音楽コラム 5.


no.031

 

「音楽を教える」という事(14)


ある国の文化を考えた場合、その国の人たちは、その文化の上に、ほとんど無意識に暮らしています。その時代のその文化の中で、生まれ、育ち、そして何らかの方法で、その文化を担い、やがて次の世代に伝えてゆくのです。そして多くの場合、その文化の上に生活している人たちは、その文化的価値に気づくことなく、通り過ぎてしまうのです。


ボリビアの人たちは、ボリビア文化の担い手ですが、ボリビア文化を客観的に見ることは不得意です。これは日本に暮らしていれば、日本の中からしか日本は見えず、良くも悪くも日本が中心となってしまうことと同じです。歴史的に見ても、外からの価値観によって、自らの文化的価値を見出し、見直し、そして保護するなり、活性化させるなり、という事は、実に多くの国々で起きていることです。


しかしながら、その土地の文化の本当のところは、その文化のいろいろな部分を共有できる人たち同士のみが、分かち合えるもののような気がします。同じ音楽を聴いて感動しても、ボリビア人とヨーロッパ人と、そして日本人では、感動の種類や、感動の場所が、異なっている可能性もあるのです。


現在、ラ・パスをはじめとするボリビア各地には、フォルクローレを学ぶ日本人がとてもたくさんいらっしゃいます。もうすでに演奏活動をされている方も含めて、その数は、私がボリビアに渡った頃(1982年)から考えれば、驚くべきような人数です。短期留学、もしくは短期滞在を目的に、気軽に渡航する方々も増えてきました。「ボリビアにも、音楽を学ぶ目的で留学する日本人が、もっともっと増えてほしい…。」私が、ボリビア在住の頃より願っていたような現象が、今まさに現実としてあるのだと思うと、とてもうれしく思います。そして、より多くの方々が「ヤフワ」を身につけ、日本人にしか演奏できない、創り出すことのできないボリビア音楽を、未来に向けての「伝統」の担い手として、ボリビア、日本はもとより、世界中で活躍してくれることを期待しています。

2005.8.29



no.030

「音楽を教える」という事 (13)


音楽を奏でる、音楽を創る勉強をするためには、「ボリビアにゆけば何とかなる……」というわけにはいきません。ボリビアの演奏家には、教えてもらったことを修得して「プロ」になった人は(フォルクローレの世界では)、ほとんどいません。勝手に練習して上手くなったのです。先輩音楽家の真似をしたり、技術を盗んだりして、それらを身につけていったわけです。人から学んだとしても、それは決して受け身ではなく、自主的に学び取った、という表現の方が良いかと思います。ですから人に教えるときにも、自分の演奏していることしか教える事のできない一流演奏家も多いのです。たとえば、あるギター曲の弾き方、あるチャランゴ・レパートリーの弾き方に終始する場合が多いでしょう。また「ケーナの持ち方が悪い」と、その演奏家と同じ方法で楽器持つところから、レッスンが始まるかもしれません。根本的に奏法を直したい……一(いち)から出直すには良い方法かもしれませんが、限られた期間に何かを得ようと思えば、決して最上の方法だとは思いません。また音楽表現の特徴の一つとして、「語り口」と私が呼んでいるものがあります。普通に言えば「アーティキュレーション」なのでしょうが、フォルクローレをはじめとする民俗音楽には「語り口」とした方が、ピッタリくるような気がします。


たとえば、スペイン語を日常的に使っているボリビア人と、日本語で生活をしている日本人では、同じメロディーを聴いても、その確認フォーマットが異なり、やがて出される音も違ってくるのです。同じ動物の鳴き声を表現するのに、各言語ともに、それぞれ異なった鳴き方で表すのを見れば判っていただけると思います。その他にも、身振り手振りの違い、生活習慣の違い、価値観の違い、さまざまな観点から、同じメロディーを表現しようと思っても、決して同じようには出てこないのです。その違いは、二つを比べれば明らかなのですが、ボリビアの「語り口」しか知らないボリビアの演奏家には、「これは違う」ということが判っても、どこがどう違うのか、なかなか解らない場合が多いのです。「Otra clase(違うタイプ)の演奏だ……」と表現するのを、よく耳にしました。これは「自分たちのものとは違う」という意味なのですね。


「語り口」といえば、メロディー楽器の旋律を連想される方が多いかと思いますが、これは弦楽器や打楽器についても全く同じことが言えるのです。かえって、メロディーやハーモニーといった飾りがない分、(手拍子を含めた)打楽器の演奏に、「語り口」の違いは、如実に現れると思います。また「語り口」と「ヤフワ」は、密接な関係を持っており、とてもよく似ていてるようですが、その実は別のものです。「ヤフワ」は口で説明しても、食べてみなければ分かりませんが、「語り口」は、説明やレッスンによって、ある程度習得可能なものなのです。

2004.3.4



no.029

「音楽を教える」という事 (12)


音楽の中の「語り口」には、意識的なものと無意識的なものがあります。「この曲は、こんなふうに演奏してみよう。」とか「このメロディーを、こんな感じで歌わせてみよう。」とかいうのが、意識的な語り口。一方「このリズムを演奏すると、知らないうちにこうなってしまう。」などというのは、無意識的な語り口です。後者は「癖」と混同しやすいものですが、「結果的に現れる音楽的なゆらぎ」とでもした方が正確だと思います。


一方リズムの中には、「絶対リズム」と「相対リズムが」があります。「絶対リズム」は、メトロノームのようなコンスタントな時の刻みです。「相対リズム」というのは、個人や地域単位で見られる、特有のリズムで、日本で「間(ま)」とも呼ばれているものも、この「相対リズム」のひとつです。一般に「リズム感が悪い」とか「リズム音痴だ」とか評価されるのは、前者「絶対リズム」の方です。しかし西洋音楽的に、小節で区切られた部屋に、ある一定の規則を持って、コンスタントにビート(拍)を振り分けてゆく事の外に……言うなればもっと複雑なリズム感を持った人たちは、この絶対リズムでは評価されません。意識的な語り口の中で、絶対リズムの範囲内で歌わせる場合と、相対リズムをもって判断する場合とでは、かなり大きな違いがでてきます。そして無意識的な語り口は、この相対リズムによって、大きく作用するものなのです。


ちょっと話しがややこしいので、私自身の経験から、例をあげてご説明しましょう。 日本人の先生(他の国の外国人でもよいです)が、特別な音楽教育を受けていないボリビア人の生徒に、チャランゴでメロディーを弾く事を教えるとします。教材はボリビアの伝承曲です。絶対的リズムで教育を受けている日本人の先生は、ボリビアのメロディーを、絶対リズムのフォーマットに直して、それを教えます。ボリビア人の生徒は、教材の伝承曲を「丸ごと」知っているので、知っている通りの曲を、教えてもらった「弾き方」を使って練習します。やがて「正しく」弾けるようになってから、もう少し音楽的にまとめるレッスンをします。そこで日本人の先生は、絶対リズムに基づいて曲の歌わせ方を教えます。しかし伝承曲を丸ごと知っている生徒は、絶対リズムにフォーマットされていない、自分の中の相対リズムで、それを解釈しようとします。絶対リズムと相対リズムの存在に気がつかない限り、両者の間には、永遠に埋まらないリズムの溝が存在してしまうのです。そしてそれは、楽器が弾けるようになればなるほど、深くなっていってしまうのです。


絶対リズムも相対リズムも、音楽には必要不可欠な要素です。合奏をする場合などは、絶対リズムを基準にしていった方が合わせやすいのですが、相対リズムを軽視してしまったら、まったく面白みのない音楽になってしまいます。そして、その相対リズムの地域性には、いくつかのルールが存在し、それらをレッスンで伝える事は、もちろん可能な事なのです。

2004.6.29



no.028

「音楽を教える」という事 (11)


「味覚の価値判断基準」が、その人の育った環境や、日頃の食生活に大きく左右されるのと同じように、音楽の良し・悪しを判断する感性も、「どんな音楽環境によって育てられたか」によって、大きく変わってくるはずです。また、その条件にも複数の要素があり、「家庭的環境」と「修養的環境」の二つに、大きく分けられると思います。


「家庭的環境」とは、「どんな音楽を耳にしながら育ったか?」という事です。例えば、クラシック音楽ファンの家庭に育てば、小さい頃よりモーツァルトやベートーベンを聞き流し、それがその後出会った音楽を判断する価値基準となる(なってしまう)のです。その人が、どこかでジャズを聴いて、「何て自由な音楽なのだろう!」と思うか、「何て喧しい音楽なんだろう!」と思うかは分かりませんが、好き嫌いを別にした次元で、とりあえずのバロメーターとなり得るわけです。どちらかといえば、受動的立場での環境ですね。これは自分では何ともしがたい、「家庭の味的」環境です。


「修養的環境」というのは、能動的な音楽環境要素です。自分から求めて行く音楽環境ですから、「音楽教室」などはその代表的なものでしょう。これによって、音楽に対する考え方、姿勢、受け取り方……などなど、そのようなものを学ぶのです。ある程度の年齢に達すれば、自分で聴く音楽を選び、弾きたい楽器を選び、場合によっては、「音楽教室」を選びます。楽器とともに、音楽の楽しさ、奥深さを教えてくれる先生のレッスンを受けられれば、「音楽は一生の友」となり得ますし、やたらに怒る先生に就いた子供は、往々にして音楽(楽器)嫌いになってしまう場合もあるのです。


演奏家・音楽家にとって、「誰に育てられたか?」「どんな価値判断の下で音楽を学んできたか?」という事が、それこそ一生を左右する、大切な問題となります。私はエルネスト・カブールに誘われ、彼のトリオで約4年間を過ごしました。カブールの下で、音楽の自由さを学び、フォルクローレの精神を学び、そして伝統の重要性と、革新性を学びました。楽器の演奏法については、何も教えてくれませんでしたが、それ以上に大切な事をたくさん与えてくれたカブールを、私は「師匠/Maestro」として尊敬しています。


音楽を学ぶ人は、自分が就こうとする先生をよく選ぶべきです。また、演奏家・音楽家を目指す若者達は、共演する演奏家をよく吟味すべきです。目先の誘惑にごまかされず、自分の目指す方向に導いてくれるであろう環境を、自分できちんと整備すべきなのです。

2004.3.4



no.027

「音楽を教える」という事 (10)


「音楽を教えるという事」シリーズの第一章で、「テクニックだけではどうにもならない事態に直面する」予感を示唆しましたが、このところ問題にしている「ヤフワ」などは、まさにその「どうにもならない」典型だと言えます。また、「ヤフワ」を加える前の「良い音楽」を仕立て上げる段階でも、「どうにもならない事態」は、随所に現れてきます。


そもそも「良い音楽」とは、どんな音楽なのでしょうか?「感動できる音楽」は、はたして「良い音楽」なのでしょうか?普遍的に「良い音楽」というのは、この世に存在するのでしょうか?音楽を創る上での「良し・悪し」を判断する基準も、「テクニックだけではどうにもならない」もののひとつだと思います。


食べ物の中にも「美味しい・不味い」があります。「好き・嫌い」とは明らかに異なる、味覚上の「是・非」があるのです。 例えば、日本全国各地には、いろいろな種類の味噌汁があります。赤味噌から白味噌まで、いろいろな種類の味噌を使い、だしの取り方にしても、また中に入れる具に関しても、その土地柄がよくでています。そして、多くの日本人は、「我が故郷の味噌汁が一番!」と思っているはずです。もっといえば、「我が家の味噌汁が……」という事になるでしょう。しかし、余所の地方の味噌汁が不味いわけではありません。慣れ親しんだ味覚と違うだけで、美味しいものは美味しくいただけるのです。成人してから移り住んだ土地の味覚が身に染みこんで、それが「我が家の味覚」となる例も、とても多いのではないでしょうか?


ここで問題にしたいのが、「美味しいものを美味しい」と感じる事の出来る「味覚」を持っている事、なのです。食べ物の持つ「美味しさ」を判別できる感覚、また自分の中に未経験な「美味しさ」を受け入れる柔軟性、これらが備わっていなければ、どんな味噌汁を出されても同じか、「我が家の味噌汁以外は不味い」という事になりかねません。 その価値判断の基準となるのが、「我が家の味」なのです。どんな味覚で育ってきたか、日頃どんなものを食べているかによって、その基準は大きく変わるはずです。豊かな食生活(「贅沢な」とは違います)をおくってきた味覚には、その「良し・悪し」を、根本的なところで判別出来る「感覚」が備わっているはずなのです。


美味しいスープを作るためには、スープを作るテクニックを駆使して、「世界で一番美味しい」イメージに、その味を近づけてゆかなければなりません。「美味しい」イメージが思い描けなければ、美味しいスープが出来るはずないのです。 次回は、「味覚」を「音楽」に置き換えて考えてみましょう。

2004.2.22



no.026

「音楽を教える」という事 (9)


「ヤフワ/ボリビアの調味料」が、ボリビア音楽を演奏する上で、最重要素のひとつである事は、前章で述べました。また、それを感じ、習得するためには、現地へ赴き勉強、研鑽するのが大切な事も述べました。しかし、この「ヤフワ」だけで音楽は成り立ちません。調味料だけでは、料理が作れないのと同じです。


たびたび料理の話題で恐縮ですが、例えば「スープ」を作ろうとした場合、作り手はまず、「どんなスープに仕立てようか」とイメージすることが必要です。中華風にするのか、和風にするのか、もしくは洋風にするのか……。それによって、準備する素材が違います。または、今手元にある材料から、「どんなスープができるのか」考えることもあります。肉があるのか、魚があるのか、それともたくさんの野菜があるのか…。それによって、どんな味付けにしたらおいしくなるのか判断するのです。


「どんなスープを食べたいか……?」であれば、食欲のある方なら、だれでも簡単に好みのものを選ぶことができます。しかし、「どんなスープを作れるか……?」もしくは、「どんなスープを作ろうか……?」になると、スープを作る手順、すなわち「テクニック」を持った人にしか、そのイメージを味にしてゆくのは難しいのではないでしょうか? そろえる材料、素材の切り方、下ごしらえの方法、使う鍋の種類、入れる順番、食べ頃などなど、スープを作るテクニックは、とてもたくさんあるでしょう。そして、おいしくできたそのスープに加えるのが、「特製ヤフワ」なのです。もちろん作る過程でも、さまざまな隠し味や工夫で、よりおいしく、より豊かな味わいにしてゆくのでしょうが、とにかく、「ヤフワ」を加える前の段階で、「おいしいスープ」が出来上がっていなければ、話にならないのです。


音楽においても、全く同じようなことが言えるでしょう。「ヤフワ」の香りがしようがしまいが、上手いケーナは上手いのです。また、それで感動を得ることができるか否かは、また別の問題を含んできますが、やはり感動できるものには、「ヤフワ」の香りに関わらず、感動できるわけです。

2004.2.11



no.025

「音楽を教える」という事 (8)


ボリビアのフォルクローレ音楽にとって、一番重要なものは何か……?この問いに対して、ボリビアのほとんどの音楽家が「ヤフワ」と、答えるでしょう。この「ヤフワ/LLAJWA」とは、トマトをベースに、ロコトという、とても辛いピーマンのような野菜をつぶして作られる、ボリビア・アンデス地方の料理に欠かすことのできない、チリ・ソースの事です。香りづけには「キルキーニャ」という香草を加え、タマネギのみじん切りを混ぜたり、植物油を、ほんの少量たらしたり、その作り方は、各家庭で少しずつ異なります。また、「バタン」と呼ばれる、石で作られた粉挽き台でつぶすのが一番美味しく、ミキサーやその他の器具で作ると、本来の味も香りも損なわれてしまいます。


前節で例に挙げたような二つの要素「東洋的な旋律」と、「西洋的な和声・形式」とを組み合わせれば、それでボリビア音楽が出来上がるかといえば、それは明らかに「否」と言わざるを得ません。そこにはまさしく「ヤフワ/調味料」が不足しているのです。日本的に言えば「間(ま)」「味(あじ)」というような意味合いになるでしょう。私が以前このノートに記した(No.005)「音楽の溝」の原因のひとつは、この「ヤフワ」に他なりません。


同じボリビア人でも、生まれ育った地域、環境によって、その人の音楽的感性は大きく異なります。ボリビア人だからといって、すべての人が生まれながらにして、ボリビア音楽的感覚を持っているわけではありません。しかし、そこに根ざした文化の中で生活していれば、知らず知らずのうちに、それらの要素は身についてゆくものなのです。そして、その感覚は、ごく当たり前に表出してゆくでしょう。そこが「日本人の演奏」や「ヨーロッパ人の演奏」と、大きく異なるところです。


フォルクローレの演奏を追求してゆくと、必ずこの「ヤフワ」の問題に突き当たります。どう努力しても、なかなかこの「溝」は解決しないのです。「ヤフワ」の味や、香りは、自分の感覚で確かめ、そして覚えてゆくしかないのです。そして「ヤフワ」の味を知っている者には、その香りを持たない音楽を、瞬時に聴き分けることが出来ます。


真剣にボリビア音楽を勉強しようとする人に、私がボリビア行きを勧めるのは、この「ヤフワ」の味を知ってもらいたいがためです。ただ「留学」するだけでは、また、楽器の演奏法を伝授してもらうだけでは、なかなか本物の「ヤフワ」を知り得ることはできません。「ヤフワ」は教えてもらえる物ではなく、自ら求め、そして我が身に取り込む物なのです。

2003.12.14



no.024

「音楽を教える」という事 (7)


ボリビアの人たちにとっての「ボリビア音楽」と、ヨーロッパ人、日本人にとっての「ボリビア音楽」は、例えばどんな所が違っているのでしょうか?ボリビア人にとっての「ボリビア音楽」は、ネイティブな部分をとても多く含んでいますので、とりあえずよけておいて、「ボリビア音楽≒フォルクローレ」を、異文化として接する、ヨーロッパ人と日本人ではどうでしょうか?


歴史的(考古学的、文化人類学的)に見て、私たち日本人を含むモンゴロイドと、アンデスの人たちとは、とても濃い血縁関係にあることが、ほぼ証明されています。アンデス地方に、古くからあったであろう音階、リズムの枠とりなどは、私たち日本人に懐かしさを感じさせるほどに、その基本線は似ているようなのです。だからといって、端的に「ルーツが同じだ」と結論づけることはできませんが、本能に近い部分で、かなり似通っているということは、否定しがたい事実だと思います。


一方ヨーロッパの音楽文化は、スペインによる16世紀の侵略以来、大量に中南米各地にもたらされました。それも、支配者の立場から、被支配者の人々へと伝わったのです。機能的な和声や、拍子をもった西洋音楽・・・宗教音楽、世俗音楽を問わず、それらはまず支配者であるスペイン系の人たちへ、そして時と共に、土着の影響を受けつつ、やがて各地の「民俗音楽」として呼ばれるほどに充実した内容を持つようになりました。「クエッカ」「バイレシート」「ポルカ」など、ボリビアの舞曲の多くも、ヨーロッパにその原型を認めることができます。


現在私たちが耳にすることのできる「ボリビア音楽≒フォルクローレ」のほとんどは、前述の二つの要素……本能的な音階を使い、機能的な和声、形式で形作られたものです。ということは……多くの日本人が、哀愁を帯びたメロディーに感動する中、ヨーロッパの人たちは、彼らの中にある舞曲のスイングに、よりエキサイトしている……様なのです。そして、お互いにとってのエキゾチックな部分に魅力を感じつつ、それぞれの価値観でそれぞれの「ボリビア音楽≒フォルクローレ」を楽しんでいるわけです。


私には、音で「日本人の演奏」「ヨーロッパ人の演奏」を区別することができます。それらを細かく分析すれば、どこがどう違うのかを示すことができるわけですが、次の章では、ボリビアの人たちにとっての「ボリビア音楽」と、「日本人の演奏」「ヨーロッパ人の演奏」を、比べてみようと思います。

2003.11.30