シンガポール食べある記

日付が変わった3月9日の深夜にシンガポールの地に生まれて初めて降り立つ。パスポートの検閲は実に無造作にて英語の練習をしてきたのに何事も聞かれず、いささか拍子抜けのままぐるぐると廻るベルトコンベアーから所定の荷物を引きずりおろして出口に向かう。手荷物の検査も無くあっけらかんと外に出ることができた。ガラスの向こうに妹の恵美と義弟の耕次君が待っている。夜更けの所為なのか思ったほどの空気のよどみはない。耕次君の車とタクシーに分乗してマンションに向かう。

「ワタシ運転が下手やさかい、よう飛ばせえしまへんよってタクシーの方が先についてまっしゃろ」

耕次君の言葉通りタクシー分乗の4人はマンションの入り口で一服している。私も一服しようとしたがエレベーターに押し込まれた。30畳ほどもある大理石の床の居間に落ち着き、煙草に火を点けビールにて乾杯となる。さながら東京の都心にでもいるような夜景を眺めながらタイガービールを幾杯も飲み、人心地着いたところで鹿児島の黄麹仕込と能書きのある芋焼酎「伝兵衛」を甞めてみたら、これがきりりとした味でなかなかいける。酔えば腰が落ち着き、時の移ろいが忘却の彼方にいってしまうのはいつもの如し。下戸の耕次君相手に取り留めもない話に花を咲かせてグラスを傾けていたが、いつまでもお相手をさせているわけにもいかない。頃合を見計らってお休みいただき後はそこいらの奥方相手に更に飲み続けた。

烏カーと鳴かぬままに夜が明けたら泰子を除く女性陣は昼食の握り飯などを作っていた。つい先ほどまでお相手を願っていた耕次君が「寝過ごしてしもた」と言いながらあたふたと出社の仕度をし始めた。日頃は残り少ない髪の手入れにたっぷりと時間を割いているとの話だったが、今朝ばかりはさっさと済ませて、「ホナ、行ってきますよって」と出かけて行った。マレーシアから毎朝バイクでやってくる出迎えの運転手が耕次君を一旦会社に送り届けて、その兄の運転するタクシーと耕治君の車でフェリーの船着場まで私たちを送り届ける手筈になっていたのだ。あれこれ食料やビールそしてお酒をてんでに旅行かばんに詰め込んで予定していた通り9時30分には車に乗り込んだ。深夜に降り立ったチャンギ空港を左に眺めながら更に南の埠頭のタナメラ・フェリー・ターミナルへと邁進する。埠頭にはすでにこれから赴くビンタン島に向かう小さなフェリーが待っているが、そのフェリーに乗るには手間隙がかかる。シンガポールは淡路島ほどの小さな国だがビンタン島はそのシンガポールよりも大きく、しかもインドネシアの一部なのだ。出国カウンターで先ず荷物を預けて、引き続きパスポートの検査と相成る。ここでシンガポール入国の時のグリーンカードがこれまたあっさりと抜き取られ所持品検査が行われた。出国ロビーにて又もや来た時の飛行機の中で書かされたのと同じ類いの入国カードの記入が必要となった。旅行代理店があらかじめ記入例のコピーを寄越してくれていたが、そのお手本と手渡された入国カードは一部分違いがあってなかなか捗らない。ままよとばかり私が書いたものを手本に皆さん自分のカードにそれぞれ書き込んでいると、私らよりも年配のご婦人がその手許を後ろからしきりに覗き込んでいた。手には日本のパスポートを持っている。書き込むべき事項を参考にしようとしていたらしい。出航のアナウンスがあって乗船券を渡して船に乗り込む段になったが、小さな船は波に揺さぶられて桟橋との間隔が30センチほども上下するので乗り込む歩調をあわせるのに苦労する。私たちは2階の席に陣取った。相変わらず船は波に揺さぶられて身体が前につんのめったかと思えばまたすぐに後ろに倒れこむような繰り返しだ。ビールは預けた荷物の中で船のどこかに仕舞われている。下の入り口に売店はあったが上と下に傾ぐその動きに歩を合わせて階段を下りて、ビールを買い求めに行こうという気持ちにはなれない。船旅とはいえ一時間足らずの行程である。無飲無食で行儀よくシンガポール海峡の眺めを楽しもうと思う。これから更に南下するBintan Island(ビンタン島)は船の壁に掛かっている案内板の漢字表記だと民丹島となっていて、成る程と妙な感心をする。桟橋を離れた船は舳先を上に下にといよいよ激しく動かしながら邁進して行った。民丹島に着くや英語、中国語、日本語そしてドイツ語の入国手続きのアナウンスが聞こえてきた。ここでパスポートと入国カードそれにビザ用の米10ドルを出さなくてはならない。米ドルは昨晩のうちに耕次君が用意してくれていた。?子さんは財布の中からシンガポール100ドル札を取り出している。

「それじゃないよ、昨日の米ドルだよ」

「あらいやだ。持ってないわ」

「いや昨日耕次さんが用意してくれたお金」

「ないわ。どうしましょう」

聆子子さんが慌てふためいた。船着場では今日のお宿のバンヤン・ツリーの若者が出迎えてくれていた。英語ができる。恵美が事情を説明してシンガポールドルと交換してもらい、それぞれのパスポート等をその若者に託して入国の手続きを手際よく代行して、預けていた荷物もさっさと迎えの車に運んでいった。たった一晩の泊まりなのだが、何せ食料やらビールなどたんと持ち込んでいるので大きな旅行かばんが6人の頭数となっており、6人乗りのワゴンを用意していたが、その一台では収まらずここでもやはり2台の車の分乗となる。船着場を出てすぐに物々しい国境警備の検査を受けたワゴンは行き交う車がほとんどない長閑な景観の静かな道を突き進んで行った。暫く走ったところで又もやゲートがあって訝しく思ったが、それは国境ゲートではなく一夜お世話になるお宿の入り口だった。一旦停止してゲートが上がる様は今はもう無くなってしまったヨーロッパでの国越えの趣を彷彿させる。宿のチェックインの3時までに2時間半ほどある。まあ、いいかと話している内にレセプションの館に辿り着いた。物腰の柔らかなスラリとした女性が微笑みながらそれぞれをゆったりとしたソファーへと案内してくれた。茅葺の屋根の天井にぶらさがった天井扇がゆるゆると廻っていて、いかにも南の島の風情そのものを醸し出している。生姜味の冷たい飲み物が供された。インドネシア流に両の手の平を合わせて拝むようにしてSelamat Datang(ようこそいらっしゃいましせ)と言ってそれからは英語で名前を名乗ってくれたが、もとより覚える積もりもないので聞き流す。フロントでの遣り取りは恵美にすべてお任せであるが、一応クレジットカードを見せてくれというので、私のカードを差し出し、二人の遣り取りを傍らで聞いていた。日本にいるときからコテージに泊まるとは聞いてはいたが、そのコテージが70数棟点在している。私たちは503と407の二つのコテージに分散である。専用ビーチの場所も教えてもらった。チェックインの時間まで間があるが準備は整っているとのことですぐに部屋に落ち着くことになり、動物園にあるようなバギーで運ばれた。二人用のコテージから100メートルほど離れたところに503のコテージがあった。門を開けると4本の柱に茅葺の屋根がかかっているだけの居間風の空間に大きなダイニングテーブルを挟んでソファーが向かい合っていた。その先に15メートルほどのプールがあってその水はさらに20メートルほど下の海にそそいでいる。その左と右に小さな建物が向かい合っていた。右側の建物には自炊もできるキッチンがある。冷蔵庫と戸棚の飲み物はミネラルウオーターを除いて有料なので、ひとまず冷蔵庫の中の物は持参したビールなどと入れ替えてから、真ん中の居間のダイニングテーブルに、朝早くから皆さんが作ったご馳走を賑やかに広げる。海を眺めながらビールを飲み、握り飯やらサラダ、鳥のから揚げなどで遅い昼食をとっていたら遠い昔の遠足の想い出が浮かんできた。遠足は小学生の頃のことなのでビールは飲まなかったが、どことなく懐かしい記憶と重なって楽しい。この別荘風のコテージはすべての屋根が茅葺となっている。もっとも葺いているのが茅なのか藁なのかは確かめようもないが、この屋根が見た目にも暑さを凌いでいるような気がする。ビールを一杯また一杯と重ねる内に遠足気分は昼の宴へと移ろっていった。

2時頃になって門のところの呼び鈴が鳴った。日本語のできるインドネシアの若者が来てくれたのだ。心強くなったのはタイガービールの所為だけではなさそうだ。その時分になって気付いたのだが男の若者たちは頭にバンダナを巻いている。それはそれでよろしい。ただ一つ気になるのが額の真ん中の部分を三角に折り畳んで、その尖ったところがにゅうっと上に突き出ている。この鉢巻が白かったら気味が悪いだろうと想像した。今日のお宿のバンヤン・ツリーの従業員諸氏諸嬢すべからく折り目正しく私たち客をもてなしてくれる。こちらに運ばれて来る間に出会った庭仕事の若者もにこやかに手を振っていた。それはそれは肌理(きめ)細やかなおもてなしとさりげない気配りをしてくれた房総の安房鴨川グランドホテルと青森の大鰐温泉の錦水に働くこの二つの宿の仲居さんの立ち振る舞いが思い出された。10年近い前に泰子とドイツで1ヶ月ほど乗馬に明け暮れてロスアンゼルスに足を伸ばした折、ヨーロッパとは違うアメリカの人々の人懐こさに心を動かされ、どこまでものんびりと2週間ほど逗留したことがあったが、異国で受ける親切なもてなしは心をほのぼのとしてくれる。タイガービールだからといってもどんなに飲んでも大トラになることはなさそうだが、適当なところで切り上げて腹ごなしにプールに浸かってみた。深さは1、4メートルとなっているが、入ってみると水から外に出ている部分は顎から上だけで、昔の同僚から飛び上がり五尺などと揶揄された背丈がいささか気になる。ぷかりぷかりと進んで行く様は傍からは海に落ちていくように見えるだろうと想像する。もちろん仕切りの壁があって、そこから先の20メートルほど下の海に落ちていくのはプールから溢れる水だけだ。プールの先端の左はテラスになっていてテーブルと椅子が置いてある。右端にはジャグジーがある。スイッチを入れておけば30分位で程よい加減の文字通りの露天風呂となる。盛岡は暖冬とはいえそこかしこに雪がある今、海を眺めながらプールで泳いでいる今の姿が信じられない。全く寒くはないがジャグジーで露天風呂気分を味わう。一緒にプールに浸かっていたむっちゃんもいつの間にプールから這い出てプールとダイニングの間に置いてあるリクライニングのベットで身体をあぶっていたが、そのうちにのこのと歩き出したらしい。けたたましい叫び声が聞こえてきた。プールサイドの大理石の上でひっくり返ったようである。笑い声が聞こえるから頭は打っていないようだが、頭をぶつけたから大笑いしているようにも思える。このプールを挟んで立ち向かうその小さな建物には大きな寝室の隣に書斎があって、その先はクローゼットをしつらえた廊下になっていて、奥の右手に二つの洗面台があり、シャワー室とトイレが向かい合っている。このジャグジーの後ろの建物には先ほどのキッチンが備えられているのだ。どこまでも贅沢な造作だが、一夜の宿代でシンガポールに今一度来れる値段で安いとはいえないものの、無事に還暦を迎えた私らのご褒美と思えばさしたるものではないようにも思える。

ひとしきり遊んだところで下の方に見えるプライベートビーチに行こうということになって地図を片手に歩き出した。見当をつけたあたりで其処にいた例のバンダナを巻いた青年に白砂の磯に行きたいと言うと、見当をつけていた方角とは違う道順を教えてくれた。あまり英語が達者でないので左右を取り違えたのではいかと改めて尋ねたが返事は変わらない。歩いていかほどか、20分もかかるかと問えば5分あまりとのことで、宿のバギーを煩わすことなくぞろぞろと上り下りの道を歩いて行くと、磯の入り口の若者がこれまたにこやかに挨拶を送って寄越す。ここにも休息用のリクライニングのベットが備えてある。腰を下ろして一服つけたところで、くだんの若者がタオルケットを持ってきてくれた。どこにいても気配りが行き届いていて嬉しい。煙草を吸い終わって細かい白砂を踏みしめて、小波が寄せる海辺に目を移したらワニの赤ん坊がのそのそと歩いているのが目に入って肝を潰した。恐る恐る近づいてよく見たらそれはワニではなかった。赤い舌をぺろぺろと出しながらよたよたと歩いている。流石に南国の島である。トカゲも是ほどまでに大きくなるのかと感心して眺めていたが、何かの拍子に目をそらした隙にその姿は消えてしまった。同道の皆さんにワニだ、オオトカゲだと騒ぎたてたのだが、皆さん落ち着き払って、あれはイグアナだと教えてくださった。

海の中に走っていって寄せる浪に身を任せて飛び跳ねている泰子らにつられるように外国人の家族も漣(さざなみ)遊びに興じていた。帰りは歩くのが億劫になったので砂浜の上がり口のレストランのお嬢さんに迎えのバギーを呼び寄せるようにお願いしてコテージに戻ってきた。

夕食は別のリゾートホテルにあるプールサイドのレストランをかの日本語のできる若者を通じて予約済である。今夜はビュッフェスタイルで思いのままの食事をすることになっている。着替えて迎えのバギーに乗ってレセプションに行き、そこでタクシーに乗り換えた。フロントのレセプションからセキュリティーのゲートまで車で5分ほど要する。ゲートを抜けて夜道を走っていくと程なく目的のリゾートホテルに到着した。運転手君がレストランのフロントに行って確認している。ここでも愛想のよいボーイがプールサイドレストランまで案内してくれ、そこでさらに別のボーイに出迎えてもらって恐れ入る。ミセス真野が予約した6人です、と言うまでもなくすでに準備の整った私たちの席に誘ってくれた。席についたらメニューを持ってきたので恵美がビュッフェ形式じゃないのかと聞くと、ビュッフェは建物の中だし、「ツマラナイ」とここだけ日本語で答えたのには驚いた。中国人や韓国人も沢山くるだろうに私たちを日本人と判別していたのだ。恵美の思惑とは違ったが一向に構わない。恵美が初めてのレストランでもあるし、メニューを見ても見当がつかないから写真入りのメニューはないかとボーイに聞いている。日本のファミリーレストランのような写真入りのメニューなぞ望むべくもなし、私が検討をつけてみることにした。コース料理は無い。ドイツの焼きソーセージなどもあったが、あれこれ吟味してみるに皆さんステーキということになった。4人がサーロイン。私はラム肉にした。タマちゃんにはサーロインはいささか胃袋に負担が重過ぎる。ヒレ肉があると言うと、それにしようということで決まりだ。焼き具合については恵美はレア、泰子とむっちゃんはミディアムそして聞くまでもなく?子さんはウェルダンということでボーイにその旨言いつける。さらにボーイは焼き具合を一人一人確認して廻った。泰子が?子さんの肉についてShe is well-done!と説明していて、まるで火葬場にきたような心持になって可笑しくなった。私とタマちゃんの肉については聞かずともわかるというのでお任せする。試みにサラダも一皿頼んでみるに、果たせるかな大盛りでこれ又思い白いサラダだ。薄切りのジャガイモを揚げたポテトチップのようなものを辛味のきいたソースをつけて食べたらこれがなかなか旨い。ソースは2種類ある。その他のスティック状の生野菜や焼き野菜もてんでにソースをつけて食べているところにサーロインが運ばれてきた。恵美が固くて食べにくいと嘆いているから外の焼き具合は推して知るべしといったところだが、顎の運動になってよろしかろう。タマちゃんに向かってボーイが「フィッシュ、フィッシュ」と言いながらお皿を運んできた。「間違いだ」と言ったが、これがご注文の品だとあっけらかんと置いていった。filletにはヒレ肉のほかに魚の切り身の意味があることを失念していた。私のラム肉も硬いが不味くはない。タマちゃんの魚の一部と私の肉の一切れを交換した。魚は6人の内では比較的味もよく、何よりも顎に負担をかけぬ分を考えれば私の勘違いが功を奏したような気がする。ビールに続いてワインを飲む内にプールサイドの舞台から四拍子の太鼓の音が響き出した。泰子がその音にあわせて手をくねくねとさせている。ひとしきり太鼓が鳴ってからインドネシアダンスのショウが始まった。男と女のダンサーが太鼓の調子に合わせて踊り出す。なかなか賑やかだ。途中でダンサーが舞台から降りてきてそれぞれのテーブルに近寄り一緒に踊ろうと促す。私たちのテーブルを代表して泰子が登壇した。他の白人の客たちも一緒になって踊り出した。日頃からフラダンスに興じている泰子はすぐにその踊りの中心になって、四拍子の太鼓のリズムに合わせてぐるぐると回ったり、手をひねり腰をくねらせて鍛錬の成果を皆さんにご披露している。中心が泰子からそれぞれの白人に入れ替わり立ち変わり一頻り素人の踊りが続いた。ダンサー諸君が舞台から降りてきて、自分の髪飾りの花を私たちの髪にさしてくれて、今度は一緒に写真撮影である。初めにボーイが建物の中のレストランは「ツマラナイ!」と言ったわけがこのあたりになって納得できた。再度舞台で別のインドネシア舞踏がご披露されてショーがお仕舞いとなり、そのダンサー達が私たち全員を舞台に案内して、今度は舞台の上でそれぞれのカメラでダンサーの皆さんとの写真撮影である。カメラを取り替えて幾枚かの写真を撮り終えて舞台を降りるとき、タマちゃんの後ろから梯子段をおりて来るはずのむっちゃんが暗闇の草地に転げ落ちた。だが、今回もどこも怪我をすることなくにこやかに立ち上がった。大笑いしていないことからして打ち所が悪いはずはない。飲み物も少なくなくなりこれから先は女性方のデザートの時間となって、皆さん席をはずしてデザートの並ぶカウンターへと行ってご注文である。ボーイが「オイスイ!」と言いながら色鮮やかなとりどりのアイスクリームの入った大きなグラスを運んできた。タマちゃんはスイカのジュースも頼んだようだが、これはとりとめもない味だったようである。  

9時になって迎えのタクシーとバギーを乗り継いでコテージへと舞い戻り、今度は冷蔵庫に冷やしておいた月桂冠の大吟醸で口直しをして、プールに浸かって空を見上げたら星がいくつか点っていた。浪の音を聞きながら夜空を仰ぐ露天風呂を独り占めにしていると、どこからともなく鳥の啼く甲高い声が聞こえてきた。ドイツ語のNachtigall、日本語で曰く夜鳴き鳥だろうと解説を試みるも、壁にはりついているヤモリの声だと教えられてまた肝を潰した。プールで泳いでいたむっちゃんと?子さんはいつの間にかあちらのコテージに引き上げていた。恵美もタマちゃんも眠りについたようだった。泰子はシャワーを浴びている。私は玄関ドア、各ガラス戸の戸締りを一つ一つ確かめてヤモリの進入を塞いで三方にレースのかかった大きなベットに入って、南国の王様のような心持になって深い眠りについた。

一夜明けて目を覚ましたら眼下の潮は500メートルくらい引いていた。この数ヶ月来私は朝は大豆の粉末のような類いのものをジュースにして飲んでお仕舞いという慣わしだが、今朝はそれを破って皆さんと一緒に食事をすることにした。又もやバギーのお出ましを願い、昨日の白砂の磯と反対側のところにあるレストランに向かった。ここでもインドネシア流儀の挨拶を受けて今度こそビュッフェ形式の朝食となる。熱帯樹の大きな木の下のテーブルで海を眺めながら食べることにした。館の中のカウンターにはインドネシア料理が主だがライ麦パンもある。ドイツのレストランでは初めにグレープフルーツのジュースから始めるのだが、入り口のところのジュースのコーナーの手前にあるシャンパンが目に入り、迷わず今朝はシャンパンから始めることにした。カロリーの少なそうなご馳走を載せたお皿とシャンパングラスで手が塞がっていたためにお尻でドアをあけようとしたらボーイが開けてくれた。偉そうな顔で会釈をして席につく。シャンパンの味は私の口にぴったりだった。第一回目のご馳走のお皿が底をつく前にシャンパンを今一度酌みにいった。今度は片手だからボーイの手を煩わす必要はない。むっちゃんが「シャンパンを酌みに行ったけれどサイダーしかなかった」とぼやいている。

「それにしてもこのサイダー味がない」

「それって炭酸入りのミネラルウォーターでしょ。」

「んだが?」

お皿が空になったので新たにご馳走を取りにいったら、たっぷりの氷に浸かったシャンパンの壜があった。今度は係りのお嬢さんが注いでくれたし、ボーイはにこやかにドアを開けてくれている。インド風にナンにカレーをつけて食べてみたらこれもなかなか旨かった。ボーイがきて玉子料理は何にするかと聞くのでオムレツを所望する。これで三皿目のご馳走を取りに足を運ぶ手間はなくなったが、シャンパングラスは直に空になるのでまたお料理の館まで歩かなくてはならない。シャンパンを飲めば酔ってくる。酔えば美味しいお酒だけにもっと欲しくなる。然れども舌は滑らかに動くのだが、身体を動かすのが億劫になるのは如何ともしがたい。だが、ここの従業員の諸氏諸嬢は先にも記した通りどこまでも教育が行き届き、客の心までも読めるようである。そろそろシャンペンが飲みたいが、出来得るならば動きたくないという頃合を見計らうように、「如何ですか」とシャンパンの壜が私の顔の横からにゅうっと出てきたから恐れ入る。有難く頂戴した。コーヒーのお代わりも折角のご奉仕だから遠慮なく頂く。程よくオムレツも出来上がった。薄味だ。塩とコショーも併せ持ってきてくれているので双方をぐるぐると捻ってオムレツに振りかけて好みの味に調える。お腹も適当に膨れた。シャンパンもご納杯の頃合いとなる。ボーイが同席の皆さんにシャンパンを勧めるが、どなたも辞退するのに合わせて私も丁重にお断りし、コーヒーを飲み干したところに別の係りの女性がシャンパンを持ってきた。お断りするのは失礼なような気持ちがして最後の一杯を感謝を込めて頂いて二時間あまりの朝食が終わった。

食事に続いて横にあった小さな店で買い物となり、私は表で潮風にあたっていたが、泰子が一緒に来てくれと言うので入って行った。ガラス工芸品とそれに併せた絹のテーブルクロスを買い求めたいが、どのテーブルクロスにしようかとの相談だった。ガラスの工芸品は四角い筒状で赤い珊瑚と竜の落とし子の柄模様が綺麗だ。花を活けてもよし、蝋燭を中に入れて点したらさぞかし映えそうだ。すぐに決まって今度は覚えてきた英語での値引き交渉の始まりだ。どうやら20パーセント引きということで合意が成り立ったようで、私の財布から幾枚かの100ドル紙幣が消えていった。ホテルの代金その他は恵美が代表して支払うことになっていたので泰子は自分の財布をシンガポールに置いてきていた。コテージで帰り仕度を整えて12時に迎えのバギーに乗ってフロントに行ってみると、そのガラスの品は厳重に梱包されて届いていた。又もや2台の車で分乗して昨日の船着場へと向かう途中、サイに注意の看板が目に入った。盛岡なら熊に注意といったところか。船着場では別の係りの女性が私たちを待ち受けていて、すべての必要事項を書き込んである入国カードと乗船カードを手渡してくれた。至れり尽くせりで有難い。出国までは時間がある。別の男性の係りにエスコートされて女性方はここでも又もや買い物に出かけた。荷物は私たちを運んできた運転手がすでに預けてある。このビンタン島への旅行を司った日本の代理店にもこれくらい行き届いたサービスをお願いしたいところだが、どうも航空券ほどの見返りはないようにてそれも仕方ない。帰りの航路は浪おだやかにしてなめらかに昨日の埠頭に辿り着いてシンガポールに再入国となった。

日本とシンガポールの間は飛行機で7時間ほどの行程にして時差は1時間なのだが、赤道のほぼ真下にある所為なのか、よろよろとした小さなフェリーで50分くらいの距離の民丹島とシンガポールの間の時差はさらに1時間である。摩訶不思議。

夕食はマンションからさして遠くはないところにある中華レストランでの海鮮鍋である。たっぷりと摂った朝食の分はいい具合にこなれている。店の前の公園のような駐車場に車を停めた。料金のゲートもなければ見張り番もいないので不思議に思って耕次君に聞いてみると、あらかじめ駐車用の切符を購入してあり、それに日付と時間をパンチした切符を車のフロントガラスの部分に置いておくとのことだ。人手も機械も使わぬ実に合理的なシステムに感心する。行った先はレストランとは名ばかりのような狭苦しい店で、予め予約してあった私たちのテーブルは我が物顔に歩道を占領している。歩道と店内の境目の大きなテーブルにご飯をまき散らかせながら、せっせと食事をしていた中国人はこの店の従業員だった。先に到着していたタマちゃんと恵美は車道を背にして座っている。喫煙席は店内にあるテーブルで、そこは埋まっていたので煙草を吸いたい二人は車道すれすれの椅子になったようだ。うっかり後ろに倒れたら車に引かれてしまうから、むっちゃんを座らせる訳にはいかない。大きなガスボンベがテーブルの横に運ばれて薄汚れたしゃぶしゃぶ鍋がガス台の上に置かれ、スープがじゃーっと流し込まれた。活きた海老やら野菜を放り込めばすぐに食べられる。スープを飲んでみたら程よい塩味にコクがあって実に旨い。海老はさっと湯がいて頭と殻をはずしてむしゃむしゃと食べる。一昨晩耕次君が用意してくれ、ただ湯がいただけの海老と同じく身が引き締まっていてこれも矢張り甘みがある。スープはなくなればいくらでも足してくれる。同じような店が並んでいるがこの店の海鮮鍋が一番旨いとのことである。店内の水槽でミル貝が大きな身をぺろりとだして、ぷかぷかと浮かんでいる。これは刺身にして食べる。日頃食べている貝と同じ味だった。

食事の次はナイトサファリ見物だ。タマちゃんと泰子は以前に行ったことがあるので、二人はマンションで休むことになって、5人ですっかりと夜の帳(とばり)がおりた高速道路を邁進した。30分ほど走ったところにあるナイトサファリは開園して10数年になるという。敷地は40ヘクタールとのことだが、どれくらい大きいのか、その広さの分別は曖昧である。夜になっても人目に晒されるのでは動物も落ち着かないだろうと不憫に思ったが、すべて夜行性だそうで昼間の動物園とは場所を異にし、こちらの方は日没後から12時までとのことでひとまず安心する。歩いて見て回るのかと思ったが専用の乗り物で園内をぐるりと回る行程だった。次の日本語のガイドのトラムまで一時間ほどあり、ここでまた太鼓のリズムに合わせて松明を片手に踊ったり、ガソリンを口に含んでは勢いよくそのガソリンを吐き出して火をつけてみせるショウを見たりして時間を潰す。その間に3名の女性は勇敢にも徒歩コースの探索に出かけた。私は暗がりから獣に襲われたり、頭の上から蛇が落ちてきそうな気がしてアイスクリームを舐めている耕次君と一緒にビールを飲んで過ごす内に時間となった。 

トラムは4人がけの椅子が幾つもある屋根がついているだけのトロッコのような四両編成となっていた。現地の女性の日本語ガイドの合図でそのトロッコ仕立てのトラムはごとごとと動き出した。野生の動物であるし、夜行性だからカメラのフラッシュを点すことはできない。トラムのヘッドライトも消された。運転手君も夜行性なのか、うねうねとしたジャングルの道をはずすことなく進んでゆく。右に左に仄かな明かりに照らされたフラミンゴやシマハイエナが見えてきた。インド狼もすぐ近くにいてこちらを見ていたので襲ってきやしないかと恐ろしくなった。時に徒歩コースの人間に出くわすこともあるが、ガイドはその種別については何も言わない。水牛や金色のジャッカルもいたがライオンや怠け熊はどこかで惰眠をむさぼっているようだ。ひげ猪は2回見た。今年は我が還暦の猪年であるだけに何とはなしに愛着が感じられる。首から尻の辺りまでが白いペンキでも塗られたようなおかしな模様の獏は草をはんでいた。夢だけでは生きていけないのだろう。大アリクイは長い嘴のような口が特徴的だ。ありを食べるだけでこんなにでかくなれるものかと思うほど矢鱈と大きいその身がトラムに近寄ってきたので?子さんが大声をあげて身体を捩じらせた。獣に襲われることもなくナイトサファリの夜は更けていった。

11日の日曜日の朝も好天だ。朝食を済ませて女性陣は耕次君の車で買い物ツアーにでかけたので、私は留守番の格好だ。130分に小籠包(しょうろんぽう)がシンガポール一旨いことで知られた店で落ち合うまで何もすることがない。実に快適である。日本のNHKの番組がテレビで見られるが、ここまで来て日本のテレビを見ても仕方ない。外から聞こえてくる何やら賑やかな中国の祭囃子のような騒ぎに気をとられながらソファーに横になってぼんやりしていたら耕次君が帰ってきた。昼寝の時間のようだ。一頻り居眠りして起き出してきて、「ほな、でかけまひょか?」と声をかけてきた。途中、女性たちが買い物をしていると思しきお店が立ち並ぶチャイナタウンをすりぬけて行った。成る程もう1時半になろうというのに客が行列している様は日本と同じだ。店は間口が一間ほどで丸いテーブルが56個並んでいるだけである。主人が出てきて人数を確認している。女性陣は買い物に夢中になっているようで幸いまだ現われない。7人が入れるまでには当分間がありそうだ。2時近くになって漸く頭数が揃って無事に7人が肩を寄せ合うようにして小さな丸いテーブルを囲んだ。食事の前の薬を飲まなくてはならない。お茶を運んできた店員に薬を飲む為の水を所望すると女将さんらしき女性がなんやら指示をしている。大きなコップになみなみと注がれた水は生ぬるい。中国では薬は冷たい水で服用してはならないことになっているとのことにて、ぶっきらぼうな女将の細やかな心配りが有り難かった。小籠包は注文を受けてから作るようで蒸しあがってくるまでに大層時間を要する。耕次君曰く、「こんなによーけはやっとるんやさかい、作っておいたらよろしかろう思うんやけど」そこがこの店の心情なのだろう。作りおきだったら忽ち客足は遠のくこと間違いない。併せて水餃子も頼んである。果たして小籠包が出てきた。熱々の竹の蒸し器から一つ取り出し、黒酢と醤油で食べてみるに、つるりんとした舌ざわりで皮は薄くて、やわらかい。具と共にその煮汁が口の中で美味しく広がる。熱いところをふうふうといいながら瞬く間に食べてしまった。もう一口ほしくなる。水餃子が出てきた。皮も具も申し分なき味。耕次君が、「なあ、ちょっと今度は蒸し餃子持ってきてんか!」と大阪弁で注文している。そしておなじことを中国語で言っている。

「日本語のほうがきっちり通じますんですわ。ホンマ!」

成る程蒸し餃子がでてきた。どれも甲乙つけがたい。

食事が終わって私一人マンションに送ってもらう。皆さんの買い物の袋を幾つもぶら下げてエレベーターに向かったら守衛がすっとんできてエレベーターのコールボタンを押した上で何階に行くかと聞くので、19階だといったらその行く先ボタンを押してくれた。一人のんびりと昼下がりの時を送りながら、うとうととしていたら電話のベルがなったので、受話器をとったら耕次君だった。お元気ですか?と言いそうになったが、ここは彼の家であることに気がついた。迎えに来てくれたのだった。そそくさと降りていく。

夕食はシンガポール川のほとりの中国料理店「珍寳海鮮楼」に予約がとれている。川沿いのテーブルはどれも塞がっている。蟹をむしゃむしゃと食べていたら伊勢海老がどっさりと出てきた。海鮮鍋の甘みのあるあのブラックタイガーとは当然異なった味ではある。たっぷりの黒胡椒とあれこれ香辛料を混ぜた特製の醤油で炒めてあるようなのだが、いくらでも食べられる。テーブルのフィンガーボールなどで指を洗うくらいではとても間に合わぬほど手を油で汚しながらも大きな殻に格闘するようにして満喫する。これでもう十分といったところだが更に丸々とした北京ダックが運ばれてきた。耕次君が何やらごにょごにょとウエートレスに命じたら持っていってしまったので、ただ見せにきたのかと思っていたら、きちんと食べやすく肉をそいで持ってきた。皮に特性のテンメンジャンを塗りつけ胡瓜と一緒にくるんで食べてみる。皮の甘みと濃厚なたれの甘みが口に広がっていく。パリパリとしたアヒルの皮と肉汁が出てくるほどの柔らかな肉の舌触りも格別だ。デザートが出てくる頃合になって日が傾きはじめて、川の水面に辺りのネオンサインの明かりが揺れている。たっぷりの食事の後は隅田川に浮かぶ屋形船のような小船に乗って川風に吹かれる段取りとなっていて、これまた楽しい。右の岸にはとりどりの灯りに照らし出された屋台がずらりと並んでいるのが見える。微かな潮風の香りが漂ってきたあたりで船は反対の岸の方へと構えを変えて、今度は左に赤提灯の屋台を見ながら進んでいった。幾つかの橋を頭すれすれにして抜けて国会議事堂などを見ながら進んでいくうちに、先の右手にシンガポールの象徴であるマーライオンが見えてきた。上半身がライオンで下半身が魚という奇妙なその8メートルほどの白い像は大きな口から海水を勢いよく吐き出している。この地に上陸したスマトラの王子がライオンに似た動物を見てサンスクリット語で「シンガ(ライオン)プーラ(都)」と呼びこれが国名になったとも言われているようだが、真偽のほどは定かではない。このマーライオン公園を一めぐりして先の海鮮楼の下の船着場へと船は戻ってきた。どの屋台もレストランの川沿いのテーブルも大勢の客で賑わい、シンガポールの夜は暗がりを知らぬままに朝を迎えそうな気配だった。

一夜が明けていよいよ最後の一日である。昨夜の内から今日の朝食についてあれこれ話がもたれたが、シンガポールの朝の始まりは遅く、朝飯を食べに行こうにも11時頃にならねば店が開かないようだ。3時にラッフルズ・ホテルのハイティーとやらを予約してあるので朝昼兼用の中国粥を味あわせたいと、耕次君が10時過ぎになってから目当てのレストランに電話をかけてみるも、つながらない。もう仕込みの時間なのだから従業員は忙しく働いているはずだが、中国人は店を開ける前に電話などには出ないらしい。私と泰子は耕次君の車でリトルインディアに連れていってもらって、靴やセカンドバックなどをそそくさと買って朝昼兼用の食事をすることになっているレストランで落ち合った。 

今朝も大豆のジュースはお休みである。ここでも薬を飲む為の水を所望したところボーイはぬるま湯を持ってきてくれた。ビルの中ということもあるし、気取ったレストランにてボーイもウエートレスもみな折り目正しく、礼儀がよろしい。しかし肝心なのはその味である。どこでも食事の前にまさしく青南蛮という文字が相応しい青唐辛子の酢づけのようなものが呈されるのだが、このレストランのその青南蛮はこれまで食べたものの中でも最も味に品がある。果たせるかなお粥の味付けも正しく期待通りだった。私と?子さんそして耕次君の3人が食べたぴーたんのお粥も皆さんご所望の鶏肉のお粥も絶妙な塩味だ。海鮮のあんかけ焼きそばも流石これが本場の上海の味だろうと想像がつくものである。食事がお仕舞いとなれば私はもう用事はない。私と耕次君は一度マンションに帰ることにした。奥様方はチャイナタウン、アラブストリートそしてリトルインディアにて十分すぎるほどの買い物を済ませている。泰子とタマちゃんはスーツケースさえ買い足した筈だが、午後のハイティーのラッフルズ・ホテルとその近辺でさらに買い物をするという。1887年創業のラッフルズ・ホテルはサマセット・モームがここでその秀作「雨」を書き上げたことでも知られている。ヘッセもここに泊まったという。1942年にシンガポールが旧日本軍によって占領されたときには昭南旅館と改名させられた不幸な時代もあったようだが、平和な今、多くの日本人観光客も訪れるようだ。3時近くなって私たちはそのラッフルズ・ホテルに向かった。「ワタシはケーキはもうええでっさかい、また後できますわ」と言って耕次君は私をそのホテルの玄関に降ろしてくれた。金モールの制服の背の高いインド人がドアを開けて私を迎えた。恵美が後ろから声をかけてきた。きょろきょろとあたりを見回している。目を離したすきにみんながどこかに消えてしまったようだ。ほどなく皆さん無事に揃い、気品のあるどっしりとしたヨーロッパスタイルの天井の高い豪奢なロビーに入っていった。レストランに入ると優雅な竪琴の調べが耳に心地好く響いてきた。壁には中世の大きな絵画が掛かっている。席に案内されてガラス越に中庭をながめるとその奥に3階建ての建物が目に入った。客室のようである。ナプキンを椅子に置いて食べ物を取りに行く。席にはヨーロッパの人々が優雅に食事をしたり、お茶を飲んでいた。手前にデザートのケーキがあるがそんなものには目もくれない。飲み物のコーナーにはジンやらウイスキーなどが並んでいる。その向こうに立っているインド人がカクテルをつくってくれるようなのだが、どう注文してよいのかわからないし、ウイスキーをオンザロックにしてくれというのも気がひけたので素通りした。どれにしようかと迷うほどいくつか料理が並んでいるが、手を伸ばしたくなるようなご馳走が目に入らない。カレーがあるということだったが、カレーはなかった。前をいくヨーロッパ人の若いカップルと同じようなものを幾つか取り揃えたが、最後は餃子とシュウマイを皿に盛った。席につこうとしたらナプキンはきちんと折り畳んで椅子の肘掛に綺麗にかかっていた。ボーイが紅茶をカップに注ぐ。ハイティーなのだから供される飲み物は紅茶だそうだ。ビールはないと言う。恵美がボーイに聞いたらカクテルはあるが別料金だとのことだった。泰子が先ほどの見張り役のようなインド人にカクテルをつくってもらうよう交渉してきたという。その数を横のボーイに言いつけるようになっているらしい。アルコール抜きとアルコール入りのカクテルができるそうだ。私はもちろんアルコールたっぷりと言ったが、横のボーイに泰子がそこまで伝えてはくれなかったと思う。餃子は焼いてある。旨くない。例の小籠包の店で耕次君から中国人は焼き餃子はあまり食べない。作り置いた餃子が残ったりしたら、後から焼いて食べるのだと聞いていた。ラッフルズ・ホテルの焼き餃子はその類いのものではなく、日本人客への心遣いだろうと思う。シュウマイは海老入りでなかなか旨い。ほかにも何やら彼やら食べたのだが、西洋のカップルにつられて盛った料理が何だったのか判然しない。カクテルは南国の果物のジュースにジンやらウイスキーなどが入っていて旨かった。タマちゃんのカクテルにはもちろんアルコールは入っていない。このジュースはビンタン島の夜の食事の時のジュースとは違ってどへーっとしてなくて、美味しいと言っている。タマちゃんはデザートにケーキではなく、お汁粉のようなものを運んできたがどうも旨くはなかったようである。それでもこのハイティーもデザートをきっちりこなすには1時間半ほども要した。表に耕次君の車がすでに待っている。耕次君は会社の近くの食堂でダックライスを食べてきたと言う。ハイティーの値段で何週間も食べられそうだ。パリパリに焼けたアヒルの皮に甘辛いたれを絡ませて食べた耕次君が羨ましくも思えた。暮れなずむこれからセントーサ島に繰り出すことになっている。シンガポール最後のスケジュールだ。

朝昼兼用の食事の直前に買ったセカンドバックの留め口の鍵がロックされて開かないので、耕次君を煩わせて今一度リトルインディアのデパートに立ち寄って別のかばんに換えてモノレールが発着するセントーサ駅に向かう。ここからはわずか800メートルほど沖合いに浮かぶセントーサ島までモノレールだ。一つ目の駅のウォーターフロント駅で停車したので降りようとしたが、プラットホームに備え付けられた壁が邪魔して出られないので止む無く次のインビア駅で降りた。ここでも本土を眺めるようにして聳える巨大なマーライオンが出迎えてくれた。ミュージアムがあるので入ってみる。まずは50人ほどが入れる小さな部屋でシンガポールの歴史が5分間放映された。係りの女性から左の席に座るように促された。スクリーンの左に日本語の字幕が現われて納得する。 

続いて暗い館内を矢印に従って歩いていくと島の原住民の暮らしぶりが時代をおって随所で紹介されている。中には蝋人形かと思ったら従業員が佇んでいたりしてややこしい。すべてに日本語の説明がついていてご丁寧に耕次君が一つ一つ読み上げてくれた。半ばあたりまで来ると旧日本軍の残虐行為がビデオで紹介されているところがあり、それから先の道順は心なしかうな垂れてしまう。足早に外に出てきたら本土が夕闇に包まれようとしていた。とっぷりと日がくれたらミュージカルファウンテンで光と噴水のショーが始まるというのでそのウォーターショーを見に行った。座席はどんどんと埋まってゆく。ウォーターフロントの背後の巨大なマーライオンがライトアップされている。目は青く輝いていた。7時半頃になって暗くなっていよいよショーの始まりだ。どういった仕掛けなのかは皆目わからないが、水しぶきに映像が浮かび上がって面白い。孫の友梨にみせてやったら釘付けになったことだろう。30分ほど見て途中で席を立った。帰りの荷造りをせねばならぬし、何よりも明日は夜明け前の3時半に起き出して空港に向かわなくてはならないので、そうのんびりとしているわけにもいかない。本土に戻ってマンションに行くのに初めてタクシーに乗った。タクシー乗り場にはタクシー用のコールボタンがあるので、それを押すとすぐにタクシーがやってくる。タクシーが無駄に待機する必要がなく実に合理的なシステムだと感心する。30分ほど走ってマンションに着くとセキュリティーの門番がゲートを上げてくれた。耕次君らも今しがた着いたようだった。

今年はシンガポールも天候不順のようにて毎日雨にたたられていたようだったが、私たちが滞在している間は一日に一度は降るというスコールにさえも見舞われることはなかった。シンガポールに来て美術館を見たわけでもなし街の中を散策もしなかったが、アメリカやヨーロッパにいた時とは全く違った楽しみがあった。食べ歩きだ。

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