病 中 模 索
私は正真正銘の歴とした糖尿病患者である。この病を得たのはいつのことだったのか判然としないほどその来歴は古い。20年は下らないだろうと思う。境界型糖尿病の疑いがあるとされたのは勤務先の健康診断でのことだった。その翌年に勤務先の医師による詳しい検査が施されて境界型糖尿病だと診断が下され、以後は定期健康診断ではなく人間ドックを受診するよう指示された。だが、所定の検査を受けたところで診断結果が変わることはなかった。知り合いのドクターに相談したらホームドクター、つまり掛かり付けの医者を定めて月毎に血糖の検査をするよう勧められた。そのドクターはとある会社の勤務医で、開業はしていない。どなたに主治医をお願いしようかと思案の挙句にドイツ語の市民講座の受講生の中に内科の開業医が一人いた。私はその宙尊先生にお縋りすることにした。宙尊先生は私が担当する市民向けドイツ語講座の受講生であると同時に飲み仲間でもある。講座の打ち上げに際しての宴会はもとより、ご自宅にも招かれて先生手ずからのお料理に舌鼓をうちながらお酒を頂戴したことも度々あった。糖尿病は治癒の見込みはなく、一生この病と上手に付き合うことが肝要だと諭されたうえで、「これからは大らかには飲めませんな」と慰められた。私はこの「大らか」の意味は「たっぷり」と捉えた。私が「大らかに」お酒を飲むようになったのは20歳を過ぎた頃からだ。大らかなのはお酒だけではない。本物の大酒飲みとはつまみなぞは口にせず、塩を舐めるだけでも一升位は飲むくらいの人物をいうのだろうが、私はグラスや猪口を傾けている限り、箸を動かしていなくてならない飲み助である。酒飲みの風上にも置けない輩かもしれない。次々と好みの肴を漁るように食べては、人並み以上にお酒を飲み続け、あれやこれやの好みの料理に箸を伸ばした後で、ラーメンやらざる蕎麦を食べて仕上げにビールを呷(あお)って、漸くご納杯としてきた。これで糖尿を患わない筈はない。朝も昼もきっちりと食する。それも人一倍の分量である。好き嫌いは殆どないが、その好き嫌いというのは食べ物のことではない。味そのものにはどこまでも自分の好みに執着して融通がきかない。味の付け方が私の思い通りでなかったり、食材が熟成しすぎたりしていれば、どんなに好みの食材であろうとも一切口にしないし、いたく機嫌が悪くなってあたりの雰囲気を汚してしまう。余所で飲む折は別として、我が家で晩酌をするにあたっては肴の順番にも一々注文をつける。私の気分の赴くままに肴が出てこなければすぐさま癇癪を起すのでカミさんは戦戦兢兢たる思いでいる。
糖尿病を患う以前はビールはもとより日本酒、ウイスキー、ワインなど酒類を選ばなかった。とはいってもそのうちのどれを飲むかは供される料理によって思いのままに変えてきた。嘗ては酒の肴は和食が中心であったので日本酒が圧倒的に多かった。日本酒は忠臣蔵の赤穂の浪士が討ち入りにあたって飲んだとされる「剣菱」か、これも矢張り灘の「菊正宗」に限っていた。九州は博多で9年暮らしたこともあって、やがて焼酎の味にも慣れた。但し鹿児島の芋焼酎に限る。麦焼酎は一切飲まない。昔の同僚が博多から盛岡に訪ねてきてくれたことがあった。私はその同僚と飲み屋を梯子した揚句に我が家に帰ってきて改めて仕上げにビールを飲むことにした。この時はビールが冷えていなかったのだろうと思う。私は台所から酒瓶を出して燗をした。夜中をとっくに廻っていたのでカミさんは幼い子供を寝かしつけている間にそのまま眠り込んでしまったようだった。二人とも大層酔っぱらっていた。廻らぬ呂律で「流石に剣菱は辛口やね」などと口にしたのだが、ふとその一升瓶に目をやったら、果たしてそれは芋焼酎だった。
やがて私は境界型から本物の糖尿病患者となった。宙噂先生は仕方なく薬を処方してくれた。私は勢いづいた。これで怖れることなく日々お酒が飲めるような気がしたのである。「類は友を呼ぶ」の故事の通り、私の周りには飲ん兵衛仲間は事欠かなかった。血糖値はもとより月毎の血糖値の平均値であるヘモグロビンA1Cの数値も上向いた。同病相哀れむ仲間もいる。お互いのヘモグロビンを披露しあいながら、「それ位だったら、俺より低い」と言われるままに、その友人の粋を超えぬように心がけながら私は日々お酒とご馳走に明け暮れた。
齢を重ねるうちに体のあちらこちらに不具合が生じてくるのは止むを得ない。まずは歯が蝕まれるようになってきた。高等学校の先輩が岩手医大歯学部の保存科の教授であり、私はその先生に治療をお願いしたが、教授の方も目が霞んできているとのことで、治療は矢張り私の高等学校の後輩にあたる若い医師が担当してくれた。左の奥歯が蝕まれて治療が終わる頃には右が虫歯に苛まれるという具合で私の歯学部通いの頻度はいや増した。ある日この若い医者から舌の裏側に異常が見られるので口腔外科を受診するよう指示された。暫く前から舌に違和感はあった。その頃、私は表向き禁煙していた。これまで何度禁煙したかのかはとても覚えていられない。私は屋根裏の書斎に上がってはぷかりぷかりと薄荷の味の煙草をくゆらせていた。この頃、タバコを吹かすと舌の裏側あたりがひりひりとしていて少し気にはなっていた。だが、隠れて吸うタバコの味がこの上なく旨いことは高校生の頃から慣れ親しんできていたので尚の事止められない。保存科の教授から直々に口腔外科に連絡がいっていたようだった。早速、診察が始められた。担当した医師は助教授だった。「口腔白板症」という病名が告げられた。舌の裏側の一部が白くなって角質層が出来ていたのである。助教授の診断に基づいて後日、主任教授が改めて私の舌を眺めた。助教授の診断は正しかった。放っておくと舌癌になる可能性が大きいから、出来るだけ早いうちにその角質層を取り除く必要があると宣告された。私は成る程と思って手術を受けることにしたのだったが、時がたつにつれて手術が煩わしくなってきた。生き永らえることへの妙な反発心が私の心の中でむらむらと沸き起こったのだ。次の診察にはセカンドオピニオンとして別の科の主任教授が診察してくれた。診断結果が翻ることはなかった。二人の教授から禁煙を勧められたのだが、私は禁煙する積りはさらさらなく、予め認めておいた手紙を先の主任教授に手渡しながら手術は受けないことにする、と言って診察台を降りた。カミさんにはこの経緯は話していなかった。その数日後、突然、カミさんから何故に手術を要する程の病状について一言も語りもせずにいたのかと詰問された。手紙を読んだ主任教授は私の心の内を推し量ることが出来ず、カミさんに私の翻意の筋道を尋ねてきたようだった。私は充分に生きてきたし、息子らももう少ししたら学業を終えて一人前になろう。それ位は生きていけそうだから、このまま此れまで通り好き勝手に過ごして最期を迎えたいという胸の内を明かした。カミさんは納得してくれた。やや暫くして宙噂先生からお手紙をいただいた。口腔外科の主任教授は宙噂先生にも連絡をしていたのだ。宙噂先生は舌癌の恐ろしさを綿々と綴っていた。息子らにはこの病気のことは告げずにおいたが、いつまでも黙っているわけにはいかない。帰省した二人の息子を前に私は決意を告げた。次男は黙って涙をこらえていた。長男が言った。「どこまでも生きていてほしい!」私の心は揺らいだ。数日後、宙噂先生から電話をいただいた。「先生、手術を受けることにしました」宙噂先生は安堵の声を漏らした。
最初の診断から半年あまりが過ぎた春の日に私は入院した。手術は無事終わったが、いつまでも病院にいる訳にはいかない。ドイツに出掛ける予定が控えていたのだ。無理に抜糸の日程を前倒してもらうことにした。あ〜ん、と口を開けて糸が抜かれた時には大粒の涙がこぼれた。実に痛かった。
秋も深まった頃に再度口腔外科を訪れた。雲間から突きだした岩手山の六合目あたりに雪がちらりと見えた。再手術の為ではあったが、外来の簡単なもので看護婦さん達は忙しそうで、アシスタントに学生が呼ばれた時には些か不安にかられた。春の手術の時とはうって変わって今回はまずカップラーメンと同じ三分間、まずは舌にガーゼをあてての表面麻酔。リクライニングの椅子が傾けられて天井が見えたところで、看護婦さんが私の目にガーゼをかぶせ、次いで顔一面に口の部分だけがぽっかりと穴が開いている白い布が掛けられた。口にマウスピースの様な物が押し込められて口はだらしなく開いたままだった。舌が引っ張り出されて、いよいよ注射による麻酔が効いてきた頃合いになって、何やら器具が口の中に入れられたようだ。手術の始まりだ。助教授先生、耳元で「キュイーン、キュイーン」と呟いている。施術のお呪いではないようだ。小声でアシスタントの学生に「ぼんやりしていちゃダメだよ。苦いんだから吸飲しなさい!」と叱っていた。「煙が出たら吸飲ね!」と先生。学生は「ハイ!」そのうち焦げ臭い匂いが漂った。「ほら煙が出てるでしょ。キュイーン!」「あっ、ハイ」電気メスによる手術のようだった。「よし、縫おう」畳屋の職人の感じだ。5針縫ってお仕舞い。白い布きれも瞼のガーゼもはずれて世の中の様子が見えて来た。小さな瓶に詰められた私の舌の一部も見せてもらった。まずはあまりおしゃべりすることなく、安静にとのことで、家では「うん」とか「すー」とか言うだけだった。お粥を食べて痛み止めと化膿止めの薬を飲んだのだが、痛いのが果たして舌なのか、顎なのか、それとも後頭部なのか判然としなくて落ち着かない。明け方近くまで疼くような痛みにひたすら耐えて、いつしか朝を迎えた。ぼんやりとした痛みはあるものの春の術後の一週間と比べれば遙かにましだった。
その後、血糖値の上り具合は遅遅たるものではあったが、良くなる気配はない。口腔外科の手術で入院していた時の血糖の値はほぼ正常値に近かった。然もありなん。舌の一部が削除されたために、食事はすべてお粥状である。それを飲み込むだけでも猛烈に舌が痛む。勢い必要最小限の栄養補給のような毎日だし、況やお酒は一切飲まないのだから当然かもしれない。これを機に私の食生活も些か変化が生じた。まず、日本酒は糖分とカロリーが高いようにて鹿児島の焼酎に切り替えた。台所の日本酒はもっぱら料理専用となった。だが、酒量は一向に減ることはない。アルコール度数は高いので、飲めばそれまで以上に酔い加減はいや増した筈だが、私にはその自覚はなかった。食べ物はカロリーを抑えるよう心掛けるも一朝一夕に変わるものではない。どこからか煎じたヤーコン茶が糖尿病に効くらしいとの情報を得て、何年もの間、日に1リットルほど飲み続けたが、改善の兆しは見えなかった。だが、悪くはなっていない。私はそのヤーコン茶を飲み続けた。そして同じく糖尿を患っている人が、近くの清流の傍らで採ったクレソンを食べ続けたら途端に血糖値が下がったという噂を聞きつけた私はせっせとクレソンを採りに出かけては毎日食べ続けた。青虫になったような気がしたのと、浅ましいと思えてこれは止めにした。お付き合いから余所で飲む機会は減らないのもの、日本酒は一切口にせず、常に焼酎を頼んだ。折しも日本全国で焼酎がブームとして沸き起こったこともあって私の好みの芋焼酎はどこの店でも飲めるようになってきていた。歳のせいもあろうが、飲み終わった後にラーメンなどを食べることはなくなった。どれが功を奏したのかは不明であるが、血糖値は高いままで推移していた。日本酒は飲まなくなったものの、アルコールは焼酎だけというわけではない。料理に応じてワインにする。ワインは店頭で買うことは一切ないし、日本産のワインは口にしない。ずうっと以前に山梨に故郷を持つ同僚から勝沼のワインを頂戴したことがあった。頗る上等な味だったので早速出入りの酒屋にそのラベルを見せて同じワインを仕入れてもらったところ、味が全く違っていた。頂戴したのはお得意さん限定の品だったようである。以来、世界各地に支店を置くドイツのワイン会社からのお取り寄せワインだけしか飲んでいない。店頭販売はせず必ずホームパーティー形式で試飲したうえで購入するシステムとなっているこの会社から取り寄せている。我が家の床下をワイン専用に改造して常に百本ほどのワインがそこに眠っている。夏になるとスパークリングワインが多くなる。どれもこれも料理に合わせてコルクを抜くのが楽しみである。焼酎とワインを交互に飲むようになったが、晩酌ばかりでなく酒席ではまずビール、そして仕上げもビールという慣わしは変わらなかった。糖尿の方はさして悪くはならなかったが、ある年の松が明けようとする朝、トイレに行こうとしたら足腰が立たなかった。腰に激痛が走ったのである。ようようの思いでトイレに行って用を足したら便器が真っ赤に染まった。激しい腰の痛みは治まらなかった。これまた飲み仲間である泌尿器が専門のドクターに相談したところ、尿管結石の疑いがあるから診察を受けるよう勧められた。そのドクターは海辺の病院に勤務していることから、近くの専門医を紹介された。レントゲン写真にははっきりと石が映っていた。このところ、せめてビールの量を減らそうと仕上げのビールを飲むことはしなくなったし、初っ端のビールも350ミリリットルに減らしていた。てっきりビールの量を減らしたためと自己診断を下してビールの量を増やすようにした。数か月後に石は消えたのでビールのお蔭と思いを巡らした私はビールを飲む比率を高くした。だが、再度の結石に見舞われた。担当医にビールを飲むように心がけていると話したら叱責を受けた。ビールで結石が消えることはないそうである。私はビールを止めざるをえなくなった。投薬を続けて2か月が過ぎた頃、近くの温泉に出かけた。着くなり尿意を催した私はトイレに駆け込んだ。だが、直ぐにはおしっこが出てこない。腹に力をこめると、尿管に痛みが走っておしっこと共に陶製の朝顔にコロンと出たものがあった。紙に包んで病院に持っていった。検査の結果ビールが大きな要因であったことが判明した。以来、私はビールを極力飲まないようにしている。その分、焼酎とワインそしてスパークリングワインが多くなるのは必定である。
昨年の秋のテレビ番組で糖尿病がテーマとして取り上げられたので興味深く見入っていたところ、糖尿病はインスリンを投与することで完治するという実に身に染みて有難い内容の番組だった。私は早速2代目となる宙噂先生に相談した。先生はその番組の当日は医師会の集まりがあったために見ておられなかったが、この措置には否定的な見解を示した。私は矢張りドイツ語の市民講座を受講したことのある別のドクターに相談した。勤務先の病院に糖尿病の専門医がいるので一度受診してみるように勧められてすぐさま来院した。確かに治るとの意見であった。ただし入院する必要があるとのことだったが、私はまだ勤務があり、長期に亘って授業を休むわけにはいかない。冬休みが始まるその日に教育入院することにした。雪が町を覆っていた。10日間は入院するように言われたが、それでは正月になってしまう。8日にしてもらった。1週間以上もお酒が飲めないのは苦痛だった。おまけに病院の敷地内は禁煙である。私は病院で宛がわれたパジャマを着替えて敷地の外にタバコを吸いに出かけた。秋口から腰に違和感があったものの、結石の時のような痛みではなかったので放っておいたのだが、入院と時を同じくして激痛に変わった。それでもタバコを吸いたくて足を引きずりながら日に3度は表に出ていった。吸い終わって病室に戻ってきてベットに倒れ込んでは、のたうちまわってもう二度と表に行かないと意を決する。やがて痛みは幾分治まり、ただ一つの楽しみの食事を食べ終えればどうしてもタバコが吸いたくなる。入院先の病院には整形外科もあったのだが、私は痛みを堪えた。退院して二組の息子一家と正月を迎えた。表は雪が積もり孫たちと雪遊びをしようにも痛みが激しく相手をしてやれない。松が明けた朝、トイレにも歩いて行けないほどだった私は止む無く整骨院でマッサージをお願いした。腰から来た痛みかと聞いてみたところ、腰を前後左右、横捻りさせられて下された診断は寒さが原因となる尻の筋肉の硬直とのことだった。幾度か通い、マッサージを受けてマイクロウエーブを当ててもらったのだが、一向に改善の兆しが見えない。今度は近所の脳神経外科を尋ねた。レントゲン写真を見た医師は先の整体師と同じ診断を下し、栄養不足も原因の一つだとして痛み止めの薬の他に栄養剤と湿布薬をくれた。然もありなん!教育入院以来、私の一日の摂取カロリーはこれまでの半分以下だったのだ。とはいえインスリンを投与しながら一日の摂取カロリーを増やす訳にはいかない。私は激痛を堪えながら週に3日は合気道とボクササイズの稽古に参加した。2月半ばで授業は終わった。定年直前にて入試監督は免除された。歩くのも困難なので多くの会議は欠席した。だが、私の最終講義だけは休むわけにはいかない。大昔の学生には私の葬式には来るに及ばないが、この講義には出席するよう葉書きで依頼をしておいた。私は椅子に座りながら最後の講義を執り行った。引き続いて花巻の奥にある温泉で宴を催し、その翌日は皆を中尊寺に案内する積りが叶わず、長男と次男にその代役を頼んだ。長男は東京に戻って私の症状を医大の整形外科の教授に相談した。雪が融け始めて春の気配が漂い始めた頃になって痛みは少しずつ薄らいできていた。教授は私の健康保険証が有効なうちに一度受信するようにとのお達しを寄越した。脳神経外科の医者に相談をしてMRIを撮ってもらい、しぶしぶ紹介状を書いてもらって上京した。教授の診察を受けるものと思っていたら、別の非常勤のエキスパートだった。写真を見たその医師は一目で私の病状が最悪の状態にあることを見抜いた。後日、息子とカミさんと共に来院することを約された。可能な限り早い機会に手術をしなければならない。勿論リスクはある。しかし、手術を受けなければ下半身不随となると告げられた。私は否応なく入院する羽目となった。入院までの数日間、私は長男の家で過ごした。いざ入院の前日になって当の教授から息子宛てにメールが届いた。インスリン治療の糖尿を患っている私は退院まで3週間は要するだろとのことだった。担当の医師に私は完治を目的としたインスリン投与をしていることを話したのだが、専門外のことにてインスリンと聞いただけで大変な重病患者と思ったようだ。それ以上の説明はしていなかったが、自分の担当分野しか判断できぬ専門バカの若造から手術を受けるなぞまっぴら御免と檄怒した私は、すぐさま盛岡に帰るとカミさんに連絡した。カミさんはこれまでスキーのご指導も受け、またずっと以前に股関節の痛みでお世話になった整形外科の波古先生に電話で相談をしたようだ。思い起こすに股関節に痛みがあったのは今を遡ること10年以上も前の事だった。この時も歩くのに支障をきたすようになり、堪えきれずに私は波古先生の診察を受けた。レントゲン写真を見せられ、脊椎の骨の間のクッションの役目を果たす部分がすり減ってしまっていることは明らかだった。身長が以前よりも低くなっているのもこの為だった。あまり激しいスポーツはしないようにと申し渡され、ビタミンの投薬とリハビリで恢復したいつの日か、波古先生は私のボクササイズの練習場に顔を出した。波古先生は空手家としても世界にその名を知られた人物である。70に手が届こうとするその歳でシニアの空手大会に出る。その前にトレーニングしたいとのことで、何ラウンドかスパーリングのお相手をさせられた。その後の全日本選手権大会で波古先生は優勝された。スパーリングでは手を抜いて下さったのだと思う。先生は私の病名「腰部脊柱管狭窄症」と手術を予定している病院名を聞いて、即座に断行を指示してきた。かくして私は翻意した。盛岡の病院には私の糖尿病に係る書類を入院先の病院に送ってくれるよう依頼した。数日にわたる検査ののち、手術が執り行われた。病室で麻酔注射を打たれた私は看護師さんに押されてベットのまま手術室に入って行った。ドアが開けられて看護師さんが「頑張ってくださいね」と耳元に優しく囁いた。手術室の担当看護師の対応は全く違う。感情抜きにてきぱきと質問を重ねる。名前、手術を受けるに至った病名が聞かれた。執刀医が何かを言った時には私の意識はかなり朦朧としていた。夕闇が迫る頃に手術は終わったようだ。執刀医が耳元で「多田さん、無事に終わりましたよ」と叫んでいる声で私は目を覚ました。外では長男が待機していた。4時間余りが経過していた。深夜になって男女二人の看護師が様子を窺いに遣って来た。背中の傷口をかばうために横向きに寝ていた私は汗で体中が濡れていた。早速、暖かいおしぼりを持ってきて隅から隅まで体をふいてもらい、パジャマと下着を替えてくれた。私は朝が待ち遠しかった。術後の痛みは朝になりさえすれば消えるものと思っていた。朝日がカーテンの隙間から漏れてきた。痛みは消えない。それでも私は無理に体を起こした。朝食が配られた。丸一日絶食していた私は貪り食った。幾分、ほっとした。尿管に管が入っているし、術後の傷口にも流れ出る血液を通す管が通され、その血液を受け止めるビニールの袋をぶら下げているので病室を出ることは許されていない。同室の若者からこの手術を受けてきた患者は幾例もみてきたが、どなたも痛みを堪えることができず、中にはうめき声が廊下にも響くほどで、看護ステーションで何日か過ごした患者もいたと聞いていた。その若者はスキーで複雑骨折をして、既に2か月余りの入院生活をしていたので色んな患者を見てきている。病室の洗面所まで行って私は口を漱いだ。尿管の管はその日の内に外されたが、傷口から流れ出る血液を受け止めるための管は外されていない。コルセットが装着されている。枕元のホワイトボードに「ダーメン装着」と書かれていた。長男にドイツ語のダーメ(貴婦人)の複数形にコルセットの意味があるのかどうか辞書で調べるように指示した。ダーメンコルセットの略語で女性用のコルセットが医療用に転じたとのことだった。その日の夕方、執刀医から手術が成功したことが告げられた。徐々に痛みは薄らいできたようだった。私はどうしても1週間後には退院したいと申し出た。返事はなかった。手術から二晩が過ぎて、全ての管が外されてリハビリが始まった。担当者が驚異的な回復力だと言うほどに私は全てのリハビリを難なくこなした。私は日頃からどんな痛みにも耐えるべく訓練を重ねてきたと豪語した。痛みから解放されて私はタバコが吸いたくなった。手元にタバコはない。手術の前夜に最後の一本を吸い終わってしまっていた。朝早く、着替えをして近くのコンビニエンスストアーに買いに行った。病室に戻ると別の患者の世話をしていた看護師に言われた。「パジャマが脱ぎ捨てられていましたけど、外に行ってたんですか?」「そこのコンビニまで」「脱走したんですね」「そうなりまっかいな」「先生には言わないでおきます」組み込まれていたリハビリの全過程をこなし、血液検査、レントゲン検査も百点満点となって予定していた通り1週間後に私は退院した。過去に例を見たことない患者だったようだ。看護師さんたちから盛岡まで帰るのかと聞かれたので、松島に立ち寄って宴会をしてから帰ると答えた。
松島のホテルを借り切って次男の結婚と孫の誕生の報告会が開かれる。長男一家は車で松島に向かうが、私は電車にした。それぞれの部屋には海を眺めることのできる露天風呂が備わっている。贅沢な造作だ。私は向こう三か月の間、入浴はおろか車の運転なども禁止されている。和式の生活様式が許されていない。私に宛がわれて部屋は和室だったのでベットの部屋に替えてもらった。次男夫婦の数多の友人諸氏に祝福された楽しい宴に私は酔いしれた。禁酒の指示は出されていないし、私も敢えて聞かなかったので少しばかりとは言えない程度のビールを飲んだ。翌日は又電車で一足先に帰ってきた。愛犬のラビーが私を迎えてくれた。2週間近く会っていなかった私は嗚咽を堪えることができなかった。
退院後は少なくとも1か月の間は静養すべきところだったが、そうしてもいられない。定年を迎えたものの4月からは非常勤として幾つかの授業が待ち受けている。第一回目の授業は休講にせざるを得なかったものの、盛岡に帰ったその翌日は出講した。研究室はもうない。非常勤控室を探して私は建物の中を右往左往していて、階段で足を踏み外して倒れ込んだ。女子学生が寄ってきて体を支えてくれた。私は感謝の言葉を述べた。どうにもだらしがない。授業の傍ら日がな一日、私は机に向かう毎日である。同じ姿勢を1時間以上続けることも禁じられていた。私は時折ベットに横たわった。1か月後に上京して検診を受けた。CT検査の結果は良好だった。検診を午前中で済ませて新幹線に飛び乗って夕方からの授業に臨んだ。2か月そして3か月の検診も合格点となり自転車にも乗ることが許された。自動車の運転の許可も出た。但し、用もないのにドライブなぞせぬようにときつく申し渡されたのだったが、敢えて仙台に行く用事を拵えて自動車を走らせた。コルセットからも解放されたのだが、外したのはコルセットだけではなかった。あれこれ羽目を外したせいだろう、足腰に軽い痛みと痺れが生じている。今更、焦り騒いでも致し方ない。自業自得だ。9月にはMRIを撮って10月に6か月検診が待っている。その日の審判を仰ぐことにした。
糖尿病の方もインスリン投与にも拘わらず一向に改善の兆しがない。悪化の一途を辿っている。インスリンの量も増やさざるを得なくなった。それと反比例するように酒量は食べる嵩と共に少なくなってきている。少なくしているのではない。歳のせいのようだ。何とはなしに淋しい思いが頭を過るものの、命永らえることに汲汲とする生き様には相も変わらず悍(おぞま)しさを禁じ得ない。さりとて枉(ま)げて食するご馳走を増やす積りもないし、これで良しとする酒量の嵩を上げる必要もないだろう。これでいいのだ。