〔ぶらりすすき野―4〕
保木薬師(美しが丘2丁目)の縁起を探る


 眼病には薬師さまがいい――,小さいころにそんなことを聞いた覚えがある。加齢とともにわたしもこのところめっきり視力の衰えを感じるようになった。それで,というほどではないが,散歩していてふと出会ったのがこの薬師堂。美しが丘2丁目,HACの北,道路と駐車場を隔てたところにこんもりとした緑に包まれて,5間四方のお堂が建っている。このあたりは,最近,新しい家が次つぎに建ち,活気にあふれ,日ごとに町が表情を変えているところ。ちょっと注意していないと見過ごしてしまうかも知れないお堂。ふだんはほとんど人かげがなく,ひっそりと静まりかえっている。すぐその北面が薬師台公園になっていて,公園を縁どるケヤキやトチノキやカシワの葉が秋を招く風にひそやかなささやきを投げていたり,ときにはゲートボールのコチーン,カチーンという音に混じって楽しげな人びとの声が聞こえることもある。境内の案内プレートでこの薬師堂に神奈川県が指定する重要文化財の薬師如来像がある(じつは,ない!)と知って,図書館に涼みに行ったついでにチラと調べてみたので,ここにご紹介します。

 9月12日。もうすぐその日がやってくるが,ちょっとこの日を記憶しておいていただきたい。桜木町の県立博物館に寄託されているそのお像が,この日,年に一度だけ保木に里帰りし,護摩法要がおこなわれ,信徒たちの参拝を受けるというのだ。そういえば,県立博物館で見たことがあるような…。みなさんの中にも,保木薬師の縁日でか,あるいは博物館でか,拝観している人は少なくないと思われます。わたしの場合は,気品と慈愛に満ちた優しさのなかにもキリリと引き締まった表情を見せているにもかかわらず,薬師像といいながら玉眼が欠けているのが妙に気になったのを覚えている。薬師さまといえば目,という観念があったことにもよろうか。以下図書館の資料を踏まえて,その縁起を探ってみましょう。

 現在地にお堂が建てられたのは天明3年(1783)10月。もとは満願寺(元石川町) の境外仏堂として建てられたものらしい。「天明」と聞けば,天明2年からはじまった大飢饉がすぐ想起されます。浅間山の大噴火があったのもその前後で,人びとは混乱と困窮のなかにあったはず。行き倒れや餓死者があちこちにごろごろしていたと歴史書に出ている。そんな時期になんでお堂の建立なんぞを,とも思われるが,逆に,そんな時期だったからこそ,人びとの神仏に寄せる願いには真剣なものがあったとも推測されます。とりわけ,薬師如来は人びとの病苦を癒し,内面の苦悩を除いてくれるとの信仰がありましたから。
 一方,お堂の建立にはさらにいろいろな前史があることがわかりました。前記の建立より75年早い宝永5年(1708)12月という記録が残っている。年表を見ると,その前年の宝永4年には富士山の大噴火があり,このあたり一帯も降灰の被害から免れ得ず,農耕地は甚大な被害を蒙ったのみならず,多くの家屋が焼失したものと思われます。このときも前記と同じような事情があったのではないでしょうか。

 そのお堂がどういう理由でか,享保17年(1732)12月に建て変えられてられている。今となっては確かめようもないらしいが,昔の人の伝えるところによると,現在地の約150メートルほど南,早淵川とその支流の権現谷川が合流するあたり,源内山≠ニ呼ばれる丘陵の中腹に敷石の跡があったとされる。昭和初期におこなわれたこのあたりの開墾により,それは完璧に消滅してしまったというが,どんな漢字が宛てられていたのか不明ながら,「チョウケイ寺」と呼ばれていたらしく,それが廃寺になったときに,そこのご本尊だった薬師如来像を引きとって守り伝えてきたのが,いまわたしたちが目にすることのできる仏像のようだ。

 たびたび寺社が建立されたり廃れて消滅したり…。古来,この保木のあたりには鎌倉へ通じる古代東海道が通っていたため,仏教文化や中央の風習が比較的よく伝わり,寺社も盛んに造られたらしい。「チョウケイ寺」もそのひとつだったのだろう。

 さて,保木薬師のご本尊となった薬師像だが,高さ85.2センチ,ヒノキの寄木造りの坐像で,体表面は錆地布貼りの漆塗りで仕上げられている,との説明がある。写真でよく見ると,衲衣を着け,右手を胸の前に挙げ,掌は前方に向けて,左手は膝の上に置いて薬壷をのせている。下部はどっしりとした落ち着きを見せ,右脚を外に結跏跌坐するすがたを見せる。細い切れ長の目,まっすぐに通った鼻筋,柔和なふくらみをもった唇と,その容姿はよく整い,なかなか優美端麗である。彫りの技にも洗練されたものがうかがわれる。どうしても現物をこの目で見たい思いがしてくる。そう,9月12日である。

 このご本尊が造られ,開眼供養がおこなわれたのは承久3年(1221)という(ワオー,「承久の乱」の起きた年ではないか!)。作者は僧尊栄。運慶の技法を汲む仏師とされる。造られてから450年を経た寛文10年(1670)にはじめて補修がなされている。この補修に際して,脇侍の持国天と多聞天の二天王が置かれ開眼供養がおこなわれた。これを造ったのは僧知門とされる。高さ102センチ,烈しい憤怒の表情で邪鬼を足の下に踏みつける木造の立像である。

 この薬師像に玉眼がない,ということをわたしは不満げに書いてしまった。そうなんです,こんな優美さをもちながら,惜しいことに目がないんです。それは,苦難の時代の悩みを庶民とともに分かち合ってきた証しなんですね。前記のさまざまな天災のほかにも,安政2年(1855)には江戸川下流を震源とする江戸大地震があった。マグニチュード6.9というもので,死者が1万人。水戸藩の大儒学者・藤田東湖がこのとき圧死したことでよく知られる地震。保木薬師堂も大きな被害を受けている。さらにひどい被害を蒙ったのは,大正12年(1926)の関東大震災。マグニチュード7.9で,死者が9万1千人,行方不明者1万3千人,負傷者5万2千人というから,阪神淡路大地震をしのぐものだったと思われる。薬師堂はそのまま前に倒れてぐちゃぐちゃに破損,像の損傷もひどく,以後しばらくは針金で吊ってようやく支えているという状態だったらしい。その後,お堂のほうは,疎開学童を受け入れたり,長いこと,部落の集会所として利用されてきた。

 昭和50年,横浜市による文化財調査が大々的におこなわれた。この際に,思いがけなく,薬師像の胎内から銘文で出てきて,これまでの由縁が知られるところとなり,とみに価値が見直されるようになった。そして,昭和58年(1983)2月1日,神奈川県指定重要文化財となったというわけ。

 価値が認められたとはいえ,そのままにしておけば荒廃は進む一方。堂内は無住で,これを大事に保管する環境にはない。そうしたことから,当面は神奈川県立博物館に寄託して管理してもらい,1年に1回の縁日にだけ保木の薬師堂に帰してもらうことになったもの。なかなか拝観できないこの薬師像を9月12日には見られるのです。どうです,ちょっと足を運んでみませんか。

 なお,保木土地区画整理事業にともない,昭和61年(1986)5月末より9か月かけて,堂内外の補修と整理もおこなわれ,現在,屋根は茅葺から銅葺に葺きかえられて,その頂きには真言の梵字が見られる。

(8月29日/文と写真・菅野)