Chase 11 − 忘れられた歌  けたたましい目覚まし時計のベルが鳴ると、丘のように盛りあがった布団からのたのたと片方の手だけがにじり出てくる。  その手は手探りで時計の在処を探り当てると、ベルのスイッチを押そうとして一度見事に空振りし、次の一撃はヘッドボードを直撃、三度目でようやく静寂の回復に成功した。  それからもう一方の腕が布団から伸びてきて、二本揃ってうんと伸びる。  続いてようやく頭が出てきた。短い髪の毛が寝ぐせであちらこちらに跳ねている。少し顔がはれぼったいような感じもする。昨夜のお酒が残っちゃったかな?  とても二日酔いとは見えない軽快さで起き直ると、峰岡はベッドから降りて足どりもまた軽やかに洗面台に向かった。  まるで少年のような威勢のよさで顔を洗うと、顔を拭ったタオルを絞って頭に巻き、パジャマのままでキッチンに立って朝食の支度、さらにコーヒーを沸かす間にクローゼットの扉を開いた。  パジャマの上下がベッドの上に放り投げられ、わずかの間露わになった、VCDVの乗り手にしては華奢な裸身が、ベージュのブラウスとワインレッドのスカートに包まれた。  頭のタオルはそのままに、シリアルとサラダとヨーグルトにカフェ・オ・レの並ぶテーブルに着くと、テレビのスイッチが入れられる。天気予報は晴れ、季節の割には穏やかに暖かくなるらしい。後はルールをよく知らないスポーツのニュースを聞き流しながら、朝食の皿をたいらげる。  甘いカフェ・オ・レを飲み干すと、食器一式は洗浄機の中に並べて、自身は歯磨きのための洗面台経由でドレッサーの前に陣取る。巻いたタオルの下で、跳ねていた髪はどうやらおとなしくなったようだ。こいつに軽くブローして止めを刺し、していないと同然の化粧をすると、モスグリーンの厚手のカーディガンを羽織り、洒落っ気のない代わりに機能性は十二分のショルダーバッグを取り上げた。  出発準備完了。  エレベータでアパートの地下に降りる。駐車場には通勤用のパステル・イエローの小さな丸い車。まさかこの車の運転手がS−RYのような代物を操り、暴走車両の相手をまでするのだとは、誰も思うまい。  キー・カードを押し込み、スタータ・ボタンでエンジンを始動させると、同じ指がエアコンとオーディオのスイッチを入れる。  エアコンは温風を吐き出すまでに少し時間がかかったが、オーディオの方はすぐに音楽を流し始めた。メディアから呼び出されたのは、彼女お気に入りのゆったりとしたストリングス。そこに自分の鼻歌を乗せると、峰岡はスロットル・ペダルを踏み込んだ。  表通りに出ると、いつも通りに整然とした通勤車両の流れ。小さな車体をひょいと滑り込ませ、いつも通りのコースをたどる。  緩衝地帯へ渡る橋のたもとで、左右から道路が交差する。通りしな、その左手で信号を待つ列の先頭に、峰岡はメタリック・グレーのカウリングを付けた大型二輪車の姿を認めて微笑んだ。  やがて背後で信号が変わり、件の二輪車が高めのモーター音を響かせながら、峰岡の車を追ってきた。  カウリングと同じ色のフルフェイスのヘルメット、革のジャンパーに身を包んだ安芸が、峰岡に挨拶代わりのパッシングを浴びせる。それに峰岡が返事をする間も与えず、安芸の二輪は峰岡を抜き去っていく。  行き会えばいつものこと故、別段スロットル・ペダルを踏み込むでもなく、峰岡はそのままのペースで車を走らせる。  「外橋」と呼ばれる、緩衝地帯と工場区域を結ぶ橋を渡り、さらに車を走らせると、一緒の流れでこちらに渡ってきた車がそれぞれの勤め先へと分かれ、その数を次第に減らしていく。そうやってほとんどの車が消えても、峰岡は走り続ける。そして区域のほとんど外れに近い、更地と廃工場が周囲の大方を占める中に地味に建つ特殊車両研究所の駐車場へと車を滑り込ませる。  始業十五分前。今日もいつも通りに到着。  「おっはよーございまーす!」  始業の鐘と同時に、今は事務服に身を包んでいる峰岡は久我の執務室に飛び込む。  久我はもう一時間も前からそうしているかのようにデスクで書類に目を通していたが、その視線を峰岡の方へ上げて挨拶を返した。  峰岡はいつも通りにコーヒーの支度を始めながら、細かい話までは決して返って来ないと分かってはいる質問を、これもいつものように久我に投げかける。  「昨日の出動の記録ですか?」  久我の答えは簡単な肯定のみ。  「『ホット』関係だったんですか?」  この問いには簡単な否定のみ。  「最近めっきり減ったみたいですね。アックス・チームが出来てから、一回も来てないんじゃないですか?」  これには久我の答えはなかったが、峰岡の言葉は事実だった。出動の中心が安芸率いるG−MBのアックス・チームとなり、峰岡や木津にこれまでの任務が回ってこなくなってから早や一ヶ月近くになろうとしていたが、その間の出動要請は五回、そのいずれもが、件の甲種手配対象者とは無関係であることが明らかとなっていた。  「これだったら、当局で本格的にG−MBを使い始めれば、MISSESもいらなくなっちゃいますね。仁さんがっかりするだろうなぁ」  「その心配はないでしょう」  予期せぬ答えに、久我に背を向けていた峰岡は振り返ったが、抽出完了を報せるコーヒーメーカーのチャイムにすぐに呼び戻された。  もちろん久我は心配のない理由を説明しはしない。  秘書同然の峰岡にも、この上司が何を考えているのか分からないことがしばしばだったが、こういう時は殊更にその印象が深まるのだった。  入れたてのコーヒーを机に運びしな、その理由を尋ねてみようかと峰岡は思ったが、結果の見当が付くので止めてしまった。その代わりにこう言った。  「でも仁さんは最近ずいぶんくさってるみたいですよ。出動のお呼びがないからって」  「ふぅん……」  久し振りに久我に呼び出された木津は、話を聞くと、煙草をくわえたままさほど気もなさそうな素振りを見せた。  「で、俺もやるの?」  「そのつもりでお呼びしました」  「進ちゃんとこだけでやってりゃいいんじゃないのかい?」  あからさまに皮肉な口調をものともせず、久我は言った。  「これもテスト・ドライバーの業務の一つと理解して頂けると思います」  木津は前歯でフィルターを二度三度噛み潰してから煙草をもみ消すと、腕を組んでソファにふんぞり返った。  「ま、そういう契約でもあったしな」  この台詞が単に了承の意味だけを含んではいないことは木津の口調からだけでも明らかだった。だがきっとそれを承知の上でだろう、久我はよろしくお願いしますと言った。  木津は反り返ったまま、視線だけを久我に向け、口を開く。  「それだけの契約でもなかったと思うけど、気のせいかね?」  久我は調子を変えることなく答える。  「これまでに『ホット』の関係する出動はなかったので、契約という点では決して反しているとは言えないと思います」  「俺としては、奴がいるかいないかは自分の目で確かめたいんだがね」  「当局からの情報では信を置くに足らないとおっしゃるのですか?」  そう言う久我の口調は、信を置かれなくてもさして困りはしないという風に聞こえなくもなかった。  「天気予報よりも精度が低いんじゃないかね。雨の予報が出ても、実際は雲しか出てきてないってことが多いような気がするぜ」  「『ホット』が麾下の部隊を直接指揮しなくなったのは、その組織が拡大していることの反映だと当局では見ています」  「当局では、か」  木津はそう言いながら反り返ったままだった上体を起こし、ポケットから煙草の箱を取り出した。そして次の一本を抜き出す手を止めて、久我に言った。  「あんたはどう見てるんだ? 『ホット』が動かない理由ってやつをさ」  久我は木津の口から新たな煙が吐かれるのを待ってから答えた。  「当局にG−MBが配備されたという情報はあちらでも入手しているはずです。恐らくは当局が動くのを待っているのでしょう」  「玄武でか?」  「G−MBで、です」  訂正されて木津は肩をすくめた。それから  「性能を掴もうって胆なのかね?」  「性能を把握するのであれば、把握に値するだけのものを十分に引き出し得るのは当局よりは私たちの側です。であればアックス・チームの出動を狙って行動に出てくる方が有効です」  「それもそうだ。てことは、性能目当てじゃない?」  「単に性能だけでなく、構造や機構の情報を得るために、車体そのものの鹵獲を目論んでいるとも考えられます」  「どうやって? ワーカーで寄ってたかってふん捕まえようってのかい?」  木津は煙草を吸うと、天井に向けて長々と煙を吐き出し、続けた。  「まさか、その格闘の訓練ってのは、そういう場合のためってんじゃないだろうな?」  「厳密に言うと少し違います。確かにワーカー等との格闘は念頭に置いてはいますが、それは必ずしもVCDV鹵獲への対策というわけではありません。あくまで実際の出動時における必要性に鑑みてのことです」  「今まではその必要性があったようにも思えないがな。それとも俺が出て行かなくなった間に、それっぽい動きでもあったかい?」  「いえ、その逆です」  おっ、という顔をする木津。  「これまでに『ホット』がその活動を表立てていないからこそ、その疑念が生じます。『ホット』が新たな手段を講じてくる場合、その前に必ず数週間の行動停止期間があったのはご記憶ですか?」  そう言われてみれば確かにそうだった。  「……なるほど」  「それにもちろん今回の訓練をテスト・サンプルの取得に留める気はありません。特にあなたにとっては」  木津はまた肩をすくめて、煙草をもみ消した。  翌日の午後、昨日までの穏やかな陽気とはうって変わって小雪でも舞いそうな曇った空の下、そして管制室に入れなかった野次馬の視線の下、テストコースのセンターフィールドに六台のVCDVがRフォームで並んだ。  「こうして見ると何てことないよなぁ」  「そりゃあさ、多少デザインが凝ってるだけで、一般の車とそう変わんないから。特にG−MBなんかそうだろ?」  「やっぱりVCDVは変形して見せないとインパクトがないよな」  そんな野次馬の声が届くはずもない管制室の中、管制官席で直々に指示を出しているのは、珍しく久我だった。  久我がマイクに向かって一言発する。  センターフィールドで数秒と経たない間に次々と立ち上がる朱雀、玄武、そして青龍。  野次馬の群れから歓声が上がる。  いや、歓声を上げたのは野次馬だけではなかった。まだ素材の匂いも取れていない新しい玄武のコクピットで、由良もまた視界の中に立つVCDVの姿に驚嘆していた。  バックパックを背負ったような幾分ずんぐりした姿にガンメタルの機体色と、一種凶悪そうにさえ見えなくはない玄武。それに比べて片や濡れるようなメタリック・ブルー、片や爆ぜるようなソリッド・レッドの、共にシャープなフォルムを持った青龍、朱雀。そして由良が玄武以外の二機を見たのはこれが初めてだった。  「すごい……」  思わず漏らしたその声をマイクが拾ったらしい。結城が声を掛けてくる。  「でもS−RYよりはG−MBの方がパワーはありますよ。S−ZCは使ったことがないから知りませんが」  「そうなんですか」  そこへ久我の次の指示が飛んだ。  「アックス3、アックス4、前へ」  雑談してるのが聞こえたかな? 少し顔をしかめてアックス4の結城が玄武を数歩進める。その横で同じく由良の玄武が前へ出る。  「お二人は当局の訓練で格闘技の経験はおありのはずですね。最初に模範演技と言うことでお願いします」  この指示に面食らったのは由良だった。確かにVCDVの基本動作はマスターしているつもりだし、出動もさほど派手な事件にこそ出くわしてはいないものの、数次に亘ってこなしてはいる。一方で当局では格闘技は確かに得意で、隊の中のみならず当局中でも相当上位にあるのは自他共に認めるところだった。しかしその両方をいきなり結び付けろとは……  そんな由良とは対照的にはっきりとした、結城の了解の復唱が聞こえた。  結城の玄武が位置を変え、由良の正面に立つ。残る四人はそれぞれがテストコース周回路へと待避する。  相対し、構えを取る玄武を前に、コクピットで由良は頭を掻いた。  結城の玄武が歩を進める。  野次馬のざわめきが鎮まった。  「いや、しかし」  小松が息を吹きかけて冷ましながら湯気の立つ中国茶をすすり、口を切った。  「強いねぇ、由良さんは」  由良は休憩室の椅子の上で頭を掻いた。  小松の言葉を受けて安芸が言う。  「さすが有段者ですね。あれだけ簡単に投げて、しかも機体を路面に叩き付けないように加減できるなんて」  「でも確か、姿勢が不安定になると、衝撃を吸収するように自動的に手足のダンパーが柔らかくなる制御がされているんではありませんでしたか?」  幾分早口に由良が問う。  「それだけじゃ全部は制御できませんよ。え? ということは無意識で?」  「なんでしょうかね?」と、また由良は頭を掻いた。  「でもそれで助かったべ。力任せに投げられたら、阿久っつぁんが泣くぜ」  ただ一人由良の仕掛ける投げを堪えきった木津も、紫煙の間から口を挟んだ。  「しかし、俺だって朱雀のパワーがなきゃ踏ん張りきれなかったよ、あれは」  「いえ、技というのは力だけでかわせるものじゃないんですよ」とこれは結城。由良と共に指南役に回った彼も、最初の模範演技で真っ先に由良に投げを喰らったのが響いて、この場では少しく影が薄かった。  「力じゃなくてすばしっこさかね、お茶汲みみたいにさ」  そう木津が引き合いに出した峰岡の青龍は、組み付かれるのを嫌ってフィールド中を逃げ回っていたのだった。もっとも結局は結城にも由良にも捕まって軽く尻餅を搗かせられたのだったが。  思い出して皆が笑い出す。  その中から安芸が身振りを交えて問う。  「ああいう技って言うのは、相手の力を受け流して仕掛けるんでしたっけ?」  「おおまかに言えばそんな感じですね」答えたのは結城。  「その辺の加減を勉強させてもらわないといけなさそうだねぇ」小松がまた茶をすすりながら言い、その様子を見て木津が笑った。  「爺むさいなぁ、小松さん」  「そりゃ三十路だしねぇ。君たち二十代の若者とはちょっとね」  「何を言ってるんですか」と、この輪の中で一番歳の若い安芸も笑う。  その脇で恐縮しっ放しだった由良はふとその丸い顔を窓の外へ向ける。  「あ、落ちてきましたね」  その言葉に、残る四つの顔が一斉に窓へと向けられる。  「ああ、やっぱり雪になったか」  「そう言えば」結城が言い出す。「雪が積もったら、VCDVでもやっぱり動けなくなるんでしょうかね?」  「あれ?」  木津がにやにやしながら口を切る。  その横の安芸は、こういう顔の時の木津がどんな類のことを言い出すのか見当の付いている様子だった。  「玄武の場合はさ、バックパックからスキーを出して履くんじゃないか?」  「それじゃ朱雀はどうするんです?」  「こたつでみかん」  「爺むさいねぇ」と小松が言われた台詞をそのまま返して、また茶をすする。  四人が笑い出す中、一人結城が真顔で、食い下がるように切り出した。  「『ホット』が出てきても、ですか?」  「その時にゃ」と口許は今まで通りににやにやしながら、しかし目からは笑みを消して木津は答える。「朱雀にもスキーを履かせてもらうさ。もっとも『ホット』がコールドなお日柄の時にお出掛けして来ればだけどさ」  同じ頃、久我の執務室。  「あ、雪」  峰岡の声に、久我は作成中の資料から目を上げ、その視線を窓の外へ移した。  窓の傍らに立ち、久我に背を向けて峰岡は外を眺めている。  「冷えると思ったら……」  そう言いながら振り返った峰岡は、久我の手がデスクの上で珍しく止まっているのに気付いた。その目は窓の外で舞う雪のつぶてを見つめている。  峰岡もまた窓へと向かう。  「でもきれいですよね」  答えはなかった。  久我は無表情のまま、手元も、そして視線をも動かすことなく、ただ雪を見ていた。  と、その唇がかすかに歪み、何かをつぶやくように動いた。  「はい?」と峰岡がまた振り返る。「コーヒーですか?」  久我の頬が微笑むかのように動いた。  「そうね、お願いします」  窓の横を離れた峰岡は、鼻歌混じりにコーヒーメーカーへと跳んでいき、そして久我の視線はまた資料へと戻った。  間もなく峰岡が熱い湯気の立つコーヒーを運んでくる。そして作りかけの資料の文面を映し出すディスプレイ・スクリーンの脇にカップを置く。と、カップと皿の立てる小さな音と同時に、スクリーンの中に電送文書の着信を知らせる画面が現れた。  遠慮して首を引っ込める峰岡。  カップに手を伸ばす前に、久我は通信文を開き、その視線の動きを峰岡の目が追った。  ややあって、一通り読み終わったのか、久我は椅子に腰掛け直すと、やっとカップに手を伸ばし、まだ湯気の途切れないコーヒーを一口飲んだ。そして珍しく、峰岡の問いかけを待たずに自ら口を切った。  「今日、当局のG−MBに初めて出動の命令が下ったそうです」  おお、という表情の峰岡。  「どんな内容だったんですか?」  この問いに、久我は通信文を要約して聞かせた。曰く、工場区域D区某所にて武装暴走車四両発見の報あり、これに対し特種機動隊所属の特一式特装車四両出動。D区内副道路線某番にてこれを補足、目標全ての捕獲連行を完了した。  「当局では特一式って呼んでるんですか。それにしても、当局の報告書ってつまんないですね」峰岡が言葉通りの顔つきで言った。「その特一式がどんなふうだったかって書いてくれなきゃ、うちに話をされてもしょうがないですよね」  「これは公式の報告の一部です」と久我。「LOVEにとって必要な情報については、別に記録と見解を書いてきています」  「ですよね。そうじゃなくっちゃ」  久我の手がまたカップを口許へと運ぶ。  「そう言えば」と峰岡。「相手は武装暴走車だったんですよね? ということは、『ホット』ですか?」  コーヒーを飲み、吐いた息に続いて否定の答えが返る。  「実際には武装はしていなかったとのことです。『ホット』との関連はないでしょう」  「そうですか」峰岡の安堵の表情。「それで、G−MBはどうだったんですか?」  後ろからぽんと頭をたたかれて、峰岡は顔をほころばせながら足を止める。振り返らなくても分かっている。こういうことをするのは一人しかいない。  「何するんですかぁ仁さん!……って、あれ?」  振り向くとそこにいたのは阿久津だった。  「何だね真寿美ちゃん、仁ちゃんにもこういうことされるんかね?」  照れ笑いをしながら峰岡は頷いた。  「ご本尊様なら自分の部屋におるよ」  「はい、ありがとうございます!」  首が抜けそうなお辞儀を一つすると、ほとんど走り出さんばかりに峰岡は歩き始める。  その背中に微笑すると、阿久津は脇に抱えた資料を持ち直し、急ぐ風もなく歩を進めた。  部屋に入ると「ご本尊様」こと木津は、紫煙にまみれながら書きかけの資料と格闘の最中だった。  「今日の訓練のレポートですか?」  「ああ、でも形だけ。要点は阿久っつぁんに話しちまったから、これはおばさん対応」  「主管に? それじゃあ、また朱雀を改造するんですか?」  「いや、今回は特に改修の要を認めず、格闘戦用途には十分に堪え得る、てのが内容。で、一つ付け加えようかどうしようか考えてたんだけどさ」  「はい?」  「由良先生が強すぎ、って書いていい?」  「お勧めしません」と苦笑いの峰岡。「それはそうと、一つニュースがあるんですよ」  そう言って峰岡は、さっき久我から仕入れたばかりの当局のG−MB初出動の話をする。  そこそこに興味を持ったような顔で聞いていた木津は、最後に相手が『ホット』ではなかったことを聞くと、にやりとした。  「そいつぁよかった」  峰岡は何も言わず、その理由も聞かなかった。久我から同じ話を聞いた時、思わず安堵の表情を浮かべたのは、木津の思いが想像できたからだった。だが、それに続く、指の骨を鳴らしながらの低いつぶやきまでは予想していなかった。  「当局なんぞの手に掛けさせてたまるかよ」  峰岡は思わず体を震わせた。  「トイレだったら我慢しない方が健康のためにはいいぞ。あ、そう言えば雪はどうしたかな」と言いながら、にらむ峰岡から逃げるように椅子から腰を上げ、木津はカーテンを開ける。  はらはらと舞う程度の雪は、積もるということもなく、うっすらと木の葉を覆っている。  「何だ、大したことないな」  「積もった方が好きですか?」  木津は少し考えるような様子を見せてから、「そうさね、どうせやるなら徹底的にやって頂きたい」  「仁さんらしいですね。それはそうと、この資料どうします?」  そう言って、本当はそれを届けるのが目的だったのに、今までそっちのけにしていた本の束を差し出した。  「ああ、その辺に適当に積んどいて」  はいという返事の後に鼻歌を続けて、本を積むためのスペースを確保すべく、峰岡は脇机の上を片付け始め、木津は新しい煙草に火を点けて再び作りかけの資料と向かい合う。  が、はっとしたようにその手が止まる。  するはずの木津の作業の音がなく、自分の鼻歌しか聞こえないのに気付いた峰岡が、作業と鼻歌を中断して木津を見た。  宙に浮いていた木津の視線が、峰岡に向けられた。  「うるさかったですか?」  小さくなって峰岡が訊ねる。  「……いや、そんなことはないさ」  そう言いながら、木津は視線を峰岡から動かそうとしない。いつもなら喜ぶだろう峰岡はうつむいてしまった。  「いや」まだほんのわずかしか灰と化していない煙草を灰皿に押しつけると、ようやく木津は口を開いた。「その鼻歌、ずいぶん珍しい歌を知ってるんだな、と思ってさ」  峰岡の顔が上がった。  「これですか? 好きなんです、この曲。でもこの曲を知ってる人って、あたしの周りには全然いないんですよ」  「丁度こんな天気の日の歌だったっけ?」  「そうですね、こういう日にはよく思い出すんです。あ、もしかして仁さんも知ってるんですか?」  「聞いたことはあるよ。本人の声でじゃないがね」  その言葉と同時に、木津の視線は峰岡を離れ、瞼に閉ざされた。峰岡の嬉しそうな表情は、それを見て訝しげなものに変わった。  木津は再び目を開けると、訊ねた。  「その歌、歌える?」  「え、え、え? ここでですか?」  「それでもいいけど」と笑いながら木津。  少し恥ずかしげに峰岡は、「外に聞こえちゃったらまずいですね」  「大丈夫だろ、ガラスの割れるような声を張り上げなきゃさ」  「うーん自信ないなぁ。前に誰の歌で聞いたのか分からないですけど、聞いてがっかりしないで下さいね」  木津の頬に曖昧な笑みが浮かんだ。  助走でもするかのようにもう一度数節を鼻歌で奏でると、峰岡は歌い始めた。  トーンの高さこそ変わらないが、話す時の弾けた調子とは違う、深みさえ感じられるような歌声が流れる。  木津は頬杖を突いて聞いていた。「あのこと」以前の自分を、そしてこの歌を聞かせられた時のことを思い出しながら。  同じだな、こんな日にはいつでもこの歌だったっけ……  唇にかすかに浮かぶ苦い笑いを、別の記憶が押し止めた。後頭部に回る木津の左手。指先が手術痕に触れる。それと共に、脳裏に忘れようとしても忘れられない記憶の残像が蘇る。爆発音、爆風、突き刺さる破片、なぎ倒される体、あの悲鳴、血、そして消えていくホット・ユニットの爆音。  止められた笑みは噛み締められた歯の間で完全に消えた。  そこに飛び込んできた峰岡の高い歌声が、木津を現実に引き戻す。  歌は強拍から最初のパッセージの再現へと移り、そして終わった。  ふうと一息吐くと、少しく紅潮した顔を両手で覆う峰岡。  「あ〜調子に乗って全部歌っちゃった!」  木津は笑いながら拍手をする。  「こんなに歌が上手かったんだ。知らなかったよ」  「ありがとうございます」と照れながら峰岡がもう一度頭を下げ、そして訊ねた。「仁さんは歌は?」  「俺が歌うと、ガラスが割れる程度じゃすまないよ。衝撃波銃もびっくりってやつだ」  いつものように吹き出しながら峰岡。  「それじゃ今度出動する時は、ぜひ見せて下さいね、歌で暴走車を止めるところ」  「おい!」と木津は小突く真似。それから腕を組んで言った。  「今度は一体いつその機会がお恵みいただけるもんだか、まるっきり見当が付かないけどな。奴からも、おばさんからも」  それを聞いた峰岡の表情に、またかすかな不安の影が落ちた。  Chase 12 − 示された目標  煙草の空き箱が壁に当たって、力無い音を立てると床に落下した。  それには目もくれず、仰向けに寝そべった木津は、空き箱を投げ付けた右腕をぶらりとベッドの脇から床に垂らした。  火の点いていない煙草が、それをくわえた唇のいらだつような動きにつれて、ひょこひょこと落ち着きなく揺れる。と、それがいきなり止まった。腹の上に所在なさげに載せられていた左腕が気怠そうに持ち上がってくると、煙草を口からつまみ上げ、三本の指の背と腹の間に挟むと、真ん中から真っ二つにへし折った。「く」の字に折れた煙草の残骸は灰皿へではなく、そのまま床の上に放り出される。  机の上の灰皿は、先の方だけ吸っては消したような吸い殻が堆く積み上げられ、灰やら灰になる前の葉やらが散らばった反故の上にこぼれて、さらに辺りを汚く見せている。  組み合わせた両手を枕代わりに、木津は大きく息を吐いた。それから腹筋運動の要領で、だが勢いよくどころか、むしろ面倒くさそうな様子を変えることなく上体を起こし、もう一つ息を吐くと、組んだ手をほどいて頭をばりばりと掻き、出てきた雲脂を振り払うように頭を左右に振った。  ベッドから下ろされた爪先が、脱ぎ捨てられたサンダルを探る。裏返しになった片方をちょいと蹴飛ばしてひっくり返し、怠そうに足をそこに突っ込む。ずいぶんと遠くに放り出されていたもう片方を、これもまた爪先でつまんで引き寄せ、引っかけると、やっと立ち上がる。  これもまた怠そうに運ばれる足との間でぺたぺたと冴えない音を立てるサンダル。やっとドアの前まで来ると、手がノブを引く。  何かの当たる大きな音と手応え。  と同時に、猛烈に甲高い悲鳴が、ドアの隙間経由とインタホン経由とで二重に部屋の中に響き渡る。  泡を食ってドアを閉じる木津。  ややあってから、木津はもう一度ゆっくりとドアを開いた。  誰もいない。  と思いきや、視線を落とすと、しゃがみ込んで頭を抱えている峰岡の姿があった。  「……ぃったぁ〜い」  「おい、大丈夫か?」すんでのところで吹き出しそうになるのをようやく堪えて木津が問う。「とんでもない音がしたけど」  額をさすりながらよろよろと立ち上がった峰岡は涙目になっている。  「ばかになっちゃったらどうするんですかぁ!」  「ごめんごめん。で?」  「えーと……あ!」  「どうした?」  両手で頭を抱えた峰岡に木津が真顔で訊ねる。峰岡は木津に向き直り、  「今のショックで何をしに来たか忘れちゃいました」  「……しばいたろか?」  飛び退きながら峰岡が言う。  「冗談ですってばぁ!」  気の抜けた微笑を木津の顔に認めてから、峰岡はようやく戻ってきた。  「入ってもいいですか?」  「おうさ、コーヒー買ってくるから、入って待っててくれや」  木津と入れ替わりに部屋に入った峰岡は、その途端充満する濃い煙に顔をしかめ、さらに例の吸い殻やら空き箱やらに目を止めると溜息を吐いて、そのひょうしに吸い込んでしまった煙にむせ返りながら、早速片付けを始めた。  換気器のスイッチを入れ、床に落ちた空き箱とへし折られた煙草、それから散らばった紙屑を拾い上げ、築かれた山を崩さないように慎重に灰皿を脇の吸い殻入れに運び、灰を被った反故を取り上げると吸い殻入れの上で払い、揃えて机に戻そうとしたところで、ふと手を止めた。  裏返しになった写真が一枚、これだけ乱雑になっていた机の、何故かそこだけ何にも浸食されていない一隅に置かれていた。  そこには二年ほど前の日付と、もう一言何かが細い女手で記してある。  峰岡はそれに手を伸ばした。が、ドアの開く音に反射的に手を引っ込めて振り返った。  「あ、悪いね、毎度毎度」  空になった灰皿を見て木津は言うと、またベッドに腰を下ろし、手にしたコーヒーを音を立ててすすった。  「んで?」  「あ……」  「何だ」と木津は身を乗り出す。「本当に記憶が抜け落ちたか?」  峰岡は額をさすって「大丈夫みたいです」と幾分早口に言う。「でですね、S−ZCなんですけど」  木津は一旦引っ込めた身を再び乗り出す。  「部品の交換だけで済んじゃったそうです。もう動かせるそうですよ」  木津は天井を仰いで、さっきまでのとは違う長い息を吐いた。  今日も格闘戦の訓練があったのだが、その時に木津は朱雀の一部を損傷させてしまっていたのだ。さっきまで腐っていた理由の一つはそれだった。  「で、阿久津主管からおまけの伝言です。何があったか知らないけど、あんまりはしゃぐな、だそうです」  木津は肩をすくめた。はしゃいでいるつもりはさらさらなかったんだがな。むしゃくしゃしてはいるとしても。  「それからですね」峰岡は続ける。「今日これからなんですけど、アックスは安芸君以外みんな出払っちゃうんです。結城さんと由良さんは夕方から当局に行くそうですし、小松さんは用事があるから帰らなきゃならないって……」  「皆まで言うな」  そう言って制する木津の顔は、峰岡が思わず後ずさるほどにやついていた。  「やりますよ、不寝番だって何だって」  そして言うまでもなく、これがもう一つの理由だった。  暗い室内で、スクリーンに映し出された画像の色彩だけが、机の上と、スクリーンに見入る顔の上に、毒々しい光を投げている。  右手の動きに応じて次々と画像は現れ、消える。一連の画像に続いて、今度はいくつかの表がスクリーンに出てくる。顔がそれに近付けられる。表に並べられたいくつもの数値を食い入るように見つめる目。  再び右手が動き、繰り返されるのも何度目かになる画像を、ほとんど執拗なまでに表示させる。  現れたのはRフォームのG−MB。ガンメタルの車体色は、それが当局の仕様に合わせた「特一式特装車」ではないことを示している。それから同じくG−MBのWフォーム、Mフォームの画像。続いて青いボディ。S−RYの三態が前に倣ってその姿をスクリーンに現す。  右手が操作を続ける。  S−ZCを映すスクリーンを前に、唇は声にならない言葉をつぶやいた。  脇に立っていた男がそれを聞き取ろうとするようにスクリーンに顔を寄せた。  スクリーンに釘付けになっていた視線がその時近付いてきた顔へと移され、右手の指がスクリーンの中を指した。  男はまず無言で頷き、それから念を押すように低い声で言った。  「こいつですね」  続けざまに大きなくしゃみをした木津に、安芸がちり紙を箱ごと手渡す。  鼻をかみながら礼を言う木津。  「どっちかにしませんか? 話すか鼻をかむか」  ちり紙を丸め、とどめに鼻をすすると、  「ま、いいじゃないか」  そして伏せたカードを再び手にする。  苦笑しながら手札を切った安芸が場のカードを全てさらっていく。  「ひっでぇなぁ、裸かよ」と舌打ちしながら木津は自分のカードを場にさらす。  安芸がカードを切り、場に出された木津のカードをこれもまた取ると、  「上がりです。六点」  「あひゃー!」  大袈裟に両手を上げてみせる木津。場に散ったカードをかき集めて切り始める安芸の弾けない口調。  「これで四十三対ゼロですよ。レート下げますか?」  「なぁに、まだ三回ある」  「……煙草の火が消えてますが」  木津は寄り目をして煙草の先を見ると、平静を装ってライターを取り出し、火を点け直すと三、四度立て続けにふかしてから配られたカードを手にした。  安芸が手札から最初の一枚を切り、台札に手を伸ばすと、零時の時報が鳴った。  「お客さん、来ますかね」と安芸がつぶやく。切った手札もめくった台札も安芸には戻ってこない。  が、場札を見た木津は逆に勢い込む。  「来た来た!」  威勢良く手札を切り、台札をめくる。  「よし来た! 大当たりだぜ」  場札をかき集める木津を笑いながら見る安芸。峰さんは、歳の割にすることがおじさんぽいと仁さんのことを言っていたけれど、どうして、こんなふうに夢中になるところはむしろ子供っぽいじゃないか。きっと今夜も喜んで当番の代役を引き受けたんだろう、おもちゃを欲しがる子供のように、「ホット」に会いたい一心で。  結局その回は木津が十四点を上げた。  「運が回ってきたな」  札を切り混ぜながらにやりとする木津に、安芸は黙って微笑んでいた。  十数分後、安芸の穏やかな微笑はそのままだったが、木津のにやりは高笑いに変わりつつあった。  「こいつぁラストで大逆転もありだな」  配られた手札を見た木津の顔は笑いにひきつらんばかりだった。  「おっしゃ、行くぞ」  木津の指が手札の一枚を摘み上げた。  その時、木津にとっては久々の、そして待ち焦がれていた音が聞こえた。インタホンからのチャイムの三連打。手札を伏せて、安芸が情報を読みに行く。  「……お客さんです。ワーカー五、W区の廃棄物貯蔵エリアで……砲撃訓練?」  目を上げると、木津が自分の手札を惜しそうに眺めている。  安芸は言った。  「運が向いてきましたね」  先を走るG−MBが少し速度を落とすのを見て、木津もスロットル・ペダルを踏む足を少し浮かせる。  ブレーキランプの向こうに、別の光が闇に現れ、消える。どうやらあれが例の砲火らしい。  「結構大きいのを担いで来ているようですね」と安芸。「あの光り方からすると」  それを聞いて木津はにやりとした。相手はでかければでかい方がいい。その方がこっちも派手に暴れられる。ただし勝手に暴れるわけにはいかないのが辛いところだ。指揮を取るのは俺じゃなくて進ちゃんだからな。  その安芸から早速指示が出る。  「ライト落とします。ソナーで走行」  「了解だよ」  木津の左手がコンソール・パネルのスイッチの上で踊り、消されたライトの光の代わりに、フロント・ウィンドウにはソナーからの情報から合成された電光の描く路面が浮かび上がる。と、その直後、それをかき消すような強烈な閃光が鉛色の夜空に走った。  「何だ?!」  木津は反射的にブレーキを踏んだ。  同じく前でG−MBを止めた安芸が言う。  「照明弾ですね。しかしどうして?」  「その訳ってのを訊きに行くべさ」  木津はさっきの自分の言葉も忘れたか、ハンドルを切り、安芸の前に出るとペダルを踏み込む。引きつるように歪む唇を、舌が一、二度舐めた。  「仁さん、慌てないでください。向こうからも見られてます」  安芸の言葉を裏付けるかのように、背後に弾着の爆発音。だがそれははるかに後方からだった。有効射程外だとしても、単なる威嚇にしても、狙いが不正確過ぎる。  何か企んでいる?  安芸もペダルを踏む。S−ZCを追い始めるG−MB。  向こうからの砲撃はあれ以降ない。それどころか、「訓練」砲撃も止んでいるらしく、砲火も見えない。照明弾の残照もほとんど消えている。  逃げたか? 待ち伏せか?  ナヴィゲータの画面によると、向こうの陣取っているのは長大な廃棄物貯蔵庫の向こう側、運河に面した積み出し作業場らしい。  安芸はその旨を木津に伝えると、言った。  「仁さんは西側から回ってください。先に仕掛けてもいいですけれど、くれぐれも無理をしないでください。車体だって修理したばかりなんでしょう?」  「おうさ」  どうやら仁さんは今の言葉は聞いてくれていないらしい。加速していくS−ZCのテールを見て安芸はそう思った。  一方その木津はコクピットでひとりつぶやいていた。  「欲求不満だけは解消させていただくぜ。とりあえず奴がいようがいるまいがな」  後輪を滑らせながら十字路を曲がる。横Gが木津の攻撃的な気分に拍車をかける。  廃棄物貯蔵庫の壁が迫る。速度を落とすことなく木津はハンドルを切り、長い壁に沿ってS−ZCを走らせる。  突然壁が切れる。やはり減速なしで木津は角を曲がり、細長い長方形をした倉庫の短辺を数秒で走り切ると、角でS−ZCを朱雀に変形させ、警戒姿勢をとって停止した。  木津の舌が唇を舐める。  砲声はしない  暗視装置のスイッチを入れ、建物の陰から向こうをうかがう。  見えた。安芸の言った通り、長く太い砲を中心に据え、その周りをハリネズミのように砲身が取り巻いている、凶悪そうな武装ワーカーのシルエットが一つ。  一つだと?  第一報ではワーカーは五両だと言っていたはずだ。ナヴィゲータの情報を信用すれば、隠れる場所はない。他は逃げたのか?  木津は舌打ちをした。期待していなかったと言えば必ずしも正しくはないが、久々の出動でもはずれを引かされたわけだ。こんな状況で奴がいようはずがない。  レシーバから安芸の声。  「仁さん、仕掛けなかったんですね」  木津は応える。  「あんまり焦ってやるほどのものでもなさそうじゃないか」  「そちらから目標は確認出来ますか?」  「ああ、二〇パーセントだけな。そっちはどうだ?」  「やはり一両だけしか確認出来ません。それに、確かにこれもエンジンが動いていないように見えます」  「トラブって逃げ損ねたクチか? そんな間抜けな代物じゃ、絶対『ホット』の息の掛かった奴じゃないな」  「どうします? 期待外れだったかも知れませんが、やりますか?」  「俺が?」  「たまには動かないとなまりますからね。ここはお任せします」  「ありがたくって涙が出るね」  苦笑いしながら木津は朱雀の左腕をワーカーに向ける。  「ま、最初はノックぐらいしないと」  トリガーが引かれる。  衝撃波の直撃を受けて、砲身の何本かが折れ曲がった。それでも本体は動こうとする気配をみじんも見せない。  「本当にいかれてるのか? また中で自殺したりはしてねえだろうな」  「とりあえずは武装解除させますか」  「そうだな」  応えながら木津は銃の設定を変更した。そして再度トリガーを引く。向こう側からは安芸もまた一呼吸遅らせて衝撃波銃を放った。  ワーカーを覆うような砲身が次々と潰される。残るは大型の一門のみ。  「ここまで来ても抵抗なしか」  「考えられるのは三つですね。トラブルで本当に二進も三進もいかなくなっているのか、それで中で自殺しているか、それとも」  「それとも?」  「こちらを巻き込んでの自爆でも企んでいるのか」  木津が口笛を長く鳴らした。  「ただし他の四両がどこかに隠れているのでなければ、という前提でですが」  ふん、と鼻から息を吐くと、木津は言う。  「確かめてみるか。進ちゃん、ライトで俺を追え」  そう言うが早いか、朱雀が貯蔵庫の陰から飛び出し、ハーフに戻ると沈黙する武装ワーカーにまっしぐらに突っ込む。それを玄武のライトが忠実に追いかける。  ワーカーの沈黙は変わらない。玄武が照射を続けながら周囲を警戒するが、それ以外からの動きも全くない。  「本気で寝てやがんのか?」  砲口の正面に躍り出したハーフが再度朱雀に変形しジャンプ。闇の中でスポットライトを浴びた緋い痩躯に、しかしやはり何の攻撃も仕掛けられはしなかった。  舞い降りた朱雀は砲身に馬乗りになる。  見ている安芸の方が不安に駆られてくる。もう一つの可能性、朱雀を巻き込んでの自爆という可能性はまだ否定されていないのだ。  ライトに照らし出された朱雀とその下のワーカーを安芸は見る。そして気付いた。  「仁さん、右爪先の少し先にハッチがあります。開けられますか?」  「どれさ?」  砲身の上で腹這いになった朱雀の右手が、ワーカーの側面を探り、一本のレバーの上を人差し指がなぞった。  「それです」  「ちょっと無理だな。指が太過ぎる……進ちゃん、援護頼む」  止める間もなく、安芸は開かれる朱雀のハッチと、そこから滑り降りる木津の姿を見ることになった。  安芸の左手は衝撃波銃の制御板の上に移された。生身の人間と金属の塊と、両方に気を配らねばならない。それに一門の銃で対応しなければならない。  警戒姿勢をとる玄武が、こういう時のための装備も何も入っていない空っぽのバックパックを負う背中をかすかに揺らした。  一方そんな安芸のことは最初から念頭に置いていない木津は、ワーカーのハッチに続くステップに降り立った。  ノックをする。もちろん返事のあるはずはない。それを確かめると、木津はハッチのハンドルを引き、同時に身をかわした。  中からは怯えたような声だけが聞こえてくる。他には発砲も何もない。  当局ならこういう時は拳銃を構えて飛び込むんだろうけどな。中途半端に手伝いをやらされてる民間のつらいところだ。そう思いながら、木津はドアの陰からコクピットの中を覗き込んだ。  シートの上で、身を強ばらせてハンドルやらレバーやらを手当たり次第に動かしている多分まだ二十歳そこそこの若い男。その怯えたような顔が木津のヘルメットに向けられては、またむやみにハンドルを、レバーを動かそうとする。  「よせよせ」と、男のものすごい表情に笑いを誘われながら木津が声を掛ける。「トラブってるんだろ? 諦めて降りろ」  男がもう一度木津の顔を見た。と、いきなりシートから腰を上げ、低い姿勢のままで猛然と、叫び声を上げながらハッチの方へ飛び出してきた。  木津は半歩退くと、さげた足でハッチのドアを思い切り蹴った。  ドアの閉じる音と、飛び出そうとした男の頭がそこに勢いよくぶつかる音とが一緒になって響く。  それを聞きつけてか、安芸がレシーバ越しに声を掛けてくる。  「仁さん? 問題ないですか?」  「ああ、今のところはな。こっちの兄ちゃんは丸腰らしいし、このワーカーも本気で動かないらしい。そっちはどうだ?」  「動きはありません」  「ふむ」  応えとも言えないような応えを返しながら、木津はハッチをゆっくりと開けた。  誰もいない。  と思いきや、視線を落とすと、足をこちらに向け、狭いコクピットの中でくずおれている男の姿があった。  「こっちも動きがなくなっちゃったが、どうする?」  「また自殺ですか?」  「そんな大仰なもんじゃないよ」と木津は経緯を説明して聞かせる。  微かに笑いを含んだ安芸の声。  「同じことを今日峰さんにやってませんでしたか? たんこぶが出来てたみたいですが。それはともかく、当局に引き上げの要請を出しましょうか。乗員はコクピットに閉じ込めておけば大丈夫でしょう」  「ああ、頼むわ」  そう言いながら木津は、結局自分の前では沈黙したままだった巨砲と、そこに跨っている朱雀を見上げた。久々にしては、何ともつまらない出動だったな。朱雀よ、お前さんの出番なんざ、無いに等しかったじゃないか。今夜は「ホット」相手とはいかないまでも、せめて一暴れくらいはさせてもらえるかと思ったのに。  金属製のステップを蹴り、木津は一歩踏み出してふと足を止めた。  「進ちゃん、質問」  「何ですか?」  「俺はどうやって朱雀に戻りゃあいいんかね?」  「え?」  「いやさ、降りてくるのは何も問題なかったんだが、登るには足場も何もなくってさ」  「……仁さんって結構後先考えないで行動する傾向がありませんか?」  そう言いながら、玄武がゆっくりとこちらに近付いて来た。  「済まんかったね」  にやつきながら木津は差し出された玄武の手のひらに腰掛けた。そしてコクピットの脇まで持ち上げてもらうと、身を翻してシートへと滑り込んだ。  同じように身を翻して、今度は朱雀が砲身から飛び降り、着地する。  と、安芸のつぶやきが聞こえた。  「おかしいな……」  「どうした?」  「当局の担当が応答しないんです」  「久我のおばはん通してもらったら? こういう時は出て来てるんだろ?」  「そうですね」という応えに、LOVEを呼び出す安芸の声が続いた。  木津の予想通り、久我が応答してきた。  だが状況を伝えた安芸に久我の返してきた言葉は、予想外のものだった。  「当局は現在事情があって身柄、車両共に収容出来ないと伝えてきています。止むを得ないので、LOVEに一時収容を行うことにしました」  「このでっかいワーカーを、俺達二人してえっちらおっちら担いで帰って来いってのかい? 棒か何かにくくりつけてさ」  茶々を入れる木津に、久我はいつも通りの平静さで応える。  「これから回収班を送ります。それまで両者は状況を保持」  「へーへー」  答えながら木津はワーカーにもう一度視線を投げた。  重たげな塊のように見えるそれは、あの若い男をコクピットに入れたまま、相変わらず動く気配を見せようとはしなかった。  午前二時。  久我の執務室に、引き上げてから着替えもしていないままの木津と安芸、そして夜中に飛んで来たにしては妙に乱れのない姿の久我が顔を揃えた。  「今回はやはり妙な印象は拭えません」  一通りの報告を済ませてから、安芸がそう付け加えた。  「そうだよな」と木津が口を挟む。「あんだけのでっかい大砲を積んだワーカーだ、どう見たって奴の配下だろうと思ったら、抵抗も何も無しときたもんだ。関連があるんだかないんだか、それさえも分からん」  「少なくとも」久我が言う。「重作業車両については、明朝当局の許可を得てからこちらで解体作業を行いますので、例のマーキングの有無は確認出来ると思います」  「乗ってた奴はどうするんだ?」  「当局の指示があり次第、身柄の引き渡しを行います」  「それもよく分かりません」と、これは安芸。「今回に限って、何故当局が直接収容に当たらなかったんでしょうか?」  「理由はこちらには伝えられていません」  木で鼻を括ったような久我の口調に、思わず木津が切り出す。  「理由も聞かずにはいそうですかと返事しちまったって訳かい?」  調子を変えることなく久我は答える。  「こちらから当局にそういった内容を詮索することは出来ませんので」  毎度のことながら、この人感情ってもんがあるのかね。木津は腕を組み、椅子の背もたれに上体を預けた。  そこに再び安芸。  「で、乗員の身柄は引き渡しまではどこに置かれるんですか?」  「いくら何でも留置場までは完備してないだろ? ここには」と木津の茶々。  「代用出来る施設は存在します」  また一言言いそうになる木津に先んじて、安芸がその施設の何たるかを問う。  「例えば什器倉庫のように、外からのみ施錠出来て、屋外へつながる窓のないところであれば問題はないでしょう」  木津は煙草を取り出そうと胸ポケットを探ったが、ドライビング・スーツのままだったことに気付いて、ポケットを探り当て損ねた右手をそのまま顎に持っていき、ぽりぽりと掻いてから大きく息を吐いた。  「で、そこに放り込むべきご当人は、今はどこに置いてあるんだ?」  「今は医務室で検査中です。額に打撲による裂傷が認められるようですが、脳波には問題ないとの報告が来ています」  安芸が木津にちらりと視線を走らせた。木津が横目でそれに応える。  久我はそれに気付いたらしかったが、特に何も言わずに続けた。  「もし明朝の段階で当局からの身柄引き渡し要請が来ないようでしたら、お二人には臨時の留置場の準備をお手伝いいただくことになるかも知れません。その際はよろしくお願いします」  ドアが開き、灯りが点る。  昼間峰岡が片付けたままの状態を保っている部屋。戻ってきた木津は、キー・カードを整頓された机の上に放り出そうとして、ふとその手を止めた。くたびれたパンダのキーホルダーが揺れる。  すっかり見通しが良くなった机の上。紙屑の谷間になっていた、昨日から置きっ放しにしていた写真のある一隅までが見渡せた。  木津は机から写真を取り上げるとベッドに腰掛け、手にした写真を見ながら、低い、それでいて不思議と優しく聞こえる口調でつぶやいた。  「……ごめん、今日もだめだったよ」  そして似つかわしくない溜息を一つ吐くと、右の手のひらに顔を埋めた。  「くそっ……いつまで……」  穏やかな微笑を留めた写真が、木津の左手で震えた。  Chase 13 − 捕えられた男  電話を切ると、久我はその手ですぐにインタホンのボタンを押した。  二回目の呼び出し音が鳴り終わる前に、応える男の声が聞こえてきた。  「MISSESです」  「久我です。今から二人ほど手をお借りしたいのですが?」  「由良ですけど、結城さんと私でいいでしょうか?」  「お願いします。場所はこちらではなく、B棟の什器倉庫です」  そう聞いて訝しげにながら了解の返事を返す由良に、久我は峰岡を倉庫の前で待たせておく旨を付け加え、再度お願いしますと念を押すと、インタホンのスイッチを切った。  しかし訝しげなのは由良の答えだけではなかった。久我もまた右手にペンを弄びながら、その眉間に微かに皺を寄せている。  インタホンから離れると、由良は首を傾げながら振り返った。  「ディレクター?」  訊ねた小松に由良は頷き、今のやりとりをかいつまんで聞かせた。  「はぁ、什器倉庫ですか。力仕事でもしろというのかな」  つぶやきながら結城は読んでいた新聞の画面を閉じると、立ち上がって一つ伸びをし、ついでに上体を左右に二度三度と捻った。  「そんなに体力が有り余ってるようにでも見えるんですかね?」  「まあ、取り敢えず行ってみましょう。峰岡さんが向こうで説明してくれるようです。それじゃ、小松さん、済みませんけど後はお願いします」  湯気の立つ中国茶をすすりながら、いってらっしゃいという風に手を振る小松を後に、二人はMISSESの詰所の如き部屋を出た。  ドアが背後で閉まる。歩き始めると、先に結城が口を切った。  「昨夜は我々の代わりに、木津さんが代打で出場だったらしいですね」  「ああ、安芸リーダーだけが残ってたんですか。あれ、出場ってことは、出動があったということですか?」  「いえ、そこまでは聞いていませんが。ところで、昨日の反響はどうでした?」  「反響、ですか?」  「こっちで活動していることについて、向こうでいろいろ言われたでしょう」  由良は照れたように頭を掻いた。  「いろいろ言われたというよりは、あれこれ訊かれました。G−MBのこととか、出動のこととか」  結城は微笑しながら頷く。  「私の時もそうでしたよ。根掘り葉掘りの集中攻撃で、特にMフォームのことは興味を引いてましたね」  「言われました。操縦が複雑じゃないかとか。でも向こうにだって導入されたわけですし、今思うとそれほど特別なことをしているような気にはなりません」  「そうですか……確かにG−MBがそういう一般向けのような設定になっているというのはあるでしょうけれど」  「結城さんは以前S−RYに乗ってらしたことがあるんでしたね。やっぱり違うものですか?」  「基本的な操作系などはそれほど差のあるものではなかったですが、G−MBの方が扱いやすいような気はしますね。バックパックを背負わせた分、バランス制御を緻密にしたと阿久津主管は言っていましたし、それにS−RYはあちこち改修されているとは言え、最初の試作機だそうですからね、完成度はG−MBに大きく譲るでしょう」  「S−ZCが最初じゃないんですか?」  「阿久津主管によると、あれは試作機というよりは実験機に近いらしいですよ。実際の運用は念頭に置いていないとか」  「ああ、それで木津さんが専属のテスト・ドライバーになっているんですね。車体もワンオフで。結城さんもあれには乗ったことがないんですか?」  「ええ」  と答えしな、廊下の角を曲がると、高く弾けた声が二人を出迎えた。  「結城さん、由良さん、ここですぅ!」  峰岡の片手は二人に振られ、もう一方の手は台車の上に掛けられている。  少し足取りを速めて近付いた由良が問う。  「台車なんか持ってきてるということは、もしかすると荷物運びですか?」  「当たりです。この部屋の中身をA棟の倉庫の方に移して欲しいんです」  「で、代わりに何か入れるんですか?」と結城が訊ねる。  「さあ、そこまでは聞いてなかったです」  「久我ディレクター直々の指示だから」結城が再び口を開く。「何か意味があるんだろうけど……しかし地味な作業だな」  峰岡は少し困ったような顔をして見せてから、倉庫のロックを解除し、扉を開けた。  明かりが点されると、微かに埃っぽい臭いが漂い出す。由良が中に足を踏み入れる。  「何だ、大して物は入ってないですね。手早く片付けてしまいましょう」  久我は再びインタホンに向かい、呼び出しボタンを押した。五回の呼び出し音が鳴り終えて、やっと応えが返った。  「医務室です」  久我は、名乗ると直ぐに、昨夜拘束した武装ワーカーの乗員の様子を訊ねた。  何ら慌てた風もなく相手は答える。  「ご指示の通り鎮静剤の投与をしていますので、眠ってはいますが、意識が戻ったことは確認しました。外傷も大したものではなかったですし。身柄引き渡しですか?」  「いいえ、当局にはまだ移しません。当面こちらに即席の留置場を設けて、そちらに収容することにしました。準備が出来次第そちらへ移動します。問題はないですね?」  医務室の同意を受けた久我は、移動は追って指示する旨を伝えて通話を終えた。と、間髪を入れずにインタホンの呼び出し音が鳴り、阿久津の声がそれに続いた。  「よろしいですかな?」  「どうぞ」  資料を小脇に抱えた阿久津は、部屋に入ってくるなり言った。  「お忙しそうですな」  こういう台詞に久我が答えを返すことはないのを承知している阿久津は、椅子を引き寄せて久我のデスクの前に座り込み、無造作に資料を机上に置いた。が、その態度とは裏腹に、どことなく浮かれたような雰囲気が表情からは感じ取れる。次に続いた言葉もまた然りだった。  「予定通り最終チェックが完了しましたです。ディレクター殿の承認が頂けたら、後はロールアウト待ちですわ」  置かれた資料を取り上げるだけ取り上げて、しかしページを繰ることはせずに、久我は訊ねた。  「チェックでの不具合による最終的な修正個所はどの程度ありましたか?」  阿久津はにやりと笑って見せると、椅子にふんぞり返る。  「皆無、です。これまでになく万全の仕上がりと言ってもいいでしょうな」  「一号機の実績のある設定を基に調整をされているものとうかがっています。それが仕上がりの方へも良い影響を与えているようですね」  全く表情というものを感じさせずに言われた久我の言葉に、阿久津の顔からさっきまでのにやりが消えた。口ごもるような阿久津の返事。  「まあ、そういう事実はありますな」  「その状態で」と変わらぬ調子で久我がさらに問う。「一号機と比較して、最終的な向上値はどれほどになりましたか?」  これには阿久津は準備していたかのように即答する。  「モーターの出力、火器の威力、操縦性、バランス制御諸々含めて、トータルで二十二ポイントのアップになっとります。変形速度にあまり手を着けられなんだのが惜しいと言えば惜しいですがな」  「結構です。資料はこれから確認させていただき、その上でロールアウトの日程もお知らせすることとします」  この女がこう言えば、話はこれ以上続かない。承知の阿久津は腰を上げると、椅子を元の場所に戻しながら、もう一点だけ訊いた。  「二号機も木津君が使うんですかな?」  妙にはっきりした答えが戻った。  「まだ決まっていません」  鼻を鳴らしながら阿久津が出て行くと、提出された資料に目をやる間も久我に与えることなく、インタホンが呼び出し音を鳴らす。  ボタンを押して呼び出し音を止めると、代わりに峰岡の声が飛び出してきた。  「倉庫の引っ越しが終わりましたぁ!」  「……はい、はい分かりました」  通話を終えた峰岡は、二人に告げた。  「お疲れさまでした。これで釈放です」  由良が軽く吹き出した。  「釈放って……今のは懲役ですか?」  「いけませんよぉ〜、当局出身の人が懲役になっちゃあ」  立てた人差し指を横に振りながら峰岡。  由良は人懐っこそうな丸顔をふるふると横に振ってみせる。  「なりませんなりません」  「そう言えば、さっきの什器倉庫は留置場か独房に持ってこいだったな」と結城が何気なく言った。「もしかして、そのつもりだったんじゃないですか、久我ディレクターは」  「だからなりませんってば」  由良が笑いながら、しかし半ば大声になりながら言う。  「いや、そうではなくて、LOVEの中に身柄を確保した容疑者を置いておくための場所を作るっていうことです」と結城が言う。  「え〜、それはないんじゃないですか?」 峰岡が口を挟む。「今までだって、必ず当局に引き渡しでしたよ。ここにそんなに長い間引き留めておくことなんてなかったです」  「そうですね。それじゃ当局の怠慢です」  結城の言葉に由良が頷く。  「当局の怠慢じゃないのか?」  話を聞くや否や、木津は久我に食ってかかるように言ったが、次の久我の言葉を聞くとそれを忘れたかのように表情を一変させた。  「それと同時に、車両調査の許可がありましたので、作業に着手しました。先程結果が報告されてきましたが、砲の機構部分に例のマーキングが確認されたそうです」  「奴の絡みだったのか」  木津が拳をもう一方の手のひらに打ち付ける音が執務室の中に響く。  「だがそれにしちゃあ、あんまりにも間抜けだぜ、あの兄ちゃんはさ」  「いずれにせよ、こちらは当局の指示に従う他ありません。改めての指示があるまで、身柄をこちらで預かります」  「奴の子分をね。そりゃ嬉しいこっちゃ」  久我の上目使いの視線を感じて、木津は話をそらすように続ける。  「で、例の即席留置場はどうなった?」  「既に準備済みです。あなたのお手を煩わせることはなくなりました」  「左様でございますか」とおひゃらかすと、木津は次の煙草に火を点けた。  「で、本題ってのは?」  久我はテーブルの上に裏返しに伏せられていた資料を取り上げ、木津の方に差し出す。  「S−ZCの二号機が完成しました」  ひときわ大きな煙の塊を吐くと共に、木津は歓声を上げた。  「それはそれは重畳至極。しかし、ここまでこぎ着けるのにずいぶんと時間がかかったみたいだな。俺がここに来た頃にはもう調整段階に入ってたはずだよな?」  そう言いながら資料を手にする木津に、久我が答えた。  「あなたのご協力を得られたおかげで、数多くの改修要目が新たに見付けられました。進捗の遅れはそのまま性能の向上に繋がったものととらえています」  笑いを噛み潰すような口許を見せ、木津は資料のページを繰った。  車体のフォルムは今木津の乗っている一号機とほとんど変化はない。だが最大出力や衝撃波銃の出力などは数値的には多少の変化が見えている。それから運転席周り。スイッチの配置が少し変更されている。  「……それほど大きく変わってるような感じはないんだな」  「同じS−ZCですし、性能の向上の為に外見的な要素を変更する必要も特には見出されなかったようです。しかしご覧頂いているとおり、数値面では性能向上されていますし、その他単純に数値化できない部分についても相当の部分に改修が施されています」  「阿久っつぁんにもレポートを出しまくったしな。それを盛り込むのに大わらわになってたってわけか」  「計算値では、一号機と比較して二十パーセント以上の性能向上となりました」  「計算値では、ね」  「そうです。そこで一号機のドライバーであるあなたにロールアウト時の試験走行をお任せし、同時に一号機との総合的な性能比較を行っていただきたいと思います。これが今日お呼び立てした本題です」  煙草が灰皿で潰された。  木津は頬に浮かんだ上機嫌そうな笑みをもはや押し止めようともしなかった。  「そいつぁ願ってもないね。で、いつ?」  一旦手にしたコーヒーのカップを口を付けずに皿に戻すと、久我は答える。  「S−ZCは試験用車両の位置付けを変えていませんので、ごく小規模に行うつもりです。ですから、それほど準備期間も必要は無いでしょう。あなたには操作説明書をお渡ししますが、そこから今回の変更点について理解を得ていただきたいと思います。そのための時間だけを取ろうと思っています」  「まだるっこしいな」  「それだけですから、一日は掛からないでしょう。今週末ではいかがですか?」  木津は腕時計に目をやった。  「……三日後か。ま、いいだろ。正直な話、今すぐにでもやっちまいたいところではあるがな。で、予習用のマニュアルってのはどこにある?」  「お手元の資料に含まれています」  「早く言ってくれ」  木津の手が資料の冊子をかき回す。  「ああ、これか。それじゃさっそく部屋で読ませてもらうとするか」  立ち上がった木津はさっさとドアへと向かう。が、そこで足を止めると振り返った。  「で、このじゃじゃ馬二号機は俺が飼い慣らすようになるんかね?」  「まだ決定はしていませんが、そういう方向で運ぶことになると思います」  「そうしたら一号機は?」  「テスト機として動態保存することになるでしょう。もっとも、これも確定ではありませんが」  木津はまた微笑んだ。  「安心したよ、すぐさまスクラップにするとかじゃなくってさ。何たってあいつにはいろいろ世話になってるし」  「あ、仁さんがスキップしてる」  峰岡が指さす方向を、他の四人が一斉に見た。言葉の通りスキップというわけではないものの、足が地に着いているかどうかはいささか心許ない様子で木津が来た。  「これはこれは皆様お揃いで」とおどけた調子の木津に、峰岡が問いかける。  「何かいいことがあったみたいですね?」  すると木津はまた峰岡が後ずさりしそうな笑みを満面に浮かべて答えた。  「お・お・あ・り」  次に興味を示したのは結城だった。  「その資料に何か関係あるんですか?」  木津は答えずに、脇に抱えた資料の表紙を見せた。  覗き込む四組の目。  「やっとロールアウトまでこぎ着けたんですね」と安芸が口を切る。「プロトタイプから半年かかりましたか。これは相当手が入っているはずですね」  そう聞いた木津はさらににやつく。  今度は結城が問う。  「実際のロールアウトの日取りまで決まったんですか?」  「おうさ。今週末だ」  「ずいぶんと急ですね」  「そんなことはないだろ。同じ朱雀だぜ。違いだけ把握しときゃ、転がすのに何の問題もないはずだ。本当なら今すぐにでも行きたいところだったんだがな」  「昼食も抜きでですか?」  この由良の問いにきょとんとする木津。  「……あ、もしかして、お揃いだったのはこれから食堂に行くのか?」  「そうです。よろしかったら木津さんも一緒にいかがですか?」  「そうですよ」と峰岡が追撃。「たまにはみんなで食べるのもいいですよ」  「そうだな。今そう言われたら急に腹が減ったよ。ご一緒致しましょうかね」  食堂の一角。  件の五人が丸テーブルを占領している。  「それじゃあ」パスタ・ソースの付いたフォークを片手に、峰岡が話を続ける。「今乗ってる方のS−ZCは、どうなっちゃうんですか?」  口をもぐもぐやりながら、言葉にならない言葉で答える木津に、安芸が言う。  「だからどっちかにしませんか? 話すか飲み込むか」  これには従わざるを得ず、木津は飲み下した後の口の中をさらに水で洗い流してから、久我から聞いた話をそのまま伝えた。  「ということは、誰かが乗り換えるとか、ドライバーを補充するとかいうことはないんですね?」と結城。  「らしいね」  「結城さん、実はS−ZCを扱ってみたかったんですか?」安芸が問いかける。  「正直な話、それはありますね。やはりここに派遣されてきた以上は、VCDVの全部を一度は扱ってみたいと思いました。でも性能テスト機だということでしたから。今度リリースされる機体もそうなんでしょうか?」  「じゃないのかな」と木津。「少なくともおばさんはそう言ってたね。何かあんまりそんな感じはしなかったけどさ」  「いずれ当局に導入されることはないんでしょうね」と大盛りのカレーライスをあらかた平らげて由良が言った。  「そうそう」と口の中のフライを今度はちゃんと飲み下してから木津が言う。「当局と言えば、進ちゃん聞いたか? 昨夜の奴、結局引き渡しの目処が立ってないんだと」  そうなんですか、という安芸の声に、峰岡の声がかぶさった。  「昨夜の奴って何ですか?」  「あれ? 知らなかったんだ」  木津は昨夜の出動の経緯を語った。  「……で、容疑者の身柄はまだこのLOVEにあるんですか?」由良が訊ねる。  「らしいね」  答えた木津に安芸が付け加える。  「そう言えばディレクターが、倉庫を仮の留置場代わりにするとか話していました」  「え〜、本当にそうだったんですか?」  驚いた峰岡が、結城と顔を見合わせる。  「本当に倉庫の片付けを?」  「ディレクターから指示があって、さっきやりました」と由良。  「どこの倉庫だ?」  木津が少し低い声で訊く。  「仁さん、お箸を持ったまますごんでも、格好が付きませんよ」  峰岡の入れた茶々に笑いながら、答えたのは結城だった。  「B棟の什器倉庫です。で、峰岡さん、ほっぺたにソースが撥ねてますよ」  慌てて頬を拭く峰岡の仕草を見て、また皆が笑う。木津を除いて。  「もうそっちに移したのか?」  「いいえ」これには由良が答えた。「私たちがやったのは片付けだけでしたから」  箸を置いた木津は、舌で歯の裏側を舐めながら独り言のようにつぶやいた。  「それじゃまだ医務室か。ぶち込まれる前に、もういっぺん面を拝んでおくか」  「こちらのメンバーが『ホット』の部下と直接接触するのは、これまでにはなかったことなんですか?」と由良が問う。  口を拭って安芸が答える。  「ええ、身柄を確保次第、すぐに当局へ引き渡していましたから。当局が引き取りに来なかったのは初めてですね。でも」と木津の方に向くと続ける。「こっちが勝手に接触すると、当局がいい顔をしないでしょうね」  「知ったこっちゃねえさ」  由良の顔が少し曇る。が、木津は気付かずに言った。  「奴につながるものだったら、何でも利用させてもらわなきゃな」  峰岡がむせて軽く咳き込む横で、そうでしたねと安芸が頷く。  「何でもというのは、LOVEもS−ZCも含まれるんですか?」  そう訊ねる結城に、木津は平然と  「ああ、ディレクター久我大先生の承認も有り難く頂戴してる」  「それは……まずいですよ」  「当局の人間にしてみればそうかもな」  結城と由良は顔を見合わせた。  「さて」木津は立ち上がり、空になった食器の載るトレイを片手で持ち上げた。「拝みに参りますかね、話題の人物を」  「あら木津さん、お見限りですね」  出迎えたのは、木津が手術前に担ぎ込まれた時に付き添っていた看護婦だった。  「そうそうお世話になりたくはないわな。お巡りとお医者は暇な方がいい」  看護婦は肩をすくめる。  「それで、どうなさいました?」  「例の兄ちゃんは?」  「ああ、昨夜の」と言いかけて、彼女は木津の後ろに、結局付いてきた結城と由良の姿を認めて会釈する。  木津は一度振り返ってから言う。  「ああ、野次馬同伴だ。『ホット』の手下の面を拝みたいってな。まだいるんだろ?」  「ええ、薬で眠っていますけど」  「何だ、寝てんのか」木津は舌打ちする。「それじゃ話を聞くわけにゃいかないか」  「残念ながら無理そうですね。これまでのところ寝言も言っていませんから」  相変わらずとぼけた口振りの看護婦。にやりとしながら木津は閉じられた白いカーテンを半分だけ引く。その脇から結城と由良がベッドの上を覗き込む。  額にガーゼと絆創膏を貼り付けた、蒼白い顔が目を閉じている。  結城が眉間に縦皺を寄せた。  「まだ二十歳前じゃないですか?」  「みたいだがね」と木津。「身元調査のインタヴューも出来ないんじゃ、確かなことは言えないが」  「しかし、どうしてこんな若い身で犯罪者の配下に入ってしまうんでしょうね?」  由良がいつもとは違う、ぼそぼそとした口調でそうつぶやく。  木津がそれに応えて言った。  「『ホット』に会ったら訊いておくよ。どうやって誑かしたのかってさ」  カーテンの向こうで低く抑えられたインタホンの呼び出し音が鳴り、それが途切れると今度は看護婦の受け答えが聞こえる。  「……はい医務室です。……ええ、見えてますけど……はい、承知しました、準備しておきます」  「移送ですか?」結城が問う。  「そうです。倉庫の方にですけど。真寿美ちゃんが鍵を持ってくるそうなので、手伝って下さいね」  「手伝い?」  「久我ディレクター直々のお達しです。皆さんが来てるなら、使ってやりなさい、じゃなくて、手伝ってもらいなさいって」  「あのおばさんのやりそうなことだぁ」  木津が両の手を挙げてぼやいた。  結城がもう一度横たわる男に視線を落とす。  間もなくインタホンから峰岡の声が聞こえてきた。  今は即席の留置場となった倉庫の鍵を開けながら、振り返って峰岡が口を切った。  「当局の方からさっきディレクターの所に連絡があって、明後日この人を連れに来ることになったそうです」  「明後日ですか」と鸚鵡返しに結城。  「朱雀二号機お披露目の前日だぁね」  「仁さん、今週はもうそればっかりになりそうですね」と峰岡は言うと、扉を引き開け、照明のスイッチを入れた。  窓一つない、埃臭い部屋。  「こんな所に閉じ込めちゃったら、何だかかわいそうですね」  そう言う峰岡を小突きながら木津は言う。  「連中にいっぺん殺されかかったことがあるってのに、何を言ってんだか」  驚いたような顔をして由良が問う。  「殺人未遂罪を問われるようなことまであったんですか?」  「ベッドは壁に寄せてしまった方がいいでしょうか?」  最後にベッドを押して入って来た結城の声に、三人が振り返る。  「あ、ごめんなさい、手伝います」  由良が駆け寄り、ベッドの頭側を持つ。ベッドは横を壁にぴったりと着けられる。  まだ目を醒まさない男に一瞥をくれると、木津は独り言のようにつぶやく。  「これで二号機の話がなけりゃ、手持ち無沙汰ついでにこいつをたたき起こして、『ホット』の事を吐かせたところだったのにな」  峰岡が木津の腕をつかんで引っ張り、さらに後ろに回って背中をぐいぐいと押す。  「はい、作業終了です。撤収撤収!」  「分かった、分かったって! しばき倒したりしないから! 背中は止めてくれ!」  「あー、さては仁さん、背中が弱点なんですね? いいこと聞いちゃった」  「しまった!」  一声上げて一足飛びに部屋から飛び出すと、木津はそのまま向かいの壁に背中を着ける。  「頼むから、背中をくすぐるのだけはやめてくれ!」  結城と由良は顔を見合わせて笑った。  常夜灯の薄暗い光だけがぼんやりと点る廊下。足音を忍ばせて歩く一つの影が、扉の前で動きを止めた。  扉の隙間から廊下の床に、中からの灯りが僅かに漏れ出している。それを認めた影は、屈み込むとその隙間に何かを差し込んだ。  部屋の中へとそれが引き込まれるのを見ると、影は立ち上がり、再び足音を殺して歩き始めた。  ややあって、その影が同じような足取りで、同じ場所に現れ、同じ扉の前で屈み込んだ。 そして扉の隙間に紙片を差し込むと、それはすぐに室内に引き込まれ、合間も置かずにさっき外から差し込まれた何かが押し出されてくる。  屈んだ影はそれを抜き取ると、立ち上がり、もと来た方へと歩き出し、今度はそれきり姿を見せなかった。  その頃、木津は煙草もくわえずに自室のベッドに仰向けに寝転んで、久我から渡されたS−ZC二号機仕様書と操作説明書の五度目の通読を終えようとしていた。  最後のページが閉じられると、冊子が枕元に放り出された。そして木津の上体がここしばらくはなかった程勢いよく跳ね起きた。その顔に野卑なほどの笑みを浮かべて。  「……二号機か」  顔が机の方に向けられる。笑みから野卑さが消え、代わりに意志がそれを引き締める。  視線の先にはあの写真があった。  Chase 14 − 奪われた朱雀  地下駐車場に停められたG−MBのコクピットにいつも同様に陣取った結城は、ふと目を上げると、ウィンドウ越しに、カバーを掛けられて牽かれていく一台の車両を見た。  カバーに覆われた姿からでも、その車高や幅、そしてうかがわれる独特のフォルムから、これがVCDVであるのは明らかだった。さらに、その横について歩いている阿久津の姿から、機種もまた自ずと知れた。  コクピットから抜け出すと、結城は足早にその列を追った。  声を掛けられて阿久津が振り向く。  「おう、結城君か。またお籠もりかね?」  「はい。ところで、これは……」  「ああ」と言いながら結城の表情を見て、阿久津は答える。「お察しの通りだよ。S−ZCの二号機さね」  「まだカバーを外せないんですか?」  「外しちまうと、我慢の出来なくなりそうな御仁が約一名おるんでな」と阿久津はにやつきながら答える。「お盛んなことだわい」  阿久津の言葉の後半はどうやら通じなかったらしく、結城は真面目な顔でうなずいた。  「それじゃ、私が先に見せていただくわけにはいきませんね」  「よしてくれ」と表情は変えずに阿久津。「仁ちゃんに殺されてしまう」  今度は結城も表情を崩す。  「それは困りますね。遠慮しておきましょう。でも、どのみちまだ全く動かない状態なんでしょう?」  「こいつかい?」阿久津は親指をぴっと立てて、低く盛り上がったカバーを指し示す。  「さすがに明後日がロールアウトだってのに、いくら何でもそれじゃまずかろう。もうバッテリーはフルにチャージしてあるし、一通り以上の動作はこなせるようにしてある」  「それじゃますます木津さんには見せられませんね。S−ZCよりパワーのないものには乗れないようなことを言ってましたけど、これになら飛び付いてきそうです」  そう言うと、結城は午前中のシミュレータでの一件を阿久津に話して聞かせる。G−MBをシミュレートした木津は、体に染み付いた朱雀のパワー故に、出力の小さく重量の大きいG−MBを扱いきれなかったのだ。  「そうか……奴さんらしいわい。よーし、停めろ!」  歩みを止めた阿久津の指示で牽引車が静かに停止する。それから改めて動き始めた牽引車はゆっくりと方向を変えると、他の車両とは少し離れた位置、丁度一台が保守作業出来る程度の空間にS−ZCを導き、その鼻面を出入口の方に向けさせると、再び停止した。  間髪を入れず作業員が近付き、牽引台車からS−ZCの前輪部を降ろす。そこに阿久津が足早に近付く。結城もそれに倣う。  車体脇に垂らされていたカバーが、阿久津の手で持ち上げられる。木津の一号機と同じく、いや新しい分滑らかで鮮やかな緋色のドアが現れる。阿久津がそれを開いて、ふと振り返った。少し面食らったような結城の顔を覗き込むと、阿久津は言った。  「まぁ見とっても構わんが、見たってことは吹聴してくれるなよ」  そしておまけににやりとして見せると、向き直ってコクピットに身を滑らせた。  半ばまで差し込まれたキー・カードが節くれ立った指で最後まで押し込まれ、次いでスタータ・ボタンが押される。直ぐに全てのシステムが立ち上がったことを計器盤の灯火が知らせる。その明るさは、バッテリーのチャージについての阿久津の言葉を裏打ちするかのように結城には見えた。  表示のいくつかを一つ一つ指差しながら確認した阿久津は、最後にその指をキー・カードの排出ボタンの上へ移し、押し込んだ。  計器盤の灯は一斉に消え、キー・カードが再び半ばまで姿を見せる。それを見ると、阿久津は開けっ放しだったドアからのっそりと出てきた。ドアが閉じられ、カバーがそのまま下ろされた。  「何のチェックですか?」と不思議そうな顔で問う結城。  「いや、何のというわけじゃないんだが」 頭を掻きながら心持ち恥ずかしげに阿久津は答えた。「嫁入り前の娘の顔を見たがる親父の心境のようなもんだよ」  「分かるような気がします。阿久津主管はお嬢さんがいらっしゃるんですね?」  だが阿久津はそれに答える代わりに、待機していた作業員達にいくつか指示を出し、それから言った。  「さて、仁ちゃんに勘付かれるといかんから、事務所に戻らせてもらうよ」  「車体はこのままでいいんですか?」  「ここならそうは気付くまいよ」  言われて結城は周囲を見渡した。確かに他の車両からは半ば死角になっている。  「なるほど、これだったら大丈夫ですね」  「あとはお主が吹聴してくれにゃあ、露見することはあるまいさ」  「分かりました。ということは、実際に木津さんがこれに触れるのはいつになるんですか?」  「お披露目当日の朝だな。G−MBの時もそうだったからな」  「そうですか。じゃ、それまでは言わないことにしておきます」  結城が詰所に戻ってみると、そこには思い掛けずも木津の姿があった。  部屋に入ってきた結城を見るや、木津は声を掛けてきた。  「来たか鋭ちゃん待ってたホイ」  「な、何ですか?」と真顔でひるむ結城に、木津は質問を浴びせる。  「また下に行ってたんだろ?」  「はい」  「それじゃあ、もしかしてそっちで見かけなかったかい?」  「え? 何をです?」   「もちろん朱雀の二号機をさ」  「いいえ」と結城は大仰に首を横に振ってみせる。「それらしいのは停まっていなかったようですが」  「そうかぁ」  気の抜けたような声を上げると、一つ伸びをして、腰掛けていたテーブルから小さく飛び降りる。  「そいつは残念。んじゃ、お邪魔様」  出ていく木津の背中を見送ると、振り返って結城は訊ねる。  「まさか、それを訊く為だけに来ていたんですか? あの人は」  「でしょう?」と安芸。「今さら驚くようなことでもないじゃないですか」   「しかし、新しい機種に乗るのがそれ程までに待ち遠しいんですね」  「子供なんだねぇ」と小松が口を挟む。  「小松さんは実年齢よりも歳いってますから駄目です」と安芸が言う。  「失敬な」と言いつつ、小松は手にした中国茶を音を立てて爺むさくすする。  「なるほど、阿久津主管の言った通りだ」  「阿久津さんも爺むさいって言ってた?」  「いや、そうじゃなくてですね」と慌てて打ち消すと、結城は話した。「もう然るべきところに搬入はしてあるけれど、木津さんは我慢出来ないだろうから教えない、と言われてたんです」  「さすが主管」と言う安芸に続いて、今まで笑っていただけの由良が訊ねた。  「じゃ、結城さんもその場所は教えてもらっていないんですか?」  「ええ」  「そうですか……」  また茶をするる音がして、小松が言う。  「あれ? 由良さんも子供的好奇心をそそられてるのかな?」  由良が答える。童顔とも言えるその頬に浮かんでいるのは苦笑いに近い微笑だった。  「そう、なのかも知れません。でも実際、新しいものが出てきた時には、いつになってもわくわくしませんか?」  結城が安芸に訊ねる。  「G−MBの時はどうでした? やっぱりわくわくしましたか?」  「厳密に言うと少し違いますけどね」と、久我の口調を真似て安芸。「自分が任されるとなると、むしろ緊張の方が強いです。仁さんがどうだかは知りませんけどね」  その夜、件の木津は緊張のかけらもないままに、自室のベッドの上に大の字になって、高らかにいびきをかいていた。  そしてその頃、例の仮留置場となっている什器倉庫の扉の前に屈み込む姿があった。  翌朝。いつもの朝同様にコーヒーの支度を始めようとした峰岡を、その前にと言って久我が呼んだ。  「はい? 何ですか?」  「今日の午後、一時半に当局から担当者が被疑者の身柄引き渡しに見えます。その準備をお願いします」  「一時半ですね。分かりました。場所はあの倉庫でいいんですか?」  「いいえ、一階の応接です。そこまで連行してもらってください」  「それじゃ、また結城さんか由良さんにお願いしてみます」  久我は無言のままうなずき、それを見て峰岡はコーヒーの準備にかかった。  コーヒーメーカーと格闘する峰岡の後ろから、今度は医務室と連絡を取る久我の声。漏れ聞こえるところに依れば、「ホット」の手先と思しきあの若い男は、どうやら健康状態にも精神状態にも問題なく、本人の意思を除けば引き渡しには何らの支障を認めないらしかった。  入れ立てのコーヒーをデスクまで運ぶと、峰岡は久我に問いかけた。  「引き渡しが遅くなった理由は、やっぱり説明がなかったんですか?」  久我はまた無言でうなずく。  峰岡は溜息混じりに言う。  「横柄な担当者さんですね。同じ当局の中には、結城さんとか由良さんみたいないい人もいるのに」  それには答えることなく、カップを口許へ運んでから、改めて口を切った。  「それから、午前中に木津さんからS−ZCのキーを預かって、阿久津主管に渡してください。コピーが出来たら、二号機のキーは私の方に」  つまり一号機のキーに登録されている木津のデータを、二号機のキー・カードにコピーして使おうというわけだ。勝手知ったる峰岡は承知の返答をすると、また笑いながら一言付け加えた。  「木津さんに直接行ってもらったら、新しいキーが戻って来そうにないですもんね。阿久津主管の方はいつでもいいんですか?」  「十時過ぎであればということでしたが、早い方がいいでしょう。午後に掛かると、被疑者引き渡しがあります。機密保護上の問題がないとは言えません」  「そうですね」と峰岡がうなずく。「それにしても、仁さんに何て言ってキーを借りればいいんだろ。本当のこと言ったら、絶対自分で行くって聞かないんだろうなぁ……そっちの機密保護の方が大変そう」  案に相違して、何の説明も無いまま、木津はあっさりとキーを渡してよこした。  「素直ですね、仁さん」  「うん、いい子だもん。いい子にしてないと、明日プレゼントがもらえないから」  また峰岡がくすくすと笑い出す。  「昨日と今日で、ずいぶん態度が違いますね。昨日なんか、結城さんにまで聞きに行ったんでしょ?」  「昨日の明後日と今日の明日じゃ、そりゃじれったさってのが全然違うさ」  「……よくわかんないです。ま、いっか。お借りしますね」  「そう言えば、今日引き渡しだろ? あの兄ちゃん」と、出て行きかけた峰岡を木津が呼び止めた。  「はい、お昼休みの後です」  「そっか」と木津がつぶやくように言う。「結局直接締め上げられなかったか」  「仁さ〜ん」  「結城さん、やっぱりここでした?」  G−MBのコクピットを峰岡が覗き込む。  「そろそろお願いできますか? 由良さんには先に行ってもらってますから」  促されて結城は車を降りた。  連れ立って歩きながら、結城は訊ねた。  「本当に今日は来るんですよね、担当者」  「みたいですよ。まったくもう」と峰岡は少しふくれて見せる。「二日も三日も犯人を放っておいたら、あぶないじゃないですか」  曖昧に笑う結城を見て、峰岡は慌てて付け加える。  「あ、だから、結城さんとか由良さんとか、うちでちゃんとやってる人だっているのに、中にはそんないい加減な人もいるのかなって思ったりしただけなんですけどね」  廊下の角を曲がると、そのちゃんとやっていると言われた由良の姿が、什器倉庫の扉の前に見えた。  峰岡がポケットから鍵を取り出す。  「開けたらいきなり飛び出して来やしないでしょうね?」と結城。  「その時は由良さんが取り押さえてくれますよね? 腕に覚えあり、ですもん」  照れて頭を掻く由良が、それでもその気になったらしく、鍵を差し込む峰岡の横に立った。その後ろに結城。  鍵を抜き、ノブを回しかけた峰岡の手が、急に開いたドアと共に倉庫の中に引き込まれる。つんのめった峰岡の背中を、ドアの陰から伸びた手が突き飛ばす。倒れ込んだ峰岡の手から鍵が飛び出す。  「うっ!」  踏み込もうとした由良は、しかし足元に峰岡が倒れていて踏み出せない。  「由良さん!」  結城の声がすると同時に、ドアの陰から低い姿勢で男が飛び出してくる。  受付から当局担当者の到着が応接室の久我に告げられた。久我は腕時計に目を落とす。こういう時は時間通りだ。  だが、案内を任せるはずの峰岡の姿がまだない。僅かながらに感じる不安感を例によって表情には出さないまま、仕方なく久我は自ら担当者を迎えに出た。  久我の姿を見て、腰掛けていた二人の内、先に若い方が立ち上がって頭を下げた。それに応じて久我が黙礼を返すと、明らかに役付きと言った感じの中年男がやっと立ち上がったが、これは頭も下げようとはしなかった。  「ご苦労様です」と若い方。  同じ台詞で返して、久我は二人を応接室へと案内した。  部屋に入ると、役付きの方が早速煙草に火を点け、腰を下ろすと切り出した。  「早速だが、引き渡しを」  だが久我は応じず、立ったまま「初めてお目に掛かるかと存じますが?」  相手は重たげな瞼を僅かに動かす。  代わりに答えたのは、これも立ったままの若い方だった。  「失礼しました。実は内部で改組がありまして、管理者が替わりました」  そう言って彼は、どっかりと座り込んだまま煙を吐き出している漬物石のような上長を紹介した。  「お掛けください」と言いながら、自らも腰を下ろし、久我が名乗った。  返事をする代わりに冷淡な一瞥と大量の紫煙とを久我によこすと、役付きはもう一度引き渡しを促した。  が、これにも久我は応じず、やはり若い方に訊ねる。  「今回引き渡しが遅れたのも、その改組の影響ですか?」  肯定の返事に、三度目の引き渡し催促の、苦り切ったような声が重なった。  久我は表情の無い顔を役付きに向けると、今こちらへ連行して参りますと簡単に言う。と、今度はその語尾に電話の呼び出し音が重なった。久我は失礼しますと言うと、役付きに背中を向けるように上体を捻り、口許を手で覆い隠しながら話し始めた。  が、ほんの数語も話さないうちに、久我の眉の端がぴくりと上がった。  「……状況は?……、……、……分かりました。指示を待つように」  通話を終えると、久我は冷静に言った。  「被疑者が逃亡を図りました」  漬物石が初めて表情らしいものをその黒ずんだ顔に浮かべた。  「逃がした、と?」  そして力任せに煙草を揉み潰すと、久我をにらみ付け、声高に言った。  「これは問題だな。我々の信頼に背く事態だ。捕縛後早急に引き渡しを行っていれば良かったものを」  半ば無視して久我は電話をかける。  「……久我です。男が逃亡を図りました。今結城さんが男を追っています。所内全体に警報を発して、至急身柄の確保に当たらせてください」  久我からの指示を受けた安芸は、息継ぐ間もなくそれを実行した。そしてもう一カ所。  インタホンの向こうからは軽い声。それが安芸の言葉を聞いて一変する。  「仁さん、男が逃げました!」  「何だと?」  それを追うように、警戒警報の放送が響き出す。その声はインタホンの向こうからも伝わってきた。  「こいつか! あの野郎、寝ぼけた面しやがって洒落たことを」  「今、結城さんが追っているそうです」  「どこでだ?」  「分かりません。その辺に行ったらよろしく頼みます」  「了解! 進ちゃんはどこにいる?」  「今詰所です。で、例の倉庫に峰さんと由良さんが閉じ込められているらしいので、鍵をもらってからそちらへ行きます」  「分かった。俺もそっちに行く」  インタホンのスイッチを切る間ももどかしく、木津は部屋の外へ飛び出した。普段人通りの少ないこの場所には、さすがに騒然とした雰囲気は伝わって来ない。  舌打ちを一つすると、木津は走り出した。  警報を聞くと、久我は立ち上がった。  「どうぞ執務室の方へおいでください。今回の件は、事態収拾の責は私にあります。執務室で指揮を取りますので、どうかご同席ください」  若い方が上長の顔色をうかがった。それには何らの反応も示さず、役付きが言う。  「この一件で、ここに与えられている捜査権は無効とされるはずだ。既に我々にも特一式が導入されている。その時点でここに捜査権のある理由は無くなっている」  「ではこちらでお待ちになりますか? それとも一旦お引き取りになりますか?」  感情を一切表さない久我の声に、役付きはなおもぶつぶつつぶやきながらも、重たげに腰を上げた。  息を切らせた結城の前でドアが開く。  その向こうから一斉に集まる作業員の視線の中に、結城は走り込むと言う。  「奴は来ましたか?」  「いいや、来てないです」と一人が答える。「結城さん、追いかけてたんじゃ……」  「撒かれました。でも足を奪いにここに来るはずです。警戒をお願いします!」  「分かった」  ドアが開かれる。  中には半べそをかいてへたり込んでいる峰岡と、いきり立ったように真っ赤な顔で仁王立ちになっている由良。  「大丈夫か?」木津が声を掛ける。  答えずに飛び出そうとする由良。そのがっしりとした体を安芸が押し止めた。  「由良さん、落ち着いて!」  由良の吐く荒い息を聞きながら、木津は峰岡に手を貸そうとした。だが峰岡はへたり込んだまま手を伸ばそうとしない。  「しょうがねぇな」  そう言うと木津は峰岡の背後に回り、両脇の下に腕を差し入れて上体を抱え上げた。  「ほれ、しっかりしろ!」  峰岡は力無く抱えられたまま、聞こえないほどの小さな声でこぼす。  「あたしのせいで……あたしの」  木津の手に熱い滴が落ちる。  「由良さん、峰さんを医務室へ。それからディレクターに報告をお願いします」  冷静に安芸が指示を出し、一つ二つと深呼吸をした由良が、やはり小さな声で了解の意を告げる。  「大丈夫」とそれを聞いた安芸。「ディレクターはどやしたりはしません」  「それじゃ頼まぁ」  木津は抱えた峰岡を引きずって、由良の背中に預けた。由良は軽いはずの峰岡の小さな体を重たげに背負い、とぼとぼと倉庫を出ていく。  「さて、どうする?」  「逃げるとすれば、次の狙いは足ですね……」と言いかけた安芸が、はっとしたように言葉を継ぐ。「仁さん、キーは手元にありますよね?」  「キー? 朱雀のか? ああ、今朝真寿美に貸して、戻って来てる。ほれ」  ポケットから引き出されたキー。今の事態に我関せずといった風に、くたびれたパンダのマスコットが揺れる。  「……って、まさかVCDVを強奪?」  「あり得なくはないでしょう? もっとも駐車場の場所が分かれば、ですが」  「行くか!」  返事も待たずに走り出そうとする木津を、安芸が引き留める。  「駐車場に一報を入れておきましょう。向こうに誰もいないってことはないですから」  「ごもっともさま」  通話の終わるのを焦れるように待っていた木津は、安芸の指が電話のスイッチを切るのを見るや否や訊ねた。  「行ってなかったか?」  「結城さんが行っていて、注意するよう指示を受けたそうです」  「あれ? 奴さん追っ手だったんじゃなかったっけか? 撒かれたんか?」  「そのようですね」  「んで、結城ちゃんは?」  「駐車場にいるようです」  「んじゃそっちは任せておけるな。次はどうする?」  執務室の久我の元には、まだ被疑者発見の報は入って来ない。  ソファでは苦り切った顔で当局の役付きがやたらと煙草の煙を吹かし、その横で怯えたような表情で部下が小さくなっている。  久我はデスクのディスプレイ・スクリーンにLOVEの全図を表示し、見つからないとの報告があった場所にチェックをしていた。  あの什器倉庫のある一角は別として、研究室や製造ラインは全て監視体制が整えられている。下手に逃げ回ったところで、カメラに引っ掛かるのが落ちだ。が、それにしては見つからない。  当局の若い方がちらりと腕時計に視線を走らせるのを見て、久我もそれに倣う。  脱走の第一報が入れられてから、間もなく三十分が経過しようとしている。その三十分を越えては待たないと、当局の漬物石は久我に告げていた。  ドアのインタホンが鳴り、続いて到着を報せる安芸の声が聞こえる。久我はソファの方に一瞥をくれてからドアを開いた。  先に入ってきた木津がまず問う。  「見つかったか?」  一方の安芸は、こちらに振り向いたソファの人影に気付いて、とりあえず会釈する。  久我は木津に答える。  「まだ連絡はありません」  「出口は固めたのか?」  久我が答える前に、インタホンが鳴った。  気色ばむ木津を横に、落ち着いた様子で久我が応答する。  「久我です」  「由良です! 押さえました!」  ソファの二人もこちらに振り返る。  木津は久我を押しのけるようにしてインタホンに向かい大声を上げた。  「どこだ?!」  「木津さんの部屋の中です!」  「何だと?」  久我がすっと割って入る。   「被疑者の状態は?」  「失神しています。締め技を掛けましたので……でも身柄は確保しています!」  「これ以上の逃走は不可能な状態にしてありますか?」  「手足は縛っておきました。大丈夫です」  「分かりました。応援を……」と言いかけたところに、また木津が割り込む。  「俺の部屋の中にいたってのはどういうことだ? 何をしてたんだ?」  「さぁ……資料か何かを探している風にも見えましたけれど」  「資料? まさか、朱雀のか?」  そこに今度は紫煙に荒らされた声が。  「身柄が確保されたのならば、早急に引き渡しを行っていただきたい」  三人が三様に声の方へ顔を向ける。中でも一番冷淡な表情を見せた久我が、インタホンに向かって指示を下す。  「もし一人で連れて来られるようなら、私の執務室へお願いします」  「大丈夫です、了解しました」  通話が切れる。木津が慌てて呼びかけるが、遅かった。構わず久我は呼び出しボタンを押し、出た相手に警戒態勢の解除を報じるように告げ、そして当局の役付きに向かって、何の感情も交えずに言った。  「お待たせいたしました。間もなくお引き渡しできるものと思います」  木津は思わず久我の顔を見る。この人、一体どこまで冷静でいられるんだ。感心するよ、ホント。この部屋に爆弾か何か放り込まれても、こんな調子で対応するんだろうな。  間もなく逃亡者捕縛と警戒態勢解除の放送がこの執務室にも聞こえてきた。続いて由良の声が。久我がロックを解除する。  報告通りに両手両足を縛られた、失神したままの男を、まるで丸めたハンモックのように担いで、由良が意気揚々と入って来た。  ようやく立ち上がった漬物石に、男を床に降ろした由良は敬礼し、所属氏名を名乗る。  なるほど、当局式の挨拶ってのがあるわけだ。そう木津は思った。民間は所詮は部外者扱いか。  若いの共々答礼すると、漬物石は御苦労と言葉を掛けた。そして若いのに、床に転がったままの男を連れて行くよう簡単に指示すると、さらに由良に話し掛けた。  「やはり当局の人間だな」  由良は今回の脱走騒ぎの一因が自分にあることを主張したが、そんなことは問題ではないとまで役付きは言ってのけた。脱走は状況にも一因があろうが、事態の終息にあたったのは紛れもなく由良個人であろうと。  居心地悪げな由良に、漬物石はさらに問う。  「もう一名当局の人間が派遣されていると聞いているが?」  「はい、同じく高速機動隊より……」  言いさしたところに、相当腹に据えかねたらしい木津が割り込んだ。  「その結城の兄ちゃんはどうしたんだ? 戻って来る様子がないじゃないか」  そこにさらに、インタホンの呼び出し音が割り込んで来る。  「何だぁ? まだ何かあるのか?」  久我が呼び出しに応じる。そして聞こえてきた言葉に、木津は自分の耳を疑った。  「地下駐車場です。結城さんがS−ZC二号機を出しましたが、指示か許可は出されていますか?」  Chase 15 − 放たれた白虎  「地下駐車場です。結城さんがS−ZC二号機を出しましたが、指示か許可は出されていますか?」  「何だと?」  問いに久我が答えるより先に、木津は叫んでいた。  「指示は一切出していません。どういうことですか?」  久我への返事を聞くのも待たず、木津は部屋を飛び出していた。  当局の役付きが何事かと訊ねたのに、安芸は淡々と応えた。  「当局から派遣された結城氏が、試作車を無断で持ち出したようです」  役付きの額に青筋が浮いた。だがそれには完全に背を向けて、久我はさらに相手に詳細を訊ねた。応えて曰く、逃走者捕縛の報が流されると間もなく、駐車場に詰めていた結城が奥の一隅に停めてあったS−ZCのカバーを剥がし、これに搭乗、発進させた。阿久津主管からこの件についての指示はなく、MISSES側からの命か否か確認したいとのこと。  眉間に縦皺を寄せた久我の口からは、次の指示が出てこない。  が、それに続いて聞こえてきた鈍い音が、久我の眉を動かした。  「どうしましたか?」  「砲撃です!」  由良と安芸が表情を変えた。  「衝撃波銃です! この振動は衝撃波銃です! ああっ、ゲートが!」  走る足音、大声。  「潰された! ゲートが潰されました!」  「負傷者と車両への被害は?」  「ありません! でもこれじゃ車両が外に出せません!」  壁に拳をたたき付け、顔をまた真っ赤に上気させて由良が怒鳴る。  「それじゃあ、あいつは囮だったのか? 結城さんも、当局の人間なのになんてことを……『ホット』の息が掛かっていたのか?」  「駐車場からVCDVは出せないんですね? 追うことも出来ないのか……」と安芸。  久我はインタホンに向けて了解の一語と、速やかに施設復旧するようにとの指示だけを告げると、スイッチを切った。  「事態は悪化しとるのか」と語気だけは荒く、だが隠しきれない当惑が感じ取れる口調で当局の役付きが唸った。「困る。それでは困る。何とか出来んのか?」  その醜い相貌を久我が真っ向から見返す。役付きの頬が一瞬ぴくりと痙攣する程の鋭さで。そしてあくまでも冷静な声で告げた。  「確かに被疑者の身柄はお引き渡しいたしました。どうぞお引き取りください」  役付きの大きな顎が動きかける。が、一言も言わせずに久我が続けた。  「護送中に奪還されないよう、くれぐれもお気を付けください」  そこで言葉を一旦切ると、一層冷ややかな口調で付け加える。  「もちろん、到着後も」  噛み付かんばかりの形相で、ソファを蹴るように役付きが立ち上がる。それを見て、久我は安芸に出口までの案内を、そして由良には駐車場への急行を命じた。  「な、何だこりゃ?」  駐車場に飛び込んだ木津は、そこでの騒ぎに呆然と足を止めた。  「何があったんだ? 朱雀はどうした? 二号機は?」  「盗まれました。ゲートを撃って潰して行きました」と、しどろもどろの答えが返る。  「一号機は?」  「無事です!」と奥の方からの声。  「よし!」木津はそちらに駆け出す。「あの野郎……俺の朱雀を!」  S−ZCのドアを開いた木津は、シートに置かれたヘルメットを被りもせずに脇へ押しやり、代わりにそこへ身を滑り込ませると、挿入されたキーに計器盤が反応を返すのももどかしく、スタータ・ボタンを力任せに押し込んだ。  スタッフの言葉通り、S−ZCは何の支障もなく起動する。  「どけえぇっ!」  大声と共に、決して広くはない駐車場でS−ZCは急発進すると同時に、Wフォームに変形、衝撃波銃の仕込まれた左腕を瓦礫に閉ざされたゲートに向けた。  ブレーキ、同時にトリガー。  瓦礫が震える。が、手応えはない。  「仁さん、だめです! ぐずぐずになってて、波が吸収されてます」  当局の役付きを送り出してから駆け付けてきた安芸の声が聞こえる。  それに応えることなく、もう一度木津はトリガーを引く。安芸の言葉通り、崩された建材はその隙間に衝撃波のほとんどを吸収し、網状になった瓦礫が少しく揺らされただけだった。  「くそっ!」  と、その脇をG−MBが後進で抜ける。そして荷室状の大きな尾部を瓦礫に突っ込み、力任せに押しのけようとする。  「なっ……由良?」  木津の耳に聞こえてきたのは確かに由良の、食いしばった歯の奥から絞り出されるような怒号だった。  「畜生……畜生……許せない、畜生!」  G−MBのモーター音が高くなる。車体の後部に皺が寄り始めた。  「無茶だ、由良さん!」  安芸もG−MBに乗り込み、スタータ・ボタンを押す。その時鈍いショックと共に、由良のG−MBがこちらに押し戻されてきた。  「まだいやがるのか!」  朱雀が衝撃波銃を連射する。手応えは感じられない。  木津はコクピットで滲む汗を拭わない。  LOVEの玄関口を出て、来客用駐車場に続く角を曲がった時、引き渡された被疑者を背負った当局の若手は、足元に伸びている長い影に気付いてふと足を止め顔を上げ、そして凍り付いた。  「何をしとる?」  不機嫌の極みにいた上長の詰問も、部下の指差す先を見て、その先が続かなかった。  緋色の痩躯が車に片足を掛け、悪魔を思わせる頭部と、不気味に開かれた左腕の銃口とを自分たちへと向けている。  その眼が光ったように見えた。  駐車場を呼び出したインタホンの向こうに久我が聞いたのは、相変わらずの混乱と喧噪だった。状況が好転していないことは明らかだが、それでも久我は詳細を訊ねる。  予測通りの回答。それに加えて、インタホンの向こうの声は、由良のG−MBが変形機構に障害を来したことを告げた。  「早急には問題はありません、G−MBは一両残っています。それよりも出口の確保です。爆破も許可します、急いでください」  そこへ通話の割り込みを示すブザーが。駐車場からそちらへ、久我は通話を切り替える。  向こう側の声は、駐車場からのそれ以上に混乱を来しつつ、来客用駐車場で男が三人瀕死の状態で倒れていると告げてきた。素性は問わずとも明らかだった。久我は簡単に収容と手当を命じ、インタホンのスイッチを切った。  そのまま久我は動かない。ただ何事かをつぶやくその唇以外は。  「……動き始めた……」  事務所にいた阿久津の耳に事の次第を伝えたのは、インタホンからの久我の声だった。  S−ZC二号機強奪の報は、さすがに阿久津をも狼狽させた。  「二号機に使っているキーは何ですか?」との久我の問いに、阿久津は言いづらそうにぼそぼそと答える。  「開発用の全機能キーですわい」  この答えは、奪われた二号機が火器管制から内部機構の開放までを含む全ての機能を開かれていることを意味していた。  久我からの応答はない。  代わりに阿久津が問うた。  「どうなさる? 捕獲するおつもりか?」  これに久我は現在の駐車場の状況と、ゲートの異物排除が完了し次第VCDVを差し向けるとの意図を告げた。  「ご協力を願います」と言う久我の言葉で通話が切れる。阿久津はそのまま片手で顎をしゃくっていたが、その手が引き出しに伸ばされた。  「おい!」と手近な部下を呼ぶと、引き出しから取り出した鍵とキー・カードを放り投げて言った。  「用意しとけ」  キー・カードを受け取った部下は、それを改めて見て、驚愕の表情を隠さなかった。  「で、でも、これはまだB試作の……」  「構わん」  阿久津ははっきりとそう言い、まだためらっている部下を一喝した。  「急げ!」  そして走る部下の背中を見ながら、低く、一人言の様に付け加えた。  「……実戦にゃあ十二分に堪えられる。B試てのは型番上だけのことだ。それに、口頭とは言え正式に協力要請をよこしおったんだ。文句は言えまいて」  駐車場では、大声での指示が飛ぶ中、ゲート爆破の準備が着々と進められている。  防護壁の設置状況を確認させる声、爆破剤の扱いに注意を促す声、起爆装置の設置を指示する声。  その中で、言葉にはしないものの、木津は立ったままその様子を見ながら、いらだちを隠そうとしなかった。  こんなちんたらやってたら、逃げられちまうじゃないか。そもそも二号機の位置は把握できてんのか? あれをみすみす「ホット」の手に渡したら、そして「ホット」の工場であれを作り出しでもしたら……  火の付けられない煙草が、木津の歯の間で小刻みに振れる。  やがて待ちかねていた指示が駐車場内の全員に下された。  「準備完了です! 全員待避!」  「おぉっしゃあ!」  木津は再びS−ZCへと走った。ゲートの瓦礫が見事吹き飛んだら、すぐに食いついてやる……  が、急に腕を掴まれて、木津は足を止め振り返った。  阿久津の顔、日頃VCDVの話をする時以上にぴりぴりとしたものを感じさせる阿久津の顔をそこに見て、木津は思わずたじろいだ。  「阿久っつぁん……」  「来いや」  有無を言わせぬその口調。木津は気を殺がれたような顔で、足早に歩き出す阿久津の後に従った。  背後で爆破の秒読みが始まった。  そろそろ引き上げ時かな。  外の状況を見て、結城は思う。あとはこの機体を献上しに戻らなければならない。閉じ込められた連中ももう穴を開けるなり何なり始めるだろう。  その時、結城の耳に高い爆発音が届いた。  来たか。潮時だな。  もう一撃が駐車場のゲートにたたき込まれ、開けられた穴がもう一度塞がれた。  変形レバーに伸ばされた手がすばやく引かれる。朱雀の痩躯が地を這うかのように低くなったかと思うと、それは車輪を備えたRフォームと化す。  結城はスロットル・ペダルを踏み込む。何の躊躇も見せることなく、S−ZCは結城の体に加速の強力なGを返してきた。反応は玄武よりも速い。  数秒とかからずに全速に達すると、LOVEの正面玄関から堂々と走り去るS−ZC。  そのハンドルを握りながら、結城は驚愕と喜色とを顔に浮かべていた。  性能特化のテスト機とはいえ、これほどのものだとは……木津の機よりも総合的に性能向上していると言っていたな。なら奴が追ってきたとしても相手にはなるまい。偶然とは言え、これは大収穫だ。こいつが「ホット」の許で量産されれば……  結城は計器盤に手を伸ばし、ナヴィゲーションのスイッチを入れた。表示された画面に合流地点を見出す。そこはほんの数日前、木津と安芸がもう一人の「ホット」の部下、うまくいけば自身もS−ZCかそれに関する資料を奪取するはずだった男を捕らえた廃棄物積み出し場だった。ここからならあと二十分前後というところか。  計器の表示する速度が少し落ちてきているのに気付き、結城はペダルに乗せた足に再び力を込めると、後方モニターに視線を走らせる。  と、そこには一点、灰白色の影。  結城は不審そうに片目を細める。ここまで何者をも抜き去っては来なかったはずだ。であれば、追い着いてきた? 馬鹿な。この速度で食いついて来られる車体はLOVEにだってない。結城は視線を前に戻した。  が、それから数分と走らないうちに後方モニターに投げ付けられた強力な光条に、結城は再度後方を見ざるを得なくなった。  結城の顔に驚愕が走る。  一点の影でしかなかったものが、今ははっきりと車両の鼻面となって迫っている。  追っ手か? もう?  結城の手がレバーに触れた。  ピークに達した速度の中で、機体のぶれも微塵も見せず、S−ZCが朱雀に変形し、追ってきた白色の車両に対峙する。  相手は速度を落とさない。  朱雀が両腕を相手に向けた。コクピットの中で結城の指が動く。  二つの衝撃波が白い車体を襲う。が、それは相手がいたはずの路面で重なって二重の円を穿っただけだった。  「消えた?」  朱雀が前に飛び出し、射撃姿勢をとったまま振り向く。その目の前の路面に、同じく穴を穿つ衝撃波。  「……やはり、VCDVか」  同じように射撃姿勢をとって、朱雀の正面に、朱雀に似た痩躯、だがその赤とは対照的に、クリスタル・ホワイトとクローム・シルバーに彩られた痩躯が立ちはだかった。  そのコクピットで、モニター越しに、奪われた朱雀を木津の両眼がにらみ据えている。  「ご説明いただけますね?」  珍しく久我が詰問調で切り出す。  その正面には、上体を反らし気味に腰掛け、心持ち微笑を浮かべている阿久津。  「何からご説明申し上げればよろしいですかな? いくつかありそうですが」  表情を変えない阿久津の顔を見据えた目をすぐに伏せた久我は、だが口をすぐには開こうとしない。質問の順序を整理してでもいるかのようだった。  ややあってやっと久我が口を切ったが、発せられた問は阿久津を思わずにやりとさせるものだった。  「まず、あの車体で、逃亡したS−ZCを捕獲することは可能ですか?」  「捕獲、ですかな?」と鸚鵡返しに阿久津。「正直に申し上げて、そいつは保証いたしかねますな」  そこで久我の反応を見るかのように阿久津は言葉を切ったが、久我は淡々と先を促すだけだった。  「……車両の性能だけを言えば、S−ZCよりは勝っていると言えましょう。ただし、数値化したデータ上のトータルとして、というレベルでですがな。それを活かすか殺すかは、ドライバーの質に左右されるところですな。結城氏の腕前は存じませんが。それに」  もう一度阿久津は言葉を切って、言った。  「捕獲が無理ならば、破壊も構わんと木津君には伝えてあります」  久我の眉がいつになく大きく動いた。  「それは……」  微笑を崩さずに阿久津は続けた。  「こちらとしても、丹精込めて作ってきた車両を、日の目を見せんままに破壊するのは心苦しい限りですがな、だがおめおめ持ち去られて、あいつを拵える以上の時間を掛けて得てきたものをただ奪われるのはそれ以上に我慢ならんのですわ」  「分かりました」と久我は静かに答え、さらに問う。「あの白い車両のことは、こちらでは把握していませんでしたが?」  「でしょうな」悠然と阿久津。「あいつはB試ですからな」  「B試作?」言いながら、久我は再び眉を上げた。  「左様。しかし、基礎はS−RYとS−ZCですからな。その上に、まだそのどちらにも盛り込んでいない技術も組んどります。B試という意味では作りかけの車体と言えるかも知れませんが、実用レベルにまでは上がっとりますし、内容を考えれば、少なくとも現行のS−ZCで追いかけさせるよりは有効と思うとります。ご不安ですかな?」  久我は真正面から阿久津を見た。阿久津の微笑がそこでやっと消える。それを認めて久我は言った。  「ご判断を信じましょう。あの車両の型式記号をお教え願えますか?」  「B−YC、と付けとります」  合流時刻まで、残り十五分を切っていた。  結城は朱雀の機体に傷一つ付けることなく相手の攻撃をかわしていたが、しかし相手に傷を負わせることも出来ていなかった。  こんな機体がどこにあったんだ? こいつもなかなかのものらしいな。こいつを捕獲して帰れれば…… 乗っているのは誰だ?  白い機体がまた撃ってきた。  赤い機体が横にステップを踏んで回避。  どうやら、と結城は思う、向こうもこちらを無傷で捕獲しようと言う魂胆らしいな。銃撃の照準がどうも甘い。  わざと外して撃つなどという芸当が出来るのは、安芸か? それにしては無駄弾が多い気がする。あの調子でばらまいていて、バッテリーがどこまで持つのか。  結城は計器盤に目を遣る。こちらのまだまだバッテリーは問題ない。だが調子に乗ってあいつも連れて帰ろうというのは難しいかも知れない。それにこれ以上時間を食えば、増援の来る危険性もある。そうなれば……  結城の指が操作盤で踊る。衝撃波銃の出力が上げられた。  「終わりだ!」  二条の衝撃波。  一つは路面に食いついて表面を剥ぎ取り、飛礫を巻き上げた。  そしてもう一つは真っ直ぐに白い機体へと向かった。  眼潰しの如くに舞い上がる飛礫に紛れて朱雀の位置を変える結城の耳に、何かが裂け、弾け飛ぶ音が聞こえた。  手応えはあった。  結城は変形レバーをWフォームの位置にたたき込み、全速で後進をかける。その鼻面をかすめて、朱雀の下膊程の大きさの、牙のように尖った破片が路面に突き刺さる。  鎮まる飛礫の向こうに結城は、両腕を十字に組み、腰をわずかに撓めて防御の姿勢をとっている相手の姿を認める。  前に出された左腕は、外装が吹き飛ばされて、骨格が露わになっている。が、その腕も、機体のどこも、動く気配を見せない。  「擱坐したか……」  結城は言いながら、相手の機体から目を離さない。あの衝撃波を食らって、明白なのは腕の外鈑だけの損傷というのがその理由だった。躊躇なく結城はトリガーを引いた。  が、その時結城は、相手が顔の前に組んだ腕の左右を入れ替えたのを見た。  何?  衝撃波は吸い込まれるように相手の右腕に突き刺さる。右腕を包む白い外鈑に鈍い振動が走り、しかし今度は弾け飛ぶことなく衝撃波を受け流した。  組まれた左腕が解かれ、「ハーフ」の朱雀へと伸ばされる。  結城の回避行動はわずかに遅れる。  朱雀のそれとは異なる響きを帯びた衝撃波が、朱雀の左肩を捉えた。  衝撃がコクピットの結城にも伝わる。その中で見る計器盤は、左腕が動作不能になったことを示している。  結城は舌打ちをすると、変形レバーをRフォームの位置にたたき込む。信じたくはなかった予想通り、計器盤の返した反応は、R−W間の変形に支障を来していることへの警告であった。  ハーフで走っても合流時刻にはまだ間に合う。が、それはこの白い奴がいなければの話だ。なら、こいつを仕留めるのが先だ。  変形レバーに乗せられた結城の手が、再び動かされる。  立ち上がる朱雀。その左腕は肩からだらりと垂れたままだ。  「結城!」  朱雀の頭部に右腕の銃口を真っ返ぐに向け、木津はついに叫んだ。  「貴様、何のつもりで……」  相手の誰かを知っても、結城は答えない。朱雀を軽く屈ませ、斜め後方にステップを踏ませると、生きている右腕の銃を放つ。  回避する木津ももう口を開かなかった。ただこうつぶやいて。  「阿久っつぁん、悪いが朱雀は連れて帰れないかも知れないぜ。その代わり」  トリガーが引かれる。  「この『白虎』を仕上げてくれ!」  他に誰もいない執務室で、何の情報をも映し出せないディスプレイ・スクリーンを前に、久我は机に両肘を突き、頭を抱えていた。  もしS−ZCがあの人の手に渡ったら、きっとあの人は……  肩がびくりと震えた。  そこにインタホンの呼び出し音。  顔を上げた久我は、小さく咳払いをしてから名乗る。その声はいつもと変わらない平静なものだった。  一方インタホンの向こうの声は、いつもの落ち着きをやや失っているようだった。  「安芸です。準備が出来ました。アックス三両、いつでも出られます」  しかし久我はスクリーンのスイッチを入れなかった。  「S−ZCは単独での逃走とは考えられません。どこかに収容を担当する部隊が展開しているはずです。それが把握できるまで、そのまま待機願います……」  「しかし……」  計器盤のランプがバッテリーの容量を警告してきた。木津は右腕の銃への電圧を切る。  さすがにロールアウト直前のフルチャージした奴とは勝手が違うか。目の前に立ちはだかる朱雀を見ながら木津は思う。だが向こうだって左は使えない。この点で言えば条件は同じだ。  対する結城は少しずつ焦りを感じ始めていた。このままでは合流時刻に間に合わない。朱雀を奪取するという当初の目的さえ達し得なくなる。そうなれば、俺は……  白虎が右腕を前に突っ込んでくる。  朱雀が体をかわす。動かせなくなった左腕が反動で振られ、白虎へ向けた衝撃波銃の照準を狂わせる。  朱雀を後ろざまに跳ね退かせながら、結城は舌打ちした。  朱雀の右腕が左の脇に向けられる。  それを見た木津は反射的に身構える。  衝撃波の振動。朱雀の左腕が肩から吹き飛ばされ、絡み付くような鈍い音を立てて朱雀の足の後ろに落ちた。朱雀が右脚を下げ、それを蹴り上げた。腕は真っ直ぐに白虎の首に向かって飛ぶ。木津は白虎を屈ませる。が、次の瞬間、朱雀が残った右腕の銃口をこちらに向けているのを見る。  撓めた腰をばねのように伸ばし、白虎は跳び上がる。その爪先を朱雀の衝撃波が捉えた。  左の爪先が吹き飛ばされ、バランスを崩した白虎が空中で前のめりになる。  その姿勢から放たれた、狙いのないと同然の衝撃波を難なく避け、朱雀はもう一度銃口を白虎に向ける。  白虎が片足で着地した。  結城の指がトリガーを引く。  と同時に結城は叫んだ。  着地した白虎は、片脚とは思えない跳躍力で再び舞い上がった。  朱雀が追うように腕を振り上げる。そこに、白虎の手首から伸ばされた、VCDVの腕程の長さのある棒が、落下の勢いを乗せて打ち降ろされた。  朱雀の腕の外鈑が割れた。いや、それだけではない。白虎の一撃は外鈑を抜き、上腕にまで達してこれをくの字に折っていた。  白虎が再び片脚で着地する。その時木津は後頭部に、思い出したくない、強烈なしびれを感じた。  白虎は今度はバランスを崩し、朱雀に倒れかかったかのように見えた。  木津は襲ってくる吐き気に半ば痙攣しながら、操縦桿を動かした。  着地した脚は白虎の痩躯を押し返した。その力を受けた右腕の棒は、朱雀の首を真っ向から捉え、あの悪魔じみた頭部を胴体からもぎ取った。  コクピットの結城を衝撃がもう一度襲った。今度こそ平衡を失った白虎にのしかかられ、傷付いた朱雀の躯が倒れたのだった。  木津の声を、いや苦悶のうめきを聞きながら、結城は操縦桿を動かし、計器盤のスイッチに指を走らせた。  モーターの回転が上がり、へし折れた右腕を地に突いて、ゆっくりと白虎の機体の下から逃れ出ると、朱雀は立ち上がった。  白虎は仰向けに転がされる。聞こえてくる木津のうめきが強くなった。  結城は変形レバーに手を伸ばし、引いた。軽いショックの後、計器盤がWフォームへの変形に成功したことを示す。結城の口の端がにやりとひきつった。  合流時刻まであと五分を残すのみ。  結城はスロットル・ペダルを踏み込んだ。  加速度が結城の体をシートに押し付ける。  が、すぐにそれとは逆の力が、ベルトに固定されている結城の体をシートから浮かせ、コクピットの中で前後に、そして上下に揺すぶった。  結城は顔をひきつらせる。力任せに動かす操縦桿は、もう反応を返さない。車体は自ら撃ち落とした左腕の残骸に乗り上げ、跳ね上がり、そして止めを刺すような衝撃が結城を襲った。  転覆し沈黙するS−ZCを、そして衝撃波銃のバッテリーが完全に底を尽いたことを示す警告灯の明滅をももはや見ることはなく、木津はコクピットで突っ伏していた。その両の手はそれぞれトリガーと、そして衝撃波銃に最大出力を指示した操作盤の上で、小刻みに震えている。  「発見です」との小松のゆっくりとした声に、久我ははっとしたように顔を上げた。  「S−ZC大破、木津機小破なるも動きなしです」  久我はスクリーンのスイッチを入れない。  「アックス2は現在位置にて保持し警戒。アックス1及びアックス3は合流を急いでください。こちらも回収班を急行させます」  「了解」  「アックス2は可能ならば……可能な限り乗員の安否を確認し連絡してください」  「了解」  さらに久我は回収班に指示を出すと、机に片肘を突くと、手に顔を埋めた。  やがて小松の声が聞こえた。  「アックス2です。乗員の状況報告です。結城氏は死亡。舌を噛んでいます。遺体は残骸中に放置」  「木津さんは?」  「負傷ではないようですが、頭を押さえて痙攣しています。発作か何かでしょうか?」  久我の頬がぴりりと震えた。  Chase 16 − 渡されたキー  その日の会議室は妙に薄暗く思われた。  いつの間にか決まったそれぞれの席に既に、欠けた一人を除く全員が座っている。だが六人が六人全員口を開こうとはしない。木津はむやみに煙草をふかし、峰岡と由良はうつむいて小さくなっている。安芸と小松、そして阿久津もこのどことなく重苦しい空気の為か、沈黙を守ったままでいる。  ドアが開き、上から下まで黒の服に身を包んだ久我が入ってくる。  「お集まりですね。では始めます」  いつも通りの口調だった。  久我がスカートの裾を捌く音が響く。  「最初に、先日のS−ZC二号機強奪未遂事件の総括を行っておきます」  うつむいていた峰岡は体を固くした。木津の椅子が軋る。  それぞれの手元に映し出された資料に、しかし阿久津以外の誰も目を向けようとはしない。いや、今更向ける必要はなかった。  久我の感情を交えない声が、ごく主立った事実だけを掻い摘んで話し始める。結城鋭祐がLOVEにて身柄確保していた「ホット」部下の脱走未遂に乗じてロールアウト前のS−ZC二号機を奪取、当局担当者二名並びに上述部下一名に重傷を負わせ逃走するも、木津の阻止により失敗、自殺。この際にB試作車両B−YCが非常投入された。なおS−ZC二号機はB−YCとの攻防により大破。  ここで久我は言葉を切ったが、誰も口を切る者はいなかった。だがそれは今の話が既知の内容であるという理由からだけではなさそうだった。  久我が続ける。  「これについて、追加の情報をお伝えしておきます。まず、大破したS−ZC二号機ですが、これは回収調査の結果修復の見込みなしとして廃棄と決定しました」  「……まあ致し方ありますまいな」軽くはない口調で阿久津が言った。「代わりにB−YCを育てることにしますわい」  木津が少しく乱暴に煙草の灰を灰皿に落した。その手元が揺れる。  「それから」とさらに久我。「強奪の主犯である結城容疑者ですが、『ホット』の部下、しかも側近クラスの人物であった可能性が指摘されています。当局ではまだ公式な見解を明らかにしてはいませんが、内部的には同様に『ホット』の配下にある者がいないか、内偵を開始しているようです」  「『ホット』の側近が当局内に……」と言いながら、小松が何の気無しに由良の方を見た。視線を感じた由良はうつむいた顔をさらに下げる。  その様子にちらりと目を走らせ、久我が口を切った。  「次に移ります。今回の件でアックス・チームにも欠員が生じました。またB−YCの件もありますので、再度チーム編成を変更します」  木津の手が口元から煙草をもぎ取り、灰皿で煙草を必要以上に執拗にもみ潰す。  「まずアックス・チームですが、現行メンバーの配置はそのままとし、アックス4は新規乗員を充てます」  何人かの顔が久我に向けられる。一様に問われるはずだった質問は、だが誰の口からも出ず、またその問いを予想していた久我も自らそれに触れようとはしないままに続ける。  「また木津さんはS−ZC二号機に搭乗の予定でしたが、喪失のため同一号機と同時にB−YCの開発に着いていただきます」  「二台も頂戴できるんですかい?」  そういう木津の声はいつも以上にかすれ、おまけに呂律も少し怪しかった。  「B−YCが正式試作になった段階で、S−ZCは試験用途から外す予定です」  言葉を返そうとしない木津を、峰岡がそっと見やった。が、その峰岡が次の久我の言葉に表情を固くした。  「また、現在峰岡さんに臨時運用をしていただいてるS−RYですが、峰岡さんには乗務を外れていただき、代わりにこちらにも新規メンバーを充てます」  口を開きかけた峰岡に先んじて、安芸が尋ねた。  「二名の補充ですか。で、その二人は?」  「T研究室とG管理室からの転換です」  洟をすする音がその答えに重なる。  「ディレクターのスカウトですか?」  「そうです」  洟をすする音は、かすかなしゃくり上げに変わっていた。  安芸はその主に投げた視線をすぐに逸らした。主の横で木津が次の煙草をくわえ、震える手で苦労して火を点ける。  安芸の問いがそれ以上続かないのを見てとると、久我は口調を変えずに続ける。  「峰岡さんは通常業務専任に戻っていただきます」  「それって」部屋の中に細い涙声。「……それって、あたしが向いてないってことですよね」  久我がそれに答えるより先に、木津の左手が峰岡の頭にぽんと載り、髪の毛をくしゃくしゃとかきなでた。  「悪いけど、ホット・ミルク持ってきてくれないか?」と、やはり呂律の回りきらないかすれ声で言う。「ウルトラ・エスプレッソは医者に止められてるから」  峰岡の潤んだ目が木津の横顔を見上げる。そして久我を。  久我はほんのわずかに目を細める。  峰岡は手の甲で目許をこすると、席を立った。憔悴した後ろ姿がドアの向こうへ消える。  煙草をくわえた歯の間から、木津が問う。  「で、その二人ってのはどこにいるんだ?」  「ご存じかと思いますが、G管理室もT研究室もこの敷地内ではなく、本部にあります。今日は二人とも本部で残務引き継ぎを行っているはずです。こちらへは来週初めに赴任します」  「ということは、トレーニングはまだ全く受けていないのですか?」と、アックス・リーダーの安芸。  「いいえ、本部のシミュレータにこちらのプログラムを導入してトレーニングを実施していました。こちらでの実車訓練を残すのみです。なおこの二名は、今回の件に伴う緊急増員ではありません」  いきなり木津が左手を大きく振り回す。手に落ちた煙草の灰が飛び散る。  「まだ調子悪そうだねぇ」見とがめて小松が言った。「まだ寝てた方がよかったんじゃないかい?」  あの追撃戦の後、結城の遺体と朱雀の残骸、そして小破した白虎と共に回収された木津は、まっすぐ集中治療室へ運ばれた。  そして久我の元に状況が報告されるまでに、実に半日近くを要したのだった。  最初に木津の診断を聞いたのと同じ部屋で、久我はその時よりも芳しくない医師の話を聞いた。  「今回の症状の原因となったのは、経時による充填剤のひけでした。元々充填剤の注入はごく微量に抑えていたのですが、嵩が小さくなったことで隙間が生じました」  久我はうなずきもせずに聞く。  「しかも良からぬことに、剤が例の小片の端をくわえ込んで」と医師は手でその様子を真似て見せる。「それが振り子の錘のように、小片を振り回す形になったようです」  「つまり、小片が動くことで出る悪影響は、以前よりも増した、ということですか?」  医師は無言でうなずいた。  「それで、処置はどのように?」  「同じ充填剤の注入を再度行いました。それと同時に……」  そこを遮る久我の問い。  「同じものを用いたということは、いずれ同じ症状を再発する可能性がある、ということですね?」  医師は直接の答えを返さなかった。  「今後は定期的に診断を受けてもらう必要があるかと思います」  聞いた久我がこれといった反応を返さないのを見て、医師は中断された説明の続きを始めた。  「同時に、充填剤の固着までは周辺の神経を刺激しないように、一種の麻酔を施しました。こちらは三日間の連続施術となりますが、その間日常生活にやや不自由があります」  「日常生活に支障があるということは……」  医師は久我に最後まで言わせなかった。  「無論VCDVの操縦に堪えるものではありません」  「分かりました……三日間ですね?」  「三日後に固着の状態を検査します。それ次第ではさらに数日を要する可能性も否定はできません」  「分かりました」  久我は表情を表さずに応えた。  その三日目がこの会議の日であった。  「いや、午後から検査だから」と木津は小松に応える。  久我は続けて、今後の当面の当直体制について触れた。曰く、止むなく三人体制を採るが、回復状況次第では、補充乗員の着任まで木津にその任に着いてもらう。  「そいつぁ願ってもないね」と木津。「奴にゃあこれでまた貸しが増えたしな」  ひきつった笑みが唇の端に浮かぶ。  そしてもう一人、相変わらずの固い表情の中に、わずかに安堵の笑みを浮かべていた。  由良だった。  ドアが開き、濡れた睫のままで、五つのコーヒーのカップと一つのホット・ミルクのカップをトレイに載せて峰岡が入ってきた。  「よかったですね」  そう木津に告げる峰岡の微笑みには、作りものの色が見え隠れしていた。  検査の結果、医師は木津に、またVCDVの乗務が行えるようになったこと、ただし月一度の検査が必要であることを告げたのだった。  「もっとも、VCDVに乗るのでなければ、検査も不要なんですがね」  「生理休暇だと思うことにするよ」  そんなやり取りを医師としたことを思い出して、木津は口を開いた。まだ麻酔は効いているので、舌の回りは怪しい。  「あのさ、MISSESって生……っとっとっと」  峰岡は小首を傾げる。  「何でもない何でもない」  「また変なこと言おうとしましたね?」  そういう時の笑顔も、いつもの生気を半ば失ったように、やはりこわばっている。これは言ってしまって笑わせた方がよさそうだ。  「いやね、MISSESって女性専用のお休みってあったのかな、って思っただけさ」  答える峰岡の声は弾けてはいなかった。  「一応ありましたけど……あたし、もう関係ないですし」  その歳でもう上がっちまったのかと木津はおひゃらかしかけたが、どう見ても峰岡はそれにのってきそうな雰囲気ではなかった。  あの会議の後、峰岡は指示を出される前に、自らS−RYのキーを久我に返上していたのだった。  午前中よりもずっと楽そうな指の動きで、煙草を一本取り出すと、木津は火を点けずにくわえた。  「でも、いいんです」と峰岡。その声は細い。立ち姿も、心なしか実際以上に小さく見える。「表に立って皆さんに迷惑を掛けるよりは、裏方に徹していた方が」  木津の唇の間で煙草が動く。  だが峰岡が言葉を継ぐ方が早かった。  「今回のことだってそうでしたし、それに仁さんにも何回も迷惑を掛けちゃって……」  「全然覚えてないんだが」  峰岡は少しだけ頬を緩めると、  「それ、きっと薬のせいです」  肩をすくめる木津。  部屋の外から終業時刻が間近いことを報せるチャイムが聞こえてきた。  「あ、ごめんなさい。長居しちゃいました」  そう言って峰岡は軽く頭を下げる。  木津はくわえていた煙草を灰皿の上にふっと吹き飛ばして尋ねる。  「今日は上がりか?」  「はい……」と少し歯切れのよくない答えが返る。「時間になったら帰ります。仕事も詰まってないですし……しばらくは」  「なるほど。で、その後の予定は?」  「帰るだけです」  「だったら、この前中断したっきりのやつの続きといくか? 俺もどうせ今日は使いものにならないし」  きょとんとした峰岡がおうむ返しに問う。  「この前の続き、ですか?」  「茶だけしばいて飯を喰ってなかったような覚えがあるんだが」  そこでにやりとすると、付け加える。  「記憶力は悪くないんだ。薬のせいじゃないらしいぜ」  峰岡は驚いたのだか嬉しいのだかよくわからない顔でまた尋ね返す。  「今日、ですか?」  「時間あるんだべ?」  「え、え、え、でも今日はそんな用意してないですし……」  そう言えば前回はえらくめかし込んで来てたっけな。  「別に服で飯喰うわけでもあるまいに。ああ、スカートのウエストに余裕がないってんなら話は別だが」  「決してそういうわけじゃないですけど……」  「んじゃ行くべさ」  今までよりはもう少し表情を和らげて、峰岡はうなずいた。  「助手席ってのも落ち着かないもんだな」  ハンドルを握る峰岡の横で、木津は言った。  「普段そっちには全然座らないですものね」  「ま、今の状態じゃ危ないからな、仕方ない。我慢しますか」  ここで期待した返事を聞けなかった木津は、結局自分で引き取って言った。  「いや、別に君の運転を信用してないわけじゃないから。念のため」  車は緩衝地帯を抜け、「内橋」にさしかかる。峰岡の好きだと言っていた都市区域の街明かりが見えてくる。  「本当だな」と木津。「言われてみりゃ確かにきれいだ」  えっという表情を木津に見せる峰岡。  「こら! よそ見するな!」  「は、はいっ」  その様子がだんだんといつも通りの峰岡のものに戻ってきているのを感じて、木津は笑いながら尋ねた。  「で、どこに連れてってくれるのかな?」  「仁さん、いっぱい食べられそうですか?」  「ま、人並み程度には」  「中華じゃだめですか? 廉くて美味しいところがあるんですけど」  「熱烈歓迎」と、口振りはそれほどでもなく木津は言う。「で、ラーメンと炒飯と餃子ってのは無しだぜ。それじゃ奢り甲斐がないからな」  「そんなに出されたら、食べ切れないです」  峰岡は帰りも運転があるという理由で、木津はまだ麻酔が切れていないからという理由で、地味に中国茶をすすりながら、二人は料理が運ばれるのを待っていた。  「これじゃ小松のおっさんだよ」と木津。  峰岡は苦笑いしながら、  「明日までの我慢ですね。そしたらお酒だって運転だって思うままですよ」  「両方同時に?」  「それはだめです。お酒呑んでVCDVなんか動かしたら、きっとふらふらになりますよ」  木津は肩をすくめた。峰岡が言葉を継ぐ。  「明日にでもまた『ホット』が出て来るといいですね」  木津の眉がわずかにひそめられた。しかし峰岡はやけに嬉しそうに話し続けた。  「そうしたら、仁さんはあの白いの、白虎、でしたっけ? あれでまた思いっきり跳び回って、今度こそ『ホット』を捕まえるんですよね。それで……」  息が切れたかのように言葉が止まる。曖昧な微笑を伴って。  口をついて出かかった木津の問いは、料理を運んでくる店員の姿に押し止められる。  注文した品六皿が次々に現れ、テーブルに勢揃いする。  峰岡は木津に尋ねた。  「これ、本当に全部食べるんですか?」  木津は沈黙している。  「だから言ったじゃないですか、ひと皿の分量は結構ありますって」  前菜、スープ、点心、揚げもの、蒸しもの、炒めもの。どう見ても五人前の量はある。  「いくらあたしが大食いでも、これは無理ですよ」と峰岡が笑う。  苦渋に満ちた表情で、木津は言った。  「……お持ち帰り、あり?」  胃の辺りを押さえながら苦しそうな息を吐く木津を後ろに、峰岡はドラッグストアの胃腸薬の棚をのぞき込んでいる。  「食べ過ぎの薬って、いっぱいあるんですね。意識して見たことなかったですけど。どれがいいんだろ……」  「とにかく一番効きそうなやつ」  半ばげっぷになりかけた木津の言葉を聞いて、峰岡はまた笑った。食い過ぎてみたのも無駄じゃなかったらしいな、と木津は思う。  「それじゃ、これにします」  峰岡は効果の一番ありそうなと言うよりは、なりの一番大きな瓶を取り上げた。  支払いを済ませ、店の外へ出てくるなり、釣りと瓶を木津に渡して峰岡は言う。  「はい、どうぞ。それ飲んだら、明日にはもうすっきりですね。朱雀でも白虎でも思う存分ですよ」  受け取った瓶の封に掛けた手を止め、木津は峰岡の顔を見つめた。一瞬視線の合った峰岡の目がすぐに逸らされる。その口が開く。  「早く飲まないと楽になりませんよ」  「まだ乗りたいんだろ?」  もう一度視線がかち合った。小首を傾げてみせる峰岡だったが、顔色は本心は隠し切れていなかった。  「え?」  木津の手は瓶の蓋から峰岡の頭に移り、髪を二、三度やわらかくかき上げた。  「えっ?」  峰岡が面食らったような表情を見せた時には、もう木津は薬瓶を空けてしまっていた。そして通りの向こうまで聞こえるような音を立てて長いげっぷをした。  「やだ、仁さん……」  「いや、こいつぁ確かに効きそうだ。じゃ、次は例の喫茶店といくか?」  峰岡は苦笑しながら言った。  「今度の楽しみにさせてください……今夜はどっちにお帰りですか? お部屋ですか? それともLOVE?」  その時。  「木津仁さんですか?」  横から聞こえてきた女の声に、二人は揃って首を向けた。  小柄な峰岡とは対照的な、すらりとして高く見える姿が、腰まで届く髪をなびかせながら歩み寄ってくる。  「そうだけど……?」  訝しげな表情を隠そうともせずに木津は応える。数ヶ月前に、交戦した「ホット」の部下が自分の名を呼んだことを思い出して。  女は木津の表情に気付くと、微笑みながら頭を下げ、言った。  「突然で失礼しました。レーサーを引退なされてからお姿をお見受けしなかったもので。私、現役時代の木津さんのファンでして」  「俺みたいな二流のレーサーにファンがいたとは思わなかった」と自嘲気味の木津。  「戦闘的な走り方が周囲からあまりよく見られてはいなかったのは存じています。でも私はそんな走り方が好きでしたから」  木津は女の顔を見た。大きい、少し釣り上がり加減の目をした美人だ。あいつとは違うタイプ。  「生憎ともうそっちからは遠ざかっちまってるけどね……事故以来」  「残念です。復帰されるご予定はないんですか?」  「ああ、転職したんでね」  女は、おやという顔をする。  「今は某研究所のテストドライバー兼兵隊をやってる」  「仁さん!」と小声で言いながら峰岡が木津の袖を引いた。  一方の女は再び、だがさっきとは少しニュアンスの違った「おや」を浮かべる。それが微笑に変わると、女は口を切った。  「申し遅れました。私は饗庭紗妃と申します。今後またお近付きになれましたら」  そして頭を下げると、踵を返して、まだ引ける様子のない雑踏の中に紛れ込んで行った。  木津の眉間には、訝しさ故の縦皺が残ったままだった。あの女、転職先の話をしたら、表情を変えやがったな……  「仁さん?」  気付くと峰岡がまた袖を引いていた。  「顔が恐いですよ」  「生まれつきだよ」  表情を少し崩して、峰岡は言う。  「今の人、きれいな人でしたね。そうかぁ、仁さんのファンかぁ……あたしはその頃の事って全然知らないんですよね」  「知らなくていいさ」と簡単に木津。  「どうしてですか?」  少し悲しげな顔になって峰岡が訊ねる。木津はにやりとしながら後頭部に手をやる。  「古傷がうずくでな……さて、茶をしないなら、ぼちぼち帰るべか。今から研究所も何だろうから、アパートの方に頼むわ」  翌日、阿久津からほぼ完了に近い白虎の修理状況を聞きがてら、木津は訊ねた。  「車種転換とかした時ってさ、前の車のキーに入ってるデータってどうなるんだ?」  「もちろんデータは抜いて別に保存しておくんさ。それもそれで貴重な資料だからな」  「それじゃデータの移し替えも利くわけだ」  「お主の朱雀のデータだって、二号機のキーに変換して登録しておいたんだ。もっともこいつは使わず終いだったがな。それに安芸君の玄武の基本データだって、青龍のを変換したものだしな」  木津はにやりとした。  「何だ、気色悪い」  「いや、阿久っつぁんを男と見込んで頼みがあるんだ……おばさんには内緒でさ」  「乗った」  その週末、MISSESのメンバーはまた会議室に顔を揃えた。  木津は自分の横の空席に目をやる。と、その目が向こうに座っている安芸の目とかち合った。安芸が言う。  「やっぱり、ここに座ってしまいますね」  「いいんじゃない?」  久我が入ってきた。いつも通りに出席状況を確かめると、二つの空席も予定通りといた風に議事の開始を宣言した。  「先日お知らせしておいた増補要員が本日付けで着任となりましたのでご紹介します」  久我がドアの方に目を移すと、それが合図であったかのようにドアが開き、体格のいい長身の男と、そして男と並ぶとそれほどでもないが、すらりとした細身が腰までの髪と相まって実際以上に丈を高く見せている女とが入ってきた。  女の方が居並ぶメンバーに目を向けた。そしてその中に木津の存在を認めると、微笑を浮かべてほんのわずかに会釈するような素振りを見せた。  木津もその顔を忘れてはいなかった。そしてあの時女の見せた表情の意味を、今理解した。そういうことだったのか……  安芸が小声で木津に問いかける。  「あの女性の方、仁さんに挨拶したようですが、お知り合いですか?」  「一方的にそうだったらしいぜ」  安芸の合点のいかない表情をおいて、木津は正面に向き直る。久我の横に入ってきた二人が並んだ。  「T研究室所属の饗庭長登さんと、G管理室所属の饗庭紗妃さんです。本日付けでこのM開発部に配属となりました」  「揃って珍しい名字ですね」と小松。「ご兄妹なんですか?」  「はい」と兄の方が応える。  久我が二人に席に着くように促す。紗妃は躊躇うことなく木津と安芸の間に座ると、にこやかに木津に言った。  「お近付きになれましたね。これからよろしくお願いします」  「あんた、知ってたのか?」  表情を崩さずに紗妃は首を横に振った。  「でも、この間街で会った時、それらしいことを言ってましたよね? あの時もしかしたらとは思いましたけど」  一度言葉を切ると、木津の目をのぞき込むようにしてから、言葉を継いだ。  「嬉しいです。ファンから同僚にステップアップできて」  久我が話を続ける旨を告げた。  会議が終わり、休憩室でひとり油を売っていた木津は、向こうを通りかかった小柄な姿を呼び止めた。  「真寿美!」  髪を揺らして振り向いたその顔がほころぶ。  「あ、仁さんがさぼってる」  そう言いながら、腰を降ろしている木津の前に歩み寄ってきた。  「忙しいか?」  「ひまです」  即答されて木津は苦笑したが、すぐに笑いの方が表情から抜けた。あのおばさん、メンバー受け入れの準備からも外してるのか。  「身もふたもねえな」  そう言ってから、木津は饗庭紗妃のことを簡単に話した。  「あのきれいな人があたしの後任だったんですか。本当にお近付きになっちゃいましたね。きっと仁さんと同じ仕事をするんで喜んでたんでしょうね……」  紗妃がそんな雰囲気を隠そうともしていなかっただけに、木津はまた晴れやかならざる表情をしている峰岡には何も言わなかった。  「それで、会議の時には、前にあたしが座ってた席に座ったんですか?」  「……ああ」  「そうですか……何だか」  言葉が切れる。が、木津が問う前に峰岡自ら引き取って、また曖昧に微笑んだ。  「何でもないです」  木津はジャケットのポケットから煙草の箱を取り出し、口を開くとそのまま握り潰した。  「買ってきましょうか?」と峰岡。  「いや、あるはずなんだけど」  木津は内ポケットをごそごそやる。探り当てたか、すぐにその手が止まり、ポケットを抜け出してきた。が、指の間に摘まれているのは、煙草の箱ではなかった。  「これ、やるわ」  木津の指から弾き出され、大きな放物線を描いて落ちてくるものを、開いた両手で受け止めて、峰岡は見た。途端に驚きの表情を木津に向けてくる。  「これ……」  両手の間で鈍く光る銀色の小さなカードには、一本の赤い線が入っている。それは紛れもなくS−ZC「朱雀」のメイン・キー・カードだった。  「え、え、え、え?」  木津はお目当ての煙草の箱の封を切り、一本くわえると言った。  「おばさんには内緒な。ちなみにデータは阿久っつぁんに入れといてもらったから」  「だって……」  「俺にはこれがあるし」と、別のポケットから、木津はキー・カードを取り出した。その端から例のくたびれたパンダがぶら下がり揺れている。「ま、持ってりゃ使う機会もあるかも知れないしな」  キーを持った両手を胸の前で握りしめ、目に涙を溜めながら峰岡は微笑んだ。  「でも……」  立ち上がった木津に頭をぽんぽんと軽く叩かれ、溜まっていた涙が頬を伝った。  Chase 17 − 呼ばれた名  朝の挨拶と共に久我の執務室へ入って来た峰岡は、そこに張り詰めた空気を感じて足を止めた。部屋の主はインタホンに向かって情報と指示を与えている。  「……武装ワーカー十二、武装装甲車十八、輸送車一。ホット・ユニットの反応はありません。アックス1から4及びマース1、キッズ0は現場へ急行。指揮はアックス1」  「了解!」  峰岡の顔が曇った。出動指示が下されたのは六機、つまりMISSESの全ドライバーにだった。新規にメンバーに加わった饗庭兄妹にまで、マース1にまで。  閉じるドアを背に立ち止まったまま、峰岡は何も問うことが出来なかった。  そんな峰岡に久我はわずかにうなずいて挨拶を返すと、ディスプレイ・スクリーンを起動した。八枚に分割された画面の一枚に、輝点を示した地図が表れる。そして乗員を迎え入れる毎に、VCDVからの映像が次々に六枚の画面を埋めていく。  各員に手短な指示を出すと、安芸が言う。  「出ます!」  四台のG−MBが、追ってS−RYとB−YCが次々に駐車場を飛び出す。  後ろ髪を引かれる思いを追い払えないまま、峰岡はいつも通りコーヒーの支度を始めた。  安芸のG−MBを先頭にし、後ろに小松と由良、饗庭兄妹が並ぶ。後詰めの木津は、コクピットの中で満面の笑みを浮かべていた。  ご本尊様の出馬がないってのは不満だが、久々の、それも五対一の大立ち回りだ。存分に暴れ回らせていただくとするか。  「木津さん、鼻歌が聞こえますよ」  と女の声が聞こえる。饗庭紗妃だった。  「楽しそうですね。これから危険な任務にあたる人とはとても思えません」  「そうか?」  危険な、という紗妃の言葉を裏打ちするかのように、レシーバーから安芸の声が聞こえてきた。  「饗庭さん、初陣としてはかなり厳しい状態です。決して無理はしないでください」  了解の声が二つ重なった。紗妃が一言言い足す。至極落ち着いた口調で。  「邪魔にならないように気を付けます」  「接触まであと三分……」  そう言った安芸のアックス1が速度を落とした。  「どうした進ちゃん?」と木津が問う。  「向こうの足が止まりました……ちょっといやらしいことになりそうですね」  「何で?」と今度は小松。  「止まった場所は来栖川重工の跡地付近です。あそこにはまだ施設がほとんど残っていますから、紛れ込まれたら厄介です」  「力相撲から鬼ごっこに遊びを変えたってわけか」と木津が言う。「ま、どっちだっていいけどさ」  その時、前を走るマース1が何の前触れもなくハーフに変形し、左腕を上げた。  「どうした?」  木津の声に鈍く衝撃波銃の重い銃声が重なる。そしてキッズ0の車体をかすめるように、見覚えのある機械が落ちて来た。  「不審な飛行物体です!」  紗妃の声に、キッズ0に急制動をかけさせ、木津が墜落した残骸を見る。間違いない、前に一度朱雀のテストの時に覗きに来た、「ホット」のお使いだ。奴らめ、斥候を出しやがったな。  そこに安芸の鋭い声。  「散開!」  木津は振り向いた。散らばるVCDVの上を越えて来たのは、懐かしい曳光弾の光条だ。  「おいでなすったか……」  木津の口の端がひきつったような笑みを帯びる。  ほんの数秒だけ続いて光条が途切れる。安芸の指示が飛ぶ。  「接触まで二分。砲撃は各自回避しながら進行、指示したらMフォームに変形し待機願います」  「了解だよ」  誰よりも早く木津が答えを返した。  先頭のG−MBが再び速度を上げる。木津もスロットル・ペダルを軽く踏み込んだ。  工場跡地に残された長い塀が落とす影に沿って、六両が走る。その影が、近付く春を報せるような穏やかな陽光に断ち切られたところで、安芸が停止を指示した。  四体の玄武が、続いて青龍が木津の目の前で立ち上がった。  「こういう青龍を見るのも久し振りって気がするな」  そうつぶやく木津に、紗妃がすぐに言葉を返した。  「そうなんですか?」  よく聞いてやがんな……と木津は言い返そうとしたが、出鼻を安芸の声にくじかれた。  「この先左の工場に目標は散開しているようです。先行して哨戒します。由良さん、サポートを頼みます」  「了解しました」  答える由良の声が以前よりも重くなったのには気を留めず、木津は問う。  「んで、俺達はどうする?」  「また指示します」  「またのご来店を心からお待ち申し上げております」  吹き出す声はない。  「行きます!」  二体の玄武が塀の陰から跳び出した。と、工場の敷地内に飛び込んでいく武装装甲車の影が見えた。玄武は交差する道路を渡り、装甲車の入っていった、破られている工場の門の脇まで一気に駆け寄る。一呼吸おいて、由良の玄武が門の反対側へ飛び移る。  攻撃は、ない。  安芸の玄武の右腕が上がり、ゆっくりと前後に振られる。それを受けて、残る四機が前進し、安芸の後に続いた。  ナヴィゲーションの画面で工場の見取り図を確認すると、安芸はまた指示する。  「正面と左側に規模の大きな設備、右側は小規模ラインと細かい建物です。右手の捜索は由良さんと饗庭……長登さんにお願いします。由良さん、十分にサポートをよろしく。左は仁さんと……」  「私が行きます」と紗妃が言い出す。  木津の意見は特に聞かれないまま、安芸は了解の旨を応え、そして付け加えた。「仁さん、あんまり紗妃さんに無理をさせないようにしてください」  適当な返事をする木津に、紗妃が言った。  「木津さん、運転はあの頃と変わらないんですね?」  木津は答えない。代わりに聞こえるのは、小松に自らのフォローを指示する安芸の声。  「……何かあったらすぐに全員に連絡を入れてください。では……」  アックス1が、続いて小松のアックス2がハーフに変形し、門から中へ飛び込んでいく。同じくハーフになった残る二両の玄武がその後を追って走り出すと、右側に急転舵する。  それを追っていた白虎の顔が、青龍に向けられる。  「それじゃ、行くべぇ」  「はい」  落ち着いた、少し低めの声が答えた。  他のペアからの連絡はまだ全くない。三十両以上からの大部隊が、行動を起こして来るどころか、姿も見せないのか。  木津と紗妃は、どう見ても装甲車だのワーカーだのなど潜り込めそうにない、事務棟と思しき最初の建物の中を一応覗いてみてから、それに続く長大な施設へと進んだ。  白虎と反対の側を探っていた青龍の足が止まる。  「木津さん……」  「何かあったか?」  駆け寄った木津は、青龍の指さす先に停まっている輸送車の頭を見た。  「……箱の中身は何だろな、ってとこだな」  「連絡は……」  「とりあえず様子見だな。運転台の左へ回れ。何が飛び出してくるか分からないから気を付けろ」  「分かりました」  「行くぞ」  白虎が飛び出す。それにひけを取ったような様をほとんど見せずに続く青龍。  木津は横目にその挙動を見ながら思った。ほぉ、結構使いこなせてそうじゃないか。  青龍が閉じられた搬入車両用ゲートを背に、左腕を射撃体制にして身構えるのが、輸送車の空の運転台の窓越しに見えた。  「……そりゃこんなところで油を売ってるわきゃないか」  つぶやく木津の視線の先で、青龍が輸送車の後尾の方へと動き、視界から消えた。  「どうした?」  言いかけた木津の耳に鈍い接触音が聞こえる。間髪を入れず木津は白虎を輸送車のコンテナの上に跳び上がらせた。  下では青龍に蹴り倒され横転した武装ワーカーが一両、腕に仕込まれた砲口を着地した青龍に向けようとしている。  木津は舌打ちと共に白虎の左腕をワーカーに向けた。と、青龍が右脚を跳ね上げながら振り返った。その右脚は、ワーカーの腕を正確に捉えていた。なぎ倒された腕に、白虎の放った衝撃波が突き刺さる。さらに青龍が止めの衝撃波を一発二発と撃ち込んだ。  「荒っぺぇ……」  コンテナの上から飛び降りながらの木津のこの言葉に、紗妃は平然と答えた。  「そうですか?」  こちらに向けられた青龍の顔が、微笑んだかのように木津には思えた。  「木津さんに荒っぽいなんて言われるとは思ってませんでした」  「ぬかせ」と苦笑いの木津。  「来ます!」  紗妃の声に、木津は反射的にコンテナの尾部に目をやった。  陰から武装ワーカーの上半身が一瞬だけ現れ、すぐに引っ込んだ。  「野郎!」  木津が白虎を走らせる。コンテナの後端から横様に飛び出し、ワーカーの消えた建物の、破られたシャッターの方に左腕を向ける。  機影は見えない。攻撃もない。  警戒の姿勢を崩さないまま、木津はまずコンテナの様子を窺う。後端に開いた口からは、運転台同様に空の内部が見て取れる。少し距離をとって、紗妃も中を見た。  「何を積んで来たんでしょう?」  「大人のおもちゃだろ、きっと」  そう言うと木津はあらためて正面の建物を眺める。  「こりゃ……倉庫か何かか?」  「この構造はそうですね」と後に続いた紗妃が言った。「こちら側に搬入車両が入ると、シャッターを開けて積荷を運び込むようになっているんです」  「つーことは、中はワーカーが走り回れる程度にゃ広いわけか」  「行きますか?」  紗妃のその言葉と同時に、青龍が攻撃の姿勢を採った。  「飲み込みが早いね」  高いところに点々と並ぶ天窓から光が漏れるだけの室内は薄暗く、そして設備が撤去されているために徒に広かった。  白虎が先に立ち、その斜め後ろから青龍が続く。白虎の首が、長く続く左右の暗がりに向けてゆっくりと回る。  「……いない、か。どこに消えやがった」  「何も仕掛けてこないのが気味悪いですね。数としたら圧倒的な差なのに」  「あとの連中も何も見付けてないらしいしな……しゃあねえ、手分けするか。俺は左に行く。向こう側を頼む」  了解の答えが返り、そして即座に青龍がハーフに変形し、右手の暗がりへと姿を消す。それに倣いながら木津はまた苦笑する。この女、やることが早い。それからスロットル・ペダルを踏み込もうとした木津の足がレシーバーからの声に止まった。  「仁さん? 聞こえますか?」  「どうした進ちゃん? 何かあったにしちゃ何もなかったような口っぷりで」  「いえ、何もないんです。今、一番奥のプラント跡にいるんですが、あれだけの大部隊のはずが、全く姿を見せません」  「こっちにはワーカーが一匹だけいたぜ」  「それだけですか?」  「ああ、紗妃姫が早々に蹴り倒して沈めたがな。由良の方はどうだって?」  「さっき訊いてみましたが、込み入った場所なので難航しているようです。今のところは手応えなしだそうですが」  「何だかなぁ……はっきりしない奴等だ」  「ワーカーはともかく、さっきここに入ってきたはずの武装装甲車まで見当たらないとは考えにくいんですが」  「入ってそのまままっすぐ抜けてったんじゃないのか?」  「……まさか」  その時、木津の耳に二つの砲声が聞こえた。レシーバーからと、そしてこちらの建物の奥からと。  それが合図であったかのように、津波のように砲声が押し寄せてくる。木津の表情が変わった。  右手からモーター音。反射的に木津は銃口を向ける。が、見えたハーフのマース1の姿に、トリガーに掛かりかけた指が止まった。  ハーフのB−YCのすぐ脇で、マース1は青龍に変形し立ち上がる。  「来たか?」  「いいえ、外です」  「外?」  ハーフから戻された白虎が、破られたシャッターの方に振り向いた。同時にそこから爆風が吹き込む。続いて崩れ落ちる瓦礫。  青龍が衝撃波銃を放つ。出口を塞ぎかけた瓦礫が半ばは吹き飛ばされた。  「てめぇら、前回から進展がないじゃねえか!」  木津の言葉に反論するかのように、塞がれかかった破孔から砲弾が撃ち込まれた。  左右に分かれる白虎と青龍。図ったように双方が破孔めがけて衝撃波銃を撃ち返す。  外からの砲撃が止む。しかし、装甲車のものだかワーカーのものだかは分からないが、モーター音は生きていた。  意外にも冷静な声で、紗妃が言った。  「ここから手近な工程に資材を送り出すルートがあるはずです。それを探して脱出しましょう。さっき消えた装甲車も、きっとそのルートを使っています」  「俺もそう思う……ってことは、向こうもそう思ってるんだろうな。きっと出口から顔を出した途端、花火を揚げて歓迎してくれるだろうぜ……進ちゃん、由良、聞こえるか?」  「由良です。銃声がしましたか?」  「ああ、こっちだ。どうやら倉庫の中に隔離されちまったらしい。手が放せるか?」  「こちらは発見できていません」  「みんなこっちにいるんだろ……」  言いかけた言葉が安芸の声にかき消される。  「安芸です。囲まれたようです。アックス2は中破行動不能、小松さんが負傷です」  「あのオヤジ、またか……それはいいとして、こっちも囲まれた。由良と饗庭兄ぃは手が空いてると」  「了解。由良さん、こちらの支援を頼みます。饗庭さんは仁さんの方を」  再び執務室に顔を出した峰岡は、ディスプレイ・スクリーンから目を離そうとしない久我の様子を見て、現場の状況を察した。  デスクの脇に歩み寄り、持ってきた資料を置きながら、峰岡はスクリーンを覗き見る。  分割されたスクリーンの一つはすでに画像が途絶え、残る五つの中では、そのそれぞれがばらばらに武装装甲車と、武装ワーカーと、そして今までには現れたことのない人型の機械とに翻弄される様が繰り広げられていた。  由良と饗庭のG−MBは、ハーフの形態でそれぞれが建物の周囲を取り巻く相手を追い、駆逐しようとしている。  安芸の玄武は、倒れた小松の機体を庇いつつ、壁を背に、進入してきた武装ワーカーの接近を阻もうとしている。  そして青龍と白虎も、安芸と同じように、しかし遙かに動きの速い人型の機械を相手に屋内で苦戦している。  白虎からの映像に、銃を撃ち続ける青龍が映る。その横から、まるで滑るように人型が接近し、銃撃を浴びせては遠ざかる。横飛びに回避する青龍が視界から消えた。  再び接近する人型が狙いを白虎に変えた。跳び上がり、人型の頭部めがけて放った衝撃波は、だが巧みな動きにかわされ、倉庫の床を穿った。  「木津さん、足場が!」と饗庭紗妃の声。  「分かってる!」と木津。  着地した白虎はのけぞり、仰向けに倒れながらも銃を撃ち続ける。それを横様に襲おうと迫る人型。牽制すべく青龍が両者の間に割って入り、二度三度と発砲する。  息を呑んで映像に見入っていた峰岡は、久我に小さく頭を下げると、小走りに執務室を後にした。  閉じるドアを背に、廊下の半ばまで走ると、峰岡はそこで足を止めた。その手が胸ポケットの中の何かを握りしめていた。  饗庭の低い呻きが聞こえた。  「どうしました?」と、微かにしわがれた安芸の声が、荒い息の中から訊ねる。  「バッテリーが……」  そうか、向こうの方が守備範囲は広いか……振り回されているな。  「由良さん、外の残りは?」  ややあって返る答えは、やはり荒い息の間から聞こえてきた。  「多分、四です」  「分かりました。饗庭さんのサポートに回ってください!」  「え?」  「こっちは大丈夫です! 急いで!」  了解の回答もそこそこに、ハーフの玄武が木津たちのいる倉庫へ走る。それを追って、安芸と小松を封鎖していた武装装甲車と武装ワーカーが動いた。  安芸は倒れたままの小松の玄武に一瞥をくれ、そして正面に目を上げた。  左手から、このプラントに新たに入り込んでくるワーカーのモーター音が聞こえる。安芸は鼻の下の汗をなめた。  紗妃も今は口数が減っていた。  いつも以上にかすれた声で木津が言う。  「表はどうなってるんだ……」  そして、迫りまた遠ざかりつつ仕掛けられる波状攻撃を避けながら、相手を見た。  人型だが、足の裏にローラーか何かが仕込んであるらしい。腰から下はバランスを取るためにわずかに動くだけだが、動きは頗る速い。その速度で紗妃の銃撃を次々に避ける。  「やめとけ、バッテリーがもったいない」  そういう木津の指が、操縦桿のボタンに掛かった。斜め前方からまた人型が来る。  白虎が背後の壁を蹴って跳んだ。人型の動きが一瞬止まった。  木津が雄叫びを上げる。白虎の右腕から伸ばされた「仕込み杖」の一撃が、人型の首を打ち落とす。すかさず駆け寄った青龍に回し蹴りを浴び、残った胴体は床に倒れた。  「やった……」安堵の息と共にこぼれた紗妃の言葉を、木津の声がかき消す。  「次だ!」  体勢の回復が遅れた青龍の頭部をかすめて銃弾が飛ぶ。その数発が外装の一部をむしり取った。  紗妃は計器盤に目を走らせる。被弾による問題はなかった。しかし衝撃波銃のバッテリーがやはり底を突きかけていた。  「どうした?」と木津。  「大丈夫です!」  返事と同時に青龍がハーフに変形する。  「私はこれであれを捕まえます。木津さん、仕留めてください」  そして木津の答えも聞かずに、動き回る人型の中に飛び込んでいく。  猛烈な銃声が、倉庫の徒に広い空間を震わせて響いた。  饗庭の玄武が、倉庫の壁を背に、三両の武装装甲車に囲まれている。その背後から、由良の玄武が襲いかかる。ハーフから玄武に変形しざま、出力を最大に上げた衝撃波銃を右側の一両にぶち込む。直撃を受けた装甲車が横転するのを見もしないまま、自らの銃撃の反動に身を預けて、今度は振り向きざまに左手の装甲車の砲身をつかむと、力任せに引きずった。そして砲口に左手を突っ込み、衝撃波をたたき込むと飛び退く。砲身はひとたまりもなく破裂した。うろたえた残りの一両が由良に向けて回頭を始める。そこに向けて由良が左腕を伸ばそうとした時だった。  「後ろっ!」  饗庭の声と、玄武の右脚への弾着とは同時だった。バランスを失った玄武が前のめりに倒れながらも、迫る装甲車に、そして武装ワーカーに撃ち続ける。  ワーカーは真っ直ぐに向かってくる。両腕の砲身が照準を定めるように動く。  由良は瞬きもせずにそれを見つめる。と、機体が大きく揺れた。何者かに引きずられるように。そして機体はワーカーの進路から外される。由良はもう一度迫るワーカーに目を向ける。その視線の先で、ワーカーが、そして装甲車が続けざまに弾け飛ぶ。思わず息を呑んだ由良は振り向いた。  「……朱雀?」  それまで自分のいた位置に、この場にはいないはずの赤い痩躯が立っていた。  倉庫の陰から新手のワーカーが飛び出してくる。が、一瞬の後には朱雀の繰り出す衝撃波を浴びて転覆擱坐していた。  そして聞き慣れた高く弾けた声が呼んだ。  「仁さん!」  「峰さん?」  自らもワーカーを一両仕留めた安芸がそれに気付いた。  「峰さん、どうして……」  それには構わず峰岡は呼んだ。  「仁さん! どこですか?」  饗庭の玄武が背後の倉庫を示す。  封鎖されていたはずの扉から、強力な衝撃波の直撃を受け、後ろ向きに武装装甲車が飛び込んでくる。白虎に接近しようとしていた人型がそこにまともに突っ込み、真っ二つになった。宙を舞った上体が重たげな音を立てて床に落ちる。追うように倉庫の中に朱雀の機体を滑り込ませた峰岡は、それには目もくれなかった。  「仁さん!」  左手に動きが見えた。迷うことなく峰岡はハーフに変形させたS−ZCをそちらへ走らせる。S−RYよりも強力な加速に小さな体を締め付けられ、その口から小さな呻きが漏れる。が、構わずにスロットル・ペダルを踏み込んだ。  走り回る人型は、突然現れたたった一機の増援にはほとんど注意を払わなかった。ただ一体が接近を牽制するように、複雑に動き回り銃を撃ちながらS−ZCへと近付く。  構わずに突っ切ろうとするハーフの右前方から、人型が高速で接近する。峰岡の視線が一瞬そちらへ流れる。唇がきっと結ばれる。  次の瞬間、人型の頭部が胴体から離れ、高く舞っていた。朱雀は人型の首に一撃を与えた右腕の「仕込み杖」を背中まで振り切り、そのまま衝撃波銃を放つ。直撃を受けた人型は腹から二つに折れて吹っ飛んだ。  その先に峰岡は見た。車体にいくつもの弾痕を留め、左腕を半ばから失いながら、なおも人型に対峙しようとするかつての自分の愛機と、そしてそれを援護する木津の白虎を。  「仁さん!」  朱雀が跳んだ。その足がS−RYにとどめを刺さんとばかりに接近する人型の胸を捉えた。転倒する人型をよそに、着地と同時に白虎に迫ろうとする人型に銃の狙いを着ける。照準器の中で相変わらず攪乱するように動き回る人型。だが峰岡の目は照準を過たなかった。トリガーが引かれる。最大出力の衝撃波が、同じ目標を狙った白虎のそれと共に、人型を二方から捉える。  共鳴の中で、人型の機体はひしゃげ、錐もみ状態で宙を舞うと、倉庫の内壁に突き刺さって止まった。  振り向き、敵の姿がないことを確認すると、峰岡は再び白虎へと振り返る。  「仁さん!」  白虎がRフォームに戻った。峰岡もそれに続き、コクピットから飛び出すと、B−YCに駆け寄った。  ドアが開き、木津が降りて来る。そしてヘルメットを外しながら言った。  「まいったね、アンテナが壊れやがって」  木津の名を呼ぶ峰岡の声は、今はもうほとんど声になっていなかった。そんな峰岡に、木津はS−ZCを指差しながら言った。  「きっちり使いこなしてるじゃないか。預けた甲斐があったぜ」  そう言う木津の視線が峰岡の後ろへと動く。振り返ると、ヘルメットを脇に抱えた紗妃が駆け寄ってきた。  紗妃は真寿美を見て、意外そうな顔をした。  「あなたが……?」  真寿美は何も言わず曖昧な表情を浮かべる。  紗妃は屈託無い笑顔になって言う。  「MISSESのメンバーだったんですね。危ないところをありがとうございます」  表情を変えないまま沈黙している真寿美に、笑顔のままで紗妃がまた言った。  「木津さんの応答がなかったのが心配だったみたいですね。何度も名前を呼んで」  真寿美の肩がぴくりと震える。  「聞こえてりゃ一度で返事するさ」と木津。  そこに状況を問う安芸の声が聞こえた。  足早に駐車場を出ようとした真寿美を、戻ってきたメンバーが呼び止め、取り囲んだ。  「峰岡さんが来てくれなければ危なかったです」と由良。「でもまさか朱雀でとは」  木津がにやりとする。  紗妃もまた真寿美に助けられたこと、そして朱雀の動きぶりをにこやかに語った。  輪の中で真寿美はあの曖昧な表情を浮かべて、小さな体を一層小さくしていた。  「やっぱり」安芸が言った。「峰さんにはチームにいて欲しいですね。きっと久我ディレクターも今回のことで考えを変えるんじゃないでしょうか」  「みんなこれだけ助けられたんですものね」  紗妃のこの言葉に、また真寿美は震えた。  「どうした?」木津が訊ねる。「おばさんに黙って出てきたのが気になるか?」  真寿美は答えない。  「ま、唆したのは俺だからな。その時にゃ俺が人身御供になってやるさ。心配すんな」  真寿美は黙って首を横に振ると、小さくごめんなさいと言い、木津と紗妃の間を割って輪から抜け、小走りに駐車場を出ていった。  その背中をメンバーが見つめる。  「……どうしたんでしょう?」と紗妃。  「きっと久々の現場で疲れたんでしょう」安芸が答える。「大丈夫かな?」  シャワーから吐き出される冷たい流れを頭から受けながら、真寿美は紗妃の言葉を思い出していた。  「みんなこれだけ助けられたんですものね」  違う……みんなを助けようとなんて思っていなかった。助けたかったのはみんなじゃなかった。あたしは、あんな時に仁さんを助けることが出来ないのが嫌だった。仁さんの横にいて助けるのが自分じゃないのが嫌だったんだ、自分じゃなくて、饗庭さんだったのが……  濡れた髪が顔に貼り付き、それを伝って水が流れ落ちる。  いやだ……こんなあたし……  頬を伝う水に涙が混じる。シャワーに打たれる裸の肩が小刻みに震える。押し殺そうとしていた嗚咽が堰を切った。  真寿美はくずおれ、声を上げて泣いた。裸身を降りかかる雫と水音とが包んだ。  Chase 18 − 残された肖像  ディブリーフィングの後、予想に反して久我が居残りを命じたのは、木津ひとりに対してだけだった。  真寿美を含む他のメンバーが出ていったのを見て、木津は久我に言った。  「結局こうなると分かってれば、はなから真寿美を外すことはなかったのにな」  ディブリーフィングの場で、再び重傷を負った小松の補充として、久我は正式に峰岡にMISSESへの復帰を命じたのだった。  「……使用車種はS−ZC、運用時呼称はキッズ1を継承し、木津さんのキッズ0、饗庭紗妃さんのマース1と共に必要に応じた随時のサポートを任務とします」  久我の言葉を聞いた真寿美の表情を、木津は思い出していた。  これまでなら聞いた途端万歳でもしかねなかったのが、何故か今日は妙に緊張した面もちで指示を承っていた。それにべそでもかいていたかのように、目と鼻を赤くしていた。  久我が木津の正面に静かに腰を下ろした。  「阿久津主管にも確認を取りました。峰岡にS−ZCのキーを渡したのはあなただそうですね?」  「ま、元担当ドライバーの俺以外に、そういうことの出来る奴はいませんわな」  「理由をお聞かせ願えますか?」  冷静な口調の久我の問いに、軽薄な口調で木津が返す。  「今日みたいなこともあるかと思ってさ」そしてにやつくと言葉を継いだ。「あんたが腕を見込んだドライバーを、わざわざ遊ばせとくこともあるまいに」  久我は表情を表さずに問う。  「それだけの理由ですか?」  それだけの理由では、いや、そんな理由ではなかった。だがそれを言ってみたところで、このおばさんには通用しそうもない。  木津が答えないのを見て、久我が口を切った。相変わらずの冷静な口調。  「要員や車両の配置に関する事項の決定権限が私にあるというのは、ご存じのことと思います」  「知ってるさ」と木津は言い、煙草に火を点けるとあらためて久我に目を向け、そこで気付いた。  いつもは人を正面か、少し見下ろし気味に見ている久我の目が、今はやや上目使いに木津に向けられている。こんな表情の、いや、これが表情と言えればだが、久我を見たのは初めてのような気がした。  「彼女への同情が理由ですか?」  くわえられた煙草の先がぴくりと動いた。  「それほどご大層な身分じゃないぜ、俺は」と笑い飛ばすように木津が答える。が、次の久我の言葉を聞いてその顔色が変わった。  「徒にそうした感情を持つと、『ホット』への矛先が鈍ります」  「……何が言いたい?」  久我はそれには答えずに言った。  「あなたのおっしゃる通り、現実にこの変更が必要となりました。確かに決定の手順は通常とは異なりましたが、悪影響を及ぼすような問題の発生も何ら認められないので、これ以上この件に拘泥することは致しません」  そして久我は立ち上がり、付け加えた。  「いつも通り、レポートの提出をお願いします」  自室へ向けて廊下を歩きながら、木津は久我の言葉の意味をはかりかねていた。  『ホット』への矛先が鈍る、だと? 真寿美に同情するとそうなるってのか? それとこれとにいったい何の関係があるんだ? おばさんにしたって、俺がここにいるのは『ホット』が目的でしかないってことをまさか忘れてるわけじゃあるまい。その目的の裏にある事情までは知らないとしても。  木津の足がはたと止まった。  あの女、何を知ってる……?  「木津さん」  背後からの女の声に、木津は振り向いた。  「……ああ、姫か」  「どうして姫なんですか?」  紗妃は真っ直ぐ木津の顔を見て訊ねる。  「何となくさ」  その答えに少し肩をすくめてから、  「今まで久我さんのところに?」  「ああ、油をしぼられてきた。四・三八キロぐらいはやせたかも知れない」  そうですか、と紗妃は言ったが、これが今の答えの前半に対して言われたのか後半になのかは定かではなかった。  木津は自分で引き取って言う。  「それでこれから恒例のレポート書きだ。そっちは?」  「工場に行って、VCDVの修理を見学します。随分ひどく壊してしまいましたから」  「初めてで、しかもあれだけの派手な立ち回りの後であの程度ならいい方じゃないか? それを言ったら小松のおっさんなんか立場が無いじゃないか」  「でも結局損傷がなかったのはキッズ1だけだったんですね」  木津は苦笑いし、そして言った。  「俺としてはそれは嬉しいような気もするがね。その段で言えば、真寿美はちょっと忍びなかったかもな」  顔に疑問符を浮かべた紗妃に木津は言う。  「青龍はもともと真寿美の乗機だったからな。朱雀は俺が使ってたし」  「真寿美って、峰岡さんですか?」  「ああ。あれ? 知らなかったっけ?」  「市街地で初めて木津さんにお会いした時、一緒でしたね。あの時は彼女がMISSESのメンバーだとは思いませんでしたけど」そして少し微笑むと言葉を継いだ。「あの日はデートだったんですか?」  「厳密に言うと少し違う」と久我の口まねで言う木津。「あいつ、あの時メンバーから外されてしょげてたんで、食い物で気晴らしさせてやったんだが」  「外されていた? あんなにきれいに乗りこなしていたのに」  「俺にも分からんよ、久我のおばさんの考えることは」  さっきの台詞もそうだしな……  「そうですか。やっぱり申し訳ないことをしてしまったようですね」  「でもまあそれほどには気にするまいさ。あいつだって止むを得ない時には多少ぶっ壊してたし」  「だったら、私が木津さんをサポートするためなら許してもらえるかも知れませんね」  「どういう意味だ? そりゃ」  「え? だってお二人は恋人さん同士じゃないんですか?」  木津が、疑問符を浮かべた顔に、今度は苦笑を追加した。  「まあ、とにかく修理見学に行くべさ」  そう言いながら歩き出す木津に紗妃が問う。  「レポートはいいんですか?」  「いくらあのおばさんでも、二時間後に出せとは言わなかったぜ」  「おや、お揃いでお越しかね」  見慣れたのとは違う二人連れの姿を見て阿久津は言った。  「姫が修理見学をご所望でござる」と、おどけた調子で木津。「どんなもんだい? もう作業は始まってるのか?」  「出てみるかね?」  二人にというよりはむしろ紗妃に阿久津は声を掛けた。  「はい、ぜひ」  紗妃の答えを聞くより先に、阿久津は上がってきたばかりといった感じの資料を投げてよこした。木津がそれを机の上に拡げる。  今回出動したVCDV各機の整備修理作業見積書だった。  木津の手が一枚ずつページをめくり、S−RYの部分を開く。紗妃が脇から覗き込む。  もぎ取られた左腕の交換、被弾部外装の交換と機構チェック、疲労部品の交換という、比較的軽微な作業だけがそこに書き込まれている。  「思ったより軽くて済んでるな」  木津の言葉に、紗妃はふぅと息を漏らす。  「腕もストックがあるし、機構チェックでアラが出なけりゃあ、まあ今日中には片が付くだろうな」と阿久津。  「本当ですか?」  「嘘を吐いてる目に見えるかね?」  「……眼精疲労気味なのは分かります」  一本とられたという顔をして、阿久津は木津に言った。  「なかなかやりおるな、この姫君は」  「だろ?」  上の空でそう返事をする木津の目は、資料を辿っていた。白虎も損傷は軽微。ただし調整部位は他よりも多そうだった。そして朱雀。紗妃の言った通り、損傷は皆無。木津の頬には無意識の笑みが浮かんでいた。  「それじゃあ、行くかね」  阿久津が作業場へのドアを開けた。  木津の後に紗妃が続き、三人は作業台の前へと歩いていった。  Mフォームで作業台に斜めに寝かされた白虎、朱雀、青龍、そして安芸の玄武に作業員が群がっている。  「ベッドが満杯ってのも久しぶりだわい」と阿久津が言う。「サポート機や試験機まで駆り出すとなったら、四基のベッドじゃとても足りんな。この倍はないと、いざというときにゃ剣呑でいかん」  「おばさんに掛け合えよ」と木津。  「サポート機と言えば」立ち並ぶ機体を見ながら紗妃が口を切る。「どうしてサポート機の修理が優先されているんですか? 普通だったらアックス・チームの車両を先に稼働できるようにすると思うんですけれど」  青龍のちぎれた左腕が肩から外され、降ろされた。肩の開口部に作業員が計測器械をあてがい、チェックを始める。  木津が振り返り阿久津の顔を見る。  阿久津はにやりとすると言った。  「この点だけは不思議とディレクター殿と意見が合ってな」  不思議そうな顔の紗妃を横に、木津はちょいと肩をすくめた。  聞こえてきた終業のチャイムに、木津は書きかけのレポートから顔を上げた。傍らの灰皿には、この午後いっぱいだけで堆く積み上けられた吸い殻。そこに木津はさらにもう一本を積み足した。と、灰まみれの山がぐらつき崩れかけた。慌てて木津は一度手を放した吸い殻にもう一度指を添え、何とかバランスを立て直した。  一人苦笑いする木津。だがその表情はふと不審のそれに変化した。  こうなる前に灰皿を片付けに、いや、この用でなくとも一日一回は木津の部屋に顔を出す真寿美が、今日は一度も来ていなかった。  いつの間にか、と椅子の背もたれを軋らせて上体をのけぞらせながら、木津は思った。習慣になっちまってたみたいだな、あいつが来るのが。おかげですっかりずぼらになっちまった。  再び木津の頬に笑みが浮かぶ。が、それは苦笑ではなく、何か固い印象を与えるものだった。  今さらじゃないか、ずぼらは。  木津は立ち上がると、手ずから灰皿を取り上げ、サーカスのクラウンのような仕草で、山が崩れないようにバランスを取りながら部屋のドアを開けた。  同じ頃、その真寿美が帰宅の挨拶をしに久我の執務室に顔を出した。  ドアのところから小声で帰宅する旨を告げる真寿美に、久我はいつもと変わらない口調でお疲れ様と返して、また視線を手元の資料に戻した。  が、ドアの閉じる音がしない。  目を上げると、まだ真寿美がドアの前に立ったままだった。  「どうしました?」  真寿美の唇が開く。そしてややあってから、  「いえ、失礼します」  出て行こうとする真寿美を、久我が呼び止め、招いた。  どことなく重たげな足取りでデスクの正面に来た峰岡に、久我は両肘を机に突き両手の指を組んで言った。  「何を気に病んでいるの?」  「え……」  「急がないならお掛けなさい」  ソファを指し示しながら久我も自ら腰を上げた。  真寿美は黙ったまま久我の言葉に従う。そして自分の正面に座った久我に目を上げない。そんな真寿美に久我は言葉をかけない。  しばらくの沈黙の後、先に崩れたのは真寿美の方だった。  「……復帰させていただいたのは、とっても嬉しいんです。でも、どうして嬉しいのか、何が嬉しいのか、自分の中で納得がいかないような気がするんです。いえ、どうしてとか何がとかは、本当は分かってるんです。でも、そんな理由でVCDVに乗っていていいのかって考えると……」  無言で聞いていた久我が、ゆっくりと口を切った。  「裏側にある理由がどうあれ、任務に差し障りのない限りは、それについて口を挟むつもりは私にはありません。あなたにはあなたの理由があって、それでいいと思います」  うつむいていた真寿美の顔が上がった。  「それが全体の和を乱さないなら」  言い足された久我のこの言葉が、真寿美の頬を震わせ、視線を再び伏せさせた。  それを見てか否か、久我は言葉を継いだ。  「木津さんがここに来た時のことを覚えている?」  真寿美はまた体をぴくりと震わせながら、小声ではいと言ってうなずいた。  「木津さんがここに来たのは、『ホット』を追う手段としてだったでしょう? 私たちとの最初の接点はその一点でしかなかったけれど、こうして今でも一緒に行動している。あなたも、他のメンバーも、その裏側にあるものを知らないままで。それが例えばレーサーを止めなければならなかったことなのか、誰か大切な人を喪ったことなのか、他の理由なのか分からないけれど、それとは関係なく同じチームの一員として行動している」  真寿美は相変わらずうつむいたまま。  「だからあなたも、自分の気持ちはそれとして持っていればいいと思います。ただし、いつか見切りを付けなければならなくなった時には、潔く振り切れるような心構えでね」  「どうしたらそういう風にいられるんでしょうか?」ぼそりと真寿美が訊ねた。「自信がないです……」  「そのうち分かってくるでしょう。きっかけがつかめるまでは今まで通りにしていれば、それでいいのではないかしら?」  「きっかけ……」  「峰岡さん」  駐車場への道で、後ろから自分を呼ぶ、聞き覚えのある声を聞いて、真寿美は思わず足を止め、一瞬躊躇ってから振り返った。  淡い緑色のスプリング・コートを腕に抱え、ヒールを履いた足取りも軽く近付いてきたのは、やはり饗庭紗妃だった。  「今からお帰り……ですよね」  当たり前のことを訊ねた照れからか、こめかみを掻くような仕草をしてみせる。  「はい」と答えてから、真寿美は自分の姿に視線を落とす。服装にそれほど気を使っていないつもりはないのだが、彼女に比べると随分と垢抜けなく思えてしまう。やっぱりこの人ってきれいなんだ……  「もし迷惑でなかったら、市街区の入り口まで乗せていってもらえませんか?」  「全然迷惑なんかじゃないですけど……車じゃないんですか?」  「今朝になってトラブルを起こしてしまって。帰ったら修理屋さんを呼ばなきゃいけないんです。本当は兄貴に送らせようと思ってたんですけど、今日はこれからまだ何かあるらしくて断られちゃいました」  「修理だったら、ここまで来られたらやってもらえるんですけど」  「中の整備工場でですか? でも今日はだめですね。VCDVの修理が忙しいですから」  全く屈託のない表情を見せる紗妃に、真寿美もいつの間にか表情を和らげていた。  「取っ付きまででいいんですか?」  「そこからなら何とでもなりますから」  とりとめのない話の中で、何気なく紗妃が切り出した。  「峰岡さんと木津さんって、まるで恋人同士みたいですよね」  真寿美はハンドルを握る手の震えを、辛うじて押さえて応える。  「そんなことないですよ」  「でもお互い名前で呼び合ってるし」  「仁さんのことは、ディレクター以外はみんな名前で呼んでます」  「それなら私もそうしようかな」  それには応えずに、ほとんど無意識に真寿美はつぶやく。  「それに……」  しまったと思ったが、遅かった。  「それに?」  促されて、真寿美はもう考えることもせずに話し出した。  「それに、あたしは仁さんのこと、未だにほとんど何も知らないんです。前にどんなレースをしてたのかとか、レーサーを辞めなきゃいけなくなった事故っていうのがどんなものだったかとか」  紗妃は静かな眼で真寿美を見つめている。  「……知ってるのは、その事故に『ホット』っていう人が関係してて、仁さんがその人のことを殺したいほど憎んでることだけなんです」  信号待ちの列に続けて車を止めると、真寿美は紗妃に顔を向けて言った。  「饗庭さん、お願いがあるんです」  「紗妃、でいいです」と、「ホット」の話を聞いて固くしていた表情を和らげながら、「で、お願いって何ですか?」  「あ、はい、饗……紗妃さんって、仁さんのファンでしたよね。事故のことも知ってますか? 知ってたら教えてください。どんな事故だったんですか?」  「信号が変わりましたよ」  慌てたスロットル・ペダルの踏み込みに揺すられながら、よく覚えていると紗妃は話し始めた。二年前の夏、当時木津が所属していたレーシング・チームの練習用オープンコースでマシン調整中のスタッフに、無人の小型トラックが突っ込み爆発、見学に来ていた女性一名が死亡、ドライバーやスタッフ八名が重軽傷を負った。その時のニュースの記事もコピーを取ってあると紗妃は言った。  「本当に小さな記事でしたけど。トップクラスのチームとは違って、普段のレースもほとんど記事になったことはなかったですけど、事件の時までそんな扱いだったんです。だから、原因とか当局の捜査とかは全く書かれてはいませんでした。もちろん『ホット』のことにも。ああ、木津さんがMISSESにいるのは、そういう理由だったんですね」  「……その記事、今度見せてもらってもいいですか?」  車は外橋にさしかかっていた。橋の上には夕暮れの残照がまだわずかながら陰を落とし、窓から差し込んだ赤い光が真寿美の横顔に薄い模様を描き、その表情をぼやかしていた。  電子書簡の着信を報せる猫の鳴き声に、真寿美は目を醒まし、着替えもしていなかった体をベッドの上に起こして眼をこすった。  やだ、寝ちゃってたんだ……  重い体をテーブルまで運ぶと、スクリーンの中で封筒にじゃれついている猫に指で触れた。すると、その猫が封筒を開いてみせる。  差出人は紗妃だった。帰宅してからすぐに送ってきたらしい。文面にはそれを裏付けるように先刻帰宅したこと、送ってもらったことへの礼、車の修理屋を手配したこと、そして約束のニュース記事を送るとの旨が記してある。  その先を真寿美は読まなかった。同封してある、件の記事の方が先だ。  何種類かの記事は、いずれも紗妃の言っていた通りのごく短いもので、そして紗妃の話した通りの内容がごく簡単に記されている。ただ話よりも詳しいのは、被害者の身元が載せられているというところだけだった。  この爆発で、某所の相馬七重さん二十三歳が死亡、同チーム所属のレーサー木津仁さん二十四歳ら八人が重軽傷を負った、と。  真寿美は溜息を吐いた。  ふと気付いて、紗妃からの文面の続きに目を通す。  「でも木津さんは、この事故のことはあまり人に触れてほしくないかも知れません。亡くなった人のことを負い目に感じているかも」  亡くなった人……あたしより一つ上で。どんな人だったんだろう、仁さんにとって。  「真寿美さん(名前で呼ばせてもらってもいいですよね?)、今日はとってもお疲れみたいだったけど、いつもはもっと元気な人だって木津さんが言ってました。明日はそういう顔を見せてくださいね。では、また明日。おやすみなさい」  翌朝。  インタホンの呼び出し音に木津が応えると、  「おはようございます、峰岡です」  「おう」  だがいつものようにドアの開く気配がない。  「開いてるぜ?」  「はい」  入ってきた真寿美は、だがこれまでと変わった様子は特になかった。  「昨日はどうしたんだ? 一遍も顔出さないで」と木津が訊ねると、えへへ、という顔をして真寿美は言った。  「ごめんなさい、グロッキーだったんです」  「なるほど、目の下にグリズリーがいる」  「せめてアライグマにしてくれませんか?」  「アライグマってのは、確か目の周りじゅう真っ黒じゃなかったか?」  その応えを聞いて、真寿美は吹き出した。  「今日は大丈夫そうだな」と木津。「紗妃姫に元気印を宣伝しておいたのが、虚偽広告で訴えられないで済みそうだ」  「紗妃さんって、姫なんですか?」  「何となくそんな感じがしないか?」  「きれいな人ですもんね。どっちかって言うとやんちゃなお姫様って感じがしますけど。仁さんの好みのタイプだったりします?」  木津は相変わらずにやついた顔で言う。  「俺はもういいや」  真寿美も表情を変えない。  「もう?」  木津は何も答えずに、灰皿の煙草をもみ消すと、腰掛けたままでひとつ伸びをした。  真寿美もそれ以上問うことはせず、部屋の中を見渡しながら言った。  「今朝は何かご用はありませんか? 昨日の分も含めて」  「ああ、昨日の分ならすごいのがある」  「何ですか?」  「丁度その辺に灰皿をひっくり返したんだ。吸い殻てんこ盛りの奴を」  真寿美は慌てて横っ飛びに飛び退き、今まで立っていた床を見る。そういえばうっすらと灰を被っている。  「いや、それでも一応掃いたんだけどさ、掃除機の在処が分からなくて」  「分かりました」と、半ば呆れたような顔で真寿美。「掃除機を持ってきます」  「ああ、いい、いい」と、部屋を出て行きかけた真寿美を止めながら、木津が腰を上げた。「場所を教えてくれれば持ってきて自分でやるよ」  真寿美が用具置き場への道を教えると、木津は「了解、留守番頼む」と言いながら部屋を出ようとした。  「今からですか? レポートは?」  「結びの文句書いて出すだけ。落書きしなけりゃ読んでくれててもいいぞ」  ドアが閉じる。  木津の言葉通り、真寿美は机の前に足を進めた。原稿を表示した画面を中心に据えて、相変わらず乱雑な机の上。整理しようと散らばった資料に手を掛けて、真寿美は思い出した。視線が机の上のある場所へと走る。  以前と同じ場所に、以前と同じ状態で、それは置かれていた。だが埃を被ったりしてはいないところを見ると、何度となくその場所から取り上げられていたのは間違いない。  手は資料を離れ、そこへと伸ばされた。拾い上げようとする指が微かに震えている。  裏側に女手で記された文字。記された日付は事故のあった日の約一ヶ月前だ。そしてその上に書かれた言葉。横文字だが意味は分からない。その中ではっきりと読みとれたのは、最初と最後にある名前だけだった。  「じん」、そして「ななえ」と。  あの人だ。仁さんの事故で亡くなった、相馬七重という人。間違いない。  真寿美は写真を表に返した。  初夏の陽光を浴びて穏やかに微笑む、少女のような表情がそこにあった。紗妃とも、また自分とも全く違うタイプの女性。写真は胸から上のショットだが、ブラウスの半袖からのぞく白く細い腕が薄い肩を、そして全身の華奢さを想像させる。その肩まで届く黒い髪を背景に一層白さが際立つ、やはり細い項がそれに輪をかけていた。  そんな雰囲気の中に一見不釣り合いにすら思える、芯の強さとおおらかさを共に湛えた眼差しがあって、不思議な調和を見せていた。  真寿美は背中に冷気が走るのを感じて肩を震わせた。相馬七重の肖像を現実に見て、真寿美自身の頭の中で曖昧に捉えられていた木津の姿が、急にはっきりとした形を帯びて現れてきた。  事故でなくなった人のことを負い目に感じているかも、そう紗妃は書いてきた。だが真寿美は、それが必ずしも正しくはないのだと感じていた。  違う、負い目なんていうだけのことじゃない。仁さんはこの人のために、この人の仇を討つために、ここに来たんだ。「ホット」を殺してもいいとさえ言っていたのは、この人のためにだったんだ。そしてそのためには、自分の命さえ懸けてもいいと思っているのかも知れない。  それほど、それほど仁さんにとって大切な人だったんだ、この人は。  そう考えながら、真寿美は自分の顔に微笑が浮かんでいるのに気付いた。明らかに自嘲の色合いを帯びていたそれが、急に消えた。  だったら、あたしはどうしたらいいんだろう。あたしには何ができるんだろう……  ドアの外に近付いてくる、掃除機を引きずるがたがたという音を聞き付けて、真寿美は写真を元の場所にそっと伏せた。そしてドアを開けに行った。  体に掃除機のホースを巻き付けて立っている木津のおどけぶりが、これまでとは少し違って真寿美の目に映った。  久我は木津のレポートと阿久津の報告書を前に、コーヒーが冷めるのも忘れて何ごとかを考え込んでいた。  阿久津の資料に依れば、今回新しく送り込まれてきた人型は、VCDVとは総合的な能力においては比較にならないほど劣っていた。だが個々の機能について言えばその精度は極めて高く、これらがバランスを持って一個の機体にまとめられれば、VCDVと同等あるいはそれ以上のものとなり得るともある。木津のレポートが、その機動性を無視できないとしているのが個々の機能云々についての傍証となっていた。  両手に顔を埋め、久我は溜息を吐いた。  きっとこのまま行けば、遠からず本当にVCDVに近いものを彼は出してくるだろう。それだけのものを彼は持っている。でも、そうなったら彼に歯止めは効かない。私怨を晴らすための行動も、今よりもっと露骨に、そして凶悪になってくる。  いけない。急がなければ。  久我は顔を上げた。閉じられた瞼の裏に、これまでにも何度となく思い出してきた肖像が浮かび上がる。一瞬久我の顔に表情らしいものが浮かんで消えた。一瞬だったが、しかしそれは他者には決して見せることのない、険しさと同時に哀しさの表情だった。  Chase 19 − 剥かれた牙  執務室に戻ってきた久我は、ライト・グレーのハーフコートを肩から滑らせるように脱いでハンガーに引っかけると、軽くスカートの裾をさばいて椅子に腰掛け、一つ、小さく息を吐いた。  待っていたかのように、インタホンから声がする。  「峰岡です。お帰りなさい」  一礼しながら部屋に入ると、真寿美はすぐにコーヒーの準備に取りかかりながら、いつものように訊ねた。  「何か目新しいこと、ありました?」  「一つ動きがありました」と久我。「追ってMISSESのメンバーにも公式にお知らせする内容です」  興味ありげな表情を隠さずに、真寿美はデスクにコーヒーを運ぶ。  かなり熱いコーヒーを一口飲み下すと、久我は真寿美の表情に応えて言った。  「当局内部で、『ホット』への内応者の調査が正式に開始されることになりました」  真寿美の表情が訝しげなものに変わった。  「ないおうしゃ? って何ですか?」  「『ホット』の配下にある者が当局にいるという可能性について、これまで内偵レベルだった調査を正式化することにしたそうです」  「ああ、そういう意味ですか……でも、正式な決定になるまでに、ずいぶん時間がかかりましたね。それに、もう可能性っていう話じゃなくなってるのに」  真寿美の言うとおり、朱雀強奪事件で当局における内応者が表舞台に姿を現してから、既に一ヶ月以上が経過していた。  「LOVE側に実質的な損害が発生した以上やむを得ない、としての決定だったようです。当局としては認めたくないことだったでしょうから」と淡々と久我が言う。  「その内応者っていう人、認めたくないぐらい大勢いるんですか?」  「実状として根深いものがあったとしても、公表される結果には、それほどの数が上がることはないでしょう。ただ、理由はどうあれ、今回当局が腰を上げた点だけでも、評価に値すると思います」  真寿美が半ば呆れたように微笑する。  「その調査結果が報告されるまで」と久我が続ける。「VCDVの追加導入は見送られることになりました」  「秘密保護のためですね?」  「G−MBの機構的な情報であれば、とうに漏れていると考えるべきでしょう」  そう言う久我の平然とした表情に、真寿美は驚いていた。  「当局側がそうしたいというのであれば」と久我は続ける。「こちらとしては従うだけですけれど。しかし導入からもう相当の日が経っているにも関わらず、『ホット』の側で得たはずの情報を生かし切れていないという事実があります。漏れていたとしても現時点では実害はありません」  黙ってうなずく真寿美は、だが久我の本当の思惑を推し量ることは出来なかった。  「そうですよね、だから手っ取り早く朱雀……えっと、S−ZCを盗もうとしたんですよね、きっと」  久我は答えずにコーヒーのカップを口許へ運んだ。そして次の指示を待つ真寿美に、一時間後にMISSES全メンバーを召集するように命じた。  「はい、承知しました」  軽く頭を下げると、真寿美は振り返り出て行こうとする。が、それを久我が呼び止めた。  再び振り返る真寿美に、久我は言った。  「きっかけは見つかりそう?」  真寿美は曇りのない笑顔で答えた。  「はい。見つかりました」そして久我の顔を真っ直ぐ見つめて、言い足した。「ディレクターが前におっしゃってたのとは、ちょっと違う意味でのきっかけですけど」  ほんのわずかに不思議そうな顔をした久我は、しかし何も問わなかった。  「おう、真寿美ちゃん、こいつぁいいところに来た」  事務室に入るや否や、阿久津がそう声を掛けてきた。  「はい? 何ですか?」  きょとんとした顔の峰岡を手招きすると、にやついた阿久津は無言で作業台上のディスプレイ・スクリーンを示した。  画面の中では、白虎と青龍が対峙し、激しく動き回っている。いや、対峙しているというよりは、白虎が一方的にやりこめられているといった方が正しいようだった。  双方の右手首からは、資料上の名称に従えば「伸縮格納式打突桿」、通称「仕込み杖」が伸びている。その「仕込み杖」での青龍の素早くかつ正確な打ち込みを、白虎が辛うじて防ぎまたかわしていた。  呆然と画面に見入る真寿美に、阿久津は機嫌良さそうに言った。  「あの姫様、なかなかの使い手だわい。仁ちゃんは力任せに大振りするが、姫様の方は出力で劣る青龍をテクニックでカバーしとる。チャンバラには多少の心得もあるように見えるしな。おっ……」  後退の一手だった白虎が、力尽くで攻勢に転じようとし、強引に一歩を踏み出した。その時、詰まった間合いを後ろに跳ね退いて拡げながら、青龍は「杖」を白虎の顔面正中めがけて振り下ろす。その切っ先が直撃すれすれで止まった。  「ほぉ、寸止めか……」  真寿美も思わず息を漏らした。  「阿久っつぁん!」と、動きの止まった白虎から、木津が息を弾ませて大声で言った。「こいつ、修理してから動きが鈍くなってないか?」  「そんなわけあるか。お主が大振りするのがいかん。もう少し姫に鍛錬してもらえ」  青龍の「杖」がすっと動く。  「待った待った! とりあえず今回はここまで!」  慌てて木津が言うと、青龍の「杖」がその右手首に格納された。  真寿美がもう一度溜息を吐く。  「すごいんだ、紗妃さんって……」  「真寿美ちゃんも今度鍛えてもらったらどうだね?」  半ば冗談めかした阿久津の言葉に、真寿美が大真面目にうなずく。  「そうですね。やっぱりあのくらい使えるようにしておかなきゃいけませんよね。それに、あたしももっともっと朱雀に慣れなくっちゃいけないし」  今の自分の言葉に対してのように、もう一度真寿美はうなずくと、一礼して事務室を後にした。  阿久津は再び画面を眺める。  青龍が二、三歩白虎との間合いを取る。  と、いきなり白虎が右腕を振りかざした。  「すきありっ!」  振り下ろされた「杖」を、再び伸ばされた青龍の「杖」が簡単に払い、そのまま今度は横様に白虎の首筋に打ち込まれ、接触寸前で止められた。  紗妃の静かな声がする。  「……本気を出してもいいですか?」  「……嘘だろ……それで今まで本気じゃなかったのか?」  その様子を逐一見ながら、事務室で阿久津が大笑いしていた。  「こいつは恐ろしく強い姫様だわい。なあ仁ちゃん」  木津の返事の代わりに、外からぱたぱたと駆け足の足音が聞こえ、ドアが開いた。  「おう、真寿美ちゃん、こいつぁいいところに来た」  「はい? 何ですか? ……じゃなくってですね」  きょとんとした顔の阿久津に、真寿美は苦笑しながら言った。  「そんなこと言うから、さっき肝心のお話をするのを忘れちゃったじゃないですか。召集です。三時半からミーティングなので、出席お願いします」  「ああ、ディレクター殿がお戻りかい」そしてちらりと時計に目を遣り、「三時半、と。はい了解だよ」  真寿美はもう一度お願いしますと言うと、スクリーンを覗き込んで「それで、またいいところだったんですか?」  真寿美が会議室に入ると、負傷して病室にいる小松と、そして必ず最後に入ってくる久我以外の六人は皆席に着いていた。  木津と安芸の間のかつての自分の席には、今回も紗妃が座っている。それを見て、真寿美は紗妃の向かい側、小松の席に腰を下ろした。  メンバーが揃うのを見計らったように久我が入ってくると、開会を宣した。  「まずご報告すべきことがあります」と切り出した久我は、既に真寿美に話した内容、即ち当局での「ホット」内応者調査の開始と、それから当局内での「ホット」対応チームの設立が予定されていることを述べた。  「今さらかい?」と木津が言う。「ずいぶんとごゆっくりなことだな」  「当局の対応チームは、まだ予定の段階なんですか?」安芸が訊ねた。  「そうです。ただし近日中に成立との話でした。特一式特装車を中心としたチームになるとのことです」  「特一式特装車、か」木津は嘲笑うように言った。「内応者ってのが当局の技術畑にいないといいやな」  「可能性としては高いと思われます」  平然と言ってのけた久我に、木津と安芸、そして饗庭が不審の目を向ける。  そこに阿久津が口を挟んだ。  「ま、機構は外見から分かったとしても、制御プログラムの解析はそう簡単なもんじゃあないからな。あそこは当局にもオープンにはしとらんし、造りだけ真似てみたところで、歩くことも出来まいよ」  それを聞いて、真寿美は久我から聞いた言葉の意味をやっと理解した。  久我が話を戻す。  「当局の専従チームが発足した後ですが、MISSESはその要請に従ってサポートに入るよう指示が出されました。承知しておいてください」  「では、今後MISSESへの直接的な出動指示はなくなるということですか?」  安芸のこの問いを、木津の言葉が追った。  「そいつぁ……よくないな」  その言葉の意味を量りかねたように、紗妃が木津の顔を見ている。  「その点は当局側でも明確な指針を出せないでいます。恐らくは当面従来通りの出動態勢がとられるものと思われます」  「分かりました」と安芸。木津もうなずく。  「では次。阿久津主管からです」  促された阿久津が手元のスイッチを入れると、テーブルの中央に立体映像が浮かび上がる。それは前回の出動時に初めて姿を見せた、あの人型だった。  「こいつについて解析をさせてもらったところだが」  そう言って阿久津は機構の説明を始めた。足に仕込まれたローラー、上体によるバランス保持、両腕の火器、云々。  「それでもって、いやらしい仕掛けが一つ」  阿久津が人型の躯体から何本か飛び出しているアンテナ様のものを示して続ける。  「こいつがどうも衝撃波銃のトリガープル直後に来るびりりを捕まえるらしくて、それで照準を計算して自動で回避行動をとれるようになっとるらしい」  「どうりで当たらないはずだ」木津が呆れたように言った。  「こんな仕組みを積んどるってことは、明らかにこいつにVCDVの相手をさせるつもりだったってことだ。まあ同じ人型とは言え、今のところこいつはVCDVにかなうようなトータル性能を持っちゃあおらん。だが、奴さんがこれから出してくるものがどんな代物になるかは読めん。だんだん楽じゃあなくなってくるだろうってのは確かだがな。そこんとこは覚えといてくれや、皆の衆」  「これだけのものが作れる組織なんですね、『ホット』というのは」と紗妃が言う。「もしかすると、『ホット』自身が技術者なのでしょうか?」  久我の眉がわずかに動いたように木津には見えた。だがそんな気配は全くない声で、久我は可能性は否定しないと言っただけだった。  「以上です。何か質問は?」  「よろしいですか?」  声の主は真寿美の横に座った饗庭だった。久我が促すと、ぼそぼそとした口調で饗庭はこう切り出した。  「MISSESの業務は、民間研究所に許される範囲を明らかに超えています。業務命令として受けてはいますが、個人的には納得しかねます」  全員が呆然と沈黙する中、久我が静かに先を促した。  「加えて、今阿久津開発主管の話された内容では、この研究所、このチームが犯罪者の直接の攻撃目標にされているということですが、これは完全に当局の取り締まりに任せるべき域に達しています。戦闘行為が当局の要請と許可に基づくものであっても、承服すべきであったかは疑問です」  沈黙の中で、いくつかの眼差しが饗庭に向けられる。中でも紗妃のそれは、軽蔑と非難との交錯した厳しいものだった。  椅子を蹴って立ち上がろうとしかけた木津を、紗妃の手が押し止める。  久我はテーブルの上で両手の指を組んだ。その唇が動きかけた時、今度は別の声がした。饗庭の声よりもさらにぼそぼそとした、活気のない声が言った。  「……そうですね」  全員の視線が末席へと動く。そこにいるのは、これまでずっと沈黙を続けていた由良だった。  「そうですね」もう一度由良は繰り返した。「こういう任務は、本来は当局が負っているべきです。そう思います。だからこそ自分もこちらに派遣されてきているんです。それなのに……内応者とかが出て、こちらにもご迷惑をお掛けして、本当に……情けないです」  「そんな……」と安芸。  と、そこに久我の今までと全く変化のない口調が重なった。  「私はこれまでMISSESのどのメンバーに対しても、業務命令という表現は採ってきませんでした。それでも各人が各人なりに納得して任務についています。饗庭さん、納得がいかないが業務命令として任に当たるとおっしゃるなら、それでも結構です。敢えて納得する理由を探す必要もないでしょうし、探すよう命じるつもりもありません」  饗庭も表情を変えずに聞いている。  「ただし」久我が続ける。不気味なほど口調を変えることなしに。「業務命令の中には、任務遂行中の各人の安全確保は含めていません。あなたご自身で対応してください」  饗庭は虚を突かれたような表情の後、むっとした顔を見せたが、了解の意も反論も口に上せなかった。  「よろしいのですかな?」  口中剤をがりがりと噛みながら、阿久津は自分でコーヒーを注ぐ久我の背中に訊ねた。  真寿美をはじめ、他のメンバーは既に全員部屋を出ている。  湯気の立つカップを両手に戻ってきた久我は、ソファに腰を下ろしてそれに答えた。  「はい」  「約一名、怖じ気付いたような様子を見せておったようですがな。ああ、こりゃ申し訳ない」  差し出されたカップを手にすると、阿久津は二、三度吹き冷まし、しかし口は付けずにカップ越しに上目使いに久我の顔を見ながらつぶやくように言った。  「もっとも、奴さんの言うことにも一理あるとは思いますがな」  久我は何も言わずにカップを口に運んだ。  「何度も申すようですが、正直な話、あまり感心しませんぞ……」  テーブルに置かれた久我のカップが、小さく冷たい音を立てる。  「こちらとしては、技術屋の領分だけが持ち分と割り切らせてもらっておりますがな」と阿久津が続けた。「だからその点についちゃあ文句は申しませんが、だが方向は違うとは言え、ディレクター殿のやってることは、実際のところ、あちらさんと大差ないのではありませんかな?」  久我は再びカップを取り上げると、やっと口を開いた。  「本題に入りましょう」  「こ、怖かった……」  休憩室に落ち着くと、半ば冗談めかした口振りで木津が言い出した。  「あんな怖いおばさん、初めて見たぜ」  「あたしもです」と真寿美。その横で、紗妃が申し訳なさそうな顔でいる。  安芸がため息を吐くと言った。  「自分自身が疑問に思ったことはなかったから思いも寄らなかったけど、あんな風に考える人もいたんですね」  頭を掻く安芸の表情には困惑の色が薄からず差している。  「そうかぁ、リーダーも大変よね」  「由良さんも思い詰めてる感じだし」  「小松のおっさんはまたも戦線離脱だしな」  「すみません。後でひっぱたいておきます」  「おいおい! そこまでするか?」紗妃のいきなりの発言に、思わず木津が声を上げた。「姫も結構怖いな」  「ああいう奴なんです、兄貴は。普段はろくに話もしないのに、何か言い出すかと思えばあんな調子で」そして安芸に向かって言う。「本当にすみません。足りない分は、私がサポートに入りますから」  「でも、おばさんの台詞も、ひっぱたくぐらいの威力はあったよな」と木津。「ありゃまるで死ねと言ってるようなもんだったぜ。死にたくなけりゃ、兄ぃだってやることはやるだろ。おばさんのスカウトだったら、腕は問題ないんだろうし。ところでそのご当人はどこに行った? それに由良も」  「詰所、ですか?」  「付き合い悪いねぇ」と言うと、木津は牛乳パックのストローを吸う。  「あ、そうだ」真寿美がいきなり声を上げる。「紗妃さん、あたしにもチャンバラ教えてください。さっき仁さんをこてんぱんにしてたのを」  木津が派手にむせかえった。  「仁さん、ここまで飛びました」  安芸の言葉は無視して、  「見てたのか?」  「はい、阿久津主管のところで、たまたまでしたけど、ばっちり」  木津の方をちらりと見て安芸が言う。  「確かにあれはあまり見せたくなかったかも知れませんね」  「あんまり言うと恥ずかしくて逃げるぞ」  真寿美の弾けた笑い声と、紗妃のくすくすという笑い声。  「いいですよ。いつ?」と紗妃。  「明日の十時頃から、場所空いてたら」  「最初は乗らないでやった方がいいですよ。体で形を覚えた方が早いから」  「それを先に言えよ」と苦笑の木津。  「しかしすごいですね。紗妃さんは剣と武術が使えるし、由良さんも格闘技が出来るし」  「そういう安芸くんだって、射撃はピカイチじゃない」  「それで小松のおっさんが負傷の名人、と」  「あ、仁さんひどい」  笑いの中から、紗妃が訊ねる。  「木津さんはいかがです? 得意なのはやっぱり運転技術ですか?」  「んにゃ、それとお茶の入れ方は真寿美の方が上手いかもな」  「すると、何でしょう?」  「執念深さ」  木津の手の中で、空になった牛乳パックが潰された。放り投げられたパックは放物線を描いてゴミ箱に落ちる。  「上手ですね」と紗妃が言った。  エレベータのドアが開く。その中にいた人物を見て、木津は意外そうな顔をした。  「今から帰りかい?」  「はい」と答えながら、乗り込む木津のために久我は半歩脇に寄った。  「ふぅん……あんたでも家に帰ることがあったんだな。初めて見た」  ドアが閉じ、エレベータが降下を始める。  「どちらへお出掛けですか?」と今度は久我が訊ねる。「それともご自宅へお戻りですか?」  「んにゃ、ちっとばかり小腹がすいたのと、退屈しのぎのネタ探しとで、橋の向こうまで行こうと思ってさ。ああ、もちろん白虎は出さないぜ。自分の車でからご安心あれ。そうか、お帰りってことは、途中までは同じコースだな」  久我は黙ったままでいる。木津はその横顔をちらりと見ると、口を尖らせた。  「一つ訊いてもいいか?」  「何でしょう?」  「あんた、自宅ではいったいどんな生活してるんだ? 全然想像がつかないんだが」  少し上げた視線をすぐに戻して久我。  「普通です」  扉が開くと、相当遅い時刻にも関わらず疲れを感じさせないような姿勢の良さと足取りとで、久我はエレベータを降りて歩き出す。木津が大股で後を追う。  「俺はてっきり異常なのかと思ってた」  久我は足も止めず、振り返りもせずに、それでも言葉を返した。  「あなたが思っていらっしゃるほどではないと思います」  「つまり人並みには異常なわけだ」  それには何も言わずに、久我は駐車場へのドアをくぐった。  春もまだ浅く、決して暖かくはない夜。まばらに停められた車の影が寒々とした感じを与える。そんな駐車場の隅に、二台が並んで停められている。すっかり埃を被ってしまっている木津の旧型車と、そして型の古さでは木津と大差ないものの、手入れの面では比較にならないほどきれいな中型車。そこへ真っ直ぐ向かう久我を見て、木津が言う。  「何だ、こいつがそうだったのか。ディレクターのご身分だったら、最新の高級車に乗ってるもんかと思ったけど、そういうわけじゃないんだな」  「必要がありませんから」  木津は肩をすくめると訊ねる。  「あんたにとって必要なものって一体何なんだ? 三度の飯さえいらないんじゃないかって気がするぜ……ああ、真寿美のコーヒーだけは不可欠かも知れないな」  車の脇で足を止め、久我は振り返った。  「あなたにご協力いただく必要があります。『ホット』の件について」  そして木津に問い返す暇を与えずに、車のドアを開いた。  「では失礼します。お気を付けて」  「……ああ、お疲れさん」  すっきりしないまま、木津は自分の車に乗り込んだ。異常とか言われて怒ったかな……それにしては、何か妙な反応だったような気もしないわけじゃないが……  本体に似合わず機嫌のいいエンジンが回転を始めた。  他に車の姿の全くない内橋に差し掛かると、この時刻でも消える気配のない都市区域の灯りが見て取れる。ハンドルを握る久我の目は、しかしそれを見ることはなかった。  久我は木津の言葉を思い出していた。  「つまり人並みには異常なわけだ」  苦笑のようにも見える、微かな微笑が久我の唇に浮かんだ。私が異常だとすれば、きっと人並み程度ではないだろう。でも、そうでなければ救われない……  その時、通信が入ったことを示す表示が計器盤に出た。ハンドルのスイッチを入れ、久我が応答する。  聞こえてきた当局からの声は、『ホット』の部隊発見の報と、その編成を告げた。  武装ワーカー十二に輸送車三、そしてホット・ユニット搭載と見られる車両一。当局特種機動隊は全機これを追って出動。MISSESの支援を要請する、と。  武装ワーカー十二両は決して多い数ではない。だが三両の輸送車が気に掛かる。『ホット』が新手を送り込んでくるときの手だ。そして『ホット』自らの指揮の可能性もある。  久我は了解の意を伝えると、車をUターンさせ、すぐにMISSESの当直組を呼び出した。  出たのは由良だった。久我は必要な情報を一通り伝えると、出動を命じた。由良の答えには、どこか曖昧なものが感じられる。久我はその理由をすぐに察したが、直接には何も言わず、速やかに増援を差し向ける旨を伝えるだけに止めた。  もう一人の当直担当は、饗庭長登であった。  通信を切ると、それに入れ替わるように後方から車が一台追い付いてきて、久我と併走する。見ると、その運転席には木津の顔があった。  久我が車を路肩に寄せて停めると、木津もそれに従い、そして開けたドアから身を躍らせて久我の方へ向かってくる。  「奴か?」  「そうです。直接指揮の可能性もあります」  木津の口が笑いに歪む。  さらに久我は相手の規模と、由良及び饗庭に出動を指示したことを窓越しに告げた。  「饗庭兄ぃか……」と、木津も木津でその意味を察していた。ちらりと久我に視線を投げる。応じて久我は木津の期待通りの言葉を告げた。  「木津さん、サポートをお願いします」  「合点承知!」  車へと走る木津に、久我が言う。  「ただし今回は当局の特種機動隊も出動します。そちらのサポートでもあります」  立ち止まり木津が振り返る。  「何だ、向こうも出てくるのか。足を引っ張ってくれなきゃいいがな」  「安芸、峰岡、饗庭の三名にも召集をかけます」  「はいよ! で、あんたは?」  「戻ります」  「了解! んじゃお先!」  ドアが閉まり、木津の車が急発進する。久我を追い抜きしな、一つホーンを鳴らして。  久我もそれを追って、スロットル・ペダルを踏み込んだ。唇に浮かんでいた微笑はとうに消え失せていた。  コクピットに滑り込んだ由良は、G−MBを始動させつつ振り返った。饗庭が今やっとアックス4に乗り込んだところだった。  由良は無意識に噛んでいた下唇を放すと、  「アックス4、準備いいですか?」  答えの代わりに、始動されたエンジンの軽いうなりが聞こえた。  由良はまた唇を噛むと、スロットル・ペダルを踏み込んだ。後方モニターの中で、少し遅れてアックス4が動き始める。  木津が着替えもせずに地下駐車場へ駆け込んでくる。そしてシートに体を投げると、キー・カードを差し込みスタータ・ボタンを押す。エンジンの始動と同時に、レシーバーから久我の声が聞こえた。  「……です……」  「何だって?」  「目標失探です。アックス3及び4は失探位置まで急行し、当局特種機動隊と合流の上哨戒。アックス1、マース1、キッズ0及び1は出動準備の上待機願います」  「見失っただと? 何をどうすりゃ十五両の大所帯を見失うってんだ? で、どこで消えたんだって?」  「来栖川重工跡地付近とのことです」  「またか。そりゃ前と同じ手じゃないか。どうせ倉庫だかに潜り込んでるんだろう」  「全く同じ手段を使うはずはありません」  妙に決然とした久我の言葉。  次いでアックス3及び4に哨戒の状況を随時報告するよう指示する久我の声を聞きながら、木津はエンジンを切った。灯火の落ちた計器盤。レシーバーの伝える微かな雑音を聞きながら、木津は一人焦れていた。  Chase 20 − 狂わされた照準  投光器が闇の中に光の帯を描く。時折それに照らされて、「歩行形態」を取った白い当局の特一式特装車と、同じく「Mフォーム」の、黒いMISSESのG−MB「玄武」の、対照的な彩色の横顔が見え隠れする。  六体のVCDVは、かつて工場だった建物の間を、固まって進む。先頭には当局の指揮者。その後、左右に分かれた同じく当局の二体が、携えた投光器を闇に向けてゆっくりと振る。その間に挟まれ、やはり当局の特一式が、これは鎮圧用と思しき、長大な砲身の射出器を持って続く。そして殿には横に並んだ由良と饗庭の玄武がいた。  由良は時折自分の右を行く饗庭の玄武に視線を走らせる。玄武の顔は正面に向けられたまま動かない。それが却って由良には非難の行為のように思われてならなかった。  自分の視線と同時に、由良は玄武の視線をも逸らせ、投光器の照らし出す建物の間を見る。数十分前と変わりなく、何も現れる気配のない場所を。  一隊はやがて、生々しい弾痕を留める長い壁の脇に歩み出た。その場所は由良の記憶にもまた生々しく残っていた。ほんの数週間前に、「ホット」の手勢との攻防を、いや、ほとんど防戦だったが、切り抜けたばかりの場所。それを思い出して、由良はふと前を行く当局の機体を不安の眼差しで見た。彼らはあれほどの激務を経験したことがあるのだろうか? もし今日のこの場があの再現になるとしたら……  と、由良の頬が締まった。当然のことだ、自分が盾になるのが。だが……  何度目かの視線が、相変わらず何の変化も示しはしない饗庭の玄武に投げられた。  前を行く当局隊の足が止まる。見ると指揮者の右腕が上げられている。その腕が指示を出すように振られると、左手にいた特一式が投光器を建物の開け放たれたままの出入口に向ける。由良は玄武の左腕を射撃準備の形にして反応を窺う。  強烈な光の帯が二度三度と左右に振られる。だが建物の中からは何の反応もなく、そして何の影も見付けることはできなかった。  指揮者の手が再度挙げられる。隊伍はこれまでと同じように前進する。  玄武の計器盤で、時計が一時を示した。  木津はB−YCのシートにふんぞり返って腕組みをしていた。右横では同様に発進準備を整えた姿で、ヘルメットだけを外して、紗妃がS−RYの横でストレッチをしている。左に目を転じれば、S−ZCのシートに座った真寿美が船を漕いでいる。  それを見て思わず木津は吹き出すが、表情はすぐに厳しいものに戻った。  遅過ぎる。久我が敵発見まで待機との指示を出してから、既に一時間を過ぎている。ワーカーの十二両はまだしも、何故輸送車三両さえ見付からないのか。  「……一体何をやってやがるんだ、当局の連中は」  「その台詞、由良さんには聞かせないようにお願いします」と安芸がレシーバー越しに言ってくる。  「ああ、分かってる……まあ、その由良も一緒だからなあ、手を抜いてる訳じゃないんだろうけど」  「逆かも知れませんね」  「何が?」  「指揮は当局側が執っているんです。当局のやり方に問題があったとしても、命令系統を崩すようなことは、由良さんには出来ないでしょう」  「なるほどね……窮屈なこって。そこんとこ行くと、うちの女親分さんは」  言いさしたところに、件の女親分の声。  「待機中の各乗員はその場で仮眠を取っておいてください」  早合点する余地も与えない一言に、木津がそれでも確認を入れる。  「長引きそうだってことか?」  「状況の報告は現時点ではありません」  「それだけかい」木津は肩をすくめ、そして左側のコクピットの中、相変わらずこっくりこっくりやっている真寿美の姿をもう一度眺めると、久我に言った。  「ちゃんと起こせよ」  目を閉じると、S−RYのドアの閉じる音が聞こえた。  ふと木津は目を開いた。  「そうだ、進ちゃん」  「はい?」  「こっちが助っ人に出ても、完全に当局の指揮下に入るんかい?」  答えはすぐに返った。  「状況によるでしょうね」  木津もにやりと笑いながら言った。  「さすが進ちゃん、愛してる」  答えはすぐに返った。  「おやすみなさい」  合図を受けて、隊伍は停止した。二時間にも亘る外からの捜索の末、何一つ見出すことなく。  由良は呆然としていた。捜索の手際の悪さが信じられなかった。確かに固まって動けばこちら側の安全は守りやすい。が、MISSESでの任務をこなしてきた身には、こんなやり方ではどうにも手ぬるく感じられてならなかった。しかし指揮者は当局の階級上は自分の上だ。従わざるを得ない。  結ばれた唇の間から溜息が漏れ出すのを由良は押しとどめることが出来なかった。  いや、これだけで済ませるはずはない。方法を変えて、もう一度捜索を始めるはずだ。久我ディレクターが言っていた通り専従チームとして動き出すことが決まった上は、これまで以上の動きをするはずだ。  由良の期待に応えるかのように、指揮者はその場での一時休息と、そして十五分後に二隊に分かれて捜索を再開する旨を指示してきた。  投光器の灯が落とされ、訪れた不完全な闇の中に立つ六体のVCDVの影。それは標柱のように見えた。  その一つの中で、計器盤の中の時計が刻む秒をろくに瞬きもしないで見つめながら、由良は考えていた。  失探の状況を考えれば、報告のあったワーカー十二両、輸送車三両は全てまだこの工場跡の敷地内にいるはずだ。ここまで突っ込んでは捜索していない建物の中に。だとすれば、主力はきっと……  休息の残りが一分を切ろうという時計から由良は前方の長大な倉庫に視線を移す。  その先で何かが光った。と思う間もなく、それは断続的にこちらへ向けて射出される曳光弾の光跡となった。  反射的に変形レバーを引く由良の手に応じて、玄武がRフォームに姿を変える。ほぼ同時に、饗庭の玄武も同じくRフォームに変形し、急速後進をかけていた。それを見た由良の動きが一瞬停まる。  前で突っ立ったままだった特一式は、数発ではあるが曳光弾の直撃を受け、ふらついていた。  やっと指揮者がWフォームへの変形を指示するが、それを聞いていたかのように、時を同じくして射撃はふっつりと止んだ。  指揮者が損害の報告を求める。両翼の特一式が被弾したものの、いずれもごくごく軽微なもので、そのために行動に支障を来すようなものではなかった。  安堵した由良の耳に、指揮者の声が聞こえる。その口調はやや咎めるような響きを帯びて、由良と饗庭に今のような回避行動を指示なくしては取らないようにと告げてきた。  由良も、饗庭も、それには何も答えない。饗庭はいつもの寡黙故に、そして由良の方は屈辱めいたものを感じたが故に。  黙ったまま由良はG−MBをMフォームに戻した。それに続くように、饗庭の玄武も再び立ち上がる。  だがそれをろくに見もしないまま、指揮者はすぐ後ろに控えていた特一式を前に出すと、両翼の二体には投光器の再点灯を命じ、自身はバックパックから銃を取り出して、あの一斉射以来沈黙を続ける倉庫に投降を呼びかけた。その横では例の射出器が構えられる。  まだ明けるまでには間のある闇の中に、投降の勧告が吸い込まれ消える。何の反応も得られないままに。それが三度繰り返され、そして、これ以上の黙殺に対しては実力行使をも辞さない旨が付け加えられた。  答えはない。  指揮者は命を下した。  射出器の安全装置を外した特一式の指がトリガーに掛かった。  次の瞬間、射出器の先端は弾かれたように上を向く。そして押し殺したような銃声。  由良の玄武が横様に飛び出し、左腕を倉庫の影に向ける。  銃声は続かなかった。  特一式は少し位置をずらすと、再び射出器を構える。弾道を予め示すかのように、光の帯が倉庫へと伸びた。  その時だった。倉庫の一角から、まるで爆発でもしたかのように砲撃が始まったのは。  ねじ上げられたようにまたも上を向かされた射出器は暴発し、弾頭を工場敷地の外へ吐き出す。投光器の一つは銃弾数発の直撃を受けて破壊された。被弾したのは射出器や投光器にとどまらない。前面にいた特一式の外装にはことごとく大小の損傷が生じている。  「攻撃の指示を!」  たまらず由良が叫んだ。今度は玄武を変形させることなしに。  が、聞こえてきた指示はWフォームに変形の上後退というものだった。  由良はまた唇を噛んでいた。  後退しつつ損傷の状況を確認する指揮者の目の前で、変形しないままの特一式が一体取り残される。射出器を担当していた機体だった。乗員が変形不能を叫ぶ。  指揮者は可能な限りの回避を命じると、自身は停止し銃を数発放つ。向こうからの砲撃に比べれば滑稽な行為にそれは見えた。  「攻撃の指示を!」  再度の由良の声に、指揮者の奇妙なほどに冷静な声が答えた。MISSESに要求しているのはあくまでサポートであり、攻撃の主導は当方で行う。それを待て、と。  「しかし……」  それに答える代わりに、指揮者は工場正門付近での停止を命じ、Mフォームに変形すると、動けなくなった僚機の許へ走る。  投光器担当の特一式二両と、そして饗庭のG−MBが指示通り後退を続ける中で、由良の足はブレーキ・ペダルを踏んでいた。そしてもう一度指揮者に向けて言った。  「では、サポートの指示を!」  答えはない。ただ二体の特一式が砲火に照らされて闇の中に浮き上がって見える。  「私だって、当局の人間なんです!」  失探の報を受けてから、既に二時間以上が過ぎている。  メンバーに仮眠を命じた久我は、執務室でほとんど目を閉じることもなく待っていた。その助けにしていたコーヒーの何杯目かを注いだ、いい加減汚れかけたカップをデスクに置いたとき、待っていた声が聞こえた。  「由良です、応答願います」  「久我です」と、腰を下ろしながら応え、続く報告を待つ。  「敵部隊は来栖川重工跡地の倉庫棟です。こちらは当局の二両が行動不能です」  その声は妙な重さを交えていた。  「……応援を……願います」  「了解しました。それまでの状況保持に努めてください」  久我の細い指が素早くスイッチを切り替え、唇がマイクに近付く。  「待機中の総員に連絡します。目標発見です。発進準備をお願いします」  「おいでなすったか!」いち早く木津が声を上げた。「みんな起きろ! お出かけだぞ」  「はわ……」とあくび混じりの真寿美の声。  「緊張感のない……」  代わりにそこそこの緊張感を帯びた安芸が詳細な情報を請う。  由良の報告内容に、久我は一つ付け加えた。  「相手側の損害は現在ない模様です」  「何だって?」とヘルメットをかぶり掛けた木津。  「予想が当たってしまったようですね」かすかに苦い口調でそう言ってから、安芸が他の三人に準備状況を問う。  次々に返る完了の応答。  「出ます!」  行動不能に陥った二両の特一式を背後に、残る四両は相手の潜む倉庫に踏み込むことはおろか、近付くことさえもままならないまま、特一式を弄んでからは姿を見せない相手に向けて散発的に銃撃を与えていた。  この期に及んで、当局の指揮者はやっと玄武にサポートの指示を下した。だが危険が伴うとして、踏み込むことは許可しなかった。  「では、どうするんですか?」  このままでは埒があきません、と本当は付け加えたいところだったが、それは由良には言えなかった。その位、指揮者にだって分かっているはずだ。  だがその問いに返った答えはこうだった。  「向こうが撃ち尽くすのを待つ」  絶句する由良の耳に、もう一言が続いた。  「これ以上の被害は出せない」  その時饗庭の玄武が、何かの素振りを見せるかのように少し動いた。  一方由良はその言葉に久我を思い出していた。任務中の自分の安全は自分で守れ、と言ったその口調を。  由良が指揮者の指示のないままにMISSESに連絡を入れたのは、その時のことだった。  「由良さん、聞こえますか?」  安芸の呼びかけが聞こえる。  「はい」  指揮者の特一式がそれに反応して、躯体をわずかに動かした。  が、反応したのはそれだけではなかった。  「三分以内に現着の見込みです。状況はどうですか?」  「変化なしです。ただ、発砲が止みました」  一呼吸おいて、安芸が了解の応答をする。  「変化あれば随時連絡願います」  それをかき消すように、指揮者が怒鳴った。  「どういうことだ? 何故応援が来る?」  由良は言葉を返さない。指揮者が繰り返し詰問する。再度の沈黙を経て、由良はやっと唇を開いた。  「私が要請しました」  「何だと? 何故……」  「MISSESは……もっと動けます」  「何?」  「被害の責任はそれぞれが負います。だからそれぞれが思い切って動けるんです。指揮官の責任なんかが任務遂行の妨げになったりしないんです!」  指揮者は何も言い返してこない。いや、言ってきたとしても聞きはしなかっただろう。言い放つとすぐに由良は変形レバーをハーフの位置にたたき込んだ。スロットル・ペダルにその足が掛かる。  それとほぼ同時にだった。前方の倉庫から武装ワーカーが飛び出してきたのと、背後から白虎と青龍が揃って飛び込んできたのは。  まるで由良の言葉を聞いていたかのような安芸の指示が飛び、木津が応える。  「各機、MISSES流で動いてください」  「合点承知!」  由良はコクピットで力無く微笑むと、指揮者の機体に目をやった。その視界を、またいくつかの曳光弾の光跡が横切る。指揮者機は何の動きも見せない。  由良の玄武が向き直った。そして左腕を横様に振ると、接近する武装ワーカーに最大出力で衝撃波銃を放った。  武装ワーカーは急転舵で回避する。が、その正面を真寿美の駆る朱雀の放つ衝撃波が捕らえた。武装ワーカーはそのまま擱坐する。  由良は玄武をハーフに変形させ、まっしぐらに倉庫に走る。それを見て安芸が指示を飛ばす。  「朱雀、青龍はアックス3の進路を確保。白虎はアックス3に続いてください。こちらも追います!」  「あいさぁ!」  「アックス4、よろしければ当局のサポートを継続願います」  安芸の言葉に、ハーフに変形した白虎のコクピットで木津は皮肉に笑った。進ちゃんも言うじゃないか、「よろしければ」とは。  その前方で、由良機の突入を阻もうと群がる武装ワーカーに、青龍と朱雀が襲いかかる。真寿美と紗妃の銃撃は立て続けに四両のワーカーを排除する。さらに後方では、安芸がハーフへの変形と同時に繰り出した衝撃波の一撃に、もう一両のワーカーが横転擱坐した。  たったこれだけの間に相手の半数を行動不能に陥れたMISSESの動き振りを目の当たりにして、当局の指揮者はほとんど言葉もなかった。そしてその口が開いた時発せられたのは、残る特一式への、MISSESをサポートする旨の命だった。が、それはすぐに撤回され、代わりに各個の安全確保と、接近する車両の抑止に努めるべしとの指示になった。  当局部隊の一翼にいた饗庭の玄武が、またもの言いたげな挙動を見せる。が、その場を動くことなく再び由良、木津、安芸の突っ込んでいった倉庫へと向き直った。  ワーカーの飛び出してきた倉庫の搬入口は、あれ以降沈黙を守っている。  先頭を切って走る由良の玄武がその速度を落とそうとしないのに安芸は気付いた。  まずいな……  「仁さん、右を頼みます」  「おう」  白虎と玄武の白と黒の車体がほとんど同時にハーフからRフォームに戻され、左右に分かれるとそのまま由良の前に出た。  搬入口が近付く。と、これもまた同時に再びMフォームに変形し、速度に乗って搬入口の左右の壁まで跳ぶと、倉庫の中に左右から衝撃波銃を撃ち込んだ。  中からは破壊音。だが数は少ない。  由良のハーフが追って玄武に変形し、頭から倉庫に飛び込む。  安芸がまた指示を飛ばす。  「朱雀、青龍は倉庫外周をチェック、出口を潰してください」  二つの声が了解の回答を返すのを聞き、安芸も由良の後を追った木津に続いた。  「あと一カ所!」  真寿美の声に、紗妃は先を急いだ。残る出口はすぐ先に位置している。  ハーフから姿を変えた青龍が駆ける。扉が閉ざされたままの出口が眼前に迫る。  が、残りわずかのところでその扉が破られた。青龍の足が止まる。  「紗妃さん?」  破壊音を聞き付けて真寿美がハーフの朱雀を走らせる。その耳にさらに鈍い音が届く。  それは扉の内側から青龍へ向けて放たれた衝撃波銃の振動だった。  衝撃波は伏せた青龍の上を通過する。背中の装甲がわずかに共鳴した。  紗妃は青龍の首をもたげさせる。そして見た。破られた扉をくぐり抜けて、前とは違う人型の機体が二つ飛び出し、一つは当局の一隊が待機する工場正門の方へ、そしてもう一つは自分の方へ滑り出すのを。  前回の人型に比して太く大きくなった脚。それにふさわしく分厚い胴体と太い腕。濃紫色の塗色とも相俟って見るからに重量がありそうなのにも関わらず、くぐもった轟音を発しながら、足の底は地上から浮き上がり、まるで流れる空気の層の上に乗っているかのように迫って来る。  伏せたまま青龍が衝撃波銃を撃つと同時に身を翻し立ち上がる。その横を朱雀の衝撃波が走り抜ける。  二度の波は、続けざまに人型の分厚い胸板にぶち当たり、鈍い響きを上げる。しかしその足は止まらない。さらには両の腕を二体のVCDVに向けてきた。  朱雀が、青龍がそれぞれに回避。だがその直後に二体を強烈な振動が襲った。  「これは……」  「衝撃波銃だと?」  同じ振動を受けて木津が言う。  倉庫棟の中には、残る武装ワーカー六両に加え、真寿美たちに向かったのと同じ人型四体が木津たちを待ち構えていた。  入口からの最初の一斉射でワーカーの一両を小破させた後、飛び込んだ由良が伏射でワーカー三両を沈黙させた。続いた木津と安芸がそれぞれワーカー一両ずつを撃破。さらに残る一両に木津がとどめを刺そうとした時だった。急に兆した嫌な感覚に白虎の腕を引くと、ワーカーの上に跳び、その頭を踏み付けるように蹴り倒した。バランスを崩し倒れかかったワーカーに、後方から鈍い響きが絡み付く。その途端、ワーカーの上体がひしゃげ、車が横転する。木津が感じたのは、この余波だった。  「仁さん、今のは」とそれに気付いた安芸。  「向こうも持ってきたらしいな」  「さっき峰さんが言ってきた人型ですね」  木津がコクピットでぽきぽきと指を鳴らす。  安芸が由良に呼びかけた。  「一体は任せます。ただしくれぐれも無理はしないでください」  了解の応えがぼそっと返る。  「お出ましだぜ」  木津の声に続いて、人型の分厚い躯体が四体揃って姿を現した。  「一つ多いな」  「仁さんにお任せします」  「ありがたくて涙が出るね」  人型の放った衝撃波を受け、銃を握った特一式の右腕がもぎ取られ宙に飛ぶ。  うろたえる当局の一隊に、衝撃波銃の仕込まれた腕を真っ直ぐに向けたまま、紫色の人型が迫ってくる。  無傷で残る特一式の一体が狂ったように発砲を続ける。それを援護していた饗庭に、焦燥の色を濃くした口調で指揮者が言った。言葉は命令だったが、ほとんど依頼に近い調子だった。  「MISSES機は相手車両の積極排除を実施せよ……」  独り言のような応答があった。  次の瞬間、玄武が特一式の脇をハーフになって走り抜ける。迫る人型がそれに気付いて、腕をハーフに向けて動かしかける。が、トリガーが引かれるよりも早く、再びMフォームに戻った玄武が地を蹴ると同時に右腕の「仕込み杖」を繰り出し、勢いに任せて人型の顔面に真っ直ぐ切っ先を突き刺した。  「仕込み杖」は人型の頭を突き抜けた。速度を落とすことも忘れた人型は、足だけが先に進もうとしてバランスを崩し、仰向けに倒れる。その胴体を蹴って、玄武は「仕込み杖」を引き抜きながら後ろに跳び上がり、着地と同時に衝撃波銃を人型の四肢に撃ち込んだ。  そして何事もなかったかのように元の位置に戻り、命を受けたときと同じく、独り言のように完了の報告を一言告げた。  正面に対峙した紗妃の青龍めがけ、厚い装甲にものを言わせて人型が襲いかかる。が、その間に後方を真寿美の朱雀が取り、ハーフに変形して追う。  紗妃は放たれる衝撃波を巧みにかわしながらもその位置を変えようとはしない。距離が詰まる。  人型の背後で、S−ZCのライトが一閃した。また放たれた人型の衝撃波を、青龍は真上への跳躍で回避し、左腕を人型の頭に向けた。トリガーが引かれる。  同時に撃たれたS−ZCからの衝撃波が人型の左足を捉えていた。のけぞりながら右に体を翻し、人型は倒れる。「仕込み杖」を伸ばしながら着地した青龍がその首許に一撃を加えて沈黙させた。  「決まった!」真寿美が思わす声を上げる。  「すごい戦法を知ってるんですね」  コクピットでの真寿美の微笑みは、返す言葉には似合わない静かさを帯びていた。  「これ、仁さんの真似です」  そして振り返ると、「中は?」  「残り一つ!」  由良がかなり難儀をしながらも相手を止めたのを見て、木津は改めて体勢を取る。  安芸が由良の機体を見て声を掛けた。  「損傷はどうですか?」  「問題ありません」という弾んだ由良の答えに、安芸は少し眉を寄せた。玄武の肩の装甲はゆがみ、動きは明らかに通常の自由度を欠いていた。  「無理しないでください。後はこちらで当たり……由良さん!」  安芸の言葉も聞かず、由良は遠巻きに動く最後の人型をハーフで追い始める。  「仁さん、由良さんのサポート願います」  「あいよ。んで進ちゃんは?」  「外の掌握に出ます」  「いってらっしゃい」  倉庫から飛び出た玄武に向けられた朱雀の左腕が、すぐに照準を逸らした。  「っとっとっと……安芸君?」  「状況は?」  「こちらは人型を一体擱坐させました」紗妃が答える。「乗員は機体内に拘束してます」  「了解です。当局の部隊は?」  「多分前の位置を保持していると思います」と再び紗妃が答える。  アックス4も? と訊ねようとして安芸は口をつぐんだ。そこに真寿美が口を挟む。  「人型が一つそっちに行ったけど、それっきりだからきっと片付いちゃってると思うよ」  安芸はマイクに向かって饗庭を呼び出した。むっつりとした応答が一言。状況の報告を請われると、口調を変えずに言った。  「目標一、大破擱坐。特一式の内行動不能二、小破一、以上」  肩をすくめながら安芸は了解の応答と現状保持の指示を出そうとした。が、聞こえてきた声にその唇が止まった。  「き、木津さん……」  「構うな!」  「仁さん?」真寿美も思わず声をあげた。  朱雀が、追って青龍が走り、倉庫に飛び込む。四つのライトが庫内を照らし出す。  そこには、壁を背に脇腹をえぐられた姿で片膝を着いた白虎と、反対側の壁際で立ちすくむ玄武、そして玄武に迫る人型。  玄武は回避する素振りすら見せない。  青龍の撃つ衝撃波銃はことごとく弾かれる。  朱雀が走る。しかし進路を阻む擱坐したワーカーの車体。それを蹴って赤い痩躯が跳ね上がる。そして真寿美の高い声が。  「間に合えっ!」  衝撃波銃が、通常とは違う響きを立てる。それに続いて鋭い破砕音と衝突音。  着地した朱雀が後ろに跳ね退く。メンバーがその向こうに見たのは、突っ立ったままの玄武と、その目と鼻の先で、首の横から脇の下にかけて串刺しにされ、壁に止められた人型だった。停止しなかった両足の浮上機構は串を軸に下半身を斜めに跳ね上げ、倉庫の壁に突っ込ませていた。  「仕込み杖を……投げたのか?」  木津のかすれた声に真寿美が答えた。  「撃ったんです、衝撃波銃に差し込んで。それはそうと、仁さん大丈夫ですか?」  朱雀がくるりと振り返る。  と、嗚咽とも呻きともつかない声がレシーバーに入った。  「ゆ、由良さん?」  「何があったんですか?」と安芸が問う。  「ちょいと照準が狂っただけさ」何でも無さそうな口振りで木津が答える。「あの人型にあおられてさ」  「誤射、ですか……」  「大したことはないんだが……」  安芸と紗妃が動きを見せない玄武から、見るからに深手を負っている白虎に視線を移す。  由良の声はまだ聞こえていた。