◇情けは、エゴ(心)か意識(魂)か?
「情けは人の為ならず」という諺があります。この意味するところは、人に情けをかけるという行為は、人の為になるばかりではなく、やがてはめぐりめぐって自分
に返ってくるという意味です。つまり、人には親切にせよという教えです。
ここでは、行為に対する見返りを求めている部分は問題ですが、こうした言い方をしながら、人に対する情けを助長しているものだと思われます。こういう諺は少
なくありません。
夏目漱石の「草枕」の冒頭には、「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかく人の世は住
みにくい。」といいう文章があります。
この文章は、この世で生きるのは難しいというわけですが、情という川に舟を浮かべ棹で加速すれば流されると戒めています。ここで問題としたいのは、“情け”は
エゴ(心)なのか意識(魂)なのかということです。
この種のものは、「生命の科学」を長年学習していても、なかなか理解できないところなのです。
ここで紹介した2例は、人の“情け”を肯定しているものです。
一般的には、情けを強力
深い人は、情けの重要性を強く認める人で、やさしい人であり、他人から尊敬される一方、行き過ぎた情けは、余計なお世話であり、自立を妨げるおそれもありま
す。
おそらく、情けがない世の中では、ここまで人類は生き延びられなかったかもしれません。それほど重要なものであると思われます。その視点では、意識の影響
を考えないわけにはいきません。ポイントとなるのは、「草枕」での指摘のような行き過ぎた情けについてです。
経験的に言えるのは、情けの発動は意識から出ているということです。この場合は、愛としてのメッセージです。しかし、それに反応した後、運用の段階では知恵
を要するということなのです。つまり、意識が発動し、これに呼応して英知で対応する。ここは、大変高度な部分であり、地球上では、このようなステップを踏むこと
が多いのです。英知に裏付けされない情けは、相手を不幸にするばかりではなく、そのように振る舞った自分自身も不幸なこととなるでしょう。
2014.6.13 K・W
◇「生命の科学」の実践とは何か?
以前から「生命の科学」は、実践が大切であると言われていることから、どうすれば実践となるのかという疑問が時々出されています。
生命の科学の実践は、特別なことではないのに、特別なことであると考えてしまうところに、このような疑義が発生するようです。
まず、確認となりますが、「生命の科学」は学習を通して理解され、記憶され、活用されます。
学習≠ニいうのは、実際には理解から活用までの総てを含んだ意味であると思われます。
ここでは、便宜的に分けて説明しますと、個人で「生命の科学」を学ぶ際に、本文を細かく読みながら様々な状況を想定し、自然界、人間界を思い浮かべ、理解し
ていくということが基本であり最も重要な部分です。ここでは、自分なりの解釈というものをきちんと整理しておく必要があります。
個人学習が、十分でなければ、関連する話を他人から聞いても理解できないばかりか無意味となるでしょう。
自己学習を踏まえ、他人の意見を聞くという学習も大切です。そこで、学習会等として、講義形式などで行われる集会への参加も効果があります。
国際アダムスキー普及会の東京での学習会は、個人学習がなされていることを前提に、講義形式ではなく全員参加型のグループ形式による学習会を行っていま
す。
これも良い方法なのですが、こればかりでも良くないことから、全体のバランスを考えながら、かつてのように自己チェックシートや講義なども適宜行う必要性を感
じています。
さて次に、理解≠ニは、「生命の科学」を読んでいて深く納得できる事柄です。書かれていることが、自己の体験等からよく理解できるということです。理解のた
めには、かつての自己の経験における蓄積が大切で、日々の生活で少なからず意識的に生活し、そこで感じたこと、行動したことが、経験として蓄積される必要
があるのです。
納得したことは、言葉として整理して、記憶≠ニなっていくわけです。
後日、言葉として記憶したことを思い起こすことで、納得した際の感動等も思い起こし、記憶の焼き直しとなります。記憶は、理解の深度によって浅い深いが左右
され、そのことは、活用の有無や頻度にも左右します。
活用≠ニは、実践のことです。
ここが最も重要なところですが、その方法が理解できない人も少なくありません。
「知る」ということは、必ず実践を伴うものなのです。これについては、5月の学習会で説明しましたが、いずれ詳しく書きたいと思います。
実践を伴わないということは、知っていない、理解していないということなのです。
特に、「生命の科学」の実践の問題は、記載されていることと日常生活がかい離して理解されてまう場合が多く、なかなか現実に結びつけて考えられないのです。
この解決のためには、学習において、詳細に読み込み、常に現実の場合と関連付けて考察していく必要があるのです。
いずれにせよ、このような方法により、「生命の科学」を幅広くかつ重層的に理解すれば、仕事や他人との接触における行動の逐次にわたって、判断力あるいは
発想の良さとなって活用されるのです。
このような手順を理解しながら活用することがないと、それを礎にして展開するような発展性は出て来ないものと思っています。
「生命の科学」をあるレベル以上に理解すると、無理なく日常生活の総てに実践するようになり、良好な結果を出しながら成長し幸福になっていきます。
自分を見れば、そのように展開しているかどうかが分かるはずです。逆に、このような経験がないとなれば、以上のようなことも理解できないはずです。
2014.6.15 K・W
◇分け合うという宇宙の法則
良いものを分け合うというのは良いことです。
歴史的見れば、交易によって鉄器の作り方や農業の営みを知り、その技術を外部に知らせないという方法がある中で、積極的に知らせていこうということは、素
晴らしいことです。
このように分け合う≠アとで、技術が広がり全体として幸福に向けて進展するということです。
大和朝廷は、正にこのような政策を行い、世界的にまれな日本という和≠ナ結びつく平和な国を生み出したのです。
ここで伝えたいのは、分け合う≠ニいうのは、歓迎されない負担についても活用すべき法則であるということです。
例えば、職場に平均的な能力を有しない従業員がいた場合、それを実力ある従業員が負担するということです。
この場合、実力ある従業員が、負担したことを損をしたとか、公平でないと考えたとすれば、不満としかならず本人ばかりではなく負担をお願いする従業員にとっ
てもマイナスとなります。
ここでは、能力があることを恵みとして、他の分の一部を負担できたことを感謝すべきなのです。少なくとも、やってあげたと自己主張しないことが肝要です。
平たく言えば、太っ腹、器の大きな人間である必要があるのです。
但し、これが日常的である場合には別の面もあり、管理者側が人数等に配慮する必要性が出てくるでしょう。
一方、負担をしていただいた従業員も感謝することを忘れてはなりません。
間違っても、当たり前だと思いうようならば、それは、法則が正しく作用しなくなります。
これは、正にスペースピープルの生き方なのです。
ということは、宇宙的な生き方であるということなのです。
表題の分け合う≠ニいう行為は、自然界においても行われている宇宙の法則であり、それにうまく対応できた人間は、天空に徳を積んだのであり、創造主から
の大いなる祝福を受けることになるのです。
宇宙の意識が創造した宇宙の中で、あらゆる個体において能力の差というのがあり、人間の場合は個性ということとも関連しますが、それを補うことは創造主を
助けることになるでしょう。
少なくとも、「生命の科学」を学ぶ私たちは、そのような人間でありたいものです。
2014.6.24 K・W