福島にて・・・7月(3)

2011/07/03〜06

6月の福島滞在では、駅近くのホテルを宿としていた。福島市内では、ホテルや旅館も臨時避難施設(8月末まで)となっているため、一般の予約がかなり厳しい状況にあった。
 今回東出さんご夫妻とご一緒するということで、共通の友人で幸手市在住の、吉野雅也さん敏子さんご夫妻の建てた『温(ぬく)』を拠点とさせていただいた。岳温泉の近く、二本松市と大玉村の境あたりの木立の中に建つ、素敵な山小屋である。
 風が木の葉を揺する音、鳥や虫たちの鳴き声、かすかな川の音…。穏やかな、温い空気が流れている。

東出さんたちが到着した最初の日、途中の巨大スーパーで買ったお惣菜をつつきながら、夜が更けるまで語り明かした。
「木下くんたちが、6月に福島の帰りに家に寄ってくれて、いろんな話を聞かせてくれたから、私たちも今回自然な気持ちで来ることができた。本当に良かったわ。」
 東出さんご夫妻は、先月25年間続けたケーキ屋『ラ・ケーナ』を閉めたばかりであった。
「お店を閉めて、もっと淋しくなっちゃうかと心配したけど、福島や川俣に来られて、これからの人生、第三の人生を送る力がわいてきた。」
「また来たいね。」
「吉野さんたちも、この『温』が、こういう形で利用されて、とても喜んでいるわよ。」

・・・・・・

7月の福島滞在の締めくくりは、マジー・ノアールでのライブである。6月に、菅野新也さんご夫妻に連れて行ってもらったバーである。いつかここで演奏できたら…という願いが、こんなに早く実現するとは思ってもみなかった。
 『音楽の力』…6月の避難所や学校での演奏にご一緒して下さったみんなが感じた、共通の思いである。素敵なチラシも作って下さった。

菅野さんから
「7月6日にマジー・ノアールでライブをしませんか?」
とご連絡をいただいたときには、『投げ銭ライブ』を提案したのだが、
「うち(オリエンタルSK)も、マジーも、このライブは仕事としてやりたいので、きちんとチャージを取って、そちらに取り分をお渡しします。」
とのこと。ありがたくお受けすることにした。
 会場には保原町の赤間さん、樋口さん、飯野町の阿部さんご夫妻、川俣町の齋藤さんご一行、斉藤果樹園さん、そして栃木県烏山からは大野さんと、大田原にお住まいのお姉さんが駆けつけて下さった。

ライブのあと、近くの中華料理店『上海』で打ち上げ。楽器や衣裳を片付けて、私たちが到着するころには、齋藤さんご一行と、福島民放の高橋さんなどが、もう料理に舌鼓を打っていた。『上海』張さんの料理は絶品!週に何度も通ってくる人が、たくさんいるそうだ。

食事中に地震があった。
「今のは震度2くらいかな?」
「うん3はないね。」
「これだけ地震があると、テレビとかの発表より、体感の方が正確になりますよ。」
「三月の地震では、棚のお酒は全部落ちて割れたけど、このカウンターの中の瓶は、くるくる回ったのか、場所が動いていただけで割れなかったんですよ。」

その後、菅野さんご夫妻と福島民放の高橋さんと一緒に、ふたたびマジー・ノアールへ。
高橋さんは競馬記者で、震災当日も競馬場にいたのだそうだ。
「揺れがあって、すぐ机の下に隠れたんですけどね、揺れがひどくて机の下から揺すり出されるんですよ。」
「だからとりあえず机の足を持って…でも、机の上をパソコンとかが飛び交っていて、いま何かが手をめがけて飛んできたら、おれの手はダメになるだろうなぁって、結構冷静に考えていましたね。」
「競馬場は屋根が落ちて、しばらくは使えない状態です。」
「でもね、競馬のような博打は、そりゃぁデリカシーはないですけど、人が生きるために必用な行為なんだなって思いましたね。」
「最近ようやく場外馬券売り場が再開したんですけど、発売時間のはるか前から、人が並んでるんです。」
「ぼくの顔を見知った人がうれしそうに、ぼくの手を握って『いがったなぁ、ありがとう』って言うんですよ。」
高橋さんは競馬関係者の間では、かなり有名らしい。

「震災からしばらく、1ヶ月くらいは確かに大変でしたね。」
バーテンダーの五十嵐さんが話し出す。
「お酒の瓶が割れて、一週間目にようやく水道が復旧して、床を洗い流してすぐ、うちは営業を始めましたね。」
「最初は夜の十時まで。さすがに音楽を流す気にはなれなくて、NHKのラジオをずっとかけていました。」
「ここに来て、友達の顔を見るだけで、みんな安心した。友達に送ったメールが返ってくるだけで、本当にうれしかった。」
と菅野さん。
「震災で、絆は強まったと思います。みんな大変な思いをしてきたから。」
「原発の事故で、情報が二転三転して、街に人が少なくなり、みんなマスクして…あの光景は、今思い出しても異様でしたね。」
「みんなものすごく不安だったと思うよ。」
「東京の水道で放射性物質が出たでしょ?スーパーやコンビニに、飲料水がまったくなくなった。」
「あのとき、福島には支援物資として送られてきた飲料水がたくさんあったんですよ。逆に東京に送ってあげようかと思ったくらいです。」
「私も報道機関にいる人間ですけどね、一連の震災報道には問題がありますよ。」
「人の興味が集中する記事だけをドン!と載せる。ウソでも間違いでもないけれど、それがすべてではない。」
「そんな記事を見た遠くの人は、福島では、町中でも防護服を着た人が歩いていると思っている。みんな粗食に耐え、家の中で縮こまって生活していると思っている。」
「マスコミは、…これは飯舘村の菅野村長も言っていたことだけど、事実をしっかりと伝え、伝えたことに対して、最後まで責任を持ってほしい。」
マジー・ノアールのカウンターでは、思い思いのカクテルやノンアルコールを傾けながら、夜明け近くまで談笑は続いた。

・・・・・・

三春町の福原義守さんを訪ねた。福原さんは、戦後移民でボリビアのサンタクルスに渡り、20年ほど前に来日、いまは三春町で会社を経営している。
6月に『ドン・ミゲルのエンパナーダ』を開店すべく、準備をしている。

ドン・ミゲルのサルテーニャは、前回お伺いしたときに試食済み。
「ボリビアでも、行列ができるほどの美味しさですね。」
「かなり時間をかけて、皮を作る小麦粉や、中の具材の原料から、試行錯誤しましたからね。いくつかの材料は、ボリビアから送ってもらいました。」
「これから移動販売車で、これは息子に任せて、全国いろいろなところで販売するつもりです。」
「こんなに美味しいサルテーニャ、ぜひたくさんの人たちに食べてもらいましょう。私もみんなに紹介しますよ。」
三春の美味しい料理をご馳走になった。

・・・・・・

帰り道、幸手の東出さん宅に寄り(東出さんご夫妻は、前日に福島を発っていた)、吉野さんご家族にお会いして、『温』の鍵をお渡しした。
「みんなに利用してもらおうと『温』と名付けました。いつでもお好きなときに使って下さいね。」
「木下さんたちの、福島の活動の拠点にしてよ。閉まってることの方が多いんだからさ。」
今この原稿をまとめている10月まで、毎月のように福島での活動が出来るのは、私たちの常宿として『温』があるからだ。

・・・・・・

ずいぶん長くなってしまったが、またずいぶん時間も経ってしまったが、7月の福島滞在の報告である。

私の活動報告ではなく、このレポートを通して、福島の人たちの声を、様子を、知っていただきたい。
私たちの『福島行き』は、所帯を大きくしながら、まだまだ続く。


2011/10/04