山梨青年海外協力隊協会通信

       VOL.4 2000 OCT          


編集・発行 山梨青年海外協力隊協会     〒400−1113 山梨県中巨摩郡敷島町亀沢3927                    
     (青年海外協力隊OB会)            会長   長田 英俊
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サクランボ狩り体験記
6月18日(日)、白根町の中込直OBの果樹園で、協力隊協会主催のサクランボ狩りをした。参加者は20名。私はサクランボ狩りが初めてなので、家族4人で参加させてもらった。以下は、家族の感想。
家内:「サクランボがパックに入っていなくて、木になっていたのがとても新鮮で驚き。そしてその姿はとても美しい。」
長女:「木の上のほうに、赤くて大きいのが沢山あった。来年もまた来たい。」
次男:「食いすぎて気持ち悪いー。」

 やたらと脚立で高いところに登って探しまくる人。同じ木にとりついてじっくり採る人。あっちこっちの木と浮気ばかりしている人…。誰とは言いませんが、色々と性格が出ていておもしろかった。じっくりと観察させてもらった。
 山梨に住んでいてもなかなかサクランボは高くて、人に贈ることはあっても自分で買って食べるということはほとんどなかった。でもこの日は食い放題。2〜3年分食い溜めしたような気がする。
 一粒一粒、磨いたように赤く光っていて、甘くて、新鮮で、「農薬は実がついてからは全く使用してませんよー」との中込さんの言葉を信用して、安心してぱくぱく食べた。
楽しかった。今度は、葡萄狩り、苺狩り、林檎狩り、芋掘りなんかもしたいなあー!  (中安隆信)


国際協力キャンプに参加して                             
毎年恒例のキャンプは、私にとって2回目。去年は夕方からの参加だったけど、今年は2日間、入所から退所まで参加した。
去年は初めてで、段取りが分からなかった私も、今年は少し分かってきたのか、それともOBの顔を覚えたためか、睡眠時間は少なかったものの、楽しみながら八ヶ岳での2日間を過ごすことができた。子供も楽しんでいたと思う。

(1)冒険ハイク
運動神経の良くない私には一番の問題だったけど、子供たちと一緒になって夢中で山の中を走り回って、楽しかった。研修生と子供たちが仲良くなる良い機会だと思う。
以前は2日目に行っていたようだが、疲労感でいっぱいなので、1日目の体力があるうちに行ってしまうというのには納得。その後1週間、肩が筋肉痛になったのは私だけなのか?
(2)各国の料理
 今年の夕食はサラダからフルーツまであったので、バランスが良かったと思う。ただ、班によっては研修生だけで料理していたことや、ほとんど大人だけで後片付けをしていたことが気になった。ご飯もたくさん余ってしまい、朝のおにぎりにしても食べきれなかったのはなぜだろう。
 ゴミはもっと分別を徹底すれば小さくまとめられるはず。2日目のお昼のお弁当のパックを種類別に重ねるなど。
(3)各国の紹介
 今年は説明の内容を後でクイズにしたため、子供たちは真剣に聞いていた。今まで知らなかった国の名前で遊んだワールドビンゴも楽しんでいたようだった。例えば、オリンピックの開会式を見ながら、キャンプで聞いたり覚えた国が1つでもあれば、うれしい。研修生の説明も写真や国旗を見せるなど、年々分かりやすく上手になっていると思う。

 来年のキャンプも今年同様に参加させていただくつもりの私。いつもたくさんのOBの方にお世話になっているけど、もっとたくさんのOBの方にもぜひお会いしたと思います。 
   (町田晶美)


国際交流キャンプに参加して             成島 亜佐子 (境川小5年)
 国際交流キャンプの2日間は、とても楽しくて長いようで短い時間でした。
 大変なこともいろいろあったけれど、キャンプで外人さんとたくさん話をしたり、教えあったり助け合ったりできて、すごくよかったです。ちゃんと話せるか心配だったけど、ちゃんと話ができてホッとしました。
 テントにねるのは初めてで、きんちょうしてほとんどねむれませんでした。白々と夜が明けたときはうれしくて、長い夜だったと思いましたが、今思うと短かったです。
 また、同じテントに、他の学校で、初めて会った子と仲よくなれました。色々話したりいっしょに買物に行ったりもしました。「新しい友だちができたらいいな」と思っていたけど本当にできてうれしかったです。


キャンプに参加して                  岡 亨洸 (境川小6年) 
8月5・6日に、青少年国際協力活動体験キャンプに去年に引き続き参加しました。去年はちょっと緊張したけど、今年は楽しみに待っていました。一番楽しみにしていたのは野外炊事です。ぼくはなたでまきわりをしました。ぼくの班は、マーボー豆腐と、ホイコーローをつくりましたが、いろんな国の料理が出来上がって、とてもおいしそうに見えました。ぼくが一番おいしかったと思ったのは、ホイコーローでした。ワールドビンゴや冒険ハイクなどもして、あっという間に2日間は過ぎてしまって残念です。来年はスタッフとして行きたいです。

* どの子にも 涼しく風の 吹く日かな   飯田蛇笏
恒例のキャンプは、知り合いの子供に書いてもらった文にもあるように、例年好評です。どこがいいのかよくわかリませんが、父兄に話を聞いてみると、子供たちにとって初体験となる出来事が少なくないこともその要因の1つのようです。協力していただいた会員には、御礼申し上げます。    (野崎)

タイの見えにくい部分を訪ねて   
         小澤 由紀(中国 2−2)
 5年続いている青少年国際協力体験事業に、8月1日〜6日までの6日間、山梨青年海外協力隊協会の会員として、県内の高校16校より16名の高校生を引率し、タイのバンコクとチェンライを訪問してきた。協力隊の活動を実際に見たり、スラム街を訪れたり、山岳民族や高校生との交流をしてきた。山梨国際交流協会が主催のもので、内容の濃い6日間だった。
まず訪れたチェンライは、チェンマイより北部にあり、思っていたよりは進んだ街並みだった。空から見ると区画整理された田んぼが青々と広がり、空港を一歩外に出ると懐かしい臭いがし、10年前に協力隊員として中国にいたことが想い出された。久しぶりの海外であり、久しぶりのアジアだったので、当時の初々しい気持ちが甦ってきた。高校生16人はそれぞれこの臭いを、この街並みを、この国の人たちをどう思うのだろう。そしてこの6日間は彼らにとってどんな意味の6日間になるのだろう。せめて気持ちよく毎日を過ごせるように、あまりがみがみ言わないで彼ら一人ひとりの常識的判断に任せよう、そう思った1日目だった。
 2日目には、ホテルからワゴン車3台に乗り分け、約1時間かけてチェンライ山岳民族福祉開発センターで活動している協力隊員の大浦さんをまず訪ねた。そこには今年2月まで山梨で研修を受けていたタワンさんがいた。半年ぶりのしかもタイの山奥での再会に不思議な思いがした。私のこともちゃんと覚えていてくれたことが嬉しかった。さらにそこから1時間かけて山をいくつも越え、ローリウ村という村の小学校に着くと驚くほどの出迎えがあり、私たちは何者? と思わずにはいられなかった。日本の旗とタイの旗を、あどけない顔をした小学生や保育園生が裸足で立って振っている。近づくと旗を振る手を止めて、じっと見つめ返してくれる。「サワディーカァ」と声を掛けると、見つめたまま手を合わせ、ちょこんと膝を曲げながらささやくように挨拶してくれる。小学5年生の女の子と話をすることができた。中国に近いこともあり、中国系の山岳民族が3分の1はいるということで、中国語で話ができた。今回の旅行で中国語を使えるとは思っていなかったので、英語ができない私はこのときとばかりに話をした。学校の中で校長先生や村の人たちとタイ式のグリーンカレーなど辛い昼食を戴いた後、民族舞踊などをたくさん見て、そして一緒に踊った。高校生が自ら踊りの輪に入って行ってくれたことはとても嬉しかった。私たち20人と村人何百人かが一つになれた、そんな気もした。その後は、高校生が目を輝かせて子どもたちと日本から持ってきた玩具を使い、一緒に時間を忘れ、所狭しと校庭いっぱいに走り回り、16人がそれぞれの交流を楽しんでいた。全員が帰る時間を気にせず、夢中で子どもたちと遊んでいる姿はとても素的だった。一日かけてのこの村への訪問は、とても意義あるもので、高校生にもとても大きな印象を与えたと思う。新しい自分を発見できた人もいたのではないかとも思う。それくらい16人の姿は私にとって衝撃的だった。私自信がもし高校生という立場でこの場にいることができたらと、悔しい感情が沸き起こるほどだった。この経験を、見たことを、耳にしたことを、忘れないで欲しい。きっといつかどこかで想い出し、知らず知らずのうちに役に立ち、自分の人生に影響を与えていくことになるのだということも。協力隊員の大浦さんの存在も大きかったので、きっとこの16人の中から青年海外協力隊へとチャレンジする私の後輩が生まれるのではないかと感じる。
 しかし、次の日のJICAタイ事務所訪問では、机上の研修となり緊張したせいか、自分を出せていなかった人が多かった。事前研修を十分してあげていなかったと、私も責任を感じる日となった。私から見れば、難しい質問にも全員は無理でも答えられる人が必ずいたし、自分の考えを言えた人もいたので、高校生なのだからこんなものかなと、まずまずの手応えを感じていたのだが…。机上でのことは徐々に覚えていけばよいもので、今回の旅行では「体験」してもらうことが第一なので、JICAでの厳しいお言葉もさらりと受けとめることにした。来年の課題としたい部分ではある。
 4日目のプラティープ財団訪問は、私の中では今回の旅行でもっとも大きな意味を持つものとなった。プラティープ財団とは、プラティープさんというスラム生まれの女性が、『教育こそが生活を大きく変える原動力になりうる』と確信し、1968年にスラム街に「1日1バーツ学校」を開設し、1978年にアジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞(社会福祉部門)を受賞し、そのときの賞金2万ドルを投じてできた財団である。今回のスラム街視察は、覚悟しての視察だったのにも関わらず、私に一番大きなショックを与えた。もっとゆっくりスラム街を視察したかったが、危険な場所でもあるということで通り過ぎるだけでゆっくりできなかったことが残念だった。プラティープ財団の中の保育園での交流は、また16人それぞれの感性が浮き彫りに現れた場所でもあった。旅行の疲れが出はじめたのと、就学前の幼い子どもが相手ということもあってか、上手く交流できずに暫く佇んでいる人もいた。プラティープ財団では、ボランティアをしている大学生くらいの若い日本人が何人かいた。時間がなく、そういう方からお話を聞くことができなかったのがとても残念だった。どんなきっかけで今を過ごしているのかを聞きたかった。そして高校生にも聞かせたかった。
 最後のサティ高校との交流では、相手校が上手くリードしてくれ、スムーズに交流ができた。別れ間際の僅かな自由時間には、別れを惜しんで片言の英語で文通を約束する人や、自分の持っているものを記念にと交換する人で、ぎりぎりまでバスの周りが人でいっぱいだった。もっと自由に交流できる時間も彼らには必要なのだと気づいた。これも来年の課題となるだろう。若い者同士が海を越えて情報を交換し合い、また逢えるかもしれない日を楽しみに、絶えることなくやりとりを続けることができたなら、こんなに素晴らしいことはない。小学生でも保育園生でもないこの高校生との交流は、やはり彼らにとっても意味が違うようだった。
 今回は引率者としての6日間だったが、高校生という若い彼らがこういう経験をするということに、羨む気持ちが大きく、私たちの時代にもこういったことに参加できていたらどんなに違っていたことか…と嘆くばかり。高校生たちも素晴らしい経験ができ、満足をしていることと思うが、この経験の価値に気づくのはもっと後かもしれない。今回はたった6日間だけだったので、次はもっと長く、そしてもっとたくさんの経験をこれからの人生をかけてゆっくりと計画していって欲しい。


隊員レポート
ニカラグア文化・慣習 ラテンの“のり”
井出 悦子(10−2 ニカラグァ 環境教育)
現在、私は中米ニカラグアの古都グラナダの市役所、社会福祉課において環境教育というあまり聴きなれない職種で活動しています。この環境教育という職種はいったい何なのか?とよくきかれますが、村落開発普及員、教諭、都市計画、公衆衛生をたして4で割ったような職種といえば多少は理解していただけるでしょうか。ですから活動内容の幅は多岐に渡っています。任期も残り3ヶ月あまりですが、これまでにおこなってきた活動には、市内のゴミ減量キャンペーン、市内美化のための公園整備、植樹、堆肥作り、市場の清掃、教育省と組んでの学校環境教育の実施、生活排水の浄化作戦等があります。
しかし、ここで紙面を割いて私の仕事内容について説明するつもりはまったくなく、今回は中米ニカラグアの文化(慣習)、いわゆるラテンの“のり”について皆さんに紹介したいと思います。このラテンの“のり“というのはラテンの国独自のラテンの国にしか存在しない文化・慣習であり、言い換えるならば「自己の本能のまま、思いのままに生きる」実に人間らしい慣習といえるでしょう。時に?と思い、理解できないこともありますが、私にはこのラテンの“のり“が非常に心地よく、ぴったりとはまっているので、ぜひ皆さんにも紹介したいと思います。
のり−その1  祭り(FIESTA)
日本人が集まって遊んだり、飲んだりする際にカラオケをするように、こちらではなにかあるたびに踊ります。誕生日には、自分の家がディスコに変身します。母の日、結婚式、成人式、卒業式、忘年会等、何でもお祝いする日(時)には踊ります。皆、特に女性はこの日とびきりのおしゃれをし、厚めの化粧をし、アイドル顔負けのフリフリドレスを身に着けて現れます。ダンス曲はやはりサルサ、メレンゲが中心で、男女2人、又は女性2人がペアになり踊ります。(男性2人が踊ることはまれで、すぐに「ホモ」だとからかわれてしまいます)。腰の動き(振り)が、踊りの優劣を決定するので、子供の時期からみな積極的に踊り、その技術を磨いているようです。

のり−その2  男性
そこに女性がいる場合、声をかけないのは「失礼である」という考えがあるのか、とにかく女性とみれば誰にでも男性は声をかけています。私は職場に自転車で通っていますがその10分間で、大体7〜10人の男性から声をかけられます。「Adios」(さよなら)、「Hola」(こんにちは)という挨拶がほとんどですが、中には「Chinita bonita guapa」(かわいく、美しい中国人(東洋人))と朝から熱い言葉をかけ、なげキッスを送ってくる人もいます。着任早々は面白がって、みんなに声をかけ返していましたが、慣れてくると(毎日となると)うるさく感じられもしてきます。しかし、日本に帰るとおそらく誰も男性が相手にしてくれず、声もかけてくれないでしょうからこれは本当に貴重な経験です!。熱心な人は運転中でもわざわざ車を止めて(又は徐行して)声をかけてきます。そうした達人は女性を探すためによそ見、脇見運転をしているようで、私はいつも交通事故に遭わなければいいと願っています。

のり−その3  恋人、結婚、家族
恋愛に熱心な人々なので(とくに男性)恋人を作ることは生活のいや人生の最重要課題です。その延長で結婚してからも平気で浮気をする男性が少なくなく、中には妻以外に2,3人も恋人がいる人もいます。そのため当然離婚率は高く、女手一つで子供を育てている女性の数は驚くほどです。父親不在家族、両親が離婚した子供、異父兄弟姉妹といっしょに住んでいる子供、未婚の母、また15歳以下の母等が社会の大多数ですが、彼(女)等はけして暗くなく、ごく普通のこととしてこの現象を受け入れているようで、社会的偏見もあまりないようです。しかし、女性たちはけして男性を信頼しておらず、最近では結婚せずに同棲している率が高くなっています。この男性の勝手気まま、無責任さに赴任当初は腹が立ちましたが、だんだんと、こんなに勝手気まま、無責任に振る舞っている男性は、結局家庭において単なる雄でしかなく(子孫繁栄のための種)、存在感が薄いことがわかってきました。ニカラグアでも母の日と同様に父の日もありますが、特に何のお祭りもなく、家族総出でお祝いをする母の日の華やかさとは雲泥の差です。家庭、家族は母親中心でその絆はとても太く強いのです。誤解のないようにいっておきますが、何もニカラグアの男性全てがこのように無責任であるというわけではなく、もちろんしっかりした紳士も多いです。しかし教育の程度が低くなるにつれてこの悪習慣(と私は思いますが)の傾向が強いようです。

のり−その4  食事 
ニカラグアは日本と同様にお米が主食です。その他豆をよく食べ、白いご飯に小豆をまぜて炒めた“ガジョピント”と呼ばれる(お赤飯みたいな)ものが典型的な食べ物で、これを朝と夜、1日に2回食べるのが一般的です。これは作るのが簡単で、しかも安く、栄養価も高いので普及したようです。しかし、毎朝・夕食これを食べる習慣は日本から来た我々にはなかなかなじめず、ギブアップする隊員が大半です。ニカラグアでは昼食が1日のうちで一番大きく大切な食事で、お昼だけ台所で料理をする人が多く、朝、夕は先に述べた“ガジョピント”をあらかじめ作っておいて勝手にとるか、パンをかじる程度のようです。不思議だったのはこの国では家族が集まっていっしょに食事をとるという習慣があまりないようで、自分の好きなときに揺りいすに座りテレビを見ながらとる人が多く、その行儀作法に最初は驚きました。料理は多種のバナナを利用したもの(日本にはない多種のバナナがあり、これらを茹でたり揚げたりして料理する)、トルティーヤ、鶏肉、(ゴムのような)牛肉、豚肉、塩で味つけた野菜サラダが主で、油を使ったものが多く(これは腹持ちが良いからか)、また砂糖を大量に入れたフルーツジュースやコカコーラ等の炭酸飲料水を良く飲みます。結果、大きな体をした人が多く(つまり太った人)、糖尿病などの病気も多いようです。1年中夏なのでフルーツは一年中豊富で、しかも安く、お菓子代わりに食べています。私はここでマンゴ、バナナ、オレンジを一生分食べた気がします。

   のり−その5 姓名
日本人は姓1、名1ですが、こちらでは姓2(一つは父親方の姓、もう一つは母親方の姓)名2が一般的です。例えば私のカウンターパートはウィリアム・ホセ・マルティネス・ベルムーレスです。呼ぶ際にはウィリアムと最初の名だけを呼びますが、短い名前の人、例えばホセ・ラモンなどはそのまま両方を呼びます。また自分の子供に自分の名前を与えるのが一般的で長男や長女はたいてい父親か母親と名前が同じです。何とややっこしいのかと思いますが名前が2つあるので、家ではその2つの名前両方を呼ぶそうです。
また、知らない人を指して呼ぶ際はその人の体の特徴を指すことが多く、太っている人を「デブ」、背の低い人を「ちび」と平気で呼び、我々からすると何と失礼なと思いますが、呼ばれた方も別に気を悪くする風もないようです。

以上、ニカラグアの文化、慣習いわゆる“のり”について簡単に紹介しましたが、このほかにも、「珍」「妙」「変」なのりは数多くあります。残りの任期こうしたニカラグアの“のり”を十分に楽しみたいと思っています。


みちの彼方に     
        長田 健次郎(トンガ 9−2 土木施工)
「はじめに」
トンガは、南太平洋に位置する日付変更線に面した人口約10万人の小さな王国だ。世界で最初に太陽が昇る国、そして横綱武蔵丸の父親の出身国でもある。医療と義務教育が無料であるトンガ王国は、体重200Kgの国王トゥポウ四世をはじめ、太った人たちの多い陽気な国として知られていた。そんなトンガで、世界で最初に太陽が昇ることを観光に活かす事業が実施された。それが、道路改良事業だ。今回は、私が関わったある事業を、回想録として書いてみた。
「弱気の魔」
「ケニー。ちょっと俺の部屋まで来てくれ」という私の上司である公共事業省の土木部担当副次官からの内線電話を受けて、私は作りかけだった王宮駐車場工事に関する見積書を持って席を立った。私はトンガではケニ−と呼ばれていた。トンガに赴任した当初、私は知り合うトンガ人たちに「俺のことはケンと呼んでくれ」と言っていたのだが、どうしても彼らは私のことを「そうか。ケニ−か」と言うのだった。これはトンガ語の特性によるもので、トンガ語では語尾に「N」の発音が来る場合、「NI」と変化してしまうのだ。このためケンと名乗った私はケニ−となってしまった。署名でも、トンガ語表記では「Keni」と書くのだが、これではかっこう悪いので、私はアメリカ人のように「Kenny」と署名していた。
暑い。3月下旬といえば日本では春の息吹が感じられるころなのだが、ここトンガではこの時期、我が家の庭に咲く赤い小さな花でさえ、まるでその鮮やかさを眩しく輝く太陽と競い合うかのごとく、精一杯の背伸びをしてひと夏のおしゃれを楽しんでいた。
もしかしたら、この工事も中止になるのだろうか。副次官室の前で、落ちそうになる見積書を抱え直しながら、私は自分の能力ではどうにもならないことが多すぎると、切ない気分に襲われた。
この国で生活をはじめてもう一年半になる。たくさんの夢や希望を持ってトンガに来たはずだったが、日本とは違う現実の前に、いつしか惰性で流されている私がいた。
副次官室には、既に三名のトンガ人の同僚たちが集まっており、私が来るのを待っていた。彼らは国の将来を担うエリートたちであり、私も一応この公共事業省では上級職の末席を汚していた。四名がそろったところで、副次官から「4月から、4つの事業を4人に一つずつ担当してもらう」という発表があった。どうやら今回の呼び出しは、王宮駐車場工事とは関係ないらしい。中止ではないことは、とりあえず安心だ。私の担当は「国道ポプア線建設事業」となった。これはアジア開発銀行からの融資事業で、ポプア村を貫通する延長1.7kmの国道を建設する事業だった。ほかの3つの事業とは、オーストラリア政府からの資金援助で実施される「ハアフェバ島埠頭建設事業」と、ニュージーランド政府からの技術指導で実施される「ニウア島国道整備事業」と、トンガ独自の予算で計画された「スーパーマーケット増築事業」で、いずれも「トンガ王国の発展のためには必要不可欠な事業」だと、事業計画趣意書には書かれていた。
私がまだ中学生だったころ、テレビのニュースでフィリピンに木工職人として派遣されていた協力隊員へのインタビューが放送されたことがあった。ニュースのなかで、その木工隊員は「僕がいなくなっても、この洗濯板が人びとの役に立って残ればいい」と、自分が職業訓練校で作り方を指導している洗濯板を指して言った。途上国の人びとの生活向上に役立つために尽力する。協力隊員とはそういうものなのか。このとき以来、私はいつの日にか、自分も必ず協力隊員になると固く心に誓ったのだった。そして成人してから4度の試験を受けてやっと合格し、97年度第2次隊土木施工隊員として、このトンガに派遣されたのだった。
だが、私がトンガに派遣されて以来の主に関わった工事について書くと、こういう結果になった。国道ヴァイニ線は予算緊縮で中止。国道アナフル−空港線は事前調査だけで終わり、実際の設計施工は日本政府からの援助で日本のゼネコンが実施することに決定。首都の埠頭拡張工事は、わずか一週間応援で参加しただけ。など、私が真剣に取り組んでその完成を願ったにもかかわらず、私の努力ではどうにもならない理由で最後まで陽の目を見なかった事業が多くあり、その積み重ねがいつしか私のやる気を失わせることになっていったのだ。そのため、今回の国道ポプア線建設事業の発表を受けても、私には何の感慨もなかった。期待したところで、どうせまた中止になるかもしれないという思いと、王宮駐車場工事は継続できるという、ポプア線とは関係のない安堵感が拡がった。何の保証もない明日の国道ポプア線建設事業よりも、実際に着手しつつある今日の王宮駐車場工事のほうが、私には大切なものだったのだ。だから私は当初、このポプア線事業に手を着けなかった。ところが、王宮駐車場工事のほうが中止になってしまった。国王の弟君が亡くなられたことで、王宮が喪に服したからだったが、私はこれでなおさら仕事が嫌になってしまった。
ほかの3つの事業と比較しても、私が担当したポプア線はそんなに難しい事業ではなさそうだった。他人の芝は青く見えただけなのだろうか。まるで、ほかの事業の「オマケ」として計画されたのではないかと疑ったほどである。「ああ。もっと本格的な仕事がしたいなあ」と私は痛切に思ったのだった。そして、オマケのような仕事しかないのなら日本へ帰りたいと、本気で考えるようになっていった。
「不平不満からの脱出」
そんなある日、JICA(国際協力事業団)から各職種別に協力隊員宛てに毎月送られて来る技術月刊誌を読んでいたところ、そこに私が感銘を受けた一文が掲載されていたのだった。
それは明治時代に京都を舞台にした、琵琶湖疏水と呼ばれる京都市民にとっての「いのちの水」を確保するために実施された事業を扱った物語で、技術月刊誌にはその著者との対談が掲載されていた。この事業は、現在の予算に換算すれば約一兆円もの総工費となる事業で、担当したのは当時まだ二十代の若者とのことだった。琵琶湖疏水完成のために、当時の若い人たちは自分たちの持てる総ての能力を懸けて戦ったのだ。男子一生の仕事として土木技術者の道を選び、予算一兆円に価する人生を自分たちで演出したのだ。
それに比べて自分はどうだ。不平不満は人並み以上に多かったが、努力という点では何もしていないではないか。国家事業が延期や中止になったのは、それはやむを得ない事情があってのことなのだ。事業が中止になったことで、辛い思いを味わっているのは私よりも私の上司のはずなのだ。それなのに、私は勝手に嫌な気分を自分で作り出して独り塞ぎ込んでいた。
だが、このポプア線が遅れ気味となっているのは、これは明らかに私の怠慢からだった。私の任期はあとわずかしか残っていない。ここでがんばらないで、いつがんばるのだ。いま真剣にポプア線に取り組まなければ、私は一生負け犬になってしまう。私は日本から道路を造るためにトンガに来たのだ。今ならばまだ間に合う。ならば「俺は負け犬ではない」と、私は自らを奮い立たせるために、誰にともなく宣言した。
「立ち塞がる壁」
「ケニー。何か言ったか」と、私の独り宣言を聞きつけて、同僚たちが私の個室オフィスに集まってきた。日本語の理解できない彼らだったが、私が日本語で何か言うときは、たいてい落ち込んでいるときの独り言か悩み事があって苦しんでいるときだと、今までの経験から知っていたので、今度もまた私を心配して集まってくれたのだ。今まで、私は彼らのやさしさに甘えていた。言葉や文化、習慣の違いなど、私が自分自身で乗り越えなければならない心の葛藤を、彼らに八つ当たりして紛らわしたこともあった。そんな私に対し、それでもやさしく、そしてJICAの職員などにはいつも「ケニーのおかげで助かっています」と、私を持ち上げてくれる上司や同僚たち。彼らへの恩返しのためにも、私は残りの任期に自分の総てを懸けてポプア線と戦うことにしたのだった。技術月刊誌を読んで、土木事業に青春を賭けた遠い先達の偉大さに思いを馳せた私は、その翌日にポプア線事業でチームを組むことになった若手係官たちを集めて、ポプア村へ測量に出かけた。道路幅はいくらにするか、カーブの通り具合はどうか、道路勾配は、など、調査しなければならないことはたくさんあった。太陽は、私たち測量班がポプア村へ入ることを拒むかのように、一段と輝きを増して照りつけていた。その太陽に呼応して、ヤブ蚊と蝿の大群までもが突然現れて私たちを襲撃して来た。さらに強い悪臭までが拡がってきたことは、神が私たちの「やる気」を試しているのではないかと、本気で感じられるほどだった。
ポプア村は首都ヌクアロファの東10Kmに位置する湿地帯にある村で、首都のごみ捨て場とするために開拓された地域だった。だから本来は、関係者以外の住民はいないはずなのだが、いつの間にか「村」を形成していたという経緯を持っていた。トンガ政府の公式見解では、ポプア村に新規入村する住民には電気や水道などの供給は行わないことになっていたのだが、実際にはそんなこともなく村として機能していた。湿地帯を貫通する国道を建設して住民の生活道路を確保し、ごみ捨て場付近の排水設備を整えてヤブ蚊の発生を抑え、ヤブ蚊の発生を抑えることで風土病である「デング熱」に感染する住民の数も減らす。これらが「国道ポプア線建設事業」の目的だった。ポプア村はトンガでも有数の、デング熱の発生が多い村だったが、国道建設を核とする基盤整備事業が実施されることになれば、ポプア村は晴れて衛生的な村として認知されることになるだろう。
測量を進めて行くうちに、ヤブ蚊や蝿が邪悪な意志を持って妨害しているのではないかと思われるほど、私たちにまつわりついて離れなくなった。マングローブの密林に覆われた湿地帯のなかで、長靴を履いて待機している間にもヤブ蚊は私たちを容赦なく襲撃して来た。照りつける太陽。長袖の作業服は汗でびっしょりとなり、絞ると水のように滴り落ちた。耳障りな蚊の羽音は「ポプア線なんかは完成できないぜ」と私たちをあざ笑うかのように聞こえ、肥えたように太った蝿は、ここが彼らの楽園であることを象徴してみせていた。追い払いたくとも、固いマングローブの枝に遮られて手を振ることもできず、私たちの苛立ちを一層倍加させた。その上気まぐれのようにやって来る夕立が、濡らしてはならない測量機器に降り注いでは作業を中断させた。喉が渇いても、ほかの現場なら誰か作業員がヤシの樹に登って実を取ってくれるので、ヤシのジュースで大いに喉を潤すことができたのだが、ここポプア村にはヤシの樹はなかったので、唇を白くさせながら耐えるしかなかった。湿地帯の泥水の上澄みを眺めながら、何度か「この水が飲めたらなあ」と考えたこともあったが、この泥を干拓することも、私たちの任務の一つなのだった。太陽は日中に一番幅を利かせる。夕立は夕方にやって来る。ならば、早朝に作業すればどうだろう。朝早くならば涼しいし、涼しければ喉も渇かない。不快要素を一つでも取り除くことができれば、作業効率は格段に向上する。
こうして、1.7キロメートルの区間を何とか踏破した私たちは、測量の成果表を基に路線設計に入った。ポプア線の計画については、フィジー政府から出された提案書があったが、これは実際に測量して作られたものではなかったためか、ポプア村の実情と合致していなかった。
とにかく湿地帯を何とかしなければ、工事自体が進まないことになってしまう。そこで、現在村道として機能している道路を拡幅し、はみ出した部分の路床は深さ1mまで砕石と入れ替えることで強度と支持力を確保することにした。設計は、自家用車と路線バスが通行できること。大型トレーラーの通行は不可という条件で検討された。拡幅するにあたって、左右1mずつマングローブの伐採を行うことになったが、ここで国土管理省から「待った」がかかった。
たいていの途上国では、マングローブを伐採して海老の養殖場を建設し、日本へ大量の海老を輸出して外貨を獲得していたのだが、その反面、マングローブを喪った沿岸地域では、津波や洪水の被害も甚大なものとなっていた。山のないトンガ王国にとって、津波や洪水は最も警戒しなければならない脅威だった。そこで、生態系の環境保全と災害予防のためにマングローブの伐採が法律で禁止されているのだった。そこでやむを得ず、路線は波打ち際を通ってなるべく内陸へ向けて進めることになった。このため、本来は不必要なカーブを設定しなければならなかったが、副次官からはこの案を了としていただいた。
次に、工事に必要な材料の手配があった。この工事には多数の資材が必要だったが、ほかに3つの事業も同時進行していることから、この事業だけで多数の資材を調達することはできないと副次官から回答された。資材が調達できなければ、この事業は頓挫してしまう。何とかしなければならない。費用対効果を考えればいいのだが、そのためには何をすべきか。最小の投資で最大の効果を挙げること。これが私たちに課せられた任務となった。次から次へと、乗り越えなければならない壁が現れては私たちに挑戦してきたのだった。
「みち」
最終的に私たちが採った方法は、この事業を第一期と第二期の2つに分けることだった。第一期では、降雨のたびに冠水してしまう現在の村道に盛土して、少なくとも通行に支障が生じないように配慮した。
排水溝は、素掘り側溝というただ溝を掘っただけのものだったが、側面に芝生を植えたことで崩れることを防止し、併せて景観にも配慮した。施工時期が未定の第二期では、かつて調達できなかった資材を使って実施することとなったが、実施がいつになるのか分からないことから、図面だけはあらゆる角度から検討して仕上げ、毎年更新しながら管理していくことになった。こうして1999年9月9日に開通した国道ポプア線は、雨天でも冠水することなくその機能を果たしてくれた。排水性がよくなったことで、悪臭とヤブ蚊は減少した。この事業の目的だった生活道路の建設。ヤブ蚊の減少。そしてデング熱の発生を抑えることに成功したのだ。私は逃げなかった。私は任務を完遂したのだ。これで安心してトンガを離れることができる。
「みちの彼方に」
そこに道がある。誰が造ったとか、どういう経緯で計画されたとか、そんなことは関係なく道は存在している。だが、この道を築いたのは、たしかに私たち無名の若者なのだ。私は無名であることに強い誇りを感じた。なぜなら、それが「名を追わず、益を求めず、日本と途上国の友好のかけ橋となること」という協力隊の理念に適うことだと信じていたからだ。やさしく私を包み込んでくれたトンガ王国。その発展のために少しだけでも役に立てたことは、洗濯板を作った先輩に追い着けたのではないかと密かに自負している。人生の「みち」の途中でトンガ王国に立ち寄った私は、これからも歩き続ける。私が築いたこのみちは、私の肉体がいつか神から召されたのちも存在し続けることだろう。トンガ王国の人びとと共に。して私のこころと共に。


INFORMATION 
行ってらっしゃい 12年度1次隊
保坂 好美   (甲府市  コスタ・リカ  婦人子供服)
中村 勝彦郎  (塩山市  エジプト  花き)
※ 壮行会は、7月5日に、協力隊を育てる会と合同で実施しました。
お帰りなさい
   新谷 勝広   (双葉町 10−1 ラオス 病虫害)
  齋藤 かおり  (大泉村 10−1 メキシコ 家政)



今後の予定
月 日 内     容   会      場  所  在  地  
10月   8・9日 国際交流広場 日本航空学園 双葉町
   18日 秋募集説明会 県国際交流センター 甲府市飯田
    26日 秋募集説明会 富士吉田市民会館 富士吉田市緑ヶ丘
11月      1日 秋募集説明会 県国際交流センター 甲府市飯田
    8日 秋募集説明会 県国際交流センター 甲府市飯田
 18・19日 県民の日 小瀬スポーツ公園 甲府市小瀬
   25・26日 関東ブロック会議 栃木県塩原温泉
    下旬 12年度2次隊壮行会
12月     上旬 国際交流祭り 県国際交流センター 甲府市飯田
       中旬 秋募集1次試験 県国際交流センター 甲府市飯田
(平成13年)        
1月     下旬 新年会
2月     中旬 海外研修員送別会帰国報告会 県国際交流センター 甲府市飯田
3月     中旬 帰国報告会 県国際交流センター 甲府市飯田
 

編集後記
このところ、連日のようにユーゴスラビアやパレスチナからのニュースが流れてきます。9月には東南アジアで豪雨のため、多くの死者がでました。前号で紹介したスリランカも、この会誌が出る10月10日には総選挙が行われるため、連日テロが起こっています。このように世界中では様々な出来事が起こっていますが、日本で流れるのは良くないニュースがどうしても多くなりがちです。そういう意味で、隊員の皆様には、現地を紹介するレポートをお願いします。日本に長く住んでしまうと、隊員時代に体験した異文化を忘れがちになりますので、ぜひ活字に残しておくことをお勧めします。
前号で募集した会誌名の募集は、継続させていただきます。この会に相応しい会誌名をぜひ考えてください。                                          (n)