合わせて光ってくれるようになったと
 いうことです。
 
 例えば小型UFO3機が、等間隔、恐らく1km程度離れて水平に出現し、順番に大きく輝いたり、母船のようなものが出現したかと思いうと消えてしまったり、一般
 的なのは、数機が滞空しながら1機または複数機が大きく輝いてサインをくれるというものです。

 ある時は、晴れているのにUFOがなぜか出現しなかったのですが、帰りがけに、後で小型UFOでも良いから見せて欲しいと伝えて帰宅したところ、約1か月後、
 自宅の2階、バラが咲き誇る真ん中に小型UFOが出現し写真に写っていたのです。

 UFOを見にゆく山は、道が狭く荒れていてここ3年ほど行けない状況です。
 実は、私の活動の是非をUFOに確認していたわけですが、それができないことから少々困っていました。そこで、たまたま夜間の野外コンサートに行った際、ある
 ことの是非を確認したいと思って想念を送り、本番を見ている最中、特殊な印象(彼らからの暖かい想念波動)を感じ、何だろうと思って数分後、右側(東側)仰角
 25度くらいのところから、正面舞台後方からのスポットライト状のものと同じほどの大きさのUFOが出現し、強力な光を発してOKであることを伝えてきました。

 これは、周囲の誰も気づいた様子がなく、私の右隣にいた妻も見ていないことから、私にだけ見せたものだと判断しました。
 コンサート終了後、その場所を見ると、丘の稜線ぎりぎり当たりかと判断ました。場合によると、丘より低かったのかも知れません。いずれにせよ、何らかの機材
 があったとか、見間違いであったというようなものではありません。

 経験的に言えるのは、アダムスキーは真実であり、彼らスペースピープルは、今なお活動を継続しているということです。
 私は、アダムスキーを信じるところからスタートし、今まで様々な証拠をいただいたことで、より積極的に活動できるようになっているのだと思います。

 
                                                                         2014.12.3   K・W 


◇日本の常識は世界の非常識なのか?
  日本人は、世界でも少数派に属する精神構造を持っているようです。
  思ったことをすぐに言わない、相手の意見を尊重する、わび・さびの思想を持つ、争いを好まない、和を大切にする、人を裏切らない、いい仕事をしようとする、他
  人の困ることをしない、誰にも公正公平、他人の評価を気にする、誠実で勤勉等々と多くの日本人に共通の気質があります。

  ところが、この相手の意見を尊重する、他人の評価を気にするという奥ゆかしさ≠ゥら、日本は、自己主張が弱く他国の評価に翻弄されています。それが行き
  過ぎると、自己批判や自虐史観に陥ることになります。

  もっとも、この自虐史観は、戦後の誤った教育に由来するところが大きいのですが、それによって、日本人の良さ、人間としての良識、人類の至宝を失ってはい
  けないと思います。

  最近は、このような傾向を危惧する知識人を中心に、戦後の歴史がいかにゆがめられたかについて、多くの書物が出版され、テレビ等においても日本人の誇り
  や素晴らしさをたたえる番組が増えてきているようです。まんざら日本の賢人も捨てたものではないと思います。

  例を挙げれば、江戸時代の日本は、人口100万の都市として、世界に類を見ないほど平和(犯罪も少ない)で衛生的で教育水準、特に識字率は世界一と言わ
  れていました。海外から日本に来た人々は、正にそのこととに驚嘆し多くの書物を残しているのです。
  このことは、「世界史が伝える 日本人の評判記 その文化と品格」(中西輝政 監修)など、様々な書物に掲載されています。

  近年の特徴的な例では、世界の喜劇王と言われたチャールズ・チャップリンは、日本を愛し日本人を心から信頼していたということです。これは、彼の秘書であっ
  た高野虎市(こうのとらいち)が、チャップリンに対して誠実で献身的であることから、チャップリンがとことん惚れ込んでしまったということです。

  裏を返せば、他国においては、そのような人材は期待できなかったということのようです。これは、他国に虎市のような人がいないというのではなく、日本に、この
  ような人が多いということなのです。このことから、チャップリンは、一時は、使用人のすべてである17人を日本人にしてしまったというエピソードが残っているくら
  いです。
  チャップリンは、これをきっかけに日本に来日し、その素晴らしい文化と芸術性に感嘆していました。最も、最後の来日では、日本の西洋化に失望しているような
  発言もするようにはなりましたが・・・。

  以上のことは、ほんの一例で、欧米ばかりでなく、侵略したと教えられている東南アジアのすべてと言っていい国々からも、日本は信頼され世界平和を担う国とし
  て大いに期待されているのです。このことについても、実際に東南アジアを支援している団体や、取材を行った記者等が著した書物に詳しく記されています。

  このように考えてみると、日本の常識は、単に世界の少数派なのであって、決して非常識ではなく、むしろ人類の至宝であり、世界平和に必要な要素であって遠
  慮することなく世界に発信していく必要があるのではないかと思います。
 

                                                                       2014.12.12   K・W 


◇情報過多は指針を失う!

 情報が多いというのは、基本的には良いことでしょう。
 テレビやラジオ、電話もない時代は、一地域で起こったことが他地域に知られるまでには数日から数か月も掛かっていたでしょう。その内容が、他
 地域に知られていた方が、問題が起きないというような場合には、早く知らせることによって多くの事件等が防げることと思います。

 今日では、日本を初め世界中に情報網が張り巡らされ、小さな出来事さえも、居ながらにして声や映像が届くようになりました。これにより、それ
 を受信できる道具を持つ人々は、多くの事件や事故等を早く知るようになり、知識の共有化が図れるものと思われます。

 一方、報道の関係者が増えることによって、一つの事件や事故等について多くの見解が示されるようになり、どれが真実なのかを選択するのに容易
 でない場合も多く存在しています。要するに情報過多となっているのです。

 これにより、人の苦しみを自分の苦しみとして受け止めていたら寿命が短くなることから、自己防衛的に好きな情報しか取り入れなくなったり、膨
 大な情報を処理できなくなっているようです。
 これらは結果として、無関心と思われる人々の存在や、真実の探究に疲れる人々を生み出しているようです。

 更に怖いのは、これらが進むことによって、生きるための指針さえも失いかねないということです。

 生きるための指針をどこに置くかについては、地球人であるなら、価値観の違いによつて表面上はそれぞれ大きく異なることと思います。しかし、
 人間として存在している以上は、生きる上での判断について宇宙の意識≠ニいう指針から完全に外れることができないのが通常です。

 しかし、情報が処理できなくなり、脳が疲れ真実が見えなくなると、宇宙の意識≠感じようとする能力まで霞み、常に大きく外れながら生き続 けようとしている人も多いように思われるのです。

 もし、悪魔が存在し、地球人を苦しめ滅ぼそうとするのであれば、影響力の大きな方法の一つとして、情報を多く提供し、混乱の中で意のままにし
 ようとする情報を混ぜてくるものと推測されます。

 このように考えてみると、宇宙の意識≠感じ生きようとする私たちでさえ、情報過多にさらされていることを自覚し、仕事などの日常生活の中
 にあっても、常に宇宙の意識≠見失うことがないよう留意する必要があると思います。


                                              2014.12.24  K・W