呑ん兵衛の記録

第壱の章

10月1日の朝を迎える。雨が滴れ落ちていた。泰子は昨日のうちに慶和の許に行っている。列車は11時39分の発車だが、照井タマさんと高橋京子さんは時間が逼迫していると心にゆとりがなくなるようにて11時頃には駅にいるので、私ら菊池むつこさん、藤原君、阿部幸信、ヤ子夫妻もそれに合わせることになった。10時45分には菊池さんの旦那が迎えに来る手筈になっている。やがて藤原君がぬーっと庭越しのガラス戸から顔を覗かせた。昨日買い求めておいた昼食のお供の缶ビールを保冷用のカバンに詰めて身支度は整った。駅でそれぞれ昼飯の弁当を買い込む。私はサンドイッチ、藤原君はなんやらかんやらこまごまと買い揃えているが、弁当の類は一つもない。先日猫の額ほどの庭の横の畑の手入れに来てくれた母親殿が持参した餅をたらふく食べてきたので腹は空いていないと言う。前に座っている阿部夫妻の座席をぐるりと回して向かい合うようにした。タマさんら3人は私と藤原君の横並びである。皆さん座席についたところで適度に冷えた缶ビールをタマさんを除くそれぞれの皆さんにお配りし、新幹線の扉が閉まる音に併せて缶ビールを開けて、第一回目の乾杯である。藤原君が買ってきたつまみを食べた幸信さんが訛って言った。「なんかあめでたみたいなイカの燻製だけど・・・」それはホヤの燻製だった。一関あたりで早くもビールが空になってしまった。サンドイッチはまだ残っている。喉に詰まってしまう心配をしていたら、折よく社内販売のワゴンが通りかかったのでビールを買い足す。これで心配の種がなくなった。サンドイッチも食べ終わってビールもなくなったところに車内販売のワゴンが折り返してきた。今度は口直しにレモンチューハイを注文する。横並びのお目付け役のタマお姉さまから、むつこさんと京子さんの二つの頭を越して苦言が寄せられる前にさっさと缶のふたを開けた。デザートにぴったりの味である。ちびりちびりと呑んではいたが、缶はすこぶる小ぶりである。見透かしたように程なく再び車内販売のワゴンが来た。タマお姉さまのお小言を聞き流して仕上げにウーロンハイを買い求める。焼酎の味はさらさらなく、まさしく仕上げとなるお茶の味である。すっきり呑み終えた頃には雨はすっかり上がって青い空が広がっていた。

 

第弐の章

渋谷のホテルで着替えを済ませて、まばゆい陽射しを背に受けながらフレンチの鉄人、坂井宏行氏がオーナーシェフを勤めるラ・ロシェルへとでかける。嫁の麻由さんの両親にご挨拶をしていたら、華やかなロングドレスに包まれた孫の友梨が泰子に抱かれて現れた。ほぼ2週間振りの対面だったろうか。幾分大きくなったようである。暫くして人前結婚式の開会とのお触れがあって式場へと向かった。目の前にムースで髪の毛をピコピコとあちらこちらに立て散らかせて、白のタキシードで着飾った息子の慶和が佇んでいる。式場の司会者から促され父親にエスコートされて静々と歩いてくる花嫁の姿は涙に霞んでよく見えない。麻由さんが慶和に託されて、二人して誓いの言葉を述べるあたりからは涙が頬を伝わってきた。嗚咽をこらえていたら肩が上と下に揺れたような気がする。

ご臨席の皆さんに暖かく祝福された式が終えてお客様が披露宴の席に納まるまで、私は麻由さんのお父さんと向かいあいながら黙って紫煙をくゆらしていた。

やがていよいよ祝宴の始まりである。今宵のコースの説明にシェフが登壇して、花嫁の誕生石“パール”をイメージしたウェルカムカクテルを飲みながら、絶品の味わいの前菜、すっぽんのフランそしてフカヒレのスープ仕立て、タラバ蟹のムースゼリー寄せをいただいてところで新郎新婦が愛娘を抱いて万来の拍手と歓声を浴びながら入場となった。二人が着席して司会者から簡単な二人の生い立ちが語られ、二人の恩師からの祝辞に続いてシャンペンによる乾杯となって、メインディッシュが運ばれてきた。どのような味付けになるのかと心待ちにしていたフォアグラのソテーだ。スープで煮込んだ大根の上にフォアグラが載っていて、ソースは胡麻の香りが香ばしい。あのしつこいフォアグラをこれ程まであっさりと仕上げたシェフの腕前には脱帽である。引き続き、海の香りが漂ってきた。真鯛とオマール海老の甘さを引き立たせる抜群のソース仕立ての海鮮料理である。続いて冷製のかぼちゃのポタージュスープで舌を改めた。日本料理であれば箸休めとなるあたりだ。最後に山形産の牛ロースのレアの網焼きを富士の天然ワサビ風味のソースでいただいて、コースが締めくくられて、一同、人前結婚式を挙げた別室に誘われて、デザートビュッフェとなる。ケーキへの入刀の儀式が済んで、てんでに別室へと移り行く人の数が多くなる。16種類のケーキが続きの別室に並んでいた。このどちらの部屋からも先ほどのパーティーの部屋の眺めとは反対の山の手線の内側の夜景が一望できる。皆さん幾種ものケーキを存分に堪能したあたりで、麻由さんが両親へのメッセージを涙ながらに朗読し、双方の母親に麻由さん手作りの二人が生まれた時の重さの熊の縫いぐるみが麻由さんと慶和から手渡された。ここでまた零れ落ちそうになる涙を抑えながら両家を代表した私の挨拶と慶和からの謝辞ですべてを締めくくる。

思いのほかパーティーが長引いて、それぞれの2次会の始まりの刻限はとうに過ぎ去っていた。私たちの2次会の席は同じ渋谷の居酒屋である。藤原君は居酒屋の予約時間が過ぎていると焦っていた。ひとまず、時間の変更を連絡して、ホテルにお泊まりの皆さんをしかるべくご案内してくれるよう頼んでおいた。すべてのご招待のお客様を見送り、麻由さんのご両親はじめ縁戚の方々にもご挨拶を済ませ、居残りは私の家族だけとなったものの慶和らの着替えが手間取っているようにて徒に時が進むばかりである。漸く二人の着替えも終え、友梨への授乳も済んで荷物をまとめて出かけようかとしたところで、慶和と麻由さんがレストランのスタッフに呼び止められ、改めて披露宴会場に連れていかれた。何としたことか?フロアーのスタッフばかりか厨房にいたコックさんたち30余人もの人達による祝福の言葉が向けられていた。実に心のこもったもてなしだった。

第参の章

携帯電話がなった。弟の潤からだ。2次会の居酒屋はどこであるのかと聞いている。藤原君はどうやらさっさと居酒屋へと直行してしまったようだ。暫くして藤原君からも連絡があった。周りの騒ぎではっきりとは聞きとれないのだが、どうやら3人しかいないようで、あとの人たちはどうなっているのかとわめいている。とりあえず、潤に藤原君に連絡をして合流するよう申し渡す。再度、藤原君に連絡をとってみるも酔いしれているのかふにゃふにゃと言ってはすぐに切れてしまう。折り返し電話がかかってきたが、これまたすぐに切れてしまった。幸信さんにも電話をかけたが、こちらは電源を切っている。ともあれ、荷物も多いので目と鼻の先ながらタクシーに分乗してホテルに向かったところ、タマお姉さまとヤ子さんを除く面々が渋谷のネオンに赤ら顔をさらしてあちらこちらにだらしなく立っていた。幾度も携帯電話で連絡をとろうとも、先発の藤原君とのコンタクトが持てぬまま私と悠介の到着を待っていたのだった。荷物を部屋に投げ込んで泰子を慶和らの2次会の会場へと送り出し、私は一同を引き連れ、ハチ公の銅像を横目に歩道橋を渡ってくだんのお店へとご案内して、待ちくたびれてへろへろに酔っていた藤原、幸信さんそして悠介の同級生の阿部みっちゃんの3人と目出度く一同に会して、改めて馬刺しを肴に生ビールのジョッキで喉を潤し、日頃から馴染みの「白波」へと進めばそれから先はいつもと変わらぬ態となった。それでも私は12時頃には部屋に舞い戻り、すやすやと寝入っている友梨をいつまでも飽かず眺めてはジジイ気分に浸って悦に入っていた。その他の方々は渋谷の夜をてんでにふらつき回って、最も遅いか早いかは判然としない朝のご帰還はどうやら悠介だったようである

第四の章

新宿にでてロマンスカーに乗り込んだところで藤原君がしきりとプラットホームの売店へと目をやっているが、缶ビールを買ってくる時間のゆとりはない。今朝方まで飲んでいた藤原君は相変わらず酔っているので、宿酔の自覚がないようだ。幸い車内ビュッフェがあるとの放送で藤原君の顔がほころぶ。弟の嫁、愛ちゃんが持参してくれた45度の泡盛の栓を切り、藤原君がチビチビとやりだした。私も一口、二口飲んでみた。アルコールの度数が強いので、中和すべく生ビールを注文して昨晩の祝宴を祝い、今日一日の無事を祈願して朝から乾杯となるが、旅の途中だからお行儀は悪いとは一切思わない。わずか1時間余りでロマンスカーは終点に到着してしまって、ビールは一杯でご納杯とする。昼食は箱根湯本で簡単にすませるつもりでいたが、12時前にてどなたもまだ昼食を摂るだけの腹具合ではない。バスにてお正月の箱根駅伝のテレビ中継でお馴染みの富士屋ホテルに直行することになった。正面玄関の左手に古めかしくも厳かな建物が二つ並んで立っている。ロビーではおよそ9年ぶりの邂逅となる妹の息子、浩明が出迎えてくれた。チェックインまで暫く時間があるので、昼食はホテルで済ますことにした。お勧めメニューは開業以来の味を持ち続けている伝統のカレーライスのコースだった。ビーフとシーフードの2種類がある。席が空くまでショッピングサロンなど見てまわってから友梨の子守を頼まれた。ゆったりとしたソファーに身を沈めて友梨を膝に抱き、ドイツ語であれこれ語りかけた。友梨は私の顔を覗き込みながら、何かを訴えるように懸命にもぐもぐと口を動かしている。慶和が動画のデジタルカメラでその表情を記録していた、その時だった。友梨がはっきりと「ハロー!」と言ったのだ。慶和は慌てふためいて泰子にその一部始終を物語っているが、UFOの情報と同じくらいの信用度のようだ。動画のデジタルカメラを再生してはこの口の動きだと説明をし、音声もとれているけれどイヤホーンがないので聞かせられない、と地団駄を踏んでいる。音声が収録されていれば、それこそ音声学の観点から幼児の言語獲得を専門領域とする慶和には友梨のそのときの一言は格好の研究材料だ。

1時を過ぎたあたりで漸く席に案内される。コンソメスープは品のあるさっぱり味で飽きさせない。そしてカレーの登場だ。私はシーフードを食べてみた。流石に伝統のある味わいだったが、後になってビーフカレーにすればよかったと悔いを残した。食べ終えてからあっちにすればよかったと臍をかむのはいつものことだ。ビーフカレーの方が900円安かったからではない。幸信さんは1200円くらいのカレーですかと尋ねるので、「シーフードは5,500円です」と答えた。サラダをたべたが、このドレッシングはナンプラーを使っているようにて私の口には合わない、デザートのシャーベットを舐めてコーヒーを啜ってお昼のコースはお仕舞いである。

私たちのお宿は昭和21年に皇室からご下賜となった明治28年建造の旧皇室御用邸の菊華荘である。建物全体は162坪の大きさではあるが、宿泊できる部屋は3室しかないので、こちらはご招待した年寄り総勢11人が借り切り、新婚夫婦は明治39年建造の本館1号館の3階のスィートルーム、菊の間である。4時からホテルのツアーがあるというが、私はそうした歴史にはさしたる興味はない。それでも若い人たちの部屋を覗くのも一興と、ぞろぞろついていった。途中の廊下には創業のとき以来の歴史を物語る写真や新聞記事などが壁に展示してある。チャップリンやヘレン・ケラー女史の写真、あるいはアインシュタイン博士のドイツ語によるお礼状なども垣間見られる。いよいよスィートルームである。ベビーベットも置いてあった。寝室の隣はゆったりとした応接の間になっている。左手には本館の入り口が見えていて、正面のガラス戸越しには川を挟んだ杉の木立がうかがえる。聞けば、その部屋は嘗て皇后陛下がご成婚さなれる前にお泊りになられた部屋だったとのことで実に畏れ多い。私たちは今度は別のルートでロビーへと戻り、バーを抜けて道を挟んだ別館の菊華荘へと足を運ぶ。玄関口に行き着く頃金木犀の香りがどこからともなく漂ってきた。それぞれの部屋に案内され、衣服を脱いで浴衣に着替え、旅の埃を洗い流すことになった。風呂に男女の区別はないが、お互い一緒に湯につかる年頃でもないので、男性郡が先んじることになった。昨日、出かけるにあたって準備万端身支度は整えたつもりだったが、下着のパンツを入れ忘れていたので漸く洗濯ができる。イの一番に浴場に出かけて真っ先に洗濯にとりかかって石鹸を洗い流してほっとしたところでガラガラと戸が開いて、頭だかなんだか境目の判然しない幸信さんの顔が現れて、先発が私だと確認して藤原君を伴って入ってきたので、私は慌ててその同じ桶で顔を洗った。

湯上りに缶ビールを一つ飲んで山の涼しい風を受けながらいつしかうとうとと寝入っていたら、近所のコンビニエンスストアーで揃えてきた缶ビールを私たちの部屋の冷蔵庫に仕舞おうとした泰子のつぶやきが夢心地に聞こえてきた。「あら、ま、網戸にしておかないから冷蔵庫の中まで虫が入っているじゃない!」夕餉のときまで今しばらくの辛抱である。

6時予定の夜のお膳は30分ずらしてもらったお陰でひと寝入りでき、体調は万全である。総勢13名の他に浩明夫妻と3歳になる息子の心ちゃんも招いてある。慶和一家が本館からやってきて新たな宴の始まりとなった。昨晩のパーティーとは打って変わった無垢品料理長の特別あつらえの寿膳の会席料理である。ホテル心づくしの2本のシャンペンのコルクが抜かれて、幸信さんの音頭で祝宴の始まりとなる。数々の前菜は雲丹やら香茸あるいは松茸麩漬けあるいはもって菊などなど他にも実にたくさんの彩りゆたかな品々が小さく盛ってある。どれもこれも嘗て一度たりとも舌に上ったことのない味である。吸い物は鱧、松茸、銀杏、湯葉、三つ葉をあしらった土瓶蒸しである。当然これは酢橘でいただかなくてはならない。藤原君は中のものだけ食べて、吸い物は泰子に差し出している。お造りの鯛は箸でつまんでかざせば、向かいに座っている泰子の顔が透けて見える程新鮮で、口の中でこりこりとする。鮪はこれまで仙台のゆりあげの鮪が2番目の味で、その一番は大間の鮪をおいて他にないと思い込んでいたが、これはいまで食した大間を上回る絶品にて、従って私がこれまで食した鮪の味の順位を入れ替えることになる品だった。嶋鯵にいたっては相模湾の近くでしか口にできない魚だ。これらの魚を土佐醤油でたべるのも初めてのことだった。シャンペンに続く日本酒が一段と進む。焼き物は子持ち鮎の塩焼きである。塩がたっぷりと振りかけられているが、青み大根とかぼすの苦うるか酢に浸して食べると、不思議なことに塩の味がかき消されて実に甘露な味になる。海老芋饅頭と鴨の煮物には百合根も入っていて、どうしたらかくも品があってこくもある、それでいて口触りのよろしい煮物となるものか。これまた逸品だった。中皿は和牛の焼き物である。これも日本食らしく添えられた酢橘のほの酸っぱい香りが絶妙な味を醸し出している。海老は玄米そして烏賊は蕎麦米、さらに帆立は麦で包んで俵揚げにされて出された。稲穂や紅葉などの揚げ物も添えられて、それはそれは美味なる出し汁に、もみじ卸しを加えて口にほおばればそれぞれの本来の味がさらに際立つ味わいだった。酢の物には独活で巻いた市松サーモン、それにいくらを射し込んだごく細い花丸胡瓜と花茗荷などが黄身酢の上にあしらわれていて、数々の食材はもとより、その黄身酢は得も言われぬ旨さだった。留椀には赤だしの味噌汁に蟹真薯やなめこがちりばめられ、粉山椒が振りかけられてすばらしい締めくくりである。ご飯は白飯の予定だったようだが、お祝いとの心配りだろう、赤飯となっていた。水菓子としては梨茄子とかいうものを甲州煮という甘い仕立てにし、春巻きの皮で何か甘味のものをはさんであげてあるものが出され、ゆずのシャーベットで口をさわやかにするという心憎いまでの気配りである。静かにお膳をいただいて、慶和に促され、無垢品料理長に挨拶をすませて、男性軍の部屋にて手年寄りどもによる2次会が開かれ、ここからは岩脇町お馴染みのどんちゃん騒ぎとなって夜が更けていった。

朝食は和食と洋食の二手に分かれ、慶和一家を含めた私らは菊華荘にてのんびり和食の御膳を心行くまで楽しんだのは言うまでもない。お膳の手前には渡り蟹の赤出汁、香の物、右手には鮪の山掛け、中ほどの皿にはわさび漬けがちょこなんと添えられた小田原の蒲鉾とからすみの昆布巻きが並んでいる。そして左手には烏賊とめかぶのわさび和え、右手の向こうの器には秋の果物を髣髴とさせる形にしつらえた野菜の煮物が彩りよく入っている。真ん中の上手にはトロ鯵の干物がある。これで藤原君は三度にわたってご飯をお代わりした。慶和らは9時に家族風呂を予約していたので、本館からきた迎えの車で戻っていった。至れり尽くせりで有り難い。


第五の章

手荷物を箱根湯本まで配送するように頼んで、今度は一同5キロほど離れたガラス工芸館へとバスで向かった。私と藤原君はそこの入り口で1981年創業渡辺ベーカリーにてパンを買ってくるということで後からタクシーでやってきた慶和を待ち受ける。程なくやってきた慶和たちも友梨をバギーに乗せて入場して行った。預かった袋の中からはいい匂いがしてくる。慶和が出来立てのシチューパンだから食べてみろと言い残していった。しばらく放っておいたが、これが冷めてしまったら本来の味を誰にも伝えることができない。その香りと言い訳に独り納得してその袋を開けてみると、夏みかんほどの大きさの丸いパンの上の部分が蓋のようになっていて、それを持ち上げてみたらビーフシチューのかぐわしい匂いが鼻に飛び込んできた。蓋の部分をシチューに浸して食べてみたところ、実に旨い。藤原君に食べるかと聞いたが、ともにドイツに旅行をしているときは仕方なくパンをかじって飢えを凌いではいるものの、朝飯の残りがまだ胃袋にあるようにて、要らぬと言うので全部ひとりで平らげた。1時ころになって皆さんお出ましとなり、本日の昼食はタマお姉さまご推奨の湯元の行列のできるラーメン屋を目ざすことになったが、シチューパンで腹を満たした私はラーメンには心が動かされない。近くのゴルフ場の入り口で麻由さんの伯父さんのお弟子さんが蕎麦屋を開いているということもあり、13人もの団体が乳母車をひきずってラーメン屋に行列するわけにもいくまいということで、ここからはラーメンと蕎麦の二手に分かれての行動と相成った。私たちは二台のタクシーで蕎麦屋へとひた走る。麻由さんと慶和に続いて私たちも挨拶をして、それぞれに蕎麦を注文。ここでビールを飲まなかったのは私と授乳を控えた麻由さんの二人だった。サービスに供された寄せ豆腐は豆の香りを残す深い味わいで、これに刻み葱をあしらってこれまた土佐醤油で食べたのだが、これも実に美味なる味だった。蕎麦は更科に近い手打ちで、腹も適度に塞がっていた私はせいろ蕎麦にしたが、漬け汁は日暮里の親方の味付けよりも幾分薄めではあるが、これまた旨い。東京から100キロあまり西のこの土地の口にあわせた味つけなのだろう。それでも矢張り手打ちの蕎麦は極上ものである。お座敷でくつろいでいたら、やがて今ひとつのグループの皆さんと再会する刻限も近づいてきた。タクシーを呼んでもらって宮ノ下の富士屋ホテルの下を過ぎ去って箱根駅伝では心臓破りの坂と言われるあたりをくねくねと下っていった。突然、泰子が昨日ホテルの部屋で供された栗入りの大福の味が忘れられず、近所の老舗の和菓子屋で求めようとしたが、扱っていなかったと言い出した。他の方々は翌朝のお目覚にしようと湯のみ茶碗を被せておいたのに、朝食に出かけている間に片づけられてしまった、という話がしばし続いた。タクシーの運転手さんの「富士屋ホテルのことだから自家製なのでしょう」との解説で納得がいった。泰子は私たちの部屋の大福は残っていたので出掛けにさらに摘まんで食べてみたが、皮が幾分硬くなっていたそうだ。ホテルの面子にかけても味の衰えた大福を食されるのは意に反することだろう。湯元駅について泰子らがお土産を買いに行って暫くしたとこころにタマお姉さまらも食事をすませて土産も買い終え、駅に向かってきた。お目当てのラーメン屋は生憎お休みだったそうである。タマお姉さまには唯一の心残りであったようにて、「今度はラーメンを絶対食いにこねばなんね」と鼻息が荒れていた。それでも、旨い蕎麦を食ってきた、とどこまでもへこむことはない。ご同慶のいたりである。

新宿までの帰路のロマンスカーは平日のせいもあり、座席は幾つも空いていた。私は一人座りながら窓の外を流れる景色をぼんやりとながめていたら、後の席で泰子と藤原君が生ビールの話をしているので慌てて振り返った。暫くして生ビールが届けられたが、さすがに旅も3日目になると飲み干すまでにいたく時間がかかる。ちょうどよい頃合で新宿だ。新宿で同道した妹と小岩さんに見送られ、山の手線のホームに乗り込む友梨につらい別れを告げて中央線にて東京駅へひた走る。新幹線のホームにたどり着いて、あとは車中の晩餐だけとなった。駅弁を求めに行く泰子にあまり腹にたまらぬものを所望する。藤原君はまたまた喉を労わってビールと鯖寿司それに鯵寿司を買ってきた。プラットホームの上で古川に帰る愛ちゃんとは右と左に分かれて私たちは「はやて」に乗り込んだ。音もなく列車が滑り出したら、いよいよ晩餐と最後の一献である。富士屋ホテルの浴場にあった使い捨てのコップがここでお出ましとなる。藤原君はロマンスカーで飲んだ生ビールのでかいコップを隠し持っていた。それぞれ、大小のコップでビールを一口飲んだあたりで、藤原君が鯖寿司を引っ張り出してきた。泰子とタマお姉さまは隣の車両でタバコを吸っている。藤原君は醤油を蓋の部分にそそぐなり、鯖をはがしてつまみにしている。わさびの載った寿司飯だけが残骸のように残されている。私にも食えと言うので、同じように鯖だけを肴にしてビールを飲んだ。鰺寿司も同じだ。残骸の寿司飯は朝食用に大切に持ち帰るのである。後ろの座席の幸信さんがビールは飲みたくないと言って、愛ちゃんが持参した灘の銘酒をくれと言って瓶を持っていこうとしたので、くだんのコップに8割がたお酒をついで差し上げた。列車の揺れでこぼれるのを惜しむ心遣いである。そしたら盛岡まで二度と酒をくれと言ってこなかった。宇都宮あたりを過ぎ去る頃になって残りのビールが少なくなってきたので、私らも日本酒に切り替える。向かい合わせのタマお姉さまの弁当のおかずをつまみながら泰子が買ってきた穴子の巻き寿司といなり寿司で少し腹を膨らます。日本酒が底をついたところで仕上げのビールである。仙台に着く前にビールもなくなってしまった。タマお姉さまと泰子は適度な揺れに合わせて船を漕いでいる。最後の仕上げは折よく通りかかった車内販売のレモンチュウハイでしめくくった。盛岡駅にお出ましのそれぞれの出迎えの車に乗り込んで短くも長い道中が終わった。家に帰り着いてほっとして又缶ビールを飲んだ。一人呑むのも亦楽しからず也。


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