◇述べて作らず信じて古を好む
これは、「G・アダムスキー通信」にも掲載した古代中国の思想家、孔子の言葉です。
アダムスキーの伝えた事柄に共感し、人々に広めなければと思う一方、なかなか人々の心に強く響かないところを感じます。
そのような時、視点を変えて様々な角度から伝えようと思うあまり、創作とならないよう留意しています。
私たちは、アダムスキーの伝えた事柄を正確かつ忠実に伝えるべきであり、別の教えとして歩んでいかないように気にかけているのです。
どこまでが、教えを咀嚼したものであり、どこからが行き過ぎとなるのか、ここは大変難しいところです。
しかし、咀嚼したつもりが解釈の誤解であったり、別の意味を伝えることがないよう留意することは、いうまでもなく大切なことです。
特に、「生命の科学」については、様々な解釈が可能です。この解説本が必要だと思うものの、文字として記載すると固定した考え方となり、マイナスに働くこ
とが少なくありません。
そこで、「学習会」では、他人の意見を尊重しつつ、固定化した考えを押し付けることなく、話を整理するようにしています。
また、常に様々な考え方ができること、同じ文章でも自己の成長により解釈が異なることなどを伝える様にしています。
今後も、述べて作らず、しかし、本意を理解できるよう様々なアプローチに心がけたいと思います。
2013.6.5 K・W
◇個性とは何か?
一般に、個性と言われるものは何なのでしょうか? 個性は、その人、個人個人が持つ他とは異なる特別な性質であるのは間違いありません。
日本は、第二次世界大戦による敗戦後、新憲法の下で、平和を謳い個人を尊重する政策を実施してきました。
その大きな力となったのが、教育です。特に、義務教育の中では、個性を大切にする教育が大きな柱となって行われてきました。
そのお手本はアメリカで、教育学者デューイの現実重視の考え方をベースに、個人尊重の下に推進してきたようです。
その結果、国を軽んじる国民が誕生し、第二次大戦は、日本の侵略であり汚点であるとの考えがそれに拍車をかけ、誇りを持てない世代が増えてきました。
これは、国存亡の危機です。
自民党の憲法改正案は、このことにもメスを入れ、個人の利益よりも国益を重視する考え方が反映されているようです。
この基本的な考え方は、スペースピープルの生き方に近いものです。彼らは、個人より全体を重視し、利他的に生きているからです。
しかし、この考え方には留意が必要なのです。全体とか国益は誰が何を基準に判断するのかという問題です。
スペースピープルの世界では、誰もが基準とすべきところが明確であり、それから外れる人はいません。これは、言うまでもなく「宇宙の意識」であり、宇宙全
体の基準となっています。
一方、日本人と限らず地球人は、誰もが従わなければならないという共通の基準を持たず、各国の憲法や法律の下で善悪を判断し、国益かどうかについて
は執行部が判断している状況です。
善し悪しの判断を、不安定な人間の集まりである執行部が決めるということが問題となるわけです。
良い制度は、宇宙の意識より知らされますが、その執行のためには個人の生きる基準がどこにあるのかが求められるのです。
これは、地球上のすべてに言えることで、宇宙の意識に準拠しない惑星の悲哀というべきでしょうか。
また、個性とは何か? ということも、正確に理解する必要があります。
地球上での個性とは、エゴであることが多く、地球上に誕生した後に作られた後天的なことに依拠している場合が多いように思われます。
真の個性とは、魂の個性、つまり、個としての意識のことであり、この解釈ができない地球人は、個性教育などできないということなのではないでしょうか。
それぞれの魂は、その目的を達成するために最も相応しい肉体に生まれてきます。魂の個性が肉体にも反映していることは確かですが、心を中心としなが
ら肉体を重視する考え方には、留意が必要ということになるようです。
2013.6.10 K・W
◇スポーツに想う
スポーツを見ていて色々なことを考えます。
ここでは、サッカー・ブラジルW杯予選を観ていて感じたことなどを記すこととします。
特に、サッカーという競技を観ていて思うのは、見つからなければ、何をしてもよいというような、フェアープレイとか、スポーツマンシップからかけ離れた行
為が多いということです。
ヘディングに来た相手をわざと足でけって必要以上に足を押しつける。競り合いながら、見えないところで上着をつかんで引き倒したり押さえつける。スラ
イディングでわざと相手を痛みつける。ヘディングで競り合う際に、ひじを相手の頭にぶつける。攻撃を防ごうと、足で相手をなぎ倒す。何もされていないの
に、わざと苦しそうに倒れこむなど、枚挙に暇がありません。
これらはすべて、反則や危険な行為などに相当しますが、審判に分からなければむしろ自分たちに優位に働きます。
これを見るに、反則と取られないように、ギリギリのところで反則を犯し、相手にダメージを与えたり、ボールを取り返すという練習をしているのではないかと
思われます。
それを含めて、実力と考えているようです。
しかし、少なくとも日本のスポーツ教育は、教育の一環として行っているため、フェアープレイが当然であり美徳となっています。
ラフプレイが多くなるのは、国際試合において、負けられない試合という場合に多いようです。国内の試合を見ていると、それほど目に余るような反則は見
られません。
しかし、同じ土俵で戦うからには、日本人も、少ないながらも反則となるプレイを行います。
このようなことは、果たして、少年少女に見せていてよいものだろうか? 世界の現実を知らせるのは良いとして、教育的に伝えていることとあまりにも大き
く隔たる現実があります。
悲しいかな、これは、スポーツだけではなく、経済界等あらゆる分野で見られることなのです。
日本のサッカー選手が語ったところでは、海外におけるサッカーの試合で、対戦相手と2列で走って入場する際に、相手の選手の腕で、胸や股間をたたかれ
るので、入場時、既に試合が始まっているのだそうです。
しかし、さすがにまずいと悟ったのか、今では、子どもと手を繋いで入場するようになっています。
アダムスキーは、スポーツについて、あまり肯定的ではなったという話を聞いています。スポーツは、エゴを助長する競技であるからとも思われます。
勿論、地球人にとっては、活用の方法により良いところもあるのですが・・・。
日本の伝統的な競技、スポーツである柔道、剣道、弓道というようなものは、道を究めるという意味がありました。
スポーツの中でも、個人プレイを重視する競技では、目に余るような反則はないのですが、相手の球をとり合うという競技ではラフプレーが多くなるようです。
人生も、スポーツも、本来、行きつくところは、極めるということ、あるいは、己との戦いであるということなのではないでしょうか。
2013.6.14 K・W