Chase 01 − 招かれた男  コンソールのナヴィゲーション画面が目的地に到達したことを輝点の気忙しい明滅で報せると、無造作に拳が飛んできて、スイッチを叩き切った。その拳が開き、画面の脇に挟み込んであるいささか古風な名刺を摘み上げる。  そこに記されたビルの名前と、目の前の実際のビルを比べて、彼は場所が正しいのと同時に、ビルの方がいささか名前負けしていることを認識する。そもそも彼を呼び付けたこの研究所とやらの名前からしてが笑わせる。特殊車両研究所(Laboratory of Original Vehicles)の略称だとしても、LOVEというのはどうにかならなかったものか。来てみれば想像以上に胡散臭い。しかし訳ありの自分に眼を着けるような研究所だ、まるっきり真っ当だとも思えないし、何よりもどういう了見で自分を呼び付けたのか聞かないと気が済まない。  彼の右足がスロットルを開くと、少し時代遅れになったコールド・モーター・ユニットが気になる異音をあげつつ車を加速させる。車はそのまま駐車場へと飛び込んでいった。  この時代、化石燃料の欠乏等からジェットやレシプロ等の旧世代のエンジン類(ホット・モーター・ユニット、略してホットと呼ばれる)はその姿をほとんど消しており、趣味人の手元か博物館、研究所等の施設でしか見られなくなっていた。それに取って代わった電気式のコールド・モーター・ユニットがいわゆる「エンジン」として通用するようになり、陸上・海上の交通手段に導入されていた。  しかし航空交通だけが技術的困難と大気圏環境の変動による制約により大きく遅れをとり、ごく小規模かつ低空に対応した機体以外は姿を消しつつあった。  一方でそれをカバーするかのように陸上交通、殊に自動車の発展は「いろいろな意味で」著しかった。この研究所もそうした発展の一翼を担っているのだろう……  研究所の入口には、ご多分に漏れず守衛代わりの機械が鎮座している。「こんにちは」だの「職員の方はIDカードを提示してください」だのと、合成の女声で言ってくるその機械の鼻面に、彼は煙草の煙と例の名刺とを突き付ける。  「このお方に呼ばれてるんだがね」  ほんの0.5秒ほど機械はパニックを起こしたように見えた。が、その後は一も二もなく行き先の案内画面を表示してくる。見ると、そこは通常外部の、しかも初めて訪れる人間が通されるはずもない上層階の一室である。  随分な待遇じゃないか、と彼は思う。この研究所に足を踏み入れたことはおろか、実は例の名刺の人物に会ったことさえないのである。ここまでされるとなおのこと気持ちが悪い。が、まあいい。理由だけはとっくりと聞かせてもらおう。  先を急ごうとする彼を、合成音声が呼び止めた。  「構内は禁煙となっております。お煙草はこちらにお捨てください」  灰皿を差し出して待つ機械に、返事代わりに彼はもう一度煙を吹きかけた。  「Division Director」とある自動扉のタッチパッドに触れる。ロックはされていなかったか、誰何も何もなく開いた。その右奥のデスクについていた女が振り向いた。  「あんたか、この名刺の主は? 特殊車両研究所のM開発部ディレクター、久我涼子さんってのは」  三十代前半と見えるその女は腰を上げると、問いかけた男の方に数歩歩み寄り、会釈をしたがその眼は微笑だにしていなかった。  「ご足労願って申し訳ありませんでした、木津仁さん。どうぞお掛け……」  女が言い終わる前に、木津は応接用のソファに腰を下ろしていた。だがそれには特別な反応も示さず、彼女は続けた。  「コーヒーをお飲みになりますか?」  「アルコールは出そうにないな」  「まだ勤務時間中ですので」  相変わらずにこりともしない女の態度に、木津の口元が少し歪む。  「それじゃコーヒーを。三倍濃縮のエスプレッソだ」  「承知しました」  おいおい、本当に出す気かよ。女はインタホンでどこだかにその通りのオーダーを告げ、自分もソファに腰を下ろす。  「申し遅れて失礼しました。私が久我涼子です。このLOVEでM開発部のディレクターを務めております」  「知ってる」と、間髪を入れずに木津。「名刺は見たからな」  そして久我に視線を走らせると、続ける。 「それよりも俺が知りたいのは、何故俺みたいな奴をここに呼び付けたかだ。足代にしちゃちょっとまともじゃない金額をよこして、理由は来れば説明します、と来た。どうしたって出向かざるを得ないような状況だよ」  答を促すような沈黙にも久我は答えない。代わりに木津が続けた。  「こういうやり方を取るってことは、俺のことも相当調べてあるらしいな。あのことも含めて」  「その通りです」  わずかとは言え木津がのけぞる程に、決然として強い口調だった。のけぞった木津の上体が再びさっきまでのように前屈みになるのを待って、繰り返した。  「その通りです。その上で、私たちはあなたが必要であると判断しました」  「俺が必要、ね」  「正確には、あなたの能力が、ですが」  「昔取った何とかで、テストドライバーでもやれと言うつもりかい?」と、肩をすくめながら木津。「テストドライバーに事欠くほど、おたくのプロトタイプには事故が多いのか?」  皮肉めかして笑う木津に、初めて久我が笑い返す。ただ口元だけで。そして答える。  「今回のケースはそうかも知れません」  「おい!」  思わず木津は立ち上がる。と、そこにインタホンから妙に甲高く弾けた声が割り込む。  「コーヒーをお持ちしましたぁ!」  久我はデスクのインタホンの所まで戻る。  「入って。ロックはしていないわ」  木津が扉の方に振り向くと、事務服姿の小柄な、二十歳そこそこと見える若い女が、カップの載ったトレイを手に入って来た。  「失礼します」と彼女は、木津の前にデミタスのカップを置く。座り直ししな、胸のIDカードに、「峰岡真寿美」の名前が読めた。彼女は木津に微笑んで見せると、久我に同じくデミタスのカップを差し出すと、言った。  「こちらの方が新しくメンバーになられるんですか?」  「余計なことを言うんじゃありません。木津さんにはまだ何のお話もさし上げていないんだから」  「はい、失礼しました!」  弾かれたように頭を下げると、そそくさと彼女は部屋を後にした。出て行き掛けにもう一度木津に微笑みかけて。  困ったものだ、という表情をすぐに消して、久我はコーヒーを木津に勧める。  「うえっ!」  うっかりすすった三倍濃縮のエスプレッソは冗談抜きの強烈な代物だった。  「お口に合いませんか?」  「どうやらあんたの辞書には冗談の文字は無いらしいってのは分かったよ。さっきの事故率の話も、まんざらの嘘じゃなさそうだな」  「厳密に言うと少し違います」と久我。  「てぇと?」  「立場上逆になるとは存じておりますが、先に何点かお尋ねしてもよろしいですか?」  そう切り出されては、応じざるを得ない。ディレクターを任されるだけあって、この女、なかなかのやり手だな。  「何だ?」  「あの事件から一年になりますが、それ以来は走ってはいらっしゃらないそうですね?」  「ああ」と木津は答え、窓の外に目を遣る。  「プライベートでも?」  「退職金代わりによこしたあのポンコツじゃあ無理というもんだ」  久我はそれには答えず、次の質問に移った。  「この研究所について、予備知識がおありでしたか?」  「ない」とだけ答え、木津は続く問いを待ったが、久我は  「分かりました」  と言っただけだった。  これにカチンと来たのか、木津は言った。  「いつになったら俺の質問の番が回ってくるのかね?」  応じる久我の方は、慌てた様子もなく言う。  「もう一点だけお願いします」  木津は口を尖らせるが、かまわず久我は続けた。  「あの事件の相手をまだ怨んでいらっしゃいますか?」  木津は思わず立ち上がって叫んだ。  「それとあんたらと、何の関係がある?」  そこへ再びインタホンの割り込み。聞いたような女の声が。  「出動要請です。武装暴走車五台、ルートC553、テイト社工場跡から東に走行中。捕捉の指示が来ています」  「武装暴走車?」   木津の声を無視して、久我はインタホンに近付く。  「マース1からマース3まで出動。指揮はマース1に任せます。いいわね峰岡? C553ということは、研究所に接近する可能性もあります」  「了解!」  木津は声の主を思い出した。さっきコーヒーを持って来た、あの小娘が指揮?  この展開にいささか唖然としている木津に、今までと全く変化のない口調で久我が言う。  「お話さし上げようと思っていましたが、ご覧頂いた方が主旨をよりご理解頂けそうですね。こちらへおいでください」  とりあえずはその言葉に従う他なかった。  久我は木津が来るまで座っていたデスクに戻り、事務器用と思われるディスプレイ・スクリーンを机板から引き起こした。立ったままのぞき込む木津の目に、いくつかに分割された画面が映る。一つはナヴィゲーションのそれ同様に輝点を表示した地図、他の三枚は車のフロントガラスからのと思しきビデオ映像で、各々の左上隅にはM−1から3までの記号が入っていた。さっき言っていた「マース1」云々のことだろう。  地図の上で、彼我を示す紅白の輝点はまだゆうに十五キロは離れていて、しかも向かって来る赤い点に対して、白い点はまだ全く動く気配を見せない。と、そこにさっきと同じ女の声。コーヒーを運んで来た時と変わらない、高く弾けた調子で。  「スタンバイOK! 出ます!」  M−1からの映像が急に動き、一瞬の後には流れる公道とその両脇の景色となる。  「出てるな……のっけから二百五十か」  思わず木津はつぶやく。それを聞き逃さなかったか、久我が問う。  「やはり勘は鈍ってはいらっしゃらないようですね」  その目の前で、地図上の輝点は見る間にその間隔を縮めて行く。  まもなく峰岡の声。  「インサイト! 捕捉します!」  M−1の画面の奥の方に小さく見えていた影は、見る見る邪悪な印象の武装車両の姿となってくる。  「捕捉って、車でか?」と少し嘲るような木津の口調。「連中が素直に停まるようなタマかい? おっ!」  武装暴走車の先頭の一台が機銃らしいものを撃ってきた。M−2とM−3は避けるが、M−1は動じる様子もなく直進する。  「今のは威嚇です」と、落ち着いた声で久我が言う。「しばらくはこの調子で遊んでくるでしょうね」  「遊び、ね。最近のガキどもと来た日にゃ……」  追って二台が撃ち始めた瞬間、両者はすれ違った。次の瞬間、M−1は暴走車の後ろを捉えている。M−2も3もターンは決して遅くはないが、峰岡に比べると相当もたついて見える。  「ほぉ……結構いい腕してるんだ」  「後尾二台、止めます!」  その声と同時にM−1が急加速。そして最後尾を並走していた二台の前に躍り出す。泡を食った二台は頭から接触、への字型に潰れて止まる。  「マース3、落伍車確保!」  「了解!」  峰岡の指令に従って、「マース3」は潰れた二台の脇で止まる。残る二台はさらに武装暴走車を追う。  「あんた方って、ここまでする権利あるわけ?」  そう問う木津に、静かに、だが確信を持って久我が答える。  「あります」  仲間が潰されたのを見たか、先行する三台が今度は本気で狙いを付けて撃ち始めた。M−2の画面では、銃撃をいともたやすく避けつつ追尾する「マース1」の尾部が見える。  暴走車がカウンターステアを当てながら急カーブを切って、建物の谷間となった脇道へ飛び込んでいく。間髪を入れず峰岡の「マース1」が、だが脇道へ飛び込まず、その向こうで百八十度ターンする。  「何だよ、この程度でオーバーランか?」  そう木津が言い終わるか終わらない内に、「マース2」が脇道の横へ差し掛かる。次の瞬間、M−2の画像が途切れる。一方M−1の画像は、砲撃を受けて転覆した「マース2」の姿を捉えていた。  「うわっ……本気かよ」  「今度は本気です」と冷静に久我。その横の画面で、赤い輝点が再び動き出す。それを見て、久我が指示を出す。  「マース3、落伍車両と乗員の確保は?」  「今完了しました!」と、今度は男の声。  「マース1の援護に回りなさい。目標は重砲を使用しています」  「了解」  地図上の白い輝点が再び動き出す。  一方峰岡の「マース1」は、重砲を交えた砲撃をかわしながら追跡を続けている。時速二百キロは下らない速度のまま、「マース1」は見事にコントロールされている。  脇道を抜け、再びメイン・ルートに出た三つの赤い輝点とそれを追う白い輝点は、LOVEのある地区へ急速に近付いて来ていた。そしてもう一つの白い輝点がじりじりと差を詰めてきた。  三角形になって走っていた暴走車の後ろ二台が、何の前触れもなくブレーキをかけた。思わず木津は上体を乗り出す。  「マース1」は一瞬のブレーキングの後、対向車線に飛び出す。わずかに遅れて、その跡に機銃弾が集中する。その様子がようやくM−3の画面にも入ってきた。  飛び出した「マース1」はそのままフル加速し、暴走車の先頭を遥かに引き離す。そして数百メートル先でスピン・ターンし、そのまま輝点もろとも停止した。  「停まった?」  泡を食ったのは、しかし木津だけではなかった。武装暴走車も確かにブレーキを踏んだようだった。その両翼を狙って、銃撃。後ろ二台の機銃が正確に吹き飛ばされた。そしてその後方に、追って来ていたはずの「マース3」の車体の代わりに、半ば人型、半ば車両の形をした奇妙な機械がいた。  木津は思わずM−3の画面に視線を動かす。そこにもまた「マース1」の代わりに、今度はほぼ人型をしたロボット(?)が、暴走車に立ちはだかるように左腕を伸ばしていた。  「な、何だありゃ?」  「私たちLOVEの開発した可変刑事捜索車両の最初のモデルです」  「刑事捜索ってことは……おまわりさん?」  「厳密に言うと少し違います」  その違いを問い質す前に、木津は再び画面に見入った。  機銃を吹き飛ばされた二台の暴走車は、半人半車の「マース3」の「手」に、電源ユニットを抉り取られて動けなくなっていた。  残りの一台、重砲を積んだリーダーと思しき車は、それでも発砲しつつ「マース1」へと向かって行く。「マース1」はジャンプしてかわし、相手に左腕を伸ばす。次の瞬間、暴走車の前輪がはじけ飛び、バランスを崩した暴走車はスピンしながらLOVEの駐車場に突っ込む。そして、そこに駐められていた旧型の車を潰して止まった。  「お、俺の車が!」  木津のこの声に久我は振り返り、やっと人並みの反応を示す。  「あなたのお車でしたか。これは申し訳ないことを致しました……」  「申し訳ないって……」  と木津が詰め寄りかけた時、  「確保終了〜!」  と例の弾けた高音が聞こえてきた。  「全車両確保しましたぁ! 乗員八名も身柄確保ですぅ!」  「よくやったわ、と言いたいところだけど、最後が問題だったわ」  「えっ?」  「巻き添えにした車は、木津さんのだったのよ」  「え、え、え、えぇ〜?」  M−1のカメラがスクラップと化した木津の車を映し出す。  「帰投後に出頭しなさい。それと、『マース2』の状況は?」  「は、はい。安芸君がフォローしました。五十五ミリ有炸薬の実体弾直撃で機体は中破、単独での移動は不可能です。小松さんは両脚と右腕、肋骨の骨折です」  「分かりました。『マース3』は回収班の到着までそのまま『マース2』をフォロー。『マース1』、あなたはそこからそのまま帰投しなさい」  「……了解しました」  さっきとは打って変わったしょげた声。それに相変わらず腹が立つほど冷静な久我の声が続く。  「本当に申し訳ありません」その後にわずかな間があって、「代わりの車は準備致しますので、どうぞ今回はお許しください。これから今回お招きした件について、ご説明申し上げます。どうぞそちらへお掛けになってください」  冷めた三倍濃縮のエスプレッソを脇に押しやり、肘を突き、組んだ両手の上に顎を乗せ、上目遣いで木津は久我の話を聞く。  「今ご覧頂いた通り、私たちは可変刑事捜索車両の開発と同時に、試験運用の責も負っています。これは警察の方から要請と認可を受けて行っているもので、私たちが警察機構に組み入れられているという訳ではありません。先程警察とは少し違うとお話申し上げたのは、そういうことです」  木津は黙ったまま、何の反応も示さずに聞いている。  「試験運用は現在ニ車種二チーム体制で実施しています。ただし実際に刑事任務に着いているのはまだ先程のチームだけです。もう一チームは車両の調整と慣熟に当たっています。こちらは先程とは別の新造車両を使用するのですが、新造でもありまた機構が変更されていることもあって、稼動が少し遅れています。さらに計画ではもう二車種の導入を計画しています。  木津さん、今日ご足労願いましたのは、あなたの能力を私たちにお貸し頂きたい、私たちのチームに加わって頂きたい、とお願い申し上げるためです。もちろん今すぐお返事頂きたいとは申しませんし、無理強いをするつもりもございません。ただ、あなたの能力はこのまま埋もれさせるには忍びないものがあります」  「あんた、さっき、事故は少なくないと言ってたな。事故ってのは、さっきみたいに撃たれて吹き飛ばされることを言うのか?」  低い声で問う木津に、淡々と応える久我。  「事故という表現は妥当ではありませんでした。しかしいずれにせよ危険性という点ではそれを免れることはありません。ただテストドライバーと違うのは、危険性の回避の全ての責任は、自らが負うという点においてです。それはレースの場でも同じではないですか?」  少し言葉を切ると、久我は木津の表情を見る。が、特に反応を示さずに続けた。  「もちろんあなたの命ですから、好んで危険にさらせと申し上げる権利は私たちにはありません。しかしこのまま埋もれたのでは、生きた命であると言うことも出来ないのではないでしょうか?」  木津が口を開きかけた時、インタホンから声がする。  「峰岡、帰還しました」  失礼、と木津に一声掛けてから、久我はインタホンに向かって入るように指示する。  ヘルメットを小脇に抱え、レーシングスーツに似た服に身を包んではいるが、顔は確かにさっきコーヒーを運んで来たあの女だ。  入ってくるなり、木津の姿を探し当てると、  「申し訳ありません!」  と首の抜けそうな勢いで頭を下げた。  木津はつい吹き出しかけて、思わず立ち上がった。  「紹介します」と久我。「峰岡真寿美です。先程出動したマース・チームの第一ドライバーを任せています」  峰岡は再度頭を下げる。  「こちらは木津仁さん。ご協力頂けるようお願いをしています。木津さん、お掛けください。峰岡、あなたもこちらへ」  峰岡は久我の横に腰を下ろした。  久我が木津に問いかける。  「お飲み物をもう一杯いかがですか?」  「いや、三倍濃縮で失敗したから遠慮しておく」  峰岡の口元が少し緩む。  久我は今度は峰岡に。  「先に報告しておくことは?」  「はい。今回の件は『ホット』には関連ないようです」  「『ホット』だと?」  声を荒げる木津に、久我は  「ええ、そうです」  とだけ答え、再び問いかけた。  「この峰岡をはじめ、私たちの技術面については、いかが思われましたか?」  「ちょっと待ってくれ」といささか気色ばんで木津が止める。「今の『ホット』ってのは何だ?」  峰岡が木津の、それから久我の顔を覗き込む。それには意を留めず、久我は簡単に答える。  「最近の一部の刑事事件は、裏側にホット・ユニットを積んだ車両とその主が介在する組織的なものであるとの情報があります。それを確認しているのです」  「『ホット』か……」  そうつぶやいて、木津は立ち上がった。その表情は少し険しくなっていた。  それに気付いてか気付かずか、久我の落ち着いた声が。  「お話を戻させて頂いてもよろしいでしょうか?」  「……ああ」  険しい表情はそのままに、木津は再び腰を下ろし、ほとんど無意識のままに傍らのコーヒーカップに手を伸ばし、口を付ける。  「うぶっ!」  カップの中身は例の三倍濃縮、しかも冷めきったエスプレッソだった。  峰岡が脇を向いてうつむく。しかしその肩の小刻みな震え方から、どう見ても爆笑するのを必死でこらえているのが分かる。おまけにくっくっと声まで聞こえてくる。  「峰岡!」  と、さすがに久我も少し声を上げる。  「ご、ごめんなさい……あー苦しい」  木津も思わず頬を緩めた。  「度重ねての失礼、お詫びのしようもございません。本当に申し訳ありません」  そう言う久我の横で、峰岡の肩はまだ震えている。  「でも」と木津。「テクニックは相当のものを持っていると認めてもいい。一緒に出ていった二人よりも遥かに上に見えた」  その言葉を聞いた途端、峰岡の眼差しが真剣みを帯びる。  「ありがとうございます」  「木津さんご自身の印象としては、この中にあって、もの足りないと感じられることはなさそうですか?」  と、調子を変えることなく久我が切り込んでくる。  「うーん……それはそうかも知れないが、ただそれだけじゃ済まないだろう」  車のテクニックだけでは、と言ったつもりだったが、久我は違う答えをした。  「お返事を急かすつもりはございません。一週間後までに諾否をご連絡頂ければ、それで結構です。ああ、代わりのお車を準備させなければいけませんでしたね」  久我はデスクで電話を取った。  「久我です。……いいえ、駐車場に準備を……そうです、S−ZCを……」  峰岡が急に振り返った。が、久我の送るわずかに咎めるような視線に向き直った。  木津は峰岡に尋ねた。  「S−ZCってのは?」  峰岡が口を開くより早く、ソファに戻って来た久我が腰も下ろさずに簡単に答えた。  「LOVEの車種コードです」  肩をすくめる木津を見ながら席に着いた久我が尋ねる。  「何かご確認なさりたいことは他にございますか? 機密に触れないレベルであればお答え差し上げます」  木津はもう一度肩をすくめて、言った。  「突っついてみても、これ以上はとりあえず何も出て来そうにはないな。答えは一週間以内でいいんだな?」  「はい、色よいお返事をお待ち申し上げます」  座ったばかりの久我はまた立ち上がって、頭を下げた。  「今日は長いことお引き止めした上に、数々の失礼、申し訳ございませんでした。まもなく車の用意も出来ると思います。私はこちらで失礼させて頂きますが、駐車場までは峰岡がお送り致します」  エレベーターを待ちながら、峰岡は半ば上の空の木津に盛んに話し掛けていた。自分の潰した車の話、三倍濃縮の、峰岡の曰くウルトラ・エスプレッソの話、木津の肩くらいまでしかない自分の背丈の話……  「で、君は」と、エレベーターのドアが開いたのを見計らって、木津が口を切る。「専属のドライバー?」  「いいえ、普段は研究所のお茶くみです」  「お茶くみ?」  「はい。もし木津さんが来られたら、専属としては初めてだと思いますよ」  「他はみんな研究所との掛け持ちなんだ」  一階。エレベーターのドアが開く。木津が入口の方に歩きかけると、峰岡が止める。  「木津さん、こっちです」  入口と反対に続く廊下。突き当たりに手動ドア。開くと薄暗い下りの階段。  「何だか待遇悪そうな場所だな」  ふと思い当たった木津が問いかけた。  「あの任務ってやつも結構危険なものだと思うけど?」  「それはさっきの小松さんみたいに怪我することだってありますしね。でも結局は自分の責任だと思うんです」  「ディレクターと同じことを言うね。でも、人に発砲する時ってのは気分悪くない?」  峰岡は怪訝そうな顔をする。  「発砲って、人にはしてないですよ」  「そのうちそういうことも出てこないとは言えないんじゃないかな?」  二人はまたドアに突き当たった。峰岡がカード・キーを通してロックを解除する。  ドアが開かれる。そして峰岡が言った。  「この車です」 Chase 02 − 襲われた仁  「この車です」  薄暗い地下駐車場の中で、そう言って峰岡真寿美が指し示した先には、真紅の大柄な車体が静かに乗り手を待っていた。  木津仁は高く口笛を鳴らした。その音が、コンクリートに囲まれた駐車場の空間に奇妙に反響する。  「まっさら同然じゃないか、こりゃ。本当に、こんな結構な代物を貸してもらえるのかい?」  「はい。お気に召しますかどうか、先ずは見てみてください」  峰岡の勧めに従って、木津は車体の周りをぐるりと回って見る。  「デザインは悪くないやね」  「ありがとうございます」と峰岡。  「この辺の色っぽいラインなんか、結構そそられるし」  峰岡の口が少しへの字に曲がる。どうやら今の木津の台詞の助平っぽさが気に障ったらしい。その様子を見て木津はにやっと笑うと、ドアノブに手を掛ける。車体の割に小さ過ぎる位のドアが開き、木津は体をコクピットに滑り込ませる。  「タイトだな。レーサー並みじゃないか」  と、シートの調節をしながら木津が言う。ポジションを決めると次は計器周りへと眼をやる。  「スタータは?」  「キー・カードはここです。あ、もう入ってますね。スタートはこっちの赤いボタン」  と指し示す峰岡の指の上から、木津はスタータのボタンを押す。  「きゃ! 何するんですかぁ!」  と峰岡は跳び退る。  木津はその大袈裟な反応に笑いながら計器に視線を戻す。始動されたコールド・モーターのごくごく軽い唸りを伴って、計器類はそれぞれに機敏な反応を返す。スロットル・ペダルを軽くニ、三度あおり、その反応に木津は満足そうな表情を浮かべる。  「どうですか?」  戻って来た峰岡が、次の攻撃を警戒して、一歩距離をおいて尋ねる。  「あとは実際に走ってみて、だな」  「気に入って頂けるとうれしいです」  「ほぉ?」  「だって……」  言いさして、峰岡はさっきされたいたずらを忘れたかのように微笑む。そして  「それじゃ、早速走ってみてください」  「はいよ」  「よいお返事をお待ちしてます。もちろん一週間以内でも」  ドアが閉じられる。窓の中から軽く敬礼をする木津に、峰岡は姿勢を正して答礼する。  コールド・モーターの唸りがわずかに高くなったかと思うと、もう赤いボディは出口に向かって飛び出していた。  ドアが開く。その向こうのデスクから久我涼子が顔を向けた。  「木津さんをお見送りして来ました」  「ご苦労様。木津さんは何かおっしゃっていた?」  と、腰掛けるように促しながら久我はデスクから立つと、ソファの方へやって来た。  「車の第一印象は、かなりよかったみたいです。デザインなんかは誉めてもらえましたし。表現がちょっといやらしかったけど」  久我の口元がわずかに緩む。  「コクピットがタイトだとかも言ってました。レーサーみたいだって。きっと乗ってたことがあるんですね」  久我はそれには答えずに、自らも腰を下ろすと、  「好印象を抱いてもらえただけでも、先ずは十分と言えるでしょう。走らせてみれば、彼の想像を遥かに超える性能にすぐに気付くはずです」  峰岡が頷く。が、次には顔を真っ直ぐ久我の方に上げて問う。  「でも、メンバーに入るかどうか、まだはっきりした返事ももらってないのに、どうしていきなりS−ZCを貸しちゃったりしたんですか? S−ZCはまだあの一台しかないんですよね?」  久我の答えは、峰岡が思わずはっとするほどに確信に満ちた口調で言われた。  「彼は来ます。必ず」  ハンドルを握りながら、自分の顔が緩んでくるのが、木津にはどうしても止められなかった。  時に緩く時に急激なコーナリングも、つま先の微妙な動きに反応するスロットルワークも、思った通りに、いやそれ以上に爽快に決まるのだ。さっき潰されたポンコツには望むべくもなかった走り、彼がやむを得ず遠ざかっていた走りが手中に戻ったのだ。  「しかし」ふと木津は一人ごちる。「まさか、こいつをくれるってことはあるまいな。返事するまでの一週間もあれば、あのポンコツだって修理できるだろうし、それに今日の話を蹴っちまえば……」  そこでやっと木津は、今日の本題だった話を、久我涼子の言葉を、峰岡真寿美の働きぶりを思い出した。久我涼子、あの女、俺を半分死んでるみたいに言ってやがったな。本当の命を生きていない、か。だがそれもあながち間違いとも言えない。「あのこと」以来レーサーを干され、果たせるとも思えない望みひとつだけを何となく持ち続け、それでいて何をするでもなく漫然と生きてきて……  顔に浮かんでいた笑みは、いつしか消えていた。  振り払うような急激なコーナリングにも正確について来た車体は、ルートC553へと躍り出す。  両脇を流れる風景は、いつしか峰岡の「マース1」が武装暴走車の最初の二台を潰した場所のそれになっていた。大破した車両の残骸はあの時ここに残った「マース3」が片付けたのだろう、あの大捕物を思い出させるようなものとしては、わずかな破片と液体の染みが残るだけだった。  しかし木津の脳裏には、そのシーンが異様なほど鮮明に蘇っていた。自分が今乗っているこれに比べて、幾分コンパクトな青いボディが、生き物のごとくなめらかに、すうっと連中の前に伸びていったのだった。そう、まるで龍か何かのように。単に車の性能が卓越しているだけじゃない。それを十二分に引き出し、使いこなせる乗り手なのだ、あのお茶くみ娘は。それを的確に見出したのだとしたら、あの久我涼子という女、なかなかの眼の持ち主だ。  が、だとしたら、同じ女に招かれたこの俺は……?  いつの間にか速度が落ちているのに気付いて、木津はスロットル・ペダルを踏み込みながら声を上げた。  「さあて、どうしますかね仁ちゃん!」  と、それに合わせるかのように、異常な、そして不快な騒音が轟いた。木津ははっとして反射的にペダルから足を浮かせ、計器に眼をやる。が、すぐに自分の車からではないことは分かった。  横道から飛び出して来たのか、後方モニターに、さっきのような武装暴走車の集団が、数にしてさっきの倍以上捉えられていた。  どうやら暴走車は、武装以外にもモーターやらボディやらに妙な細工をしてあって、そこからこんな馬鹿な音をさせるようにしているらしい。バリバリという金属を打ち合わせるような音、嵐の時に聞こえるような甲高い風切り音。  木津は舌打ちする。あの連中のことだ、絡む相手は選ばないだろう。だがこっちの車は借り物だ。下手に傷でも付けられたらたまらない。いや、傷程度で済めばまだしも、スクラップにさえされかねない。  スロットルがさらに開かれる。一気に速度計の表示が跳ね上がり、赤い車体が弾かれたように走り出す。  それを追い抜いて、頭上から前方に飛んでいく、オレンジ色や黄色の切れ切れの光がフロントウィンドウから見える。  「曳光弾?!」  久我の言葉が脳裏に蘇る。  「今のは威嚇です……しばらくはこの調子で遊んでくるでしょうね」  木津のつま先はさらにペダルを踏み込み、真紅のボディはまるで膨張するかのように加速する。計器の表示が一斉に動き出す。  一方それを追う暴走車は、エンジンの回転数を上げ速度を上げるにつれて一層騒音を高く轟かせ、さらに、追いたてるように、木津の車の頭越しに浴びせ掛ける曳光弾の数を増やしてくる。  「よせっつーのに」  木津はペダルを踏み込む。次の瞬間、木津の胃を強烈な加速度が襲う。  「うぷっ」  ウルトラ・エスプレッソが喉元にこみ上げてくるのを押さえながら、木津は後方モニターに眼をやる。  長い直線の道路である。速度ののった木津と団子状態で走る暴走車群との距離は見る間に開いていく。やがて届く曳光弾もまばらになり、ついには後方モニターの中でぱらぱらと消えていくだけになった。  表示の色がグリーンからオレンジに変わった計器と後方モニターとに交互に視線を走らせながら、木津はつぶやく。  「何てぇ加速だ……このパワーの出方、フルチューンのレーサー以上じゃないか」  また木津の頬が緩みかけるが、しかし酔ってにやけているだけの余裕はなかった。速度にのせて、今度は正面に、別働隊らしき武装暴走車の群がぐんぐんと迫ってきたからだ。  再び曳光弾が、ただし今度は前から、さっきとは比較にならない勢いで頭上をかすめていく。  「このっ!」  木津の左足が、左手が、右手が、右足が、人間技とは思えない程の速度と正確さをもって操縦装置を操作し、車を脇の路地へ跳び込ませようとする。  その時、木津の脳裏を峰岡真寿美の顔がかすめる。  ブレーキを踏む足の動作がほんの一瞬だけ遅れた。  横様にスライドしつつ、だが路地の入口をわずかに通り越して車は止まる。その直後、路地の奥から三つの火の玉が飛んで来て、路面で弾け、穴を空けた。  重砲だ。  さっきの「マース2」の時と同じやり口。  また久我の声が蘇る。  「今度は本気です」  今度は本気だ、前にいる奴らも、後ろから来る連中も。  木津のこめかみを冷たい汗が伝った。だが気を抜いている余裕はない。  横からの砲撃の結果を期待してか、前の連中からの銃撃は止んでいる。  急加速。九〇度転舵。元のコースを引き返す。   思い出したかのように、後方からの銃撃が再び盛んになる。今度は車体を狙って。  しかし幸いにも速度を見誤ってくれているらしい、銃弾はみな後ろの路面でばらばらと弾けていく。  「抜け道はないか……ったく、あのお茶くみも、ナヴィゲーションのスイッチぐらい入れてよこしゃいいものを」  と言いかけて、木津の視線が鋭くなる。かつてレースの場でそうしていたであろう風に。  木津はまた峰岡の走りを思い出していた。  「……これだけの車を貸してよこしたんだ。だったらやらせてもらおうじゃないか」  後方モニター。道の真中に横に五台並んで追ってくる狂暴な面構えの暴走車ども。その後ろに少なくとも四台。建物との間は、車一台は通れないが少し空いている。  木津の両手がそれぞれにすばやく動く。  赤いボディが速度はそのままに、だがいきなり後進し、大きく蛇行する。  追おうとする銃撃はたちまち乱れる。その中で木津は撃ってくる銃の数を見切る。  一、二、二、一、一。  彼我の距離は急速に縮まる。  「おりゃあっ!」  ハンドルを大きく切る木津。ボディの左半分が持ち上がり、車輪が建物の壁を捕える。  さらにフルスロットル。斜めになったまま木津は暴走車の群とすれ違う。  慌てふためいた暴走車どもは、動作だけは一斉に、だが照準はてんでばらばらに、銃口を木津に向けてぶっ放す。  狙いのでたらめさのせいで、木津に近い側の二台は、向こう側の三台の放つ五門の銃撃をまともに食らって火を吹き、相次いで壁に激突する。後続の一台がそれを避けきれず、まともに突っ込んで擱坐する。  その間に二列目の車の数と配置とを見て取りながら群の後ろへ抜けた木津は、車を壁から降ろすと前進に切り替え、間髪を入れずに二列目の前に躍り出し、目の前を横切って見せる。避けようとした一台の横っ腹に別の一台が突っ込む。巻き込まれるのを辛うじて避けた、重砲を積む一台の後ろに木津はぴたりと着ける。  残り、四台。  コーヒーのカップをデスクに置き、久我は手にしていた資料のバインダーを閉じた。その表紙には、丸秘のマークを伴い、「開発仕様・経過 S−ZC」のタイトルが読めた。  そのバインダーをカップの脇に置き、もう一つの資料を久我は取り上げた。最初のページには、木津仁の写真とプロフィール。  いや、残りは四台ではなかった。最初に振り切った十数台が、向こうから固まって、再び迫ってくる。  「ちっ……そう言えばいたんだった」  このままUターンすれば、難なく振り切ってしまえるだけの性能差なのは、さっきのことからも明らかだ。だが今は、木津の方にも火が着いてしまっていた。  こっちの四台がこのまま回頭するとは、この速度ののり方ではまず考えられない、と木津は読む。とすれば、向こうの群れが隙間を空けて、四台を取り込むような形をとるつもりだろう。先ずはその位置とタイミングだ。  距離が詰まる。木津はプレッシャーをかけるかのように車を左右に振りながら、前方の群れを伺う。  向こうの群れは最前列に四台、その次が多分五台、さらにもう一列、少なくとも三台はいる。  それが動きを見せる。二列目の中央の一台が後ろへ退がった。  真ん中か。  こっちの四台はダイヤモンド型の隊形をとってきた。  向こうの四列は二列ずつ、わずかに左右に開き始める。間違いない。  距離はあと数百メートル。  向こうの中央が完全に開いた。  木津はダイヤモンドの左へ飛び出し、一気に加速、ダイヤモンドの頭を抑え、斜めに向こうの列の隙間へ飛び込んでいく。  群れは発砲してこない。行ける。  先頭の列とすれ違うまで残りあと数十メートル。  その時、三列目の中央二台がいきなり寄り、隙間を詰めた。  見はられる木津の目。  はめられた?!  ブレーキ。  後進へシフト。  ハンドル。  間に合うか?  強烈な横Gが襲う。  そしてすれ違う十数台の暴走車の上げる喧しく激しい轟音。  その狭間で、それでも閉じられることのなかった木津の目には、自分の車体の流れていく先々で、武装暴走車の車体が次々に、まるで自分の通り道を空けるように弾け飛んでいくのが見えていた。  さらに、群れが混乱するのを後方モニターに捉えると、木津は車を停め、そしてあらためて前方を見渡す。  数百メートル先に、再びあの青い人型のメカが、左腕をこちらに伸ばして立っていた。  「お茶くみ……か?」  いや、その脚には小さく「B」のナンバリングが施されている。さっきお茶くみと一緒に出て行った、何とか言う男の方だ。  と、後方でまた激突音が始まった。  木津はモニターを覗き込む代わりに、車体ごと回頭させた。  と、いきなり目の前に重砲の砲身が吹っ飛んでくる。  「くっ!」  急回避。砲身は車体からすれすれのところをかすめて後方に落ちる。  木津が砲身の飛んで来た方へ目をやると、そこではもう一台の青が、こちらは例の半人半車の形で、暴走車どもを翻弄するように走りまた飛びまわっていた。  「あのお茶くみ……またか!」  飛び出そうとする木津のS−ZCの前に、「手」が現れる。いつの間にか、人型をした「マース3」が木津の横に出て来ていた。  思わずそちらへ振り返る木津。その視線はそのまま釘付けになった。  人型が、目にも止まらぬ速度で、車の姿に変化したのだ。  目の前で見るその変形の様に、木津は言葉を失う。  「な……?」  と、横に並んだ青い車体のドライバーズ・シートから、ヘルメットの中の若い男の目がこちらに向く。そのヘルメットが軽く頷いて見せると、次の瞬間にはもう青い車体は猛然と暴走車の群れへと飛び込んでいく。  武装暴走車どもは、あるものは壁にぶつかり、あるものは別の車と衝突して、もはやその半数以上が行動不能状態に陥っていた。  それでもまだ、リーダー級か、腕のいい奴だろうか、二人の撹乱を巧みにすり抜け、機銃の弾丸をばらまいてくるのもいる。  「マース3」が再び人型に変形。ジャンプ一番、正確な狙いで一台の銃身を撃ち、弾き飛ばすと、別の一台の上に馬乗りのように降り、「手」で銃身を捻じ曲げた。  人型になっている時は「マース3」の方が使い手だな。エンジンは切らずに車を止めたまま、木津はそう思う。俺がもしここのメンバーになったら、この人型も動かすことになるんだろうか? 車ならまだしも、手足のある、ずっと操作のややこしいだろう人型を。そしてこんな派手な立ち回りをやらされるのか? 久我涼子、俺にそこまで出来るとでも踏んだのか?  また衝突音。暴走車の残りはとうとう二台にまでなった。だがそのうち一台は重砲を担いでいる。  と、重砲を積んだ方が、木津めがけて急加速してくる。  しまった!  ブレーキを解除。が、次の瞬間、木津の目は、砲口から自分へと吐き出される火の玉を見ていた。  叫ぶ木津。  後進シフト、スロットル、ハンドル。  火の玉は、しかし追って来ない。  代わりに木津が見たのは、吹き飛ばされ舞い上がる「マース1」の右手だった。  「お茶くみ?!」  「マース1」は、残った左手で暴走車にしがみつくと、馬乗りになり、左腕に仕込んだ銃を至近距離で重砲の砲身に叩き込んだ。  さらに、向こうで残る別の一台を足止めした「マース3」が、今度もまた正確な狙いで、こちらの後輪を左右とも弾き飛ばして擱坐させた。  その時、木津は背後に、かすかにエンジン音を聞いた。聞き覚えのあるホット・モーターの爆音を。  木津は振り返った。しかし既に何の姿形も認めることは出来なかった。  その代わり、人型の「マース1」が擱坐した暴走車から飛び降り、半人半車に変形して木津の横へ付けた。  窓が開き、ヘルメットをかなぐり捨てた峰岡真寿美があの弾けた声で呼びかける。  「木津さん! 大丈夫ですか?!」  木津は、数時間前に後にしたばかりのLOVEのディレクター・ルームのソファに、久我涼子の前に戻っていた。  久我の横には、また峰岡真寿美が、今は事務服に着替えて座っている。  出されたミネラル・ウォーターを一息に呷り、木津は言葉を待った。  久我が口を切る。  「車両を無傷のまま守ってくださって、本当にありがとうございます」  「車を守ったわけじゃない」  素っ気無く木津は答える。  「存じ上げています。ただ結果的には守ってくださったのと同じことです」  木津は肩をすくめて尋ねる。  「それじゃ、えっと……何だっけ」と、峰岡の胸を覗き込み、「そう、峰岡さんか、峰岡さんともう一人が出て来たのも、車を守るためか?」  「そんな……」  と言いかけた峰岡を制して、久我が答える。  「それは正確ではありません」  「ほう?」  「私たちの今回の出動は、前回同様に当局からの要請を受けてのものです。ただ今回は要請自体が相当遅れて発せられました。その原因の半ばは、実は私たち、いえ、私にありました。あなたにS−ZCをお貸ししたことがそれです。S−ZCをあなたが使いこなして、暴走車両群を翻弄していたのを、私たちのスタッフが出ていたものと当局が勘違いしたらしいのです。それ故にあなたを危険な状況に置く結果となってしまった、それについては深くお詫び申し上げます。しかし、私たちが要請とは別に目的としていたのは、木津さん、あなたの救出でした。S−ZCを乗りこなせる、あなたの」  「何故、乗りこなせると断言できる?」  「あなた自身が先程の追撃でそれを証明してくださっています」  「俺が乗ったのは、車の状態だけだ。人型とか、半分だけ人型だったりするのまでは分からないだろう」  久我の口調が少し遅くなった。  「それは、これからです。あなたがスタッフに加わって頂けてからのことです。その折には……」  そこへインタホンから男の声が割り込む。  「安芸です。遅くなりました」  ドアが開き、これも事務服姿の、やはり二十代前半と見える若い男が、バインダーを片手に入って来た。そして腰掛けている木津に気付くと、ふかぶかと頭を下げた。  木津はその目に見覚えがあった。さっき、「マース3」で、ヘルメットの中から自分を見た目だ。  「こちらは」と久我。「安芸進士です。峰岡と同じマース・チームのドライバーです」  「よろしくお願いします」  と言う安芸の口調は、もう木津がチームに加わったかのようだった。  久我に促され、安芸は横の椅子に腰掛けると、バインダーを開いて久我の前に差し出して、言った。  「今の出動の報告と、S−ZCの走行記録です。どちらから?」  「記録を取ってたのか?」  木津の問いに、簡単に肯定の答えをしたのは久我だった。そして安芸には報告を先にと指示する。  安芸の報告は、木津自身のくぐり抜けてきたあの場の再現だった。ただ、木津はそこで初めて自分が相手をした暴走車の正確な数を知って、あらためて冷や汗のにじむ思いをした。安芸は続けて彼我の被害状況を告げる。  「二十一台の内、『マース1』の撹乱による衝突あるいは激突大破六、同じく『マース1』の銃撃による擱坐一、『マース3』の撹乱による大破五、狙撃擱坐四、木津さんの撹乱による誤撃炎上二、衝突大破三。乗員は全員拘束し、当局へ引き渡し済みです。こちらの損害は『マース1』が重砲により右手部を破損の小破ですが、変形機能に支障を来しています。以上です。今回も『ホット』の介在は……」  「あった」  木津の声に、三人が三人とも顔を上げる。  「聞こえたんだ。あの排気音が」  久我が珍しく返事をしなかった。  「あんたたちは、『ホット』を追ってるんだな。そうだろう?」  「厳密に言うと少し違います。それだけが任務ではありませんから。ただ」  そこで久我は言葉を切った。  「あなたが『ホット』を追うために私たちのチームに参加してくださるとおっしゃるのであれば、それでも結構です。出動の全てが全て『ホット』に関係するものではないでしょうけれど。それに、そのための道具を、私たちから提供することが出来ます」  「道具……あの車か?」  久我はそれには応えずに、もう一部の資料、S−ZCの走行記録を開いた。三人が一斉に覗き込んだが、木津にはわけが分からないチャートが並んでいるだけだった。しかし峰岡も安芸も、チャートを一目見ただけで感嘆の声を上げた。  「先程お乗り頂いたS−ZCの走行記録です」と、これは淡々と久我。「マースで使用しているS−RYに対して、全般的に約二十パーセントの性能向上を施しています。が、あなたはそれをほぼ使いこなしてしまっている。それどころか、なお改修の余地があることさえ明らかにされました。データにはそう出ています」  「と言ったって」木津が口を挟む。「さっきも言ったけど、車として扱う時だろ? あれだって実は変形するんじゃないのか?」  「その通りです。先程も申し上げました通り、これからトレーニングは必要ですが、あなたならきっと使いこなせるでしょう。今回の件で、S−ZCはあなたによって最初の生命を吹き込まれたに等しいのです」  木津は少し照れ臭そうに肩をすくめる。この女からこんな台詞を聞くとは思わなかったのだ。  久我は言葉を続けた。  「そして木津さん、私たちに協力してくださることは、あなたご自身にとっても、一種のカンフルとなるでしょう」  「あんたの言う、生きてない命への、か?」  「そうです」  木津はまた肩をすくめる。ただしさっきとは別の理由で。  「能書きは抜きにしよう。もっとシビアな話でも俺は構わんぜ。あんたは車を提供して俺の腕を買う、俺は俺であんたたちの片棒担ぎながら『ホット』を追わせてもらう。そういうことだろう? 俺にも出来ると言うお墨付きも貰えるようだしな」  峰岡の視線が木津の顔へと移される。心持ち不安そうな表情を浮かべて。  それとは対照的に、微笑らしきものさえ浮かべて久我は応える。  「それで結構です」  この部屋に入って来て初めて、木津は頬を緩めた。  「決まりだな。実を言うと、俺もあの車を今回限りで手放すのは、どうにも惜しかったもんで……」  「やったぁ!」  峰岡の弾けた声が一層弾け、それを聞いた木津と安芸が顔を見合わせて笑う。制するような口調で久我が、  「峰岡、あなたには木津さんの参加の準備をお願いします。今日は残業になるけど、いいわね?」  返事もそこそこに、峰岡は部屋を飛び出して行く。出掛けにまた首の抜けそうなお辞儀をして。  それを見ながら久我はつと立ち上がると、デスクへ戻り、引き出しから小さなケースを持って来る。ケースから取り出されたのは、銀色の地に赤い線の入ったキー・カードだった。一目見て安芸がつぶやく。  「メイン・キー・カードか……」  久我はカードを木津の前に差し出して、言った。その語調は、木津にとっては今までに聞き覚えのない強さを帯びていた。  「木津さん、S−ZCは、あなたにお預けします」 Chase 03 − 起動されたスザク  空き缶、コップ、食器、雑誌、服。  物の数そのものは少ない割に、妙に散らかって見える部屋。脱ぎ捨てられて、てんでに転がった靴の片方を押しのけながら、ドアがゆっくりと開く。  入ってきたのはこの部屋の主、木津仁だった。  木津は靴を蹴飛ばすように脱ぐ。右側がぽんと飛んで、踵の金具がドアに当たり、音を立てる。だがその主は気にも留めずに、テーブルの傍らまで来ると、腰を下ろした。  抱えていたジャケットのポケットの中に片手を突っ込む。しばらくごそごそと動いていた手が出てきて、開かれると、そこには赤い線の入った銀色の小さなカード、S−ZCのメイン・キー・カードがあった。  何事かを決心したかのような表情で手のひらの上のキーを見つめながら、木津はひとりごちる。  「奴へのキー、か……」  目を上げる。乱雑なテーブルの上に、何故かきれいに片付いた一角があり、そこに写真立てが一つ置いてあった。木津の視線はしばらくそこに注がれたままになる。  五分もそうしていてから、俄かに木津は立ちあがる。  「やってくるか」  キーがテーブルの上に転がされ、代わりにその辺に放り出してあった鞄がつかみ上げられると、一見手当たり次第に服やら小物やらがその中に詰め込まれ、蓋が閉じられる。さっき写真立てを眺めていたよりも短いくらいの時間で。  再び腰を下ろした木津は、火も着けないままくわえていた煙草を灰皿でもみ潰すと、また写真立てを見つめる。だが今度は間もなく立ちあがり、カード・キーと写真の前に転がっていた小さなキーホルダーとを手に取ると、言った。  「行ってくるよ」  メインの通りからは外れた、アパートの前の路上。今や木津に預けられたS−ZCがそこにあった。  夕暮れの太陽のオレンジ色が、真紅のボディの微妙な曲面に反射して、例えようもない色合いを醸し出している。  木津はふと我を忘れてそれに見入る。この車で切りぬけてきた、息の詰まるようなあの追撃戦が、まるで嘘のように思える光景。  と、それを破ってかすれた男の大声が聞こえてくる。  「よう、仁ちゃん!」  振り向くと、道の反対側から顔なじみの飲み友達が近付いてきた。  「カンちゃんか」  「おう……おっ?車変えたんか?」  「変えたっつーかね、まぁ借り物だな。あのポンコツをぶっ潰されたんでな、修理の間の代車だよ」  「いい加減買い替えなってばさ。中古にしたってずっとましなタマはごろごろあるぜ」  木津は肩をすくめるだけで答えない。  「しかし、代車にしちゃあ、すげぇ車だよなぁ。国産じゃないだろ?」  と、彼は車体の周りを眺めて回る。  「純国産らしいぜ」と木津。  「エンブレムも何も無しか。カスタムボディか? いい仕上げしてあるよなぁ」  「あんまり見るなよ。穴が開くぜ」  そう言いながら、木津はコクピットに身を滑らせる。  「馬鹿言え……これからお出かけかい?」  と付け足しのように尋ねながら、彼はコクピットの中までを覗き込む。  いいのかよ、と木津は思う。こんな機密事項の塊みたいなものを、野次馬の目があっちこっちにある環境に出してやっても。どうも久我ディレクターも考えていることってのはよく分からん。  「ああ、しばらく留守にするわ」  「何だぃな、また」と彼は杯を干す仕草をしながら「行こうと思ってたのにさ」  「悪いね」と言いながら木津はドアを閉じる。「またそのうち頼むわ」  「行き先は?」  「な・い・しょ」  「長いの?」  「それもな・い・しょ」  マスター・キー・カードを差し込むと、シート、ハンドル等が自動的に木津のポジションに復帰する。  スタータの赤ボタンを押すと、次の瞬間コールド・モーターはほとんど音もなく目を覚ます。  「それじゃ」  「おう、行ってらっしゃい」  彼は走り去る赤いテールを、じっと見つめる。  「ディレクター御自らがいらっしゃるとは……」  と言いつつ迎えに出た白衣の研究員に、久我はこう応える。  「私がスカウトした人材ですからね。で、どうですか、状況は?」  「まあお掛けください」  促された久我がチャートの散らばった作業テーブルの脇に腰掛ける間に、研究員はキャビネットから薄いバインダーを取り出す。  「コーヒーは?」  「いただきます」  まだ正式ドキュメントではありませんが、と断りを入れてバインダーを久我に渡し、彼女がそのページを繰っている間、研究員はコーヒーをカップに注ぎながら話し始める。  「今日の午前中までに基礎的な体力の測定は完了しています。判定は終了した部分から順次行ってきていますが、現在のところ、全般に予測値以上の結果が出てきています」  「予測値はどのレベルに?」  手渡されたコーヒーに口をつけてから、久我が尋ねる。  「平均値の十五パーセントプラスで設定しましたが、さらにプラス十五から、項目によっては三十五という値が出ました」  研究員はちょっと言葉を切って、自分のコーヒーを一口すすると、  「並みの人間じゃないですね」  久我は応えずにバインダーのページを繰り続け、目を離さずに  「これからのスケジュールはどのようになっていますか?」と問う。  研究員は別の資料を取り上げ、数ページをめくって読み上げる。  「ええとですね、当初の計画から繰り上げる方向で変更が入っています。今日の午後はオフにしましたが、明日からVCDVの基本について座学を交えながら、シミュレータでのトレーニングに入ります」  「あとどのくらいの時間で即戦力になりそうですか? あなたの予測で構いませんけれど」  「正直言って、シミュレータをやってもらうまでは分かりませんね。でも、ディレクターの推薦の場合、峰岡君みたいなすばらしいケースもありましたからね。今回の木津氏は、峰岡君を数字の上では上回っていますし、相当早いのではないかと思います」  久我は資料から目を離し、またコーヒーを口へ運んだ。何かへの渇きを癒すように。  資料へと戻った久我の目が、すぐに止まった。と思うと、同じ個所を何度か繰り返して読んでいるようだ。  「何かお気付きの点が?」  問いかける研究員に、久我は顔を上げる。  「これは……?」  ドアにある表示は「在室」を示している。  インタホンのマイクボタンを押しながら、  「木津さん? 峰岡です」  返事がない。  「木津さーん? 峰岡ですー! お寝みですかー?」  廊下を通りすがりにそれを見て笑う人間が数人。聞きとがめて振り向く峰岡。しかしお構いなしに、向き直り、三度目の挑戦。  「き・づ・さーん!! み・ね・お・か・でーす!! いないんですかー?!」  「なんじゃいな?」  背後からのその声に驚いて、峰岡は飛びあがる。  「きっきっきっ木津さん? なんでこっちから出てくるんですか?」  木津は右手に持ったコップを見せながら  「飲み物ぐらい買わせておくれよ。で、何か用?」  「あ、えーとですね、午後はお休みだって聞いたので、お部屋の不便とかがないか伺おうと思いまして」  「あるよ」と木津。「その在室センサー、壊れてる」  部屋に入る木津の背後で、峰岡は「在室」の表示にパンチを食らわせる真似をする。  「何してんの?」振り向いた木津が半ば吹き出しながら言う。「入ったら?」  赤面した峰岡が部屋に入り、ドアが閉じると、ドアの表示が「不在」に変わった。  ベッドに腰掛けてカップをあおる木津に、立ったままの峰岡が、  「こんなお部屋しかご用意出来なくて、申し訳ありません」  「何も研究所にホテル並みの設備なんか期待しちゃいないさ。まあ、とりあえず座ったら?」  失礼します、と頭を下げて、デスクの椅子に峰岡は座り、さらに問いかける。  「ドアのあれ以外に、何かご不便はありませんか?」  「ま、とりあえずはね。聞きたいことは山ほどあるけど」  そう言って木津はコップを空にする。  「何でしょう?」と峰岡。  「先ずは君の歳」  ちょっと面食らったような顔をしながら、それでもうっかりと峰岡は答える。  「二十二歳です」  「マース1のドライバーはどの位やってるの?」  「半年、かな?……ですね、はい」  「たった半年であれだけこなせちゃうんだ。 すごいね」  峰岡の照れ笑い。  「で、やっぱり久我さん推薦で?」  「推薦って言うのかな……ディレクターに乗ってみないかって言われたのはそうなんですけど」  「ふぅん……そう言えば、何で青いのにマースなんだろう?」  「え?」  「マースって、マルス、つまり火星のことだろ? 赤のイメージがあるんだけどさ」  「あ、そうなんですか?」  「違うの?」  峰岡は満面に笑みをたたえて、  「はい、実は、あれはあたしの名前から取ってるんです」  「名前?」  「そうです、あたしの名前が真寿美ですから、それでマースって」  呆気に取られた木津。  「それって、誰のセンス?」  「ディレクターです」  「ディレクターっていうと、まさか……久我さん?」  「はい、もちろん」笑いながら峰岡は付け足す。「だから、きっと木津さんならキッズ1とかですよ」  「おいおい……しかしなぁ、あの冗談も言わなそうなおばさんが、そーゆーことするんだ」  「おばさんって……」  と言いかける峰岡の声を、鋭い電子音が掻き消す。  「何?」  と尋ねる木津は、峰岡の顔つきが変わったのに気付く。  峰岡はその音の出てくる腰の小さなケースに手をやり、ボタンを押して音を止めると、  「出動です。すみません、お話はまた後でお願いします」  そして椅子を蹴るように立ちあがると、挨拶もそこそこに部屋を飛び出して行く。  残された木津は、空のコップを弄びながらつぶやいた。  「出動か……」  ベンチでミネラル・ウォーターのボトルをラッパ飲みしていた木津が、口からボトルを離すと、  「これはこれは、ディレクターのお出ましですか」  近付いてきたのは久我だった。  相変わらず表情の一つも変えないまま頭を下げてから、久我は問いかける。  「シミュレータでのトレーニングはいかがですか?」  「結構進んでる。人型の基礎編はもう修了させてもらったよ。手足があるから操作が面倒なのかと思ってたけど、そうでもないんだな」  久我は向かいの壁際に立ったままで、軽くうなずく。  「しかし、どうやると車の操作系がああいう人型の操作系に変わるもんかね? 本体の変形と同時に自動的に変わってくれるとは聞いたけど。計器はまだしも、ハンドルなんかは」  「まだ変形のシミュレートはされていないんですね?」  そう尋ねる久我の顔に、珍しく何やら表情らしいものが浮かんでいる。だが木津はそれに気付かずに答える。  「人型と中間の操作をそれぞれ一通りマスターしてからって言われた。座学では教わったがね。まあ中間ももう少しでパスしそうな雰囲気ではあるらしけど。そう言えば、何でも中間の方が人型よりも操作が難しいんだとか言ってたな」  「確かにWフォームは両方の操作が要求されるということはありますが、操作系はそれに対応してあるはずです。それほど複雑化してはいないと思います」  「そうそう、Wフォームと言うんだっけ、あの中間型は。で、操作機構がある程度だとしても、それを使う人間の方が付いて来られるか……」  木津はボトルを口へ運び、二口三口と水を喉へ流し込む。  「……が問題だと言ってたな、トレーナーは。シミュレータじゃそんな感じはあんまりなかったがね」  久我は左手に持っていた資料を抱きかかえるように持ちなおすと言う。  「先日実際に見て頂いた通りです。実戦の場でも峰岡、安芸の両名は問題なく使いこなしていますから」  「俺でも問題はないだろう、か」  木津はボトルの残りを一気に開け、そして久我に尋ねる。  「そう言えば、この前その峰岡さんが、俺のところに来たかと思ったら、出動だって呼び出されてすっ飛んで行ったっけね。あれは何だったんだ? また暴走車?」  「いいえ、重作業車を使った破壊行為の牽制でした」  「重作業車?」  「襲われたのはモーター関連の工場でしたから、企業間の対立ではないかと当局は考えています」  「派手にまた……」  「そんなはずはないんですけれどね」と久我が付け加える。  「え?」  だがそれ以上を問う隙を与えずに、トレーナーが姿を現し、木津に声を掛ける。  「木津さん! そろそろ再開しましょう」  「了解、すぐ行く」  それから久我の方に向き直ると、久我が一言。  「現場に出られる日をお待ちしています」  木津は肩をすくめて立ちあがった。  宙を舞った空のボトルがごみ箱の中で品のない音を立てる。  起動時の軽い唸りと共に、計器盤に乳白色や淡緑色の灯が点り、センサーやら何やらの補器類が取り付けられた木津のヘルメットのバイザーに反射する。  そのヘルメットの中で、木津はトレーナーの声を聞いている。  「……スタンバイよろしいか?……はい、それではコース・トレース行きます……レベルは2アップです……ではスタート。グッド・ラック」  踏み応えのあまりないペダルを、木津は一気に踏み込む。  シミュレータの合成する加速度が体にかかり、スクリーンの映し出す風景と路面とが流れ始める。  間もなくスクリーンの中、木津の目の前に赤い円が現れ、加速し、高速でコースを進んでいく。  木津はそれを追う。アクセルワーク、ハンドリング。  時々不意にスクリーンのどこかに黄色い小さな円が現れる。それを目に留めるや否や、ハンドルを握る木津の指が動く。するとスクリーンの中、その黄色の円に向かって伸ばされた「腕」が現れ、次の瞬間黄色の円が青に変わる。  「当たり」と木津はつぶやく。  S−RYと同様、「腕」に衝撃波銃が仕込んである、という設定だ。  だが赤い円は止まることなく、木津もさらにそれを追ってペダルを踏む。  スクリーンに虎縞の四角。また木津の指が動き、スクリーンの「腕」が今度はそれをつかむ。  続いて現れる同じく虎縞の、今度は台形。「腕」がそこへ伸ばされ、速度を落とすことなく、つかんだ四角をそこへ載せる。  赤い円を追いながら、いくつもの黄色い射撃標的を撃ち、また虎縞の作業目標を動かしていく。  と、突然赤い円が黒に変わる。  フルブレーキング。左「腕」が正面に伸ばされる。衝撃波銃。  黒い円が青に変わると、トレーナーの声がヘルメットの中に入ってくる。  「はいOKです……カプセル開けます」  スクリーンの映像が消え、計器類の灯が全て落ち、真っ暗になったシミュレータの中で木津はヘルメットをはずす。  重い扉の開く音と共に、蛍光灯の光が差してくる。そしてトレーナーの顔。  「お疲れ様です」  「結果は?」と急くように木津が問う。  トレーナーは指で丸印を作って見せる。  「安定してますね。レベルを2つ上げたんですが、走行と姿勢制御は前回以上でした。動態射撃も、銃の収束率は上がってるのに、命中率は前回と変わらず。集弾率はむしろ上回ってるくらいです。ただ動態作業だけ、コーナリング中のマニュピレータのグリップが強めに出てますが」  「コーナリングスピードが上がってるからな、やっぱり反射的にハンドルは強く握ってるか」  「この辺はコントローラ側のアシスト調整でどうとでもなるレベルでしたから、問題はないでしょう……Wフォームのシミュレートも、これでパスですかね」  木津は歯を見せる。  「順調順調」  「本当に」とトレーナーも笑う。「しかし、久我ディレクターもすごい目利きだなぁ。連れて来る人みんながこのレベルなんだから」  「みんな?」  「と言っても、あとは安芸君と峰岡さんの二人ですけどね」  「へぇ、あの二人ともスカウト組なんだ」  「所内でのスカウトですけどね。外部からは木津さんが始めてです。で、次は変形プロセスのトレーニングなんですが、これは実車を使ってやります」  久し振りに見るS−ZCは、見慣れたRフォーム、即ち車型の姿で、その赤いボディを地下駐車場に横たえていた。  そこは峰岡に案内されてS−ZCを引き渡されたのと同じ駐車場だったが、あの時は閉じられていたシャッター類が開かれている今は、単なる駐車場ではなく、むしろ格納庫然とした様相を呈している。横の奥には青いS−RYが、同じくRフォームで三台並んでいる。  こうして近くで見ると、やはりS−ZCよりは一回り以上小さく見えるが、それだけに軽快な運動性能を想像させる。だが、こっちだってそれに劣るものではあるまい。この前の久我ディレクターの言葉を信じれば、性能はニ割増だという触れ込みだ。  木津は自分の車へ振り返り、体をコクピットに滑り込ませる。挿入口から半ば飛び出したままにしてあるキー・カードを親指で押し込み、スタータの赤いボタンを押すと、計器盤に灯が点り、モーターが静かに回転を始める。同時にシートとハンドルの位置が木津のポジションに自動的に設定され、ベルトまでが自動でセットされる。  コンソールに埋め込まれたナヴィゲーションの画面を開き、その周辺のスイッチを入れると、  「こちら木津。準備完了」  トレーナーの声が応じる。  「全システムのロック解除は確認されていますか?」  計器盤のランプがそれを示していた。  「OKだ」  「では、周回テストコースから中央のフィールドへ……いや、ちょっと待ってください……はい……はい、了解……木津さん、青龍が出動します。先に出しますのでそれまで待ってください」  「青龍?」  窓越しに振り返ると、間もなく峰岡と安芸が向こうから駆け下りて来て、S−RYの青い車体に飛び込む。  「マース・チームか」  「S−RYの」とトレーナーの声。「通称が青龍です。ディレクターはこの名前は使いたがりませんけどね」  「なるほど」木津はコンソールのスイッチを操作しながら応える。「あのおばさんのセンスじゃないよな……よし来た」  通信の音声が、件のおばさん、いや、久我のマース・チームへの指示を伝えてくる。  「……区にて示威行為継続中とのこと。車両数は六。内三は重武装の様子。『ホット』の直接指揮によるものと思われます」  「……『ホット』だと?」  「了解」と、これは峰岡。「出ます!」  その声と同時に、峰岡と安芸の二台のS−RY「青龍」が、木津の乗るS−ZCの横を走り抜けていく。  そして次の瞬間、木津の足はスロットル・ペダルを思い切り踏み込んでいた。  安芸は後方モニターに、近付いてくる赤い車体を認める。  「あれは……S−ZC?」  それとほぼ同時に、いつもに比べれば多少違うものの、それでも慌てているとは到底思わせない久我の声が。  「木津さん、戻ってください。まだトレーニングは完了していないはずです」  この声は、マース1の車内にも伝わっていた。  「木津さんが?」と言う峰岡もまたモニターにS−ZCの存在を見る。そして操る木津の声が。  「トレーニングだったら、一通りマルをもらったよ。後は変形と実戦訓練だけだ。それに、マースだって一人足りてないだろ? 補欠出動だよ」  「しかし……」  「あたしたちがフォローします」と峰岡が声を張り上げる。  「そうこなくっちゃ! さすがマース・リーダー」  久我はデスクに片肘を着き、片手で頭を抱えた。  「で、『ホット』が出て来てるって?」  「らしい、というレベルだそうですが」と安芸が応じる。  「行って見りゃ分かる、か」  そう言いながら、安芸の後を追って木津はハンドルを切る。  長い直線コースへ躍り出すと三台は揃って急加速する。  計器の色がグリーンからオレンジに変わり、高速時の操縦安定性を警告する。  ややもすると安芸のS−RYを追い抜きそうになるS−ZCを、木津はつま先のわずかな動きで制御する。  「コンタクトまであと二分……木津さん、慌てて前に出ないでくださいね」  「はいはい、飛び入り参加者は現場まではおとなしくしてますよ」  「インサイト!」  峰岡の声に、木津は反射的にハンドルを切る。安芸のS−RYの陰からS−ZCが横様に飛び出す。  見えた。小さな影が。それが加速をつけて大きくなり、武装車両の姿になる。  「マース1」も車体を少し振って、すぐに元の位置に戻る。  「ニ、三、一。多分中心に『ホット』をおいて、取り囲む形です」  峰岡の言葉が終わらないうちに、砲声。  散開する三台に追い討ちを掛けて、さらに二発。  「なるほど、統制が取れてる」と急ハンドルを切りながら木津。  「向こう側はあたしが押さえます」峰岡が言う。「マース3、キッズ1で挟撃」  結局予告通りの「キッズ1」か。木津の苦笑いは、しかし口元を少し緩ませるだけで、その目はほとんど怒気を帯びてさえいるかのように、前方の武装車両の一隊に向けられている。  その視線の上から、Mフォームに変形したマース1が、左腕の衝撃波銃を連射しながら降りて来る。  銃の衝撃波は、一隊の進む先の路面に大きな破孔をいくつも開け、その向こうに着地しながら、青龍はWフォームに変形する。  しかし一隊は、今まで相手にしてきた暴走車連中とは違っていた。峰岡の威嚇射撃には全く動じる風も、隊伍を崩すこともない。急停止すると、中央と両翼の三台が峰岡に向けて一斉射。  峰岡は巧みにカーブを繰り返しながら急速後進をかけて回避する。  一方木津と安芸も、二門の重砲の狙いをRフォームのままで撹乱しながら、相手の切り崩しのタイミングを伺っている。  後進から前進に切り替えながら、マース3がWフォームに変形、重砲を積む二台の足と攻撃能力を奪うべく、左腕を伸ばして衝撃波銃を連射する。  一見鈍重そうな二台はいとも平然とそれをかわす。  だがそこにわずかな乱れが生じた。  木津はその隙と、その奥の「ホット」のものらしき車体をすべる光の反射とを見逃さなかった。  スロットル・ペダルが床まで踏み込まれる。後衛の二台の間に躍り込む木津。すれ違うと同時に、旋回を始めていた両脇の重砲が相次いでへし折れる。  後方モニターの中には、安芸の青龍が膝を着いた姿勢で衝撃波銃の照準を付けている。  だが木津はそれには目もくれない。  「ホット」はホット・ユニット特有のエンジン音を響かせ、足元からは白煙を上げながら回避行動に移る。  「逃がすか!」  木津の手が変形セレクタのレバーを引いた。次の瞬間、木津を強烈なショックが襲う。  S−ZCの赤い低い車体が、一瞬にして精悍な人型に姿を変えた。  その姿を目にして、峰岡が声を漏らす。  「これが……朱雀」  「待て」と安芸。「何かおかしい」  朱雀は赤いボディを仁王立ちにさせたまま、微動だにしようとしなかったのだ。  武装軍団は狙いを動かない朱雀に変える。  ニ体の青龍が走り、峰岡が叫んだ。  「木津さん?!」 Chase 04 − 開かれた傷跡  「木津さん?!」  計器盤の緑色の灯が反射するヘルメットの中に、峰岡の呼ぶ高い声はうつろに響いた。木津の耳には届くこと無しに。  シートベルトに体は保持されているが、ヘルメットを被った首は前に垂れ、動こうとはしない。バイザーを通して見える目は見開かれたままだ。  「木津さん! どうしたんですか?! 返事してください!」  答えはない。  コクピットの中、正常に動く計器に囲まれて、木津は意識を失っていた。  立ち上がった朱雀の姿に一瞬ひるんだ暴走車群だったが、その赤い躯が木偶の如く突っ立ったまま動こうとしないのを見て取ると、俄かに動き始める。搭載された火器の砲口を朱雀に向け集めるように。  「木津さん! 回避を!」  叫びながら峰岡の青龍は地面を蹴って跳び上がり、左腕の銃を乱射する。その衝撃波は斉射を開始しようとした武装車の一台の屋根をへこませ、もう一台の足元に大穴を開けてバランスを狂わせ、横転させる。  出鼻をくじかれ、攻撃の手にわずかな隙が生じる。  そこをついて、安芸の青龍が、立ち尽くしたまま動かない朱雀に駆け寄り、左腕で武装車へ銃撃を続けながら、右手を朱雀の背中へと伸ばした。  木津は半ば朦朧とした頭で、閉じた瞼越しに青白い光を感じていた。  その光が天井の蛍光管からのものであるということが分かると、もう一つ、自分の後頭部に蜘蛛の巣のように絡み付いている、重いような不快感もまたはっきりと意識され始めた。  すると、砂糖の塊が湯に溶けるように、部屋の天井の色、漂っている消毒薬の臭気、ベッドの上に横たわっている自分、ここが病室であるという事実が次々と分かってきた。しかし、何でこんなところで俺は転がってるんだ?  ああ、あの時「ホット」を仕留めようと、一気に人型に変形しようとして、目の前が真っ赤になって……気絶でもしたか? 俺としたことが。  そこまで思い至って、木津の顔がこわばった。  変形して、しかし「ホット」を仕留めたという記憶はない。敵の包囲の中、変形した直後から記憶は途絶えている。  S−ZCは?  まさか、集中攻撃を受けて損傷したのか? まだ一台しかないというあの車体を「ホット」の餌食に? ディレクターの制止を無視して飛び出したせいで?  まずい……  木津は目を見開き、ベッドの上に上体を起こした。  体のどこにも痛みはない。ただ後頭部の不快感が相変わらず残っているだけだ。  後ろを向いて何かを片付けていた看護婦が布の音を聞きつけて振り返った。  「あ、起きないで! そのまま……」  デスクの上は、何通かのレポートで埋められていた。  久我はその全てに目を通してしまっていたらしく、ただ神経質そうにペンを弄びながらコーヒーのカップを傾けている。  その様子は、何事かを決めかねているかのようでもあり、また何事かにいらだっているかのようでもある。  空になったカップをデスク上のわずかな隙間に置くと、インタホンから声が聞こえてくる。  「久我ディレクター、ご在室ですか?」  「はい」  「こちら医務室です。木津さんがお目覚めですが」  「分かりました」  インタホンの向こうでは、続く言葉を待っているような間。  だが久我は何も言わない。  やがて待ちかねたかのように問が来る。  「どうなさいますか? お出でになりますか?」  ややあって、やっと久我は答えた。  「行きます」  看護婦は受話器を置くと、再び木津の方に向き直った。  「ディレクターが参ります」  木津はベッドの上に上体を起こし、半ば泣き笑いのように表情をこわばらせて問う。  「どんな感じだった?」  その表情に、看護婦の方は半ば吹き出しそうな顔になりながら、  「おかんむりみたいです」  木津の泣き笑いから笑いの部分が抜け落ちる。  「本当に?」  「嘘です」  一転呆気にとられた木津の顔を見て、看護婦はとうとう吹き出してしまう。  「大丈夫ですよ、あの人はそんなに喜怒哀楽を出すタイプじゃありませんから」  「まぁそんな感じだとは思ってたけど……ところで、あんたは状況は知ってる?」  「状況?」  「俺がどんな状況でここに担ぎこまれたか、さ。別段怪我をしているような気もしないんだけど」  「ええ、外傷はありません」  この答えから、彼女は何も知らなそうだと木津は察する。これは久我ディレクターから直接話を聞くほかなさそうだ。ことと次第によると、詳細なしでお役御免のお払い箱、という事態にならないとも言えないが。  「それじゃ、俺は今まで何時間位のびてたのかな?」  「まる1日、いえ、もう1日半近くになりますね」  「そんなに? 何で?」  看護婦は椅子を引き寄せて腰を下ろす。  「検査はさせていただいたんですけれど、結果は私も聞いてませんから」  「久我センセイは知ってるか」  「そのはずですね」  そこに、インタホンからポーンというチャイムの音。  「ご登場のようですよ」と、座ったばかりの椅子を蹴って、看護婦はインタホンへ。  名乗る声は、その通り久我のものだった。  病室に入ってきた久我の表情からは、看護婦の言う通り、そして自身の予想通り、木津は何も読み取ることは出来なかった。  「ご気分はいかがですか?」  その口調は、しかし無理に抑えたような静かさを帯びていたように、木津には感じられた。  「良くはないですな、正直な話」  久我は黙ったまま、資料のバインダーを抱えた両手を前に、木津の顔を見つめている。  その視線に木津は落ち着かない気分になり、立て続けに言葉を発していた。  「『ホット』は取り逃がしたし、それにS−ZCがどうなったかも気になるし、おまけに首の後ろが妙に気分悪いし」  看護婦がさっきまで座っていた椅子に、今度は久我が腰を下ろし、そして口を切る。  「残念ながら、昨日のグループには『ホット』はいませんでした」  「いなかった?」  「いわば『ホット』の影武者でした。車両はコールド・ユニット搭載のものだったのですが、ダミーの熱源ユニットと騒音源で『ホット』を装っていました」  「念の入ったことだな……それじゃ」と木津は言葉を切ってから、言う。「俺が飛び出していったのは無駄どころか、逆にこっちに損害を与えただけだったのか」  「ご心配なく。S−ZCには損傷はありません」  久我は表情一つ変えずに応える。  「本当に? あの状況で?」  「はい」  「どうして?」  木津は上体を乗り出す。  左手の威嚇射撃を続けながら、安芸の青龍は上体を屈めて朱雀に駆け寄り、右手をその背中に伸ばす。  背中に触れるや否や、青龍の指がすばやく朱雀の右肩の下に小さなハッチを探り当て、開く。  中には黄と黒の縞のフック。  青龍がそのフックを引き、そして飛び退るようにして地面に伏せた。  次の瞬間、動かない朱雀は変形した時と同じ速度でRフォームに戻る。  朱雀の胸を狙った暴走車の砲火がその上を通過していく。  伏せたまま、青龍が再度左腕の衝撃波銃を連射する。今度は照準を正確に付けて。  衝撃波は並んだ暴走車を次々となぎ倒していく。一つ、二つ、三つ。  「ラスト!」  峰岡が声を張り上げた。  「ホット」の排気音が轟く。  擱坐した仲間の車両の間を巧みにすり抜けて、「ホット」は逃げを打つ。  「マース3はキッズ1を保護! 『ホット』はあたしが止めます!」と峰岡。  「それほど」と安芸が応じる。「簡単じゃないと思うぞ」  その言葉通り、「ホット」は峰岡の青龍が放つ衝撃波を一つ二つとかわしていく。  起き上がった安芸の青龍は、地面に膝を着いて、まるで小銃を構えるかのような姿で左腕を伸ばした。  音ともいえないような重く鈍い音が続けて二度、周囲の空気を振るわせる。  最初の一発は、峰岡の狙いをかわした「ホット」の鼻先に浅く広い穴を穿つ。  「ホット」は舵を切り急制動。足元から白煙を上げ、車体を揺らしながら穴の縁ぎりぎりに止まる。  次の瞬間、テールを振った「ホット」の後輪を、安芸の二発目が確実な狙いで吹き飛ばしていた。  足の止まった「ホット」に、峰岡の青龍が飛びかかる。と、峰岡があっと声をあげた。  「どうした?」  「……自殺してる」  安芸の青龍が立ち上がり、Wフォームに変形すると、エンジンは動いたままの「ホット」の脇へ近寄る。  ウィンドウ越しに、拳銃でこめかみを撃ち抜いた男がシートの上で頭を垂れているのが見えた。  それをしばらく見つめていた安芸が言う。  「……違う、こいつは『ホット』のユニットじゃない」  「え?」  安芸は排気音と排熱の伝わる「ホット」のエンジンフードを引き上げた。そこにあったのは、見慣れたコールド・モーターのユニット配置と、そしてもう一つ、見慣れない機器が。  排気音と排熱が発しているのはそこからだった。  「こいつか……ホットのダミーというわけだ」  「じゃ、この人も……」  「『ホット』本人じゃないな」  「……そういう話か」  木津は天井を仰いだ。その顔が再度久我へ向けられる。  「で、俺をどうする?」  久我は木津へと視線を上げた。だが口は開かない。  「損害はなかったとは言え、無茶をしたからな」  そう言いながら、木津は右手を首の前できゅっと引いて見せる。  「これも覚悟はしてる」  沈黙したままだった久我が口を開く。だがその言葉は、木津の思惑からは全く外れたものだった。  「S−ZCは、変形のプロセスに一部改修を施す決定をしました。発生する衝撃には問題があるようですから」  何も言えずにいる木津に、久我はいきなり問いかけた。  「木津さん、あなたはあの事件の後、入院加療していらっしゃいましたね?」  「……ああ」  「加療部位はどこでしたか? 頭ではありませんでしたか?」  木津は思わず後頭部に手をやり、そして自分をいつになく注視している久我の目を見返す。  「そうだ、俺がのびてる間に検査をしたとか聞いた。その結果はあんたがつかんでる。そうじゃないか?」  バインダーを抱く久我の腕にわずかに力が込められたように見える。  木津は体ごと久我に向けると、もう一度問い詰める。  「結果は出てるんだろ?」  久我はわずかの間無反応でいたが、やがてゆっくりとうなずくと、言った。  「はい。先程私の手元に届きました」  間。  「それで?」  「S−ZCの改修は行いますが、それだけではあなたが今回のような事故を起こさなくなるという保証はありません」  「俺の体も改修が必要だというわけか?」  「そうです。あなたの頭部には、当時の事件で受けた傷で、完治していないと思われるものがあります。それが今回、一種後遺症のような影響をもたらしたのです」  木津は表情を固くしながら  「変形のショックでか?」  「はい。その兆候はシミュレーション以前の初期測定でわずかながら認められていました。ただ、私は実際の変形シミュレーションでどの程度の影響が出るかを見極めるつもりでいました。しかし、今回実戦で支障を来す重大な影響が出得るということが図らずも明らかになりました」  「行動中に気絶しちまっちゃあな……」  あの野郎……追い詰めてやろうという機会をつかんだ矢先に、こんな傷なんかを残しておくとは……  木津は歯を噛みしめた。  久我は黙ってその様子を見ている。ともすればまた神経質そうに動き出そうとする指を抑えながら。  木津が立ち上がる。  思わず見上げる久我の目に、その肩は不思議に高く見えた。  「……で、俺をどうする? 改修か、それとも廃棄か?」  「どうしたね真寿美ちゃん、しょぼくれた顔して」  そう声を掛けられて、  「しょぼくれてなんかいませんよ」と答える峰岡の顔は、その言葉とは裏腹にしょぼくれていた。  阿久津は、峰岡の持ってきた封筒を開けながら  「でも、前回の出動も首尾は上々だったんだろう?」  峰岡は答える代わりに、阿久津の取り出した資料をのぞくまねをした。  「何ですか?」  阿久津はざっと目を通す。  「……改修の指示だ。朱雀の変形プロセスを一部いじれと来た」  朱雀と聞いて、峰岡は少し体を固くした。  それには気付かず、阿久津は指示書にずっと目を通しながら話し始めた。  「あれかい、この改修は例の木津っちゅう人の関係か?」  「そうだと思います。まだお会いになってないんですか?」  「会ってないがね……何かやらかしてくれたんかね?」  「前回の出動の時、Rフォームから一気にMフォームに変形して、えっと……」  阿久津は資料から目を上げ、眼鏡の上から峰岡の顔に視線を投げた。  「気絶でもしたかね?」  答えない峰岡の表情を見て、阿久津は慰めるように微笑みながら言う。  「まあ、慣れない者がそれをやったら、普通は気絶ぐらいするさ。ごくわずかな時間とは言え、五Gから七Gはかかるんだから」  「……そう、そうですよね」と、峰岡に例のはじけた声が戻る。  「それに、阿久津主管が改修してくだされば大丈夫ですよね。初心者だって使いこなせますよね」  阿久津は声をあげて笑う。  「そうそう、それでなきゃ困るからね」  「よかった」  峰岡は満面の笑みをたたえて一礼する。  「それじゃ戻ります!」  「ご苦労さん」  ドアが閉まると、阿久津は再び指示書に目を戻した。  改修の納期は一週間後とされていた。  ライトボックスの蛍光管の青白い光が、暗い室内に医師と久我の相貌を浮き上がらせている。  四つの目は、ライトボックスのクリップに留められた数枚のモノクロフィルムに向けられている。  「……ご覧になれますか?」と医師。  「はい」  「ここが」医師はフィルムの上をペンの先で示し、「前回の手術痕です。周辺の組織の状況から、肩から首、後頭部にかけて、背後から多数の小片を浴び、その摘出術を実施したものと判断できます」  久我が無言でうなずく。  「摘出術は的確に行われたと言ってよいでしょう。ただ一つの小片を除いて、全てが除去されています」  「ただ一つ、ですか?」久我が問う。  「そうです」と、医師は別のフィルムの上にペンの先を移す。「これがその残りの一つですが、極めて微妙な部位に入っています。前回はそれ故に敢えて除去を見合わせたのでしょう」  「除去が困難ということですか?」  「そうです。ただ、摘出そのものが困難だというわけではなく、むしろ除去術の際の悪影響に配慮したのだと思われます。実はこの小片の周囲にはわずかに隙間があるのです。木津氏はVCDVの変形のショックを受けて失神されたとのことですが、受けたショックでこの小片が動いて周辺組織を刺激したためでしょう」  「では、完治は?」  医師はこの問いに初めて言葉を切った。  「……切開は行ってみます。ただし、もし摘出が可能だった場合、ご希望の一週間という期間での復帰は、必ずしも保証は致しかねます」  ライトボックスに向かって少し屈みこむようにしていた久我が姿勢を戻した。  「分かりました。それで、手術にはすぐかかれますか?」  「木津氏の状況によっては、明日の朝からでも可能です」  久我はうなずいて立ち上がった。  だがその表情は、常に比してやや険しかった。  医師は手を伸ばしてライトボックスのスイッチを切った。  明かりの消えた真っ暗な病室で、木津はベッドに横たわっていた。その目を開いたままで。  「……再手術か」  「峰さん峰さん」  通りかかった峰岡を安芸が呼び止めた。  「何? どうしたの?」  「木津さん情報」  峰岡の顔はぱっとほころんだが、しかし安芸の表情はさほどさえなかった。  「木津さん、元気になったの?」  「手術を受けるらしい」  「えっ?!」  蒼ざめる峰岡に、安芸は黙ってうなずいて見せる。  「……どうして? だって、だって怪我とか全然なかったのに」  「僕もしっかり聞いたわけじゃないんだけど、何でも昔の怪我の後遺症があるらしいんだ。で、このままじゃ朱雀には乗れないとかいう話らしい」  「そんな……そんな! だって!」  「落ち着けって。その手術がうまく行けば、何の問題もないんだから」  「……そう、そうよね」と、峰岡はうっすらと涙さえ浮かびかけた目をこすりながら言う。「あー、そうしてこんなに取り乱しちゃうんだろ」  その様子を見る安芸には、もう一つの自分の聞いた話を切り出すことはもう出来なかった。つまり、その手術が困難なものであるということを。  「阿久津主管いらっしゃいますか? 久我です」  インタホンに出た相手がしばらくお待ちくださいと応えると、続いて阿久津を呼ぶ声と足音とが伝わって来、そして阿久津の少ししわがれたような声が取って代わった。  久我はほとんど前置きもなしで切り出す。  「昨日の改修指示書の件ですが、いかがでしょう? 可能ですか?」  「大分お急ぎのようですな」と阿久津ははぐらかす。「乗員の準備の方が時間がかかるんではないですか?」  久我は言葉を詰まらせる。インタホンの向こうで阿久津の口が笑みにゆがむ音さえ久我には聞こえていそうだった。  だが次に聞こえた阿久津の声は、技術屋のそれになっていた。  「検討はさせてもらったです。大まかな線ではご期待に沿えそうですな。技術的な細かな話はしませんが。ただ、試算段階でRとWとの変形でコンマ二秒、さらにMとの変形でコンマ二五秒、Wを飛ばして一気に行くとコンマ五秒のロスが弾き出されてます。実機じゃも少し出るでしょうな」  「コンマ五秒強……」  「もう少し削ることは出来るでしょうが、しかしGの軽減とは裏腹ですぞ」  あとは木津の回復を待つか、さもなければ木津の腕でカバーするかしかない、というわけだった。  「どうしますかね? 進めてもよろしいのか?」  「計算上は、それ以上の結果は出そうにありませんか?」  今度は阿久津の方が少し考えていた。  「そうですなぁ……もう検討の余地はない、とも断言できませんな」  「であるなら、その計算をお願いします」  「分かりました。で、いつまでに?」  「今日の夕刻、再度連絡します」  そしてこの時刻、木津の体は手術台の上にあった。  久我はデスクの明かりを点けた。  窓の外はもう宵闇であった。  だが手術室からの報せはまだない。  今日何杯目かのコーヒーを開けた時、インタホンから別段待ってはいなかった声が聞こえた。  「峰岡です。あとはよろしいですか?」  「ああ、明日は休暇だったわね。あとはいいです。ご苦労様」  「はい、それじゃ失……」  インタホンの奥から聞こえた電話の呼出音に、廊下で峰岡は思わず言葉を切った。  部屋の中では久我が電話に応対している。  「久我です……はい……分かりました、すぐに行きます」  そして本当にすぐにドアが開き、久我が飛び出してきた。  もしかして……「木津さんですか?」  久我が振り向いた。だが答えはない。そのまま歩き出す久我の後を峰岡も追った。  「失敗?」  まだ額の汗も乾ききっていない医師は、無言でうなずいた。  顔色を変えてほとんど涙ぐまんばかりの峰岡を横に、久我はさらなる説明を待った。  「摘出は不可能でした。逆に摘出してしまえば、一部の伝達系に支障を来す、という状況だったのです。つまり、あれがあるからこそ日常生活レベルでは問題がないとも言えるのです」  「日常生活、ですか」と久我。  「もちろん今回望まれているのはそれに留まらないと存じています。今回極めて微量ですが、小片周囲の隙間に充填剤を入れました。とりあえずこれでショックを受けた際に小片が動くケースは減るはずです」  「皆無にはならないのですか?」  医師は首を横に振った。  「充填剤が逆に組織を圧迫するようなことになっては問題ですから、ぎりぎりの少量しか使用できません。ただ今までと比べれば、相当良い方へ変化が出るはずです」  「分かりました。再度シミュレートを実施する必要がありますね」  そう言う久我の表情が、峰岡の目にはほとんど安堵の色を浮かべているようにさえ映っていた。  ああそうだ、これは木津さんにとってはきっとプラスになることなんだ。S−ZCだって改修されているんだし。これでこれから一緒に行動できるんだ。  そして峰岡自身もまた安堵のため息を漏らした。  「で」と久我が言葉を継ぐ。「このことは、木津さん自身には?」  「まだです。意識は戻っていますけれど。お話になられますか?」  「はい、早速」  ドアを開くと、ベッドの上に上体を起こして雑誌を読んでいた木津は、すぐに振り向いた。  「ずいぶんとお早いお越しだな。悪い報せか?」と言う木津は、しかし悪い報せを待っていたにしては平然としている。  返す久我もまた平然と口を切る。  「良いと取るか悪いと取るかはあなた次第かも知れません。少なくとも私にとって悪いとは言いきれませんでした」  「てぇと?」  「残念ながら後遺症の完治は望めません。その原因が除去不可能なためです」  木津は表情を変えないで聞いている。  「ただし、症状の軽減処置は行いました。発生の頻度は抑えられたはずです」  「でもいつ出るかは分からない、というわけか。まるで爆弾抱えてるようなもんだな」  手元の雑誌を閉じ、横のテーブルに放り出すと、木津は尋ねる。口元は穏やかに、だが眼は険しく。  「で、俺はこれからも『ホット』を追えるのか?」  久我は、まるで用意していたかのようにうなずき、そして「はい」と答えた。  「それで十分だ」と言うと、木津は向き直り、さらに独り言のように言った。  「あいつをこの手で仕留められりゃあな」  「木津さん!」  それまで久我の陰になっていた峰岡の小さな体が飛び出し、木津の横につんのめりそうになりながら駆け寄った。  「木津さん! よかったですね……本当によかったですね」  「……おいおい、何泣いてんだよ」  しゃくりあげる峰岡の小さな頭に、木津の大きな手が載り、その短い髪の毛を柔らかくくしゃっとかきあげた。 Chase 05 − 再開された追跡  特殊車両研究所、LOVE。  テストコースのセンターフィールドに、曇天の朝の空から差す弱い光を真紅の車体の上にぼかして、改修作業の施されて間もないS−ZCが静かに停まっている。  コクピットには、再手術の傷が癒えて間もない木津仁が、通常の出動時のスーツの代わりに、全身にセンサーの付いたスーツを着て座っている。  計器盤を見つめながら木津が思い出しているのは、開発主管だとかいういけ好かないおやじの面だった。  今朝、ここに出てくる前に久我ディレクターが現れた、それに着いて来たのがそいつだった。  「おはようございます。いよいよ実車でのシミュレートですね」  「ああ、やっとな」  「今日はお引き合わせしておくべき人間を連れて参りました。私たちのM開発部でVCDV開発主管を任せている、阿久津嶺一です」  紹介されて一歩前へ出てきた阿久津は、木津に右手を差し出したが、目付きは疑惑の色を帯びていた。  握手を解くと、阿久津はその目付きの意図を早速自ら解説してみせた。  「お主が変形の時にGで気絶したと言うんで、ディレクター殿が自ら朱雀……っと、S−ZCの改修を指示なされてな。ぎりぎりまで切り詰めてはみたんだが、それでもコンマ三五秒のロスは避けられんかった」  「戦闘中では致命的な遅れか?」  「戦闘という表現は厳密に言うと少し違いますけれど」と口を挟む久我。「決して見過ごすことの出来る時間ではありません」  「ぎりぎりまで縮めた変形プロセスを今度はわざわざ引き伸ばしたんだ。木津さんとやら、あとはお主の腕でカバーしてもらう他はない。ましてや今度気絶でもしようもんなら……」  再び久我が口を挟んだ。  「いいえ、手術後の再検査では問題の出るような値は示されていませんでした」  「それならいいですがな。ディレクター殿のご推薦だ、腕の方は問題ないとは思ってますがな」  「スタンバイよろしいか?」  トレーナーの声に現実に引き戻された木津は、計器盤に眼を走らせる。全ての計器は次の木津の操作を静かに待っている。  「ようそろ」  「はい、それでは計測開始します。ゼロ速度で一ステップずつ変形してください」  つまらん、と思いながらも木津はレバーをすばやく動かす。  体には軽く引っ張られるような力を、耳にモーターやアクチュエータの動くかすれたような高音を感じる間もなく、木津は計器盤の表示に、車体がWフォームの状態にあることを認めた。  ややあって、トレーナーの声。  「……はい、計測OKです。次どうぞ」  木津の手が再び動く。  同じような音と、さっきよりは強い力が木津を襲い、そして立ち上がった朱雀は乗員の無事を示すように右手を振ってみせていた。  「ふむ……まあこの程度ではなあ」と阿久津。「何とも言えん」  トレーナーは全く調子を変えずに。  「……はいOKです。それでは逆をお願いします」  木津はコクピットでシートベルトに固定された肩をすくめた。  再びWフォームへ、そしてRフォームへ。 何の問題も起きなかった。  「……OKです」とトレーナー。「数値的には、平均して当初予測値の七〇パーセントのショックに留まっています」  それを聞いた久我が阿久津に頭を下げた。  「お骨折りに感謝します」  「いや、これからです」  木津の声がモニターから聞こえてくる。  「続行には問題ない値か?」  「数値的には問題ありませんが、体は大丈夫ですか?」  「こっちも全く問題なし」と言う声は少し浮かれ気味でさえある。「気分が悪いとすれば、こんな停まったままでちんたらやってるせいだろうぜ」  「了解しました」淡々とトレーナーは応じる。「それではこのまま続行します。次はコースで、定速走行からの変形です。五〇、一〇〇、二〇〇、三〇〇の四段階、三周走行毎に一段の変形で願います……」  木津はゆっくりとS−ZCをコースへと移動させる。そして全ての車輪がコースに乗ったと同時に、ペダルをくっと踏み込む。  指示された最初の速度に至るまで、ものの二秒とかからない。しかしこの速度だと、コースが何と長く思えることか。  退屈を催すほどの時間をかけて、木津は三周目の最後のコーナーを回る。そしてレバーに左手が。  まるで停止中と変わらない様子で変形がこなされていく。  変形し、コースを回り、また変形を戻す。  最初の設定速度での計測が終了すると、スタート位置に戻った木津がいち早くトレーナーに結果を尋ねてくる。  「ショックは予測値の六八・二パーセント。ドライバーの身体への影響は何ら見られません」  それを聞いた木津はつぶやく。  「まだまだ」  が、それと同時に、全く同じ言葉が阿久津の声で聞こえてきた。  木津は舌打ちすると、  「次行くか?」  同じプロセス。ただし速度は倍。  テストを見つめる阿久津の目が、さっきまでより少し鋭くなった。  見つめる久我と阿久津の前で、淡々と進行を促すトレーナーの声をバックに、平然とS−ZCは朱雀に、朱雀はS−ZCに姿を変えていく。  「……はい、OKです。ショックは前回比マイナス二・五ポイント、身体への影響も皆無。次行けますか?」  「行くさ」  さらに速度は倍。  久我の眉根がわずかに寄る。  阿久津はその視線の鋭さをさらに増している。  二組の視線の前で繰り返される変形のプロセス。それは速度の倍増を何ら感じさせるものではなかった。それどころか、変形の動作が徐々に滑らかさを増してくるようにさえ見える。  視線はそのままに、阿久津が口を切る。  「彼が変形をこなすのは、今回が実質初めてでしたな?」  「そうです」と同じく眼は動かさず久我。  「……使えますな」  阿久津の言葉と当時に、その目の前でWフォームからRフォームへ戻って、S−ZCが停まった。  「どうだ?」  「少々お待ちください……はい出ました。安定してますね。前回とショックについては同じ値です」  「変形の時間は?」  「……はい、順に……」  「数字を聞いても分からないぜ。青龍と比べてどうだ?」  「ほぼ一割増しだ」と言う阿久津の声が、木津のヘルメットの中に入り込んだ。「朱雀は図体が一回り大きい分、わずかな操作の遅れやずれが響くようになってしまっとる。その上に、今は変形速度を抑えてもある」  「一呼吸は遅れるのか……」  「だがな」と阿久津。「一割増しというのは、今落としてある速度の、計算上の数字とどんぴしゃりだ。実機でやれば、さっきの話も含めて普通はさらに遅れるはずだ。そこをお主はまるまるカバーしてしもうた。見直したぞ。さっきは失礼したな」  久我が阿久津の口元を見つめている。冷静な、それでいて自信に満ちた目で。  「そりゃどうも」木津が応える。「だが、まだ最後の一セットが残ってるし、それに中間抜きもやってないぜ」  「ふむ」  「次が本ちゃんだ。スタンバイいいか?」と、今度は木津からトレーナーに。  「いつでもどうぞ」  「おっしゃあ!」  木津のつま先が、S−ZCを指示速度まで一気に加速させる。  かかるGに、コクピットの木津の口元は思わず緩む。こうでなけりゃ。  一周、二周と、猛烈な速度で周回するS−ZCが、三周目の最終コーナーを立ちあがって来る。  計測機器を見つめるトレーナーを別にして、久我も、阿久津も、高速で接近する赤い車体を注視している。  コクピットでは、木津の左手が変形レバーへと移される。  「……やる気ですかな」と阿久津。  「え?」  久我が振り向きかけたその時、赤い影がコースの上に躍り上がった。  「Mフォームに?」  「やっぱりやりおった」  だが阿久津の予想はその先にまでは至っていなかった。  コースを囲む右手のフェンスを越える高さまでジャンプした朱雀は、上体をねじって左腕の衝撃波銃をフェンスの外へ二発放ち、膝を軽く折って着地すると、一呼吸おいて再びジャンプ、今度はフェンスを跳び越えて外へ出て行った。  「使いこなしてますな」  納得したような阿久津の言葉に耳も貸さず、久我は立ち上がってインタホンに手を伸ばした。  「M開発部の久我です。テストコースの外に異常が……」  「これだぜ、その異常ってのは」  またもフェンスを跳び越えてコースへ戻って来た朱雀の右手に、小さな円盤のようなものの残骸があった。  「どうやって飛んで来たんだかね」  「ホヴァ・クラフトか」一目見て阿久津は言い当てる。「底から空気を吐き出して動くんだ。だが、多少の高度でも安定性を保つのは難儀な代物だ。相当いい造りと見た」  「おまけに」朱雀が残骸をひねくり回す。「カメラまで仕込んであるぜ。こいつぁ覗き用だな」  残骸に向けられていた朱雀の顔が、試験管制室の窓ガラスの向こうにいる久我にくいっと向いた。  「こいつも、『ホット』の手か?」  会議室、と言うよりはブリーフィング・ルームと呼んだ方が適当かも知れない部屋。  執務室に続くドアが開くと、長円形のテーブルを囲む六対の眼が一斉にそちらへ向けられる。  入って来た久我はその視線を一渡り眺め返すと、  「お揃いですね?」  と言いながら腰を下ろした。  「では始めます。最初にチーム編成の変更についてお話しておきます。本日付で、正式に木津仁さんがMISSESのメンバーとなりました」  「ミセス?」と木津は隣に座っている峰岡に尋ねる。  「M開発部で、実際にVCDVで出動するグループのことです」  「また何かの略?」  「確か、MISSION EXECUTION SECTION だったと思います」  「はぁ、なるほど……また妙な」  聞こえているのか聞こえていないのか、その小声でのやりとりに構わずに久我は先を続けた。  「ただし木津さんはLOVEの職員ではありませんので、客員テストドライバーという扱いになります」  そう言うと、久我は木津にちらりと視線を投げた。  「結構だ」と木津。  久我は軽くうなずく。  「木津さんの使用車種はS−ZCです。運用時呼称は『キッズ1』」  木津は肩をすくめる。結局そうなったか。  「1ということは」峰岡の向こうに座った安芸が口を切る。「今後近いうちに増補の計画はあるんですね?」  木津の向かいにいる阿久津が、おどけた口調で答える。  「今二号機の製作中なんだがね、何分にも家内制手工業の世界なもんでな」  例によって峰岡が吹き出す。  その正面で、全身包帯とギプスだらけのまま車椅子に座っている男もつい笑ってしまい、それが骨折にでも響いたかすぐに顔をしかめる。以前の出動でS−RYごと武装暴走車に吹き飛ばされた小松という男だろう。  これはにこりともせず久我が引き取って、  「ロールアウトが正式に決まり次第、再度編成を行います。それまではキッズ1は単機での出動もしくはマース・チームのサポートの任に就いていただきます」  「完全に統一行動としない理由は?」と再び安芸。なかなか細かい男だ。  答えたのも再び阿久津。  「S−ZCの性格だよ。実際の運用を念頭に置いたS−RYに比べて、あいつは実験的な色が強い。性能が、いわばところどころ突き出してて丸く収まっとらん。そういうじゃじゃ馬は、とんがったところを要所要所で使ってやるのがいいんだよ」  「それじゃ木津さんはじゃじゃ馬ならしですね」  くすくす笑いながら峰岡が口を挟む。  「マース・チームですが」  相も変わらずお構いなしに久我は本題を進めていく。  「小松さんの負傷でマース2が現在欠員になっています。車両は改修が完了していますので、当局への導入の第一歩も兼ねて、当局から一名出向していただきました。結城鋭祐さんです」  木津の対角線上にいた、見たことのない若い男が立ち上がって頭を下げた。  「結城です。あちらでは高速機動隊に所属していました。よろしくお願いします」  「結城さんにはトレーニングが完了し次第任務に加わっていただきます。あと一週間程度で完了と聞いていますが」  結城は無言でうなずく。  「それにしちゃ」木津が口を開く。「俺とはシミュレートでかち合わなかったな」  「スケジュールがずらしてありましたから」と簡単に久我は答え、「以上でチーム編成の件は終わります。何か質問はありますか?」  「一つよろしいですか?」と末席から声があがる。結城だった。  「S−RYの運用可能なものは四機あると聞いていますが、なぜ全員がS−RYを使用しないのですか?」  こいつ、俺一人が朱雀に乗ってるのが気に食わないらしいな。木津は結城の表情を見てそう思った。  「先程木津さんは客員テストドライバーとお話ししました。実際に出動任務にも従事していただきますが、それを介してS−ZCの各種性能面のデータを取得するつもりです。その意味でS−ZCを運用します」  「分かりました」  「あとはよろしいですか? では次に移ります。先日テストコース付近に盗撮目的と見られる機体が飛来しました。その折にコースにいたS−ZCの変形プロセスを撮影、送信したものと思われます」  「俺の墜としたやつか?」と木津。  「はい。木津さんがこれを破壊、残骸を回収して調査したところ、今回も『ホット』の痕跡が残されていました」  「やっぱりか!」木津が声を張り上げる。  「『ホット』とは?」結城が問う。  「当局の手配ファイル上では、甲種八八〇八番一〇九三一号と記されています」何を見るでもないままにすらすらと久我。  「甲種手配対象者ですか……どういう人物なんですか?」  「それは俺も知りたかった」木津の声が高くなった。「知ってるのは『ホット』ってぇ通り名と、その由来程度だからな。奴が他にどんなことをしてるかぐらいは知っておきたいもんだ」  峰岡が木津に向いて  「他に?」  「では先に申し上げておきましょう」久我が話し始める。「昨日当局から私たちに宛てて正式に指示がありました。私たちの主任務は武装暴走車群の鎮圧と、その指揮をとる甲種八八〇八番一〇九三一号の捕縛です」  「捕縛ね」木津がつぶやく。  「すると」と、これは安芸。「当局は武装暴走車の全てが『ホット』の配下にあると判断したんですか?」  「そのようです。特に実体弾を使用する重砲の供給など、通常のルートでは考えられませんから」  「銃火器の取り扱い違反があるのですね。その他にはどのような触法行為を?」  結城が当局出身らしく尋ねる。  「『ホット』本人が直接関与していると思われるものは、騒擾及び企業団体を目標とした破壊活動が中心です。ただし脅迫等を行ってきたことはなく、何の目的でそうしたことを行っているのかは不明です」  木津は腕を組み、  「奴個人のプロフィールは分かってないのか? それから、ホット・ユニットを積んでるってのが分かってるのに車種が全然話に出てこないってのも腑に落ちないな」  ここで初めて久我の答えがすぐに返らなかった。  「残念ながら、そのような情報はほとんど得られていないというのが事実です。ただ私たちがこれまで『ホット』の関与を判断してきた要素はいくつか集まっています。まずホット・ユニット搭載車両の使用。これは音や排気、排熱の残存から判断します。それから関連する車両機器類には必ず独特のマーキングが入っています」  久我が手元のスイッチを入れると、テーブルの中央に立体映像でそのマーキングが映し出された。  緋色と黄と黒で塗り分けた菱形。  「いつ見ても趣味悪いですよね」峰岡が言う。「センスないなぁ」  「俺が墜として見たときには、こんなの無かったと思うんだが」  「車両の場合、大概はエンジン部にこれが付いています。大きさは三センチ×二センチ前後」  「外からは見えないわけだ」  「パワーユニットに記してあるのは、ユニットを自製しているからなのでしょうか?」奥から結城の声。  「ユニットだけじゃなく、車体や火器も自前のようです」安芸が口を切る。  「ずいぶんと豪勢なことだな。それでいてアジトの類も見付かんないのか?」  木津のこの言葉の最後に、ポーンというインタホンからの呼び出し音が三回続けて重なった。  聞き付けると同時に、マース・チームの座った椅子ががたがたと音をたてる。  立ち上がった二人に目をやると、久我はインタホンのディスプレイを見る。  「何だ?」  木津の問いに答えるかのように、久我がディスプレイに表示された文言を冷静に読み上げる。  「武装暴走車八、輸送車二、ルートE181を北上中。武装暴走車中一に熱源を認む」  次に音を上げて倒れたのは木津の椅子だった。  「おいでなすったか」  「またダミーかも知れませんよ」安芸が制するが、木津は  「自分の目で確めるさ」  と言うと、久我へと振り向いた。  「マース1、マース3、並びにキッズ1出動。目標はこのLOVEです」  「何で分かる?」  「E181は、ここへの最短コースです」と峰岡。  「なるほど」  「指揮はマース1に任せます。キッズ1は付随する輸送車に当たってください」  久我の指示が飛ぶ。  「了解だよ」と木津。「行くベぇ、お二人さん!」  会議室から出た久我は、例の通りデスクのディスプレイ・スクリーンを開くと、黒いタイト・スカートの裾を捌いて、その前に腰を下ろした。  後ろからは結城と、そして阿久津の視線。  「開発主管としては、やはりS−ZCの本当の初陣は見せていただきませんとな」と言いながら阿久津はそこに立った。  うなずいた久我は結城へと振り返ると、静かに、だが聞く者には重く感じられる口調で言った。  「これからお目にかけるのが私たちの任務です。そしてあなたにも求められているものです。よくご覧になっておいてください」  メイン・キー・カードをスロットへ挿し込み、スタータ・ボタンを押す。  ヘルメットのバイザに、計器盤からの光が映り込む。  スピーカからは峰岡のはじけた声。  「マース1、スタンバイOK!」  応じて安芸のよく通る声が、そして木津のややかすれた声が、同じく準備の完了を告げる。  「目標の現在位置をお願いします」  「コース保持、速度二〇〇で接近中です。同速でコンタクトまで四分」  「了解、行きます!」  次の瞬間、青、青、赤の三つの車体が加速度の中に溶け込む。  「いきなりこの速度なんですか」と、画面に見入りながら、結城がうなるようにつぶやく。「加速の性能は、当局で使っている車両とは比較になりませんね」  その横で阿久津がにやりとする。  「しかし」続ける結城。「あれだけの訓練で使いきれるものなんですか? それに当局に本格的に導入するとなると、シミュレータの設置だけでも大変だと思うのですが」  「使いきれるかどうかはご覧になってください」振り向くこともなく久我が言う。「この三名はいずれもあなたと同程度の訓練しか受けていません」  「それにしても、十台を相手にこちらは三台きりですか?」  「三対二十一の実績もあります」平然とした久我の口調に、結城は腕を組んだ。  「インサイト!」  峰岡の声がヘルメットの中で跳ね回る。  「良く見えるな」つぶやく木津の目にも、間もなく相手の群が入って来た。  群れ、いや、今はっきり見て取れるのは、暴走車とは釣り合わないニ両の大柄な輸送車だけだった。しかし峰岡はさらに言う。  「体制は……先頭三のトライアングル、次に輸送車二、脇と間に残りです」  その言葉が終わらないうちに、向こうから白やオレンジ色の閃光が。  左、右、左に散開するマース1、マース3、キッズ1の間に弾痕が散る。  「ご挨拶終了……か?」と木津。  「長いエモノを持って来てますね」と、これは安芸。「この距離まで届くとは」  さらに峰岡の声が飛ぶ。  「マース3、遊撃で援護射撃。頭はあたしがおさえます。キッズ1は輸送車を鹵獲」  「ほいよ」  木津の答えに誘われたかのように、再び砲撃が始まる。  「散開!」  号令一下、安芸のマース3はWフォームに変形し、速度をそのままに衝撃波銃の照準を輸送車の脇を走る暴走車の一台に付ける。  すれ違いざま後ろから狙い撃たれたその暴走車は、大きくはじけて前に飛び出す。  青龍に変形したマース1がジャンプしてそれを跳び越え、先頭の三台に向けて、いつものように上から衝撃波銃を乱射する。  三台は散開して回避。その後に列を乱すことなく並行して走る、コンテナを積んだ輸送車と、その間にもう一台。  木津は安芸と逆のサイドへ回り込む。  正面に飛び出したキッズ1に、暴走車は一連射を浴びせる。が、一瞬早く変形した朱雀はその頭上を跳び越え、青龍同様に左腕に仕込んだ、だが青龍のそれよりも威力を増した銃をニ連射。ひとたまりもなく擱坐する二台を背に、朱雀はキッズ1に戻って着地、スピン・ターンで、なおも走り続ける輸送車の後ろに付ける。  「確かにすごい……」  結城は思わずつぶやいた。  だがそれを聞いたのか聞いていないのか、久我は「K−1」即ちキッズ1のカメラの画面を見つめながら、独り言のように言った。  「あのコンテナが気になりますね」  「奴はどこだ?!」  コクピットで木津が叫ぶ。  武装暴走車一に熱源を認む、そう久我は言ったはずだ。だが自分の潰した二台、安芸が狙撃した三台、そして峰岡の擱坐させた二台、そのいずれもがコールド・モーターを積んだ車だった。  残る一台は相変わらず輸送車の谷間で走っているが、そこからはホットの熱も、音も伝わっては来ない。  「畜生……またダミーかよ」  舌打ちしながら、木津は脇のレバーへと手を伸ばす。  追尾していたキッズ1は朱雀へと変形し、速度に乗って右側を走るコンテナの上に飛び乗ると、腹這いになって残りの一台に一発撃ち込む。が、その一撃は路面に小径のしかし深い穴を開けただけだった。残党は木津の攻撃を察していたかのように急に後進を、次いでスピン・ターンをかけ、全速と思しき速度で一目散に逃げて行く。  「何だありゃ?」  と後ろを振り向く朱雀の機体が、いきなりコンテナの上で跳ね上がる。  「誰だ! いきなりこいつの足を止めたのは? お茶くみかぁ?」  「峰岡ですぅ!」  それをよそに、安芸はそうでないことを見て取った。  二台の輸送車が同時に急停車したのだ。  だが、それきり動きはない。  峰岡も乗機を青龍に変形させ、警戒の態勢を採る。  安芸の青龍が、拳銃でも構えるかのように左腕を上げながら、もう一台の輸送車の運転台に近付き、中を覗く。  「ドライバーがいない?」  その声と同時に、木津は自分が乗っているコンテナの中に、かすかに、重い金属音を聞いた。それが摺動音へと変わった時、本能的に木津はコンテナから飛び降りた。  その直後、コンテナの天井をぶち抜いて、火柱が上がった。      炎の色は、画面を見つめる久我の頬を染め、阿久津と結城を瞬かせた。  「何だ……?」  「爆発じゃない、これは砲撃だ」と、跳び退りながら安芸。  峰岡が火柱の上がったコンテナめがけて連射する。鈍い音をたててわずかに亀裂の入った外壁から、何かが動く気配が感じられる。  天井の破孔から漏れ出す摺動音とモーター音は、音量を徐々に高めてくる。  だしぬけに、両方のコンテナが、ゲートを全開した。  「こいつは!」 Chase 06 − 握られた手  まるで破裂でもしたかのような音響と勢いとを伴って、コンテナのゲートが上下に、裂けるが如くに開いた。  「こいつは!」  重い擦動音がコンテナの中で反響する。それと共に飛び出してきたカーキ・グリーンの無骨な機体。それはWフォームのVCDVに似て見えたが、しかし装甲車然とした台車の上に起き上がった上体の分厚さは、憎々しげにさえ見える。その上、生えるように突き出している、両肩の長大な砲身。さらに両腕の先にも、手の代わりに砲口。両肩の間にのめり込んだ頭のようなてっぺんの盛り上がりを取り巻いて、鈍く光る電光。  その一つがかっと輝くと、そいつは走りながら手近な峰岡の青龍に最初の一撃を浴びせる。  横様に跳ね飛んで避ける青龍。  「ワーカー?」  左腕を上げた警戒の姿勢を崩さずに安芸。  「何だそれ?」  「重作業車両です。重工場のラインや輸送現場なんかで使ってる」  説明も言い終えないうちに、今度はもう一両が安芸の足元に一連射。  青龍は後ろに跳び退りながら、応じて衝撃波銃を放つ。  「ああ、この前どこだかを襲いに行ったって奴か」  「それを改造したんでしょう……でもワーカーより速い!」  その言葉通り、そいつは安芸の銃撃を体をかわして避けた。  「それに、前回はあんなに重武装じゃなかったです」  そう言いながら、安芸はさらにコンテナの上に跳び上がり、銃の収束率を上げて、近い方の一両を撃つ。  太い金属の振動音が響く。だがそれだけだった。ワーカーもどきの走る砲台は、何のダメージを受けた様子もない。それどころか、逆に両腕の砲を安芸に向けぶっ放す。  横っ飛びに隣のコンテナの上に飛び移った青龍を、砲弾の炸裂する爆風が襲う。  そこを狙おうとしたもう一両に、今度は木津の一発が命中する。  「やったか?」  いや、その一発は狙いを朱雀に変えさせただけだった。両腕と両肩の四門が朱雀に向かって火を吹いた。  後ろに飛び退いた朱雀は、だが爆風をまともに喰らって吹き飛ばされる。  「木津さん!」  「こっ……の野郎!」  うつぶせに倒れた朱雀を起こすより先に、木津は衝撃波銃の収束率と出力とを最大に上げた。  トリガーを引く。  連射。  鈍い金属の振動音が続けて響く。  「これでどうだ!」  その言葉に続いたのは、木津の舌打ちと峰岡の嘆声だった。  二人の目に映る敵は、何事もなかったかのように、再び両肩の砲の照準を朱雀に向けようとしていた。  「……びくともしないとは」  結城が乾いた唇を舐めながら、誰に言うでもなくつぶやく。  「すごい装甲ですね。衝撃波銃なんかじゃまるで歯が立たない。衝撃を受け流すような構造なんでしょうか? それとも銃の威力の方が不足なんですか?」  しかしそれに耳を貸す様子もなく、そして何の表情も表わさないままに、久我はスクリーンを凝視する。  久我の背中に落とした視線を再び映像へ向け直すと、結城はさらに続ける。  「銃と言えば、火力も普通じゃない。これはなかなか厳しいですね」  久我の椅子が少し軋った。  阿久津が腕を組む。  スクリーンの中に、また火柱が上がる。  立ち上がった火柱の間を縫って、キッズ1が高速で走り抜ける。  その跡を追って縫うように銃弾が撥ね、路面に転がる。  「木津さん!」  木津を援護する峰岡の青龍の銃撃。  「本体を狙うな! 足元だ!」  声を飛ばしながら、安芸も自ら撃ち続ける。  「分かってるけど!」  コクピットの中でほとんど暴れまわらんばかりの峰岡。  青龍が激しく動き、敵の照準を撹乱する。  「埒があかねぇぞ、これじゃ」と木津。  と、その前方には空のコンテナが。  後方モニターに視線を走らせる。敵の片方が峰岡の牽制をかわしながら追って来る。  いけるか?  「コンテナの間に追い込め!」  木津の指示が飛ぶ。  「挟み撃ちだ!」  そう言うと、木津自らが二つのコンテナの狭い谷間にキッズ1を躍らせる。  再びモニター。敵は照準を合わせようとしてか、砲撃を止めたまま、誘い通り真っ直ぐにキッズ1を追って来る。  その後ろに、青龍から戻した峰岡のWフォームが食いつく。  その峰岡を追おうとするもう一両の武装ワーカーの足元に、安芸の青龍が一発二発と衝撃波を叩き込む。  「進ちゃん、そこでしっかり足留めしといてくれよ!」  そう言いながら、木津はハンドルとペダルを、そして変形レバーを一気に動かす。  スピン・ターンの回転の中から、竜巻が上がるように朱雀が立ち上がり、間髪を入れずにその真紅のボディが鉛色の空に跳ぶ。  「足だお茶くみ! 撃て!」  「はいっ!」  朱雀と青龍から同時に放たれた衝撃波は、敵の頭と台車を前後から捉えた。  強靭な装甲はそれをまともに受けた。表面を鈍い共鳴が伝う。その響きは木津の、峰岡の耳にも届いた。そして敵が地面に仰向けに倒れる重い音も。  前後から叩き込んだぶっ違いの衝撃波は、重たげな敵のバランスをそれでも崩すことに成功したのだった。  「やったぁ!」思わず叫ぶ峰岡。  着地した朱雀が左腕を射撃体制に構えながら屈み込む。  「まだはしゃぐなよ」と木津。「コケただけだぜ」  だが敵は動かない。肩の砲身もほとんど垂直に天を向いたままだ。  両腕も、倒れた時の反動でか、わずかに上を向いたまま横に伸びている。  確かに足は留めている。  が、それが精一杯だ。  安芸の青龍は、既に外装にいくつかの弾痕を留めている。  一方相手は、少なくとも装甲には何の損傷も負ってはいないようだ。  向こうのドライバーも、乗機同様平然と亘り合っているのだろうか。鼻の下にたまる汗を無意識に舐めながら安芸は思う。  青龍が動く。  相手の眼、あの電光は遅れることなくそれを捉えて動く。だが撃ってはこない。  向こうは実体弾だ、搭載量に限りがある。それを気にしているのだろうか。これまでにどの程度ばらまいてくれたか。  そして、こちらのバッテリーと、どちらが先に底を尽くか……  「仁さん、まだですか……」  コクピットで安芸がそうつぶやいた時、背後で猛烈な爆発音が轟いた。  敵を前にしていることも忘れて、思わず安芸は振り返る。  すかさず敵から銃弾が放たれ、一発が青龍の右肩を貫く。  そのショックの中で、安芸は見た。二つのコンテナが爆炎を上げるのを。  K−1とM−1の画面が乱れ、映像が途絶えた。  結城と阿久津が思わず声をあげる。  久我は動かない。かすかに反応を示したその細い指先以外は。  「大丈夫なんですか?」  問いかける結城を阿久津が横目でにらむ。VCDVの装甲の性能を知り抜いている自分に聞くな、と言わんばかりに。  答えの代わりに久我がマイクに向かって、落ち着いた声で呼びかける。  「キッズ1、マース1、聞こえていたら応答しなさい」  答えはない。  久我はもう一度繰り返す。  やはり応答なし。  結城が口を開きかける。が、阿久津のきつい視線を感じて、何も言わずにそのまま口を閉じ、画面に目を戻した。  M−3からの映像はまだ生きている。それは炎上するコンテナを背にして立ちはだかる敵の姿を伝えてきている。  「マース3、安芸、聞こえますか?」  「はい」と、かすれ気味の声が返る。  「キッズ1およびマース1の状況を掌握しなさい、急いで」  「は、はい」  「しかし」と、結城の声が割り込む。「簡単には近付けてくれそうにありませんね、あいつは」  「あんたな……!」  声をあげる阿久津を、腰掛けたまま振り返った久我が制した。  「結城さん、出動したいお気持ちは分かります。しかし、シミュレートが終了していないうちは、命を下すことは出来ません」  阿久津がうなずいたのは、久我が何を念頭において言ったのかが分かったからだろう。  黙り込む結城に、久我は続けた。  「それに、まだ……」  「おっ」  という阿久津の声に、それは途切れた。  振り向き直した久我は、M−3のスクリーンを見た。そして、言った。  「安芸は活路を見出したようですね」  「……助かった、まだ変形機能まではやられていなかったか」  全速で後進するマース3のコクピットで、相手からは目を離さず安芸はつぶやく。  敵の砲身が徐ろにこちらに向けられるのが見える。  来るか?  ハンドルを切る安芸。  マース3が激しく蛇行する。  だが砲火は見えない。  と、武装ワーカーはくるりと踵を返すと、コンテナの方へ向かって速度を上げた。  「行くか!」  安芸は前進に切り替え、ペダルを床まで踏み込んだ。瞬く間に計器類が大きな反応を示す。グリーンの灯火がオレンジに。  全速だ。  武装ワーカーと逆の側からコンテナへ向かい、叫ぶ。  「仁さん! 峰さん!」  答えはない。  敵を牽制しながら、安芸はコンテナの状態を伺う。  立ち上がった火柱は今やコンテナ全体に回り、いや、それどころか二つのコンテナが大きな一つの火の玉となって轟々と燃え上がっている。  敵の姿はその炎の向こう側に入って、見えない。  そして朱雀と青龍の姿も。  コンテナの手前でマース3は急制動しつつ青龍へ変形する。その足先が路面との摩擦で火花を散らす。  と、炎の巻き上げる気流が青龍の機体をあおる。  「くっ……」  安芸は左腕を射撃態勢にしてジャンプ。しかしコンテナの谷間までは見渡せない。が、代わりに向こうからの砲撃もなかった。  次は狙ってくる。迂闊には跳べまい。  さあ、どうする……? 火の中に飛び込むか? だが機体は保つのか?  「Rフォームで、短時間ならいけるか」  つぶやいた安芸の手が変形レバーに掛けられた。耳の奥にかすかなノイズが入る。  えっ?  「仁さん? 峰さん?」  返事がない代わりに、そのノイズは次第に鮮明になり始めた。  安芸の手が動く。  走り出したマース3が輸送車の運転台に鼻先を向ける。  そしてペダルが踏まれた。  安芸がもう一両のワーカーをくい止めている間、コンテナの谷間で、転倒させた武装ワーカーを挟んで、朱雀と青龍はなお警戒姿勢をとっていた。  ワーカーは動かなかった。  「……のびたかな?」  屈んだまま、朱雀が少しずつワーカーとの距離を詰めた。  一方の青龍は左腕をワーカーに向けたままで、その横たわった頭部から少し遠ざかった位置にいた。  ワーカーの眼はもう光ってはいなかった。  それに気付いて、峰岡は木津に教えた。  「もう見えてないんでしょうか?」  「かも知れんがな。モーターも止まってるらしいし」と言う木津の朱雀は、ワーカーのすぐそばまで近付いていた。  「もしもーし、起きてますかー?」  聞いた峰岡が吹き出した。  「ちょっ……と、こんな時にやめてくださいよ木津さん」  調子に乗って、木津は相手の機体をノックしようと朱雀の右手を伸ばした。  その時、木津が舌打ちをすると叫んだ。  「生きてやがる!」  突然ワーカーの機体の中で、モーターの音が始まった。左端の眼が光った。  息を呑んだ峰岡。  「お茶くみ! 飛び退け!」  だが木津の声よりも、両方のコンテナに向いていたワーカーの両手の砲口が火を吹く方が早かった。  その直後だった、両脇のコンテナから轟音と爆炎が上がったのは。  コンテナの天井から火柱が上がった。だがそれだけではなかった。その両の側壁、ワーカーの砲弾が撃ち抜いた穴からも爆風が、次いで炎が吹き出した。  左右から強烈な風圧を喰らって、直立していた青龍がよろけた。  屈んでいた朱雀は爆風に耐えながら、なおも撃ち続ける武装ワーカーの片腕に衝撃波銃を向け、放った。  重たげな、そして砲撃のために半ば焼けたように変色したその腕は、砲弾を吐き続けながらコンテナの後方へと押しやられた。弾は次々とコンテナの壁面をぶち抜き、破孔からは次々と炎が現れた。  「こいつら、一緒に爆弾まで積んで来てやがったのか!」  その間に体勢を立て直した峰岡の青龍が、両脚を開き気味にして踏ん張ると、ワーカーのもう一方の腕を上から狙い撃った。  衝撃波を受けて砲口は下に向き、砲弾でしばらく地面を掘り返してから沈黙した。  「回避しましょう!」  と言う峰岡の声が、新たな爆発音でかき消された。青龍がいきなりバランスを崩し、横様に路面に倒れ込んだ。  「どうした?」  「脚が、急に曲がって」  「立てるか?」  と問いながら青龍に近付こうとする朱雀の足下で、武装ワーカーがなおも肩の砲身を動かそうと、モーターの回転を上げた。  「邪魔だこの野郎!」  横を回り込んで来た朱雀の足が、ワーカーの頭を踏み潰した。  散乱するワーカーの眼の破片を気にも留めず、木津は青龍の左脚を見た。  何かがぶつかったような跡を留めて、膝が横に折れ曲がっていた。  青龍は立ち上がろうとしたが、膝の自由が利かなかった。辛うじて仰向けになるのがやっとだった。  火がコンテナの両端へ回り、谷間の出口を塞ぎつつあった。それを見ながら木津。  「変形は出来るか?」  「やってみます……」  しかし青龍は動かなかった。  「駄目です、変わりません!」  そう言う峰岡の声は、半ば泣き声のようにさえ聞こえた。  「ジョイントが動かないんで、セフティ・ロックがかかったか」  つぶやくと木津はマイクに向かって声を張り上げた。  「阿久っつぁん! ロックの解除は出来ないのか?」  聞こえるのはノイズだけだった。今や上を覆うまでになった炎のために、通信障害が起きているのだった。  「くっそ……」  「どうしよう……」  蚊の泣くような峰岡の声を、木津は聞き逃さなかった。  「らしくねーぞ、お茶くみ。この手があるだろうが」  木津の手がレバーに伸び、朱雀がキッズ1に変形した。  「うつぶせに乗っかれ」  「はい!」  答える峰岡の見開かれた眼は、一転して輝きを帯びた。  「ぶっ倒れて潰してくれるなよ」  「はい」  青龍は機体に衝撃を与えないように緩やかに寝返りを打つと、両手と動く右脚とで、ゆっくりとキッズ1の上に覆い被さった。  「いいか? しっかりつかまってろよ」  その言葉と同時に、背後の炎の壁を貫いて砲弾が現れ、青龍の背中をかすめて行く。  「進ちゃん、突破されたか?」  「安芸君が?」  「お前は自分の心配してろ! 行くぞ!」  そしてペダルが踏まれた。  加速度の中で安芸は見た。炎を突き破って、青龍を載せたキッズ1が、自分の真っ正面に飛び出してくるのを。  後進全速、転舵、そしてブレーキ。そして呑んだ息と一緒に声をあげる。  「無事ですか?!」  同じく急転舵したキッズ1の上から、青龍の脚が振り落とされる。  「無事じゃな〜いっ!」  峰岡の声はまたいつもの弾けた調子を取り戻している。  「脚をやられてる。変形が利かないんだ」と木津。「敵は? 抜けられたか?」  「すみません」  「来ましたっ!」  峰岡の叫びに、木津が、安芸が振り向く。  なおも盛んに爆発と炎上を繰り返すコンテナを挟んで間合いを取り、カーキ・グリーンの醜い塊が姿を見せた。  「お茶くみは伏せてろ。進ちゃん、奴の後ろへ回り込め。俺は正面から行く。俺が跳んだら奴の頭にぶち込め。いいな?」  「了解」  そこへワーカーが肩の砲を撃ってきた。狙いは甘くはなかった。三人を挟んで前後に着弾。舗装をめくり上げ、横たわった青龍の背と二台の上とに破片を降らせる。  「いきなり夾叉か」  「急げ進ちゃん!」  マース3が急発進する。次いでキッズ1がワーカーの前に飛び出し、朱雀に変形。左腕の照準を真っ直ぐ敵へと定める。  敵は動かない。発砲もしない。ただ眼が前と後ろで交互に鈍く光る。  マース3が完全に敵の背後に回り込み、Wフォームで待機する。  「こいつ……」  木津の舌が唇を舐める。  「構わん! 突っ込め!」  朱雀が走る。Wフォームのマース3が走る。敵は動かない。距離が詰まる。  朱雀が跳んだ。木津の指がトリガーを引く。  その時だった、敵の四門の砲全てが、舞い上がった朱雀にではなく、その後方で横たわった青龍に向けて火を吹いたのは。  「しまった!」  「峰さん!」  砲弾は、だが青龍を捉える前に空中で一気に炸裂した。  爆煙を通して、左腕をこちらに向けた青龍の姿が見える。峰岡が咄嗟に衝撃波銃を放ったのだった。  ワーカーの頭上を飛び越して、朱雀は着地するや否や振り返る。  ワーカーは衝撃波を浴びたが、倒れない。自分の砲撃をかわされたのを見て取ってか、青龍へ向けて全速で突っ込む。  木津が、安芸が追う。  ワーカーの後ろの眼が光る。左腕が後方に振られ、火を吹く。  安芸は横に車体を振り、木津はRフォームに戻して回避。  向こうからは峰岡が衝撃波銃を撃ち続ける。受けるワーカーの装甲が立てる鈍い音。それがいきなり止む。  蒼ざめる峰岡。そのヘルメットのバイザーには、バッテリーの容量を警告する赤い明滅が映り込んでいた。  ワーカーが迫る。峰岡を踏み潰さんばかりに猛然と。そして、焼鉄色に縁取られた暗黒の四つの砲口全てが青龍に向けられた。  峰岡は思わず眼を閉じた。  次に峰岡の体を襲ったのは、砲弾の爆発とは違う、機体が横に振られる感覚だった。そして木津の声。  「……っの野郎おぉぉ!」  朱雀が伸ばされていた青龍の左手をつかみ、その機体を横に引きずってワーカーの進路から外した。そして代わりに自らワーカーに向き合った。  その赤い痩躯が舞い上がる。  ワーカーは狙いを変えた。  だが砲が火を吹く前に、朱雀の足がワーカーの頭にのめり込んだ。そのまま走り続けるワーカーを蹴って、再び朱雀は宙に舞う。  「進ちゃん撃て!」  言いながら木津自らもトリガーを引く。  前後からの衝撃波が、ワーカーを再び捉えた。自らの速度と相俟って、ワーカーは前のめりに倒れる。安芸の放った後ろからの衝撃波になぎ倒された肩の砲身が、倒れ込む機体の重さを受けて地面に突き刺さる。  ワーカーの動きは完全に止まった。  「やった!」  安芸の声も聞こえなかったか、朱雀は倒れたままの青龍に駆け寄る。  「お茶くみ! 大丈夫か?」  答えも待たず、キッズ1に戻すとヘルメットをかなぐり捨てて飛び降りた木津は、緊急用のハッチを開き、中のフックを力任せに引っ張る。  コクピットのハッチが開いた。  中で峰岡は計器板に突っ伏したまま、肩で大きく息をしていた。  「お茶くみ!」  木津の大声に、峰岡がはっとしたように頭を上げる。その眼が木津を見た。  「怪我はないか?」  無言でうなずく峰岡。乾いたその唇が、絞り出すようなかすれた声を漏らした。  「……怖かった……」  何かを探るように伸ばされた手を、木津は両手で握った。  「もう大丈夫だ。終わったよ」  そう言うと、峰岡のヘルメットのバイザーを上げてやる。  と、そこから安芸の問いが聞こえた。  「仁さん? 峰さんは?」  木津は峰岡のマイク越しに返事をした。  「安心しろ。無事だぜ」  「了解、報告します」  結城はスクリーンから目を離すと、天井を仰いで大きく息を吐いた。  「……すごい」  久我はその様子にわずかに目をやっただけで、すぐに状況の保持と撤収の指示を下した。  阿久津はそれを聞くと、そそくさと部屋を出ていった。きっとテストドライバー仁ちゃんから山ほども改修の要求が出て来るに違いない。しかし、全員が無事とは重畳だ。  翌朝、久我の執務室。  MISSESの出動後には必ずその結果の資料が提出されることにはなっているのだが、その資料が、今日はいつもの倍になんなんとする量もあった。  いつも通りの状況検証資料、VCDVの走行記録に加え、阿久津の予想通り、木津がVCDVの改修要求を突き付けてきたのだった。  そのページを繰りながら、久我は昨日の木津の言葉を思い出していた。  開口一番、木津が言った。  「こいつぁ、立派に戦闘だぜ」  口を開きかけた久我には何も言わせず、興奮気味の口調でさらに木津は続けた。  「見てたろうけど、真寿美なんか危ないところだった。連中が何を考えてここまでやってくるんだか知らんけどな、こりゃ戦闘以外の何もんでもないだろ。朱雀も青龍も、バラ弾撒いて喜んでるぱーぷーの相手ならお釣りが来るけど、今回みたいなのが続いたら保証できないぜ。奴が本腰を入れてきたら、こんなもんじゃ済まないんだろうがな」  向こうを脚のふらつく峰岡が両脇を支えられながら運ばれていった。  その後ろ姿を見送ると、木津は久我に向き直り、続けた。  「このままで『ホット』と亘り合うのは、はっきり言わせてもらえば無理だ。阿久っつぁんにもそう言っといてくれ」  久我はいつも通りの調子で応える。  「では、実戦を経験したテストドライバーの目から見た、改修を要する点をレポートしてください。阿久津主管にはこちらから提示します」  「レポート書きもテストドライバーの仕事ってわけか?」  「その通りです」  木津は肩をすくめた。  「ま、いいだろ。あんたのその冷静さには時々腹が立つけど」  ノックの音。  「はい?」と峰岡。  「仁ちゃんだよぉ〜ん」  峰岡は顔がほころばせ、ドアを開けに行く。  「おいおい、もう起きてていいんか?」と入ってくるなり木津が問う。  「はい、もう大丈夫です」  「そりゃよかった。元気印がいないとなんだか周りが静かでさ。そうそう、青龍の改修の話は、久我のおばさんに分厚いレポート出しといたよ」  「またおばさんなんて……」  そう言う峰岡が、胸の前で手をもう片方の手で包み込むようにしているのに木津は気付いた。  「どうした? 痛めてたか?」  「え?」  「その手さ」  「いえ、何でもないんです」  「そうか。てっきりあの時俺が握り潰したかと思ったよ」  「そんなことないですってぇ。ほらぁ」  峰岡が差し出した手を、木津は握り、大げさに振ってみた。  「ほんとだ。大丈夫だな」  と放そうとした手に、峰岡の指が絡んだ。  ふと顔を上げた木津は、首を垂れた峰岡の項が見えた。そしてその声が。  「本当に、本当に、ありがとうございます……仁さん」 Chase 07 − 荒らされた部屋  インタホンを通して、今ではすっかりおなじみになった声が聞こえる。  「阿久っつぁんいるかい?」  阿久津が直々にドアを開けに行った。  「仁ちゃん、来たか」  「呼ばれちゃ来ないわけにもいくまいに」  「そりゃそうだ」  相槌を打ちながら、阿久津は木津に作業台の脇の椅子を勧める。  「コーヒー?」  「ああ、薄いのをたっぷり」  腰掛けた木津の前に、阿久津は資料の束を投げてよこす。  前回の出動、木津に言わせれば「戦闘」から一週間近くが過ぎようとしていた。  「どの程度汲んでもらえたかね?」と木津が問う。  自分の分のコーヒーをすすってから、阿久津は鼻の頭を掻いた。  「お主の書いてきたほとんどのところは容れさせてもらったつもりだよ。正直な話、開発主管としては汗顔の至りなんだが、青龍にせよ朱雀にせよ、『戦闘』に使うことは全く念頭には上せなんだ。まぁ、元の触れ込みが刑事捜査支援車両だってこともあるんだが」  運ばれてきた特大のカップを木津は口に運ぶ。喉が大きくごくりと鳴る。  「でも実際には『戦闘』だってこなさなきゃならないってことが分かったからな、『ホット』を相手にする以上は」  そこで言葉を切ってコーヒーをもう一口。  「で、どの程度かかるって?」  「もう一週間。ただし突貫工事」  「ひゃ……留守中はどうすんだ?」  「お主の足なら、最初ここに来た時に乗ってたボロ車が修理出来とるが?」  木津はふざけ半分に阿久津に白い目を向けて見せる。それを受けた阿久津はにやりとしてから、  「青龍の予備機が二台ある。それで穴埋めをしてもらって、改修は順繰りにやっていくしかなかろう」  「朱雀の穴は? そう言えばもう一台作ってんだろ?」  「お主の運転の実績と今回の改修を容れたら、進捗が半分くらい後退したよ」  木津は肩をすくめる。  「仕方なかろう。部分部分の改修だけじゃ済まんのだよ。つぎはぎで改修なんかしてた日にゃ、いつか必ずバランスを崩す。そういうもんだ」  「……聞いたことがあるな、そんな話」  そこで阿久津がにやりと笑った。  「しかしな、久我ディレクターは、S−ZCを最優先で改修しろ、と言ってきたよ」  「人をこき使う気だな、あのおばさん」  笑いながらカップの底に残ったコーヒーを一気に空けると、阿久津はおかわりを注ぎに立った。  「当局から来た、例の結城ちゅう御仁も、トレーニングは済んだらしいな」  「へぇ。腕はどうなんだ?」  「そこまでは聞いとらんが、さして悪い話も入っては来んなぁ。個人的にゃあちと虫が好かんがな」  「そりゃあ俺ん時だってそうだっただろ?」と、にやにや笑いながら木津。「んでもって、後でころっと態度が変わるんだ」  「それを言うなや」  困った顔になる阿久津を見て、木津は声を上げて笑い、そしてさっきの資料を取り上げると尋ねる。  「で、わざわざ呼びつけたのは? こいつの話だけじゃあるまい?」  阿久津の顔も仕事の表情を取り戻す。  「全然関係ないという話でもないがな」  「てぇと?」  「この改修に絡むデータ採りをしたいと思っとるんだ。で、テストドライバーのお主に操縦を頼みたいというわけでな」  「何だ、そういうことかい。お安いご用じゃないか」  「その間、S−ZCは優先的にいじらせてもらうよ」  「了解。んで、どのぐらいかかる?」  「三日程度の予定だが」  「三日ね」  地下駐車場。  修理の成った、だがまた直ぐに工場へ戻される予定のマース2・S−RYのコクピットに、くしゃみこそしてはいないものの、噂に上った結城の姿があった。  ごく薄いマニュアルを片手に、計器板の隅から隅までをそれと照らし合わせるかのように矯めつ眇めつ見つめ、スイッチの一つ一つを指で確認している。  「こうして見ると、確かに造り込みは細かいな……あまり過ぎるのも危険ではあるが」  その手が変形レバーの上へと動く。グリップが握られる。が、そこで止まった。  「さすがにここで変形させるわけにはいかないか」  で、レバーの遊びを軽く揺すぶるだけにして、さらに結城は計器板のチェックを続けた。スイッチ、メーター、警告灯。  長いことそんな動作を続けてから、最後に結城の指は計器板右下の小さなボタンを押した。その横のスロットから小さな、ほとんどスティックと言ってもいいカードが飛び出した。つや消しの銀色の地に青のストライプが三本入っている。S−RYのキー・カードだった。  結城はそれを抜き取ると、ドアを開いて車外に降り立った。  照明の光は、ボディの深い青の上に白い筋を何本も描いている。  結城はその上を人差し指でゆっくりとなぞった。素材の温度が伝わってくる。  同じようにゆっくりと、今度は立ったりしゃがんだりしながら車体を眺め始めた。  「なるほど……可動部分は完全にカバーされるということか。この状態でならいいが、Mフォームではやはり可動部分が弱点だな。重点的に改修されるはずだ」  そこに  「あれ?」  と声が掛かる。  「結城さんじゃないですか?」  顔を上げる結城に向かって近付いてくる、事務服姿の男がいた。  「あ、安芸さん、でしたか?」  「そうです。ご精が出ますね」  「やはり任される車両についてはしっかり見ておきませんと」  安芸は静かに微笑むと、尋ねた。  「シミュレーションが終わられたそうですね。感触はどうでしたか?」  結城は微笑だにせず応える。  「操作は自信を持って出来そうです。しかし、前回のような強力な兵力を相手にするとなると、不安でないとは言えませんね。みなさんのようにうまく立ち回れるか」  「うまくやろうと思っているわけじゃありません」と、表情は変えないままに安芸が言う。「必死なだけです。でも、あれだけ苦戦したのは、この前の出動が初めてでしたよ」  結城が怪訝そうな顔をする。  それを見て、安芸は傍らのS−RYに視線を落とした。  「あれだけの重火器を積んできた相手は初めてだったんです。これまで対応してきた武装暴走車なんか、あれに比べればかわいいもんでしたよ」  「そうなんですか……ほっとしましたよ。毎回あんな乱戦なのかと思って」  それから結城は、久我ディレクターに前回の映像を見せられる前に、これをあなたに求めていると言われたことを付け加えた。  安芸は再び笑うと言う。  「それは運が悪かったですね。木津さんも最初同じことを言われたそうですが、その時はやはり武装暴走車の対応でしたからね。ああ、でもその時小松さんが重傷だったか」  「このマース2のドライバーだった?」  「そうです。有炸薬実体弾の直撃を受けたんです」  思わず結城は頭を掻いた。まいったな、と言わんばかりの表情で。  「あちらでは」と逆に安芸が尋ねる。「高速機動隊にいらしたんでしたね?」  「なので、訓練はしていても、実際に銃器を使う機会はなかったんです」  「そうですか。でもトレーニングでの成績は優秀だったと聞いていますよ」  結城の視線がS−RYへと流れた。  「お邪魔したようですね、すみません」と安芸。  「いいえ……安芸さんは何をしに見えたんですか?」  「研究所の本職の方で、こちらに置いてある預かりの車両に用があったものですから」  木津は今度はディレクターの執務室で、ウルトラ・エスプレッソのカップと久我を前に座っていた。  阿久津からの依頼の話は予め耳に入っていたのか、木津からそれを聞いた久我は、まずは黙ってうなずくと、よろしくお願いしますと言った。  「それはそうと」と、木津が改めて口を切る。「ものは相談なんけどさ」  久我は黙ったまま次の言葉を待っている。  「阿久っつぁんの件が済んだら、一、二日帰って部屋を片付けて来たいなんて思ってるんだけど、お許し頂けますでしょうかね?」  「そうですね、もう二ヶ月もここに詰めたままになりますし」と、カレンダーも見ずに久我。よく覚えている。  「大丈夫そうかね?」  「出動の体制ですか? S−ZCは改修作業に入っていますし、とりあえずは安芸、結城の両名で対応できるでしょう」  「二人でか。しかも一人は新参で」  「状況によっては峰岡をサポートに付けることも当然あり得ます」  「大丈夫なんかいな?」と、木津はその峰岡が運んできたエスプレッソのカップを手に取る。「怪我はなかったにしてもさ」  「もしもの場合はあなたにも連絡を入れますので」平然と久我が言う。「ただ、木津さん、あなたはS−RYはお使いになったことがありませんね」  「確かにないけど、乗るのにいちいち調整が必要なもんかね?」  「調整とは厳密に言うと少し違いますが、キー・カードへの書き込みがあります。メイン・キー・カードの場合、同一車種であっても互換性はありませんから」  「そりゃそうだ、互換性なんかあった日にゃキーにならん」と木津の茶々。「でも、書き込んであるのはシートとかハンドルとかの位置だけじゃないのか?」  「学習データの呼び出しもさせています」  「物覚えのいい車なわけだ」  「なので、あなたにS−RYをお使いいただくためには多少の準備作業が発生します。それよりはむしろ」  「朱雀の改修を最優先にした方が効率がいいってわけか」  久我の眉間にかすかに縦皺が寄る。が、何ごともなかったかのように「S−ZCの改修をですね」  どういうわけでこの女は通称で呼ぶのを嫌うんだろう。そこまでお堅くなくてもいいと思うんだが。しかしそう思っただけで、木津は言葉にはしなかった。  「それでもあと一週間はかかるって阿久っつぁんは言ってたな」そう言うとウルトラ・エスプレッソをむせることなく飲み干し、木津は続ける。「その間、『ホット』にはおとなしくお休みいただけてりゃいいけどな」  「そうですね」  平然と久我は答え、自分のカップを口に運んだ。  木津はまた肩をすくめ、訊いた。  「それじゃ、週末にいっぺん帰らせてもらうわ。いいか?」  「承知しました。峰岡にはその旨は予めお伝えおきください」  腰を浮かせた木津はにやりとする。  「真寿美がさびしがるってか?」  久我は例によって例の如く表情の一つも変えないままで、  「事務上の必要がありますので」  立ち上がった木津はそのまま天井を見上げて、あーあと声混じりのため息を吐いた。  木津から話を聞いた峰岡は、上司とは全く違った調子で、  「それじゃ、お帰りは週明けですね。それまでの間にこちらで何かしておくことはないですか?」  木津は分かり切った答えを出すのに、腕を組んで、少し考える素振りを見せる。  「別にないかなぁ」  「そうですか……」  少し気抜けしたような峰岡の表情を見て、  「んじゃ、俺のパンツでも洗っとく?」  半ば微笑んだまま口をへの字に曲げて峰岡が、  「今は遠慮しておきます」  その顔をじっと見つめる木津。それがぷっと吹き出した。  「本気にするなって」  「だって木津さんの場合、本気で言わないとも限らないから」  「……『木津さん』?」  あ、という感じで峰岡は目を丸くし、口に手をやる。  「……仁さん」  「はい正解」  再び微笑んだ峰岡の頬がふと固まる。  「仁さん」  「ん?」  「帰っても、パンツ洗ってくれる人、いないんですか?」  「まじめな顔でそーゆーこと訊くかね?」  赤くなる峰岡を見ながら木津は答える。  「自分で洗ってますよ、こーやってごしごしって」  腰を入れて洗濯の仕草をして見せるその姿に、今度は峰岡が吹き出した。  笑いがなかなか収まりそうもないのを見て、木津はもう一度ちょっかいを出そうとしたが、小突く真似をするだけにして言った。  「それじゃ、留守中はよろしく頼むわ。お客さんも何もないといいな」  踵を返す木津を、まだ半分笑いながら峰岡は呼び止める。  「これを阿久津主管から預かってます」  峰岡のスカートのポケットから取り出されたのは、ここに来る時乗ってきたあのポンコツのキー・カードだった。  「修理は終わってるそうです」と言いながらキーを差し出す峰岡の頬が少し赤くなっていた。きっとそのポンコツをつぶしたことを思い出したらしい。「本当に、あの時はすみませんでした」  「あ?……ああ、すっかり忘れてたよ。阿久っつぁんとこで修理したんだっけ。どこまで手を入れてくれたかな」  出された木津の手にキー・カードが渡される。それには峰岡の体温が残っていた。  ふと木津の視線が手のひらに落とされる。が、その顔はすぐに上がり、  「ありがとう。それじゃ、あとよろしく」  久し振りに腰をおろす愛車のシートは、何となく尻の落ち着きが悪かった。それだけS−ZCのシートになじんでしまっている自分を木津は感じた。  キー・カードをスロットに挿し込み、スタータのボタンを押す。と、全く予期していなかったスムーズさでモーターが回り始める。  「ありゃ……ユニット載せ変えたんか。サービスいいねぇ、阿久っつぁん」  一通り計器盤に眼を通すと、木津は少しだけ爪先を動かす。やはり今までとは違い、反応は機敏だ。  「けど、こいつは朱雀じゃないからな、お忘れなきように、仁ちゃん」  独り言の通り、思い切りペダルを踏み込んでも加速はS−ZCには遥かに及ばないが、それでも滑らかにかつてのポンコツは地下駐車場を後にした。  またS−RYを見に来た結城が、それを目にした。  「あれは……木津仁?」  車は工場地区を抜け、緩衝地帯を中継にする二本の長い橋を渡ると、都市区域に入っていった。  週末の夕刻、久し振りに乗り入れる繁華街は結構な賑わい振りを見せていた。四、五人で連れ立った学生風、聞こえはしないがきっと大声で駄弁りながらショーウィンドウを眺めて歩く奥様のペア、ろくに前も見ずに手をつないで歩く若い男女。  こんな風に歩いている誰にしても、「ホット」のような物騒な存在など知る由もないのだろう。木津は燃え尽きかけた煙草をもみ消すと、スロットル・ペダルを踏み込んだ。  「知らない方が幸せさね、何の係わり合いもなけりゃ」  交差点を曲がる。なおも賑わいは続いている。ショー・ルーム、ファスト・フード・スタンド、喫茶店……  木津はわずかに目をくれただけだった。  「とりあえず俺にゃもう関係ないしな」  メインの通りから分岐する路地を折れ、いくつかの角を曲がりながら、しばらく車を進める。見えてきた。潰れもせずに、ボロアパートは立っていた。  脇の駐車場に車を滑り込ませる。降り立ってみると、周囲の車は二ヶ月前と全く変わった様子がない。半分が空室のこんなアパートでは、住人の出入りも別にないらしい。  玄関を通ると、これも相変わらず管理人の姿がない。木津は急に現実に引き戻されたような気がした。二ヶ月経っても何も変わっていないこんな情景の中に戻ってみると、武装暴走車やら武装ワーカーやらも、青龍や朱雀も、そしてあの死に物狂いの攻防でさえ実感が薄れてくる。  それほどまでにいつもと変わりなくエレベータのドアは開き、廊下は続き、部屋のドアは木津を迎えた。  鍵を開け、ドアノブに手を掛けると、木津は妙な違和感を感じた。ノブに触れた手を顔の前に上げる。指先は汚れていない。レースで転戦していた頃にも経験はある。二ヶ月近くも放って置けば、埃がたまらない方がおかしい。  誰か入ったか?  ふたたびノブに手を掛けると、木津はゆっくりとドアを引く。  人の気配はない。  部屋に身を滑らせ、ドアに鍵をかけると、靴も脱がずに中を見回す。相も変わらぬ乱雑さだが、何かが違う。部屋の主以外には分かるまいが、かき回したような跡がある。それも、物盗りのやり方には見えない。  中に入る。床の上はさほどでもない。せいぜい放り出されている物と床との間に何か落ちていないかを確かめた、という程度だ。実際に置いてはいないが、普通なら金目のものがありそうだという場所をいくつか見てみる。生憎とろくな物は入れていないが、それでもざっと中身だけは改めたらしい。だがなくなっているものはない。  テーブルの上は?  置いてある紙の類は、メモだろうが何だろうが端から中身を読んだらしい。と、その時木津の顔色が変わった。その視線の先には、分解された写真立てが散らばっている。  木津はばらばらの部品をひとつひとつ、半ば躍起になって拾い上げる。一番下、写真立ての本体の下に、裏返しになって中身の写真が見つかった。  そっと拾い上げて裏返す。傷付けられてはいない。もう一度裏側。写真の日付ともう一言が、木津のではない別の筆跡で書き込まれている。  舌打ちが部屋の中にうつろに響く。  「……ここまでやるもんかね、何を探してたんだか知らないが」  と言うと、今の自分の言葉に木津は考え込んだ。  一体何を目当てに部屋に入り込んだ? 物盗みではあるまいというのは、最初の印象から変わっていない。書類、というほど大げさではないが、その類を全て読んだということは、所謂スパイって奴か?  じゃあ、何で俺がスパイに狙われなきゃならない?  ふと木津の口元に歪んだような笑いが浮かんだ。何で俺が、か……あの時と同じような台詞を言ってるな。  しかし、何故スパイが? 思い当たるのはただ一つ、俺がLOVEに足を踏み入れ、そこで仕事をし始めたということだけだ。  ということは……奴か?  木津は手にしたままの写真に視線を落とす。それを胸ポケットにしまい込むと、テーブルの上の紙を端からかき集めて丸め、ライターで火を点けて、流しに投げ入れた。それから床の上に散らばったものを端から拾い上げ、部屋の奥に押し込み始めた。ごみ、古雑誌、がらくたの類……  「こうと分かってりゃ、お茶くみでも引っ張って来るんだったな」  ふと見ると、流しの中で上がっていた炎が鎮まっている。灰の上からこれでもかと言わんばかりに水をかけ、さらに何一つ残らないように流した。  その時、突然ドアチャイムが部屋の中に鳴り響いた。  はっとしたように木津の頭が持ち上がる。  誰だ?  木津がドアの方へと踏み出そうとすると、もう一度チャイム、そして男の声。  「あれ? 仁ちゃん、帰ってたんじゃなかったのか?」  肩に入っていた力をがくっと抜き、木津はドアを開けに行った。そしてそこに立っていた男に声をかけた。  「目敏いねカンちゃん」  「たまたま帰り際に通りかかったら、車があったからさ。長いお留守だったね、半年ぐらい?」  「馬鹿言え、二ヶ月だよ」  「そんなもんかねぇ」  「そんなもんだよ。また明後日から行くけどさ」  「今度も長いんかい?」  少し考えると、木津は言った。  「行きっぱなしかも知れないな」  相手は驚いたのとおどけたのが半ばずつ入り混じった表情を見せてから、にやりと笑い、仕草を交えて言った。  「じゃ、行くかい、呑みに」  目が覚めると同時に、二日酔いの頭痛が木津を襲った。布団から頭も出さないまま手探りで枕元にあるはずの目覚まし時計を探そうとして、そこでやっと自分が腕時計をはめたままなのを思い出した。見ると十七時を過ぎていた。  痛む頭を無理に持ち上げると、流しまで重い体を引きずって行き、蛇口から直接水を飲み、さらに頭にも水をかぶった。  昨日燃やした灰の残りがまだ流しの中にわずかにへばりついている。  ゆうに五分もそうしていてから、やっと木津は頭を上げ、滴を両手で払い除けた。そして濡れたままの髪をぐしゃぐしゃと掻くと、ベッドに腰を下ろし、部屋の中を見回した。  昨日自分で引っかき回してからは変化がない。もっとも引っかき回したところで何が出てくるわけでもないが。MISSES絡みの代物を一式置いてきたのは正解だったか。  「お帰りなさい」  弾けた声を上げながら、車を降りた木津を峰岡が出迎えた。  「お部屋、片付きました?」  大げさに首を横に振る木津。  「ずぇんずぇん」  その様にまたくすくすと笑いながら、「お片付けそっちのけで、お酒でも呑んでたんじゃないんですか?」  「そういうわけじゃあるんだけど、長いこと放って置いたから、やっぱり一日そこらじゃ無理だったわ」  「それじゃ、お部屋から毎日通勤にしちゃうっていうの、どうですか?」  「それも気乗りしないな」そう言いながら、木津はあの家捜しされた部屋のことを思い出していた。  それを知る由もない峰岡が  「どうしてです?」  「実は……出るんだわ、これが」  幽霊の真似をしてみせる木津。  峰岡はそれを無視して、「そうだ、忘れない内にお返ししておきますね」と、三日前と同じように、スカートのポケットからS−ZCのキー・カードを取り出した。そしてキーホルダーにぶら下がった、半ば溶けかかったようなパンダのマスコットを指先でつついて揺らしてから木津に手渡す。「意外とかわいいのを付けてたんですね」  受け取りながら「まぁね」と木津。「てことは、もう改修から上がってきたのか? あと一週間はかかるとか言ってたのに」  「はい、阿久津主管も他のみんなも休日返上で大はり切りでしたから」  「そりゃ久我のおばさんも喜んだろうな」  「おばさんって、久我ディレクターはまだ三十六歳ですよ、独身だけど」と言ってから、慌てて峰岡は口を手で覆う。「あちゃー!」  「立派におばさんだよ」笑いながら木津。「俺より十も上じゃあな。で、おばさん三十六歳独身の今日のスケジュールは?」  「部屋にいらっしゃるはずですけど」  「そんじゃ、帰着のご挨拶でもして来ますかな」と歩きかける木津に、峰岡が言った。  「仁さんって、やることはおじさんぽいのに、意外と若かったんですね」  「おば、もとい、ディレクター殿、木津仁ただいま帰還いたしました」  軽い調子で部屋に入ってきた木津の挨拶に会釈を返すと、いつもは事務的を絵に描いたような久我が、珍しく世間話めいた問いを発した。  「お疲れさま。お部屋にはお変わりはありませんでしたか?」  木津の調子はこの一言で一変した。  「大ありだったよ」ソファにどっかりと身を投げ出し、言った。「留守中に誰かが潜り込んでたよ。家捜しされたらしい。奴だか子分だか知らんがね」  久我の片方の眉が上がった。デスクから離れ、木津の前に座ると、詳しい話を求めた。  木津はあった通りを話してから、付け加えて言った。「……前にいっぺん朱雀で帰った時、チェックでも入れられてたかね」  「そのようですね。あちらも私たちの存在に積極的に意識を向けるようになったというわけです」  その口調が何やら確信めいた響きを帯びているのを木津は感じ取った。久我自身の言葉がそれを裏打ちした。  「これであちらも、私たちに行動の的を絞ってくるでしょう」  今度は木津の眉が上がる番だった。  「朱雀に乗って行けと言われた時にも、後から少しひっかかっちゃいたが……分かってて仕掛けたのか?」  「情報収集のために住居侵入を敢行するという」とわずかに言葉を切ると、「予想以上の効果が出ています」  「予想外、の間違いだろ?」  「あちらに漏れそうな情報は、あなたの手元には全くなかったと思っていますが、そうではありませんか?」  肩をすくめた木津を見ると、久我はソファに腰をかけ直し、話し始めた。  「こちらに『ホット』の矛先を集中させれば、それだけこちらとしても当局からの指示を達成するのに早道になるわけです。もちろんあなたの意図の達成にもです」  何かいいように誘導されているような気がしないでもないな。まあいいか。  「つまり」木津が言う。「俺たち、いや、俺は噛ませ犬ってわけか?」  「黙って噛まれるに任せているおつもりもないのでしょう?」  久我の返事に、木津は再び肩をすくめた。 Chase 08 − 中断された休息  特殊車両研究所LOVE内、久我の執務室。久しぶりに持ち場から腰を上げた阿久津の姿がそこにあった。  阿久津は久我のデスクの前にどっかりと座り込んで、口中剤を口に放り込んでがりがり噛むと、持ってきた資料を久我に付きつけんばかりに差し出した。  「S−ZCとS−RY五両、全て改修は完了です。改修点は予め資料でお知らせしておいた内容の通り、あれ以降の変更はありませんです」  デスクの上に置かれた資料を手に取ると、久我は一番上に乗ったS−ZCの改修作業報告書を読み、それから続く五部のS−RYの報告書をひと通りながめると、何も言わずにその全ての表紙にサインをして抜き取り、揃えてから阿久津に戻した。  「結構です。お骨折りに感謝します」  そんな型通りの労いなど無用といった雰囲気さえ感じさせるような調子で阿久津が無言でうなずくと、その頭が上がるのを待って、久我が問いかけた。  「後から頂いた変更は、テストで収集したデータに基づいてのものですね?」  「テスト?……ああ、木津君に手伝ってもらったやつですかな。無論です。盛り込ませてもらいましたとも」  そう言うと、阿久津は腕を組み椅子にふんぞり返った。  「追加テストや改修要目の量の割には完了は早かったですね」  ふんぞり返った上体を今度は前のめりにさせながら、阿久津は言う。  「邪魔が入りませんでしたからな」  その言葉の通り、あれからこの日に至るまで、当局からMISSESの出動が要請されるような事件は一度もなかった。  「何をしてござるのだか」  そう阿久津が続けると、久我が受けて  「当局の方でも『ホット』はじめその配下の動静は把握していないようです。従って、MISSESも当面は交代制の出動待機とするつもりです」  興味なさそうに口中剤を追加する阿久津。それを見てと言うわけではあるまいが、久我は話を変えた。  「S−ZC二号機については、先週の提出仕様にさらに変更が加えられると聞きましたが?」  阿久津の目元が少し細まる。  「そりゃあ、木津君のクレームやらテスト結果やらがたんまりありますからな。いろいろと取り込ませてみたくもなりますわい。変更分の仕様書がお入り用ですかな?」  答える久我は一切表情を変えずに。  「確定した物が用意できるのならば、提出をお願いします。ロールアウトの予定とそれまでのスケジュールも、それぞれ目処が付くようでしたら」  黙って肯く阿久津に、久我はさらに問いを続けた。  「それからG−MBの方は、これまでのスケジュール通りロールアウトするということでよろしいですね?」  「よろしいです。変更はござんせん」  LOVEの中にあてがわれた私室で、椅子にもたれて、木津はぼんやりと煙草を燻らせていた。いや、別にしたくてこんな風にぼんやりしているわけではない。  最近はM開発部以外からもテスト走行の仕事が来たりするようにはなった。しかし、それとてそう度々あることでもないし、あったとてVCDVとは違って極めて退屈な代物ばかりだった。そしてそれ以上に退屈なことに、朱雀を駆っての出撃がまるでご無沙汰になっていた。  一体俺は何をしてるんだろう、そう木津は思う。奴を追うのが目的でここに来たはずなのに、このところその機会は奴からは恵んでもらえない。逆にこちらから討って出るというのは久我の念頭には全くないらしい。と言うより、LOVEが当局から認められているのはいわば現行犯的な行為への対応だけで、いわゆる捜査レベルには口を出すな、と言うことなのか。それにしちゃその捜査とやらが進んでいる風は全然ないが。  半分が灰になり、今にもこぼれ落ちそうになっている煙草を灰皿でもみ消すと、そのまま机に頬杖を突いた。その肘の傍には、キーホルダーの溶けかけたようなパンダのマスコットが、つかれたようにあおむけに転がっている。そして朱雀のメイン・キー・カード。  ヤニ臭い木津の指がそれをひとまとめにつついて転がす。パンダがうつぶせに、またあおむけに。  きりもないその仕草を止めたのは、インタホンからの呼び出し音と弾けた声だった。  「仁さん、峰岡です」  「開いてるよ」  入ってきた事務服姿の峰岡は、いつもとは違って手ぶらだった。  「仕事じゃないね」とひと目見て木津。  「あれ? どうして分かるんですか?」  それには答えず、笑ったまま木津が逆に尋ね返す。  「仕事でないとすると、何の用だい?」  「お邪魔でしたか?」  「んにゃ、暇で閑でヒマでひまで困ってしまってわんわん鳴いてたんだが」  その答えを聞いた峰岡の顔が少しほころんだが、それは木津の言いっぷりのせいばかりではないようだった。  「週末もですか?」  「週末なんかなおのこと暇でしょうがないさ。パンツ洗うぐらいしかすることがなくってさ」と、また仕草混じりで答える。  「そうなんですか」と言う峰岡の表情は、ますます嬉し気になる。ようやくそれに気付いた木津がいぶかしげな顔で、  「何を企んでる?」  「知りたいですか?」  「ああ……もしかして」  峰岡の上体が心持ち乗り出す。  「こっちから『ホット』狩りへ出向こうって話じゃあるまいな」  峰岡の乗り出した上体が元に戻る。そして半ばため息混じりに、  「仁さん、いつも『ホット』のことばっかりですね」  「そりゃそうだよ、そのためにここにいるんだからさ。でも最近は奴も面を出そうとしないし、それで暇を持て余してるってわけさ……でもどうやらお嬢さんの御来駕の目的はそうじゃなさそうだな」  「ええ、残念ですが違います。実は」と言葉を切ると、ひときわ大きな声で「デートのお誘いです」  聞いた木津が固まった。  言った峰岡の方もその頬が心持ち赤く染まっている。  しばしの間。  先に口を切る木津の言葉はおうむ返し。  「デート?」  峰岡は何も言わず木津の顔を見つめる。  木津はもう一度、  「デート、ですかい?」  「あ、いえ、デートとかってそんな大袈裟なことじゃなくて、ですね、もし暇で暇でどうしようもなかったら、暇潰しにお買い物にでもつきあっていただきたいな、なんてちょっと思ってみたりしただけなんです」  身振り手振りをも交えた峰岡のこの狼狽ぶりに声を上げて笑い出さんばかりの木津が、問いかける。  「買い物って、何を買いに行くんだい?」  「えっ?」と、言われてそれを初めて考えている様子の峰岡。しばらくして、「えーとですね、そう、一応服とかこまごましたものを買おうかな、なんて思ってますけど」  木津は新しい煙草の封を切って、一本取り出すと、火を点ける前に一言、  「でもさ、俺は服に関しちゃあーだこーだ言うだけのセンスってのは、まるっきり持ちあわせてないぜ」  一転えっという顔つきになった峰岡。  木津は火を点けた煙草をぱっと吹かすと、追い討ちをかけるように言った。  「運転手と荷物持ち程度だったら何とかなるけどな」  その夜。  自室の鏡に映る峰岡の顔は嬉しさにとろけきっていた。  無理やり普通の顔を作ってみるが、こみ上げてきてどうにも止まらない笑いに十秒と持たない。我慢しようとそこで飛び跳ねてみるが、その様子はどう見てもはしゃいでいるようにしか見えない。  そこで、しなければならないわけでもない我慢をするのは早々に放棄して、溶けかけた自分の顔をもう一度鏡で見た。  週末のお楽しみへの期待があふれかえった自分の表情を見ているだけで、もうたまらなくなった。  とどめに一人で万歳三唱する峰岡だった。  「では出掛けます」  デスク脇のコートハンガーからグレーのジャケットを取って袖を通すと、久我は峰岡に告げた。  「お気をつけて。連絡先はいつも通りですね。お戻りは?」  「今日は戻らない予定です。定例の他に、もう一件調整がありますから」  「分かりました」と峰岡。「それに今日は週末ですしね」  週末だろうがそうでなかろうがあまり関係なさそうな久我はその言葉には意を留めず、  「待機担当の二人には外出の旨は伝えてありますね?」  「はい、安芸君に言ってあります。結城さんが見えなかったんですけど、また車庫ですね、きっと。暇さえあればVCDVの研究してますから」そして一つ付け加えた。「木津さんみたいにぼーっとしてないですよ」  「木津さんは最近は出動もないから、さぞ退屈していることでしょうね」  「そう言ってました」と峰岡は笑う。「木津さんには生憎だけど、今日もまた何もないですよね」  そう言う峰岡の声が、いつにも増して元気がいいのに、さすがに久我でもおやと思ったらしい。だがそれには触れず、簡単に  「油断は禁物」  と言うと、お願いしますと付け加えて執務室を出て行った。  そのすらりとして高い背中が閉じるドアに隠されると、峰岡はまた緩み始める頬を両手で押さえた。そして何とか気を紛らわそうとするように、デスクの上のコーヒーカップを片付け始めた。その傍らに置かれた時計は、終業まではまだ四時間余り残っていることを示している。  峰岡の予想通り、結城の姿はまた地下駐車場にあった。  改修のあがってきたS−RYが並ぶ。結城は自分に任されたマース2に乗り込み、コクピットの中で計器板や操作系を確かめてまた降り立ち、数日前と同じように、矯めつ眇めつ改修の加えられた車体の細部を確かめていた。まるで全ての構造を暗記しようとしている風でさえあった。  「ああ、やっぱりこちらでしたか」  急に聞こえたその声に結城が驚いたように顔を上げると、いつかのように事務服姿の安芸が近付いて来ていた。  結城は心持ち気色ばんで、  「何かありましたか?」  応える安芸は特に慌てた様子もなく、  「いいえ、一つお伝えしようと思って来ただけなんです。久我ディレクターなんですが……」  「当局に出張?」  木津は峰岡の言った言葉をおうむ返しに聞き返した。  「あれ?」と峰岡は首を傾げる。「仁さんは知らなかったんでしたっけ」  「ああ、聞いてないけど」  「毎月一回うちとあちらの間で定例会議みたいなのをやってるんですよ」  言ってから峰岡はやぶへびだったことに気付いて顔をしかめた。  「そうか、奴の捜査の進み具合なんかが話に出るんだな」と、案の定の木津の台詞。  「何もないみたいですけどね」早口にそう言って、峰岡はその話題を切り上げた。「ところで、今日終わったらですけど……」  木津は最後まで言わせず、  「はいはい、分かってますって。それじゃ、どこで待ってればいい?」  「外の駐車場に行きます」  「外の?」  峰岡は笑って付け加えた。  「まさかS−ZCとかS−RYでってわけにはいかないでしょ?」  「それもそうだ」木津も笑う。「デートにゃちと色気不足だぁね。もっとも俺のポンコツ改・パワード・バイ・阿久津にしたって、それ程色気のある代物ってわけじゃないが」  パワード・バイ云々を聞いてまた笑い出す峰岡を前に、一本煙草をくわえ、火を点ける前に尋ねた。  「で、どの辺に行くかは決めたんかい?」  「ばっちりです!」  「気合い十分、てとこだな」  「えへへへ」  そこに軽い音色のチャイムが鳴る。  木津は反射的に腕時計を見る。が、それと同時に本業をすっかり忘れていた峰岡の大声が木津の鼓膜にきんと響いた。  「いっけない! お茶淹れなきゃ!」  峰岡の目はもう三十分も前から時計を見る方が多くなっていたが、この五分というものはほとんど時計の秒針とにらめっこだった。  五、四、三、二、一……  終業チャイムの最初の音が鳴る。同時に峰岡が椅子を蹴らんばかりに立ち上がった。  「峰岡帰ります! お先に失礼します!」  周囲の呆然とする目をよそに、峰岡は猛然と部屋を飛び出していった。  同室の一人がつぶやいた。  「MISSESの召集、じゃないよね?」  もう一人が言う。  「それよりも速いよ、今の方が」  「おんや?」  足早に帰宅の途に着くLOVEの他の従業員たちに紛れて、のんびりと屋外の駐車場に出てきた木津は、かつてポンコツだった愛車の助手席側に見慣れない後ろ姿が立っているのに気付いた。  秋らしく淡い黄色のワンピースに重ねられたベージュのボレロ。少し高めのヒールを履いた細い足首がこちらへ返った。  木津は首を傾げ、もう一度「おんや?」とつぶやいた。  見慣れたいつもの事務服や出動時のドライビング・スーツの時からは想像出来ない程にめかし込んだ峰岡がそこにいた。  だが見違えるほどめかし込んだ姿とは裏腹に、弾けた声はそのままだった。  「仁さん、遅いですよぉ」  「悪い悪い、支度に手間取ってさ」  そう言う木津はいつもと変わらず、シャツにジャケットという支度に手間取りようのなさそうなラフな格好だった。  「しかし、どこのお嬢さんかと思ったよ。いつもと全然雰囲気が違うから」  この木津の言葉に、とろけそうな顔になりながら峰岡が  「ほんとですか?」  「見た目だけは」  「仁さんの意地悪ぅ」と言いながらも、その口調は別段腹を立てている風でもなかった。  そんな二人を見ながら車に乗り込み帰宅する人の流れは最初のピークを過ぎて、徐々にまばらになってきた。  「さて」と、逆にそれを見た木津は自分の車のドアを開けた。  「では参りましょうか、お嬢様」  車は他の帰り車に紛れて緩衝地帯を抜け、運河を渡る橋にさしかかる。その上からは都市区域の夕明かりが見渡せた。  「ここを通るたびに、きれいだなって思うんですよ」と峰岡。「そう思いません?」  指一本でハンドルを操る木津は、煙草をくわえた歯の間から半ば適当に相槌を打つ。  「俺はどうも無粋でね、そういうのより計器盤のランプの方に目が行くんだよ」  「それもさびしいですよ」  溜息混じりに言う峰岡の目は、窓の外の灯から木津の横顔へと移されていた。  やがて橋を渡りきった木津の車は、標識の矢印に忠実に道を辿り、少し前に自分にはもう関係ないと木津が思ったばかりの繁華街のとっ付きで、渋滞に捕まった。  「どの辺で停めればいい?」  「えーと、一番近いところでいいですよ。どうせだから少し歩きませんか?」  「散歩?」  「いやですか?」  「たまにはいいかもな」  峰岡がまたにっこりと笑った。  ナヴィゲーションの画面は、数百メートル先の駐車場に空きがあることを示している。  ショーウィンドウに頭一つ分は背丈の違う二つの影が映り、行き過ぎる。  峰岡はショーウィンドウの中よりも、むしろそこに映るその影、並んで歩く自分と木津の姿を見ていた。  店から店へとウィンドウの展示は変わっても、映る自分は変わらず木津と歩いている。店毎にそう思いながら、峰岡は頭が少しぼぉっとしてくるような気がした。  一方の木津は、右に左に行き交う雑踏を眺め回している。よくもまぁこれだけ人がわいて出たもんだ。平和なことだ。そんな平和がとっくの昔にどこかに吹っ飛んでしまった奴だっていないわけじゃないのに。  「痛むんですか? 手術の跡」  「ん?」  峰岡の声に我に返ると、木津は無意識に後頭部に手をやっている自分に気付いた。  「ああ、そういうわけじゃないよ。ただ少し寒いんでさ」  「寒い?」  「ほれ、手術の跡にハゲがあるから」  「やっだぁ!」  人目も憚らず爆笑しながら峰岡は、次の店のウィンドウに目をくれると、その前で立ち止まって中に見入った。  「寒いんだったら、この辺でちょっと入って行きませんか?」  ショーウィンドウを見る木津。その中には若い女が喜んで着そうな服をまとった、半ばハンガーではないかと思うような抽象的なマネキンが立っている。  木津は頭をぼりぼりと掻きながら、自動ドアをくぐる峰岡の後に従った。  しばらくして出てきた木津の手には、袋が一つぶら提げられていた。  すまなそうな言葉を口に出す峰岡に、木津は荷物持ちは約束通りだと言う。  「それに口も金も出さなかったしさ」  「いくら何でもお金まで出してもらったら困っちゃいますよ」と声高に峰岡。その声が少し小さくなり、「口だったら出してもらえると嬉しいかも知れませんけど」  「あー、そりゃ役不足だな。似合う似合わないの区別もつかないからさ」  突然峰岡は真顔になる。  「似合うって言ってもらえればそれだけでも嬉しいんですよ、女って」  「ふうん、そんなもんかね」と天を仰ぎながら木津。「誰にしても」  「えっ?」  「それじゃ、茶でも啜りに行くか? 夕飯はどうする?」  「え、え、え、え?」信じられない、といった顔の峰岡。「夕ご飯まで一緒にしてもらっちゃっていいんですか?」  「いいともさ」と、峰岡の反応に逆に驚いた木津。「なんつー顔してるんだ?」  「だって、だって……」  「いいから茶にしようぜ」  峰岡は一層弾んだ声で、はいと応えた。  「だったら、いいところがありますよ。仁さん、甘いものはだめでしたっけ?」  「んにゃ、喰えるもんなら何でも喰う」  「じゃ、行きましょう」と言う峰岡の小さな手が、しなやかに木津の腕に巻き付いてきた。人々の流れに見え隠れしながら再びショーウィンドウに映っては行き過ぎる二つの影。  角を一つ入りしばらく行くと、そこは雑踏からは見放された路地で、表通りの喧噪は遙か後方に取り残されていた。  「ここなんですけど」  峰岡が足を止めたのは彼女と同年代の女はとても近寄りそうにない、年月を経てきた感じの落ち着いた佇まいの喫茶店だった。  木津は口を開けてその門構えを見ている。  「どうですか?」と峰岡。  「似合わ……っと、こういうところが好みなんだ。意外だなぁ」  「静かで落ち着けて、いいんですよ、このお店。ケーキもおいしいし」  「元気印にこういうところに連れて来られるなんて、ちょっと想像出来なかったよ。こんな店があるとも思わなかったし」  「仁さん、読みが甘い」ぴっと人差指を立てて得意気に峰岡。「入りましょう?」  あまり広くない店の中には、他には老夫婦らしき男女と書き物に耽る若い女との二組の客がいるだけで、BGMもない。  数世紀遡った欧風のテーブル。峰岡にはミルクティーとミルファィユ、木津の前には通常濃度のエスプレッソが運ばれて来る。  皿とカップを置くと、峰岡とは馴染みらしい初老のマスターは、木津の存在を見て、おやと言い、峰岡がえへへと笑うと二つ三つうなずいて引き下がった。  「これがおいしいんですよ」と、峰岡はミルファィユの皿を前に、金色のフォークでその一番上の層を少し持ち上げてみせる。  「ほら、見えます? こんなふうにパイとクリームが七重になってるんです」  「ななえ……?」  峰岡がふと顔を上げた。視線が木津の視線とぶつかる。と、木津はいきなり節を付けて  「七重八重〜、十重二十重〜」  峰岡は吹き出しながら「そんなに大きかったら食べきれないですって」  木津は何も答えずにエスプレッソを啜ったが、おどけて見せながらその頬に浮かんだ微笑が少し固かったのは、エスプレッソの味のためではなさそうだった。  だが峰岡はそれには気付かず七重止まりのミルファィユと格闘を始めている。  木津はその様子を黙って眺めている。  皿の上を三分の一ばかりやっつけた峰岡が、ミルクティーを一口飲むと、口を切った。  「しゃべらないですね」  「俺?」  峰岡はうなずく。  「いつもこんなもんだろ」  「そうかなぁ……昔からそうでしたっけ?」  「多分ね」  金のケーキフォークがパイの一枚の上で動き、皮をぱらぱらと崩す。  「仁さん、聞いてもいいですか?」  「何?」  だがエスプレッソの澱をデミタス・カップの底で弄ぶ木津を前に、峰岡はすぐには問いを口に出さない。  「何だい?」と促されて、意を決したように峰岡の口が開く。  「仁さん、どうして『ホット』を追いかけてるんですか?」  答えは思いがけなくもすぐに返った。  「貸した金を返してくれないからさ」  峰岡の頬がぷっとふくれる。  「冗談ばっかりぃ」  「冗談じゃないさ」と木津は煙草の煙と一緒に答えを吐き出す。「奴には医療費の貸しやら何やらがたんまりあるんだ」  あっと言う顔をする峰岡。  「あの傷のことですか?」  木津は答えない。  「そうなんですね」うなずくでもなくそう言いながら、峰岡の手のフォークはパイ皮に挟まれたクリームをつついていた。「で、もし探し出せたら、仕返しするんですか?」  「仕返しっつーかね」木津の頬が少し緩んだ。「ガキの喧嘩じゃあるまいし……」  「そうですね、仕返しっていうのはちょっと変ですね。それじゃ、自分で捕まえて当局に引き渡すって……」  峰岡が言い終わらない内に、木津の低い声が。それを聞いて、峰岡は一瞬無意識に身震いした。  「引き渡すだけで済むとは思えんがな」  それから一転明るい声と表情で、  「ぼちぼち腹が減ったな。コーヒーで刺激されたかな」  いきなり話が変わったのに峰岡は付いて来られなかったらしい。どぎまぎした様子で手を動かし、皿の上に半分ほど残って立っていたミルファィユをフォークの先で引っかけて倒してしまった。  「あん!」  「何だ、皿の外にでも飛び出すもんかと思ったぜ。そうしたら拾って喰ったのに」  峰岡はそう言う木津の顔を見る。冗談のような真顔。そして案の定吹き出した。  「そんなにお腹空いてたんですか? だったらケーキ頼めばよかったのに」  木津はにやにやしながら、  「うまいところを思い出すにゃ、腹が減ってた方がよかんべ。ましてご馳走する立場となっちゃさ」  それを聞いた峰岡は再び信じられないといった顔をする。  「ご馳走って、え、え、え?」  「おいしい食べ物や飲み物を出して、もてなすこと。また、その食べ物や飲み物。以上国語辞典の定義より」  「そうじゃなくってですね」  と言いかけた峰岡の顔から笑いが消えた。  木津もまた同じように冗談抜きの真顔に。  だが次の表情は対照的だった。受令器が発するMISSESからの重苦しい呼び出し音に、峰岡はがっかりして泣き出しそうな顔になり、一方木津は獲物を前にした餓狼のようににやりとした。  「どうしてこんな時に来るのよぉ!」  「おいでなすったか!」  素早く立ち上がる木津に続いて、峰岡も重い腰を上げた。  「悪いけど、ご馳走はまた今度にさせてくれや」と、何か勘違いしているような木津。そしてついでに峰岡の皿からミルファィユの残りを摘み上げて口に放り込んだ。  「状況は?」  勘定を済ませて店を出てきた木津が、先に外で連絡を取っていた峰岡に尋ねる。  「ディレクターが当局から指示してきてます。安芸君と結城さんがもう出てるみたいなんですけど、苦戦してるらしいです」  「敵の数は?」  「それがはっきりしないんです。四両なのか八両なのか」  「何で倍も違っちゃうんだ? 久我のおばちゃんは乱視持ちか?」  「聞いたことないですけど、そんな歳じゃないと思いますよ」  「誰も老眼とは言ってねーぞ。それはそうと、奴はいるのか?」  「さあ、それは……」  「行きゃあ分かるか」  木津は握り拳にした右手を左手に打ち付ける。静かな路地にその音が響く。  「行くべぇ」  黙ってうなずく峰岡に、木津はもう一言。  「大丈夫だな?」  「はいっ」  木津の勢いに励まされてか、応える峰岡の声からは、ついさっきまでの残念そうな調子は消え、頬は緊張感に引き締まっていた。  「よし!」  そして木津と峰岡は、何も知らない平和な雑踏の中に駆け出して行く。 Chase 09 − 掴まれた端緒  静まり返った駐車場にヘッドライトの二条の青白い光が射し込み、それに導かれるように、ぽつりぽつりと駐められた車の間を縫って、ダークグレイの車体が猛烈な速度で飛び込んできた。  ライトが消えるよりも早く助手席のドアが開く。そこから飛び出してくる峰岡の小柄な体。続いてすぐにエンジンが止まり、運転席から木津が降り立つと、先に走り出していた峰岡を追った。  淡いピンクのマニュキュアに彩られた峰岡の細い指が踊るように非常ドアの暗証番号を叩き、錠の解除される硬質の金属音を聞くと即座に木津の手が厚く重いドアを押し開ける。その先には青白い常夜灯の灯る薄暗い通路。狭い壁の間を二つの背中が走り去り、早足の足音の響きが後に残される。  枝分かれする通路へ曲がって行こうとした木津を峰岡が呼び止める。  「仁さん、着替えは?」  「そんな暇ないっ……ていう訳にもいかないか、その格好じゃ」峰岡のデート用装備を見て木津は言う。「いい、俺は先に出てる。追っかけて来い」  「はい」  再び走り出す峰岡の後姿も見ず、木津は駐車場へ急いだ。  突き当たり、右に折れ、手動のドアを突き飛ばすように押し開き、薄暗く足許のはっきりしない階段を二段飛ばしに駆け下り、さらに続く廊下を走る。  突き当たりのドアは開けられていた。  木津が飛び込むとすぐさま声が掛かる。  「仁ちゃん、来たか」  「阿久っつぁん? 何でいるんだ?」  「残業してたら駆り出されたんだ。それはどうでもいいから、急げや」と、阿久津は手ずからS−ZCのドアを開いた。  木津の靴が床を蹴る。鈍い靴音に続いて、木津の体をシートが受け止める重い音。そこに、急かしておいた張本人の阿久津の声が、峰岡と同じ問いを投げかけて来る。  「スーツとメットはどうした?」  「そんな暇ねぇだろ?」  「確かに暇はないがな、何も着けないで出ていった時、お主の体への影響が心配なんだよ。ま、いいならいいがな。それはそうと、真寿美クンはどうした?」  「ストリップの真っ最中」  阿久津の口許に卑猥な皺が寄る。  「想像させるでない」  にやけている阿久津を放っておいて、木津は上着の内ポケットからパンダのキーホルダーをつまんでメイン・キー・カードを引きずり出し、スロットに親指で押し込むと、シートや操作系のセットも待たずに同じ親指でスタータのボタンを押した。  一呼吸と待たせることなくS−ZCの機能は覚醒する。計器盤が点灯。メーター指針の反応。モーターの最初の回転。  ボックスから取り出した黒いグローブをはめる木津に、外からドアを閉じながら阿久津が言った。  「先に出た二人の位置はナヴィにトレースさせておいたでな」  「おうさ」とナヴィゲーションの画面を見ながら木津が答える。が、ドアを閉じようとした手が途中で止まった。そして阿久津がもう一言付け加える。  「お主、夜は初めてだったな」  「ああ」  「気を付けろや」  そして木津の答えを待たず、ドアは閉じられた。ドアを車体に引き込んで固定するモーターの僅かなうなりが木津の耳に届く。  木津は横を見ると、もう脇の方に待避していた阿久津にちょいと合図を送る。  次の瞬間、S−ZCはテールランプの残像だけを夜の闇に残して走り去っていた。  ヘッドライトから放たれる二条の白い光が路面を照らし出す様は、まるで銀色に磨かれたレールが敷かれているようであった。その上をほとんど音もなく深紅のS−ZCが走り抜ける。  木津はナヴィゲーションの画面に目を走らせる。安芸と結城の出ていった先とやらは、これまでに「ホット」の一味が騒ぎを起こしたのとは違い、工場地区の中でもLOVEのある区域からはずいぶんと離れている。そこにあるのはほとんどが放棄された工場跡だ。今回はLOVEが目標ではないのか?  まあいい、何が目当てなんだか、ふん捕まえて締め上げりゃ吐くか。その中にご本尊様がおいでましませば手っ取り早いがな。  木津は既に床まで踏み込んでいるスロットル・ペダルにさらに力を加えた。  ナヴィゲーションの画面に表示されている目標地点到着までの残り秒数は、一定の、しかし猛烈な勢いで減っていく。そしてそれが三桁を割り込んだ時、木津の目に、工場跡の高い外壁の暗い谷間に乱れ飛ぶ電光と砲火とが飛び込んできた。  あれか。  向こうもS−ZCのヘッドライトを見逃さなかったらしい。そう思う間もなく、黄白色に跡を引く曳光弾がばらばらとこちらに向かって飛んできた。  反射的に木津の右足はスロットル・ペダルを離れてブレーキ・ペダルに移り、急制動、急転舵。そして次の瞬間には朱雀が左腕を射撃態勢にし、両肩のライトを光らせて立ち上がっていた。  「朱雀?」気付いた安芸が叫ぶ。「仁さんですか?」  「待たせたな、お二人さん。道が混んでてな。塩梅はどうだ?」  「敵は分離します! 気を付けて!」と喘ぐように叫ばれたのは初陣の結城の声。  「分離?」  朱雀が上体をひねって周囲を見渡す。投げられたライトの光。すかさず一連射が襲う。  横様に跳ね飛んでかわし、射撃の姿勢を採ろうとしたところに、また一連射。再び横っ跳びに回避する朱雀をさらに銃弾が追う。  「とっ、とっ、とっ!」  三度目には垂直にジャンプし、自分だけ遊撃体制をとっているつもりなのか、少し距離を置いて陣取っている一台に狙いを付け、衝撃波銃を二発ぶち込む。  朱雀の視線と同期して動く両肩のライトが浴びせる光の底で、衝撃波をまともに受けた相手の車両は鈍い音を立てて歪んだ。  「おし!」  「木津さん、それはさっきやった奴です」  着地すると同時に聞こえた結城の声に、木津は標的を確認する。武装暴走車並みの重武装をしたそれは、確かに今し方擱坐したばかりという雰囲気ではなかった。  「この暗さじゃ分からないな」木津は舌打ちする。「阿久っつぁんが気を付けろとか言ってたのはこういうことか」  が、そう思う間もなく朱雀にまたも銃弾が襲いかかる。今度は逆に横飛びで回避。  そこに安芸の声が。  「仁さん! ライト消してください!」  反射的に木津の手がスイッチに伸びた。明るさに慣れた木津の目に、前の闇は一層深くなる。また安芸の声。  「仁さん伏せて!」  これもまた反射的に操作系を動かす木津。  朱雀の痩躯が地に伏せる。その上を今度は重砲弾が抜けて行き、爆発音を伴って背後の壁に穴を穿つ。破片が朱雀の背中でばらばらと音を立てた。  そのままの姿勢で木津は尋ねる。  「向こうはいくつだ?」  「残り五つだと思います」  少しうわずり気味の声で早口に答えたのは結城だった。  「全部でいくついた?」  攻撃を避けるための一呼吸をおいて、結城が答えを返した。  「八です」  「奴は?」  「奴? あうっ!」  叫び声に続いて、何かがぶつかる鈍い音が闇の中から聞こえる。  左手で何かが光った。木津は銃口をそちらへ向ける。トリガーに掛かった指が、だがすんでの所で止められる。銃口の先では、何かに後ろから羽交い締めにされている青龍が、ライトに照らされている。  朱雀の左腕が右に向けられた。木津は今度はトリガーを引く。発せられた衝撃波は結城の青龍を照らし出していたライトを粉々に吹き飛ばした。  再び闇に沈む周囲。朱雀は弾かれるように起き直り、結城の青龍の正面に駆け寄ると、その肩越しにのぞく相手の頭部を狙って衝撃波銃を放った。  まともに衝撃波を受け、相手は腕を緩めて後方に吹っ飛んでいき、その上半身が地面との間に火花を散らして転がった。  上半身?  「こいつ……!」  結城の言っていた分離の意味が、また久我が相手の数を正確に掴めなかった理由がその時木津にもはっきりと分かった。  確かにぱっと見には武装ワーカーだ。だが前と違うのは両肩と裾の張り出したその上体のフォルムだけではない。その裾と肩とに仕掛けがあるのだろうが、上体が台車から分離して、それぞれが別個に攻撃行動をとれるようにしてあるのだ。そのために台車の方もこれまでと違って重武装にしてあるわけだ。  「しばらくだんまりを決め込んでたと思ったら、今度はまた随分と凝った真似をしてきたじゃないか」  そうつぶやきながら見たさっきのワーカーの上体が、恨み骨髄に徹したと言わんばかりの結城の六連射で、ライトに照らされ地面の上を弾みながらひしゃげていく。  「結城さん、ライトは!」  また安芸の声がする。が、今度は少し遅かった。銃弾の何発かが青龍を捉え、右肩のライトが割られて消えた。  結城の舌打ちに安芸の声がかぶさる。  「そっちが撃てば……」  そして衝撃波が車体を捉える鈍い音が。  「こっちには砲火が見えるんだ」  「どこから撃ってんだ進ちゃん?」  答えるように台車の一両が回頭し、砲口を上に向けて撃ち始める。と同時に向こう側の壁を蹴って、安芸の青龍が飛び降りてきた。そして着地すると膝を着き、また一連射を相手に浴びせる。  相手は回避すべく後退する。その先には朱雀の足。虚を突かれた木津は、思わず朱雀の脚を上げ、そのまま台車の上に膝を突き、砲身を掴むと、走り続ける台車に乗る。  「んにゃろっ!」  そう叫ぶなり、左腕の銃口を台車の車輪に近付けて一発見舞う。  車輪を吹き飛ばされ、傾いて路面との間に火花を散らしながら滑っていく台車から朱雀は飛び降り、さらに一撃。衝撃波にあおられた台車は横転擱坐する。  「残り四セットか?」  闇の中を朱雀が見渡す。  うっすらと見えるのは二体の青龍の影。武装ワーカーの姿も、音も消えた。  「どうしたんだ?」と木津。「消えた?」  「どうやら逃げたみたいですね」結城が応じる。「追いますか?」  「逃走方向を見ていらしたんですね?」  安芸の問いに、結城は口ごもるように否定の答えを返した。  「それじゃ追えねぇだろ」  木津の言葉が終わらないうちに、朱雀と青龍の姿が光に照らし出された。三本の左腕が一斉に光源に向けられる。  「撃たないでぇ〜! あたしです!」  「峰さんか……」最初に腕を下ろしたのは安芸の青龍だった。「遅かったじゃないか」  「ごめん、着替えるのにちょっと手間取っちゃって。終わったの?」  「分かりません」結城が答える。「逃げたらしいんですが」  その声に重なるかすかなノイズを、木津は聞き逃さなかった。  「真寿美! ライト消せ!」  「えっ?」  「早く!」  言いながら木津は朱雀をWフォーム、木津の曰く「ハーフ」に変形させ、接近するS−RYに背を向けた。  それを見た安芸は直ぐに反応し、くるりと振り返ると膝を突いた射撃姿勢を採った。それと同時にS−RYのライトが消された。  風を切る音。そして接触音。結城の青龍が振り向きざまに、飛びかかってきた上半身に肘鉄を喰らわしたのだ。  「来たか!」  結城の青龍に接触した上半身は、バランスを崩したか傾いて地面に接触する。すかさず安芸が正確な狙いでその頭部を撃ち、のけぞるように上半身は地面に倒れる。  「な、何なんですかこれ?」  S−RYを変形させることも忘れたままの峰岡に、木津の声が飛ぶ。  「とりあえず体勢とれやな」  「はい」  答えると同時に峰岡の左手が動く。S−RYがハーフに変形。  「上だけか?」と低く結城がつぶやく。  「来ました! 下もです」安芸が言う。そして二両のハーフに視線を走らせると、「仁さん峰さん、下は任せます」  「だから何なんですかぁ、この上と下が別々なのって?」  「『ホット』に訊いてくれ」  そう言うと木津は照準器を食い入るように見つめる。その中に、上下分離して一斉に突っ込んでくる相手。  下が撃ってきた。  二体と二両がすかさず散開。  壁を背に結城は飛んでくる上半身に狙いを付けようとする。が、予想より一つ多い四体の上半身がそれを攪乱するように舞う。  一方の台車は重砲を撃ちながら突っ込んで来る。木津と峰岡が後進をかけてかわす。  木津のハーフが左腕の照準を先頭の台車に着ける。トリガーを引く木津の指。左手首の下に据えられた砲口から放たれた衝撃波は、台車の正面をまともに捉え、弾かれる。  「面の皮の厚い野郎だ。前のワーカーとどっこいの装甲車だな、こいつぁ。だが」  木津の左手の動作に、ハーフは後進から一転全速前進、さらに朱雀へ変形し地を蹴る。闇に舞い上がった赤い痩躯。その左腕が装甲車の上面に向けられる。コクピットで素早く動く木津の指。そして衝撃波。  「これでどうだ! どわっ!」  改修され性能を上げられた衝撃波銃の最大出力を食らって台車が跳ね上がるようにひしゃげるのを見届ける間もなく、正面から銃弾を浴びせかけて来る上半身を朱雀は避けようとしてのけぞり、危うく仕留めたばかりの台車の上に仰向けに落ちかかりそうになる。  「仁さん!」  ハーフのまますれ違いざまに台車の足回りを撃って擱坐させた峰岡が声を上げる。その目の前を、安芸が狙撃した上半身の片腕が飛んでいく。  朱雀は潰れた台車に後ろ手に手を突いて辛うじて上体を支えると、起き直って宙を舞う上半身に衝撃波銃を向ける。仕留めた台車は、電装系に障害を来したらしく、サーチライトの如く空に虚しく電光の帯を描いている。  それをよぎり迫ってくる上半身に、ジャンプした結城の青龍が狙いを着ける。だが上半身の方が反応は早かった。青龍と同様腕に仕込んだ、だが実体弾を発射する銃が先に火を吹いた。朱雀と同じく、のけぞって避ける青龍。しかし木津と違って、結城は回避だけでは済ませなかった。のけぞったまま宙返りをうつと、青龍はその足で、行き過ぎようとする上半身の背中から肩口にかけて蹴りを食らわせたのだ。  蹴られた上半身は前のめりにバランスを崩した。飛行の速度が落ちる。その隙を見落とさなかった結城は着地すると振り向きざまに衝撃波銃を撃った。収束率の上げられた衝撃波が上半身の肩を捉え、撃たれた上半身は墜ちながらもなお銃弾を巻き散らす。だがその抵抗も安芸の青龍に銃身を潰されて止んだ。  木津は口笛を吹いた。  「オーバーヘッドキックとはかっこいいじゃないか、結城さん」  「まだ来ます!」安芸の声が飛ぶ。  同時に短く砲声が響き、煌々と光っていた台車のライトが割られて消えた。  再び、闇。  次の瞬間、背後から炸裂音と爆風が。あおられた峰岡が声を上げる。  「どこだ!」  振り返る木津の目に、炎をバックにした峰岡のハーフの影がくっきりと見える。  「峰さんまずい!」安芸が叫ぶ。「そこを離れて!」  峰岡はスロットル・ペダルを踏み込む。それとほぼ同時に衝撃がコクピットを襲った。  上半身が二つ、峰岡のハーフに左右から飛びかかったのだ。そして、片腕を失った上半身がハーフの右腕をつかみ、左腕はもう一体が両腕でがっしりと抱えていた。  反射的にブレーキ・ペダルを踏む峰岡。  右の片腕の奴がハーフの背中の方に回り込み、ハーフの右腕をねじあげる。峰岡の耳に軋みの音がわずかながら聞こえた。計器盤に警告灯の黄色い光が明滅する。戻そうとするハーフ.だが上半身は動かない。  左に組み付いた奴が片方の腕でハーフの左腕を抱え込んだまま、もう片方の腕に仕込まれた銃の先を車輪に向けた。  「やばい!」  木津が衝撃波銃を左の奴に向ける。銃の仕込まれた奴の右腕は、峰岡のハーフの腕の陰になって見えない。トリガーに掛かりかけた指が一瞬躊躇する。が、次の瞬間奴の頭が衝撃波を受けて潰れた。  「進ちゃんか!」  撃たれたショックで上半身は抱きこんだハーフの腕を軸にぐるぐると回る。峰岡が左腕を後ろに振り、背後に回り込もうとしていたもう一つの上半身にそれをぶつけに行く。右の上半身が回避すべく前に出た。  その時、炎に照らされて紫色に鈍く光る機体が空に躍り上がった。  結城だった。  その左足が正確に右の上半身の頭を蹴り飛ばした。その勢いで腕をつかんでいた手がほどけ、上半身は炎の方へ飛んでいく。青龍が出力と収束率を最大に上げて衝撃波をそこにぶち込む。上半身は胸の中央を衝撃波に射抜かれ、そのまま炎の中に転がっていった。  着地して膝を突き、射撃体勢を取る結城の青龍を、上半身が搭載していた実体弾の炸薬が誘爆を起こす爆風が襲った。その横で峰岡のハーフが左腕の上半身を振り落とし、青龍に変形した。  「残りは?」  自分も朱雀に変形させながら木津が問う。上半身も装甲台車も共に姿を消していた。  「今度こそ逃げたんでしょうか?」  立ち上がりながら結城が言う。  「まだ分かりませんね」と安芸。周囲に転がる残骸を数えながら、「あと二セット、ですか」  その時、峰岡があっと声を上げた。  「来たか?!」  勢い込む木津が見ると、峰岡の青龍の指さす先は火勢の収まりかけた爆炎の下方、地面の所だった。そこに煙を上げながら転がっているものは、明らかに人間の姿をしていた。  峰岡が青龍の腰から灰白色のカプセルを取り出し、炎に投げつけた。途端にカプセルは弾け、消火剤が周囲に舞った。  峰岡と結城に警戒態勢を指示する安芸の声を聞きながら、仰向けになった体の脇で、朱雀がS−ZCに戻る。木津が降りてその体の横に屈み込む。  「おい! 生きてるか?」  まだかすかに煙の上がるスーツの前を開いてやる。浅い呼吸につれて動く胸から皮膚の焦げる臭いがわずかに立ちのぼり、木津は顔をしかめながらさらにヘルメットをはずしてやった。  閉じられていた目が薄く開いた。と、その目は自分を見下ろす影に気付くと一転大きく 見開かれた。  「気が付いたか?」  唇が動いた。そして潰された喉から絞り出されるような、ほとんど聞き取れないような声がそこから漏れ出した。  「き……さま……木津……」  今度は木津の目が見開かれる番だった。両手で倒れた男の肩をつかんで揺する。  「貴様ら、いや、『ホット』は俺と分かってて狙ったのか?! 何故?!」  答えはない。代わりに安芸の声が無線から開け放ったドアを通って聞こえてきた。  「仁さん! 残りが来ます!」  「くそっ」  立ち上がり、もう一度視線を男に投げると、木津はコクピットに飛び込んだ。ドアノブと変形レバーに同時に手をやる。  立ち上がった朱雀は、単機で飛んでくる上半身を視界に捉えた。  「単機?」  が、そいつは木津たちに向かっては来ず、高度だけをひたすらに上げていく。  三体の青龍は壁を背にした。  男を足元に、朱雀は動かない。  青龍の六つのライトが上空に長い光条を投げる。その果てにかすかに見える輪郭が、一転空気を切る異様な響きを伴って、急速に大きくなってくる。  上半身が垂直降下を始めたのだ。  青龍の三門の衝撃波銃が次々に放たれる。数発の直撃を受けても、しかし上半身は進路を変えることなく真逆様に突っ込んで来る。  その先には朱雀が。  仰向く朱雀の顔。目許に一瞬光が走る。左腕が真上に伸びる。  上半身の腕はこちらを向いていない。撃たないつもりか。いや、何かを抱えている。  左の指がスイッチに走る。右の指がトリガーを二度引いた。  衝撃波が上半身の全体にまとわり付く。共鳴する薄い装甲。組まれた両腕がわずかに緩む。そこに突っ込んでいく最大に絞り込まれた第二波の衝撃波。  衝撃波は上半身の頭の頂に突き刺さる。一瞬上半身は空中で止まったかに見えた。上半身は青龍の銃撃を受け、横に飛ばされて壁を越え廃工場の敷地内に墜落して行く。だが抱えられていた暗灰色の塊が両腕の間からずり落ち、そのまま真っ直ぐに落下する。  「爆発物だ! 回避!」  安芸の声に三体の青龍が揃って跳躍し、聳える壁の上を蹴って後退する。  木津は朱雀の足元に横たわる男、自分の名を口走った男にもう一度視線を投げる。  「仁さん早く!」  木津は低くうなった。  朱雀のボディがふっと小さく屈む。と、その姿はS−ZCの低いフォルムに変形し、後進。台車の残骸をすり抜けると、スピン・ターン。全速で離脱する。  数秒後、後方モニターに熔けるような赤黒い炎が広がり、上半身の、台車の残骸と、そしてまだ生きていたあの男の体をも呑み込んでいった。  最初に駐車場に滑り込んで来たS−RYのコクピットで、安芸がおやと声を上げた。  「ディレクター、お帰りだったんですか」  木津もウィンドウ越しに外へ視線を走らせる。駐車場の一番奥に穿たれた窓越しに、久我の姿が見えた。  「夜更かしはお肌に毒よ」  木津の軽口には返事をせず、久我は帰還する四台をじっと見つめている。  木津は口を尖らせた。  「ちょっとぐらい反応してくれたっていいのにさ、真寿美程とは言わんけど」  レシーバーからは峰岡のけたたましい笑い声が聞こえてくる。  三台のS−RYが、続いてS−ZCが駐車場の定位置に入って来、エンジンが次々に回転を止める。  ドアが開き四人のドライバーが降り立つ。外されるヘルメット、現れる汗の流れる顔。中に一つだけヘルメットのない顔が。それを見た久我の目がわずかに見開かれる。が、それには何も触れず、久我はまず全員に労いの言葉をかけたが、いつもながらあまり実感のこもった声には聞こえなかった。  整備士たちがVCDVに駆け寄り、走行記録ユニットを外しにかかる。一方久我は二〇分後に全員自分の執務室に集合するようにと命じて、足早にその場を後にする。  午前一時三十五分、久我執務室に続く会議室。久我と阿久津、そして着替える必要の無かった木津がもう席に着いている所に、後の三人が連れ立って入ってきた。  「遅くなりました」と結城。それを受けて久我が開始を宣する。  「今回、私が直接指揮を取れない状況ではありましたが、何らの問題なく対応を完了できたことは喜ばしく思います」と、これもまたあまり実感のこもった表情をせずに久我。「それから今回結城さんが初めての出動でしたが、無事任務を完了された旨、当局に報告致します。このことは可変刑事捜索車両の当局導入にとって強い推進力となるでしょう」  結城が照れたような微笑を浮かべる。その横で、久我にしては珍しくつまらないことを喋るな、と木津は思う。「そういう話ばっかり続くようなら、ぼちぼち寝かせてもらいたいんだがね。お肌が荒れちゃうからさ」  表情のない一瞥を木津に投げると、久我は「それでは本題のディブリーフィングに入ります」と言った。  走行記録の情報、各員の戦果が報告された後、話が相手の機体へと及んだが、ここからは阿久津の独壇場だった。  「あの上半身だけってのは、例のホヴァ・クラフトの応用だろう。肩と裾のところに揚力装置と姿勢制御装置が入っとるんだろうな。 だが、実体弾と発射装置を積んどるんじゃさぞかし重たかったろうて」  「撹乱用って訳かい」と木津。  「まあ役に立ってもそんなとこだろう。もっとも残骸がまともに改修できない状況だっちゅうんじゃ確かめようもないがな」  話を引き取ったのは木津だった。  「まさか残骸を焼却するとはな」口を切りながら、木津はあの地面をなめ回す真っ赤な舌のような炎を思い出していた。「今度の機体はそうまでしなきゃいけないような代物だったんかね?」  「むしろ」久我が言う。「機体と言うよりは乗員の処理だったかも知れません」  「つーことは、『ホット』はあの中にはいなかったってことだな。大将を焼き払うとは思えないしな」  「そう言えば、木津さんが接触できた乗員がいましたね?」と結城が口を挟む。  「別に忘れてた訳じゃないんだ。それどころか気持ち悪くてさ」  「焼け焦げていたんですか?」  結城の言葉に峰岡が思わず手で口許を覆う。  「それもあったが、それだけじゃない」  先を促すような久我の視線をちらりと見返すと、木津は続ける。「俺が朱雀に乗ってるのを知ってたような口振りだったんだ。知ってて俺を狙ってきたような」  「『ホット』の目標が仁さん個人だと?」  「そんな気がしてこないでもないぜ」  「甲種手配対象者がですか?」怪訝そうな結城の声。「そのクラスの犯罪者が、個人レベルを動機に動くものでしょうか?」  そこに聞こえたのは久我の言葉だった。  「何が動機なのかは、まだつかめていません。個人的なものなのか、そうでないのか」  「個人的なものかも知れないっていう可能性も否定しないんですね?」峰岡が言う。  峰岡に顔を向けると、久我は言った。  「予断は出来ません」  「それでも気分悪いよな」腕を組み椅子に反り返って「名指しされるってのは」  「木津さんはS−ZCでの出動も一再ならずありますね」と久我。「それに一度はS−ZCで自宅に戻られてもいます。その折りにマークされていても不思議はないでしょう」  「それにレースに出てた時にも有名だったんでしょ?」峰岡が尋ねる。  「んにゃ、じぇんじぇん」首を横に振る木津。「レースじゃ地味なもんだったぜ」  と、木津の目元に少し影が落ちた。  まさか……? Chase 10 − 集められた腕  「よーし、上がってくれや」  阿久津の声を聞くと、テストドライバーはスロットル・ペダルを踏む足の力を徐ろに緩めていった。  テストコースを離れ、テスト車両は開発現場専用の出入口の奥へとへ消えていく。  艤装に偽装を施した車体は、低速で作業ピットの上に進むと、マーキングされた位置にぴたりと止まった。  作業員が数人走り寄って作業に取り掛かる中で、ドアが開き、ハリネズミのように計測センサーのケーブルが付いたスーツを着たドライバーが降り立った。その両手がヘルメットを持ち上げると、汗一つかいていない木津の顔が現れた。  「仁ちゃんお疲れさん」  ディスプレイ画面越しに阿久津が労いの言葉を掛ける。まだテストコースの管制室から戻って来られていないらしい。  「おうさ」とそれでも木津は返事をする。「いい結果が取れたかい?」  「おかげさんでな、上々だよ」と言う口調は、言葉が決してお世辞に留まってはいないことを示していた。「そいつの乗り心地はどんなもんだったかね?」  「そうさね」脱いだヘルメットを右手の上でぽんぽんと弾ませながら「青龍よりは気持ちパワーが出てる感じだったな。もっとも朱雀にゃまるでかなわないがね。と、挙動は青龍よりマイルドだったな。初心者向けのセッティングなのかね。トータルバランス重視に振ったろ」  「さすがだな、その通りだよ」  「んでもさ」ヘルメットの弾みが止まる。木津はもう一度テスト車両に目をくれると、「偽装にしても、こんなにケツを膨らませることはなかったんじゃないか? キャンプに行くわけでもあるまいし」  息が漏れてくるような阿久津の笑い声がスピーカーから聞こえる。  「尻の大きいのは嫌いかね?」  「どっちかっつーと細身の方が好みだね」  また阿久津の笑い声。  「ま、よかろう。いずれにせよこいつはお主の車にゃなるまいからな」  脇から差し出されたミネラル・ウォーターのボトルを受け取って半分近くを一気に呷ると、息を吐きながら  「てぇと?」  「もう言ってしまってもいいんだろうな。ロールアウトも間近だし。こいつはな、当局にも納めるんだ」  「ほぉ、いよいよ当局でも導入かい」  「まぁ一部はうちで使うらしいんだがな」  「それが俺じゃないわけね。ま、ああいうマイルド系よりは、俺は朱雀みたいにがんがん来る方が好みだけどさ。で、一体誰が乗るんだ?」  画面の中で肩をすくめながら、阿久津は答えた。  「そいつぁ久我ディレクターの領分だ」  その久我ディレクターの執務室。  ソファに座ってデスクの久我の電話が終わるのを待っているのは安芸だった。  漏れ聞こえてくる久我の応答は相も変わらず表情のないものだったが、それでもある種の朗報が伝えられているらしいことは安芸にも感じ取れていた。  受話器が置かれた。  「申し訳ありませんでした」  と言いながら久我はソファに腰を下ろすと、デスクの上から取り上げてきた資料のバインダを安芸に手渡し、見るように促した。  表紙をめくった安芸の手が最初の一ページで止まる。そこに久我が話し始める。  「ご覧の通り、G−MBの最終仕様が決まりました。ロールアウトは一週間後です。配備数はこちらと当局とで合計八両、全て同時に配備実施します」  安芸はうなずくと、「その八両の内訳をお聞かせ願えますか?」  「シリアル一から四までをこちらで、五から八までを当局で運用する予定です」  「四両ずつですか……」  安芸は再びうなずく。その様子を見て、久我は説明を続けた。  「当局は特設チームを設置して、この四両を運用します。私たちでも同じく、G−MBは専従チームでの運用とします。そこであなたにチーム・リーダーを任せることにしました。ロールアウト時には当局から関係者を招いてデモ走行を行いますが、その際のドライバーも務めていただきます」  資料に向けられていた安芸の顔がはっと上がった。呼ばれて資料を渡されたことから、大体の見当は付いてはいたが、久我の口から直接、あの独特な口調で言われると、それは妙な重みを持って聞こえるのだった。  「了解しました」  安芸は落ち着いた口調で答える。  久我がゆっくりとうなずく。  「それで残りの三両は、今VCDVの運用に携わっているメンバーに全てあてがわれるのですね?」  久我の答えは否定のそれだった。  「まず結城さんには新チームに加わっていただきます。それから小松さんが復帰しますので彼もメンバーとなります」  小松の名を聞いて、その存在を忘れていた安芸は思わず苦笑いした。  「残り一両については、当局からもう一名の派遣を受け入れることになりました。資料の中に今回の人選と各人のプロフィールを入れてあります。もっとも結城、小松の両名については改めて言うまでもないでしょう」  その言葉を聞きながら、安芸の指は資料のページを繰っていた。そして新しいチームの編成に関する部分に行き着いた。  先頭の自分の名に続いて、小松潔、結城鋭祐、そして新たな名、由良滋の名があった。  安芸はさらにページを繰り、新メンバーとなるらしい由良滋という男のプロフィールを開いた。  「……当局では高速機動隊ですか。ああ、結城さんとは別の分隊なんですね。トレーニングは……これからですか?」  「そうです。なので、実際四両で運用を開始するのは一ヶ月後ということになります」  「そして我々の機種転換訓練もその間ということになるわけですね?」  「その通りです。もっとも訓練が必要となるほどS−RYとの間に違いはないと開発の方からは言ってきています」  一旦資料を閉じた安芸は、椅子に腰を落ち着け直すと、再び口を切った。  「このチームに峰岡さんと木津さんが入らなかったのは何故ですか?」  「今回編成のチームは専従という位置付けです。峰岡さんは現状通常業務から離れることが出来ません」  久我の言葉がそこで途切れた。が、安芸がおやと思う間もなく、続けて  「また木津さんはテスト・ドライバーの業務があります」  違うな、と安芸は思った。仁さんをわざわざ量産クラスの機体に縛り付けることはないという判断だろう。自分だってディレクターの立場だったら、朱雀というじゃじゃ馬を乗りこなしてもらう方を選ぶに違いない。なぜそうと言わないのだろう?  が、もちろん久我がそれ以上を言うはずはなく、安芸は静かに了解した旨を告げた。  夜半近く、ふらりと休憩室へと出向いた木津は、ドアの前でふと足を止めた。  中からウクレレの音が聞こえてくる。  ドアを開けると、椅子に腰掛けた後ろ姿がウクレレをかき鳴らす手を止め、ゆっくりと振り返った。  「あ、仁さん」  弾き手は安芸だった。  「こんな時間まで残業かい?」  「ええ、で、ちょっと気分転換に」  木津は安芸の向かいに座ると、煙草に火を点けて、煙の間から言う。  「ウクレレなんか弾けたんだな」  「手慰み程度ですけど」と答えると、安芸は弦の一本を人差し指でぴんと撥ねて見せた。他には誰もおらず、灯りだけが妙に明るい休憩室の中に、どことなく寂しげな音が響く。  「何だかえらく忙しそうじゃないか。今度の新しいやつ絡みの仕事?」  「もう知ってらしたんですか」  「阿久っつぁんからのコネでね。それに、テストも何回もさせられたし」  「それもそうですね」  言いながら安芸は低いテーブルの上にウクレレを置いて、軽く伸びをした。  「でも」木津が言う。「阿久っつぁんはうちで誰が乗るんだかは知らないらしいんだ」  おや、という風に眉を上げる安芸。  「本当は仲が悪いんじゃないかね、阿久っつぁんとおばさんは。コミュニケーションが取れてないって感じがするぜ」  「仲が悪いという訳じゃないと思いますけど、確かに阿久津主管は久我ディレクターにあんまりいい顔をして見せたことはないですね。きっと主管の職人気質がディレクターの事務処理的なところと相容れないんでしょう」  「なるへそ」と応じながら木津は灰皿に煙草の灰を落とす。「そう言う進ちゃんは分析的性格だよな。冷静沈着で。指揮官タイプなんじゃないかい?」  「そういうことなんでしょうかね」  安芸の言葉を聞いて、木津は怪訝そうな顔をしてみせる。  「そういうことってどういうこと?」  安芸がまたおやという顔をする。  「どういうって、私が新チームのリーダーを任されたってことですよ」  今度は木津がおやという顔。  「あ、そうだったんだ」  「知ってたわけじゃなかったんですか。残業の理由がとか言われるから、てっきりそうだと思いましたよ」  煙草をくわえた木津がウクレレを取り上げて、ちゃん、ちゃんと落ちを付ける。  「これだけは弾ける」  そう言うと木津はウクレレを置き煙草をもみ消して、飲料の自動販売機へと立った。  安芸は笑うと、ウクレレを再び取り上げて、陽気でいてのんびりとした曲を奏で始めた。  トマト・ジュースを手に木津は戻って来ると、安芸に新型の実物を見たかと訊ねた。安芸はウクレレを弾く手を止めず、久我から資料だけを見せられたと答え、さらに新チームのメンバーについても触れた。  「ほぉ」トマト・ジュースをごくりと飲み下して木津が言う。「てぇと、お茶くみは今まで通り青龍に乗るわけだ」  「彼女はほとんどディレクターの秘書ですからね、こっち専任というわけにもいかないんでしょう。だから必要に応じて支援に出る形になるんでしょうね」  「都合のいいやっちゃ、あのおばはんも」そしてジュースをもう一口飲むと、「ところで、何て言ったっけ、新型のコード」  「G−MBです」  「今度は頭がSで始まってないんだな」  「Sは試作機のコードですから。今度のは当局にも配備するので、生産型のコードをふったんですよ」  「G−MBか……」木津が顎をしゃくる。「んじゃ、通称は『ガンバ』ってとこか?」  ウクレレの音が止まる。代わりに笑い声。  「青龍朱雀と来てガンバはないでしょう」 「真面目にとらないよーに」と木津も笑う。 「ま、順当に『玄武』ってとこだろうな」  「ですね」  トマト・ジュースの残りをくいっと飲み干すと、また煙草に火を点けて木津が尋ねる。  「そう言えばさ、久我のおばさんは通称を使わないじゃない。何でか知ってる?」  「ああ」言われて初めて安芸は気が付いたようだった。「そう言えば。正式じゃないからかも知れませんね」  「それだけのことかいな」  木津は肩をすくめた。  「仁さん、そろそろ行きませんか?」  部屋に顔を出したのは、デート用の装備ではなくいつもの事務服姿の峰岡だった。  汎用可変刑事捜索車両、LOVE開発コードG−MBのロールアウトの日である。  「おうさ」  返事をすると、木津はそれまでごろごろしていたベッドの上に起き直り、一つ大きく伸びをした。  ドアの外では峰岡が待っていた。  「進ちゃんに会ったかい?」  「はい。何かいつも通りで拍子抜けでしたよ。全然緊張してない感じで」  「ドンパチの相手に比べりゃ、当局のお偉いさんなんか屁でもなかっぺ」  「それはまあそうですけど……」  「けど?」  「その表現何とかなりませんか?」  木津は何も言わず、ただにやりとしただけで、そのお偉方の待つはずのテストコースへと歩を進めた。  いつもは阿久津とその部下たちの陣取る管制室に、今日は追加の椅子が何脚か置いてある。管制スタッフの姿がまだない代わりに、窓を向いたその内の一つには既に結城が腰を下ろしていた。  「相変わらずご熱心ですね、結城さん」  峰岡が声を掛けると、結城は立ち上がっておはようございますと頭を下げた。  「やっぱり任される車両の初走行ですから、しっかり見ておきたいと思いまして」  「今日は向こうでの上司も出席されるんですか?」と木津が問う。  「そう聞いています」  「いいとこ見せ損ねた、てとこですかね」  この木津の言葉に結城は曖昧な笑みを浮かべて応える。  「でも安芸さんの方がVCDVの扱いには慣れていらっしゃる訳ですし、こちらのメンバーの方がやるのが筋だとも思います」  「結城さんは当局に戻られるんじゃないんですよね?」と、これは峰岡。  「はい、こちらでの任務を継続します」  「当局からもう一人来られるんですよね。結城さんのお知り合いの方ですか?」  「いえ……」  それ以上の説明は、久我を先頭に管制室に入ってきた一群に遮られた。  久我の後ろに続くのは負傷のやっと癒えた小松、それからネクタイとダーク・スーツに身を固めた中年男三人と、半歩さがってもう一人、これはまだ若い、安芸や結城と同じ位の歳の男だ。  結城は椅子から腰を上げ、峰岡と共にその群れに頭を下げる。木津も一応それに倣う。  男たちが黙ったまま礼を返す。それを見て久我が男たちに向き直り、  「こちらの四名が現在当研究所で試験運用にあたっているドライバーです。あともう一名おりますが、これは今からお目にかけるデモ走行のドライバーを務めます」  そしてスーツ姿の四人に腰掛けるよう勧め、埋まった席の後ろの列に木津たちが陣取った。  「もう少々お待ちください。ただいま開発担当者が参ります」  久我のこの台詞に、木津は思わずにやりとする。さすが阿久っつぁんだ、当局のお偉いでも平気で待たせやがる。  その間に結城が、座った中の二番目の男に近付いて再度頭を下げ、何やら話し始めた。それがどうやら結城の当局での上長らしい。  隣りの二人がそれとは別に話を始めたが、歳上の方が若い男を由良君由良君と呼んでいることから、若い方が新たに派遣されてきた由良滋であることは間違いなかった。  五分ほどして、「お揃いでしたか。お待たせして申し訳ありませんな」と言いながら、悪びれる風もなく阿久津が姿を現した。  「お披露目には万全を期したいと思いましてな。最後の調整に少々手間取りましたが、これで最高の試運転をお目にかけられます」  いけ好かないおやじだ、という顔をするお偉いに、久我が開発主管を紹介する。  「今回の走行の管制は彼が行います」  それからやっとMISSESのメンバーに対して来賓の紹介がされた。曰く、順に当局のVCDV運用新チーム管理者、結城の所属している高速機動隊の部隊長、同じく高速機動隊の別の部隊の部隊長、そしてその配下でMISSESに新規加入する由良滋。  「では」と、遅れて来ていながら紹介の終わるのが待ちきれなかったかのように阿久津が言う。「始めてよろしいですかな?」  当局の面々は特に何の反応も返さない。代わりに久我がお願いしますと返し、MISSESのメンバーには着席を促した。  阿久津が管制官席に着く。その顔つきが一変したのに気付くのは木津だけだった。  「準備よろしいか?」との阿久津の言葉に、安芸の声が肯定の返事。  「よろし、微速でゼロ位置に付け、一旦停止後フル加速で全速、ゼロ位置通過後三周し半速までフル減速、Wフォームに変形し作業及び射撃一周、次いでMフォームに変形、射撃及び作業の実施」  「了解」  何てこたぁない、と木津は思う。進ちゃんなら何の苦もなくこなすプログラムだ。それにこいつら、俺たちの今までの出動を見たことがないのか? ワーカーの作業とは話が違うってこと分かってんのかね。  「来ました来ました」  峰岡の声に我に返って、木津も窓の外に視線を移す。  「あれがG−MBか……」  指示通り微速で姿を現したのは、ガンメタルの車体色、ツーボックス・ワゴンタイプのボディだった。  峰岡が意外そうな声を漏らした。  「あら〜、何だかスマートじゃないですね」  峰岡のS−RYも、木津のS−ZCもクーペ風のボディを持っている。それに比べて、このG−MBは鈍重そうにさえ見える。  当局のお偉いにはこれという反応がない。ただ由良一人がこれから自分も乗るはずの機体を少しでもよく見ようとしてか、わずかに上半身を乗り出しただけだった。  ゆるゆるとG−MBは進み、ゼロ位置と呼ばれたスタートに着いた。  スピーカーから安芸の声。  「ゼロ位置にてスタンバイ完了」  聞いた阿久津が振り返り、  「ではよろしいですかな?」  異を唱える者のないことを見てとると、阿久津は再度マイクに向かい、スタートの指示を出した。  窓の外を見つめる当局の面々の沈黙は、直ぐに嘆声に変わった。見かけによらない加速と制動、挙動の敏捷性、Wフォームへの流れるような変形と、繰り出された腕の動作の正確さ、射撃の精度。どれひとつをとって見ても、当局勢をうならせないものはなかった。  その様子を見て木津は皮肉っぽい微笑を浮かべていた。ドライバーが良すぎるぜ、こりゃあ。それにG−MBは一見重そうに見えるとは言え、実際にはS−RYよりはパワーが出ている。かてて加えて、射撃の腕は隊内でピカ一の進ちゃんだ。誇大広告だよ。  「いよいよMフォームですね」  峰岡は少し乗り出し気味になる。ハーフが最後のコーナーを回り、ゼロ位置に向かう。そのラインを踏み越した次の瞬間、Mフォーム「玄武」が立ち上がる。青龍や朱雀に比べてがっしりとした体格、バックパックを背負ったようなそのフォルム。  「なるほどね、荷室はああなるわけだ」  と、玄武の右腕が一瞬「バックパック」へ伸ばされる。  木津も思わず声を上げた。  次の瞬間、玄武はハンドガンを構え、射撃の姿勢をとっていた。そして同じように素早い動作でハンドガンをバックパックに戻す。  「G−MBの特徴として」久我の声がそこへ割り込む。「ご覧のように固定装備以外の機器を携行し、人間型、私たちはMフォームと呼んでいますが」  「おばさんだけだって、そう呼んでるのは」と木津が隣りの峰岡だけに聞こえるように小声で茶々を入れ、峰岡を笑わせる。  「その形態の時に自由に活用できるようにしたことがあります」  また安芸が見事な射撃の腕前と操作を披露し、最後に管制室の前に玄武を立たせた。  当局のお偉いたちは腕を組み驚嘆のうなり声を上げ、由良はその頬を紅潮させていた。  「これを我々が使うことになるのですな」と分かり切ったことを当局新チームのトップになる男が言う。  「その通りです」久我が答える。  結城の上長が長い息を吐いた。  「うちの結城にもこれだけのものが使いこなせる、というわけですか?」  久我がさっきと全く同じ返事をする。  「なら君にも出来るな、由良君」ともう一人が言い、由良がわずかにうなずく。  「なるほど」と最初のお偉いが再度口を開く。「スピードと正確さについては十分見せてもらいました。ただもう一点、パワーの面でデモンストレーションが不足してはおりませんか?」  阿久津が管制官席から振り返る。  「ほう、ではその点如何様にご覧に入れればよろしいですかな?」  「我々には力仕事的な内容に対処できる機体が必要です。それを拝見したい。例えば、この捜査支援車両同士の模擬戦で」  阿久津はふんと鼻を鳴らすと、久我に向かって意向を質す。  久我は平然と答えた。  「この場でお目に掛ける必要は無いと思われます。何故なら、実際に私たちの方が先に出動することになるでしょうが、その実績をお伝えすることで御要望には応えられると思われるからです」  件のお偉いは腕を組み、口を開きかける。と、それを遮るように久我の電話が鳴る。  失礼、と一言残し、久我は管制室の隅へ。それを塩に、当局組はまた内輪で話を始める。  が、それも戻ってきた久我に再び遮られた。  「早速G−MBの実地性能をお目に掛ける機会に恵まれたようです」  この言葉に木津が、次いで峰岡が立ち上がる。が、久我は管制台の阿久津の横に立つと、マイクを取った。  「出動要請です。ワーカー四両、G区倉庫街にて器物破壊行為を行っているとのこと。安芸、結城の両名はG−MBで出動」  「了解、結城さんのスタンバイ待ちます」  結城が駐車場に走ると、久我は当局の四人に執務室へ同道するように言った。  「で、こっちは?」と木津が問う。  「これで解散とします」  何だ、内輪にゃ玄武の初陣は見せてくれないのか。肩をすくめる木津をよそに、久我は峰岡に茶の準備を命じた。  その夕方。  就業時間の終わった後で、ウクレレの音に誘われて、木津はまた休憩室にぶらりと入ってきた。  「いよぉ、お疲れさん」  声を掛けると、安芸が振り返る前にその前に腰を下ろして続けた。  「どうだった?」  安芸はぱっと弦を払って演奏を中断する。  「簡単に片付きました。十六、七の子供がワーカーを盗んで暴れてみたというだけの話でしたから」  「ふぅん」  つまり、今回は「ホット」とは何の関わりもなかったわけだ。  「で、新型の乗り心地はどう?」  「青龍よりパワーと操作性は少しアップしてましたから、あれなら当局に入れても、慣れるのは早いかも知れません」  「あれは使ったんかい? リュックサックの中身にあれこれ詰まってるやつってのは」  「ああ」安芸は笑いながら「デモで見せた拳銃ですか? あれは張りぼてですよ。衝撃波銃の腕への装備は踏襲してるわけですから、わざわざ別の火器なんか持たなくても」  木津は半ば呆気にとられたような顔で言う。  「んじゃ、何だってあんなもんを」  「その方が当局向けにはアピールしやすいだろうという判断ですかね」  「誰の?」  「多分ディレクターのでしょう。それに出動の生中継もあったようですし、当局の方々もなかなかに満足されていたらしいですよ」  「商売人やねぇ」  そう言いながら木津は煙草に火を点けた。  それを見ながら、今度は安芸が訊ねた。  「仁さんは、久我ディレクターに対しては手厳しい言葉が多いですね」  「ん……そうかな。意識してやってるつもりはないんだけどね」  「女性としてはタイプではない?」  煙草をくわえた木津の口の端が少し持ち上がる。開かない唇の間から言う。  「進ちゃんがそういう話をするとは、予想もつかなかったよ」  安芸は安芸で、そう切り返されても別段慌てた様子もなく応える。  「仁さんはこういう話が嫌いじゃないと思ったんですが」  木津はにやにやしながら、  「そりゃ嫌いじゃないけどさ、久我のおばさんを女として意識しなきゃならんほどじゃないぜ」  「痛烈ですね。確かにディレクターとしての手腕は男勝りですけど」  「だべ? 何、もしかして進ちゃんはああいうのがお好み?」  「決してそういうわけではないです」という冷静な安芸の応えに、つい木津は吹き出す。  「力説しなくたっていいよ」  安芸も歯を見せる。  と、そこに例の弾けた声が割り込む。  「何話してるんですかぁ?」  帰り支度を済ませ、ピンク色のふかふかとボリュームのあるセーターに埋まりかけたような峰岡が小走りに近付いてきた。  「仕事終わったの?」と安芸が訊ねる。  「うん、引き渡しの手続きも済んでお客さんも帰られたし、由良さんが来られるのは来週からだから、準備も慌てなくっていいし」  「お客さんの反応はどうだった?」  木津が訊ねる。  「生中継にはさすがに感動してたみたいですよ。相手があれなら手際よく見せられますし。不満そうにしてた人いましたよね、あの人ももう文句なしって感じでした」  「不満?」と首を傾げる安芸に、木津が管制室での経緯を話して聞かせる。  「それはそうと」木津の横に座ると、峰岡が話を戻す。「男同士で何のお話してたんですか?」  「高尚且つ深遠な永遠の謎について」と木津が真顔を作って言う。「な?」  安芸は笑うだけで何も言わない。  峰岡は二人の顔を交互に見比べて言う。  「またそんな冗談ばっかり」  「冗談じゃないさ。久我ディレクターが女であるか否か、じゃない、男の好む女のタイプは何故こうも多様性に富んでいるか、てのは永遠の謎じゃないかね?」  「え、えーと……うーん」  真剣に考え込み峰岡を見て、男二人は顔を見合わせて吹き出した。  それも目には入らないかのように八の字を寄せていた峰岡が、急に右の拳を左の掌にぽんと打ち付けた。  「うん、そうだ」  そしてくるりと向き直ると、  「安芸君、今夜は当番?」  「いや、昼間のデモをやったから免除だって。今夜は結城さんと小松さんが当たる」  「残業は?」  「どうしようか考えてた。考える余地のある程度のものだけど」  「そっかぁ。で、仁さんは聞くまでもなく暇ですよね。それじゃ、これから三人でお酒でも飲みながらその重大で難問の哲学について語り合いましょう。ね?」  木津と安芸はまた顔を見合わせる。  「どうだい? 行くか?」  口振りはあくまで質問だが、表情はもうその気十分の木津に、安芸もまんざらではない様子で答える。  「いいですね」  「おっしゃ、決定だ」  木津は立ち上がり、安芸もそれに続いた。  小さく万歳をして峰岡が言う。  「それじゃお店は任せて下さいね」 Chase 11 − 忘れられた歌  けたたましい目覚まし時計のベルが鳴ると、丘のように盛りあがった布団からのたのたと片方の手だけがにじり出てくる。  その手は手探りで時計の在処を探り当てると、ベルのスイッチを押そうとして一度見事に空振りし、次の一撃はヘッドボードを直撃、三度目でようやく静寂の回復に成功した。  それからもう一方の腕が布団から伸びてきて、二本揃ってうんと伸びる。  続いてようやく頭が出てきた。短い髪の毛が寝ぐせであちらこちらに跳ねている。少し顔がはれぼったいような感じもする。昨夜のお酒が残っちゃったかな?  とても二日酔いとは見えない軽快さで起き直ると、峰岡はベッドから降りて足どりもまた軽やかに洗面台に向かった。  まるで少年のような威勢のよさで顔を洗うと、顔を拭ったタオルを絞って頭に巻き、パジャマのままでキッチンに立って朝食の支度、さらにコーヒーを沸かす間にクローゼットの扉を開いた。  パジャマの上下がベッドの上に放り投げられ、わずかの間露わになった、VCDVの乗り手にしては華奢な裸身が、ベージュのブラウスとワインレッドのスカートに包まれた。  頭のタオルはそのままに、シリアルとサラダとヨーグルトにカフェ・オ・レの並ぶテーブルに着くと、テレビのスイッチが入れられる。天気予報は晴れ、季節の割には穏やかに暖かくなるらしい。後はルールをよく知らないスポーツのニュースを聞き流しながら、朝食の皿をたいらげる。  甘いカフェ・オ・レを飲み干すと、食器一式は洗浄機の中に並べて、自身は歯磨きのための洗面台経由でドレッサーの前に陣取る。巻いたタオルの下で、跳ねていた髪はどうやらおとなしくなったようだ。こいつに軽くブローして止めを刺し、していないと同然の化粧をすると、モスグリーンの厚手のカーディガンを羽織り、洒落っ気のない代わりに機能性は十二分のショルダーバッグを取り上げた。  出発準備完了。  エレベータでアパートの地下に降りる。駐車場には通勤用のパステル・イエローの小さな丸い車。まさかこの車の運転手がS−RYのような代物を操り、暴走車両の相手をまでするのだとは、誰も思うまい。  キー・カードを押し込み、スタータ・ボタンでエンジンを始動させると、同じ指がエアコンとオーディオのスイッチを入れる。  エアコンは温風を吐き出すまでに少し時間がかかったが、オーディオの方はすぐに音楽を流し始めた。メディアから呼び出されたのは、彼女お気に入りのゆったりとしたストリングス。そこに自分の鼻歌を乗せると、峰岡はスロットル・ペダルを踏み込んだ。  表通りに出ると、いつも通りに整然とした通勤車両の流れ。小さな車体をひょいと滑り込ませ、いつも通りのコースをたどる。  緩衝地帯へ渡る橋のたもとで、左右から道路が交差する。通りしな、その左手で信号を待つ列の先頭に、峰岡はメタリック・グレーのカウリングを付けた大型二輪車の姿を認めて微笑んだ。  やがて背後で信号が変わり、件の二輪車が高めのモーター音を響かせながら、峰岡の車を追ってきた。  カウリングと同じ色のフルフェイスのヘルメット、革のジャンパーに身を包んだ安芸が、峰岡に挨拶代わりのパッシングを浴びせる。それに峰岡が返事をする間も与えず、安芸の二輪は峰岡を抜き去っていく。  行き会えばいつものこと故、別段スロットル・ペダルを踏み込むでもなく、峰岡はそのままのペースで車を走らせる。  「外橋」と呼ばれる、緩衝地帯と工場区域を結ぶ橋を渡り、さらに車を走らせると、一緒の流れでこちらに渡ってきた車がそれぞれの勤め先へと分かれ、その数を次第に減らしていく。そうやってほとんどの車が消えても、峰岡は走り続ける。そして区域のほとんど外れに近い、更地と廃工場が周囲の大方を占める中に地味に建つ特殊車両研究所の駐車場へと車を滑り込ませる。  始業十五分前。今日もいつも通りに到着。  「おっはよーございまーす!」  始業の鐘と同時に、今は事務服に身を包んでいる峰岡は久我の執務室に飛び込む。  久我はもう一時間も前からそうしているかのようにデスクで書類に目を通していたが、その視線を峰岡の方へ上げて挨拶を返した。  峰岡はいつも通りにコーヒーの支度を始めながら、細かい話までは決して返って来ないと分かってはいる質問を、これもいつものように久我に投げかける。  「昨日の出動の記録ですか?」  久我の答えは簡単な肯定のみ。  「『ホット』関係だったんですか?」  この問いには簡単な否定のみ。  「最近めっきり減ったみたいですね。アックス・チームが出来てから、一回も来てないんじゃないですか?」  これには久我の答えはなかったが、峰岡の言葉は事実だった。出動の中心が安芸率いるG−MBのアックス・チームとなり、峰岡や木津にこれまでの任務が回ってこなくなってから早や一ヶ月近くになろうとしていたが、その間の出動要請は五回、そのいずれもが、件の甲種手配対象者とは無関係であることが明らかとなっていた。  「これだったら、当局で本格的にG−MBを使い始めれば、MISSESもいらなくなっちゃいますね。仁さんがっかりするだろうなぁ」  「その心配はないでしょう」  予期せぬ答えに、久我に背を向けていた峰岡は振り返ったが、抽出完了を報せるコーヒーメーカーのチャイムにすぐに呼び戻された。  もちろん久我は心配のない理由を説明しはしない。  秘書同然の峰岡にも、この上司が何を考えているのか分からないことがしばしばだったが、こういう時は殊更にその印象が深まるのだった。  入れたてのコーヒーを机に運びしな、その理由を尋ねてみようかと峰岡は思ったが、結果の見当が付くので止めてしまった。その代わりにこう言った。  「でも仁さんは最近ずいぶんくさってるみたいですよ。出動のお呼びがないからって」  「ふぅん……」  久し振りに久我に呼び出された木津は、話を聞くと、煙草をくわえたままさほど気もなさそうな素振りを見せた。  「で、俺もやるの?」  「そのつもりでお呼びしました」  「進ちゃんとこだけでやってりゃいいんじゃないのかい?」  あからさまに皮肉な口調をものともせず、久我は言った。  「これもテスト・ドライバーの業務の一つと理解して頂けると思います」  木津は前歯でフィルターを二度三度噛み潰してから煙草をもみ消すと、腕を組んでソファにふんぞり返った。  「ま、そういう契約でもあったしな」  この台詞が単に了承の意味だけを含んではいないことは木津の口調からだけでも明らかだった。だがきっとそれを承知の上でだろう、久我はよろしくお願いしますと言った。  木津は反り返ったまま、視線だけを久我に向け、口を開く。  「それだけの契約でもなかったと思うけど、気のせいかね?」  久我は調子を変えることなく答える。  「これまでに『ホット』の関係する出動はなかったので、契約という点では決して反しているとは言えないと思います」  「俺としては、奴がいるかいないかは自分の目で確かめたいんだがね」  「当局からの情報では信を置くに足らないとおっしゃるのですか?」  そう言う久我の口調は、信を置かれなくてもさして困りはしないという風に聞こえなくもなかった。  「天気予報よりも精度が低いんじゃないかね。雨の予報が出ても、実際は雲しか出てきてないってことが多いような気がするぜ」  「『ホット』が麾下の部隊を直接指揮しなくなったのは、その組織が拡大していることの反映だと当局では見ています」  「当局では、か」  木津はそう言いながら反り返ったままだった上体を起こし、ポケットから煙草の箱を取り出した。そして次の一本を抜き出す手を止めて、久我に言った。  「あんたはどう見てるんだ? 『ホット』が動かない理由ってやつをさ」  久我は木津の口から新たな煙が吐かれるのを待ってから答えた。  「当局にG−MBが配備されたという情報はあちらでも入手しているはずです。恐らくは当局が動くのを待っているのでしょう」  「玄武でか?」  「G−MBで、です」  訂正されて木津は肩をすくめた。それから  「性能を掴もうって胆なのかね?」  「性能を把握するのであれば、把握に値するだけのものを十分に引き出し得るのは当局よりは私たちの側です。であればアックス・チームの出動を狙って行動に出てくる方が有効です」  「それもそうだ。てことは、性能目当てじゃない?」  「単に性能だけでなく、構造や機構の情報を得るために、車体そのものの鹵獲を目論んでいるとも考えられます」  「どうやって? ワーカーで寄ってたかってふん捕まえようってのかい?」  木津は煙草を吸うと、天井に向けて長々と煙を吐き出し、続けた。  「まさか、その格闘の訓練ってのは、そういう場合のためってんじゃないだろうな?」  「厳密に言うと少し違います。確かにワーカー等との格闘は念頭に置いてはいますが、それは必ずしもVCDV鹵獲への対策というわけではありません。あくまで実際の出動時における必要性に鑑みてのことです」  「今まではその必要性があったようにも思えないがな。それとも俺が出て行かなくなった間に、それっぽい動きでもあったかい?」  「いえ、その逆です」  おっ、という顔をする木津。  「これまでに『ホット』がその活動を表立てていないからこそ、その疑念が生じます。『ホット』が新たな手段を講じてくる場合、その前に必ず数週間の行動停止期間があったのはご記憶ですか?」  そう言われてみれば確かにそうだった。  「……なるほど」  「それにもちろん今回の訓練をテスト・サンプルの取得に留める気はありません。特にあなたにとっては」  木津はまた肩をすくめて、煙草をもみ消した。  翌日の午後、昨日までの穏やかな陽気とはうって変わって小雪でも舞いそうな曇った空の下、そして管制室に入れなかった野次馬の視線の下、テストコースのセンターフィールドに六台のVCDVがRフォームで並んだ。  「こうして見ると何てことないよなぁ」  「そりゃあさ、多少デザインが凝ってるだけで、一般の車とそう変わんないから。特にG−MBなんかそうだろ?」  「やっぱりVCDVは変形して見せないとインパクトがないよな」  そんな野次馬の声が届くはずもない管制室の中、管制官席で直々に指示を出しているのは、珍しく久我だった。  久我がマイクに向かって一言発する。  センターフィールドで数秒と経たない間に次々と立ち上がる朱雀、玄武、そして青龍。  野次馬の群れから歓声が上がる。  いや、歓声を上げたのは野次馬だけではなかった。まだ素材の匂いも取れていない新しい玄武のコクピットで、由良もまた視界の中に立つVCDVの姿に驚嘆していた。  バックパックを背負ったような幾分ずんぐりした姿にガンメタルの機体色と、一種凶悪そうにさえ見えなくはない玄武。それに比べて片や濡れるようなメタリック・ブルー、片や爆ぜるようなソリッド・レッドの、共にシャープなフォルムを持った青龍、朱雀。そして由良が玄武以外の二機を見たのはこれが初めてだった。  「すごい……」  思わず漏らしたその声をマイクが拾ったらしい。結城が声を掛けてくる。  「でもS−RYよりはG−MBの方がパワーはありますよ。S−ZCは使ったことがないから知りませんが」  「そうなんですか」  そこへ久我の次の指示が飛んだ。  「アックス3、アックス4、前へ」  雑談してるのが聞こえたかな? 少し顔をしかめてアックス4の結城が玄武を数歩進める。その横で同じく由良の玄武が前へ出る。  「お二人は当局の訓練で格闘技の経験はおありのはずですね。最初に模範演技と言うことでお願いします」  この指示に面食らったのは由良だった。確かにVCDVの基本動作はマスターしているつもりだし、出動もさほど派手な事件にこそ出くわしてはいないものの、数次に亘ってこなしてはいる。一方で当局では格闘技は確かに得意で、隊の中のみならず当局中でも相当上位にあるのは自他共に認めるところだった。しかしその両方をいきなり結び付けろとは……  そんな由良とは対照的にはっきりとした、結城の了解の復唱が聞こえた。  結城の玄武が位置を変え、由良の正面に立つ。残る四人はそれぞれがテストコース周回路へと待避する。  相対し、構えを取る玄武を前に、コクピットで由良は頭を掻いた。  結城の玄武が歩を進める。  野次馬のざわめきが鎮まった。  「いや、しかし」  小松が息を吹きかけて冷ましながら湯気の立つ中国茶をすすり、口を切った。  「強いねぇ、由良さんは」  由良は休憩室の椅子の上で頭を掻いた。  小松の言葉を受けて安芸が言う。  「さすが有段者ですね。あれだけ簡単に投げて、しかも機体を路面に叩き付けないように加減できるなんて」  「でも確か、姿勢が不安定になると、衝撃を吸収するように自動的に手足のダンパーが柔らかくなる制御がされているんではありませんでしたか?」  幾分早口に由良が問う。  「それだけじゃ全部は制御できませんよ。え? ということは無意識で?」  「なんでしょうかね?」と、また由良は頭を掻いた。  「でもそれで助かったべ。力任せに投げたれたら、阿久っつぁんが泣くぜ」  ただ一人由良の仕掛ける投げを堪えきった木津も、紫煙の間から口を挟んだ。  「しかし、俺だって朱雀のパワーがなきゃ踏ん張りきれなかったよ、あれは」  「いえ、技というのは力だけでかわせるものじゃないんですよ」とこれは結城。由良と共に指南役に回った彼も、最初の模範演技で真っ先に由良に投げを喰らったのが響いて、この場では少しく影が薄かった。  「力じゃなくてすばしっこさかね、お茶汲みみたいにさ」  そう木津が引き合いに出した峰岡の青龍は、組み付かれるのを嫌ってフィールド中を逃げ回っていたのだった。もっとも結局は結城にも由良にも捕まって軽く尻餅を搗かせられたのだったが。  思い出して皆が笑い出す。  その中から安芸が身振りを交えて問う。  「ああいう技って言うのは、相手の力を受け流して仕掛けるんでしたっけ?」  「おおまかに言えばそんな感じですね」答えたのは結城。  「その辺の加減を勉強させてもらわないといけなさそうだねぇ」小松がまた茶をすすりながら言い、その様子を見て木津が笑った。  「爺むさいなぁ、小松さん」  「そりゃ三十路だしねぇ。君たち二十代の若者とはちょっとね」  「何を言ってるんですか」と、この輪の中で一番歳の若い安芸も笑う。  その脇で恐縮しっ放しだった由良はふとその丸い顔を窓の外へ向ける。  「あ、落ちてきましたね」  その言葉に、残る四つの顔が一斉に窓へと向けられる。  「ああ、やっぱり雪になったか」  「そう言えば」結城が言い出す。「雪が積もったら、VCDVでもやっぱり動けなくなるんでしょうかね?」  「あれ?」  木津がにやにやしながら口を切る。  その横の安芸は、こういう顔の時の木津がどんな類のことを言い出すのか見当の付いている様子だった。  「玄武の場合はさ、バックパックからスキーを出して履くんじゃないか?」  「それじゃ朱雀はどうするんです?」  「こたつでみかん」  「爺むさいねぇ」と小松が言われた台詞をそのまま返して、また茶をすする。  四人が笑い出す中、一人結城が真顔で、食い下がるように切り出した。  「『ホット』が出てきても、ですか?」  「その時にゃ」と口許は今まで通りににやにやしながら、しかし目からは笑みを消して木津は答える。「朱雀にもスキーを履かせてもらうさ。もっとも『ホット』がコールドなお日柄の時にお出掛けして来ればだけどさ」  同じ頃、久我の執務室。  「あ、雪」  峰岡の声に、久我は作成中の資料から目を上げ、その視線を窓の外へ移した。  窓の傍らに立ち、久我に背を向けて峰岡は外を眺めている。  「冷えると思ったら……」  そう言いながら振り返った峰岡は、久我の手がデスクの上で珍しく止まっているのに気付いた。その目は窓の外で舞う雪のつぶてを見つめている。  峰岡もまた窓へと向かう。  「でもきれいですよね」  答えはなかった。  久我は無表情のまま、手元も、そして視線をも動かすことなく、ただ雪を見ていた。  と、その唇がかすかに歪み、何かをつぶやくように動いた。  「はい?」と峰岡がまた振り返る。「コーヒーですか?」  久我の頬が微笑むかのように動いた。  「そうね、お願いします」  窓の横を離れた峰岡は、鼻歌混じりにコーヒーメーカーへと跳んでいき、そして久我の視線はまた資料へと戻った。  間もなく峰岡が熱い湯気の立つコーヒーを運んでくる。そして作りかけの資料の文面を映し出すディスプレイ・スクリーンの脇にカップを置く。と、カップと皿の立てる小さな音と同時に、スクリーンの中に電送文書の着信を知らせる画面が現れた。  遠慮して首を引っ込める峰岡。  カップに手を伸ばす前に、久我は通信文を開き、その視線の動きを峰岡の目が追った。  ややあって、一通り読み終わったのか、久我は椅子に腰掛け直すと、やっとカップに手を伸ばし、まだ湯気の途切れないコーヒーを一口飲んだ。そして珍しく、峰岡の問いかけを待たずに自ら口を切った。  「今日、当局のG−MBに初めて出動の命令が下ったそうです」  おお、という表情の峰岡。  「どんな内容だったんですか?」  この問いに、久我は通信文を要約して聞かせた。曰く、工場区域D区某所にて武装暴走車四両発見の報あり、これに対し特種機動隊所属の特一式特装車四両出動。D区内副道路線某番にてこれを補足、目標全ての捕獲連行を完了した。  「当局では特一式って呼んでるんですか。それにしても、当局の報告書ってつまんないですね」峰岡が言葉通りの顔つきで言った。「その特一式がどんなふうだったかって書いてくれなきゃ、うちに話をされてもしょうがないですよね」  「これは公式の報告の一部です」と久我。「LOVEにとって必要な情報については、別に記録と見解を書いてきています」  「ですよね。そうじゃなくっちゃ」  久我の手がまたカップを口許へと運ぶ。  「そう言えば」と峰岡。「相手は武装暴走車だったんですよね? ということは、『ホット』ですか?」  コーヒーを飲み、吐いた息に続いて否定の答えが返る。  「実際には武装はしていなかったとのことです。『ホット』との関連はないでしょう」  「そうですか」峰岡の安堵の表情。「それで、G−MBはどうだったんですか?」  後ろからぽんと頭をたたかれて、峰岡は顔をほころばせながら足を止める。振り返らなくても分かっている。こういうことをするのは一人しかいない。  「何するんですかぁ仁さん!……って、あれ?」  振り向くとそこにいたのは阿久津だった。  「何だね真寿美ちゃん、仁ちゃんにもこういうことされるんかね?」  照れ笑いをしながら峰岡は頷いた。  「ご本尊様なら自分の部屋におるよ」  「はい、ありがとうございます!」  首が抜けそうなお辞儀を一つすると、ほとんど走り出さんばかりに峰岡は歩き始める。  その背中に微笑すると、阿久津は脇に抱えた資料を持ち直し、急ぐ風もなく歩を進めた。  部屋に入ると「ご本尊様」こと木津は、紫煙にまみれながら書きかけの資料と格闘の最中だった。  「今日の訓練のレポートですか?」  「ああ、でも形だけ。要点は阿久っつぁんに話しちまったから、これはおばさん対応」  「主管に? それじゃあ、また朱雀を改造するんですか?」  「いや、今回は特に改修の要を認めず、格闘戦用途には十分に堪え得る、てのが内容。で、一つ付け加えようかどうしようか考えてたんだけどさ」  「はい?」  「由良先生が強すぎ、って書いていい?」  「お勧めしません」と苦笑いの峰岡。「それはそうと、一つニュースがあるんですよ」  そう言って峰岡は、さっき久我から仕入れたばかりの当局のG−MB初出動の話をする。  そこそこに興味を持ったような顔で聞いていた木津は、最後に相手が『ホット』ではなかったことを聞くと、にやりとした。  「そいつぁよかった」  峰岡は何も言わず、その理由も聞かなかった。久我から同じ話を聞いた時、思わず安堵の表情を浮かべたのは、木津の思いが想像できたからだった。だが、それに続く、指の骨を鳴らしながらの低いつぶやきまでは予想していなかった。  「当局なんぞの手に掛けさせてたまるかよ」  峰岡は思わず体を震わせた。  「トイレだったら我慢しない方が健康のためにはいいぞ。あ、そう言えば雪はどうしたかな」と言いながら、にらむ峰岡から逃げるように椅子から腰を上げ、木津はカーテンを開ける。  はらはらと舞う程度の雪は、積もるということもなく、うっすらと木の葉を覆っている。  「何だ、大したことないな」  「積もった方が好きですか?」  木津は少し考えるような様子を見せてから、「そうさね、どうせやるなら徹底的にやって頂きたい」  「仁さんらしいですね。それはそうと、この資料どうします?」  そう言って、本当はそれを届けるのが目的だったのに、今までそっちのけにしていた本の束を差し出した。  「ああ、その辺に適当に積んどいて」  はいという返事の後に鼻歌を続けて、本を積むためのスペースを確保すべく、峰岡は脇机の上を片付け始め、木津は新しい煙草に火を点けて再び作りかけの資料と向かい合う。  が、はっとしたようにその手が止まる。  するはずの木津の作業の音がなく、自分の鼻歌しか聞こえないのに気付いた峰岡が、作業と鼻歌を中断して木津を見た。  宙に浮いていた木津の視線が、峰岡に向けられた。  「うるさかったですか?」  小さくなって峰岡が訊ねる。  「……いや、そんなことはないさ」  そう言いながら、木津は視線を峰岡から動かそうとしない。いつもなら喜ぶだろう峰岡はうつむいてしまった。  「いや」まだほんのわずかしか灰と化していない煙草を灰皿に押しつけると、ようやく木津は口を開いた。「その鼻歌、ずいぶん珍しい歌を知ってるんだな、と思ってさ」  峰岡の顔が上がった。  「これですか? 好きなんです、この曲。でもこの曲を知ってる人って、あたしの周りには全然いないんですよ」  「丁度こんな天気の日の歌だったっけ?」  「そうですね、こういう日にはよく思い出すんです。あ、もしかして仁さんも知ってるんですか?」  「聞いたことはあるよ。本人の声でじゃないがね」  その言葉と同時に、木津の視線は峰岡を離れ、瞼に閉ざされた。峰岡の嬉しそうな表情は、それを見て訝しげなものに変わった。  木津は再び目を開けると、訊ねた。  「その歌、歌える?」  「え、え、え? ここでですか?」  「それでもいいけど」と笑いながら木津。  少し恥ずかしげに峰岡は、「外に聞こえちゃったらまずいですね」  「大丈夫だろ、ガラスの割れるような声を張り上げなきゃさ」  「うーん自信ないなぁ。前に誰の歌で聞いたのか分からないですけど、聞いてがっかりしないで下さいね」  木津の頬に曖昧な笑みが浮かんだ。  助走でもするかのようにもう一度数節を鼻歌で奏でると、峰岡は歌い始めた。  トーンの高さこそ変わらないが、話す時の弾けた調子とは違う、深みさえ感じられるような歌声が流れる。  木津は頬杖を突いて聞いていた。「あのこと」以前の自分を、そしてこの歌を聞かせられた時のことを思い出しながら。  同じだな、こんな日にはいつでもこの歌だったっけ……  唇にかすかに浮かぶ苦い笑いを、別の記憶が押し止めた。後頭部に回る木津の左手。指先が手術痕に触れる。それと共に、脳裏に忘れようとしても忘れられない記憶の残像が蘇る。爆発音、爆風、突き刺さる破片、なぎ倒される体、あの悲鳴、血、そして消えていくホット・ユニットの爆音。  止められた笑みは噛み締められた歯の間で完全に消えた。  そこに飛び込んできた峰岡の高い歌声が、木津を現実に引き戻す。  歌は強拍から最初のパッセージの再現へと移り、そして終わった。  ふうと一息吐くと、少しく紅潮した顔を両手で覆う峰岡。  「あ〜調子に乗って全部歌っちゃった!」  木津は笑いながら拍手をする。  「こんなに歌が上手かったんだ。知らなかったよ」  「ありがとうございます」と照れながら峰岡がもう一度頭を下げ、そして訊ねた。「仁さんは歌は?」  「俺が歌うと、ガラスが割れる程度じゃすまないよ。衝撃波銃もびっくりってやつだ」  いつものように吹き出しながら峰岡。  「それじゃ今度出動する時は、ぜひ見せて下さいね、歌で暴走車を止めるところ」  「おい!」と木津は小突く真似。それから腕を組んで言った。  「今度は一体いつその機会がお恵みいただけるもんだか、まるっきり見当が付かないけどな。奴からも、おばさんからも」  それを聞いた峰岡の表情に、またかすかな不安の影が落ちた。 Chase 12 − 示された目標  煙草の空き箱が壁に当たって、力無い音を立てると床に落下した。  それには目もくれず、仰向けに寝そべった木津は、空き箱を投げ付けた右腕をぶらりとベッドの脇から床に垂らした。  火の点いていない煙草が、それをくわえた唇のいらだつような動きにつれて、ひょこひょこと落ち着きなく揺れる。と、それがいきなり止まった。腹の上に所在なさげに載せられていた左腕が気怠そうに持ち上がってくると、煙草を口からつまみ上げ、三本の指の背と腹の間に挟むと、真ん中から真っ二つにへし折った。「く」の字に折れた煙草の残骸は灰皿へではなく、そのまま床の上に放り出される。  机の上の灰皿は、先の方だけ吸っては消したような吸い殻が堆く積み上げられ、灰やら灰になる前の葉やらが散らばった反故の上にこぼれて、さらに辺りを汚く見せている。  組み合わせた両手を枕代わりに、木津は大きく息を吐いた。それから腹筋運動の要領で、だが勢いよくどころか、むしろ面倒くさそうな様子を変えることなく上体を起こし、もう一つ息を吐くと、組んだ手をほどいて頭をばりばりと掻き、出てきた雲脂を振り払うように頭を左右に振った。  ベッドから下ろされた爪先が、脱ぎ捨てられたサンダルを探る。裏返しになった片方をちょいと蹴飛ばしてひっくり返し、怠そうに足をそこに突っ込む。ずいぶんと遠くに放り出されていたもう片方を、これもまた爪先でつまんで引き寄せ、引っかけると、やっと立ち上がる。  これもまた怠そうに運ばれる足との間でぺたぺたと冴えない音を立てるサンダル。やっとドアの前まで来ると、手がノブを引く。  何かの当たる大きな音と手応え。  と同時に、猛烈に甲高い悲鳴が、ドアの隙間経由とインタホン経由とで二重に部屋の中に響き渡る。  泡を食ってドアを閉じる木津。  ややあってから、木津はもう一度ゆっくりとドアを開いた。  誰もいない。  と思いきや、視線を落とすと、しゃがみ込んで頭を抱えている峰岡の姿があった。  「……ぃったぁ〜い」  「おい、大丈夫か?」すんでのところで吹き出しそうになるのをようやく堪えて木津が問う。「とんでもない音がしたけど」  額をさすりながらよろよろと立ち上がった峰岡は涙目になっている。  「ばかになっちゃったらどうするんですかぁ!」  「ごめんごめん。で?」  「えーと……あ!」  「どうした?」  両手で頭を抱えた峰岡に木津が真顔で訊ねる。峰岡は木津に向き直り、  「今のショックで何をしに来たか忘れちゃいました」  「……しばいたろか?」  飛び退きながら峰岡が言う。  「冗談ですってばぁ!」  気の抜けた微笑を木津の顔に認めてから、峰岡はようやく戻ってきた。  「入ってもいいですか?」  「おうさ、コーヒー買ってくるから、入って待っててくれや」  木津と入れ替わりに部屋に入った峰岡は、その途端充満する濃い煙に顔をしかめ、さらに例の吸い殻やら空き箱やらに目を止めると溜息を吐いて、そのひょうしに吸い込んでしまった煙にむせ返りながら、早速片付けを始めた。  換気器のスイッチを入れ、床に落ちた空き箱とへし折られた煙草、それから散らばった紙屑を拾い上げ、築かれた山を崩さないように慎重に灰皿を脇の吸い殻入れに運び、灰を被った反故を取り上げると吸い殻入れの上で払い、揃えて机に戻そうとしたところで、ふと手を止めた。  裏返しになった写真が一枚、これだけ乱雑になっていた机の、何故かそこだけ何にも浸食されていない一隅に置かれていた。  そこには二年ほど前の日付と、もう一言何かが細い女手で記してある。  峰岡はそれに手を伸ばした。が、ドアの開く音に反射的に手を引っ込めて振り返った。  「あ、悪いね、毎度毎度」  空になった灰皿を見て木津は言うと、またベッドに腰を下ろし、手にしたコーヒーを音を立ててすすった。  「んで?」  「あ……」  「何だ」と木津は身を乗り出す。「本当に記憶が抜け落ちたか?」  峰岡は額をさすって「大丈夫みたいです」と幾分早口に言う。「でですね、S−ZCなんですけど」  木津は一旦引っ込めた身を再び乗り出す。  「部品の交換だけで済んじゃったそうです。もう動かせるそうですよ」  木津は天井を仰いで、さっきまでのとは違う長い息を吐いた。  今日も格闘戦の訓練があったのだが、その時に木津は朱雀の一部を損傷させてしまっていたのだ。さっきまで腐っていた理由の一つはそれだった。  「で、阿久津主管からおまけの伝言です。何があったか知らないけど、あんまりはしゃぐな、だそうです」  木津は肩をすくめた。はしゃいでいるつもりはさらさらなかったんだがな。むしゃくしゃしてはいるとしても。  「それからですね」峰岡は続ける。「今日これからなんですけど、アックスは安芸君以外みんな出払っちゃうんです。結城さんと由良さんは夕方から当局に行くそうですし、小松さんは用事があるから帰らなきゃならないって……」  「皆まで言うな」  そう言って制する木津の顔は、峰岡が思わず後ずさるほどにやついていた。  「やりますよ、不寝番だって何だって」  そして言うまでもなく、これがもう一つの理由だった。  暗い室内で、スクリーンに映し出された画像の色彩だけが、机の上と、スクリーンに見入る顔の上に、毒々しい光を投げている。  右手の動きに応じて次々と画像は現れ、消える。一連の画像に続いて、今度はいくつかの表がスクリーンに出てくる。顔がそれに近付けられる。表に並べられたいくつもの数値を食い入るように見つめる目。  再び右手が動き、繰り返されるのも何度目かになる画像を、ほとんど執拗なまでに表示させる。  現れたのはRフォームのG−MB。ガンメタルの車体色は、それが当局の仕様に合わせた「特一式特装車」ではないことを示している。それから同じくG−MBのWフォーム、Mフォームの画像。続いて青いボディ。S−RYの三態が前に倣ってその姿をスクリーンに現す。  右手が操作を続ける。  S−ZCを映すスクリーンを前に、唇は声にならない言葉をつぶやいた。  脇に立っていた男がそれを聞き取ろうとするようにスクリーンに顔を寄せた。  スクリーンに釘付けになっていた視線がその時近付いてきた顔へと移され、右手の指がスクリーンの中を指した。  男はまず無言で頷き、それから念を押すように低い声で言った。  「こいつですね」  続けざまに大きなくしゃみをした木津に、安芸がちり紙を箱ごと手渡す。  鼻をかみながら礼を言う木津。  「どっちかにしませんか? 話すか鼻をかむか」  ちり紙を丸め、とどめに鼻をすすると、  「ま、いいじゃないか」  そして伏せたカードを再び手にする。  苦笑しながら手札を切った安芸が場のカードを全てさらっていく。  「ひっでぇなぁ、裸かよ」と舌打ちしながら木津は自分のカードを場にさらす。  安芸がカードを切り、場に出された木津のカードをこれもまた取ると、  「上がりです。六点」  「あひゃー!」  大袈裟に両手を上げてみせる木津。場に散ったカードをかき集めて切り始める安芸の弾けない口調。  「これで四十三対ゼロですよ。レート下げますか?」  「なぁに、まだ三回ある」  「……煙草の火が消えてますが」  木津は寄り目をして煙草の先を見ると、平静を装ってライターを取り出し、火を点け直すと三、四度立て続けにふかしてから配られたカードを手にした。  安芸が手札から最初の一枚を切り、台札に手を伸ばすと、零時の時報が鳴った。  「お客さん、来ますかね」と安芸がつぶやく。切った手札もめくった台札も安芸には戻ってこない。  が、場札を見た木津は逆に勢い込む。  「来た来た!」  威勢良く手札を切り、台札をめくる。  「よし来た! 大当たりだぜ」  場札をかき集める木津を笑いながら見る安芸。峰さんは、歳の割にすることがおじさんぽいと仁さんのことを言っていたけれど、どうして、こんなふうに夢中になるところはむしろ子供っぽいじゃないか。きっと今夜も喜んで当番の代役を引き受けたんだろう、おもちゃを欲しがる子供のように、「ホット」に会いたい一心で。  結局その回は木津が十四点を上げた。  「運が回ってきたな」  札を切り混ぜながらにやりとする木津に、安芸は黙って微笑んでいた。  十数分後、安芸の穏やかな微笑はそのままだったが、木津のにやりは高笑いに変わりつつあった。  「こいつぁラストで大逆転もありだな」  配られた手札を見た木津の顔は笑いにひきつらんばかりだった。  「おっしゃ、行くぞ」  木津の指が手札の一枚を摘み上げた。  その時、木津にとっては久々の、そして待ち焦がれていた音が聞こえた。インタホンからのチャイムの三連打。手札を伏せて、安芸が情報を読みに行く。  「……お客さんです。ワーカー五、W区の廃棄物貯蔵エリアで……砲撃訓練?」  目を上げると、木津が自分の手札を惜しそうに眺めている。  安芸は言った。  「運が向いてきましたね」  先を走るG−MBが少し速度を落とすのを見て、木津もスロットル・ペダルを踏む足を少し浮かせる。  ブレーキランプの向こうに、別の光が闇に現れ、消える。どうやらあれが例の砲火らしい。  「結構大きいのを担いで来ているようですね」と安芸。「あの光り方からすると」  それを聞いて木津はにやりとした。相手はでかければでかい方がいい。その方がこっちも派手に暴れられる。ただし勝手に暴れるわけにはいかないのが辛いところだ。指揮を取るのは俺じゃなくて進ちゃんだからな。  その安芸から早速指示が出る。  「ライト落とします。ソナーで走行」  「了解だよ」  木津の左手がコンソール・パネルのスイッチの上で踊り、消されたライトの光の代わりに、フロント・ウィンドウにはソナーからの情報から合成された電光の描く路面が浮かび上がる。と、その直後、それをかき消すような強烈な閃光が鉛色の夜空に走った。  「何だ?!」  木津は反射的にブレーキを踏んだ。  同じく前でG−MBを止めた安芸が言う。  「照明弾ですね。しかしどうして?」  「その訳ってのを訊きに行くべさ」  木津はさっきの自分の言葉も忘れたか、ハンドルを切り、安芸の前に出るとペダルを踏み込む。引きつるように歪む唇を、舌が一、二度舐めた。  「仁さん、慌てないでください。向こうからも見られてます」  安芸の言葉を裏付けるかのように、背後に弾着の爆発音。だがそれははるかに後方からだった。有効射程外だとしても、単なる威嚇にしても、狙いが不正確過ぎる。  何か企んでいる?  安芸もペダルを踏む。S−ZCを追い始めるG−MB。  向こうからの砲撃はあれ以降ない。それどころか、「訓練」砲撃も止んでいるらしく、砲火も見えない。照明弾の残照もほとんど消えている。  逃げたか? 待ち伏せか?  ナヴィゲータの画面によると、向こうの陣取っているのは長大な廃棄物貯蔵庫の向こう側、運河に面した積み出し作業場らしい。  安芸はその旨を木津に伝えると、言った。  「仁さんは西側から回ってください。先に仕掛けてもいいですけれど、くれぐれも無理をしないでください。車体だって修理したばかりなんでしょう?」  「おうさ」  どうやら仁さんは今の言葉は聞いてくれていないらしい。加速していくS−ZCのテールを見て安芸はそう思った。  一方その木津はコクピットでひとりつぶやいていた。  「欲求不満だけは解消させていただくぜ。とりあえず奴がいようがいるまいがな」  後輪を滑らせながら十字路を曲がる。横Gが木津の攻撃的な気分に拍車をかける。  廃棄物貯蔵庫の壁が迫る。速度を落とすことなく木津はハンドルを切り、長い壁に沿ってS−ZCを走らせる。  突然壁が切れる。やはり減速なしで木津は角を曲がり、細長い長方形をした倉庫の短辺を数秒で走り切ると、角でS−ZCを朱雀に変形させ、警戒姿勢をとって停止した。  木津の舌が唇を舐める。  砲声はしない  暗視装置のスイッチを入れ、建物の陰から向こうをうかがう。  見えた。安芸の言った通り、長く太い砲を中心に据え、その周りをハリネズミのように砲身が取り巻いている、凶悪そうな武装ワーカーのシルエットが一つ。  一つだと?  第一報ではワーカーは五両だと言っていたはずだ。ナヴィゲータの情報を信用すれば、隠れる場所はない。他は逃げたのか?  木津は舌打ちをした。期待していなかったと言えば必ずしも正しくはないが、久々の出動でもはずれを引かされたわけだ。こんな状況で奴がいようはずがない。  レシーバから安芸の声。  「仁さん、仕掛けなかったんですね」  木津は応える。  「あんまり焦ってやるほどのものでもなさそうじゃないか」  「そちらから目標は確認出来ますか?」  「ああ、二〇パーセントだけな。そっちはどうだ?」  「やはり一両だけしか確認出来ません。それに、確かにこれもエンジンが動いていないように見えます」  「トラブって逃げ損ねたクチか? そんな間抜けな代物じゃ、絶対『ホット』の息の掛かった奴じゃないな」  「どうします? 期待外れだったかも知れませんが、やりますか?」  「俺が?」  「たまには動かないとなまりますからね。ここはお任せします」  「ありがたくって涙が出るね」  苦笑いしながら木津は朱雀の左腕をワーカーに向ける。  「ま、最初はノックぐらいしないと」  トリガーが引かれる。  衝撃波の直撃を受けて、砲身の何本かが折れ曲がった。それでも本体は動こうとする気配をみじんも見せない。  「本当にいかれてるのか? また中で自殺したりはしてねえだろうな」  「とりあえずは武装解除させますか」  「そうだな」  応えながら木津は銃の設定を変更した。そして再度トリガーを引く。向こう側からは安芸もまた一呼吸遅らせて衝撃波銃を放った。  ワーカーを覆うような砲身が次々と潰される。残るは大型の一門のみ。  「ここまで来ても抵抗なしか」  「考えられるのは三つですね。トラブルで本当に二進も三進もいかなくなっているのか、それで中で自殺しているか、それとも」  「それとも?」  「こちらを巻き込んでの自爆でも企んでいるのか」  木津が口笛を長く鳴らした。  「ただし他の四両がどこかに隠れているのでなければ、という前提でですが」  ふん、と鼻から息を吐くと、木津は言う。  「確かめてみるか。進ちゃん、ライトで俺を追え」  そう言うが早いか、朱雀が貯蔵庫の陰から飛び出し、ハーフに戻ると沈黙する武装ワーカーにまっしぐらに突っ込む。それを玄武のライトが忠実に追いかける。  ワーカーの沈黙は変わらない。玄武が照射を続けながら周囲を警戒するが、それ以外からの動きも全くない。  「本気で寝てやがんのか?」  砲口の正面に躍り出したハーフが再度朱雀に変形しジャンプ。闇の中でスポットライトを浴びた緋い痩躯に、しかしやはり何の攻撃も仕掛けられはしなかった。  舞い降りた朱雀は砲身に馬乗りになる。  見ている安芸の方が不安に駆られてくる。もう一つの可能性、朱雀を巻き込んでの自爆という可能性はまだ否定されていないのだ。  ライトに照らし出された朱雀とその下のワーカーを安芸は見る。そして気付いた。  「仁さん、右爪先の少し先にハッチがあります。開けられますか?」  「どれさ?」  砲身の上で腹這いになった朱雀の右手が、ワーカーの側面を探り、一本のレバーの上を人差し指がなぞった。  「それです」  「ちょっと無理だな。指が太過ぎる……進ちゃん、援護頼む」  止める間もなく、安芸は開かれる朱雀のハッチと、そこから滑り降りる木津の姿を見ることになった。  安芸の左手は衝撃波銃の制御板の上に移された。生身の人間と金属の塊と、両方に気を配らねばならない。それに一門の銃で対応しなければならない。  警戒姿勢をとる玄武が、こういう時のための装備も何も入っていない空っぽのバックパックを負う背中をかすかに揺らした。  一方そんな安芸のことは最初から念頭に置いていない木津は、ワーカーのハッチに続くステップに降り立った。  ノックをする。もちろん返事のあるはずはない。それを確かめると、木津はハッチのハンドルを引き、同時に身をかわした。  中からは怯えたような声だけが聞こえてくる。他には発砲も何もない。  当局ならこういう時は拳銃を構えて飛び込むんだろうけどな。中途半端に手伝いをやらされてる民間のつらいところだ。そう思いながら、木津はドアの陰からコクピットの中を覗き込んだ。  シートの上で、身を強ばらせてハンドルやらレバーやらを手当たり次第に動かしている多分まだ二十歳そこそこの若い男。その怯えたような顔が木津のヘルメットに向けられては、またむやみにハンドルを、レバーを動かそうとする。  「よせよせ」と、男のものすごい表情に笑いを誘われながら木津が声を掛ける。「トラブってるんだろ? 諦めて降りろ」  男がもう一度木津の顔を見た。と、いきなりシートから腰を上げ、低い姿勢のままで猛然と、叫び声を上げながらハッチの方へ飛び出してきた。  木津は半歩退くと、さげた足でハッチのドアを思い切り蹴った。  ドアの閉じる音と、飛び出そうとした男の頭がそこに勢いよくぶつかる音とが一緒になって響く。  それを聞きつけてか、安芸がレシーバ越しに声を掛けてくる。  「仁さん? 問題ないですか?」  「ああ、今のところはな。こっちの兄ちゃんは丸腰らしいし、このワーカーも本気で動かないらしい。そっちはどうだ?」  「動きはありません」  「ふむ」  応えとも言えないような応えを返しながら、木津はハッチをゆっくりと開けた。  誰もいない。  と思いきや、視線を落とすと、足をこちらに向け、狭いコクピットの中でくずおれている男の姿があった。  「こっちも動きがなくなっちゃったが、どうする?」  「また自殺ですか?」  「そんな大仰なもんじゃないよ」と木津は経緯を説明して聞かせる。  微かに笑いを含んだ安芸の声。  「同じことを今日峰さんにやってませんでしたか? たんこぶが出来てたみたいですが。それはともかく、当局に引き上げの要請を出しましょうか。乗員はコクピットに閉じ込めておけば大丈夫でしょう」  「ああ、頼むわ」  そう言いながら木津は、結局自分の前では沈黙したままだった巨砲と、そこに跨っている朱雀を見上げた。久々にしては、何ともつまらない出動だったな。朱雀よ、お前さんの出番なんざ、無いに等しかったじゃないか。今夜は「ホット」相手とはいかないまでも、せめて一暴れくらいはさせてもらえるかと思ったのに。  金属製のステップを蹴り、木津は一歩踏み出してふと足を止めた。  「進ちゃん、質問」  「何ですか?」  「俺はどうやって朱雀に戻りゃあいいんかね?」  「え?」  「いやさ、降りてくるのは何も問題なかったんだが、登るには足場も何もなくってさ」  「……仁さんって結構後先考えないで行動する傾向がありませんか?」  そう言いながら、玄武がゆっくりとこちらに近付いて来た。  「済まんかったね」  にやつきながら木津は差し出された玄武の手のひらに腰掛けた。そしてコクピットの脇まで持ち上げてもらうと、身を翻してシートへと滑り込んだ。  同じように身を翻して、今度は朱雀が砲身から飛び降り、着地する。  と、安芸のつぶやきが聞こえた。  「おかしいな……」  「どうした?」  「当局の担当が応答しないんです」  「久我のおばはん通してもらったら? こういう時は出て来てるんだろ?」  「そうですね」という応えに、LOVEを呼び出す安芸の声が続いた。  木津の予想通り、久我が応答してきた。  だが状況を伝えた安芸に久我の返してきた言葉は、予想外のものだった。  「当局は現在事情があって身柄、車両共に収容出来ないと伝えてきています。止むを得ないので、LOVEに一時収容を行うことにしました」  「このでっかいワーカーを、俺達二人してえっちらおっちら担いで帰って来いってのかい? 棒か何かにくくりつけてさ」  茶々を入れる木津に、久我はいつも通りの平静さで応える。  「これから回収班を送ります。それまで両者は状況を保持」  「へーへー」  答えながら木津はワーカーにもう一度視線を投げた。  重たげな塊のように見えるそれは、あの若い男をコクピットに入れたまま、相変わらず動く気配を見せようとはしなかった。  午前二時。  久我の執務室に、引き上げてから着替えもしていないままの木津と安芸、そして夜中に飛んで来たにしては妙に乱れのない姿の久我が顔を揃えた。  「今回はやはり妙な印象は拭えません」  一通りの報告を済ませてから、安芸がそう付け加えた。  「そうだよな」と木津が口を挟む。「あんだけのでっかい大砲を積んだワーカーだ、どう見たって奴の配下だろうと思ったら、抵抗も何も無しときたもんだ。関連があるんだかないんだか、それさえも分からん」  「少なくとも」久我が言う。「重作業車両については、明朝当局の許可を得てからこちらで解体作業を行いますので、例のマーキングの有無は確認出来ると思います」  「乗ってた奴はどうするんだ?」  「当局の指示があり次第、身柄の引き渡しを行います」  「それもよく分かりません」と、これは安芸。「今回に限って、何故当局が直接収容に当たらなかったんでしょうか?」  「理由はこちらには伝えられていません」  木で鼻を括ったような久我の口調に、思わず木津が切り出す。  「理由も聞かずにはいそうですかと返事しちまったって訳かい?」  調子を変えることなく久我は答える。  「こちらから当局にそういった内容を詮索することは出来ませんので」  毎度のことながら、この人感情ってもんがあるのかね。木津は腕を組み、椅子の背もたれに上体を預けた。  そこに再び安芸。  「で、乗員の身柄は引き渡しまではどこに置かれるんですか?」  「いくら何でも留置場までは完備してないだろ? ここには」と木津の茶々。  「代用出来る施設は存在します」  また一言言いそうになる木津に先んじて、安芸がその施設の何たるかを問う。  「例えば什器倉庫のように、外からのみ施錠出来て、屋外へつながる窓のないところであれば問題はないでしょう」  木津は煙草を取り出そうと胸ポケットを探ったが、ドライビング・スーツのままだったことに気付いて、ポケットを探り当て損ねた右手をそのまま顎に持っていき、ぽりぽりと掻いてから大きく息を吐いた。  「で、そこに放り込むべきご当人は、今はどこに置いてあるんだ?」  「今は医務室で検査中です。額に打撲による裂傷が認められるようですが、脳波には問題ないとの報告が来ています」  安芸が木津にちらりと視線を走らせた。木津が横目でそれに応える。  久我はそれに気付いたらしかったが、特に何も言わずに続けた。  「もし明朝の段階で当局からの身柄引き渡し要請が来ないようでしたら、お二人には臨時の留置場の準備をお手伝いいただくことになるかも知れません。その際はよろしくお願いします」  ドアが開き、灯りが点る。  昼間峰岡が片付けたままの状態を保っている部屋。戻ってきた木津は、キー・カードを整頓された机の上に放り出そうとして、ふとその手を止めた。くたびれたパンダのキーホルダーが揺れる。  すっかり見通しが良くなった机の上。紙屑の谷間になっていた、昨日から置きっ放しにしていた写真のある一隅までが見渡せた。  木津は机から写真を取り上げるとベッドに腰掛け、手にした写真を見ながら、低い、それでいて不思議と優しく聞こえる口調でつぶやいた。  「……ごめん、今日もだめだったよ」  そして似つかわしくない溜息を一つ吐くと、右の手のひらに顔を埋めた。  「くそっ……いつまで……」  穏やかな微笑を留めた写真が、木津の左手で震えた。 Chase 13 − 捕えられた男  電話を切ると、久我はその手ですぐにインタホンのボタンを押した。  二回目の呼び出し音が鳴り終わる前に、応える男の声が聞こえてきた。  「MISSESです」  「久我です。今から二人ほど手をお借りしたいのですが?」  「由良ですけど、結城さんと私でいいでしょうか?」  「お願いします。場所はこちらではなく、B棟の什器倉庫です」  そう聞いて訝しげにながら了解の返事を返す由良に、久我は峰岡を倉庫の前で待たせておく旨を付け加え、再度お願いしますと念を押すと、インタホンのスイッチを切った。  しかし訝しげなのは由良の答えだけではなかった。久我もまた右手にペンを弄びながら、その眉間に微かに皺を寄せている。  インタホンから離れると、由良は首を傾げながら振り返った。  「ディレクター?」  訊ねた小松に由良は頷き、今のやりとりをかいつまんで聞かせた。  「はぁ、什器倉庫ですか。力仕事でもしろというのかな」  つぶやきながら結城は読んでいた新聞の画面を閉じると、立ち上がって一つ伸びをし、ついでに上体を左右に二度三度と捻った。  「そんなに体力が有り余ってるようにでも見えるんですかね?」  「まあ、取り敢えず行ってみましょう。峰岡さんが向こうで説明してくれるようです。それじゃ、小松さん、済みませんけど後はお願いします」  湯気の立つ中国茶をすすりながら、いってらっしゃいという風に手を振る小松を後に、二人はMISSESの詰所の如き部屋を出た。  ドアが背後で閉まる。歩き始めると、先に結城が口を切った。  「昨夜は我々の代わりに、木津さんが代打で出場だったらしいですね」  「ああ、安芸リーダーだけが残ってたんですか。あれ、出場ってことは、出動があったということですか?」  「いえ、そこまでは聞いていませんが。ところで、昨日の反響はどうでした?」  「反響、ですか?」  「こっちで活動していることについて、向こうでいろいろ言われたでしょう」  由良は照れたように頭を掻いた。  「いろいろ言われたというよりは、あれこれ訊かれました。G−MBのこととか、出動のこととか」  結城は微笑しながら頷く。  「私の時もそうでしたよ。根掘り葉掘りの集中攻撃で、特にMフォームのことは興味を引いてましたね」  「言われました。操縦が複雑じゃないかとか。でも向こうにだって導入されたわけですし、今思うとそれほど特別なことをしているような気にはなりません」  「そうですか……確かにG−MBがそういう一般向けのような設定になっているというのはあるでしょうけれど」  「結城さんは以前S−RYに乗ってらしたことがあるんでしたね。やっぱり違うものですか?」  「基本的な操作系などはそれほど差のあるものではなかったですが、G−MBの方が扱いやすいような気はしますね。バックパックを背負わせた分、バランス制御を緻密にしたと阿久津主管は言っていましたし、それにS−RYはあちこち改修されているとは言え、最初の試作機だそうですからね、完成度はG−MBに大きく譲るでしょう」  「S−ZCが最初じゃないんですか?」  「阿久津主管によると、あれは試作機というよりは実験機に近いらしいですよ。実際の運用は念頭に置いていないとか」  「ああ、それで木津さんが専属のテスト・ドライバーになっているんですね。車体もワンオフで。結城さんもあれには乗ったことがないんですか?」  「ええ」  と答えしな、廊下の角を曲がると、高く弾けた声が二人を出迎えた。  「結城さん、由良さん、ここですぅ!」  峰岡の片手は二人に振られ、もう一方の手は台車の上に掛けられている。  少し足取りを速めて近付いた由良が問う。  「台車なんか持ってきてるということは、もしかすると荷物運びですか?」  「当たりです。この部屋の中身をA棟の倉庫の方に移して欲しいんです」  「で、代わりに何か入れるんですか?」と結城が訊ねる。  「さあ、そこまでは聞いてなかったです」  「久我ディレクター直々の指示だから」結城が再び口を開く。「何か意味があるんだろうけど……しかし地味な作業だな」  峰岡は少し困ったような顔をして見せてから、倉庫のロックを解除し、扉を開けた。  明かりが点されると、微かに埃っぽい臭いが漂い出す。由良が中に足を踏み入れる。  「何だ、大して物は入ってないですね。手早く片付けてしまいましょう」  久我は再びインタホンに向かい、呼び出しボタンを押した。五回の呼び出し音が鳴り終えて、やっと応えが返った。  「医務室です」  久我は、名乗るとすぐに、昨夜拘束した武装ワーカーの乗員の様子を訊ねた。  何ら慌てた風もなく相手は答える。  「ご指示の通り鎮静剤の投与をしていますので、眠ってはいますが、意識が戻ったことは確認しました。外傷も大したものではなかったですし。身柄引き渡しですか?」  「いいえ、当局にはまだ移しません。当面こちらに即席の留置場を設けて、そちらに収容することにしました。準備が出来次第そちらへ移動します。問題はないですね?」  医務室の同意を受けた久我は、移動は追って指示する旨を伝えて通話を終えた。と、間髪を入れずにインタホンの呼び出し音が鳴り、阿久津の声がそれに続いた。  「よろしいですかな?」  「どうぞ」  資料を小脇に抱えた阿久津は、部屋に入ってくるなり言った。  「お忙しそうですな」  こういう台詞に久我が答えを返すことはないのを承知している阿久津は、椅子を引き寄せて久我のデスクの前に座り込み、無造作に資料を机上に置いた。が、その態度とは裏腹に、どことなく浮かれたような雰囲気が表情からは感じ取れる。次に続いた言葉もまた然りだった。  「予定通り最終チェックが完了しましたです。ディレクター殿の承認が頂けたら、後はロールアウト待ちですわ」  置かれた資料を取り上げるだけ取り上げて、しかしページを繰ることはせずに、久我は訊ねた。  「チェックでの不具合による最終的な修正個所はどの程度ありましたか?」  阿久津はにやりと笑って見せると、椅子にふんぞり返る。  「皆無、です。これまでになく万全の仕上がりと言ってもいいでしょうな」  「一号機の実績のある設定を基に調整をされているものとうかがっています。それが仕上がりの方へも良い影響を与えているようですね」  全く表情というものを感じさせずに言われた久我の言葉に、阿久津の顔からさっきまでのにやりが消えた。口ごもるような阿久津の返事。  「まあ、そういう事実はありますな」  「その状態で」と変わらぬ調子で久我がさらに問う。「一号機と比較して、最終的な向上値はどれほどになりましたか?」  これには阿久津は準備していたかのように即答する。  「モーターの出力、火器の威力、操縦性、バランス制御諸々含めて、トータルで二十二ポイントのアップになっとります。変形速度にあまり手を着けられなんだのが惜しいと言えば惜しいですがな」  「結構です。資料はこれから確認させていただき、その上でロールアウトの日程もお知らせすることとします」  この女がこう言えば、話はこれ以上続かない。承知の阿久津は腰を上げると、椅子を元の場所に戻しながら、もう一点だけ訊いた。  「二号機も木津君が使うんですかな?」  妙にはっきりした答えが戻った。  「まだ決まっていません」  鼻を鳴らしながら阿久津が出て行くと、提出された資料に目をやる間も久我に与えることなく、インタホンが呼び出し音を鳴らす。  ボタンを押して呼び出し音を止めると、代わりに峰岡の声が飛び出してきた。  「倉庫の引っ越しが終わりましたぁ!」  「……はい、はい分かりました」  通話を終えた峰岡は、二人に告げた。  「お疲れさまでした。これで釈放です」  由良が軽く吹き出した。  「釈放って……今のは懲役ですか?」  「いけませんよぉ〜、当局出身の人が懲役になっちゃあ」  立てた人差し指を横に振りながら峰岡。  由良は人懐っこそうな丸顔をふるふると横に振ってみせる。  「なりませんなりません」  「そう言えば、さっきの什器倉庫は留置場か独房に持ってこいだったな」と結城が何気なく言った。「もしかして、そのつもりだったんじゃないですか、久我ディレクターは」  「だからなりませんってば」  由良が笑いながら、しかし半ば大声になりながら言う。  「いや、そうではなくて、LOVEの中に身柄を確保した容疑者を置いておくための場所を作るっていうことです」と結城が言う。  「え〜、それはないんじゃないですか?」 峰岡が口を挟む。「今までだって、必ず当局に引き渡しでしたよ。ここにそんなに長い間引き留めておくことなんてなかったです」  「そうですね。それじゃ当局の怠慢です」  結城の言葉に由良が頷く。  「当局の怠慢じゃないのか?」  話を聞くや否や、木津は久我に食ってかかるように言ったが、次の久我の言葉を聞くとそれを忘れたかのように表情を一変させた。  「それと同時に、車両調査の許可がありましたので、作業に着手しました。先程結果が報告されてきましたが、砲の機構部分に例のマーキングが確認されたそうです」  「奴の絡みだったのか」  木津が拳をもう一方の手のひらに打ち付ける音が執務室の中に響く。  「だがそれにしちゃあ、あんまりにも間抜けだぜ、あの兄ちゃんはさ」  「いずれにせよ、こちらは当局の指示に従う他ありません。改めての指示があるまで、身柄をこちらで預かります」  「奴の子分をね。そりゃ嬉しいこっちゃ」  久我の上目使いの視線を感じて、木津は話をそらすように続ける。  「で、例の即席留置場はどうなった?」  「既に準備済みです。あなたのお手を煩わせることはなくなりました」  「左様でございますか」とおひゃらかすと、木津は次の煙草に火を点けた。  「で、本題ってのは?」  久我はテーブルの上に裏返しに伏せられていた資料を取り上げ、木津の方に差し出す。  「S−ZCの二号機が完成しました」  ひときわ大きな煙の塊を吐くと共に、木津は歓声を上げた。  「それはそれは重畳至極。しかし、ここまでこぎ着けるのにずいぶんと時間がかかったみたいだな。俺がここに来た頃にはもう調整段階に入ってたはずだよな?」  そう言いながら資料を手にする木津に、久我が答えた。  「あなたのご協力を得られたおかげで、数多くの改修要目が新たに見付けられました。進捗の遅れはそのまま性能の向上に繋がったものととらえています」  笑いを噛み潰すような口許を見せ、木津は資料のページを繰った。  車体のフォルムは今木津の乗っている一号機とほとんど変化はない。だが最大出力や衝撃波銃の出力などは数値的には多少の変化が見えている。それから運転席周り。スイッチの配置が少し変更されている。  「……それほど大きく変わってるような感じはないんだな」  「同じS−ZCですし、性能の向上のために外見的な要素を変更する必要も特には見出されなかったようです。しかしご覧いただいている通り、数値面では性能向上されていますし、その他単純に数値化できない部分についても相当の部分に改修が施されています」  「阿久っつぁんにもレポートを出しまくったしな。それを盛り込むのに大わらわになってたってわけか」  「計算値では、一号機と比較して二十パーセント以上の性能向上となりました」  「計算値では、ね」  「そうです。そこで一号機のドライバーであるあなたにロールアウト時の試験走行をお任せし、同時に一号機との総合的な性能比較を行っていただきたいと思います。これが今日お呼び立てした本題です」  煙草が灰皿で潰された。  木津は頬に浮かんだ上機嫌そうな笑みをもはや押し止めようともしなかった。  「そいつぁ願ってもないね。で、いつ?」  一旦手にしたコーヒーのカップを口を付けずに皿に戻すと、久我は答える。  「S−ZCは試験用車両の位置付けを変えていませんので、ごく小規模に行うつもりです。ですから、それほど準備期間も必要は無いでしょう。あなたには操作説明書をお渡ししますが、そこから今回の変更点について理解を得ていただきたいと思います。そのための時間だけを取ろうと思っています」  「まだるっこしいな」  「それだけですから、一日はかからないでしょう。今週末ではいかがですか?」  木津は腕時計に目をやった。  「……三日後か。ま、いいだろ。正直な話、今すぐにでもやっちまいたいところではあるがな。で、予習用のマニュアルってのはどこにある?」  「お手元の資料に含まれています」  「早く言ってくれ」  木津の手が資料の冊子をかき回す。  「ああ、これか。それじゃさっそく部屋で読ませてもらうとするか」  立ち上がった木津はさっさとドアへと向かう。が、そこで足を止めると振り返った。  「で、このじゃじゃ馬二号機は俺が飼い慣らすようになるんかね?」  「まだ決定はしていませんが、そういう方向で運ぶことになると思います」  「そうしたら一号機は?」  「テスト機として動態保存することになるでしょう。もっとも、これも確定ではありませんが」  木津はまた微笑んだ。  「安心したよ、すぐさまスクラップにするとかじゃなくってさ。何たってあいつにはいろいろ世話になってるし」  「あ、仁さんがスキップしてる」  峰岡が指さす方向を、他の四人が一斉に見た。言葉の通りスキップというわけではないものの、足が地に着いているかどうかはいささか心許ない様子で木津が来た。  「これはこれは皆様お揃いで」とおどけた調子の木津に、峰岡が問いかける。  「何かいいことがあったみたいですね?」  すると木津はまた峰岡が後ずさりしそうな笑みを満面に浮かべて答えた。  「お・お・あ・り」  次に興味を示したのは結城だった。  「その資料に何か関係あるんですか?」  木津は答えずに、脇に抱えた資料の表紙を見せた。  覗き込む四組の目。  「やっとロールアウトまでこぎ着けたんですね」と安芸が口を切る。「プロトタイプから半年かかりましたか。これは相当手が入っているはずですね」  そう聞いた木津はさらににやつく。  今度は結城が問う。  「実際のロールアウトの日取りまで決まったんですか?」  「おうさ。今週末だ」  「ずいぶんと急ですね」  「そんなことはないだろ。同じ朱雀だぜ。違いだけ把握しときゃ、転がすのに何の問題もないはずだ。本当なら今すぐにでも行きたいところだったんだがな」  「昼食も抜きでですか?」  この由良の問いにきょとんとする木津。  「……あ、もしかして、お揃いだったのはこれから食堂に行くのか?」  「そうです。よろしかったら木津さんも一緒にいかがですか?」  「そうですよ」と峰岡が追撃。「たまにはみんなで食べるのもいいですよ」  「そうだな。今そう言われたら急に腹が減ったよ。ご一緒致しましょうかね」  食堂の一角。  件の五人が丸テーブルを占領している。  「それじゃあ」パスタ・ソースの付いたフォークを片手に、峰岡が話を続ける。「今乗ってる方のS−ZCは、どうなっちゃうんですか?」  口をもぐもぐやりながら、言葉にならない言葉で答える木津に、安芸が言う。  「だからどっちかにしませんか? 話すか飲み込むか」  これには従わざるを得ず、木津は飲み下した後の口の中をさらに水で洗い流してから、久我から聞いた話をそのまま伝えた。  「ということは、誰かが乗り換えるとか、ドライバーを補充するとかいうことはないんですね?」と結城。  「らしいね」  「結城さん、実はS−ZCを扱ってみたかったんですか?」安芸が問いかける。  「正直な話、それはありますね。やはりここに派遣されてきた以上は、VCDVの全部を一度は扱ってみたいと思いました。でも性能テスト機だということでしたから。今度リリースされる機体もそうなんでしょうか?」  「じゃないのかな」と木津。「少なくともおばさんはそう言ってたね。何かあんまりそんな感じはしなかったけどさ」  「いずれ当局に導入されることはないんでしょうね」と大盛りのカレーライスをあらかた平らげて由良が言った。  「そうそう」と口の中のフライを今度はちゃんと飲み下してから木津が言う。「当局と言えば、進ちゃん聞いたか? 昨夜の奴、結局引き渡しの目処が立ってないんだと」  そうなんですか、という安芸の声に、峰岡の声がかぶさった。  「昨夜の奴って何ですか?」  「あれ? 知らなかったんだ」  木津は昨夜の出動の経緯を語った。  「……で、容疑者の身柄はまだこのLOVEにあるんですか?」由良が訊ねる。  「らしいね」  答えた木津に安芸が付け加える。  「そう言えばディレクターが、倉庫を仮の留置場代わりにするとか話していました」  「え〜、本当にそうだったんですか?」  驚いた峰岡が、結城と顔を見合わせる。  「本当に倉庫の片付けを?」  「ディレクターから指示があって、さっきやりました」と由良。  「どこの倉庫だ?」  木津が少し低い声で訊く。  「仁さん、お箸を持ったまますごんでも、格好が付きませんよ」  峰岡の入れた茶々に笑いながら、答えたのは結城だった。  「B棟の什器倉庫です。で、峰岡さん、ほっぺたにソースが撥ねてますよ」  慌てて頬を拭く峰岡の仕草を見て、また皆が笑う。木津を除いて。  「もうそっちに移したのか?」  「いいえ」これには由良が答えた。「私たちがやったのは片付けだけでしたから」  箸を置いた木津は、舌で歯の裏側を舐めながら独り言のようにつぶやいた。  「それじゃまだ医務室か。ぶち込まれる前に、もういっぺん面を拝んでおくか」  「こちらのメンバーが『ホット』の部下と直接接触するのは、これまでにはなかったことなんですか?」と由良が問う。  口を拭って安芸が答える。  「ええ、身柄を確保次第、すぐに当局へ引き渡していましたから。当局が引き取りに来なかったのは初めてですね。でも」と木津の方に向くと続ける。「こっちが勝手に接触すると、当局がいい顔をしないでしょうね」  「知ったこっちゃねえさ」  由良の顔が少し曇る。が、木津は気付かずに言った。  「奴につながるものだったら、何でも利用させてもらわなきゃな」  峰岡がむせて軽く咳き込む横で、そうでしたねと安芸が頷く。  「何でもというのは、LOVEもS−ZCも含まれるんですか?」  そう訊ねる結城に、木津は平然と  「ああ、ディレクター久我大先生の承認も有り難く頂戴してる」  「それは……まずいですよ」  「当局の人間にしてみればそうかもな」  結城と由良は顔を見合わせた。  「さて」木津は立ち上がり、空になった食器の載るトレイを片手で持ち上げた。「拝みに参りますかね、話題の人物を」  「あら木津さん、お見限りですね」  出迎えたのは、木津が手術前に担ぎ込まれた時に付き添っていた看護婦だった。  「そうそうお世話になりたくはないわな。お巡りとお医者は暇な方がいい」  看護婦は肩をすくめる。  「それで、どうなさいました?」  「例の兄ちゃんは?」  「ああ、昨夜の」と言いかけて、彼女は木津の後ろに、結局付いてきた結城と由良の姿を認めて会釈する。  木津は一度振り返ってから言う。  「ああ、野次馬同伴だ。『ホット』の手下の面を拝みたいってな。まだいるんだろ?」  「ええ、薬で眠っていますけど」  「何だ、寝てんのか」木津は舌打ちする。「それじゃ話を聞くわけにゃいかないか」  「残念ながら無理そうですね。これまでのところ寝言も言っていませんから」  相変わらずとぼけた口振りの看護婦。にやりとしながら木津は閉じられた白いカーテンを半分だけ引く。その脇から結城と由良がベッドの上を覗き込む。  額にガーゼと絆創膏を貼り付けた、蒼白い顔が目を閉じている。  結城が眉間に縦皺を寄せた。  「まだ二十歳前じゃないですか?」  「みたいだがね」と木津。「身元調査のインタヴューも出来ないんじゃ、確かなことは言えないが」  「しかし、どうしてこんな若い身で犯罪者の配下に入ってしまうんでしょうね?」  由良がいつもとは違う、ぼそぼそとした口調でそうつぶやく。  木津がそれに応えて言った。  「『ホット』に会ったら訊いておくよ。どうやって誑かしたのかってさ」  カーテンの向こうで低く抑えられたインタホンの呼び出し音が鳴り、それが途切れると今度は看護婦の受け答えが聞こえる。  「……はい医務室です。……ええ、見えてますけど……はい、承知しました、準備しておきます」  「移送ですか?」結城が問う。  「そうです。倉庫の方にですけど。真寿美ちゃんが鍵を持ってくるそうなので、手伝って下さいね」  「手伝い?」  「久我ディレクター直々のお達しです。皆さんが来てるなら、使ってやりなさい、じゃなくて、手伝ってもらいなさいって」  「あのおばさんのやりそうなことだぁ」  木津が両の手を挙げてぼやいた。  結城がもう一度横たわる男に視線を落とす。  間もなくインタホンから峰岡の声が聞こえてきた。  今は即席の留置場となった倉庫の鍵を開けながら、振り返って峰岡が口を切った。  「当局の方からさっきディレクターの所に連絡があって、明後日この人を連れに来ることになったそうです」  「明後日ですか」と鸚鵡返しに結城。  「朱雀二号機お披露目の前日だぁね」  「仁さん、今週はもうそればっかりになりそうですね」と峰岡は言うと、扉を引き開け、照明のスイッチを入れた。  窓一つない、埃臭い部屋。  「こんな所に閉じ込めちゃったら、何だかかわいそうですね」  そう言う峰岡を小突きながら木津は言う。  「連中にいっぺん殺されかかったことがあるってのに、何を言ってんだか」  驚いたような顔をして由良が問う。  「殺人未遂罪を問われるようなことまであったんですか?」  「ベッドは壁に寄せてしまった方がいいでしょうか?」  最後にベッドを押して入って来た結城の声に、三人が振り返る。  「あ、ごめんなさい、手伝います」  由良が駆け寄り、ベッドの頭側を持つ。ベッドは横を壁にぴったりと着けられる。  まだ目を醒まさない男に一瞥をくれると、木津は独り言のようにつぶやく。  「これで二号機の話がなけりゃ、手持ち無沙汰ついでにこいつをたたき起こして、『ホット』の事を吐かせたところだったのにな」  峰岡が木津の腕をつかんで引っ張り、さらに後ろに回って背中をぐいぐいと押す。  「はい、作業終了です。撤収撤収!」  「分かった、分かったって! しばき倒したりしないから! 背中は止めてくれ!」  「あー、さては仁さん、背中が弱点なんですね? いいこと聞いちゃった」  「しまった!」  一声上げて一足飛びに部屋から飛び出すと、木津はそのまま向かいの壁に背中を着ける。  「頼むから、背中をくすぐるのだけはやめてくれ!」  結城と由良は顔を見合わせて笑った。  常夜灯の薄暗い光だけがぼんやりと点る廊下。足音を忍ばせて歩く一つの影が、扉の前で動きを止めた。  扉の隙間から廊下の床に、中からの灯りが僅かに漏れ出している。それを認めた影は、屈み込むとその隙間に何かを差し込んだ。  部屋の中へとそれが引き込まれるのを見ると、影は立ち上がり、再び足音を殺して歩き始めた。  ややあって、その影が同じような足取りで、同じ場所に現れ、同じ扉の前で屈み込んだ。 そして扉の隙間に紙片を差し込むと、それはすぐに室内に引き込まれ、合間も置かずにさっき外から差し込まれた何かが押し出されてくる。  屈んだ影はそれを抜き取ると、立ち上がり、もと来た方へと歩き出し、今度はそれきり姿を見せなかった。  その頃、木津は煙草もくわえずに自室のベッドに仰向けに寝転んで、久我から渡されたS−ZC二号機仕様書と操作説明書の五度目の通読を終えようとしていた。  最後のページが閉じられると、冊子が枕元に放り出された。そして木津の上体がここしばらくはなかった程勢いよく跳ね起きた。その顔に野卑なほどの笑みを浮かべて。  「……二号機か」  顔が机の方に向けられる。笑みから野卑さが消え、代わりに意志がそれを引き締める。  視線の先にはあの写真があった。 Chase 14 − 奪われた朱雀  地下駐車場に停められたG−MBのコクピットにいつも同様に陣取った結城は、ふと目を上げると、ウィンドウ越しに、カバーを掛けられて牽かれていく一台の車両を見た。  カバーに覆われた姿からでも、その車高や幅、そしてうかがわれる独特のフォルムから、これがVCDVであるのは明らかだった。さらに、その横について歩いている阿久津の姿から、機種もまた自ずと知れた。  コクピットから抜け出すと、結城は足早にその列を追った。  声を掛けられて阿久津が振り向く。  「おう、結城君か。またお籠もりかね?」  「はい。ところで、これは……」  「ああ」と言いながら結城の表情を見て、阿久津は答える。「お察しの通りだよ。S−ZCの二号機さね」  「まだカバーを外せないんですか?」  「外しちまうと、我慢の出来なくなりそうな御仁が約一名おるんでな」と阿久津はにやつきながら答える。「お盛んなことだわい」  阿久津の言葉の後半はどうやら通じなかったらしく、結城は真面目な顔でうなずいた。  「それじゃ、私が先に見せていただくわけにはいきませんね」  「よしてくれ」と表情は変えずに阿久津。「仁ちゃんに殺されてしまう」  今度は結城も表情を崩す。  「それは困りますね。遠慮しておきましょう。でも、どのみちまだ全く動かない状態なんでしょう?」  「こいつかい?」阿久津は親指をぴっと立てて、低く盛り上がったカバーを指し示す。  「さすがに明後日がロールアウトだってのに、いくら何でもそれじゃまずかろう。もうバッテリーはフルにチャージしてあるし、一通り以上の動作はこなせるようにしてある」  「それじゃますます木津さんには見せられませんね。S−ZCよりパワーのないものには乗れないようなことを言ってましたけど、これになら飛び付いてきそうです」  そう言うと、結城は午前中のシミュレータでの一件を阿久津に話して聞かせる。G−MBをシミュレートした木津は、体に染み付いた朱雀のパワー故に、出力の小さく重量の大きいG−MBを扱いきれなかったのだ。  「そうか……奴さんらしいわい。よーし、停めろ!」  歩みを止めた阿久津の指示で牽引車が静かに停止する。それから改めて動き始めた牽引車はゆっくりと方向を変えると、他の車両とは少し離れた位置、丁度一台が保守作業出来る程度の空間にS−ZCを導き、その鼻面を出入口の方に向けさせると、再び停止した。  間髪を入れず作業員が近付き、牽引台車からS−ZCの前輪部を降ろす。そこに阿久津が足早に近付く。結城もそれに倣う。  車体脇に垂らされていたカバーが、阿久津の手で持ち上げられる。木津の一号機と同じく、いや新しい分滑らかで鮮やかな緋色のドアが現れる。阿久津がそれを開いて、ふと振り返った。少し面食らったような結城の顔を覗き込むと、阿久津は言った。  「まぁ見とっても構わんが、見たってことは吹聴してくれるなよ」  そしておまけににやりとして見せると、向き直ってコクピットに身を滑らせた。  半ばまで差し込まれたキー・カードが節くれ立った指で最後まで押し込まれ、次いでスタータ・ボタンが押される。直ぐに全てのシステムが立ち上がったことを計器盤の灯火が知らせる。その明るさは、バッテリーのチャージについての阿久津の言葉を裏打ちするかのように結城には見えた。  表示のいくつかを一つ一つ指差しながら確認した阿久津は、最後にその指をキー・カードの排出ボタンの上へ移し、押し込んだ。  計器盤の灯は一斉に消え、キー・カードが再び半ばまで姿を見せる。それを見ると、阿久津は開けっ放しだったドアからのっそりと出てきた。ドアが閉じられ、カバーがそのまま下ろされた。  「何のチェックですか?」と不思議そうな顔で問う結城。  「いや、何のというわけじゃないんだが」頭を掻きながら心持ち恥ずかしげに阿久津は答えた。「嫁入り前の娘の顔を見たがる親父の心境のようなもんだよ」  「分かるような気がします。阿久津主管はお嬢さんがいらっしゃるんですね?」  だが阿久津はそれに答える代わりに、待機していた作業員達にいくつか指示を出し、それから言った。  「さて、仁ちゃんに勘付かれるといかんから、事務所に戻らせてもらうよ」  「車体はこのままでいいんですか?」  「ここならそうは気付くまいよ」  言われて結城は周囲を見渡した。確かに他の車両からは半ば死角になっている。  「なるほど、これだったら大丈夫ですね」  「あとはお主が吹聴してくれにゃあ、露見することはあるまいさ」  「分かりました。ということは、実際に木津さんがこれに触れるのはいつになるんですか?」  「お披露目当日の朝だな。G−MBの時もそうだったからな」  「そうですか。じゃ、それまでは言わないことにしておきます」  結城が詰所に戻ってみると、そこには思い掛けずも木津の姿があった。  部屋に入ってきた結城を見るや、木津は声を掛けてきた。  「来たか鋭ちゃん待ってたホイ」  「な、何ですか?」と真顔でひるむ結城に、木津は質問を浴びせる。  「また下に行ってたんだろ?」  「はい」  「それじゃあ、もしかしてそっちで見かけなかったかい?」  「え? 何をです?」   「もちろん朱雀の二号機をさ」  「いいえ」と結城は大仰に首を横に振ってみせる。「それらしいのは停まっていなかったようですが」  「そうかぁ」  気の抜けたような声を上げると、一つ伸びをして、腰掛けていたテーブルから小さく飛び降りる。  「そいつは残念。んじゃ、お邪魔様」  出ていく木津の背中を見送ると、振り返って結城は訊ねる。  「まさか、それを訊く為だけに来ていたんですか? あの人は」  「でしょう?」と安芸。「今さら驚くようなことでもないじゃないですか」   「しかし、新しい機種に乗るのがそれ程までに待ち遠しいんですね」  「子供なんだねぇ」と小松が口を挟む。  「小松さんは実年齢よりも歳いってますから駄目です」と安芸が言う。  「失敬な」と言いつつ、小松は手にした中国茶を音を立てて爺むさくすする。  「なるほど、阿久津主管の言った通りだ」  「阿久津さんも爺むさいって言ってた?」  「いや、そうじゃなくてですね」と慌てて打ち消すと、結城は話した。「もう然るべきところに搬入はしてあるけれど、木津さんは我慢出来ないだろうから教えない、と言われてたんです」  「さすが主管」と言う安芸に続いて、今まで笑っていただけの由良が訊ねた。  「じゃ、結城さんもその場所は教えてもらっていないんですか?」  「ええ」  「そうですか……」  また茶をするる音がして、小松が言う。  「あれ? 由良さんも子供的好奇心をそそられてるのかな?」  由良が答える。童顔とも言えるその頬に浮かんでいるのは苦笑いに近い微笑だった。  「そう、なのかも知れません。でも実際、新しいものが出てきた時には、いつになってもわくわくしませんか?」  結城が安芸に訊ねる。  「G−MBの時はどうでした? やっぱりわくわくしましたか?」  「厳密に言うと少し違いますけどね」と、久我の口調を真似て安芸。「自分が任されるとなると、むしろ緊張の方が強いです。仁さんがどうだかは知りませんけどね」  その夜、件の木津は緊張のかけらもないままに、自室のベッドの上に大の字になって、高らかにいびきをかいていた。  そしてその頃、例の仮留置場となっている什器倉庫の扉の前に屈み込む姿があった。  翌朝。いつもの朝同様にコーヒーの支度を始めようとした峰岡を、その前にと言って久我が呼んだ。  「はい? 何ですか?」  「今日の午後、一時半に当局から担当者が被疑者の身柄引き渡しに見えます。その準備をお願いします」  「一時半ですね。分かりました。場所はあの倉庫でいいんですか?」  「いいえ、一階の応接です。そこまで連行してもらってください」  「それじゃ、また結城さんか由良さんにお願いしてみます」  久我は無言のままうなずき、それを見て峰岡はコーヒーの準備にかかった。  コーヒーメーカーと格闘する峰岡の後ろから、今度は医務室と連絡を取る久我の声。漏れ聞こえるところに依れば、「ホット」の手先と思しきあの若い男は、どうやら健康状態にも精神状態にも問題なく、本人の意思を除けば引き渡しには何らの支障を認めないらしかった。  入れ立てのコーヒーをデスクまで運ぶと、峰岡は久我に問いかけた。  「引き渡しが遅くなった理由は、やっぱり説明がなかったんですか?」  久我はまた無言でうなずく。  峰岡は溜息混じりに言う。  「横柄な担当者さんですね。同じ当局の中には、結城さんとか由良さんみたいないい人もいるのに」  それには答えることなく、カップを口許へ運んでから、改めて口を切った。  「それから、午前中に木津さんからS−ZCのキーを預かって、阿久津主管に渡してください。コピーが出来たら、二号機のキーは私の方に」  つまり一号機のキーに登録されている木津のデータを、二号機のキー・カードにコピーして使おうというわけだ。勝手知ったる峰岡は承知の返答をすると、また笑いながら一言付け加えた。  「木津さんに直接行ってもらったら、新しいキーが戻って来そうにないですもんね。阿久津主管の方はいつでもいいんですか?」  「十時過ぎであればということでしたが、早い方がいいでしょう。午後に掛かると、被疑者引き渡しがあります。機密保護上の問題がないとは言えません」  「そうですね」と峰岡がうなずく。「それにしても、仁さんに何て言ってキーを借りればいいんだろ。本当のこと言ったら、絶対自分で行くって聞かないんだろうなぁ……そっちの機密保護の方が大変そう」  案に相違して、何の説明も無いまま、木津はあっさりとキーを渡してよこした。  「素直ですね、仁さん」  「うん、いい子だもん。いい子にしてないと、明日プレゼントがもらえないから」  また峰岡がくすくすと笑い出す。  「昨日と今日で、ずいぶん態度が違いますね。昨日なんか、結城さんにまで聞きに行ったんでしょ?」  「昨日の明後日と今日の明日じゃ、そりゃじれったさってのが全然違うさ」  「……よくわかんないです。ま、いっか。お借りしますね」  「そう言えば、今日引き渡しだろ? あの兄ちゃん」と、出て行きかけた峰岡を木津が呼び止めた。  「はい、お昼休みの後です」  「そっか」と木津がつぶやくように言う。「結局直接締め上げられなかったか」  「仁さ〜ん」  「結城さん、やっぱりここでした?」  G−MBのコクピットを峰岡が覗き込む。  「そろそろお願いできますか? 由良さんには先に行ってもらってますから」  促されて結城は車を降りた。  連れ立って歩きながら、結城は訊ねた。  「本当に今日は来るんですよね、担当者」  「みたいですよ。まったくもう」と峰岡は少しふくれて見せる。「二日も三日も犯人を放っておいたら、あぶないじゃないですか」  曖昧に笑う結城を見て、峰岡は慌てて付け加える。  「あ、だから、結城さんとか由良さんとか、うちでちゃんとやってる人だっているのに、中にはそんないい加減な人もいるのかなって思ったりしただけなんですけどね」  廊下の角を曲がると、そのちゃんとやっていると言われた由良の姿が、什器倉庫の扉の前に見えた。  峰岡がポケットから鍵を取り出す。  「開けたらいきなり飛び出して来やしないでしょうね?」と結城。  「その時は由良さんが取り押さえてくれますよね? 腕に覚えあり、ですもん」  照れて頭を掻く由良が、それでもその気になったらしく、鍵を差し込む峰岡の横に立った。その後ろに結城。  鍵を抜き、ノブを回しかけた峰岡の手が、急に開いたドアと共に倉庫の中に引き込まれる。つんのめった峰岡の背中を、ドアの陰から伸びた手が突き飛ばす。倒れ込んだ峰岡の手から鍵が飛び出す。  「うっ!」  踏み込もうとした由良は、しかし足元に峰岡が倒れていて踏み出せない。  「由良さん!」  結城の声がすると同時に、ドアの陰から低い姿勢で男が飛び出してくる。  受付から当局担当者の到着が応接室の久我に告げられた。久我は腕時計に目を落とす。こういう時は時間通りだ。  だが、案内を任せるはずの峰岡の姿がまだない。僅かながらに感じる不安感を例によって表情には出さないまま、仕方なく久我は自ら担当者を迎えに出た。  久我の姿を見て、腰掛けていた二人の内、先に若い方が立ち上がって頭を下げた。それに応じて久我が黙礼を返すと、明らかに役付きと言った感じの中年男がやっと立ち上がったが、これは頭も下げようとはしなかった。  「ご苦労様です」と若い方。  同じ台詞で返して、久我は二人を応接室へと案内した。  部屋に入ると、役付きの方が早速煙草に火を点け、腰を下ろすと切り出した。  「早速だが、引き渡しを」  だが久我は応じず、立ったまま「初めてお目に掛かるかと存じますが?」  相手は重たげな瞼を僅かに動かす。  代わりに答えたのは、これも立ったままの若い方だった。  「失礼しました。実は内部で改組がありまして、管理者が替わりました」  そう言って彼は、どっかりと座り込んだまま煙を吐き出している漬物石のような上長を紹介した。  「お掛けください」と言いながら、自らも腰を下ろし、久我が名乗った。  返事をする代わりに冷淡な一瞥と大量の紫煙とを久我によこすと、役付きはもう一度引き渡しを促した。  が、これにも久我は応じず、やはり若い方に訊ねる。  「今回引き渡しが遅れたのも、その改組の影響ですか?」  肯定の返事に、三度目の引き渡し催促の、苦り切ったような声が重なった。  久我は表情の無い顔を役付きに向けると、今こちらへ連行して参りますと簡単に言う。と、今度はその語尾に電話の呼び出し音が重なった。久我は失礼しますと言うと、役付きに背中を向けるように上体を捻り、口許を手で覆い隠しながら話し始めた。  が、ほんの数語も話さないうちに、久我の眉の端がぴくりと上がった。  「……状況は?……、……、……分かりました。指示を待つように」  通話を終えると、久我は冷静に言った。  「被疑者が逃亡を図りました」  漬物石が初めて表情らしいものをその黒ずんだ顔に浮かべた。  「逃がした、と?」  そして力任せに煙草を揉み潰すと、久我をにらみ付け、声高に言った。  「これは問題だな。我々の信頼に背く事態だ。捕縛後早急に引き渡しを行っていれば良かったものを」  半ば無視して久我は電話をかける。  「……久我です。男が逃亡を図りました。今結城さんが男を追っています。所内全体に警報を発して、至急身柄の確保に当たらせてください」  久我からの指示を受けた安芸は、息継ぐ間もなくそれを実行した。そしてもう一カ所。  インタホンの向こうからは軽い声。それが安芸の言葉を聞いて一変する。  「仁さん、男が逃げました!」  「何だと?」  それを追うように、警戒警報の放送が響き出す。その声はインタホンの向こうからも伝わってきた。  「こいつか! あの野郎、寝ぼけた面しやがって洒落たことを」  「今、結城さんが追っているそうです」  「どこでだ?」  「分かりません。その辺に行ったらよろしく頼みます」  「了解! 進ちゃんはどこにいる?」  「今詰所です。で、例の倉庫に峰さんと由良さんが閉じ込められているらしいので、鍵をもらってからそちらへ行きます」  「分かった。俺もそっちに行く」  インタホンのスイッチを切る間ももどかしく、木津は部屋の外へ飛び出した。普段人通りの少ないこの場所には、さすがに騒然とした雰囲気は伝わって来ない。  舌打ちを一つすると、木津は走り出した。  警報を聞くと、久我は立ち上がった。  「どうぞ執務室の方へおいでください。今回の件は、事態収拾の責は私にあります。執務室で指揮を取りますので、どうかご同席ください」  若い方が上長の顔色をうかがった。それには何らの反応も示さず、役付きが言う。  「この一件で、ここに与えられている捜査権は無効とされるはずだ。既に我々にも特一式が導入されている。その時点でここに捜査権のある理由は無くなっている」  「ではこちらでお待ちになりますか? それとも一旦お引き取りになりますか?」  感情を一切表さない久我の声に、役付きはなおもぶつぶつつぶやきながらも、重たげに腰を上げた。  息を切らせた結城の前でドアが開く。  その向こうから一斉に集まる作業員の視線の中に、結城は走り込むと言う。  「奴は来ましたか?」  「いいや、来てないです」と一人が答える。 「結城さん、追いかけてたんじゃ……」  「撒かれました。でも足を奪いにここに来るはずです。警戒をお願いします!」  「分かった」  ドアが開かれる。  中には半べそをかいてへたり込んでいる峰岡と、いきり立ったように真っ赤な顔で仁王立ちになっている由良。  「大丈夫か?」木津が声を掛ける。  答えずに飛び出そうとする由良。そのがっしりとした体を安芸が押し止めた。  「由良さん、落ち着いて!」  由良の吐く荒い息を聞きながら、木津は峰岡に手を貸そうとした。だが峰岡はへたり込んだまま手を伸ばそうとしない。  「しょうがねぇな」  そう言うと木津は峰岡の背後に回り、両脇の下に腕を差し入れて上体を抱え上げた。  「ほれ、しっかりしろ!」  峰岡は力無く抱えられたまま、聞こえないほどの小さな声でこぼす。  「あたしのせいで……あたしの」  木津の手に熱い滴が落ちる。  「由良さん、峰さんを医務室へ。それからディレクターに報告をお願いします」  冷静に安芸が指示を出し、一つ二つと深呼吸をした由良が、やはり小さな声で了解の意を告げる。  「大丈夫」とそれを聞いた安芸。「ディレクターはどやしたりはしません」  「それじゃ頼まぁ」  木津は抱えた峰岡を引きずって、由良の背中に預けた。由良は軽いはずの峰岡の小さな体を重たげに背負い、とぼとぼと倉庫を出ていく。  「さて、どうする?」  「逃げるとすれば、次の狙いは足ですね……」と言いかけた安芸が、はっとしたように言葉を継ぐ。「仁さん、キーは手元にありますよね?」  「キー? 朱雀のか? ああ、今朝真寿美に貸して、戻って来てる。ほれ」  ポケットから引き出されたキー。今の事態に我関せずといった風に、くたびれたパンダのマスコットが揺れる。  「……って、まさかVCDVを強奪?」  「あり得なくはないでしょう? もっとも駐車場の場所が分かれば、ですが」  「行くか!」  返事も待たずに走り出そうとする木津を、安芸が引き留める。  「駐車場に一報を入れておきましょう。向こうに誰もいないってことはないですから」  「ごもっともさま」  通話の終わるのを焦れるように待っていた木津は、安芸の指が電話のスイッチを切るのを見るや否や訊ねた。  「行ってなかったか?」  「結城さんが行っていて、注意するよう指示を受けたそうです」  「あれ? 奴さん追っ手だったんじゃなかったっけか? 撒かれたんか?」  「そのようですね」  「んで、結城ちゃんは?」  「駐車場にいるようです」  「んじゃそっちは任せておけるな。次はどうする?」  執務室の久我の元には、まだ被疑者発見の報は入って来ない。  ソファでは苦り切った顔で当局の役付きがやたらと煙草の煙を吹かし、その横で怯えたような表情で部下が小さくなっている。  久我はデスクのディスプレイ・スクリーンにLOVEの全図を表示し、見つからないとの報告があった場所にチェックをしていた。  あの什器倉庫のある一角は別として、研究室や製造ラインは全て監視体制が整えられている。下手に逃げ回ったところで、カメラに引っ掛かるのが落ちだ。が、それにしては見つからない。  当局の若い方がちらりと腕時計に視線を走らせるのを見て、久我もそれに倣う。  脱走の第一報が入れられてから、間もなく三十分が経過しようとしている。その三十分を越えては待たないと、当局の漬物石は久我に告げていた。  ドアのインタホンが鳴り、続いて到着を報せる安芸の声が聞こえる。久我はソファの方に一瞥をくれてからドアを開いた。  先に入ってきた木津がまず問う。  「見つかったか?」  一方の安芸は、こちらに振り向いたソファの人影に気付いて、とりあえず会釈する。  久我は木津に答える。  「まだ連絡はありません」  「出口は固めたのか?」  久我が答える前に、インタホンが鳴った。  気色ばむ木津を横に、落ち着いた様子で久我が応答する。  「久我です」  「由良です! 押さえました!」  ソファの二人もこちらに振り返る。  木津は久我を押しのけるようにしてインタホンに向かい大声を上げた。  「どこだ?!」  「木津さんの部屋の中です!」  「何だと?」  久我がすっと割って入る。   「被疑者の状態は?」  「失神しています。締め技を掛けましたので……でも身柄は確保しています!」  「これ以上の逃走は不可能な状態にしてありますか?」  「手足は縛っておきました。大丈夫です」  「分かりました。応援を……」と言いかけたところに、また木津が割り込む。  「俺の部屋の中にいたってのはどういうことだ? 何をしてたんだ?」  「さぁ……資料か何かを探している風にも見えましたけれど」  「資料? まさか、朱雀のか?」  そこに今度は紫煙に荒らされた声が。  「身柄が確保されたのならば、早急に引き渡しを行っていただきたい」  三人が三様に声の方へ顔を向ける。中でも一番冷淡な表情を見せた久我が、インタホンに向かって指示を下す。  「もし一人で連れて来られるようなら、私の執務室へお願いします」  「大丈夫です、了解しました」  通話が切れる。木津が慌てて呼びかけるが、遅かった。構わず久我は呼び出しボタンを押し、出た相手に警戒態勢の解除を報じるように告げ、そして当局の役付きに向かって、何の感情も交えずに言った。  「お待たせいたしました。間もなくお引き渡しできるものと思います」  木津は思わず久我の顔を見る。この人、一体どこまで冷静でいられるんだ。感心するよ、ホント。この部屋に爆弾か何か放り込まれても、こんな調子で対応するんだろうな。  間もなく逃亡者捕縛と警戒態勢解除の放送がこの執務室にも聞こえてきた。続いて由良の声が。久我がロックを解除する。  報告通りに両手両足を縛られた、失神したままの男を、まるで丸めたハンモックのように担いで、由良が意気揚々と入って来た。  ようやく立ち上がった漬物石に、男を床に降ろした由良は敬礼し、所属氏名を名乗る。  なるほど、当局式の挨拶ってのがあるわけだ。そう木津は思った。民間は所詮は部外者扱いか。  若いの共々答礼すると、漬物石は御苦労と言葉を掛けた。そして若いのに、床に転がったままの男を連れて行くよう簡単に指示すると、さらに由良に話し掛けた。  「やはり当局の人間だな」  由良は今回の脱走騒ぎの一因が自分にあることを主張したが、そんなことは問題ではないとまで役付きは言ってのけた。脱走は状況にも一因があろうが、事態の終息にあたったのは紛れもなく由良個人であろうと。  居心地悪げな由良に、漬物石はさらに問う。  「もう一名当局の人間が派遣されていると聞いているが?」  「はい、同じく高速機動隊より……」  言いさしたところに、相当腹に据えかねたらしい木津が割り込んだ。  「その結城の兄ちゃんはどうしたんだ? 戻って来る様子がないじゃないか」  そこにさらに、インタホンの呼び出し音が割り込んで来る。  「何だぁ? まだ何かあるのか?」  久我が呼び出しに応じる。そして聞こえてきた言葉に、木津は自分の耳を疑った。  「地下駐車場です。結城さんがS−ZC二号機を出しましたが、指示か許可は出されていますか?」 Chase 15 − 放たれた白虎  「地下駐車場です。結城さんがS−ZC二号機を出しましたが、指示か許可は出されていますか?」  「何だと?」  問いに久我が答えるより先に、木津は叫んでいた。  「指示は一切出していません。どういうことですか?」  久我への返事を聞くのも待たず、木津は部屋を飛び出していた。  当局の役付きが何事かと訊ねたのに、安芸は淡々と応えた。  「当局から派遣された結城氏が、試作車を無断で持ち出したようです」  役付きの額に青筋が浮いた。だがそれには完全に背を向けて、久我はさらに相手に詳細を訊ねた。応えて曰く、逃走者捕縛の報が流されると間もなく、駐車場に詰めていた結城が奥の一隅に停めてあったS−ZCのカバーを剥がし、これに搭乗、発進させた。阿久津主管からこの件についての指示はなく、MISSES側からの命か否か確認したいとのこと。  眉間に縦皺を寄せた久我の口からは、次の指示が出てこない。  が、それに続いて聞こえてきた鈍い音が、久我の眉を動かした。  「どうしましたか?」  「砲撃です!」  由良と安芸が表情を変えた。  「衝撃波銃です! この振動は衝撃波銃です! ああっ、ゲートが!」  走る足音、大声。  「潰された! ゲートが潰されました!」  「負傷者と車両への被害は?」  「ありません! でもこれじゃ車両が外に出せません!」  壁に拳をたたき付け、顔をまた真っ赤に上気させて由良が怒鳴る。  「それじゃあ、あいつは囮だったのか? 結城さんも、当局の人間なのになんてことを……『ホット』の息が掛かっていたのか?」  「駐車場からVCDVは出せないんですね? 追うことも出来ないのか……」と安芸。  久我はインタホンに向けて了解の一語と、速やかに施設復旧するようにとの指示だけを告げると、スイッチを切った。  「事態は悪化しとるのか」と語気だけは荒く、だが隠しきれない当惑が感じ取れる口調で当局の役付きが唸った。「困る。それでは困る。何とか出来んのか?」  その醜い相貌を久我が真っ向から見返す。役付きの頬が一瞬ぴくりと痙攣する程の鋭さで。そしてあくまでも冷静な声で告げた。  「確かに被疑者の身柄はお引き渡しいたしました。どうぞお引き取りください」  役付きの大きな顎が動きかける。が、一言も言わせずに久我が続けた。  「護送中に奪還されないよう、くれぐれもお気を付けください」  そこで言葉を一旦切ると、一層冷ややかな口調で付け加える。  「もちろん、到着後も」  噛み付かんばかりの形相で、ソファを蹴るように役付きが立ち上がる。それを見て、久我は安芸に出口までの案内を、そして由良には駐車場への急行を命じた。  「な、何だこりゃ?」  駐車場に飛び込んだ木津は、そこでの騒ぎに呆然と足を止めた。  「何があったんだ? 朱雀はどうした? 二号機は?」  「盗まれました。ゲートを撃って潰して行きました」と、しどろもどろの答えが返る。  「一号機は?」  「無事です!」と奥の方からの声。  「よし!」木津はそちらに駆け出す。「あの野郎……俺の朱雀を!」  S−ZCのドアを開いた木津は、シートに置かれたヘルメットを被りもせずに脇へ押しやり、代わりにそこへ身を滑り込ませると、挿入されたキーに計器盤が反応を返すのももどかしく、スタータ・ボタンを力任せに押し込んだ。  スタッフの言葉通り、S−ZCは何の支障もなく起動する。  「どけえぇっ!」  大声と共に、決して広くはない駐車場でS−ZCは急発進すると同時に、Wフォームに変形、衝撃波銃の仕込まれた左腕を瓦礫に閉ざされたゲートに向けた。  ブレーキ、同時にトリガー。  瓦礫が震える。が、手応えはない。  「仁さん、だめです! ぐずぐずになってて、波が吸収されてます」  当局の役付きを送り出してから駆け付けてきた安芸の声が聞こえる。  それに応えることなく、もう一度木津はトリガーを引く。安芸の言葉通り、崩された建材はその隙間に衝撃波のほとんどを吸収し、網状になった瓦礫が少しく揺らされただけだった。  「くそっ!」  と、その脇をG−MBが後進で抜ける。そして荷室状の大きな尾部を瓦礫に突っ込み、力任せに押しのけようとする。  「なっ……由良?」  木津の耳に聞こえてきたのは確かに由良の、食いしばった歯の奥から絞り出されるような怒号だった。  「畜生……畜生……許せない、畜生!」  G−MBのモーター音が高くなる。車体の後部に皺が寄り始めた。  「無茶だ、由良さん!」  安芸もG−MBに乗り込み、スタータ・ボタンを押す。その時鈍いショックと共に、由良のG−MBがこちらに押し戻されてきた。  「まだいやがるのか!」  朱雀が衝撃波銃を連射する。手応えは感じられない。  木津はコクピットで滲む汗を拭わない。  LOVEの玄関口を出て、来客用駐車場に続く角を曲がった時、引き渡された被疑者を背負った当局の若手は、足元に伸びている長い影に気付いてふと足を止め顔を上げ、そして凍り付いた。  「何をしとる?」  不機嫌の極みにいた上長の詰問も、部下の指差す先を見て、その先が続かなかった。  緋色の痩躯が車に片足を掛け、悪魔を思わせる頭部と、不気味に開かれた左腕の銃口とを自分たちへと向けている。  その眼が光ったように見えた。  駐車場を呼び出したインタホンの向こうに久我が聞いたのは、相変わらずの混乱と喧噪だった。状況が好転していないことは明らかだが、それでも久我は詳細を訊ねる。  予測通りの回答。それに加えて、インタホンの向こうの声は、由良のG−MBが変形機構に障害を来したことを告げた。  「早急には問題はありません、G−MBは一両残っています。それよりも出口の確保です。爆破も許可します、急いでください」  そこへ通話の割り込みを示すブザーが。駐車場からそちらへ、久我は通話を切り替える。  向こう側の声は、駐車場からのそれ以上に混乱を来しつつ、来客用駐車場で男が三人瀕死の状態で倒れていると告げてきた。素性は問わずとも明らかだった。久我は簡単に収容と手当を命じ、インタホンのスイッチを切った。  そのまま久我は動かない。ただ何事かをつぶやくその唇以外は。  「……動き始めた……」  事務所にいた阿久津の耳に事の次第を伝えたのは、インタホンからの久我の声だった。  S−ZC二号機強奪の報は、さすがに阿久津をも狼狽させた。  「二号機に使っているキーは何ですか?」との久我の問いに、阿久津は言いづらそうにぼそぼそと答える。  「開発用の全機能キーですわい」  この答えは、奪われた二号機が火器管制から内部機構の開放までを含む全ての機能を開かれていることを意味していた。  久我からの応答はない。  代わりに阿久津が問うた。  「どうなさる? 捕獲するおつもりか?」  これに久我は現在の駐車場の状況と、ゲートの異物排除が完了し次第VCDVを差し向けるとの意図を告げた。  「ご協力を願います」と言う久我の言葉で通話が切れる。阿久津はそのまま片手で顎をしゃくっていたが、その手が引き出しに伸ばされた。  「おい!」と手近な部下を呼ぶと、引き出しから取り出した鍵とキー・カードを放り投げて言った。  「用意しとけ」  キー・カードを受け取った部下は、それを改めて見て、驚愕の表情を隠さなかった。  「で、でも、これはまだB試作の……」  「構わん」  阿久津ははっきりとそう言い、まだためらっている部下を一喝した。  「急げ!」  そして走る部下の背中を見ながら、低く、一人言の様に付け加えた。  「……実戦にゃあ十二分に堪えられる。B試てのは型番上だけのことだ。それに、口頭とは言え正式に協力要請をよこしおったんだ。文句は言えまいて」  駐車場では、大声での指示が飛ぶ中、ゲート爆破の準備が着々と進められている。  防護壁の設置状況を確認させる声、爆破剤の扱いに注意を促す声、起爆装置の設置を指示する声。  その中で、言葉にはしないものの、木津は立ったままその様子を見ながら、いらだちを隠そうとしなかった。  こんなちんたらやってたら、逃げられちまうじゃないか。そもそも二号機の位置は把握できてんのか? あれをみすみす「ホット」の手に渡したら、そして「ホット」の工場であれを作り出しでもしたら……  火の付けられない煙草が、木津の歯の間で小刻みに振れる。  やがて待ちかねていた指示が駐車場内の全員に下された。  「準備完了です! 全員待避!」  「おぉっしゃあ!」  木津は再びS−ZCへと走った。ゲートの瓦礫が見事吹き飛んだら、すぐに食いついてやる……  が、急に腕を掴まれて、木津は足を止め振り返った。  阿久津の顔、日頃VCDVの話をする時以上にぴりぴりとしたものを感じさせる阿久津の顔をそこに見て、木津は思わずたじろいだ。  「阿久っつぁん……」  「来いや」  有無を言わせぬその口調。木津は気を殺がれたような顔で、足早に歩き出す阿久津の後に従った。  背後で爆破の秒読みが始まった。  そろそろ引き上げ時かな。  外の状況を見て、結城は思う。あとはこの機体を献上しに戻らなければならない。閉じ込められた連中ももう穴を開けるなり何なり始めるだろう。  その時、結城の耳に高い爆発音が届いた。  来たか。潮時だな。  もう一撃が駐車場のゲートにたたき込まれ、開けられた穴がもう一度塞がれた。  変形レバーに伸ばされた手がすばやく引かれる。朱雀の痩躯が地を這うかのように低くなったかと思うと、それは車輪を備えたRフォームと化す。  結城はスロットル・ペダルを踏み込む。何の躊躇も見せることなく、S−ZCは結城の体に加速の強力なGを返してきた。反応は玄武よりも速い。  数秒とかからずに全速に達すると、LOVEの正面玄関から堂々と走り去るS−ZC。  そのハンドルを握りながら、結城は驚愕と喜色とを顔に浮かべていた。  性能特化のテスト機とはいえ、これほどのものだとは……木津の機よりも総合的に性能向上していると言っていたな。なら奴が追ってきたとしても相手にはなるまい。偶然とは言え、これは大収穫だ。こいつが「ホット」の許で量産されれば……  結城は計器盤に手を伸ばし、ナヴィゲーションのスイッチを入れた。表示された画面に合流地点を見出す。そこはほんの数日前、木津と安芸がもう一人の「ホット」の部下、うまくいけば自身もS−ZCかそれに関する資料を奪取するはずだった男を捕らえた廃棄物積み出し場だった。ここからならあと二十分前後というところか。  計器の表示する速度が少し落ちてきているのに気付き、結城はペダルに乗せた足に再び力を込めると、後方モニターに視線を走らせる。  と、そこには一点、灰白色の影。  結城は不審そうに片目を細める。ここまで何者をも抜き去っては来なかったはずだ。であれば、追い着いてきた? 馬鹿な。この速度で食いついて来られる車体はLOVEにだってない。結城は視線を前に戻した。  が、それから数分と走らないうちに後方モニターに投げ付けられた強力な光条に、結城は再度後方を見ざるを得なくなった。  結城の顔に驚愕が走る。  一点の影でしかなかったものが、今ははっきりと車両の鼻面となって迫っている。  追っ手か? もう?  結城の手がレバーに触れた。  ピークに達した速度の中で、機体のぶれも微塵も見せず、S−ZCが朱雀に変形し、追ってきた白色の車両に対峙する。  相手は速度を落とさない。  朱雀が両腕を相手に向けた。コクピットの中で結城の指が動く。  二つの衝撃波が白い車体を襲う。が、それは相手がいたはずの路面で重なって二重の円を穿っただけだった。  「消えた?」  朱雀が前に飛び出し、射撃姿勢をとったまま振り向く。その目の前の路面に、同じく穴を穿つ衝撃波。  「……やはり、VCDVか」  同じように射撃姿勢をとって、朱雀の正面に、朱雀に似た痩躯、だがその赤とは対照的に、クリスタル・ホワイトとクローム・シルバーに彩られた痩躯が立ちはだかった。  そのコクピットで、モニター越しに、奪われた朱雀を木津の両眼がにらみ据えている。  「ご説明いただけますね?」  珍しく久我が詰問調で切り出す。  その正面には、上体を反らし気味に腰掛け、心持ち微笑を浮かべている阿久津。  「何からご説明申し上げればよろしいですかな? いくつかありそうですが」  表情を変えない阿久津の顔を見据えた目をすぐに伏せた久我は、だが口をすぐには開こうとしない。質問の順序を整理してでもいるかのようだった。  ややあってやっと久我が口を切ったが、発せられた問は阿久津を思わずにやりとさせるものだった。  「まず、あの車体で、逃亡したS−ZCを捕獲することは可能ですか?」  「捕獲、ですかな?」と鸚鵡返しに阿久津。「正直に申し上げて、そいつは保証いたしかねますな」  そこで久我の反応を見るかのように阿久津は言葉を切ったが、久我は淡々と先を促すだけだった。  「……車両の性能だけを言えば、S−ZCよりは勝っていると言えましょう。ただし、数値化したデータ上のトータルとして、というレベルでですがな。それを活かすか殺すかは、ドライバーの質に左右されるところですな。結城氏の腕前は存じませんが。それに」  もう一度阿久津は言葉を切って、言った。  「捕獲が無理ならば、破壊も構わんと木津君には伝えてあります」  久我の眉がいつになく大きく動いた。  「それは……」  微笑を崩さずに阿久津は続けた。  「こちらとしても、丹精込めて作ってきた車両を、日の目を見せんままに破壊するのは心苦しい限りですがな、だがおめおめ持ち去られて、あいつを拵える以上の時間を掛けて得てきたものをただ奪われるのはそれ以上に我慢ならんのですわ」  「分かりました」と久我は静かに答え、さらに問う。「あの白い車両のことは、こちらでは把握していませんでしたが?」  「でしょうな」悠然と阿久津。「あいつはB試ですからな」  「B試作?」言いながら、久我は再び眉を上げた。  「左様。しかし、基礎はS−RYとS−ZCですからな。その上に、まだそのどちらにも盛り込んでいない技術も組んどります。B試という意味では作りかけの車体と言えるかも知れませんが、実用レベルにまでは上がっとりますし、内容を考えれば、少なくとも現行のS−ZCで追いかけさせるよりは有効と思うとります。ご不安ですかな?」  久我は真正面から阿久津を見た。阿久津の微笑がそこでやっと消える。それを認めて久我は言った。  「ご判断を信じましょう。あの車両の型式記号をお教え願えますか?」  「B−YC、と付けとります」  合流時刻まで、残り十五分を切っていた。  結城は朱雀の機体に傷一つ付けることなく相手の攻撃をかわしていたが、しかし相手に傷を負わせることも出来ていなかった。  こんな機体がどこにあったんだ? こいつもなかなかのものらしいな。こいつを捕獲して帰れれば…… 乗っているのは誰だ?  白い機体がまた撃ってきた。  赤い機体が横にステップを踏んで回避。  どうやら、と結城は思う、向こうもこちらを無傷で捕獲しようと言う魂胆らしいな。銃撃の照準がどうも甘い。  わざと外して撃つなどという芸当が出来るのは、安芸か? それにしては無駄弾が多い気がする。あの調子でばらまいていて、バッテリーがどこまで持つのか。  結城は計器盤に目を遣る。こちらのまだまだバッテリーは問題ない。だが調子に乗ってあいつも連れて帰ろうというのは難しいかも知れない。それにこれ以上時間を食えば、増援の来る危険性もある。そうなれば……  結城の指が操作盤で踊る。衝撃波銃の出力が上げられた。  「終わりだ!」  二条の衝撃波。  一つは路面に食いついて表面を剥ぎ取り、飛礫を巻き上げた。  そしてもう一つは真っ直ぐに白い機体へと向かった。  眼潰しの如くに舞い上がる飛礫に紛れて朱雀の位置を変える結城の耳に、何かが裂け、弾け飛ぶ音が聞こえた。  手応えはあった。  結城は変形レバーをWフォームの位置にたたき込み、全速で後進をかける。その鼻面をかすめて、朱雀の下膊程の大きさの、牙のように尖った破片が路面に突き刺さる。  鎮まる飛礫の向こうに結城は、両腕を十字に組み、腰をわずかに撓めて防御の姿勢をとっている相手の姿を認める。  前に出された左腕は、外装が吹き飛ばされて、骨格が露わになっている。が、その腕も、機体のどこも、動く気配を見せない。  「擱坐したか……」  結城は言いながら、相手の機体から目を離さない。あの衝撃波を食らって、明白なのは腕の外鈑だけの損傷というのがその理由だった。躊躇なく結城はトリガーを引いた。  が、その時結城は、相手が顔の前に組んだ腕の左右を入れ替えたのを見た。  何?  衝撃波は吸い込まれるように相手の右腕に突き刺さる。右腕を包む白い外鈑に鈍い振動が走り、しかし今度は弾け飛ぶことなく衝撃波を受け流した。  組まれた左腕が解かれ、「ハーフ」の朱雀へと伸ばされる。  結城の回避行動はわずかに遅れる。  朱雀のそれとは異なる響きを帯びた衝撃波が、朱雀の左肩を捉えた。  衝撃がコクピットの結城にも伝わる。その中で見る計器盤は、左腕が動作不能になったことを示している。  結城は舌打ちをすると、変形レバーをRフォームの位置にたたき込む。信じたくはなかった予想通り、計器盤の返した反応は、R−W間の変形に支障を来していることへの警告であった。  ハーフで走っても合流時刻にはまだ間に合う。が、それはこの白い奴がいなければの話だ。なら、こいつを仕留めるのが先だ。  変形レバーに乗せられた結城の手が、再び動かされる。  立ち上がる朱雀。その左腕は肩からだらりと垂れたままだ。  「結城!」  朱雀の頭部に右腕の銃口を真っ返ぐに向け、木津はついに叫んだ。  「貴様、何のつもりで……」  相手の誰かを知っても、結城は答えない。朱雀を軽く屈ませ、斜め後方にステップを踏ませると、生きている右腕の銃を放つ。  回避する木津ももう口を開かなかった。ただこうつぶやいて。  「阿久っつぁん、悪いが朱雀は連れて帰れないかも知れないぜ。その代わり」  トリガーが引かれる。  「この『白虎』を仕上げてくれ!」  他に誰もいない執務室で、何の情報をも映し出せないディスプレイ・スクリーンを前に、久我は机に両肘を突き、頭を抱えていた。  もしS−ZCがあの人の手に渡ったら、きっとあの人は……  肩がびくりと震えた。  そこにインタホンの呼び出し音。  顔を上げた久我は、小さく咳払いをしてから名乗る。その声はいつもと変わらない平静なものだった。  一方インタホンの向こうの声は、いつもの落ち着きをやや失っているようだった。  「安芸です。準備が出来ました。アックス三両、いつでも出られます」  しかし久我はスクリーンのスイッチを入れなかった。  「S−ZCは単独での逃走とは考えられません。どこかに収容を担当する部隊が展開しているはずです。それが把握できるまで、そのまま待機願います……」  「しかし……」  計器盤のランプがバッテリーの容量を警告してきた。木津は右腕の銃への電圧を切る。  さすがにロールアウト直前のフルチャージした奴とは勝手が違うか。目の前に立ちはだかる朱雀を見ながら木津は思う。だが向こうだって左は使えない。この点で言えば条件は同じだ。  対する結城は少しずつ焦りを感じ始めていた。このままでは合流時刻に間に合わない。朱雀を奪取するという当初の目的さえ達し得なくなる。そうなれば、俺は……  白虎が右腕を前に突っ込んでくる。  朱雀が体をかわす。動かせなくなった左腕が反動で振られ、白虎へ向けた衝撃波銃の照準を狂わせる。  朱雀を後ろざまに跳ね退かせながら、結城は舌打ちした。  朱雀の右腕が左の脇に向けられる。  それを見た木津は反射的に身構える。  衝撃波の振動。朱雀の左腕が肩から吹き飛ばされ、絡み付くような鈍い音を立てて朱雀の足の後ろに落ちた。朱雀が右脚を下げ、それを蹴り上げた。腕は真っ直ぐに白虎の首に向かって飛ぶ。木津は白虎を屈ませる。が、次の瞬間、朱雀が残った右腕の銃口をこちらに向けているのを見る。  撓めた腰をばねのように伸ばし、白虎は跳び上がる。その爪先を朱雀の衝撃波が捉えた。  左の爪先が吹き飛ばされ、バランスを崩した白虎が空中で前のめりになる。  その姿勢から放たれた、狙いのないと同然の衝撃波を難なく避け、朱雀はもう一度銃口を白虎に向ける。  白虎が片足で着地した。  結城の指がトリガーを引く。  と同時に結城は叫んだ。  着地した白虎は、片脚とは思えない跳躍力で再び舞い上がった。  朱雀が追うように腕を振り上げる。そこに、白虎の手首から伸ばされた、VCDVの腕程の長さのある棒が、落下の勢いを乗せて打ち降ろされた。  朱雀の腕の外鈑が割れた。いや、それだけではない。白虎の一撃は外鈑を抜き、上腕にまで達してこれをくの字に折っていた。  白虎が再び片脚で着地する。その時木津は後頭部に、思い出したくない、強烈なしびれを感じた。  白虎は今度はバランスを崩し、朱雀に倒れかかったかのように見えた。  木津は襲ってくる吐き気に半ば痙攣しながら、操縦桿を動かした。  着地した脚は白虎の痩躯を押し返した。その力を受けた右腕の棒は、朱雀の首を真っ向から捉え、あの悪魔じみた頭部を胴体からもぎ取った。  コクピットの結城を衝撃がもう一度襲った。今度こそ平衡を失った白虎にのしかかられ、傷付いた朱雀の躯が倒れたのだった。  木津の声を、いや苦悶のうめきを聞きながら、結城は操縦桿を動かし、計器盤のスイッチに指を走らせた。  モーターの回転が上がり、へし折れた右腕を地に突いて、ゆっくりと白虎の機体の下から逃れ出ると、朱雀は立ち上がった。  白虎は仰向けに転がされる。聞こえてくる木津のうめきが強くなった。  結城は変形レバーに手を伸ばし、引いた。軽いショックの後、計器盤がWフォームへの変形に成功したことを示す。結城の口の端がにやりとひきつった。  合流時刻まであと五分を残すのみ。  結城はスロットル・ペダルを踏み込んだ。  加速度が結城の体をシートに押し付ける。  が、すぐにそれとは逆の力が、ベルトに固定されている結城の体をシートから浮かせ、コクピットの中で前後に、そして上下に揺すぶった。  結城は顔をひきつらせる。力任せに動かす操縦桿は、もう反応を返さない。車体は自ら撃ち落とした左腕の残骸に乗り上げ、跳ね上がり、そして止めを刺すような衝撃が結城を襲った。  転覆し沈黙するS−ZCを、そして衝撃波銃のバッテリーが完全に底を尽いたことを示す警告灯の明滅をももはや見ることはなく、木津はコクピットで突っ伏していた。その両の手はそれぞれトリガーと、そして衝撃波銃に最大出力を指示した操作盤の上で、小刻みに震えている。  「発見です」との小松のゆっくりとした声に、久我ははっとしたように顔を上げた。  「S−ZC大破、木津機小破なるも動きなしです」  久我はスクリーンのスイッチを入れない。  「アックス2は現在位置にて保持し警戒。アックス1及びアックス3は合流を急いでください。こちらも回収班を急行させます」  「了解」  「アックス2は可能ならば……可能な限り乗員の安否を確認し連絡してください」  「了解」  さらに久我は回収班に指示を出すと、机に片肘を突くと、手に顔を埋めた。  やがて小松の声が聞こえた。  「アックス2です。乗員の状況報告です。結城氏は死亡。舌を噛んでいます。遺体は残骸中に放置」  「木津さんは?」  「負傷ではないようですが、頭を押さえて痙攣しています。発作か何かでしょうか?」  久我の頬がぴりりと震えた。 Chase 16 − 渡されたキー  その日の会議室は妙に薄暗く思われた。  いつの間にか決まったそれぞれの席に既に、欠けた一人を除く全員が座っている。だが六人が六人全員口を開こうとはしない。木津はむやみに煙草をふかし、峰岡と由良はうつむいて小さくなっている。安芸と小松、そして阿久津もこのどことなく重苦しい空気の為か、沈黙を守ったままでいる。  ドアが開き、上から下まで黒の服に身を包んだ久我が入ってくる。  「お集まりですね。では始めます」  いつも通りの口調だった。  久我がスカートの裾を捌く音が響く。  「最初に、先日のS−ZC二号機強奪未遂事件の総括を行っておきます」  うつむいていた峰岡は体を固くした。木津の椅子が軋る。  それぞれの手元に映し出された資料に、しかし阿久津以外の誰も目を向けようとはしない。いや、今更向ける必要はなかった。  久我の感情を交えない声が、ごく主立った事実だけを掻い摘んで話し始める。結城鋭祐がLOVEにて身柄確保していた「ホット」部下の脱走未遂に乗じてロールアウト前のS−ZC二号機を奪取、当局担当者二名並びに上述部下一名に重傷を負わせ逃走するも、木津の阻止により失敗、自殺。この際にB試作車両B−YCが非常投入された。なおS−ZC二号機はB−YCとの攻防により大破。  ここで久我は言葉を切ったが、誰も口を切る者はいなかった。だがそれは今の話が既知の内容であるという理由からだけではなさそうだった。  久我が続ける。  「これについて、追加の情報をお伝えしておきます。まず、大破したS−ZC二号機ですが、これは回収調査の結果修復の見込みなしとして廃棄と決定しました」  「……まあ致し方ありますまいな」軽くはない口調で阿久津が言った。「代わりにB−YCを育てることにしますわい」  木津が少しく乱暴に煙草の灰をを灰皿に落した。その手元が揺れる。  「それから」とさらに久我。「強奪の主犯である結城容疑者ですが、『ホット』の部下、しかも側近クラスの人物であった可能性が指摘されています。当局ではまだ公式な見解を明らかにしてはいませんが、内部的には同様に『ホット』の配下にある者がいないか、内偵を開始しているようです」  「『ホット』の側近が当局内に……」と言いながら、小松が何の気無しに由良の方を見た。視線を感じた由良はうつむいた顔をさらに下げる。  その様子にちらりと目を走らせ、久我が口を切った。  「次に移ります。今回の件でアックス・チームにも欠員が生じました。またB−YCの件もありますので、再度チーム編成を変更します」  木津の手が口元から煙草をもぎ取り、灰皿で煙草を必要以上に執拗にもみ潰す。  「まずアックス・チームですが、現行メンバーの配置はそのままとし、アックス4は新規乗員を充てます」  何人かの顔が久我に向けられる。一様に問われるはずだった質問は、だが誰の口からも出ず、またその問いを予想していた久我も自らそれに触れようとはしないままに続ける。  「また木津さんはS−ZC二号機に搭乗の予定でしたが、喪失のため同一号機と同時にB−YCの開発に着いていただきます」  「二台も頂戴できるんですかい?」  そういう木津の声はいつも以上にかすれ、おまけに呂律も少し怪しかった。  「B−YCが正式試作になった段階で、S−ZCは試験用途から外す予定です」  言葉を返そうとしない木津を、峰岡がそっと見やった。が、その峰岡が次の久我の言葉に表情を固くした。  「また、現在峰岡さんに臨時運用をしていただいてるS−RYですが、峰岡さんには乗務を外れていただき、代わりにこちらにも新規メンバーを充てます」  口を開きかけた峰岡に先んじて、安芸が尋ねた。  「二名の補充ですか。で、その二人は?」  「T研究室とG管理室からの転換です」  洟をすする音がその答えに重なる。  「ディレクターのスカウトですか?」  「そうです」  洟をすする音は、かすかなしゃくり上げに変わっていた。  安芸はその主に投げた視線をすぐに逸らした。主の横で木津が次の煙草をくわえ、震える手で苦労して火を点ける。  安芸の問いがそれ以上続かないのを見てとると、久我は口調を変えずに続ける。  「峰岡さんは通常業務専任に戻っていただきます」  「それって」部屋の中に細い涙声。「……それって、あたしが向いてないってことですよね」  久我がそれに答えるより先に、木津の左手が峰岡の頭にぽんと載り、髪の毛をくしゃくしゃとかきなでた。  「悪いけど、ホット・ミルク持ってきてくれないか?」と、やはり呂律の回りきらないかすれ声で言う。「ウルトラ・エスプレッソは医者に止められてるから」  峰岡の潤んだ目が木津の横顔を見上げる。そして久我を。  久我はほんのわずかに目を細める。  峰岡は手の甲で目許をこすると、席を立った。憔悴した後ろ姿がドアの向こうへ消える。  煙草をくわえた歯の間から、木津が問う。  「で、その二人ってのはどこにいるんだ?」  「ご存じかと思いますが、G管理室もT研究室もこの敷地内ではなく、本部にあります。今日は二人とも本部で残務引き継ぎを行っているはずです。こちらへは来週初めに赴任します」  「ということは、トレーニングはまだ全く受けていないのですか?」と、アックス・リーダーの安芸。  「いいえ、本部のシミュレータにこちらのプログラムを導入してトレーニングを実施していました。こちらでの実車訓練を残すのみです。なおこの二名は、今回の件に伴う緊急増員ではありません」  いきなり木津が左手を大きく振り回す。手に落ちた煙草の灰が飛び散る。  「まだ調子悪そうだねぇ」見とがめて小松が言った。「まだ寝てた方がよかったんじゃないかい?」  あの追撃戦の後、結城の遺体と朱雀の残骸、そして小破した白虎と共に回収された木津は、まっすぐ集中治療室へ運ばれた。  そして久我の元に状況が報告されるまでに、実に半日近くを要したのだった。  最初に木津の診断を聞いたのと同じ部屋で、久我はその時よりも芳しくない医師の話を聞いた。  「今回の症状の原因となったのは、経時による充填剤のひけでした。元々充填剤の注入はごく微量に抑えていたのですが、嵩が小さくなったことで隙間が生じました」  久我はうなずきもせずに聞く。  「しかも良からぬことに、剤が例の小片の端をくわえ込んで」と医師は手でその様子を真似て見せる。「それが振り子の錘のように、小片を振り回す形になったようです」  「つまり、小片が動くことで出る悪影響は、以前よりも増した、ということですか?」  医師は無言でうなずいた。  「それで、処置はどのように?」  「同じ充填剤の注入を再度行いました。それと同時に……」  そこを遮る久我の問い。  「同じものを用いたということは、いずれ同じ症状を再発する可能性がある、ということですね?」  医師は直接の答えを返さなかった。  「今後は定期的に診断を受けてもらう必要があるかと思います」  聞いた久我がこれといった反応を返さないのを見て、医師は中断された説明の続きを始めた。  「同時に、充填剤の固着までは周辺の神経を刺激しないように、一種の麻酔を施しました。こちらは三日間の連続施術となりますが、その間日常生活にやや不自由があります」  「日常生活に支障があるということは……」  医師は久我に最後まで言わせなかった。  「無論VCDVの操縦に堪えるものではありません」  「分かりました……三日間ですね?」  「三日後に固着の状態を検査します。それ次第ではさらに数日を要する可能性も否定はできません」  「分かりました」  久我は表情を表さずに応えた。  その三日目がこの会議の日であった。  「いや、午後から検査だから」と木津は小松に応える。  久我は続けて、今後の当面の当直体制について触れた。曰く、止むなく三人体制を採るが、回復状況次第では、補充乗員の着任まで木津にその任に着いてもらう。  「そいつぁ願ってもないね」と木津。「奴にゃあこれでまた貸しが増えたしな」  ひきつった笑みが唇の端に浮かぶ。  そしてもう一人、相変わらずの固い表情の中に、わずかに安堵の笑みを浮かべていた。  由良だった。  ドアが開き、濡れた睫のままで、五つのコーヒーのカップと一つのホット・ミルクのカップをトレイに載せて峰岡が入ってきた。  「よかったですね」  そう木津に告げる峰岡の微笑みには、作りものの色が見え隠れしていた。  検査の結果、医師は木津に、またVCDVの乗務が行えるようになったこと、ただし月一度の検査が必要であることを告げたのだった。  「もっとも、VCDVに乗るのでなければ、検査も不要なんですがね」  「生理休暇だと思うことにするよ」  そんなやり取りを医師としたことを思い出して、木津は口を開いた。まだ麻酔は効いているので、舌の回りは怪しい。  「あのさ、MISSESって生……っとっとっと」  峰岡は小首を傾げる。  「何でもない何でもない」  「また変なこと言おうとしましたね?」  そういう時の笑顔も、いつもの生気を半ば失ったように、やはりこわばっている。これは言ってしまって笑わせた方がよさそうだ。  「いやね、MISSESって女性専用のお休みってあったのかな、って思っただけさ」  答える峰岡の声は弾けてはいなかった。  「一応ありましたけど……あたし、もう関係ないですし」  その歳でもう上がっちまったのかと木津はおひゃらかしかけたが、どう見ても峰岡はそれにのってきそうな雰囲気ではなかった。  あの会議の後、峰岡は指示を出される前に、自らS−RYのキーを久我に返上していたのだった。  午前中よりもずっと楽そうな指の動きで、煙草を一本取り出すと、木津は火を点けずにくわえた。  「でも、いいんです」と峰岡。その声は細い。立ち姿も、心なしか実際以上に小さく見える。「表に立って皆さんに迷惑を掛けるよりは、裏方に徹していた方が」  木津の唇の間で煙草が動く。  だが峰岡が言葉を継ぐ方が早かった。  「今回のことだってそうでしたし、それに仁さんにも何回も迷惑を掛けちゃって……」  「全然覚えてないんだが」  峰岡は少しだけ頬を緩めると、  「それ、きっと薬のせいです」  肩をすくめる木津。  部屋の外から終業時刻が間近いことを報せるチャイムが聞こえてきた。  「あ、ごめんなさい。長居しちゃいました」  そう言って峰岡は軽く頭を下げる。  木津はくわえていた煙草を灰皿の上にふっと吹き飛ばして尋ねる。  「今日は上がりか?」  「はい……」と少し歯切れのよくない答えが返る。「時間になったら帰ります。仕事も詰まってないですし……しばらくは」  「なるほど。で、その後の予定は?」  「帰るだけです」  「だったら、この前中断したっきりのやつの続きといくか? 俺もどうせ今日は使いものにならないし」  きょとんとした峰岡がおうむ返しに問う。  「この前の続き、ですか?」  「茶だけしばいて飯を喰ってなかったような覚えがあるんだが」  そこでにやりとすると、付け加える。  「記憶力は悪くないんだ。薬のせいじゃないらしいぜ」  峰岡は驚いたのだか嬉しいのだかよくわからない顔でまた尋ね返す。  「今日、ですか?」  「時間あるんだべ?」  「え、え、え、でも今日はそんな用意してないですし……」  そう言えば前回はえらくめかし込んで来てたっけな。  「別に服で飯喰うわけでもあるまいに。ああ、スカートのウエストに余裕がないってんなら話は別だが」  「決してそういうわけじゃないですけど……」  「んじゃ行くべさ」  今までよりはもう少し表情を和らげて、峰岡はうなずいた。  「助手席ってのも落ち着かないもんだな」  ハンドルを握る峰岡の横で、木津は言った。  「普段そっちには全然座らないですものね」  「ま、今の状態じゃ危ないからな、仕方ない。我慢しますか」  ここで期待した返事を聞けなかった木津は、結局自分で引き取って言った。  「いや、別に君の運転を信用してないわけじゃないから。念のため」  車は緩衝地帯を抜け、「内橋」にさしかかる。峰岡の好きだと言っていた都市区域の街明かりが見えてくる。  「本当だな」と木津。「言われてみりゃ確かにきれいだ」  えっという表情を木津に見せる峰岡。  「こら! よそ見するな!」  「は、はいっ」  その様子がだんだんといつも通りの峰岡のものに戻ってきているのを感じて、木津は笑いながら尋ねた。  「で、どこに連れてってくれるのかな?」  「仁さん、いっぱい食べられそうですか?」  「ま、人並み程度には」  「中華じゃだめですか? 廉くて美味しいところがあるんですけど」  「熱烈歓迎」と、口振りはそれほどでもなく木津は言う。「で、ラーメンと炒飯と餃子ってのは無しだぜ。それじゃ奢り甲斐がないからな」  「そんなに出されたら、食べ切れないです」  峰岡は帰りも運転があるという理由で、木津はまだ麻酔が切れていないからという理由で、地味に中国茶をすすりながら、二人は料理が運ばれるのを待っていた。  「これじゃ小松のおっさんだよ」と木津。  峰岡は苦笑いしながら、  「明日までの我慢ですね。そしたらお酒だって運転だって思うままですよ」  「両方同時に?」  「それはだめです。お酒呑んでVCDVなんか動かしたら、きっとふらふらになりますよ」  木津は肩をすくめた。峰岡が言葉を継ぐ。  「明日にでもまた『ホット』が出て来るといいですね」  木津の眉がわずかにひそめられた。しかし峰岡はやけに嬉しそうに話し続けた。  「そうしたら、仁さんはあの白いの、白虎、でしたっけ? あれでまた思いっきり跳び回って、今度こそ『ホット』を捕まえるんですよね。それで……」  息が切れたかのように言葉が止まる。曖昧な微笑を伴って。  口をついて出かかった木津の問いは、料理を運んでくる店員の姿に押し止められる。  注文した品六皿が次々に現れ、テーブルに勢揃いする。  峰岡は木津に尋ねた。  「これ、本当に全部食べるんですか?」  木津は沈黙している。  「だから言ったじゃないですか、ひと皿の分量は結構ありますって」  前菜、スープ、点心、揚げもの、蒸しもの、炒めもの。どう見ても五人前の量はある。  「いくらあたしが大食いでも、これは無理ですよ」と峰岡が笑う。  苦渋に満ちた表情で、木津は言った。  「……お持ち帰り、あり?」  胃の辺りを押さえながら苦しそうな息を吐く木津を後ろに、峰岡はドラッグストアの胃腸薬の棚をのぞき込んでいる。  「食べ過ぎの薬って、いっぱいあるんですね。意識して見たことなかったですけど。どれがいいんだろ……」  「とにかく一番効きそうなやつ」  半ばげっぷになりかけた木津の言葉を聞いて、峰岡はまた笑った。食い過ぎてみたのも無駄じゃなかったらしいな、と木津は思う。  「それじゃ、これにします」  峰岡は効果の一番ありそうなと言うよりは、なりの一番大きな瓶を取り上げた。  支払いを済ませ、店の外へ出てくるなり、釣りと瓶を木津に渡して峰岡は言う。  「はい、どうぞ。それ飲んだら、明日にはもうすっきりですね。朱雀でも白虎でも思う存分ですよ」  受け取った瓶の封に掛けた手を止め、木津は峰岡の顔を見つめた。一瞬視線の合った峰岡の目がすぐに逸らされる。その口が開く。  「早く飲まないと楽になりませんよ」  「まだ乗りたいんだろ?」  もう一度視線がかち合った。小首を傾げてみせる峰岡だったが、顔色は本心は隠し切れていなかった。  「え?」  木津の手は瓶の蓋から峰岡の頭に移り、髪を二、三度やわらかくかき上げた。  「えっ?」  峰岡が面食らったような表情を見せた時には、もう木津は薬瓶を空けてしまっていた。そして通りの向こうまで聞こえるような音を立てて長いげっぷをした。  「やだ、仁さん……」  「いや、こいつぁ確かに効きそうだ。じゃ、次は例の喫茶店といくか?」  峰岡は苦笑しながら言った。  「今度の楽しみにさせてください……今夜はどっちにお帰りですか? お部屋ですか? それともLOVE?」  その時。  「木津仁さんですか?」  横から聞こえてきた女の声に、二人は揃って首を向けた。  小柄な峰岡とは対照的な、すらりとして高く見える姿が、腰まで届く髪をなびかせながら歩み寄ってくる。  「そうだけど……?」  訝しげな表情を隠そうともせずに木津は応える。数ヶ月前に、交戦した「ホット」の部下が自分の名を呼んだことを思い出して。  女は木津の表情に気付くと、微笑みながら頭を下げ、言った。  「突然で失礼しました。レーサーを引退なされてからお姿をお見受けしなかったもので。私、現役時代の木津さんのファンでして」  「俺みたいな二流のレーサーにファンがいたとは思わなかった」と自嘲気味の木津。  「戦闘的な走り方が周囲からあまりよく見られてはいなかったのは存じています。でも私はそんな走り方が好きでしたから」  木津は女の顔を見た。大きい、少し釣り上がり加減の目をした美人だ。あいつとは違うタイプ。  「生憎ともうそっちからは遠ざかっちまってるけどね……事故以来」  「残念です。復帰されるご予定はないんですか?」  「ああ、転職したんでね」  女は、おやという顔をする。  「今は某研究所のテストドライバー兼兵隊をやってる」  「仁さん!」と小声で言いながら峰岡が木津の袖を引いた。  一方の女は再び、だがさっきとは少しニュアンスの違った「おや」を浮かべる。それが微笑に変わると、女は口を切った。  「申し遅れました。私は饗庭紗妃と申します。今後またお近付きになれましたら」  そして頭を下げると、踵を返して、まだ引ける様子のない雑踏の中に紛れ込んで行った。  木津の眉間には、訝しさ故の縦皺が残ったままだった。あの女、転職先の話をしたら、表情を変えやがったな……  「仁さん?」  気付くと峰岡がまた袖を引いていた。  「顔が恐いですよ」  「生まれつきだよ」  表情を少し崩して、峰岡は言う。  「今の人、きれいな人でしたね。そうかぁ、仁さんのファンかぁ……あたしはその頃の事って全然知らないんですよね」  「知らなくていいさ」と簡単に木津。  「どうしてですか?」  少し悲しげな顔になって峰岡が訊ねる。木津はにやりとしながら後頭部に手をやる。  「古傷がうずくでな……さて、茶をしないなら、ぼちぼち帰るべか。今から研究所も何だろうから、アパートの方に頼むわ」  翌日、阿久津からほぼ完了に近い白虎の修理状況を聞きがてら、木津は訊ねた。  「車種転換とかした時ってさ、前の車のキーに入ってるデータってどうなるんだ?」  「もちろんデータは抜いて別に保存しておくんさ。それもそれで貴重な資料だからな」  「それじゃデータの移し替えも利くわけだ」  「お主の朱雀のデータだって、二号機のキーに変換して登録しておいたんだ。もっともこいつは使わず終いだったがな。それに安芸君の玄武の基本データだって、青龍のを変換したものだしな」  木津はにやりとした。  「何だ、気色悪い」  「いや、阿久っつぁんを男と見込んで頼みがあるんだ……おばさんには内緒でさ」  「乗った」  その週末、MISSESのメンバーはまた会議室に顔を揃えた。  木津は自分の横の空席に目をやる。と、その目が向こうに座っている安芸の目とかち合った。安芸が言う。  「やっぱり、ここに座ってしまいますね」  「いいんじゃない?」  久我が入ってきた。いつも通りに出席状況を確かめると、二つの空席も予定通りといた風に議事の開始を宣言した。  「先日お知らせしておいた増補要員が本日付けで着任となりましたのでご紹介します」  久我がドアの方に目を移すと、それが合図であったかのようにドアが開き、体格のいい長身の男と、そして男と並ぶとそれほどでもないが、すらりとした細身が腰までの髪と相まって実際以上に丈を高く見せている女とが入ってきた。  女の方が居並ぶメンバーに目を向けた。そしてその中に木津の存在を認めると、微笑を浮かべてほんのわずかに会釈するような素振りを見せた。  木津もその顔を忘れてはいなかった。そしてあの時女の見せた表情の意味を、今理解した。そういうことだったのか……  安芸が小声で木津に問いかける。  「あの女性の方、仁さんに挨拶したようですが、お知り合いですか?」  「一方的にそうだったらしいぜ」  安芸の合点のいかない表情をおいて、木津は正面に向き直る。久我の横に入ってきた二人が並んだ。  「T研究室所属の饗庭長登さんと、G管理室所属の饗庭紗妃さんです。本日付けでこのM開発部に配属となりました」  「揃って珍しい名字ですね」と小松。「ご兄妹なんですか?」  「はい」と兄の方が応える。  久我が二人に席に着くように促す。紗妃は躊躇うことなく木津と安芸の間に座ると、にこやかに木津に言った。  「お近付きになれましたね。これからよろしくお願いします」  「あんた、知ってたのか?」  表情を崩さずに紗妃は首を横に振った。  「でも、この間街で会った時、それらしいことを言ってましたよね? あの時もしかしたらとは思いましたけど」  一度言葉を切ると、木津の目をのぞき込むようにしてから、言葉を継いだ。  「嬉しいです。ファンから同僚にステップアップできて」  久我が話を続ける旨を告げた。  会議が終わり、休憩室でひとり油を売っていた木津は、向こうを通りかかった小柄な姿を呼び止めた。  「真寿美!」  髪を揺らして振り向いたその顔がほころぶ。  「あ、仁さんがさぼってる」  そう言いながら、腰を降ろしている木津の前に歩み寄ってきた。  「忙しいか?」  「ひまです」  即答されて木津は苦笑したが、すぐに笑いの方が表情から抜けた。あのおばさん、メンバー受け入れの準備からも外してるのか。  「身もふたもねえな」  そう言ってから、木津は饗庭紗妃のことを簡単に話した。  「あのきれいな人があたしの後任だったんですか。本当にお近付きになっちゃいましたね。きっと仁さんと同じ仕事をするんで喜んでたんでしょうね……」  紗妃がそんな雰囲気を隠そうともしていなかっただけに、木津はまた晴れやかならざる表情をしている峰岡には何も言わなかった。  「それで、会議の時には、前にあたしが座ってた席に座ったんですか?」  「……ああ」  「そうですか……何だか」  言葉が切れる。が、木津が問う前に峰岡自ら引き取って、また曖昧に微笑んだ。  「何でもないです」  木津はジャケットのポケットから煙草の箱を取り出し、口を開くとそのまま握り潰した。  「買ってきましょうか?」と峰岡。  「いや、あるはずなんだけど」  木津は内ポケットをごそごそやる。探り当てたか、すぐにその手が止まり、ポケットを抜け出してきた。が、指の間に摘まれているのは、煙草の箱ではなかった。  「これ、やるわ」  木津の指から弾き出され、大きな放物線を描いて落ちてくるものを、開いた両手で受け止めて、峰岡は見た。途端に驚きの表情を木津に向けてくる。  「これ……」  両手の間で鈍く光る銀色の小さなカードには、一本の赤い線が入っている。それは紛れもなくS−ZC「朱雀」のメイン・キー・カードだった。  「え、え、え、え?」  木津はお目当ての煙草の箱の封を切り、一本くわえると言った。  「おばさんには内緒な。ちなみにデータは阿久っつぁんに入れといてもらったから」  「だって……」  「俺にはこれがあるし」と、別のポケットから、木津はキー・カードを取り出した。その端から例のくたびれたパンダがぶら下がり揺れている。「ま、持ってりゃ使う機会もあるかも知れないしな」  キーを持った両手を胸の前で握りしめ、目に涙を溜めながら峰岡は微笑んだ。  「でも……」  立ち上がった木津に頭をぽんぽんと軽く叩かれ、溜まっていた涙が頬を伝った。 Chase 17 − 呼ばれた名  朝の挨拶と共に久我の執務室へ入って来た峰岡は、そこに張り詰めた空気を感じて足を止めた。部屋の主はインタホンに向かって情報と指示を与えている。  「……武装ワーカー十二、武装装甲車十八、輸送車一。ホット・ユニットの反応はありません。アックス1から4及びマース1、キッズ0は現場へ急行。指揮はアックス1」  「了解!」  峰岡の顔が曇った。出動指示が下されたのは六機、つまりMISSESの全ドライバーにだった。新規にメンバーに加わった饗庭兄妹にまで、マース1にまで。  閉じるドアを背に立ち止まったまま、峰岡は何も問うことが出来なかった。  そんな峰岡に久我はわずかにうなずいて挨拶を返すと、ディスプレイ・スクリーンを起動した。八枚に分割された画面の一枚に、輝点を示した地図が表れる。そして乗員を迎え入れる毎に、VCDVからの映像が次々に六枚の画面を埋めていく。  各員に手短な指示を出すと、安芸が言う。  「出ます!」  四台のG−MBが、追ってS−RYとB−YCが次々に駐車場を飛び出す。  後ろ髪を引かれる思いを追い払えないまま、峰岡はいつも通りコーヒーの支度を始めた。  安芸のG−MBを先頭にし、後ろに小松と由良、饗庭兄妹が並ぶ。後詰めの木津は、コクピットの中で満面の笑みを浮かべていた。  ご本尊様の出馬がないってのは不満だが、久々の、それも五対一の大立ち回りだ。存分に暴れ回らせていただくとするか。  「木津さん、鼻歌が聞こえますよ」  と女の声が聞こえる。饗庭紗妃だった。  「楽しそうですね。これから危険な任務にあたる人とはとても思えません」  「そうか?」  危険な、という紗妃の言葉を裏打ちするかのように、レシーバーから安芸の声が聞こえてきた。  「饗庭さん、初陣としてはかなり厳しい状態です。決して無理はしないでください」  了解の声が二つ重なった。紗妃が一言言い足す。至極落ち着いた口調で。  「邪魔にならないように気を付けます」  「接触まであと三分……」  そう言った安芸のアックス1が速度を落とした。  「どうした進ちゃん?」と木津が問う。  「向こうの足が止まりました……ちょっといやらしいことになりそうですね」  「何で?」と今度は小松。  「止まった場所は来栖川重工の跡地付近です。あそこにはまだ施設がほとんど残っていますから、紛れ込まれたら厄介です」  「力相撲から鬼ごっこに遊びを変えたってわけか」と木津が言う。「ま、どっちだっていいけどさ」  その時、前を走るマース1が何の前触れもなくハーフに変形し、左腕を上げた。  「どうした?」  木津の声に鈍く衝撃波銃の重い銃声が重なる。そしてキッズ0の車体をかすめるように、見覚えのある機械が落ちて来た。  「不審な飛行物体です!」  紗妃の声に、キッズ0に急制動をかけさせ、木津が墜落した残骸を見る。間違いない、前に一度朱雀のテストの時に覗きに来た、「ホット」のお使いだ。奴らめ、斥候を出しやがったな。  そこに安芸の鋭い声。  「散開!」  木津は振り向いた。散らばるVCDVの上を越えて来たのは、懐かしい曳光弾の光条だ。  「おいでなすったか……」  木津の口の端がひきつったような笑みを帯びる。  ほんの数秒だけ続いて光条が途切れる。安芸の指示が飛ぶ。  「接触まで二分。砲撃は各自回避しながら進行、指示したらMフォームに変形し待機願います」  「了解だよ」  誰よりも早く木津が答えを返した。  先頭のG−MBが再び速度を上げる。木津もスロットル・ペダルを軽く踏み込んだ。  工場跡地に残された長い塀が落とす影に沿って、六両が走る。その影が、近付く春を報せるような穏やかな陽光に断ち切られたところで、安芸が停止を指示した。  四体の玄武が、続いて青龍が木津の目の前で立ち上がった。  「こういう青龍を見るのも久し振りって気がするな」  そうつぶやく木津に、紗妃がすぐに言葉を返した。  「そうなんですか?」  よく聞いてやがんな……と木津は言い返そうとしたが、出鼻を安芸の声にくじかれた。  「この先左の工場に目標は散開しているようです。先行して哨戒します。由良さん、サポートを頼みます」  「了解しました」  答える由良の声が以前よりも重くなったのには気を留めず、木津は問う。  「んで、俺達はどうする?」  「また指示します」  「またのご来店を心からお待ち申し上げております」  吹き出す声はない。  「行きます!」  二体の玄武が塀の陰から跳び出した。と、工場の敷地内に飛び込んでいく武装装甲車の影が見えた。玄武は交差する道路を渡り、装甲車の入っていった、破られている工場の門の脇まで一気に駆け寄る。一呼吸おいて、由良の玄武が門の反対側へ飛び移る。  攻撃は、ない。  安芸の玄武の右腕が上がり、ゆっくりと前後に振られる。それを受けて、残る四機が前進し、安芸の後に続いた。  ナヴィゲーションの画面で工場の見取り図を確認すると、安芸はまた指示する。  「正面と左側に規模の大きな設備、右側は小規模ラインと細かい建物です。右手の捜索は由良さんと饗庭……長登さんにお願いします。由良さん、十分にサポートをよろしく。左は仁さんと……」  「私が行きます」と紗妃が言い出す。  木津の意見は特に聞かれないまま、安芸は了解の旨を応え、そして付け加えた。「仁さん、あんまり紗妃さんに無理をさせないようにしてください」  適当な返事をする木津に、紗妃が言った。  「木津さん、運転はあの頃と変わらないんですね?」  木津は答えない。代わりに聞こえるのは、小松に自らのフォローを指示する安芸の声。  「……何かあったらすぐに全員に連絡を入れてください。では……」  アックス1が、続いて小松のアックス2がハーフに変形し、門から中へ飛び込んでいく。同じくハーフになった残る二両の玄武がその後を追って走り出すと、右側に急転舵する。  それを追っていた白虎の顔が、青龍に向けられる。  「それじゃ、行くべぇ」  「はい」  落ち着いた、少し低めの声が答えた。  他のペアからの連絡はまだ全くない。三十両以上からの大部隊が、行動を起こして来るどころか、姿も見せないのか。  木津と紗妃は、どう見ても装甲車だのワーカーだのなど潜り込めそうにない、事務棟と思しき最初の建物の中を一応覗いてみてから、それに続く長大な施設へと進んだ。  白虎と反対の側を探っていた青龍の足が止まる。  「木津さん……」  「何かあったか?」  駆け寄った木津は、青龍の指さす先に停まっている輸送車の頭を見た。  「……箱の中身は何だろな、ってとこだな」  「連絡は……」  「とりあえず様子見だな。運転台の左へ回れ。何が飛び出してくるか分からないから気を付けろ」  「分かりました」  「行くぞ」  白虎が飛び出す。それにひけを取ったような様をほとんど見せずに続く青龍。  木津は横目にその挙動を見ながら思った。ほぉ、結構使いこなせてそうじゃないか。  青龍が閉じられた搬入車両用ゲートを背に、左腕を射撃体制にして身構えるのが、輸送車の空の運転台の窓越しに見えた。  「……そりゃこんなところで油を売ってるわきゃないか」  つぶやく木津の視線の先で、青龍が輸送車の後尾の方へと動き、視界から消えた。  「どうした?」  言いかけた木津の耳に鈍い接触音が聞こえる。間髪を入れず木津は白虎を輸送車のコンテナの上に跳び上がらせた。  下では青龍に蹴り倒され横転した武装ワーカーが一両、腕に仕込まれた砲口を着地した青龍に向けようとしている。  木津は舌打ちと共に白虎の左腕をワーカーに向けた。と、青龍が右脚を跳ね上げながら振り返った。その右脚は、ワーカーの腕を正確に捉えていた。なぎ倒された腕に、白虎の放った衝撃波が突き刺さる。さらに青龍が止めの衝撃波を一発二発と撃ち込んだ。  「荒っぺぇ……」  コンテナの上から飛び降りながらの木津のこの言葉に、紗妃は平然と答えた。  「そうですか?」  こちらに向けられた青龍の顔が、微笑んだかのように木津には思えた。  「木津さんに荒っぽいなんて言われるとは思ってませんでした」  「ぬかせ」と苦笑いの木津。  「来ます!」  紗妃の声に、木津は反射的にコンテナの尾部に目をやった。  陰から武装ワーカーの上半身が一瞬だけ現れ、すぐに引っ込んだ。  「野郎!」  木津が白虎を走らせる。コンテナの後端から横様に飛び出し、ワーカーの消えた建物の、破られたシャッターの方に左腕を向ける。  機影は見えない。攻撃もない。  警戒の姿勢を崩さないまま、木津はまずコンテナの様子を窺う。後端に開いた口からは、運転台同様に空の内部が見て取れる。少し距離をとって、紗妃も中を見た。  「何を積んで来たんでしょう?」  「大人のおもちゃだろ、きっと」  そう言うと木津はあらためて正面の建物を眺める。  「こりゃ……倉庫か何かか?」  「この構造はそうですね」と後に続いた紗妃が言った。「こちら側に搬入車両が入ると、シャッターを開けて積荷を運び込むようになっているんです」  「つーことは、中はワーカーが走り回れる程度にゃ広いわけか」  「行きますか?」  紗妃のその言葉と同時に、青龍が攻撃の姿勢を採った。  「飲み込みが早いね」  高いところに点々と並ぶ天窓から光が漏れるだけの室内は薄暗く、そして設備が撤去されているために徒に広かった。  白虎が先に立ち、その斜め後ろから青龍が続く。白虎の首が、長く続く左右の暗がりに向けてゆっくりと回る。  「……いない、か。どこに消えやがった」  「何も仕掛けてこないのが気味悪いですね。数としたら圧倒的な差なのに」  「あとの連中も何も見付けてないらしいしな……しゃあねえ、手分けするか。俺は左に行く。向こう側を頼む」  了解の答えが返り、そして即座に青龍がハーフに変形し、右手の暗がりへと姿を消す。それに倣いながら木津はまた苦笑する。この女、やることが早い。それからスロットル・ペダルを踏み込もうとした木津の足がレシーバーからの声に止まった。  「仁さん? 聞こえますか?」  「どうした進ちゃん? 何かあったにしちゃ何もなかったような口っぷりで」  「いえ、何もないんです。今、一番奥のプラント跡にいるんですが、あれだけの大部隊のはずが、全く姿を見せません」  「こっちにはワーカーが一匹だけいたぜ」  「それだけですか?」  「ああ、紗妃姫が早々に蹴り倒して沈めたがな。由良の方はどうだって?」  「さっき訊いてみましたが、込み入った場所なので難航しているようです。今のところは手応えなしだそうですが」  「何だかなぁ……はっきりしない奴等だ」  「ワーカーはともかく、さっきここに入ってきたはずの武装装甲車まで見当たらないとは考えにくいんですが」  「入ってそのまままっすぐ抜けてったんじゃないのか?」  「……まさか」  その時、木津の耳に二つの砲声が聞こえた。レシーバーからと、そしてこちらの建物の奥からと。  それが合図であったかのように、津波のように砲声が押し寄せてくる。木津の表情が変わった。  右手からモーター音。反射的に木津は銃口を向ける。が、見えたハーフのマース1の姿に、トリガーに掛かりかけた指が止まった。  ハーフのB−YCのすぐ脇で、マース1は青龍に変形し立ち上がる。  「来たか?」  「いいえ、外です」  「外?」  ハーフから戻された白虎が、破られたシャッターの方に振り向いた。同時にそこから爆風が吹き込む。続いて崩れ落ちる瓦礫。  青龍が衝撃波銃を放つ。出口を塞ぎかけた瓦礫が半ばは吹き飛ばされた。  「てめぇら、前回から進展がないじゃねえか!」  木津の言葉に反論するかのように、塞がれかかった破孔から砲弾が撃ち込まれた。  左右に分かれる白虎と青龍。図ったように双方が破孔めがけて衝撃波銃を撃ち返す。  外からの砲撃が止む。しかし、装甲車のものだかワーカーのものだかは分からないが、モーター音は生きていた。  意外にも冷静な声で、紗妃が言った。  「ここから手近な工程に資材を送り出すルートがあるはずです。それを探して脱出しましょう。さっき消えた装甲車も、きっとそのルートを使っています」  「俺もそう思う……ってことは、向こうもそう思ってるんだろうな。きっと出口から顔を出した途端、花火を揚げて歓迎してくれるだろうぜ……進ちゃん、由良、聞こえるか?」  「由良です。銃声がしましたか?」  「ああ、こっちだ。どうやら倉庫の中に隔離されちまったらしい。手が放せるか?」  「こちらは発見できていません」  「みんなこっちにいるんだろ……」  言いかけた言葉が安芸の声にかき消される。  「安芸です。囲まれたようです。アックス2は中破行動不能、小松さんが負傷です」  「あのオヤジ、またか……それはいいとして、こっちも囲まれた。由良と饗庭兄ぃは手が空いてると」  「了解。由良さん、こちらの支援を頼みます。饗庭さんは仁さんの方を」  再び執務室に顔を出した峰岡は、ディスプレイ・スクリーンから目を離そうとしない久我の様子を見て、現場の状況を察した。  デスクの脇に歩み寄り、持ってきた資料を置きながら、峰岡はスクリーンを覗き見る。  分割されたスクリーンの一つはすでに画像が途絶え、残る五つの中では、そのそれぞれがばらばらに武装装甲車と、武装ワーカーと、そして今までには現れたことのない人型の機械とに翻弄される様が繰り広げられていた。  由良と饗庭のG−MBは、ハーフの形態でそれぞれが建物の周囲を取り巻く相手を追い、駆逐しようとしている。  安芸の玄武は、倒れた小松の機体を庇いつつ、壁を背に、進入してきた武装ワーカーの接近を阻もうとしている。  そして青龍と白虎も、安芸と同じように、しかし遙かに動きの速い人型の機械を相手に屋内で苦戦している。  白虎からの映像に、銃を撃ち続ける青龍が映る。その横から、まるで滑るように人型が接近し、銃撃を浴びせては遠ざかる。横飛びに回避する青龍が視界から消えた。  再び接近する人型が狙いを白虎に変えた。跳び上がり、人型の頭部めがけて放った衝撃波は、だが巧みな動きにかわされ、倉庫の床を穿った。  「木津さん、足場が!」と饗庭紗妃の声。  「分かってる!」と木津。  着地した白虎はのけぞり、仰向けに倒れながらも銃を撃ち続ける。それを横様に襲おうと迫る人型。牽制すべく青龍が両者の間に割って入り、二度三度と発砲する。  息を呑んで映像に見入っていた峰岡は、久我に小さく頭を下げると、小走りに執務室を後にした。  閉じるドアを背に、廊下の半ばまで走ると、峰岡はそこで足を止めた。その手が胸ポケットの中の何かを握りしめていた。  饗庭の低い呻きが聞こえた。  「どうしました?」と、微かにしわがれた安芸の声が、荒い息の中から訊ねる。  「バッテリーが……」  そうか、向こうの方が守備範囲は広いか……振り回されているな。  「由良さん、外の残りは?」  ややあって返る答えは、やはり荒い息の間から聞こえてきた。  「多分、四です」  「分かりました。饗庭さんのサポートに回ってください!」  「え?」  「こっちは大丈夫です! 急いで!」  了解の回答もそこそこに、ハーフの玄武が木津たちのいる倉庫へ走る。それを追って、安芸と小松を封鎖していた武装装甲車と武装ワーカーが動いた。  安芸は倒れたままの小松の玄武に一瞥をくれ、そして正面に目を上げた。  左手から、このプラントに新たに入り込んでくるワーカーのモーター音が聞こえる。安芸は鼻の下の汗をなめた。  紗妃も今は口数が減っていた。  いつも以上にかすれた声で木津が言う。  「表はどうなってるんだ……」  そして、迫りまた遠ざかりつつ仕掛けられる波状攻撃を避けながら、相手を見た。  人型だが、足の裏にローラーか何かが仕込んであるらしい。腰から下はバランスを取るためにわずかに動くだけだが、動きは頗る速い。その速度で紗妃の銃撃を次々に避ける。  「やめとけ、バッテリーがもったいない」  そういう木津の指が、操縦桿のボタンに掛かった。斜め前方からまた人型が来る。  白虎が背後の壁を蹴って跳んだ。人型の動きが一瞬止まった。  木津が雄叫びを上げる。白虎の右腕から伸ばされた「仕込み杖」の一撃が、人型の首を打ち落とす。すかさず駆け寄った青龍に回し蹴りを浴び、残った胴体は床に倒れた。  「やった……」安堵の息と共にこぼれた紗妃の言葉を、木津の声がかき消す。  「次だ!」  体勢の回復が遅れた青龍の頭部をかすめて銃弾が飛ぶ。その数発が外装の一部をむしり取った。  紗妃は計器盤に目を走らせる。被弾による問題はなかった。しかし衝撃波銃のバッテリーがやはり底を突きかけていた。  「どうした?」と木津。  「大丈夫です!」  返事と同時に青龍がハーフに変形する。  「私はこれであれを捕まえます。木津さん、仕留めてください」  そして木津の答えも聞かずに、動き回る人型の中に飛び込んでいく。  猛烈な銃声が、倉庫の徒に広い空間を震わせて響いた。  饗庭の玄武が、倉庫の壁を背に、三両の武装装甲車に囲まれている。その背後から、由良の玄武が襲いかかる。ハーフから玄武に変形しざま、出力を最大に上げた衝撃波銃を右側の一両にぶち込む。直撃を受けた装甲車が横転するのを見もしないまま、自らの銃撃の反動に身を預けて、今度は振り向きざまに左手の装甲車の砲身をつかむと、力任せに引きずった。そして砲口に左手を突っ込み、衝撃波をたたき込むと飛び退く。砲身はひとたまりもなく破裂した。うろたえた残りの一両が由良に向けて回頭を始める。そこに向けて由良が左腕を伸ばそうとした時だった。  「後ろっ!」  饗庭の声と、玄武の右脚への弾着とは同時だった。バランスを失った玄武が前のめりに倒れながらも、迫る装甲車に、そして武装ワーカーに撃ち続ける。  ワーカーは真っ直ぐに向かってくる。両腕の砲身が照準を定めるように動く。  由良は瞬きもせずにそれを見つめる。と、機体が大きく揺れた。何者かに引きずられるように。そして機体はワーカーの進路から外される。由良はもう一度迫るワーカーに目を向ける。その視線の先で、ワーカーが、そして装甲車が続けざまに弾け飛ぶ。思わず息を呑んだ由良は振り向いた。  「……朱雀?」  それまで自分のいた位置に、この場にはいないはずの赤い痩躯が立っていた。  倉庫の陰から新手のワーカーが飛び出してくる。が、一瞬の後には朱雀の繰り出す衝撃波を浴びて転覆擱坐していた。  そして聞き慣れた高く弾けた声が呼んだ。  「仁さん!」  「峰さん?」  自らもワーカーを一両仕留めた安芸がそれに気付いた。  「峰さん、どうして……」  それには構わず峰岡は呼んだ。  「仁さん! どこですか?」  饗庭の玄武が背後の倉庫を示す。  封鎖されていたはずの扉から、強力な衝撃波の直撃を受け、後ろ向きに武装装甲車が飛び込んでくる。白虎に接近しようとしていた人型がそこにまともに突っ込み、真っ二つになった。宙を舞った上体が重たげな音を立てて床に落ちる。追うように倉庫の中に朱雀の機体を滑り込ませた峰岡は、それには目もくれなかった。  「仁さん!」  左手に動きが見えた。迷うことなく峰岡はハーフに変形させたS−ZCをそちらへ走らせる。S−RYよりも強力な加速に小さな体を締め付けられ、その口から小さな呻きが漏れる。が、構わずにスロットル・ペダルを踏み込んだ。  走り回る人型は、突然現れたたった一機の増援にはほとんど注意を払わなかった。ただ一体が接近を牽制するように、複雑に動き回り銃を撃ちながらS−ZCへと近付く。  構わずに突っ切ろうとするハーフの右前方から、人型が高速で接近する。峰岡の視線が一瞬そちらへ流れる。唇がきっと結ばれる。  次の瞬間、人型の頭部が胴体から離れ、高く舞っていた。朱雀は人型の首に一撃を与えた右腕の「仕込み杖」を背中まで振り切り、そのまま衝撃波銃を放つ。直撃を受けた人型は腹から二つに折れて吹っ飛んだ。  その先に峰岡は見た。車体にいくつもの弾痕を留め、左腕を半ばから失いながら、なおも人型に対峙しようとするかつての自分の愛機と、そしてそれを援護する木津の白虎を。  「仁さん!」  朱雀が跳んだ。その足がS−RYにとどめを刺さんとばかりに接近する人型の胸を捉えた。転倒する人型をよそに、着地と同時に白虎に迫ろうとする人型に銃の狙いを着ける。照準器の中で相変わらず攪乱するように動き回る人型。だが峰岡の目は照準を過たなかった。トリガーが引かれる。最大出力の衝撃波が、同じ目標を狙った白虎のそれと共に、人型を二方から捉える。  共鳴の中で、人型の機体はひしゃげ、錐もみ状態で宙を舞うと、倉庫の内壁に突き刺さって止まった。  振り向き、敵の姿がないことを確認すると、峰岡は再び白虎へと振り返る。  「仁さん!」  白虎がRフォームに戻った。峰岡もそれに続き、コクピットから飛び出すと、B−YCに駆け寄った。  ドアが開き、木津が降りて来る。そしてヘルメットを外しながら言った。  「まいったね、アンテナが壊れやがって」  木津の名を呼ぶ峰岡の声は、今はもうほとんど声になっていなかった。そんな峰岡に、木津はS−ZCを指差しながら言った。  「きっちり使いこなしてるじゃないか。預けた甲斐があったぜ」  そう言う木津の視線が峰岡の後ろへと動く。振り返ると、ヘルメットを脇に抱えた紗妃が駆け寄ってきた。  紗妃は真寿美を見て、意外そうな顔をした。  「あなたが……?」  真寿美は何も言わず曖昧な表情を浮かべる。  紗妃は屈託無い笑顔になって言う。  「MISSESのメンバーだったんですね。危ないところをありがとうございます」  表情を変えないまま沈黙している真寿美に、笑顔のままで紗妃がまた言った。  「木津さんの応答がなかったのが心配だったみたいですね。何度も名前を呼んで」  真寿美の肩がぴくりと震える。  「聞こえてりゃ一度で返事するさ」と木津。  そこに状況を問う安芸の声が聞こえた。  足早に駐車場を出ようとした真寿美を、戻ってきたメンバーが呼び止め、取り囲んだ。  「峰岡さんが来てくれなければ危なかったです」と由良。「でもまさか朱雀でとは」  木津がにやりとする。  紗妃もまた真寿美に助けられたこと、そして朱雀の動きぶりをにこやかに語った。  輪の中で真寿美はあの曖昧な表情を浮かべて、小さな体を一層小さくしていた。  「やっぱり」安芸が言った。「峰さんにはチームにいて欲しいですね。きっと久我ディレクターも今回のことで考えを変えるんじゃないでしょうか」  「みんなこれだけ助けられたんですものね」  紗妃のこの言葉に、また真寿美は震えた。  「どうした?」木津が訊ねる。「おばさんに黙って出てきたのが気になるか?」  真寿美は答えない。  「ま、唆したのは俺だからな。その時にゃ俺が人身御供になってやるさ。心配すんな」  真寿美は黙って首を横に振ると、小さくごめんなさいと言い、木津と紗妃の間を割って輪から抜け、小走りに駐車場を出ていった。  その背中をメンバーが見つめる。  「……どうしたんでしょう?」と紗妃。  「きっと久々の現場で疲れたんでしょう」安芸が答える。「大丈夫かな?」  シャワーから吐き出される冷たい流れを頭から受けながら、真寿美は紗妃の言葉を思い出していた。  「みんなこれだけ助けられたんですものね」  違う……みんなを助けようとなんて思っていなかった。助けたかったのはみんなじゃなかった。あたしは、あんな時に仁さんを助けることが出来ないのが嫌だった。仁さんの横にいて助けるのが自分じゃないのが嫌だったんだ、自分じゃなくて、饗庭さんだったのが……  濡れた髪が顔に貼り付き、それを伝って水が流れ落ちる。  いやだ……こんなあたし……  頬を伝う水に涙が混じる。シャワーに打たれる裸の肩が小刻みに震える。押し殺そうとしていた嗚咽が堰を切った。  真寿美はくずおれ、声を上げて泣いた。裸身を降りかかる雫と水音とが包んだ。 Chase 18 − 残された肖像  ディブリーフィングの後、予想に反して久我が居残りを命じたのは、木津ひとりに対してだけだった。  真寿美を含む他のメンバーが出ていったのを見て、木津は久我に言った。  「結局こうなると分かってれば、はなから真寿美を外すことはなかったのにな」  ディブリーフィングの場で、再び重傷を負った小松の補充として、久我は正式に峰岡にMISSESへの復帰を命じたのだった。  「……使用車種はS−ZC、運用時呼称はキッズ1を継承し、木津さんのキッズ0、饗庭紗妃さんのマース1と共に必要に応じた随時のサポートを任務とします」  久我の言葉を聞いた真寿美の表情を、木津は思い出していた。  これまでなら聞いた途端万歳でもしかねなかったのが、何故か今日は妙に緊張した面もちで指示を承っていた。それにべそでもかいていたかのように、目と鼻を赤くしていた。  久我が木津の正面に静かに腰を下ろした。  「阿久津主管にも確認を取りました。峰岡にS−ZCのキーを渡したのはあなただそうですね?」  「ま、元担当ドライバーの俺以外に、そういうことの出来る奴はいませんわな」  「理由をお聞かせ願えますか?」  冷静な口調の久我の問いに、軽薄な口調で木津が返す。  「今日みたいなこともあるかと思ってさ」そしてにやつくと言葉を継いだ。「あんたが腕を見込んだドライバーを、わざわざ遊ばせとくこともあるまいに」  久我は表情を表さずに問う。  「それだけの理由ですか?」  それだけの理由では、いや、そんな理由ではなかった。だがそれを言ってみたところで、このおばさんには通用しそうもない。  木津が答えないのを見て、久我が口を切った。相変わらずの冷静な口調。  「要員や車両の配置に関する事項の決定権限が私にあるというのは、ご存じのことと思います」  「知ってるさ」と木津は言い、煙草に火を点けるとあらためて久我に目を向け、そこで気付いた。  いつもは人を正面か、少し見下ろし気味に見ている久我の目が、今はやや上目使いに木津に向けられている。こんな表情の、いや、これが表情と言えればだが、久我を見たのは初めてのような気がした。  「彼女への同情が理由ですか?」  くわえられた煙草の先がぴくりと動いた。  「それほどご大層な身分じゃないぜ、俺は」と笑い飛ばすように木津が答える。が、次の久我の言葉を聞いてその顔色が変わった。  「徒にそうした感情を持つと、『ホット』への矛先が鈍ります」  「……何が言いたい?」  久我はそれには答えずに言った。  「あなたのおっしゃる通り、現実にこの変更が必要となりました。確かに決定の手順は通常とは異なりましたが、悪影響を及ぼすような問題の発生も何ら認められないので、これ以上この件に拘泥することは致しません」  そして久我は立ち上がり、付け加えた。  「いつも通り、レポートの提出をお願いします」  自室へ向けて廊下を歩きながら、木津は久我の言葉の意味をはかりかねていた。  『ホット』への矛先が鈍る、だと? 真寿美に同情するとそうなるってのか? それとこれとにいったい何の関係があるんだ? おばさんにしたって、俺がここにいるのは『ホット』が目的でしかないってことをまさか忘れてるわけじゃあるまい。その目的の裏にある事情までは知らないとしても。  木津の足がはたと止まった。  あの女、何を知ってる……?  「木津さん」  背後からの女の声に、木津は振り向いた。  「……ああ、姫か」  「どうして姫なんですか?」  紗妃は真っ直ぐ木津の顔を見て訊ねる。  「何となくさ」  その答えに少し肩をすくめてから、  「今まで久我さんのところに?」  「ああ、油をしぼられてきた。四・三八キロぐらいはやせたかも知れない」  そうですか、と紗妃は言ったが、これが今の答えの前半に対して言われたのか後半になのかは定かではなかった。  木津は自分で引き取って言う。  「それでこれから恒例のレポート書きだ。そっちは?」  「工場に行って、VCDVの修理を見学します。随分ひどく壊してしまいましたから」  「初めてで、しかもあれだけの派手な立ち回りの後であの程度ならいい方じゃないか? それを言ったら小松のおっさんなんか立場が無いじゃないか」  「でも結局損傷がなかったのはキッズ1だけだったんですね」  木津は苦笑いし、そして言った。  「俺としてはそれは嬉しいような気もするがね。その段で言えば、真寿美はちょっと忍びなかったかもな」  顔に疑問符を浮かべた紗妃に木津は言う。  「青龍はもともと真寿美の乗機だったからな。朱雀は俺が使ってたし」  「真寿美って、峰岡さんですか?」  「ああ。あれ? 知らなかったっけ?」  「市街地で初めて木津さんにお会いした時、一緒でしたね。あの時は彼女がMISSESのメンバーだとは思いませんでしたけど」そして少し微笑むと言葉を継いだ。「あの日はデートだったんですか?」  「厳密に言うと少し違う」と久我の口まねで言う木津。「あいつ、あの時メンバーから外されてしょげてたんで、食い物で気晴らしさせてやったんだが」  「外されていた? あんなにきれいに乗りこなしていたのに」  「俺にも分からんよ、久我のおばさんの考えることは」  さっきの台詞もそうだしな……  「そうですか。やっぱり申し訳ないことをしてしまったようですね」  「でもまあそれほどには気にするまいさ。あいつだって止むを得ない時には多少ぶっ壊してたし」  「だったら、私が木津さんをサポートするためなら許してもらえるかも知れませんね」  「どういう意味だ? そりゃ」  「え? だってお二人は恋人さん同士じゃないんですか?」  木津が、疑問符を浮かべた顔に、今度は苦笑を追加した。  「まあ、とにかく修理見学に行くべさ」  そう言いながら歩き出す木津に紗妃が問う。  「レポートはいいんですか?」  「いくらあのおばさんでも、二時間後に出せとは言わなかったぜ」  「おや、お揃いでお越しかね」  見慣れたのとは違う二人連れの姿を見て阿久津は言った。  「姫が修理見学をご所望でござる」と、おどけた調子で木津。「どんなもんだい? もう作業は始まってるのか?」  「出てみるかね?」  二人にというよりはむしろ紗妃に阿久津は声を掛けた。  「はい、ぜひ」  紗妃の答えを聞くより先に、阿久津は上がってきたばかりといった感じの資料を投げてよこした。木津がそれを机の上に拡げる。  今回出動したVCDV各機の整備修理作業見積書だった。  木津の手が一枚ずつページをめくり、S−RYの部分を開く。紗妃が脇から覗き込む。  もぎ取られた左腕の交換、被弾部外装の交換と機構チェック、疲労部品の交換という、比較的軽微な作業だけがそこに書き込まれている。  「思ったより軽くて済んでるな」  木津の言葉に、紗妃はふぅと息を漏らす。  「腕もストックがあるし、機構チェックでアラが出なけりゃあ、まあ今日中には片が付くだろうな」と阿久津。  「本当ですか?」  「嘘を吐いてる目に見えるかね?」  「……眼精疲労気味なのは分かります」  一本とられたという顔をして、阿久津は木津に言った。  「なかなかやりおるな、この姫君は」  「だろ?」  上の空でそう返事をする木津の目は、資料を辿っていた。白虎も損傷は軽微。ただし調整部位は他よりも多そうだった。そして朱雀。紗妃の言った通り、損傷は皆無。木津の頬には無意識の笑みが浮かんでいた。  「それじゃあ、行くかね」  阿久津が作業場へのドアを開けた。  木津の後に紗妃が続き、三人は作業台の前へと歩いていった。  Mフォームで作業台に斜めに寝かされた白虎、朱雀、青龍、そして安芸の玄武に作業員が群がっている。  「ベッドが満杯ってのも久しぶりだわい」と阿久津が言う。「サポート機や試験機まで駆り出すとなったら、四基のベッドじゃとても足りんな。この倍はないと、いざというときにゃ剣呑でいかん」  「おばさんに掛け合えよ」と木津。  「サポート機と言えば」立ち並ぶ機体を見ながら紗妃が口を切る。「どうしてサポート機の修理が優先されているんですか? 普通だったらアックス・チームの車両を先に稼働できるようにすると思うんですけれど」  青龍のちぎれた左腕が肩から外され、降ろされた。肩の開口部に作業員が計測器械をあてがい、チェックを始める。  木津が振り返り阿久津の顔を見る。  阿久津はにやりとすると言った。  「この点だけは不思議とディレクター殿と意見が合ってな」  不思議そうな顔の紗妃を横に、木津はちょいと肩をすくめた。  聞こえてきた終業のチャイムに、木津は書きかけのレポートから顔を上げた。傍らの灰皿には、この午後いっぱいだけで堆く積み上けられた吸い殻。そこに木津はさらにもう一本を積み足した。と、灰まみれの山がぐらつき崩れかけた。慌てて木津は一度手を放した吸い殻にもう一度指を添え、何とかバランスを立て直した。  一人苦笑いする木津。だがその表情はふと不審のそれに変化した。  こうなる前に灰皿を片付けに、いや、この用でなくとも一日一回は木津の部屋に顔を出す真寿美が、今日は一度も来ていなかった。  いつの間にか、と椅子の背もたれを軋らせて上体をのけぞらせながら、木津は思った。習慣になっちまってたみたいだな、あいつが来るのが。おかげですっかりずぼらになっちまった。  再び木津の頬に笑みが浮かぶ。が、それは苦笑ではなく、何か固い印象を与えるものだった。  今さらじゃないか、ずぼらは。  木津は立ち上がると、手ずから灰皿を取り上げ、サーカスのクラウンのような仕草で、山が崩れないようにバランスを取りながら部屋のドアを開けた。  同じ頃、その真寿美が帰宅の挨拶をしに久我の執務室に顔を出した。  ドアのところから小声で帰宅する旨を告げる真寿美に、久我はいつもと変わらない口調でお疲れ様と返して、また視線を手元の資料に戻した。  が、ドアの閉じる音がしない。  目を上げると、まだ真寿美がドアの前に立ったままだった。  「どうしました?」  真寿美の唇が開く。そしてややあってから、  「いえ、失礼します」  出て行こうとする真寿美を、久我が呼び止め、招いた。  どことなく重たげな足取りでデスクの正面に来た峰岡に、久我は両肘を机に突き両手の指を組んで言った。  「何を気に病んでいるの?」  「え……」  「急がないならお掛けなさい」  ソファを指し示しながら久我も自ら腰を上げた。  真寿美は黙ったまま久我の言葉に従う。そして自分の正面に座った久我に目を上げない。そんな真寿美に久我は言葉をかけない。  しばらくの沈黙の後、先に崩れたのは真寿美の方だった。  「……復帰させていただいたのは、とっても嬉しいんです。でも、どうして嬉しいのか、何が嬉しいのか、自分の中で納得がいかないような気がするんです。いえ、どうしてとか何がとかは、本当は分かってるんです。でも、そんな理由でVCDVに乗っていていいのかって考えると……」  無言で聞いていた久我が、ゆっくりと口を切った。  「裏側にある理由がどうあれ、任務に差し障りのない限りは、それについて口を挟むつもりは私にはありません。あなたにはあなたの理由があって、それでいいと思います」  うつむいていた真寿美の顔が上がった。  「それが全体の和を乱さないなら」  言い足された久我のこの言葉が、真寿美の頬を震わせ、視線を再び伏せさせた。  それを見てか否か、久我は言葉を継いだ。  「木津さんがここに来た時のことを覚えている?」  真寿美はまた体をぴくりと震わせながら、小声ではいと言ってうなずいた。  「木津さんがここに来たのは、『ホット』を追う手段としてだったでしょう? 私たちとの最初の接点はその一点でしかなかったけれど、こうして今でも一緒に行動している。あなたも、他のメンバーも、その裏側にあるものを知らないままで。それが例えばレーサーを止めなければならなかったことなのか、誰か大切な人を喪ったことなのか、他の理由なのか分からないけれど、それとは関係なく同じチームの一員として行動している」  真寿美は相変わらずうつむいたまま。  「だからあなたも、自分の気持ちはそれとして持っていればいいと思います。ただし、いつか見切りを付けなければならなくなった時には、潔く振り切れるような心構えでね」  「どうしたらそういう風にいられるんでしょうか?」ぼそりと真寿美が訊ねた。「自信がないです……」  「そのうち分かってくるでしょう。きっかけがつかめるまでは今まで通りにしていれば、それでいいのではないかしら?」  「きっかけ……」  「峰岡さん」  駐車場への道で、後ろから自分を呼ぶ、聞き覚えのある声を聞いて、真寿美は思わず足を止め、一瞬躊躇ってから振り返った。  淡い緑色のスプリング・コートを腕に抱え、ヒールを履いた足取りも軽く近付いてきたのは、やはり饗庭紗妃だった。  「今からお帰り……ですよね」  当たり前のことを訊ねた照れからか、こめかみを掻くような仕草をしてみせる。  「はい」と答えてから、真寿美は自分の姿に視線を落とす。服装にそれほど気を使っていないつもりはないのだが、彼女に比べると随分と垢抜けなく思えてしまう。やっぱりこの人ってきれいなんだ……  「もし迷惑でなかったら、市街区の入り口まで乗せていってもらえませんか?」  「全然迷惑なんかじゃないですけど……車じゃないんですか?」  「今朝になってトラブルを起こしてしまって。帰ったら修理屋さんを呼ばなきゃいけないんです。本当は兄貴に送らせようと思ってたんですけど、今日はこれからまだ何かあるらしくて断られちゃいました」  「修理だったら、ここまで来られたらやってもらえるんですけど」  「中の整備工場でですか? でも今日はだめですね。VCDVの修理が忙しいですから」  全く屈託のない表情を見せる紗妃に、真寿美もいつの間にか表情を和らげていた。  「取っ付きまででいいんですか?」  「そこからなら何とでもなりますから」  とりとめのない話の中で、何気なく紗妃が切り出した。  「峰岡さんと木津さんって、まるで恋人同士みたいですよね」  真寿美はハンドルを握る手の震えを、辛うじて押さえて応える。  「そんなことないですよ」  「でもお互い名前で呼び合ってるし」  「仁さんのことは、ディレクター以外はみんな名前で呼んでます」  「それなら私もそうしようかな」  それには応えずに、ほとんど無意識に真寿美はつぶやく。  「それに……」  しまったと思ったが、遅かった。  「それに?」  促されて、真寿美はもう考えることもせずに話し出した。  「それに、あたしは仁さんのこと、未だにほとんど何も知らないんです。前にどんなレースをしてたのかとか、レーサーを辞めなきゃいけなくなった事故っていうのがどんなものだったかとか」  紗妃は静かな眼で真寿美を見つめている。  「……知ってるのは、その事故に『ホット』っていう人が関係してて、仁さんがその人のことを殺したいほど憎んでることだけなんです」  信号待ちの列に続けて車を止めると、真寿美は紗妃に顔を向けて言った。  「饗庭さん、お願いがあるんです」  「紗妃、でいいです」と、「ホット」の話を聞いて固くしていた表情を和らげながら、「で、お願いって何ですか?」  「あ、はい、饗……紗妃さんって、仁さんのファンでしたよね。事故のことも知ってますか? 知ってたら教えてください。どんな事故だったんですか?」  「信号が変わりましたよ」  慌てたスロットル・ペダルの踏み込みに揺すられながら、よく覚えていると紗妃は話し始めた。二年前の夏、当時木津が所属していたレーシング・チームの練習用オープンコースでマシン調整中のスタッフに、無人の小型トラックが突っ込み爆発、見学に来ていた女性一名が死亡、ドライバーやスタッフ八名が重軽傷を負った。その時のニュースの記事もコピーを取ってあると紗妃は言った。  「本当に小さな記事でしたけど。トップクラスのチームとは違って、普段のレースもほとんど記事になったことはなかったですけど、事件の時までそんな扱いだったんです。だから、原因とか当局の捜査とかは全く書かれてはいませんでした。もちろん『ホット』のことにも。ああ、木津さんがMISSESにいるのは、そういう理由だったんですね」  「……その記事、今度見せてもらってもいいですか?」  車は外橋にさしかかっていた。橋の上には夕暮れの残照がまだわずかながら陰を落とし、窓から差し込んだ赤い光が真寿美の横顔に薄い模様を描き、その表情をぼやかしていた。  電子書簡の着信を報せる猫の鳴き声に、真寿美は目を醒まし、着替えもしていなかった体をベッドの上に起こして眼をこすった。  やだ、寝ちゃってたんだ……  重い体をテーブルまで運ぶと、スクリーンの中で封筒にじゃれついている猫に指で触れた。すると、その猫が封筒を開いてみせる。  差出人は紗妃だった。帰宅してからすぐに送ってきたらしい。文面にはそれを裏付けるように先刻帰宅したこと、送ってもらったことへの礼、車の修理屋を手配したこと、そして約束のニュース記事を送るとの旨が記してある。  その先を真寿美は読まなかった。同封してある、件の記事の方が先だ。  何種類かの記事は、いずれも紗妃の言っていた通りのごく短いもので、そして紗妃の話した通りの内容がごく簡単に記されている。ただ話よりも詳しいのは、被害者の身元が載せられているというところだけだった。  この爆発で、某所の相馬七重さん二十三歳が死亡、同チーム所属のレーサー木津仁さん二十四歳ら八人が重軽傷を負った、と。  真寿美は溜息を吐いた。  ふと気付いて、紗妃からの文面の続きに目を通す。  「でも木津さんは、この事故のことはあまり人に触れてほしくないかも知れません。亡くなった人のことを負い目に感じているかも」  亡くなった人……あたしより一つ上で。どんな人だったんだろう、仁さんにとって。  「真寿美さん(名前で呼ばせてもらってもいいですよね?)、今日はとってもお疲れみたいだったけど、いつもはもっと元気な人だって木津さんが言ってました。明日はそういう顔を見せてくださいね。では、また明日。おやすみなさい」  翌朝。  インタホンの呼び出し音に木津が応えると、  「おはようございます、峰岡です」  「おう」  だがいつものようにドアの開く気配がない。  「開いてるぜ?」  「はい」  入ってきた真寿美は、だがこれまでと変わった様子は特になかった。  「昨日はどうしたんだ? 一遍も顔出さないで」と木津が訊ねると、えへへ、という顔をして真寿美は言った。  「ごめんなさい、グロッキーだったんです」  「なるほど、目の下にグリズリーがいる」  「せめてアライグマにしてくれませんか?」  「アライグマってのは、確か目の周りじゅう真っ黒じゃなかったか?」  その応えを聞いて、真寿美は吹き出した。  「今日は大丈夫そうだな」と木津。「紗妃姫に元気印を宣伝しておいたのが、虚偽広告で訴えられないで済みそうだ」  「紗妃さんって、姫なんですか?」  「何となくそんな感じがしないか?」  「きれいな人ですもんね。どっちかって言うとやんちゃなお姫様って感じがしますけど。仁さんの好みのタイプだったりします?」  木津は相変わらずにやついた顔で言う。  「俺はもういいや」  真寿美も表情を変えない。  「もう?」  木津は何も答えずに、灰皿の煙草をもみ消すと、腰掛けたままでひとつ伸びをした。  真寿美もそれ以上問うことはせず、部屋の中を見渡しながら言った。  「今朝は何かご用はありませんか? 昨日の分も含めて」  「ああ、昨日の分ならすごいのがある」  「何ですか?」  「丁度その辺に灰皿をひっくり返したんだ。吸い殻てんこ盛りの奴を」  真寿美は慌てて横っ飛びに飛び退き、今まで立っていた床を見る。そういえばうっすらと灰を被っている。  「いや、それでも一応掃いたんだけどさ、掃除機の在処が分からなくて」  「分かりました」と、半ば呆れたような顔で真寿美。「掃除機を持ってきます」  「ああ、いい、いい」と、部屋を出て行きかけた真寿美を止めながら、木津が腰を上げた。「場所を教えてくれれば持ってきて自分でやるよ」  真寿美が用具置き場への道を教えると、木津は「了解、留守番頼む」と言いながら部屋を出ようとした。  「今からですか? レポートは?」  「結びの文句書いて出すだけ。落書きしなけりゃ読んでくれててもいいぞ」  ドアが閉じる。  木津の言葉通り、真寿美は机の前に足を進めた。原稿を表示した画面を中心に据えて、相変わらず乱雑な机の上。整理しようと散らばった資料に手を掛けて、真寿美は思い出した。視線が机の上のある場所へと走る。  以前と同じ場所に、以前と同じ状態で、それは置かれていた。だが埃を被ったりしてはいないところを見ると、何度となくその場所から取り上げられていたのは間違いない。  手は資料を離れ、そこへと伸ばされた。拾い上げようとする指が微かに震えている。  裏側に女手で記された文字。記された日付は事故のあった日の約一ヶ月前だ。そしてその上に書かれた言葉。横文字だが意味は分からない。その中ではっきりと読みとれたのは、最初と最後にある名前だけだった。  「じん」、そして「ななえ」と。  あの人だ。仁さんの事故で亡くなった、相馬七重という人。間違いない。  真寿美は写真を表に返した。  初夏の陽光を浴びて穏やかに微笑む、少女のような表情がそこにあった。紗妃とも、また自分とも全く違うタイプの女性。写真は胸から上のショットだが、ブラウスの半袖からのぞく白く細い腕が薄い肩を、そして全身の華奢さを想像させる。その肩まで届く黒い髪を背景に一層白さが際立つ、やはり細い項がそれに輪をかけていた。  そんな雰囲気の中に一見不釣り合いにすら思える、芯の強さとおおらかさを共に湛えた眼差しがあって、不思議な調和を見せていた。  真寿美は背中に冷気が走るのを感じて肩を震わせた。相馬七重の肖像を現実に見て、真寿美自身の頭の中で曖昧に捉えられていた木津の姿が、急にはっきりとした形を帯びて現れてきた。  事故でなくなった人のことを負い目に感じているかも、そう紗妃は書いてきた。だが真寿美は、それが必ずしも正しくはないのだと感じていた。  違う、負い目なんていうだけのことじゃない。仁さんはこの人のために、この人の仇を討つために、ここに来たんだ。「ホット」を殺してもいいとさえ言っていたのは、この人のためにだったんだ。そしてそのためには、自分の命さえ懸けてもいいと思っているのかも知れない。  それほど、それほど仁さんにとって大切な人だったんだ、この人は。  そう考えながら、真寿美は自分の顔に微笑が浮かんでいるのに気付いた。明らかに自嘲の色合いを帯びていたそれが、急に消えた。  だったら、あたしはどうしたらいいんだろう。あたしには何ができるんだろう……  ドアの外に近付いてくる、掃除機を引きずるがたがたという音を聞き付けて、真寿美は写真を元の場所にそっと伏せた。そしてドアを開けに行った。  体に掃除機のホースを巻き付けて立っている木津のおどけぶりが、これまでとは少し違って真寿美の目に映った。  久我は木津のレポートと阿久津の報告書を前に、コーヒーが冷めるのも忘れて何ごとかを考え込んでいた。  阿久津の資料に依れば、今回新しく送り込まれてきた人型は、VCDVとは総合的な能力においては比較にならないほど劣っていた。だが個々の機能について言えばその精度は極めて高く、これらがバランスを持って一個の機体にまとめられれば、VCDVと同等あるいはそれ以上のものとなり得るともある。木津のレポートが、その機動性を無視できないとしているのが個々の機能云々についての傍証となっていた。  両手に顔を埋め、久我は溜息を吐いた。  きっとこのまま行けば、遠からず本当にVCDVに近いものを彼は出してくるだろう。それだけのものを彼は持っている。でも、そうなったら彼に歯止めは効かない。私怨を晴らすための行動も、今よりもっと露骨に、そして凶悪になってくる。  いけない。急がなければ。  久我は顔を上げた。閉じられた瞼の裏に、これまでにも何度となく思い出してきた肖像が浮かび上がる。一瞬久我の顔に表情らしいものが浮かんで消えた。一瞬だったが、しかしそれは他者には決して見せることのない、険しさと同時に哀しさの表情だった。 Chase 19 − 剥かれた牙  執務室に戻ってきた久我は、ライト・グレーのハーフコートを肩から滑らせるように脱いでハンガーに引っかけると、軽くスカートの裾をさばいて椅子に腰掛け、一つ、小さく息を吐いた。  待っていたかのように、インタホンから声がする。  「峰岡です。お帰りなさい」  一礼しながら部屋に入ると、真寿美はすぐにコーヒーの準備に取りかかりながら、いつものように訊ねた。  「何か目新しいこと、ありました?」  「一つ動きがありました」と久我。「追ってMISSESのメンバーにも公式にお知らせする内容です」  興味ありげな表情を隠さずに、真寿美はデスクにコーヒーを運ぶ。  かなり熱いコーヒーを一口飲み下すと、久我は真寿美の表情に応えて言った。  「当局内部で、『ホット』への内応者の調査が正式に開始されることになりました」  真寿美の表情が訝しげなものに変わった。  「ないおうしゃ? って何ですか?」  「『ホット』の配下にある者が当局にいるという可能性について、これまで内偵レベルだった調査を正式化することにしたそうです」  「ああ、そういう意味ですか……でも、正式な決定になるまでに、ずいぶん時間がかかりましたね。それに、もう可能性っていう話じゃなくなってるのに」  真寿美の言うとおり、朱雀強奪事件で当局における内応者が表舞台に姿を現してから、既に一ヶ月以上が経過していた。  「LOVE側に実質的な損害が発生した以上やむを得ない、としての決定だったようです。当局としては認めたくないことだったでしょうから」と淡々と久我が言う。  「その内応者っていう人、認めたくないぐらい大勢いるんですか?」  「実状として根深いものがあったとしても、公表される結果には、それほどの数が上がることはないでしょう。ただ、理由はどうあれ、今回当局が腰を上げた点だけでも、評価に値すると思います」  真寿美が半ば呆れたように微笑する。  「その調査結果が報告されるまで」と久我が続ける。「VCDVの追加導入は見送られることになりました」  「秘密保護のためですね?」  「G−MBの機構的な情報であれば、とうに漏れていると考えるべきでしょう」  そう言う久我の平然とした表情に、真寿美は驚いていた。  「当局側がそうしたいというのであれば」と久我は続ける。「こちらとしては従うだけですけれど。しかし導入からもう相当の日が経っているにも関わらず、『ホット』の側で得たはずの情報を生かし切れていないという事実があります。漏れていたとしても現時点では実害はありません」  黙ってうなずく真寿美は、だが久我の本当の思惑を推し量ることは出来なかった。  「そうですよね、だから手っ取り早く朱雀……えっと、S−ZCを盗もうとしたんですよね、きっと」  久我は答えずにコーヒーのカップを口許へ運んだ。そして次の指示を待つ真寿美に、一時間後にMISSES全メンバーを召集するように命じた。  「はい、承知しました」  軽く頭を下げると、真寿美は振り返り出て行こうとする。が、それを久我が呼び止めた。  再び振り返る真寿美に、久我は言った。  「きっかけは見つかりそう?」  真寿美は曇りのない笑顔で答えた。  「はい。見つかりました」そして久我の顔を真っ直ぐ見つめて、言い足した。「ディレクターが前におっしゃってたのとは、ちょっと違う意味でのきっかけですけど」  ほんのわずかに不思議そうな顔をした久我は、しかし何も問わなかった。  「おう、真寿美ちゃん、こいつぁいいところに来た」  事務室に入るや否や、阿久津がそう声を掛けてきた。  「はい? 何ですか?」  きょとんとした顔の峰岡を手招きすると、にやついた阿久津は無言で作業台上のディスプレイ・スクリーンを示した。  画面の中では、白虎と青龍が対峙し、激しく動き回っている。いや、対峙しているというよりは、白虎が一方的にやりこめられているといった方が正しいようだった。  双方の右手首からは、資料上の名称に従えば「伸縮格納式打突桿」、通称「仕込み杖」が伸びている。その「仕込み杖」での青龍の素早くかつ正確な打ち込みを、白虎が辛うじて防ぎまたかわしていた。  呆然と画面に見入る真寿美に、阿久津は機嫌良さそうに言った。  「あの姫様、なかなかの使い手だわい。仁ちゃんは力任せに大振りするが、姫様の方は出力で劣る青龍をテクニックでカバーしとる。チャンバラには多少の心得もあるように見えるしな。おっ……」  後退の一手だった白虎が、力尽くで攻勢に転じようとし、強引に一歩を踏み出した。その時、詰まった間合いを後ろに跳ね退いて拡げながら、青龍は「杖」を白虎の顔面正中めがけて振り下ろす。その切っ先が直撃すれすれで止まった。  「ほぉ、寸止めか……」  真寿美も思わず息を漏らした。  「阿久っつぁん!」と、動きの止まった白虎から、木津が息を弾ませて大声で言った。「こいつ、修理してから動きが鈍くなってないか?」  「そんなわけあるか。お主が大振りするのがいかん。もう少し姫に鍛錬してもらえ」  青龍の「杖」がすっと動く。  「待った待った! とりあえず今回はここまで!」  慌てて木津が言うと、青龍の「杖」がその右手首に格納された。  真寿美がもう一度溜息を吐く。  「すごいんだ、紗妃さんって……」  「真寿美ちゃんも今度鍛えてもらったらどうだね?」  半ば冗談めかした阿久津の言葉に、真寿美が大真面目にうなずく。  「そうですね。やっぱりあのくらい使えるようにしておかなきゃいけませんよね。それに、あたしももっともっと朱雀に慣れなくっちゃいけないし」  今の自分の言葉に対してのように、もう一度真寿美はうなずくと、一礼して事務室を後にした。  阿久津は再び画面を眺める。  青龍が二、三歩白虎との間合いを取る。  と、いきなり白虎が右腕を振りかざした。  「すきありっ!」  振り下ろされた「杖」を、再び伸ばされた青龍の「杖」が簡単に払い、そのまま今度は横様に白虎の首筋に打ち込まれ、接触寸前で止められた。  紗妃の静かな声がする。  「……本気を出してもいいですか?」  「……嘘だろ……それで今まで本気じゃなかったのか?」  その様子を逐一見ながら、事務室で阿久津が大笑いしていた。  「こいつは恐ろしく強い姫様だわい。なあ仁ちゃん」  木津の返事の代わりに、外からぱたぱたと駆け足の足音が聞こえ、ドアが開いた。  「おう、真寿美ちゃん、こいつぁいいところに来た」  「はい? 何ですか? ……じゃなくってですね」  きょとんとした顔の阿久津に、真寿美は苦笑しながら言った。  「そんなこと言うから、さっき肝心のお話をするのを忘れちゃったじゃないですか。召集です。三時半からミーティングなので、出席お願いします」  「ああ、ディレクター殿がお戻りかい」そしてちらりと時計に目を遣り、「三時半、と。はい了解だよ」  真寿美はもう一度お願いしますと言うと、スクリーンを覗き込んで「それで、またいいところだったんですか?」  真寿美が会議室に入ると、負傷して病室にいる小松と、そして必ず最後に入ってくる久我以外の六人は皆席に着いていた。  木津と安芸の間のかつての自分の席には、今回も紗妃が座っている。それを見て、真寿美は紗妃の向かい側、小松の席に腰を下ろした。  メンバーが揃うのを見計らったように久我が入ってくると、開会を宣した。  「まずご報告すべきことがあります」と切り出した久我は、既に真寿美に話した内容、即ち当局での「ホット」内応者調査の開始と、それから当局内での「ホット」対応チームの設立が予定されていることを述べた。  「今さらかい?」と木津が言う。「ずいぶんとごゆっくりなことだな」  「当局の対応チームは、まだ予定の段階なんですか?」安芸が訊ねた。  「そうです。ただし近日中に成立との話でした。特一式特装車を中心としたチームになるとのことです」  「特一式特装車、か」木津は嘲笑うように言った。「内応者ってのが当局の技術畑にいないといいやな」  「可能性としては高いと思われます」  平然と言ってのけた久我に、木津と安芸、そして饗庭が不審の目を向ける。  そこに阿久津が口を挟んだ。  「ま、機構は外見から分かったとしても、制御プログラムの解析はそう簡単なもんじゃあないからな。あそこは当局にもオープンにはしとらんし、造りだけ真似てみたところで、歩くことも出来まいよ」  それを聞いて、真寿美は久我から聞いた言葉の意味をやっと理解した。  久我が話を戻す。  「当局の専従チームが発足した後ですが、MISSESはその要請に従ってサポートに入るよう指示が出されました。承知しておいてください」  「では、今後MISSESへの直接的な出動指示はなくなるということですか?」  安芸のこの問いを、木津の言葉が追った。  「そいつぁ……よくないな」  その言葉の意味を諮りかねたように、紗妃が木津の顔を見ている。  「その点は当局側でも明確な指針を出せないでいます。恐らくは当面従来通りの出動態勢がとられるものと思われます」  「分かりました」と安芸。木津もうなずく。  「では次。阿久津主管からです」  促された阿久津が手元のスイッチを入れると、テーブルの中央に立体映像が浮かび上がる。それは前回の出動時に初めて姿を見せた、あの人型だった。  「こいつについて解析をさせてもらったところだが」  そう言って阿久津は機構の説明を始めた。足に仕込まれたローラー、上体によるバランス保持、両腕の火器、云々。  「それでもって、いやらしい仕掛けが一つ」  阿久津が人型の躯体から何本か飛び出しているアンテナ様のものを示して続ける。  「こいつがどうも衝撃波銃のトリガープル直後に来るびりりを捕まえるらしくて、それで照準を計算して自動で回避行動をとれるようになっとるらしい」  「どうりで当たらないはずだ」木津が呆れたように言った。  「こんな仕組みを積んどるってことは、明らかにこいつにVCDVの相手をさせるつもりだったってことだ。まあ同じ人型とは言え、今のところこいつはVCDVにかなうようなトータル性能を持っちゃあおらん。だが、奴さんがこれから出してくるものがどんな代物になるかは読めん。だんだん楽じゃあなくなってくるだろうってのは確かだがな。そこんとこは覚えといてくれや、皆の衆」  「これだけのものが作れる組織なんですね、『ホット』というのは」と紗妃が言う。「もしかすると、『ホット』自身が技術者なのでしょうか?」  久我の眉がわずかに動いたように木津には見えた。だがそんな気配は全くない声で、久我は可能性は否定しないと言っただけだった。  「以上です。何か質問は?」  「よろしいですか?」  声の主は真寿美の横に座った饗庭だった。久我が促すと、ぼそぼそとした口調で饗庭はこう切り出した。  「MISSESの業務は、民間研究所に許される範囲を明らかに超えています。業務命令として受けてはいますが、個人的には納得しかねます」  全員が呆然と沈黙する中、久我が静かに先を促した。  「加えて、今阿久津開発主管の話された内容では、この研究所、このチームが犯罪者の直接の攻撃目標にされているということですが、これは完全に当局の取り締まりに任せるべき域に達しています。戦闘行為が当局の要請と許可に基づくものであっても、承服すべきであったかは疑問です」  沈黙の中で、いくつかの眼差しが饗庭に向けられる。中でも紗妃のそれは、軽蔑と非難との交錯した厳しいものだった。  椅子を蹴って立ち上がろうとしかけた木津を、紗妃の手が押し止める。  久我はテーブルの上で両手の指を組んだ。その唇が動きかけた時、今度は別の声がした。饗庭の声よりもさらにぼそぼそとした、活気のない声が言った。  「……そうですね」  全員の視線が末席へと動く。そこにいるのは、これまでずっと沈黙を続けていた由良だった。  「そうですね」もう一度由良は繰り返した。「こういう任務は、本来は当局が負っているべきです。そう思います。だからこそ自分もこちらに派遣されてきているんです。それなのに……内応者とかが出て、こちらにもご迷惑をお掛けして、本当に……情けないです」  「そんな……」と安芸。  と、そこに久我の今までと全く変化のない口調が重なった。  「私はこれまでMISSESのどのメンバーに対しても、業務命令という表現は採ってきませんでした。それでも各人が各人なりに納得して任務についています。饗庭さん、納得がいかないが業務命令として任に当たるとおっしゃるなら、それでも結構です。敢えて納得する理由を探す必要もないでしょうし、探すよう命じるつもりもありません」  饗庭も表情を変えずに聞いている。  「ただし」久我が続ける。不気味なほど口調を変えることなしに。「業務命令の中には、任務遂行中の各人の安全確保は含めていません。あなたご自身で対応してください」  饗庭は虚を突かれたような表情の後、むっとした顔を見せたが、了解の意も反論も口に上せなかった。  「よろしいのですかな?」  口中剤をがりがりと噛みながら、阿久津は自分でコーヒーを注ぐ久我の背中に訊ねた。  真寿美をはじめ、他のメンバーは既に全員部屋を出ている。  湯気の立つカップを両手に戻ってきた久我は、ソファに腰を下ろしてそれに答えた。  「はい」  「約一名、怖じ気付いたような様子を見せておったようですがな。ああ、こりゃ申し訳ない」  差し出されたカップを手にすると、阿久津は二、三度吹き冷まし、しかし口は付けずにカップ越しに上目使いに久我の顔を見ながらつぶやくように言った。  「もっとも、奴さんの言うことにも一理あるとは思いますがな」  久我は何も言わずにカップを口に運んだ。  「何度も申すようですが、正直な話、あまり感心しませんぞ……」  テーブルに置かれた久我のカップが、小さく冷たい音を立てる。  「こちらとしては、技術屋の領分だけが持ち分と割り切らせてもらっておりますがな」と阿久津が続けた。「だからその点についちゃあ文句は申しませんが、だが方向は違うとは言え、ディレクター殿のやってることは、実際のところ、あちらさんと大差ないのではありませんかな?」  久我は再びカップを取り上げると、やっと口を開いた。  「本題に入りましょう」  「こ、怖かった……」  休憩室に落ち着くと、半ば冗談めかした口振りで木津が言い出した。  「あんな怖いおばさん、初めて見たぜ」  「あたしもです」と真寿美。その横で、紗妃が申し訳なさそうな顔でいる。  安芸がため息を吐くと言った。  「自分自身が疑問に思ったことはなかったから思いも寄らなかったけど、あんな風に考える人もいたんですね」  頭を掻く安芸の表情には困惑の色が薄からず差している。  「そうかぁ、リーダーも大変よね」  「由良さんも思い詰めてる感じだし」  「小松のおっさんはまたも戦線離脱だしな」  「すみません。後でひっぱたいておきます」  「おいおい! そこまでするか?」紗妃のいきなりの発言に、思わず木津が声を上げた。「姫も結構怖いな」  「ああいう奴なんです、兄貴は。普段はろくに話もしないのに、何か言い出すかと思えばあんな調子で」そして安芸に向かって言う。「本当にすみません。足りない分は、私がサポートに入りますから」  「でも、おばさんの台詞も、ひっぱたくぐらいの威力はあったよな」と木津。「ありゃまるで死ねと言ってるようなもんだったぜ。死にたくなけりゃ、兄ぃだってやることはやるだろ。おばさんのスカウトだったら、腕は問題ないんだろうし。ところでそのご当人はどこに行った? それに由良も」  「詰所、ですか?」  「付き合い悪いねぇ」と言うと、木津は牛乳パックのストローを吸う。  「あ、そうだ」真寿美がいきなり声を上げる。「紗妃さん、あたしにもチャンバラ教えてください。さっき仁さんをこてんぱんにしてたのを」  木津が派手にむせかえった。  「仁さん、ここまで飛びました」  安芸の言葉は無視して、  「見てたのか?」  「はい、阿久津主管のところで、たまたまでしたけど、ばっちり」  木津の方をちらりと見て安芸が言う。  「確かにあれはあまり見せたくなかったかも知れませんね」  「あんまり言うと恥ずかしくて逃げるぞ」  真寿美の弾けた笑い声と、紗妃のくすくすという笑い声。  「いいですよ。いつ?」と紗妃。  「明日の十時頃から、場所空いてたら」  「最初は乗らないでやった方がいいですよ。体で形を覚えた方が早いから」  「それを先に言えよ」と苦笑の木津。  「しかしすごいですね。紗妃さんは剣と武術が使えるし、由良さんも格闘技が出来るし」  「そういう安芸くんだって、射撃はピカイチじゃない」  「それで小松のおっさんが負傷の名人、と」  「あ、仁さんひどい」  笑いの中から、紗妃が訊ねる。  「木津さんはいかがです? 得意なのはやっぱり運転技術ですか?」  「んにゃ、それとお茶の入れ方は真寿美の方が上手いかもな」  「すると、何でしょう?」  「執念深さ」  木津の手の中で、空になった牛乳パックが潰された。放り投げられたパックは放物線を描いてゴミ箱に落ちる。  「上手ですね」と紗妃が言った。  エレベータのドアが開く。その中にいた人物を見て、木津は意外そうな顔をした。  「今から帰りかい?」  「はい」と答えながら、乗り込む木津のために久我は半歩脇に寄った。  「ふぅん……あんたでも家に帰ることがあったんだな。初めて見た」  ドアが閉じ、エレベータが降下を始める。  「どちらへお出掛けですか?」と今度は久我が訊ねる。「それともご自宅へお戻りですか?」  「んにゃ、ちっとばかり小腹がすいたのと、退屈しのぎのネタ探しとで、橋の向こうまで行こうと思ってさ。ああ、もちろん白虎は出さないぜ。自分の車でからご安心あれ。そうか、お帰りってことは、途中までは同じコースだな」  久我は黙ったままでいる。木津はその横顔をちらりと見ると、口を尖らせた。  「一つ訊いてもいいか?」  「何でしょう?」  「あんた、自宅ではいったいどんな生活してるんだ? 全然想像がつかないんだが」  少し上げた視線をすぐに戻して久我。  「普通です」  扉が開くと、相当遅い時刻にも関わらず疲れを感じさせないような姿勢の良さと足取りとで、久我はエレベータを降りて歩き出す。木津が大股で後を追う。  「俺はてっきり異常なのかと思ってた」  久我は足も止めず、振り返りもせずに、それでも言葉を返した。  「あなたが思っていらっしゃるほどではないと思います」  「つまり人並みには異常なわけだ」  それには何も言わずに、久我は駐車場へのドアをくぐった。  春もまだ浅く、決して暖かくはない夜。まばらに停められた車の影が寒々とした感じを与える。そんな駐車場の隅に、二台が並んで停められている。すっかり埃を被ってしまっている木津の旧型車と、そして型の古さでは木津と大差ないものの、手入れの面では比較にならないほどきれいな中型車。そこへ真っ直ぐ向かう久我を見て、木津が言う。  「何だ、こいつがそうだったのか。ディレクターのご身分だったら、最新の高級車に乗ってるもんかと思ったけど、そういうわけじゃないんだな」  「必要がありませんから」  木津は肩をすくめると訊ねる。  「あんたにとって必要なものって一体何なんだ? 三度の飯さえいらないんじゃないかって気がするぜ……ああ、真寿美のコーヒーだけは不可欠かも知れないな」  車の脇で足を止め、久我は振り返った。  「あなたにご協力いただく必要があります。『ホット』の件について」  そして木津に問い返す暇を与えずに、車のドアを開いた。  「では失礼します。お気を付けて」  「……ああ、お疲れさん」  すっきりしないまま、木津は自分の車に乗り込んだ。異常とか言われて怒ったかな……それにしては、何か妙な反応だったような気もしないわけじゃないが……  本体に似合わず機嫌のいいエンジンが回転を始めた。  他に車の姿の全くない内橋に差し掛かると、この時刻でも消える気配のない都市区域の灯りが見て取れる。ハンドルを握る久我の目は、しかしそれを見ることはなかった。  久我は木津の言葉を思い出していた。  「つまり人並みには異常なわけだ」  苦笑のようにも見える、微かな微笑が久我の唇に浮かんだ。私が異常だとすれば、きっと人並み程度ではないだろう。でも、そうでなければ救われない……  その時、通信が入ったことを示す表示が計器盤に出た。ハンドルのスイッチを入れ、久我が応答する。  聞こえてきた当局からの声は、『ホット』の部隊発見の報と、その編成を告げた。  武装ワーカー十二に輸送車三、そしてホット・ユニット搭載と見られる車両一。当局特種機動隊は全機これを追って出動。MISSESの支援を要請する、と。  武装ワーカー十二両は決して多い数ではない。だが三両の輸送車が気に掛かる。『ホット』が新手を送り込んでくるときの手だ。そして『ホット』自らの指揮の可能性もある。  久我は了解の意を伝えると、車をUターンさせ、すぐにMISSESの当直組を呼び出した。  出たのは由良だった。久我は必要な情報を一通り伝えると、出動を命じた。由良の答えには、どこか曖昧なものが感じられる。久我はその理由をすぐに察したが、直接には何も言わず、速やかに増援を差し向ける旨を伝えるだけに止めた。  もう一人の当直担当は、饗庭長登であった。  通信を切ると、それに入れ替わるように後方から車が一台追い付いてきて、久我と併走する。見ると、その運転席には木津の顔があった。  久我が車を路肩に寄せて停めると、木津もそれに従い、そして開けたドアから身を躍らせて久我の方へ向かってくる。  「奴か?」  「そうです。直接指揮の可能性もあります」  木津の口が笑いに歪む。  さらに久我は相手の規模と、由良及び饗庭に出動を指示したことを窓越しに告げた。  「饗庭兄ぃか……」と、木津も木津でその意味を察していた。ちらりと久我に視線を投げる。応じて久我は木津の期待通りの言葉を告げた。  「木津さん、サポートをお願いします」  「合点承知!」  車へと走る木津に、久我が言う。  「ただし今回は当局の特種機動隊も出動します。そちらのサポートでもあります」  立ち止まり木津が振り返る。  「何だ、向こうも出てくるのか。足を引っ張ってくれなきゃいいがな」  「安芸、峰岡、饗庭の三名にも召集をかけます」  「はいよ! で、あんたは?」  「戻ります」  「了解! んじゃお先!」  ドアが閉まり、木津の車が急発進する。久我を追い抜きしな、一つホーンを鳴らして。  久我もそれを追って、スロットル・ペダルを踏み込んだ。唇に浮かんでいた微笑はとうに消え失せていた。  コクピットに滑り込んだ由良は、G−MBを始動させつつ振り返った。饗庭が今やっとアックス4に乗り込んだところだった。  由良は無意識に噛んでいた下唇を放すと、  「アックス4、準備いいですか?」  答えの代わりに、始動されたエンジンの軽いうなりが聞こえた。  由良はまた唇を噛むと、スロットル・ペダルを踏み込んだ。後方モニターの中で、少し遅れてアックス4が動き始める。  木津が着替えもせずに地下駐車場へ駆け込んでくる。そしてシートに体を投げると、キー・カードを差し込みスタータ・ボタンを押す。エンジンの始動と同時に、レシーバーから久我の声が聞こえた。  「……です……」  「何だって?」  「目標失探です。アックス3及び4は失探位置まで急行し、当局特種機動隊と合流の上哨戒。アックス1、マース1、キッズ0及び1は出動準備の上待機願います」  「見失っただと? 何をどうすりゃ十五両の大所帯を見失うってんだ? で、どこで消えたんだって?」  「来栖川重工跡地付近とのことです」  「またか。そりゃ前と同じ手じゃないか。どうせ倉庫だかに潜り込んでるんだろう」  「全く同じ手段を使うはずはありません」  妙に決然とした久我の言葉。  次いでアックス3及び4に哨戒の状況を随時報告するよう指示する久我の声を聞きながら、木津はエンジンを切った。灯火の落ちた計器盤。レシーバーの伝える微かな雑音を聞きながら、木津は一人焦れていた。  Chase 20 − 狂わされた照準  投光器が闇の中に光の帯を描く。時折それに照らされて、「歩行形態」を取った白い当局の特一式特装車と、同じく「Mフォーム」の、黒いMISSESのG−MB「玄武」の、対照的な彩色の横顔が見え隠れする。  六体のVCDVは、かつて工場だった建物の間を、固まって進む。先頭には当局の指揮者。その後、左右に分かれた同じく当局の二体が、携えた投光器を闇に向けてゆっくりと振る。その間に挟まれ、やはり当局の特一式が、これは鎮圧用と思しき、長大な砲身の射出器を持って続く。そして殿には横に並んだ由良と饗庭の玄武がいた。  由良は時折自分の右を行く饗庭の玄武に視線を走らせる。玄武の顔は正面に向けられたまま動かない。それが却って由良には非難の行為のように思われてならなかった。  自分の視線と同時に、由良は玄武の視線をも逸らせ、投光器の照らし出す建物の間を見る。数十分前と変わりなく、何も現れる気配のない場所を。  一隊はやがて、生々しい弾痕を留める長い壁の脇に歩み出た。その場所は由良の記憶にもまた生々しく残っていた。ほんの数週間前に、「ホット」の手勢との攻防を、いや、ほとんど防戦だったが、切り抜けたばかりの場所。それを思い出して、由良はふと前を行く当局の機体を不安の眼差しで見た。彼らはあれほどの激務を経験したことがあるのだろうか? もし今日のこの場があの再現になるとしたら……  と、由良の頬が締まった。当然のことだ、自分が盾になるのが。だが……  何度目かの視線が、相変わらず何の変化も示しはしない饗庭の玄武に投げられた。  前を行く当局隊の足が止まる。見ると指揮者の右腕が上げられている。その腕が指示を出すように振られると、左手にいた特一式が投光器を建物の開け放たれたままの出入口に向ける。由良は玄武の左腕を射撃準備の形にして反応を窺う。  強烈な光の帯が二度三度と左右に振られる。だが建物の中からは何の反応もなく、そして何の影も見付けることはできなかった。  指揮者の手が再度挙げられる。隊伍はこれまでと同じように前進する。  玄武の計器盤で、時計が一時を示した。  木津はB−YCのシートにふんぞり返って腕組みをしていた。右横では同様に発進準備を整えた姿で、ヘルメットだけを外して、紗妃がS−RYの横でストレッチをしている。左に目を転じれば、S−ZCのシートに座った真寿美が船を漕いでいる。  それを見て思わず木津は吹き出すが、表情はすぐに厳しいものに戻った。  遅過ぎる。久我が敵発見まで待機との指示を出してから、既に一時間を過ぎている。ワーカーの十二両はまだしも、何故輸送車三両さえ見付からないのか。  「……一体何をやってやがるんだ、当局の連中は」  「その台詞、由良さんには聞かせないようにお願いします」と安芸がレシーバー越しに言ってくる。  「ああ、分かってる……まあ、その由良も一緒だからなあ、手を抜いてる訳じゃないんだろうけど」  「逆かも知れませんね」  「何が?」  「指揮は当局側が執っているんです。当局のやり方に問題があったとしても、命令系統を崩すようなことは、由良さんには出来ないでしょう」  「なるほどね……窮屈なこって。そこんとこ行くと、うちの女親分さんは」  言いさしたところに、件の女親分の声。  「待機中の各乗員はその場で仮眠を取っておいてください」  早合点する余地も与えない一言に、木津がそれでも確認を入れる。  「長引きそうだってことか?」  「状況の報告は現時点ではありません」  「それだけかい」木津は肩をすくめ、そして左側のコクピットの中、相変わらずこっくりこっくりやっている真寿美の姿をもう一度眺めると、久我に言った。  「ちゃんと起こせよ」  目を閉じると、S−RYのドアの閉じる音が聞こえた。  ふと木津は目を開いた。  「そうだ、進ちゃん」  「はい?」  「こっちが助っ人に出ても、完全に当局の指揮下に入るんかい?」  答えはすぐに返った。  「状況によるでしょうね」  木津もにやりと笑いながら言った。  「さすが進ちゃん、愛してる」  答えはすぐに返った。  「おやすみなさい」  合図を受けて、隊伍は停止した。二時間にも亘る外からの捜索の末、何一つ見出すことなく。  由良は呆然としていた。捜索の手際の悪さが信じられなかった。確かに固まって動けばこちら側の安全は守りやすい。が、MISSESでの任務をこなしてきた身には、こんなやり方ではどうにも手ぬるく感じられてならなかった。しかし指揮者は当局の階級上は自分の上だ。従わざるを得ない。  結ばれた唇の間から溜息が漏れ出すのを由良は押しとどめることが出来なかった。  いや、これだけで済ませるはずはない。方法を変えて、もう一度捜索を始めるはずだ。久我ディレクターが言っていた通り専従チームとして動き出すことが決まった上は、これまで以上の動きをするはずだ。  由良の期待に応えるかのように、指揮者はその場での一時休息と、そして十五分後に二隊に分かれて捜索を再開する旨を指示してきた。  投光器の灯が落とされ、訪れた不完全な闇の中に立つ六体のVCDVの影。それは標柱のように見えた。  その一つの中で、計器盤の中の時計が刻む秒をろくに瞬きもしないで見つめながら、由良は考えていた。  失探の状況を考えれば、報告のあったワーカー十二両、輸送車三両は全てまだこの工場跡の敷地内にいるはずだ。ここまで突っ込んでは捜索していない建物の中に。だとすれば、主力はきっと……  休息の残りが一分を切ろうという時計から由良は前方の長大な倉庫に視線を移す。  その先で何かが光った。と思う間もなく、それは断続的にこちらへ向けて射出される曳光弾の光跡となった。  反射的に変形レバーを引く由良の手に応じて、玄武がRフォームに姿を変える。ほぼ同時に、饗庭の玄武も同じくRフォームに変形し、急速後進をかけていた。それを見た由良の動きが一瞬停まる。  前で突っ立ったままだった特一式は、数発ではあるが曳光弾の直撃を受け、ふらついていた。  やっと指揮者がWフォームへの変形を指示するが、それを聞いていたかのように、時を同じくして射撃はふっつりと止んだ。  指揮者が損害の報告を求める。両翼の特一式が被弾したものの、いずれもごくごく軽微なもので、そのために行動に支障を来すようなものではなかった。  安堵した由良の耳に、指揮者の声が聞こえる。その口調はやや咎めるような響きを帯びて、由良と饗庭に今のような回避行動を指示なくしては取らないようにと告げてきた。  由良も、饗庭も、それには何も答えない。饗庭はいつもの寡黙故に、そして由良の方は屈辱めいたものを感じたが故に。  黙ったまま由良はG−MBをMフォームに戻した。それに続くように、饗庭の玄武も再び立ち上がる。  だがそれをろくに見もしないまま、指揮者はすぐ後ろに控えていた特一式を前に出すと、両翼の二体には投光器の再点灯を命じ、自身はバックパックから銃を取り出して、あの一斉射以来沈黙を続ける倉庫に投降を呼びかけた。その横では例の射出器が構えられる。  まだ明けるまでには間のある闇の中に、投降の勧告が吸い込まれ消える。何の反応も得られないままに。それが三度繰り返され、そして、これ以上の黙殺に対しては実力行使をも辞さない旨が付け加えられた。  答えはない。  指揮者は命を下した。  射出器の安全装置を外した特一式の指がトリガーに掛かった。  次の瞬間、射出器の先端は弾かれたように上を向く。そして押し殺したような銃声。  由良の玄武が横様に飛び出し、左腕を倉庫の影に向ける。  銃声は続かなかった。  特一式は少し位置をずらすと、再び射出器を構える。弾道を予め示すかのように、光の帯が倉庫へと伸びた。  その時だった。倉庫の一角から、まるで爆発でもしたかのように砲撃が始まったのは。  ねじ上げられたようにまたも上を向かされた射出器は暴発し、弾頭を工場敷地の外へ吐き出す。投光器の一つは銃弾数発の直撃を受けて破壊された。被弾したのは射出器や投光器にとどまらない。前面にいた特一式の外装にはことごとく大小の損傷が生じている。  「攻撃の指示を!」  たまらず由良が叫んだ。今度は玄武を変形させることなしに。  が、聞こえてきた指示はWフォームに変形の上後退というものだった。  由良はまた唇を噛んでいた。  後退しつつ損傷の状況を確認する指揮者の目の前で、変形しないままの特一式が一体取り残される。射出器を担当していた機体だった。乗員が変形不能を叫ぶ。  指揮者は可能な限りの回避を命じると、自身は停止し銃を数発放つ。向こうからの砲撃に比べれば滑稽な行為にそれは見えた。  「攻撃の指示を!」  再度の由良の声に、指揮者の奇妙なほどに冷静な声が答えた。MISSESに要求しているのはあくまでサポートであり、攻撃の主導は当方で行う。それを待て、と。  「しかし……」  それに答える代わりに、指揮者は工場正門付近での停止を命じ、Mフォームに変形すると、動けなくなった僚機の許へ走る。  投光器担当の特一式二両と、そして饗庭のG−MBが指示通り後退を続ける中で、由良の足はブレーキ・ペダルを踏んでいた。そしてもう一度指揮者に向けて言った。  「では、サポートの指示を!」  答えはない。ただ二体の特一式が砲火に照らされて闇の中に浮き上がって見える。  「私だって、当局の人間なんです!」  失探の報を受けてから、既に二時間以上が過ぎている。  メンバーに仮眠を命じた久我は、執務室でほとんど目を閉じることもなく待っていた。その助けにしていたコーヒーの何杯目かを注いだ、いい加減汚れかけたカップをデスクに置いたとき、待っていた声が聞こえた。  「由良です、応答願います」  「久我です」と、腰を下ろしながら応え、続く報告を待つ。  「敵部隊は来栖川重工跡地の倉庫棟です。こちらは当局の二両が行動不能です」  その声は妙な重さを交えていた。  「……応援を……願います」  「了解しました。それまでの状況保持に努めてください」  久我の細い指が素早くスイッチを切り替え、唇がマイクに近付く。  「待機中の総員に連絡します。目標発見です。発進準備をお願いします」  「おいでなすったか!」いち早く木津が声を上げた。「みんな起きろ! お出かけだぞ」  「はわ……」とあくび混じりの真寿美の声。  「緊張感のない……」  代わりにそこそこの緊張感を帯びた安芸が詳細な情報を請う。  由良の報告内容に、久我は一つ付け加えた。  「相手側の損害は現在ない模様です」  「何だって?」とヘルメットをかぶり掛けた木津。  「予想が当たってしまったようですね」かすかに苦い口調でそう言ってから、安芸が他の三人に準備状況を問う。  次々に返る完了の応答。  「出ます!」  行動不能に陥った二両の特一式を背後に、残る四両は相手の潜む倉庫に踏み込むことはおろか、近付くことさえもままならないまま、特一式を弄んでからは姿を見せない相手に向けて散発的に銃撃を与えていた。  この期に及んで、当局の指揮者はやっと玄武にサポートの指示を下した。だが危険が伴うとして、踏み込むことは許可しなかった。  「では、どうするんですか?」  このままでは埒があきません、と本当は付け加えたいところだったが、それは由良には言えなかった。その位、指揮者にだって分かっているはずだ。  だがその問いに返った答えはこうだった。  「向こうが撃ち尽くすのを待つ」  絶句する由良の耳に、もう一言が続いた。  「これ以上の被害は出せない」  その時饗庭の玄武が、何かの素振りを見せるかのように少し動いた。  一方由良はその言葉に久我を思い出していた。任務中の自分の安全は自分で守れ、と言ったその口調を。  由良が指揮者の指示のないままにMISSESに連絡を入れたのは、その時のことだった。  「由良さん、聞こえますか?」  安芸の呼びかけが聞こえる。  「はい」  指揮者の特一式がそれに反応して、躯体をわずかに動かした。  が、反応したのはそれだけではなかった。  「三分以内に現着の見込みです。状況はどうですか?」  「変化なしです。ただ、発砲が止みました」  一呼吸おいて、安芸が了解の応答をする。  「変化あれば随時連絡願います」  それをかき消すように、指揮者が怒鳴った。  「どういうことだ? 何故応援が来る?」  由良は言葉を返さない。指揮者が繰り返し詰問する。再度の沈黙を経て、由良はやっと唇を開いた。  「私が要請しました」  「何だと? 何故……」  「MISSESは……もっと動けます」  「何?」  「被害の責任はそれぞれが負います。だからそれぞれが思い切って動けるんです。指揮官の責任なんかが任務遂行の妨げになったりしないんです!」  指揮者は何も言い返してこない。いや、言ってきたとしても聞きはしなかっただろう。言い放つとすぐに由良は変形レバーをハーフの位置にたたき込んだ。スロットル・ペダルにその足が掛かる。  それとほぼ同時にだった。前方の倉庫から武装ワーカーが飛び出してきたのと、背後から白虎と青龍が揃って飛び込んできたのは。  まるで由良の言葉を聞いていたかのような安芸の指示が飛び、木津が応える。  「各機、MISSES流で動いてください」  「合点承知!」  由良はコクピットで力無く微笑むと、指揮者の機体に目をやった。その視界を、またいくつかの曳光弾の光跡が横切る。指揮者機は何の動きも見せない。  由良の玄武が向き直った。そして左腕を横様に振ると、接近する武装ワーカーに最大出力で衝撃波銃を放った。  武装ワーカーは急転舵で回避する。が、その正面を真寿美の駆る朱雀の放つ衝撃波が捕らえた。武装ワーカーはそのまま擱坐する。  由良は玄武をハーフに変形させ、まっしぐらに倉庫に走る。それを見て安芸が指示を飛ばす。  「朱雀、青龍はアックス3の進路を確保。白虎はアックス3に続いてください。こちらも追います!」  「あいさぁ!」  「アックス4、よろしければ当局のサポートを継続願います」  安芸の言葉に、ハーフに変形した白虎のコクピットで木津は皮肉に笑った。進ちゃんも言うじゃないか、「よろしければ」とは。  その前方で、由良機の突入を阻もうと群がる武装ワーカーに、青龍と朱雀が襲いかかる。真寿美と紗妃の銃撃は立て続けに四両のワーカーを排除する。さらに後方では、安芸がハーフへの変形と同時に繰り出した衝撃波の一撃に、もう一両のワーカーが横転擱坐した。  たったこれだけの間に相手の半数を行動不能に陥れたMISSESの動き振りを目の当たりにして、当局の指揮者はほとんど言葉もなかった。そしてその口が開いた時発せられたのは、残る特一式への、MISSESをサポートする旨の命だった。が、それはすぐに撤回され、代わりに各個の安全確保と、接近する車両の抑止に努めるべしとの指示になった。  当局部隊の一翼にいた饗庭の玄武が、またもの言いたげな挙動を見せる。が、その場を動くことなく再び由良、木津、安芸の突っ込んでいった倉庫へと向き直った。  ワーカーの飛び出してきた倉庫の搬入口は、あれ以降沈黙を守っている。  先頭を切って走る由良の玄武がその速度を落とそうとしないのに安芸は気付いた。  まずいな……  「仁さん、右を頼みます」  「おう」  白虎と玄武の白と黒の車体がほとんど同時にハーフからRフォームに戻され、左右に分かれるとそのまま由良の前に出た。  搬入口が近付く。と、これもまた同時に再びMフォームに変形し、速度に乗って搬入口の左右の壁まで跳ぶと、倉庫の中に左右から衝撃波銃を撃ち込んだ。  中からは破壊音。だが数は少ない。  由良のハーフが追って玄武に変形し、頭から倉庫に飛び込む。  安芸がまた指示を飛ばす。  「朱雀、青龍は倉庫外周をチェック、出口を潰してください」  二つの声が了解の回答を返すのを聞き、安芸も由良の後を追った木津に続いた。  「あと一カ所!」  真寿美の声に、紗妃は先を急いだ。残る出口はすぐ先に位置している。  ハーフから姿を変えた青龍が駆ける。扉が閉ざされたままの出口が眼前に迫る。  が、残りわずかのところでその扉が破られた。青龍の足が止まる。  「紗妃さん?」  破壊音を聞き付けて真寿美がハーフの朱雀を走らせる。その耳にさらに鈍い音が届く。  それは扉の内側から青龍へ向けて放たれた衝撃波銃の振動だった。  衝撃波は伏せた青龍の上を通過する。背中の装甲がわずかに共鳴した。  紗妃は青龍の首をもたげさせる。そして見た。破られた扉をくぐり抜けて、前とは違う人型の機体が二つ飛び出し、一つは当局の一隊が待機する工場正門の方へ、そしてもう一つは自分の方へ滑り出すのを。  前回の人型に比して太く大きくなった脚。それにふさわしく分厚い胴体と太い腕。濃紫色の塗色とも相俟って見るからに重量がありそうなのにも関わらず、くぐもった轟音を発しながら、足の底は地上から浮き上がり、まるで流れる空気の層の上に乗っているかのように迫って来る。  伏せたまま青龍が衝撃波銃を撃つと同時に身を翻し立ち上がる。その横を朱雀の衝撃波が走り抜ける。  二度の波は、続けざまに人型の分厚い胸板にぶち当たり、鈍い響きを上げる。しかしその足は止まらない。さらには両の腕を二体のVCDVに向けてきた。  朱雀が、青龍がそれぞれに回避。だがその直後に二体を強烈な振動が襲った。  「これは……」  「衝撃波銃だと?」  同じ振動を受けて木津が言う。  倉庫棟の中には、残る武装ワーカー六両に加え、真寿美たちに向かったのと同じ人型四体が木津たちを待ち構えていた。  入口からの最初の一斉射でワーカーの一両を小破させた後、飛び込んだ由良が伏射でワーカー三両を沈黙させた。続いた木津と安芸がそれぞれワーカー一両ずつを撃破。さらに残る一両に木津がとどめを刺そうとした時だった。急に兆した嫌な感覚に白虎の腕を引くと、ワーカーの上に跳び、その頭を踏み付けるように蹴り倒した。バランスを崩し倒れかかったワーカーに、後方から鈍い響きが絡み付く。その途端、ワーカーの上体がひしゃげ、車が横転する。木津が感じたのは、この余波だった。  「仁さん、今のは」とそれに気付いた安芸。  「向こうも持ってきたらしいな」  「さっき峰さんが言ってきた人型ですね」  木津がコクピットでぽきぽきと指を鳴らす。  安芸が由良に呼びかけた。  「一体は任せます。ただしくれぐれも無理はしないでください」  了解の応えがぼそっと返る。  「お出ましだぜ」  木津の声に続いて、人型の分厚い躯体が四体揃って姿を現した。  「一つ多いな」  「仁さんにお任せします」  「ありがたくて涙が出るね」  人型の放った衝撃波を受け、銃を握った特一式の右腕がもぎ取られ宙に飛ぶ。  うろたえる当局の一隊に、衝撃波銃の仕込まれた腕を真っ直ぐに向けたまま、紫色の人型が迫ってくる。  無傷で残る特一式の一体が狂ったように発砲を続ける。それを援護していた饗庭に、焦燥の色を濃くした口調で指揮者が言った。言葉は命令だったが、ほとんど依頼に近い調子だった。  「MISSES機は相手車両の積極排除を実施せよ……」  独り言のような応答があった。  次の瞬間、玄武が特一式の脇をハーフになって走り抜ける。迫る人型がそれに気付いて、腕をハーフに向けて動かしかける。が、トリガーが引かれるよりも早く、再びMフォームに戻った玄武が地を蹴ると同時に右腕の「仕込み杖」を繰り出し、勢いに任せて人型の顔面に真っ直ぐ切っ先を突き刺した。  「仕込み杖」は人型の頭を突き抜けた。速度を落とすことも忘れた人型は、足だけが先に進もうとしてバランスを崩し、仰向けに倒れる。その胴体を蹴って、玄武は「仕込み杖」を引き抜きながら後ろに跳び上がり、着地と同時に衝撃波銃を人型の四肢に撃ち込んだ。  そして何事もなかったかのように元の位置に戻り、命を受けたときと同じく、独り言のように完了の報告を一言告げた。  正面に対峙した紗妃の青龍めがけ、厚い装甲にものを言わせて人型が襲いかかる。が、その間に後方を真寿美の朱雀が取り、ハーフに変形して追う。  紗妃は放たれる衝撃波を巧みにかわしながらもその位置を変えようとはしない。距離が詰まる。  人型の背後で、S−ZCのライトが一閃した。また放たれた人型の衝撃波を、青龍は真上への跳躍で回避し、左腕を人型の頭に向けた。トリガーが引かれる。  同時に撃たれたS−ZCからの衝撃波が人型の左足を捉えていた。のけぞりながら右に体を翻し、人型は倒れる。「仕込み杖」を伸ばしながら着地した青龍がその首許に一撃を加えて沈黙させた。  「決まった!」真寿美が思わす声を上げる。  「すごい戦法を知ってるんですね」  コクピットでの真寿美の微笑みは、返す言葉には似合わない静かさを帯びていた。  「これ、仁さんの真似です」  そして振り返ると、「中は?」  「残り一つ!」  由良がかなり難儀をしながらも相手を止めたのを見て、木津は改めて体勢を取る。  安芸が由良の機体を見て声を掛けた。  「損傷はどうですか?」  「問題ありません」という弾んだ由良の答えに、安芸は少し眉を寄せた。玄武の肩の装甲はゆがみ、動きは明らかに通常の自由度を欠いていた。  「無理しないでください。後はこちらで当たり……由良さん!」  安芸の言葉も聞かず、由良は遠巻きに動く最後の人型をハーフで追い始める。  「仁さん、由良さんのサポート願います」  「あいよ。んで進ちゃんは?」  「外の掌握に出ます」  「いってらっしゃい」  倉庫から飛び出た玄武に向けられた朱雀の左腕が、すぐに照準を逸らした。  「っとっとっと……安芸君?」  「状況は?」  「こちらは人型を一体擱坐させました」紗妃が答える。「乗員は機体内に拘束してます」  「了解です。当局の部隊は?」  「多分前の位置を保持していると思います」と再び紗妃が答える。  アックス4も? と訊ねようとして安芸は口をつぐんだ。そこに真寿美が口を挟む。  「人型が一つそっちに行ったけど、それっきりだからきっと片付いちゃってると思うよ」  安芸はマイクに向かって饗庭を呼び出した。むっつりとした応答が一言。状況の報告を請われると、口調を変えずに言った。  「目標一、大破擱坐。特一式の内行動不能二、小破一、以上」  肩をすくめながら安芸は了解の応答と現状保持の指示を出そうとした。が、聞こえてきた声にその唇が止まった。  「き、木津さん……」  「構うな!」  「仁さん?」真寿美も思わず声をあげた。  朱雀が、追って青龍が走り、倉庫に飛び込む。四つのライトが庫内を照らし出す。  そこには、壁を背に脇腹をえぐられた姿で片膝を着いた白虎と、反対側の壁際で立ちすくむ玄武、そして玄武に迫る人型。  玄武は回避する素振りすら見せない。  青龍の撃つ衝撃波銃はことごとく弾かれる。  朱雀が走る。しかし進路を阻む擱坐したワーカーの車体。それを蹴って赤い痩躯が跳ね上がる。そして真寿美の高い声が。  「間に合えっ!」  衝撃波銃が、通常とは違う響きを立てる。それに続いて鋭い破砕音と衝突音。  着地した朱雀が後ろに跳ね退く。メンバーがその向こうに見たのは、突っ立ったままの玄武と、その目と鼻の先で、首の横から脇の下にかけて串刺しにされ、壁に止められた人型だった。停止しなかった両足の浮上機構は串を軸に下半身を斜めに跳ね上げ、倉庫の壁に突っ込ませていた。  「仕込み杖を……投げたのか?」  木津のかすれた声に真寿美が答えた。  「撃ったんです、衝撃波銃に差し込んで。それはそうと、仁さん大丈夫ですか?」  朱雀がくるりと振り返る。  と、嗚咽とも呻きともつかない声がレシーバーに入った。  「ゆ、由良さん?」  「何があったんですか?」と安芸が問う。  「ちょいと照準が狂っただけさ」何でも無さそうな口振りで木津が答える。「あの人型にあおられてさ」  「誤射、ですか……」  「大したことはないんだが……」  安芸と紗妃が動きを見せない玄武から、見るからに深手を負っている白虎に視線を移す。  由良の声はまだ聞こえていた。 Chase 21 − 振り払われた涙  修理台に横たえられた白虎を一目見るなり、阿久津は顎に手をやってうなった。  「こいつぁあまた……何とも派手に抉りおったな」  「あんまり言うなよ」と木津。そして振り返る。そこに由良の姿はない。  「ああ、訳は聞いとる。それにしても」と阿久津はもう一度損傷箇所を見つめる。「正直な話、かなり危ないところだったぞお主」  「へ?」  「一番内側の防衝板まで飛んじまっとる。これでもうちょっと銃の出力が上がってたら、お主、コクピットと心中しとったところだ」  「……ほんと?」  「本当も真実も本気も真剣だ」  木津はシャワーの後の乾ききっていない頭をばりばりと掻いた。跳ねる飛沫を避けるようにして阿久津が言葉を継ぐ。  「こいつぁあますます由良君には言えまいて」  「まあ誰も言わないだろうがさ。本人の姿が見えないってのに、みんながみんな、まるで腫れ物に触るみたいな調子だぜ」  「ディレクター殿はいかがかな?」と皮肉な口調で阿久津が言った。  「さあな」と木津。「ま、おばさんが何を言おうが言うまいが、由良にはこたえるだろうけど」  阿久津は修理台のステップをゆっくりと上がりながら言った。  「こっちの領分じゃあないが、アックス・チームの戦力減も厳しかろうな。これで由良君がめげちまうと、後はやる気なしの饗庭の兄ちゃんだけになっちまうからな。安芸君も苦労が絶えんわ」  それを見上げながら、腕を組んだ木津が訊ねる。  「白虎も早いとこ修理してもらわないと、その穴埋めが出来ないしな。どの程度掛かりそうだ?」  損傷部分に突っ込んでいた首を引き抜いて、阿久津が答える。  「最優先でやっても一週間は掛かろうな」  「そんなに?」  「躯体部の結構深いとこまで来とるからな。ここまで来ると、部品の交換だけじゃ済まんのだよ。それにこいつみたいなワン・オフの車両にゃ、市販車みたいに交換部品のストックがあるわけでもないし」  「……一週間か」  「もっとも、あと修理せにゃならんのは由良君の玄武だけだっちゅうことだし、作業負荷はさほどじゃなかろうからな」  「玄武の方はどうなんだ? 現場じゃ相当いってるように見えたけど」  「予備調査させたところによれば、肩のユニットがいかれとるのと、あとは装甲のガタだけだ。乗員のケアに比べりゃ、遙かに楽な仕事だな」  木津は天井を仰ぐと大きく息を吐いた。  久我の執務室から詰所に戻った安芸は、由良の姿を探したが、大柄ではないががっちりとした体躯と、その上に載っている丸顔は見当たらなかった。  「由良さんどこにいるか知りませんか?」  訊ねられた饗庭は一言否定の答えを返しただけだった。  「そうですか……」  「ディレクターのお呼びですか?」  振り返ると、黒髪をなびかせて声の主が詰所に入ってきた。  「いえ、そうじゃないんです。ただ、どこに行ったんだろうと思って。紗妃さんは見かけませんでしたか?」  首を横に振りながら紗妃は腰掛けた。  「戻ってきてからは見てないです。でもディブリーフィング召集がかかれば……」  「ああ、それなんですが」と安芸が言葉を挟んだ。「今回は全員でのディブリーフィングはしないそうです」  意外そうな顔で問い返す紗妃と、わずかに反応を見せただけの饗庭を見て、つくづく対照的な兄妹だと安芸は思いながら言った。  「僕と峰さんとは話を聞かれましたけど。後は当局からの報告を待って、とりあえずはそれで済ませるみたいです」  「珍しいですね。出動後のディブリーフィングがないなんて、確かここに来てから初めてです」  「アックス・チームが出来てからでも初めてですよ」と安芸。「やっぱりこういう形しか採れないんですね、あの久我ディレクターでも」  紗妃が少し首を傾げるが、すぐに合点のいった顔になる。  「そうですね。全員集まれば集まったで肩身が狭いでしょうし、かと言って一人だけ外すのもなおつらいでしょうしね……」  その背後でいきなり饗庭が立ち上がり、二人には一顧をだに払わず、無言で詰所を出ていった。  「あれにも困ったものですけど」と紗妃。「アックス・リーダーとしては使いにくいメンバーでしょう? 兄貴って」  安芸は答えずに微苦笑して腰を下ろした。だが紗妃の目が答えを促すように注がれているのを見て、言葉を選ぶようにして言った。  「寡黙だから、時々コミュニケーションに困ることはあるにはありますけどね」  紗妃は天井を仰ぐと小さく息を吐いた。  件の由良が姿を現したのは、木津の立ち去ってしばらく後の作業場にだった。だが作業台には近付くことはなく、出入口の端から中を窺うだけだった。そしてその視線の先にあるのは、自分の乗機ではなく、誤射だったとはいえ自分が傷付けてしまった白虎だった。  作業者は黙々と白虎の周囲で立ち働いている。彼らの話し声から白虎の損傷状況を伺い知ることは出来なかった。しかしそれでもなお由良は白虎を見つめ続けた。抉られた脇腹に視線が届いたとき、由良の目にはその場面が浮かんだ。  残る一体の人型に向けて衝撃波銃の銃口を向けたハーフのG−MB。人型は遠巻きに牽制の挙動を続けた。と、その両腕の銃口がG−MBと、同時に白虎にも向けられた。反射的にトリガーを引いた由良の指。人型は自らは撃つことなく回避し、そこから猛然とG−MB目がけて突っ込んできた。  白虎が銃撃を始めた。それを避けつつ、人型が撃つ。同じく回避しつつ由良が再びトリガーを引いたその時だった。無理の生じていたG−MBの左肩がコントロールを失って大きく横に振れた。衝撃波の発する銃口は、白虎へと向いていた。  木津がG−MBの異常に気付いたのは、白虎の躯体が抉られる衝撃を感じてからだった。バランスを失う白虎に辛うじて膝を突かせ、転倒だけは免れると、木津はG−MBを見た。その左腕は、自らの放った衝撃波の反動で肩先からぐらぐらと揺れ動いている。  G−MBの顔が白虎に向いた。  コクピットの由良は目の前の事態をすぐには呑み込めないようだった。  「き、木津さん……」  「構うな!」  そこまで思い出すと、由良は目を固く閉じて頭を横に振った。と、肩に置かれた手に、由良はびくりと大きく体を震わせた。  振り向くと、阿久津がいつもと何ら変わりない口調で話しかけてきた。  「そんなとこから覗いとらんで、入ってくればよかろうに」  由良は阿久津の表情を見ることが出来なかった。目を伏せたまま、うわずりながらこう答えるのがやっとだった。  「いえ……いいんです」  阿久津の片方の眉が少し上がる。  「お主の玄武なら、明後日にゃ修理完了しとるぞ。心配無用」  由良は何も応えず、曖昧な表情を浮かべ、それに気付いた阿久津はもう一度眉を動かしたが、本当に由良が訊きたかったのであろう白虎の状況については何も触れなかった。  しばらくしてから、絞り出すような小声で一言礼を言うと、由良は足早にその場を立ち去った。  残された阿久津はその後ろ姿を見ながら一つ息を吐いた。  「お呼びですか?」  真寿美が執務室に入ると、珍しく久我はデスクで手を止めていた。その視線がゆっくりと真寿美に向けられる。  「安芸さんと由良さんをここに呼んでください」  そんなことか、と真寿美はやや拍子抜けな面持ちだったが、すぐに久我の意図するところを汲み取った。  「由良さんは帰ってきてから誰とも顔を合わせてないみたいです。探してこなくちゃ」  久我は答えずにカップのコーヒーを飲み干した。それに気付いて真寿美はおかわりの要否を訊ねるが、久我はそれに問いで返す。  「あとどの位残っていますか?」  「えっと……あと四杯分です」とコーヒーメーカーをのぞき込みながら真寿美が答える。「入れ替えますか?」  「二人との話が済んでからお願いします」  「分かりました」  一礼して真寿美は部屋を出ていく。  ドアが閉じると、久我はデスクの上に視線を戻した。そこには阿久津が出してきたB−YCの修理見積書が開かれている。  もう一度久我はそのページを繰った。木津が聞いたのと同じく、そこには修理に要する期間が一週間と記されている。さらに、続けて今回の件で明らかになったB−YCの構造上の不備についても何点かが挙げられている。  久我は目をゆっくりと閉じると、安芸と真寿美から聞いた話を思い出していた。今度の人型は、前のものよりもはっきりと性能が上がっていると感じられる。二人は口を揃えたようにそう言っていた。  開発のペースが上がってきている。VCDVに匹敵する機体を出してくるのも時間の問題だろう。それは即ちあの人との……  久我は自分自身でさえ気付かない程に小さく、一つ息を吐いた。  それから間もなく、インタホンから声が聞こえた。  「安芸です。入ります」  今日二度目のこの部屋に入った安芸は、促されるままにソファに座ると、そのまま待つようにとの久我の言葉に、あと誰が呼ばれているのかを察して、黙って頷いた。  久我はデスクで資料に目を通し、また作業用のディスプレイ・スクリーンの中を何やらかき回している。その様子を眺めるともなく眺めながら、黙ったまま安芸は待った。そしてこれから久我の切り出す内容に想像を巡らせようとした。この組み合わせで呼び出されれば、普通は叱責なのだろうが、久我ディレクターの場合それは考えにくかった。でなければ誤射の件の事情聴取だろうか? それもまた可能性は薄かった。だったら……  安芸からほとんど十分近く遅れて、インタホンから声が聞こえた。ごくごく小さく、そしてぼそぼそとした声が。  「……由良です」  「お入りなさい」という久我の応答は、間髪を入れずに発せられた。その口調は決して厳しいものではなかったが、しかし聞く者に有無を言わせぬような響きを帯びていた。  ドアが開き、安芸が視線を移す。  憔悴し切った表情の由良は、決して大柄ではないその体を一層小さくして入ってきた。  視線は中にいる二人のどちらをも捉えない。  だが気にした様子もなく久我は掛けるように勧めた。  わずかに上げられた由良の目はソファを見、そして安芸の隣に小さくなって座った。  作業に一区切りを付けた久我がゆっくりと立ち上がり、二人の方へ歩み寄る。その手には資料も何も携えられてはいない。  腰を下ろすと、前置きの一つもなく久我は切り出した。  「来ていただいたのは、アックス・チームの編成に関してのお話のためです。今回、アックス・リーダーを安芸さんから由良さんに引き継いでいただこうと思います」  安芸の想像をも完全に超えていたこの言葉に、思わず由良も頭を上げた。  「え……?」  かすれた由良の声が、辛うじてそれだけを言う。  久我は繰り返すことなく、よろしいですねと同意を求めただけだった。  安芸は了解の意を告げる。その横顔に由良の視線が向けられた。  それに気付いて安芸が由良の顔を見返す。その表情は既に全てを納得しているかのようなものだった。  一人取り残されたような焦燥を覚え、思わず由良は口を開いた。  「どういう……ことなんですか? 安芸リーダーの代わりに、私が、なんて、何故なんですか? それも、こんなことの後に……」  「ローテーションです」  簡単にそう久我は答えた。  「でも……でもそれだったら、派遣人員の私より、LOVEの正社員の饗庭さんが……」  久我は殊更口調を変えることもなく言う。  「饗庭さんはあなたよりMISSESでの経験は短いです。それを考えれば、ローテーションという意味であなたが任に当たるのが妥当だと思います」  開きかけた口を閉じながら、由良はうつむいた。その様を無言で見つめていた安芸が久我に視線を向けると、再びはっきりと了承の意を告げた。  なおも顔を上げない由良に、久我がゆっくりと目を向け、そして問う。  「由良さんもよろしいですね?」  応えはない。顔も上げられない。  久我は静かに待った。  優に一分は続いた沈黙を、ほとんど聞き取れないほどにかすれた由良の声が破った。  「……務まる、でしょうか?……私に」  と、不意にその顔が上がり、声が大きくなる。  「僚機を撃って損傷させた私に、指揮官が務まるでしょうか? 務まるんですか?」  この豹変にも久我は全く態度を変えぬまま、静かに訊ねた。  「あなたは、ご自分が当局の指揮官に何とおっしゃったかご記憶ですか?」  この問いを聞いて合点のいった表情をした安芸の横で、問いかけられた当の由良はやや呆然とした様子でいる。唇は動かない。  久我が静かに続けた。  「任務中の被害は、出動中の各員がその責を負う。だから指揮官の責任問題が任務遂行の妨げになることなどない。そう言われたはずです」  由良の唇が肯定の言葉を返すかのように微かに動いた。  「そのように言えるならば、MISSESのリーダーとしての基本的な姿勢はご理解頂けているものと思います」  由良の喉が動く。  久我は口調を変えずに言った。  「では、次回の出動時から由良さんにアックス・リーダーをお任せします」  由良は久我の顔を、半ばすがるような表情で見つめていたが、やがてその首が、うなだれるかのように縦に振られた。  「……分かりました」  安芸がその言葉に一つ小さく息を吐いた。  久我の決定を安芸から聞いた饗庭は予想通りに簡単に了解の応答を返しただけだった。その分の補填をしようというわけではなかっただろうが、木津が反応を示した。  「へえ、ローテーションねえ。進ちゃん、アックス出来てどのくらいになるっけか?」  「今年で喜寿ですね」  「おいおい……」  安芸と共に詰所に戻っていた由良は、しかしこの台詞にも笑うことはなかった。もっとも安芸自身は笑わせるのが目的の単なる冗談で言ったつもりではなかったが。  木津は冗談のつもりで続きを始める。  「そのペースでローテーションしてたら、饗庭兄ぃには順番が回ってこないじゃないか」  「サイクルが米寿に伸びたらどうします?」  「よせって」  「どっちにしても、仁さんには回りませんよ」と、微笑を帯びた視線を木津に投げると、安芸は言う。「仁さんは単独で動き回る方がきっと合ってます」  「そうかね?」やはりにやりとして、煙草を一つ大きく吹かす木津。「それ、俺がわがままだとか言ってるか?」  「違うんですか?」  「し、失敬だな君は。そんな風に言われたのは、生まれてこの方」急に真面目な口振りになって木津は言う。が、ここまで言って声が小さくなった。「……数百回」  「ほら」  「ま、まあそれは置いといてだな、いつから交代なんだって?」  由良の方を見てから安芸は答える。  「別段引き継ぎもありませんから、今度出動命令があった時、ですね、事実上は」  「なるほど……しかし、その次回がいつになるやら」  「そういえば最近『ホット』の直接指揮のケースも無くなりましたね」  「昨夜はそれらしい話だったんだけどな」  「木津さん」  思いも掛けなかった声に、木津と安芸、そして由良までが振り返る。  声の主は表情の感じられない視線を木津に注ぎながら、再び口を切った。  「私怨、なんですか?」  「あ?」  沈黙。  「木津さんが『ホット』を追うのは、私怨が理由なんですか?」  再び、沈黙。  木津は煙草をもう一度大きく吹かすと、  「それがどうしたい?」  饗庭は無表情のまま木津の顔を見据えている。それに同じく表情を出さない視線で応じると、唇に小さくなった煙草をくわえたまま  「私怨さ。それも混じりっ気なしの」  そう木津は繰り返した。  「そうですか」と何らの変化も見せずに饗庭が言う。  「そうです」と負けずに木津。  と、ドアが開いてお馴染みの短躯が駆け込んできた。  「由良さん、アックス・リーダー就任ですって?」  雰囲気の急変に戸惑ったこともあって、由良はそれに曖昧な返事を辛うじて返した。  それをものともせず、真寿美は居合わせた全員をぐるりと見渡すと、  「それじゃ、今晩飲みに行きましょう」  「乗った」間髪を入れない木津の返事。  「由良さん、まさか下戸じゃないですよね」  安芸に問われて、うっかり由良は答える。  「いえ、飲めます」  「これで四名確定」  「あ、あの……」  だが、「あれ?」といった安芸の表情に、出かかった言葉は引っ込んでしまった。  「饗庭さんはどうします?」  途中だった話を中断されても変わらなかった無表情は、辞退を告げる時も同じだった。  「え〜、どうしてですか?」  追い打ちを掛けられて、初めて饗庭の頬に表情らしきものが浮かんだ。それはどちらかと言えばよからぬ気分を表しているかに見えなくもなかった。  「当直に残ります」  そう聞いて、真寿美はあっという顔をする。  「峰さん、まさか忘れてた?」  「え、えーとね……えへへへへ」  左右の安芸と木津から同時に小突かれて、真寿美は悲鳴を上げながら跳び退る。  思わず笑いを誘われながらも、由良は生真面目な口調を崩さずに言う。  「だったら私が残ります。リーダーを任されて、最初からそういうことでは……」  「平気平気」木津が言う。「昨日の今日だぜ。向こうだって練り直しに暇を喰うだろうし、それにとりあえずは当局に任せとけばいいさ」  「特一式は半数が稼働不能です」  「由良の玄武だって入院中だろ?」  口ごもる由良に木津が追い打ちを掛ける。  「それに今日の当番は、まだ指示が出てないんじゃないか? それで白羽の矢が立たなきゃいいのさ。なあ、元リーダー」  安芸の賛同を聞くと、当の由良の言葉も待たずに真寿美が詰所を出ていく。  「それじゃ、ディレクターに確認を取ってきます」  「姫にも声掛けとけよ」  「はい!」  上目加減に真寿美の背中を見ながら、由良は短く息を吐いた。  「しかし、もしかして、おばさんは狙ってやってんのか?」  木津の言葉に、安芸が肩をすくめながら  「まさかとは思いますけどね」  「どっちでもいいですけど」と箸を持ったまま紗妃。「でも、いいんじゃないですか? どのみち兄貴はこういうところに来ないでしょうし」  「あ〜、紗妃さん冷たい〜」早くも酔いが回り始めたような真寿美の台詞に笑わなかったのは、隅の方でただ呑むばかりの由良だけだった。  それを見とがめて、真寿美が  「あ〜、由良さんはのりが悪い〜」  「誰だ、こいつにこんなに飲ませたのは?」と言う木津に、安芸が返して  「仁さんでしょう?」  苦笑いしつつ、木津は由良にけしかける。  「ほれ、真寿美に負けずに行け行け!」  何も言わずに手元の杯を干し、再びそれが満たされると、由良は一気に呷った。  紗妃がその様子を見て、あらためて言う。  「すごい飲みっぷりですね」  そして串焼きを一本つまみ上げると、口に運んだ。  「そう言う姫は結構な喰いっぷりじゃないか」と木津。「よくそれで太らないよな」  「あたしなんて、食べたって背が伸びないんですよぉ」真寿美が言って、一名を除く一同の失笑を買った。  「あ〜、由良さんやっぱりのりが悪い〜」ぷっと膨れて見せてから、「そういう人には、アルコール追加っ!」と、干された由良の杯をなみなみと満たす。  それをまた一気に干す由良。  「お見事〜」と真寿美が拍手する。しかしそれに反応を返さず、由良は無言のまま立ち上がり、座を離れた。  その姿が洗面所へと消えるのを見て、木津が口を切った。  「真寿美、おまえ今日の趣旨忘れて楽しんでるだろ?」  「はぇ?」と妙な口調で返事をすると、ぶるぶると首を横に振って、「そんなことないですよぉ、由良さんにしっかり飲ませてるじゃないですかぁ。趣旨を忘れてるなんてことないですもんないですもんないですもん」  そう言いながらまた首を激しく横に振る。と、いきなりその小さな上体が傾き、軽くえずいた。  「姫! 任せた!」  「はいっ!」  紗妃に肩を支えられて由良の後を追う形になった真寿美の背中を見ながら、今度は安芸が口を切った。  「やっぱり、本人の反応が今一つですかね」  「……かな」  「由良さん自身が『趣旨』を承知していないとは思えないですから、なおさらなのかも知れませんね。もっとも、閉じてしまって欲しくはないですけれど」  「閉じる?」  「思い込みが激しいタイプですからね、由良さんは」  分かったような分からないような顔で、木津は新しい煙草に火を着ける。  天井目がけて、一筋の煙が吐き出された。  安芸の言葉通り、由良はこの宴会の本当の「趣旨」を承知していた。そして半ばありがたく思いながらも、気持ちのもう半ばを占めるものを覆い隠すことが出来ないまま、いや、むしろそちらの方が大きくなっていくのをはっきりと感じながら、洗面所の個室の中で立ち尽くしていた。  あれだけのペースで飲んでいながら、酔いは一向に回って来なかった。  壁に囲まれた狭い空間で、目を閉じて頭を垂れると、由良は長く息を吐いた。それに導かれたかのように、豊かな頬を涙が伝った。  それを振り払うと、せめてこの場くらいは、自分の中で大きい部分を占める想いを抑え付けておこうと決めた。こうやって自分を救い出そうとしてくれている同僚たちのために。  由良は頬を拭うと、もう一度息を吐いた。  「お、主役がお戻りですよ」  素面の時同然の慧眼ぶりを発揮して、安芸が木津に告げた。  振り返った木津が言う。  「そんなに大量に吐いてたのか?」  「嫌なこと言わないでくださいよ」と返す由良の顔には笑みが浮かんでいる。「ところで、女性陣の姿が見えませんが?」  「本当に吐きに行ってます、峰さんが」  「ハイペース過ぎですよ、峰岡さん」  「そういう由良さんだって」  と、紗妃が重たげな足取りで戻ってきた。  「あれ? 真寿美は?」  すると、紗妃は苦笑しながら答える。  「ええ、気分が悪いのは大丈夫だったんですけど……」  「けど?」  苦笑のままの紗妃の視線が背後の足下に向けられる。男たちがそれに倣うと、視線の先で真寿美が紗妃のスカートの裾をつかんでしゃがみ込み、何やらむにゃむにゃとつぶやいていた。  「半分眠っちゃってるんです」  「出来上がり第一号かい」  同じく苦笑いしながら、木津は真寿美に近付いてその肩を揺すった。  「起きろ酔っぱらい!」  寝ぼけた猫のような声を少し上げただけで、真寿美は立ち上がる気配も見せない。  「しょうがねぇなぁ」  木津は真寿美の背後に回ると、立たせようとしてその両脇に腕を差し入れ、体を持ち上げた。  その途端、  「うにゃあああああああああ!」  奇妙な大声を上げながら、真寿美が両腕をぐるぐると振り回した。左の拳が咄嗟に屈んだ紗妃の頭上で空を切り、右の拳は猛烈な勢いで木津の脳天を直撃した。  思わず声を上げる木津。見ていた安芸と由良が揃って吹き出す。  「笑い事じゃないぞおい……っつ」  殴られた頭をさすりながら、木津は一つ息を吐いた。  翌朝。  さえない顔でコーヒーを運んできた真寿美の匂いに気付いて、久我が声を掛けた。  「二日酔い?」  「……みたいです。全然記憶はないんですけど、頭が痛くて……」と、一つ息を吐く。  同じ頃、MISSESの詰所では、頭痛を訴える木津の頭を安芸が触っていた。  「……立派に瘤になってますね。でもこれは普通頭痛って言わないでしょう?」  それには答えず、木津はつぶやいた。  「神経のギプスが外れるかと思ったぜ。真寿美の奴、後でお仕置きしてやる」  そして煙草の煙を交えて一つ息を吐く。  そこに顔色のよくない上に目を真っ赤にした由良が入ってきた。一目見て安芸が訊ねた。  「どうしたんですか?」  「え?……ああ、ちょっと寝不足気味で頭痛がするだけです」と、一つ息を吐く。  宴会が引けて後、抑え付けていた想いが反動のように思考の表に立って、それ故に眠れなかったのだった。  そしてもう一人、この三人とは違った意味で頭を痛めつつ息を吐いている人間がいた。 Chase 22 − 解かれた指  その日の午前中、二度目に久我の執務室に入ってきた真寿美は、コーヒーのポットが既にほとんど底を突き掛けているのに気付いて、重い体をコーヒーメーカーの載る小テーブルの前へと進めた。  まだ頭痛のさめきらない真寿美ははっきりと意識しはしなかったが、午前中だけでポットが空になるということは、今までにはなかったことだった。  ドリップのコーヒー殻を払う真寿美に、久我は暫時席を外す旨を告げて立ち上がった。  「はい。すぐお戻りですよね?」  「はい」と答えながらドアの前まで進むと、そこで久我は立ち止まり振り返った。  「具合が良くないのなら、午後から帰っても構いません」  思いがけない言葉を聞いて、真寿美は手元を狂わせる。ミルに入るはずだったコーヒー豆が床に散らばり、ばらばらと音を立てる。  「あっ……ちゃぁ……す、すみません」  そんな真寿美に、久我は静かに同じ言葉を繰り返した。  「い、いえ、大丈夫です」  真寿美は床のコーヒー豆を追っていた視線を久我の顔へと移す。そこに真寿美が見たのは、予想していたいつもの淡々とした表情でも、また不機嫌さの影でもなく、むしろ奇妙なまでに穏やかな顔だった。  自分の顔を見つめる真寿美にそれ以上は何も言わず、久我は執務室を出ていった。  真寿美もそれ以上は考えずに、こぼした分の豆をミルに追加して、スイッチを押した。カッターの回る音に導かれるように、芳香が立ち上ってきた。  医師がライトを消す。それが合図ででもあったかのように、横たわっていた木津は体を起こすと、ものものしい検査機器の中をくぐり抜けて来た。  「お疲れさまです」と医師。「結果は十分もあれば出ます。よろしければそちらでお待ちいただいても結構ですが?」  「ああ、そうさせてもらうよ」と伸びをしながら木津。が、その表情が曇った。「で、言い忘れてたんだが、一つ気がかりなことがあってさ」  医師の眉がひそめられた。  「何か自覚症状がおありでしたか?」  「自覚症状と言うわけじゃないんだが……実は」  木津はそこで言葉を切った。  「……いや、結果を見てからにしよう」  医師の表情に落ちた不安の影は、それを聞くと一層濃くなった。  神妙な面持ちで検査室を出ていく木津を見送ると、医師は検査機器の裏側に回り、資料の吐き出されるのを待った。  一方の木津は、隣の部屋に入って丸椅子に腰を下ろすと、場所柄煙草を吹かすわけにもいかず、手持ち無沙汰そうにドアを見つめている。やがてそのドアが開いて、資料を手にした医師が入ってきた。その足取りはどことなく不安げなものに思われもした。  「木津さん、まさかと思いますが……」  木津がゆっくりと頷くのを見て、医師は資料をライトボックスと机との上に広げた。  ライトボックスのスイッチが入れられると、そこには木津の頭部が浮かび上がった。  医師がペンの先でその上の一点を指した。  「瘤、ですか?」  「ああ、昨夜真寿美にしこたま殴られた」  「……先に申し上げておきますが」と、淡々とした口調で医師は言った。「検査上、何ら問題はありませんでした」  と、木津が表情を一変させる。その頬には神妙さに代わって悪戯する子供のような笑みがあった。  「ま、そうだろうな。ただ、殴られた時に、例のギプスが外れたらどうすると言っちまった手前、一応は確認しておこうと思ってさ」  医師もつられたように笑う。  「つまりは冗談、と」  「ま、そういうこと」  医師は今度は机の上の資料から一枚を抜き出すと、その中の図を指し示して口を切ろうとした。が、インタホンからの女の声がそれを遮る。  「久我です」  医師と木津は思わず顔を見合わせる。  「お邪魔してもよろしいですか?」  俺がここにいるのを知ってる口振りだな、と思いながら、木津は問い掛けるような医師の視線に頷き返した。  「どうぞ」と医師。  ドアが開く。入ってきた久我は、座っている二人の横に真っ直ぐ進んだ。  医師が脇から椅子を引き出して勧め、久我は礼を言いながら腰を下ろす。  「検査はお済みですか?」  医師は今しがた木津に見せようとした資料を、久我と木津の間に広げ直し、再びペンを取った。  「今木津さんに説明しようとしていた所だったのですが……」と切り出すと、図を指し示して簡潔に説明をした。曰く、木津の言うギプス、即ち傷痕に喰い込んだ小片を固定する充填剤のひけは、当初の予想をやや下回っており、このペースが保たれれば、次回の施術は予定の三カ月以上先になるであろう。  「そいつぁ重畳だね」と木津。「ただ、俺としては」と、その目が久我に向けられる。「早いとこその追加の手術をしなくて済むような体になりたいんだがね」  「間もないうちに、ご期待に添えるものと思います」  「本当か?」と、半分以上は信じていない口振りの反応を返す木津。「今まで、出ていくたびにスカだったり影武者だったりだったからな。それとも、向こうも影武者の役者が尽きたかい?」  机の上の資料をかき集め、ライトボックスのスイッチを切ると、医師は何も言わずに席を外した。ここからの話は自分の領域外だと言うような態度だった。  わずかの間そちらに向けられていた久我の目が木津の方へ戻された。  「間もなく『ホット』の側から何らかの行動を起こして来るであろうことは間違いありません」  木津は無意識のうちにポケットに煙草を探る自分の手に気付いてそれを止め、言った。  「確か前に、あんたは『ホット』が何かやらかす前には結構な空白の期間があるもんだと言ってなかったか? その段で言えば、昨日の今日おっぱじめてくるってことはないだろうに」  「今日明日中にとは言いません」と久我が切り返す。「しかし、今度は決して長い期間をおくとは考えてはいません」  木津の片方の眉が上がった。  「考えていない? それはあんたがか?」  久我の表情は変わらない。  「そうです」  「どの程度当てにしてていいんだかね」  「これまでの出動で随分失望されてこられたことは重々承知しています。しかし、あなたの存在が『ホット』に対して相当のインパクトを与えていることもまた事実です」  「持ち上げるなよ」あまり愉快ではなさそうな顔で木津。しかし言葉を返さない久我の目を見て、この女がそんな意図で言葉を発するような人間ではなかったことに改めて思い至った。  「それは……俺がいるから、ってことか?」  「B−YCに搭乗しているのがあなたであることは、あちらも認知していると思います」  「で、奴の目的が何であれ、その邪魔をするのに一枚かんでるのが俺だってことが、奴を焦らせてる、と言うんだな?」  「そうです」と久我は頷いた。「あちらの目的が何であれ」  久我の今の切り返しに、ふと思い付いて木津は訊ねた。  「そう言えば、奴の目的ってのは一体何なんだ? 考えてみたこともなかったが」  「何故お考えになられなかったのですか?」  思いがけない久我の問い掛けにわずかに浮かんだ不審の色は、すぐに冷笑に取って代わられた。  「決まってるじゃないか。奴の都合なんか関係ないからさ」  久我は音もなく立ち上がって言った。  「結構です」  そして呆気にとられている木津を振り返ることもなく、部屋を出て行った。  「って、おい、俺の質問はどうなったんだよ?」  あの人の目的……  執務室への途を歩きながら、久我は木津の問いを思い返していた。  あの問いに答えられはしない。あの人の今の行為に、目的など存在しないのだから。あの人はただ自分を駆り立てる動機に闇雲に身を任せているに過ぎない。  その時、何の前触れもなく、阿久津の言葉が脳裏をよぎった。  「だが方向は違うとは言え、ディレクター殿のやってることは、実際のところ、あちらさんと大差ないのではありませんかな?」  久我の顔色が変わった。誰かが居合わせたならそれに気付いたであろう程に。が、緩んだ足取りを元の速さに戻し、額に掛かる髪を払いのけるように仰向けた頭を軽く振ると、久我は部屋への途を急いだ。  私のしようとしていること、していることは、あの人と同じなどではない。私には、少なくとも目的はある。あの人とは違って。  そう胸中で言う久我の足が、今度は完全に止まった。  あのことは、「目的」なのだろうか? 行動の方法に多少の違いがあるだけで、阿久津主管の言う通り、私も「動機」だけで動いているのではないのだろうか?  職員の一人が頭を下げながら久我の脇を通っていく。それで我に返った久我は、もう一度頭を軽く振ると、再び歩を進めた。  今になってどうこう考えるべきではない。もうここまで進んできたのだから。しかし、あの程度のことでこれほどに動揺するとは、私もまだどこかしら甘い部分が残っているらしい……  それ以上は考えることなく、久我は執務室へ戻った。  扉が開くと、まだ真寿美がそこにいて、散乱したコーヒー豆を探すのに躍起になっていた。他人には決して気取られないような微苦笑を一瞬だけ浮かべると、久我は真寿美に適当なところで切り上げるようにと声を掛けてデスクに腰を下ろした。  インタホンから、いつもとは違ってやや重い声が聞こえてくる。  「峰岡です」  木津が応えると、静かにドアが開いて、真寿美が入ってきた。  「おはようございます」  「ちっす」と、ベッドの上で上体を起こし、敬礼よろしく額の脇に添えた右手をぱっと前方に払って見せると、木津は言った。  「二日酔いの具合は……って、聞くまでもないな、その顔は」  「そんなにひどい顔してますか?」真寿美は両の掌で頬を覆って言う。「ディレクターにも言われたんですよ、調子悪かったら帰ってもいいって」  「いいとこ幸いで帰っちまえばいいのに」  苦笑しつつ、真寿美は言う。  「そう言えば、仁さん今朝は検査だったんですよね。どうでした?」  「ああ、何の問題もないどころか、むしろ順調だったらしい」  そこで一旦言葉を切って、真寿美に腰掛けるよう促し、真寿美がそれに従うと再び話し始めた。  「昨日作ってもらったたんこぶも影響はなかったしさ」  「たんこぶ、ですか?」  「……覚えてないか?」  「え、え、え、え? 作ってもらったって、まさか、あたしがですか?」  狼狽する真寿美に目を細める木津。  「ご、ごめんなさい! 全然覚えてないですけど、ごめんなさい!」  「あ、頭は下げるな。また気分悪くなるぞ」  言いながら木津は片手を伸ばし、いつもの勢いで下がってきそうだった真寿美の額を押さえて止めた。  「で、その話を聞いてる最中におばさんが押し掛けてきてさ」  木津の手を離れて上げられた真寿美の顔には、「あれ?」という表情が浮かんでいる。  「あ、あの時仁さんの所に行ったんですね」  「でさ、近いうちに『ホット』とのけりを付けるようなことを言ってったんだけど、何かそんな兆候ってあったか?」  また「あれ?」という顔の真寿美。  「……いいえ、そんな感じは全然なかったですけど」  「そりゃそうか」と木津が言う。「おばさんがそんなバレバレの態度なんか見せるわけないよな」  「あ、そう言えば」  「ん?」  「全然関係ないかも知れませんけど、今日、コーヒーの売れ行きがよかったんですよ。一時間半で完売でした」  「いつもに比べて上手く入れられたとかじゃないよな?」  「そうじゃないと思いますけど」  「……関係なくはなさそうだな」  「仁さん、探偵か何かみたいですね」  「それじゃ、次の商売は探偵にするか」  「次の?」  木津は小さく笑って言った。  「奴とのけりが付けば、俺がここにいる理由もなくなるしな」  はっとした真寿美は、少しうつむき加減でぽつりと言う。  「そう……なんですね」  「ん?」  再び上げられた真寿美の顔には、微笑が浮かんでいた。  「考えてもみませんでした、終わった後のことなんて」  「実を言うと俺もそうだ」  木津は例の溶けかけたようなパンダのキーホルダーを摘んで胸のポケットから白虎のカード・キーを引っ張り出すと、くるくると振り回した。  「今までそれしか考えてこなかったからな」  真寿美は無意識に目を机の隅に向ける。あのポートレートはまだ同じ場所に伏せられていた。  ややあって、木津が自分の視線を追っているのに真寿美は気付いた。  「どうした? 黙り込んじゃって」  「あの、仁さん?」  「ん?」  「えっと……あの、ですね、もし、もしですよ? もし『ホット』のことが無事に終わったらなんですけど……」  「無事には終わりそうもないか?」ごく穏やかに木津が口を挟んだ。「まあ、向こうも自分の命が掛かってると分かれば、そういうことになるかも知れないな」  話の腰を折られて、真寿美は寂しげに笑いながら言う。  「そんなこと言わないでください」  「もしを連発したのはそっちだろ?」  「そういう意味じゃないんです。仁さんは絶対無事に一件落着まで行けます」  「んじゃ、どういう意味だ?」  「……その後のことです」  真寿美の視線が、また裏返しのポートレートに向けられる。今度は木津もそれにはっきり気付いていた。  真寿美は視線をそのままに、なかなか続きを切り出そうとしない。  先に言い出したのは木津の方だった。  「見たんだよな? それ」  視線を床に落とし、顔だけを向き直らせた真寿美は小さく頷いた。  木津も先を続けなかったが、それは真寿美とは違って、言うべき言葉を探すのに手間取っているといった様子だった。  ようやく開かれた口から出てきた、表情を消した台詞はこうだった。  「……もういない奴だけどな」  「……知ってます」  「そうか……」  真寿美は一度閉じた目を開いて、木津に向けた。その顔は真剣なものだった。  「だから、協力します。『ホット』のこと」  「ああ……悪いな」  「そんなこと言わないでください」と真寿美が繰り返した。「あたしが今出来るのは、それだけですから……今は」  木津は薄い笑みを浮かべると、言った。  「ありがとう」  真寿美は黙って首を横に振った。  「で、その後の話は……」木津がそう言いさすと、真寿美がそれをかき消すように、  「みんな終わってからにしましょう」  「それでいいのか?」  「はい」  応える真寿美は笑っていた。  結局その日が終わるまで勤務を続けた真寿美は、終業の時刻にまた久我の執務室に顔を出した。  「帰りますけど、何かありますか?」  「特にありません。お疲れ様」  そう応える久我の声がややかすれているのに真寿美は気付いた。  「えーと、コーヒーはまだありますか?」  その午後も、真寿美は都合三度コーヒーを入れ替えていた。  「ええ、大丈夫です。それより、自分の二日酔いの方を気になさい」  真寿美は舌先を覗かせて苦笑いをする。  「それじゃ、お先に失礼します」  部屋を出て行く真寿美の背中が閉じるドアに遮られて見えなくなると、久我はカップの底に残ったコーヒーを一気に呷り、長い息を吐きながら作業中の画面に目を落とした。  が、それもほんのわずかの間だけで、久我はカップを手に立ち上がると、コーヒーのポットの前に立った。  注がれるコーヒーはやわらかな湯気と共に芳香を立ち上らせていたが、久我はもうその香気は感じてはいなかった。ただ機械的にコーヒーを胃の中に流し込んでいる、といった感じでさえあった。  デスクに戻ると、今度もまた味も何も感じてはいないかのようにカップを傾ける。そして視線はさっきまでと同じく、作業中の画面に注がれた。  その画面には、わずか数行の文章が記されている。いや、正確には、書かれているのは車両の型式記号とアドレスで、文章は一行だけだった。その文章を、昨日からもう何度目になるか分からないが、久我は目で追った。  『どこから攻めるも貴女次第です。結果はいずれにしても同じだと予め申し上げておきますが。』  久我は机に肘を突き、片手に額を埋めた。  これ以上何を迷うことがあるのだろう? 私はこの時をずっと望んでいたのではなかったか? いつか必ず終わらせなければならないと思っていたことではなかったか? もう戻ることは出来ないのだから。  頭の中でそれに続く「しかし」を、無理矢理久我はかき消した。  と、その時インタホンから声がした。  「ディレクター殿いるかい?」  久我は顔を上げると、空になった右手で画面の表示を切り替えた。  「どうぞ」  声の主の木津が入ってきた。  「忙しいか?」  「構いません」  木津はソファの方へ行きかけて、訊ねた。  「コーヒー余ってるか?」  「どうぞ」と応えながら、真寿美にも同じようなことを言われたのをふと久我は思い出した。そして自分のカップを手に取ると、自分もソファへ向かい、木津が腰を下ろすのを待った。  木津は客用のカップに半分だけコーヒーを注ぎ、もう半分をミルクで満たして一口すすってからようやくソファに腰掛けた。  久我は黙ったまま木津が口を切るのを待っている。その様子をちらりと見ると、木津はカップをテーブルの上に置いた。そして口調はいつも通りのままで、  「二つほど訊いておきたいことがあってさ」  「何でしょう?」と応える久我の口調もそれに劣らぬほどの平静さを保っている。  「まず一つ目。今朝のあんたの話の根拠を知りたい」  「今朝の、とおっしゃいますと、近日中にあなたの最終目的は達せられるであろうと申し上げたことですか?」  「その通り。何でああまではっきり言いきれるのかが知りたくてね」  「そしてもう一つは?」  「いや」木津は首を横に振った。「一つ目を聞いてからにしよう」  久我の視線がテーブルに置かれたカップに落とされる。その手が静かにカップを口許へと運ぶ。  「当局が内応者の調査を始めたのはお話し申し上げたと思います」  「ああ、ずいぶんと前にな」  「その結果が徐々に出始めています」  「そいつぁちょっとばかり安易すぎるんじゃないか?」と木津が冷笑に近い表情を見せながら言った。「締め上げたら簡単に吐いたってのは無しだぜ。その程度の連中が、当局の根っこまではまり込んでバレずにいられるはずがないじゃないか」  「その通りです。内応者個別の取り締まりの結果という意味ではありません」  「それじゃあ、どういう意味での結果なんだ?」  「『ホット』はこの調査以来、当局という重要な情報源への足がかりを失いつつあります。それによって行動が起こしにくくなってきているわけです」  「堀が埋まってきたんで浮き足立つだろうって話か……結構気の長い話じゃないのか、それはそれで」  「いえ、必ずしもそうとは言い切れないと思われます」  「てぇと?」  「例えば、私たちはこれまで『ホット』に対しVCDVで対応してきましたが、『ホット』は必ずこれに対して新規開発を以て応じてきました。つまり『ホット』は自分の妨害者を静観できる人物ではないということです」  黙ったまま聞いている木津の眉間には縦皺が寄っていた。どうも納得できないという風な表情だった。  「それは一般論過ぎないか?」  「そうは思いません」  久我の応えに木津の片眉がぴくりと上がる。  「どうもそこんとこが分からないんだよな……あんた、なんでそう断言できるんだ? 『ホット』とお知り合いでもあるまいに」と言いかけた木津の表情が固まった。  「あんた……まさか個人的に奴を知ってるんじゃないだろうな?」  答える久我の口調は相変わらず平然たるものだった。  「当局から捜査の一部を委託されている以上、必要な情報は得ています」  「だからそうじゃなくってさぁ」  口先を尖らせる木津に久我が言う。  「そこに至る経緯はどうであれ、私たちはあなたに『ホット』を追う、いえ、追い詰める手段を提供するということになっていました。それではご不満ですか?」  「どうのこうの言わずに黙って従ってろってわけか?」  「現在に至るまで結果を導き出せていないのは私の力不足もあります。それについては申し訳なく思っています。ご信頼いただけなくなって来ているとしてもやむを得ないとも思います」  「あんたに下手に出られるのも、それはそれで不気味だな」と苦笑いの木津。「まあいい。もう一度は信じておくことにするさ」  軽く頭を下げる久我。  「それで、もう一点は?」  「ああ、この分だと随分と先の話になりそうだが、一応訊いておくか」  木津はそこで言葉を切った。  久我は黙って続きを待つ。  「……『ホット』が無事くたばってくれたら、俺はどうすりゃいいんかね?」  久我の眼差しをよぎった微かな疑問の色合いが、一瞬の後に濃さを増した。  「俺がここにいる理由の根本に奴がいる以上、奴がくたばったらそれまでってことになるだろ?」  「テスト・ドライバーとしての勤務を続けることをお望みならば、LOVEの正規の所員として契約をすることも可能です」  「そいつぁありがたいな。だが」にやりとしながら木津は言う。「それまで俺がしゃんとしてればいいけどな」  久我は黙ったまま木津の顔を見つめている。  「さっき、真寿美に言われて初めて気がついたんだ。終わった後ってのがあるってことにさ。そんなこと考えてもいなかったから、済んだら気が抜けちまうんじゃないかと思ってな。まあ、あんたに言う話じゃないんだろうけど」  そう言った時、真寿美の面影を思い出した自分自身に不審を抱きながら、ソファの肘に両手を当てて腰を浮かせ、尻の座りを改めると、ポケットの中でキーホルダーを弄びながら木津は訊ねた。  「それに、ここ自体はどうなるんだ? 奴の一件が終われば、ここに与えられてる捜査権だって召し上げになるんだろ? MISSESも解散ってことになるんじゃないのか?」  久我はすぐには返事をしなかった。  木津がコーヒーを一口すする。  「今後」と、ややあってから久我は口を切った。「当局から新たに甲種手配対象者の捜査支援を求められないとも言えません」  「そいつぁ俺には関係のない相手だな」  「そうです」と簡単に久我が言う。  「それじゃ俺は本気にはなれないだろうけど、ここの心配は必要ないってわけか。ま、俺が心配しなきゃならない必要もないだろうけどな」  「峰岡が何か申し上げましたか?」  「真寿美が?」  頷きもせず久我は続ける。  「峰岡に何かお聞きになったとおっしゃいませんでしたか?」  「いや、別にMISSESのことじゃないさ。個人的な話だ。多分な」  「そうですか」  「ああ」  残りのコーヒーを空けた木津は、空になったカップを手に立ち上がった。  「お邪魔様」  「もうよろしいのですか?」  「ああ」  久我も立ち上がって言った。  「あなたのご期待に添うようなお応えは差し上げられなかったと思いますが」  「俺自身よく整理が付いてないところだったしな、事後のことなんかは」  久我は軽く頭を下げ、再び頭をもたげると淡々とした口調のまま言った。  「事が終わるのも、さほど遠い先のことではありません。全てはそれからでもいいのではないでしょうか?」  木津は肩をすくめた。  木津の出ていった後、久我は空になった汚れきったカップを満たしもせず、デスクの椅子に身を預けていた。  あの人のことが終わったら……  それは久我もまた考えていないことだった。 私もあの人を止めることだけを考えてきた。それは木津さんと同じ。そしてその理由の半ばも彼と同じ。だが、と、これまで何度と無く胸の中で押し留めてきた言葉が思い返されてきた。あの人の行動の動機も、裏返せば私たちと同じと言えなくはない。  結局、と久我は思う。阿久津主管の言った通り、私たちは皆同類なのかも知れない。  気怠げに立ち上がると、久我は窓の前に立ってブラインドの隙間を細い指を宛って拡げ、外を覗いた。殺風景な工場区域を夕闇が覆い始めている。その中を一つ二つと帰りの車の前照灯が走り去っていく。  久我はしばらくの間そのまま闇に飲み込まれていく風景を見つめていた。 Chase 23 − 見出された標的  ……貴重な情報をご提供下されたこと、心より感謝申し上げます。しかし、貴方が既に十二分にご存じのことと私は信じて疑いませんが、貴方の下された情報が本当に正しいものであることを、貴方ご自身が私たちに対し証明して下さらない限り、私たちはそれに基づいて行動を起こすことは致しませんし、また出来ません。その旨万が一ご失念であれば、改めてご理解下さいますよう、何とぞよろしくお願い申し上げます。そして貴方がこの申し出に従って、速やかに私たちにとって有用な情報の裏付けをして下さることを願って止みません……  この文面を読み通すと、その人物は唇だけを歪ませて皮肉な笑いを浮かべた。  あの女、相変わらずの慇懃無礼振りだ。しかし、その高飛車な態度もこれ以上は続けられるまい。こちらに頭を下げ、自分がこちらの後塵を拝するのを認めざるを得なくなる時もさして遠くはない。  その人物は、椅子に凭せ掛けた体を二度三度と揺すった。また唇が歪む。  そしてもう一人の邪魔者をもう一度、それも完膚無きまでに潰す日も……  お望みならば機会を与えてやろう。それが決着のための早道だと言うのなら。  椅子を蹴るように立ち上がったその人物は、しかしそう考えていたのとは対照的に、苛立った様子で室内を歩き回った。自分の側に動かせる駒を揃えるために、もう少し時間が必要だという動かし難い事実があった。  親指の爪を噛みながら、もう片方の手でその人物は机の上のボタンを押した。十秒と間をおかずに若い男が部屋に入って来ると、人物の脇へと近付いた。その表情はやや緊張の色を帯びている。  爪を噛むのを止めないまま腰掛け直すと、その人物は机の上からペンを取り、タッチパネルに文を書き付けた。ほとんど殴り書きと言ってもよい文字を、側に寄った若い男が読みとる。そして言いずらそうに口を開いた。  「……それは、最大限急がせています」  再び書き殴られる文字。  「はい、確かに……しかし」  三度文字が書かれると、乱暴にペンが机に置かれた。その音にびくりとしながらも文字を読む男の顔に、驚愕の色が走った。  「そ、それは!」  人物は何も書かずに男の顔を横目で睨んだ。そして彼を追い払うように手を泳がせた。  それ以上何も言うことは出来ず、男は頭を下げると一、二度振り返りながらも部屋を出ていった。  人物は錠を解除すると引き出しを開けた。その中にさらに鍵の掛かった黒鉄色の小箱。小さな鍵を骨のように細い指先が開く。  ワインレッドのビロード張りの箱の中。中央のくぼみに鎮座している、銀色に光る金属の小片。人物はそれを何の感情もなく摘み上げた。そして立ち上がると、背後にあるクローゼットの扉を引いた。  「まいったまいった」  丼の載った盆を携えて木津が戻ってくる。  「明らかに行列してるところに、わざわざ行くからですよ」と箸を止めて安芸が言う。  「抜き差しならないほどラーメンが喰いたいっていう気分の日だってあるのさ」  「いえ、止めませんけれど」  「止められても今日は喰う」  そう言いながら木津は椅子の背に手を掛けた。丁度その時、安芸の腰から聞こえてきた呼び出し音にその手が止まった。  「お客さんですね」と、腰の受信器のスイッチを切って安芸が立ち上がった。  「何でメシ時に来るかねぇ。しかもわざわざこういう気分の時に」  「お客さんの相手しないでラーメンにしますか?」と安芸が微笑しながら言う。「その代わりに大物を喰い損ねるかも知れませんけど」そして自分は箸を置くと、「止められても食べますか?」  「大物が来なかったら恨むぜ、進ちゃん」  湯気を上げるラーメンに未練がましい視線を落としながらも、木津はテーブルに置いた盆を再び取り上げた。  駐車場へ続く廊下で、前を走る背中に安芸は呼び掛けた。  「由良さん! 情報は?」  足は止めずにちらりと振り返ると、はずんだ息の下から答えが返る。  「いえ、まだ何も」  「変ですね」と首を傾げる安芸。  「おばさん、出し惜しみしてやがんな」  駐車場の開かれたドアから三人が駆け込むと、そこには既に準備を完了しているマース1とキッズ1の青と赤の車体があった。  「饗庭さんがいませんね」と安芸。  「ほっとけ」簡単に言い捨てて木津はコクピットに身を滑らせ、キー・カードをスロットに差し込むと、すぐに通信機のスイッチを入れた。  「真寿美! 姫! 状況は?」  それに応えたのは、真寿美でも紗妃でもなく、久我の声だった。いつも通りの冷静な口調で示された状況を、しかし木津はすぐには理解できなかった。  「ホット・ユニット搭載車両、単機でE181を北方向に走行中。『ホット』本人である可能性が高いものと思われます。待機中の全車両は当該車両並びに運転者の身柄の確保に当たって下さい」  「馬鹿な!」  久我の指示を聞いて、真っ先にそう声を上げたのは木津だった。  「何だそりゃ、奴が一人でって……」  「しかもE181を北って、ここに向かってるってことですか?」と紗妃が言った。  それらの声の中に、久我の次の指示が入ってきた。  「指揮はキッズ0、補佐にアックス3」  真寿美が思わずキッズ0のコクピットに目をやった。そこで木津はまだ半ば呆然としたような表情のままでいる。  「仁さん……?」  「……お望みだと言うんだったら、今日という今日はけりを付けてやろうじゃないか」  他の誰にもほとんど聞き取れなかったつぶやきに続いて、怒声にも似た木津の指示が飛んだ。  「行くぞ!」  五両が続いて駐車場を飛び出していったのを見て、久我は一度浮かせた腰を椅子に落ち着け直すと、今自分が下した指示を思い返した。いや、指示そのものにではなかった。思いを巡らせていたのは、その時の久我自身についてだった。声を震わせることなどもなく、これまでと同様にあくまで冷静に言い切ることが出来ただろうか、と。  そしてこの事態に際して、予想を遙かに超えるような緊張と動揺とが自分の中に走っているのを感じ、それと同時に、同じく自分の中にまだ残っていた甘さを意識して、わずかに久我は唇を噛んだ。  今更言うまでもなく、あの人は元からああいう人ではなかったか。傍目には無謀とも言えるような選択肢を、何のためらいもなく選んでしまう人ではなかったか。そして私はそこに付け入ることも出来たのではなかったか。  久我の視線の先には、当局への通信回線を開くボタンがある。しかし久我はそこへ手を伸ばしはしなかった。  それでは済まない。彼と同じように。  だが、と久我は考える。ここでこんな形で決着をつけるようなことを、あの人がするはずがない。あくまでこれは私の放った言葉への応えに過ぎない。「ホット」の存在をアピールし、そして私たちに手掛かりを与えるためのデモンストレーション以外の意味をあの人が与えているはずがない。しかし、速度の面以外ではホット・ユニットはVCDVの相手ではないだろう。ならば、あの人はこの包囲をどうやって切り抜けるつもりなのだろう……  「……聞こえた」  飢えた獣の唸るが如き低い声が聞こえ、久我は我に返ってディスプレイ・スクリーンに向き直った。  「どっちだ?」  周囲の壁にまた建物に反響している爆音の中を、速度を落とすことなくB−YCが、そして出力の差のためにわずかに遅れて四両のVCDVが走り抜ける。  「左……えっ?」  真寿美は前方に戻した視線をもう一度ナヴィゲータの画面に投げる。直前まではっきりと目標の位置を示していた輝点が、今は忽然と消えていた。  真寿美の言葉の頭だけを聞いた先頭の木津は、強い横Gをものともせず左に曲がった。と、B−YCは初夏の日差しを反射して舞う白銀色の小片の中へ飛び込んだ。  ひどい雑音に妨げられながらも、安芸の声が辛うじて聞き取れた。  「チャフだ……」  それには構わず、遮二無二木津は走り抜ける。その後ろを走っていた紗妃が少し眉をひそめ、併走する真寿美に話しかける。  「急ぎすぎてる?」  やはり雑音の中から聞こえる応え。  「うん」  木津の心中を察して余りあるだけに、真寿美は曖昧な返事しか出来なかった。  紗妃はS−ZCに一瞥をくれると、変形レバーに手を伸ばした。  S−RYがハーフに変形し、進路を徐々に路肩側に寄せていく。  それに気付いた真寿美の足がスロットル・ペダルからわずかに浮いた。  「紗……」  呼び掛けかけた真寿美は、だがS−RYの指が真っ直ぐ前方を、木津のB−YCの方を指しているのを見て、再びペダルに踏力を加えた。  少しずつ離れていくS−ZCの尾部。そしてG−MBの鼻面が近付いてきた。  つまる距離に気付いた由良が横を見ると、既に安芸のG−MBはハーフに変形していた。  「こちらはマース1と周囲の哨戒にあたります。よろしいですかリーダー?」  まだチャフによる障害で雑音が解消されないが、それでも安芸の言葉は聞き取れた。そしてその言葉の最後が特にはっきりと由良の耳に響いた。  由良は声を大にして応答する。  「了解、任せます。こちらは先行してキッズ・チームのサポートに当たります」  了解を意図するかのように、ハーフの右腕が軽く前に振られた。  再度加速して先行する二両を追う由良機を見ながら紗妃が、乗機を停止させた安芸に言った。  「この辺に『ホット』が隠れているかも知れないですね」  だが安芸の答えは否だった。  「えっ? じゃあ周囲の哨戒って……」と、自分はそのつもりだった紗妃。  「隠れ蓑を意図しているのなら、こういうチャフの撒布はそんなに効果的じゃありません。自ら行動範囲を限定することになりかねませんし」  安芸の言葉を聞きながら、紗妃は有視界哨戒を続けるG−MBの動きから目を離さない。  「むしろ潜んでいるなら武装装甲車か人型の可能性の方が高いでしょうけれど、それにしてもこのやり方は……」  「目的が見えない、ですか」  「ええ、だから哨戒役と言うよりは、一種の囮かも知れません」  くすりと紗妃は笑いながら変形レバーに手を伸ばした。  ごく軽いモーターの音と共に、警戒姿勢をとって青龍が立ち上がる。  「安芸さんも損な性格ですよね」  青龍と背中合わせに立ち上がった玄武のコクピットで、視線を周囲へ投げ続けながら、安芸も微笑を浮かべて言った。  「紗妃さんもね」  「私が、ですか?」  「本当は仁さんの方について行きたいところだったんじゃないですか?」  「木津さんに、ですか?」と応える声は微笑を帯びていた。「それは真寿美ちゃんに任せます」  「やっぱり損な性格ですね」  「私のはミーハーなファン心理ですけど、真寿美ちゃんは立派に恋愛感情になってますから、最初からレベルが違いますよ。でも、こういう場面でする話じゃないですね」  「確かに」  舞い落ちるチャフが、そびえ立つ二つの機体に降りかかり、軽い音を立てては路面に落ちていく。  「くそっ! どこだ?」  メイン・ルートから少し外れた、廃工場の長大な外壁が延々と続く一角に飛び込んだところで、爆音は大きな反響を最後にかき消すように聞こえなくなった。  真寿美は木津の声に、ナヴィゲータの画面を見るが、まだチャフの影響があるのか失探を示す警告が出たままだった。  返らない答えに苛立つかのように、白虎が立ち上がり左右を見回す。  そこへG−MBが姿を現し、横様に滑りながら止まる。足まわりから立ち上る白煙。  反射的に木津は衝撃波銃の照星の中にG−MBを捕捉していた。  「仁さんいけない!」  真寿美の叫びに、トリガーを絞る寸前で止まっていた指がぴくりと震えた。  一瞬凍り付いた由良だったが、すぐに状況を把握すると言った。  「アックス1とマース1はチャフ撒布地点で現状哨戒中。私はE181に戻ります」  「E181……」  「リーダー、許可願います」  木津の応答がない。その代わりに白虎がRフォームに戻された。  「ついて来い!」  キッズ0を追ってキッズ1、アックス3が次々に急加速する。  脇道からメイン・ルートに躍り出すと、その一瞬後には計器盤の表示が操縦安定警告色を伴って最高速度を示していた。  真一文字に唇を結び、目を正面に見据えながら、木津は勘付いていた。これが一種の挑発、「ホット」による挑発だということに。  だが何への? 誰への? 俺か、それともLOVEの他の誰かか? 木津の脳裏を怜悧な表情をした一つの顔がかすめていった。  「インサイト!」  弾けるような真寿美の声に続いて、木津の耳にも遠く、だが反響ではなくはっきりと、ホット・モーター・ユニットの発する爆音が聞こえてきた。  続くのは安芸と紗妃を呼び出す由良の声。  「ルートE181、区域1355付近で目標発見。至急合流願います!」  チャフによる妨害も晴れたか、明瞭な音声で了解の応答が返る。  だが、紗妃の次の言葉はこうだった。  「ナヴィゲータに反応がありません」  はっとして由良も自分の計器盤を見た。確かにナヴィゲータの画面には、ルートE181を走る自分たちの輝点は三つ存在している。だがその先にあるはずのもう一つの輝点が、紗妃の言葉通り見えなかった。  由良は木津と真寿美にその旨を告げた。  あっと小さな声を上げた真寿美。それに対して、木津はこう叫んだ。  「そんなもの要るか! そこに奴のケツが見えてるんだ!」  真寿美も由良も我に返ったようにナヴィゲータから視線を外した。  「でも」と真寿美がつぶやいた。「なかなか距離が縮まりませんね。こっちだって全速を出してるのに」  由良がそれを受けて言う。「……ホット・ユニットっていうのは、あんなにパワーが出るものだったんですか」  そこに舌打ち一つ。次の瞬間、宙に舞う白虎の両腕から衝撃波が繰り出される。  遙か先を走る「ホット」の横で、後ろで衝撃波は路面をゆがませただけだった。  「仁さん、落ち着いて」  そう真寿美は言いたかった。しかしやはり唇を動かすことは躊躇われた。  進路を横にずらしたG−MBの脇に変形を戻しながら着地したB−YCが、全力を叩き込まれて猛然と速度を上げる。そして出力に劣るG−MBを瞬く間もなく引き離し、S−ZCに並んだ。  やがて「ホット」の走る先に見慣れた建物の頂部が姿を現した。LOVEの社屋だった。  「貴様、どうする気だ?」  相手に聞こえているはずもない言葉を、木津は叩き付けるかの如くに吐き出した。  追う真寿美と由良の表情にも、少しく不安の色が浮かび始めた。  が、その時「ホット」が右に急転舵した。その先には立ちはだかる黒鉄色の姿。  「玄武?」真寿美が叫んだ。「饗庭さん?」  「追え! 奴を止めろ!」  指示の体を成しているとは言い難い木津の怒鳴り声に、ようやく玄武がRフォームに変形し走り出した。  嘘のように鋭い加速を見せるG−MB。しかし彼我の差は広がり、そして追ってくるB−YCとの差は見る間に縮まった。  もはや舌打ちすらせずに、木津は横すれすれのところでG−MBを追い抜く。  その時、木津は車体に軽微な衝撃を感じた。そして見た。饗庭の玄武がB−YCのルーフに片手を突き、その速力を借りて前方に飛ぶのを。飛びながら左腕を「ホット」へと伸ばし、二度衝撃波銃を撃つのを。  玄武の着地する音、衝撃波が路面に跳ねる音。「ホット」の車体を捉えた音は聞こえない。代わりに車輪の甲高い軋りと、ホット・ユニットの更なる爆音。  再び「ホット」は右へと姿を消す。  「逃がすかあっ!」  そこに真寿美の声が響く。  「仁さんだめ! 止まって!」  意表を突かれた木津は反射的にブレーキ・ペダルを踏んでいた。卓越した制動性能を誇るB−YCは、「ホット」の消えた横道の手前数十センチの位置に、その白い車体を静止させた。  S−ZCが、続いて二両のG−MBがB−YCに並んで止まる。  遠ざかり消えていくホット・ユニットの音。  そのまま奇妙に長い十数秒が過ぎた。  「……真寿美?」  木津に名を呼ばれて真寿美ははっとした。  「何故止めた?」  「……前にも同じことがあったのを思い出して……それで思わず」  「同じことって何だ?」と、不気味に抑えられた口調の問いが続く。  「小松さんが撃たれた時みたいに、横道で待ち伏せを……」  「……してなかったよな?」  事実を突き付けられて、真寿美は言葉を返せずにコクピットでうなだれた。  その耳に木津の溜息がいやに大きく響いた。  「引き上げる」  木津の指示に、ややあって簡単に了解を告げる安芸の声が受信機から聞こえてきた。  スクリーンの中に示された車両の画像に、阿久津は興味深そうな顔つきで見入っていた。  向かいあったソファでは、久我が静かにその様子を見つめながら、両手を膝の上で組んで阿久津の言葉を待っている。  画像を順に送ったり戻したり、拡大したり縮小したりとディスプレイのスイッチを動かしながら、阿久津は時折「ふむ」だの「なるほど」だのといった声を漏らす。そして何度目かの「ふむ」の後、ようやく阿久津は顔を上げた。  「なかなか懐かしいものを見せていただけましたわい」と言うその表情は、裏にある事情はそっちのけにして、純粋に興味を満たされた者のそれだった。だがもちろん久我が得たかったのはそんなものではなかった。  「お分かりになりますか?」  「饗庭の兄者も意外にやりますな。単なるやる気なしと思っとりましたが」と言いながら、阿久津は車両の映し出されたスクリーンを指差した。「やる時はやると。これだけはっきり撮ってもらえるとは思いませなんだ。これなら間違いっこありません」  そして何も言わずにいる久我に、阿久津は待たれていた答えを告げた。  「正真正銘、昔通りのホット・ユニット搭載車両に間違いなしですぞ。ユニット自体と、それからそれに合わせてフレーム周辺にも相当手が入っているものと思いますがな。ベースは量産車を改造した競技車両です」  「製造元と型式記号は確認出来ますか?」  確認などするまでもなく、阿久津はすらすらと要求された情報を口にした。それを久我は紙に書き留め、そして腰掛けたままながら、いつもよりは深く頭を下げた。  「ご協力に感謝します」  が、それを聞いた阿久津の表情もまたいつもとはやや違っていた。  「よろしいのですな?」  久我はそれには答えずに席を立った。  「コーヒーはいかがですか?」  同じ頃、昼時を過ぎて人気のなくなった食堂に、ラーメンをすする音が虚しく響いていた。そこに落ち着いた靴音が近付いて来た。  「木津さん?」  靴音の主が呼び掛けると、湯気の立つ丼に被っていた顔が上げられた。  「何だ、姫か」  「何だは失礼ですよ」  紗妃は笑いながら木津の向かいの椅子を引いて腰掛けた。  「で、何だ?」と丼に箸を突っ込んで木津。  そのご機嫌麗しからざる口振りにも笑みを崩すことなく、紗妃は言う。  「食べ終わるまで待ってます」  ちらりと怪訝そうな視線を紗妃に投げると、木津は止めていた箸を動かした。  しばらくして口から空になった丼を離してやや乱暴にテーブルに置くと、脇にあったコップの水を一気に飲み干した。  「ちゃんと味わってますか?」  訊ねられて問いの主の存在を思い出したかのように、木津は紗妃に顔を向けた。  「あ、ああ……多分な」  木津の答えを気に掛けた様子もなく、紗妃は丼とコップの載った盆を片手で取り上げると、もう片方の手で隅にあった灰皿を木津の前に引き寄せて立ち上がった。  「片付けて来ます」  木津はポケットの煙草を探りながら、黙ったままで頷いた。  半分も吸っていない煙草が灰皿でもみ消された時、紗妃がアイスクリームのカップを手に戻ってきて、再び木津の前に腰掛けた。  カップの蓋を取り、ひと匙すくうと、次の煙草に火を点けようとした木津に言った。  「真寿美ちゃんの気持ち、酌んであげてください」  火の点かなかった煙草をくわえたまま、木津は問いで返す。  「何のことだ?」  そうは言ったが、木津自身全く話が見えていないわけではなかった。帰還後、目の前の「ホット」を取り逃がすきっかけを作ってしまった真寿美に、木津はどうしてもいつもの調子で接することが出来なかったのだった。そんな自分の態度に、真寿美が弁解することもなくただ辛そうな表情をしていたのも木津は見ていた。  舌の上でアイスクリームが溶けるのを待って紗妃が続ける。  「目の前で人が怪我をしたり、もっと言うと亡くなったりするのは見たくないです。そうじゃないですか?」  木津はその言葉に一つの面影を思い出していたが、何も言わずに煙草の灰を落とした。しかし紗妃の次の言葉に、思わず木津は反応を返していた。  「特に自分の好きな相手だったりしたら」  「だからなおさらだ」  次のひと匙を口へ運ぼうとする紗妃の手が止まった。今の言葉のつながりが見えないといった顔だった。  一方の木津は、能面のような無表情。  「あ、えーと……」  右手にスプーンを持ったまま、左のこめかみに人差し指を当てて、紗妃はそんな木津の顔を見つめる。逆にそれを見た木津が少し表情を崩した。  「さまになってないぞ」  「ですよね」  言いながら紗妃はスプーンを口へ運ぶ。  「……そうか」と木津は灰を落としながら煙草から目を離さずに言った。「姫だったら知ってるはずだよな、俺のいわゆる『事故』ってやつも」  スプーンを持つ手を止め、紗妃は静かに頷き、そして言う。  「ごめんなさい」  次の瞬間、はっとしたように紗妃の頭が上げられた。何かに気付いた顔。  木津は紗妃の顔にわずかに投げた視線を煙草へ戻し、落としたばかりの灰をまた落とそうとした。再び貼り付けられる無表情の中から、木津は小さく言った。  「あいつには言うな」  「真寿美ちゃんだって、『事件』のことは知ってます」と紗妃は言い返した。「だから、もしかすると気が付いてるかも知れません。木津さんが『ホット』を追っている、本当の理由にも」  「だからってどうなるものでもあるまいに」  「本当にそう思ってますか?」  思い掛けずも厳しい口調に、木津は思わず顔を紗妃に向けた。口調と同じく厳しさを覗かせている顔。  双方ともしばし言葉を発しなかった。  やがて紗妃が少し寂しげに口を切った。  「木津さんの時間は、あの『事件』からずっと閉じてしまっているんですね」さらに、ゆっくりと首を横に振りながら「時間だけじゃなくて、気持ちまで」  木津はややうるさそうに煙草を吹かす。  「木津さん」と、紗妃は椅子に掛け直すと、改まった調子で訊ねた。「『ホット』への復讐が終わったら、どうするんですか?」  「真寿美もおなじ事を訊いてきたよ」と、多少調子を和らげて木津は応えた。「そうだ。全部承知の上でな」  紗妃は驚いた顔で木津を見つめた。  「その上で、奴の件には協力すると言われた。終わったら、はそれから考えようってな」  身動きすることも忘れたまま、紗妃は木津を見つめて続けている。  「……そうだったんですか」  「閉じてるって言われりゃ、確かにそうかも知れないけどな」言いながら木津は煙草をもみ消した。「否定はしないさ。開ける鍵がなかったようなもんだからな」  「それじゃあ、『ホット』がその鍵……」  「になるかどうか」  木津は煙草の最後の一本を箱から取り出すと、空き箱をテーブルの上に立て、真上から掌を叩き付けて潰した。その音にびくりと肩を震わせた紗妃に、木津はにやりとして見せながら続けた。  「こうなるのが俺か奴か分からないしな」  「そんなこと!」と乗り出した上体を戻して紗妃が言う。「……真寿美ちゃんの前では言わないで下さい。お願いですから」  「冗談さ」と木津は加えた煙草に火を点け、長く吸った煙をゆっくりと吐くと、人差し指で潰れた箱をはじき飛ばした。箱はくるくると回りながら紗妃の前まで滑った。  「こうなるのは奴の方に決まってる。だが正直な話、その後は考える気になれないな、実際に終わってみるまでは」  硬い表情を見せたままの紗妃が言った。  「真寿美ちゃんだって、早く終わって欲しいと思ってるはずです。それに木津さんを思ってのことですから、今日のことはもう責めないで上げて下さい」  「ああ、そうするよ。姫に免じて」と煙草をくわえた唇に笑みを浮かべて木津は言った。「それとその溶けかけのアイスに免じてな」  言われてカップに視線を落とした紗妃は、思わず落胆の声を上げる。  スプーンの先は、液体と化したアイスクリームの中に没していた。 Chase 24 − 破られた包囲  スクリーンに表示された文面は、久我が予想していた通りのものだった。一つ予想に反したことがあるとすれば、それはこの通知が送られてきたのが思いの外早かったということだった。  久我はインタホンのボタンを押し、二言三言話すと、カップに残ったコーヒーを一息に飲み干し、染みの目立ち始めたコースターにカップを置いた。  間もなくドアのインタホンから、呼び出した相手の聞き慣れた声が伝わってくる。  「峰岡です」  「お入りなさい」と応えながら、久我は手元のスイッチでドアのロックを解いた。  開いたドアから見えた顔は、昨日の沈み方など全く感じさせない、いつも通りの明るいものだった。  その顔に、こちらもいつも通りの淡々とした口調で久我が告げる。  「これから当局へ出掛けます」  意外そうな顔をして峰岡が訊ねる。  「ずいぶん急ですね。もしかして、昨日の出動の関係ですか?」そして返るとはあまり期待していない久我の反応がある前に続けて言う。「それにしては早いですよね。昨日の今日に呼び出しなんて」  だが久我の顔を見た峰岡は、あらためて意外そうな表情になる。久我の唇に薄い笑みが浮かんでいるように見えたからだった。  その唇が動き、言葉を紡ぐ。  「当局もこの件に本腰を入れて当たらざるを得ない状態になりましたから」  いつもなら何一つ余計なものを読み取らせることのないはずの久我の口調なのに、何故か今の言葉には、そうさせたのは私ですけれど、と続くように峰岡には思えた。が、実際に聞こえたのはこの言葉だった。  「今日は戻らないと思います」  「分かりました」  「それから、アックス・チームの各メンバーに伝えて下さい。本日より指示があるまで当直は解除します」  三度峰岡は驚いた。今度は声まで出して。  「え、え、え、え? いいんですか?」  そんな峰岡の様子を気に留めた風もなく、久我は無言でうなずき、立ち上がった。それが要件の終わりを意味することを先から了解していた峰岡は、「お気をつけて」と一礼して執務室を後にした。  五つ居並ぶ当局の面々は、みな一様にやりずらそうな渋面を拵えている。それらを前にして、久我はいつもよりも余裕を持っているかのようにさえ見える面持ちでいた。  渋面の中の一つの口が鈍く動く。  「これが甲種八八〇八番一〇九三一号の使用している旧式車両だ、ということですな?」  自分の言葉を当局の用語に置き換えて疑問符を付けただけの問いに、久我はごく簡単に肯定の言葉を返した。  「で、型式記号がこれに準ずるものだと」  同じく簡単な久我の肯定。  嘆息にも似た声がここかしこで上がる。  「これは通称『ホット』の捜査への重要な証拠物件になるものと思います」  久我はざわめきをものともせずに言った。  「欲を言わせてもらえば」と、真ん中に陣取っていた渋面が口を開いた。「車両だけでなく運転者の顔まではっきり撮影して欲しかったところですがね」  久我が当局に提出した、饗庭の撮影による車両の映像には、確かにいくつかコクピットの中までを捉えているものがあったのだが、運転者の顔はヘルメットのバイザーに隠されてしまっていた。  だが久我は平然と言い返す。  「肖像までが完全に明らかにならなければ本格的な捜査の発動に踏み切るだけの証拠物件として採用することは出来ない、とおっしゃるのですか?」  渋面はそろって口を噤んだ。それを見渡す久我の目は、何もかもを見透かした冷たさを湛えていた。  「本来捜査権のない私たちとしましては」と久我は続ける。「VCDVの運用に加えて、皆様方に入手可能な限りの有力情報を提供することでもご協力出来るものと考えています。私たちの情報が端緒となって手配対象者の捕縛が実現すれば、私たちも捜査の一端を担うことが出来たと言えます」  正面に居並ぶ渋面から少し離れた脇で、やや居心地の悪そうな表情が久我の言葉を聞いていた。前回の出動では思う通りの成果を上げられず、それどころか損害ばかりを受けて帰ってきた当局特種機動隊の隊長だった。  言いずらそうな小さな声がその唇を突いて漏れ出る。  「本官も、次回こそは部隊の面目を施したいと思っております」  渋面の中のいくつかの視線が声の方に投げられたが、さしたる反応は無いままだった。  「久我さん」中央の渋面が口を開く。「下さった情報は重要なものと認めます。だが、決定的なものではない。私はクラシック・カーにはとんと興味がありませんが、それでも昔はこんな車がわんさと走っていただろうってことぐらい想像が付きます。今だって相当の数が残っていると思うのですがね?」  「国内の登録済み台数は百六十一台と存じております」さらりと久我が言う。「登録外のものがあっても、その数の半分を上回ることはないと考えます」  「それにしても二百を超える数ですがね。いや、決して調査しないと言っているわけではないですよ。ただ、数が多いので早急に結果が出せるとは言い切れない、と言っているまでのことで」  それを聞いた久我の口許に薄い微笑が浮かんだ。ただ口許だけに。  「私たちに対してご謙遜の必要はありません」という久我の声は、MISSESのメンバーが聞けばはっきりと分かったであろう程に皮肉な響きを帯びていた。「当局の優秀さと、今回の件への姿勢は私たちも十分に存じています。『ホット』への内応者はもちろんのこと、検挙率向上のためにその配下の微罪の逮捕者に手心を加え時に逃亡幇助を行った署員の処分も行われたとうかがいました」  触れられたくなかった汚点を正面から突かれて、居並ぶ渋面が皺を深くする。が、誰も言葉を発する者はない。  久我は素知らぬ振りで続ける。「私たちもご協力できる日をお待ちしております」  沈黙する渋面を久我は静かに見渡した。  しばらくの沈黙を破って、一人が詰問調で切り出した。  「何であんたがたの前に、この通称『ホット』が出てきたんだ?」  久我は無言で声の主に視線を移す。  声の主は脂ぎった額に青筋を立てて、テーブルを挟んでいるのでなければ久我に掴みかかりでもしていそうな様子だった。  久我は静かに応える。  「私たちが当局に協力していることは、夙に『ホット』の知るところになってます。先日の事件でもそれは明らかです」  「そんなことを言ってるんじゃない」  一層荒げられる声にも久我の平然たる表情が変わることはなかった。  「そんなことじゃない。何で単独であんたがたの前に姿を現したか、と言ってるんだ」  「それは私たちには量りかねます」  遮るように男が叫ぶ。  「ああ知れてもいよう、実際に『ホット』とやりあってるのが我々でなくあんたがただってことは。だからこそおかしいじゃないか。武装車両でも連れてならまだしも、単独だぞ単独。誰がどう見たって納得いかない」  鼻孔を膨らませながら一旦切った言葉を、男は継いだ。  「こいつとコネがあるのは、実はあんたがたの方も同じなんじゃないのか?」  聞いた久我の瞼がわずかに上げられる。それだけで冷静な視線は刃物のような鋭さを纏った。が、口調は変わらぬままだった。  「少なくとも私たちは、『ホット』から損害を被りこそすれ、利益を得るような関係を持ったことはありません」  「どうだか知れんが」  吐き捨てられた言葉に、久我は平然とこう切り返した。  「お疑いがあるのなら、一刻も早く『ホット』を逮捕し取り調べるのが最善と存じます。もっともお疑いのある以上は」久我の唇に薄い笑みが浮かぶ。「今日私の提出した資料も調査の材料として採用されることはないでしょうし、それに疑いのある私たちは当然捜査協力に参加することは出来ません」  「それは……」  真ん中の渋面が思わず口を開いた。  わめき立てていた男は青筋を一本追加して、苦々しげにテーブルを小突いた。  それらを気にとめた様子を全く見せず、久我はゆっくりと立ち上がった。  「では、私たちは疑念が解消されるまで一切の活動を自粛することにします」  振り返り歩を進めた久我の背中を、狼狽した声が追いかけて来た。  「久、久我さん! ちょっと待って!」  久我の足が止められた。  「ほぉ」  紫煙と共に感嘆詞を吐き出した木津に、真寿美がさらに言う。  「そうなんですよ。あたしもびっくりしちゃたんですけど」  「え? どうしたのどうしたの?」  その声と、右手に持ったチョコレートの箱と、そして後ろを歩く安芸と共に、紗妃が詰所に入ってきた。  「あ、紗妃さんも安芸君も聞いて聞いて」  振り返るのももどかしく、真寿美は今木津に話したばかりの久我からの指示を二人にも伝えた。  二人は揃って一様の反応を返す。  「当直を、解除?」と、紗妃の差し出すチョコレートを受け取りながら安芸が繰り返す。  「そうなの。信じられる?」真寿美もチョコレートを口に放り込んで言う。「当局から緊急の呼び出しがかかって、出掛けにいきなりそんなこと言われちゃって」  「で、由良さんと兄貴には伝えた?」自らもチョコレートをこりこりと噛みながら紗妃が問う。  「ううん、まだ」  「あのー、峰さん?」と安芸。「アックスのメンバーより先に仁さんに話してたわけ?」  「だってここに来たら仁さんしかいなかったんだもん」  「ごもっともさま」  「で、由良リーダーはどこに?」紗妃が今更のように室内を見回しながら訊ねる。  「調整じゃないですか?」と安芸が答える。「昨日、ちょっと狂いが出てたとか言ってましたから」  その時ドアの開く音。四組の視線が一斉に向けられる。入ってきたのは饗庭だった。  とぎれた会話を繕うように、紗妃が兄に当直の解除について告げた。  饗庭は「そう」と簡単に応えると、手近な椅子に腰掛けて、携えてきた技術資料のページを繰り始めた。  少し棘のある口振りで、紗妃が追い討ちを掛ける。  「ディレクターは別に兄貴の抗議を受け入れたわけじゃないと思うけど」  資料から目を上げることもせずに、饗庭は「そうだろう」と言った。  紗妃は肩をすくめ、それ以上攻撃を続けることはしなかった。そして木津の方に向き直り、真寿美にも視線を投げながら訊ねた。  「これで、MISSESが『ホット』捜査の裏方に回ることになってしまうんでしょうか?」  「俺に訊くなよ」煙草をもみ消しながら眉根を寄せて答える木津。「それより俺にもチョコレートおくれ」  「木津さんは甘いのは駄目なのかと思ってました」笑いながら紗妃はチョコレートを差し出した。  包み紙を開くヤニの臭う指を、真寿美が見つめている。その指が口許へ運ばれる前に、木津は言った。  「でも、まあそんなことはあるまいな。当局の専従部隊が出来たときだって、そんな様子はこれっぽっちも無かったしな」  「木津さんの希望的観測を差し引いて、ですよね?」  「それどころかこれ以上ないほどの客観性を以て、だと思うがな。なあ進ちゃん」  「確かにそうですね」と安芸が頷く。「当局主導になるとは思っていないような口振りでしたからね」  紗妃が少しく驚きを見せる。  「それじゃ、最初から久我ディレクターはそのつもりだったんですか?」  「そのつもりってどのつもり?」  「当局の捜査支援を考えていたわけじゃなくて、最初から自分が『ホット』を……えっと」と、紗妃はそこで言葉に詰まった。「逮捕は立場上出来ないし、ただ捕まえるんじゃ仕方ないし」  「殺す気だったのかもな」奥歯でチョコレートを噛み砕くと木津は薄笑いを浮かべながらそう言った。  紗妃と、そして真寿美の目が木津へと見開かれる。同時に真寿美は口を開いた。  「本当ですか? それ」  木津は直接は答えなかった。  「そうだとしてもおかしくないって気はしてるけどさ」  「やはり私怨ですか」  思いも掛けず聞こえた声に、全員が振り返った。そこには何の気配も感じさせずに立ち上がっていた饗庭の無表情があった。  続いた沈黙を破ったのは木津だった。  「おばさんの私怨ねぇ」と言うその口調は、むしろ楽しそうでさえあった。そして新しい煙草に火を点けながら続けた。  「あの冷静沈着無表情なおばさんのどこに恨みなんて代物が入り込むのか、なかなか興味をそそられるな」  安芸がまたかといった顔で苦笑しながら、饗庭に訊ねた。  「饗庭さん、随分私怨という言葉にひっかかりがあるようですね」  相変わらず表情を出さない顔が安芸に向けられる。答える声も表情が見えない。  「任務に私情を挟むべきではないはずです。まして公の正義を守る任務であれば」  「ああ、そういうことか」と木津。「真面目なんだな、上に何かが付くぐらい」  「当然のことだと思います」素っ気ないほど愚直な饗庭の口振りに、木津は軽い調子で返した。  「公の正義なんて俺の知ったこっちゃないよ。だからそこは任せた」  饗庭の眉間にわずかに縦皺が寄った。  「自ら進んで犯罪者になることはお奨めしません」  「そうですよ仁さん」と追って言う真寿美の顔は真顔だった。  だが木津はその言葉に軽く肩をすくめて見せただけだった。  「で」  「はい?」  「あの……どちら様でしたっけ?」  久しぶりにブリーフィング・ルームに姿を見せた小松は、斜向かいからいきなりそんな言葉を掛けられて面食らった。  「ひ、ひどいなあ木津さん。確かに長いこと空けてはいたけど」  真寿美はまた大笑いしながら、それでも小松に復帰の祝辞を述べた。  「でも、この召集は小松さんの復帰報告のためだけというわけではなさそうですね」  そう安芸が言った。  小松も属するアックス・チームが当直中止を久我に命じられてから、すでに二週間近くが経とうとしていた。そしてその間、当局からの出動要請は一回も無かった。  「お揃いですね?」  いつも通りの台詞と共に久我が姿を現した。  ライトグレーのタイトスカートを捌いて腰を下ろした久我は、まず小松の復帰について簡単に触れ、そして本題に入る旨を全員に告げると、ありきたりな事務連絡をするような口調で言った。  「今日当局から、『ホット』のアジトを特定したとの報告がありました」  上がるどよめき。  「同時に当局は強制捜査の実施を決定したとのことです。これに関して、MISSESに協力依頼がありました」  真寿美は思わず横を向く。そこには予想していたのとは少し違う木津の表情があった。  「出動要請ではなく」と安芸が問う。「協力依頼なんですか?」  「今回は依頼の形を取っています」  「どっちだっていいさ」と木津。「受けたんだろ?」  久我は軽く頷くと、全員に向かって言った。  「これを受けて、みなさんには強制捜査支援を目的とした出動をして頂きます。捜査の執行は明後日。午前十時にY区の未使用地区二番Aで当局の捜査班及び特種機動隊と合流し現場に向かって下さい」  「アジトの場所はこちらには教えてくれてないんですか?」と小松。  「詳細については伝達されませんでした」  安芸がちらりと木津の顔を見る。それに気付いて木津が安芸に言った。  「抜け駆けするんじゃないかと思ったろ?」  「ご明察です」  それには応えず、木津は久我に視線を戻した。久我が再び口を切る。  「あくまで捜査は当局の主導で行われます。従って、みなさんに期待されることは別にあると認識していてください」  「ほらな?」  木津からいきなり言葉を掛けられて、紗妃はぽかんとした。  さらに久我が続ける。  「なおこの出動の際は、みなさんは私の監督下を一時的に離脱することになります」  全員がごく当然のように受け止めたこの言葉に、ひとり木津が言葉を返した。  「あんたは、それでいいのか?」  「立場上は当然のことと思います」と簡単にそれに応えると、全員に向けて久我は言う。  「従って、当日は当局の指揮者及びアックス・リーダーの指示に従って下さい」  由良の肩がびくりと震えた。  MISSESのVCDV七両を含め、総数二十五両にも及ぶ強制執行部隊は、「外橋」を渡り緩衝地帯に入った。  先頭を行く当局の警邏車両が、通常は閉鎖されていて下りることの出来ない側道へと進む。その先は緩衝地帯管理用の幅広い一本道だった。  「誰でも想像の付くような所ですよね」と真寿美がMISSES専用のチャンネルでメンバーに話しかけた。「本当に調べられなかったのかなぁ」  「実はとんでもないところだったりして」紗妃が応える。「地下百メートルとか」  だがしばらくの走行の後に停止命令が出たのは、何の変哲もない管理用施設の前だった。  木津は左右を見渡してみる。小さな事務所を正面に、その左手には作業車両用の車庫と思しき建物。さらに背後には補修資材倉庫らしい大振りな建物がある。  続いて、VCDVに全機Mフォームに変形の上、左の車庫周辺に展開せよとの指示。  特一式特装車を追って、MISSESのVCDVが車庫を取り巻いて次々に立ち上がる。  「いよいよですね」  真寿美の声に、木津は曖昧に返事をした。どういうわけか、木津は自分の中にこれまでのような興奮が湧いてきていないのに気付いていた。  事務所正面に停められた警邏車両の一台から、三人が降り立ち出入口へと向かう。そして型通り捜査執行の宣告をするが、事務所からは全く応答がない。  その様子を固唾を呑んで見守っている由良は、自分を呼ぶ安芸の声を聞いた。  「このまま待ちますか?」  はっとした由良は上げた視線を巡らせる。  倉庫棟に向けられている安芸の玄武の顔。  だが自分は動くわけにはいかないだろう。  「キッズ0、キッズ1、マース1は位置を倉庫側にシフトして下さい」  指示と了解の応答とを聞いた安芸は笑みを浮かべた。  出入口の前では再びの通告と返らない返事。  手筈では三度目までに受け入れがなければ当局の部隊が突入することとなっている。  徐々に緊張感の高まる当局の布陣を見て、由良は無意識に操縦桿を握る手に力を込める。  そしてついに三度目の通告が発せられた。  答えはない。  当局の指揮者は振り返り配下の車両を見回すと、突入の指示を下す。  由良の頬が締まった。  と、事務所のドアが開いた。勢い込んだ突入部隊が止まり、そして崩れた。さらに次の瞬間には、後詰めの装甲車群がことごとくなぎ倒されていた。再び閉ざされるドア。  何が起こったのか?  特種機動隊の指揮者が駆る特一式の頭部が、救いを求めるかのように由良の玄武に向けられ、由良は一瞬一文字に結んだ口を開いた。  「特一式全機は事務所正面に展開、状況掌握と負傷者救助、破損車両の排除に当たって下さい。アックス1、2は事務棟周辺の哨戒を願います!」  「何があった?」  木津の大声がレシーバーから響く。  由良は状況を簡単に告げると、さらに指示を続ける。  「マース1、キッズ1、キッズ0は資材棟周辺の哨戒をお願いします。何かあったら」と、そこでわずかに言葉が切れる。「……何かあったら、MISSES全員に連絡願います」  「MISSESに、ですか?」と真寿美が念を押す。由良は答えず、残る饗庭に自分のフォローを命じた。  由良の指示に従って、特一式の部隊は倒れた突入部隊の救助に走る。それを見ながら安芸は由良に言った。  「今の振動は衝撃波銃です。あの建物の中にも何かあります」  了解の応答を返すと、由良は叫ぶ。  「負傷者救助が終了し次第、事務棟内部の探査に出ます。アックス4はサポートを願います! 特種機動隊は救助活動終了後一時撤退して下さい」  「え……」  特種機動隊隊長の声を、これまでにない強さの由良の声が押し潰した。  「いいですね?」  間もなく倒れた全員を収容した特一式は、由良の言葉に従って後退して行った。  「こちら特一。死亡者はなし。負傷者も全員が軽傷か単なる失神状態」  「了解です」  由良が答えると同時に事務棟の正面に飛び出そうとする。  その時だった。  再び事務棟のドアが開かれた。いや、事務棟正面の壁そのものが吹き飛んだ。そしてあの独特の爆音を伴った車両を先頭に、雪崩をうって武装装甲車と、そして見たことのない人型とが走り出てくる。  「『ホット』!」  「何だと!」  指示も待たずに白虎が、朱雀が、青龍が駆け付ける。そして由良は最後の指示を下した。  「MISSES各員は、『ホット』の身柄確保を最重点に置いて下さい。以上!」  その直後、彼我の間で実体弾を交えた衝撃波銃の応酬が始まった。  走りながら武装装甲車は『ホット』を取り囲む。さらにそれを援護するように高速で滑る青灰色の人型。その数二十五。  「どきやがれぇぇぇっ!」  木津の叫び。同時に人型の頭部が一つ宙に舞う。振り抜いた右腕の「仕込み杖」を戻しもせずに、白虎が左腕の衝撃波銃を連射。首を失った人型の体が倒れる。それを蹴って白虎が跳ぶ。  『ホット』の急転舵。蛇がうねるように武装装甲車が続く。その中に撃ち込まれた衝撃波が装甲車の一両を転覆させる。が、同時に白虎の右肩を爆発の衝撃が襲う。実体弾の炸裂だった。  別の人型と対峙していた真寿美の耳にもその音が届いた。だが真寿美は振り向こうとしなかった。横様に朱雀にステップを踏ませて人型の銃口を避けると同時にハーフに変形し、低い位置から衝撃波銃を放つ。人型は顔面を直撃されのけぞって倒れる。その両脚に脇から衝撃波銃が撃ち込まれる。  「脚を止めて!」と紗妃の声が。  朱雀が再び振り返りながら立ち上がる。敵の衝撃波銃が肩口をかすめた。  敵……  真寿美は自分が目で追っている相手をそう呼んでいることに気付いた。  照準器の中に捉えた敵は、真寿美の銃撃を浴びる前に、正面に躍り出た安芸の玄武の仕込み杖に胸の中央を貫かれる。玄武は敵の勢いに身を預けたまま後ろに跳ぶと、両足で敵の腹を蹴って仕込み杖を抜いた。蹴られた反動で勢いの止まった人型の脚を真寿美は撃った。そのまま敵が地面に頽れるのを確かめると、次の敵を捜す。  その視線の先で、白と銀の機体が舞った。  炸薬の破裂が機体を震わせる。そして破片が外装に降りかかり無数の傷を付けていく。  だが木津はなおも猛然と行く手を阻もうとする武装装甲車に襲いかかる。  ハーフで併走しつつ衝撃波銃を放つ。  巧みに回避しつつ、それでも『ホット』への壁を崩さない装甲車の列。  白虎へ変形しつつ、何度目かの跳躍を試みる木津。だがその度に実体弾と衝撃波との段幕が『ホット』への接近を妨げる。  焦れながら併走を続ける木津の目の前に、装甲車の尾部が飛び出す。  木津は反射的に舵を切ろうとした。が、その方向に次々に装甲車が展開してくる。いつの間にか装甲車が取り囲んでいるのは『ホット』ではなく、B−YCになっていた。  木津は正面を走る装甲車に照準を付ける。指がトリガーを絞った。  衝撃波の直撃を受け、装甲車はその場で擱座停止した。それを見た木津の手が変形レバーに伸びる。  白虎の足下から火花が散る。両腕を頭の前で交差させ、低い姿勢をとった白虎は、何とか衝突を免れた。その頭上を、跳ぶ白虎を狙った砲撃が素通りしていく。  見回せば、装甲車は全て停止した状態で白虎を包囲している。そして全ての砲門が白虎に向けられている。  そのただ中にありながら、木津は異様に落ち着いた自分を感じていた。脳裏に一つの面影を去来させながら。  が、それは二つの轟音によって破られた。左右両翼の装甲車が片や横転し片や吹き飛ばされていた。  装甲車の作る壁が歪み出す。その左の隙間から、朱雀と二体の玄武の姿が見える。右には青龍と同じく二体の玄武。  六機は瞬く間に装甲車を蹴散らして行く。そうして崩れた壁を、B−YCが全速で走り抜けて来る。  「『ホット』!」  空気を引きちぎるかのような木津の叫びを受ける相手は、既にその姿を完全に消してしまっていた。  速度の中から弾痕だらけの白虎が立ち上がる。再び足下に爆ぜる火花。  木津はトリガーを引いた。  白虎の左腕から標的のない衝撃波が放たれる。一回。二回。三回。四回。  「仁さん!」  背後に立った朱雀からの真寿美の声に、五回目を撃とうとした指が止まった。  左腕を下ろしながらゆっくりと振り返る白虎。そこには朱雀が、青龍が、四体の玄武が、擱座した装甲車や人型を背後に立っていた。  「逃がした……」  肩で荒い息を吐きながら木津は誰に言うでもなくつぶやいた。「逃がした……畜生」  「木津さん」と紗妃が呼びかけた。「『二度あることは三度ある』、ですよ。それから、『三度目の正直』とも言います」  白虎がもう一度『ホット』が姿を消した方向に振り返り、左腕を真昼の太陽に向けて挙げ、一発だけ衝撃波銃を放った。 Chase 25 − 仕掛けられた罠  当局とMISSESの包囲を脱した「ホット」の行方は、強制捜査部隊の事実上の全滅を受けて張られた非常線の効果もなく、そして非常線からの報を待っていたMISSESの待機の甲斐もなく、杳として知れなかった。  当局の被害に比して、MISSESのVCDVはいずれも外装の小破といった軽微な損傷を受けたに止まっていたが、それは「ホット」とその麾下の部隊が脱出において、当局はともあれMISSESとの交戦を敢えて避けていたことの証左とも考えられた。  再び眼前に居並んだ渋面の列の中から、前回も噛み付いてきた男がまた久我に迫ったときに切り出してきたのがそのことだった。  「どう見ても、あんたらと例の甲犯との間にネゴのある証拠じゃないか?」  久我は言葉を返さなかったが、その態度は例によって別段困った風も何も表してはいなかった。  「それにだ」  男がさらに食ってかかる。  「やり方は違うにしろ当局の中に食い込んで来てるのは同じじゃないか!」  久我はそれに一顧だに払った様子を見せず、テーブルに肘を突いて正面に腰掛けている幹部に尋ねた。  「それで、ご用件は?」  テーブルを平手で叩く音。続く怒声。  「馬鹿にしてるのか貴様!」  幹部はそれを手振りで押し止めると口を切った。前回とは異なり、やや重めの口調。  「結果として『ホット』とその徒党を取り逃がしたこと、さらにアジトの場所という重要な情報がその価値を失ったことは、当方としては認めざるを得ない事実です」  当方としては、という言葉に置かれたアクセント。幹部は続ける。  「ですがその一方として、今彼が申し上げた疑念が生じているのも、残念ながらまた事実なのです」  明らかに久我の反論を待って言葉を切った幹部は、だが期待を裏切る久我の沈黙を自分なりに解釈して続けた。  「いえ、ご不快は承知の上です。御社にこれまでも出動要請や特一式の納入という形でご助力頂いていますからね。そして出動の際は毎回それ相当の実績を上げて下さっているのも分かっています。ただ、ただですよ、今回はちょっと状況が……」  冷ややかな目で居並ぶ幹部達を眺めながら、久我は『ホット』の行動の本当の目的を推し量ろうとしていた。  今まで話していた幹部が言葉を切って、何らかの反応を久我に促すかのように揉み手を始めた。  相当の間を置いてから、久我は落ち着いた声で反応を返した。  「お疑いの要因は、一つが私たちの損害が極めて少なかったこと、もう一つが私たちが『ホット』の追跡を遂行できなかったこと、の二点と考えてよろしいのですか?」  幹部達はやや口ごもる。顔を見合わせる者もある。端にいる例の噛み付く男は、今さら何をといった顔で腕を組んだ。  ややあって、中央の幹部が答えた。  「まあ、そういうことになります」  「今挙げた要因はいずれも現場からの報告によるものと見られますが、それを受けてあなた方が判断なさったものと考えてよろしいですね?」  幹部は曖昧にながら肯定の答えを返した。  一つを除いていずれもその答え同様に曖昧な幹部たちの顔を一渡り眺め回すと、久我は今度は逆に相手に続きを促すようにはっきりとした沈黙を守った。  幹部たちも、言葉を選んでいるのかなかなか先を続けようとしない。  そのまま一分近くが過ぎようとした時、端の男がまた声を上げた。だがそれは久我に向けられたものではなかった。  「何をのんびりやってるんです! 既決事項なんだから、はっきり言ってやればいいじゃないですか!」  その乗り出した上体を止めるように、隣にいた男が腕を伸ばして、落ち着くようにと言葉を掛けた。  茶番を見ているが如き久我の視線は、それでも動かされることはなく、幹部の口許に留められている。それがようやく開かれた。  「前回」と端の噛み付き虫を示しながら、「彼があなた方と甲種八八〇八番一〇九三一号との間に何らかの繋がりがあるのではないかと前回申し上げた時は、当方としては何等その証拠を得てはおりませんでした。しかし、今回は状況証拠的なものとは言え、それを裏付けかねない事態が出来しておるわけです」  聞きながら久我は思った。あの人は単に内応者によって自分への利益を導いていただけではなかった。私たちへの不信を芽生えさせる土壌を作ることも考えていたのだ。  「そうなると」と幹部が続ける。渋面は半ば以上和らいでいた。「当方としても、これまでのご協力を決して無視するわけではありませんが、実質的な貢献度と言うか、当の甲種手配者に直結するものが得られて来なかったことも確かではありますし、内部での信頼度がややもすると揺らぎがちになって来ますのでね」  幹部はそこでまた言葉を切ったが、久我は言葉を返そうともせず、平然と相手を見据えている。その視線を受けて幹部は目を伏せた。だが執拗に沈黙を守る久我を前にして、とうとう最後まで言わざるを得なくなった。  「つまりですね、以下の件を承服頂きたい、というわけです」  そして小さく合図をすると、隣の男が前に置いた一枚きりの資料を久我に差し出した。  久我は左手でそれを引き寄せて、挙げられた項目に目を通す。  その様子を注視していた幹部連の表情があるいは困惑に、あるいは不審に、またあるいは恐怖にひきつった。  久我の顔には、冷淡な笑みがあった。そして発せられた声にさえも笑いが感じられた。  「これが当局の判断された最善策と理解してよろしいのですね?」  見回されたどの首も、はっきりと縦に振られることはなかった。  久我は繰り返す。  「よろしいのですね?」  少し吃りながら、次席の男が返す。  「必ずしも最善とは言えないかも知れませんが、現時点では最も妥当な判断かと」  久我の面がわずかに伏せられた。が、今度ははっきりと、くすりという短い笑い声が聞こえた。  その顔が再び正面に向けられた時、笑いを感じさせるものは表情からも声からも完全に消え去っていた。  「分かりました」  あっさりと言われた回答に、幹部連は揃って安堵の息を漏らした。が、隠しきれてはいなかった当惑が、続けられた久我の言葉に顕になった。  「一つ確認させて頂きたいことがあります」  その日の夕刻になって、MISSESではディブリーフィングの召集が掛けられた。  だが久我は出動の経緯についても結果についても何一つ確認することはせず、代わりに発したのはこの言葉だった。  「明日から一週間を休暇期間とします」  全員が全員自分の耳を疑った。  「え、え、え、え?」と真寿美は久我と他のメンバーの顔を交互に見ながら慌てる。  「休暇……ですか?」  紗妃と安芸が揃っておうむ返しに訊ねる。  由良と小松は唖然とし、そして饗庭と木津は露骨に不審の表情を示していた。  しかし久我は通常の指示と何等変わりない口調でもう一度同じ台詞を繰り返した。  「何で?」と木津が問う。「何で今のこの状態で、休みだなんて話が出て来るんだ?」  「今日の午前中、当局から次の指示を受けました」淡々と久我が切り出す。「まず、支援出動行為の停止。当局からの出動指示発令自体が停止されます」  またも全員が耳を疑った。  「何だそりゃ?」  木津の声を聞きもせぬ素振りで続ける久我。  「次に、これに伴いこれまでMISSESに認められていた準逮捕権限の停止」  何か言い出そうとした木津が、ふと口を噤んだ。その横には中途半端な真寿美の表情。  「三点目として、派遣人員の召還。正式な通達は追ってあるとのことです」  由良が呆然となる。その唇が震え、かすかに歯が鳴った。  「四点目。特種機動隊での特一式特装車の運用停止。ただし特種機動隊の活動は継続されます。この件に関しては、同時に特一式特装車の制御プログラムをも含んだ詳細なメンテナンス・マニュアルの提示をも求められています」  もはや誰も目立った反応を返さなかった。だがそれも久我の次の言葉が発せられるまでのことだった。  「そして最後に、当局のLOVEに対する捜査執行」  「え、え、え、え?」  非常な当惑を顔に浮かべた真寿美が思わず口走った。それを皮切りに、小松が、安芸が、そして紗妃が口々に久我に問う。  「どうしてそんな指示が出たんですか?」  「まるでうちが犯罪者みたいな扱いじゃないですか」  「何の容疑でですか?」  久我はそれらの顔を、そして何も言わずに自分を見ているもういくつかの顔を見回すと、当局での顛末を平然と語った。  「我々と『ホット』が通じている?」  安芸が理解できない言葉を聞いたかのようにつぶやいた。  木津が冷笑しながら「てめぇらのことは棚に上げやがったな」  「それで、反論はされなかったんですか?」  紗妃の問いに、久我は当然の如くに答えた。  「その必要はありません」  「捜査の結果が出れば、自ずと明らかだからねえ」と小松が言ったが、久我は別段それを肯定する様子は見せなかった。  「で、その捜査はいつ?」  「明日です」  「何を探すつもりなんだかね」と、小馬鹿にした口調で木津が言う。「てめぇらの役立たずの言い訳か何かか?」  「辛辣だねえ」と小松。  「でも」木津は言葉を継いだ。「願ったりじゃないのかい? これでうちは当局お構いなしに動き回れるんだからさ」  「それは認められたんですか?」安芸が久我に質す。  「認められたというのは、厳密に言うと少し違います」  「お、久々に聞いたぞその台詞」  木津の茶々は当然ながら無視された。  「準逮捕権限が停止されたことは、即ちMISSESが違法な車両及びその運転者に対して行う行動の公式性が喪われたことになります。その意味では行動は認められたものとはなり得ません」  隅で饗庭が小さく頷いた。  「しかし、『ホット』が私たちに対し何らかの行動を起こしてきた場合、これに対抗する手段を私たちが保持しているという事実に変化はありません。これは当局と言えど認めざるを得ないところです」  今度は木津が大きく頷いた。  「つまり、自衛としての行動に限っては許されるということですね?」と紗妃。  「当局の一応の見解はそうなりました」  「自衛ね」と木津。「向こうの出待ちかい」  「ただし、明日の結果如何によっては、その見解に変化が生じる可能性も否定はしません。何故なら」  木津は久我の視線を一瞬感じたような気がして顔を向けたが、久我の目はまた全員に向けられていた。  「今回の当局の決定が『ホット』の誘導によるものであるのは確実だからです」  高く口笛が響いた。  「それは……」真寿美がいつもとは違うかすれた声で言いかける。  「言うまでもないな」と木津が言った。その口振りは、待ちかねていたものがようやく眼前に現れたといった風だった。  「『ホット』の前回からの行動は、私たちを攻撃目標とするための準備行為と認めます」久我がこれまでにない落ち着き方で言った。「従って当局の捜査結果が正当なものとなるとは必ずしも期待できません。自衛を含め、VCDVを用いた一切の行動が制限もしくは禁止されることも考えておく必要があります」  木津が二度三度と舌打ちをした。  そこで珍しく饗庭が口を開いた。  「その場合、『ホット』某からの暴力行為があれば、当局の特種機動隊がこちらを保護するんですね?」  「当局の職務上はそういうことになります。ただしこれまでの状況から、当局の技量を過信することは出来ないと思います」  久我の答えが饗庭の眉間に皺を刻ませる。  「こうした環境下で、今後みなさんには活動していただかなくてはなりません。ただ、『ホット』が明確な行動を起こすのは、当局が今回の措置を実施した上、明日の捜査の結果をまとめてからと考えられます。そこで、その間みなさんには休暇を取っていただき、今後MISSESとしての業務を継続するかどうかを考えておいていただきます」  この最後のくだりを聞いて眉間の皺を消した饗庭。その向こうで由良が居場所を無くしたように訊ねた。  「あの……私は?」  「当局からの辞令もこの一週間の内に届くはずです。休暇後の復帰で構わないでしょう」  由良は大きな溜息を吐いてうつむいた。  「最後に申し上げておくと、明日の捜査においては、結果が明らかになるまでみなさんを煩わせることはありません。休暇中は懸念なさらないようにお願いします。以上です。何か質問は?」  木津が腰を上げながら言った。  「俺が抜けると言ったらどうする?」  だが久我の表情を見て、木津は苦笑した。  「お見通しだもんなぁ」  「仁さん?」  「開いてるぜ」  応えながら木津は七重の写真を裏返して机に伏せた。  部屋に入ると、真寿美は顔をしかめた。  「うわ……空気がこもっちゃってるじゃないですか。暖かくなってるんですから、窓ぐらい開けましょうよ」  そして手ずから机の脇の窓を開く。言葉通りの暖かい風がわずかに吹き込み、机の上から数枚の紙片を床に飛ばした。  椅子から身を屈めてそれを拾う木津に気付いて、真寿美は詫びを言ったが、その紙片の中に、裏返しにはされているが、写真があるのに気が付いた。  「仁さん、お休みはどうするんですか?」  「どうするって言われても……どうしようか?」再び紙片を机に伏せながら木津。  「あたしに訊かないでください」と真寿美は笑う。「あたしだってまだ決められてないんですから」  「しかし、真寿美が休んだら誰がおばさんにコーヒーを淹れるんだ?」  「自分でやるから大丈夫、だそうです」  「あ、一応訊いたわけね」  「それはもうしっかりと」そして「そっかぁ、そうですよね、決まってないですよね」  「真寿美ちゃんの陰謀コーナー! か?」  真寿美はまた吹き出しながら、「デートのお誘いって陰謀なんですか?」  「デート?」  真寿美は軽くうなずいて言った。  「今度は邪魔が入らなさそうですし」  「その次は空気が重かったしな。分かった、受けて立とう。で、いつ?」  「受けて立とうって、果たし合いじゃないんですから。明日はどうですか?」  「了解だよ。行き先は?」  「あたしが決めちゃっていいですか?」と、真寿美は悪戯っぽく微笑んだ。  それにいささかひるみながら木津は  「……いいです」  「それじゃ、楽しみにしてて下さいね」  そう言って踵を返す真寿美を、木津は呼び止めた。  「あのさ、さっきおばさんが言ってたMISSESを続けるかどうかって話だけど」  「はい?」真寿美の頬に浮かんだ笑みは変わらなかった。「あたしは続けますよ」  木津は黙ったまま真寿美の顔を見つめた。  真寿美の方は小首を傾げて木津を見返す。  やがて木津はゆっくりと言った。  「そうか……」  「はい」  一点の曇りもない返事だった。  その頃の詰所には、饗庭兄妹の姿があった。  「ディレクターがまさかあんなことを言い出すなんて思わなかったなぁ」紗妃が言った。「あれ、兄貴への当てこすりじゃない?」  「そのレベルで動く人じゃあるまい」  脇の椅子に座る兄のつぶやくような声を、テーブルに腰掛けた妹の険のある声が追う。  「冗談よ。で、兄貴はどうするの? 納得いってなかったんでしょ?」  「ああ」  「ああじゃなくって」  饗庭は答えなかった。紗妃も答えを促しはしなかった。  しばらくの沈黙を挟んで、饗庭が言った。  「お前はどうするつもりだ?」  「私は」テーブルから降りる紗妃。結んだ髪が跳ねる。床に当たって靴音が短く高く響く。「辞めないわよ」  饗庭の視線が壁から紗妃へと移される。  「何故?」  「やりかけで放り出すのが嫌だから」  簡単に紗妃は言ってのけた。  「それだけか?」  兄の言葉に紗妃は怪訝そうな顔をする。  また少しの間を置いてから饗庭は続けた。  「見届ける気なのか?」  怪訝な顔は変わらない。  「木津さんのことを」  紗妃の顔に微笑が浮かんだ。  「ああ、それもあるかもね。でも木津さんだけじゃない。真寿美ちゃんのこともね」  興味なさげな表情の饗庭に、紗妃は再び問いかけた。  「兄貴はどうするの? 辞めるの?」  返事はなかった。  終業のチャイムが鳴った。  真寿美は居心地悪げな顔で周囲を見回しながら立ち上がった。  「あの、それじゃ……」  「いいなあ」隣の席の先輩女性社員が言った。「一週間お休みかぁ」  「す、すいません……」  「いいのいいの。来年はあたしも十年目の長休もらえるから、その時に借りは返してもらうわ。だから後は任せておいて」そう言うと、手のひらで真寿美の背中をどんと叩いた。  真寿美は頭を下げて暇を告げると、小走りに階段を下りて更衣室のドアを開いた。  早くも帰宅組で混雑の始まった中、真寿美は一つの背中を見付けて声を掛けた。  「紗妃さん」  解かれた腰までの髪を揺らしながら、事務服のブラウスを脱いだ細い背中が振り返る。  「あ、お疲れ様」  紗妃は自分のそれとちょうど向かい合わせになるロッカーに真寿美が来ると、訊いた。  「今日はこれからどうするの?」  「もう帰るだけ。明日は予定あるけど」  「それじゃ、ご飯食べて帰らない?」  「うん、いいよ。どこで?」  「私のお気に入りのフレンチでどう?」  「了解。ナヴィのデータ転送よろしく」  紗妃がくすりと笑った。  「え?」と振り返る真寿美。  「ううん、今の言い方、何だか木津さんみたいだなって思っただけ」  「そ、そう?」向き直った真寿美は少し頬を赤らめていた。  「あ、もしかして明日の用事って、デートでしょ。木津さんと」  「えへ」  「そっかぁ」衣擦れの音をさせながら紗妃がつぶやく。「それじゃ、あんまり遅くなっちゃダメね。あとお酒も」  最後に付け加えられた一言に、真寿美の表情が強ばった。  「あの……あの時、あたし、ほんとにそんなに……ひどかった?」  「明日は失敗しないようにね」  紗妃がまた悪戯っぽくくすりと笑った。  「その木津さんも、休みの間は自宅に戻るんでしょ?」  頭を抱えていた真寿美は、その問いに表情を一変させて答えた。  「うん、明日はあたしが木津さんのお部屋まで迎えに行くの」  「迎えにって、普通は逆じゃないの?」と、支度を終えた紗妃が振り返った。  「うん、でも仁さんずぼらだから」  「そういう問題じゃないような気がするんだけど……」  駐車場に出た二人は、ヘルメットを抱えたウィンドブレーカ姿の背中を見つけた。  「安芸君も今日は早いんだね」  真寿美に声を掛けられて振り返る安芸。  「ああ、峰さん。紗妃さんもお揃いで。連れ立ってどこかお出掛け?」  「これから淑女の晩餐会です」と紗妃。  「……はあ」  「何かな今の間は?」真寿美が切り込む。  「気のせい気のせい」  「ところで安芸さんはお休みの予定は?」  「久々にツーリングでも行こうかと思ってます。アックスが出来て以来忙しくてご無沙汰してたから」と、片手でヘルメットをぽんぽんと放りながら安芸が答える。  「そろそろいい時期ですもんね。私もそうしようかな」  「え、紗妃さんオートバイ乗れるの?」  「安芸さんと違って中型だけどね」と真寿美に答えると、今度は安芸に「というわけで、ついていったら迷惑ですか?」  「全然。ただ今のところ計画も何もないけど、それでよければ」  「いいですよ。計画は全部お任せです。出発はいつ?」  「明後日の朝のつもりです。それじゃ、明日の夕方までに計画は送ります」  「よろしくです」  このやりとりを見ながら、真寿美は言った。  「本当に誰も気にしてないみたいよね、明日の捜査のことなんか」  「ディレクターが懸念無用って言ってるんだからいいんじゃないかな?」と安芸。「あの人が言うと、どういうわけか信頼出来てしまうから不思議なんだけど」  「それじゃ安芸さんも継続組なんですね」  「も?」  「私も、です」  「あたしも」  「峰さんは訊くまでもないけど」  頬を膨らませる真寿美を脇に、安芸は紗妃に尋ねた。  「で、饗庭さんは?」  紗妃は溜息混じりに答える。  「兄貴ですか? 相変わらずはっきりしないんですよ。私も訊いてみたんですけど、辞めるとも辞めないとも言わなくて」  「そうですか……」受ける安芸も溜息混じりに。「饗庭さんも腕は確かなんだけど、意に添わないことを続けるのは辛いだろうから」  「でも」真寿美が口を挟んだ。「今までの饗庭さんだったら、こんな話を聞いたらすぐにでも辞めちゃったんじゃないかな。それを今回は考えてたんでしょ?」  「煮え切らないだけよ」紗妃が切り捨てる。  「由良さんが当局に戻った上に饗庭さんが抜けるとなると、かなりきついことになりそうだからね」安芸が言った。「残ってもらえれば心強いんだけど」  「久我ディレクターはそのあたりをどう読んでいるんでしょうね?」と紗妃。「『ホット』のグループだってまだまだ相当の数が残っているのに、それに対して何人残るか……」  「休み明けにははっきりするでしょ?」真寿美が簡単に言った。  「そうね」  その頃、久我の執務室。  「で、お受けになるつもりなんぞはございますまいな?」  阿久津の問いに、久我ははっきりと答えた。  「もちろんです」  阿久津が確かめたのは、当局の指示の内四点目の後半についてだった。  久我の答えに満足そうにうなずくと、さらに問い質した。  「それで、如何にして切り抜けられるお考えか? 引き渡しがなければ、逆に口実を与えることになりますぞ」  「提出資料の収集と作成には十分な時間をかけて下さい」  久我の言葉に一瞬合点のいかない顔を見せた阿久津は、すぐににやりとした。  「承知しました。たっぷり一ヶ月かけることにしましょう。その間に」  久我がうなずいた。  「ただ一つ気になるのは」と阿久津。さっき浮かんだ笑みは、今は苦いものに変わっている。「向こうさんがペケを出してきたら、ディレクター殿は構わんのかも知れませんが、真寿美君やら饗庭の姫さんやらといった、元々関係のない人間にもケチを付けることになりかねんてことですがな」  「その判断をも含めて、各個人に業務継続の是非を任せました」淡々と久我が応える。  「みんながみんな、そこまで考えとるとは思えませなんだがな」  久我の応えの代わりに、別の声がインタホンから聞こえてきた。  「ディレクターいるかい?」  「万事承知でやっとるのはこの御仁ぐらいでしょうな」と阿久津が言った。  久我はインタホン越しに、声の主の木津に打ち合わせ中である旨を伝える。  「ああ、だったら構わない。休み中は俺も自宅に戻るからさ、こっちの部屋はどうするかって訊きに来ただけだ」  「貴重品等を残して置かれないなら、そのままで構いません」  「鍵もかけないでいいのか。あと、白虎のキー・カードも置いて行かなくていいな?」  久我がふと考えるような素振りを見せた。だがそれもわずかの間のこと、すぐに肯定の答えを返した。   「了解だよ」と言う軽い口調を変えず、木津はもう一言を付け加える。  「明日、まかり間違っても白虎を押収させたりしないでくれよな」  久我の返事を待たずに、「それじゃまた来週!」と言い置いて木津は立ち去った。  阿久津が一つ息を吐いた。  「なるほど、そういう懸念もなくはありませんな」  口中剤を取り出して口に放り込み、奥歯で二度がりがりと噛むと、阿久津は言った。  「この間に、VCDVも休暇ってことにしておきますかな。全車両の解体補修をやるいいチャンスですからな。手始めにG−MB以外の三両からいきますか」  久我が軽く頭を下げる。  「ご賛同いただけたようですし、早速今夜からでも手を着けるとしますかな」  久我の顔に疑問の意を見て取ったか、阿久津は付け加えた。  「明日の朝から露骨にバラし始めたんでは、言い訳が付きますまい。それに」  言葉を切った阿久津は、うつむき加減に、頻りに手指の爪をこすっている。  「不似合いなセンチメンタリズムと嗤って下すっても構いませんが……激務に赴く連中には、少しでも多く手を掛けてやりたいなんていう気持ちも無くはないもんでしてな」  「よろしくお願いします」  そう言った久我の声がどこか優しく聞こえたのは、阿久津の気のせいだったのだろう。  「それから、全車両のメイン・キー・カードのバックアップはいつでも破棄出来るよう準備をお願いします」 Chase 26 − 爆破されたLOVE  その日は朝から気温だけはそこそこ高いものの、薄曇りのどこかすっきりしない空模様だった。  朝食の後片付けを終え、一通り身支度も整えた真寿美は、開いた窓からもう一度空を見上げた。そこにあるのは起き抜け一番に見上げたのと何の変わりのない空だった。  今朝の天気予報は、これも昨夜からの予報と何等変わりなく、今日一日このまま良くも悪くもならないと言っている。  せっかくの日なのにちょっともったいない気はするけど、まあいいか。雨に降られるんじゃなければ、そうは変わらないし。それに今日の本当の目的は、天気なんか関係ないし。  窓を閉め錠を下ろすと、真寿美はテーブルへととって返した。そこには弁当箱が三つ、蓋をされ包まれるのを待っている。  その中身を真寿美はもう一度確かめた。その口から小さく「よし」という声が漏れる。  弁当箱一つ一つに丁寧に蓋がされ、重ねられると、カラフルなナプキンに包まれた。さらにそれを籐のバスケットに入れると、クローゼットの姿見の前に立ち、自分を包む服の方を確認した。木津にどこのお嬢様かと言われた秋の時とは違って、今日は若草色の七分袖のブラウスにストーンウォッシュのデニムのパンツ、肩に羽織っているのはオフホワイトの目の粗い薄手のセーターという軽快な出で立ちである。今度はどこのお子さんかとでも言われるだろうか。  真寿美の口から再び「よし」が漏れた。それを合図に、弁当入りのバスケットといつものショルダーバッグ、そして玄関口のフックから車のキー・カードを取り上げると、真寿美はドアを開いた。  いつものようにエレベーターには乗らず、部屋のある三階から地下の駐車場までを、階段で弾むように駆け下りる。パステルイエローの小さな車体は、昨夜の帰りに洗車を済ませたこともあって、埃一つかぶっていない。  真寿美はドアを開け、後ろのシートに荷物を入れると、運転席に小さな体を滑り込ませ、エンジンを始動させた。  同じ曇り空の下、木津のアパートに向かって真寿美が車を走らせている頃、工場区域の端を目指して走る車の列があった。  この季節にあってさえどこかしら荒涼としたものを感じさせる廃工場やその跡地を抜け、見るだけで何者かの見当が付きそうな黒塗りの二台と、後に続くワゴン車は、やがてその施設が活動していることを伺わせる、車の多く停まる駐車場の横を抜け、いささかくたびれたビルを後ろに控える「特殊車両研究所」の表札を掲げた門をくぐって止まった。  門の脇、守衛所の前に立っていた一つの人影が、それを認めて頭を下げた。  グレーのスーツに身を包んだその女は、久我涼子であった。  先頭の車から降り立った三人の男たちは、この出迎えにいささか驚きを禁じ得ない様子ではあったが、しかし久我の礼に応えることはしなかった。  リーダー役を務めるにはやや若すぎるように見える男が、紋切り型の台詞と共に捜査令状を取り出して久我の鼻先に突き出した。  その内容に目を通すでもないまま、久我もまた紋切り型の台詞で男たちを迎え入れる。そして客用駐車場の場所を指し示した。  二番目に立っていた男が振り返り合図をすると、三台の車が順に駐車場に向けてゆっくりと走り出す。  久我はその様子にほんの少しだけ遣った視線を戻すと、全く感情のこもらない口調で再度来訪を労う言葉を口にした。男たちは今まで当局では会ったことのない者たちばかりだったが、久我の落ち着き振りに一様に戸惑いを覚えているようだった。  久我の目がわずかに動く。後続の車の乗員たちのうち何人かが小走りに駆け寄ってきた。  「ではご案内申し上げます。こちらへ」  振り返る久我の醸し出す雰囲気に圧倒されたか、気後れさえ感じられる一団は押し黙ったままその後について歩き出した。  何度来ても分かりにくい場所だと真寿美は思う。ナヴィゲータ画面からの案内があるからいいようなものの、そうでなければ今日のように昼間に来ても必ず迷っているに違いない。表通りから入って小さい角をいくつ曲がったことか。そしてようやく目標の建物が姿を現した。  明るいうちに来るのは初めてだったが、その建物のみすぼらしさを見て真寿美は唖然とした。思わずナヴィゲータの画面を見て場所が間違っていないかと確認してしまった。しかしどうやら間違ってはいないらしい。確かにあんなエントランスだったような気がしなくもないし。  幅のあまり広くない道の端ぎりぎりに車を寄せて降りると、真寿美はエントランスに入る。管理人室の窓は閉め切られ、もう何ヶ月も開けられたことがないようだった。一応はまともに動いているエレベータに乗って、木津の部屋のある階へ。  隅に砂埃の溜まった廊下を歩き、目的の部屋の前で立ち止まる。表札は出ていない。少しだけ躊躇したが、多分間違ってはいないだろう。真寿美はドアチャイムを押した。  応えはすぐに返った。  「入ってます」  返す言葉に詰まった真寿美はその場に呆然と立ち尽くす。と、ドアが開いて木津が顔を出した。  「何を朝から飛んじまってるんだ?」  「……仁さんのせいですよぉ!」  「よし、じゃあ行くか」  「うやむやにしないでください」  笑いながら走り出す木津を真寿美は慌てて追った。  エレベータ・ホールの前で追いついてきた真寿美に木津が言う。  「しかし、今日はまた秋の時と全然違う格好してきたな。どこのお子さんかと思った」  「あ、やっぱり」  「何が?」  エレベータのドアが開く。  「そう言われるんじゃないかって思ってたんです」  「承知の上だったのか」と、乗り込みながら木津。「でも、そっちの方がいつもの雰囲気に近いんじゃないか?」  「お子さま風が、ですか?」  「厳密に言うと少し違う」  「大まかに言うと合ってるんですね?」  「真寿美、おまえ突っ込みを覚えたな」  ドアが閉じ、ゴンドラがゆっくりと降り始めた。  「で、厳密に言うと?」  「有無を言わせないし……」苦笑いの後、木津は言葉を継いだ。「そんな格好してる方が、いつも元気にぱたぱたしてそうで真寿美っぽいってことさ」  「えーと……今のは」  「ほめてると受け取っていいぞ」  真寿美は屈託のない笑顔で言った。  「ありがとうございます」  軋りながらドアが開く。エントランスの向こうには、空を映した小さく丸い車体がつやのない黄色を覗かせている。  最初に姿を見せた三人がソファに腰掛け、残りの男たちはその背後に立つ。見る者に威圧感を与えるはずのその様に、たった一人向かい合って座る久我は怯む様子も毫も見せることはなかった。むしろいつもとは勝手が違うことに更なる戸惑いを覚えているのは、捜査官たちの方だった。  捜査令状をテーブルの上に拡げると、リーダー役の捜査官が口を切った。  「この通り捜査を執行します。ただ、強制捜査ではありません。基本的には当方の要求する資料その他を任意提出していただく形になります」  「基本的に、とは?」  急に切り出された問いに、捜査官は一瞬口ごもると、答えにならない答えを返す。  「字義通りの意味です」  「お続けください」  無表情の久我に促され、捜査官は用意された原稿を読むような調子で言葉を継いだ。  「ただし一部資料に限っては任意ではなく必ず提出していただきます。拒否される場合は強制執行に切り替えます」  「結構です」  同じく無表情な声で久我が割り込んだ。思わず言葉を切った捜査官が久我の顔を見る。だがそこには声同様何の表情も見出だせない。  「ところで」と、腰掛けた内の二番目の男が口を挟んだ。「本日ご協力いただけるのは、久我さんお一人だけですか? 相当量の物件をご提出いただくことになるのですが」  「これまで当局の捜査支援に当たっていたMISSESの全ての記録は、資料化されていないものを含め私が管理しています。特に人手を介する必要はないと思います」  「資料化されていないものもあるわけですね?」  掛けたカマに見事に食いついてきた捜査官に、久我は応える。  「いくつかあることは否定致しません。もしお求めの物件にそうしたものがあったら、いかが致しますか?」  ソファに座った三人目の男、前の二人よりは幾分年嵩の、恐らくは二人を監督する役目を担って来ているのであろう男が言う。前の二人とは違う低い声で。  「資料化されていなくても何らかの形で記録は残されているはずですね?」  「記録というのは、厳密に言うと少し違います」と久我。「記憶に残っているだけです」  「記憶?」若い方の二人が鸚鵡返しに。だが年嵩の男は冷静だった。  「有形の記録は全て抹消済みということと理解しますがよろしいですね?」  「それは正しくありません」はっきりと久我は応える。「抹消したのではなく、最初から記録していないだけです」  「その真偽は強制捜査によって確かめさせてもらいます」  「結構です」という久我の応えは、今までの無表情ではなく、どこか余裕めいたものを感じさせた。「ですが、その前に御要望の物件を御呈示願えますか?」  左右からの視線に急かされるようにして、二番目の捜査官は鞄から一冊の薄いバインダを取り出すと、開いて久我の前に出した。それと同時に、捜査官たちの視線が一斉に久我に注がれる。  バインダを受け取った久我は、その中の三ページばかりのリストに一通り目を通すと、顔を上げて視線を真っ向から受け止め、何の感情をも交えずに言った。  「大半は御期待に添えるものと思います」  「全てではない?」  「残念ながら一部有形で残されていないものがあります」と言う久我はもちろん残念そうな素振りなど微塵も見せてはいない。  「どの物件が該当するか教えてください」  そう求めた二番目の捜査官は、久我がこちらに向けてバインダを差し出すのに気を取られてか、内ポケットから取り出したペンを床に落とした。屈み込む男の代わりに、最初の捜査官が自分のペンを手に久我に対した。  休日ならば一苦労どころでは済まないはずの駐車場への入場も難なく済ませ、真寿美と木津は車を降りた。  車の屋根越しに聳える珍妙な建物の群を見て、木津は言った。  「もしかしてここって遊園地ってやつか?」  「もう少しかわいい言い方もあるんですけど」と苦笑いしながら真寿美。「それでも大体合ってます」  丁度やってきたエントランス行きのカートに木津を押し込んで、その後から真寿美が飛び乗った。  徐々に近付く構造物を眺める物珍しそうな顔の木津に、真寿美は訊ねる。  「ここは初めてですか?」  「こういうところ自体初めてだ」  「ほんとですか? だって……」  言いかけて、しまったという顔をする真寿美。だが木津は後半を聞かなかったような返事をした。  「ほんとほんと。だからお手柔らかに」  真寿美は一転いたずらな笑みを浮かべる。  「いーえ手加減しません。腰が抜けちゃうまで遊んでもらいます」  「……今の台詞、何か卑猥だぞ」  「はい、今の発言はセクハラです。ペナルティ加算しますからね」  そう言いながら真寿美は木津の背中をどんどんと叩いた。  「ど、どうしたんだ真寿美? おまえ今日異様に戦闘的じゃないか?」  「お子さまはこういう場所では戦闘的になるんです。それに、行き先を任せてくれたのは仁さんですからね。覚悟してください」  木津は自分の顔に浮かぶ笑みが引きつっているのに気付いた。  やがてエントランスの脇に止まったカートからさっさと飛び降りると、真寿美は振り返り木津に言う。  「チケット買ってきますから、そこでおとなしく待っててください。はしゃいでどこか行っちゃだめですよ」  「へいへい」  何歩か歩き掛けて真寿美はくるりと向き直り、木津がその場を離れずに煙草をくわえたのを見て頷き、再び向きを変えると駆け出した。  あれは本当に子供だな、そう木津は思いながら遠ざかる後ろ姿を眺めた。が、それが行列の中に埋もれて見えなくなると、木津の思考は別のものに奪われる。  奴も今度こそ本気で来る、か。おばさんの読み通りに運べば御の字ってところだな。そう言えば、おばさんが奴について言ったことが完全に外れるというのは、これまでなかったんじゃないか。信用しておけば二年越しの決着を付けられそうだ。二年越しの……  木津は天を仰いだ。あれからもう二年になるのか。何もかもが暗転してしまった一年と、それを覆そうと動き続けた一年。その一年が終わったら、その後は…… 殺人犯扱いになるのか死体になるのか、どっちにしたって明るい未来じゃないな。それに何より、あいつが帰ってくるわけじゃない。そう思うと、皮肉な笑みがこみ上げてきた。仇討ちの終わりは、生きていようが死んでしまおうが、俺の終わりでもあるみたいだな。  と、唇の煙草の感触が不意に消えた。我に返ると、片手にチケットを、もう一方の手に木津のくわえていた煙草を持って真寿美が立っていた。  「何ぼんやりしてたんですか?」そして答えは聞かずに「ぼーっとしてると、これ鼻に差し込んじゃいますよ」と煙草を木津の顔に近付けた。それを奪い取ると木津は言う。  「あのー、真寿美さん、あなた本日戦闘的なのを通過して凶暴なのでは?」  「はい、それに気が付いたら行きましょう」  「分かった分かった! 分かったから引っ張るなって!」  物件の提出は順調に行われつつあった。  久我は自らの言葉通り、提出必須とされたものを含め、要求された有形の資料を自分一人で揃え、捜査官たちに確認させた。そして最初にソファに腰掛けた三人の指示に従って、残りの捜査官たちが資料を決して丁寧とは言えないやり方で次々と梱包していった。  立ち働く捜査官たちには目もくれず、久我は呈示されたリストを見ては列挙された資料を次々に出していく。そうして昼前にはリストのほとんどに収集済みのチェックが入った。  年嵩の捜査官がバインダを手にとってページを繰ると、それ毎に上から下まで、まるで記録されている事実以上のものを読み取ろうとでもするかのように、あるいは次の攻め方を思案しているかのように見入った。  久我はそれを黙ったまま見つめている。  資料の詰め込まれた箱を運び出す音を背景に、その沈黙は昼休みのチャイムが鳴っても続いた。  やがて最後のページを見終えた捜査官は、最初のページを開きなおすとバインダをテーブルに置いて言った。  「ここまではご協力に感謝します」  感情のこもらない謝辞に頭を下げた久我は、それ以上に感情のない言葉を返した。  「お続けになりますか?」  言われて捜査官は腕時計に目を遣ったが、それは明らかに次の台詞を引き出すためのジェスチュアでしかなかった。  「いや、もう昼も回ったようですし、一旦ここまでにしましょう」  「こちらの食堂でよろしければご案内差し上げますが」  「お願いしましょう」  真寿美は腰を下ろすと、持参のバスケットから取り出した包みをテーブルの上で開いた。姿を現す三段の弁当箱。上から順に蓋を外され、少しふらつきながら座り込んだ木津の前に並べられる。  「結構しんどいもんだな」  「朝ご飯食べてないからですよ」と満面の笑みを浮かべて真寿美が言う。「そう思って、がんばって作って来ました」  「はい、ありがたくいただきますです」  深々と頭を下げる木津を、真寿美が慌てて止めた。  「だめーっ! お弁当箱に顔を突っ込まないでくださいっ!」  すんでの所で止められた木津は、顔を上げるとサンドイッチを一つ摘み上げた。  「でもしんどいのは別の理由だぜ」  アイスティーを注いだカップを差し出しながら、問い掛けるように眉を上げた。  「自分でコントロールしてるんじゃないと、どうにも不安でさ。予想外の横Gとか加減速ってのは……」  そう答えると、木津はサンドイッチを一口に頬張った。  真寿美の眉がまた訊ねるように上がる。動く木津の顎を見る目。  木津は言葉を発する代わりに、おかずの箱に置かれたフォークで細工切りをされたウィンナーを突き刺して、サンドイッチを飲み下したばかりの口へと運ぶ。  どうやら答えを待つ必要はなさそうだった。  「でもVCDVに比べたら全然大したことないじゃないですか。それでもだめなんですか?」  「大小の問題じゃなくて、体が動きに前もって反応するかどうかだからさ」  「先に構えてちゃスリルがないですけどね」真寿美は笑いながら、自分もサンドイッチを一切れ取り上げた。「それじゃ次はおとなしめのにしましょうか?」  他の捜査官たちを資料と共に先に当局に戻らせた後、執務室に残った例の三人は、それまでと同様にソファに陣取り、コーヒーとその淹れ主とを前に、慌ただしくペンを動かしたりキーボードを叩いたりしている。  そんな様子と相俟って、そこは一種事情聴取の場のようになっていた。  専ら質問を浴びせてくるのは年嵩の男。だが久我はいずれの質問に対しても淀むことなくはっきりと答えていく。  やがて想定していた質問が尽きたのか、男は途切れた質問の合間に若い二人に視線を遣る。二人はややあってそれぞれに手を止めると、視線でそれに応えた。  年嵩の男が倦んだように久我に告げた。  「ここまでに、誤りはありませんね?」  「ありません」久我は静かに、だがきっぱりと答える。  「それならば結構です」と捜査官。「お尋ねする内容は、今回は以上です」  「今回は、ですか?」と訊ね返す久我の口調は疑義を含んだものではなかった。  「証拠分析の結果如何では、追っての調査にご協力いただくこともあり得ます」  頷く久我に、いきなり世間話のような口調になって捜査官が言った。  「ところで、VCDVの実物を拝見させて頂きたいのですが? 特一式は知っていますが、他のモデルがどんなものかも、捜査の予備知識的に知っておいた方が有利ですから」  「残念ながら」今度は久我が想定済みの台詞を切り出す番だった。「現在全車両が解体整備作業に入っています。捜査支援の任を解かれた今がいいきっかけでしたので」  「なら仕方ありません」  この言葉で、若手二人が手元の道具を片付け始めた。今の話が世間話などではなかったことをそれが裏付けてしまっていた。  若手二人が、そして年嵩の男が立ち上がる。  「では以上とします」と、今日最初に話を始めた若手の一方が言う。「失礼します」  「では表までお送り致します」  久我が腰を上げ、三人をドアの方へ導いた。  薄暮の中、決して多くはない園内の人波は、それでも鎮まることを忘れたかのようにさざめいていた。  「来ました!」  真寿美が少女のように目を輝かせる。その指差す方を見ると、華やかな電飾と軽やかな音楽を伴って、マスコットキャラクターやら何やらを満載した山車がゆっくりと近付いて来る。  周囲にははしゃぐ子供の声。手を繋ぎ、腕を組みあるいは互いの体に回して立つ男女。  そんな中にあって、木津と真寿美は言葉を交わすことも相手に触れることもなく、山車を見つめていた。  執務室のドアが開く。  入ってきた久我は特に疲れたような様子も見せず、応接のテーブルへと歩み寄ると、そこに置かれたままになっていた押収物件一覧の写しを手に取り、そのままソファに体を預けるとページを繰った。  その選定が当局独自の発案によるにせよ、「ホット」の入れ知恵によるものにせよ、それらの物件は押収され分析され、その場でどう曲解されたところで、MISSESに、そして久我の行動に何等の影響を与えるようなものではないはずだった。  写しを揃え直してテーブルに置き、久我は一つ息を吐いた。  恐らくはこれであの人の初手を封じることは出来ただろう。だが今日の感触では、あの人がこの捜査の結果に何かを期待しているようには思えなかった。これは次の手段への単なるステップに過ぎないのだろうか。だとすれば、次に講じられる手段とは? それが力を以ての直接的な手段であれば、それに応じるという形で、今度こそあの人を完全に止めてしまうことが出来るだろう。ようやくあの人の振りかざす狂気の矛先をこちらに向けることが出来たのだから。あとはこれまでの二年近く復讐に餓えてきたあの男をあの人に向けて放ちさえすれば、それで全ては終わるはずだ。あの男の復讐と共に、私のそれも。  ふと久我は喉の渇きを覚えた。思えば今日は振舞いはしたものの、自分自身は全くコーヒーを飲んではいなかった。  テーブルの上には、聴取に残った三人が使ったコーヒーの簡易カップが、片付けられないままに並んでいた。  コーヒーメーカーに目を遣る。サーバーの底にわずかに残ったあの分量では、一杯分にも満たないだろう。峰岡がいれば、こういうことはないのだが。  腰を上げた久我は、使用済みのカップを三つ重ねて屑物入れに落とし込み、コーヒーメーカーから下ろした空同然のサーバーを片手に、執務室を後にした。  残る車の影もほとんどなくなった夜の駐車場に、二人が乗ったカートが静かに停まった。  降りるなり木津はげっぷを一つ。  「やだ、仁さん」  真寿美の声に木津は身構えたが、予想していた攻撃はなかった。  「おいしかったですか?」車へと歩を進めながら真寿美が訊ねる。  「今日の昼飯にゃ負けるけど」  「そういうことにしておきましょう」  「あ、かわいくねーの」と言いながら、木津は真寿美が昼間見せた攻撃性が影を潜めてしまっているのに気付いた。  だが木津は、そしてまた真寿美も何も言わず、車の場所へと歩き続けた。  やがて視界に入った見慣れた車体は、がらんとした中に取り残され、遠い照明にぼんやりと黄色い影を浮かび上がらせていた。  助手席のドアの前で真寿美が立ち止まり、木津へと向き直ると言った。  「今日は楽しかったですか?」  「ああ、おかげさんで」答える木津は、事実満更でもなかったという顔をしている。  「よかった。あたしも楽しかったです」そして少し面を伏せ気味に続けた。 「仁さん、今日のお礼を言いたいんですけど」心なしか早口だった。「でも、その前にもう一つだけお願いしてもいいですか?」  「ああ」と答える木津の怪訝そうな表情は、陰になってはっきりとは見えない。  真寿美はうつむいたまま言葉を続けない。  「どうした?」  「すごくわがままなお願いなんですけど」  「だから何さ?」  「……あの、ですね」ようやく顔が上がる。「仁さんが、七重さんのこと忘れられないのは分かってます。だからずっととは言いません。ただ一分、ううん、十五秒だけでいいですから……」言葉の最後は絞り出すようだった。「恋人の役を、やらせてください」  木津が返事を出来ずにいると、真寿美がまたうつむいて、ぽつりと言った。  「……ごめんなさい、変なこと言って」  そして木津に背を向けると、運転席の方へと早足に歩き出す。  が、その肩を木津がつかんで止めた。  真寿美の体が舞うように翻った。 その両腕が木津の首に回され、肌と肌が触れ合う。  真寿美は木津の目を正面から見据える。  「いいん……ですか?」  木津は自分がかすかに頷いたような気がした。そして次の瞬間、自分の唇が真寿美の唇に塞がれるのを感じていた。それは木津にとっては、二度と記憶の中から呼び覚まされることはあるまいと信じていた感触であり、また記憶の中にあるのと変わることのない感触だった。  やがて唇は離れていったが、巻き付けた腕はそのままに、真寿美は木津の胸に頭を凭れかけさせていた。  そこに小さく聞こえた電子音に、真寿美ははっとしたように木津から体を離した。  「十五秒計ってたわけじゃないよな?」  「いいえ、電話です」答える真寿美は顔を曇らせている。  「電話?」  真寿美は車のドアを開けると、計器盤に組み込まれた電話の表示を見た。  「研究所から……?」  「何かあったな」と、ドアから木津も半身をねじ入れてくる。  受信のボタンを押し、真寿美が名乗ると、向こうからは聞き慣れた声が、聞き慣れない口調で呼びかけてきた。  「おお真寿美ちゃん、やっとつかまった!」  「阿久津主管?」  「阿久っつぁんだって?」  「仁ちゃんも一緒か、そいつぁ助かった」  「何か、あったんですか?」  興奮気味に阿久津は答えた。  「え、え、え、え?」  狼狽する真寿美。  そして木津は阿久津の言葉を理解することが出来ずに聞き返した。  「何だって? 阿久っつぁん、もう一言ってくれ。何があったって?」  「いいか、落ち着いて聞けや。久我ディレクターの執務室で爆発があった。ディレクターは重傷で、今医務室で手当を受けとる。他のMISSESの面子には連絡済みで、みんなこっちに向かうと言っとる。おまえさんたちも出来れば急いで来てくれ。いいかな?」  答えを待たずに電話は切られた。  真寿美の青ざめた顔が木津を見上げる。その唇は小さく震えていた。 Chase 27 − 語られた過去  車の窓越しに見上げる社屋には、暗いせいもあって、爆破による損傷の痕をはっきりと認めることは出来なかった。  がらんとした駐車場に、木津は車を飛び込ませる。  転げ出るように車を降りた真寿美は、社屋を再び見上げる。割れた窓からわずかに煙が立ち上り、ただでさえ煤けた感じの壁をさらに汚している。  木津もそれに目を遣ると、言った。  「大したことはなさそうだな」  真寿美は黙ったままでいる。  「とにかく行くぞ、ほら」  木津は真寿美の背中を突き押して、非常ドアへと急がせた。  二輪車置き場を通り過ぎるとき、見慣れたメタリック・グレーの大型の二輪車と、その横にそれよりは形の小さいキャンディ・レッドの二輪車が並んでいるのが見えた。  「進ちゃんと姫はもう来てるみたいだな」  真寿美は震える指でドアの暗証番号を押すが、入力エラーで二度拒否された。  木津が真寿美の両肩に手を置く。  「落ち着け」  左手を添えながら一つ一つのキーを押し直す。最後の確認キーに、小さな電子音と硬質な機械音が返り、今度こそ施錠が解除されたことを二人に報せた。  ドアを押し開け、木津は通路に身を躍らせる。だがドアの閉じる音の後に自分の足音しか聞こえないのに気付き、振り返る。真寿美はドアの所に立ち尽くしたままだった。  「どうした?」  ほとんど聞き取れないほどの真寿美の声。  「……怖い」  「何が?」  答えはない。  木津は引き返し、真寿美の正面に立った。  「何が怖いんだ? まだどこか爆発するんじゃないかとか思ってるのか?」  「……そうじゃないです」  「じゃあ何だ?」  「……ディレクターが……」  と、真寿美は木津の拳に軽く頭を叩かれて首をすくめた。  「重傷だとは言ってたけど、それ以上は何も言ってなかったろ?」と言いながら、木津は真寿美の背中を押した。  「とにかく行くぞ。考えるのはその後でいい。ほら」  なおも鈍りがちの足取りの真寿美を引きずるように、木津は廊下を走った。  医務室の前には五人の影が沈黙のうちに寄り集まっていた。その一つが、近付く足音に気付き、沈黙を破った。  「木津さん、真寿美ちゃん」  「状況は?」と木津は紗妃に訊ねる。  「まだ何とも……」  今にもへたりこみそうな真寿美を紗妃の横に座らせて、木津は今度は阿久津に問う。  「どういうことなんだ?」  「当局の連中が帰って間もなくだ。爆発は執務室の中であったらしい。たまたまディレクター殿は部屋を出ていて直撃は免れたんだが、飛んできた壁やら何やらを背中にしこたま喰らってな」  木津は思わず自分の後頭部に手をやった。  「今、うちの連中と小松君に現場の調査をさせとる」  「うちのって、阿久っつぁんとこの?」  阿久津の目が険しい光を帯びた。  「……このタイミングの良さで、当局の連中にやらせられるか?」  木津は黙ったまま腕を組むと、医務室のドアを見つめた。  木津と同じように腕を組んで、安芸は壁に寄り掛かっている。その横で落ち着かない様子で両の拳を打ち付けている由良。その向かい、妹の横で腰を下ろした饗庭は目を閉じたままでいる。が、眠っているのでないことは時折唾を飲み込んで動く喉元からも分かった。  長く長く続く、廊下の灯火のほんの微かなちらつきさえも聞き取れそうな程の静寂。それを早足の靴音と、聞きつけて振り向く衣擦れの音とが破った。  近付いてきた小松が木津と真寿美に小さく頷くように会釈すると、阿久津に言った。  「A棟は全部チェック完了です。爆発物はなし。他の棟には部外者の立ち入りはなしです。監視カメラの記録から間違いないです」  「そうか……」  「A棟内でも、他のフロアへの影響はとりあえず無いようです。もっとも正確には検査が必要ですが」  「巻き添えを喰ったのはディレクターだけなのか?」と問う木津は、この場ではさすがにおばさん呼ばわりはしなかった。  小松が首を横に振った。「巻き添えじゃあない。こいつぁ明らかにディレクター殿を狙ったもんだ」  全員の視線が一斉に阿久津に集められる。その一つ一つを見返すと、言った。  「爆発の中心は執務室だ。その一つだけとっても証拠としちゃあ十分だ」  「『ホット』が直接久我ディレクターを狙った、ということになりますね」と安芸。  「え?」紗妃が面を上げる。「MISSESの指揮を執っていたのが久我さんだって、『ホット』は知っていたんですか?」  何故か言い淀む阿久津の代わりに木津が言った。  「そりゃそうだろ。ディレクターは当局に何度も顔を出してるんだし、あっちに面が割れてたところで不思議はないさ。ところで、事が起こってからどれぐらい経つ?」  阿久津が腕時計を見て答える。  「三時間……半ってとこか」  「長いな……」  そう言いながら木津はまた医務室のドアに視線を移す。と、かちりと小さな音を立ててそのドアが開いた。  他の視線も一斉に動き、姿を現した医師に注がれた。医師は天井を仰いで一つ息を吐いてから、徐に口を開いた。  「ひとまず生命に別状はないでしょう」  そこここから安堵の声が漏れた。  「ただ」医師が再び口を開く。「怪我自体はかなり厄介なものでした。ドアのガラスが粉々に吹き飛んだのを背中から後頭部にかけて浴びていまして、その摘出と止血に時間と手間が掛かりました」  木津はまた自分の後頭部に手を当てた。  「で、意識は?」と阿久津が訊ねる。  「じきに戻ると思いますが、鎮痛剤の投与もありますので、すぐに現場復帰という訳にはいかないでしょう。しばらくはこちらで経過観察ということになります」  「左様ですか……」と阿久津は応えると、翳りの差した顔に向けて言った。  「対応の体制を作らにゃあいかんな。とりあえずは場所を移すか」  阿久津の事務室に続く作業部屋。無骨な作業台は、八人が取り囲むと手狭であった。  椅子を携えて最後に部屋に入ってきた阿久津が、その様子を見てすまなそうに言った。  「窮屈で申し訳ないが、そういう部屋じゃないもんでな。我慢してくれや。それで、まずは誰がディレクター殿の代役を務めるかを決めておかんとな」  「その役目は阿久津主管がされるんじゃないんですか?」  紗妃の問いに、阿久津は首を横に振った。  「技術屋の儂が音頭を取るってのは、畑も筋も違うだろう。ここはアックス・リーダーに任せるべきなのかも知れんが、由良君は帰任命令が出とるそうだしな」  「それに戦略的指揮と戦術的指揮とでは違いがありますからね」と安芸が言った。「戦略的指揮者が現場に出てしまうと、判断が難しくなるでしょうから」  「難しいことはよく分からんが」阿久津が遮ったところに、木津の言葉が続く。  「難しいことなんかないだろ。要は奴を捜し出して叩いちまえば終わりなんだから。進ちゃんの言う現場の指揮者だけでいい」  「いずれにせよ誰かしら必要なことにゃあ違いあるまい。そう言えば、確か任務を継続するかどうか、お主たち自身で決めろと言われてるそうじゃないか。誰が残るか残らんかが知れんことにゃ、それも決めようがない」  阿久津は居並ぶ顔をぐるりと見渡す。  「一週間かけて決めろと言われとっただろうが、そう悠長なことも言っておれなくなったな。とりあえず今の時点で腹を括っとるのは誰と誰だな?」  迷うことなく五つの手が上がった。  その中には阿久津の、そして多分他のメンバーも予想しないものがあった。  「由良君……?」  末席に集まる視線。そこには決然と挙手を続ける由良がいた。  「でも由良さん、当局に……」  「当局には戻りません」と手を下ろしながら言い切る由良。「戻りません」  「どうして……ですか?」  訊ねた真寿美は、答える前に由良が歯を食いしばるのを見た。  「今までも組織の硬直や『ホット』との癒着を見せられてきましたが、今回のことは決定的です。当局にはもう……戻れません。いえ、もう戻りません」  「それで」と、聞いているのが辛くなったか阿久津が頭を振った。「小松君と饗庭君はどうするね?」  小松が迷いの表情を浮かべながら饗庭の方を見る。饗庭は目を閉じ腕を組んでいたが、その腕が解かれ、ゆっくりと挙げられた。  紗妃が思わず驚きの声を上げた。そして阿久津も木津も、さらには由良も、声こそ上げなかったが驚きを禁じ得なかった。  饗庭は黙ったまましばらく挙手を続けたが、やがて挙げた時と同じく静かにその手を下ろした。  「小松君は」阿久津が平静を装って言う。「負傷続きで体がきつかろう。無理はせん方がいいかも知れんな」  「いや」思わず小松は口走った。「そんなことはないですし、そうだとしてもこれで万事収まるなら問題ないですし、それに一人で静観しているのも悪いですし」  「何のことぁねえな」と木津。「結局全員参加か。おばさんも草葉の陰でさぞ喜んでるだろうぜ」  「今だから聞き流せる冗談ですね」真寿美が何か言いそうなのを見越して、安芸が苦笑しながら言った。  「それじゃあ、後はめでたくアックス・リーダーに任せて、こっちは裏方に引っ込ませてもらうとするか」と阿久津が腰を上げた。「VCDVも早いとこ組み上げちまわんとならんからな」  が、ドアを開けようとした阿久津の手が空振りする。外からドアが開けられ、一人の所員が顔を出したのだった。  「木津さん、いらっしゃいますか?」  「ああ」  木津が答えながら顔を向ける。  「今医務室から連絡がありまして、久我ディレクターがお呼びなのですぐに来て欲しいとのことでした」  「え?」  そこにいる全員が反応を示した。  「意識が、戻ったんですか?」立ち上がり、身を震わせながら真寿美が訊ねる。  「でも何で俺を?」  戸口に立っていた阿久津が木津の所まで戻ってくると、意味ありげな口調で促す。  「直々に言いたいことがあるんだろうて。ほれ、急いで行って来んか」  医務室の扉の前に立つと、ここに来るまでに山ほど湧いて出ていたはずの疑問符が悉く霧散してしまった。  インタホンのスイッチを押して名乗る木津に、中から抑えた声で入るようにとの返事。  ドアを静かに押し開けると、例の剽軽な看護婦が神妙な面もちで出迎えた。  「どうだい?」  「お待ちかねです。目を覚まされて、状況の説明を聞かれるとすぐに木津さんをご指名でしたから」  「そうか……」  「私は外しますから、何かあったらすぐにインタホンで呼んでください」  そして看護婦の指し示したカーテンの方に歩み寄ると、声を掛けた。  「入るぞ」  答えなのか呻きなのか分からないが、声が聞こえた。  カーテンを引いて、木津はベッドの脇に立つ。ベッドの上には、シーツを丸めて置いたような白一色の盛り上がり。だがよく見れば、その一端に包帯を巻かれ顔を木津と反対の側に向けられた頭部の存在が識別できた。傷の治療のために後頭部の髪は落とされてしまったのだろう。  「気分はどうだい……って、いいわきゃないよな、そりゃ」  答えはなかったが、横たえられた頭部がわずかに動いた。  「しかし『ホット』も随分と派手な真似をしやがるぜ。あんたも災難だったな」  「……いいえ」  しわがれきった声ではあったが、その応えははっきりしたものだった。  「いいえ、あの子に比べればこんな……」  「あの子?」  問い返す木津に答えは返らない。だが一時たりとも忘れはしなかった名が木津の口をついて出た。  「まさか、七重のこと……か?」  久我が微かに頷いたように見えた。  「やっぱり知ってたのか」と言いさして、木津は気付いた。「でも何であんたが七重を『あの子』だなんて呼ぶんだ? まさか知り合いだったのか?」  向こうを向いたままで久我は答える。  「七重は……相馬七重は、私の従妹でした」  「従妹?」  そう言えばそんなことがあったかも知れない。自分自身はメカニックにてんで疎い七重が、その方面に強い従姉がいると言っていたようなことが。  「従妹……か」木津は繰り返す。「そうか……知り合いどころか血縁関係だったとはね。てことは、順調に行ってりゃ、あんたとは親戚になってたんだ。結構笑えるかもな」  だが笑いはせずに、脇からスツールを引き寄せると、木津は腰を下ろした。  「それじゃあ、あんたにとっても『ホット』は従妹の仇だったってわけか。で、そのためだけにVCDVだのMISSESだのって大掛かりなことをしたんじゃあるまいな?」  「それだけではありません」  「まあそりゃあそうだろう」  「いいえ」  久我の否定に、木津は思わず見えない久我の顔を見ようとした。久我は顔を向こうに向けたまま続ける。  「いいえ、あなたの思っていらっしゃるのとは違います。あの子の、七重のためだけではありません」  そう言って久我は寝返りを打とうとしたが、体は思うように動かない。木津が止めた。  「無理するな、俺がそっちに行くから」  スツールを片手に立ち上がった木津を、今度は久我が止めた。  「いえ、そのままで……」  「どっちなんだ」木津は苦笑する。  「そのままでお願いします」と久我。その声は少し震えを帯びている。「きっと、私は醜い表情を見せてしまいますから」  久我らしからぬ台詞にとまどいながらも、木津は再び腰を下ろし、黙って次の言葉を待った。  続いたのは、沈黙。  木津は横たわる久我の後ろ姿を、頭に巻かれた包帯を見つめ、それが動きを見せるのをひたすらに待った。が、動きはない。  「無理するな」木津は言いながら立ち上がった。「手術の後だ。また今度聞かせてくれ、体調がそこそこ戻ったらな」  「待って」  敬語を交えない久我の口調が、踵を返しかけた木津をもう一度振り返らせた。  「七重のためでは……ありません」  立ったまま木津は久我の背中を見下ろす。布団の中にあってさえ、それが強ばっているのが感じられた。  「私自身のためです」  「あんた自身の?」木津は腰掛けるのも忘れて言った。  唾を飲み込む久我。呻きが漏れる。  「痛むか?」  久我はそれには答えなかった。  「お気付きかも知れませんが、私個人として『ホット』とは面識があります。いえ、面識以上のものがありました」  「まさか奴も親戚だなんて言うんじゃあるまいな?」  「あの人は、かつて私の同僚であり、競争相手であり、そして……夫でした」  「夫?」  木津は思わず素頓狂な声を上げていた。しかし久我の声は不思議な程冷静だった。  「でも、今のあの人は壊れています。そうさせてしまったのは私かも知れません」  木津はやっと腰掛けると、身を乗り出してその意味を訊ねた。  「私とあの人は、同じ所で共に特殊車両の研究開発に携わっていました。お互いに方向の違うものを目指して競争心を持ちながら、相手の能力を認め合っていました。ただもう一つ違ったのは、あの人が私に認めていたのが、技術者としての能力だけだったということです。人間性でも、女であることでもなく」  言葉が切れたが、木津は何も言わない。その顔は少し久我の背中から背けられていた。  「私たちが結婚して間もなく、研究の審査があり、今のVCDVにつながる私の試案が公式に採用されることになりました。その時の対案だったのがあの人の案件でした。詳しい内容は知ることが出来ませんでしたが、あの人の口振りから私の技術を踏み台にしたことは伺えました」  「それで臍を曲げたのか」  「でもそれは尋常ではありませんでした。踏み台にしたつもりの相手に敗れ、しかもその相手と既に意味もないのに一緒に暮らしているということも精神的な負担になったのでしょう。それ以来あの人は自分を受け入れないもの全てに極端な反応をするようになりました。その一方で続けた研究は道を外れ、一般には受け入れ難いものになっていきました。それが受け入れられないことでまた……」  「悪循環ってやつだな」吐き捨てるように木津は言った。「その腹いせに馬鹿どもを集めて騒いでたのか。元女房のあんたにゃ悪いが、ガキだな」  「そうですね……」久我がつぶやく。「どうしようもない子供だったんです。人の想いを酌むことが出来ないほどの、それどころか人の全てを否定してしまうような子供」  「でも、それだけか?」と木津が訊いた。「あんたが元亭主を追いかける動機にしちゃあ、ちょっと弱い気がするんだが」  久我は明らかに答えあぐねていた。が、顔を隠すかのように身を強ばらせると、今までよりも明瞭さを欠いた口調で語り始めた。  「あの人が私の全てを否定するために選んだのが、七重でした」  「え?」  久我はまた言葉を切る。だが木津もその先の想像がついたのか、先を促しはしなかった。  「あの人は、一度私たちの所に顔を出したあの子を見て、おぞましい感情を抱くと同時に私への意趣返しを目論みました。私の前で露骨にあの子の気を惹こうとしたんです。私が止めてももちろんそれは聞き入れようとはしませんでした。それどころか、やり口はエスカレートする一方でした。そうやって、あの人は私の感情を踏みつけにしました」  また言葉を切った久我は、自嘲を感じさせる口振りで言った。  「きっとあなたはそんなものがあるとは信じられないでしょうが、女としての私の感情を、そんなやり方で踏みつけたんです」  木津は両膝に肘を突いて頭を垂れた。  「つまりは饗庭の兄ちゃんの読み通り、あんたも私怨で動いてた、と。しかもとことん感情的なもんで」  「否定は……しません」  「で、七重は?」  「あの子も最初は冗談だと思っていたようですが、あまりに露骨になるので、ある日はっきりあの人に言って断りました。自分には既に先を約した相手がいる、と」  木津のスツールが軋んだ。  「……その後の顛末はあなたご自身が体験された通りですが、きっと裏側の真実はご存じないでしょう。あれは、あなた個人を狙ったものでした。あの人は七重の言葉に出てきた相手が誰であるかを調べ上げ、そして排除しようとしたんです」  無意識に片手を後頭部にあてがい、木津はあの日のことを思い出した。  マシンのことなど分からないくせにピットまで降りてきて、横でにこにこしながら俺の作業を見ていた七重。コースへマシンを出す時も俺の後ろに続いて。  そこに無人の小型トラックがマシンめがけて突っ込み、マシンに乗り上げて止まる。  何を思ったのか、先に逃がしたはずの七重が俺の背中に回った。  「仁! 逃げて!」  その声が爆発音にかき消される。  首筋に破片を浴びた痛みよりも、吹き飛ばされのし掛かってきた七重の体の軽さの方が遙かに痛かった。  かき抱いた七重はただ目を閉じているようにしか見えなくて、でも背中に回した手にはぬるぬるとした血の感触があって、呼び掛けには応えることがなくて。  「何で……? 何で七重がこんな? 何で俺が……?」  呆然と繰り返す俺に応えるかのように、ホット・モーター・ユニットの爆音が。はっとして振り向くと、この一件を見届けて悠然と去っていく、そんな車の影が遠ざかる。  俺は直感した。あの「ホット」が……  「その後間もなく」という久我の声に、木津は我に返った。「あの人は研究所と私の許を去りました。あの事件の捜査の手があの人に伸びたわけではなかったのですが」  「あんたが告発するってのは考えなかったのか? やったのが旦那だってことは分かってたんだろ?」  久我はそれに答える代わりに言った。  「あの事件は、私が行動を起こすきっかけになりました。あの人を止める行動の」  だがそこで久我は口ごもる。  「あの人が狙っていたのはあなたです。でも死んだのは七重だった。あの人自身の行動の結果がそれだったのに、あの人は七重の死の原因があなたの存在にあると思っています。私に対してこのような手段を用いて来たということは、あの人は、次はあなたの命を奪う気でいるはずです。しかも、恐らくは私の技術理論を使って」  「あんたの理論って、つまり奴もVCDVを持ってくるってことか?」  久我は頷いた。  「上等じゃないか」簡単に木津は言った。「受けて立つまでさ。どうやら話がとんとん拍子に進みそうで、うれしいじゃないか」  「……お怒りに、ならないのですか?」  いきなりの久我の問いを、木津は理解できなかった。  「何を?」  「もうお分かりでしょう、私があなたをここにお呼びした理由が」  「ああ、あんた自身の仇討ちのためだろ? それがどうした?」  「私は、あなたを利用していたんです。私怨のために、自分が直接手を下せない復讐のために、あなたの感情を利用していました」  「だったらそういうことにしておけばいい」と言う木津は穏やかな顔をしている。「あんたがどう考えていようが俺には関係ない。俺は俺で奴に七重と、そして俺自身の復讐をする。それだけのことさ。それがたまたま結果としてあんたの復讐になるなら、あんたにしてみりゃ棚から何とかってやつだろ?」  そして木津は久我の背中に笑い掛けた。  「それだけのことさ」  が、久我の背中が急に震え出した。木津は掛けようとした声を呑んだ。震えは次第に、そして明らかに嗚咽になっていった。その中からか細い声。  「……ごめん……なさい」  木津は立ち上がって笑った。  「思い上がるなよ」  そしてベッドを回ると、久我の正面に立った。久我は布団に顔を埋めたが、震える肩は見えない表情を代弁して余りあった。  だが木津は笑顔を崩さずに言った。  「あんたの感情と理論と機体は利用させてもらうさ。だがな、けりを付けるのは俺だ。あくまで俺が、俺自身の考えと俺自身の手でな」  震えながらも久我は布団の中で頷いた。  「しかし」と、木津が言った。「俺と同じ所に同じような傷を同じ相手から喰らうってのも因果なもんだな」  木津は布団の、久我の頭の埋まっている辺りに手を伸ばす。が、何にも触れずにその手を引っ込めた。  「まあいい」  そして踵を返すと、振り返って言った。  「あんたはせいぜい養生してろよ、久我さん」  戻ってきた木津に、真寿美が真っ先に問いを発した。  「ディレクター、どうでした?」  見回せば無言ながら同じことを問うている視線がいくつも木津に注がれている。  「大丈夫だ。長話できる程度だから」  「何の話だったんですか?」  それには答えず、木津は阿久津に言う。  「リーダーの件だけどさ、俺がやったんじゃまずいか?」  由良が木津を見た。ちらりとそれを見返すと、木津は続ける。  「リーダーでも囮でもいいから、とにかく俺が陣頭指揮を執ってれば、奴は黙っちゃいないだろうさ。こっちが黙ってても、奴は必ず来る。請け合うぜ」  不安そうな面もちの真寿美。その横から紗妃が訊ねる。「どうしてですか?」  木津はにやりと笑う。  「涼子ちゃんの霊感。あれって良く当たるだろ?」  「涼子ちゃん?」思わず安芸が声を上げた。  「あれ? 違ったっけ、ディレクターのフルネーム」  「いえ、合ってますけど……」  「で、どうだ?」と木津は全員を見回した。  「儂は反対だな」阿久津が言った。  「どうして?」  「お主は『ホット』だけを相手にしとりゃよかろうがな、こっちにもあっちにも他のメンバーがおる。そっちはどうする?」  「んじゃリーダーは遠慮しとく。その代わり囮の役と奴の相手は譲らないぜ」  「仁さん」  一旦帰宅する車の中で、真寿美が助手席の木津に呼びかけた。  「ん?」  「囮って、どういう意味ですか?」  「相手を誘いよせ、おとしいれるために利用するものや人。以上国語辞典の定義より」  「そうじゃなくってですね」  乾いた笑いと共に真寿美は切り返すが、その後どちらからも言葉はなかった。  真夜中を過ぎてもまだ「内橋」からは都市区域の華やかな灯火が見て取れる。  「仁さん……」と再び真寿美。  「何じゃいな?」  「危ないことしちゃ駄目ですからね」  木津は答えない。  「駄目ですからね」繰り返す真寿美。  木津はにやりと笑い、真寿美の頭を掌で軽くぽんぽんと叩いた。  「結婚、するつもりだったんだ、七重とは」  「今でもですか?」  特に動揺した様子もなく問い返す真寿美だったが、言ってみてから慌てていた。  「あ、ごめんなさい、変な意味じゃないんです。ぼけっとしてました、ごめんなさい」  木津もぼんやりと答えた。  「どうなんだろうな……」 Chase 28 − 追い詰められた仇敵  疲労で真っ赤になった目を何度も瞬かせながら、阿久津は立ち止まり立ち止まり、並んだ七両のVCDVを順に見て回った。  組み上げられたばかりの車体はロールアウト直後と見紛う程だった。もちろん手が入れたれたのは外装だけには留まらない。内部機構についても同じ、いや、より以上の作業を、ここ数日の阿久津は続けてきた。どんなわずかな機構の狂いや部品の緩みをも見逃すことなく。その最後のチェックが、他に誰一人立ち会わせることなく、今行われている。  阿久津の目は厳しい中にどこか優しくかつもの悲しいものを湛えていた。  青龍を離れ、阿久津は白虎と朱雀の間に進んだ。そして白と緋の車体を代わる代わる見ている。どちらを最後にするかを決めかねているかのように。  「仁ちゃん、いるんだろ?」  ドアの外から声が聞こえる。だが木津は出ようとしない。  「仁ちゃんてばさぁ。帰ってんだろ?」  確かに一週間近く前から帰ってはいるが、とても呑みに出るような気分ではなかった。  がらんとした部屋の中、組み合わせた手を枕にベッドに寝転がって、ここ数日来の懸案を今日も木津は考えていた。どうすれば『ホット』を自分の前に引きずり出せるかを。  だが相変わらず答えは出てこなかった。頭の下の指を動かし、古傷に触れてみても、状況は変化しなかった。  外からはまだ自分を呼ぶ声が聞こえる。  溜息を吐きながら、木津は壁際に寝返りを打った。  もしかして俺って頭悪いのかな……  そう思ったら、何故か頭の中に真寿美の顔が現れ、今の言葉を否定した。  そんなことないですよぉ。  指で唇を弾きながら木津は苦笑する。キャストが違ってないか、と。  だがそのキャスティングは無意識にではなかったらしい。ドアの外の声が自分を呼ぶものから誰かと話をするものに変わっていた。その相手の声は、聞き覚えのある高く弾けたものだった。  木津は上体を起こした。  窓の向こうから聞こえてくる声。  「……仁さん、じゃない、木津さんいらっしゃらないんですか?」  「車は置いてあるから、いると思ったんですけどねぇ。で、あなたはどちらの関係の?」  「あ、あたしは木津さんの、えっと、職場の関係者です」  木津はつい吹き出した。その表現、間違っちゃいないが何か変じゃないか?  「ああ、そうなんですか。で、仕事の方のご用で?」  「いえ、そうじゃないんですけど……」  おいおいカンちゃん、そこで妙な突っ込み入れないでおいてくれよ。と思いかけて、木津はふと考えた。俺はカンちゃんに仕事をしてるなんて話をしたことがあったか? なかったような気がするんだがな……  「ああ」と納得したような声が聞こえた。「だったらお嬢さんに呼び出してみてもらおうかな。仁ちゃんのことだから、のこのこ出て来ないとも限らないし」  そしてひっひっという笑い声。真寿美が閉口しているのが見えるようだ。  だから変なことを吹き込むなって……  「木津さんって、そういう人だったんですか?」  真寿美、お前も真に受けるなよ。  「そんなはずないんですけどね。でも、一応呼んでみます」  それに先だって木津はベッドから降りる。真寿美がいきなり訪ねてきたのも意外と言えば意外だったが、それに加えて、ふと抱いた疑念が何故か頭を離れなかった。  チャイムが鳴る。  同時に木津はドアを開ける。  「はい」  「わっ!」  声を上げて五歩ばかり飛び退く真寿美に  「ほら、やっぱり出てきた」  そして今度は木津に向かって  「仁ちゃんもデートだったらデートだって言ってくれよ、居留守なんか使ってないでさ」  「別にそういう予定が入ってたわけでも居留守を使ってたつもりでもないんだがな」  「照れるな照れるな」と殊更ににやにやしながら「だったら呑みに行くのは明日でも構わないからさ」  「明日……?」  再びドアの近くまで来ていた真寿美が言う。  二人の視線が同時に真寿美に集められる。それに戸惑いながらも真寿美は続けた。  「えっと、明日なんですけど、集合だそうです」  木津がそれを聞いてにやりとした。  「何だい、仕事かい?」と問われて、木津は笑いながら答えた。  「厳密に言うと少し違う」  向けられる不審そうな顔を放ったまま、木津は真寿美に訊ねた。  「で、今日は?」  「え、と……それだけです」  木津は呆気にとられて真寿美の顔を見つめる。真寿美は目を少し伏せ気味にして、同じ言葉を繰り返した。  「それだけに、わざわざ?」  無言で小さく頷く真寿美。  「よし、それじゃ呑みに行こう。そちらのお嬢さんもよかったら一緒に」  「悪い、カンちゃん」と木津が声を上げる。「今日は駄目だ。もとい、今日も駄目だ」  「駄目? だって今ので用は済んだんだろ? だったらいいじゃないかさ」  「そういう訳にも行かないんだ、明日集合って話になるとな」  「何だかきな臭い感じだなぁ」  「ガス臭い、の間違いだろ?」木津は思い付いたまま言った。「ホット・ユニットの排ガスの臭い」  それを聞いて真寿美が、諦めたような呆れたような複雑な表情で木津を見つめる。そしてその横に、片方の頬に一本の深い縦皺を拵えた顔。  木津はその顔が自分の中にあった疑念の頭を擡げさせるのを感じたが、それがはっきりとした形を成すのを待たないままに言った。  「てわけでさ、悪いね。また今度ってことにしといてくれ」  不承不承という口調で返事がある。  「分かった、仕方ないか。それじゃまた今度ってことにしておくわ」  「それじゃあたしもこれで」  そう言い残して自分も踵を返そうとする真寿美を、木津は呼び止めた。  二つの顔が振り返る。少し困ったような真寿美の顔と、その向こうにまたにやりとした笑い顔と。  笑い顔の方が再び振り向き消えていくと、木津は真寿美に訊ねた。  「この後何かあるのか?」  「えっと……」と困った顔のまま少し笑う真寿美。「何かあるってわけじゃないですけど……」  「そう言えば部屋に入ったことってなかったよな。覗いていくか? 何もないけど」  困ったような笑みはそのままに、真寿美は黙っている。  「もしかして、襲われるんじゃないかとか考えてるか?」  と、真寿美の笑みに混じっていた微かな困惑はいたずらっぽい表情に取って代わった。  「襲いたいんですか?」  「……」  「何ですか、今の間は?」  詰め寄る真寿美の背中を木津は押した。  「ま、まあとにかく上がれよ。飲むものぐらいなら出せるから」  「今朝、お見舞いに行ってきたんです」  ボトルのままのミネラルウォーターを傾けながら、真寿美は訥々と話し始める。  「どんな具合だった?」  「まだ傷が完全には塞がってないそうなんですけど、痛みとかは大分なくなってきた感じでした」  「そうか」と煙を吐きながら木津が頷く。  「でもまだ仕事の話とかは出来ませんね」  「仕事の話が駄目だったら、一体何を話したんだ? あの久我さん相手に」  真寿美は答えようとして不意に止めた。  「仁さん、ディレクターのことをおばさんって言うの止めたんですね」  「ん? あれ、俺今何て言った?」  「ちゃんと名字で呼んでました」  「そっか、まあいいや。で?」  「ディレクターはやっぱりMISSESのことを気にしてましたけど、みんな残るから大丈夫ですって言っておきました」  「正解だな。でもそれって仕事の話じゃ」  「『ホット』のことは、仁さんにとってはお仕事じゃないですよね?」  木津は肩をすくめる。ああ、そういう意味だったのか。  「で、明日召集ってのは?」  「阿久津主管から連絡があったんです。車体の点検が全部終わったし、それに今日でちょうど一週間ですから」  そう、MISSESの全メンバーに与えられた一週間の休暇の、今日が最終日だった。  「何だかよく分からない一週間だったな」そう言うと木津は煙草をもみ消した。「長かったような短かったような」  「そう言えばお部屋の片付けもしたんですね」と、改めて部屋を見回す真寿美。「前に全然片付いてないみたいなお話だったから、どんなすごい状態なのかと思ってました」  木津の苦笑いに気付かず、真寿美は続ける。  「でも何にもないぐらいに片付いちゃってますね。まるでこのままここを引き払っちゃうみたい」  と、真寿美の顔に影が射した。  「仁さん、また変なこと考えてないですよね……?」  木津は笑いながら混ぜ返した  「いや、押し倒そうなんてこれっぽっちも考え……よせ、ボトルで殴るんじゃない!」  翌日、先週と同じ阿久津の部署の作業場に久我を除く全員が顔を揃えていた。  最初に阿久津がVCDV全モデルの総点検が完了したことが告げられた。  「もう後がないぐらいのつもりで手を掛けたでな。思う存分使ってやってくれ。ただ」と、木津の方を向くと、「無意味に壊すなよ」  「失礼な」にやにやと木津が応える。  「無意味と言えば」と、結局リーダーに任じられた由良が口を切った。「MISSESに直接関係しないLOVEの職員を無意味に今回の件に巻き込むのは許されないでしょうね」  「そうですね」安芸が相づちを打つ。「確かにこれまでも二度は巻き添えにする危険があったわけですから。ここを離れた方がいいかも知れませんね」  「そうしたら修理とか補給はどうするんですか?」訊ねる紗妃に木津が言う。  「阿久っつぁんが今言ったろ? もう後はないんだって。そんなのが必要になる前にかたを付けるしかないってことさ」  「いや、それは言葉のあやでな」  阿久津ににやりと笑い返すと、木津は全員を見回して、「季節もいいし、この際だからキャンプでもするか?」  苦笑の中、由良だけが生真面目な表情を変えずに、独り言のように言う。  「それで早い内に向こうが発見できればいいんですが……」  「或いはこっちが発見されればな」と木津。  「向こうから仕掛けてくる、と?」  「爆弾まで仕掛けといて静観してるとは思えないんだよな、奴の性格からして」  「仁さん、知ってたんですか? 『ホット』の性格なんて」  そう質す真寿美の顔に、言葉以上の疑義が読み取れたような気が木津はした。  「んにゃ、でも大体想像は付くからさ」  「キャンプするならこの近所でよかろう」  阿久津が言った。  「そのこころは?」  「どうせこの界隈、うちから奥は空き地ばっかりだし、近きゃ補給も修理も楽だし」  「何だ、出来るのか」  「だからそう言うたろうに。それに、向こうさんも手っ取り早く済ませるにゃあ、ここに攻め込んで来るだろう。それをお主らが手前で食い止めてくれりゃあいいって話でな」  「巻き添えを出さないための責任は重大というわけですね」と安芸が言う。  「向こうも週末に来てくれりゃ、その心配もないのにな」  「それは名案ですね。もっとも向こうが休日出勤手当を出すのかどうかは知りませんが」  「あと、うちが休日も休まず営業中だって宣伝してやんないとな」  このやりとりを聞いて、真寿美と紗妃は顔を見合わせて呆れたように溜息を吐いた。  前日までの作業の跡を匂わせすらしないほど小綺麗に片付けられた地下駐車場。  それぞれの手に、乗機のメイン・キー・カードが渡った。それは阿久津によって、整備調整後の情報が書き込まれたものだった。  「一応各自書き込みが出来てるか確認しておいてくれや。まあ問題ないはずだがな」  「それじゃあ、テスト代わりに今日は乗って帰ってもいいですか?」と紗妃。  阿久津が応える前に、木津が言った。  「なるほど、それも手だな」  「休日営業の宣伝ですか?」  木津は軽く頷く。  「そう言えば、涼子ちゃんが前に同じことをやらせたっけな。俺を朱雀に乗せて、奴の目に付くように走らせてってな」  「仁さん」  呼ばれて木津は顔を上げる。視線の先で安芸が静かに微笑している。  「ん?」  「いつの間にかディレクターをちゃんと女性扱いするようになってますね」  「ま、そういうことにしておこう」  簡単にそう応えながら、木津は病室での久我との対話を、そして自分の前で久我が垣間見せた、裡にある女の貌を思い出していた。  由良が一同に向けて明日以降の集合場所を確認する。  「よろしいですね?」  全員が無言で頷いた。  「では今日は解散です」  木津はキー・カードを持つ右手をくるりと回した。溶けかかったパンダのキーホルダーが円を描いて回る。  横にいた真寿美がそれに気付いて、木津に小声で訊ねた。  「そのパンダ、七重さんの……?」  「ああ」  それだけ応えてB−YCのコクピットに滑り込む木津を見て、真寿美もS−ZCのドアを開け、シートに腰を落とした。  塵一つ見つからないコクピット。スロットにキー・カードを差し込み、スタータ・ボタンを押す。計器盤に灯る電光はこれまでになく明るく見え、予備回転を始めるコールド・モーター・ユニットはこれまでになく滑らかに感じられた。  ふと横を向くと、既にB−YCの姿はなかった。反対側でも、早々に出ていった小松に続いて、饗庭と由良のG−MBが動き始めている。  隣のS−RYの中の紗妃と目があった。紗妃が微笑んで何かを言おうと口を開きかける。が、それを遮ったのは、レシーバからの木津の怒声とも歓声ともつかない叫びだった。  「来た!」  その場に残っていた四人が四人とも、その意味を理解できずにいた。いや、理解は出来ても俄には信じられずにいた。  「来たって、まさか、『ホット』が?」  木津の声が続く。  「奴が頭だ! あと装甲車九!」  阿久津の眉間に不審の縦皺が走った。直々のお出ましに、お供の装甲車が九両とは妙に少なくはないか?  「仁さん! 場所はどこです?」  「E181、K区!」  「紗妃さん、峰さん!」  応えの代わりに二台のモーターのうなり。聞いた安芸が叫んだ。  「行きます!」  「邪魔だ!」  前回と同じく、「ホット」の車を護るように囲み走る武装装甲車。走る壁の中から、紛うことのないホット・モーター・ユニットの爆音だけが木津の耳に届く。それはあの日の記憶に残る音と寸分の違いもなく聞こえる。  「てめえらに用はないっ! さっさとどきやがれぇっ!」  白虎の放つ衝撃波は、装甲車の一両を真横から捉えた。だが不快な鈍い響きがその装甲から返っただけで、隊伍は乱れすらしない。  「ホット」を上から仕留めようと、白虎が何度目かの跳躍を試みる。が、その途端白虎は逆に装甲車群の放つ実体弾の段幕に包まれ、接近を阻まれる。  炸裂する弾片を受けて着地する白虎の躯体には、早くも無数の小さな傷が生じている。  再び立ち上がろうとした白虎の頭を、衝撃波銃のもたらす共振と、装甲車からもぎ取られた砲身とがかすめていく。  面を上げる白虎。その視界の奥で、装甲車群からの反撃を回避すべく後ろざまに跳ぶ朱雀。そしてそれを援護すべく牽制の銃撃を行う青龍と玄武。  「安芸さんはそちらのサポートに!」  そう指示する由良は、小松と饗庭を従え、ハーフの形態で「ホット」隊の真正面から突っ込んでいく。  「止めます!」  急速に縮まる距離。  「無茶だ!」  安芸の声にも由良は速度を落とさない。そして不気味に砲に沈黙を守らせる装甲車も。  小松のG−MBが転舵回避する。  安芸は乗機をハーフに変形させ、装甲車の先頭に並ぼうとする。反対側では木津が同じく、だが別の意図を持って白虎を走らせる。  饗庭の玄武が跳んだ。右手に由良機の左腕をつかんで。  その直後、彼我はすれ違った。  しかし安芸と木津は速度を落とさず、それぞれの乗機を装甲車群の先頭に並べる。  玄武が衝撃波銃を二連射する。その一発は装甲車から銃身を吹き飛ばしたが、もう一発は装甲に当たり、木津の時と同じように鈍い響きをたてて、まるで装甲に吸い込まれるように消えた。  「仁さん、この装甲に銃は駄目です」  応答はない。代わりにハーフになった白虎が両腕から「仕込み杖」を伸ばして、横を走る装甲車を追い抜いた。そしてスピン・ターン。前方から相手に接触する寸前まで近付くと、片腕を力任せに横に薙ぐ。  破砕音。  砕け散る装甲の破片をものともせずに振り返ると、白虎は装甲車に止めを刺そうとする。だが半ば破壊された装甲が、いきなり内側から弾け飛んだ。  白虎の足が止まり、飛んできた破片というには大き過ぎる装甲板を「仕込み杖」が払いのける。  「何……だ?」  沈着な安芸が声を失いかけていた。  装甲を自ら排除したのは、白虎に狙われた一両だけではなかった。他の六両も一斉に装甲をかなぐり捨てると、立ち上がった。  「まさか……」呆然と紗妃がつぶやく。  だが木津はひとり納得のいった顔をしていた。涼子ちゃん、あんたの読み通りだぜ……  「VCDV!」  真寿美が叫ぶと同時に、暗紫色に塗られた八機のVCDVが一斉にMISSESのVCDVに襲いかかる。  「全機!……」  由良の指示も指示にはならなかった。  そして左右から二体のVCDVに迫られる中、木津は見ていた。残る一両の、多分これも偽装した装甲車を率いて、「ホット」がさらにLOVEへ向けて走るのを。  「……っのっ!」  照準も何もないまま、木津は両腕の衝撃波銃を左右に乱射するや否や、変形レバーを一気にRフォームの位置にたたき込み、スロットル・ペダルを力任せに踏み付けた。  猛然と「ホット」を追い始めるB−YC。その後をさらに、これも車両の姿に変形した「ホット」の側のVCDVが追う。  嫌な音が耳に届く。  Mフォーム同士、相手と対峙しながら、由良は位置を変えた。  相手の背後に見えたのは小松機。だがその首が喪われていた。  声を掛ける間も与えず、相手が至近距離から衝撃波銃と実体弾とを同時に放ってくる。  屈み込んで回避すると、「仕込み杖」を繰り出し、相手の脚を払いにいく玄武。だが相手も巧みにバックステップでそれを避ける。  再び嫌な音。相手の回避で開けた視界には、さらに片足をも失って仰向けに倒れる玄武の機体。そしてとどめを刺そうとする相手の機体があった。  由良が言葉にならない叫びを上げる。  引かれるトリガー。  左腕から続けて撃たれる衝撃波。  直撃を受けた相手の機体がへし折れるように宙に舞う。  その直後、由良は後方から衝撃を受けた。  振り向きざま目を走らせた計器盤には、バックパックへの被弾を示す警告。そして視界には銃口を向ける相手の姿。  トリガーから離れることのなかった指がまた絞られる。  次の瞬間、双方の間で火花が上がる。相手の放った有炸薬実体弾が、由良からの衝撃波に捉えられ、空中で炸裂したのだった。  目が眩む。  動きの止まる彼我。  そこに駆け寄る二体のMフォーム。  接触音。  その間を抜けて饗庭機が着地する。  仰向けに倒れた由良機。ちぎられたその左下膊が、饗庭の「仕込み杖」に一刀両断された敵機の上半身の上に落ちた。  振り返り高く躍り上がった饗庭機からの衝撃波を受け、もう一体の敵機が腰の外装を抉られる。  Wフォームに変形し後退する敵機。  玄武を起き直らせた由良がそれに向けトリガーを引く。だが衝撃波を放つはずの左下膊はすでになかった。  それに気付いた相手は後退から前進に切り替え、玄武に迫る。  変形レバーを引く由良。機体はそれでも応えてハーフに形を変える。そして急加速。  急速に接近しながらも、相手の射撃は正確だった。  実体弾の炸裂に車体を揺すぶられながらも、由良は真っ向から突っ込んでいく。噛みしめられた下唇は切れて血を滲ませていた。  胸部と肩口に大きな傷を作りながらも、安芸は相手を地に沈め、その背中から衝撃波銃の一撃を与えた。  まるで人間がそうされた時の痙攣のように、躯体は一度大きく反り、そして沈黙した。  視線を上げる安芸。が、それと同時に視界に飛び込んできた状況に目を見開く。  「由良さん!」  由良機の残った右腕の「仕込み杖」を避けるべく右に回避する敵機。だが由良はまるでそれを承知していたかの如く、自らも同じ方向へ舵を切った。速度を全く落とさないまま。  一切の音が失われたような気がした。  鼻部同士が、さらに側面が烈しい勢いで接触する。直後、誤作動か故意か、紫の機体が立ち上がった。その脇腹に「仕込み杖」を突き通したG−MBをぶら下げたまま。  「由良……さん」  「安芸さん後ろ!」  紗妃の声に振り返りもせず玄武が跳ね上がり、空中で逆宙返りをうつと、背後に迫っていたWフォームの真上から衝撃波を浴びせる。  横にステップを踏み、相手は直撃を寸前でかわし、そのままハーフに変形すると、青龍の追い討ちを回避しつつ急速後退する。  饗庭の玄武が、敵機ともつれ合ったまま動きを止めている由良機に駆け寄る。  同じく動きのなかった敵機が、饗庭機の方へ上体をねじ曲げ、近付く玄武に一斉射を浴びせる。それに対し迎え火の如く衝撃波銃を撃つ玄武は爆炎をかいくぐって敵機のすぐ脇まで飛び出すと、由良機の突き刺さったままの右腕をつかんで引いた。  その直後、重く鈍い音が上がり、つかんだ由良機共々玄武の躯体が後ろ向きに跳ね飛ばされた。  脇腹の障害物を排除されて身軽になった敵機は、玄武に見舞った拳を振り上げつつ、衝撃波銃の銃口をそこへ向ける。  腰を地に付けたままの饗庭の玄武もまた銃口を相手に向けながら、横に動いた。動かない由良の楯になるかのように。  衝撃波の振動が続いて二度。  玄武の右肩が後ろへ捻れ、支えを失った機体は背後のG−MBにのしかかる。  だが相手は右足を爪先から吹き飛ばされ、横様に倒れかかる。  そこに青い影。傾いた機体が反対側に弾け飛ぶ。が、連射される衝撃波が躯体を空中で弄び、地面に倒れることを許さなかった。  四肢の離れかけた敵機がようやく地に落ちて沈黙する。それをよそに、紗妃はG−MBと玄武との横にハーフのB−YCを停めた。  「兄貴!」  応えていつも通りの口調が言った。  「由良さんは?」  紗妃の呼びかけに、だが由良の声はない。  ウィンドウ越しに見える由良は、首を前に垂れたまま、乗機同様に動かない。  「峰さんは小松さんの状況を掌握! 饗庭さん、コントロールは出来ますか?」  肯定の回答を受けて、安芸は指示を続ける。  「援護に付きます。紗妃さん、由良さんの状況を確認してください!」  紗妃がコクピットから飛び出し、G−MBのドアを開けようとした。が、高いはずの限界を超えた衝突の衝撃故に歪みを生じた車体はドアを噛み込んでしまい、非常用のフックを引いても放さなかった。  「紗妃、下がれ」  「えっ?」  その声とは裏腹に反射的に紗妃は体を引いた。饗庭の玄武が膝立ちになり、横を向く。制御の利かなくなった右腕をG−MBのドアの上に置くように。  外装の砕ける音に、紗妃は一瞬身を震わせた。玄武の「仕込み杖」がを上から突き立てられ、ドアはひしゃげながらも開かれた。  「急げ」  弾かれるように紗妃はG−MBのコクピットに上半身を潜らせ、そして呼びかけた。  閉じられた目も、固まりかけた血に塞がれた唇も、開かれない。  紗妃は操縦桿を握りしめたままの由良の手に触れる。  「由良……さん?」  固く握られた指を一本一本解き、グローブをむしり取り、もう一度手に触れる。甲から掌へ、そして手首へ。  小松の状況を伝えてくる真寿美の声がひどく遠いものに感じられた。  「由良さんはどうです? 紗妃さん?」  応えるのも忘れて、紗妃はシートの下を手探り、救命キットの箱を引き出すと、蓋をむしり取り、取り上げた強心剤の注射をわずかに露わになっている手首に打ち込んだ。  心許なかった反応が、紗妃の指の下でほんの少しだが強まった。  「紗妃、どうした!」  思いも掛けず強い口調の兄の声に、何故か張り詰めていたものが緩んだ。  「このままじゃ! 早く助けて!」  玄武のハッチが開く音がした。  排気管の吐き出すバックファイアが見える。木津は目を離さず、ひたすらスロットル・ペダルを踏み続ける。後方の惨状も、近付きつつあるものも知ることなしに。 Chase 29 − 交えられた刃  両側から同時に放たれる衝撃波。  木津の手が、足が動く。脳の判断が介在するようには思わせない反応速度で、B−YCの車体を銃撃から回避させる。  体勢を立て直したB−YCの前方で、「ホット」の車体は排気音も高らかに悠然と走り続けている。爆ぜるバックファイア。一際大きな火球と足まわりからの鋭い軋りを置き去りに、「ホット」は左の路地にほぼ直角に飛び込む。  木津は狙撃を警戒してほんの一呼吸だけブレーキ・ペダルを操作すると、直ぐに足を横のスロットル・ペダルに移して踏み込んだ。  攻撃はなかった。ただ「ホット」の影が変わらず前方にあった。  門を形作るように左右に聳える塀とビルとの間を抜けて、再び広い通りへと「ホット」は躍り出る。  木津はその門の脇から覗く影を見逃さなかった。  木津の爪先がブレーキ・ペダルを踏み、左手が変型レバーに伸びる。  左からの衝撃波、続けて右からの実体弾。時間差で繰り出された銃撃の上を、白虎が越えていく。その両腕から反撃の衝撃波を放ちながら。  射撃のタイミングから回避がわずかに遅れた右側のMフォームが、白虎の銃撃を胸にまともに受けてのけぞり倒れる。左側はRフォームに戻すと、自分の倒した相手に一顧だに払わずに「ホット」の追跡を再開するB−YCを追い始める。  後方モニターにその姿を認めながら、木津は前方に視線を戻す。「ホット」の進路は、最初予想されたLOVEを今は外れ、工場区域の末端に向けられているようだった。  それを裏付けるように、「ホット」の向こう側で道路は更地に突き当たり、左右にT字に分かれた道は二回りばかり細いものだった。  さらに「ホット」は右に舵を切った。  木津もハンドルを切りながらナヴィゲータの画面に目を走らせる。表示範囲の隅に現れた人工海岸線が徐々に長くなっていった。  S−RYが、S−ZCが、そして二両のG−MBが相次いでLOVEの半地下駐車場に飛び込んでくる。  奇妙なほど切れのないブレーキングで止められたS−RYのドアが開き、ほとんど泣き出さんばかりの紗妃が飛び降りる。  急報を受けて準備をしていた救護班が駆け寄って反対側のドアを開くと、ぐったりとしたままの由良の体を引き出してベッドに移した。  近寄った医師が一目見て、信じられないといった様子をありありと見せながら呟く。  「何て無茶を……スーツなしでなんて」  その言葉に紗妃ははっと由良の方へと急がせていた足を止める。由良がドライビング・スーツを着ていなかったことにその時初めて気が付いた。  「まさか……」  振り向くと饗庭と安芸の姿。そして声を漏らしたのは饗庭の方だった。  「……何?」と不安を隠しもせずに紗妃。「まさかって」  「初めからその気で……いや」と言葉を切ると饗庭は医師に尋ねる。「どうです?」  医師は応える代わりに、救護班に至急の投薬と手術室への搬送を命じた。  運ばれるベッドと入れ替わりに、真寿美が三人の所へやって来た。  「小松さんはどう?」と安芸が訊ねる。  「重傷は重傷だけど、見た目が派手なだけでそれほどじゃないって」と言う真寿美の安堵の表情が、三人の顔を見て翳った。  「由良さん……は?」  「手術室に直行」  「そう……」  そこに近付いてきた駆け足の靴音が、四人の顔を一斉に振り向かせた。  「阿久津主管……」  阿久津は運ばれる二つのベッドにはちらりと目を走らせただけで真っ直ぐ四人に駆け寄ると、一言訊ねた。ただその声は疑問よりも確信の色の方が濃く出ていた。  「VCDV、か?」  「はい」  真寿美の答えに、阿久津は天井を仰いだ。  「……そうか、とうとう」  その言葉に、八つの目が集まった。  「え……?」  だが阿久津は自分の言葉をかき消すように声を張り上げた。  「皆の衆、機体の損傷は?」  切り替えも素早く安芸が応じる。  「全車両の補充電をお願いします。キッズ1、マース1、アックス1は装甲レベルでの小破。アックス4が右肩の制御不能です。アックス2及び3の回収はどうしますか?」  「やむをえん」即答だった。「ことが済むまでは放置だ。で、向こうさんは?」  「可動残存数は、恐らく五です」そう言うと安芸は真寿美の方に顔を向けた。「僕と峰さんで牽制に出ます。その間に……」  それを遮るように阿久津の声。  「大将を含めて五か?」  「え?」  「大将は仁ちゃんが追っとるのか?」  「……仁さん?」  いきなりだった。  ブレーキランプが前方で横に流れた。車輪が路面を噛む甲高い音、接地面から立ち上る白煙と砂埃。百八十度ターンした「ホット」の車体は、一瞬ぐらりと横揺れと揺り戻しを見せると、完全に停止した。  木津はブレーキ・ペダルを踏むことすら思い出せずにその様に見入ってしまっていた。  「ホット」のドアが開き、人影が現れた。  我に返る木津。B−YCが横滑りしながら停止する。「ホット」の車体から数十メートルの距離をとって。そして木津もB−YCのドアを跳ね開けると外へ飛び出した。  そこは工場区域の最末端にあたり、実際に利用されることが今まで一度もなかった場所で、建物も何もない更地になっていた。そして「ホット」以外の影もなかった。  「ホット」のエンジン音は聞こえてこない。ただその背後に程近く、死んだように鈍く光る海面が伝える波音の、枯れ葉のざわめきにも似た響きが木津の耳に届いていた。  「ホット!」  駆け出そうとする木津を押しとどめるように、相手は右手の掌を木津へと延ばした。  「慌てるなよ仁ちゃん」  木津にとって聞き慣れた声がヘルメットの中から聞こえた。そのヘルメットが外される。  「カンちゃん……」  「おや」相手はこれまでと変わりのない態度で木津に言った。「あんまり意外そうな顔じゃないね。この間の台詞からすると、何か気付いてるのかとは思っていたけどさ」  また一歩を踏み出そうとした木津を、相手は再び押しとどめた。  「おっとっと、慌てない慌てない。確かにこれは」と、傍らの車体を示しながら言う。「お察しの通り、仁ちゃんがホットホットと呼んでる由来の、あの一件の時に使われた車だがね。でも乗ってたのは俺じゃないんだな、これが」  「それならそれで構わんさ」と、こちらもいつも通りの口調の木津。「あんたがそいつの持ち主に俺を紹介してくれるって言うんならな」  「ああ、うちの親分もお望みだしさ」  その言葉に続く奇妙な笑み。ぴくりと木津の眉が動く。  「でもさ、実のところうちの親分は、仁ちゃんには大分お冠なんだな」  「知ってる」  「そいつぁ仁ちゃんも人が悪すぎるね」  おどけた調子ながらも、その目は木津から離れない。そして続いた言葉は、木津の予想していたものではなかった。  「たった二年も経たない内に乗りかえちまうとはさ」  「何のことだ?」  そう言う木津に、相手は再び右手を前に出すと、小指を立ててみせる。  「あの娘、確か前に仁ちゃんが乗ってた赤い奴のドライバーだよな」  「真寿美……のことか?」  「へえ、真寿美ちゃんって言うんだ。ちっちゃくてかわいい娘だねぇ、確かに。それは俺も認めるけどね」  言葉の真意がつかめないままに、それでもどこかしら嫌な雰囲気を感じ取りながら、木津は黙っていた。  「でも仁ちゃんにとっちゃ、自分のせいで死んだ婚約者ってのを忘れられる程に魅力的だったわけだ」  歪む木津の顔。微笑みを崩さない相手の顔。  「俺がその真寿美ちゃんの話をうちの親分にご報告申し上げたら、そこんとこを大層憤慨なさってさ」  「違う!」思わず木津は声を荒げて叫んだ。「忘れるだと? 俺がこれまでずっと奴を、『ホット』を追ってきたのは何のためだと思ってる?」  「さて?」  明らかにとぼけた顔で首を傾げる相手に、木津はさらに声を張り上げた。  「七重の仇を討つためだ。今日まで一日だってそのことを忘れたことなんかない。惨めなざまになっても、そのためだけに俺は今日まで生きてきたんだ! それに」  音が聞こえるほどに大きく木津は息を継ぐ。  「俺のせいで七重が死んだ、だと? ふざけるな……」  聞き手の表情は変わらない。全くの他人事を聞くように。  「ふざけるな」木津は繰り返す。「手前勝手な真似をして、逆恨みをして、人一人殺そうとして、巻き添えを喰わせてそれを人のせいだと? いい年をぶっこいて、世界の中心が自分だとでも勘違いしてやがるのか?」  それまで沈黙を守ってきた相手が、不意に口を開いた。その顔に浮かんだ笑みの濃さを一層深めて。  「その辺は親分ご自身が直々に話してくれるかも知れないぜ」  「……その『ホット』はどこにいる? 今日も現場は部下に任せて、てめぇは高見の見物ってわけか?」そして吐き出すように言い足した。「臆病者が」  「そうでもないと思うけどな」と言う口許は異様なまでの笑みに歪んでいた。「何たって、今回はお宝のこの車を持ち出してまで決着を付けるつもりなんだからさ」  木津ははっとした。ホット・ユニットのエンジンがいつの間にか唸り始めていた。  ほとんど反射的に木津は跳び退ると、開け放たれていたB−YCのドアからコクピットに身を躍らせた。  それとほぼ同時だった。無人のホット・ユニット車がB−YCに真っ向から突っ込んできたのは。  シートベルトがセットされるのを待つ間もなく、木津は後進にシフトしスロットル・ペダルを力任せに踏み込み、舵をいっぱいに切った。  無人の「ホット」車は、だがその鼻面を回避に入った木津の車体に正確に向けてくる。  木津の左手はシフトレバーから変型レバーへと移った。手首が動く。  B−YCは白虎に変型し、後進の加速に任せて後ろざまに跳んだ。衝撃波銃の銃口を迫る「ホット」車に向けて。  と、コクピットの木津を真正面からの衝撃が襲った。木津の首が激しくヘッドレストに叩き付けられる。その口からは呻きが漏れた。  胸部中央に衝撃波を喰らわされ、空中でバランスを崩した白虎は、そのまま弾き飛ばされて無様に腰から着地した。  そこをめがけて「ホット」車が迫る。  尻餅を撞いたまま、白虎は左腕を「ホット」車に向けた。引かれるトリガー。  期待されたあの鈍い響きは、だが伝わってこない。代わりに計器盤で警告灯がまた一つ灯っている。  接近する「ホット」車。  もたげた左手を振り下ろして地面に突くと、それを支えに白虎は身を翻す。  すれすれの位置をかすめて「ホット」車が駆け抜ける。  体勢を立て直した白虎は片膝を付いて、今度は右腕の銃口を「ホット」車の尾部に向ける。  が、木津がトリガーを引くよりも早く、白虎の機体の至近で「ホット」車がひしゃげ、轟爆した。化石燃料と、そして恐らくは別に積んであった実体弾用の炸薬とによって、一瞬にして車の形をしていたものが、今は焼けただれた無数の破片となって、爆風と共に白虎を襲った。  これまでの戦闘で損傷を生じ始めている装甲に、容赦なく破片が食い込み、コクピットの中の木津を揺さぶる。振動の中で、何かが木津の脳裏をよぎった。ほとんど反射的に木津は白虎の右腕を上げ、頭をカバーする。  直後、右腕の防衝板が震え、頭部に向けられた衝撃波を散らした。防御の姿勢を崩さず、白虎は衝撃波の来た側に目を向ける。  相変わらず死んだような海を背にして立つ一体の人型。灰がかった緑の、白虎と同様に細い躯体。中央に見慣れたあの悪趣味な色彩の菱形を描いた胸の上には、人間の、それも女の顔を彷彿とさせる頭部。その手には銃のような長物。その銃口はまだ白虎に向けられている。  「……お出まし、か?」  再び発砲。銃口に火が走る。実体弾だ。  白虎は横に跳ねて立ち上がると、右腕の衝撃波銃を放つ。緑の機体は横に滑るようにそれを避けつつ、さらに発砲を続ける。今度は衝撃波。  左腕の防衝板でそれを受け流し、木津は吠えた。  「ホット!」  応える代わりにさらに銃撃が続けられる。実体弾と衝撃波とを綯い交ぜにして。  「……野郎!」  一閃、白虎はハーフに転じ、回避しつつ敵に迫る。と、相手もまたハーフに変形し、突っ込んできた。  トリガーを引く木津。繰り出される衝撃波。回避する「ホット」。そして木津の耳に届く短い警告音。それは衝撃波銃のバッテリー残量が少なくなっていることを伝えるものだった。  「こういう時に、そう来るか!」  突き出した右腕を後ろへ振る。空を切る鋭い音と共に「仕込み杖」が伸びる。  「ホット」はなおも発砲を続ける。「仕込み杖」に当たり、音を立てて弾ける実体弾。  距離が詰まる。  木津の手がレバーへ。  立ち上がる白虎。急制動をかける足元に火花が散る。  それとほとんど同時に、「ホット」もまた人型に転じた。  白虎の振り下ろす「仕込み杖」が、「ホット」のかざす銃身に食い止められる。  白虎は振り下ろした右腕に左手をあてがい、全力で押した。  「ホット」もまた銃把を左手に、銃身を右手に握り、受け止めた刃を押し返してくる。  木津は出力を上げた。計器盤の中で、表示は最高値の少し下のあたりで激しく痙攣している。  にも関わらず、刃は毫も進まなかった。いや、逆に僅かずつながら押し返されている。  声までも上げて、木津はさらに押す。  だが姿勢を下げつつ、「ホット」は白虎の刃を徐々に押し上げていく。  木津は気付かなかった。そうやって「ホット」が白虎の懐に入りつつあるのを。  大きく、鈍く、そして不快な接触音。  それと同時に白虎は後ろ向きに吹き飛ばされた。  白虎の腹を蹴り上げた足を素早く戻すと、「ホット」は既に構え直していた銃のトリガーを引いた。  実体弾が、辛うじて転倒を免れた白虎の左側に容赦なく集中する。爆炎の中で、左腕は四散した。  噛み締められた木津の歯がぎりりと鳴った。  饗庭機は右腕の換装を終え、他の車体も装甲の貼り替えと補充電を終えていた。  だが四両とも、未だ動くことなくLOVEの駐車場にあった。  「ホット」の配下のVCDVが四両、あるいはハーフで、あるいは人型で駐車場の出口を遠巻きに取り巻いていて、MISSESの車体が現れると、すかさず斉射を行ってくるのがその理由だった。  だが、攻めに転じてくる様子はない。あくまで包囲と牽制を目的としているようだった。  「でも、何のために足止めなんか……」紗妃が落ち付かなそうな素振りを見せながら言った。「木津さんがまだ外にいるのに」  「駄目だ」と安芸の声。「ジャミングされてる」  「なら無事だ」呟く饗庭。  安芸はそれを聞いて顔を上げたが、すぐに納得して頷いた。ジャミングが続いているということは、つまり妨害するべき通信が外から来る可能性があるということだ。  安芸は辺りを見回した。  探していた姿は、S−ZCのコクピットの中にあった。  そこで真寿美は目を閉じていた。少し顔を仰向けるようにして。両手は膝の上で組み合わされている。わずかに開いている唇の間からは、眠っている時のような静かな息が漏れている。  安芸の目許に訝しさの影が差した。少し前だったら、こんな時一番大騒ぎするはずだった峰さんが、いつの間にかこんな落ち着きを見せるようになっている。しかも「ホット」が相手かも知れないという時に。  だが真寿美は決して落ち着いていたわけではなかった。  木津が「ホット」を追って走ったときも、それに付いていくのではなく、木津の追跡を妨げるものを排することでそれを助けようとした。そして木津がきっと「ホット」に追い付き、愛した相手と木津自身の復讐を遂げつつあるだろう今、自分のするべきことは加勢ではなく、木津の無事を祈ることだけだと真寿美は考えていた。  そう、きっと仁さんは無事に帰ってきてくれる……  近付き、自分の横で止まった足音に真寿美は目を開いた。  真寿美の顔を覗き込む紗妃の目がそこにあった。  必要以上に不安そうな紗妃の表情。真寿美はそれに微笑みで応えた。  向こうからは阿久津の声が聞こえる。  「動かんな、あの連中……」  「突破しますか?」と、これは饗庭の声。  阿久津は答えない。  安芸も黙ったままそのやりとりを見ていたが、違和感がその心中にあった。饗庭さんはなぜこんなに積極的になったんだろう? 由良さんの突撃とも言える攻撃を見て? そう言えば、さっきの「まさか」というのは?  阿久津が場を外した。  上げられた安芸の視線が饗庭のそれと交錯する。  「何か?」と饗庭が問う。  一瞬だけ言い淀んだ安芸は、しかしそれでも再び口を開いた。  「さっきのまさかって……」  「安芸さんなら分かっているでしょう?」  安芸はそれを感じ取っていながら敢えて思考の表に出そうとしていなかったのだが、饗庭の言葉は安芸に直視を迫るもののように聞こえた。  「死ぬ覚悟で……」  頷く饗庭。そして低く呟く。  「それまで自分の信じていた場を失ったんです。思い詰めればそう考えるかも知れない」  そうだった。当局からの召還命令に反してMISSESに残ることを決めた時の由良の口調は、確かに思い詰めた調子を色濃く醸していた。いや、その時だけではない。S−ZC二号機の強奪事件の時から、恐らくはずっと。  「彼は、プロです」  饗庭がそう言葉を継いだ。  「勝手に線引きなどせず、与えられた職務に専念する、プロです」  「線引き……」  安芸は思い出した。MISSESの職域が民間研究所のそれを越えていると久我に饗庭が噛み付いたことを。由良の行動を見て、饗庭はそれを恥じているのか。  「何ですか?」  饗庭に問われて、安芸は自分の顔に微笑が浮かんでいるのに気付き、両手で頬を叩き、そして問い返した。  「饗庭さんの場は?」  表情らしい表情を見せたことのなかった饗庭が、その問いに初めて動揺の色を浮かべた。だがそれもほんの一瞬のこと、すぐに元の顔に戻ると、答えた。  「明日からまた探します」  思わずも再び浮かべてしまった笑みを、今度は隠さずに饗庭に向ける。  饗庭もその目元に笑みが浮かんだように安芸には見えた。  が、そこでくるりと安芸に背を向けると、饗庭はG−MBのドアを開き、乗り込んだ。  その音に紗妃が振り返る。  「兄貴……?」  モーターの音。コクピットでヘルメットをかぶる饗庭。  それを見た紗妃がS−RYに駆け寄り、コクピットに飛び込む。  G−MBが急発進し、駐車場出口へと向かう。S−RYがそれを追う。  振り返る安芸。その目がコクピットの中の真寿美の目と会う。  横へ落とされる真寿美の視線。それが元に帰ったとき、真寿美の両手の間にはヘルメットがあった。  銃声が聞こえてきた。  「ホット」の当て身を喰らって仰向けに倒れる白虎を、衝撃波銃の連射が襲う。  体を翻して避ける白虎。だが「ホット」は左腕を喪った白虎の回避行動を読み切っていた。  左に滑らされる銃口が、そこから射出される衝撃波が、正確に白虎の躯体を捉えた。  もう何度目になるか、白虎は地面に叩き付けられ、ショックはコクピットの木津を揺さぶった。  コクピットの中にいるのも構わず、木津は唾を吐いた。  計器盤に灯る警告灯は徐々にその数を増やしつつある。そしてそのどれよりも忌まわしい、主電圧低下を警告するランプの明滅。  冗談じゃねえぞ……くたばるのは俺じゃない。奴だ、奴の方だ。奴じゃなきゃいけないんだ!  変型レバー。  ハーフに転じる白虎。スロットル・ペダルを力任せに踏み込む木津。B−YCは真っ向から「ホット」目掛けて突っ込む。  平然と接近を待っていた「ホット」は、まるで嘲笑うかのように前にステップを踏むと、B−YCの頭を踏み台にして易々と突撃をやり過ごしたかに見えた。  だがB−YCは残った右手で「ホット」の足首をつかんでいた。  雄叫びを上げる木津。レバーを引く手。  後ろに引きずられながら、白虎に変型するB−YC。「ホット」もバランスを崩し前のめりになる。その手から銃が離れた。  膝で地面を蹴り、上腕部さえ残っていない左の肩で白虎は「ホット」に体当たりを喰らわす。  四つん這いになったかに見えた「ホット」だったが、両手を突くと体を捻りながら宙返りし、立ち上がった。  それよりも早く、倒れ込みながらも白虎が「ホット」の銃を右手につかみ、伏せたままトリガーを引いた。  衝撃波も、実体弾もその銃口からは出なかった。  女のような「ホット」の顔が冷ややかに笑ったように見えた。そして向けられる左手。その下には銃口。  白虎は銃を「ホット」に投げ付けた。「ホット」は前に出していた左手でそれを受ける。 その隙に白虎は「仕込み杖」を伸ばし、屈んだ姿勢をとると、撓めた膝のばねを一気に弾かせて「杖」の切っ先を「ホット」の喉元に向けて躍り掛かった。  「ホット」が銃身で「杖」を横に薙いだ。構わずに白虎は突っ込み、正面から「ホット」に突き当たる。  白虎の右手の「杖」と「ホット」の左手の銃身が鬩ぐ。だが「ホット」は空いた右手で白虎の頭をつかんだ。  シャフトの折れる音が木津の耳にも届く。  まるで頭をもぎ取られつつあるのが自分自身であるかのように木津は喚いた。喚きながらも白虎の膝の力を抜いた。  もう一度、今度は大きい破壊音。だが木津は、「杖」が「ホット」の銃をすり抜けたことしか見てはいなかった。  叫び声を上げる木津。白虎は「杖」を全力で「ホット」の脇腹に打ち込む。  跳ぶ玄武に四つの銃口が一斉に向けられる。  空中で玄武は右腕で上体を庇い、左腕の衝撃波銃を横に払いながら放った。  最左翼から撃たれた実体弾が、衝撃波をかいくぐって玄武の腰に命中する。  「兄貴っ!」  ハーフで飛び出したS−RYが正面の人型に向けて衝撃波銃を放つと、急制動をかけ青龍に変型、そのまま後ろ向きに跳ね戻ると、着地する玄武と敵機との間に立ちはだかった。  「紗妃……」  「兄貴! 大丈夫?」  強力なジャミングのために、紗妃の声は兄には届かない。答える代わりに饗庭は玄武の手で右を指差した。  「了解!」  黒と青の機体が左右に分かれて走る。  扉が開かれたかの如く、その間から赤と黒の光が流れ出す。  対して展開する敵群を前に、朱雀が一際高く舞った。  その陰から安芸の玄武が姿を現し、中央右の敵に正確に向けた銃口から衝撃波を放つ。  回避の遅れたハーフは右腕をもぎ取られ、さらに上から朱雀の銃撃を受けて地面で跳ね返り転覆擱座した。  朱雀が着地するよりも早く、二体の玄武と青龍は残る敵の各機に組み付いていた。  敵のもう一両のハーフも人型に変型し、饗庭の玄武に襲いかかる。  その横では、相手に発砲するだけの間合いを取れないよう詰め寄った紗妃の青龍が、回し蹴りを繰り出す。  そして安芸の玄武は、敵と衝撃波銃の応酬を繰り広げている。  真寿美は周囲を見回した。  と、敵の布陣していた後方、LOVEの向かいの工場廃墟にほど近く、この戦況にも動こうとしない輸送車が視界に入った。  真寿美はほとんど反射的に輸送車を照星の中央に捉え、トリガーを引いていた。  衝撃波はコンテナ部の中央を貫いたが、爆発も何も起きはしなかった。  何、これは?  真寿美は朱雀の歩を進めた。  その時だった。レシーバーから、真寿美が望んではいなかったものが聞こえてきたのは。  「ジャミングが消えた?」  安芸の声は、真寿美の耳には入らなかった。ただもう一度、さっき聞こえたものを聞こうと、あるいは聞こえたのではなかったことを確かめようと、耳を澄ます。  だが事実は真寿美の期待を裏切った。  金属の破断音。  計器盤の発する警告音。  そして、聞くはずではなかった、木津の言葉にならない叫び。  ヘルメットをかなぐり捨てた真寿美の手がレバーに、スイッチに走る。  S−ZCに変型させながら、真寿美は高速で遷移するナヴィゲータの画面を喰い入るように見つめた。その目が見開かれる。  輝点。  スロットル・ペダルにかけられた真寿美の小さな爪先に力が込められた。  「仁さん!」 Final Chase − 閉ざされた日  真寿美の視界に入った小さな影は、接近するにつれて対峙する二体のVCDVのディテールを現わし始めた。  いや、対峙しているのではない。レシーバーから聞こえた音が真寿美に想像させた通りの光景がそこにはあった。ヘドロを思わせる灰緑色の躯体に押される白虎。その左腕は肩口から失われ、頭部はねじ切られてケーブルだけで辛うじて胴体にぶら下がり、胴体にはさんざんに弄ばれたことを思わせる無数の傷が走っている。それでもなお相手を押し返そうとしている白虎のモーターが苦しげな音を上げる。  灰緑色の頭部が接近するS−ZCに向けられる。嘲笑うかのような敵の表情を、真寿美はにらみ返した。  嘲笑が再び擱坐寸前の白虎に向く。銃を持つ右腕が動きを見せる。  朱雀が跳んだ。  左腕の衝撃波銃から射られた「仕込み杖」が「ホット」の右腕をかすめる。さらに朱雀が「ホット」と白虎の間に飛び込む。灰緑色の躯体がわずかに仰け反った。  「仁さん逃げて!」  後頭部のキプスが緩み、半ば朦朧としつつあった木津の耳に、真寿美の叫びが響いた。響いて、音色を変え、記憶の中の声に姿を変えた。  「仁!逃げて!」  そう叫ぶ七重の声に続いて、あの時の記憶が雪崩のように木津の脳裏を駆け抜けた。  七重の声。かき消す爆発音。覆い被さる軽く華奢な体。かいくぐって肩に、首に突き刺さる弾片。抱き起こす手に絡み付く血。そして眠っているとしか見えない顔。そこにもう一つの顔が重なった。  「仁さん!」  過去が通り過ぎた木津の視界には、自分との間に斜めに割って入り「ホット」を押し止めている朱雀の紅い背中が見えた。  木津の喉から叫びが迸る。それはギプスが外れたことによる苦悶から来るものだけではなかった。  「……っぅうおおおおおおあああああ!」  叫びを聞いた真寿美の手が反射的に操縦桿を動かし、朱雀の体がわずかに開く。「ホット」の機体が覗いた。  残る動力の全てを掛けて繰り出された白虎の右脚が、「ホット」の脇腹を真っ直ぐに捉えた。同時に甲高い警告音がコクピットに満ちる。バッテリー残量の最終警告音だった。  よろける「ホット」からすかさず離れると、白虎の残った右腕を掴み、その場から引き離しながらハーフに変型し、自らの上に白虎のほとんど大破に近い躯体を載せて全速でその場を脱する。  後方モニターの中で、「ホット」が姿勢を立て直し、悠然と銃を構えた。  銃口を染める実体弾の発火。  身構えた真寿美は、だが予想していた衝撃を感じなかった。  再び確認するモニターは、上体を起こし、狙撃の楯になった白虎を映している。  「そんな……だってもうバッテリーが」  「今ので最後だ」喘ぎながら木津が応えた。  「乗り移って下さい! 退却します!」  真寿美の言葉に木津が返したのは、断固とした拒否の言葉だった。  「ここまで来たんだ。今度という今度こそ片をつけてやる。いや、つけなきゃならないんだ!」  大破擱座した「ホット」麾下の機体三機全てがうち捨てられ倒れている中、同じように大きな損傷を受け沈黙する玄武があった。その許にS−RYが走る。  「兄貴っ!」  紗妃の声はいつもよりも高かった。その手はほとんど同時に変型レバーとマニュピレータの操作桿に伸びた。  足下から火花を上げて制動をかけた青龍の手が、玄武のハッチを力任せに引きちぎって捨てる。  「兄貴! 大丈夫?」  呼びかける紗妃とは裏腹に、極めて落ち着いた様子で饗庭がコクピットから滑り降りた。  自らもハッチを開いて上体を乗り出した紗妃に、饗庭は言った。  「ハッチが食い込んで開かなかった。通信も使えなくなった。怪我はない」  その言葉に力が抜けたように、紗妃はハッチにもたれかかったが、すぐに顔を上げた。  「ばかっ!」  不審そうな眼差しを上げる兄に、紗妃はさらに言った。  「ばか……心配……したんだからっ!」  紗妃の声で饗庭の無事を知った安芸は、玄武のコクピットで真寿美と木津の位置探索を続けた。  画面上を走っていた安芸の視線が止まった。  見付かった。白の輝点二、赤の輝点一。  安芸は場所を確認する。と、その表情が強ばった。感度を上げ走査をやりなおしても、結果は同じだった。  白の輝点が、一つ消えていた。  阿久津もまたLOVEの車庫で、予備機となっているS−RYの計器を頼りにその事実を掴んでいた。そしてそれを俄には信じられないといった口調で呟いた。  「白虎……か? 沈んでしまったのか?」  目を瞬かせ、もう一度画面に見入る。  変化はない。赤の輝点から離れつつある白の輝点はただ一つ。  なおも画面を見つめ続ける阿久津の耳には、背後での弱々しい靴音も入らないようだった。  「ホット」の銃口はなおもS−ZCに向けられている。いくら白虎の機体が楯になっていると言っても、これではどう見ても無事に逃げ切れるはずがなかった。  真寿美は一瞬だけ固く結んだ唇を開いた。  「仁さん、ちょっとだけ我慢して下さい!」  加速するS−ZC。「ホット」の銃弾が白虎をかすめる。  S−ZCの手が伸ばされ、白虎のハッチをこじ開けた。急に風圧を喰らって木津は顔を仰向ける。が、すぐにS−ZCの手がそれを庇った。S−ZCのドアが開き、木津を抱きとめた手がその体をコクピットへ送り込んだ。  シートに身を沈めた木津からは苦悶の表情が消えていなかった。口許からは食いしばられた歯が覗く。握り締められた拳。だがなおも仇敵から離れることを肯んじない眼差し。  レシーバーからの声だけでは伝わらなかった木津の有様を今目の当たりにして、真寿美はこれまで木津を駆り立ててきたものが何だったのか、分かりかけたような気がした。  震える木津の体をシートベルトが固定する。  「行きます!」  真寿美の手がレバーに伸びる。  白虎の機体が路面に崩れ落ちた。実体弾が続けざまに命中し炎を上げる。  と、炎の赤が宙に向けて伸び上がった。  それは跳躍する朱雀だった。  連射される衝撃波を「ホット」は飛び退いて回避するが、その内の一発は「ホット」の手元から銃を吹き飛ばした。  着地した足でそのまま地面を蹴ると、朱雀は右腕の「仕込み杖」を伸ばし「ホット」の懐へと飛び込む。  喉元を狙って横に薙がれる切っ先を「ホット」は後方へのステップで辛うじて避ける。そして振り抜かれた朱雀の右腕を掴んだ。さらに朱雀の左腕を捕えようとする「ホット」の手を下膊の防衝板で弾くと、逆に朱雀がその手首を握り捻り上げる。  金属の軋る音が鳴り、消える。  「来る!」  木津の叫びは体を弾く電流のように真寿美の耳に響いた。手が、足が動く。  腕を掴まれまた掴んだまま、朱雀の足が地を蹴り、飛びかかるように体を浮かせた。足払いをかけに来た「ホット」の足が空を切る。  片足になった「ホット」が安定を崩し、仰向けに倒れかかる。が、捕らえた朱雀の右腕を放さず、小さからぬ出力にものを言わせて体を捻った。  「放せっ!」  木津の声に、朱雀の左手が「ホット」の手首を放す。仰向けに叩き付けられそうになった躯体をその手で支えると、今度は逆に朱雀が「ホット」の機体を振り回しにいく。  「ホット」も掴んでいた朱雀の腕を放し、両手を突いて宙返りをうつと、着地の膝を突いた低い姿勢から、背中を向けて起き直った朱雀に突っ込む。  片足を軸に朱雀が振り向いた。その右腕から再び伸ばした「仕込み杖」を振るいながら。  手応えはあった。タイミングが早すぎたために大きな手応えではなかったが、それでも杖の切っ先は「ホット」の灰緑色をした女の顔の鼻から頬にかけて一閃し、横一文字の傷を負わせた。  「ホット」はしかしそれをものともせず突っ込んでくると、朱雀の腹に肩の一撃を与えた。  コクピットまで衝撃が走る。木津がまた呻きを上げたが、真寿美の言葉を待たずに言う。  「奴を……奴を!」  真寿美は木津に一瞥をくれることもせず、朱雀の左手を「ホット」に向け、トリガーを引いた。一回、二回、三回。  最初の衝撃波は「ホット」の背中を滑って消えた。次も同じく「ホット」に損傷を与えられず消える。そして三発目は、「ホット」の右腕に銃口を跳ね上げられ、空に散った。  真寿美は朱雀を数歩下がらせた。そうして取った間合いを、「ホット」が間髪を置かずに詰めてくる。  その時真寿美の腿を何かがかすめた。直後体にかかった変形のGの中で真寿美は見た、変形レバーに掛かる木津の手を。  シフトレバーに移される木津の手を覆うように、その上から真寿美はノブを握り、後進へ叩き込むと同時にスロットル・ペダルを踏み込んだ。  ハーフに変形したS−ZCが全速で後退する。左腕の衝撃波銃を連射しながら。  「ホット」は伏せてそれを避けると、落ちていた銃に手を伸ばし、そのままの姿勢でトリガーを引いた。  実体弾が衝撃波に迎え撃たれ、真っ黒な煙を上げて炸裂する。  「来るぞっ」  いつもの調子を取り戻しつつある木津の声に、真寿美は全速のまま前進に切り替える。その背後を横に衝撃波がかすめ、ハーフの装甲を震わせる。真寿美は朱雀に変形させ、振り向きもせず腕だけをそちらへ向けると一発撃ち、高く跳んだ。  見えた。わずかに煙幕の薄らいだ一隅に、こちらを見失って動きの止まった灰緑色の醜い、敵。  真寿美の左手が木津の右手を引き寄せ、トリガーへと導いた。  真寿美の目は照星を見つめ、木津にさえ向けられない。  そんな真寿美から視線を移し「ホット」を睨み据えると、木津はトリガーを引いた。  最大出力の衝撃波が走る。それは、片足を軸に体の向きを変える「ホット」の正面を真上から削り落とすように舐め、路面に突き刺さると穴を開けた。振動を避けて「ホット」が飛び退く。  その背後に背中合わせに降り立った朱雀が身を翻す。右腕から伸ばした「仕込み杖」もろともに。  「ホット」もまた身を翻す。「仕込み杖」の切っ先が空を切り、鋭い音を立てる。  こちらを向いた「ホット」の顔。前に与えた横一線の傷から上が、今の衝撃波で剥がされ、中の金属部を剥き出しにしている。その下の皮肉な微笑を浮かべた口許は、顔の上半分を失ったことで一層その凄まじさを益していた。  それを見た木津が言うのと真寿美が動くのはほぼ同時だった。  「蹴落とせ!」  朱雀の足が上がり、「ホット」の膝に一撃を加える。すかさず「ホット」は狙われた脚を下げるが、避けきれなかった。バランスを崩し、もう一方の脚で踏んだステップも中途半端だった。背後には朱雀の衝撃波銃が抉った穴。「ホット」はそこに膝まではまり込む。  木津の目に、口許に、名状しがたい笑みが浮かんだ。この二年の全てを次の一瞬で晴らそうとする、その全てを映したような笑みだった。  木津の手は今トリガーの場所にあった。最大出力、最大収束率に設定された衝撃波銃の銃口は、仇敵の至近距離にある。  「くたばれえぇっ!」  衝撃波。  だがそれは横から朱雀と「ホット」の間を分かつように突き抜けていった。  両者の頭が衝撃波の放たれた方向に向けられる。  「残党かっ?」  「……玄武、それに青龍も」  「何だって?」  接近する影は、真寿美の言葉通り、見慣れた車体の形を明らかにしてきた。  「寄るな!」木津が叫ぶ。「寄るな! 俺がやるんだ!」  木津は視界を切り替えた。穴の中の「ホット」は、接近するVCDVを目の当たりにして動きが止まっている。  だが再びトリガーを引こうとした木津の手に、真寿美の手が包み込むように押し留めた。  さらにハーフのS−RYが衝撃波銃を一発撃ち、そして止まった。もう一台のS−RYと、続いてG−MBが並ぶ。  二台目のS−RYのドアが開き、一つの影が降り立った。  その身を固める、この時季には不釣り合いなダーク・スーツが、頭に巻かれた包帯の白さを際立たせている。かつてその首筋を覆っていた黒髪は切られ、代わりに白い衛材が貼られている。右手には杖。少しふらつく体とは裏腹に、視線は揺るぐことなく「ホット」に注がれている。  「……久我、ディレクター……」  目の前に現れたものを信じられずにいる真寿美の呟きを、木津の怒声が掻き消す。  「何で邪魔をする! 寄るな!」  それが耳に入った風もなく、久我は口を開いた。その後ろにはそれぞれの乗機から降りた饗庭兄妹が控える。  「もうおよしなさい」  「ホット」は動きを見せない。  真寿美が操縦桿を引き、衝撃波銃の照準を「ホット」から外すと、朱雀の機体を静かに後退させた。  「もうおよしなさい」久我が繰り返した。「これ以上あなたは何も得られません。これ以上誰を傷付けても、あなたが手に入れられるものは何もないのです」  「邪魔をするな!」  今の言葉がまるで自分に向けられたものであったかの如く、木津が怒鳴った。その横で真寿美が体をびくりと震わせる。  「出てくるな! けりを付けるのは俺だと言ったはずだ!」  それまで「ホット」に向けられていたのと同じく真っ直ぐな視線が、朱雀に移された。その中にいる木津の姿を見通しているかのような、迷いのない視線。  「こうなるきっかけを作ったのは私です。七重の未来を奪わせたのも、あなたの今を狂わせたのも、MISSESに負傷者を出したのも、そして……この人にここまでさせたのも」  久我の言葉の最後の一句が、何故か取って付けたもののように真寿美には聞こえた。  久我の目が再び「ホット」を見つめる。  「だから、幕を引く責めを負うのも私でなければなりません」  木津はなおも吠える。  「知ったことか! こいつは俺がやるんだ。でなきゃ七重も……」  「七重はあなたを犯罪者にするために助けたのではないでしょう」はっきりと言い切った久我は、その後にぽつりと付け加えた。「私はそうさせてしまうところでした」  構わずに操縦桿へ手を伸ばそうとする木津を真寿美がまた押し止める。その目は自分もまた七重と同じ思いでいると言いたげだった。  久我はおぼつかない足取りでG−MBの前に進むと、はっきりとした口調に立ち返り、続けた。  「木津さん。このままではあなたも彼と同じです。それはやめてください。七重もそれを望んではいないはずです。いいえ、七重だけではないでしょう」  それを聞いて、木津の腕に縋り付く真寿美がまた体を震わせた。  「あなたと」久我は後ずさりながら「ホット」に向き直る。「そしてあなたを止めます。この体を楯にしてでも」  「ホット」は崩れた顔を久我に向けたまま動かない。携えた銃の先も下に向けられている。それは久我がG−MBのコクピットに体を滑り込ませた時にも変わらなかった。  動かなかったのは「ホット」だけではなかった。饗庭も、紗妃も、S−RYのコクピットで待機していた安芸も、そして真寿美も、木津も動かなかった。いや、動けなかった。  G−MBが急発進する。「ホット」に向けて全速で。  直後、三つの銃口が一斉に動いた。しかしその全てが沈黙を保ったままだった。  玄武が跳んだ。躯体が真正面から「ホット」に当たる。その右腕が「ホット」の腰を抱え込み、二体はもつれながら倒れる。玄武の左手首がバックパックに向けられる。  衝撃波の鈍い振動が空気を震わせた。そして爆発音が。  饗庭が妹を庇って地に伏せる。青龍と朱雀も爆風を避けるべく腰を屈める。  姿勢を戻した朱雀の目の前で、絡み合った二体のVCDVが炎を上げていた。  息を呑む木津の横で、真寿美がペダルを踏み込んだ。朱雀が炎の中に飛び込む。続いて走った青龍が、玄武から「ホット」を引き剥がす。朱雀も玄武の腕を掴んで引きずり出すと、消火剤を投げ付けた。フックを引く。弾け飛ぶハッチ。コクピットの中でぐったりとしている久我を救い出し、朱雀は饗庭たちの前に久我を寝かせ、S−ZCに戻る。  向こう側からは同じように男の体を掌に横たえた青龍が駆け寄る。  真寿美が、木津が続いてコクピットから飛び出す。真寿美は久我の側へ、そして木津は足を止めた青龍の横へ。  「進ちゃん、早く降ろせ!」木津が青龍の脚を叩きながら言う。「奴の面を拝ませろ!」  青龍が腰を屈め、右手を静かに下げる。  拳を握りしめ、食らい付かんばかりの勢いで、木津は手の上に横たわる男の顔を覗き込んだ。直後木津は、それまでの勢いを完全に殺がれ、呆然と立ち尽くした。  バイザーの破れたヘルメットの中に回った火で、「ホット」の顔は識別できない程に焼け崩れていた。  背後では真寿美の声が飛んでいる。  「紗妃さん、ディレクターは?」  問われた紗妃は、しゃくりあげていて言葉が言葉になっていなかった。ただ頷いて、心肺機能が止まっていないことを伝えるしか出来なかった。  頷き返した真寿美がさらに指示を飛ばす。  「饗庭さん、安芸君、二人をLOVEに」  青龍が立ち尽くしたままの木津から数歩下がると、手に「ホット」を載せたままハーフに変形する。  S−ZCの横では、饗庭が久我を助手席に乗せると、紗妃にS−RYに乗るよう促した。  紗妃の涙ぐんだ目が真寿美の目と合う。真寿美は頷いて言った  「行って。あたしはまだ……」  振り返った先には木津の背中。  「少し経ったら、迎えに来て」  頷く紗妃が乗り込んだS−RYとS−ZCが走り去るのを見送ると、真寿美は木津の傍らに歩み寄った。  「終わっちまったのか……これで」  呟く木津の手に真寿美は自分の手を重ねようとしたが、躊躇って止めた。  「俺は……何もしてなかったのに……」  何事もなかったかのように、波の音。  と、突然木津の体がぐらりと揺れた。張り詰めていたものが急に抜けた、そんな風だった。抱きとめる真寿美の耳に、かすれた木津の声が聞こえる。  「眠い……」  「眠って、いいですよ……もう」  真寿美に支えられながら木津は気怠そうに腰を下ろすと、片腕を枕に地面に寝転がる。その頭を、傍らに座り込んだ真寿美がもたげ、膝に載せた。  程なく木津は眠りに落ちた。真寿美がその手首を取って鼓動を確かめるほどの深い眠りだった。  取った手を自分の両手に包み込み、波音と微かな寝息とを聞きながら、真寿美は木津の寝顔に見入った。  虚ろな寝顔だった。  蝉が鳴いていた。工場地区にいた去年の今日は聞くことが出来なかった蝉の声。  傾きかけた陽が差し込む。都市区域の中にあるLOVE本部の廊下の窓。外を眺めていた真寿美は、肩を叩かれ振り返った。  「サボり?」  「休憩って言って」  「休憩休憩サボって休憩」  本部の制服を身にまとった紗妃は笑いながら真寿美の横に並び、同じように外に目をやった。途切れては始まる蝉の声。  長く続く沈黙の中で、だが二人は同じことを考えていた。  「……もう、一年経っちゃったんだね」  「そうね」  再び訪れた沈黙。二人はやはり同じように、一年前からのことを思い返していた。  燃える機体から救出された「ホット」は、結局助からなかった。玄武の衝突によってハッチが損傷し、コクピットの中まで火が入り込むことになったのだった。  一方の久我は衝突のために後頭部の傷が開き、数日意識が戻らなかったが、打撲とごく軽い火傷だけで済んでいた。  この一件を嗅ぎつけた当局は動きを見せたが、通り一遍の調査の後、うやむやのうちに手を引いてしまった。自らも脛に傷持つ当局としては、これを機に何もなかったことにする方が得策と判断したのだろう、というのが安芸の推測だった。そしてこれに引き続き、VCDVの導入を中止する旨が当局からLOVEに通達された。  存在意義のなくなったM開発部は、LOVE上層部の決定によって解散となり、工場地区の研究棟も閉鎖された。しかし久我は、それに先んじて辞表を提出していた。表向きは傷病のため職務遂行困難というのが理由だったが、組織を半ば私して復讐を遂げた後なお職に留まるのを潔しとしないというのがその真意だと、去り際に久我はMISSESのメンバーに告げて行った。  阿久津もまた職を辞していた。これもまた組織の解散を理由に掲げていたが、その実は指示だったとは言え、G−MBの荷室に火薬を積み、久我の自爆に手を貸した己を責めてのことだった。  MISSESのメンバーも欠けていた。  最後の攻防で自殺同然の突撃を見せた由良は、一命は取り留めたものの、右腕右脚を喪った。そして精神の傷はさらに大きかった。当局に戻ることはおろか、LOVEに残ることも最早出来ない体となった由良は、療養施設での生活を余儀なくされていた。  安芸に自分の新たな場を探すと告げた饗庭も、LOVEの外にそれを求めて去っていった。その新たな場については饗庭らしく何も語ることはなかったが、紗妃が伝えたところによると、由良の心身を癒すことにそれを見出したらしかった。  そしてもう一人、木津が姿を消していた。  あの後、LOVE内の自室に運ばれてもなお目を醒まさなかった木津に、真寿美はずっと付き添っていた。これと言ってはっきりとした理由を持ってではなく、ただそうしていた方がいいと思えたが故に、シャワーを浴びることはおろか、着替えすらせずに、眠る木津の横に座っていた。だが疲労から真寿美自身も眠りに落ちてしまい、気付くと朝の光が空のベッドの上に白々と舞っていた。  そしてそれきり木津の行方は杳として知れなかった。  真寿美のごく小さな溜息に応えるように、紗妃が口を切った。  「みんな、元気かな?」  「由良さんの具合はどうなの?」  「うん……兄貴は相変わらずあの調子で何も言わないんだけど……雰囲気からするとなかなか難しいみたい」  「そうなんだ……」  「久我ディレクターとか阿久津主管はどうしてるんだろうね。真寿美ちゃん連絡取ったりしてる?」  「ううん」  「そっか……」  「でもきっと元気だと思う」窓の外を見たまま真寿美は言う。紗妃があえて避けていた名前を自ら。「仁さんも」  紗妃が思わず真寿美の横顔に目をやった。それからそれに倣って視線を戻す。  「そうよね、木津さんなんか挨拶を忘れて行っちゃうんだから」  くるりと振り返り、窓に凭れると、紗妃は殊更に明るく言葉を続けた。  「またとぼけてひょっこり戻ってくるかもね。いつもの調子で」  真寿美は右手をスカートのポケットに忍ばせ、そこに入っていたマスコットを握りしめる。それはあの後残骸として引き上げられた白虎のコクピットから真寿美が自分の手で回収した、メイン・キー・カードのキーホルダーとして揺れていたあの溶けかけたパンダのマスコットだった。  真寿美は静かに首を横に振った。  「仁さんは、戻ってこないと思う」  紗妃は眉をひそめた。  「いいの? それで」  頷く真寿美。  「だって……」  「あのね」紗妃と同じように窓に凭れると、真寿美は紗妃の顔を見上げた。「あのね、仁さんは……あの時にそれまで自分を支えてきたものをなくしちゃったの。仁さんが望んでいたのとは違う形で」  「支えてきたもの?」  「仇を取りたいっていう気持ち。前に紗妃さんから仁さんの事故のことを教えてもらったでしょ? あの時に亡くなった七重さんは、仁さんにとって一番大事な人だったの」  と、真寿美の口許に笑みが浮かんだ。  「大事な人だったの。あたしなんかじゃ代わりにはなれなかったぐらいに」  視線を外して紗妃は一つ息を吐いた。  「でも、忘れられないのね?」  「うん、忘れられない。それに、忘れようとも思わないし」  もう一度真寿美は窓に向かって立った。肩に届かないほどの髪に、夕暮れの光が跳ねる。  「あのね、仁さんもそうだし、多分饗庭さんも、由良さんも、久我ディレクターも同じだと思うんだけど、みんな守りたかったものを守れなかったんじゃないかな」  「兄貴?」  「うん、由良さんのこと。それでね、みんな、結果として守れなかったっていうことをきっとすごく重く感じてるのね」  真寿美は空を見上げるように顔を上げた。 「あたしは確かに七重さんの代わりにはなれなかったけど、それに何度も仁さんに助けられたりしたけど、でも、最後の一度だけでも仁さんを守ることが出来たもの。それは忘れなきゃいけないことなんかじゃなくって、ずっと誇りに思ってていいことだと思う。だからね……」  少しうつむいて真寿美は続ける。  「だからね、また誰かを好きになった時、あたしは好きな人を守れたんだって、守れる力を持ってたんだって、きっとそんなふうに思っていられるから……」  「真寿美ちゃん……」  「だから、忘れない」  顔を上げて微笑む真寿美。その目に浮かぶ涙が、夕陽を受けて光った。