出奔するアダム
えすけーぷするあだむ




「どうするのよ?」
 殴りかかるような彼女の鋭い口調に、彼の顔色が変わる。
 口調だけではない。その視線に一層強調されている表情の険しさが、彼を一層追い詰めて行く。言葉が返せない。この時のために決めておいたはずの言葉が、彼の口から出て来ない。
 そこへ、さらに彼女の声。一拍毎に強勢を置かれて、問い詰めるように。
「どうするの?」
 隣の席の二人連れの女達の、無遠慮な視線に彼は気付いて、目を伏せ、それから上目遣いに彼女の表情をうかがう。間がもたない。
「……本気で?」
 彼のこの小声は、つかみかかるように吐き出された彼女の言葉に潰される。
「本気じゃないとでも思ってるの?」
「そうじゃないよ」
「だったらはっきりして」
 例の二人連れの話し声が小さくなる。
 だんだんと、彼は追い込まれたような気持ちになってゆく。閉じられた踏切を背に、迫って来る追っ手の姿を見つめなければならない逃亡者。
 テーブルの上から、溶けた氷に味もしないほど薄まったアイスコーヒーのグラスを気付いたように手に取ると、一口。
 決断はもう少し伸ばしたかった。彼にとってはそうしなければならないはっきりとした理由は無かったのに、何故か決めてしまうのはためらわれた。頭の中には、さっきの場面が甦る。踏切の警音器のかん高い音が響き、耳が聾される。その上、絶え間無く往復する赤ランプが彼の思考を引きずって、一つにとどめておこうとしない。
 そこに突然飛び込んで来た彼女の声。我に返る彼。
「分かった」
 その言葉を置き去りに、彼女は椅子を蹴るように立ち上がる。
「もういい」
「分かった」
 彼もまた椅子を蹴って立ち上がる。
「行くよ」
「いいのよ、別に無理しなくて」
 と、澄まし顔で言う彼女は、それでも再び腰を降ろす。
 彼もまた腰を降ろす。今度は正面から彼女を見据えながら、
「無理じゃない」
 そこに思いがけず沈黙。彼ははっとする。今の口調の強さを思い返す。彼には珍しく怒気を帯びたようにも思える口調。そんな心算では無かったのに。
 その考えは、視界に入った彼女の笑顔に中断される。いや、笑顔とは言えない程度の、しかしさっきの険しさは解けた表情。その口が開かれる。
「……そうよね」
 訝し気な彼の表情を受けて、彼女は途切らせた台詞を続ける。
「あなただって、ずっと不満に思っていたんだものね。あなたなら分かってくれるって思ってた。一緒に行ってくれるって」
 彼の張りつめていた神経が緩み始める。いつだって欲しかったのは、この安心感だ。神経と共に表情が、口が緩み始める。
「最初からそう言ってるのにさ」
 ほとんど崩れてしまったフラッペの器にスプーンを突っ込んだり抜いたりしながら、彼女は彼に視線を向けない。
 彼は彼女のそんな仕草を眺めたままでいる。絡んだ表情で。
 一方通行のまなざし。
 隣の二人連れが退屈したかのように揃って席を立つ。遠ざかるその後ろ姿に無関心な一瞥をくれると、彼女がつぶやく。
「出ようか?」
 声の主の背後に窓。その外で夏の太陽が、まるで狂気の発作のように、叫び声さえ聞こえる程にアスファルトに照りつけている。眩暈を思わせる陽炎が駐められた車のボンネットから立ち昇る。そんな風に、彼も立ち上がる。引き返せない。
 店の扉を開ける。熱気が急ぐようにどっと二人に押し寄せて来る。




 気違いじみた昼の名残がまだ深く深く空気に残っている。
 伸びきりただれた暗い空には、いつもと変わりなく星も月もない。白けた街燈の明かりで見る裸の腕の時計を信じるならば、彼女はもう約束の時間を十五分以上も遅れている。
 ごくまれに、一人二人と通る影。その度に彼は目を凝らす。
 汗でシャツが肌にへばり付く気分の悪さ。蛾が顔をかすめて飛ぶ。
 現れる人影は、しかし彼に近付いては来ない。灰色をした不完全な闇の向こうから、そのかわりにうさん臭そうな視線を彼に投げてよこす。上目遣いに彼は通り過ぎて行くその影を眺める。
 それから、再び余白のように過ぎて行く数分。その間から、次第に不安がわき出し始める。
 失敗か?
 答えは出るはずもない。彼は神経質な仕草で腕時計を確かめる。あと十分待って彼女が現れなかったら、その時は、動いてみた方がいいのだろうか? 彼女の家まで行ってみようか?
 だが、しかし、本当に今夜だったのだろうか? 彼女は今夜と言っただろうか? 彼とて、もちろん明日と今日とを取り違えるほどの愚は犯さない。それでも、こんな状況に一人あって、徐々に彼の確信は侵され始める。時計と周囲と疑念との間を、彼の意識は絶えず動き回る。そこへおまけに吐き気までが加わって来る。一瞬、彼は口許を手で覆うと、何度となく唾を吐き出す。
 涙ぐむ眼で見る時計は、彼女の決めた時刻を二十五分過ぎ、彼の決めた時刻まであと五分を残している。
 その次はまた疑問の連続。本当に落ち合うのはこの場所でだったろうか? 彼女は別の場所で待っているのではないだろうか? それとも本当に何か抜け出して来られないような事情が彼女に出来たのか? 抜け出そうとして誰かに見付かったのか? あるいはここに来る途中で? それとも……?
 怯えたように、いきなり彼は顔を上げる。遠くで吠える犬の声の残響。それを聞きながら、自分の小心ぶりに彼は込み上げる笑いを抑えられなくなる。
 また向こうに人影。これも彼は笑い飛ばすつもりだった。その影が彼に向かって来る二人の警官に見えるまでは。
 頭に血の上る熱さと、一転して寒ささえ覚えるような夜気とを感じながら、彼は周囲を見回す。夏季講習の帰りなどと言って通用する時刻ではない。隠れる? だがどこに? 素っ気ない程静まりかえったこの公園には、彼の焦りを迎え入れるものは何もなかった、ただ冷ややかな街燈の光が木立に遮られて出来たまだらな影の他は。荒くなりがちな息を抑えながら、あの影たちに気付かれないように、じりじりと、彼は木立の中へ紛れ込み、様子をうかがう。二つの影は、向こうの街燈を背に、間違いなく、こちらへ、向かって来る。いや止まった。向きを変えた。それから角を曲がって、あっさりと姿を消してしまった。
 殺していた息が漏れる。締められていた血管が一気に弛緩する痺れにも似た感覚。びくびくと鼓動の残る腕の上の時計は、あと二分で二時になる。まだ? 本当に何が……
 目を上げる。さっきの人影の消えた後、そこには暗い窓だけが並んでいる。また犬の吠え声。突然彼は風の無さとべっとりとした暑さとを思い出したように感じだす。
 その中から慌てる風もない駆け足の足音が聞こえ始める。多分ジョギングだろう。果たして、振り返った彼の背後のはるか先には、単調な同じリズムを刻み続けながら消えて行くランナーの姿。しかし彼はその姿を追わない。そのかわり、振り返りしな視界に入った別の人影へと視線を移す。真っ直ぐに、しかし急ぐ様子も無く近付いて来る。もう何度目になるか、確かめた時計の上で、ちょうど表示が二時に変わる。街燈の光が、近付くその影に届く。
 今度こそ間違い無い。
 相変わらず歩調を変えること無く、彼女は彼の前に進む、いつも通りの表情で。
「お待たせ」
 彼はまた言葉に詰まる。
 そんな彼に彼女は一瞥をくれると、少し首を傾げて見せる。それから何も無かったように、
「早く行こう」
 一、二歩歩き始めて、ようやく彼は言葉を見付ける。
「大丈夫だった?」
「何が?」
 彼はそれ以上続けられなかった。




 始発の電車まであと二十分前後。
 今の状況でなら、早朝にハイキングに出掛ける高校生二人連れとしか見えないだろう。
 緊張した夜はもう空から抜けている。ただ空気に相変わらず熱を持たせたまま。
 彼が見ている彼女は、プラットフォームの時刻表を見ている。
「上り?」
「下り」と、視線はそのままに彼女は答える。
 階段を降りて来る、これは本当にハイキングに行くらしい集団。二人には目もくれずに、朝から声高に喋りながら遠ざかって行く。
「出来るだけ遠くまで行っちゃうか?」
 すこし軽く響いたこの彼の言葉に、彼女はやっと視線を彼に向けると、ちょっと考える様子を見せる。
「……だめかな」
「いいんじゃない?」
 それからベンチに腰を降ろして、つけ加える。場違いな程静かな口調で。
「それも」
 彼も次いで座る。二十センチほど彼女と間を置いて。そしてやり場を失った視線を、またぼんやりと腕時計へと落とす。
 少しべたつく裸の腕。風は無い。馬鹿馬鹿しい程の静かさ。時折カラスが白けた鳴き声でそこに割り込む。なんとなく重い、けだるい感じが彼にのしかかる。昨夜眠っていないせいだろうか? 彼女と落ち合ってから今迄の、その記憶が彼の中に存在していない。何をしていたのか、何を話し合ったのか。この重い眩暈のせいか、それが思い出せない。ただ残っているのは、絡みつくような不快感……
「どうしたの?」
 その声と共に、また小首を傾げて顔をのぞき込む彼女が彼の視界に飛び込んで来る。平静を装って、彼は何でもないと答える。何でもなかったかのように、彼女は言葉を継ぐ。
「今日も暑くなりそうね」
 この言葉に彼は愕然とする。何という落ち着きだろう。今こうしていることが、これからしようとしていることが、まるで何の重みも持っていないかのような……
「どうしちゃったのよ?」
「え?」
 いきなり対話に引き戻された彼の顔を、さっきと同じ形でのぞき込んでいる彼女。
「さっきからぼーっとしっ放しじゃない。眠いんでしょ?」
 彼は否定はしない。眠気だけがその理由だとは思えなかったが、別にそんなことを言ってみたところで仕方無いのは分かっている。
 ところが、彼女はさっきの姿勢のまま、心配そうな表情をさえ浮かべている。
「本当に? いいのよ、無理しないで、駄目なら帰っても」
 この言葉が倦怠感故の聞き違えでないことを確かめると、彼の内側がぐらつく。帰れと言うのか? 何故? 昨日の夕方叩き付けられた自分への不信感のためなのか? やはり信じてもらえてはいなかったのか? それとも……
 ふと気付く。
「心配してくれてるんだ」
「当たり前でしょ」
 少しきつめの口調。ふくれる頬。それを察して彼はさっと立ち上がる。
 追い討ちをかける彼女の声は鈍い。
「帰るの?」
「飲み物買って来る」
 応えるその声が少し重いのに、彼は自分でも気付いていた。そして足どりも。
 自動販売機が缶を吐き出す、これもまた重い音が止めを刺す。
 一本ずつの缶を両手に振り向いた、その先の彼女。こちらに向けていた顔が向こうへ、正面の線路へ動かされるその瞬間を彼は捉える。
 急ぐ気も無く、彼はベンチへ戻る。その一歩毎に、何も考えずに、考えまいと努めながら。そして彼女の正面に立つ。無言で右手の缶を差し出す。それに弾かれたように彼女の顔が上がると、微笑を帯びる。
「ありがとう」
 彼は相変わらず無言のまま、しかし同じように微笑を浮かべながら、再び彼女の横に、間を詰めて腰掛ける。
 二つ続いて缶の開けられる快い音。
 下り始発電車の到着を、テープに吹き込まれた声が告げる。




 体が揺すられる。自分を呼ぶ声が耳に入って来る。
 はっとして開いた眼には、終着駅のプラットフォームが見える。そこへさらに割り込んで来る彼女の声。
「ほら、降りなきゃ」
 まだ頭がぼんやりとしたまま、彼は彼女に続いて列車を降りる。口の中がねばつく、その気分の悪さ。舌がもつれる。
「どうする?」
 急に彼女の顔が彼に向けられる。彼の肩くらいの高さにある彼女の眼が、彼を見下すように見上げている。が、その声は平静なまま
「どうしようか」
 スピーカーから、向かいのプラットフォームに停まっている下り電車への乗り継ぎを急かす声。
「乗っちまおう、とりあえず」
 返事を待たずに彼は踏み出す。その足が、彼女へと視線を走らせる一瞬の間だけ動きを止める。次の一歩を踏み出すとき、彼の脳裏を、今見えた自分について来る彼女の表情が、はっきりとした笑顔が横切る。
 ホイッスル。断ち切るように一斉に閉じられる扉。
 一見自分達と同じようなハイカー姿の他人達の座る席。空きを見付けて陣取る二人。
 電車が動き出し、その揺れに彼女の体が彼に軽くもたれかかる。それをそのままに、彼は自ら口を切る。
「地図持って来た?」
 にこやかに返事をすると、彼女は荷物を開く。
「ロードマップか」
「いけなかった?」
 そう言う彼女と同じ軽い口調で彼は答える。
「十分」
 開かれたページを二つの頭がのぞき込む。彼の指が二人の乗った電車の線路をたどり、それを彼女の目が追う。終着駅の少し手前で彼の指は川を越える。彼女がそれを言葉にする。城跡、湖、再び川、彼の指に従って彼女は眼を、声を追わせる。続きのページへも。件の川を遡ってゆく二人は、やがて行楽地へと行き着く。
 今度は彼女から切り出す。
「ここに行こうよ」
 彼は喜んでその提案に賛成する。それから幾分軽い気持ちで、
「何しに来たんだっけ」
 同じように軽く彼女は答える。
「家出でしょ?」
 斜め向かいに座る家族連れの、母親らしき女が二人の方にちらっと目を上げたのに彼は気付く。しかしそのまま彼は地図と彼女の方へ戻る。知ったことか。その目付きのようにぎすぎすした日々から抜け出しに来たのだ。二人で。
 徐々にその田舎らしさを深めてゆく朝の風景の中、踏切の音がひしゃげて近付き、過ぎてゆく。窓の外の光はもう大分眩しく、時折彼の視界を真っ白に潰す。
 毎日の上り電車で聞かされるあくまでも単調な線路の音が、今日の下りの電車では活気のあるリズムを刻んで彼の耳に届く。そして彼女の声。
 無邪気な程にその声は、行先での遊びを次々と並べ上げる。表情までが幼く見える。それを見詰める彼は自分が彼女よりも少し歳上であるような錯覚に捕らわれる。
「子供みたいだな」
「え?」
 彼は繰り返す。
「子供みたいだって」
「あたしが?」
 うなずく彼に、彼女は嬉しそうに笑いかける。
「だったら甘えちゃおうかな。子供の特権」
「なら、遊園地の方がよかったかな」
 それから彼は言葉を継ぐ。
「もっとも、保護者役もパスしたいけどね」
 彼女も笑いながら、
「大きな子供が二人して迷子になるの?」
「違いないや」
 そう答えて彼はまた車窓へと眼を移す。彼女の眼がそれに倣う。二つの視線はどこに留まるでもなく、ただ遠くへと投げられている。
 それを彼女が引き戻す。膝の上の地図の中へ。
「ねえ、それから……」




 また今日も苛立たしい蒸し暑さを置き土産に、ようやく一日が暮れかける。
 人影はざわめきながら次々と階段を登り、他のプラットフォームへ、他の電車へと散って行く。そして徐々に静まってゆくこのホームのベンチに、彼と彼女は座ったままでいる。
 彼女の膝の上にはまた地図帳が開かれている。ページの左隅にこの駅。そこにそれぞれの視線が止まったきりでいる。言葉の通り子供のようにはしゃぎ回ったあの河原は、このページにはもう見えない。ただ、今たどって戻ってきた線路が少し残っているだけだ。それからほかの線路、道路。
 彼がやっと口を切る。
「どうしようか」
「好きにすれば」
 いきなり返る、突き放すような彼女の答えに、彼の顔が反射的にはね上がる。それを迎えるのは、彼女の軽蔑と怒気との入り混じった表情。
 彼女は言葉を継がない。
 彼は言葉が継げない。
 この沈黙の間を行き交う、彼の呆然とした面持ちと彼女の挑戦的な眼差し。そこでまた焦げつくように時間が止まる。べっとりとした空気の中、彼のこめかみが無意味に秒を刻む。人々の足音は無関心に遠のいて行く。
 彼女の頬がぷっと向こうに振られる気配に、彼が思わず口を切る。
「どういう意味だよ」
 そう言った瞬間に、彼の中に疑問符と言葉にならない何かとがぶつぶつと増殖してゆく不快な感触があふれ出す。そこへ彼女の言葉。やはり短く、突き放すような、突き刺すような。
「分からないの?」
 返す言葉は彼には無かった。確かに分からない。この豹変の理由も、そして、彼女が何を分かれと言っているのかも。
 それきり二つの顔が言葉の通じない同士のようにただ見つめ合う。彼の中で、さっきのいやな感触が胸につかえ、こみ上げて来る。彼女の表情は変わらない。その表情のために、彼は彼女に聞けずにいる。この沈黙の中で、また鼓動が耳の中に響き始め、彼の中の問いが、言葉がかき消されてゆく。彼の目に、彼女の姿はただ映り込むだけになる。もはや何の意味も暗号もなく。
 突然そこにため息が割り込む、恫喝するように短く。続けて、彼女は声高に言う。
「分からないんじゃ、しょうがないか」
 顎を突き上げて彼女は笑って見せる。それを見た彼の口元も、返す言葉を考えることもないままに緩む。また沈黙の、しかし今度は異様なほどに不自然な二つの笑顔。
 隣のホームから、また機械に歪められた声が告げるアナウンス。聞き止めて彼は立ち上がる、表情はそのままに。彼女の顎がそれを追う。表情はそのままで、口が開きかかる。
 だが彼の言葉がそれを制する。
「とりあえず、あっちに乗ろうよ。丁度来たみたいだから」
 彼に続いて、勢いよく彼女が立ち上がる。その表情をわずかに和ませながら、そして彼から視線を離さずに。その拍子に、膝のロードマップが落ちて足元に広がる。からかうような乾いた音。つい微笑を誘われ、かがんで拾い上げると、ほこりを払い落とし、彼は軽く彼女の頭を叩く。
「あわてるんじゃないの」
 嘘のように無邪気な表情に戻った彼女は、おどけた調子で頭を抱えて、
「あー、ぶったぁ!」
 彼の微笑は吹き出しに変わってしまう。彼女はさらにふざけて子供っぽく死んじゃう死んじゃうと繰り返す。
「急がないと行っちゃうよ」
 笑いが止まらないまま歩きだそうとする彼の腕に、彼女の手がからみつく。
「あわてるなって言ったくせに」
 そう言いながら、彼女は彼に歩調を合わせて歩き出す、からめた手はそのままで。
 だが彼の方は少しとまどったような表情を浮かべる。今日だけで大分陽に焼けた左腕に、ひんやりとした彼女の手。少し歯が鳴る。ごまかすように振り返ると、同じように振り向いた彼女の肩越しに、スピードを落としながら入って来る古びた短い電車が見える。
「来ちゃった」
「急ごう」
 言葉もそこそこに、彼は先に立って階段を駆け上がる。彼女の手が離れる。彼が振り返る。彼女はついて来る。息をはずませ、彼の後を。
 踊り場で、登りつめて、彼は足を止め、そして振り返る。少し遅れて、それでも待ってとも言わず、彼の方へ目を上げて、彼女が登って来る。追い付くと、彼が下り、彼女が追い、彼が待ち、彼女が追い付き、そしてこもり気味なベルの鳴る中、二人は揃って電車へと飛び込む。その直後、ドアが二人を抱き取るように閉じ、ゆっくりと電車は動き出す。




 ドアが閉じ、動き出すといきなり車体が大きく横に揺れる。彼はあわてて手すりに、彼女は彼の腕につかまり、さらにがたつく中を座席まで進んで行く。腰掛ける彼女の向こうの窓からは、このバスを追い抜いて行く車が、ヘッドライトが次々と流れるのが見える。やっとのことでバスは本線に合流し、彼は彼女の横に自分の体をねじ込む。
 シートの狭さを、彼は自分の腕に触れる彼女の裸の肩で意識する。触れる度毎に伝わる、彼女の、あるいは彼自身の、汗に湿った肌の吸いつくような感触。それを避けるように体を斜めにすると、彼がさっきから何度目かの問いをまた切り出す。
「どこ?」
 彼女ももう何度目かの同じ答え。
「着いてからのお楽しみ」
「じゃあ、ヒント」
 謎めかすように、あるいは彼の困惑を楽しむかのように微笑む彼女。
「探検」
 バスのたどる道は、少しずつ狭まっていく。ほこりの色をしたくすんだ街並が薄暗い街灯とヘッドライトに照らされ、バスの方へ迫って来る。と、二人は大きく左へ揺れる。離れていた腕と腕が再び触れ合い、彼の体に彼女の重みが掛かる。それから揃って前へとのめる。さびついたブザーの音とドアの開く音。
「荒っぽい運転」
 そうつぶやく彼女の声が耳に入ったのか入らなかったのか、彼は何も言わずにいる。
 ブザーの伴奏でドアがまた閉じられ、二人は後ろにのけぞり、彼が彼女の方に寄りかかり、バスは速度を上げる。
 ずいぶん経ってから、ようやく彼は口を切る。
「……探検ねえ。でも、このバス、市街地の方に行くんだよね」
 彼女は繰り返す。笑いながら。
「探検」
 バスはいきなり広い道路へと出る。遠くにはネオンサインらしき光がぼんやりと見えている。いくつ目かの停留所名がテープのしわがれ声で告げられると、例のさびついたブザーが鳴る。停車ボタンを押したのは、彼女だった。自分を見ている彼に気付くと、彼女は平然と
「降りるよ」
 その後に続く無言。彼はまだ彼女を見つめている。そんな彼を、彼女は例の小首を傾げた形で、しかし今度はさっきからの微笑を浮かべたままのぞき込む。
 バスは今度はゆっくりと左に寄って停まる。はっとして、思わず彼は席を立つ。彼女がゆっくりと続く。運転手は二人に、それから小銭が音を立てる料金箱にちらっと目を走らせると、あとは無関心そうにドアを閉め、うなるような鈍い騒音とむせっぽい臭いの黒々とした排気ガスと、そして二人を置き去りに走り去る。
 周囲には車窓から遠くに見たネオンサインの数々。そのせいで白んでしまっている夜を背景に浮かび上がるいくつもの建物の奇妙な影。今それははっきりと、モーテルのそれだと分かる。
「すごいね」
 彼女が言う。彼がうなずく。うなずいてから気付く。彼女も自分と同じものを見ている。しかし、これは……
 求められる前に彼女が理由を話す。以前何かの折に夜ここを通り、あまりの明るさに記憶していた、そしてもう一度見てみたかった、と。
「……で、探検?」
「そう」
 返事と同時に、語られた理由を破壊するように、彼女の手がまた彼の腕に巻きついて来る。そしてまた同時に、彼のとまどいの中に別のものが割り込んで来る。それを確かめないまま、確かめようともしないまま、彼は彼女と歩き出す。あたかもあてのないふうに、またネオンに誘われる蛾のように。
 二つの顔は上げられたまま、ネオンの文字を読み続ける。建ち並ぶ建物の形を面白がる。遠目に看板の記述を確かめる。無邪気な様子で。そして入口に近付こうという素振りも見せない。
 その顔が同時に振り返る。車高の低い一台の車がかん高い排気音と共に猛スピードで彼と彼女を追い抜き、ずっと先の方で急ブレーキをかけ、遠くからでもそれと分かる音をたててタイヤを滑らせ、建ち並ぶ建物の一つへと飛び込む。
 思わず顔を見合わせる彼と彼女。彼女が言う。
「あんなに慌てなくってもいいと思うけどね」
 彼は肩をすくめる。そして向きを変えてまた歩き始める。彼女も並んで歩調を合わせる。無邪気な真似もまた続けられる。彼女が看板を読み、彼の目がそれに続く。が、空室ありと彼女の読んだ看板の五歩先に、そのモーテルの入口があるのを彼は見つける。その五歩を進まず、彼は彼女を見る。彼女も彼を見る。視線を先にそらした彼はまた時計に救いを求める。既に十時を回っている。彼の視線が彼女に戻る。彼女も自分の時計を見る。そして彼に視線を戻し、言う。
「寝なきゃいけないもんね」




 彼は後ろ手にドアを閉じると、手探りで鍵を閉めようとしたが、うまくいかなかった。その間に彼女はひと通り部屋を見回して、
「普通なんだ」
 彼も続いて奥へ進む。想像していたのとは違う、確かにごく普通っぽそうなホテルの一室。ただ、ベッドがダブルだというだけで。
 荷物を降ろすと、彼女はソファに身を投げ出し、大きく、しかしせわしない一息を吐く。彼も続いて彼女の向かいに腰掛ける。
 彼の感じた一瞬のぎこちない沈黙を、彼女は軽々と破る。
「楽しかったね」
 無言でうなずく彼の表情を見て、彼女は言葉を続ける。
「疲れたでしょ。昨夜もほとんど寝てないしね。何か飲む?」
 否定の素振りを見せてから、努めてさりげなく彼は切り出す。
「それよりシャワー浴びたいよ。汗かいて気持ち悪いから」
 いとも簡単に彼女は同意する。そして立ち上がると、何も言わず、誘うように広がるベッドへと向かう。彼もまた無言で彼女の挙動を見ている。ベッドの上の袋のようなものを手に取り、何やら調べると、彼女は彼の方へ向き直り、当たり、と言う。
「やっぱり浴衣だった」
 その一枚を携えて戻って来ると、彼女は彼に問いかける。
「先に入る?」
 とっさのことで、さすがに一緒にという台詞は出ず、彼は先を譲る。
「あ、いいの? じゃ、お言葉に甘えて」
 空いた方の手に自分の荷物を抱えて、バスルームに向かう彼女は、ドアを閉める前に一言、
「のぞいちゃだめよ」
 にやにやしながら聞き流す彼。ドアに錠の下りる音が聞こえる。
 落ち着かない素振りで彼は立ち上がり、部屋の中をうろつき回る。近付いたベッドの上には残されたもう一枚の浴衣。ヘッドボードの上に乗った小さなトレイにはティッシュペーパーと厚紙の包み。何気無く手に取り開くと、中身を見て慌て、包みを元に戻す。向こうからはシャワーの音。
 サイドボードに並んでテレビ。彼女が出て来るまではまだ時間がありそうだ。スイッチを入れる。意味のわからない女の声が先に聞こえ、遅れて次第にはっきりし始める画面の中では、その声の主が裸で、激しく動く男の下に組み敷かれている。
 彼はここが何のための場所なのかを改めて意識する。
 チャンネルを切り替え、日頃なじみの無い番組ばかりの中から見る気も無しに一つを選ぶと、それを点けっ放しにして彼は待つ。
 が、ふとあまりのくだらなさに気付いて、スイッチを切る。それよりは…… 彼の中の仮定は不完全な意志と確信とに変わっていく。立ち上がり、再びベッドに近付く。彼女がさっき崩した浴衣と彼がさっき開いた紙包み以外は一点の乱れも無いベッド。その整然とした様子に、彼は妙に落ち着かない気分にさせられる。そこが一人では侵すべからざる領域ででもあるかのように、彼は手を触れずソファへと戻る。そしてまた待つだけの時……
 シャワーの音がやっと止み、しばらくしてそれがタオルの音に、そしてドライヤーのモーターの音に変わる。
 冷房が効いているにもかかわらず自分の額にうっすらとにじんだ汗を彼は拭う。
 とうとうバスルームの扉が開き、浴衣姿の彼女が現れる。彼は立ち上がる。
「あー、気持ち良かった」
 あくび混じりの声を聞きながら、彼は浴衣を取りにベッドへと歩を進める。何十分後、何分後かにまたそこへ近付くだろうベッドへと。
 彼女は裾を合わせてから冷蔵庫の前にしゃがみ込み、中身を物色している。
「酒ある?」
「飲むの? だったらビールあるけど」
「どうしようかな」
 そう言い残して、彼は一瞬前まで全裸の彼女がいたバスルームに入る。その途端、むっとする重い湿気。逃げ出すように服を全て脱ぎ捨てると、早々に活栓をひねる。そして水温の調節ももどかしく、ほとんど水のまま、頭からシャワーをかぶる。水しぶきの撥ねる胸の下で急ぐ鼓動に急き立てられながら、だがそれでも体を洗うことは忘れなかった。焦る手を押さえながら。
 が、彼のまわりで時間は奇妙に加速し、出る以外の全ての選択肢を奪い去る。彼はシャワーを完全に水だけにして、自分の口の中にぶちまけ、二重に渇いた喉を湿らせる。活栓を締める。体を拭く。浴衣をまとう。そしてドアを開き、寝室へと踏み出す。
 明かりはさっきと変わらず、うすぼんやりと部屋の中を浮き上がらせている。彼女の荷物も相変わらずソファの上に投げ出されたままで、ただテーブルの上には、物色の結果と覚しき飲み物の缶と空のコップとが並んでいる。
 だが彼女の姿が無い。
 見回すまでもなかった。もう彼女はベッドの中にいる。帯に両の手をかけて、彼はベッドへ、彼女へと近付く。向こうを向いた彼女は目を閉じている。彼はさらに近付く。嘘のように規則正しい彼女の呼吸の音がかすかに聞こえる。彼はそっと掛布団の端をめくり上げ、ふと思い付き、明かりを落す。あの包みのある枕元だけ明るいままにして、静かに彼はベッドにもぐり込み、彼女の顔に自分の顔を寄せていく。そして気付く。
 彼女は眠っていた。




 朝のモーテル街の憑物の落ちた表情を尻目に、彼と彼女の前で車の列が国道を流れて行く。どこでも変わりのない平日の慌ただしさがここでもまた繰り返される。それを他人事のように、眺めるともなく眺めながら、彼は立っている。傍らには彼女の、熟睡の後の清々しい表情。それが彼の鈍い顔色をのぞき込む。
「眠れなかったの?」
 その声の軽さが頭に響き、彼は少し顔をしかめて答える。
「……別に」
 彼女も少し表情を変える。不満げな口許。だが彼は気に止めずに言葉を継ぐ。
「さて、昨日の道を戻るのも馬鹿らしいし、どっちからきたんだっけ、昨日は」
 彼女は無言で指差す。それと逆の方向へ彼は無言で歩き出す。
 が、ついて来る気配の無さに足を止め、振り返る。彼女がのろのろとした足取りで、それでもやっと一歩を踏み出し、そして言う。
「また歩くの?」
 鈍いその声の裏にはっきりと表れている拒否の意向。
「じゃ、バスにしようか?」
 答えがない。そのまま固定される距離と顔。通りかかるトラックが轟音とともに真っ黒な排気を浴びせて行く。
 やっと彼女が口を開く。
「いいよ」
 それから、その突っぱねたような調子を蔽い隠そうとして、鈍い声が続く。
「歩きたいんでしょう?」
 今度は彼が答えず、振り返り歩を進める。また彼女の気配は彼について来ない。そのかわりに、彼女の声が彼を呼び止める。
「ちょっと待って」
 無表情な声に、彼はまた立ち止まり、振り返る。その先に彼女の曖昧な微笑。訝しがりながら彼は次の言葉を待つ。彼女は片方の足を少し浮かせて立っている。言葉は継がれない。彼の方が今度は無表情に促す。
「どうした?」
 彼女はやっと口を開く。曖昧な微笑を浮かべたままで。
「靴に石が入ったみたい」
 今まで歩いて来た数歩を引き返して来た彼の肩につかまり、彼女は脱いだ靴を逆さに振って見せる。その靴から石らしきものの落ちる様子は、彼には見えなかった。
 ぽんと投げ出した靴に足をすべり込ませると、肩につかまっていた手も簡単に彼女は放す。
「いいよ、行こう」
 これで何度目になるか、彼は歩いて行く方向へと目を向ける。傍らの国道は相変わらず無感動な車の流れと排気と騒音とに満たされている。その両脇には、立ち寄る場所も、目を引くものも無い。
 見ることを止め、やっと彼は歩き出す。今度こそ彼女もついて来る。その足取りは共に重たげで、まるでもう何日にもわたって歩き続けて来たかのようにさえ見える。それぞれの無言がそれに輪をかける。昨夜子供のようにネオンを見上げていた四つの目は、今朝は足元ばかりを見ている。たまに目を上げてみても、さほど変化しない風景。
「ねえ」
 彼女がこの状況を先に破る。また曖昧な微笑。
「今日、どうするの?」
 彼は足を止めず、お決まりの仕草で腕時計に目を遣る。
「……とりあえず昼飯喰って」
 間。
 彼女が促す。
「それから?」
「街中をぶらついてる位しかないかな」
 彼女が何かを言いかけて止める。そしてそれきり言葉が切れてしまう。歩みは途切れない。その横を今度はバスがけたたましく通り過ぎて行く。
 彼は彼女の目がそれを追っているのに気付く。彼女は彼の視線が自分に注がれているのに気付く。共に足が何となく止まる。
 今度は彼の方から切り出す。
「バスにしようか」
 彼女は答える代わりに、ただガラス玉のような目をして彼を見つめる。
「次のバス停までは仕方ないけど」
 答えは返らない。
 さっきまでの曖昧な微笑の消えているのに気付いた彼は慌てたように
「ね?」
 彼女の答える声はまた鈍い。
「今バス行っちゃったじゃない」
「次のバス停で待ってればいい。ベンチくらいあるだろうし」
 鈍さは彼女の表情全体にまで拡がる。しかしそれでも彼女は足を動かし、それを見た彼も歩き出す。
 また沈黙のまま、揃わない足並みで歩き続ける彼と彼女。嘘のように引き延ばされた道程が続く。太陽は、剥き出しのまま照りつけていた昨日とは変わって、気まぐれに雲間に見え隠れしている。しかし暑さはそれぞれの肌に絡みついて来る。そこに汗がにじみ出す頃、次の停留所が見えて来る。
 だが遠目にも明らかに、そこにはベンチも日除けも無い。彼は彼女に一瞬だけ視線を走らせる。その眉間が少し寄せられるのが分かる。彼の足取りは少しだけ速められる。そして程無く停留所にたどり着き、時刻表を見る彼の目は、三十分に一本というバスの間隔と、次の便まで二十分近くを待たなければならないという事実を認めざるを得ない。
 金縛りに近い感覚に襲われる彼の横から、彼女も自分の目で同じ事実を確認する。それから彼を見る。無表情を装った非難を感じて、彼は問いかける。
「待つ?」
 彼女の口調は平然としている。
「日向でね」




 テーブルの上に二人分のオーダーを運ぶと、伝票を彼の側に置き、定型句を残してウェイトレスは立ち去って行く。妙に冷房の効いた中、彼は身ぶるいする。だがそれだけだった。彼女もまた食事に手を付けようとはしない。
 慣れきってしまったかのように、彼女も、彼も、この無言を破らない。やっと口を切った彼の態度はいかにも面倒臭そうに見える。そのおざなりの台詞。
「食べようよ」
 応える彼女の上目づかいの視線を彼はもう見ていない。その眼を手元に落としたまま、ゆっくりと手と口とを動かす。
 彼も、彼女も、だがその動作は長くは続かない。彼はだが止まったままの手に気付いても、彼女を促すでも、またその理由を問うでもなく、黙ったままでいる。
「ねえ」
 逆に、今度は彼女から口を切る。彼は目を上げる、何も言わずに。彼女が言葉を継ぐ、いかにも気の無さそうな口振りで。
「これから、どうするの?」
 今朝と同じこの問いに、今朝と同じ答えを彼は繰り返す、同じように気の無さそうな口振りで。と、彼女は少し大きめのため息を吐くと、肘をテーブルに突き、組んだ両手に顎を乗せる。そして、多分今朝彼のこの答えを聞いた時に言いかけて止めたのだろう言葉を、今度は口に出す。
「つまんないね」
 そして彼が応じる間もなく、そして簡単に、彼女は言う。
「戻ろうか」
 彼の中が一瞬空白になる。ほとんど反射的に彼はその理由を尋ねる。また簡単に、彼女は答えてみせる。
「しょうがないもん、こんなのじゃ」
 こめかみにどっと押し寄せて来る血と額を伝う冷や汗とを彼は感じる。
「……戻るって?」
「だってそうでしょう? どこかをぶらぶらして、どこかで御飯を食べて、どこかに泊まって、また次の日どこかをぶらぶらして、またどこかで御飯を食べて、またどこか泊まるところを探してって、ずっとそんなことばっかりしてても、何にもならないじゃない。おんなじじゃない」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
 この言葉を聞いた途端、彼女の眼がかっと見開かれる。真一文字に結ばれた口が開き、強い口調で切り返す。
「分からないの?」
 隣のテーブルにオーダーを取りに来たウェイトレスが戻りしなその声を聞き止めてか、自分の方に一瞥をくれるのを彼はこんな状況にあっても感じ取る。次々と浮かんで来る言葉が、一瞬にして消え去る。
 何も言わずにいる彼を見て取ると、彼女はさっと立ち上がる。そして冷ややかに、
「じゃあね」
 反射的に彼が立ち上がる。
「待てよ」
 そのままで互いの眼がかち合う。今度は彼女が先に目を反らし、腰掛ける。そして立ったままの彼に、
「立ってないでよ、そんなところに」
 自分の顔色が変わるのを感じながらも、重く彼も腰掛ける。
 言葉は無い。
 食べかけのまま放っておかれた皿の上に彼はまた視線を落とし、間の悪さを繕うように、転がったフォークを二本の指で取り上げると、それで皿の上をつつく。
 すかさず飛ぶ彼女の声。
「やめて、みっともない」
 彼の指からフォークが離れ、小さな音を立てて再び皿の上に転がるのを見届けてから、彼女が抑えた口調で問いかける。
「あたしたち、どうしてここまで来たんだっけ?」
 口の中だけで彼は答える。その上に彼女の声がかぶさる。
「こんなことばっかりするためじゃなかったはず」
 あくまでも抑えた口調。見え見えの。
 だったら……
「だったら、どこか遊べるところを探して……」
「おんなじよ」
 立ちすくむ彼の思考に追い討ちをかける彼女。
「違うの……こんなのじゃない……こんなのじゃなかった、こんなのじゃなかったはず、もっと……」
 涙声に聞こえるこの台詞。だが彼には言葉は無い。確かにこんなのじゃなかったかも知れない。毎日毎日の繰り返しを否定したくて、否定して何か違うものを期待して、こんな風に飛び出して来たのに。けれど、否定して、何か違う何を一体期待していたのだろう。そこから先に、何を自分は見ていたのだろう。
「否定するだけじゃ、何にもならないのに……」
 相変わらず視線をテーブルの上に落としたままの彼の口をついて、そんな言葉が出る。それから何か違う雰囲気を感じて、彼は彼女を見る。
 またその口は真一文字に結ばれている。その下に喰いしばられた歯を思わせるほどに。そしてその奥から聞こえて来る彼女の声。
「そう、そんな風に思ってたんだ」
 彼にはこの言葉の意味が分からなかった。だがそれを考える暇も与えずに、彼女は言い切る。
「やっぱり戻るしかないみたいね」
 彼にはもう無言でうなだれるしか出来なかった。




 曇り空に包まれた昼下がりのべったりとした暑さの中、歪むレールをたどり、ゆらめきながら、人影の多くない上りのプラットフォームに入って来る列車を、彼は立ち尽くし、半ば呆然と見つめている。ベンチに一人座っていた彼女がようやく立ち上がり、自分の方へ来るのに気付きもせずに。そして彼女が下を向いたまま自分から少し距離をおいて立ち止まるのを気にもせずに。
 不機嫌そうな音をたてて、割れるようにドアが開く。乗り込むとすぐに見付かる、一つだけ空いた座席。のろのろと彼はそこへ近付き、振り返る。やはりのろのろと彼女が来る。そしてその座席に眼を落とし、手すりにつかまる。
 開く時と同じく不機嫌そうにドアが閉まり、投げやりな調子の振動とともに列車は動きだす。ぼんやりとしていた彼の体は大きく揺れ、ほとんど倒れそうになりながら吊り革につかまる。だがその時浮かべて見せた照れ笑いは、彼をもう見ていない彼女の横顔にあっさりと打ち消される。
 あくまで単調なレールの音。眼の前には依怙地なまでに空いたままの座席。それでも彼は切り出す。
「座りなよ」
 彼女は半ばふてくされたような横顔を見せたまま、答えない。彼は自分の言葉を繰り返さない。そしてレールの音。
 彼は窓の外へと眼を移す。もう何の変哲も無くなってしまったただの風景が、規則的に電柱に邪魔されながら果てし無く流れて行くだけ。時折踏切の警音器のけたたましい音が歪んで迫り、消える。
 早口の車内アナウンスが、彼には聞き取れない口調で次の駅名を告げる。徐々に列車は速度を落とし、さほど多くはない人影の中へと割り込んで行く。開くドア。割れた声でがなり立てるスピーカー。我先にと乗り込んで来る人間達。その様子を呆然と眺めていた彼は、自分の横で彼女が動く気配に気付く。無言で、無表情で、今までずっと放っておいた眼の前の空席に、さっさと座り込む。そして彼女は彼を見ない。彼ももう長い髪の隠す彼女の顔を見ようとしない。眼を閉じ、吊り革につかまる腕に、気力を失った頭をもたせかけ、無関心な列車の振動に身を任せる。
 眠気はやっては来ず、締め付けるような心臓の動きを感じながら、何も考えまいとしながら、ただひたすらに長いだけの時を彼は耐えようとする。それでも昨日から今までの自分が、彼女が、そして互いの素振りが、言葉が何度も何度も脳裏に浮かんでは消える。
 また聞き取れないアナウンス。がたつきながら減速する列車。薄く開いた彼の眼に映るプラットフォームには、人の数が増え、機械的に開くドアから乗り込んで来るその姿は、速度と険しさとを増していくように思える。さっきと同じ姿勢のまま眼を閉じる彼の横には、中年女の二人連れが、声高に喋りながら並んで立ち、その一方の持つ荷物に体を押され、少し傾ぎながら、それでも彼は眼を閉じ続ける。
 そんな中で、だんだんと駅と駅との間隔が詰まって来るのを彼は感じる。ふと眼を開くと、いつの間にか窓の外はアスファルトとコンクリートに固められた、ごみごみした風景に戻っている。昨日二人で遊んだ川辺の情景が、一瞬だけ彼の脳裏によみがえり、そして跡形もなく消えてしまう、乗り込んできた人間に背中を押されて。
 徐々にアスファルトが幅広く、コンクリートが高く周囲を占領してゆく、そのただ中へと列車は単調に走り続ける。もう何度目かの車内アナウンスが、今度はいくつかの時刻をたて続けに吐き出すのが彼にも聞き取れる。いつの間にか何本ものレールが彼の周りに集まっているのが見てとれる。並ぶ歯の様に口を開いて待ち構える巨大なターミナルへ、揺れながらも決められたコースをたどり、減速し、そして列車は停止する時の小さな反動を合図にドアを開き、人間たちを吐き出す。
 その時、立ち上がる彼女の姿が視界に入り、彼は彼女の存在に、そして今までそれを忘れていたことに気付く。彼女もまた、彼がいないかの様に自分の荷物を持つと、さっさと流れ出す人間たちの群れに身を投じ、振り返りもせず、わざと混み合う中を狙って、そこへ自分を捩じ込みながら階段を登って行く。彼はその後ろ姿を辛うじて見失わずに、ただ従って行く。
 ごった返すコンコースまで登りつめると、この暑さにもかかわらず腕を巻きつけあって歩く二人連れを尻目に、彼は乗り換えの場所を探す。四方八方を指す案内の電光板の中から、だがそれは簡単に見付かってしまう。それからほんの一瞬だけ、彼女へと視線を走らせる。案の定、その顔はそっぽを向いている。その先には、さっきとはまた別の、やはり絡み合っている二人連れ。顔をそむけ、歩き出そうとして、しかし彼は彼女に声を掛けられない。戻した視線の先の彼女は動いていない。通り過ぎる人間たちの中で、また彼も彼女も止まってしまう。
 たっぷり三分もそうしていてから、やっと彼女は彼へと振り向いて見せる。その表情に軽蔑と失望の色を読み取らせるに十分なだけ彼を眺めた後、急に向き直り、とっくに分かっていたかのように、さっき彼が探した乗り換えのプラットフォームへと歩き出す。
 彼の足は動かない。彼女は彼が来ないのを気に留めない。それを見て、肩に喰い込む荷物を少しずらしながら、やっと彼は彼女の後を追う。
 長い長いコンコースの端に突き当たり、そこからさらに冷ややかな蛍光灯に照らされた長い長い階段を降り、うすら寒いような地下のプラットフォームへと彼女と彼はたどり着く。列車は出たばかりなのか、人の影も疎らで、ベンチもほとんど空いたままになっている。その一つへ彼は歩み寄り、荷物を降ろすが、腰掛けない。また少し距離をおいたまま立ち止まっている彼女に声を掛けようとする。と、彼女は踵を返し、彼から遠ざかって行く。彼は半ば呆然と、半ば諦めながらその背中を見送る。だがその姿が自動販売機の前で止まった時、彼は崩れるように座りこむ。
 人身事故の発生を告げる放送の中を、彼女が二本の缶を手に戻って来る。




 わずか二日前に逃げ出して来たばかりの見なれた街並みは、無関心なままつっ立って、彼と彼女がいなくなったことにも、戻って来てしまったことにも、何の関心も無いかのように見える。
 夕闇の赤黒い色が周囲を覆い始めた中、疲れきって、それでも彼も彼女も歩みを止めようとはしない。それぞれの家へと向かうのとは明らかに別の道を、だが何のあてもないままに、ただ歩いている。
 国道はいつも通りに車の騒音と流れが途絶えず、その向こうのコンビニエンスストアの前では、塾帰りの小学生達が自転車の側にしゃがみ込み、飲み物の缶を片手に雑誌を読んでいる。二日前のこの時刻と、そしてそれ以前の日々のこの時刻と何ら変化のない風景がだらだらと続く。
 ふと目を上げた彼は、通り過ぎる車の向う側に、切れぎれにあの喫茶店が見えるのに気付き、不意に一昨日のそこでのことを思い出す。強い口調で切り出された彼女の強い望み。それに自分の意志で応じたはずの彼。背中を押すような熱気の中に飛び出し、夜更けに気遣いながら彼女を待ち、河原に遊び、一晩明けて、そうして、帰って来たのは苛立つ程に無気力な暑さの中へだった。
 我に返る。彼女が自分の数歩後ろで立ち止まっているのに、それから自分の足取りが止まっているのに彼は気付く。振り返った彼の視線を、彼女はまともに受けない。そらされたその眼は、彼が見なくなったその喫茶店を眺めている。
 もうずいぶん閉じられたままだったせいで縫い合わされているかのように粘付いている唇を開き、彼は自分の意志を口に出す。
「入ろう」
 がさがさにかすれたその声は、それでも届いたらしく、彼女は彼へと向き直る。
 彼は待つ。
 彼女は諾とも否とも応えない。ただ彼の顔を、疲労の色のさした無表情のままで見ている。
 彼がもう一度、今度ははっきりとした声で繰り返す。
 彼女の首がゆっくりと前に倒れる。首肯いたのではなく、ただ首だけが力無くうなだれる。
 彼はもう待たなかった。重い足取りで先の横断歩道へと向かい、信号を見上げる。その視界の隅に、近付いて来る彼女の姿が入って来る。だが彼は振り向かない。
 彼女は立ち止まる、さっきと同じように、彼から数歩の距離をおいて。
 眼の前で、多分昨夜と同じ型の車が急加速して、埃混じりの熱風を彼に浴びせながら、変わりたての赤信号を突破する。その車に乗った若い男女の笑い顔を尻目に、彼は歩道へ歩き出す。彼女が相変わらず距離を保ったまま、それでもついて来るのを感じるとも無く感じながら。
 喫茶店の扉を開けると、ぞっとするほどの冷気が流れ出して来る。一瞬細めた眼を開き、見回すと、一昨日の席が空いている。迷わず彼はそこに腰掛ける。彼女は何も言わずに彼に従う。
 彼がざっと眼を通してから手渡そうとしたメニューを、しかし彼女は受け取らない。うつむいたその視線の先あたりに、彼はメニューを置き、窓の外を見つめる。さっきよりも一段と濃さを増したように思える外の闇は、街灯のわずかに照らし出す歩道の一角と、車のライトが速度を増して流れて行く国道とを残して彼の視界を潰して行く。ほとんど何も見えないでいる彼を、ウェイトレスの声が振り向かせる。一昨日と同じオーダーをしてから、彼は彼女を伺う。彼女はうつむいたままの姿勢を崩さず、多分差し出されたメニューも見ていない。
「フラッペ、だっけ?」
 彼女は反応しない。彼は繰り返さない。ウェイトレスはオーダーを受け、彼女へと一瞥をくれると、去って行く。
 身動き一つしない彼女から視線を動かし、彼はまた窓の外へと目をやる。ただ通り過ぎて行くだけの光や人影が、もう何の意味もなく彼の眼の前に現れては消えて行く。
 残照の中の慌ただしさは、彼の憔悴した横顔をはっきりしない色あいで映し出すガラス窓の向こうで、彼にも、彼女にも無関心なままに続けられている。
 何のやりとりもないままの彼と彼女との間に、二つのグラスと伝票とを置いてウェイトレスが立ち去る。そこへ移される彼の視線は、無意識のうちに彼女を通過する。
 頭を垂れ、背中を丸め、手を多分テーブルの下で組んだ彼女がかつてないほど小さく見えたことにさえ、彼はもう気を留めない。彼女がグラスに手を付けようとしないことだけを認めてから、ストローを自分のグラスに差し、だが口は付けずに、頬杖を突いてまた窓の外へと顔を向ける。
 グラスの中で、氷が小さな音を立てて崩れる。




 また胸の悪くなりそうな程に蒸れた闇。月も星もない。そのかわりに、白けかえった街燈がまばらに細い裏道のところどころを照らし出している。
 だがそのわずかな明かりをさえ、彼は気にせずにはいられなくなる。さっき自分を呼び止める声が聞こえたような気がして、立ちすくんでから。声を掛けたのが彼女であるはずはなかった、怯えたような表情の彼にもはや軽蔑の眼差しさえ送らなかった彼女であるはずが。そして彼は自分が戻って来てしまったことを改めて意識する。それからの彼は、自分を見付ける眼の存在を恐れ、ひたすら人通りの少ない裏道ばかりを選んで歩き続ける。
 濡れそぼったシャツにもはや染み込むことも出来ず、背中をいく筋にも伝って流れる不快な汗と、痛む脚の鉛にも似た重さとが、彼の足取りを遅くさせる。そしてそれ以上に重く、既に行き場が残されていないという事実が否応なく彼にのしかかる。逃げて行ける場所も、帰って行ける場所も、頼れるところも何一つ無いという事実が。彼はおし黙ったまま、それでも足を止めようとはしない。誰も通らない薄暗がりの中、足を止めなければならない理由もない。
 そんな彼の後ろを、ずっとうなだれたままで、そしてあれからずっと口を閉ざしたままで、脚をやはり重そうに引きずりながら、彼の背中から少し離れて、それでも彼女は彼について歩いている。
 そんな彼女へと彼は振り返らない。振り返ることも、声を掛けることも、そして彼女への他の何をも、彼にはもう考えることが出来ない。考えようとはしない。考えても何にもなりはしない。考えて、思って、それを語って、そうして何度失敗しただろう、何度通じないままになってしまっただろう、そのせいでどれだけ隔たりが生じてしまっただろう、このたった二日の間に。
 近付く車の音に、我に返った彼は急に警戒心を呼び戻される。振り返ると彼女の肩の向こうからヘッドライトの光線が届いては隠れる。ようやく立ち止まることを思い出したかのように彼は足を止め、体を細い道の脇に寄せる。それに気付いて、うつむいていた彼女の顔がふっと上がり、その歩みが止まると同時に彼を見ようとしないまま振り返り、まだ数十秒は近付いて来そうにない車の影を見つめる。
 やがてその姿を現わした車は、ヘッドライトで彼と彼女を照らしながら、だがそれ以上近付くことなく止まる。彼の細めた眼に、その車の開くドアと、降りて来る人影が入って来る。
 その瞬間、耳とこめかみに沸騰したような血液の逆流を感じ、彼は一人で走り出そうとする。が、逆光線の為に影になってしまっている彼女は動く気配を見せない。彼は彼女の腕をつかむ。振り返る彼女の不意を突かれた表情は、途端に眉根を寄せた険しい顔つきにとって替わられる。それさえも見ず、彼女を引きずるようにして彼は走る。少し足をもつれさせ、何度か振り返りながら、それでも彼女は何も言わずに彼に手を引かれるままに走り始める。
 見付けた曲がり角に、脇道に、手あたり次第に飛び込む。息が切れ、頭の中が空白になり、こらえきれず突然屈み込む彼に、彼女の体がぶつかって止まる。
 暗い静けさの中に、二つの呼吸の音だけがやけに響く。その中で彼女が何かをつぶやくのが分かるが、激しい心臓の鼓動に邪魔されて、彼の耳にはその言葉ははっきりとは届かない。そして彼女も繰り返そうとはせず、また彼と少し距離を置いた位置に立って、彼のことを見下ろしている。
 その影が彼の上に落ちる。
 次の瞬間、その影は強い光線に消される。
 彼も、そして彼女も同時に振り返り、眼を細める。影も音もないが、明らかに自動車のヘッドライト。ほとんど反射的に彼も、そして今度は彼女も走り出す。
 柵と薮とに両脇を塞がれた、抜け道も何もない一本道。言うことを聞かなくなった体を急き立てて、だがもう選択の余地もなく、自分の前に見える道だけをひたすらに走る。
 朦朧とする彼の眼に、突っ立った踏切の遮断棒が見える。そして多分その先には。
 彼は彼女へと振り返る。彼女もまた彼と同じものを見、同じことを考えたようだった。
 彼はもう迷うことなく走り続け、踏切までの距離を詰めていく。
 その時、何の前触れも無く、暗い静寂を破る警音器のかん高い音。夜の中に真っ赤な光が走る。反射的に速度を上げる彼と彼女の前で、逃げ道を機械的に断ち切る遮断機。
 降りきって眼の前でまだ揺れているまだらの棒を前にして、呆然と彼の脚の動きが止まる。
 耳から頭全体をゆすぶる警音器の音。眼から意識全体を眩ませる赤ランプの明滅。彼の中で一瞬記憶が蘇る。
 つかまれた腕を激しく引っ張られ、彼は我に返る。そこには遮断機をくぐり、逃げ出しかけている彼女がいる。
 ヘッドライトはまた彼の背中を照らし始める。
 不気味にかすれたような金属音が、レールを伝わって近付く。
 ヘッドライトの光はとうとう明らかな車の輪郭となり、そして確実に迫って来る。
 レールの金属音はもう一組の前照灯を導き、それは徐々に電車の先頭の形となる。
 もう一度彼は彼女を見る。彼を見る彼女の眼。不満げに彼を非難するような。
 彼は自分の腕から彼女の手を振り払う。そして彼女を思い切り突き飛ばす。小さな悲鳴とともにその体は線路の上に転がる。
 電車の警笛と急ブレーキの音が、夜と、彼の中を通り過ぎて行く。


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