宇宙に想う!  


   はじめに 
 
        ここでは、「生命の科学学習会」や「G・アダムスキー通信」では、触れることが少ない、日々の生活における行動や社会的事象について
    の感想、あるいは、スペースピープルに馳せる想いなど、広範囲にわたり「生命の科学」をベースにした考え方で、分かりやすく書いてい
    きたいと思います。
    重要なことについては、「生命の科学学習会」で追加説明したり、「G・アダムスキー通信」に改めて記載することもあると思います。
    頻度は、月数回を目標とします。短文にはなりますが、皆さんの生活の参考になることができれば幸いです。

アダムスキーを否定した人々!
 去る3月30日(日)。TBSのサンデーモーニングを見ていて、M氏が久し振りに出演していてびっくりしました。
 それにより、長年忘れていた悔しいい想いを思い出しました。

 1970年代は、矢追純一氏がテレビにおいて盛んにUFO番組を制作・放映し、UFOに対する人々の関心を高めていました。 
 その次の時代というのか1980年代から1990年前半の頃には、UFO肯定派と否定派に分かれて議論する番組が増えました。

 その中で、アダムスキー支持者であるN氏がテレビに出演して、肯定派の一人としてかなり進歩的な話しをし、対する否定派の一人がM氏でした。
 この他、W大学教授のO氏や多才なK氏などが否定派にいて、この3人を中心に否定論をとうとうと語り、N氏は何も反論できないそんなことが度々ありました。

 このようなことがあるたびにアダムスキー支持者からは、「N氏はテレビに出ない方が良いのでは?」とか、「唐突にあのような話しをしても一般人は理解できな
 い」 などと言う人もいました。

 確かに、UFO肯定派のなかでもアダムスキー支持者は、まったくと言っていいほど別物という感じがしたものです。
 結果、テレビでは、人々の笑い話というような面もありました。

 しかし、私は、N氏がムキにならずソフトにいたからこそ、何度もテレビに出演しアダムスキーに関連する〝真実〟を伝えられたのだと感心したものです。
 一方で、否定する側では、〝アダムスキーが真実ならその本をハンバーガーのように食べてやる〟と発言したり、相手を愚弄するような戦法に何度も悔しい想
 いをしたことを覚えています。

 アダムスキーの肯定者であっても、それが本当である証拠を示すことなどできないのです。
 それは、当然なことなのです。
 それを求められれば、何も話せなくなるのです。
 
 UFO否定派について付け加えると、現象そのものが錯覚など、怪しい場合があるもののすべて否定しているのではなく、UFOが異星人の乗り物であるという点
 は肯定できないという類のものでした。
 一般的には、良識者と言えるかもしれません。
 
 アダムスキー問題を持ち出した時点で、明らかに番組の勝者はUFO否定論者でした。
 それにしてもひどいものでしたが、今日のアダムスキー支持者の衰退を象徴しているようでもあります。

 そのような中、今日まで続くアダムスキー肯定者の人々は、他者に証明できなくとも何らかの確証を持っている場合が多く、そのために長年アダムスキーの支
 持者であり続けられるのです。

 今年は、アダムスキー没後60年となりますが、スペースピープルの存在が見えないようでいて、アダムスキー支持者に対しては彼らが、何らかの支援をしてい
 ることは確かです。

 おそらく、そう感じている人も少なくないはずです。
 そして、そう遠からず、アダムスキーが正しかったことがわかる日が来ることでしょう。

 その時、N氏を笑いものにして来た人々は、自己嫌悪に陥るかもしれません。
 彼らは、良識を持ちながらも、むしろそうであるからこそ〝真実〟に気づけなったのです。

 時間はかかるものの、どの時代でもいずれ〝真実〟は勝利を得ます。
 その日まで、何とかアダムスキーの体験をお蔵入りさせないよう努めていきたいと思います。


                                  2025.4.3(木)  K・W



お金が人間をダメにするのか?
 お金は良くない お金が人間をダメにする と言う人々がいます。
 お金の何が良くないのでしょうか? 一般論として、基本的な考えを綴りたいと思います。
  
 お金のない時代では、山に住む人々は海の物を、海に住む人々は山の物をお互いに交換することで相互に満足を得ていました。
 こうして食の幅が広がり、栄養も満たされることから人々の交流も広がりました。

 これらは衣食住の食以外の物に対しても同様になっていきました。
 そこにお金が発案され物の物との交換から、物とお金の交換へと変わり、お金は腐らないことから物の流通の幅が広がり人口も増えて行ったと考えられます。

 人口の増加や発展には、お金の発明は必然的であったと推測されます。
 この段階では、お金そのものに問題はなかったのではないかと思います。

 お金は、いわば道具の一つとして利用されていたからです。
 しかし、お金は腐らないことから貯蓄が可能であり、それが貧富の差の要因となります。

 昔は、この差がそれほどでもなかったのですが、特に近代から現代になって差が広がり、これは資本主義を背景に各種の〝投資〟が可能になったことが原因
 の一つであると思われます。

 株式会社の原理は、資金調達を他者に求めるもので、会社の発展のためには大変良い方法です。
 良いアイデアを持つ会社を応援するため、資金を提供(株を購入)するのが本来の姿であると思います。

 しかし、実際には、応援している会社が危なくなると、その株を売るというのは、〝儲け〟を重視した〝投資〟となっているからです。
 持ち株の売買から、一夜にして大儲けをする人も出てくるわけです。
 これは、配当金と異なり、何ら生産活動に関わらない利益となります。
 
 今日では、株以外にも様々な投資から大きな利益を得ている人が存在しているようです。
 資本家が、さらに資本を蓄えていくという正に資本主義の原理が作用しています。

 人間は、好ましくないと思われるものを修正することができます。
 どのような原理も完全というものはなく、常に修正していけばよいのです。

 ところが人間は、万人に利益を生むことよりも、個人の欲得で儲かる方向へ修正しているのだと推測されます。
 だから、貧富の差は広がるのです。

 こうなると、大金持ちが人生の成功者であると考える人々が増えるようになります。
 これは、お金をもうけるために生きるという考えを肯定するものです。

 これらは大きな錯覚であり、問題なのだと思います。
 このような人々の生活においては、何でもお金でその価値を測ろうとするようになります。

 山で採ったキノコを市場価格で判断したり、手作りの料理を金額で示して価値を測ろうとします。
 他者からの善意の品や行為についても、お金で測ろうとするようになります
 これらはよくあることですが、お金に毒された姿の一つであると思います。
 
 さらに大金持ちになると、買収という行為によって人をも動かすことが可能になります。
 つまり、お金で真実をゆがめることができるということです。

 このように見てくると、お金を道具として利用していたころは良いものの、人の欲得をベースにした資本主義経済に組み込まれたころから、それ自体に価値があ
 ると考えるようになって、おかしくなってきたのだと思われます。

 すべたは人間が営むものですから、資本主義経済を動かす人間の心、お金を利用する人間の心こそが問題なのだと思います。

                  
                                  2025.4.18(金)  K・W