作品1

 すすき野    
 今はむかし・・・  
   
   
 

鉄火の松

 もみの木台の東端。気をつけていないと見のがしてしまいそうな目立たない道がある。ここを一歩入ると、異界に来たかと錯覚しそうな森の道になる。一本通ったこの尾根道を進むと、右手下には木々を透かして早野聖地公園が見え、左手の竹林のむこうからは、桐蔭学園のグラウンドから元気な若い声が聞こえる。深々とおおいかぶさる緑の雲からは濃密なオゾンの香りが、また、風にさやぐ竹の葉の音にまじって間断なく小鳥の歌も。
 横浜市と川崎市との境界になっているこの小径をしばらく進むと、急に明るくなって農道に出る。そして間もなく、宗英寺の手前、梨畑のわきにポツンと小さな石碑がある。
 ここが「鉄火の松」のあとである。今はまわりのどこを見まわしても松の木はない。松は昭和22年に枯れてしまい、そのあと二代目の松が植えられたが、それも枯れ、昭和45年、この地の老人クラブの手で松のあったところに碑が建てられたという。
この松には、こんな話が伝わっている。
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 そのむかし、早野(現・川崎)と鉄(くろがね)(現・横浜)の村境をどこにするかをめぐって村同士の争いがあった。双方とも主張を譲らず、争いは長くつづいた。ついに仕方なく、村役人の裁きに委ねることとなり、有力者の立会いのもと、お役人を前にそれぞれの言い分を述べた。いくらそれを聞いても裁定はつかず、「対決有りてつひに実否究まらず、鉄をとれ」――つまり「鉄火の法」で決めるほかないということになった。これは、火に当てまっ赤にした焼きがねを手で握らせる方法で、いつわりをいう者がこれを握れば、たちまちその手は黒く焼け焦げるが、正しい主張をする者が握ったときは、なんのことはない、平気でいつまでも握っていられるという。(ホントかなぁ)
 最初に鉄村の代表が焼きがねを握った…いや、握るより早く手を引っ込めてしまった。つづいて早野村の杉本達吉さんが代表に立ってつかつかと進み出、灼熱の鉄棒をぎゅっと握った。…すずしい顔していつまでも握っていた。
 これで早野村の主張が通り、いま石碑のあるところが村境と決められて、目じるしに松の木が植えられた。どんどん育って立派な松になったが、時代は戦争へ戦争へと動き、松のことなど誰も顧みなかった。村からは次つぎに若者が徴兵されて行き、死んで帰ってきた。国と国との愚かな争いに多くの命が奪われるのを見ていた松は、自分の身を絞って抗議するかのように、老いて枯れ、戦争終結のときにはもう、緑の色をまったく留めていなかったという。
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 別な言い伝えもある。このあたりは里から遠く、めったに人が近づかないことから、村役人の目を盗んでこの松の木の下でばくちがおこなわれた。ばくちをおこなうところ、すなわち「鉄火場」となった松の木を、のちに人びとは「鉄火の松」と呼ぶようになったとか。