宇宙に想う!  


   はじめに 
 
        ここでは、「生命の科学学習会」や「G・アダムスキー通信」では、触れることが少ない、日々の生活における行動や社会的事象について
    の感想、あるいは、スペースピープルに馳せる想いなど、広範囲にわたり「生命の科学」をベースにした考え方で、分かりやすく書いてい
    きたいと思います。
    重要なことについては、「生命の科学学習会」で追加説明したり、「G・アダムスキー通信」に改めて記載することもあると思います。
    頻度は、月数回を目標とします。短文にはなりますが、皆さんの生活の参考になることができれば幸いです。

コンタクトにも色々ある!
 スペースピープルとのコンタクト(会見・接触)について、あまり意識はしませんが、実際には色々の種類があると思われます。
 ここでのコンタクトとは、あくまでもスペースピープルと判断される人々との会見(接触)ということです。

 それは、およそ次のようなものが想定されます。
 
 1 地球製のUFO搭乗者との会見
 2 他の惑星人との会見 Ⅰ.Ⅱ
 3 スペース・プログラムとしての会見
 4 テレパシー等による接触 Ⅰ.Ⅱ

 説明をすると、1は、地球製のUFOに乗る地球人とのコンタクトです。
 地球製のUFOも、通常飛行は可能であると考えられますので、これは少なくないものと想像されます。

 その目的は、異星人に対する恐怖を植え付け、憧れることがないようにすることです。
 これは、アダムスキーのコンタクトが、真実であると知っている側からの要請で行っているものです。

 2は、会見の相手は異星人ですが、Ⅰ.友好的な人々か、Ⅱ.非友好的な人々かにより二通りがあります。
 Ⅰは、友好的な人々ですが、会見者や地球人に対して、特別大きなメッセージや影響を与えないものです。
 
 しかし、その体験そのものは大きなことではあります。
 これは、異星人の存在を肯定する役割を果たしています。

 Ⅱは、地球人の人格を尊重せず、生物学的な調査などを行うものです。

 3は、スペース・プログラムに位置づけされているコンタクトです。
 スペース・プログラムは、地球救済計画と訳されてえいますが、広い意味では確かにそのような内容です。

 そこで、その推進のために計画されたコンタクトは、それに関わる人々のカルマをもとに転生によって行われるもので、双方の役割を超えて使命と言えるもの
 です。
 アダムスキーのコンタクトは、正にこれにあたります。
 
 4については、直接的な会見とは呼べないものの、異星人との接触であり、受け取ったメッセージと出来事や予知などが一致するものを言います。
 ただし、友好的な異星人の場合、Ⅰ.と非友好的な異星人のⅡ.の場合があると思われます。

 アダムスキーは、テレパシーを正確に受け取れる地球人はいないとして、やや否定的に語っていますが、それは自分の直接的なコンタクトに比べての話しだと
 考えています。

 テレパシーによるコンタクトは、特に旧約聖書や新・旧約聖書の外典にいくつも見つけることが出来るようです。
 これらは、実際のところ、通常の自然なテレパシーと言われるものではなく、スペースピープル側から何らかの支援により行われているものと考えられます。
 
 このように異星人とのコンタクトも色々あり、中でもアダムスキーのコンタクトは、聖書時代と同じように特別なものであることがわかります。
 従って、アダムスキーよりもたらされる〝メッセージ〟は、地球人類へ大きく関わる重要なものであると認識する必要があります。
 それを知っている人々が、今日のアダムスキー擁護者なのだと思います。


                                    2024.2.9(金) K・W



学ぶとは何か?
 「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」という、ガンディの名言があります。
 確かに、そのとおりであると納得するものがあります。

 しかし、「明日死ぬと思って生きる」とは、毎日毎日がかなり真剣勝負で、常に全力で無駄なく生きるようなイメージであり、現実のこととして完全に実行するのは
 かなり困難なものです。おそらく、「日々、その覚悟で生きる」といくことでしょう。

 「永遠に生きると思って学ぶ」というのは、確かに人間は転生を繰り返すので、永遠に生きる権利を持っています。
 ですから、学びというのは何よりも大切です。
 それは、自己の成長につながり、宇宙の意識に近づいていくからです。

 日本人が、外国へ住んで、日本での生活や習慣などを引きずっていては、異国情緒は感じるもののその国のことを学ぶことはできません。
 やはり、「郷に入れば郷に従え」の境地で生活してこそ、そこでの学びがあるものです。

 そうすると、日本人を捨てたうえで、さらに今までの生活や学びは意味がないのかというと決してそうではありません。
 仮に、日本語や日本的思考は意味を持たないとしても、かつての学びには意味があるのです。

 これらのことを思い出させるのは、アダムスキーの妻であったメリーの話しです。
 転生したメリーは、アダムスキーとの会見において、〝あまり昔のことは思い出したくない〟と伝え、それらの多くは、今の生に意味を持たない(役に立たない)
 から、とのことのようです。

 どの様な事実も漏らさず、自己あるいは宇宙の中には記録されているはずです。
 しかし、今の生に役に立たない知識が存在するということです。

 特に固有名詞や地域の歴史、または日常の雑務などは、記憶していても新天地であまり意味を持たないのかもしれません。
 とはいえ、それらにも意味があるはずです。では、これらを踏まえて〝学び〟を、どの様に解釈したらよいのでしょうか?

 今日の学業では、多くを覚える記憶力が主体ですが、それそのものが学びではなく、記憶した事柄に関連して自分が見る、聞く、あるいは関わった事象に対す
 る心の動き、想い、他の人々の心の動きや行動など、一事象から派生するそれらの動きが、感性に訴え、学びにつながるのではないかと思います。
 これは、体験的なことであり、自然観察においても起こることです。
 
 そうしたことは国を超え、惑星を超えて共通したところであり、つまり、宇宙に通じた〝学び=真の学び〟なのだと思います。
 こうして学んでゆくなら、周囲の環境を見据えたうえで、自己の次の行動につながるということになります。
 歴史なども、そうした視点で意味を持つものであり、多くの人々により学ばれれば、悪い歴史は繰り返さないはずです。
 
 〝学ぶ〟とは、〝まねる〟から来た言葉であると言われます。
 人々の良き行動は〝まねて〟、良くないと思われるものは行わない(まねない)ことが、永遠に生きるためには必要なことなのだと思います。


                                     2024.2.20(火) K・W