大きな電気ポット

何年になるのか使ってきたその年も忘れてしまうほどに古くなった我が家の電気ポットは最近になっていよいよこちらの意の儘にはならなくなってきた。どこの具合が悪いのかわからないのだが、頭の部分を押さえつけてみるに時としてお湯はちたちたと垂れるようにしか出てこない。時には不貞腐れたようにうんともすんとも言わず一向にお湯が出てこないこともある。そんな時には茶道具の柄杓で汲んで用を足してきた。新しいのに変えなくてはならないかと話しているうちに妙な加減で大学が経費節減のために電気ポットの使用を禁ずるというお達しをよこしてきた。合同研究室という教員が寄り添ったり、会議などに使っている研究室に備え付けてあった電気ポットが使えなくなって、引き取り手を探していたのでお誂えむきとばかりいただいてきた。

 
このところ私は主治医のドクターのお勧めに倣い、盛岡の習わしに合わせて6時に夕餉の時を迎える仕来たりとなって、秋も深まり夕暮れ閉門の必要もなくいそいそとお膳に向かっている。一献に向けた肴の仕度はカミさんに任せているものの、お取り寄せの鹿児島の焼酎と同じく鹿児島の温泉水の配合は自らいたし、6時に合わせて焜炉に載せる。火加減は当然私の仕事。頃合いを見計らって大分から届いた種なしのカボスを適度にしぼって出来あがり。時を同じくして小さな土鍋に湯豆腐が出てきた。底には江尻昆布が敷いてあって曲がり葱がほのかな芳いをはなっている。焼酎の温かさも申し分なく、しゃきしゃきとしたえのき筍が数年前に出会った「お豆腐屋さんの醤油」にぴったりである。この醤油を見つけてからは昆布出汁と合わせた醤油を造る必要がなくなって便利である。便利だというのは私の都合ではなくその手間にいそしむカミさんの手前である。程よく呑んでいれば、次にはフライパンで焼いた蓮根と人参の登場となる。これに宮城は加美町の極上の胡麻味噌を載せて食べる。調子にのってカミさんはトマトのスライスをやはり焼いてきたが、これはトマトそのものの味がいただけないので却下。味を変えるべく胡瓜の古漬けが供された。これは夏の間の皮の柔らかい胡瓜をかなり濃いめに塩を振りかけて重石を乗せ、数日たって胡瓜がしんなりとして水が浮いてきたら、その汁を煮なおして改めてその胡瓜に注ぎかけて漬け直すということを繰り返して、そのパリパリをという舌触りを残した北国ならではの漬物で、これを幾晩か水出しして味を整えて、それに茗荷をまぶして出してくれた。味がさっぱりして口も冷えたところで今度はチーズを載せて焼いた椎茸の出番となる。これは和風というべきかそれとも洋食と唱えるべきか判然しないのだが、私の好みとするところなので、焼酎であろうとワインであろうと折りにふれて構わず出てくる。ここで薩摩おじょごの焼き徳利の中身が切れてしまった。次の燗まで時を要する。肴だけを食べるのは呑み助にあろうまじきことと、ビールを繋ぎとすることにしたのだが、その冷え加減を考えるに、今を去ること20年もの昔にベルリンの友人が私たち一家を夏の間あれこれ世話してくれた上に、お土産としてくだされたジョッキは秋になってからは冷蔵庫に冷やしてはいない。適度に冷えたビールに最適の器はあるものの、これはそのビールの温度には叶わず、薄手のワイン専用のグラスで用を弁ずることとし、秋温の泡を3分に7分のビールを注いでこれまた旨い。今度は暖かな料理がほしくなる。スイというあまり聞き慣れない名前の魚だが、身が柔らかくてあっさりとした味のこの季節からのお魚がある。これを塩とコショーそしてセージで味付けをしてオリーブオイルで焼いてもらった。焼き口の飾り包丁のところにさらにオリーブオイルを垂らして食べてみる。ビールによく合うこれらの味に酔いしれながら次のお燗をカミさんに任せておいたのがいけなかった。焜炉に乗せておく頃加減、水と焼酎の割合も違っていたような心持がしたが、二口目となるのだからそれは私の舌の妙だろうと勝手に納得し、魚の閉めとしてわさびをおろしてシメサバを肴に改めて飲み直す。外ならず我が家での梯子と相成った趣がして楽しい。このシメサバもいつもと違う味だなと思いつつも、傍らで猫たちが食べている鰹の刺身の方がよほど旨そうだな、ちょっぴり上前をはねてやろうかしら、これも酔ってきているからいつもの味がわからぬのかなあ、と考えたりしながら口に運んた。一頻りしてお行儀が悪くなって煙草が吸いたくなって、台所の換気扇の下に備え付けてある椅子に腰をおろして紫煙をくゆらせていたら、片隅に最前私が輪切りにして焼酎に絞りいれたカボスの半分がすっぽりと残っている。「なんでカボスが半分あるんだ?」「さっきの残りがまだまだあったから次の焼酎にいれたの」残っていたのではない。半分に切り落としたつもりがその片割れが幾分小さめだったので、それは次の焼酎にその半かけと一緒に絞り落とすべく残しておいたのだ。二番目の焼酎のお燗は火ならず間の抜けた味わいだったのがそれで明らかになった。改めて3つ目をお燗すればカボスの帳尻は合うのだが、なにせこのところ度を越すほど呑み慣れていないので次が美味しく飲めるかどうかが実に曖昧で、その曖昧なままご納杯とする。それでも何とはなしに口もさびしく、落ち着かない。口直しがほしくなった。先日、東京の青果市場から届いたラ・ランスを剥くように命じた。「お昼に食べたんじゃない?」「お昼に食べたのは柿。今夜はいただいたラ・フランスが食べたい!」実に美味しいラ・フランスにて口も納まり、片付かなかったお腹も横になったという次第である。  

の一部始終を台所の片隅で大いに威張っているように見えてならない大きなポットが睨みつけているような気がした。

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