Chase 21 − 振り払われた涙  修理台に横たえられた白虎を一目見るなり、阿久津は顎に手をやってうなった。  「こいつぁあまた……何とも派手に抉りおったな」  「あんまり言うなよ」と木津。そして振り返る。そこに由良の姿はない。  「ああ、訳は聞いとる。それにしても」と阿久津はもう一度損傷箇所を見つめる。「正直な話、かなり危ないところだったぞお主」  「へ?」  「一番内側の防衝板まで飛んじまっとる。これでもうちょっと銃の出力が上がってたら、お主、コクピットと心中しとったところだ」  「……ほんと?」  「本当も真実も本気も真剣だ」  木津はシャワーの後の乾ききっていない頭をばりばりと掻いた。跳ねる飛沫を避けるようにして阿久津が言葉を継ぐ。  「こいつぁあますます由良君には言えまいて」  「まあ誰も言わないだろうがさ。本人の姿が見えないってのに、みんながみんな、まるで腫れ物に触るみたいな調子だぜ」  「ディレクター殿はいかがかな?」と皮肉な口調で阿久津が言った。  「さあな」と木津。「ま、おばさんが何を言おうが言うまいが、由良にはこたえるだろうけど」  阿久津は修理台のステップをゆっくりと上がりながら言った。  「こっちの領分じゃあないが、アックス・チームの戦力減も厳しかろうな。これで由良君がめげちまうと、後はやる気なしの饗庭の兄ちゃんだけになっちまうからな。安芸君も苦労が絶えんわ」  それを見上げながら、腕を組んだ木津が訊ねる。  「白虎も早いとこ修理してもらわないと、その穴埋めが出来ないしな。どの程度掛かりそうだ?」  損傷部分に突っ込んでいた首を引き抜いて、阿久津が答える。  「最優先でやっても一週間は掛かろうな」  「そんなに?」  「躯体部の結構深いとこまで来とるからな。ここまで来ると、部品の交換だけじゃ済まんのだよ。それにこいつみたいなワン・オフの車両にゃ、市販車みたいに交換部品のストックがあるわけでもないし」  「……一週間か」  「もっとも、あと修理せにゃならんのは由良君の玄武だけだっちゅうことだし、作業負荷はさほどじゃなかろうからな」  「玄武の方はどうなんだ? 現場じゃ相当いってるように見えたけど」  「予備調査させたところによれば、肩のユニットがいかれとるのと、あとは装甲のガタだけだ。乗員のケアに比べりゃ、遙かに楽な仕事だな」  木津は天井を仰ぐと大きく息を吐いた。  久我の執務室から詰所に戻った安芸は、由良の姿を探したが、大柄ではないががっちりとした体躯と、その上に載っている丸顔は見当たらなかった。  「由良さんどこにいるか知りませんか?」  訊ねられた饗庭は一言否定の答えを返しただけだった。  「そうですか……」  「ディレクターのお呼びですか?」  振り返ると、黒髪をなびかせて声の主が詰所に入ってきた。  「いえ、そうじゃないんです。ただ、どこに行ったんだろうと思って。紗妃さんは見かけませんでしたか?」  首を横に振りながら紗妃は腰掛けた。  「戻ってきてからは見てないです。でもディブリーフィング召集がかかれば……」  「ああ、それなんですが」と安芸が言葉を挟んだ。「今回は全員でのディブリーフィングはしないそうです」  意外そうな顔で問い返す紗妃と、わずかに反応を見せただけの饗庭を見て、つくづく対照的な兄妹だと安芸は思いながら言った。  「僕と峰さんとは話を聞かれましたけど。後は当局からの報告を待って、とりあえずはそれで済ませるみたいです」  「珍しいですね。出動後のディブリーフィングがないなんて、確かここに来てから初めてです」  「アックス・チームが出来てからでも初めてですよ」と安芸。「やっぱりこういう形しか採れないんですね、あの久我ディレクターでも」  紗妃が少し首を傾げるが、すぐに合点のいった顔になる。  「そうですね。全員集まれば集まったで肩身が狭いでしょうし、かと言って一人だけ外すのもなおつらいでしょうしね……」  その背後でいきなり饗庭が立ち上がり、二人には一顧をだに払わず、無言で詰所を出ていった。  「あれにも困ったものですけど」と紗妃。「アックス・リーダーとしては使いにくいメンバーでしょう? 兄貴って」  安芸は答えずに微苦笑して腰を下ろした。だが紗妃の目が答えを促すように注がれているのを見て、言葉を選ぶようにして言った。  「寡黙だから、時々コミュニケーションに困ることはあるにはありますけどね」  紗妃は天井を仰ぐと小さく息を吐いた。  件の由良が姿を現したのは、木津の立ち去ってしばらく後の作業場にだった。だが作業台には近付くことはなく、出入口の端から中を窺うだけだった。そしてその視線の先にあるのは、自分の乗機ではなく、誤射だったとはいえ自分が傷付けてしまった白虎だった。  作業者は黙々と白虎の周囲で立ち働いている。彼らの話し声から白虎の損傷状況を伺い知ることは出来なかった。しかしそれでもなお由良は白虎を見つめ続けた。抉られた脇腹に視線が届いたとき、由良の目にはその場面が浮かんだ。  残る一体の人型に向けて衝撃波銃の銃口を向けたハーフのG−MB。人型は遠巻きに牽制の挙動を続けた。と、その両腕の銃口がG−MBと、同時に白虎にも向けられた。反射的にトリガーを引いた由良の指。人型は自らは撃つことなく回避し、そこから猛然とG−MB目がけて突っ込んできた。  白虎が銃撃を始めた。それを避けつつ、人型が撃つ。同じく回避しつつ由良が再びトリガーを引いたその時だった。無理の生じていたG−MBの左肩がコントロールを失って大きく横に振れた。衝撃波の発する銃口は、白虎へと向いていた。  木津がG−MBの異常に気付いたのは、白虎の躯体が抉られる衝撃を感じてからだった。バランスを失う白虎に辛うじて膝を突かせ、転倒だけは免れると、木津はG−MBを見た。その左腕は、自らの放った衝撃波の反動で肩先からぐらぐらと揺れ動いている。  G−MBの顔が白虎に向いた。  コクピットの由良は目の前の事態をすぐには呑み込めないようだった。  「き、木津さん……」  「構うな!」  そこまで思い出すと、由良は目を固く閉じて頭を横に振った。と、肩に置かれた手に、由良はびくりと大きく体を震わせた。  振り向くと、阿久津がいつもと何ら変わりない口調で話しかけてきた。  「そんなとこから覗いとらんで、入ってくればよかろうに」  由良は阿久津の表情を見ることが出来なかった。目を伏せたまま、うわずりながらこう答えるのがやっとだった。  「いえ……いいんです」  阿久津の片方の眉が少し上がる。  「お主の玄武なら、明後日にゃ修理完了しとるぞ。心配無用」  由良は何も応えず、曖昧な表情を浮かべ、それに気付いた阿久津はもう一度眉を動かしたが、本当に由良が訊きたかったのであろう白虎の状況については何も触れなかった。  しばらくしてから、絞り出すような小声で一言礼を言うと、由良は足早にその場を立ち去った。  残された阿久津はその後ろ姿を見ながら一つ息を吐いた。  「お呼びですか?」  真寿美が執務室に入ると、珍しく久我はデスクで手を止めていた。その視線がゆっくりと真寿美に向けられる。  「安芸さんと由良さんをここに呼んでください」  そんなことか、と真寿美はやや拍子抜けな面持ちだったが、すぐに久我の意図するところを汲み取った。  「由良さんは帰ってきてから誰とも顔を合わせてないみたいです。探してこなくちゃ」  久我は答えずにカップのコーヒーを飲み干した。それに気付いて真寿美はおかわりの要否を訊ねるが、久我はそれに問いで返す。  「あとどの位残っていますか?」  「えっと……あと四杯分です」とコーヒーメーカーをのぞき込みながら真寿美が答える。「入れ替えますか?」  「二人との話が済んでからお願いします」  「分かりました」  一礼して真寿美は部屋を出ていく。  ドアが閉じると、久我はデスクの上に視線を戻した。そこには阿久津が出してきたB−YCの修理見積書が開かれている。  もう一度久我はそのページを繰った。木津が聞いたのと同じく、そこには修理に要する期間が一週間と記されている。さらに、続けて今回の件で明らかになったB−YCの構造上の不備についても何点かが挙げられている。  久我は目をゆっくりと閉じると、安芸と真寿美から聞いた話を思い出していた。今度の人型は、前のものよりもはっきりと性能が上がっていると感じられる。二人は口を揃えたようにそう言っていた。  開発のペースが上がってきている。VCDVに匹敵する機体を出してくるのも時間の問題だろう。それは即ちあの人との……  久我は自分自身でさえ気付かない程に小さく、一つ息を吐いた。  それから間もなく、インタホンから声が聞こえた。  「安芸です。入ります」  今日二度目のこの部屋に入った安芸は、促されるままにソファに座ると、そのまま待つようにとの久我の言葉に、あと誰が呼ばれているのかを察して、黙って頷いた。  久我はデスクで資料に目を通し、また作業用のディスプレイ・スクリーンの中を何やらかき回している。その様子を眺めるともなく眺めながら、黙ったまま安芸は待った。そしてこれから久我の切り出す内容に想像を巡らせようとした。この組み合わせで呼び出されれば、普通は叱責なのだろうが、久我ディレクターの場合それは考えにくかった。でなければ誤射の件の事情聴取だろうか? それもまた可能性は薄かった。だったら……  安芸からほとんど十分近く遅れて、インタホンから声が聞こえた。ごくごく小さく、そしてぼそぼそとした声が。  「……由良です」  「お入りなさい」という久我の応答は、間髪を入れずに発せられた。その口調は決して厳しいものではなかったが、しかし聞く者に有無を言わせぬような響きを帯びていた。  ドアが開き、安芸が視線を移す。  憔悴し切った表情の由良は、決して大柄ではないその体を一層小さくして入ってきた。  視線は中にいる二人のどちらをも捉えない。  だが気にした様子もなく久我は掛けるように勧めた。  わずかに上げられた由良の目はソファを見、そして安芸の隣に小さくなって座った。  作業に一区切りを付けた久我がゆっくりと立ち上がり、二人の方へ歩み寄る。その手には資料も何も携えられてはいない。  腰を下ろすと、前置きの一つもなく久我は切り出した。  「来ていただいたのは、アックス・チームの編成に関してのお話のためです。今回、アックス・リーダーを安芸さんから由良さんに引き継いでいただこうと思います」  安芸の想像をも完全に超えていたこの言葉に、思わず由良も頭を上げた。  「え……?」  かすれた由良の声が、辛うじてそれだけを言う。  久我は繰り返すことなく、よろしいですねと同意を求めただけだった。  安芸は了解の意を告げる。その横顔に由良の視線が向けられた。  それに気付いて安芸が由良の顔を見返す。その表情は既に全てを納得しているかのようなものだった。  一人取り残されたような焦燥を覚え、思わず由良は口を開いた。  「どういう……ことなんですか? 安芸リーダーの代わりに、私が、なんて、何故なんですか? それも、こんなことの後に……」  「ローテーションです」  簡単にそう久我は答えた。  「でも……でもそれだったら、派遣人員の私より、LOVEの正社員の饗庭さんが……」  久我は殊更口調を変えることもなく言う。  「饗庭さんはあなたよりMISSESでの経験は短いです。それを考えれば、ローテーションという意味であなたが任に当たるのが妥当だと思います」  開きかけた口を閉じながら、由良はうつむいた。その様を無言で見つめていた安芸が久我に視線を向けると、再びはっきりと了承の意を告げた。  なおも顔を上げない由良に、久我がゆっくりと目を向け、そして問う。  「由良さんもよろしいですね?」  応えはない。顔も上げられない。  久我は静かに待った。  優に一分は続いた沈黙を、ほとんど聞き取れないほどにかすれた由良の声が破った。  「……務まる、でしょうか?……私に」  と、不意にその顔が上がり、声が大きくなる。  「僚機を撃って損傷させた私に、指揮官が務まるでしょうか? 務まるんですか?」  この豹変にも久我は全く態度を変えぬまま、静かに訊ねた。  「あなたは、ご自分が当局の指揮官に何とおっしゃったかご記憶ですか?」  この問いを聞いて合点のいった表情をした安芸の横で、問いかけられた当の由良はやや呆然とした様子でいる。唇は動かない。  久我が静かに続けた。  「任務中の被害は、出動中の各員がその責を負う。だから指揮官の責任問題が任務遂行の妨げになることなどない。そう言われたはずです」  由良の唇が肯定の言葉を返すかのように微かに動いた。  「そのように言えるならば、MISSESのリーダーとしての基本的な姿勢はご理解頂けているものと思います」  由良の喉が動く。  久我は口調を変えずに言った。  「では、次回の出動時から由良さんにアックス・リーダーをお任せします」  由良は久我の顔を、半ばすがるような表情で見つめていたが、やがてその首が、うなだれるかのように縦に振られた。  「……分かりました」  安芸がその言葉に一つ小さく息を吐いた。  久我の決定を安芸から聞いた饗庭は予想通りに簡単に了解の応答を返しただけだった。その分の補填をしようというわけではなかっただろうが、木津が反応を示した。  「へえ、ローテーションねえ。進ちゃん、アックス出来てどのくらいになるっけか?」  「今年で喜寿ですね」  「おいおい……」  安芸と共に詰所に戻っていた由良は、しかしこの台詞にも笑うことはなかった。もっとも安芸自身は笑わせるのが目的の単なる冗談で言ったつもりではなかったが。  木津は冗談のつもりで続きを始める。  「そのペースでローテーションしてたら、饗庭兄ぃには順番が回ってこないじゃないか」  「サイクルが米寿に伸びたらどうします?」  「よせって」  「どっちにしても、仁さんには回りませんよ」と、微笑を帯びた視線を木津に投げると、安芸は言う。「仁さんは単独で動き回る方がきっと合ってます」  「そうかね?」やはりにやりとして、煙草を一つ大きく吹かす木津。「それ、俺がわがままだとか言ってるか?」  「違うんですか?」  「し、失敬だな君は。そんな風に言われたのは、生まれてこの方」急に真面目な口振りになって木津は言う。が、ここまで言って声が小さくなった。「……数百回」  「ほら」  「ま、まあそれは置いといてだな、いつから交代なんだって?」  由良の方を見てから安芸は答える。  「別段引き継ぎもありませんから、今度出動命令があった時、ですね、事実上は」  「なるほど……しかし、その次回がいつになるやら」  「そういえば最近『ホット』の直接指揮のケースも無くなりましたね」  「昨夜はそれらしい話だったんだけどな」  「木津さん」  思いも掛けなかった声に、木津と安芸、そして由良までが振り返る。  声の主は表情の感じられない視線を木津に注ぎながら、再び口を切った。  「私怨、なんですか?」  「あ?」  沈黙。  「木津さんが『ホット』を追うのは、私怨が理由なんですか?」  再び、沈黙。  木津は煙草をもう一度大きく吹かすと、  「それがどうしたい?」  饗庭は無表情のまま木津の顔を見据えている。それに同じく表情を出さない視線で応じると、唇に小さくなった煙草をくわえたまま  「私怨さ。それも混じりっ気なしの」  そう木津は繰り返した。  「そうですか」と何らの変化も見せずに饗庭が言う。  「そうです」と負けずに木津。  と、ドアが開いてお馴染みの短躯が駆け込んできた。  「由良さん、アックス・リーダー就任ですって?」  雰囲気の急変に戸惑ったこともあって、由良はそれに曖昧な返事を辛うじて返した。  それをものともせず、真寿美は居合わせた全員をぐるりと見渡すと、  「それじゃ、今晩飲みに行きましょう」  「乗った」間髪を入れない木津の返事。  「由良さん、まさか下戸じゃないですよね」  安芸に問われて、うっかり由良は答える。  「いえ、飲めます」  「これで四名確定」  「あ、あの……」  だが、「あれ?」といった安芸の表情に、出かかった言葉は引っ込んでしまった。  「饗庭さんはどうします?」  途中だった話を中断されても変わらなかった無表情は、辞退を告げる時も同じだった。  「え〜、どうしてですか?」  追い打ちを掛けられて、初めて饗庭の頬に表情らしきものが浮かんだ。それはどちらかと言えばよからぬ気分を表しているかに見えなくもなかった。  「当直に残ります」  そう聞いて、真寿美はあっという顔をする。  「峰さん、まさか忘れてた?」  「え、えーとね……えへへへへ」  左右の安芸と木津から同時に小突かれて、真寿美は悲鳴を上げながら跳び退る。  思わず笑いを誘われながらも、由良は生真面目な口調を崩さずに言う。  「だったら私が残ります。リーダーを任されて、最初からそういうことでは……」  「平気平気」木津が言う。「昨日の今日だぜ。向こうだって練り直しに暇を喰うだろうし、それにとりあえずは当局に任せとけばいいさ」  「特一式は半数が稼働不能です」  「由良の玄武だって入院中だろ?」  口ごもる由良に木津が追い打ちを掛ける。  「それに今日の当番は、まだ指示が出てないんじゃないか? それで白羽の矢が立たなきゃいいのさ。なあ、元リーダー」  安芸の賛同を聞くと、当の由良の言葉も待たずに真寿美が詰所を出ていく。  「それじゃ、ディレクターに確認を取ってきます」  「姫にも声掛けとけよ」  「はい!」  上目加減に真寿美の背中を見ながら、由良は短く息を吐いた。  「しかし、もしかして、おばさんは狙ってやってんのか?」  木津の言葉に、安芸が肩をすくめながら  「まさかとは思いますけどね」  「どっちでもいいですけど」と箸を持ったまま紗妃。「でも、いいんじゃないですか? どのみち兄貴はこういうところに来ないでしょうし」  「あ〜、紗妃さん冷たい〜」早くも酔いが回り始めたような真寿美の台詞に笑わなかったのは、隅の方でただ呑むばかりの由良だけだった。  それを見とがめて、真寿美が  「あ〜、由良さんはのりが悪い〜」  「誰だ、こいつにこんなに飲ませたのは?」と言う木津に、安芸が返して  「仁さんでしょう?」  苦笑いしつつ、木津は由良にけしかける。  「ほれ、真寿美に負けずに行け行け!」  何も言わずに手元の杯を干し、再びそれが満たされると、由良は一気に呷った。  紗妃がその様子を見て、あらためて言う。  「すごい飲みっぷりですね」  そして串焼きを一本つまみ上げると、口に運んだ。  「そう言う姫は結構な喰いっぷりじゃないか」と木津。「よくそれで太らないよな」  「あたしなんて、食べたって背が伸びないんですよぉ」真寿美が言って、一名を除く一同の失笑を買った。  「あ〜、由良さんやっぱりのりが悪い〜」ぷっと膨れて見せてから、「そういう人には、アルコール追加っ!」と、干された由良の杯をなみなみと満たす。  それをまた一気に干す由良。  「お見事〜」と真寿美が拍手する。しかしそれに反応を返さず、由良は無言のまま立ち上がり、座を離れた。  その姿が洗面所へと消えるのを見て、木津が口を切った。  「真寿美、おまえ今日の趣旨忘れて楽しんでるだろ?」  「はぇ?」と妙な口調で返事をすると、ぶるぶると首を横に振って、「そんなことないですよぉ、由良さんにしっかり飲ませてるじゃないですかぁ。趣旨を忘れてるなんてことないですもんないですもんないですもん」  そう言いながらまた首を激しく横に振る。と、いきなりその小さな上体が傾き、軽くえずいた。  「姫! 任せた!」  「はいっ!」  紗妃に肩を支えられて由良の後を追う形になった真寿美の背中を見ながら、今度は安芸が口を切った。  「やっぱり、本人の反応が今一つですかね」  「……かな」  「由良さん自身が『趣旨』を承知していないとは思えないですから、なおさらなのかも知れませんね。もっとも、閉じてしまって欲しくはないですけれど」  「閉じる?」  「思い込みが激しいタイプですからね、由良さんは」  分かったような分からないような顔で、木津は新しい煙草に火を着ける。  天井目がけて、一筋の煙が吐き出された。  安芸の言葉通り、由良はこの宴会の本当の「趣旨」を承知していた。そして半ばありがたく思いながらも、気持ちのもう半ばを占めるものを覆い隠すことが出来ないまま、いや、むしろそちらの方が大きくなっていくのをはっきりと感じながら、洗面所の個室の中で立ち尽くしていた。  あれだけのペースで飲んでいながら、酔いは一向に回って来なかった。  壁に囲まれた狭い空間で、目を閉じて頭を垂れると、由良は長く息を吐いた。それに導かれたかのように、豊かな頬を涙が伝った。  それを振り払うと、せめてこの場くらいは、自分の中で大きい部分を占める想いを抑え付けておこうと決めた。こうやって自分を救い出そうとしてくれている同僚たちのために。  由良は頬を拭うと、もう一度息を吐いた。  「お、主役がお戻りですよ」  素面の時同然の慧眼ぶりを発揮して、安芸が木津に告げた。  振り返った木津が言う。  「そんなに大量に吐いてたのか?」  「嫌なこと言わないでくださいよ」と返す由良の顔には笑みが浮かんでいる。「ところで、女性陣の姿が見えませんが?」  「本当に吐きに行ってます、峰さんが」  「ハイペース過ぎですよ、峰岡さん」  「そういう由良さんだって」  と、紗妃が重たげな足取りで戻ってきた。  「あれ? 真寿美は?」  すると、紗妃は苦笑しながら答える。  「ええ、気分が悪いのは大丈夫だったんですけど……」  「けど?」  苦笑のままの紗妃の視線が背後の足下に向けられる。男たちがそれに倣うと、視線の先で真寿美が紗妃のスカートの裾をつかんでしゃがみ込み、何やらむにゃむにゃとつぶやいていた。  「半分眠っちゃってるんです」  「出来上がり第一号かい」  同じく苦笑いしながら、木津は真寿美に近付いてその肩を揺すった。  「起きろ酔っぱらい!」  寝ぼけた猫のような声を少し上げただけで、真寿美は立ち上がる気配も見せない。  「しょうがねぇなぁ」  木津は真寿美の背後に回ると、立たせようとしてその両脇に腕を差し入れ、体を持ち上げた。  その途端、  「うにゃあああああああああ!」  奇妙な大声を上げながら、真寿美が両腕をぐるぐると振り回した。左の拳が咄嗟に屈んだ紗妃の頭上で空を切り、右の拳は猛烈な勢いで木津の脳天を直撃した。  思わず声を上げる木津。見ていた安芸と由良が揃って吹き出す。  「笑い事じゃないぞおい……っつ」  殴られた頭をさすりながら、木津は一つ息を吐いた。  翌朝。  さえない顔でコーヒーを運んできた真寿美の匂いに気付いて、久我が声を掛けた。  「二日酔い?」  「……みたいです。全然記憶はないんですけど、頭が痛くて……」と、一つ息を吐く。  同じ頃、MISSESの詰所では、頭痛を訴える木津の頭を安芸が触っていた。  「……立派に瘤になってますね。でもこれは普通頭痛って言わないでしょう?」  それには答えず、木津はつぶやいた。  「神経のギプスが外れるかと思ったぜ。真寿美の奴、後でお仕置きしてやる」  そして煙草の煙を交えて一つ息を吐く。  そこに顔色のよくない上に目を真っ赤にした由良が入ってきた。一目見て安芸が訊ねた。  「どうしたんですか?」  「え?……ああ、ちょっと寝不足気味で頭痛がするだけです」と、一つ息を吐く。  宴会が引けて後、抑え付けていた想いが反動のように思考の表に立って、それ故に眠れなかったのだった。  そしてもう一人、この三人とは違った意味で頭を痛めつつ息を吐いている人間がいた。 Chase 22 − 解かれた指  その日の午前中、二度目に久我の執務室に入ってきた真寿美は、コーヒーのポットが既にほとんど底を突き掛けているのに気付いて、重い体をコーヒーメーカーの載る小テーブルの前へと進めた。  まだ頭痛のさめきらない真寿美ははっきりと意識しはしなかったが、午前中だけでポットが空になるということは、今までにはなかったことだった。  ドリップのコーヒー殻を払う真寿美に、久我は暫時席を外す旨を告げて立ち上がった。  「はい。すぐお戻りですよね?」  「はい」と答えながらドアの前まで進むと、そこで久我は立ち止まり振り返った。  「具合が良くないのなら、午後から帰っても構いません」  思いがけない言葉を聞いて、真寿美は手元を狂わせる。ミルに入るはずだったコーヒー豆が床に散らばり、ばらばらと音を立てる。  「あっ……ちゃぁ……す、すみません」  そんな真寿美に、久我は静かに同じ言葉を繰り返した。  「い、いえ、大丈夫です」  真寿美は床のコーヒー豆を追っていた視線を久我の顔へと移す。そこに真寿美が見たのは、予想していたいつもの淡々とした表情でも、また不機嫌さの影でもなく、むしろ奇妙なまでに穏やかな顔だった。  自分の顔を見つめる真寿美にそれ以上は何も言わず、久我は執務室を出ていった。  真寿美もそれ以上は考えずに、こぼした分の豆をミルに追加して、スイッチを押した。カッターの回る音に導かれるように、芳香が立ち上ってきた。  医師がライトを消す。それが合図ででもあったかのように、横たわっていた木津は体を起こすと、ものものしい検査機器の中をくぐり抜けて来た。  「お疲れさまです」と医師。「結果は十分もあれば出ます。よろしければそちらでお待ちいただいても結構ですが?」  「ああ、そうさせてもらうよ」と伸びをしながら木津。が、その表情が曇った。「で、言い忘れてたんだが、一つ気がかりなことがあってさ」  医師の眉がひそめられた。  「何か自覚症状がおありでしたか?」  「自覚症状と言うわけじゃないんだが……実は」  木津はそこで言葉を切った。  「……いや、結果を見てからにしよう」  医師の表情に落ちた不安の影は、それを聞くと一層濃くなった。  神妙な面持ちで検査室を出ていく木津を見送ると、医師は検査機器の裏側に回り、資料の吐き出されるのを待った。  一方の木津は、隣の部屋に入って丸椅子に腰を下ろすと、場所柄煙草を吹かすわけにもいかず、手持ち無沙汰そうにドアを見つめている。やがてそのドアが開いて、資料を手にした医師が入ってきた。その足取りはどことなく不安げなものに思われもした。  「木津さん、まさかと思いますが……」  木津がゆっくりと頷くのを見て、医師は資料をライトボックスと机との上に広げた。  ライトボックスのスイッチが入れられると、そこには木津の頭部が浮かび上がった。  医師がペンの先でその上の一点を指した。  「瘤、ですか?」  「ああ、昨夜真寿美にしこたま殴られた」  「……先に申し上げておきますが」と、淡々とした口調で医師は言った。「検査上、何ら問題はありませんでした」  と、木津が表情を一変させる。その頬には神妙さに代わって悪戯する子供のような笑みがあった。  「ま、そうだろうな。ただ、殴られた時に、例のギプスが外れたらどうすると言っちまった手前、一応は確認しておこうと思ってさ」  医師もつられたように笑う。  「つまりは冗談、と」  「ま、そういうこと」  医師は今度は机の上の資料から一枚を抜き出すと、その中の図を指し示して口を切ろうとした。が、インタホンからの女の声がそれを遮る。  「久我です」  医師と木津は思わず顔を見合わせる。  「お邪魔してもよろしいですか?」  俺がここにいるのを知ってる口振りだな、と思いながら、木津は問い掛けるような医師の視線に頷き返した。  「どうぞ」と医師。  ドアが開く。入ってきた久我は、座っている二人の横に真っ直ぐ進んだ。  医師が脇から椅子を引き出して勧め、久我は礼を言いながら腰を下ろす。  「検査はお済みですか?」  医師は今しがた木津に見せようとした資料を、久我と木津の間に広げ直し、再びペンを取った。  「今木津さんに説明しようとしていた所だったのですが……」と切り出すと、図を指し示して簡潔に説明をした。曰く、木津の言うギプス、即ち傷痕に喰い込んだ小片を固定する充填剤のひけは、当初の予想をやや下回っており、このペースが保たれれば、次回の施術は予定の三カ月以上先になるであろう。  「そいつぁ重畳だね」と木津。「ただ、俺としては」と、その目が久我に向けられる。「早いとこその追加の手術をしなくて済むような体になりたいんだがね」  「間もないうちに、ご期待に添えるものと思います」  「本当か?」と、半分以上は信じていない口振りの反応を返す木津。「今まで、出ていくたびにスカだったり影武者だったりだったからな。それとも、向こうも影武者の役者が尽きたかい?」  机の上の資料をかき集め、ライトボックスのスイッチを切ると、医師は何も言わずに席を外した。ここからの話は自分の領域外だと言うような態度だった。  わずかの間そちらに向けられていた久我の目が木津の方へ戻された。  「間もなく『ホット』の側から何らかの行動を起こして来るであろうことは間違いありません」  木津は無意識のうちにポケットに煙草を探る自分の手に気付いてそれを止め、言った。  「確か前に、あんたは『ホット』が何かやらかす前には結構な空白の期間があるもんだと言ってなかったか? その段で言えば、昨日の今日おっぱじめてくるってことはないだろうに」  「今日明日中にとは言いません」と久我が切り返す。「しかし、今度は決して長い期間をおくとは考えてはいません」  木津の片方の眉が上がった。  「考えていない? それはあんたがか?」  久我の表情は変わらない。  「そうです」  「どの程度当てにしてていいんだかね」  「これまでの出動で随分失望されてこられたことは重々承知しています。しかし、あなたの存在が『ホット』に対して相当のインパクトを与えていることもまた事実です」  「持ち上げるなよ」あまり愉快ではなさそうな顔で木津。しかし言葉を返さない久我の目を見て、この女がそんな意図で言葉を発するような人間ではなかったことに改めて思い至った。  「それは……俺がいるから、ってことか?」  「B−YCに搭乗しているのがあなたであることは、あちらも認知していると思います」  「で、奴の目的が何であれ、その邪魔をするのに一枚かんでるのが俺だってことが、奴を焦らせてる、と言うんだな?」  「そうです」と久我は頷いた。「あちらの目的が何であれ」  久我の今の切り返しに、ふと思い付いて木津は訊ねた。  「そう言えば、奴の目的ってのは一体何なんだ? 考えてみたこともなかったが」  「何故お考えになられなかったのですか?」  思いがけない久我の問い掛けにわずかに浮かんだ不審の色は、すぐに冷笑に取って代わられた。  「決まってるじゃないか。奴の都合なんか関係ないからさ」  久我は音もなく立ち上がって言った。  「結構です」  そして呆気にとられている木津を振り返ることもなく、部屋を出て行った。  「って、おい、俺の質問はどうなったんだよ?」  あの人の目的……  執務室への途を歩きながら、久我は木津の問いを思い返していた。  あの問いに答えられはしない。あの人の今の行為に、目的など存在しないのだから。あの人はただ自分を駆り立てる動機に闇雲に身を任せているに過ぎない。  その時、何の前触れもなく、阿久津の言葉が脳裏をよぎった。  「だが方向は違うとは言え、ディレクター殿のやってることは、実際のところ、あちらさんと大差ないのではありませんかな?」  久我の顔色が変わった。誰かが居合わせたならそれに気付いたであろう程に。が、緩んだ足取りを元の速さに戻し、額に掛かる髪を払いのけるように仰向けた頭を軽く振ると、久我は部屋への途を急いだ。  私のしようとしていること、していることは、あの人と同じなどではない。私には、少なくとも目的はある。あの人とは違って。  そう胸中で言う久我の足が、今度は完全に止まった。  あのことは、「目的」なのだろうか? 行動の方法に多少の違いがあるだけで、阿久津主管の言う通り、私も「動機」だけで動いているのではないのだろうか?  職員の一人が頭を下げながら久我の脇を通っていく。それで我に返った久我は、もう一度頭を軽く振ると、再び歩を進めた。  今になってどうこう考えるべきではない。もうここまで進んできたのだから。しかし、あの程度のことでこれほどに動揺するとは、私もまだどこかしら甘い部分が残っているらしい……  それ以上は考えることなく、久我は執務室へ戻った。  扉が開くと、まだ真寿美がそこにいて、散乱したコーヒー豆を探すのに躍起になっていた。他人には決して気取られないような微苦笑を一瞬だけ浮かべると、久我は真寿美に適当なところで切り上げるようにと声を掛けてデスクに腰を下ろした。  インタホンから、いつもとは違ってやや重い声が聞こえてくる。  「峰岡です」  木津が応えると、静かにドアが開いて、真寿美が入ってきた。  「おはようございます」  「ちっす」と、ベッドの上で上体を起こし、敬礼よろしく額の脇に添えた右手をぱっと前方に払って見せると、木津は言った。  「二日酔いの具合は……って、聞くまでもないな、その顔は」  「そんなにひどい顔してますか?」真寿美は両の掌で頬を覆って言う。「ディレクターにも言われたんですよ、調子悪かったら帰ってもいいって」  「いいとこ幸いで帰っちまえばいいのに」  苦笑しつつ、真寿美は言う。  「そう言えば、仁さん今朝は検査だったんですよね。どうでした?」  「ああ、何の問題もないどころか、むしろ順調だったらしい」  そこで一旦言葉を切って、真寿美に腰掛けるよう促し、真寿美がそれに従うと再び話し始めた。  「昨日作ってもらったたんこぶも影響はなかったしさ」  「たんこぶ、ですか?」  「……覚えてないか?」  「え、え、え、え? 作ってもらったって、まさか、あたしがですか?」  狼狽する真寿美に目を細める木津。  「ご、ごめんなさい! 全然覚えてないですけど、ごめんなさい!」  「あ、頭は下げるな。また気分悪くなるぞ」  言いながら木津は片手を伸ばし、いつもの勢いで下がってきそうだった真寿美の額を押さえて止めた。  「で、その話を聞いてる最中におばさんが押し掛けてきてさ」  木津の手を離れて上げられた真寿美の顔には、「あれ?」という表情が浮かんでいる。  「あ、あの時仁さんの所に行ったんですね」  「でさ、近いうちに『ホット』とのけりを付けるようなことを言ってったんだけど、何かそんな兆候ってあったか?」  また「あれ?」という顔の真寿美。  「……いいえ、そんな感じは全然なかったですけど」  「そりゃそうか」と木津が言う。「おばさんがそんなバレバレの態度なんか見せるわけないよな」  「あ、そう言えば」  「ん?」  「全然関係ないかも知れませんけど、今日、コーヒーの売れ行きがよかったんですよ。一時間半で完売でした」  「いつもに比べて上手く入れられたとかじゃないよな?」  「そうじゃないと思いますけど」  「……関係なくはなさそうだな」  「仁さん、探偵か何かみたいですね」  「それじゃ、次の商売は探偵にするか」  「次の?」  木津は小さく笑って言った。  「奴とのけりが付けば、俺がここにいる理由もなくなるしな」  はっとした真寿美は、少しうつむき加減でぽつりと言う。  「そう……なんですね」  「ん?」  再び上げられた真寿美の顔には、微笑が浮かんでいた。  「考えてもみませんでした、終わった後のことなんて」  「実を言うと俺もそうだ」  木津は例の溶けかけたようなパンダのキーホルダーを摘んで胸のポケットから白虎のカード・キーを引っ張り出すと、くるくると振り回した。  「今までそれしか考えてこなかったからな」  真寿美は無意識に目を机の隅に向ける。あのポートレートはまだ同じ場所に伏せられていた。  ややあって、木津が自分の視線を追っているのに真寿美は気付いた。  「どうした? 黙り込んじゃって」  「あの、仁さん?」  「ん?」  「えっと……あの、ですね、もし、もしですよ? もし『ホット』のことが無事に終わったらなんですけど……」  「無事には終わりそうもないか?」ごく穏やかに木津が口を挟んだ。「まあ、向こうも自分の命が掛かってると分かれば、そういうことになるかも知れないな」  話の腰を折られて、真寿美は寂しげに笑いながら言う。  「そんなこと言わないでください」  「もしを連発したのはそっちだろ?」  「そういう意味じゃないんです。仁さんは絶対無事に一件落着まで行けます」  「んじゃ、どういう意味だ?」  「……その後のことです」  真寿美の視線が、また裏返しのポートレートに向けられる。今度は木津もそれにはっきり気付いていた。  真寿美は視線をそのままに、なかなか続きを切り出そうとしない。  先に言い出したのは木津の方だった。  「見たんだよな? それ」  視線を床に落とし、顔だけを向き直らせた真寿美は小さく頷いた。  木津も先を続けなかったが、それは真寿美とは違って、言うべき言葉を探すのに手間取っているといった様子だった。  ようやく開かれた口から出てきた、表情を消した台詞はこうだった。  「……もういない奴だけどな」  「……知ってます」  「そうか……」  真寿美は一度閉じた目を開いて、木津に向けた。その顔は真剣なものだった。  「だから、協力します。『ホット』のこと」  「ああ……悪いな」  「そんなこと言わないでください」と真寿美が繰り返した。「あたしが今出来るのは、それだけですから……今は」  木津は薄い笑みを浮かべると、言った。  「ありがとう」  真寿美は黙って首を横に振った。  「で、その後の話は……」木津がそう言いさすと、真寿美がそれをかき消すように、  「みんな終わってからにしましょう」  「それでいいのか?」  「はい」  応える真寿美は笑っていた。  結局その日が終わるまで勤務を続けた真寿美は、終業の時刻にまた久我の執務室に顔を出した。  「帰りますけど、何かありますか?」  「特にありません。お疲れ様」  そう応える久我の声がややかすれているのに真寿美は気付いた。  「えーと、コーヒーはまだありますか?」  その午後も、真寿美は都合三度コーヒーを入れ替えていた。  「ええ、大丈夫です。それより、自分の二日酔いの方を気になさい」  真寿美は舌先を覗かせて苦笑いをする。  「それじゃ、お先に失礼します」  部屋を出て行く真寿美の背中が閉じるドアに遮られて見えなくなると、久我はカップの底に残ったコーヒーを一気に呷り、長い息を吐きながら作業中の画面に目を落とした。  が、それもほんのわずかの間だけで、久我はカップを手に立ち上がると、コーヒーのポットの前に立った。  注がれるコーヒーはやわらかな湯気と共に芳香を立ち上らせていたが、久我はもうその香気は感じてはいなかった。ただ機械的にコーヒーを胃の中に流し込んでいる、といった感じでさえあった。  デスクに戻ると、今度もまた味も何も感じてはいないかのようにカップを傾ける。そして視線はさっきまでと同じく、作業中の画面に注がれた。  その画面には、わずか数行の文章が記されている。いや、正確には、書かれているのは車両の型式記号とアドレスで、文章は一行だけだった。その文章を、昨日からもう何度目になるか分からないが、久我は目で追った。  『どこから攻めるも貴女次第です。結果はいずれにしても同じだと予め申し上げておきますが。』  久我は机に肘を突き、片手に額を埋めた。  これ以上何を迷うことがあるのだろう? 私はこの時をずっと望んでいたのではなかったか? いつか必ず終わらせなければならないと思っていたことではなかったか? もう戻ることは出来ないのだから。  頭の中でそれに続く「しかし」を、無理矢理久我はかき消した。  と、その時インタホンから声がした。  「ディレクター殿いるかい?」  久我は顔を上げると、空になった右手で画面の表示を切り替えた。  「どうぞ」  声の主の木津が入ってきた。  「忙しいか?」  「構いません」  木津はソファの方へ行きかけて、訊ねた。  「コーヒー余ってるか?」  「どうぞ」と応えながら、真寿美にも同じようなことを言われたのをふと久我は思い出した。そして自分のカップを手に取ると、自分もソファへ向かい、木津が腰を下ろすのを待った。  木津は客用のカップに半分だけコーヒーを注ぎ、もう半分をミルクで満たして一口すすってからようやくソファに腰掛けた。  久我は黙ったまま木津が口を切るのを待っている。その様子をちらりと見ると、木津はカップをテーブルの上に置いた。そして口調はいつも通りのままで、  「二つほど訊いておきたいことがあってさ」  「何でしょう?」と応える久我の口調もそれに劣らぬほどの平静さを保っている。  「まず一つ目。今朝のあんたの話の根拠を知りたい」  「今朝の、とおっしゃいますと、近日中にあなたの最終目的は達せられるであろうと申し上げたことですか?」  「その通り。何でああまではっきり言いきれるのかが知りたくてね」  「そしてもう一つは?」  「いや」木津は首を横に振った。「一つ目を聞いてからにしよう」  久我の視線がテーブルに置かれたカップに落とされる。その手が静かにカップを口許へと運ぶ。  「当局が内応者の調査を始めたのはお話し申し上げたと思います」  「ああ、ずいぶんと前にな」  「その結果が徐々に出始めています」  「そいつぁちょっとばかり安易すぎるんじゃないか?」と木津が冷笑に近い表情を見せながら言った。「締め上げたら簡単に吐いたってのは無しだぜ。その程度の連中が、当局の根っこまではまり込んでバレずにいられるはずがないじゃないか」  「その通りです。内応者個別の取り締まりの結果という意味ではありません」  「それじゃあ、どういう意味での結果なんだ?」  「『ホット』はこの調査以来、当局という重要な情報源への足がかりを失いつつあります。それによって行動が起こしにくくなってきているわけです」  「堀が埋まってきたんで浮き足立つだろうって話か……結構気の長い話じゃないのか、それはそれで」  「いえ、必ずしもそうとは言い切れないと思われます」  「てぇと?」  「例えば、私たちはこれまで『ホット』に対しVCDVで対応してきましたが、『ホット』は必ずこれに対して新規開発を以て応じてきました。つまり『ホット』は自分の妨害者を静観できる人物ではないということです」  黙ったまま聞いている木津の眉間には縦皺が寄っていた。どうも納得できないという風な表情だった。  「それは一般論過ぎないか?」  「そうは思いません」  久我の応えに木津の片眉がぴくりと上がる。  「どうもそこんとこが分からないんだよな……あんた、なんでそう断言できるんだ? 『ホット』とお知り合いでもあるまいに」と言いかけた木津の表情が固まった。  「あんた……まさか個人的に奴を知ってるんじゃないだろうな?」  答える久我の口調は相変わらず平然たるものだった。  「当局から捜査の一部を委託されている以上、必要な情報は得ています」  「だからそうじゃなくってさぁ」  口先を尖らせる木津に久我が言う。  「そこに至る経緯はどうであれ、私たちはあなたに『ホット』を追う、いえ、追い詰める手段を提供するということになっていました。それではご不満ですか?」  「どうのこうの言わずに黙って従ってろってわけか?」  「現在に至るまで結果を導き出せていないのは私の力不足もあります。それについては申し訳なく思っています。ご信頼いただけなくなって来ているとしてもやむを得ないとも思います」  「あんたに下手に出られるのも、それはそれで不気味だな」と苦笑いの木津。「まあいい。もう一度は信じておくことにするさ」  軽く頭を下げる久我。  「それで、もう一点は?」  「ああ、この分だと随分と先の話になりそうだが、一応訊いておくか」  木津はそこで言葉を切った。  久我は黙って続きを待つ。  「……『ホット』が無事くたばってくれたら、俺はどうすりゃいいんかね?」  久我の眼差しをよぎった微かな疑問の色合いが、一瞬の後に濃さを増した。  「俺がここにいる理由の根本に奴がいる以上、奴がくたばったらそれまでってことになるだろ?」  「テスト・ドライバーとしての勤務を続けることをお望みならば、LOVEの正規の所員として契約をすることも可能です」  「そいつぁありがたいな。だが」にやりとしながら木津は言う。「それまで俺がしゃんとしてればいいけどな」  久我は黙ったまま木津の顔を見つめている。  「さっき、真寿美に言われて初めて気がついたんだ。終わった後ってのがあるってことにさ。そんなこと考えてもいなかったから、済んだら気が抜けちまうんじゃないかと思ってな。まあ、あんたに言う話じゃないんだろうけど」  そう言った時、真寿美の面影を思い出した自分自身に不審を抱きながら、ソファの肘に両手を当てて腰を浮かせ、尻の座りを改めると、ポケットの中でキーホルダーを弄びながら木津は訊ねた。  「それに、ここ自体はどうなるんだ? 奴の一件が終われば、ここに与えられてる捜査権だって召し上げになるんだろ? MISSESも解散ってことになるんじゃないのか?」  久我はすぐには返事をしなかった。  木津がコーヒーを一口すする。  「今後」と、ややあってから久我は口を切った。「当局から新たに甲種手配対象者の捜査支援を求められないとも言えません」  「そいつぁ俺には関係のない相手だな」  「そうです」と簡単に久我が言う。  「それじゃ俺は本気にはなれないだろうけど、ここの心配は必要ないってわけか。ま、俺が心配しなきゃならない必要もないだろうけどな」  「峰岡が何か申し上げましたか?」  「真寿美が?」  頷きもせず久我は続ける。  「峰岡に何かお聞きになったとおっしゃいませんでしたか?」  「いや、別にMISSESのことじゃないさ。個人的な話だ。多分な」  「そうですか」  「ああ」  残りのコーヒーを空けた木津は、空になったカップを手に立ち上がった。  「お邪魔様」  「もうよろしいのですか?」  「ああ」  久我も立ち上がって言った。  「あなたのご期待に添うようなお応えは差し上げられなかったと思いますが」  「俺自身よく整理が付いてないところだったしな、事後のことなんかは」  久我は軽く頭を下げ、再び頭をもたげると淡々とした口調のまま言った。  「事が終わるのも、さほど遠い先のことではありません。全てはそれからでもいいのではないでしょうか?」  木津は肩をすくめた。  木津の出ていった後、久我は空になった汚れきったカップを満たしもせず、デスクの椅子に身を預けていた。  あの人のことが終わったら……  それは久我もまた考えていないことだった。 私もあの人を止めることだけを考えてきた。それは木津さんと同じ。そしてその理由の半ばも彼と同じ。だが、と、これまで何度と無く胸の中で押し留めてきた言葉が思い返されてきた。あの人の行動の動機も、裏返せば私たちと同じと言えなくはない。  結局、と久我は思う。阿久津主管の言った通り、私たちは皆同類なのかも知れない。  気怠げに立ち上がると、久我は窓の前に立ってブラインドの隙間を細い指を宛って拡げ、外を覗いた。殺風景な工場区域を夕闇が覆い始めている。その中を一つ二つと帰りの車の前照灯が走り去っていく。  久我はしばらくの間そのまま闇に飲み込まれていく風景を見つめていた。 Chase 23 − 見出された標的  ……貴重な情報をご提供下されたこと、心より感謝申し上げます。しかし、貴方が既に十二分にご存じのことと私は信じて疑いませんが、貴方の下された情報が本当に正しいものであることを、貴方ご自身が私たちに対し証明して下さらない限り、私たちはそれに基づいて行動を起こすことは致しませんし、また出来ません。その旨万が一ご失念であれば、改めてご理解下さいますよう、何とぞよろしくお願い申し上げます。そして貴方がこの申し出に従って、速やかに私たちにとって有用な情報の裏付けをして下さることを願って止みません……  この文面を読み通すと、その人物は唇だけを歪ませて皮肉な笑いを浮かべた。  あの女、相変わらずの慇懃無礼振りだ。しかし、その高飛車な態度もこれ以上は続けられるまい。こちらに頭を下げ、自分がこちらの後塵を拝するのを認めざるを得なくなる時もさして遠くはない。  その人物は、椅子に凭せ掛けた体を二度三度と揺すった。また唇が歪む。  そしてもう一人の邪魔者をもう一度、それも完膚無きまでに潰す日も……  お望みならば機会を与えてやろう。それが決着のための早道だと言うのなら。  椅子を蹴るように立ち上がったその人物は、しかしそう考えていたのとは対照的に、苛立った様子で室内を歩き回った。自分の側に動かせる駒を揃えるために、もう少し時間が必要だという動かし難い事実があった。  親指の爪を噛みながら、もう片方の手でその人物は机の上のボタンを押した。十秒と間をおかずに若い男が部屋に入って来ると、人物の脇へと近付いた。その表情はやや緊張の色を帯びている。  爪を噛むのを止めないまま腰掛け直すと、その人物は机の上からペンを取り、タッチパネルに文を書き付けた。ほとんど殴り書きと言ってもよい文字を、側に寄った若い男が読みとる。そして言いずらそうに口を開いた。  「……それは、最大限急がせています」  再び書き殴られる文字。  「はい、確かに……しかし」  三度文字が書かれると、乱暴にペンが机に置かれた。その音にびくりとしながらも文字を読む男の顔に、驚愕の色が走った。  「そ、それは!」  人物は何も書かずに男の顔を横目で睨んだ。そして彼を追い払うように手を泳がせた。  それ以上何も言うことは出来ず、男は頭を下げると一、二度振り返りながらも部屋を出ていった。  人物は錠を解除すると引き出しを開けた。その中にさらに鍵の掛かった黒鉄色の小箱。小さな鍵を骨のように細い指先が開く。  ワインレッドのビロード張りの箱の中。中央のくぼみに鎮座している、銀色に光る金属の小片。人物はそれを何の感情もなく摘み上げた。そして立ち上がると、背後にあるクローゼットの扉を引いた。  「まいったまいった」  丼の載った盆を携えて木津が戻ってくる。  「明らかに行列してるところに、わざわざ行くからですよ」と箸を止めて安芸が言う。  「抜き差しならないほどラーメンが喰いたいっていう気分の日だってあるのさ」  「いえ、止めませんけれど」  「止められても今日は喰う」  そう言いながら木津は椅子の背に手を掛けた。丁度その時、安芸の腰から聞こえてきた呼び出し音にその手が止まった。  「お客さんですね」と、腰の受信器のスイッチを切って安芸が立ち上がった。  「何でメシ時に来るかねぇ。しかもわざわざこういう気分の時に」  「お客さんの相手しないでラーメンにしますか?」と安芸が微笑しながら言う。「その代わりに大物を喰い損ねるかも知れませんけど」そして自分は箸を置くと、「止められても食べますか?」  「大物が来なかったら恨むぜ、進ちゃん」  湯気を上げるラーメンに未練がましい視線を落としながらも、木津はテーブルに置いた盆を再び取り上げた。  駐車場へ続く廊下で、前を走る背中に安芸は呼び掛けた。  「由良さん! 情報は?」  足は止めずにちらりと振り返ると、はずんだ息の下から答えが返る。  「いえ、まだ何も」  「変ですね」と首を傾げる安芸。  「おばさん、出し惜しみしてやがんな」  駐車場の開かれたドアから三人が駆け込むと、そこには既に準備を完了しているマース1とキッズ1の青と赤の車体があった。  「饗庭さんがいませんね」と安芸。  「ほっとけ」簡単に言い捨てて木津はコクピットに身を滑らせ、キー・カードをスロットに差し込むと、すぐに通信機のスイッチを入れた。  「真寿美! 姫! 状況は?」  それに応えたのは、真寿美でも紗妃でもなく、久我の声だった。いつも通りの冷静な口調で示された状況を、しかし木津はすぐには理解できなかった。  「ホット・ユニット搭載車両、単機でE181を北方向に走行中。『ホット』本人である可能性が高いものと思われます。待機中の全車両は当該車両並びに運転者の身柄の確保に当たって下さい」  「馬鹿な!」  久我の指示を聞いて、真っ先にそう声を上げたのは木津だった。  「何だそりゃ、奴が一人でって……」  「しかもE181を北って、ここに向かってるってことですか?」と紗妃が言った。  それらの声の中に、久我の次の指示が入ってきた。  「指揮はキッズ0、補佐にアックス3」  真寿美が思わずキッズ0のコクピットに目をやった。そこで木津はまだ半ば呆然としたような表情のままでいる。  「仁さん……?」  「……お望みだと言うんだったら、今日という今日はけりを付けてやろうじゃないか」  他の誰にもほとんど聞き取れなかったつぶやきに続いて、怒声にも似た木津の指示が飛んだ。  「行くぞ!」  五両が続いて駐車場を飛び出していったのを見て、久我は一度浮かせた腰を椅子に落ち着け直すと、今自分が下した指示を思い返した。いや、指示そのものにではなかった。思いを巡らせていたのは、その時の久我自身についてだった。声を震わせることなどもなく、これまでと同様にあくまで冷静に言い切ることが出来ただろうか、と。  そしてこの事態に際して、予想を遙かに超えるような緊張と動揺とが自分の中に走っているのを感じ、それと同時に、同じく自分の中にまだ残っていた甘さを意識して、わずかに久我は唇を噛んだ。  今更言うまでもなく、あの人は元からああいう人ではなかったか。傍目には無謀とも言えるような選択肢を、何のためらいもなく選んでしまう人ではなかったか。そして私はそこに付け入ることも出来たのではなかったか。  久我の視線の先には、当局への通信回線を開くボタンがある。しかし久我はそこへ手を伸ばしはしなかった。  それでは済まない。彼と同じように。  だが、と久我は考える。ここでこんな形で決着をつけるようなことを、あの人がするはずがない。あくまでこれは私の放った言葉への応えに過ぎない。「ホット」の存在をアピールし、そして私たちに手掛かりを与えるためのデモンストレーション以外の意味をあの人が与えているはずがない。しかし、速度の面以外ではホット・ユニットはVCDVの相手ではないだろう。ならば、あの人はこの包囲をどうやって切り抜けるつもりなのだろう……  「……聞こえた」  飢えた獣の唸るが如き低い声が聞こえ、久我は我に返ってディスプレイ・スクリーンに向き直った。  「どっちだ?」  周囲の壁にまた建物に反響している爆音の中を、速度を落とすことなくB−YCが、そして出力の差のためにわずかに遅れて四両のVCDVが走り抜ける。  「左……えっ?」  真寿美は前方に戻した視線をもう一度ナヴィゲータの画面に投げる。直前まではっきりと目標の位置を示していた輝点が、今は忽然と消えていた。  真寿美の言葉の頭だけを聞いた先頭の木津は、強い横Gをものともせず左に曲がった。と、B−YCは初夏の日差しを反射して舞う白銀色の小片の中へ飛び込んだ。  ひどい雑音に妨げられながらも、安芸の声が辛うじて聞き取れた。  「チャフだ……」  それには構わず、遮二無二木津は走り抜ける。その後ろを走っていた紗妃が少し眉をひそめ、併走する真寿美に話しかける。  「急ぎすぎてる?」  やはり雑音の中から聞こえる応え。  「うん」  木津の心中を察して余りあるだけに、真寿美は曖昧な返事しか出来なかった。  紗妃はS−ZCに一瞥をくれると、変形レバーに手を伸ばした。  S−RYがハーフに変形し、進路を徐々に路肩側に寄せていく。  それに気付いた真寿美の足がスロットル・ペダルからわずかに浮いた。  「紗……」  呼び掛けかけた真寿美は、だがS−RYの指が真っ直ぐ前方を、木津のB−YCの方を指しているのを見て、再びペダルに踏力を加えた。  少しずつ離れていくS−ZCの尾部。そしてG−MBの鼻面が近付いてきた。  つまる距離に気付いた由良が横を見ると、既に安芸のG−MBはハーフに変形していた。  「こちらはマース1と周囲の哨戒にあたります。よろしいですかリーダー?」  まだチャフによる障害で雑音が解消されないが、それでも安芸の言葉は聞き取れた。そしてその言葉の最後が特にはっきりと由良の耳に響いた。  由良は声を大にして応答する。  「了解、任せます。こちらは先行してキッズ・チームのサポートに当たります」  了解を意図するかのように、ハーフの右腕が軽く前に振られた。  再度加速して先行する二両を追う由良機を見ながら紗妃が、乗機を停止させた安芸に言った。  「この辺に『ホット』が隠れているかも知れないですね」  だが安芸の答えは否だった。  「えっ? じゃあ周囲の哨戒って……」と、自分はそのつもりだった紗妃。  「隠れ蓑を意図しているのなら、こういうチャフの撒布はそんなに効果的じゃありません。自ら行動範囲を限定することになりかねませんし」  安芸の言葉を聞きながら、紗妃は有視界哨戒を続けるG−MBの動きから目を離さない。  「むしろ潜んでいるなら武装装甲車か人型の可能性の方が高いでしょうけれど、それにしてもこのやり方は……」  「目的が見えない、ですか」  「ええ、だから哨戒役と言うよりは、一種の囮かも知れません」  くすりと紗妃は笑いながら変形レバーに手を伸ばした。  ごく軽いモーターの音と共に、警戒姿勢をとって青龍が立ち上がる。  「安芸さんも損な性格ですよね」  青龍と背中合わせに立ち上がった玄武のコクピットで、視線を周囲へ投げ続けながら、安芸も微笑を浮かべて言った。  「紗妃さんもね」  「私が、ですか?」  「本当は仁さんの方について行きたいところだったんじゃないですか?」  「木津さんに、ですか?」と応える声は微笑を帯びていた。「それは真寿美ちゃんに任せます」  「やっぱり損な性格ですね」  「私のはミーハーなファン心理ですけど、真寿美ちゃんは立派に恋愛感情になってますから、最初からレベルが違いますよ。でも、こういう場面でする話じゃないですね」  「確かに」  舞い落ちるチャフが、そびえ立つ二つの機体に降りかかり、軽い音を立てては路面に落ちていく。  「くそっ! どこだ?」  メイン・ルートから少し外れた、廃工場の長大な外壁が延々と続く一角に飛び込んだところで、爆音は大きな反響を最後にかき消すように聞こえなくなった。  真寿美は木津の声に、ナヴィゲータの画面を見るが、まだチャフの影響があるのか失探を示す警告が出たままだった。  返らない答えに苛立つかのように、白虎が立ち上がり左右を見回す。  そこへG−MBが姿を現し、横様に滑りながら止まる。足まわりから立ち上る白煙。  反射的に木津は衝撃波銃の照星の中にG−MBを捕捉していた。  「仁さんいけない!」  真寿美の叫びに、トリガーを絞る寸前で止まっていた指がぴくりと震えた。  一瞬凍り付いた由良だったが、すぐに状況を把握すると言った。  「アックス1とマース1はチャフ撒布地点で現状哨戒中。私はE181に戻ります」  「E181……」  「リーダー、許可願います」  木津の応答がない。その代わりに白虎がRフォームに戻された。  「ついて来い!」  キッズ0を追ってキッズ1、アックス3が次々に急加速する。  脇道からメイン・ルートに躍り出すと、その一瞬後には計器盤の表示が操縦安定警告色を伴って最高速度を示していた。  真一文字に唇を結び、目を正面に見据えながら、木津は勘付いていた。これが一種の挑発、「ホット」による挑発だということに。  だが何への? 誰への? 俺か、それともLOVEの他の誰かか? 木津の脳裏を怜悧な表情をした一つの顔がかすめていった。  「インサイト!」  弾けるような真寿美の声に続いて、木津の耳にも遠く、だが反響ではなくはっきりと、ホット・モーター・ユニットの発する爆音が聞こえてきた。  続くのは安芸と紗妃を呼び出す由良の声。  「ルートE181、区域1355付近で目標発見。至急合流願います!」  チャフによる妨害も晴れたか、明瞭な音声で了解の応答が返る。  だが、紗妃の次の言葉はこうだった。  「ナヴィゲータに反応がありません」  はっとして由良も自分の計器盤を見た。確かにナヴィゲータの画面には、ルートE181を走る自分たちの輝点は三つ存在している。だがその先にあるはずのもう一つの輝点が、紗妃の言葉通り見えなかった。  由良は木津と真寿美にその旨を告げた。  あっと小さな声を上げた真寿美。それに対して、木津はこう叫んだ。  「そんなもの要るか! そこに奴のケツが見えてるんだ!」  真寿美も由良も我に返ったようにナヴィゲータから視線を外した。  「でも」と真寿美がつぶやいた。「なかなか距離が縮まりませんね。こっちだって全速を出してるのに」  由良がそれを受けて言う。「……ホット・ユニットっていうのは、あんなにパワーが出るものだったんですか」  そこに舌打ち一つ。次の瞬間、宙に舞う白虎の両腕から衝撃波が繰り出される。  遙か先を走る「ホット」の横で、後ろで衝撃波は路面をゆがませただけだった。  「仁さん、落ち着いて」  そう真寿美は言いたかった。しかしやはり唇を動かすことは躊躇われた。  進路を横にずらしたG−MBの脇に変形を戻しながら着地したB−YCが、全力を叩き込まれて猛然と速度を上げる。そして出力に劣るG−MBを瞬く間もなく引き離し、S−ZCに並んだ。  やがて「ホット」の走る先に見慣れた建物の頂部が姿を現した。LOVEの社屋だった。  「貴様、どうする気だ?」  相手に聞こえているはずもない言葉を、木津は叩き付けるかの如くに吐き出した。  追う真寿美と由良の表情にも、少しく不安の色が浮かび始めた。  が、その時「ホット」が右に急転舵した。その先には立ちはだかる黒鉄色の姿。  「玄武?」真寿美が叫んだ。「饗庭さん?」  「追え! 奴を止めろ!」  指示の体を成しているとは言い難い木津の怒鳴り声に、ようやく玄武がRフォームに変形し走り出した。  嘘のように鋭い加速を見せるG−MB。しかし彼我の差は広がり、そして追ってくるB−YCとの差は見る間に縮まった。  もはや舌打ちすらせずに、木津は横すれすれのところでG−MBを追い抜く。  その時、木津は車体に軽微な衝撃を感じた。そして見た。饗庭の玄武がB−YCのルーフに片手を突き、その速力を借りて前方に飛ぶのを。飛びながら左腕を「ホット」へと伸ばし、二度衝撃波銃を撃つのを。  玄武の着地する音、衝撃波が路面に跳ねる音。「ホット」の車体を捉えた音は聞こえない。代わりに車輪の甲高い軋りと、ホット・ユニットの更なる爆音。  再び「ホット」は右へと姿を消す。  「逃がすかあっ!」  そこに真寿美の声が響く。  「仁さんだめ! 止まって!」  意表を突かれた木津は反射的にブレーキ・ペダルを踏んでいた。卓越した制動性能を誇るB−YCは、「ホット」の消えた横道の手前数十センチの位置に、その白い車体を静止させた。  S−ZCが、続いて二両のG−MBがB−YCに並んで止まる。  遠ざかり消えていくホット・ユニットの音。  そのまま奇妙に長い十数秒が過ぎた。  「……真寿美?」  木津に名を呼ばれて真寿美ははっとした。  「何故止めた?」  「……前にも同じことがあったのを思い出して……それで思わず」  「同じことって何だ?」と、不気味に抑えられた口調の問いが続く。  「小松さんが撃たれた時みたいに、横道で待ち伏せを……」  「……してなかったよな?」  事実を突き付けられて、真寿美は言葉を返せずにコクピットでうなだれた。  その耳に木津の溜息がいやに大きく響いた。  「引き上げる」  木津の指示に、ややあって簡単に了解を告げる安芸の声が受信機から聞こえてきた。  スクリーンの中に示された車両の画像に、阿久津は興味深そうな顔つきで見入っていた。  向かいあったソファでは、久我が静かにその様子を見つめながら、両手を膝の上で組んで阿久津の言葉を待っている。  画像を順に送ったり戻したり、拡大したり縮小したりとディスプレイのスイッチを動かしながら、阿久津は時折「ふむ」だの「なるほど」だのといった声を漏らす。そして何度目かの「ふむ」の後、ようやく阿久津は顔を上げた。  「なかなか懐かしいものを見せていただけましたわい」と言うその表情は、裏にある事情はそっちのけにして、純粋に興味を満たされた者のそれだった。だがもちろん久我が得たかったのはそんなものではなかった。  「お分かりになりますか?」  「饗庭の兄者も意外にやりますな。単なるやる気なしと思っとりましたが」と言いながら、阿久津は車両の映し出されたスクリーンを指差した。「やる時はやると。これだけはっきり撮ってもらえるとは思いませなんだ。これなら間違いっこありません」  そして何も言わずにいる久我に、阿久津は待たれていた答えを告げた。  「正真正銘、昔通りのホット・ユニット搭載車両に間違いなしですぞ。ユニット自体と、それからそれに合わせてフレーム周辺にも相当手が入っているものと思いますがな。ベースは量産車を改造した競技車両です」  「製造元と型式記号は確認出来ますか?」  確認などするまでもなく、阿久津はすらすらと要求された情報を口にした。それを久我は紙に書き留め、そして腰掛けたままながら、いつもよりは深く頭を下げた。  「ご協力に感謝します」  が、それを聞いた阿久津の表情もまたいつもとはやや違っていた。  「よろしいのですな?」  久我はそれには答えずに席を立った。  「コーヒーはいかがですか?」  同じ頃、昼時を過ぎて人気のなくなった食堂に、ラーメンをすする音が虚しく響いていた。そこに落ち着いた靴音が近付いて来た。  「木津さん?」  靴音の主が呼び掛けると、湯気の立つ丼に被っていた顔が上げられた。  「何だ、姫か」  「何だは失礼ですよ」  紗妃は笑いながら木津の向かいの椅子を引いて腰掛けた。  「で、何だ?」と丼に箸を突っ込んで木津。  そのご機嫌麗しからざる口振りにも笑みを崩すことなく、紗妃は言う。  「食べ終わるまで待ってます」  ちらりと怪訝そうな視線を紗妃に投げると、木津は止めていた箸を動かした。  しばらくして口から空になった丼を離してやや乱暴にテーブルに置くと、脇にあったコップの水を一気に飲み干した。  「ちゃんと味わってますか?」  訊ねられて問いの主の存在を思い出したかのように、木津は紗妃に顔を向けた。  「あ、ああ……多分な」  木津の答えを気に掛けた様子もなく、紗妃は丼とコップの載った盆を片手で取り上げると、もう片方の手で隅にあった灰皿を木津の前に引き寄せて立ち上がった。  「片付けて来ます」  木津はポケットの煙草を探りながら、黙ったままで頷いた。  半分も吸っていない煙草が灰皿でもみ消された時、紗妃がアイスクリームのカップを手に戻ってきて、再び木津の前に腰掛けた。  カップの蓋を取り、ひと匙すくうと、次の煙草に火を点けようとした木津に言った。  「真寿美ちゃんの気持ち、酌んであげてください」  火の点かなかった煙草をくわえたまま、木津は問いで返す。  「何のことだ?」  そうは言ったが、木津自身全く話が見えていないわけではなかった。帰還後、目の前の「ホット」を取り逃がすきっかけを作ってしまった真寿美に、木津はどうしてもいつもの調子で接することが出来なかったのだった。そんな自分の態度に、真寿美が弁解することもなくただ辛そうな表情をしていたのも木津は見ていた。  舌の上でアイスクリームが溶けるのを待って紗妃が続ける。  「目の前で人が怪我をしたり、もっと言うと亡くなったりするのは見たくないです。そうじゃないですか?」  木津はその言葉に一つの面影を思い出していたが、何も言わずに煙草の灰を落とした。しかし紗妃の次の言葉に、思わず木津は反応を返していた。  「特に自分の好きな相手だったりしたら」  「だからなおさらだ」  次のひと匙を口へ運ぼうとする紗妃の手が止まった。今の言葉のつながりが見えないといった顔だった。  一方の木津は、能面のような無表情。  「あ、えーと……」  右手にスプーンを持ったまま、左のこめかみに人差し指を当てて、紗妃はそんな木津の顔を見つめる。逆にそれを見た木津が少し表情を崩した。  「さまになってないぞ」  「ですよね」  言いながら紗妃はスプーンを口へ運ぶ。  「……そうか」と木津は灰を落としながら煙草から目を離さずに言った。「姫だったら知ってるはずだよな、俺のいわゆる『事故』ってやつも」  スプーンを持つ手を止め、紗妃は静かに頷き、そして言う。  「ごめんなさい」  次の瞬間、はっとしたように紗妃の頭が上げられた。何かに気付いた顔。  木津は紗妃の顔にわずかに投げた視線を煙草へ戻し、落としたばかりの灰をまた落とそうとした。再び貼り付けられる無表情の中から、木津は小さく言った。  「あいつには言うな」  「真寿美ちゃんだって、『事件』のことは知ってます」と紗妃は言い返した。「だから、もしかすると気が付いてるかも知れません。木津さんが『ホット』を追っている、本当の理由にも」  「だからってどうなるものでもあるまいに」  「本当にそう思ってますか?」  思い掛けずも厳しい口調に、木津は思わず顔を紗妃に向けた。口調と同じく厳しさを覗かせている顔。  双方ともしばし言葉を発しなかった。  やがて紗妃が少し寂しげに口を切った。  「木津さんの時間は、あの『事件』からずっと閉じてしまっているんですね」さらに、ゆっくりと首を横に振りながら「時間だけじゃなくて、気持ちまで」  木津はややうるさそうに煙草を吹かす。  「木津さん」と、紗妃は椅子に掛け直すと、改まった調子で訊ねた。「『ホット』への復讐が終わったら、どうするんですか?」  「真寿美もおなじ事を訊いてきたよ」と、多少調子を和らげて木津は応えた。「そうだ。全部承知の上でな」  紗妃は驚いた顔で木津を見つめた。  「その上で、奴の件には協力すると言われた。終わったら、はそれから考えようってな」  身動きすることも忘れたまま、紗妃は木津を見つめて続けている。  「……そうだったんですか」  「閉じてるって言われりゃ、確かにそうかも知れないけどな」言いながら木津は煙草をもみ消した。「否定はしないさ。開ける鍵がなかったようなもんだからな」  「それじゃあ、『ホット』がその鍵……」  「になるかどうか」  木津は煙草の最後の一本を箱から取り出すと、空き箱をテーブルの上に立て、真上から掌を叩き付けて潰した。その音にびくりと肩を震わせた紗妃に、木津はにやりとして見せながら続けた。  「こうなるのが俺か奴か分からないしな」  「そんなこと!」と乗り出した上体を戻して紗妃が言う。「……真寿美ちゃんの前では言わないで下さい。お願いですから」  「冗談さ」と木津は加えた煙草に火を点け、長く吸った煙をゆっくりと吐くと、人差し指で潰れた箱をはじき飛ばした。箱はくるくると回りながら紗妃の前まで滑った。  「こうなるのは奴の方に決まってる。だが正直な話、その後は考える気になれないな、実際に終わってみるまでは」  硬い表情を見せたままの紗妃が言った。  「真寿美ちゃんだって、早く終わって欲しいと思ってるはずです。それに木津さんを思ってのことですから、今日のことはもう責めないで上げて下さい」  「ああ、そうするよ。姫に免じて」と煙草をくわえた唇に笑みを浮かべて木津は言った。「それとその溶けかけのアイスに免じてな」  言われてカップに視線を落とした紗妃は、思わず落胆の声を上げる。  スプーンの先は、液体と化したアイスクリームの中に没していた。 Chase 24 − 破られた包囲  スクリーンに表示された文面は、久我が予想していた通りのものだった。一つ予想に反したことがあるとすれば、それはこの通知が送られてきたのが思いの外早かったということだった。  久我はインタホンのボタンを押し、二言三言話すと、カップに残ったコーヒーを一息に飲み干し、染みの目立ち始めたコースターにカップを置いた。  間もなくドアのインタホンから、呼び出した相手の聞き慣れた声が伝わってくる。  「峰岡です」  「お入りなさい」と応えながら、久我は手元のスイッチでドアのロックを解いた。  開いたドアから見えた顔は、昨日の沈み方など全く感じさせない、いつも通りの明るいものだった。  その顔に、こちらもいつも通りの淡々とした口調で久我が告げる。  「これから当局へ出掛けます」  意外そうな顔をして峰岡が訊ねる。  「ずいぶん急ですね。もしかして、昨日の出動の関係ですか?」そして返るとはあまり期待していない久我の反応がある前に続けて言う。「それにしては早いですよね。昨日の今日に呼び出しなんて」  だが久我の顔を見た峰岡は、あらためて意外そうな表情になる。久我の唇に薄い笑みが浮かんでいるように見えたからだった。  その唇が動き、言葉を紡ぐ。  「当局もこの件に本腰を入れて当たらざるを得ない状態になりましたから」  いつもなら何一つ余計なものを読み取らせることのないはずの久我の口調なのに、何故か今の言葉には、そうさせたのは私ですけれど、と続くように峰岡には思えた。が、実際に聞こえたのはこの言葉だった。  「今日は戻らないと思います」  「分かりました」  「それから、アックス・チームの各メンバーに伝えて下さい。本日より指示があるまで当直は解除します」  三度峰岡は驚いた。今度は声まで出して。  「え、え、え、え? いいんですか?」  そんな峰岡の様子を気に留めた風もなく、久我は無言でうなずき、立ち上がった。それが要件の終わりを意味することを先から了解していた峰岡は、「お気をつけて」と一礼して執務室を後にした。  五つ居並ぶ当局の面々は、みな一様にやりずらそうな渋面を拵えている。それらを前にして、久我はいつもよりも余裕を持っているかのようにさえ見える面持ちでいた。  渋面の中の一つの口が鈍く動く。  「これが甲種八八〇八番一〇九三一号の使用している旧式車両だ、ということですな?」  自分の言葉を当局の用語に置き換えて疑問符を付けただけの問いに、久我はごく簡単に肯定の言葉を返した。  「で、型式記号がこれに準ずるものだと」  同じく簡単な久我の肯定。  嘆息にも似た声がここかしこで上がる。  「これは通称『ホット』の捜査への重要な証拠物件になるものと思います」  久我はざわめきをものともせずに言った。  「欲を言わせてもらえば」と、真ん中に陣取っていた渋面が口を開いた。「車両だけでなく運転者の顔まではっきり撮影して欲しかったところですがね」  久我が当局に提出した、饗庭の撮影による車両の映像には、確かにいくつかコクピットの中までを捉えているものがあったのだが、運転者の顔はヘルメットのバイザーに隠されてしまっていた。  だが久我は平然と言い返す。  「肖像までが完全に明らかにならなければ本格的な捜査の発動に踏み切るだけの証拠物件として採用することは出来ない、とおっしゃるのですか?」  渋面はそろって口を噤んだ。それを見渡す久我の目は、何もかもを見透かした冷たさを湛えていた。  「本来捜査権のない私たちとしましては」と久我は続ける。「VCDVの運用に加えて、皆様方に入手可能な限りの有力情報を提供することでもご協力出来るものと考えています。私たちの情報が端緒となって手配対象者の捕縛が実現すれば、私たちも捜査の一端を担うことが出来たと言えます」  正面に居並ぶ渋面から少し離れた脇で、やや居心地の悪そうな表情が久我の言葉を聞いていた。前回の出動では思う通りの成果を上げられず、それどころか損害ばかりを受けて帰ってきた当局特種機動隊の隊長だった。  言いずらそうな小さな声がその唇を突いて漏れ出る。  「本官も、次回こそは部隊の面目を施したいと思っております」  渋面の中のいくつかの視線が声の方に投げられたが、さしたる反応は無いままだった。  「久我さん」中央の渋面が口を開く。「下さった情報は重要なものと認めます。だが、決定的なものではない。私はクラシック・カーにはとんと興味がありませんが、それでも昔はこんな車がわんさと走っていただろうってことぐらい想像が付きます。今だって相当の数が残っていると思うのですがね?」  「国内の登録済み台数は百六十一台と存じております」さらりと久我が言う。「登録外のものがあっても、その数の半分を上回ることはないと考えます」  「それにしても二百を超える数ですがね。いや、決して調査しないと言っているわけではないですよ。ただ、数が多いので早急に結果が出せるとは言い切れない、と言っているまでのことで」  それを聞いた久我の口許に薄い微笑が浮かんだ。ただ口許だけに。  「私たちに対してご謙遜の必要はありません」という久我の声は、MISSESのメンバーが聞けばはっきりと分かったであろう程に皮肉な響きを帯びていた。「当局の優秀さと、今回の件への姿勢は私たちも十分に存じています。『ホット』への内応者はもちろんのこと、検挙率向上のためにその配下の微罪の逮捕者に手心を加え時に逃亡幇助を行った署員の処分も行われたとうかがいました」  触れられたくなかった汚点を正面から突かれて、居並ぶ渋面が皺を深くする。が、誰も言葉を発する者はない。  久我は素知らぬ振りで続ける。「私たちもご協力できる日をお待ちしております」  沈黙する渋面を久我は静かに見渡した。  しばらくの沈黙を破って、一人が詰問調で切り出した。  「何であんたがたの前に、この通称『ホット』が出てきたんだ?」  久我は無言で声の主に視線を移す。  声の主は脂ぎった額に青筋を立てて、テーブルを挟んでいるのでなければ久我に掴みかかりでもしていそうな様子だった。  久我は静かに応える。  「私たちが当局に協力していることは、夙に『ホット』の知るところになってます。先日の事件でもそれは明らかです」  「そんなことを言ってるんじゃない」  一層荒げられる声にも久我の平然たる表情が変わることはなかった。  「そんなことじゃない。何で単独であんたがたの前に姿を現したか、と言ってるんだ」  「それは私たちには量りかねます」  遮るように男が叫ぶ。  「ああ知れてもいよう、実際に『ホット』とやりあってるのが我々でなくあんたがただってことは。だからこそおかしいじゃないか。武装車両でも連れてならまだしも、単独だぞ単独。誰がどう見たって納得いかない」  鼻孔を膨らませながら一旦切った言葉を、男は継いだ。  「こいつとコネがあるのは、実はあんたがたの方も同じなんじゃないのか?」  聞いた久我の瞼がわずかに上げられる。それだけで冷静な視線は刃物のような鋭さを纏った。が、口調は変わらぬままだった。  「少なくとも私たちは、『ホット』から損害を被りこそすれ、利益を得るような関係を持ったことはありません」  「どうだか知れんが」  吐き捨てられた言葉に、久我は平然とこう切り返した。  「お疑いがあるのなら、一刻も早く『ホット』を逮捕し取り調べるのが最善と存じます。もっともお疑いのある以上は」久我の唇に薄い笑みが浮かぶ。「今日私の提出した資料も調査の材料として採用されることはないでしょうし、それに疑いのある私たちは当然捜査協力に参加することは出来ません」  「それは……」  真ん中の渋面が思わず口を開いた。  わめき立てていた男は青筋を一本追加して、苦々しげにテーブルを小突いた。  それらを気にとめた様子を全く見せず、久我はゆっくりと立ち上がった。  「では、私たちは疑念が解消されるまで一切の活動を自粛することにします」  振り返り歩を進めた久我の背中を、狼狽した声が追いかけて来た。  「久、久我さん! ちょっと待って!」  久我の足が止められた。  「ほぉ」  紫煙と共に感嘆詞を吐き出した木津に、真寿美がさらに言う。  「そうなんですよ。あたしもびっくりしちゃたんですけど」  「え? どうしたのどうしたの?」  その声と、右手に持ったチョコレートの箱と、そして後ろを歩く安芸と共に、紗妃が詰所に入ってきた。  「あ、紗妃さんも安芸君も聞いて聞いて」  振り返るのももどかしく、真寿美は今木津に話したばかりの久我からの指示を二人にも伝えた。  二人は揃って一様の反応を返す。  「当直を、解除?」と、紗妃の差し出すチョコレートを受け取りながら安芸が繰り返す。  「そうなの。信じられる?」真寿美もチョコレートを口に放り込んで言う。「当局から緊急の呼び出しがかかって、出掛けにいきなりそんなこと言われちゃって」  「で、由良さんと兄貴には伝えた?」自らもチョコレートをこりこりと噛みながら紗妃が問う。  「ううん、まだ」  「あのー、峰さん?」と安芸。「アックスのメンバーより先に仁さんに話してたわけ?」  「だってここに来たら仁さんしかいなかったんだもん」  「ごもっともさま」  「で、由良リーダーはどこに?」紗妃が今更のように室内を見回しながら訊ねる。  「調整じゃないですか?」と安芸が答える。「昨日、ちょっと狂いが出てたとか言ってましたから」  その時ドアの開く音。四組の視線が一斉に向けられる。入ってきたのは饗庭だった。  とぎれた会話を繕うように、紗妃が兄に当直の解除について告げた。  饗庭は「そう」と簡単に応えると、手近な椅子に腰掛けて、携えてきた技術資料のページを繰り始めた。  少し棘のある口振りで、紗妃が追い討ちを掛ける。  「ディレクターは別に兄貴の抗議を受け入れたわけじゃないと思うけど」  資料から目を上げることもせずに、饗庭は「そうだろう」と言った。  紗妃は肩をすくめ、それ以上攻撃を続けることはしなかった。そして木津の方に向き直り、真寿美にも視線を投げながら訊ねた。  「これで、MISSESが『ホット』捜査の裏方に回ることになってしまうんでしょうか?」  「俺に訊くなよ」煙草をもみ消しながら眉根を寄せて答える木津。「それより俺にもチョコレートおくれ」  「木津さんは甘いのは駄目なのかと思ってました」笑いながら紗妃はチョコレートを差し出した。  包み紙を開くヤニの臭う指を、真寿美が見つめている。その指が口許へ運ばれる前に、木津は言った。  「でも、まあそんなことはあるまいな。当局の専従部隊が出来たときだって、そんな様子はこれっぽっちも無かったしな」  「木津さんの希望的観測を差し引いて、ですよね?」  「それどころかこれ以上ないほどの客観性を以て、だと思うがな。なあ進ちゃん」  「確かにそうですね」と安芸が頷く。「当局主導になるとは思っていないような口振りでしたからね」  紗妃が少しく驚きを見せる。  「それじゃ、最初から久我ディレクターはそのつもりだったんですか?」  「そのつもりってどのつもり?」  「当局の捜査支援を考えていたわけじゃなくて、最初から自分が『ホット』を……えっと」と、紗妃はそこで言葉に詰まった。「逮捕は立場上出来ないし、ただ捕まえるんじゃ仕方ないし」  「殺す気だったのかもな」奥歯でチョコレートを噛み砕くと木津は薄笑いを浮かべながらそう言った。  紗妃と、そして真寿美の目が木津へと見開かれる。同時に真寿美は口を開いた。  「本当ですか? それ」  木津は直接は答えなかった。  「そうだとしてもおかしくないって気はしてるけどさ」  「やはり私怨ですか」  思いも掛けず聞こえた声に、全員が振り返った。そこには何の気配も感じさせずに立ち上がっていた饗庭の無表情があった。  続いた沈黙を破ったのは木津だった。  「おばさんの私怨ねぇ」と言うその口調は、むしろ楽しそうでさえあった。そして新しい煙草に火を点けながら続けた。  「あの冷静沈着無表情なおばさんのどこに恨みなんて代物が入り込むのか、なかなか興味をそそられるな」  安芸がまたかといった顔で苦笑しながら、饗庭に訊ねた。  「饗庭さん、随分私怨という言葉にひっかかりがあるようですね」  相変わらず表情を出さない顔が安芸に向けられる。答える声も表情が見えない。  「任務に私情を挟むべきではないはずです。まして公の正義を守る任務であれば」  「ああ、そういうことか」と木津。「真面目なんだな、上に何かが付くぐらい」  「当然のことだと思います」素っ気ないほど愚直な饗庭の口振りに、木津は軽い調子で返した。  「公の正義なんて俺の知ったこっちゃないよ。だからそこは任せた」  饗庭の眉間にわずかに縦皺が寄った。  「自ら進んで犯罪者になることはお奨めしません」  「そうですよ仁さん」と追って言う真寿美の顔は真顔だった。  だが木津はその言葉に軽く肩をすくめて見せただけだった。  「で」  「はい?」  「あの……どちら様でしたっけ?」  久しぶりにブリーフィング・ルームに姿を見せた小松は、斜向かいからいきなりそんな言葉を掛けられて面食らった。  「ひ、ひどいなあ木津さん。確かに長いこと空けてはいたけど」  真寿美はまた大笑いしながら、それでも小松に復帰の祝辞を述べた。  「でも、この召集は小松さんの復帰報告のためだけというわけではなさそうですね」  そう安芸が言った。  小松も属するアックス・チームが当直中止を久我に命じられてから、すでに二週間近くが経とうとしていた。そしてその間、当局からの出動要請は一回も無かった。  「お揃いですね?」  いつも通りの台詞と共に久我が姿を現した。  ライトグレーのタイトスカートを捌いて腰を下ろした久我は、まず小松の復帰について簡単に触れ、そして本題に入る旨を全員に告げると、ありきたりな事務連絡をするような口調で言った。  「今日当局から、『ホット』のアジトを特定したとの報告がありました」  上がるどよめき。  「同時に当局は強制捜査の実施を決定したとのことです。これに関して、MISSESに協力依頼がありました」  真寿美は思わず横を向く。そこには予想していたのとは少し違う木津の表情があった。  「出動要請ではなく」と安芸が問う。「協力依頼なんですか?」  「今回は依頼の形を取っています」  「どっちだっていいさ」と木津。「受けたんだろ?」  久我は軽く頷くと、全員に向かって言った。  「これを受けて、みなさんには強制捜査支援を目的とした出動をして頂きます。捜査の執行は明後日。午前十時にY区の未使用地区二番Aで当局の捜査班及び特種機動隊と合流し現場に向かって下さい」  「アジトの場所はこちらには教えてくれてないんですか?」と小松。  「詳細については伝達されませんでした」  安芸がちらりと木津の顔を見る。それに気付いて木津が安芸に言った。  「抜け駆けするんじゃないかと思ったろ?」  「ご明察です」  それには応えず、木津は久我に視線を戻した。久我が再び口を切る。  「あくまで捜査は当局の主導で行われます。従って、みなさんに期待されることは別にあると認識していてください」  「ほらな?」  木津からいきなり言葉を掛けられて、紗妃はぽかんとした。  さらに久我が続ける。  「なおこの出動の際は、みなさんは私の監督下を一時的に離脱することになります」  全員がごく当然のように受け止めたこの言葉に、ひとり木津が言葉を返した。  「あんたは、それでいいのか?」  「立場上は当然のことと思います」と簡単にそれに応えると、全員に向けて久我は言う。  「従って、当日は当局の指揮者及びアックス・リーダーの指示に従って下さい」  由良の肩がびくりと震えた。  MISSESのVCDV七両を含め、総数二十五両にも及ぶ強制執行部隊は、「外橋」を渡り緩衝地帯に入った。  先頭を行く当局の警邏車両が、通常は閉鎖されていて下りることの出来ない側道へと進む。その先は緩衝地帯管理用の幅広い一本道だった。  「誰でも想像の付くような所ですよね」と真寿美がMISSES専用のチャンネルでメンバーに話しかけた。「本当に調べられなかったのかなぁ」  「実はとんでもないところだったりして」紗妃が応える。「地下百メートルとか」  だがしばらくの走行の後に停止命令が出たのは、何の変哲もない管理用施設の前だった。  木津は左右を見渡してみる。小さな事務所を正面に、その左手には作業車両用の車庫と思しき建物。さらに背後には補修資材倉庫らしい大振りな建物がある。  続いて、VCDVに全機Mフォームに変形の上、左の車庫周辺に展開せよとの指示。  特一式特装車を追って、MISSESのVCDVが車庫を取り巻いて次々に立ち上がる。  「いよいよですね」  真寿美の声に、木津は曖昧に返事をした。どういうわけか、木津は自分の中にこれまでのような興奮が湧いてきていないのに気付いていた。  事務所正面に停められた警邏車両の一台から、三人が降り立ち出入口へと向かう。そして型通り捜査執行の宣告をするが、事務所からは全く応答がない。  その様子を固唾を呑んで見守っている由良は、自分を呼ぶ安芸の声を聞いた。  「このまま待ちますか?」  はっとした由良は上げた視線を巡らせる。  倉庫棟に向けられている安芸の玄武の顔。  だが自分は動くわけにはいかないだろう。  「キッズ0、キッズ1、マース1は位置を倉庫側にシフトして下さい」  指示と了解の応答とを聞いた安芸は笑みを浮かべた。  出入口の前では再びの通告と返らない返事。  手筈では三度目までに受け入れがなければ当局の部隊が突入することとなっている。  徐々に緊張感の高まる当局の布陣を見て、由良は無意識に操縦桿を握る手に力を込める。  そしてついに三度目の通告が発せられた。  答えはない。  当局の指揮者は振り返り配下の車両を見回すと、突入の指示を下す。  由良の頬が締まった。  と、事務所のドアが開いた。勢い込んだ突入部隊が止まり、そして崩れた。さらに次の瞬間には、後詰めの装甲車群がことごとくなぎ倒されていた。再び閉ざされるドア。  何が起こったのか?  特種機動隊の指揮者が駆る特一式の頭部が、救いを求めるかのように由良の玄武に向けられ、由良は一瞬一文字に結んだ口を開いた。  「特一式全機は事務所正面に展開、状況掌握と負傷者救助、破損車両の排除に当たって下さい。アックス1、2は事務棟周辺の哨戒を願います!」  「何があった?」  木津の大声がレシーバーから響く。  由良は状況を簡単に告げると、さらに指示を続ける。  「マース1、キッズ1、キッズ0は資材棟周辺の哨戒をお願いします。何かあったら」と、そこでわずかに言葉が切れる。「……何かあったら、MISSES全員に連絡願います」  「MISSESに、ですか?」と真寿美が念を押す。由良は答えず、残る饗庭に自分のフォローを命じた。  由良の指示に従って、特一式の部隊は倒れた突入部隊の救助に走る。それを見ながら安芸は由良に言った。  「今の振動は衝撃波銃です。あの建物の中にも何かあります」  了解の応答を返すと、由良は叫ぶ。  「負傷者救助が終了し次第、事務棟内部の探査に出ます。アックス4はサポートを願います! 特種機動隊は救助活動終了後一時撤退して下さい」  「え……」  特種機動隊隊長の声を、これまでにない強さの由良の声が押し潰した。  「いいですね?」  間もなく倒れた全員を収容した特一式は、由良の言葉に従って後退して行った。  「こちら特一。死亡者はなし。負傷者も全員が軽傷か単なる失神状態」  「了解です」  由良が答えると同時に事務棟の正面に飛び出そうとする。  その時だった。  再び事務棟のドアが開かれた。いや、事務棟正面の壁そのものが吹き飛んだ。そしてあの独特の爆音を伴った車両を先頭に、雪崩をうって武装装甲車と、そして見たことのない人型とが走り出てくる。  「『ホット』!」  「何だと!」  指示も待たずに白虎が、朱雀が、青龍が駆け付ける。そして由良は最後の指示を下した。  「MISSES各員は、『ホット』の身柄確保を最重点に置いて下さい。以上!」  その直後、彼我の間で実体弾を交えた衝撃波銃の応酬が始まった。  走りながら武装装甲車は『ホット』を取り囲む。さらにそれを援護するように高速で滑る青灰色の人型。その数二十五。  「どきやがれぇぇぇっ!」  木津の叫び。同時に人型の頭部が一つ宙に舞う。振り抜いた右腕の「仕込み杖」を戻しもせずに、白虎が左腕の衝撃波銃を連射。首を失った人型の体が倒れる。それを蹴って白虎が跳ぶ。  『ホット』の急転舵。蛇がうねるように武装装甲車が続く。その中に撃ち込まれた衝撃波が装甲車の一両を転覆させる。が、同時に白虎の右肩を爆発の衝撃が襲う。実体弾の炸裂だった。  別の人型と対峙していた真寿美の耳にもその音が届いた。だが真寿美は振り向こうとしなかった。横様に朱雀にステップを踏ませて人型の銃口を避けると同時にハーフに変形し、低い位置から衝撃波銃を放つ。人型は顔面を直撃されのけぞって倒れる。その両脚に脇から衝撃波銃が撃ち込まれる。  「脚を止めて!」と紗妃の声が。  朱雀が再び振り返りながら立ち上がる。敵の衝撃波銃が肩口をかすめた。  敵……  真寿美は自分が目で追っている相手をそう呼んでいることに気付いた。  照準器の中に捉えた敵は、真寿美の銃撃を浴びる前に、正面に躍り出た安芸の玄武の仕込み杖に胸の中央を貫かれる。玄武は敵の勢いに身を預けたまま後ろに跳ぶと、両足で敵の腹を蹴って仕込み杖を抜いた。蹴られた反動で勢いの止まった人型の脚を真寿美は撃った。そのまま敵が地面に頽れるのを確かめると、次の敵を捜す。  その視線の先で、白と銀の機体が舞った。  炸薬の破裂が機体を震わせる。そして破片が外装に降りかかり無数の傷を付けていく。  だが木津はなおも猛然と行く手を阻もうとする武装装甲車に襲いかかる。  ハーフで併走しつつ衝撃波銃を放つ。  巧みに回避しつつ、それでも『ホット』への壁を崩さない装甲車の列。  白虎へ変形しつつ、何度目かの跳躍を試みる木津。だがその度に実体弾と衝撃波との段幕が『ホット』への接近を妨げる。  焦れながら併走を続ける木津の目の前に、装甲車の尾部が飛び出す。  木津は反射的に舵を切ろうとした。が、その方向に次々に装甲車が展開してくる。いつの間にか装甲車が取り囲んでいるのは『ホット』ではなく、B−YCになっていた。  木津は正面を走る装甲車に照準を付ける。指がトリガーを絞った。  衝撃波の直撃を受け、装甲車はその場で擱座停止した。それを見た木津の手が変形レバーに伸びる。  白虎の足下から火花が散る。両腕を頭の前で交差させ、低い姿勢をとった白虎は、何とか衝突を免れた。その頭上を、跳ぶ白虎を狙った砲撃が素通りしていく。  見回せば、装甲車は全て停止した状態で白虎を包囲している。そして全ての砲門が白虎に向けられている。  そのただ中にありながら、木津は異様に落ち着いた自分を感じていた。脳裏に一つの面影を去来させながら。  が、それは二つの轟音によって破られた。左右両翼の装甲車が片や横転し片や吹き飛ばされていた。  装甲車の作る壁が歪み出す。その左の隙間から、朱雀と二体の玄武の姿が見える。右には青龍と同じく二体の玄武。  六機は瞬く間に装甲車を蹴散らして行く。そうして崩れた壁を、B−YCが全速で走り抜けて来る。  「『ホット』!」  空気を引きちぎるかのような木津の叫びを受ける相手は、既にその姿を完全に消してしまっていた。  速度の中から弾痕だらけの白虎が立ち上がる。再び足下に爆ぜる火花。  木津はトリガーを引いた。  白虎の左腕から標的のない衝撃波が放たれる。一回。二回。三回。四回。  「仁さん!」  背後に立った朱雀からの真寿美の声に、五回目を撃とうとした指が止まった。  左腕を下ろしながらゆっくりと振り返る白虎。そこには朱雀が、青龍が、四体の玄武が、擱座した装甲車や人型を背後に立っていた。  「逃がした……」  肩で荒い息を吐きながら木津は誰に言うでもなくつぶやいた。「逃がした……畜生」  「木津さん」と紗妃が呼びかけた。「『二度あることは三度ある』、ですよ。それから、『三度目の正直』とも言います」  白虎がもう一度『ホット』が姿を消した方向に振り返り、左腕を真昼の太陽に向けて挙げ、一発だけ衝撃波銃を放った。 Chase 25 − 仕掛けられた罠  当局とMISSESの包囲を脱した「ホット」の行方は、強制捜査部隊の事実上の全滅を受けて張られた非常線の効果もなく、そして非常線からの報を待っていたMISSESの待機の甲斐もなく、杳として知れなかった。  当局の被害に比して、MISSESのVCDVはいずれも外装の小破といった軽微な損傷を受けたに止まっていたが、それは「ホット」とその麾下の部隊が脱出において、当局はともあれMISSESとの交戦を敢えて避けていたことの証左とも考えられた。  再び眼前に居並んだ渋面の列の中から、前回も噛み付いてきた男がまた久我に迫ったときに切り出してきたのがそのことだった。  「どう見ても、あんたらと例の甲犯との間にネゴのある証拠じゃないか?」  久我は言葉を返さなかったが、その態度は例によって別段困った風も何も表してはいなかった。  「それにだ」  男がさらに食ってかかる。  「やり方は違うにしろ当局の中に食い込んで来てるのは同じじゃないか!」  久我はそれに一顧だに払った様子を見せず、テーブルに肘を突いて正面に腰掛けている幹部に尋ねた。  「それで、ご用件は?」  テーブルを平手で叩く音。続く怒声。  「馬鹿にしてるのか貴様!」  幹部はそれを手振りで押し止めると口を切った。前回とは異なり、やや重めの口調。  「結果として『ホット』とその徒党を取り逃がしたこと、さらにアジトの場所という重要な情報がその価値を失ったことは、当方としては認めざるを得ない事実です」  当方としては、という言葉に置かれたアクセント。幹部は続ける。  「ですがその一方として、今彼が申し上げた疑念が生じているのも、残念ながらまた事実なのです」  明らかに久我の反論を待って言葉を切った幹部は、だが期待を裏切る久我の沈黙を自分なりに解釈して続けた。  「いえ、ご不快は承知の上です。御社にこれまでも出動要請や特一式の納入という形でご助力頂いていますからね。そして出動の際は毎回それ相当の実績を上げて下さっているのも分かっています。ただ、ただですよ、今回はちょっと状況が……」  冷ややかな目で居並ぶ幹部達を眺めながら、久我は『ホット』の行動の本当の目的を推し量ろうとしていた。  今まで話していた幹部が言葉を切って、何らかの反応を久我に促すかのように揉み手を始めた。  相当の間を置いてから、久我は落ち着いた声で反応を返した。  「お疑いの要因は、一つが私たちの損害が極めて少なかったこと、もう一つが私たちが『ホット』の追跡を遂行できなかったこと、の二点と考えてよろしいのですか?」  幹部達はやや口ごもる。顔を見合わせる者もある。端にいる例の噛み付く男は、今さら何をといった顔で腕を組んだ。  ややあって、中央の幹部が答えた。  「まあ、そういうことになります」  「今挙げた要因はいずれも現場からの報告によるものと見られますが、それを受けてあなた方が判断なさったものと考えてよろしいですね?」  幹部は曖昧にながら肯定の答えを返した。  一つを除いていずれもその答え同様に曖昧な幹部たちの顔を一渡り眺め回すと、久我は今度は逆に相手に続きを促すようにはっきりとした沈黙を守った。  幹部たちも、言葉を選んでいるのかなかなか先を続けようとしない。  そのまま一分近くが過ぎようとした時、端の男がまた声を上げた。だがそれは久我に向けられたものではなかった。  「何をのんびりやってるんです! 既決事項なんだから、はっきり言ってやればいいじゃないですか!」  その乗り出した上体を止めるように、隣にいた男が腕を伸ばして、落ち着くようにと言葉を掛けた。  茶番を見ているが如き久我の視線は、それでも動かされることはなく、幹部の口許に留められている。それがようやく開かれた。  「前回」と端の噛み付き虫を示しながら、「彼があなた方と甲種八八〇八番一〇九三一号との間に何らかの繋がりがあるのではないかと前回申し上げた時は、当方としては何等その証拠を得てはおりませんでした。しかし、今回は状況証拠的なものとは言え、それを裏付けかねない事態が出来しておるわけです」  聞きながら久我は思った。あの人は単に内応者によって自分への利益を導いていただけではなかった。私たちへの不信を芽生えさせる土壌を作ることも考えていたのだ。  「そうなると」と幹部が続ける。渋面は半ば以上和らいでいた。「当方としても、これまでのご協力を決して無視するわけではありませんが、実質的な貢献度と言うか、当の甲種手配者に直結するものが得られて来なかったことも確かではありますし、内部での信頼度がややもすると揺らぎがちになって来ますのでね」  幹部はそこでまた言葉を切ったが、久我は言葉を返そうともせず、平然と相手を見据えている。その視線を受けて幹部は目を伏せた。だが執拗に沈黙を守る久我を前にして、とうとう最後まで言わざるを得なくなった。  「つまりですね、以下の件を承服頂きたい、というわけです」  そして小さく合図をすると、隣の男が前に置いた一枚きりの資料を久我に差し出した。  久我は左手でそれを引き寄せて、挙げられた項目に目を通す。  その様子を注視していた幹部連の表情があるいは困惑に、あるいは不審に、またあるいは恐怖にひきつった。  久我の顔には、冷淡な笑みがあった。そして発せられた声にさえも笑いが感じられた。  「これが当局の判断された最善策と理解してよろしいのですね?」  見回されたどの首も、はっきりと縦に振られることはなかった。  久我は繰り返す。  「よろしいのですね?」  少し吃りながら、次席の男が返す。  「必ずしも最善とは言えないかも知れませんが、現時点では最も妥当な判断かと」  久我の面がわずかに伏せられた。が、今度ははっきりと、くすりという短い笑い声が聞こえた。  その顔が再び正面に向けられた時、笑いを感じさせるものは表情からも声からも完全に消え去っていた。  「分かりました」  あっさりと言われた回答に、幹部連は揃って安堵の息を漏らした。が、隠しきれてはいなかった当惑が、続けられた久我の言葉に顕になった。  「一つ確認させて頂きたいことがあります」  その日の夕刻になって、MISSESではディブリーフィングの召集が掛けられた。  だが久我は出動の経緯についても結果についても何一つ確認することはせず、代わりに発したのはこの言葉だった。  「明日から一週間を休暇期間とします」  全員が全員自分の耳を疑った。  「え、え、え、え?」と真寿美は久我と他のメンバーの顔を交互に見ながら慌てる。  「休暇……ですか?」  紗妃と安芸が揃っておうむ返しに訊ねる。  由良と小松は唖然とし、そして饗庭と木津は露骨に不審の表情を示していた。  しかし久我は通常の指示と何等変わりない口調でもう一度同じ台詞を繰り返した。  「何で?」と木津が問う。「何で今のこの状態で、休みだなんて話が出て来るんだ?」  「今日の午前中、当局から次の指示を受けました」淡々と久我が切り出す。「まず、支援出動行為の停止。当局からの出動指示発令自体が停止されます」  またも全員が耳を疑った。  「何だそりゃ?」  木津の声を聞きもせぬ素振りで続ける久我。  「次に、これに伴いこれまでMISSESに認められていた準逮捕権限の停止」  何か言い出そうとした木津が、ふと口を噤んだ。その横には中途半端な真寿美の表情。  「三点目として、派遣人員の召還。正式な通達は追ってあるとのことです」  由良が呆然となる。その唇が震え、かすかに歯が鳴った。  「四点目。特種機動隊での特一式特装車の運用停止。ただし特種機動隊の活動は継続されます。この件に関しては、同時に特一式特装車の制御プログラムをも含んだ詳細なメンテナンス・マニュアルの提示をも求められています」  もはや誰も目立った反応を返さなかった。だがそれも久我の次の言葉が発せられるまでのことだった。  「そして最後に、当局のLOVEに対する捜査執行」  「え、え、え、え?」  非常な当惑を顔に浮かべた真寿美が思わず口走った。それを皮切りに、小松が、安芸が、そして紗妃が口々に久我に問う。  「どうしてそんな指示が出たんですか?」  「まるでうちが犯罪者みたいな扱いじゃないですか」  「何の容疑でですか?」  久我はそれらの顔を、そして何も言わずに自分を見ているもういくつかの顔を見回すと、当局での顛末を平然と語った。  「我々と『ホット』が通じている?」  安芸が理解できない言葉を聞いたかのようにつぶやいた。  木津が冷笑しながら「てめぇらのことは棚に上げやがったな」  「それで、反論はされなかったんですか?」  紗妃の問いに、久我は当然の如くに答えた。  「その必要はありません」  「捜査の結果が出れば、自ずと明らかだからねえ」と小松が言ったが、久我は別段それを肯定する様子は見せなかった。  「で、その捜査はいつ?」  「明日です」  「何を探すつもりなんだかね」と、小馬鹿にした口調で木津が言う。「てめぇらの役立たずの言い訳か何かか?」  「辛辣だねえ」と小松。  「でも」木津は言葉を継いだ。「願ったりじゃないのかい? これでうちは当局お構いなしに動き回れるんだからさ」  「それは認められたんですか?」安芸が久我に質す。  「認められたというのは、厳密に言うと少し違います」  「お、久々に聞いたぞその台詞」  木津の茶々は当然ながら無視された。  「準逮捕権限が停止されたことは、即ちMISSESが違法な車両及びその運転者に対して行う行動の公式性が喪われたことになります。その意味では行動は認められたものとはなり得ません」  隅で饗庭が小さく頷いた。  「しかし、『ホット』が私たちに対し何らかの行動を起こしてきた場合、これに対抗する手段を私たちが保持しているという事実に変化はありません。これは当局と言えど認めざるを得ないところです」  今度は木津が大きく頷いた。  「つまり、自衛としての行動に限っては許されるということですね?」と紗妃。  「当局の一応の見解はそうなりました」  「自衛ね」と木津。「向こうの出待ちかい」  「ただし、明日の結果如何によっては、その見解に変化が生じる可能性も否定はしません。何故なら」  木津は久我の視線を一瞬感じたような気がして顔を向けたが、久我の目はまた全員に向けられていた。  「今回の当局の決定が『ホット』の誘導によるものであるのは確実だからです」  高く口笛が響いた。  「それは……」真寿美がいつもとは違うかすれた声で言いかける。  「言うまでもないな」と木津が言った。その口振りは、待ちかねていたものがようやく眼前に現れたといった風だった。  「『ホット』の前回からの行動は、私たちを攻撃目標とするための準備行為と認めます」久我がこれまでにない落ち着き方で言った。「従って当局の捜査結果が正当なものとなるとは必ずしも期待できません。自衛を含め、VCDVを用いた一切の行動が制限もしくは禁止されることも考えておく必要があります」  木津が二度三度と舌打ちをした。  そこで珍しく饗庭が口を開いた。  「その場合、『ホット』某からの暴力行為があれば、当局の特種機動隊がこちらを保護するんですね?」  「当局の職務上はそういうことになります。ただしこれまでの状況から、当局の技量を過信することは出来ないと思います」  久我の答えが饗庭の眉間に皺を刻ませる。  「こうした環境下で、今後みなさんには活動していただかなくてはなりません。ただ、『ホット』が明確な行動を起こすのは、当局が今回の措置を実施した上、明日の捜査の結果をまとめてからと考えられます。そこで、その間みなさんには休暇を取っていただき、今後MISSESとしての業務を継続するかどうかを考えておいていただきます」  この最後のくだりを聞いて眉間の皺を消した饗庭。その向こうで由良が居場所を無くしたように訊ねた。  「あの……私は?」  「当局からの辞令もこの一週間の内に届くはずです。休暇後の復帰で構わないでしょう」  由良は大きな溜息を吐いてうつむいた。  「最後に申し上げておくと、明日の捜査においては、結果が明らかになるまでみなさんを煩わせることはありません。休暇中は懸念なさらないようにお願いします。以上です。何か質問は?」  木津が腰を上げながら言った。  「俺が抜けると言ったらどうする?」  だが久我の表情を見て、木津は苦笑した。  「お見通しだもんなぁ」  「仁さん?」  「開いてるぜ」  応えながら木津は七重の写真を裏返して机に伏せた。  部屋に入ると、真寿美は顔をしかめた。  「うわ……空気がこもっちゃってるじゃないですか。暖かくなってるんですから、窓ぐらい開けましょうよ」  そして手ずから机の脇の窓を開く。言葉通りの暖かい風がわずかに吹き込み、机の上から数枚の紙片を床に飛ばした。  椅子から身を屈めてそれを拾う木津に気付いて、真寿美は詫びを言ったが、その紙片の中に、裏返しにはされているが、写真があるのに気が付いた。  「仁さん、お休みはどうするんですか?」  「どうするって言われても……どうしようか?」再び紙片を机に伏せながら木津。  「あたしに訊かないでください」と真寿美は笑う。「あたしだってまだ決められてないんですから」  「しかし、真寿美が休んだら誰がおばさんにコーヒーを淹れるんだ?」  「自分でやるから大丈夫、だそうです」  「あ、一応訊いたわけね」  「それはもうしっかりと」そして「そっかぁ、そうですよね、決まってないですよね」  「真寿美ちゃんの陰謀コーナー! か?」  真寿美はまた吹き出しながら、「デートのお誘いって陰謀なんですか?」  「デート?」  真寿美は軽くうなずいて言った。  「今度は邪魔が入らなさそうですし」  「その次は空気が重かったしな。分かった、受けて立とう。で、いつ?」  「受けて立とうって、果たし合いじゃないんですから。明日はどうですか?」  「了解だよ。行き先は?」  「あたしが決めちゃっていいですか?」と、真寿美は悪戯っぽく微笑んだ。  それにいささかひるみながら木津は  「……いいです」  「それじゃ、楽しみにしてて下さいね」  そう言って踵を返す真寿美を、木津は呼び止めた。  「あのさ、さっきおばさんが言ってたMISSESを続けるかどうかって話だけど」  「はい?」真寿美の頬に浮かんだ笑みは変わらなかった。「あたしは続けますよ」  木津は黙ったまま真寿美の顔を見つめた。  真寿美の方は小首を傾げて木津を見返す。  やがて木津はゆっくりと言った。  「そうか……」  「はい」  一点の曇りもない返事だった。  その頃の詰所には、饗庭兄妹の姿があった。  「ディレクターがまさかあんなことを言い出すなんて思わなかったなぁ」紗妃が言った。「あれ、兄貴への当てこすりじゃない?」  「そのレベルで動く人じゃあるまい」  脇の椅子に座る兄のつぶやくような声を、テーブルに腰掛けた妹の険のある声が追う。  「冗談よ。で、兄貴はどうするの? 納得いってなかったんでしょ?」  「ああ」  「ああじゃなくって」  饗庭は答えなかった。紗妃も答えを促しはしなかった。  しばらくの沈黙を挟んで、饗庭が言った。  「お前はどうするつもりだ?」  「私は」テーブルから降りる紗妃。結んだ髪が跳ねる。床に当たって靴音が短く高く響く。「辞めないわよ」  饗庭の視線が壁から紗妃へと移される。  「何故?」  「やりかけで放り出すのが嫌だから」  簡単に紗妃は言ってのけた。  「それだけか?」  兄の言葉に紗妃は怪訝そうな顔をする。  また少しの間を置いてから饗庭は続けた。  「見届ける気なのか?」  怪訝な顔は変わらない。  「木津さんのことを」  紗妃の顔に微笑が浮かんだ。  「ああ、それもあるかもね。でも木津さんだけじゃない。真寿美ちゃんのこともね」  興味なさげな表情の饗庭に、紗妃は再び問いかけた。  「兄貴はどうするの? 辞めるの?」  返事はなかった。  終業のチャイムが鳴った。  真寿美は居心地悪げな顔で周囲を見回しながら立ち上がった。  「あの、それじゃ……」  「いいなあ」隣の席の先輩女性社員が言った。「一週間お休みかぁ」  「す、すいません……」  「いいのいいの。来年はあたしも十年目の長休もらえるから、その時に借りは返してもらうわ。だから後は任せておいて」そう言うと、手のひらで真寿美の背中をどんと叩いた。  真寿美は頭を下げて暇を告げると、小走りに階段を下りて更衣室のドアを開いた。  早くも帰宅組で混雑の始まった中、真寿美は一つの背中を見付けて声を掛けた。  「紗妃さん」  解かれた腰までの髪を揺らしながら、事務服のブラウスを脱いだ細い背中が振り返る。  「あ、お疲れ様」  紗妃は自分のそれとちょうど向かい合わせになるロッカーに真寿美が来ると、訊いた。  「今日はこれからどうするの?」  「もう帰るだけ。明日は予定あるけど」  「それじゃ、ご飯食べて帰らない?」  「うん、いいよ。どこで?」  「私のお気に入りのフレンチでどう?」  「了解。ナヴィのデータ転送よろしく」  紗妃がくすりと笑った。  「え?」と振り返る真寿美。  「ううん、今の言い方、何だか木津さんみたいだなって思っただけ」  「そ、そう?」向き直った真寿美は少し頬を赤らめていた。  「あ、もしかして明日の用事って、デートでしょ。木津さんと」  「えへ」  「そっかぁ」衣擦れの音をさせながら紗妃がつぶやく。「それじゃ、あんまり遅くなっちゃダメね。あとお酒も」  最後に付け加えられた一言に、真寿美の表情が強ばった。  「あの……あの時、あたし、ほんとにそんなに……ひどかった?」  「明日は失敗しないようにね」  紗妃がまた悪戯っぽくくすりと笑った。  「その木津さんも、休みの間は自宅に戻るんでしょ?」  頭を抱えていた真寿美は、その問いに表情を一変させて答えた。  「うん、明日はあたしが木津さんのお部屋まで迎えに行くの」  「迎えにって、普通は逆じゃないの?」と、支度を終えた紗妃が振り返った。  「うん、でも仁さんずぼらだから」  「そういう問題じゃないような気がするんだけど……」  駐車場に出た二人は、ヘルメットを抱えたウィンドブレーカ姿の背中を見つけた。  「安芸君も今日は早いんだね」  真寿美に声を掛けられて振り返る安芸。  「ああ、峰さん。紗妃さんもお揃いで。連れ立ってどこかお出掛け?」  「これから淑女の晩餐会です」と紗妃。  「……はあ」  「何かな今の間は?」真寿美が切り込む。  「気のせい気のせい」  「ところで安芸さんはお休みの予定は?」  「久々にツーリングでも行こうかと思ってます。アックスが出来て以来忙しくてご無沙汰してたから」と、片手でヘルメットをぽんぽんと放りながら安芸が答える。  「そろそろいい時期ですもんね。私もそうしようかな」  「え、紗妃さんオートバイ乗れるの?」  「安芸さんと違って中型だけどね」と真寿美に答えると、今度は安芸に「というわけで、ついていったら迷惑ですか?」  「全然。ただ今のところ計画も何もないけど、それでよければ」  「いいですよ。計画は全部お任せです。出発はいつ?」  「明後日の朝のつもりです。それじゃ、明日の夕方までに計画は送ります」  「よろしくです」  このやりとりを見ながら、真寿美は言った。  「本当に誰も気にしてないみたいよね、明日の捜査のことなんか」  「ディレクターが懸念無用って言ってるんだからいいんじゃないかな?」と安芸。「あの人が言うと、どういうわけか信頼出来てしまうから不思議なんだけど」  「それじゃ安芸さんも継続組なんですね」  「も?」  「私も、です」  「あたしも」  「峰さんは訊くまでもないけど」  頬を膨らませる真寿美を脇に、安芸は紗妃に尋ねた。  「で、饗庭さんは?」  紗妃は溜息混じりに答える。  「兄貴ですか? 相変わらずはっきりしないんですよ。私も訊いてみたんですけど、辞めるとも辞めないとも言わなくて」  「そうですか……」受ける安芸も溜息混じりに。「饗庭さんも腕は確かなんだけど、意に添わないことを続けるのは辛いだろうから」  「でも」真寿美が口を挟んだ。「今までの饗庭さんだったら、こんな話を聞いたらすぐにでも辞めちゃったんじゃないかな。それを今回は考えてたんでしょ?」  「煮え切らないだけよ」紗妃が切り捨てる。  「由良さんが当局に戻った上に饗庭さんが抜けるとなると、かなりきついことになりそうだからね」安芸が言った。「残ってもらえれば心強いんだけど」  「久我ディレクターはそのあたりをどう読んでいるんでしょうね?」と紗妃。「『ホット』のグループだってまだまだ相当の数が残っているのに、それに対して何人残るか……」  「休み明けにははっきりするでしょ?」真寿美が簡単に言った。  「そうね」  その頃、久我の執務室。  「で、お受けになるつもりなんぞはございますまいな?」  阿久津の問いに、久我ははっきりと答えた。  「もちろんです」  阿久津が確かめたのは、当局の指示の内四点目の後半についてだった。  久我の答えに満足そうにうなずくと、さらに問い質した。  「それで、如何にして切り抜けられるお考えか? 引き渡しがなければ、逆に口実を与えることになりますぞ」  「提出資料の収集と作成には十分な時間をかけて下さい」  久我の言葉に一瞬合点のいかない顔を見せた阿久津は、すぐににやりとした。  「承知しました。たっぷり一ヶ月かけることにしましょう。その間に」  久我がうなずいた。  「ただ一つ気になるのは」と阿久津。さっき浮かんだ笑みは、今は苦いものに変わっている。「向こうさんがペケを出してきたら、ディレクター殿は構わんのかも知れませんが、真寿美君やら饗庭の姫さんやらといった、元々関係のない人間にもケチを付けることになりかねんてことですがな」  「その判断をも含めて、各個人に業務継続の是非を任せました」淡々と久我が応える。  「みんながみんな、そこまで考えとるとは思えませなんだがな」  久我の応えの代わりに、別の声がインタホンから聞こえてきた。  「ディレクターいるかい?」  「万事承知でやっとるのはこの御仁ぐらいでしょうな」と阿久津が言った。  久我はインタホン越しに、声の主の木津に打ち合わせ中である旨を伝える。  「ああ、だったら構わない。休み中は俺も自宅に戻るからさ、こっちの部屋はどうするかって訊きに来ただけだ」  「貴重品等を残して置かれないなら、そのままで構いません」  「鍵もかけないでいいのか。あと、白虎のキー・カードも置いて行かなくていいな?」  久我がふと考えるような素振りを見せた。だがそれもわずかの間のこと、すぐに肯定の答えを返した。   「了解だよ」と言う軽い口調を変えず、木津はもう一言を付け加える。  「明日、まかり間違っても白虎を押収させたりしないでくれよな」  久我の返事を待たずに、「それじゃまた来週!」と言い置いて木津は立ち去った。  阿久津が一つ息を吐いた。  「なるほど、そういう懸念もなくはありませんな」  口中剤を取り出して口に放り込み、奥歯で二度がりがりと噛むと、阿久津は言った。  「この間に、VCDVも休暇ってことにしておきますかな。全車両の解体補修をやるいいチャンスですからな。手始めにG−MB以外の三両からいきますか」  久我が軽く頭を下げる。  「ご賛同いただけたようですし、早速今夜からでも手を着けるとしますかな」  久我の顔に疑問の意を見て取ったか、阿久津は付け加えた。  「明日の朝から露骨にバラし始めたんでは、言い訳が付きますまい。それに」  言葉を切った阿久津は、うつむき加減に、頻りに手指の爪をこすっている。  「不似合いなセンチメンタリズムと嗤って下すっても構いませんが……激務に赴く連中には、少しでも多く手を掛けてやりたいなんていう気持ちも無くはないもんでしてな」  「よろしくお願いします」  そう言った久我の声がどこか優しく聞こえたのは、阿久津の気のせいだったのだろう。  「それから、全車両のメイン・キー・カードのバックアップはいつでも破棄出来るよう準備をお願いします」 Chase 26 − 爆破されたLOVE  その日は朝から気温だけはそこそこ高いものの、薄曇りのどこかすっきりしない空模様だった。  朝食の後片付けを終え、一通り身支度も整えた真寿美は、開いた窓からもう一度空を見上げた。そこにあるのは起き抜け一番に見上げたのと何の変わりのない空だった。  今朝の天気予報は、これも昨夜からの予報と何等変わりなく、今日一日このまま良くも悪くもならないと言っている。  せっかくの日なのにちょっともったいない気はするけど、まあいいか。雨に降られるんじゃなければ、そうは変わらないし。それに今日の本当の目的は、天気なんか関係ないし。  窓を閉め錠を下ろすと、真寿美はテーブルへととって返した。そこには弁当箱が三つ、蓋をされ包まれるのを待っている。  その中身を真寿美はもう一度確かめた。その口から小さく「よし」という声が漏れる。  弁当箱一つ一つに丁寧に蓋がされ、重ねられると、カラフルなナプキンに包まれた。さらにそれを籐のバスケットに入れると、クローゼットの姿見の前に立ち、自分を包む服の方を確認した。木津にどこのお嬢様かと言われた秋の時とは違って、今日は若草色の七分袖のブラウスにストーンウォッシュのデニムのパンツ、肩に羽織っているのはオフホワイトの目の粗い薄手のセーターという軽快な出で立ちである。今度はどこのお子さんかとでも言われるだろうか。  真寿美の口から再び「よし」が漏れた。それを合図に、弁当入りのバスケットといつものショルダーバッグ、そして玄関口のフックから車のキー・カードを取り上げると、真寿美はドアを開いた。  いつものようにエレベーターには乗らず、部屋のある三階から地下の駐車場までを、階段で弾むように駆け下りる。パステルイエローの小さな車体は、昨夜の帰りに洗車を済ませたこともあって、埃一つかぶっていない。  真寿美はドアを開け、後ろのシートに荷物を入れると、運転席に小さな体を滑り込ませ、エンジンを始動させた。  同じ曇り空の下、木津のアパートに向かって真寿美が車を走らせている頃、工場区域の端を目指して走る車の列があった。  この季節にあってさえどこかしら荒涼としたものを感じさせる廃工場やその跡地を抜け、見るだけで何者かの見当が付きそうな黒塗りの二台と、後に続くワゴン車は、やがてその施設が活動していることを伺わせる、車の多く停まる駐車場の横を抜け、いささかくたびれたビルを後ろに控える「特殊車両研究所」の表札を掲げた門をくぐって止まった。  門の脇、守衛所の前に立っていた一つの人影が、それを認めて頭を下げた。  グレーのスーツに身を包んだその女は、久我涼子であった。  先頭の車から降り立った三人の男たちは、この出迎えにいささか驚きを禁じ得ない様子ではあったが、しかし久我の礼に応えることはしなかった。  リーダー役を務めるにはやや若すぎるように見える男が、紋切り型の台詞と共に捜査令状を取り出して久我の鼻先に突き出した。  その内容に目を通すでもないまま、久我もまた紋切り型の台詞で男たちを迎え入れる。そして客用駐車場の場所を指し示した。  二番目に立っていた男が振り返り合図をすると、三台の車が順に駐車場に向けてゆっくりと走り出す。  久我はその様子にほんの少しだけ遣った視線を戻すと、全く感情のこもらない口調で再度来訪を労う言葉を口にした。男たちは今まで当局では会ったことのない者たちばかりだったが、久我の落ち着き振りに一様に戸惑いを覚えているようだった。  久我の目がわずかに動く。後続の車の乗員たちのうち何人かが小走りに駆け寄ってきた。  「ではご案内申し上げます。こちらへ」  振り返る久我の醸し出す雰囲気に圧倒されたか、気後れさえ感じられる一団は押し黙ったままその後について歩き出した。  何度来ても分かりにくい場所だと真寿美は思う。ナヴィゲータ画面からの案内があるからいいようなものの、そうでなければ今日のように昼間に来ても必ず迷っているに違いない。表通りから入って小さい角をいくつ曲がったことか。そしてようやく目標の建物が姿を現した。  明るいうちに来るのは初めてだったが、その建物のみすぼらしさを見て真寿美は唖然とした。思わずナヴィゲータの画面を見て場所が間違っていないかと確認してしまった。しかしどうやら間違ってはいないらしい。確かにあんなエントランスだったような気がしなくもないし。  幅のあまり広くない道の端ぎりぎりに車を寄せて降りると、真寿美はエントランスに入る。管理人室の窓は閉め切られ、もう何ヶ月も開けられたことがないようだった。一応はまともに動いているエレベータに乗って、木津の部屋のある階へ。  隅に砂埃の溜まった廊下を歩き、目的の部屋の前で立ち止まる。表札は出ていない。少しだけ躊躇したが、多分間違ってはいないだろう。真寿美はドアチャイムを押した。  応えはすぐに返った。  「入ってます」  返す言葉に詰まった真寿美はその場に呆然と立ち尽くす。と、ドアが開いて木津が顔を出した。  「何を朝から飛んじまってるんだ?」  「……仁さんのせいですよぉ!」  「よし、じゃあ行くか」  「うやむやにしないでください」  笑いながら走り出す木津を真寿美は慌てて追った。  エレベータ・ホールの前で追いついてきた真寿美に木津が言う。  「しかし、今日はまた秋の時と全然違う格好してきたな。どこのお子さんかと思った」  「あ、やっぱり」  「何が?」  エレベータのドアが開く。  「そう言われるんじゃないかって思ってたんです」  「承知の上だったのか」と、乗り込みながら木津。「でも、そっちの方がいつもの雰囲気に近いんじゃないか?」  「お子さま風が、ですか?」  「厳密に言うと少し違う」  「大まかに言うと合ってるんですね?」  「真寿美、おまえ突っ込みを覚えたな」  ドアが閉じ、ゴンドラがゆっくりと降り始めた。  「で、厳密に言うと?」  「有無を言わせないし……」苦笑いの後、木津は言葉を継いだ。「そんな格好してる方が、いつも元気にぱたぱたしてそうで真寿美っぽいってことさ」  「えーと……今のは」  「ほめてると受け取っていいぞ」  真寿美は屈託のない笑顔で言った。  「ありがとうございます」  軋りながらドアが開く。エントランスの向こうには、空を映した小さく丸い車体がつやのない黄色を覗かせている。  最初に姿を見せた三人がソファに腰掛け、残りの男たちはその背後に立つ。見る者に威圧感を与えるはずのその様に、たった一人向かい合って座る久我は怯む様子も毫も見せることはなかった。むしろいつもとは勝手が違うことに更なる戸惑いを覚えているのは、捜査官たちの方だった。  捜査令状をテーブルの上に拡げると、リーダー役の捜査官が口を切った。  「この通り捜査を執行します。ただ、強制捜査ではありません。基本的には当方の要求する資料その他を任意提出していただく形になります」  「基本的に、とは?」  急に切り出された問いに、捜査官は一瞬口ごもると、答えにならない答えを返す。  「字義通りの意味です」  「お続けください」  無表情の久我に促され、捜査官は用意された原稿を読むような調子で言葉を継いだ。  「ただし一部資料に限っては任意ではなく必ず提出していただきます。拒否される場合は強制執行に切り替えます」  「結構です」  同じく無表情な声で久我が割り込んだ。思わず言葉を切った捜査官が久我の顔を見る。だがそこには声同様何の表情も見出だせない。  「ところで」と、腰掛けた内の二番目の男が口を挟んだ。「本日ご協力いただけるのは、久我さんお一人だけですか? 相当量の物件をご提出いただくことになるのですが」  「これまで当局の捜査支援に当たっていたMISSESの全ての記録は、資料化されていないものを含め私が管理しています。特に人手を介する必要はないと思います」  「資料化されていないものもあるわけですね?」  掛けたカマに見事に食いついてきた捜査官に、久我は応える。  「いくつかあることは否定致しません。もしお求めの物件にそうしたものがあったら、いかが致しますか?」  ソファに座った三人目の男、前の二人よりは幾分年嵩の、恐らくは二人を監督する役目を担って来ているのであろう男が言う。前の二人とは違う低い声で。  「資料化されていなくても何らかの形で記録は残されているはずですね?」  「記録というのは、厳密に言うと少し違います」と久我。「記憶に残っているだけです」  「記憶?」若い方の二人が鸚鵡返しに。だが年嵩の男は冷静だった。  「有形の記録は全て抹消済みということと理解しますがよろしいですね?」  「それは正しくありません」はっきりと久我は応える。「抹消したのではなく、最初から記録していないだけです」  「その真偽は強制捜査によって確かめさせてもらいます」  「結構です」という久我の応えは、今までの無表情ではなく、どこか余裕めいたものを感じさせた。「ですが、その前に御要望の物件を御呈示願えますか?」  左右からの視線に急かされるようにして、二番目の捜査官は鞄から一冊の薄いバインダを取り出すと、開いて久我の前に出した。それと同時に、捜査官たちの視線が一斉に久我に注がれる。  バインダを受け取った久我は、その中の三ページばかりのリストに一通り目を通すと、顔を上げて視線を真っ向から受け止め、何の感情をも交えずに言った。  「大半は御期待に添えるものと思います」  「全てではない?」  「残念ながら一部有形で残されていないものがあります」と言う久我はもちろん残念そうな素振りなど微塵も見せてはいない。  「どの物件が該当するか教えてください」  そう求めた二番目の捜査官は、久我がこちらに向けてバインダを差し出すのに気を取られてか、内ポケットから取り出したペンを床に落とした。屈み込む男の代わりに、最初の捜査官が自分のペンを手に久我に対した。  休日ならば一苦労どころでは済まないはずの駐車場への入場も難なく済ませ、真寿美と木津は車を降りた。  車の屋根越しに聳える珍妙な建物の群を見て、木津は言った。  「もしかしてここって遊園地ってやつか?」  「もう少しかわいい言い方もあるんですけど」と苦笑いしながら真寿美。「それでも大体合ってます」  丁度やってきたエントランス行きのカートに木津を押し込んで、その後から真寿美が飛び乗った。  徐々に近付く構造物を眺める物珍しそうな顔の木津に、真寿美は訊ねる。  「ここは初めてですか?」  「こういうところ自体初めてだ」  「ほんとですか? だって……」  言いかけて、しまったという顔をする真寿美。だが木津は後半を聞かなかったような返事をした。  「ほんとほんと。だからお手柔らかに」  真寿美は一転いたずらな笑みを浮かべる。  「いーえ手加減しません。腰が抜けちゃうまで遊んでもらいます」  「……今の台詞、何か卑猥だぞ」  「はい、今の発言はセクハラです。ペナルティ加算しますからね」  そう言いながら真寿美は木津の背中をどんどんと叩いた。  「ど、どうしたんだ真寿美? おまえ今日異様に戦闘的じゃないか?」  「お子さまはこういう場所では戦闘的になるんです。それに、行き先を任せてくれたのは仁さんですからね。覚悟してください」  木津は自分の顔に浮かぶ笑みが引きつっているのに気付いた。  やがてエントランスの脇に止まったカートからさっさと飛び降りると、真寿美は振り返り木津に言う。  「チケット買ってきますから、そこでおとなしく待っててください。はしゃいでどこか行っちゃだめですよ」  「へいへい」  何歩か歩き掛けて真寿美はくるりと向き直り、木津がその場を離れずに煙草をくわえたのを見て頷き、再び向きを変えると駆け出した。  あれは本当に子供だな、そう木津は思いながら遠ざかる後ろ姿を眺めた。が、それが行列の中に埋もれて見えなくなると、木津の思考は別のものに奪われる。  奴も今度こそ本気で来る、か。おばさんの読み通りに運べば御の字ってところだな。そう言えば、おばさんが奴について言ったことが完全に外れるというのは、これまでなかったんじゃないか。信用しておけば二年越しの決着を付けられそうだ。二年越しの……  木津は天を仰いだ。あれからもう二年になるのか。何もかもが暗転してしまった一年と、それを覆そうと動き続けた一年。その一年が終わったら、その後は…… 殺人犯扱いになるのか死体になるのか、どっちにしたって明るい未来じゃないな。それに何より、あいつが帰ってくるわけじゃない。そう思うと、皮肉な笑みがこみ上げてきた。仇討ちの終わりは、生きていようが死んでしまおうが、俺の終わりでもあるみたいだな。  と、唇の煙草の感触が不意に消えた。我に返ると、片手にチケットを、もう一方の手に木津のくわえていた煙草を持って真寿美が立っていた。  「何ぼんやりしてたんですか?」そして答えは聞かずに「ぼーっとしてると、これ鼻に差し込んじゃいますよ」と煙草を木津の顔に近付けた。それを奪い取ると木津は言う。  「あのー、真寿美さん、あなた本日戦闘的なのを通過して凶暴なのでは?」  「はい、それに気が付いたら行きましょう」  「分かった分かった! 分かったから引っ張るなって!」  物件の提出は順調に行われつつあった。  久我は自らの言葉通り、提出必須とされたものを含め、要求された有形の資料を自分一人で揃え、捜査官たちに確認させた。そして最初にソファに腰掛けた三人の指示に従って、残りの捜査官たちが資料を決して丁寧とは言えないやり方で次々と梱包していった。  立ち働く捜査官たちには目もくれず、久我は呈示されたリストを見ては列挙された資料を次々に出していく。そうして昼前にはリストのほとんどに収集済みのチェックが入った。  年嵩の捜査官がバインダを手にとってページを繰ると、それ毎に上から下まで、まるで記録されている事実以上のものを読み取ろうとでもするかのように、あるいは次の攻め方を思案しているかのように見入った。  久我はそれを黙ったまま見つめている。  資料の詰め込まれた箱を運び出す音を背景に、その沈黙は昼休みのチャイムが鳴っても続いた。  やがて最後のページを見終えた捜査官は、最初のページを開きなおすとバインダをテーブルに置いて言った。  「ここまではご協力に感謝します」  感情のこもらない謝辞に頭を下げた久我は、それ以上に感情のない言葉を返した。  「お続けになりますか?」  言われて捜査官は腕時計に目を遣ったが、それは明らかに次の台詞を引き出すためのジェスチュアでしかなかった。  「いや、もう昼も回ったようですし、一旦ここまでにしましょう」  「こちらの食堂でよろしければご案内差し上げますが」  「お願いしましょう」  真寿美は腰を下ろすと、持参のバスケットから取り出した包みをテーブルの上で開いた。姿を現す三段の弁当箱。上から順に蓋を外され、少しふらつきながら座り込んだ木津の前に並べられる。  「結構しんどいもんだな」  「朝ご飯食べてないからですよ」と満面の笑みを浮かべて真寿美が言う。「そう思って、がんばって作って来ました」  「はい、ありがたくいただきますです」  深々と頭を下げる木津を、真寿美が慌てて止めた。  「だめーっ! お弁当箱に顔を突っ込まないでくださいっ!」  すんでの所で止められた木津は、顔を上げるとサンドイッチを一つ摘み上げた。  「でもしんどいのは別の理由だぜ」  アイスティーを注いだカップを差し出しながら、問い掛けるように眉を上げた。  「自分でコントロールしてるんじゃないと、どうにも不安でさ。予想外の横Gとか加減速ってのは……」  そう答えると、木津はサンドイッチを一口に頬張った。  真寿美の眉がまた訊ねるように上がる。動く木津の顎を見る目。  木津は言葉を発する代わりに、おかずの箱に置かれたフォークで細工切りをされたウィンナーを突き刺して、サンドイッチを飲み下したばかりの口へと運ぶ。  どうやら答えを待つ必要はなさそうだった。  「でもVCDVに比べたら全然大したことないじゃないですか。それでもだめなんですか?」  「大小の問題じゃなくて、体が動きに前もって反応するかどうかだからさ」  「先に構えてちゃスリルがないですけどね」真寿美は笑いながら、自分もサンドイッチを一切れ取り上げた。「それじゃ次はおとなしめのにしましょうか?」  他の捜査官たちを資料と共に先に当局に戻らせた後、執務室に残った例の三人は、それまでと同様にソファに陣取り、コーヒーとその淹れ主とを前に、慌ただしくペンを動かしたりキーボードを叩いたりしている。  そんな様子と相俟って、そこは一種事情聴取の場のようになっていた。  専ら質問を浴びせてくるのは年嵩の男。だが久我はいずれの質問に対しても淀むことなくはっきりと答えていく。  やがて想定していた質問が尽きたのか、男は途切れた質問の合間に若い二人に視線を遣る。二人はややあってそれぞれに手を止めると、視線でそれに応えた。  年嵩の男が倦んだように久我に告げた。  「ここまでに、誤りはありませんね?」  「ありません」久我は静かに、だがきっぱりと答える。  「それならば結構です」と捜査官。「お尋ねする内容は、今回は以上です」  「今回は、ですか?」と訊ね返す久我の口調は疑義を含んだものではなかった。  「証拠分析の結果如何では、追っての調査にご協力いただくこともあり得ます」  頷く久我に、いきなり世間話のような口調になって捜査官が言った。  「ところで、VCDVの実物を拝見させて頂きたいのですが? 特一式は知っていますが、他のモデルがどんなものかも、捜査の予備知識的に知っておいた方が有利ですから」  「残念ながら」今度は久我が想定済みの台詞を切り出す番だった。「現在全車両が解体整備作業に入っています。捜査支援の任を解かれた今がいいきっかけでしたので」  「なら仕方ありません」  この言葉で、若手二人が手元の道具を片付け始めた。今の話が世間話などではなかったことをそれが裏付けてしまっていた。  若手二人が、そして年嵩の男が立ち上がる。  「では以上とします」と、今日最初に話を始めた若手の一方が言う。「失礼します」  「では表までお送り致します」  久我が腰を上げ、三人をドアの方へ導いた。  薄暮の中、決して多くはない園内の人波は、それでも鎮まることを忘れたかのようにさざめいていた。  「来ました!」  真寿美が少女のように目を輝かせる。その指差す方を見ると、華やかな電飾と軽やかな音楽を伴って、マスコットキャラクターやら何やらを満載した山車がゆっくりと近付いて来る。  周囲にははしゃぐ子供の声。手を繋ぎ、腕を組みあるいは互いの体に回して立つ男女。  そんな中にあって、木津と真寿美は言葉を交わすことも相手に触れることもなく、山車を見つめていた。  執務室のドアが開く。  入ってきた久我は特に疲れたような様子も見せず、応接のテーブルへと歩み寄ると、そこに置かれたままになっていた押収物件一覧の写しを手に取り、そのままソファに体を預けるとページを繰った。  その選定が当局独自の発案によるにせよ、「ホット」の入れ知恵によるものにせよ、それらの物件は押収され分析され、その場でどう曲解されたところで、MISSESに、そして久我の行動に何等の影響を与えるようなものではないはずだった。  写しを揃え直してテーブルに置き、久我は一つ息を吐いた。  恐らくはこれであの人の初手を封じることは出来ただろう。だが今日の感触では、あの人がこの捜査の結果に何かを期待しているようには思えなかった。これは次の手段への単なるステップに過ぎないのだろうか。だとすれば、次に講じられる手段とは? それが力を以ての直接的な手段であれば、それに応じるという形で、今度こそあの人を完全に止めてしまうことが出来るだろう。ようやくあの人の振りかざす狂気の矛先をこちらに向けることが出来たのだから。あとはこれまでの二年近く復讐に餓えてきたあの男をあの人に向けて放ちさえすれば、それで全ては終わるはずだ。あの男の復讐と共に、私のそれも。  ふと久我は喉の渇きを覚えた。思えば今日は振舞いはしたものの、自分自身は全くコーヒーを飲んではいなかった。  テーブルの上には、聴取に残った三人が使ったコーヒーの簡易カップが、片付けられないままに並んでいた。  コーヒーメーカーに目を遣る。サーバーの底にわずかに残ったあの分量では、一杯分にも満たないだろう。峰岡がいれば、こういうことはないのだが。  腰を上げた久我は、使用済みのカップを三つ重ねて屑物入れに落とし込み、コーヒーメーカーから下ろした空同然のサーバーを片手に、執務室を後にした。  残る車の影もほとんどなくなった夜の駐車場に、二人が乗ったカートが静かに停まった。  降りるなり木津はげっぷを一つ。  「やだ、仁さん」  真寿美の声に木津は身構えたが、予想していた攻撃はなかった。  「おいしかったですか?」車へと歩を進めながら真寿美が訊ねる。  「今日の昼飯にゃ負けるけど」  「そういうことにしておきましょう」  「あ、かわいくねーの」と言いながら、木津は真寿美が昼間見せた攻撃性が影を潜めてしまっているのに気付いた。  だが木津は、そしてまた真寿美も何も言わず、車の場所へと歩き続けた。  やがて視界に入った見慣れた車体は、がらんとした中に取り残され、遠い照明にぼんやりと黄色い影を浮かび上がらせていた。  助手席のドアの前で真寿美が立ち止まり、木津へと向き直ると言った。  「今日は楽しかったですか?」  「ああ、おかげさんで」答える木津は、事実満更でもなかったという顔をしている。  「よかった。あたしも楽しかったです」そして少し面を伏せ気味に続けた。 「仁さん、今日のお礼を言いたいんですけど」心なしか早口だった。「でも、その前にもう一つだけお願いしてもいいですか?」  「ああ」と答える木津の怪訝そうな表情は、陰になってはっきりとは見えない。  真寿美はうつむいたまま言葉を続けない。  「どうした?」  「すごくわがままなお願いなんですけど」  「だから何さ?」  「……あの、ですね」ようやく顔が上がる。「仁さんが、七重さんのこと忘れられないのは分かってます。だからずっととは言いません。ただ一分、ううん、十五秒だけでいいですから……」言葉の最後は絞り出すようだった。「恋人の役を、やらせてください」  木津が返事を出来ずにいると、真寿美がまたうつむいて、ぽつりと言った。  「……ごめんなさい、変なこと言って」  そして木津に背を向けると、運転席の方へと早足に歩き出す。  が、その肩を木津がつかんで止めた。  真寿美の体が舞うように翻った。 その両腕が木津の首に回され、肌と肌が触れ合う。  真寿美は木津の目を正面から見据える。  「いいん……ですか?」  木津は自分がかすかに頷いたような気がした。そして次の瞬間、自分の唇が真寿美の唇に塞がれるのを感じていた。それは木津にとっては、二度と記憶の中から呼び覚まされることはあるまいと信じていた感触であり、また記憶の中にあるのと変わることのない感触だった。  やがて唇は離れていったが、巻き付けた腕はそのままに、真寿美は木津の胸に頭を凭れかけさせていた。  そこに小さく聞こえた電子音に、真寿美ははっとしたように木津から体を離した。  「十五秒計ってたわけじゃないよな?」  「いいえ、電話です」答える真寿美は顔を曇らせている。  「電話?」  真寿美は車のドアを開けると、計器盤に組み込まれた電話の表示を見た。  「研究所から……?」  「何かあったな」と、ドアから木津も半身をねじ入れてくる。  受信のボタンを押し、真寿美が名乗ると、向こうからは聞き慣れた声が、聞き慣れない口調で呼びかけてきた。  「おお真寿美ちゃん、やっとつかまった!」  「阿久津主管?」  「阿久っつぁんだって?」  「仁ちゃんも一緒か、そいつぁ助かった」  「何か、あったんですか?」  興奮気味に阿久津は答えた。  「え、え、え、え?」  狼狽する真寿美。  そして木津は阿久津の言葉を理解することが出来ずに聞き返した。  「何だって? 阿久っつぁん、もう一言ってくれ。何があったって?」  「いいか、落ち着いて聞けや。久我ディレクターの執務室で爆発があった。ディレクターは重傷で、今医務室で手当を受けとる。他のMISSESの面子には連絡済みで、みんなこっちに向かうと言っとる。おまえさんたちも出来れば急いで来てくれ。いいかな?」  答えを待たずに電話は切られた。  真寿美の青ざめた顔が木津を見上げる。その唇は小さく震えていた。 Chase 27 − 語られた過去  車の窓越しに見上げる社屋には、暗いせいもあって、爆破による損傷の痕をはっきりと認めることは出来なかった。  がらんとした駐車場に、木津は車を飛び込ませる。  転げ出るように車を降りた真寿美は、社屋を再び見上げる。割れた窓からわずかに煙が立ち上り、ただでさえ煤けた感じの壁をさらに汚している。  木津もそれに目を遣ると、言った。  「大したことはなさそうだな」  真寿美は黙ったままでいる。  「とにかく行くぞ、ほら」  木津は真寿美の背中を突き押して、非常ドアへと急がせた。  二輪車置き場を通り過ぎるとき、見慣れたメタリック・グレーの大型の二輪車と、その横にそれよりは形の小さいキャンディ・レッドの二輪車が並んでいるのが見えた。  「進ちゃんと姫はもう来てるみたいだな」  真寿美は震える指でドアの暗証番号を押すが、入力エラーで二度拒否された。  木津が真寿美の両肩に手を置く。  「落ち着け」  左手を添えながら一つ一つのキーを押し直す。最後の確認キーに、小さな電子音と硬質な機械音が返り、今度こそ施錠が解除されたことを二人に報せた。  ドアを押し開け、木津は通路に身を躍らせる。だがドアの閉じる音の後に自分の足音しか聞こえないのに気付き、振り返る。真寿美はドアの所に立ち尽くしたままだった。  「どうした?」  ほとんど聞き取れないほどの真寿美の声。  「……怖い」  「何が?」  答えはない。  木津は引き返し、真寿美の正面に立った。  「何が怖いんだ? まだどこか爆発するんじゃないかとか思ってるのか?」  「……そうじゃないです」  「じゃあ何だ?」  「……ディレクターが……」  と、真寿美は木津の拳に軽く頭を叩かれて首をすくめた。  「重傷だとは言ってたけど、それ以上は何も言ってなかったろ?」と言いながら、木津は真寿美の背中を押した。  「とにかく行くぞ。考えるのはその後でいい。ほら」  なおも鈍りがちの足取りの真寿美を引きずるように、木津は廊下を走った。  医務室の前には五人の影が沈黙のうちに寄り集まっていた。その一つが、近付く足音に気付き、沈黙を破った。  「木津さん、真寿美ちゃん」  「状況は?」と木津は紗妃に訊ねる。  「まだ何とも……」  今にもへたりこみそうな真寿美を紗妃の横に座らせて、木津は今度は阿久津に問う。  「どういうことなんだ?」  「当局の連中が帰って間もなくだ。爆発は執務室の中であったらしい。たまたまディレクター殿は部屋を出ていて直撃は免れたんだが、飛んできた壁やら何やらを背中にしこたま喰らってな」  木津は思わず自分の後頭部に手をやった。  「今、うちの連中と小松君に現場の調査をさせとる」  「うちのって、阿久っつぁんとこの?」  阿久津の目が険しい光を帯びた。  「……このタイミングの良さで、当局の連中にやらせられるか?」  木津は黙ったまま腕を組むと、医務室のドアを見つめた。  木津と同じように腕を組んで、安芸は壁に寄り掛かっている。その横で落ち着かない様子で両の拳を打ち付けている由良。その向かい、妹の横で腰を下ろした饗庭は目を閉じたままでいる。が、眠っているのでないことは時折唾を飲み込んで動く喉元からも分かった。  長く長く続く、廊下の灯火のほんの微かなちらつきさえも聞き取れそうな程の静寂。それを早足の靴音と、聞きつけて振り向く衣擦れの音とが破った。  近付いてきた小松が木津と真寿美に小さく頷くように会釈すると、阿久津に言った。  「A棟は全部チェック完了です。爆発物はなし。他の棟には部外者の立ち入りはなしです。監視カメラの記録から間違いないです」  「そうか……」  「A棟内でも、他のフロアへの影響はとりあえず無いようです。もっとも正確には検査が必要ですが」  「巻き添えを喰ったのはディレクターだけなのか?」と問う木津は、この場ではさすがにおばさん呼ばわりはしなかった。  小松が首を横に振った。「巻き添えじゃあない。こいつぁ明らかにディレクター殿を狙ったもんだ」  全員の視線が一斉に阿久津に集められる。その一つ一つを見返すと、言った。  「爆発の中心は執務室だ。その一つだけとっても証拠としちゃあ十分だ」  「『ホット』が直接久我ディレクターを狙った、ということになりますね」と安芸。  「え?」紗妃が面を上げる。「MISSESの指揮を執っていたのが久我さんだって、『ホット』は知っていたんですか?」  何故か言い淀む阿久津の代わりに木津が言った。  「そりゃそうだろ。ディレクターは当局に何度も顔を出してるんだし、あっちに面が割れてたところで不思議はないさ。ところで、事が起こってからどれぐらい経つ?」  阿久津が腕時計を見て答える。  「三時間……半ってとこか」  「長いな……」  そう言いながら木津はまた医務室のドアに視線を移す。と、かちりと小さな音を立ててそのドアが開いた。  他の視線も一斉に動き、姿を現した医師に注がれた。医師は天井を仰いで一つ息を吐いてから、徐に口を開いた。  「ひとまず生命に別状はないでしょう」  そこここから安堵の声が漏れた。  「ただ」医師が再び口を開く。「怪我自体はかなり厄介なものでした。ドアのガラスが粉々に吹き飛んだのを背中から後頭部にかけて浴びていまして、その摘出と止血に時間と手間が掛かりました」  木津はまた自分の後頭部に手を当てた。  「で、意識は?」と阿久津が訊ねる。  「じきに戻ると思いますが、鎮痛剤の投与もありますので、すぐに現場復帰という訳にはいかないでしょう。しばらくはこちらで経過観察ということになります」  「左様ですか……」と阿久津は応えると、翳りの差した顔に向けて言った。  「対応の体制を作らにゃあいかんな。とりあえずは場所を移すか」  阿久津の事務室に続く作業部屋。無骨な作業台は、八人が取り囲むと手狭であった。  椅子を携えて最後に部屋に入ってきた阿久津が、その様子を見てすまなそうに言った。  「窮屈で申し訳ないが、そういう部屋じゃないもんでな。我慢してくれや。それで、まずは誰がディレクター殿の代役を務めるかを決めておかんとな」  「その役目は阿久津主管がされるんじゃないんですか?」  紗妃の問いに、阿久津は首を横に振った。  「技術屋の儂が音頭を取るってのは、畑も筋も違うだろう。ここはアックス・リーダーに任せるべきなのかも知れんが、由良君は帰任命令が出とるそうだしな」  「それに戦略的指揮と戦術的指揮とでは違いがありますからね」と安芸が言った。「戦略的指揮者が現場に出てしまうと、判断が難しくなるでしょうから」  「難しいことはよく分からんが」阿久津が遮ったところに、木津の言葉が続く。  「難しいことなんかないだろ。要は奴を捜し出して叩いちまえば終わりなんだから。進ちゃんの言う現場の指揮者だけでいい」  「いずれにせよ誰かしら必要なことにゃあ違いあるまい。そう言えば、確か任務を継続するかどうか、お主たち自身で決めろと言われてるそうじゃないか。誰が残るか残らんかが知れんことにゃ、それも決めようがない」  阿久津は居並ぶ顔をぐるりと見渡す。  「一週間かけて決めろと言われとっただろうが、そう悠長なことも言っておれなくなったな。とりあえず今の時点で腹を括っとるのは誰と誰だな?」  迷うことなく五つの手が上がった。  その中には阿久津の、そして多分他のメンバーも予想しないものがあった。  「由良君……?」  末席に集まる視線。そこには決然と挙手を続ける由良がいた。  「でも由良さん、当局に……」  「当局には戻りません」と手を下ろしながら言い切る由良。「戻りません」  「どうして……ですか?」  訊ねた真寿美は、答える前に由良が歯を食いしばるのを見た。  「今までも組織の硬直や『ホット』との癒着を見せられてきましたが、今回のことは決定的です。当局にはもう……戻れません。いえ、もう戻りません」  「それで」と、聞いているのが辛くなったか阿久津が頭を振った。「小松君と饗庭君はどうするね?」  小松が迷いの表情を浮かべながら饗庭の方を見る。饗庭は目を閉じ腕を組んでいたが、その腕が解かれ、ゆっくりと挙げられた。  紗妃が思わず驚きの声を上げた。そして阿久津も木津も、さらには由良も、声こそ上げなかったが驚きを禁じ得なかった。  饗庭は黙ったまましばらく挙手を続けたが、やがて挙げた時と同じく静かにその手を下ろした。  「小松君は」阿久津が平静を装って言う。「負傷続きで体がきつかろう。無理はせん方がいいかも知れんな」  「いや」思わず小松は口走った。「そんなことはないですし、そうだとしてもこれで万事収まるなら問題ないですし、それに一人で静観しているのも悪いですし」  「何のことぁねえな」と木津。「結局全員参加か。おばさんも草葉の陰でさぞ喜んでるだろうぜ」  「今だから聞き流せる冗談ですね」真寿美が何か言いそうなのを見越して、安芸が苦笑しながら言った。  「それじゃあ、後はめでたくアックス・リーダーに任せて、こっちは裏方に引っ込ませてもらうとするか」と阿久津が腰を上げた。「VCDVも早いとこ組み上げちまわんとならんからな」  が、ドアを開けようとした阿久津の手が空振りする。外からドアが開けられ、一人の所員が顔を出したのだった。  「木津さん、いらっしゃいますか?」  「ああ」  木津が答えながら顔を向ける。  「今医務室から連絡がありまして、久我ディレクターがお呼びなのですぐに来て欲しいとのことでした」  「え?」  そこにいる全員が反応を示した。  「意識が、戻ったんですか?」立ち上がり、身を震わせながら真寿美が訊ねる。  「でも何で俺を?」  戸口に立っていた阿久津が木津の所まで戻ってくると、意味ありげな口調で促す。  「直々に言いたいことがあるんだろうて。ほれ、急いで行って来んか」  医務室の扉の前に立つと、ここに来るまでに山ほど湧いて出ていたはずの疑問符が悉く霧散してしまった。  インタホンのスイッチを押して名乗る木津に、中から抑えた声で入るようにとの返事。  ドアを静かに押し開けると、例の剽軽な看護婦が神妙な面もちで出迎えた。  「どうだい?」  「お待ちかねです。目を覚まされて、状況の説明を聞かれるとすぐに木津さんをご指名でしたから」  「そうか……」  「私は外しますから、何かあったらすぐにインタホンで呼んでください」  そして看護婦の指し示したカーテンの方に歩み寄ると、声を掛けた。  「入るぞ」  答えなのか呻きなのか分からないが、声が聞こえた。  カーテンを引いて、木津はベッドの脇に立つ。ベッドの上には、シーツを丸めて置いたような白一色の盛り上がり。だがよく見れば、その一端に包帯を巻かれ顔を木津と反対の側に向けられた頭部の存在が識別できた。傷の治療のために後頭部の髪は落とされてしまったのだろう。  「気分はどうだい……って、いいわきゃないよな、そりゃ」  答えはなかったが、横たえられた頭部がわずかに動いた。  「しかし『ホット』も随分と派手な真似をしやがるぜ。あんたも災難だったな」  「……いいえ」  しわがれきった声ではあったが、その応えははっきりしたものだった。  「いいえ、あの子に比べればこんな……」  「あの子?」  問い返す木津に答えは返らない。だが一時たりとも忘れはしなかった名が木津の口をついて出た。  「まさか、七重のこと……か?」  久我が微かに頷いたように見えた。  「やっぱり知ってたのか」と言いさして、木津は気付いた。「でも何であんたが七重を『あの子』だなんて呼ぶんだ? まさか知り合いだったのか?」  向こうを向いたままで久我は答える。  「七重は……相馬七重は、私の従妹でした」  「従妹?」  そう言えばそんなことがあったかも知れない。自分自身はメカニックにてんで疎い七重が、その方面に強い従姉がいると言っていたようなことが。  「従妹……か」木津は繰り返す。「そうか……知り合いどころか血縁関係だったとはね。てことは、順調に行ってりゃ、あんたとは親戚になってたんだ。結構笑えるかもな」  だが笑いはせずに、脇からスツールを引き寄せると、木津は腰を下ろした。  「それじゃあ、あんたにとっても『ホット』は従妹の仇だったってわけか。で、そのためだけにVCDVだのMISSESだのって大掛かりなことをしたんじゃあるまいな?」  「それだけではありません」  「まあそりゃあそうだろう」  「いいえ」  久我の否定に、木津は思わず見えない久我の顔を見ようとした。久我は顔を向こうに向けたまま続ける。  「いいえ、あなたの思っていらっしゃるのとは違います。あの子の、七重のためだけではありません」  そう言って久我は寝返りを打とうとしたが、体は思うように動かない。木津が止めた。  「無理するな、俺がそっちに行くから」  スツールを片手に立ち上がった木津を、今度は久我が止めた。  「いえ、そのままで……」  「どっちなんだ」木津は苦笑する。  「そのままでお願いします」と久我。その声は少し震えを帯びている。「きっと、私は醜い表情を見せてしまいますから」  久我らしからぬ台詞にとまどいながらも、木津は再び腰を下ろし、黙って次の言葉を待った。  続いたのは、沈黙。  木津は横たわる久我の後ろ姿を、頭に巻かれた包帯を見つめ、それが動きを見せるのをひたすらに待った。が、動きはない。  「無理するな」木津は言いながら立ち上がった。「手術の後だ。また今度聞かせてくれ、体調がそこそこ戻ったらな」  「待って」  敬語を交えない久我の口調が、踵を返しかけた木津をもう一度振り返らせた。  「七重のためでは……ありません」  立ったまま木津は久我の背中を見下ろす。布団の中にあってさえ、それが強ばっているのが感じられた。  「私自身のためです」  「あんた自身の?」木津は腰掛けるのも忘れて言った。  唾を飲み込む久我。呻きが漏れる。  「痛むか?」  久我はそれには答えなかった。  「お気付きかも知れませんが、私個人として『ホット』とは面識があります。いえ、面識以上のものがありました」  「まさか奴も親戚だなんて言うんじゃあるまいな?」  「あの人は、かつて私の同僚であり、競争相手であり、そして……夫でした」  「夫?」  木津は思わず素頓狂な声を上げていた。しかし久我の声は不思議な程冷静だった。  「でも、今のあの人は壊れています。そうさせてしまったのは私かも知れません」  木津はやっと腰掛けると、身を乗り出してその意味を訊ねた。  「私とあの人は、同じ所で共に特殊車両の研究開発に携わっていました。お互いに方向の違うものを目指して競争心を持ちながら、相手の能力を認め合っていました。ただもう一つ違ったのは、あの人が私に認めていたのが、技術者としての能力だけだったということです。人間性でも、女であることでもなく」  言葉が切れたが、木津は何も言わない。その顔は少し久我の背中から背けられていた。  「私たちが結婚して間もなく、研究の審査があり、今のVCDVにつながる私の試案が公式に採用されることになりました。その時の対案だったのがあの人の案件でした。詳しい内容は知ることが出来ませんでしたが、あの人の口振りから私の技術を踏み台にしたことは伺えました」  「それで臍を曲げたのか」  「でもそれは尋常ではありませんでした。踏み台にしたつもりの相手に敗れ、しかもその相手と既に意味もないのに一緒に暮らしているということも精神的な負担になったのでしょう。それ以来あの人は自分を受け入れないもの全てに極端な反応をするようになりました。その一方で続けた研究は道を外れ、一般には受け入れ難いものになっていきました。それが受け入れられないことでまた……」  「悪循環ってやつだな」吐き捨てるように木津は言った。「その腹いせに馬鹿どもを集めて騒いでたのか。元女房のあんたにゃ悪いが、ガキだな」  「そうですね……」久我がつぶやく。「どうしようもない子供だったんです。人の想いを酌むことが出来ないほどの、それどころか人の全てを否定してしまうような子供」  「でも、それだけか?」と木津が訊いた。「あんたが元亭主を追いかける動機にしちゃあ、ちょっと弱い気がするんだが」  久我は明らかに答えあぐねていた。が、顔を隠すかのように身を強ばらせると、今までよりも明瞭さを欠いた口調で語り始めた。  「あの人が私の全てを否定するために選んだのが、七重でした」  「え?」  久我はまた言葉を切る。だが木津もその先の想像がついたのか、先を促しはしなかった。  「あの人は、一度私たちの所に顔を出したあの子を見て、おぞましい感情を抱くと同時に私への意趣返しを目論みました。私の前で露骨にあの子の気を惹こうとしたんです。私が止めてももちろんそれは聞き入れようとはしませんでした。それどころか、やり口はエスカレートする一方でした。そうやって、あの人は私の感情を踏みつけにしました」  また言葉を切った久我は、自嘲を感じさせる口振りで言った。  「きっとあなたはそんなものがあるとは信じられないでしょうが、女としての私の感情を、そんなやり方で踏みつけたんです」  木津は両膝に肘を突いて頭を垂れた。  「つまりは饗庭の兄ちゃんの読み通り、あんたも私怨で動いてた、と。しかもとことん感情的なもんで」  「否定は……しません」  「で、七重は?」  「あの子も最初は冗談だと思っていたようですが、あまりに露骨になるので、ある日はっきりあの人に言って断りました。自分には既に先を約した相手がいる、と」  木津のスツールが軋んだ。  「……その後の顛末はあなたご自身が体験された通りですが、きっと裏側の真実はご存じないでしょう。あれは、あなた個人を狙ったものでした。あの人は七重の言葉に出てきた相手が誰であるかを調べ上げ、そして排除しようとしたんです」  無意識に片手を後頭部にあてがい、木津はあの日のことを思い出した。  マシンのことなど分からないくせにピットまで降りてきて、横でにこにこしながら俺の作業を見ていた七重。コースへマシンを出す時も俺の後ろに続いて。  そこに無人の小型トラックがマシンめがけて突っ込み、マシンに乗り上げて止まる。  何を思ったのか、先に逃がしたはずの七重が俺の背中に回った。  「仁! 逃げて!」  その声が爆発音にかき消される。  首筋に破片を浴びた痛みよりも、吹き飛ばされのし掛かってきた七重の体の軽さの方が遙かに痛かった。  かき抱いた七重はただ目を閉じているようにしか見えなくて、でも背中に回した手にはぬるぬるとした血の感触があって、呼び掛けには応えることがなくて。  「何で……? 何で七重がこんな? 何で俺が……?」  呆然と繰り返す俺に応えるかのように、ホット・モーター・ユニットの爆音が。はっとして振り向くと、この一件を見届けて悠然と去っていく、そんな車の影が遠ざかる。  俺は直感した。あの「ホット」が……  「その後間もなく」という久我の声に、木津は我に返った。「あの人は研究所と私の許を去りました。あの事件の捜査の手があの人に伸びたわけではなかったのですが」  「あんたが告発するってのは考えなかったのか? やったのが旦那だってことは分かってたんだろ?」  久我はそれに答える代わりに言った。  「あの事件は、私が行動を起こすきっかけになりました。あの人を止める行動の」  だがそこで久我は口ごもる。  「あの人が狙っていたのはあなたです。でも死んだのは七重だった。あの人自身の行動の結果がそれだったのに、あの人は七重の死の原因があなたの存在にあると思っています。私に対してこのような手段を用いて来たということは、あの人は、次はあなたの命を奪う気でいるはずです。しかも、恐らくは私の技術理論を使って」  「あんたの理論って、つまり奴もVCDVを持ってくるってことか?」  久我は頷いた。  「上等じゃないか」簡単に木津は言った。「受けて立つまでさ。どうやら話がとんとん拍子に進みそうで、うれしいじゃないか」  「……お怒りに、ならないのですか?」  いきなりの久我の問いを、木津は理解できなかった。  「何を?」  「もうお分かりでしょう、私があなたをここにお呼びした理由が」  「ああ、あんた自身の仇討ちのためだろ? それがどうした?」  「私は、あなたを利用していたんです。私怨のために、自分が直接手を下せない復讐のために、あなたの感情を利用していました」  「だったらそういうことにしておけばいい」と言う木津は穏やかな顔をしている。「あんたがどう考えていようが俺には関係ない。俺は俺で奴に七重と、そして俺自身の復讐をする。それだけのことさ。それがたまたま結果としてあんたの復讐になるなら、あんたにしてみりゃ棚から何とかってやつだろ?」  そして木津は久我の背中に笑い掛けた。  「それだけのことさ」  が、久我の背中が急に震え出した。木津は掛けようとした声を呑んだ。震えは次第に、そして明らかに嗚咽になっていった。その中からか細い声。  「……ごめん……なさい」  木津は立ち上がって笑った。  「思い上がるなよ」  そしてベッドを回ると、久我の正面に立った。久我は布団に顔を埋めたが、震える肩は見えない表情を代弁して余りあった。  だが木津は笑顔を崩さずに言った。  「あんたの感情と理論と機体は利用させてもらうさ。だがな、けりを付けるのは俺だ。あくまで俺が、俺自身の考えと俺自身の手でな」  震えながらも久我は布団の中で頷いた。  「しかし」と、木津が言った。「俺と同じ所に同じような傷を同じ相手から喰らうってのも因果なもんだな」  木津は布団の、久我の頭の埋まっている辺りに手を伸ばす。が、何にも触れずにその手を引っ込めた。  「まあいい」  そして踵を返すと、振り返って言った。  「あんたはせいぜい養生してろよ、久我さん」  戻ってきた木津に、真寿美が真っ先に問いを発した。  「ディレクター、どうでした?」  見回せば無言ながら同じことを問うている視線がいくつも木津に注がれている。  「大丈夫だ。長話できる程度だから」  「何の話だったんですか?」  それには答えず、木津は阿久津に言う。  「リーダーの件だけどさ、俺がやったんじゃまずいか?」  由良が木津を見た。ちらりとそれを見返すと、木津は続ける。  「リーダーでも囮でもいいから、とにかく俺が陣頭指揮を執ってれば、奴は黙っちゃいないだろうさ。こっちが黙ってても、奴は必ず来る。請け合うぜ」  不安そうな面もちの真寿美。その横から紗妃が訊ねる。「どうしてですか?」  木津はにやりと笑う。  「涼子ちゃんの霊感。あれって良く当たるだろ?」  「涼子ちゃん?」思わず安芸が声を上げた。  「あれ? 違ったっけ、ディレクターのフルネーム」  「いえ、合ってますけど……」  「で、どうだ?」と木津は全員を見回した。  「儂は反対だな」阿久津が言った。  「どうして?」  「お主は『ホット』だけを相手にしとりゃよかろうがな、こっちにもあっちにも他のメンバーがおる。そっちはどうする?」  「んじゃリーダーは遠慮しとく。その代わり囮の役と奴の相手は譲らないぜ」  「仁さん」  一旦帰宅する車の中で、真寿美が助手席の木津に呼びかけた。  「ん?」  「囮って、どういう意味ですか?」  「相手を誘いよせ、おとしいれるために利用するものや人。以上国語辞典の定義より」  「そうじゃなくってですね」  乾いた笑いと共に真寿美は切り返すが、その後どちらからも言葉はなかった。  真夜中を過ぎてもまだ「内橋」からは都市区域の華やかな灯火が見て取れる。  「仁さん……」と再び真寿美。  「何じゃいな?」  「危ないことしちゃ駄目ですからね」  木津は答えない。  「駄目ですからね」繰り返す真寿美。  木津はにやりと笑い、真寿美の頭を掌で軽くぽんぽんと叩いた。  「結婚、するつもりだったんだ、七重とは」  「今でもですか?」  特に動揺した様子もなく問い返す真寿美だったが、言ってみてから慌てていた。  「あ、ごめんなさい、変な意味じゃないんです。ぼけっとしてました、ごめんなさい」  木津もぼんやりと答えた。  「どうなんだろうな……」 Chase 28 − 追い詰められた仇敵  疲労で真っ赤になった目を何度も瞬かせながら、阿久津は立ち止まり立ち止まり、並んだ七両のVCDVを順に見て回った。  組み上げられたばかりの車体はロールアウト直後と見紛う程だった。もちろん手が入れたれたのは外装だけには留まらない。内部機構についても同じ、いや、より以上の作業を、ここ数日の阿久津は続けてきた。どんなわずかな機構の狂いや部品の緩みをも見逃すことなく。その最後のチェックが、他に誰一人立ち会わせることなく、今行われている。  阿久津の目は厳しい中にどこか優しくかつもの悲しいものを湛えていた。  青龍を離れ、阿久津は白虎と朱雀の間に進んだ。そして白と緋の車体を代わる代わる見ている。どちらを最後にするかを決めかねているかのように。  「仁ちゃん、いるんだろ?」  ドアの外から声が聞こえる。だが木津は出ようとしない。  「仁ちゃんてばさぁ。帰ってんだろ?」  確かに一週間近く前から帰ってはいるが、とても呑みに出るような気分ではなかった。  がらんとした部屋の中、組み合わせた手を枕にベッドに寝転がって、ここ数日来の懸案を今日も木津は考えていた。どうすれば『ホット』を自分の前に引きずり出せるかを。  だが相変わらず答えは出てこなかった。頭の下の指を動かし、古傷に触れてみても、状況は変化しなかった。  外からはまだ自分を呼ぶ声が聞こえる。  溜息を吐きながら、木津は壁際に寝返りを打った。  もしかして俺って頭悪いのかな……  そう思ったら、何故か頭の中に真寿美の顔が現れ、今の言葉を否定した。  そんなことないですよぉ。  指で唇を弾きながら木津は苦笑する。キャストが違ってないか、と。  だがそのキャスティングは無意識にではなかったらしい。ドアの外の声が自分を呼ぶものから誰かと話をするものに変わっていた。その相手の声は、聞き覚えのある高く弾けたものだった。  木津は上体を起こした。  窓の向こうから聞こえてくる声。  「……仁さん、じゃない、木津さんいらっしゃらないんですか?」  「車は置いてあるから、いると思ったんですけどねぇ。で、あなたはどちらの関係の?」  「あ、あたしは木津さんの、えっと、職場の関係者です」  木津はつい吹き出した。その表現、間違っちゃいないが何か変じゃないか?  「ああ、そうなんですか。で、仕事の方のご用で?」  「いえ、そうじゃないんですけど……」  おいおいカンちゃん、そこで妙な突っ込み入れないでおいてくれよ。と思いかけて、木津はふと考えた。俺はカンちゃんに仕事をしてるなんて話をしたことがあったか? なかったような気がするんだがな……  「ああ」と納得したような声が聞こえた。「だったらお嬢さんに呼び出してみてもらおうかな。仁ちゃんのことだから、のこのこ出て来ないとも限らないし」  そしてひっひっという笑い声。真寿美が閉口しているのが見えるようだ。  だから変なことを吹き込むなって……  「木津さんって、そういう人だったんですか?」  真寿美、お前も真に受けるなよ。  「そんなはずないんですけどね。でも、一応呼んでみます」  それに先だって木津はベッドから降りる。真寿美がいきなり訪ねてきたのも意外と言えば意外だったが、それに加えて、ふと抱いた疑念が何故か頭を離れなかった。  チャイムが鳴る。  同時に木津はドアを開ける。  「はい」  「わっ!」  声を上げて五歩ばかり飛び退く真寿美に  「ほら、やっぱり出てきた」  そして今度は木津に向かって  「仁ちゃんもデートだったらデートだって言ってくれよ、居留守なんか使ってないでさ」  「別にそういう予定が入ってたわけでも居留守を使ってたつもりでもないんだがな」  「照れるな照れるな」と殊更ににやにやしながら「だったら呑みに行くのは明日でも構わないからさ」  「明日……?」  再びドアの近くまで来ていた真寿美が言う。  二人の視線が同時に真寿美に集められる。それに戸惑いながらも真寿美は続けた。  「えっと、明日なんですけど、集合だそうです」  木津がそれを聞いてにやりとした。  「何だい、仕事かい?」と問われて、木津は笑いながら答えた。  「厳密に言うと少し違う」  向けられる不審そうな顔を放ったまま、木津は真寿美に訊ねた。  「で、今日は?」  「え、と……それだけです」  木津は呆気にとられて真寿美の顔を見つめる。真寿美は目を少し伏せ気味にして、同じ言葉を繰り返した。  「それだけに、わざわざ?」  無言で小さく頷く真寿美。  「よし、それじゃ呑みに行こう。そちらのお嬢さんもよかったら一緒に」  「悪い、カンちゃん」と木津が声を上げる。「今日は駄目だ。もとい、今日も駄目だ」  「駄目? だって今ので用は済んだんだろ? だったらいいじゃないかさ」  「そういう訳にも行かないんだ、明日集合って話になるとな」  「何だかきな臭い感じだなぁ」  「ガス臭い、の間違いだろ?」木津は思い付いたまま言った。「ホット・ユニットの排ガスの臭い」  それを聞いて真寿美が、諦めたような呆れたような複雑な表情で木津を見つめる。そしてその横に、片方の頬に一本の深い縦皺を拵えた顔。  木津はその顔が自分の中にあった疑念の頭を擡げさせるのを感じたが、それがはっきりとした形を成すのを待たないままに言った。  「てわけでさ、悪いね。また今度ってことにしといてくれ」  不承不承という口調で返事がある。  「分かった、仕方ないか。それじゃまた今度ってことにしておくわ」  「それじゃあたしもこれで」  そう言い残して自分も踵を返そうとする真寿美を、木津は呼び止めた。  二つの顔が振り返る。少し困ったような真寿美の顔と、その向こうにまたにやりとした笑い顔と。  笑い顔の方が再び振り向き消えていくと、木津は真寿美に訊ねた。  「この後何かあるのか?」  「えっと……」と困った顔のまま少し笑う真寿美。「何かあるってわけじゃないですけど……」  「そう言えば部屋に入ったことってなかったよな。覗いていくか? 何もないけど」  困ったような笑みはそのままに、真寿美は黙っている。  「もしかして、襲われるんじゃないかとか考えてるか?」  と、真寿美の笑みに混じっていた微かな困惑はいたずらっぽい表情に取って代わった。  「襲いたいんですか?」  「……」  「何ですか、今の間は?」  詰め寄る真寿美の背中を木津は押した。  「ま、まあとにかく上がれよ。飲むものぐらいなら出せるから」  「今朝、お見舞いに行ってきたんです」  ボトルのままのミネラルウォーターを傾けながら、真寿美は訥々と話し始める。  「どんな具合だった?」  「まだ傷が完全には塞がってないそうなんですけど、痛みとかは大分なくなってきた感じでした」  「そうか」と煙を吐きながら木津が頷く。  「でもまだ仕事の話とかは出来ませんね」  「仕事の話が駄目だったら、一体何を話したんだ? あの久我さん相手に」  真寿美は答えようとして不意に止めた。  「仁さん、ディレクターのことをおばさんって言うの止めたんですね」  「ん? あれ、俺今何て言った?」  「ちゃんと名字で呼んでました」  「そっか、まあいいや。で?」  「ディレクターはやっぱりMISSESのことを気にしてましたけど、みんな残るから大丈夫ですって言っておきました」  「正解だな。でもそれって仕事の話じゃ」  「『ホット』のことは、仁さんにとってはお仕事じゃないですよね?」  木津は肩をすくめる。ああ、そういう意味だったのか。  「で、明日召集ってのは?」  「阿久津主管から連絡があったんです。車体の点検が全部終わったし、それに今日でちょうど一週間ですから」  そう、MISSESの全メンバーに与えられた一週間の休暇の、今日が最終日だった。  「何だかよく分からない一週間だったな」そう言うと木津は煙草をもみ消した。「長かったような短かったような」  「そう言えばお部屋の片付けもしたんですね」と、改めて部屋を見回す真寿美。「前に全然片付いてないみたいなお話だったから、どんなすごい状態なのかと思ってました」  木津の苦笑いに気付かず、真寿美は続ける。  「でも何にもないぐらいに片付いちゃってますね。まるでこのままここを引き払っちゃうみたい」  と、真寿美の顔に影が射した。  「仁さん、また変なこと考えてないですよね……?」  木津は笑いながら混ぜ返した  「いや、押し倒そうなんてこれっぽっちも考え……よせ、ボトルで殴るんじゃない!」  翌日、先週と同じ阿久津の部署の作業場に久我を除く全員が顔を揃えていた。  最初に阿久津がVCDV全モデルの総点検が完了したことが告げられた。  「もう後がないぐらいのつもりで手を掛けたでな。思う存分使ってやってくれ。ただ」と、木津の方を向くと、「無意味に壊すなよ」  「失礼な」にやにやと木津が応える。  「無意味と言えば」と、結局リーダーに任じられた由良が口を切った。「MISSESに直接関係しないLOVEの職員を無意味に今回の件に巻き込むのは許されないでしょうね」  「そうですね」安芸が相づちを打つ。「確かにこれまでも二度は巻き添えにする危険があったわけですから。ここを離れた方がいいかも知れませんね」  「そうしたら修理とか補給はどうするんですか?」訊ねる紗妃に木津が言う。  「阿久っつぁんが今言ったろ? もう後はないんだって。そんなのが必要になる前にかたを付けるしかないってことさ」  「いや、それは言葉のあやでな」  阿久津ににやりと笑い返すと、木津は全員を見回して、「季節もいいし、この際だからキャンプでもするか?」  苦笑の中、由良だけが生真面目な表情を変えずに、独り言のように言う。  「それで早い内に向こうが発見できればいいんですが……」  「或いはこっちが発見されればな」と木津。  「向こうから仕掛けてくる、と?」  「爆弾まで仕掛けといて静観してるとは思えないんだよな、奴の性格からして」  「仁さん、知ってたんですか? 『ホット』の性格なんて」  そう質す真寿美の顔に、言葉以上の疑義が読み取れたような気が木津はした。  「んにゃ、でも大体想像は付くからさ」  「キャンプするならこの近所でよかろう」  阿久津が言った。  「そのこころは?」  「どうせこの界隈、うちから奥は空き地ばっかりだし、近きゃ補給も修理も楽だし」  「何だ、出来るのか」  「だからそう言うたろうに。それに、向こうさんも手っ取り早く済ませるにゃあ、ここに攻め込んで来るだろう。それをお主らが手前で食い止めてくれりゃあいいって話でな」  「巻き添えを出さないための責任は重大というわけですね」と安芸が言う。  「向こうも週末に来てくれりゃ、その心配もないのにな」  「それは名案ですね。もっとも向こうが休日出勤手当を出すのかどうかは知りませんが」  「あと、うちが休日も休まず営業中だって宣伝してやんないとな」  このやりとりを聞いて、真寿美と紗妃は顔を見合わせて呆れたように溜息を吐いた。  前日までの作業の跡を匂わせすらしないほど小綺麗に片付けられた地下駐車場。  それぞれの手に、乗機のメイン・キー・カードが渡った。それは阿久津によって、整備調整後の情報が書き込まれたものだった。  「一応各自書き込みが出来てるか確認しておいてくれや。まあ問題ないはずだがな」  「それじゃあ、テスト代わりに今日は乗って帰ってもいいですか?」と紗妃。  阿久津が応える前に、木津が言った。  「なるほど、それも手だな」  「休日営業の宣伝ですか?」  木津は軽く頷く。  「そう言えば、涼子ちゃんが前に同じことをやらせたっけな。俺を朱雀に乗せて、奴の目に付くように走らせてってな」  「仁さん」  呼ばれて木津は顔を上げる。視線の先で安芸が静かに微笑している。  「ん?」  「いつの間にかディレクターをちゃんと女性扱いするようになってますね」  「ま、そういうことにしておこう」  簡単にそう応えながら、木津は病室での久我との対話を、そして自分の前で久我が垣間見せた、裡にある女の貌を思い出していた。  由良が一同に向けて明日以降の集合場所を確認する。  「よろしいですね?」  全員が無言で頷いた。  「では今日は解散です」  木津はキー・カードを持つ右手をくるりと回した。溶けかかったパンダのキーホルダーが円を描いて回る。  横にいた真寿美がそれに気付いて、木津に小声で訊ねた。  「そのパンダ、七重さんの……?」  「ああ」  それだけ応えてB−YCのコクピットに滑り込む木津を見て、真寿美もS−ZCのドアを開け、シートに腰を落とした。  塵一つ見つからないコクピット。スロットにキー・カードを差し込み、スタータ・ボタンを押す。計器盤に灯る電光はこれまでになく明るく見え、予備回転を始めるコールド・モーター・ユニットはこれまでになく滑らかに感じられた。  ふと横を向くと、既にB−YCの姿はなかった。反対側でも、早々に出ていった小松に続いて、饗庭と由良のG−MBが動き始めている。  隣のS−RYの中の紗妃と目があった。紗妃が微笑んで何かを言おうと口を開きかける。が、それを遮ったのは、レシーバからの木津の怒声とも歓声ともつかない叫びだった。  「来た!」  その場に残っていた四人が四人とも、その意味を理解できずにいた。いや、理解は出来ても俄には信じられずにいた。  「来たって、まさか、『ホット』が?」  木津の声が続く。  「奴が頭だ! あと装甲車九!」  阿久津の眉間に不審の縦皺が走った。直々のお出ましに、お供の装甲車が九両とは妙に少なくはないか?  「仁さん! 場所はどこです?」  「E181、K区!」  「紗妃さん、峰さん!」  応えの代わりに二台のモーターのうなり。聞いた安芸が叫んだ。  「行きます!」  「邪魔だ!」  前回と同じく、「ホット」の車を護るように囲み走る武装装甲車。走る壁の中から、紛うことのないホット・モーター・ユニットの爆音だけが木津の耳に届く。それはあの日の記憶に残る音と寸分の違いもなく聞こえる。  「てめえらに用はないっ! さっさとどきやがれぇっ!」  白虎の放つ衝撃波は、装甲車の一両を真横から捉えた。だが不快な鈍い響きがその装甲から返っただけで、隊伍は乱れすらしない。  「ホット」を上から仕留めようと、白虎が何度目かの跳躍を試みる。が、その途端白虎は逆に装甲車群の放つ実体弾の段幕に包まれ、接近を阻まれる。  炸裂する弾片を受けて着地する白虎の躯体には、早くも無数の小さな傷が生じている。  再び立ち上がろうとした白虎の頭を、衝撃波銃のもたらす共振と、装甲車からもぎ取られた砲身とがかすめていく。  面を上げる白虎。その視界の奥で、装甲車群からの反撃を回避すべく後ろざまに跳ぶ朱雀。そしてそれを援護すべく牽制の銃撃を行う青龍と玄武。  「安芸さんはそちらのサポートに!」  そう指示する由良は、小松と饗庭を従え、ハーフの形態で「ホット」隊の真正面から突っ込んでいく。  「止めます!」  急速に縮まる距離。  「無茶だ!」  安芸の声にも由良は速度を落とさない。そして不気味に砲に沈黙を守らせる装甲車も。  小松のG−MBが転舵回避する。  安芸は乗機をハーフに変形させ、装甲車の先頭に並ぼうとする。反対側では木津が同じく、だが別の意図を持って白虎を走らせる。  饗庭の玄武が跳んだ。右手に由良機の左腕をつかんで。  その直後、彼我はすれ違った。  しかし安芸と木津は速度を落とさず、それぞれの乗機を装甲車群の先頭に並べる。  玄武が衝撃波銃を二連射する。その一発は装甲車から銃身を吹き飛ばしたが、もう一発は装甲に当たり、木津の時と同じように鈍い響きをたてて、まるで装甲に吸い込まれるように消えた。  「仁さん、この装甲に銃は駄目です」  応答はない。代わりにハーフになった白虎が両腕から「仕込み杖」を伸ばして、横を走る装甲車を追い抜いた。そしてスピン・ターン。前方から相手に接触する寸前まで近付くと、片腕を力任せに横に薙ぐ。  破砕音。  砕け散る装甲の破片をものともせずに振り返ると、白虎は装甲車に止めを刺そうとする。だが半ば破壊された装甲が、いきなり内側から弾け飛んだ。  白虎の足が止まり、飛んできた破片というには大き過ぎる装甲板を「仕込み杖」が払いのける。  「何……だ?」  沈着な安芸が声を失いかけていた。  装甲を自ら排除したのは、白虎に狙われた一両だけではなかった。他の六両も一斉に装甲をかなぐり捨てると、立ち上がった。  「まさか……」呆然と紗妃がつぶやく。  だが木津はひとり納得のいった顔をしていた。涼子ちゃん、あんたの読み通りだぜ……  「VCDV!」  真寿美が叫ぶと同時に、暗紫色に塗られた八機のVCDVが一斉にMISSESのVCDVに襲いかかる。  「全機!……」  由良の指示も指示にはならなかった。  そして左右から二体のVCDVに迫られる中、木津は見ていた。残る一両の、多分これも偽装した装甲車を率いて、「ホット」がさらにLOVEへ向けて走るのを。  「……っのっ!」  照準も何もないまま、木津は両腕の衝撃波銃を左右に乱射するや否や、変形レバーを一気にRフォームの位置にたたき込み、スロットル・ペダルを力任せに踏み付けた。  猛然と「ホット」を追い始めるB−YC。その後をさらに、これも車両の姿に変形した「ホット」の側のVCDVが追う。  嫌な音が耳に届く。  Mフォーム同士、相手と対峙しながら、由良は位置を変えた。  相手の背後に見えたのは小松機。だがその首が喪われていた。  声を掛ける間も与えず、相手が至近距離から衝撃波銃と実体弾とを同時に放ってくる。  屈み込んで回避すると、「仕込み杖」を繰り出し、相手の脚を払いにいく玄武。だが相手も巧みにバックステップでそれを避ける。  再び嫌な音。相手の回避で開けた視界には、さらに片足をも失って仰向けに倒れる玄武の機体。そしてとどめを刺そうとする相手の機体があった。  由良が言葉にならない叫びを上げる。  引かれるトリガー。  左腕から続けて撃たれる衝撃波。  直撃を受けた相手の機体がへし折れるように宙に舞う。  その直後、由良は後方から衝撃を受けた。  振り向きざま目を走らせた計器盤には、バックパックへの被弾を示す警告。そして視界には銃口を向ける相手の姿。  トリガーから離れることのなかった指がまた絞られる。  次の瞬間、双方の間で火花が上がる。相手の放った有炸薬実体弾が、由良からの衝撃波に捉えられ、空中で炸裂したのだった。  目が眩む。  動きの止まる彼我。  そこに駆け寄る二体のMフォーム。  接触音。  その間を抜けて饗庭機が着地する。  仰向けに倒れた由良機。ちぎられたその左下膊が、饗庭の「仕込み杖」に一刀両断された敵機の上半身の上に落ちた。  振り返り高く躍り上がった饗庭機からの衝撃波を受け、もう一体の敵機が腰の外装を抉られる。  Wフォームに変形し後退する敵機。  玄武を起き直らせた由良がそれに向けトリガーを引く。だが衝撃波を放つはずの左下膊はすでになかった。  それに気付いた相手は後退から前進に切り替え、玄武に迫る。  変形レバーを引く由良。機体はそれでも応えてハーフに形を変える。そして急加速。  急速に接近しながらも、相手の射撃は正確だった。  実体弾の炸裂に車体を揺すぶられながらも、由良は真っ向から突っ込んでいく。噛みしめられた下唇は切れて血を滲ませていた。  胸部と肩口に大きな傷を作りながらも、安芸は相手を地に沈め、その背中から衝撃波銃の一撃を与えた。  まるで人間がそうされた時の痙攣のように、躯体は一度大きく反り、そして沈黙した。  視線を上げる安芸。が、それと同時に視界に飛び込んできた状況に目を見開く。  「由良さん!」  由良機の残った右腕の「仕込み杖」を避けるべく右に回避する敵機。だが由良はまるでそれを承知していたかの如く、自らも同じ方向へ舵を切った。速度を全く落とさないまま。  一切の音が失われたような気がした。  鼻部同士が、さらに側面が烈しい勢いで接触する。直後、誤作動か故意か、紫の機体が立ち上がった。その脇腹に「仕込み杖」を突き通したG−MBをぶら下げたまま。  「由良……さん」  「安芸さん後ろ!」  紗妃の声に振り返りもせず玄武が跳ね上がり、空中で逆宙返りをうつと、背後に迫っていたWフォームの真上から衝撃波を浴びせる。  横にステップを踏み、相手は直撃を寸前でかわし、そのままハーフに変形すると、青龍の追い討ちを回避しつつ急速後退する。  饗庭の玄武が、敵機ともつれ合ったまま動きを止めている由良機に駆け寄る。  同じく動きのなかった敵機が、饗庭機の方へ上体をねじ曲げ、近付く玄武に一斉射を浴びせる。それに対し迎え火の如く衝撃波銃を撃つ玄武は爆炎をかいくぐって敵機のすぐ脇まで飛び出すと、由良機の突き刺さったままの右腕をつかんで引いた。  その直後、重く鈍い音が上がり、つかんだ由良機共々玄武の躯体が後ろ向きに跳ね飛ばされた。  脇腹の障害物を排除されて身軽になった敵機は、玄武に見舞った拳を振り上げつつ、衝撃波銃の銃口をそこへ向ける。  腰を地に付けたままの饗庭の玄武もまた銃口を相手に向けながら、横に動いた。動かない由良の楯になるかのように。  衝撃波の振動が続いて二度。  玄武の右肩が後ろへ捻れ、支えを失った機体は背後のG−MBにのしかかる。  だが相手は右足を爪先から吹き飛ばされ、横様に倒れかかる。  そこに青い影。傾いた機体が反対側に弾け飛ぶ。が、連射される衝撃波が躯体を空中で弄び、地面に倒れることを許さなかった。  四肢の離れかけた敵機がようやく地に落ちて沈黙する。それをよそに、紗妃はG−MBと玄武との横にハーフのB−YCを停めた。  「兄貴!」  応えていつも通りの口調が言った。  「由良さんは?」  紗妃の呼びかけに、だが由良の声はない。  ウィンドウ越しに見える由良は、首を前に垂れたまま、乗機同様に動かない。  「峰さんは小松さんの状況を掌握! 饗庭さん、コントロールは出来ますか?」  肯定の回答を受けて、安芸は指示を続ける。  「援護に付きます。紗妃さん、由良さんの状況を確認してください!」  紗妃がコクピットから飛び出し、G−MBのドアを開けようとした。が、高いはずの限界を超えた衝突の衝撃故に歪みを生じた車体はドアを噛み込んでしまい、非常用のフックを引いても放さなかった。  「紗妃、下がれ」  「えっ?」  その声とは裏腹に反射的に紗妃は体を引いた。饗庭の玄武が膝立ちになり、横を向く。制御の利かなくなった右腕をG−MBのドアの上に置くように。  外装の砕ける音に、紗妃は一瞬身を震わせた。玄武の「仕込み杖」がを上から突き立てられ、ドアはひしゃげながらも開かれた。  「急げ」  弾かれるように紗妃はG−MBのコクピットに上半身を潜らせ、そして呼びかけた。  閉じられた目も、固まりかけた血に塞がれた唇も、開かれない。  紗妃は操縦桿を握りしめたままの由良の手に触れる。  「由良……さん?」  固く握られた指を一本一本解き、グローブをむしり取り、もう一度手に触れる。甲から掌へ、そして手首へ。  小松の状況を伝えてくる真寿美の声がひどく遠いものに感じられた。  「由良さんはどうです? 紗妃さん?」  応えるのも忘れて、紗妃はシートの下を手探り、救命キットの箱を引き出すと、蓋をむしり取り、取り上げた強心剤の注射をわずかに露わになっている手首に打ち込んだ。  心許なかった反応が、紗妃の指の下でほんの少しだが強まった。  「紗妃、どうした!」  思いも掛けず強い口調の兄の声に、何故か張り詰めていたものが緩んだ。  「このままじゃ! 早く助けて!」  玄武のハッチが開く音がした。  排気管の吐き出すバックファイアが見える。木津は目を離さず、ひたすらスロットル・ペダルを踏み続ける。後方の惨状も、近付きつつあるものも知ることなしに。 Chase 29 − 交えられた刃  両側から同時に放たれる衝撃波。  木津の手が、足が動く。脳の判断が介在するようには思わせない反応速度で、B−YCの車体を銃撃から回避させる。  体勢を立て直したB−YCの前方で、「ホット」の車体は排気音も高らかに悠然と走り続けている。爆ぜるバックファイア。一際大きな火球と足まわりからの鋭い軋りを置き去りに、「ホット」は左の路地にほぼ直角に飛び込む。  木津は狙撃を警戒してほんの一呼吸だけブレーキ・ペダルを操作すると、直ぐに足を横のスロットル・ペダルに移して踏み込んだ。  攻撃はなかった。ただ「ホット」の影が変わらず前方にあった。  門を形作るように左右に聳える塀とビルとの間を抜けて、再び広い通りへと「ホット」は躍り出る。  木津はその門の脇から覗く影を見逃さなかった。  木津の爪先がブレーキ・ペダルを踏み、左手が変型レバーに伸びる。  左からの衝撃波、続けて右からの実体弾。時間差で繰り出された銃撃の上を、白虎が越えていく。その両腕から反撃の衝撃波を放ちながら。  射撃のタイミングから回避がわずかに遅れた右側のMフォームが、白虎の銃撃を胸にまともに受けてのけぞり倒れる。左側はRフォームに戻すと、自分の倒した相手に一顧だに払わずに「ホット」の追跡を再開するB−YCを追い始める。  後方モニターにその姿を認めながら、木津は前方に視線を戻す。「ホット」の進路は、最初予想されたLOVEを今は外れ、工場区域の末端に向けられているようだった。  それを裏付けるように、「ホット」の向こう側で道路は更地に突き当たり、左右にT字に分かれた道は二回りばかり細いものだった。  さらに「ホット」は右に舵を切った。  木津もハンドルを切りながらナヴィゲータの画面に目を走らせる。表示範囲の隅に現れた人工海岸線が徐々に長くなっていった。  S−RYが、S−ZCが、そして二両のG−MBが相次いでLOVEの半地下駐車場に飛び込んでくる。  奇妙なほど切れのないブレーキングで止められたS−RYのドアが開き、ほとんど泣き出さんばかりの紗妃が飛び降りる。  急報を受けて準備をしていた救護班が駆け寄って反対側のドアを開くと、ぐったりとしたままの由良の体を引き出してベッドに移した。  近寄った医師が一目見て、信じられないといった様子をありありと見せながら呟く。  「何て無茶を……スーツなしでなんて」  その言葉に紗妃ははっと由良の方へと急がせていた足を止める。由良がドライビング・スーツを着ていなかったことにその時初めて気が付いた。  「まさか……」  振り向くと饗庭と安芸の姿。そして声を漏らしたのは饗庭の方だった。  「……何?」と不安を隠しもせずに紗妃。「まさかって」  「初めからその気で……いや」と言葉を切ると饗庭は医師に尋ねる。「どうです?」  医師は応える代わりに、救護班に至急の投薬と手術室への搬送を命じた。  運ばれるベッドと入れ替わりに、真寿美が三人の所へやって来た。  「小松さんはどう?」と安芸が訊ねる。  「重傷は重傷だけど、見た目が派手なだけでそれほどじゃないって」と言う真寿美の安堵の表情が、三人の顔を見て翳った。  「由良さん……は?」  「手術室に直行」  「そう……」  そこに近付いてきた駆け足の靴音が、四人の顔を一斉に振り向かせた。  「阿久津主管……」  阿久津は運ばれる二つのベッドにはちらりと目を走らせただけで真っ直ぐ四人に駆け寄ると、一言訊ねた。ただその声は疑問よりも確信の色の方が濃く出ていた。  「VCDV、か?」  「はい」  真寿美の答えに、阿久津は天井を仰いだ。  「……そうか、とうとう」  その言葉に、八つの目が集まった。  「え……?」  だが阿久津は自分の言葉をかき消すように声を張り上げた。  「皆の衆、機体の損傷は?」  切り替えも素早く安芸が応じる。  「全車両の補充電をお願いします。キッズ1、マース1、アックス1は装甲レベルでの小破。アックス4が右肩の制御不能です。アックス2及び3の回収はどうしますか?」  「やむをえん」即答だった。「ことが済むまでは放置だ。で、向こうさんは?」  「可動残存数は、恐らく五です」そう言うと安芸は真寿美の方に顔を向けた。「僕と峰さんで牽制に出ます。その間に……」  それを遮るように阿久津の声。  「大将を含めて五か?」  「え?」  「大将は仁ちゃんが追っとるのか?」  「……仁さん?」  いきなりだった。  ブレーキランプが前方で横に流れた。車輪が路面を噛む甲高い音、接地面から立ち上る白煙と砂埃。百八十度ターンした「ホット」の車体は、一瞬ぐらりと横揺れと揺り戻しを見せると、完全に停止した。  木津はブレーキ・ペダルを踏むことすら思い出せずにその様に見入ってしまっていた。  「ホット」のドアが開き、人影が現れた。  我に返る木津。B−YCが横滑りしながら停止する。「ホット」の車体から数十メートルの距離をとって。そして木津もB−YCのドアを跳ね開けると外へ飛び出した。  そこは工場区域の最末端にあたり、実際に利用されることが今まで一度もなかった場所で、建物も何もない更地になっていた。そして「ホット」以外の影もなかった。  「ホット」のエンジン音は聞こえてこない。ただその背後に程近く、死んだように鈍く光る海面が伝える波音の、枯れ葉のざわめきにも似た響きが木津の耳に届いていた。  「ホット!」  駆け出そうとする木津を押しとどめるように、相手は右手の掌を木津へと延ばした。  「慌てるなよ仁ちゃん」  木津にとって聞き慣れた声がヘルメットの中から聞こえた。そのヘルメットが外される。  「カンちゃん……」  「おや」相手はこれまでと変わりのない態度で木津に言った。「あんまり意外そうな顔じゃないね。この間の台詞からすると、何か気付いてるのかとは思っていたけどさ」  また一歩を踏み出そうとした木津を、相手は再び押しとどめた。  「おっとっと、慌てない慌てない。確かにこれは」と、傍らの車体を示しながら言う。「お察しの通り、仁ちゃんがホットホットと呼んでる由来の、あの一件の時に使われた車だがね。でも乗ってたのは俺じゃないんだな、これが」  「それならそれで構わんさ」と、こちらもいつも通りの口調の木津。「あんたがそいつの持ち主に俺を紹介してくれるって言うんならな」  「ああ、うちの親分もお望みだしさ」  その言葉に続く奇妙な笑み。ぴくりと木津の眉が動く。  「でもさ、実のところうちの親分は、仁ちゃんには大分お冠なんだな」  「知ってる」  「そいつぁ仁ちゃんも人が悪すぎるね」  おどけた調子ながらも、その目は木津から離れない。そして続いた言葉は、木津の予想していたものではなかった。  「たった二年も経たない内に乗りかえちまうとはさ」  「何のことだ?」  そう言う木津に、相手は再び右手を前に出すと、小指を立ててみせる。  「あの娘、確か前に仁ちゃんが乗ってた赤い奴のドライバーだよな」  「真寿美……のことか?」  「へえ、真寿美ちゃんって言うんだ。ちっちゃくてかわいい娘だねぇ、確かに。それは俺も認めるけどね」  言葉の真意がつかめないままに、それでもどこかしら嫌な雰囲気を感じ取りながら、木津は黙っていた。  「でも仁ちゃんにとっちゃ、自分のせいで死んだ婚約者ってのを忘れられる程に魅力的だったわけだ」  歪む木津の顔。微笑みを崩さない相手の顔。  「俺がその真寿美ちゃんの話をうちの親分にご報告申し上げたら、そこんとこを大層憤慨なさってさ」  「違う!」思わず木津は声を荒げて叫んだ。「忘れるだと? 俺がこれまでずっと奴を、『ホット』を追ってきたのは何のためだと思ってる?」  「さて?」  明らかにとぼけた顔で首を傾げる相手に、木津はさらに声を張り上げた。  「七重の仇を討つためだ。今日まで一日だってそのことを忘れたことなんかない。惨めなざまになっても、そのためだけに俺は今日まで生きてきたんだ! それに」  音が聞こえるほどに大きく木津は息を継ぐ。  「俺のせいで七重が死んだ、だと? ふざけるな……」  聞き手の表情は変わらない。全くの他人事を聞くように。  「ふざけるな」木津は繰り返す。「手前勝手な真似をして、逆恨みをして、人一人殺そうとして、巻き添えを喰わせてそれを人のせいだと? いい年をぶっこいて、世界の中心が自分だとでも勘違いしてやがるのか?」  それまで沈黙を守ってきた相手が、不意に口を開いた。その顔に浮かんだ笑みの濃さを一層深めて。  「その辺は親分ご自身が直々に話してくれるかも知れないぜ」  「……その『ホット』はどこにいる? 今日も現場は部下に任せて、てめぇは高見の見物ってわけか?」そして吐き出すように言い足した。「臆病者が」  「そうでもないと思うけどな」と言う口許は異様なまでの笑みに歪んでいた。「何たって、今回はお宝のこの車を持ち出してまで決着を付けるつもりなんだからさ」  木津ははっとした。ホット・ユニットのエンジンがいつの間にか唸り始めていた。  ほとんど反射的に木津は跳び退ると、開け放たれていたB−YCのドアからコクピットに身を躍らせた。  それとほぼ同時だった。無人のホット・ユニット車がB−YCに真っ向から突っ込んできたのは。  シートベルトがセットされるのを待つ間もなく、木津は後進にシフトしスロットル・ペダルを力任せに踏み込み、舵をいっぱいに切った。  無人の「ホット」車は、だがその鼻面を回避に入った木津の車体に正確に向けてくる。  木津の左手はシフトレバーから変型レバーへと移った。手首が動く。  B−YCは白虎に変型し、後進の加速に任せて後ろざまに跳んだ。衝撃波銃の銃口を迫る「ホット」車に向けて。  と、コクピットの木津を真正面からの衝撃が襲った。木津の首が激しくヘッドレストに叩き付けられる。その口からは呻きが漏れた。  胸部中央に衝撃波を喰らわされ、空中でバランスを崩した白虎は、そのまま弾き飛ばされて無様に腰から着地した。  そこをめがけて「ホット」車が迫る。  尻餅を撞いたまま、白虎は左腕を「ホット」車に向けた。引かれるトリガー。  期待されたあの鈍い響きは、だが伝わってこない。代わりに計器盤で警告灯がまた一つ灯っている。  接近する「ホット」車。  もたげた左手を振り下ろして地面に突くと、それを支えに白虎は身を翻す。  すれすれの位置をかすめて「ホット」車が駆け抜ける。  体勢を立て直した白虎は片膝を付いて、今度は右腕の銃口を「ホット」車の尾部に向ける。  が、木津がトリガーを引くよりも早く、白虎の機体の至近で「ホット」車がひしゃげ、轟爆した。化石燃料と、そして恐らくは別に積んであった実体弾用の炸薬とによって、一瞬にして車の形をしていたものが、今は焼けただれた無数の破片となって、爆風と共に白虎を襲った。  これまでの戦闘で損傷を生じ始めている装甲に、容赦なく破片が食い込み、コクピットの中の木津を揺さぶる。振動の中で、何かが木津の脳裏をよぎった。ほとんど反射的に木津は白虎の右腕を上げ、頭をカバーする。  直後、右腕の防衝板が震え、頭部に向けられた衝撃波を散らした。防御の姿勢を崩さず、白虎は衝撃波の来た側に目を向ける。  相変わらず死んだような海を背にして立つ一体の人型。灰がかった緑の、白虎と同様に細い躯体。中央に見慣れたあの悪趣味な色彩の菱形を描いた胸の上には、人間の、それも女の顔を彷彿とさせる頭部。その手には銃のような長物。その銃口はまだ白虎に向けられている。  「……お出まし、か?」  再び発砲。銃口に火が走る。実体弾だ。  白虎は横に跳ねて立ち上がると、右腕の衝撃波銃を放つ。緑の機体は横に滑るようにそれを避けつつ、さらに発砲を続ける。今度は衝撃波。  左腕の防衝板でそれを受け流し、木津は吠えた。  「ホット!」  応える代わりにさらに銃撃が続けられる。実体弾と衝撃波とを綯い交ぜにして。  「……野郎!」  一閃、白虎はハーフに転じ、回避しつつ敵に迫る。と、相手もまたハーフに変形し、突っ込んできた。  トリガーを引く木津。繰り出される衝撃波。回避する「ホット」。そして木津の耳に届く短い警告音。それは衝撃波銃のバッテリー残量が少なくなっていることを伝えるものだった。  「こういう時に、そう来るか!」  突き出した右腕を後ろへ振る。空を切る鋭い音と共に「仕込み杖」が伸びる。  「ホット」はなおも発砲を続ける。「仕込み杖」に当たり、音を立てて弾ける実体弾。  距離が詰まる。  木津の手がレバーへ。  立ち上がる白虎。急制動をかける足元に火花が散る。  それとほとんど同時に、「ホット」もまた人型に転じた。  白虎の振り下ろす「仕込み杖」が、「ホット」のかざす銃身に食い止められる。  白虎は振り下ろした右腕に左手をあてがい、全力で押した。  「ホット」もまた銃把を左手に、銃身を右手に握り、受け止めた刃を押し返してくる。  木津は出力を上げた。計器盤の中で、表示は最高値の少し下のあたりで激しく痙攣している。  にも関わらず、刃は毫も進まなかった。いや、逆に僅かずつながら押し返されている。  声までも上げて、木津はさらに押す。  だが姿勢を下げつつ、「ホット」は白虎の刃を徐々に押し上げていく。  木津は気付かなかった。そうやって「ホット」が白虎の懐に入りつつあるのを。  大きく、鈍く、そして不快な接触音。  それと同時に白虎は後ろ向きに吹き飛ばされた。  白虎の腹を蹴り上げた足を素早く戻すと、「ホット」は既に構え直していた銃のトリガーを引いた。  実体弾が、辛うじて転倒を免れた白虎の左側に容赦なく集中する。爆炎の中で、左腕は四散した。  噛み締められた木津の歯がぎりりと鳴った。  饗庭機は右腕の換装を終え、他の車体も装甲の貼り替えと補充電を終えていた。  だが四両とも、未だ動くことなくLOVEの駐車場にあった。  「ホット」の配下のVCDVが四両、あるいはハーフで、あるいは人型で駐車場の出口を遠巻きに取り巻いていて、MISSESの車体が現れると、すかさず斉射を行ってくるのがその理由だった。  だが、攻めに転じてくる様子はない。あくまで包囲と牽制を目的としているようだった。  「でも、何のために足止めなんか……」紗妃が落ち付かなそうな素振りを見せながら言った。「木津さんがまだ外にいるのに」  「駄目だ」と安芸の声。「ジャミングされてる」  「なら無事だ」呟く饗庭。  安芸はそれを聞いて顔を上げたが、すぐに納得して頷いた。ジャミングが続いているということは、つまり妨害するべき通信が外から来る可能性があるということだ。  安芸は辺りを見回した。  探していた姿は、S−ZCのコクピットの中にあった。  そこで真寿美は目を閉じていた。少し顔を仰向けるようにして。両手は膝の上で組み合わされている。わずかに開いている唇の間からは、眠っている時のような静かな息が漏れている。  安芸の目許に訝しさの影が差した。少し前だったら、こんな時一番大騒ぎするはずだった峰さんが、いつの間にかこんな落ち着きを見せるようになっている。しかも「ホット」が相手かも知れないという時に。  だが真寿美は決して落ち着いていたわけではなかった。  木津が「ホット」を追って走ったときも、それに付いていくのではなく、木津の追跡を妨げるものを排することでそれを助けようとした。そして木津がきっと「ホット」に追い付き、愛した相手と木津自身の復讐を遂げつつあるだろう今、自分のするべきことは加勢ではなく、木津の無事を祈ることだけだと真寿美は考えていた。  そう、きっと仁さんは無事に帰ってきてくれる……  近付き、自分の横で止まった足音に真寿美は目を開いた。  真寿美の顔を覗き込む紗妃の目がそこにあった。  必要以上に不安そうな紗妃の表情。真寿美はそれに微笑みで応えた。  向こうからは阿久津の声が聞こえる。  「動かんな、あの連中……」  「突破しますか?」と、これは饗庭の声。  阿久津は答えない。  安芸も黙ったままそのやりとりを見ていたが、違和感がその心中にあった。饗庭さんはなぜこんなに積極的になったんだろう? 由良さんの突撃とも言える攻撃を見て? そう言えば、さっきの「まさか」というのは?  阿久津が場を外した。  上げられた安芸の視線が饗庭のそれと交錯する。  「何か?」と饗庭が問う。  一瞬だけ言い淀んだ安芸は、しかしそれでも再び口を開いた。  「さっきのまさかって……」  「安芸さんなら分かっているでしょう?」  安芸はそれを感じ取っていながら敢えて思考の表に出そうとしていなかったのだが、饗庭の言葉は安芸に直視を迫るもののように聞こえた。  「死ぬ覚悟で……」  頷く饗庭。そして低く呟く。  「それまで自分の信じていた場を失ったんです。思い詰めればそう考えるかも知れない」  そうだった。当局からの召還命令に反してMISSESに残ることを決めた時の由良の口調は、確かに思い詰めた調子を色濃く醸していた。いや、その時だけではない。S−ZC二号機の強奪事件の時から、恐らくはずっと。  「彼は、プロです」  饗庭がそう言葉を継いだ。  「勝手に線引きなどせず、与えられた職務に専念する、プロです」  「線引き……」  安芸は思い出した。MISSESの職域が民間研究所のそれを越えていると久我に饗庭が噛み付いたことを。由良の行動を見て、饗庭はそれを恥じているのか。  「何ですか?」  饗庭に問われて、安芸は自分の顔に微笑が浮かんでいるのに気付き、両手で頬を叩き、そして問い返した。  「饗庭さんの場は?」  表情らしい表情を見せたことのなかった饗庭が、その問いに初めて動揺の色を浮かべた。だがそれもほんの一瞬のこと、すぐに元の顔に戻ると、答えた。  「明日からまた探します」  思わずも再び浮かべてしまった笑みを、今度は隠さずに饗庭に向ける。  饗庭もその目元に笑みが浮かんだように安芸には見えた。  が、そこでくるりと安芸に背を向けると、饗庭はG−MBのドアを開き、乗り込んだ。  その音に紗妃が振り返る。  「兄貴……?」  モーターの音。コクピットでヘルメットをかぶる饗庭。  それを見た紗妃がS−RYに駆け寄り、コクピットに飛び込む。  G−MBが急発進し、駐車場出口へと向かう。S−RYがそれを追う。  振り返る安芸。その目がコクピットの中の真寿美の目と会う。  横へ落とされる真寿美の視線。それが元に帰ったとき、真寿美の両手の間にはヘルメットがあった。  銃声が聞こえてきた。  「ホット」の当て身を喰らって仰向けに倒れる白虎を、衝撃波銃の連射が襲う。  体を翻して避ける白虎。だが「ホット」は左腕を喪った白虎の回避行動を読み切っていた。  左に滑らされる銃口が、そこから射出される衝撃波が、正確に白虎の躯体を捉えた。  もう何度目になるか、白虎は地面に叩き付けられ、ショックはコクピットの木津を揺さぶった。  コクピットの中にいるのも構わず、木津は唾を吐いた。  計器盤に灯る警告灯は徐々にその数を増やしつつある。そしてそのどれよりも忌まわしい、主電圧低下を警告するランプの明滅。  冗談じゃねえぞ……くたばるのは俺じゃない。奴だ、奴の方だ。奴じゃなきゃいけないんだ!  変型レバー。  ハーフに転じる白虎。スロットル・ペダルを力任せに踏み込む木津。B−YCは真っ向から「ホット」目掛けて突っ込む。  平然と接近を待っていた「ホット」は、まるで嘲笑うかのように前にステップを踏むと、B−YCの頭を踏み台にして易々と突撃をやり過ごしたかに見えた。  だがB−YCは残った右手で「ホット」の足首をつかんでいた。  雄叫びを上げる木津。レバーを引く手。  後ろに引きずられながら、白虎に変型するB−YC。「ホット」もバランスを崩し前のめりになる。その手から銃が離れた。  膝で地面を蹴り、上腕部さえ残っていない左の肩で白虎は「ホット」に体当たりを喰らわす。  四つん這いになったかに見えた「ホット」だったが、両手を突くと体を捻りながら宙返りし、立ち上がった。  それよりも早く、倒れ込みながらも白虎が「ホット」の銃を右手につかみ、伏せたままトリガーを引いた。  衝撃波も、実体弾もその銃口からは出なかった。  女のような「ホット」の顔が冷ややかに笑ったように見えた。そして向けられる左手。その下には銃口。  白虎は銃を「ホット」に投げ付けた。「ホット」は前に出していた左手でそれを受ける。 その隙に白虎は「仕込み杖」を伸ばし、屈んだ姿勢をとると、撓めた膝のばねを一気に弾かせて「杖」の切っ先を「ホット」の喉元に向けて躍り掛かった。  「ホット」が銃身で「杖」を横に薙いだ。構わずに白虎は突っ込み、正面から「ホット」に突き当たる。  白虎の右手の「杖」と「ホット」の左手の銃身が鬩ぐ。だが「ホット」は空いた右手で白虎の頭をつかんだ。  シャフトの折れる音が木津の耳にも届く。  まるで頭をもぎ取られつつあるのが自分自身であるかのように木津は喚いた。喚きながらも白虎の膝の力を抜いた。  もう一度、今度は大きい破壊音。だが木津は、「杖」が「ホット」の銃をすり抜けたことしか見てはいなかった。  叫び声を上げる木津。白虎は「杖」を全力で「ホット」の脇腹に打ち込む。  跳ぶ玄武に四つの銃口が一斉に向けられる。  空中で玄武は右腕で上体を庇い、左腕の衝撃波銃を横に払いながら放った。  最左翼から撃たれた実体弾が、衝撃波をかいくぐって玄武の腰に命中する。  「兄貴っ!」  ハーフで飛び出したS−RYが正面の人型に向けて衝撃波銃を放つと、急制動をかけ青龍に変型、そのまま後ろ向きに跳ね戻ると、着地する玄武と敵機との間に立ちはだかった。  「紗妃……」  「兄貴! 大丈夫?」  強力なジャミングのために、紗妃の声は兄には届かない。答える代わりに饗庭は玄武の手で右を指差した。  「了解!」  黒と青の機体が左右に分かれて走る。  扉が開かれたかの如く、その間から赤と黒の光が流れ出す。  対して展開する敵群を前に、朱雀が一際高く舞った。  その陰から安芸の玄武が姿を現し、中央右の敵に正確に向けた銃口から衝撃波を放つ。  回避の遅れたハーフは右腕をもぎ取られ、さらに上から朱雀の銃撃を受けて地面で跳ね返り転覆擱座した。  朱雀が着地するよりも早く、二体の玄武と青龍は残る敵の各機に組み付いていた。  敵のもう一両のハーフも人型に変型し、饗庭の玄武に襲いかかる。  その横では、相手に発砲するだけの間合いを取れないよう詰め寄った紗妃の青龍が、回し蹴りを繰り出す。  そして安芸の玄武は、敵と衝撃波銃の応酬を繰り広げている。  真寿美は周囲を見回した。  と、敵の布陣していた後方、LOVEの向かいの工場廃墟にほど近く、この戦況にも動こうとしない輸送車が視界に入った。  真寿美はほとんど反射的に輸送車を照星の中央に捉え、トリガーを引いていた。  衝撃波はコンテナ部の中央を貫いたが、爆発も何も起きはしなかった。  何、これは?  真寿美は朱雀の歩を進めた。  その時だった。レシーバーから、真寿美が望んではいなかったものが聞こえてきたのは。  「ジャミングが消えた?」  安芸の声は、真寿美の耳には入らなかった。ただもう一度、さっき聞こえたものを聞こうと、あるいは聞こえたのではなかったことを確かめようと、耳を澄ます。  だが事実は真寿美の期待を裏切った。  金属の破断音。  計器盤の発する警告音。  そして、聞くはずではなかった、木津の言葉にならない叫び。  ヘルメットをかなぐり捨てた真寿美の手がレバーに、スイッチに走る。  S−ZCに変型させながら、真寿美は高速で遷移するナヴィゲータの画面を喰い入るように見つめた。その目が見開かれる。  輝点。  スロットル・ペダルにかけられた真寿美の小さな爪先に力が込められた。  「仁さん!」 Final Chase − 閉ざされた日  真寿美の視界に入った小さな影は、接近するにつれて対峙する二体のVCDVのディテールを現わし始めた。  いや、対峙しているのではない。レシーバーから聞こえた音が真寿美に想像させた通りの光景がそこにはあった。ヘドロを思わせる灰緑色の躯体に押される白虎。その左腕は肩口から失われ、頭部はねじ切られてケーブルだけで辛うじて胴体にぶら下がり、胴体にはさんざんに弄ばれたことを思わせる無数の傷が走っている。それでもなお相手を押し返そうとしている白虎のモーターが苦しげな音を上げる。  灰緑色の頭部が接近するS−ZCに向けられる。嘲笑うかのような敵の表情を、真寿美はにらみ返した。  嘲笑が再び擱坐寸前の白虎に向く。銃を持つ右腕が動きを見せる。  朱雀が跳んだ。  左腕の衝撃波銃から射られた「仕込み杖」が「ホット」の右腕をかすめる。さらに朱雀が「ホット」と白虎の間に飛び込む。灰緑色の躯体がわずかに仰け反った。  「仁さん逃げて!」  後頭部のキプスが緩み、半ば朦朧としつつあった木津の耳に、真寿美の叫びが響いた。響いて、音色を変え、記憶の中の声に姿を変えた。  「仁!逃げて!」  そう叫ぶ七重の声に続いて、あの時の記憶が雪崩のように木津の脳裏を駆け抜けた。  七重の声。かき消す爆発音。覆い被さる軽く華奢な体。かいくぐって肩に、首に突き刺さる弾片。抱き起こす手に絡み付く血。そして眠っているとしか見えない顔。そこにもう一つの顔が重なった。  「仁さん!」  過去が通り過ぎた木津の視界には、自分との間に斜めに割って入り「ホット」を押し止めている朱雀の紅い背中が見えた。  木津の喉から叫びが迸る。それはギプスが外れたことによる苦悶から来るものだけではなかった。  「……っぅうおおおおおおあああああ!」  叫びを聞いた真寿美の手が反射的に操縦桿を動かし、朱雀の体がわずかに開く。「ホット」の機体が覗いた。  残る動力の全てを掛けて繰り出された白虎の右脚が、「ホット」の脇腹を真っ直ぐに捉えた。同時に甲高い警告音がコクピットに満ちる。バッテリー残量の最終警告音だった。  よろける「ホット」からすかさず離れると、白虎の残った右腕を掴み、その場から引き離しながらハーフに変型し、自らの上に白虎のほとんど大破に近い躯体を載せて全速でその場を脱する。  後方モニターの中で、「ホット」が姿勢を立て直し、悠然と銃を構えた。  銃口を染める実体弾の発火。  身構えた真寿美は、だが予想していた衝撃を感じなかった。  再び確認するモニターは、上体を起こし、狙撃の楯になった白虎を映している。  「そんな……だってもうバッテリーが」  「今ので最後だ」喘ぎながら木津が応えた。  「乗り移って下さい! 退却します!」  真寿美の言葉に木津が返したのは、断固とした拒否の言葉だった。  「ここまで来たんだ。今度という今度こそ片をつけてやる。いや、つけなきゃならないんだ!」  大破擱座した「ホット」麾下の機体三機全てがうち捨てられ倒れている中、同じように大きな損傷を受け沈黙する玄武があった。その許にS−RYが走る。  「兄貴っ!」  紗妃の声はいつもよりも高かった。その手はほとんど同時に変型レバーとマニュピレータの操作桿に伸びた。  足下から火花を上げて制動をかけた青龍の手が、玄武のハッチを力任せに引きちぎって捨てる。  「兄貴! 大丈夫?」  呼びかける紗妃とは裏腹に、極めて落ち着いた様子で饗庭がコクピットから滑り降りた。  自らもハッチを開いて上体を乗り出した紗妃に、饗庭は言った。  「ハッチが食い込んで開かなかった。通信も使えなくなった。怪我はない」  その言葉に力が抜けたように、紗妃はハッチにもたれかかったが、すぐに顔を上げた。  「ばかっ!」  不審そうな眼差しを上げる兄に、紗妃はさらに言った。  「ばか……心配……したんだからっ!」  紗妃の声で饗庭の無事を知った安芸は、玄武のコクピットで真寿美と木津の位置探索を続けた。  画面上を走っていた安芸の視線が止まった。  見付かった。白の輝点二、赤の輝点一。  安芸は場所を確認する。と、その表情が強ばった。感度を上げ走査をやりなおしても、結果は同じだった。  白の輝点が、一つ消えていた。  阿久津もまたLOVEの車庫で、予備機となっているS−RYの計器を頼りにその事実を掴んでいた。そしてそれを俄には信じられないといった口調で呟いた。  「白虎……か? 沈んでしまったのか?」  目を瞬かせ、もう一度画面に見入る。  変化はない。赤の輝点から離れつつある白の輝点はただ一つ。  なおも画面を見つめ続ける阿久津の耳には、背後での弱々しい靴音も入らないようだった。  「ホット」の銃口はなおもS−ZCに向けられている。いくら白虎の機体が楯になっていると言っても、これではどう見ても無事に逃げ切れるはずがなかった。  真寿美は一瞬だけ固く結んだ唇を開いた。  「仁さん、ちょっとだけ我慢して下さい!」  加速するS−ZC。「ホット」の銃弾が白虎をかすめる。  S−ZCの手が伸ばされ、白虎のハッチをこじ開けた。急に風圧を喰らって木津は顔を仰向ける。が、すぐにS−ZCの手がそれを庇った。S−ZCのドアが開き、木津を抱きとめた手がその体をコクピットへ送り込んだ。  シートに身を沈めた木津からは苦悶の表情が消えていなかった。口許からは食いしばられた歯が覗く。握り締められた拳。だがなおも仇敵から離れることを肯んじない眼差し。  レシーバーからの声だけでは伝わらなかった木津の有様を今目の当たりにして、真寿美はこれまで木津を駆り立ててきたものが何だったのか、分かりかけたような気がした。  震える木津の体をシートベルトが固定する。  「行きます!」  真寿美の手がレバーに伸びる。  白虎の機体が路面に崩れ落ちた。実体弾が続けざまに命中し炎を上げる。  と、炎の赤が宙に向けて伸び上がった。  それは跳躍する朱雀だった。  連射される衝撃波を「ホット」は飛び退いて回避するが、その内の一発は「ホット」の手元から銃を吹き飛ばした。  着地した足でそのまま地面を蹴ると、朱雀は右腕の「仕込み杖」を伸ばし「ホット」の懐へと飛び込む。  喉元を狙って横に薙がれる切っ先を「ホット」は後方へのステップで辛うじて避ける。そして振り抜かれた朱雀の右腕を掴んだ。さらに朱雀の左腕を捕えようとする「ホット」の手を下膊の防衝板で弾くと、逆に朱雀がその手首を握り捻り上げる。  金属の軋る音が鳴り、消える。  「来る!」  木津の叫びは体を弾く電流のように真寿美の耳に響いた。手が、足が動く。  腕を掴まれまた掴んだまま、朱雀の足が地を蹴り、飛びかかるように体を浮かせた。足払いをかけに来た「ホット」の足が空を切る。  片足になった「ホット」が安定を崩し、仰向けに倒れかかる。が、捕らえた朱雀の右腕を放さず、小さからぬ出力にものを言わせて体を捻った。  「放せっ!」  木津の声に、朱雀の左手が「ホット」の手首を放す。仰向けに叩き付けられそうになった躯体をその手で支えると、今度は逆に朱雀が「ホット」の機体を振り回しにいく。  「ホット」も掴んでいた朱雀の腕を放し、両手を突いて宙返りをうつと、着地の膝を突いた低い姿勢から、背中を向けて起き直った朱雀に突っ込む。  片足を軸に朱雀が振り向いた。その右腕から再び伸ばした「仕込み杖」を振るいながら。  手応えはあった。タイミングが早すぎたために大きな手応えではなかったが、それでも杖の切っ先は「ホット」の灰緑色をした女の顔の鼻から頬にかけて一閃し、横一文字の傷を負わせた。  「ホット」はしかしそれをものともせず突っ込んでくると、朱雀の腹に肩の一撃を与えた。  コクピットまで衝撃が走る。木津がまた呻きを上げたが、真寿美の言葉を待たずに言う。  「奴を……奴を!」  真寿美は木津に一瞥をくれることもせず、朱雀の左手を「ホット」に向け、トリガーを引いた。一回、二回、三回。  最初の衝撃波は「ホット」の背中を滑って消えた。次も同じく「ホット」に損傷を与えられず消える。そして三発目は、「ホット」の右腕に銃口を跳ね上げられ、空に散った。  真寿美は朱雀を数歩下がらせた。そうして取った間合いを、「ホット」が間髪を置かずに詰めてくる。  その時真寿美の腿を何かがかすめた。直後体にかかった変形のGの中で真寿美は見た、変形レバーに掛かる木津の手を。  シフトレバーに移される木津の手を覆うように、その上から真寿美はノブを握り、後進へ叩き込むと同時にスロットル・ペダルを踏み込んだ。  ハーフに変形したS−ZCが全速で後退する。左腕の衝撃波銃を連射しながら。  「ホット」は伏せてそれを避けると、落ちていた銃に手を伸ばし、そのままの姿勢でトリガーを引いた。  実体弾が衝撃波に迎え撃たれ、真っ黒な煙を上げて炸裂する。  「来るぞっ」  いつもの調子を取り戻しつつある木津の声に、真寿美は全速のまま前進に切り替える。その背後を横に衝撃波がかすめ、ハーフの装甲を震わせる。真寿美は朱雀に変形させ、振り向きもせず腕だけをそちらへ向けると一発撃ち、高く跳んだ。  見えた。わずかに煙幕の薄らいだ一隅に、こちらを見失って動きの止まった灰緑色の醜い、敵。  真寿美の左手が木津の右手を引き寄せ、トリガーへと導いた。  真寿美の目は照星を見つめ、木津にさえ向けられない。  そんな真寿美から視線を移し「ホット」を睨み据えると、木津はトリガーを引いた。  最大出力の衝撃波が走る。それは、片足を軸に体の向きを変える「ホット」の正面を真上から削り落とすように舐め、路面に突き刺さると穴を開けた。振動を避けて「ホット」が飛び退く。  その背後に背中合わせに降り立った朱雀が身を翻す。右腕から伸ばした「仕込み杖」もろともに。  「ホット」もまた身を翻す。「仕込み杖」の切っ先が空を切り、鋭い音を立てる。  こちらを向いた「ホット」の顔。前に与えた横一線の傷から上が、今の衝撃波で剥がされ、中の金属部を剥き出しにしている。その下の皮肉な微笑を浮かべた口許は、顔の上半分を失ったことで一層その凄まじさを益していた。  それを見た木津が言うのと真寿美が動くのはほぼ同時だった。  「蹴落とせ!」  朱雀の足が上がり、「ホット」の膝に一撃を加える。すかさず「ホット」は狙われた脚を下げるが、避けきれなかった。バランスを崩し、もう一方の脚で踏んだステップも中途半端だった。背後には朱雀の衝撃波銃が抉った穴。「ホット」はそこに膝まではまり込む。  木津の目に、口許に、名状しがたい笑みが浮かんだ。この二年の全てを次の一瞬で晴らそうとする、その全てを映したような笑みだった。  木津の手は今トリガーの場所にあった。最大出力、最大収束率に設定された衝撃波銃の銃口は、仇敵の至近距離にある。  「くたばれえぇっ!」  衝撃波。  だがそれは横から朱雀と「ホット」の間を分かつように突き抜けていった。  両者の頭が衝撃波の放たれた方向に向けられる。  「残党かっ?」  「……玄武、それに青龍も」  「何だって?」  接近する影は、真寿美の言葉通り、見慣れた車体の形を明らかにしてきた。  「寄るな!」木津が叫ぶ。「寄るな! 俺がやるんだ!」  木津は視界を切り替えた。穴の中の「ホット」は、接近するVCDVを目の当たりにして動きが止まっている。  だが再びトリガーを引こうとした木津の手に、真寿美の手が包み込むように押し留めた。  さらにハーフのS−RYが衝撃波銃を一発撃ち、そして止まった。もう一台のS−RYと、続いてG−MBが並ぶ。  二台目のS−RYのドアが開き、一つの影が降り立った。  その身を固める、この時季には不釣り合いなダーク・スーツが、頭に巻かれた包帯の白さを際立たせている。かつてその首筋を覆っていた黒髪は切られ、代わりに白い衛材が貼られている。右手には杖。少しふらつく体とは裏腹に、視線は揺るぐことなく「ホット」に注がれている。  「……久我、ディレクター……」  目の前に現れたものを信じられずにいる真寿美の呟きを、木津の怒声が掻き消す。  「何で邪魔をする! 寄るな!」  それが耳に入った風もなく、久我は口を開いた。その後ろにはそれぞれの乗機から降りた饗庭兄妹が控える。  「もうおよしなさい」  「ホット」は動きを見せない。  真寿美が操縦桿を引き、衝撃波銃の照準を「ホット」から外すと、朱雀の機体を静かに後退させた。  「もうおよしなさい」久我が繰り返した。「これ以上あなたは何も得られません。これ以上誰を傷付けても、あなたが手に入れられるものは何もないのです」  「邪魔をするな!」  今の言葉がまるで自分に向けられたものであったかの如く、木津が怒鳴った。その横で真寿美が体をびくりと震わせる。  「出てくるな! けりを付けるのは俺だと言ったはずだ!」  それまで「ホット」に向けられていたのと同じく真っ直ぐな視線が、朱雀に移された。その中にいる木津の姿を見通しているかのような、迷いのない視線。  「こうなるきっかけを作ったのは私です。七重の未来を奪わせたのも、あなたの今を狂わせたのも、MISSESに負傷者を出したのも、そして……この人にここまでさせたのも」  久我の言葉の最後の一句が、何故か取って付けたもののように真寿美には聞こえた。  久我の目が再び「ホット」を見つめる。  「だから、幕を引く責めを負うのも私でなければなりません」  木津はなおも吠える。  「知ったことか! こいつは俺がやるんだ。でなきゃ七重も……」  「七重はあなたを犯罪者にするために助けたのではないでしょう」はっきりと言い切った久我は、その後にぽつりと付け加えた。「私はそうさせてしまうところでした」  構わずに操縦桿へ手を伸ばそうとする木津を真寿美がまた押し止める。その目は自分もまた七重と同じ思いでいると言いたげだった。  久我はおぼつかない足取りでG−MBの前に進むと、はっきりとした口調に立ち返り、続けた。  「木津さん。このままではあなたも彼と同じです。それはやめてください。七重もそれを望んではいないはずです。いいえ、七重だけではないでしょう」  それを聞いて、木津の腕に縋り付く真寿美がまた体を震わせた。  「あなたと」久我は後ずさりながら「ホット」に向き直る。「そしてあなたを止めます。この体を楯にしてでも」  「ホット」は崩れた顔を久我に向けたまま動かない。携えた銃の先も下に向けられている。それは久我がG−MBのコクピットに体を滑り込ませた時にも変わらなかった。  動かなかったのは「ホット」だけではなかった。饗庭も、紗妃も、S−RYのコクピットで待機していた安芸も、そして真寿美も、木津も動かなかった。いや、動けなかった。  G−MBが急発進する。「ホット」に向けて全速で。  直後、三つの銃口が一斉に動いた。しかしその全てが沈黙を保ったままだった。  玄武が跳んだ。躯体が真正面から「ホット」に当たる。その右腕が「ホット」の腰を抱え込み、二体はもつれながら倒れる。玄武の左手首がバックパックに向けられる。  衝撃波の鈍い振動が空気を震わせた。そして爆発音が。  饗庭が妹を庇って地に伏せる。青龍と朱雀も爆風を避けるべく腰を屈める。  姿勢を戻した朱雀の目の前で、絡み合った二体のVCDVが炎を上げていた。  息を呑む木津の横で、真寿美がペダルを踏み込んだ。朱雀が炎の中に飛び込む。続いて走った青龍が、玄武から「ホット」を引き剥がす。朱雀も玄武の腕を掴んで引きずり出すと、消火剤を投げ付けた。フックを引く。弾け飛ぶハッチ。コクピットの中でぐったりとしている久我を救い出し、朱雀は饗庭たちの前に久我を寝かせ、S−ZCに戻る。  向こう側からは同じように男の体を掌に横たえた青龍が駆け寄る。  真寿美が、木津が続いてコクピットから飛び出す。真寿美は久我の側へ、そして木津は足を止めた青龍の横へ。  「進ちゃん、早く降ろせ!」木津が青龍の脚を叩きながら言う。「奴の面を拝ませろ!」  青龍が腰を屈め、右手を静かに下げる。  拳を握りしめ、食らい付かんばかりの勢いで、木津は手の上に横たわる男の顔を覗き込んだ。直後木津は、それまでの勢いを完全に殺がれ、呆然と立ち尽くした。  バイザーの破れたヘルメットの中に回った火で、「ホット」の顔は識別できない程に焼け崩れていた。  背後では真寿美の声が飛んでいる。  「紗妃さん、ディレクターは?」  問われた紗妃は、しゃくりあげていて言葉が言葉になっていなかった。ただ頷いて、心肺機能が止まっていないことを伝えるしか出来なかった。  頷き返した真寿美がさらに指示を飛ばす。  「饗庭さん、安芸君、二人をLOVEに」  青龍が立ち尽くしたままの木津から数歩下がると、手に「ホット」を載せたままハーフに変形する。  S−ZCの横では、饗庭が久我を助手席に乗せると、紗妃にS−RYに乗るよう促した。  紗妃の涙ぐんだ目が真寿美の目と合う。真寿美は頷いて言った  「行って。あたしはまだ……」  振り返った先には木津の背中。  「少し経ったら、迎えに来て」  頷く紗妃が乗り込んだS−RYとS−ZCが走り去るのを見送ると、真寿美は木津の傍らに歩み寄った。  「終わっちまったのか……これで」  呟く木津の手に真寿美は自分の手を重ねようとしたが、躊躇って止めた。  「俺は……何もしてなかったのに……」  何事もなかったかのように、波の音。  と、突然木津の体がぐらりと揺れた。張り詰めていたものが急に抜けた、そんな風だった。抱きとめる真寿美の耳に、かすれた木津の声が聞こえる。  「眠い……」  「眠って、いいですよ……もう」  真寿美に支えられながら木津は気怠そうに腰を下ろすと、片腕を枕に地面に寝転がる。その頭を、傍らに座り込んだ真寿美がもたげ、膝に載せた。  程なく木津は眠りに落ちた。真寿美がその手首を取って鼓動を確かめるほどの深い眠りだった。  取った手を自分の両手に包み込み、波音と微かな寝息とを聞きながら、真寿美は木津の寝顔に見入った。  虚ろな寝顔だった。  蝉が鳴いていた。工場地区にいた去年の今日は聞くことが出来なかった蝉の声。  傾きかけた陽が差し込む。都市区域の中にあるLOVE本部の廊下の窓。外を眺めていた真寿美は、肩を叩かれ振り返った。  「サボり?」  「休憩って言って」  「休憩休憩サボって休憩」  本部の制服を身にまとった紗妃は笑いながら真寿美の横に並び、同じように外に目をやった。途切れては始まる蝉の声。  長く続く沈黙の中で、だが二人は同じことを考えていた。  「……もう、一年経っちゃったんだね」  「そうね」  再び訪れた沈黙。二人はやはり同じように、一年前からのことを思い返していた。  燃える機体から救出された「ホット」は、結局助からなかった。玄武の衝突によってハッチが損傷し、コクピットの中まで火が入り込むことになったのだった。  一方の久我は衝突のために後頭部の傷が開き、数日意識が戻らなかったが、打撲とごく軽い火傷だけで済んでいた。  この一件を嗅ぎつけた当局は動きを見せたが、通り一遍の調査の後、うやむやのうちに手を引いてしまった。自らも脛に傷持つ当局としては、これを機に何もなかったことにする方が得策と判断したのだろう、というのが安芸の推測だった。そしてこれに引き続き、VCDVの導入を中止する旨が当局からLOVEに通達された。  存在意義のなくなったM開発部は、LOVE上層部の決定によって解散となり、工場地区の研究棟も閉鎖された。しかし久我は、それに先んじて辞表を提出していた。表向きは傷病のため職務遂行困難というのが理由だったが、組織を半ば私して復讐を遂げた後なお職に留まるのを潔しとしないというのがその真意だと、去り際に久我はMISSESのメンバーに告げて行った。  阿久津もまた職を辞していた。これもまた組織の解散を理由に掲げていたが、その実は指示だったとは言え、G−MBの荷室に火薬を積み、久我の自爆に手を貸した己を責めてのことだった。  MISSESのメンバーも欠けていた。  最後の攻防で自殺同然の突撃を見せた由良は、一命は取り留めたものの、右腕右脚を喪った。そして精神の傷はさらに大きかった。当局に戻ることはおろか、LOVEに残ることも最早出来ない体となった由良は、療養施設での生活を余儀なくされていた。  安芸に自分の新たな場を探すと告げた饗庭も、LOVEの外にそれを求めて去っていった。その新たな場については饗庭らしく何も語ることはなかったが、紗妃が伝えたところによると、由良の心身を癒すことにそれを見出したらしかった。  そしてもう一人、木津が姿を消していた。  あの後、LOVE内の自室に運ばれてもなお目を醒まさなかった木津に、真寿美はずっと付き添っていた。これと言ってはっきりとした理由を持ってではなく、ただそうしていた方がいいと思えたが故に、シャワーを浴びることはおろか、着替えすらせずに、眠る木津の横に座っていた。だが疲労から真寿美自身も眠りに落ちてしまい、気付くと朝の光が空のベッドの上に白々と舞っていた。  そしてそれきり木津の行方は杳として知れなかった。  真寿美のごく小さな溜息に応えるように、紗妃が口を切った。  「みんな、元気かな?」  「由良さんの具合はどうなの?」  「うん……兄貴は相変わらずあの調子で何も言わないんだけど……雰囲気からするとなかなか難しいみたい」  「そうなんだ……」  「久我ディレクターとか阿久津主管はどうしてるんだろうね。真寿美ちゃん連絡取ったりしてる?」  「ううん」  「そっか……」  「でもきっと元気だと思う」窓の外を見たまま真寿美は言う。紗妃があえて避けていた名前を自ら。「仁さんも」  紗妃が思わず真寿美の横顔に目をやった。それからそれに倣って視線を戻す。  「そうよね、木津さんなんか挨拶を忘れて行っちゃうんだから」  くるりと振り返り、窓に凭れると、紗妃は殊更に明るく言葉を続けた。  「またとぼけてひょっこり戻ってくるかもね。いつもの調子で」  真寿美は右手をスカートのポケットに忍ばせ、そこに入っていたマスコットを握りしめる。それはあの後残骸として引き上げられた白虎のコクピットから真寿美が自分の手で回収した、メイン・キー・カードのキーホルダーとして揺れていたあの溶けかけたパンダのマスコットだった。  真寿美は静かに首を横に振った。  「仁さんは、戻ってこないと思う」  紗妃は眉をひそめた。  「いいの? それで」  頷く真寿美。  「だって……」  「あのね」紗妃と同じように窓に凭れると、真寿美は紗妃の顔を見上げた。「あのね、仁さんは……あの時にそれまで自分を支えてきたものをなくしちゃったの。仁さんが望んでいたのとは違う形で」  「支えてきたもの?」  「仇を取りたいっていう気持ち。前に紗妃さんから仁さんの事故のことを教えてもらったでしょ? あの時に亡くなった七重さんは、仁さんにとって一番大事な人だったの」  と、真寿美の口許に笑みが浮かんだ。  「大事な人だったの。あたしなんかじゃ代わりにはなれなかったぐらいに」  視線を外して紗妃は一つ息を吐いた。  「でも、忘れられないのね?」  「うん、忘れられない。それに、忘れようとも思わないし」  もう一度真寿美は窓に向かって立った。肩に届かないほどの髪に、夕暮れの光が跳ねる。  「あのね、仁さんもそうだし、多分饗庭さんも、由良さんも、久我ディレクターも同じだと思うんだけど、みんな守りたかったものを守れなかったんじゃないかな」  「兄貴?」  「うん、由良さんのこと。それでね、みんな、結果として守れなかったっていうことをきっとすごく重く感じてるのね」  真寿美は空を見上げるように顔を上げた。 「あたしは確かに七重さんの代わりにはなれなかったけど、それに何度も仁さんに助けられたりしたけど、でも、最後の一度だけでも仁さんを守ることが出来たもの。それは忘れなきゃいけないことなんかじゃなくって、ずっと誇りに思ってていいことだと思う。だからね……」  少しうつむいて真寿美は続ける。  「だからね、また誰かを好きになった時、あたしは好きな人を守れたんだって、守れる力を持ってたんだって、きっとそんなふうに思っていられるから……」  「真寿美ちゃん……」  「だから、忘れない」  顔を上げて微笑む真寿美。その目に浮かぶ涙が、夕陽を受けて光った。