宇宙に想う!  

   はじめに 
 
        ここでは、「生命の科学学習会」や「G・アダムスキー通信」では、触れることが少ない、日々の生活における行動や社会的事象について
    の感想、あるいは、スペースピープルに馳せる想いなど、広範囲にわたり「生命の科学」をベースにした考え方で、分かりやすく書いてい
    きたいと思います。
    重要なことについては、「生命の科学学習会」で追加説明したり、「G・アダムスキー通信」に改めて記載することもあると思います。
    頻度は、月数回を目標とします。短文にはなりますが、皆さんの生活の参考になることができれば幸いです。

◇他人の痛みを感じるのは?
 「友人が痛がっているのを見ると自分も痛いように感じるのは、友人と私はひとつだからだ。」と書いているのはエジソン以上の天才とされるニコラ・テスラ(ニコ
 ラ・テスラ秘密の告白/成甲書房)です。

 一般的に、他者の痛みを自分も感じてしまうというのは、過去の自分の体験から、その記憶を想起しているからと思われます。
 これは、〝条件反射〟のようなものと考えられます。

 例えば、〝うめぼし〟と言われて口の中が酸っぱくなるのは、過去の体験による〝条件反射〟とされています。
 通常、この段階で思考は停止してしまいます。

 こうした概念が無かったのかもしれませんが、ニコラ・テスラは、「・・・友人と私はひとつだからだ」と書いています。
 その後の文章では、「私たち一人ひとりが全体の一部にすぎないということがあきらかになるのではないだろうか。」、「わたしたちはひとつなのだ。」と書いてい
 ます。
 
 この感性、思考は素晴らしいと思います。
 先の件では、他者への気持ち、想いというものが強くなければ、友人の痛みは感じられないと思われますし、それにより友人と一つになるような感覚となってい
 るのです。

 そればかりか、その経験からすべてが一つであると思い至ることはさすがであると思います。
 実際の話として、他者の痛みを感じるのは、条件反射のようなものがすべてなのでしょうか?

 条件反射は、ロシアのイワン・パブロフの犬による実験によって、ベルの音とエサを結びつけ、ベルの音だけで犬がよだれを出すことで証明されています。
 脳が経験として記憶していることから、このような反応が起こるのです。

 他者の痛みについても、仮に骨折だとすると、体験者はその痛みを理解することができ、実際に痛みさえ感じることがあるでしょう。
 その場合は、もしかすると過去の痛みを想起するばかりではなく、他者の痛みを多少受け取っている、テレパシックに感じているのかもしれません。

 過去の痛みの想起と、直接感じる痛みが混在しているとも考えられます。
 非科学的ではありますが、仮にそれが正しいとすると、世界で起こる戦争や災害での負傷者の痛みも感じることになるかもしれず、自らの身がもたなくなります。

 だから人間は、自己防衛としてフィルターをかけるようになり、テレパシックな能力を使わないようになったのかもしれません。
 これらは身体的な痛みだけではなく、人々の心の痛みについても同様となりますので、親身に考えれば考えるほど自己の身がもたなくなるように思います。

 他人の痛みを感じるというのは、理解だけではなく実際に痛みを伴う場合があることを考え、これが痛みではなく他人の幸福であれば、その幸せが人々へ広が
 るのではないかと考えています。

 もしそうならば、幸福者を広げるためにテレパシーは有効であったと思われます。
 進化した他の惑星の世界では、こうしてテレパシーを絶やすことなく使い続けているのではないかと考えています。


                                   2026.1.10(土)  K・W



◇古典に見る謙虚さの重要性
 古代中国の魯(ろ)に生れた孔子(BC551年~497年)という思想家は、3千人と言われるほど多くの弟子を抱え教えを授けていました。
 その教えは現実的で、人の世を正しく生きるための知恵で満ちていました。

 孔子は、四聖人の一人とされ、釈迦、キリスト、ソクラテスと並ぶ偉大な人とされています。
 この孔子の教えは、孔子一門によって言行録として残され、今日では「論語」として知られています。

 「論語」は、中国で生まれ、韓国で学ばれ、日本で生きた、と言われるくらい日本ではなじみ深いものなのです。
 明治以降、日本近代化に絶大な影響をもたらした渋沢栄一氏は、「論語」の教えを基本に据えながら日本経済界を創り上げてこられたのです。

 当時の日本では、仏教や神道を踏まえた武士道とともに「論語」の影響が大きかったようです。
 孔子の弟子の中でも、孔子の身近にいて多くを学んだ優れた弟子が孔門十哲と呼ばれています。

 その中でも、特に優れた弟子として顔回(がんかい、顔淵ともいう。BC521年~481年)がいます。
 彼は孔子より30歳年下で、孔子の旅に付き添ったりしていましたが、質素な生活を旨とし、学問に明け暮れて40歳で亡くなってしまいます。

 孔子は自分の後継者として、顔回に目をかけていましたから、その死を知って「ああ、天は私を滅ぼすつもりなのか。私はもうおしまいだ。」と言って悲しんだと
 いうことです。

 顔回については、「顔回は一を聞いて十を知りますが、私は一を聞いて二を知るのみです。」十哲の一人、子貢(しこう)の言。
 また孔子は、「何かを話してやって、怠らず精進していくのは、回だけかな。」と言わしめています。

 しかし、顔回は他の弟子と比べて弁が立つわけでもなく、リーダーシップもありませんでした。
 それがどうして、孔子や他の弟子から一目置かれていたのか?

 私の見立てでは、孔子を善=絶対として、それに対して忠誠を尽くし、あくまで謙虚に栄達を求めず全力で精進する人間であったからだと解釈しています。
 人間には、これが大切なのだと思います。

 顔回は、他の弟子と比べて、そこが勝っていたのだと考えています。
 言い換えれば、宇宙の意識を善=絶対として、それに対して忠誠をつくし、あくまでも謙虚に下向きに精進することが必要なのです。
 
 これは口で言うほど簡単なことではありません。
 そうすれば、アダムスキーの伝えた事柄の多くが、様々な意味を持って正しく理解されるようになるものと思います。
 

                                   2026.1.22(木)  K・W