◇「人間、ジョージ・アダムスキー」part2
今回は、「第2惑星からの地球訪問者」に見る人間的アダムスキーです。
本書の「第14章 大母船内での会見と別れ」は、母船内で、アダムスキーがファーコンと名づけた火星人と、ラミューと名付けた土星人との別れの祝賀が開かれ
たという内容です。
このことを迎えに来たファーコンがアダムスキーに告げた時、アダムスキーは、大いなる悲痛の念が大波のように内部にわき起こってきた。≠ニ書いています。
そこでファーコンが、「・・・両者のあいだに広がるかもしれない空間のすべては、けっして友人関係を変えることはできません。」と語り、アダムスキーは、「・・・自分
の感情を恥じた。」と書いています。
アダムスキーは、金星人であるオーソンと最初の会見をして以降、ファーコンとラミューがコンタクトマンとなって、地球人であるアダムスキーと他の惑星の人々と
をつなぐような役割を果たしてきました。当然、掲載されていない事柄を含めて、アダムスキーに彼らの生き方や考え方、地球人に対する見方などを伝えていたで
しょう。それが、アダムスキーの疑問の解消や支えになってきたものと推察されます。
その彼らが、ホーム惑星に帰ると聞いて、大いなる悲痛の念≠ェわき起こったと言っているのです。心を訓練し、予知能力も持っていたとされるアダムスキーで
さえ、悲痛の念が起こるといっているのです。この辺は、人間、アダムスキー≠感じさせるものです。
その後、母船の中で、月面を拡大して見せていただいた後、ラミューが、「ファーコンと私の帰郷を祝うための祝賀が準備されて・・・。」いるので、休憩室へ戻ろうと
話すと、アダムスキーは、軽い動揺と戦いながら涙を流したようで、「私が涙を流すとすれば、それは私自身のためです」と書いています。
その後、母船から帰還して、ファーコンとラミューがアダムスキーをロサンゼルスまで車で送っていきましたが、最後に分かれる際も、「・・・全身に激しい悲痛の念
がわき起こった。」と書いています。
アダムスキーのコンタクトは、地球上では晩年であり、涙もろい年齢になっていたことに加え、コンタクトが始まって初期のころのことでもあります。それにしても、
終始、彼らとの惜別に心をコントロールできなかった様子が見て取れます。正に、人間、アダムスキーであると推察され、どこかホットするところでもあります。
このようなことから、地球人としての精神的な成長とは、単に冷淡に物事を割り切るというよりも、やはりこのような人間的な部分を一部なりとも残すものであると
考えられそうです。
2014.5.17 K・W
◇世界はなぜ平和にならないのか?
この問いは、私が若いころから考えていたことです。
その答えはいくつか考えられます。
1つには、人々が真の平和を知らないばかりか、本当に求めていないということ。
2つには、他人は信用できないという不信感で生きていること。
3つには、平和になると大金が動かなくなり、大儲けがしにくくなることから不安定な社会を求める勢力があること。
これについて、少々補足します。
1つ目は、地球人は、個人的な幸福を求めていますが、誰もが幸せになるという世界を求めていない、あるいは、そのようなレベルにないということです。
2つ目は、エゴをベースに生きている人間の特徴です。
3つ目は、これもエゴの産物であり損得という欲がなせる業ですが、世界は、実にこのような力に翻弄されているのです。
表題の理由については、上記のように3つを書きましたが、突き詰めるとすべて背後にエゴがあることがわかります。
人間は、エゴを温存しているから平和にならないということです。
エゴを意識に変えないといけないということですが、その方法は、アダムスキーによって地球人に「生命の科学」として伝えられた分けです。
「生命の科学」は、世界平和の実現や健康な身体の維持についても貢献することでしょう。しかし、一部の人がそれを実践しようと努力しても、それだけではとても
平和な世界は実現はできません。皆が、そのような生き方をしないならば、良い社会を築くことはできないからです。
そのために、「生命の科学」の普及が重要となりますが、残念ながら、なかなかうまくゆかないのが現実です。
いずれにせよ、地球人が、自ら平和を求めない以上、平和な世界など望むらくもないわけです。
大変困難なことですが、この辺についても目覚めさせるための周知、知らせる運動が必要なことでしょう。
2014.5.27 K・W
◇エゴと個性の違いは・・・更に民族の個性とは?
アダムスキーの伝えた「生命の科学」では、人間のエゴについて説明し、それを喜んで宇宙の意識に従わせる方法について書かれています。
それを読んでも、人間のエゴと意識との区別が理解できないのが普通です。最も基本的なことなのですが、この理解が困難なのです。それは、これを理解しようと
する段階、スタートの段階ではエゴである心を通じて理解しようとしているからです。
心は、意識の力を借りてこれを理解できるのです。これから分かることは、エゴと意識が重なった状態、通常この状態のはずですが、それが解できる、あるいは、
知覚できる状態でスタートする必要があるのです。
そこで初めて、エゴなのか意識なのかがわかるということです。
では、個性とは何でしょう。
地球上で通常言われている個性とは、四つの感覚器官により構成される心≠中心としたものでありエゴだと思われます。
個性とはエゴを言っているのです。日本における個性を尊重する教育とは、アメリカの教育学者のデューイ等の影響から実施しているものであり、エゴを助長する
ものであるともいえます。
エゴは心ですが、意識は魂です。 実は、これも重なっているために区別が困難なのです。
では、真の個性とは何なのでしょう?
真の個性とは、魂の発露としてのものなのです。
エゴではなく、魂本来の個性を発揮することなのです。これは、心をうまく調整することによって発現するものなのです。
このことは、エゴを調整できる人でないと理解できないところなのです。
更に進んで、民族の個性とは何なのでしょう?
これは、ある人種の長年の蓄積によって培われてきた、人間としての集団の特徴であると思われます。
これは、エゴを中心に生きてきた民族と、エゴを抑制してきた民族とでは違いがあるでしょう。 アダムスキーは、エゴを調和するといって、意識に従わせるよう抑
制することを伝えています。
これからすれば、民族としての個性や特徴は、存在としては肯定できるものの、エゴではなく魂の発露としての生き方となるよう訓練することが求められていると
理解されます。
つまり、存在は認められるものの、本来の個性を発揮するよう進化することが求められているということです。
そもそも地球人には、個性を抑制することが人間的でないとして否定されています。そうなのです。人間とは、地球人のことであり、エゴによる自由を求める存在
なのです。この辺の議論が、エゴに立脚した人間には、永遠に理解できないでしょう。
しかし、アダムスキーの「生命の科学」は、エゴを構成する四つの感覚器官を調整すると表現し、別のところでは、エゴのコントロールについて伝えることで、最終
的には人間のエゴである個性を魂(意識)の個性へと転換する事を伝えているのです。
2014.5.31 K・W