宇宙に想う!  

 
   はじめに 
 
        ここでは、「生命の科学学習会」や「G・アダムスキー通信」では、触れることが少ない、日々の生活における行動や社会的事象につい
         ての感想、あるいは、スペースピープルに馳せる想いなど、広範囲にわたり「生命の科学」をベースにした考え方で、分かりやすく書い
         ていきたいと思います。

    重要なことについては、「生命の科学学習会」で追加説明したり、「G・アダムスキー通信」に改めて記載することもあると思います。

    頻度は、月数回を目標とします。短文にはなりますが、皆さんの生活の参考になることができれば幸いです。


“損”か“得”かとは異なる価値!

 一般に、資本主義経済社会に浸かっている私たちは、行動を起こすにあたって“損”か“得”かを基準にしているようです。

 資本主義経済の成熟期を迎えた日本では、給料の停滞が続く中、企業においては、更なる経費の削減や販路拡大に力を注ぎ、公共機関においても、
 “費用対効果”などと言って、人員削減をはじめ公共事業や補助金の削減など様々な経費削減を行っています。


  これらの傾向が行過ぎると、人心の疲弊や精神疾患者の増大、あるいは、犯罪の増加等の好ましからざる事態となります。
  現在社会は、まさにそのような状況にあると思われます。

 しかし、“損”か“得”かの判断は、必ずしも悪いことばかりではありません。広義でいえば、資源の有効活用を行っているということで、限りあ
 る資源を大切に活用するということでもあります。

 但し、過去数十年間の人間社会の動向を見ていると、悪い傾向の方がはるかに強いものであると思われます。

  この“損”か“得”かの考え方は、結果主義に陥りやすいようです。
   企業や公共機関、スポーツ会においても、この結果主義が重要なものとなっています。

  これは、特にアメリカにおいて顕著であると思われます。それというのも、アメリカの教育学者のジョン・デューイ(1859−1952)は、プラグマティズム思想と言っ
  て実用主義を唱え、“知とは価値を得る道具に過ぎない”とか、“結果は真理である”という考え方を持っていました。この考え方は、アメリカの教育会に多大な影
  響を与えました。この思想は、日本の教育界においても重視され引き継がれていることから、日本においても結果主義の傾向が強くなっているのだと思います。

  本来、人の行動基準は、他者にとって最も望ましい行動は何か?・・・と言うような、多利的なものが宇宙の意識に従った行動基準なのだと思われ
 ます。それが、個人や会社にとっての得が基準となっているというのですから、あまりにも利己的であり、本来の生き方と違うというものです。

 結果が重視される社会において、果たして結果のみが重要なのでしょうか? 
 元来日本においては、結果だけではなく、その過程を重視する考え方を持っていました。そのため、努力が報われない人に対しても励まし、次のチ
 ャンスを促す原動力となっていました。これは、スペースピープルの社会と同じ行動だと思います。

 例えば、旅行を考えた場合、結果である目的地のみが重要なのでしょうか? 実際、目的地を目指すものの目的地に行くには時間がかかります。そ
 の目的地へ向かうまでの過程の一瞬一瞬を楽しまなければ、旅行を十分に楽しんだことにはならないでしょう。
 また、金銭的な利益を生まない文化や芸術にエネルギーを注ぐ人もいます。それを心の支えにするとしても、それで食べていける人は一握りの人で
 しょう。しかし、場合によっては正規の仕事を休んででも、趣味と言える事柄にいそしんでいるのです。

 つまり、金銭的な利益を得る事だけが“得”ではないということであり、結果は重要ではあるけれど、それを得るまでの努力や想いも“無駄(損)
 ”ではなく重要であるということです。この考え方は、人間行動の総てにおいて言えることなのだと思います。

 このように考えてみると、結果を重視する“損”か“得”かというような価値基準とは異なる価値。言い換えれば、結果よりもその過程での努力、
 あるいは、金銭的な利益を生まないような文化や芸術などの分野が、人間生活の潤滑油であり、実は、人間生活における行動基準ともなり得る重要
 なものだということを忘れてはならないということです。

  
 
                                                                         2014.9.15   K・W 


情報の共有も善し悪し?
 世界には、秒単位で様々な事件や事故、災害などが起こっています。
  その状況を、即座に知ることができるグローバルな情報社会には目を見張るものがあります。

  しかし、その情報が、人々に幸福感をもたらすようなものならよいのですが、そうではない場合には、精神的に苦痛になるというものです。
  例えば、幼い子どもへの虐待、あるいは事故や病気による死、憎しみを原因とする様々な犯罪、小さな子供を残しながら病で死んでいく若い親の姿などなど、様
  々な悲しみや苦しみが映像等で国内外に配信されます。

  このような情報、特に子供に関連する不幸を聞くたびに、何とも悲しい気持ちとなってしまいます。
  金星の母船の中で、女性異星人のカルナも地球人と関わる中で、悲しい気持ちを伝えています。
 
  アダムスキーは、人々が、地球上での不幸を聞いているので心臓病が多いのだというようなことを書いています。確かに、そのようなことがあるのだろうと思いま
  す。

  情報が広く知らされるというのは、選択力や理解力を失った人々に対して、確かに問題なところもあるのですが、むしろ悲しく不幸な事件や事故が多いということ
  が問題なのだと思います。
  では、不幸な事件や事故が多い原因は何なのでしょう?

  事件や事故のそれぞれに、様々な理由が考えられるでしょう。
  例えば、事件が多い理由の一つとして、貧困層の増大が考えられます。貧困層の増大と事件の増加とは明らかに相関関係があるからです。

  事故あるいは災害の増大は、データーがある分けではないものの、人間の精神性の低下と相関関係があるのではないかと考えられます。
  世界的に見た近年の事故等は、なぜか、そのように感じてしまうのです。

  このように見てくると、感情をコントロールできるような理解力を持たないと、情報の共有化は苦痛を伴うことがあるということです。
  また、情報過多の社会においては、情報を選択していく必要性と、提供された情報を単に知るだけではなく、その背景や原因を探求していくことが大切なのだと
  思います。
  そのように対応しなければ、情報の共有は善し悪し・・・むしろ悪いことに傾くでしょう。


                                                                          2014.9.23   K・W 
      

◇“太った豚になるより痩せたソクラスたれ!”
 この言葉は、約55年前の東京大学の卒業式において、当時の総長が、卒業生に向けて贈った言葉として知られています。
 この意味するところは何なのでしょうか?

 豚は、食用として品種改良されたもので、飼育された豚は一般的に太っています。
 1頭で、太っていて肉が良質であれば、生産者にとっては利益が大きくなります。同じ手間をかけて育てるとすれば、太った良質な豚を育てるとい
 うことです。

 
 人間に食べられるために育てられるというもの気の毒な感じがありますが、良い人間に食べられ喜ばれるならば、豚の細胞(原子)にとっては良い
 経験となるものと思われます。

 豚は、こうして生産者と消費者の両方に役立ちます。

 一方、ソクラテスは、古代ギリシャの哲学者であり、生きるとは何か、真理とは何かを追求し、自分の信念を貫いたために投獄され、毒杯をあおっ
 て死んだ人間です。

 この両方を比較した冒頭の言葉は、卒業生に向け、これからの人生において、太った豚を目指すのではなく、痩せていてもソクラテスを目指してい
 けと言っています。

 太った豚は、普通の豚より人間に食としての利益を多く提供しますが、豚は、1頭ではありません。何頭もの豚がいて、この豚でないと困るという
 ほどのことはありません。つまり、代替がきくのです。大勢のうちの1頭ということになります。

 これに比べてソクラテスは、一人しかいないのです。
 しかも、真理を探究していくという真摯な姿勢、死んでもなお2千年以上に亘ってその名を残し、多くの人に精神的な影響を与えているという唯一
 無二の存在なのです。


 ここで、冒頭の意味をまとめれば、太った豚は人に経済的及び食として喜ばれますが、それは一時的かつ肉体的(物理的)な満足に過ぎない。
 これに比べソクラテスは、太った豚より痩せている、あるいは、ソクラテス自身より痩せている、つまり、少々貧弱であってもソクラテスのような
 真理を探究しようという精神は世紀を超えて価値が高いと評しているのです。

 このように分析すると、日本の最高学府の長として、将来を嘱望される卒業生への想いがよくわかるような気がします。


                                                                          2014.9.27   K・W