能忍寺元住職辻満道氏への質問状


辻満道様

平成21614

質問させていただきたい件について

拝啓、初夏の候、日々ますます御清栄のことと御慶び申し上げます。

先日はお会いさせていただきありがとうございました。

お会いさせていただいた結果辻さんにお聞きしたい疑問が多数出てきました。

勝手ながら質問をさせていただきますのでご返事をいただけたらと思います。質問に対して何か御質問・御意見等ございましたら当方に御連絡いただければと思います。

是非辻さんと一緒に信心させていただきたいと思います。

毎日勤行の第4座にて辻さんの帰伏をお祈りしています。

なお宗門においては来る726日立正安国論正義顕揚750年記念総会が大石寺にて行われます。

敬具


拝啓

五月六日にお邪魔をさせて頂きましてありがとうございました。

誠に申し訳ありませんが、宗教は正邪によって判断し、その信仰を貫かなければなりませんが、辻さんの強い「私は断じて帰伏はしない」と言い切られた言葉が、正邪とはかけ離れた何とも悲壮感漂う、僧道を踏み外した哀れな言葉にしか聞こえませんでした。

 そこで、辻さんとの会話を内容に、少しでも過去の謗法罪に気付いて欲しいと思い弁駁を加えました。更にご質問をさせて頂きますので、文書で回答をお願いします。

 まず【第一点目】ですが、

 辻さんが、

「私は宗制宗規に従って日顕上人が法主の座に付いたという証明が欲しいだけだ、彼は当時は学頭でも能化でもなく緊急性もなく法主になれる資格などなかったはずだ」

と言われました。また、

「昭和53年4月15日にどのようにして日達上人から相承を受けたのか納得行くように説明して欲しい、日達上人にそんな時間などなかったはずだ」

と言われたことについて弁駁します。

辻さん、唯授一人・血脈相承という御法主上人猊下様を、「宗制宗規」という規定にのみの判断で決めるという考えが果たして正しいのでしょうか。

 日顕上人は昭和54722日の日達上人御遷化の当時は「大僧都で総監」というお立場です。

 さて、「宗制宗規」は当然、辻さんは内容を知っていたことでしょう。また、これから引用します佐々木秀明氏や萩原昭謙氏・渡辺広済氏の三人は当時、宗会議員でした。尚更のこと熟知をされていた方です。

『大日蓮』に、「椎名重役あいさつ」として

「重大発表をさせて頂きます。

 本日、午前十一時十分より、総本山におきまして、緊急重役会議が開催せられ、阿部総監様、私、椎名重役、それに能化であられる観妙院様にも特に御出席を頂き、この度の日達上人猊下御遷化にともなう緊急の協議が行われました。

 会議では、阿部総監様が臨時議長となられ、冒頭阿部総監様より、御相承に関する重大なる御発表がありました。

 その内容は、今日までどなたにも秘してきたか、実は昨年四月十五日、総本山大奥において猊下と、自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜ったことを御被露する、との旨の、重大なる御発言がなされたのであります。」(昭和54年9月号)

とありました。

 そうしますと、日達上人猊下様の御密葬御通夜七月二十二日のご発表でありますので、この時にすべての僧俗が日達上人猊下様より、日顕上人猊下様に御相承が渡されていたことを知ったことになります。

 「宗制宗規」を熟知している宗会議員の佐々木秀明氏や萩原昭謙氏、渡辺広済氏更には全僧侶、辻さんあなたもそうです、どなたが「宗制宗規に違背していて、認めることができない」と叫んだのでしょうか。どなたも居なかったはずです。

 宗制宗規の制定は「明治三十三年九月」でしたが以降、何回か改正されてきています。

「第十六条 管長は、必要と認めたときは、予め次期の管長の候補を選挙せしめる。」

との条項が、昭和四十九年八月八日の宗制宗規には、その管長候補選挙が廃止されています。

 それを不具合と、叫んだり提訴した人は誰もいなかったでしょうし、その時代性によって改正していくことは、何ら問題はないと思います。まして宗制宗規の改正には宗会の決議が必要ですし、加えて宗制は文科省(当時は文部省)の認可を要します。

また、月日が経つことによって変遷する宗制宗規、それを絶対として御法主上人猊下様の認定をすることがよいのでしょうか。規則を守ることは当然のことですが、御法主上人猊下様の存在は、規則よりも遙か昔からあったのではないのでしょうか。それ故に、「日蓮正宗は信を立てる宗派」とは自称正信会の人たちも言って来たのではないでしょうか。

 さて、日達上人猊下様御遷化後、一ヶ月経過した『第三回檀徒総会』では、

「第三回全国檀徒総会は、八月二十五日、二十六日の両日に亘って、総本山大石寺において盛大に開催された。(中略)奇しくも、故日達上人猊下の三十五日忌の日、御遺徳を偲びつつ、全国の檀信徒三千名が三たび総本山に喜々として結集したのである。」(第三回日蓮正宗檀徒総会紀要 8頁)

とあります。

 大変意義のある日を選んでの檀徒総会だったと思います。その総会で、

佐々木秀明氏は、

「幸いにも、第六十七世日顕上人に、早々と御相承されておりまして、この日顕上人の御指南のもとに、一致団結していくことが、御先師日達上人に御報恩奉ることであるということを、もう一度確認して、ともども精進して行きたいと思うわけでございます。」(同 22頁)

と、また、

 萩原昭謙氏は、

「最近某週刊誌に某信徒の発言といたしまして、血脈相承の問題、又、おそれ多くも御法主上人猊下に及び奉ることがらを得意になって云々している記事が目につきました。私ども指導教師といたしまして顔から火が出るほど恥ずかしく、又、大変なさけない思いをいたしました。」(同 51頁)

と辻さんも参加をしていた、大勢の檀徒総会で発言をしています。

 辻さん、あなたは佐々木氏や萩原氏に対して「参加をしている檀徒を騙している!」と叫んだのでしょうか?

それとも、萩原氏が「顔から火が出るほど恥ずかしく、又、大変なさけない」と、某信徒と言っていますが、これは辻さんのことを言っていたのでしょうか。

 また、渡辺広済氏は

「大聖人のお心がこうであり、猊下の御指南がこうだから、自分はこう信心する、これが大事でございます」(同 43頁)

 萩原昭謙氏も

「御戒壇様、大聖人様の人法一箇の御法体を血脈相承遊ばす御法主、代々の上人を悉く大聖人と拝し奉り、その御内証・御法体を御書写遊ばされる御本尊に南無し奉るのでございます。これに異をはさんで何で信徒と申せましょう。又、何で成仏がありましょう。師敵対大謗法の者でございます。」(同 51頁)

と発言をしています。

 辻さん、「これに異をはさんで何で信徒と申せましょう。」とは、信徒も僧侶も謗法は謗法であります。であれば、「師敵対大謗法の者でございます。」とは、辻さん、自称正信会では、あなたの考えは「師敵対大謗法の者」と厳しく糾弾されています。

辻さんの「法主の座に付いたという証明が欲しいだけだ」というお考えは、なんて「愚かな考え」だろうかとお思いになりませんか。

 更に恥ずかしいことは自称正信会が、日顕上人猊下様への御相承に対して否定発言をし始めたのは、昭和55年12月の檀徒総会以降ではなかったでしょうか。

即ち一年半余に亘って日顕上人猊下様を唯授一人の御法主上人猊下様と認めていたからこそ、その間における様々な、管長猊下様として発せられる「住職・総代・法華講組織」等の認証を自称正信会の人たちは受けていたのではなかったでしょうか。

 一年半余にも亘って、檀徒の人たちに対して、また自分達自称正信会の人たちも、日顕上人猊下様を御法主上人猊下様と認めておりながら、自分達に都合が悪くなったら、それを否定するとは、なんて卑劣な行為ではないでしょうか。檀徒を欺き、自分達の変節、何が指導教師なのでしょうか。

昭和54年8月6日 総本山第67世 日顕上人御座替式

同日   御盃の儀  

同月6〜7日 御通夜

       8日 御本葬

     同日   初七日忌御逮夜法要

       9日 初七日忌御正当会

『大日蓮』昭和54年9月号に上記のように経過が書かれていました。

 辻さん、あなたは「日顕上人御座替式」に出席されなかったのでしょうか。自称正信会の人たちは出席されなかったのでしょうか。いや、この大事な儀式に出席されたはずです。

「御盃の儀」とは、師弟の契りと言われる儀式と聞いております。辻さんは、盃のお酒をお飲みにならなかったのでしょうか。自称正信会の人たちはどうでしたか。

 日顕上人猊下様を第67世の猊下様と、ご自分で認めておりながら、

「私は宗制宗規に従って日顕上人が法主の座に付いたという証明が欲しいだけだ、」

等と言う自己矛盾の発言は、間違っていると考えます。

なぜなら辻さんご自身が、身をもって行動を取ってきた事柄だからであります。

 もう一つの次にくる、

「彼は当時学頭でも能化でもなく緊急性もなく法主になれる資格などなかったはずだ」

辻さんの、この言いたい「緊急性もなく」という発言は、当時の宗制宗規、

「第十四条 3

法主がやむを得ない事由により次期法主を選定することができないときは、総監、重役、及び能化が協議して、第二項に準じて次期法主を選定する。」(宗制宗規 昭和五十三年十月七日改正)

を指して言っていることと思います。

 このことは、「椎名重役あいさつ」1頁にも転載しました、

「総本山におきまして、緊急重役会議が開催せられ、阿部総監様、私、椎名重役、それに能化であられる観妙院様にも特に御出席を頂き、この度の日達上人猊下御遷化にともなう緊急の協議が行われました。」

とあります。

この時にお集まりになり、総監・重役・能化が揃っていますが、このことは「第十四条 3」の「第二項に準じて次期法主を選定する。」とは、全く関係がありません。

 「第十四条 3」は、「次期法主を選定することができないとき」とあり、この度の、日達上人猊下様から日顕上人猊下様への御相承は、「椎名重役あいさつ」に

「今日までどなたにも秘してきたか、実は昨年四月十五日、総本山大奥において猊下と、自分と、二人きりの場において、猊下より自分に対し内々に、御相承の儀に関するお言葉があり、これについての甚深の御法門の御指南を賜った」

とありますように、御相承は「内付」の形で行われたことがわかります。

 まさか当時、辻さんは御相承の在り方における「内付」ということを知らなかったというのでしょうか。そうであれば浅識も甚だしいことだと思います。因みに申し上げますが、一番最初に行なわれた「内付」は、正応31013日、日興上人様より日目上人様への御相承です。

 勿論、日顕上人様への御相承の授受に関しては「内付」でありますから、その発表は何時されるのかは、猊下様のご判断によることは論を待ちません。

 それよりも、辻さんの御師範上人猊下様であられる日達上人猊下様は、日顕上人猊下様に御相承される内意を、有縁の方々にお話しをされていることを知っていますか。

 少々長くなりますが、大事なことですので転載します。

『日顕上人への御相承に関しては、日達上人が日顕上人を後継と考えておられたことを証明する多くの証人が宗内におられる、それらの方のお話を紹介しよう。

 はじめに昭和四十九年一月十八日、日顕上人の御母堂妙修尼が逝去されたが、これに先立つ一月十三日、日達上人は京都平安寺へ御下向、妙修尼を見舞われた。この時妙修尼の部屋へ日達上人のお供をして入られたのは日顕上人夫人と当時御仲居を務められていた光久諦顕師(現妙縁寺住職光久日康能化)であった。その折に日達上人は病床の妙修尼に、「あなたの息子さんに後をやってもらうのですからね、早く良くなって下さいよ」と述べられ、妙修尼を元気づけられたのである。この日達上人の深い御慈悲に妙修尼は感涙に咽ばれたことであろう。このことは、この時お供で入室された光久師も証言しておられる。

 また、この件に関してもう御一方、日達上人から直接話を聞かれた方がおられる。それは昭和四十九年当時、大石寺理事を務めておられた野村慈尊師(現清涼寺住職)である。師は日達上人が京都からお帰りになられたときに総本山でお出迎え申し上げたのであるが、この折に日達上人は野村慈尊師に対して、「妙修さんにな、あなたの息子さんに後を譲るから安心しなさいといって励ましてきた」とお話しになられたとのことである。

 また、昭和五十年当時、法華講連合会佐藤悦三郎委員長のもとで連合会登山部長として尽力されていた小島富五郎氏(現板橋区妙國寺総代)は、ある時連合会幹事三名で、総本山大石寺内事部において日達上人に御目通り申し上げた。その折に、「私もだんだん身体が弱ってきたので、後は阿部教学部長に任せようと思う」とはっきりと仰せになられたので、この時に、後は阿部教学部長がなられるのだと思ったと述懐されている。

 これ以外にも、日達上人の御遺族や御弟子、御信徒など、相当数の方々が、日達上人の御生前に日顕上人への御相承に関して聞かれているのである。

 これらの状況は何を物語るのであろうか。すなわち、日達上人が御生前において、血脈相承を日顕上人に御譲りになることを、それとなく宗内に周知するように心掛けられておられたことは事実であり、これは日達上人が宗内に対して、後継は日顕上人であることを暗黙裡に了解せしめ、御遷化後の宗内の異体同心の団結を計られたものと拝察できるのである。

 また日顕上人は、日達上人より後継のことについて、お話をお受けしたことは数回以上に及んでおり、ただそれらの中で特に法義の上からの正式な御相承をお受けしたのが昭和五十三年四月十五日であったと仰せられている。』(自称正信会の『虚言集』を粉砕す 51頁)

とあります。

 このような状況証拠ではありますが、当時の御僧侶方は、日達上人様は日顕上人様に御相承をされていたと認識されていたからこそ、日顕上人猊下様の「御座替」に出席され、「御盃の儀」において盃のお酒を飲み干されたのではないでしょうか

 辻さん、あなたは当時、どのような僧階でどのような役職をもって、宗内のことをどれほど知る立場にいたかは知りませんが、あなた方の大先輩である、渡辺広済元議長・佐々木秀明元副議長が爆弾発言をされているのを知っているのでしょうか。

 この会話はテープに記録として残っているものです。

 また長くなりますが、正信会の当初の姿が生々しく見えてきます。

法華講員有志が正信会新旧幹部を訪ねた際、かつて正信会の正・副議長を務めた、渡辺広済・佐々木秀明の両氏から、次のような爆弾発言が飛び出した!

「日達上人が、次はあの人(日顕上人)に譲(ゆず)ろうと思っていたことは間違いない。」

「私も佐々木(秀明)も、日達上人から『次は阿部(日顕上人)でいこうと思っているんだ』ということを聞いている。(日達上人が日顕上人を六十七世として選定されていたことは)間違いない。」

 「私は、御相承に関して正信会が起こした裁判の原告には名を連ねていない。私としては、御相承を信じたい気持ちは山ほどある。」

 「(住職罷免(ひめん)・擯斥処分の直接原因となった第五回檀徒大会の開催も、私と佐々木は大反対だった。(日顕上人が)『やめろ』と言われているのだから、やめればいいじゃないかと。ところが、丸岡文乗・山口法興らが、『やらなければだめだ』と強硬に主張した。罷免になったあと、『見てみろ、お前らがやれやれと言うのでやったら、クビになったじゃないか』と彼らに言ってやった。」

 「正信会の若い連中は、阿部さん(日顕上人)に対してずいぶん失礼なことを言った。『あなたは承(う)けていないじゃないか』と。そんなことを言われれば怒るのは当然で、それでいて、瞬間湯沸かし器が怒った』の、何のかんのと言う。それがバカらしくなったこともあって、私は議長を辞めた。」                    (渡辺広済元議長)

 「(正信会では日興上人を唯一の僧宝としているが)私はそうは思わない。日興上人と御歴代を区別する考え方はおかしい。」

 「私は、日達上人が阿部さん(日顕上人)に『後を頼む』と言ったと思う。だとしたら、相承(があった)ということだろう。」

 「お側で聞いたわけではないが、(日達上人が)千葉の在家の前で『この次はこの阿部(日顕上人)にさせるんだ』とおっしゃったことだってあった。」

 「『頼むぞ』と言ったのだから相承だと、皆なそう思っていたのに、自分たちの都合が悪くなったら、皆な変わった。創価学会も正信会も。」

 「(相承を認めていながら)裁判を起こしたことは自語相違になるだろう。私は最後まで、あれは却下になると思っていた。」

 「(管長の地位不存在の裁判は)時の流れだった。私としては、やればやったでしょうがないという考えだった。私自身はする気はなかった。ただ、上に立つ者として、名前を連ねることはしょうがないという考えだった。」

 「正信会の上に立つ者として、私は(事態を収束させようとする)日達上人の言われたとおりに行なおうとした。院達に従い、板本尊模刻のことを言うのも止めた。しかし、鬼の首を取ったような気でいる下の者は聞かない。そこのところでずいぶん苦労した。下の者にはその気持ちは分からないだろう。」

 「(日達上人が学会攻撃の鉾(ほこ)を収めようとされた)それを継いだのは阿部さん(日顕上人)だと思う。(日達上人の)お心のままにやっているのではないか。私は、下の連中との間に立って苦労をした。」

 「そもそもこの運動(学会破折運動)は(宗門と正信会が)一つになってやるべきだ。もったいない話だ。ケンカする問題ではない。」

 「阿部さん(日顕上人)が『お前たち悪かったな、大石寺に帰ってきてくれ』と言えば、(私は)すぐに帰る。」

 「(日達上人から日顕上人への相承があったと認めたことを)他で話してもらっても構(かま)わない。」        (佐々木秀明元副議長)

 二人とも、御先師日達上人から御当代日顕上人への相承について「じつはあった」 「それは、皆もそう思っていた」と証言したのである。

 だとすれば、正信会という存在は、いったい何なのか?

 血脈相承を否定して会派を構えていたものが、じつは「血脈はあった。自分たちの都合が悪くなったから、ないことにしてしまった」というのだから、これは正信会という会派そのものの存在が根底から崩れた、というべきだろう。

 しかも、事は宗旨の根本に関わる重大問題であり、成仏・不成仏を決する一大事である。正信会の僧俗が、後生の大事を守る信心を一分でも残しているなら、速(すみ)やかに日蓮正宗大石寺に帰伏すべきである。

(『慧妙』平成16年5月1日 発行)

と渡辺氏と佐々木氏の発言に対して論評をしています。

 これはテープに記録されている事実のことなのです。

 辻さん、もうお分かりになったのではないでしょうか。

自称正信会、強いて言えば正信覚醒運動をされていました全僧侶方は、当初、日達上人猊下様から日顕上人猊下様に御相承をなされていたことを知っていたのです。これが事実なのです。

辻さん、誤魔化してはいけません。

次に【第二点目】です。

辻さんは、

「能忍寺が、私が死んだあとは廃寺になってもそれは折込済みだ。利尻だって廃寺になっているのだから、ここだって廃寺になるだろう」

と言われたことです。

 これは非常に無責任な発言と考えます。

日達上人猊下様が、あなたを能忍寺住職として任命されたのではなかったでしょうか。

「廃寺になってもそれは折込済みだ(中略)ここだって廃寺になるだろう」

とは、もう住職としての認識も資格も無い発言です。

勿論、日蓮正宗としての御住職という意味ではありませんが、一応、正信会員として能忍寺住職という形を取っていると思います。

 僧侶・住職という自覚があるのであれば、その寺院を守るために折伏弘教して信徒を増やし、広宣流布の道場として能忍寺をお守りして行かなければならないのではないでしょうか。能忍という寺号をどのように考えているのですか。まして、あなたは住職謝辞で、

「地元信徒の方々と共に地域広布の為、一身をなげうって御奉公申し上げる」

とまで宣言されています。

 その任に堪えることができず「廃寺になってもそれは折込済みだ」とまで嘯き卑下する道念のない発言は、速やかに寺院を「廃寺」になる前に、日蓮正宗にお返し下さい。

 また、挙げ句の果てに、他寺を例に出して

「利尻だって廃寺になっている」

と言って、「能忍寺の廃寺」を正当化しようとしています。

 この利尻・道宣寺と言って木村一道氏がいました。しかし残念なことに、あなたと同じように日顕上人猊下様の血脈を否定して擯斥になり、その後、交通事故で死亡、そして現在にいたっています。

 木村氏が擯斥になった時点で、日蓮正宗に寺院を返還されていれば、さぞかし信徒のいる広宣流布の法城となって発展されていたことでしょう。残念でなりません。

 辻さん、利尻の道宣寺のようにならないためにも、そして罪滅ぼしのためにも、早く能忍寺をお返し下さい。

次に【第三点目】ですが、

「私は大聖人様の仏法を正しく実践していると思っていて、クビにされたことは悔いに思っていない」

とのことですが、これこそ『宗制宗規』よって罰せられたのではなかったでしょうか。

 院第七六三号

宗内一般 昭和五十七年九月十八日 日蓮正宗宗務院 印

 このたび、昭和五十七年九月十六日付をもって別記の四十名につき、宗規第二百四十九条三号、四号により擯斥処分に付しました。これら四十名の者は、御法主上人猊下に対し奉り、その血脈を否定し、前御法主日達上人猊下が血脈相承をされずに御遷化遊ばされたなどと主張し、御法主上人猊下を誹毀讒謗すると共に、金口嫡々唯授一人の血脈を否定する異説を唱えました。

(後略)

とあり、別記に辻さんの名前が載っており、この時点で日蓮正宗の僧侶のお立場を切られた、即ち、あなたの言う「クビにされた」ことは間違い有りません。

その『宗制宗規』

第二百四十九条 左に掲げる各号の一に該当する者は擯斥に処する。

三号 言論、文書、図画等をもって管長に対し、誹毀または讒謗をした者。

四号 本宗の法規に違背し、異説を唱え、訓誡を受けても改めない者。

これらの条項に、辻さんが当てはまるために、『宗制宗規』に則って処分されたのです。

 辻さんが、「私は大聖人様の仏法を正しく実践していると思って」いるのは勝手ですが、実際に「宗規第二百四十九条三号、四号により擯斥処分」される行為をしたから処分されたのです。したがって、『宗制宗規』を守らなければならないと言う辻さんは、『宗制宗規』に従うべきではないでしょうか。

「クビにされたことは悔いに思っていない」と豪語するのであれば、物事の道理として、堂々と能忍寺を引き渡して出て行かれるべきです。

 同じ内容ですが、私が辻さんに、

「もはや1宗教法人を立ち上げた正信会、あなたも今や日蓮正宗とは関係ない人間だ、一日も早く能忍寺を明け渡して出て行くべきだ」

と言いました。すると、あなたは

「裁判所で許可しているからここにいる。能忍寺の重宝には手をつける気はない。カネがあれば自分で寺を建ててとうの昔に出て行っている」

と言われました。

 辻さん、あなたが「利尻だって廃寺になっている」と言われましたが、別に褒めて言う訳ではありませんが、あの小さな利尻島の木村氏、その利尻の島の寺院は廃寺になったかも知れませんが、一修と名乗る木村氏の息子さんが跡を継いで、赤平市若木町東に「仏心寺」と称する正信会寺院を造って活動をしているのではないでしょうか。

 あなたはなぜ、利尻よりも大きな天塩に居りながら、別なところに正信会寺院を造らなかったのでしょうか。

「カネがあれば」……利尻の木村氏には「カネが」あったのでしょうか。更に褒めて言う訳ではありませんが、辻さんより若い、木村一修氏の方が、正信会員として道念があるのではないでしょうか。

「裁判所で許可しているからここにいる。」

という恥ずかしい言葉も、道念を失しているから言える、自虐的言葉に聞こえます。

 以上述べてきましたが、辻さん、あなたが能忍寺に居座る理由が何一つありません。言えることは、あなたは、ただ生活をするために住んでいるに過ぎない。そして能忍寺を廃寺にするために居住しているということです。

最後に、正信会がなぜ最低なのか、お教えします。

それは、三頁でも引用しました、第三回日蓮正宗檀徒総会での萩原昭謙氏の発言です。

そこで、

「最近某週刊誌に某信徒の発言といたしまして、血脈相承の問題、又、おそれ多くも御法主上人猊下に及び奉ることがらを得意になって云々している記事が目につきました。私ども指導教師といたしまして顔から火が出るほど恥ずかしく、又、大変なさけない思いをいたしました。」(第三回日蓮正宗檀徒総会紀要 51頁)

と公言して檀徒を指導しておりました。

 この言葉は、昭和54年8月25日のことです。

それが一年四ヶ月も経った、昭和55年12月13日の日顕上人猊下様に対する正信会から出されました「質問状」

拝啓、先般発行された週刊文春十一月二十日号を見ますと、創価学会の元顧問弁護士山崎正友氏が、貴殿の法主相伝につき疑惑がある旨の手記を書いております。法主の法燈連綿は、我々日蓮正宗の僧侶にとっては大問題であります。また檀信徒にとっても同様であり、

と書かれております。

辻さん、どう思われますか。

当時、僧侶であった萩原氏が、正信会の檀徒総会で

「最近某週刊誌に某信徒の発言」を、

「私ども指導教師といたしまして顔から火が出るほど恥ずかしく、又、大変なさけない思いをいたしました。」

と指導しながら、

「先般発行された週刊文春十一月二十日号を見ますと」

と言って、恥ずかしげもなく言う姿、これが正信会なのです。

そして、

「創価学会の元顧問弁護士山崎正友氏が、貴殿の法主相伝につき疑惑がある旨の手記」

と言っているのです。

正信会の僧侶が、一信徒である山崎氏の「法主相伝につき疑惑がある旨の手記」を拠り所に「質問状」を出してくる異常です。

 更に「質問状」の中に、

山崎氏が当時弁護士として、また大講頭も勤めていた信者として、その与える影響の重大さを十分考慮した上で、あえて書かれたであろう右手記を読むと非常に真実性が感じられ、我々僧侶としては、残念ながら右手記の記載が正しいのではないかと思わざるを得ない心境であります。

とまで言っています。

 それほど山崎氏を認められたのであれば、その後、山崎氏は反省懺悔して心情を述べられていますので、正信会の人たちも、素直に山崎氏の「手記の記載が正しい」と勘違いされたことを反省懺悔して心を入れ替えるべきであります。

「過ちて即改むるに憚ること勿れ」とは、道徳を説く孔子の言葉です。

大聖人様は、「浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし。重きあやまちならば信心をはげまして消滅さすべし。」(御書906)と仰せられています。

 山崎正友氏は、『慧妙』紙上で

日顕上人猊下の御相承について否定した『週刊文春』掲載の見解は、今日では、認識不足であり、大きな誤りであった、との結論に達した。(中略)ともあれ、いかなる理由や心情があろうと、信者の立場で御相承を云々したことは、甚だ僭越なことであり、深く反省し、お詫び申し上げる次第である。そして今後は、二度と触れることはしないつもりである。

あるいは、この私の態度に対し、「無節操」「変節」等の批判もあるかもしれない。しかし、人間、進む勇気も必要だが、改める謙虚さも失ってはならない。それを勇気といえるのだと、私は思う。(平成7年2月16日付)

と、悔悟の念を広く周知させました。

 正信会が血脈御相承否定に引用した、山崎正友氏の「週刊文春」記事は、本人が「認識不足であり、大きな誤りであった」と言っている以上、正信会の御相承否定は成り立たなくなったのです。

 辻さん、能忍寺を廃寺にさせないためにも、日顕上人猊下様に反省懺悔の姿を示し、もって、速やかに能忍寺を日蓮正宗にお返し下さい。


それでは質問をさせて頂きます。

質問1

 萩原氏の檀徒会での発言と、正信会が出した「質問状」の矛盾についてどのように思われますか。

質問2

 能忍寺を廃寺させるという辻さんの心情は。

質問3 

 能忍寺は日蓮正宗の寺院です。廃寺にさせないためにも、日蓮正宗にお返したらどうですか。

質問4

 山崎氏という信徒の血脈相承否定を拠り所として、正信会が血脈相承否定をした事実は「質問状」に明白です。理論として成り立たなくなった血脈相承否定をどう思いますか。


四季の移り変わりも早いもので、正信会問題が起こってから何年になるのでしょうか。月日がどんなに早く進もうとも、正しい大聖人様の仏法を弘めていくのが、日蓮正宗の僧俗の願いであり、私は少しでも広宣流布のお手伝いが出来るよう精進をさせて頂いております。

私は日蓮正宗の一信徒として、正信会に所属されている辻さんに対して、正信会の非を責めております。

「源にごりぬればながれきよからず。身まがればかげなをからず。」(御書827頁)

とは、大聖人様の御金言です。

 正信会の源は、唯授一人・血脈相承を否定したところから始まっています。途中でどんなに綺麗事を言おうとも、それは濁りの入った詭弁でしかありません。

 以上縷々述べて参りましたが、上記の質問に対して二週間以内に回答を文書にてお寄せいただければ幸いです。

 それではまた近いうちに寄らせて頂きます。

敬具


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