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善峯寺の紅葉 

2009年秋に友人に勧められて初めて善峯寺に参詣し、スケールの大きさと京都市内では見られないような壮大な紅葉の風景に圧倒されました。
 帰宅後、どんなお寺なのかと調べてみると、平安後期の創建という古寺で、江戸時代末までの多くの法親王を葬った宮内庁管轄の墓地もあるという由緒正しい門跡寺でした。
 関連事項をネットで調べながら、その歴史をたどっていくと京都を中心とした政治や文化があぶり出されて来ます。


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西国三十三所第二十番札所

西山宮門跡 善峯寺

にしやまのみやもんぜき よしみねでら

京都市西京区大原野小塩町1372

平安時代創建 境内地3万坪

京都を一望する回遊式庭園

ヘリからの撮影
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印は借用写眞を示す


善峯寺は西国二十番札所として、その名を知られる天台系単立寺院です。京都市の西部、阪急京都線「東向日(ひがしむこう)駅」からバスで終点の「善峯寺」まで約1時間半の道のり(運転日注意)、大阪府にほど近い山中にあります。

釈迦岳(631m)の山頂、中腹に位置していて、境内地3万坪(10万平方m)の広大な山ふところに多くの伽藍が回遊式庭園形式(一周約40分)に立ちならび、奥の院薬師堂を過ぎてなお高みには池を配して青蓮院宮御廟等々歴代の墓所があります。

善峯寺を通称「松の寺」と云わせるほど有名にした五葉の松(天然記念物)や、京都市内を一望しながら、春は爛漫たる境内一圓の桜花、秋には境内のみならず西山一帯も借景に取り込んだ錦織りなす壮大な紅葉が楽しめます。

 

目 次


案内

交通地図

境内案内図

航空写眞

 

観光:善峯寺の紅葉

山門(仁王門)

観音堂(本堂)

お香水(閼伽水)と太子堂

文殊堂(寺宝館)

釣り鐘堂

護摩堂

遊龍の松

もみじと桜

経堂(絵馬堂)

多宝塔

開山堂

幸福地蔵

白山名水

白山権現

北門

十三佛堂

宝筐印塔

桂昌院廟

釈迦堂

薬湯場

稲荷堂から奥の院へ

けいしょう殿

奥の院 薬師堂

蓮華寿院の庭

納経塚

青蓮院宮御廟

證空上人墓

青蓮の滝

十三重の塔

阿弥陀堂

書院

本坊

東門

 

 

温故

開基源算上人伝

善峯寺の歴史

桂昌院伝

 

注釈

善峰だより 平成22年 春
    外部の「よしみねNOW」より改編

 

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交通地図

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境内案内図

証空上人墓 青蓮院宮御廟 納経塚 奥の院薬師堂 水屋 十三重の塔 青蓮の滝 けいしょう殿 蓮華寿院の庭 稲荷神社 阿弥陀堂 書院 本坊 本坊門 釈迦堂 手洗 薬湯場 北門 十三の塔 白山権現 白山名水 お香水 太子像 太子堂 観音堂 茶店 文殊堂 宝物館 しだれ桜 経堂絵馬堂 十三仏堂 宝篋印塔 幸福地蔵 桜あじさい苑 桂昌院廟 開山堂 多宝塔 護摩堂 遊龍松 釣り鐘堂 山門

航空写眞

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山門(仁王門)

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カーナビ頼りに来たのは裏道だったようで、乙訓のトンネルのような孟宗竹林の間の狭い道を、すり抜けるようにこわごわ通って、何とか山門下の駐車場に着きました。

平日の午後でしたから、空いていてスンナリと駐車出来ました。

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山門は豪壮な楼閣です

山門は豪壮な2層の大楼閣です。

しかし坂の上の狭い場所に建っているので引きが取れず、カメラを持った腕を伸ばして見当だけでシャッターを切りました。正面からの屋根は全く見られません。

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門の左側が入場券売り場です

私の見るところでは、境内全部の建造物の中で、外観上はこの山門が一番立派でした。

頭上の「善峯寺」は後鳥羽天皇の勅額です。

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文殊堂前から見た堂々たる山門

元禄五年(1692)桂昌院によって再建された現存の山門は、両脚だけでも大きな建造物ですが、その一隅に入場券売り場があります。

上層階には、源頼朝が寄進した「運慶」作の本尊「文殊菩薩像」と両脇に「金剛力士像」が祀られているそうですが、残念ながら下からは全く拝観出来ません。

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仁王像4枚:借用写眞

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観音堂 (本堂)

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山門を入って本堂を望む

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悠仁親王の
高野槙

山門を過ぎるとすぐ参道の眞ん中に大きな灯籠が立っていました。

参道の奥はゆるい階段になっていますが、その昇り口に「祝 悠仁親王さま お印の高野槙」が植えられています。

本堂前の立派な茶店
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hondo
茶屋の本堂面 右手の瓦屋根は本堂前の手水屋

階段を上り切ると眼前が開け、十一面千手観音を祀る観音堂があります。

ここが善峯寺の本堂です。

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本堂(観音堂)

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本堂納経所(お守りや寳印の売り場)

売込み扇
本堂正面の売込み扇

まだ記憶に鮮明な阪神大震災。あの時高架が落ちた阪神高速で、ギリギリのところで停止して、墜落を免れたバスの運転手さんが、ここ善峯寺のお守りを持っていたことで「落ちない」御守りとしてその後、受験生に人気が広まったとか。

副住職によると、「実際に、あのバスの運転手さんご本人が震災後、お礼にお寺に参られました。」

もともと、長元二年(1029)の開山というこの寺は、神経痛や腰痛を取ってくれるお寺として有名。

命までをも救ってくれるお守りだけに、ご利益も大きい!?

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本尊のご開帳

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脇本尊 十一面千手観音

元禄五年(1692)再建された本堂には「本尊」と「脇の本尊」と呼ばれる2体の十一面千手観音像が祀られています。

その他、薄暗くてよく見えませんが、源頼朝寄進の二十八部衆(千手観音の眷属)など、沢山の像があります。

「本 尊」【安居院 仁弘法師作(像高178.8cm】

「脇本尊」【当山開基の源算上人作(像高174.5cm)】

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お香水(閼伽水)と太子堂

本堂の右手、北側にお香水と太子堂が並んでいますが、どちらも小さくて質素な作りで見過しそうです。

病気平癒、長寿のご利益があると伝わるお香水とは佛様に供える水(閼伽水 あかすい)です。こんな山の上なのに地下水が湧出しているのでしょうか。


お香水の入口

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お香水井戸


閼伽井戸(お香水)


お香水が染み出す石垣

お香水と並んで露天に弘法大師像が立っていて、別に「太子堂」という小さなお堂が祀られています。しかし、いつ誰が建てたのか由来は分かりません。

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弘法大師像


大師堂

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文殊堂 (寺宝館)

本堂の左手奥に広いテラスがあり、そこに本堂と並ぶようにして文殊堂があります。

平成十二年(2000)四月に完成した文殊堂は寺宝館となっております。重要文化財指定の鎌倉時代絹本著色「大元帥明王図」や明治の文人画家富岡鉄斎の屏風などがあります。

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本堂左手に文殊堂が続く

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文殊堂は寺宝館

文殊堂の前には広いテラスがあります。      テラスから見た屏風山は満目の紅葉です。

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釣り鐘堂

崖下の細い道を進むと、お寺の規模に似合わぬ、素朴で小さめの釣り鐘堂が見えます。

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狭い道が釣り鐘堂に導く

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簡素な釣り鐘堂

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厄歳は越したが念のため一撞き!

お堂の柱には「厄除けの鐘 貞享二年(一六八五) 桂昌院寄進」と書いた札が架かっています。

桂昌院が我が子徳川綱吉の厄除けを祈願して納めたものだそうです。

この鐘は誰でも自由に撞いてよいそうです。

そこで、厄歳はとっくに過ぎましたが、念のために一撞きしました。

大きな音ではありませんが、高く澄んだとてもよい音色で、下の音響板が利いているのでしょうか、余韻が殷々と尾を引いて虚空に響き渡ります。

まことに好ましい善い鐘です。

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護摩堂

鐘木を放して振り向くと、すぐ北側にお堂がありました。護摩堂です。

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護摩堂

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護摩堂正面

正面右の柱には「護摩堂 元禄五年(一六九二) 桂昌院建立」の札が架かっています。

棟札には「棟上元禄五壬申歳九月廿九日」と記されているそうです。

護摩堂の奥は暗くてよく見えませんでしたが、本尊は不動明王五大尊注)です。

注) 不動明王を中心に 東に降三世明王(ごうざんぜみょうおう) 南に軍荼利明王(ぐんだりみょうおう) 西に大威徳明王(だいいとくみょうおう) 北に金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)または烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)を五大尊と呼ぶ。

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内陣

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不動明王五大尊

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遊龍の松

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遊龍の松の幹

境内の「遊龍の松」は、桂昌院お手植えの樹齢六百年という五葉松です。善峯寺は一名「松の寺」と呼ばれるほど有名な松で、昭和七年(1932)天然記念物に指定されました。遊龍の松は高さ2m余りですが、中央の幹から左右に全長54mも枝を伸ばし、その姿が龍に似ていることから、この名前が付けられました。

しかし、平成六年(1994)株から左側(北側)は松食い虫のために枯れ、15mほどで切られてしまいました。

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「遊龍の松」の碑

碑 銘

   遊 龍 の 松

  「遊龍」とは安政四年(一八五七)
  花山院前右大臣家厚公命名され
  標石は明治二十六年鳥尾中将
  揮毫なり。巨木にして整う姿は
  日本一と人口に膾炙されている。
   種類 五葉松
   樹令 六百年以上
   全長 五十余米
   昭和七年四月天然記念物指定

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標石

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紅葉に映える雲龍の松

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もみじと桜

高低起伏に富んだ広大な境内と伽藍配置は、手入れの行き届いた四季の草花木で浄土を思わせる趣きです。

「松の寺」と呼ばれる所以の遊龍の松や、桂昌院お手植えという樹齢三百年の枝垂れ桜のほか、ツツジ、ボタン、シャクヤク、サツキ、アヤメ(白花)、アジサイ、タカサゴユリ、シュウメイギク(八重咲きも)、ナンテン、サザンカ、サルスベリ、ツバキ、ウメと、秋には遠近・濃淡の紅葉が正に錦を織ったように広がって、四季を通じて草花木が楽しめます。

桜は外部の善峰だより 平成22年 春を参照

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桂昌院お手植えの枝垂れ桜の枝先

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経堂 (絵馬堂)

桂昌院お手植えの枝垂れ桜の枝先には経堂が建っています。心願成就の絵馬堂ということで、暗くてよく見えませんが、内陣には絵馬を沢山納めてあるようです。

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桜の枝陰の経堂

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経堂内陣の沢山の絵馬

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経堂正面


はて、この大陸風のご本尊は
どなたかな? 鉄眼和尚?

正面右の柱には【心願成就の絵馬堂】と大書した看板が見えます。


 左柱には「経堂 宝永二年(一七〇五) 鉄眼の一切経 桂昌院建立」の札が架かっています。

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多宝塔

多宝塔全容
多宝塔全容

仰ぎ見る多宝塔
仰ぎ見る多宝塔

元和七年(1621)、賢弘法師により再建された多宝塔は、山内最古の建物で、重要文化財に指定されています。

(賢弘法師の人物も、再建前の塔の縁起も、ともに不詳。)

拝殿正面には

『多宝塔 元和七年(一六二一) 重文 賢弘法師再建』

の札が架かっています。

拝殿正面
拝殿正面

相輪
相輪

風鐸
軒端の風鐸

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開山堂

経堂・多宝塔を過ぎて、遊龍の松の短くなった枝先に沿って進むと、善峯寺の開基・源算上人を祀った開山堂があります。

源算上人については「開基源算上人伝」をご参照下さい。

開山堂
開山堂

正面右側の札には 「開山堂 元禄五年(一六九二) 源算百十七歳の像 桂昌院建立」 と記されています。

源算上人座像
源算上人座像

側面
側面

俯瞰図
俯瞰図

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幸福地蔵 しあわせじぞう

開山堂をあとにして少し進むと「善峯白山 桜あじさい苑」の石柱が立ち、眼前に大きな谷が開けてきます。石柱の後ろ側や付近には、葉を落としたあじさいが沢山あります。

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桜あじさい苑と幸福地蔵堂

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七月のあじさい苑

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吹きさらしの幸福地蔵

深い谷の上にやぐらを組んで柱だけの地蔵堂が建っています。

柱の札には「幸福しあわせをまねくお地蔵さん」と書かれています。

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崖の上に建つ地蔵堂

桂昌院が幸せを願って拝したと伝える、約三百年前の石造りのお地蔵様です。

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石造りの地蔵尊

「白山桜あじさい苑」の谷を見下ろすと、段々畑のように土止めした崖には、今は葉を落としていますが、しだれ桜や桜らしい若木が植えられているのが分かります。

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桜あじさい苑の谷越しに白山権現社・北門を望む

崖の中腹にはつづら折りの参道が北門まで続いていて、よく見ると十三重の塔や鳥居も見えます。

春にはこの谷の桜がすばらしい眺めです。

桜は外部の善峰だより 平成22年 春を参照

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白山名水

名水
白山名水

地蔵堂を過ぎると新しく整備された綺麗な坂があります。

振り返ってみると地蔵堂は清水の舞台のように組上げた足場の上に建っていました。

地蔵堂裏
地蔵堂裏の坂

こちらの洞窟みたいなのは「白山名水」です。

開祖の源算上人が写経のための墨を磨るのに用いたという浄水が湧き出ています。

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白山権現

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あじさい苑の白山権現

幸福地蔵の裏は深い谷ですが、新しく整備したらしい細い小径を下りていくと敷石をおいた立派な遊歩道があります。

右手に朱に塗られた橋があり可愛い鳥居と、その奥に瀟洒な祠があります。

これが白山権現でした。

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白山権現社

白山権現の縁起は分かりませんが、祠は鳥居とともに随分新しいようです。

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北門

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「善峯寺北門」の看板が見える

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北門近くにある十三重塔

近くまで行きませんでしたが、坂道の途中にある人の気配もない北門は、素通しの鉄柵?がはまっているだけで、おどろおどろしい感じです。

北門から少し手前の左手には十三重の石塔が立っているのが見えます。

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十三佛堂

「十三佛堂 元禄五年(一六九二)桂昌院建立」の札が架かっています。

善峯寺守護の諸尊を祀っているそうです。

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十三佛堂 (右側の堂に「辨財天」の札)

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十三佛堂全景

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十三佛堂前より経堂を望む

十三佛堂の前から南側の下方には、紅葉の間に多宝塔や経堂が見え隠れしています。

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遊龍の松越しに多宝塔を望む

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宝篋印塔 ほうきょういんとう

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宝篋印塔

宝篋印塔には、鎌倉時代の慈圓大僧正によって伝教大師最澄筆の法華経が納められています。

宝篋印塔を見下ろす
宝篋印塔を見下ろす

桂昌院廟の山門から振り返ると宝篋印塔が小さく見えます。左は十三佛堂。

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桂昌院廟

五代将軍 綱吉の生母で、善峯寺を再興させた桂昌院桂昌院伝 参照 の廟は、ちょっと淋しい小高い場所にひっそりと築かれていました。

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桂昌院廟の山門

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ちょっと淋しい桂昌院廟

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遺髪を祀った桂昌院廟

桂昌院は宝永二年(1705)、79歳という長寿で江戸城中で逝去し、芝増上寺に葬られました。

ここには遺髪が祀られています。

桂昌院は幼い頃両親に連れられて幾度か善峯寺に参詣したといわれます。

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釈迦堂

釈迦堂には、釈迦像としては珍しい石造りで、合掌姿の釈迦如来像が安置されています。

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水屋から釈迦堂を望む

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釈迦堂

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釈迦堂内陣

釈迦如来像
釈迦如来像

この石佛釈迦如来は開基源算上人作といわれ、明治初年まで2キロ離れた釈迦岳(631m)に安置されていましたが、その石像が当時の住職の夢枕に立ち、釈迦岳から下ろすように頼んだそうです。

信者の崇敬も篤く、明治十三年(1880)に当山へ下山され、明治十八年(1885)に釈迦堂が建立されました。

入口には古びた「神経痛腰痛 祈祷所」の看板が掛かっています。奥の院薬師堂があるのに、お釈迦さまが神経痛腰痛の治療を担当なさっているのは面白いですね。

薬湯場の前の三色もみじ
釈迦堂右手の中庭の三色もみじ

釈迦堂に向かって右手の中庭には、一木で緑黄赤の三色の葉を付けた紅葉がありました。

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薬湯場

釈迦岳山頂にあった源算上人作・釈迦牟尼如来の石佛像が明治十三年(1880)に善峰寺に移されたとき、お釈迦様も汗をかいて下山しましたが、この汗と薬草で湯を沸かして入浴したところ、像を運んで痛くなった腰がよくなったそうです。

この時の霊汗が由来となり「善峯寺の薬湯」が始まったと伝えます。

今に伝わる「お釈迦様の風呂」は釈迦堂の右手にあって、神経痛、腰痛をはじめ諸病に効果があるといわれる、当山で採れる百草湯です。

薬湯場
薬湯場はこれかな?

薬湯場
それともこっちかな?

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薬湯場の「おねがい」の額

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柚の皮干し

五月と十月の第2日曜日午前8時から午後3時まで「おこころもち」で入浴ができるそうです。(現在は休止中?)

或る日の薬師堂の外縁には、年2回の薬湯に使う柚の皮が干されていました。

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夕闇せまる曇り空 巡り疲れて一休み 京都市中を展望すれば・・・
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心がけがよい方は、京都盆地を越して比叡山までの遠望が利きます。

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稲荷堂から奥の院へ

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奥の院への昇り口

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稲荷から奥の院へのつづら折り

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錦をまとう西山

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参道のもみじ

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崖の上に建つ幸福地蔵堂の裏側

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釈迦堂越しに経堂などを望む

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参道のもみじ遠近

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けいしょう殿

坂道が続く参道の脇に、ひらがなで右から「けいしょう殿」と白字で書いた額が目を惹く六角堂が見えます。

けいしょう殿は、昭和六十二年(1987)に、花山法皇の西国三十三箇所巡礼中興一千年を記念して建立された新しい建物で、桂昌院を祀っています。

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参道脇に立つけいしょう殿

けいしょう殿内部
けいしょう殿内部

桂昌院の像
桂昌院の像

近づくと中央には合掌した桂昌院の座像があり、それを囲む柵の外側には、眺望を楽しむように外向きのベンチが巡らされて、休息ができます。これも桂昌院の徳の致すところでしょう。桂昌院伝 参照

犬公方の母らしく、座像の膝元には仔犬がじゃれついていました。善峯寺に集う作家たち 参照

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奥の院 薬師堂

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稲荷前の参道に立つ石柱

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薬師堂への石段

奥の院前からは京都盆地の北端から鳥羽・伏見・宇治方面まで、中央に比叡山と東山の峰、左に比良の山々、右には醍醐山から笠置の山々までが見えます。

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薬師堂の石段上から遥に比叡山を望む

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石段上にある水屋

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石段上・水屋脇からの紅葉

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石段上からの紅葉

奥の院正面の額は「薬師堂」、右の柱には「善峯寺奥の院」の看板、左の柱には「薬師堂 元禄十四年(1701)両親菩提のため 桂昌院建立」の札が掛かっています。

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奥の院 薬師堂

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奥の院薬師堂正面

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薬師如来像

八百屋の夫婦が何回も善峯寺にお参りして、この薬師如来に一心に祈願して授かった赤ん坊が、のちに将軍の御母堂にまで上り詰める桂昌院となったのでした。桂昌院伝 参照

薬師堂内陣
薬師堂の内陣

市井の娘お玉から五代将軍徳川綱吉の御母堂にまで上り詰めた桂昌院にあやかって、このお薬師さまは「出世薬師如来」として信仰を集めています。

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桂昌院自筆の薬師如来献歌

堂の前の石碑には「薬師如来献詠 桂昌院御筆」とあり、

「たらちをの 願いをこめし 寺なれば
       われも忘れじ 南無薬師佛」

と、両親への思いをこめて詠んだ桂昌院の歌が刻まれています。

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蓮華寿院の庭

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蓮華寿院の池(右端が薬師堂)

薬師堂の裏には「蓮華寿院の庭」があり、雪見灯篭を設え、見事な石組みの滝に中島を配した立派な池があります。

雪見灯籠
雪見灯籠

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蓮華寿院の滝

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蓮華寿院の井戸

この池は「京都青蓮院門跡からお移りになった法親王方の住坊旧跡の庭」ということですが、庭園の解説どころか、「蓮華寿院」という建造物の跡形もなく、その成立や位置についての説明は何もありません。

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納経塚

慈母観音菩薩像
慈母観音菩薩像

この柔和な慈母観音菩薩像は経塚のあとに立てたと聞きますが、それ以上の因縁は分かりません。

慈母観音の石像も台座等の整地状態も、とても新しいようです。

     

杉木立
高野槙の林

納経塚を過ぎると、木立が茂ったちょっとした坂を登りながら、いよいよ善峯寺寺域の一番高いところにある青蓮院宮御廟に向かいます。

手入れが行き届いた林ですが、幹肌が光るように赤い樹が目立ちます。霊木とされる高野槙の若木は幹肌が赤く見えるのだそうです。

赤い高野槙
赤い幹は高野槙の若木

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青蓮院宮御廟

御廟の石柱
御廟入口の石柱

石柱の裏
石柱の裏側

青蓮院宮御廟への入口を示す大きな石柱を見て、白壁の塀と苔むした石垣に挟まれ、いかにも古都の秋らしい坂道をしばらく登ると、やがて深山の趣がある山頂にある善峯寺歴代の法親王の廟所に着きます。

前に立つ宮内庁の看板は御陵と同じ形式になっていて「青蓮院宮墓地」と記されていました。

青蓮院宮御廟
青蓮院宮墓地

宮内庁の看板
今は省が庁になった宮内庁の看板

青蓮院宮御廟正面
青蓮院宮御廟正面

覚快道覚の両法親王墓は五輪塔で、慈道尊圓尊道の三法親王墓は宝塔をもって標しとされています。

法親王墓石
左側半分に道覚覚快両法親王の墓石

法親王墓石
右側半分に尊圓慈道尊道法親王の墓石

一段高く盛った上に石の玉垣で囲んだ御廟域の外の右側にも、その後代の法親王方と三世慈鎮和尚の墓が並んで祀られています。

右から4法親王と慈鎮の墓
右端から望む

左から4法親王と3世慈鎮の墓
御廟寄りから望む

御廟域に一番近い方から尊眞法親王、尊寳法親王、尊證法親王、尊祐法親王と標石に記されています。更に並んで善峯寺三祖・慈鎮和尚の墓がありました。

尊眞法親王
尊眞法親王

尊寳法親王
尊寳法親王

尊證法親王
尊證法親王

尊祐法親王
尊祐法親王

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證空上人墓

慈鎮和尚墓
歴代法親王墓に並ぶ「善峯寺第三世慈鎮和尚之墓」

慈鎮和尚
慈鎮和尚の墓

青蓮院宮御廟の右側には4代の法親王墓が並んでいますが、更にその右には法親王墓と同列に「善峯寺第三世慈鎮和尚之墓」と彫られた標石を立てて、慈圓大僧正慈鎮の高い宝塔墓が立っています。

青蓮院宮御廟の左側には、善峯寺の二祖観性法橋と四祖證空善惠上人の五輪塔が並んで祀られています。そして更に「宇都宮蓮生房之墓」と標石を立てた五輪塔がありました。

2法親王と蓮生房の墓石
左から観性證空両法親王と蓮生房の五輪塔

観性上人は開基源算上人から法灯を授かり、のちに三祖慈鎮和尚に継いでおります。

また、法然の高弟である證空上人は善峰寺北尾往生院(現在の三鈷寺)に入り、71歳で入滅したと伝わります。

さて、歴代の和尚と並んだ墓に眠る「宇都宮蓮生房」とはいかなる人物で、当山とどんな関わりがあるのでしょうか。

蓮生房の墓
蓮生房の墓

宇都宮蓮生房

宇都宮弥三郎頼綱、入道蓮生房。治承二年(1178)?〜正元元年(1259)。享年88?。

藤原北家道兼流 宇都宮氏五代頼綱は下野宇都宮を本貫とし、鎌倉幕府に仕える御家人であったが、頼朝の没後北条氏の政権抗争に巻き込まれ、元久二年(1205)には謀反の嫌疑をかけられた。頼綱は鎌倉政庁に書状を送り謀反の意が無いことを陳述する一方、下野国において出家するに至った。

出家した頼綱は京嵯峨野の小倉山麓に庵を設けて隠遁し、実信房蓮生(じっしんぼうれんじょう)と号した。

この機縁で蓮生房は証空上人に帰依し、のちに北尾往生院(三鈷寺)の再建に力を尽くした。

こうして許された蓮生房は建保二年(1214)には鎌倉政庁の命で園城寺山王社や拝殿の修復に努めた。浄土宗に帰依した頃から西方寺(京常磐)、清巌寺(宇都宮)、西方寺(桐生)を開いた。

正元元年(1259)、京にて死去。その遺言により西山善峯寺の證空の墓の側に葬られた。享年88。

宇都宮氏は代々和歌に秀でていたが、頼綱は歌人としても優れており、京では同族(藤原北家流)である藤原定家と親交を深めていた。晩年住坊とした京嵯峨野の小倉山荘には、定家に選定を依頼した和歌98首をその襖絵として飾ったが、これが小倉百人一首の起源となった。因に頼綱は娘を定家の長男為家に嫁がせ姻戚関係を結んでいる。

本庄一族の墓地と その両側には一般信徒の墓
本庄一族の墓地

御廟や上人の墓域の手前、一段低いところには、石垣の上に石塀を廻らせて、立派な墓石が整然と並んでいました。

常陸国笠間藩主本庄宗資一族の墓地でした。

石垣や石塀も新しいし、大名家の墓地がこのような狭い区域に並んでいたとは考えられないので、これは近年になって改葬したものと思われます。

また、本庄家墓地の左右には、隣接して一般信徒の墓と思われる新しい墓石がずらりと並んでいました。

本庄一族の墓
本庄一族の墓

本庄宗資(ほんじょうむねすけ)

寛永六年(1629)〜元禄十二年(1699)。享年71。

摂関家の一つ二条家家臣の本庄宗正の次男。

江戸時代前期の譜代大名。下野国足利藩主、のち常陸国笠間藩初代藩主、5万石。本庄松平家初代。

官位は従四位下侍従、因幡守。

浅草の安養寺に葬られた。

桂昌院は異父姉であるが、桂昌院の庇護を受けて大名に立身した。

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青蓮(しょうれん)の滝

青蓮の滝
青蓮の滝

善峯寺の一番高いところにある墓域から、足音も憚るような静まり返った坂を下って来ると、左側に小さな池がありました。はじめ蓮華寿院の池の一部かと思いましたが、全く別の池でした。

青蓮の池
青蓮の池

池の中央部の高いところに石樋が掛かっていて先端から水が落ちています。この石樋は青蓮院門跡より拝受したといわれますが、滝の水源も作庭者も分かりません。

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十三重の塔

13重の塔
十三重の塔

青蓮の滝からちょっと歩を進めると、昇り斜面に北門脇と同じような十三重の石塔がまたありました。

何も説明はありませんでしたが、こちらは可愛い灯籠に四隅を守られて、堂々とした貫禄です。

十三重の塔を過ぎると、瓦葺きの土塀に導かれてゆるい下り坂が続きます。

十三重の塔付近の紅葉
十三重塔付近の紅葉

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阿弥陀堂

紅葉を愛でながら木立の間の緩い坂を下りて来ると、阿弥陀堂がありました。古い墓地の霊界のような雰囲気に較べると、この辺まで来ればまるで俗界に下りたような感じがします。

阿弥陀堂正面
阿弥陀堂正面

右の柱には「寛文十三年(一六七三) 阿弥陀堂 常行三昧堂 徳川家並びに信者位牌をまつる」と記した札が掛かっています。

阿弥陀堂
阿弥陀堂

阿弥陀如来像
阿弥陀如来像

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書院

阿弥陀堂の左側は書院になります。

瑞松庵
瑞松庵

瑞松庵玄関
瑞松庵玄関

書院では「善峯寺に集う作家たち展」が開かれています。

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本坊

書院の左側には本坊が見えます。がっしりとした造りの門内には大きな屋根が連なっています。

本坊前
本坊前

本坊
本坊入口

本坊には池を中心に見事な庭園があります。この庭は近代造園の先駆者といわれ、日本各地の寺社・貴顯・財閥の庭を数多く手掛けた大正時代の名庭師・小川治兵衛(万延元年(1860)〜昭和八年(1933))が造ったものです。

阪神大震災で石組みが被害を受けましたが平成十四年に改修され、新たに水琴窟も造りました。

玄関前に庭
玄関前に庭

鯉の池
鯉の池(赤い花はシュウカイドウ)

游鯉龍門圖
片岡鶴太郎の「游鯉龍門圖」のふすま

近年、片岡鶴太郎が庭の池に泳ぐ緋鯉を写して「游鯉龍門圖」と称する絵を描き、平成十七年(2005)十月に、長野の建具師が襖に仕上げて納めました。本坊の百畳の座敷に、襖25面、長さ26mに250匹の鯉を描いた大作です。

マスコミにもてはやされて賑々しく展示するこの襖絵に対して、書院で十数年にわたり「善峯寺に集う作家たち展」を開催して来た日展作家や伝統工芸師たちは、浮き世の不条理を如実に感じています。

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東門

東門
東門

表参道
表参道

バスからの参道
バスからの参道

あの豪壮な山門から少し下ると東門があります。

私たちは山門脇の一般車駐車場から入ったのでこの門を通らなかったのですが、観光バスから降りて来た人たちは、表参道のちょっとした坂を登って最初の門がこの東門になります。

今日の私たちの紅葉狩りはここで終わりました。

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以上「観光:善峯寺の紅葉」終わり

以下「温故」開基源算上人伝・善峯寺の歴史・桂昌院伝


開基源算上人伝


脇の本尊

当山は平安中期、源算(げんさん)上人によって創建されました。

源算上人は因幡国(鳥取)の人で、母の胎内にいる頃、母を苦しめた縁起の悪い子であるということで、山中に捨てられました。しかし、鳥獣も源算上人を害することなく、3日間乳をのまなくても死ななかったといわれます。その後、村人に拾われ、養育されました。

長じて正暦二年(991)9歳の時に、比叡山横川 首楞厳院(しゅりょうごんいん)恵心僧都 源信(えしんそうず げんしん)のところに徒弟に入り、13歳の長徳元年(995)に剃髪受戒しました。

母の死を聞いて、長元二年(1029)、源算上人47歳のとき、十一面千手観音像(174.5cm)を刻み、浄土を比叡山の西に求めて、当地に法華院と号する小堂に祀ったのが当山の縁起です。


阿智阪明神社(善峯寺鎮守社)

その際、源算上人が険しい山を切り開く方法に悩んでいると、この山の主、阿知坂神が木こりとなって現れ、また、数万の猪や鹿が来て岩窟を砕き、一夜にして地面を均して平地にして助けたということです。(善峯寺の麓には阿智坂明神社が祀られています。)

源算上人はその後、承保元年(1074)、善峯寺山内の北尾と呼ばれる尾根に隠居所として草庵を建て、往生院(北尾往生院 後の三鈷寺)と号していました。

こうして源算上人は当山に74年間住み、承徳三年(1099)三月に定印を結んで117歳で寂したと伝わります。さらにその遺体は腐敗することがなかったので、人々はますます崇拝しました。

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善峯寺の歴史

京都西山・釈迦岳の東北中腹に建つ善峯寺は、千年近く昔、平安時代末期の創建です。山号を西山(せいざん)という天台宗系の単立寺院(善峰観音宗)で、西山宮門跡とも称しています。

ここで、この地の歴史的背景を見ておきましょう。

現在、この京都市の西部、小塩山(おしおやま 642m)や釈迦岳(631m)などの山々が南北に連なって西山と呼ばれる山麓一帯には古刹、名刹が点在しています。このあたりは乙訓(おとくに)の里と言い、現在は京都市西京区になっていますが、古くは乙訓郡石作郷と呼ばれ、大野原とも言いました。

大野原を含め乙訓の里は古墳が多いことでも知られています。大野原が石作郷と呼ばれたのは、石工を本業とした石作氏の本拠地で、古墳の石棺や石室造りとも深い関係があったと見られます。

多くの古墳の存在が示すようにこのあたりは古くから開け、豪族たちの居住地でもありました。渡来人の秦氏の一族もこのあたりに居を構えていたと言われ、秦氏の子孫で畑や幡の姓を名乗る人が多いようです。

大野原の地名が示すようにこの原野は狩猟の適地で、平安時代には天皇や貴族たちの狩り場となり、長岡京、平安京へ遷都した桓武天皇注1)もこの地で狩をしています。

平城注2)嵯峨注3)両天皇の生母の乙牟漏(おとむら)皇后は藤原氏の出身で、長岡京遷都の後、平城京時代のように藤原氏の氏神の春日社へ気軽に参詣できないことから、この地に春日明神を勧進し、これが大原野神社の起こりとなりました。大原野に古社や古刹が多く建立されたのは、皇室との深い関わりを持つ土地であったことにもよるのです。

さて本題に戻って、当山の本尊は十一面千手観世音菩薩で、寺院の創建は平安時代末期の長元二年(1029)、源算上人源算上人伝参照の開山と伝わります。

その後、観音信仰の高まりによって観音霊場として栄え、長元七年(1034)九月、後一条天皇注4)より、鎮護国家の勅願所と定められ「良峯寺」の寺号と詠歌(野をもすぎ 山ぢに向ふあめのそら よし峰よりも晴るる夕立)を賜りました。

以来、歴代天皇の崇敬篤く、長久三年(1042)に後朱雀天皇注5)が、夢のお告げにより洛東東山の鷲尾寺注6)に祀られていた安居院 仁弘法師注7)作という本尊注8)十一面千手観音菩薩像(178.8cm)をこの地に移して当寺の本尊として千手堂を建立して祀り、先の十一面千手観音菩薩像(174.5cm)を脇立としたと伝えられます。

さらに、天喜元年(1053)後冷泉天皇注9)の時代には、皇太弟・尊仁親王注10)の后、藤原茂子が懐妊して難産だったため、当寺で祈願したところ、皇太子(貞仁親王、後の白河天皇)が無事に誕生しました。この報恩に報いるために、白河天皇注11)は、本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、仁王門、鎮守七社の諸堂を寄進されました。

さらに、治暦四年(1068)(後三条天皇即位の年)の大旱魃の際には、源算上人の祈祷と本尊千手観音の霊験によって無事に雨が降ったことから、朝廷より「良峰」の勅額が授けられたとのことです。

その後、承保元年(1074)(白河天皇治世)、源算上人は、善峯寺山内の北尾と呼ばれる尾根に隠居所として草庵を建て、往生院(北尾往生院 後の三鈷寺)と号し、この地で117歳の長寿をまっとうしたと伝えられます。

また、二祖・観性上人注12)が、安元二年(1176)、境内の中尾と呼ばれる尾根の蓮華寿院蓮華寿院について若干の考察 参照の側に法華堂を建てています。

その後、天台座主を四度務め、史書「愚管抄」の著者、歌人としても知られる三祖・慈圓和尚注13)が、観性上人の招きで当山の中尾蓮華寿院に住持しました。

さらに、鳥羽天皇注14)皇子・青蓮院注15)門跡 覚快法親王注16)も晩年、良峯寺の住職となっています。

この頃(平安時代後期)の良峯寺の境内は、南尾、中尾、北尾という三つ山の尾根に分かれ、現在の善峯寺の本堂(観音堂)付近に南尾法華院、現在の奥の院薬師堂のある中尾に蓮華寿院、北尾に往生院があったということです。

観性上人や慈圓和尚は鎌倉幕府や朝廷との繋がりを強め、良峯寺の境内を整備しました。「吾妻鏡」によると、文治五年(1185)、源頼朝が鶴岡八幡宮に大塔を建立した際には、観性上人は、天台座主の全玄僧正注17)の代理の供養の導師として、六月三日から十八日まで鎌倉に滞在し、頼朝から大いに歓待されました。頼朝は、観性上人と終日談話して上人を深く崇敬するようになり、のちに上人の希望に応えて、二十八部衆金剛力士等を、南都(奈良)佛師の運慶に作らせて良峯寺に寄進しています。

また、慈圓和尚も頼朝と親交があり、幕府と朝廷の良好な関係に努め、頼朝より越前国藤島庄を寺領として授けられています。

さらに、慈圓和尚は建久三年(1192)に天台座主に就任し、後鳥羽上皇注18)より寺領とともに「良峯寺」を「善峯寺」と改めた宸筆の勅額を下賜され、官寺に列せられました。

また、法然上人門下で、浄土宗西山派開祖、四祖・西山上人證空注19)も当寺の蓮華寿院に入っています。

承久三年(1221)後鳥羽上皇による承久の変の後、道覚法親王注20)が難を逃れて密かに證空上人を訪ねて善峯寺に籠居しました。そこで、證空上人は、蓮華寿院を道覚法親王に譲って、自身は北尾往生院に退いて荒廃していた往生院を復興し、浄土宗西山派の祖となります。寛元元年(1243)、道覚法親王は、後鳥羽上皇が建立したという水無瀬の御堂・蓮華寿院を、善峯寺境内に移して、その側に青龍院という一寺を建立して境内を整備しました。

こうして、善峯寺蓮華寿院は、鎌倉時代初期の道覚法親王以降、室町時代にかけて、青蓮院宮注21)慈道法親王注22)大乗院宮尊圓法親王注23)青蓮院宮尊道法親王注24)といった青蓮院関係の法親王の晩年の隠居所となり、西山宮門跡、西山宮、御所屋敷等と呼ばれました。さらに、江戸時代以降も青蓮院宮の尊證法親王注25)尊祐法親王注26)尊眞法親王注27)尊寶法親王注28)が入寺されました。

室町時代の後花園天皇注29)が堂塔を改築し、応永二十五年(1418)十月に四代将軍足利義持から、永享四年(1432)十二月に六代将軍足利義教から、同国に散在する敷地や田畠、山林等の寺領を安堵されるなど、朝廷や幕府の庇護を受けた善峯寺は、僧坊五十二を数えるほど栄えましたが、その後、応仁の乱(1467〜77)注30)以降の戦乱で荒廃し、天文二十一年(1552)十〜十一月には、細川晴元注31)三好長慶注32)の抗争により西岡近辺が放火され、善峯寺や三鈷寺が炎上焦土となっています。

荒廃した善峯寺は、江戸時代には、寛正四年(1792)六月、幕府から山城国内散在の寺領を安堵されるなど徐々に復興し、特に、現在の諸堂の多くは、五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院桂昌院伝 参照 の援助によって建てられたものと伝わります。桂昌院は、幼少時に親に連れられて善峯寺等洛西一帯の寺院に度々参詣していたとも伝えられ、善峯寺の復興のために多額の寄進をいって境内を整備しました。

また、元禄十年(1697)十二月には、幕府は善峯寺と西岩倉の金蔵寺の2寺に対して寺田若干が加賜され、共に寺禄2百石の御朱印地を賜わっています。こうして善峯寺は、2百石及び山林42万5千坪を寺領とし明治時代に至りました。

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桂昌院伝

寛永四年(1627)〜宝永二年(1705)。従一位。享年79。墓所は東京都港区の増上寺。

【このコラムは、善峯寺のホームページ内の「桂昌院ってどんな人?」に準拠しています。】

出生

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桂昌院像 長谷寺蔵

---京都は堀川西藪屋町のあたりに、仁右衛門と云う八百屋がいたそうな。嫁とりをして何年にもなるのに、いっこう子宝に恵まれない。貧しい商家であっても老い先を考えるとさびしいものだ・・・。

思い余った仁右衛門夫婦は日頃信仰している、西山・善峯寺の観音様にお参りしたそうな。「どうぞ子供をお授け下さいませ。」と参篭、水ごもりもしたおかげか、願いが叶い、やがて寛永四年(1627)生まれたのが玉のような女の子。名を、これまた「たま」と名づけ、大事に育てたそうな。

お玉は近所でも評判の器量よし。目元はすずやか、鼻筋も通り、まるで京人形のような女の子。仁右衛門は目の中に入れても痛くないほどのかわいがりようだったそうな。---

生立ち

仁右衛門が若くして亡くなると、信仰深いお玉の母は、善峯寺の観音様のご縁により、お玉と共に善峯寺に住み込み、ご奉仕の日々を送ります。

約2年半を寺内で暮らすうちに、お玉の母は亡夫仁右衛門と交流があった二条関白家の家司である本庄太郎兵衛宗正のもとへ、お玉を連れて奉公に出ます。

美しい母は、そのうち宗正の後妻となり、本庄宗正がお玉の義理の父となりました。

大奥へ

成長したお玉は、本庄家を通じて二条関白家との縁から三代将軍家光の側妾、お万の方の侍女となり江戸へ下って名も秋野と変わり、大奥で働くようになりました。

十八歳になったお玉は、家光の寵愛を受けて側室に加えられ「お玉の方」と呼ばれるようになりました。

二十歳になると「徳松」(後の五代将軍綱吉)を安産するのです。

落飾

家光の没後は、当時の習慣どおり、黒髪を落として出家し、桂昌院と名を改め、日陰の身となりますが、その子「徳松」は、上野国その他で所領十五万石を与えられ,寛文元年(1661)十万石加増、館林城主となり「綱吉」と名乗ります。

ところが、四代将軍家綱(綱吉の実兄)には子供がなかったため、その没後、綱吉が五代将軍となり、桂昌院は将軍の御母堂として江戸城へ迎えられます。

桂昌院は、亡くなるまで、儒教の教えを重んじる息子の綱吉にも大切にされ、そのお陰で有力な家臣たちからも一目おかれて、八百屋の娘が江戸大奥で権力を欲しいままにしたのです。

「観音様のおかげでこれまでにして頂いた。」信仰深い桂昌院は、善峯寺に何度も詣で、応仁の乱で焼失した寺を立派に再興しました。山内の多くの堂塔は桂昌院の寄進によるものです。

桂昌院は宝永二年(1705)六月二十二日 79歳で逝去し、芝増上寺に葬られましたが、善峯寺ではその恩に報いるため、遺髪を境内に納め、桂昌院廟としておまつりし、毎年六月二十二日には遠忌法要を営んでいます。

桂昌院の数多くの一級品持物は寺宝館文珠堂にて大切に保管され、春と秋には特別公開しています。

    万世を 十かかり経ても 尽せじと 君が恵みの 南無観世音

    たらちをの 願いをこめし寺なれば われも忘れじ 南無薬師佛

の2首は桂昌院が善峯寺の観音様と薬師さんに献じた歌と伝えられ、後者は奥の院薬師堂の前に建つ石碑に自筆で刻まれています。

    

薬師如来への献歌の石碑
sekihi

   

kenka
石碑に刻まれた自筆の献歌

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以下「附」注釈・善峰だより-平成22年-春


注1)桓武天皇:第50代 即位781、806崩御。父は光仁天皇。皇后藤原乙牟漏との間に安殿親王(平城天皇)と神野親王(嵯峨天皇)を儲けた。また、夫人藤原旅子との間には大伴親王(淳和天皇)も生まれた。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注2)平城(へいぜい)天皇: 第51代 即位806、退位809、824崩御。病気のため在位僅か3年で神野親王(嵯峨天皇)に譲位して太上天皇となり、同年十二月、旧都である平城京に移り住んだ。皇太子時代から妃の母である藤原薬子を寵愛し「薬子の乱」の因をなした。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注3)嵯峨天皇:第52代 即位809、退位823、842崩御。漢詩や書をよくし、三筆の一人に数えられる。華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている。

当時は平城・嵯峨両上皇を始め皇子皇女が多数おり、その生活費も財政圧迫の原因となったため皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた。(光源氏モデルとされる源融など、嵯峨源氏の成立)<「善峯寺の歴史」に戻る>

注4)後一条天皇:第68代 在位1016〜36。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注5)後朱雀天皇:第69代 即位1036、1045崩御。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注6)鷲尾寺:本文記載以上の所在・縁起等は不明。現在、圓山公園の南側に東山区鷲尾町があり、鷲尾寺はこの付近にあったのかと思われる。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注7)仁弘法師:安居院 仁弘法師。出自等は不明だが、次項 注8の「十一面千手観世音菩薩像 伝説」参照。

安居院と澄憲・聖覚父子

安居院(あぐい)は比叡山延暦寺東塔竹林院の里坊(さとぼう)。創建年月日は不詳。始祖は澄憲僧正。現在の京都市上京区大宮通上立売北にあったというが、平安時代から「あぐい」は地名として使われ、今も安居院のあった寺之内辺りの総称として残っている。澄憲の嫡子聖覚法印が使った「法印井戸」が大宮通り芦山寺下る前之町の民家にあるという。

因に、澄憲は類まれな雄弁と呪力で有名な天台の僧で、建久三年(1192)後白河法皇の崩御に際し導師を勤めたとの記録があリ、平安時代末期からここを根拠地として澄憲・聖覚父子が説教を行い,安居院流という唱導の代表的な一流をなした。聖覚は藤原通憲の孫に当たり、のちに法然上人に帰依し、法然教義の正統的理解者として、当時の浄土教界に多大な思想的影響を与えた。親鸞や熊谷直実(後の蓮生坊)を法然上人に引き合わたのも聖覚という。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注8)十一面千手観世音菩薩像:

十一面千手観世音菩薩像 伝説

ネットで『現在の本尊の十一面千手観世音菩薩像には伝説がある。京の賀茂社が田んぼの中にあったころ、田に植えた苗が一夜してケヤキの木になり夜ごと光明を放った。行願寺(京都市中京区寺町通竹屋町上ル)・別名革堂(こうどう)の行圓上人が、寺の本尊・十一面千手観世音菩薩像をこの木で彫り、その余材で佛師が十一面千手観世音菩薩像を刻み、洛東の鷲尾寺に安置した。長久三年、後朱雀天皇が夢のお告げによって鷲尾寺の像を善峯寺に移して本尊とし、源算上人が彫った十一面千手観世音菩薩像は脇侍としたとの伝えがある。』との記事を見付けた。

この記述に依れば、仁弘法師とは、安居院に住んでいて、鷲尾寺の十一面千手観世音菩薩像を刻んだ佛師と云うことになる。なお、平安時代以降、佛師の多くは僧呂やそれに準じる身分を得ていた。

行圓上人:もと猟師。山中で射止めた雌シカの腹から子ジカが生まれたのを見て、殺生を悔い佛門に入った上人は、諸国の霊山を修業して京都に来往し、平安中期の寛弘元年(1004)、一条小川(上京区)あたりで一宇を設け千手観音菩薩を安置した(行願寺の起源)。一条小川にあったことから「一条北辺堂」と呼ばれていたという。行圓は布教のとき寒さ暑さを問わず常にシカ革の衣を着ていたことから、人々が革聖(かわのひじり)とか皮上人と呼んだことから一条北辺堂(現在は中京区)を革堂と呼んだのが通称革堂の由来。夏冬となく皮を着ていたことについては、殺された鹿に無常を感じて肌身離さなかったという説がある。<「善峯寺の歴史」に戻る><「観音堂 (本堂)」に戻る><前注「仁弘法師」に戻る>

注9)後冷泉天皇:第70代 即位1045、1068崩御。父後朱雀天皇。母藤原道長女藤原嬉子。諱は親仁(ちかひと)。紫式部の娘大弐三位が乳母である。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注10)尊仁親王:先代・後冷泉天皇の弟、後の後三条天皇。第71代 即位1068、退位1072。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注11)白河天皇:後三条天皇の皇太子・貞仁親王。第72代 即位1072、1129崩御。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注12)観性上人:

観性上人伝

観性(かんせい)上人(観性法橋 かんせい・かんしょうほうきょう)は葉室(はむろ)中納言顕隆の孫、顕能の子。天台座主をつとめた権僧正顕眞の弟という名門の出で、中納言、観性法橋(ほうきょう)と呼ばれていた。安元二年(1176)、境内の中尾と呼ばれる尾根の蓮華寿院の側に法華堂を建てて住持した。文治五年(1189)六月三日、延暦寺筆頭天台座主全玄僧正の代理として、鶴岡八幡宮寺の五重塔完成供養の導師を勤めるため鎌倉に下った。六月三日から十八日まで鎌倉に滞在し、頼朝から大いに歓待された。頼朝は、観性上人と終日談話して上人を深く崇敬するようになり、のちに上人の希望に応えて、二十八部衆(千手観音の眷属)、金剛力士等を、南都(奈良)佛師の運慶に作らせて善峯寺に寄進している。<「善峯寺の歴史」に戻る><「證空上人墓」に戻る>

注13)慈圓(大僧正、諡号は慈鎮和尚):

慈圓大僧正 慈鎮伝

久寿二年(1155)〜嘉禄元年(1225)、享年70。摂政関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女・加賀局(忠通家女房)。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房・兼実・兼房らの弟。良経・後鳥羽院后任子らの叔父にあたる。

幼いときに青蓮院に入山し、仁安二年(1167)天台座主明雲について受戒。建久二年(1192)38歳で天台座主になる。その後慈圓の天台座主就任は4度に及んだ。『小倉百人一首』では「前大僧正慈圓」と称される歌人。因に、親鸞は治承五年(1181)9歳の時に慈圓(当時27歳)について得度を受けている。

2歳で母を、10歳で父を失う。永万元年(1165)、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門し、道快を名乗る。

仁安二年(1167)、天台座主明雲を戒師として得度する。嘉応二年(1170)、一身阿闍梨に補せられ、兄兼実の推挙により法眼に叙せられる。以後、天台僧としての修行に専心し、安元二年(1176)には比叡山の無動寺で千日入堂を果す。

摂関家の子息として法界での立身は約束された身であったが、当時紛争闘乱の場と化していた延暦寺に反発したためか、治承四年(1180)、隠遁籠居の望みを兄の兼実に述べ、結局兼実に説得されて思いとどまった。

養和元年(1181)十一月、師覚快の入滅に遭う。この頃慈圓と名を改めたという。寿永元年(1182)、全玄僧正(注16を参照)より伝法灌頂をうける。

文治二年(1186)、平氏が滅亡し、源頼朝の支持のもと、兄兼実が摂政に就く。以後慈圓は平等院執印・法成寺執印など、大寺の管理を委ねられた。同五年には、後白河院御悩により初めて宮中に召され、修法をおこなう。

この頃から歌壇での活躍も目立ちはじめ、良経を後援して九条家歌壇の中心的歌人として多くの歌会・歌合に参加した。文治四年(1188)には西行勧進の「二見浦百首」に出詠。

建久元年(1190)、姪の任子が後鳥羽天皇に入内。同三年(1192)、天台座主に就任し、同時に権僧正に叙せられ、ついで護持僧・法務に補せられる。同年、無動寺に大乗院を建立し、ここに勧学講を開く。同六年、上洛した源頼朝と会見、意気投合し、盛んに和歌の贈答をした(拾玉集にこの折の頼朝詠が残る)。しかし同七年(1196)十一月、兼実の失脚により座主などの職位を辞して籠居した。

建久九年(1198)正月、譲位した後鳥羽天皇は院政を始め、建仁元年(1201)二月、慈圓は再び座主に補せられた。

この前後から、院主催の歌会や歌合に頻繁に出席するようになる。同年六月、千五百番歌合に出詠。七月には後鳥羽院の和歌所寄人となる。

同二年(1202)七月、座主を辞し、同三年(1203)三月、大僧正に任ぜられたが、同年六月にはこの職も辞した。以後、「前大僧正」の称で呼ばれることになる。

九条家に代わって政界を制覇した源通親は建仁二年(1202)に急死し、兼実の子良経が摂政となったが、4年後の建永元年(1206)、良経は頓死し、翌承元元年(1207)には兄兼実が死去した。以後、慈圓は兼実・良経の子弟の後見役として、九条家を背負って立つことにもなる。

この間、元久元年(1204)十二月に自坊白川坊に大懺法院(だいさんぽういん)を建立し、翌年、これを祇園東方の吉水坊に移す。建永元年(1206)には吉水坊に熾盛光堂(しじょうこうどう)を造営し、大熾盛光法を修す。また建仁二年の座主辞退の後、勧学講を青蓮院に移して再興するなど、天下泰平の祈祷をおこなうと共に、佛法興隆に努めた。

建暦二年(1212)正月、後鳥羽院の懇請により三たび座主職に就く。翌三年には一旦この職を辞したが、同年十一月には四度目の座主に復帰。翌二年六月まで在任した。

建保七年(1219)正月、鎌倉で将軍実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が次期将軍として鎌倉に下向。しかし後鳥羽院は倒幕計画を進め、公武の融和と九条家を中心とした摂政制を政治的理想とした慈圓との間に疎隔を生じた。院はついに承久三年(1221)五月、北条義時追討の宣旨を発し、挙兵。しかし攻め上った幕府軍に敗れて、隠岐に配流された。(承久の変)

慈圓はこれ以前から病のため籠居していたが、貞応元年(1222)、青蓮院に熾盛光堂・大懺法院を再興し、将軍頼経のための祈祷をするなどした。その一方、四天王寺で後鳥羽院の帰洛を念願してもいる。嘉禄元年(1225)九月二十五日、近江国小島坊にて入寂。七十一歳。無動寺に葬られた。嘉禎三年(1237)、慈鎮和尚の諡号を賜わる。

著書には歴史書『愚管抄』(承久二年頃の成立という)ほかがある。家集『拾玉集』(尊圓親王ら編)、佚名の『無名和歌集』がある。千載集初出。勅撰入集二百六十九首。新古今集には九十二首を採られ、西行に次ぐ第二位の入集数。<「善峯寺の歴史」に戻る><「青蓮院宮御廟」に戻る><「證空上人墓」に戻る>

注14)鳥羽天皇:第74代 在位1107〜23。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注15)青蓮院門跡・青蓮院:

青蓮院 京都市東山区粟田口三条坊町69-1

青蓮院(しょうれんいん)は粟田口にあり、粟田御所・粟田宮とも呼ばれ、「青蓮院旧仮御所」として国の史跡にも指定されている。山号はなし。開基は伝教大師最澄。起源は比叡山の東塔南谷にあった青蓮房。

本尊・熾盛光曼荼羅(しじょうこうまんだら)(画像)。藤原期作の国宝・青不動明王画像を蔵す。庭園は室町期の相阿弥作で、江戸期に小堀遠州が「霧島の庭」を追加した。

青蓮房第12代 行玄大僧正(第48世天台座主:1138〜1156寂まで在位)は鳥羽上皇(1103〜1156)に授戒した。行玄大僧正に深く帰依した上皇はその第七皇子(注17「覚快法親王」参照) をその弟子とし、院の御所に準じて京都粟田口に殿舎を造営して青蓮院と称したのが起源である。

青蓮院に住持した第3代門主 慈圓(注14「慈圓大僧正」参照) は勧学講を開くなどしたので、青蓮院が佛法興隆の一拠点となり、大いに栄えた。

慈圓寂後20年して第6代門主となった道覚法親王(注21「道覚法親王」参照) が天台座主となって以来、妙法院、三千院とともに天台宗の三門跡寺院とされ、明治まで続いた。

天明の大火(天明八年・1788)で皇居炎上の際、後桜町上皇の仮御所となリ、庭内の好文亭はその際に学問所として使用されたものである。

しかし、明治二十六年(1893)の火災で大部分の建物が失われたが、のちに再建された。また1993年4月25日には過激派(中核派)の放火により好文亭が焼失したが1995年に再建された。<「善峯寺の歴史」に戻る><「青蓮院宮御廟」に戻る>

注16)覚快法親王(かくかいほっしんのう):長承三年(1134)〜養和元年(1181)。平安時代後期の天台宗の僧。鳥羽天皇の第七皇子。13歳の時比叡山に上り、行玄大僧正に師事して出家、顕教・密教を兼学した。久安六年(1150)に権律師となり、翌久安七年(1151)行玄から伝法灌頂をうけ、法印に任じられた。永暦元年(1160)宮中において日蝕の祈祷を行い効験があったという。嘉応二年(1170)無品親王となり、治承元年(1177)延暦寺座主明雲が流罪となった跡を受けて第56世天台座主に就任したが、病身のため治承四年(1180)に職を辞し、青蓮院に隠退した。<「善峯寺の歴史」に戻る><「青蓮院宮御廟」 に戻る>

注17)全玄僧正:法務大僧正。第59世天台座主。寿永三年(1184)任。 少納言藤原実明子。季仲卿孫。雙林寺、無動寺検校。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注18)後鳥羽上皇:第82代天皇。践祚1183、退位1198、院政1198〜1221、1230崩御。承久の変に破れ、配流された。<「善峯寺の歴史」に戻る><「山門」に戻る>

注19)證空(しょうくう)上人:善惠房・善惠国師。治承元年(1177)〜宝治元年(1247)。法然の高弟、法然の『選択本願念佛集』の撰述にあたっては、引用文との照らし合わせをする勘文という重要な役にあたった。法然没後、西山善峰寺北尾往生院(三鈷寺)に移り住み、71歳で入滅。<「善峯寺の歴史」に戻る><「證空上人墓」に戻る>

注20)道覚(どうかく)法親王:元久元年(1204)〜建長二年(1250)。鎌倉時代前期から中期にかけての天台宗の僧。父は第82代後鳥羽天皇。承元二年(1208)親王宣下を受けて朝仁と称した。建保四年(1216)出家して慈圓・慈賢・眞性などに天台教学を学んだ。宝治元年(1247)に第80世天台座主となり、翌宝治二年(1248)青蓮院門跡を継いでいる。 <「善峯寺の歴史」に戻る><「青蓮院宮御廟」に戻る>

注21)青蓮院宮:青蓮院の門主となった法親王の宮号。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注22)青龍院宮慈道(じどう)法親王:弘安五年(1282)〜暦応四年(1341)。第90代亀山天皇第十一皇子。永仁三年(1295)青蓮院に入り、同年親王宣下。正安四年(1302)一身阿闍梨。正和三年(1314)青蓮院門主となり、同年第105世天台座主に就任。以後、天台座主を第111、115世と三度歴任。文保二年(1318)第96代後醍醐天皇の護持僧を務める。元応二年(1320)叙二品。暦応四年(1341)入滅。60歳。法号は青龍院宮。<「善峯寺の歴史」に戻る><「青蓮院宮御廟」に戻る>

注23)大乗院宮また青蓮院宮尊圓(そんえん)法親王:永仁六年(1298)〜正平十一年(1356)。第92代伏見天皇第五皇子。延慶元年(1308)青蓮院に入り、慈道法親王に入門。延慶三年(1310)親王宣下。翌応長元年(1311)剃髪して尊彦より尊圓と改名。元徳三年(1331)第93代後伏見院の命により幕府軍の戦勝を祈願する。同年第126世天台座主。以後、天台座主を第131、133世と三度歴任。第17世青蓮院門跡。世尊寺行房・行尹に書を学び、のち一世の名筆とうたわれ、御家流の祖と仰がれる。正平十一年/延文元年(1356)入滅。59歳。<「善峯寺の歴史」に戻る><「青蓮院宮御廟」に戻る>

注24)尊道(そんどう)法親王:初名は尊省。第93代後伏見天皇第十一皇子。一身阿闍梨。第134、138、145世天台座主。法号は後青龍院。青蓮院門跡。応永十年(1403)入滅。72才。<「善峯寺の歴史」に戻る><「青蓮院宮御廟」に戻る>

注25)尊證(そんしょう 尊証)法親王:慶安三年(1651)〜元禄六年(1694)。江戸初期の親王。第108代後水尾天皇第十五皇子。青蓮院門跡。第182、185世天台座主。書を能くして一家をなし、尊証流と称された。元禄七年(1694)入滅。44才。<「善峯寺の歴史」に戻る><「青蓮院宮御廟」に戻る>

注26)尊祐(そんゆう)法親王:元禄八年(1696)〜延享四年(1747)。伏見宮邦永親王第二王子。第112代霊元天皇外孫。親王宣下を受け得度。第195、198、201、204世天台座主。青蓮院門跡。一品に叙せられた。書を能くした。延享四年(1747)入滅。51才。<「善峯寺の歴史」に戻る><「青蓮院宮御廟」に戻る>

注27)尊眞(そんしん)法親王:伏見宮貞建親王第五王子。第117代後桜町天皇皇子(養子)。第210、212、215、217世天台座主。一乗院尊昭法親王の附弟となるが、青蓮院に入り得度、尊眞と称する。文政七年(1824)入滅。81才。<「善峯寺の歴史」に戻る><「青蓮院宮御廟」に戻る>

注28)尊寶(そんぽう)法親王:伏見宮貞敬親王王子。第223世天台座主。<「善峯寺の歴史」に戻る><「青蓮院宮御廟」に戻る>

注29)後花園天皇:応永二十六年(1419)〜文明二年(1471)。第102代。 即位1428、退位1464、1471崩御。諱は彦仁(ひこひと)。後崇光院伏見宮貞成親王第一王子。北朝(持明院統)第3代崇光天皇の孫。第100代(北朝第6代)後小松天皇は彦仁親王を猶子とし、後花園天皇として即位させた。<「善峯寺の歴史」に戻る>

注30)応仁(おうにん)の乱:

応仁の乱

応仁元年(1467) 室町時代の第8代将軍足利義政の時に起こリ、文明九年(1477)まで11年間続いた大乱。京都を主戦場とし荒廃させた。

室町幕府第8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)には実子がなく、弟の義視(よしみ)を跡継ぎに決めたが、その翌年、義政の正室日野富子が義尚(よしひさ)を生みこれを将軍に立てようとしたため,義視と義尚の継嗣争いが起こった。

この頃は既に室町幕府の力が弱まり、各地の守護大名が力を強めていたが、特に管領細川勝元と守護大名山名持豊(宗全)の勢力が強まり、互いに勢力を争っていた。

更に、管領畠山家でも畠山政長(はたけやままさなが)と畠山義就(はたけやまよしなり)の従兄弟間の家督争いとなり、それぞれを支持する家臣団も分裂して、遂に京都を戦場にした争乱が始まった。

こうした管領畠山家の私的争いに多くの守護大名達がそれぞれの利益を図って参戦してきたため、京都争奪に東軍(細川勝元・足利義視)は24か国の兵約16万を、西軍(山名持豊・足利義尚)は20か国の兵約11万を動員して、11年間に亘る大乱戦になった。

その間、武将の謀反・寝返りもあり、下克上の風潮が目立ち、後方撹乱策が下敷きになって足軽と呼ばれた新興集団や一向宗、法華宗など宗教集団も加わり、守護大名達も騒動を鎮圧するため京都から自領に戻ったりして、散乱の火は九州など一部の地方を除く全国に拡大・影響し戦国時代に突入するきっかけとなった。 <「善峯寺の歴史」に戻る>

注31)細川晴元:永正十一年(1514)〜永禄六年(1563)。正室の縁から武田信玄の義兄に当たる。

細川晴元

永正十七年(1520)父細川澄元の死去により、7歳で家督を継ぐ。大永六年(1526)、13歳の晴元は重臣三好元長に擁されて、父の代から家督を巡る争いを続けていた細川高国打倒の兵を挙げ、大永七年(1527)第12代将軍・足利義晴を擁する高国との決戦に勝利。高国を近江へ追い落とすと、和泉堺を本拠とし将軍義晴に替え足利義維(阿波公方)を将軍に戴いて『堺公方府』という擬似幕府を創設した。

享禄四年(1531)には、高国からの反撃に遭って京都を奪回され堺公方府も攻撃の危機に晒されるものの、三好元長・赤松政祐らの働きで、同年遂に高国を自害に追い込んだ。

高国を滅ぼした晴元は、堺公方府による政権奪取という方針を転換して現将軍・義晴と和睦し、管領に就こうとしたため、三好元長等と対立してしまう。その後、三好元長等の反対派を排除し、将軍・足利義晴と和睦できた晴元は、一向一揆や法華衆を制して、天文六年(1537)従四位下 右京大夫に任じられ、管領として幕政を支配した。

しかし、その後も内外の内紛や寝返りなど戦乱に明け暮れた末、三好元長の嫡男・長慶と永禄四年(1561)に和睦して剃髪し、摂津富田の普門寺に隠棲した。永禄六年(1563)に死去。享年50。 <「善峯寺の歴史」に戻る>

注32)三好長慶:大永二年(1522)〜永禄七年(1564)。三好元長の嫡男。

三好長慶

天文元年(1532)、父三好元長が主君細川晴元に殺害されたときは幼少の故に許されて、晴元に従った。

天文八年(1539)には兵を率いて上洛し、第12代将軍足利義晴を近江国に逃走させ、取り上げられていた父の遺領を回復した。このとき、細川晴元は六角定頼の仲介で長慶と和睦した。これにより長慶は摂津守護代、越水城主となる。その後、長慶は細川氏の重臣として敵勢力を次々と打ち破り、応仁の乱収束後に事実上の天下人であった細川氏の最有力重臣になった。

しかし、天文十七年(1548)、細川晴元と敵対していた細川氏綱側に寝返って、翌天文十八年(1549)に晴元と第13代将軍足利義輝を近江国に追放した。

天文二十一年(1552)、六角義賢の仲介で敵対していた細川晴元・足利義輝らと和睦して、晴元を隠居させ、長慶は幕府相判衆となり幕政の中枢に入った。

しかし同年の秋頃には義輝と再び不和となり、翌天文二十二年(1553)、義輝が籠る摂津国霊山城を攻略して義輝を近江国に逐い、幕府に替わる三好政権を築いた。

その後版図を拡げたが、永禄元年(1558)、京都復帰を目指す義輝と交戦するも戦況は芳しくなく、講和して義輝を京都に迎えた。足利義輝の京都復帰によって幕府機構は復活し、中央政界における三好政権は終息した。

しかし、三好長慶は永禄三年(1560)、畠山高政を追放して河内国を所領に加え、重臣松永久秀の働きもあって長慶の版図は更に広がり、山城・摂津・和泉・河内・大和・淡路・阿波・讃岐および播磨の一部にまで及ぶところとなった。

永禄四年(1561)には細川晴元を摂津国富田の普門寺に幽閉したが、六角義賢・畠山高政が晴元の子細川晴之を擁して挙兵。翌永禄五年(1562)に和泉国久米田の合戦で実弟三好義賢が敗死(享年35)すると和泉国の三好勢は総崩れとなり、京都は六角義賢に占拠され、一時長慶も京都から撤退した。しかし河内国教興寺葉引野の合戦で勝利して畠山高政を逐うと、六角勢も京都から撤退した。

義賢敗死の前年、永禄四年(1561)には、実兄三好長慶を助けて「鬼十河」と呼ばれた猛将、十河一存(そごうかずまさ)が、病気療養中の有馬温泉で松永久秀と湯治中に突然死(享年30)している。更に、永禄六年(1563)には、嫡子三好義興(よしおき)が居城芥川山城で急死(享年22)した。立て続けに肉親を失った三好長慶は、失意のあまりに心身に異常をきたし、政務をとらなくなった。

これにより、長慶の個人的手腕に依存する所の大きかった三好政権の勢力は大きく衰え、実権を家宰の松永久秀に操られるようになった。

なおその上に、永禄七年(1564)五月には、淡路水軍衆の当主安宅治興の養子となっていて、実兄三好長慶のために戦功が多く、人望も厚かった安宅冬康(あたぎふゆやす)を、松永久秀の讒言を信じて長慶の居城・飯盛山城に呼び出し自害(享年37)させてしまった。

その直後、三好長慶自身も後を追うように永禄七年(1564)七月四日、河内飯盛山城下の屋敷において病死(享年43)した。法名は聚光院宗進。当時長慶の喪は固く秘されており、その死が明らかにされたのは永禄九年(1566)六月に至ってであった。

・三好四兄弟の長兄・三好長慶は当時の武将の中では屈指の教養人であった。とくに連歌の才に長じ、こよなく愛したという。(享年43)

・三好四兄弟の次兄・三好義賢は軍略、政略に優れた武将だが、豊かな教養人で茶の湯に対しても造詣が深く、武野紹鴎、千利休、今井宗久、津田宗達、北向道陳らと茶会を行っている。また、茶器約50点も所持していたといわれている。(享年35)

その中には高額で手に入れた「三日月茶壺(唐物三日月)」という名物があった。義賢の没後叔父(従兄弟?)の三好康長の手に渡り、後年康長が織田信長に降伏したとき、これを献上して許されたと伝わる。なお、茶壺は本能寺で焼失したとされる。

・三好四兄弟の三男・安宅冬康は温厚で心優しい性格といわれ、和歌や書に優れた文化人でもあり、数々の和歌を後世に残している。(享年37)

・三好四兄弟の末弟・十河一存はその武勇から家臣たちからも信望厚く、兄を軍事的によく補佐したため、その死は三好軍の軍事力衰退を招くことになった。(享年30)

・三好長慶の嫡男・三好義興は父に劣らず智勇に秀で、京都に侵攻して来た六角義賢を撃退し、永禄五年(1562)には勇猛で鳴る畠山高政の軍勢に大勝するなど、若い頃から有能さを天下に示していた。一方豊かな教養人でもあり、将軍足利義輝や公家たちからの信望も厚かった。(享年22) <「善峯寺の歴史」に戻る>

花山院 家厚

花山院 家厚

寛政元年(1789)〜慶応二年(1866)没。寛政十年(1798)叙従三位。従一位・右大臣。菩提所は小塩山十輪寺。

十輪寺:京都市西京区大原野小塩町481。天台宗の古刹。嘉祥三年(850)文徳天皇の皇后の世継ぎ誕生を祈願して、伝教大師作の延命地蔵菩薩を安置したのが縁起という。皇子(後の清和天皇)出生により文徳天皇勅願所となる。在原業平晩年の閑居跡、本堂の裏山に業平の墓があり、通称「なりひら寺」と呼ばれる。その後(江戸時代)、藤原北家(花山院家:かさのいん)が帰依され、一統の菩提寺とされた。<「遊龍の松」に戻る>

鳥尾中将

陸軍中将 鳥尾小弥太

弘化四年(1848)、萩城下川島村に長州藩士(御蔵元付中間)中村宇右衛門敬義の長男として生まれる。安政五年(1858)に父とともに江戸へ移り、江川太郎左衛門英龍に砲術を学ぶ。万延元年(1860)に帰藩して家督を相続。

文久三年(1863)に高杉晋作奇兵隊を結成するやこれに入隊し、長州征伐や薩摩藩との折衝などの倒幕活動に従事した。戊辰戦争では建武隊参謀や鳥尾隊を組織し、鳥羽伏見の戦いをはじめ、奥州各地を転戦する。戦後は和歌山藩に招聘され、同藩の軍制改革に参与している。

維新後は兵部省に出仕して陸軍少将、のち陸軍中将に昇進した。西南戦争では、大阪において補給や部隊編成などの後方支援を担当した。陸軍大輔(後の陸軍次官相当)、参謀局長、近衛都督などの要職を歴任する。

陸軍内においては、政治的立場の相違から、山縣有朋や大山巌らと対立するなど反主流(親佛系専守防衛)派を形成した。

明治十三年(1880)、病気のために職を辞し、君権と民権が互いに尊重しあう状態を理想とする『王法論』を執筆した。

明治十四年(1881)の開拓使官有物払下げ事件では、反主流派の陸軍中将三浦梧楼、陸軍中将谷干城、陸軍少将曾我祐準と連名で、払下げ反対の建白書および憲法制定を上奏する(四将軍上奏文事件)。この事件の結果、反主流派は陸軍を追われ、鳥尾も統計院長に左遷される。その後は枢密顧問官や貴族院議員などを勤めたものの、再び陸軍の要職に就くことはなかった。

明治十七年(1884)、維新の功により子爵を授けられる。

欧州視察から帰国後の明治二十一年(1888)に東洋哲学会、翌明治二十二年(1889)には山岡鉄舟や川合清丸らによる日本国教大道社、貴族院内における保守党中正派の結成など、国教確立と反欧化主義を唱えて国家主義・国粋主義の興隆に努めた。

明治三十一年(1898)、大日本茶道学会の初代会長に就任する。明治三十四年(1901)には青少年教育を目的に統一学を起こし、翌明治三十五年(1902)に統一学舎を設立した。

晩年は一切の職を辞し、佛教を信奉する参禅生活に入った。明治三十八年(1905)、静岡県熱海の別邸にて死去した。享年58。 墓所は兵庫県加古川市の光念寺。<「遊龍の松」に戻る>

鉄眼の一切経

鉄眼の一切経

鉄眼道光(てつげん どうこう)。寛永七年(1630)〜天和二年(1682)。江戸時代前期の黄檗宗の禅僧。諡号は宝蔵国師。肥後国益城郡守山村の生まれ。

寛文四年(1664)に『大蔵経』を刊行することを発願し、寛文七年(1667)には全国行脚を行って施財を集めた。

しかし、畿内の飢えに苦しむ住民の救済にも尽力し、一度は集まった大蔵経開版のための施財を、惜しげもなく飢民に給付し尽くした。しかも、そのようなことが、二度に及んだという。

二度まで断念したが、三度目に集めた施財でようやく開版を始めることになり、京都の二条通木屋町の地に印経房(現在の貝葉書院)を開設し、寛文八年(1668)に中国明の万暦版を基に覆刻開版、延宝六年(1678)に完成させた。1,618部、7,334巻。後水尾法皇に進上した。

この大蔵経は黄檗版大蔵経または鉄眼版と呼ばれている。万暦版の覆刻ではあるが、行間に界線は彫られていない。その版木は黄檗山の宝蔵院に収蔵され、貝葉書院を通じて求めに応じて現在も摺印が行なわれ続けている。

因に、この版木文字は中国明朝で使われていた文字で現在の「明朝体」の源となり、また文字数も版木20列20語の400字で統一され、現用する原稿用紙の原型となっている。<「経堂 (絵馬堂)」に戻る>

蓮華寿院

蓮華寿院について若干の考察

平安時代後期の良峯寺(のちに善峯寺)の境内は、南尾、中尾、北尾という三つの尾根に分かれ、現在の善峯寺の本堂(観音堂)付近に南尾法華院、現在の奥の院薬師堂のある中尾に蓮華寿院、北尾に往生院(現在の浄土宗西山派総本山三鈷寺)があったという。

「蓮華寿院の庭」が現存するからその辺りに建っていたと思われる。

北尾の往生院は開山源算上人が開いて、承徳三年(1099)ここで往生を遂げたが、二祖観性上人は「中尾の蓮華寿院の側に法華堂を建てた」とあるから、蓮華寿院も源算上人が建てていたたようだ。更に観性上人が招いた三祖慈圓和尚と、四祖證空上人も蓮華寿院に住持したという。

後鳥羽上皇による承久の変(1221)後、後鳥羽上皇の皇子である道覚法親王が難を逃れて密かに證空上人を頼って善峯寺に籠居した。そこで、證空上人は、蓮華寿院を道覚法親王に譲り、自身は北尾往生院に退いて荒廃していた往生院を復興し、浄土宗西山派の祖となっている。

ところが、「道覚法親王は、父後鳥羽上皇が建立した水無瀬の御堂・蓮華寿院を、善峯寺境内に移し、その側に青龍院という一寺を建立して境内を整備した」と伝わっている。

すると、正確には「蓮華寿院」とはこの堂宇の称だが、それまでの、開山源算上人から四祖證空上人までが住坊としていた堂も、後世の人が遡って「蓮華寿院」と呼び習わしていたのかもしれない。

その後の善峯寺蓮華寿院は、鎌倉時代初期の道覚法親王以降、室町時代にかけて、青蓮院宮慈道法親王、大乗院宮尊圓法親王、青龍院宮尊道法親王といった青蓮院関係の法親王の晩年の隠居所となり、西山宮門跡、西山宮、御所屋敷等と呼ばれた。

尚、江戸時代以降は青蓮院宮尊證(尊証)法親王尊祐法親王尊眞法親王尊寶法親王が入寺している。

これら法親王は奥の院「青蓮院宮墓地」に葬られ、宮内庁が管理している。 (「青蓮院宮御廟」を参照)

このような由緒ある蓮華寿院も栄枯盛衰にうちに、今は僅かに残った池面に紅葉を映すばかりである。<「善峯寺の歴史」に戻る><「蓮華寿院の庭」に戻る>

善峯寺に集う作家たち

桂昌院肖像

善峯寺に集う作家たち:

仏絵師 藤野正観:伝統仏画と墨彩仏画。全国の寺院に大作を主に、数多くの仏画を制作。

「桂昌院ってどんな人?」の桂昌院肖像の作者 「桂昌院ってどんな人?」 参照

桂昌院像

鋳金家 小泉武寛:銅鐸や大仏の鋳造研究の第一人者。金工作家。

「けいしょう殿」の桂昌院座像の作者

木地師 岡田 修:繊細な小品で木の魅力と技を紹介。伝統工芸士。

陶芸家 大高義教:僧籍を持つ陶芸作家。西京区桂 弥勒寺住職。

   その他 不定期参加者あり

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    外部の「よしみねNOW」より改編

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平成22年 春

2010年4月1日

西国三十三所結縁御開帳

2010年4月2日

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

桂昌院お手植えしだれ桜

2010年4月3日

結縁御開帳

桂昌院お手植えしだれ桜

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

2010年4月4日

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

2010年4月5日

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

彼岸桜と多宝塔付近しだれ桜

桂昌院お手植えしだれ桜

2010年4月6日

彼岸桜と桂昌院お手植えしだれ桜

2010年4月7日

本堂上の紅しだれ桜

彼岸桜と桂昌院お手植えしだれ桜

白山社さくら苑

2010年4月8日

今日はお釈迦さまのお誕生日

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

本堂上の紅しだれ桜

白山社さくら苑

2010年4月9日

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

白山社さくら苑

山門周辺の山桜

2010年4月10日

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

白山社さくら苑

山門周辺の山桜

2010年4月11日 春爛漫

見頃を迎えた境内のさくら

2010年4月14日

白山社さくら苑

薬師堂付近しだれ桜と京都市内

釈迦堂周辺

2010年4月17日

薬師堂付近

白山社周辺

2010年4月20日

釈迦堂付近

白山社周辺

 

2010年4月1日(木)

花山法皇一千年御遠忌における当山結縁御開帳が本年4月1日から始まり、
5月31日をもって結願となります。

どうぞ観音様のお手綱に触れご縁をお結び下さい。

西国三十三所結縁御開帳
西国三十三所結縁御開帳

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2010年4月2日(金)

4/1桂昌院お手植えしだれ桜が綺麗に開花しました。

本堂付近のしだれ桜も開花しました。
天気予報によると昼には晴れて気温が上がるとのこと。
今週末(4/3・4)は程よく開花した桜を楽しめそうです。

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜
桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

桂昌院お手植えしだれ桜
桂昌院お手植えしだれ桜

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2010年4月3日(土)

観音堂では千手観音さまのお手綱に触れご縁をお結びになる参詣者が多く見られました。

宗教・道徳・法律によって善悪の定義は変わりますが、善い原因があって善い結果があり、
悪い原因があって悪い結果があるのが常理です。

仏教において「仏さまをお参りしてご縁を結ぶこと」は善い行いです。
どういう結果が出るかは仏さまのみ知るのでしょうか。

神仏への畏敬・日常生活への感謝・亡くなった方への冥福・自分や自分以外の存在の幸せを願う、
などお参りの目的でも様々ですが仏さまのお気持ちをわずかでも汲み取ってお参りしたら、
観音さまは何かしらのお答えを示してくださると思います。

観音経に説かれる観音さまのご利益の一つは厄除けです。

お時間があれば当山に関わらず、仏さまとご縁をお結び頂ければ幸いです。

結縁御開帳
結縁御開帳

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜
桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

しだれ桜を楽しんで写真を撮る姿が多く見られました。
今日の天候は良いので、明日には5・6分くらいまで花開くと思われます。

桂昌院お手植えしだれ桜
桂昌院お手植えしだれ桜

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2010年4月4日(日)

今日は快晴で気温が上がっており、桂昌院しだれ桜はまもなく見頃です。

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜
桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

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2010年4月5日(月)

桂昌院しだれ桜と彼岸桜と多宝塔付近しだれ桜は見頃です。

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜
桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

桂昌院お手植えしだれ桜
桂昌院お手植えしだれ桜

多宝塔付近しだれ桜
彼岸桜と多宝塔付近しだれ桜

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2010年4月6日(火)

彼岸桜と桂昌院お手植えしだれ桜
彼岸桜と桂昌院お手植えしだれ桜

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2010年4月7日(水)

白山社周辺のしだれ桜が3分咲きです。
ソメイヨシノは満開です。

本堂上の紅しだれ桜
本堂上の紅しだれ桜

彼岸桜と桂昌院お手植えしだれ桜
彼岸桜と桂昌院お手植えしだれ桜

白山社さくら苑
白山社さくら苑

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2010年4月8日(木)

今日はお釈迦さまのお誕生日「花まつり」です。今日の桜はご生誕に相応しい彩です。桜は1年に一度でも私たちを喜ばせる良い仕事をしているとつくづく感じます。

「花まつり」ではご生誕にちなんで誕生仏に甘茶を潅ぐ行事が各寺院で行われいるようです。人生は「人に迷惑をかけなければ何をしても良い」と勘違いすることがありますが、残念ながら違うようです。振込詐欺や凶悪犯罪、寺院でも什物盗難がおこる昨今でありますが、お釈迦さまは人生の教えの一つとして「人のために何ができるか」「公のために何ができるか」を説かれたのだと思います。私たちは自力だけで生きていくことはできません。衣食住すべてに多くの人の労力が注がれて、「人のため・公のため」の心でできた良い物事が多くの人々に愛用されて暮らしに役立っています。金儲けの価値観だけで作られたものは所詮粗悪品ですし、この利己的な価値観だけではよい物事を提供できるはずもありませんし、仮に愛用されても長続きするはずもありません。現代において家族の生命や財産など大切なものを守ることは大変です。防犯対策・治安維持の重要性をすごく感じますが、「己を忘れて他を利する」いわば「人のために何ができるか」「公のために何ができるか」を忘れてはならないとも感じています。

この矛盾するような2つを解決するには多くの実践と智恵が必要ですが、疑心暗鬼の世の中にするか、明るく正しく仲良い世の中にするかは私たちが担っているように思います。お釈迦さまの誕生日がクリスマス並みに大きな行事となり、お釈迦さまの説かれる世の中の常理が大きく広まっていくことを願っています。

ソメイヨシノは境内全域見頃です。
諸堂周辺にある遅咲きのしだれ桜もあと数日で見頃を迎えます。
カメラを構える参拝者が多いですが、参詣の混雑はありません。

今日はお釈迦さまのお誕生日
今日はお釈迦さまのお誕生日

本堂上の紅しだれ桜
本堂上の紅しだれ桜

青空の下のしだれ桜にカメラを構える方が多いです

白山社周辺のしだれ桜は全体として5分咲き。
ソメイヨシノは満開です。

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜
桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

白山社さくら苑
白山社さくら苑

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2010年4月9日(金)

ソメイヨシノは境内全域見頃です。
本日も参拝による混雑はありません。

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜
桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

白山社さくら苑
白山社さくら苑

山門周辺の山桜
山門周辺の山桜

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2010年4月10日(土)

境内全体でさくら見頃を迎えました。
ソメイヨシノ・しだれ桜・山桜など境内各所で楽しめます。

当山の桜の見所は二つあり、
一つはJR東海のCMで放映された樹齢350年近い桂昌院お手植えのしだれ桜です。
もう一つはこの写真のように境内全域に咲き誇る桜です。
桂昌院しだれ桜はあと数日で散り始めますが、境内全域の桜はこれからが盛りです。
御開帳期間につき、観音さまをお参りしてお手綱を手に執って結縁ののち
境内の桜をお楽しみ下さい。

白山社・釈迦堂より上の境内では
ソメイヨシノや何本かのしだれ桜や山桜が見頃に入っています。
来週始めには境内ほとんどの桜が見頃を迎えます。
白山社周辺のしだれ桜は全体として7分咲きです。
ソメイヨシノは見頃です。

桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜
桂昌院お手植えしだれ桜と彼岸桜

白山社さくら苑
白山社さくら苑

山門周辺の山桜が見頃です。
その他の場所でも見頃に入った山桜があります。

山門周辺の山桜
山門周辺の山桜

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2010年4月11日(日) 春爛漫

境内全体でさくら見頃を迎えました。
ソメイヨシノ・しだれ桜・山桜など境内各所で楽しめます。

当山の桜の見所は二つあり、
一つはJR東海のCMで放映された樹齢350年近い桂昌院お手植えのしだれ桜です。
もう一つはこの写真のように境内全域に咲き誇る桜です。
桂昌院しだれ桜はあと数日で散り始めますが、境内全域の桜はこれからが盛りです。
御開帳期間につき、観音さまをお参りしてお手綱を手に執って結縁ののち
境内の桜をお楽しみ下さい。

見頃を迎えた境内のさくら
見頃を迎えた境内のさくら

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2010年4月14日(水)

境内全体では見頃です。
釈迦堂南側の大きなしだれ桜はまだ6分咲きです。
ソメイヨシノは一部散り始めです。

白山社さくら苑
白山社さくら苑

薬師堂付近しだれ桜と京都市内
薬師堂付近しだれ桜と京都市内

釈迦堂周辺
釈迦堂周辺

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2010年4月17日(土)

境内全体では見頃です。
ここ数日の冷え込みでしばらく見頃が続きそうです。
釈迦堂南側の大きなしだれ桜はまだ7分咲きです。
ソメイヨシノは一部散り始めです。

薬師堂付近
薬師堂付近

白山社周辺
白山社周辺

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2010年4月20日(火)

釈迦堂・薬師堂周辺のしだれ桜は満開です。
白山社周辺のしだれ桜はまもなく散り始めです。
境内全域のソメイヨシノは散り始めです。

釈迦堂付近
釈迦堂付近

白山社周辺
白山社周辺

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---『善峯寺』<http://www.yoshiminedera.com/index1.htm>より「よしみねNOW」を改編---

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